101 :
たべぞう:
>>100 sageて書けって要求の意味がわかんないんだけど。
これがあがることで、なにか大事なスレッドが下がって消えてしまうわけ?
だとすればそれはなんというスレッドなの?
あるいはなにか別の理由があるわけ?
一応、スレ立てルールの
>学問カテゴリーに属する哲学を扱う掲示板です。
>「 学術的な哲学 」から「 一般教養としての哲学 」
>「 個々の経験、人生観、世界観からの哲学へのアプローチ 」なども趣旨にふくみます。
のうち、「一般教養としての哲学」のうちにこのスレッドははいると思うので
スレたてルールに反しているとはおもえない。
また読書メモと俺は主張しているが、たんなるメモではなく
他人が読んでもそれなりに、筋だって読めるように書いているつもり。
「クワインの哲学について」知識を共有することを目的としたスレッドとして
なんら問題ないと思っている。
さらにいえば、意味不明なスレッドが乱立している(と俺には思われる)現状で、
ことさらこのスレッドをsageて書きこむ必要がどこにあるのか不明。
そのへんをふくめてなんでsageろって要求するのかもうすこし説明してほしい。
納得できる理由なら従う用意はあるよ。
面倒くせえ香具師だなあ
掲示板なんだから、行って来いが必要なわけよ
オマエのはオナニーレス
ウザイからsageろ
ノータリン野郎
103 :
考える名無しさん:2009/06/16(火) 05:45:04 O
何か変なの来たなぁ。
たべぞうって自演するんだな
いや、掲示板はメモ帳ではないんだ。そして、君のメモ帳がageられることによって、
これまで多くの対話を記録してきたスレが落ちたりするんだ。
普通に考えよう。sageろ。
こんな読書メモ、
ブログでやってくれよ。
終わったな(w
対話ねえ。
ほとんどが哲学とは関係がなくて内容のない適当な思いつきを書いて
それに反応してるだけだと思うけど。
基礎的かもしれないけど哲学と認められる内容があるだけ
こっちのほうがいいって立場も「普通」にあると思うよ。
おれはたべぞうを歓迎するよ。
どうぞ続けてください。
ここだけで荒らしてるんだから別にいいんじゃないの
ぴかぁ〜と同じことしてるだけだろ
>>109 別に続けるなとは言ってない。おれも歓迎ぐらいはしてやる。
ただこういうのはsageでやってほしい。それだけだ。
ある意味クワインなんかより大事なことだ。
いやならみなきゃいいだけだろ
>>112 そのとおり。一字一句賛成。
だから、そのためには目障りでないsageたところにいてほしい
と言ったわけだ。
>>113 2chブラウザを導入して、透明スレッドあぼ〜んしろ
>>114 最前列にしゃしゃり出てきてオナニーする奴のために
なんでこちら側がいろいろと用意しなきゃならんのだ?
むしろ「オナニーはあっちの木陰でやっていただけますか」
と言うべきだろう。一言そう言うぐらいの労力は払うよ。
オナニーも自由に好きな場所でできない世の中なんて。。。
鬼才たべぞうが、出る杭がうたれはじめたな
119 :
たべぞう:2009/06/16(火) 21:34:52 0
>>105 >いや、掲示板はメモ帳ではないんだ。
俺のレスもたんなるメモのつもりはないんだ。
>そして、君のメモ帳がageられることによって、
>これまで多くの対話を記録してきたスレが落ちたりするんだ。
それは2chの仕組みなのでしかたがない。
>>101でかいたように、このスレッドは哲学板のスレたてルールに
反していない以上、このスレッドがあがることによって
落ちるスレッドがでるのはしかたがない。
それが2chの仕組み。
もし、落としたくないスレッドがあるならそのスレッドを
落としたくない人が上げる保守活動をするしかない。
そもそもわけのわからない題名のスレッドが定期的にあげられている
現状でこのスレッドだけそんな要求をしても意味がないことに気がついて欲しい。
>>118 どう考えても「出る杭」じゃねーよw
なに持ち上げてんの?
ageというのは、スレ画面に隠されたところからその上部に「出る」ことだ
そんなにあがるのがいやなら裁判でもおこせよwww
馬鹿すぎ・・・
ついにオナニストと馬鹿だけのスレに成り下がったかw
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まけるなたべぞう。応援してるぞ。
じゃあ上げてやれよw
つーかここ、たぺぞう以外は見事にsageなんだなww
127 :
考える名無しさん:2009/06/18(木) 11:40:04 0
たべぞう氏 期待age
128 :
考える名無しさん:2009/06/18(木) 18:53:53 O
たべぞう応援あげ
なにがDQNテーゼだ
たべぞう氏ね
130 :
考える名無しさん:2009/06/19(金) 17:36:11 0
荒らしは嫌なら見るな
ばぁ〜〜〜〜〜〜か(笑)
(;´Д`) 嫌なら見るな〜
_(ヽηノ_ シコシコシコシコ
ヽヽ
133 :
たべぞう:2009/06/20(土) 04:49:34 0
俺的読書メモブログ更新age。
/たべぞう \
/ \ , , /\
/ (●) (●) \
| (__人__) | このスレはただのメモ帳じゃないんだよ!
\ ` ⌒ ´ ,/ それを超えたものなんだよ!
. /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ
| ,___゙___、rヾイソ⊃
| `l ̄
どのへんがこえてるんですか? ___
/ ̄ ̄\
/ \
|:::::: | / \
. |::::::::::: | / ⌒ ⌒ \
|:::::::::::::: |/ (⌒) (⌒) \ ただのメモ帳ですがなにか?
. |:::::::::::::: } | (__人__) し |
. ヽ:::::::::::::: } \ ` ⌒´ _/
ヽ:::::::::: ノ | \
/:::::::::::: く | | | |
134 :
たべぞう:2009/06/20(土) 05:37:53 0
全体論の話のつづき。
確証の全体論(D/Qテーゼ)と意味の検証主義から意味の全体論が導出
される。
しかし意味の全体論はその内実がよくわからない理論。
意味を解明する理論というより意味についてニヒリスティックな
結論をみちびきだす理論。
意味の全体論をまともにうけとると意味に関してかなりやばい結論が
でてくる。
ヤバイ。意味の全体論も超やばい。
しつこいけど、またD/Qテーゼと意味の検証主義から意味の全体論を導く論証の話。
D/Qテーゼが主張するのは、理論内のいかなる言明も、理論内の他の
多数の言明との確証関係にはいらないかぎり、確証されないということ。
一方意味の検証主義は、確証関係が意味論的であることを主張する。
そして、一般に、言明は、その意味内容によって個別化される。
つまり、ある言明Sは、その意味内容によって、他の言明Rと区別される。
絶対神きたーーーーーーーーー
136 :
たべぞう:2009/06/20(土) 06:00:47 0
さて、すると次のことが帰結する。
理論内の言明Sは、理論内の他の言明との確証関係によって個別化される。
つまり言明Sの意味は、理論内の他の言明との確証関係によって定まる。
すると、同一の言明Sを含む二つの異なる理論が存在するならば、
言明Sの意味は、二つの理論では異なるという結論がでてくる。
つまりいかなる言明の意味も、理論に相対的となる。
すると、異なる二つの理論にまたがって同一な意味をもつ言明というものは
存在しないことになってしまう。
つまり理論横断的言明の同一性というものはない、という結論になる。
もし、理論Aにでてくる言明と”同じ意味の”言明が、理論Bに
登場するならば、理論A内の他のすべての言明が、理論Bに
登場しなければならなくなる。つまり、理論Aと理論Bはなにかひとつの
言明でも共有するためには、事実上すべての言明を共有するほかなくなる。
ここで「理論」を「言語」に読みかえてみるとことの異常さがより際立つ。
”「理論」が「言語」に置きかえられても、必要な変更を加えれば事情は
同じである。全体論が真ならば、あなたの言語の事実上すべてを理解しない
かぎり私はあなたの言語をいささかも理解できない。しかしそうだとすると
継ぎ目のないたった一回の発作的認識による以外、そもそもいかにして言語は
学ばれうるというのだろうか。”(『意味の全体論』p13)
137 :
たべぞう:2009/06/20(土) 06:17:05 0
もし各々の言明に、それぞれ明確な意味内容が定まっていると考えるならば、
意味の全体論は、言語の共有や理解ということにかんして致命的な帰結を
もたらすように見える。
そこでその致命的な帰結をさける途として、
意味の全体論をとりながら、個別の言明がおのおの明確な意味内容を
もつということを否定する方法がある。
クワインがとるのはおそらくその方向。
個別の言明がそれぞれさだまった意味内容をもつということを否定する方向に
いく。
意味に関するニヒリスト。
138 :
たべぞう:2009/06/20(土) 06:36:30 0
ところで、いままではD/Qテーゼと意味の検証主義が正しいとすれば、
そこから意味の全体論が導出されるという話。
しかし本当にそうなのって話がでてくるところが哲学のおもしろいところ。
堅固な論証というものは哲学ではまずおめにかかれない。
堅固にみえる論証も、実際は言葉のあいまいさやレトリックに依存している
というのが哲学のおやくそく。
所詮言葉ならなんとでもいえるという世界。
だが、そこがいい。
なんだってー
140 :
考える名無しさん:2009/06/21(日) 12:10:41 O
論理的観点から、
間違えて二回も買ってしまった。
だがまだ読めてない、さすが俺。
141 :
たべぞう:2009/06/21(日) 14:22:02 0
反復反復また反復。
同じことを繰り返し書くことによって脳細胞に知識を
染みこませる。
これがたべぞう式勉強法。
とにかく書いてまとめてみることは大事。
書いてみることによってどこが理解できていないのかが
よくわかってくる。
読んで理解できたとおもったら書いてまとめてみる。
ということでまた意味の全体論の話。
D/Qテーゼは、どの言明の確証条件も、理論内の他の言明の確証関係に
部分的に関与すると主張する。
つまり、いかなる言明も、他の言明から孤立して考えられる限り
反証も確証もうけつけえない。
そして、意味の検証理論は、言明の意味はその確証条件であると主張する。
ここから意味の全体論は次のステップで導出される。
確証関係は全体論的である。
他の言明との間で確証関係をもたない限り、
いかなる言明もその確証条件をもつことはできない。
確証条件は意味論的である。
いかなる言明も、他の言明との間で確証関係をもたないかぎり、
意味論的値をもち得ない。
そして、言明はその意味内容によって個別化されるとすれば、
いかなる言明も、他の言明との間で確証関係をもたないかぎり、
自身の同一性を持ちえない。
いかなる言明も他の言明が存在しないかぎり言明としての同一性を
もちえない。
>>138 お前、本当にバカだな。
言語学の問題と言語哲学の問題を
ごっちゃにするな
クソボケが
143 :
たべぞう:2009/06/21(日) 14:50:51 0
反復ぷくぷくぷく反復。
今度は『意味の全体論』にそって、
いかなる理論もたったひとつの言明を含むことはありえないことを
証明する簡便な論証を見てみる。
たったひとつの言明からなる理論はたぶん役に立たない。
しかしここではその論点は関係ない。
役にたたないことからたったひとつの言明からなる理論は原理的に
ありえないという帰結はでてこない。
144 :
たべぞう:2009/06/21(日) 14:54:14 0
@雨が降っているという言明(R)は、街路がぬれているという言明(S)
によって部分的に確証される。(D/Qテーゼ)
A確証関係はすでにそれだけで意味論的である。(意味の検証主義)
B言明はその意味論的性質によって個別化される。あるいは
言明はその意味論的性質を本質的に持つ。(自明の真理)
中間帰結:言明Rはとりわけ言明Sとの関係によって個別化される。
結論:Rを含むいかなる理論もSを含まなければならない。いなかる理論も
Rだけを含むことはできない。
さて『意味の全体論』によれば、この論証の鍵は、「言明」の身分にある。
「言明」とはなにかという点にふれないことがこの論証に妥当性をあたえている。
TDEの確証の全体論は、意味の全体論を含意するという説は、「言明」の意味に
ふれないことによって説得力をもっている。
”事実「ふたつのドグマ」においてクワインは、言明とは何であるかを言わないよう
に細心の注意を払っている。”(『意味の全体論』p63)
細心の注意をはらう用心深いクワイン。
だがそこがいい。
あのさー、フォーダー=ルポア読みたいなら、もっと頑張って「2つのドグマ」とか検討して
から読んでも遅くないよ。「2つのドグマ」の主張を自力で検証してから、批判本読んでもいい
んじゃないか?あとsageろ。
146 :
たべぞう:2009/06/24(水) 21:57:34 0
>>145 違うんだよ。
君は勉強法がわかってないなあ。
批判本こそが重要なんだよ。
自力で検証なんて敷居の高いことをいっているからだめなんだよ。
批判的言説の中に位置付けられることによって、当の言説の意味が
はっきりうかびあがるわけなのよお。
思考も基本は暗記。
思考パターンの暗記。
思考パターンを議論本によって学習する。
自力でものを考えようなんざ10年はええのよお。
>自力でものを考えようなんざ10年はええのよお。
そうだな、たべぞうは10年以上は確実に早いな
納得。
たべぞうが正しい!
自力で検証するのはプラトンまでだ
149 :
考える名無しさん:2009/06/25(木) 10:22:28 0
クワインってホワイトヘッドの思想の真似事なのに
ホワイトヘッドの名前を出さない卑怯者
同じ弟子のデイヴィドソンは何度か自分の思想の源流がホワイトヘッドであることを明かしているのに
どうでもいい
>>149 そいつはベルクソンを歪曲しただけだろうに
ベルクソンは偉大
ドゥルーズは偉大
pikarrrは偉大
155 :
考える名無しさん:2009/06/25(木) 13:45:38 0
>>146 「批判的言説の中に位置付けられることによって、当の言説の意味が
はっきりうかびあがる」というのは正しいが、それ以外は完全な誤りだね。
哲学を勉強する場合には、自力で批判しようと試みながらテクストを読む
ということを最初から心がけなければ絶対ダメ。まず、自分で反論・批判を
考えてみる。それから、本を読んでいけば、あなたが思いついた批判が、
すでに他の人によって、より洗練された形で提示されていたことを知る。
それが正しい学習法。批判的な思考法は、「議論本」から学習できる
ようなものではなく、自ら批判的な思考を繰り返すことによってのみ
身に付くものだから。
君は基本的な勉強法が分かっていないことをまず自覚すべき。何かの
間違いで君がもし哲学を教える立場にあるとしたら、すぐに辞職すること。
学生に害毒を垂れ流すのは、人類と学問にたいする危害だからね。w
成熟した社会において、正しい学習法は存在しない
まず手始めに貴様の考えから批判してやる。
「批判的言説の中に位置付けられることによって、当の言説の意味が
はっきりうかびあがる」とするなら、
当の言説の意味がはっきりしないうちにぼんやりと「批判」して
なんになるのか、って疑問が浮かぶな。
つまり、批判する以前にきちんと理解するのが先だということだ。
というか、漠然とした疑問くらいだったら普通に読んでれば浮かぶだろ。
158 :
考える名無しさん:2009/06/25(木) 14:34:41 0
>>157 そういう考えだから、いつまでたっても受け売り以上のことが何も言えないんだよ。
批判と言うのは、対象になる言説がはっきりしたあとで行うことではないよ。
批判を繰り返すうちに、最初はぼんやりしていた言説の意味が明確になっていく。
それが、理解するということなのだよ。
それもせずに解説本なんか読んでも得られるのは、「きちんと理解する」とは
程遠い「理解したつもり」になって受け売りを偉そうに語る能力だけ。
お前自身がその見事な証明だな。w
逆逆。ふつうにやってると、妄想的批判が多め、あるいはオリジナリティーがありすぎるので、
きちんと理解することを重視しているわけで。
まあ意識的にやらないと「受け売りを偉そうに語る能力」しかない人は本当に可哀想だなw
ヘーゲルでも読めよ。
批判というのは最もよい理論・システムの構築であって、難癖をつけることは批判とは言わない。
クワインの奥さんとかだったら、こんだけ滑稽に描かれて、怒らないほうがおかしいくらいだ
まあ、たべぞうも一回謝っとけ。な
162 :
たべぞう:2009/06/27(土) 15:10:12 0
>>155 >哲学を勉強する場合には、自力で批判しようと試みながらテクストを読む
>ということを最初から心がけなければ絶対ダメ。まず、自分で反論・批判を
>考えてみる。
つまらんことに突っかかってくるねえ。
しかし素朴すぎるよ、発想が。
こういう自力信仰の根本には知識なき思考が可能であるという
素朴な思いこみがあるんだよ。
実際にはそんなものはない。
知識のもとに思考が立ちあがるの。
有効な批判を思いつくためにも、知識が必要なのであって、
そういった知識を得ようとすれば、膨大な哲学書を読む必要がでてくる
のよ。
批判本のいいところは、その哲学的言説をささえている隠れた諸前提や
無数の参照項を明示的に提示してくれることによって、
その哲学的言説の背景的知識を効率的に学ぶことができる点にあるわけなのよお。
そしてなにより大事なことは、ある言説に対する批判は、それ自体ひとつの思考パターン
として学習可能だってことなのよお。
そういう批判的言説の思考パターンをたくさん学習し、自在に使いこなせる
ようになっていくことが思考するってことなのよお。
既存の思考パターンの汲み合わせが、新しい思考を生み出すってわけなのよお。
つまり、思考するためにもまずは既存の思考パターンを暗記することからはじめよって
ことなのよお。
自力の思考なんて10年はええのよお。
まずsageろ。
そして「哲学書を読むこと=知識を得ること」という考えをまず疑え。
懐疑無いところに哲学が生まれるわけないだろ。
ただ受け入れるだけの人間が、ドグマ=根拠無き信念を批判している
クワインを読んで、なにかを考えるつもりになっているなんて、皮肉だな。
分析哲学は自然科学の婢女だろw
165 :
たべぞう:2009/06/27(土) 17:17:35 0
君は批判する以前に、相手の主張をまともに理解するという
ことができてないぞ。
どこから”ただ受け入れるだけの人間が”という話になるわけ。
疑うことは大事です。はい。
でもやみくもに疑おうとしてもうまくいきませんよ。
有効な批判をするためには知識が必要です。
まず知識を蓄えましょう。
という話をたべぞうはしているだけ。
君は批判的思考は本を読むことでは学習できないと主張していて
たべぞうは本を読むことで学習可能だと主張している。
あえて論点をさぐるなら、そこが論点であって、
懐疑なき哲学はないとか、ただ受け入れるだけの人間とか、
そういう話は全然関係がない。
まるで相手にレッテル張りをすることが批判することだと暗に
いっているようだ。
それではたべぞうをぎゃふんといわすことはできなねえのよお。
166 :
たべぞう:2009/06/28(日) 11:09:45 0
「言明」とはなにかが
>>144の論証の妥当性を左右する。
『意味の全体論』では「言明」の候補が複数提示される。
おおきくわけて2つの方向がある。
ひとつは、言明とは文であるという説。
これはきわめて素直な読み。
例えば、大庭の『はじめての分析哲学』では完全に「言明」を「文」に読み替えている。
しかしここでの「文」は文字面としての文、つまりもじのつらなりのこと。
文字のつらなりは、その形態によって個別化されるのであって、
その内容によって個別化されるのではない。
「雨が降っている」という文字のつらなり=文が意味をもつかどうかは、
その文がどの言語システムに属しているかに依存する。
つまり、文字のつらなり自体=文は、意味論的性質を本質的にもたない。
すると、
>>144の論証の前提Bに抵触する。
Bは言明は意味論的性質を本質的にもつと主張し、しかし文は意味論的性質を
本質的にもたない。
矛盾。
ロゴスチェックメイトオオオ!!!
167 :
たべぞう:2009/06/28(日) 11:16:21 0
もうひとつの方向の代表は、命題。
命題は、言語横断的存在。
同一の命題Pが、複数の言語で表現される。
命題は、例えばそれが表現される文字の形態ではなく、
その内容によって個別化される。
よって命題は意味論的性質を本質的に持つ。
Q/Dテーゼは、確証条件の改訂可能性について言及する。
個々の言明が孤立して考えられる限り、確証も反証もうけつけえないのは、
経験的テストにさらされているのは、当の言明だけではなく、その言明の
背後にある無数の補助仮説を含んだ理論全体であり、不都合な実験・観察に
直面したとき、当の言明だけでなく、補助仮説を含んだ理論全体のどこかが
間違っていることがしめされるだけであって、理論内のどこかを訂正するかは
決まらない。そしてどこを改訂するかは自由だというのがQ/Dテーゼであった。
つまり、Q/Dテーゼは、言明が他の言明間に現にもっている確証条件は、偶然的であるという
立場にたつ。
一方意味の検証主義は、言明の意味はその確証条件であると主張する。
さて、言明が命題なら、その内容によって個別化される。
つまり、言明が現にもっている内容が、その言明の同一性を決める。
そして言明の内容が確証条件であるのだから、
言明が現に他の言明間にもっている確証条件が、その言明の同一性を決める。
したがって、確証条件が改訂されれば、その言明の同一性が維持されなくなる。
つまり、言明はその確証条件を本質的に持つことになる。
言明が命題であるなら、Q/Dテーゼは、確証関係は偶然的であると主張し、
意味の検証主義は、確証関係は本質的であると主張する。
矛盾。
ロゴスチェックメイトオオオオ!!!!!!!
168 :
考える名無しさん:2009/06/28(日) 11:25:02 0
合意や受容を無視して、論理学の教義を並べればいいと思っているから
分析哲学は困る。
169 :
考える名無しさん:2009/06/28(日) 11:29:58 0
「理想的な論理とは、日常生活と無関係である、というのは、何とも奇妙なことだ
もし論理学の深遠な問題などについてもっともらしい理屈がこねられるようになるだけ
しか哲学が君の役に立たないなら、
また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、
哲学なんて無意味じゃないのか?」
Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『ウィトゲンシュタイン−天才哲学者の思い出』
170 :
たべぞう:2009/06/28(日) 11:32:31 0
”言明に関してQ/Dテーゼとパースのテーゼ(注:意味の検証主義のこと)
が主張することは、相互に矛盾しているかのように見える。意味論的
全体論に関する問いをひとまず置くとしても、「ふたつのドグマ」
には何か深い欠陥があるに違いない、とわれわれは結論する。というのも
それはそのふたつの原理の両方にあからあさまにコミットしているから
である。”(『意味の全体論』p73)
TDEがD/Qテーゼにあからさまにコミットしているのは明白である。
しかし意味の検証主義に対してどういう立場であるのかは、
はっきりしていない。
TDE自体は、意味の検証主義がもつ還元主義を批判しているだけであり、
意味の検証主義そのものに対してはなにも語っていない。
171 :
たべぞう:2009/06/28(日) 11:42:35 0
確証の全体論と意味の全体論との関係はこれくらいにしてふたたび
TDEの議論にもどる。
D/QテーゼとA/S区別の否定からクワインはなにを導きさすのかを
見ていく。
いよいよTDEのクライマックス。
いい加減に生活世界に目を向けては如何だろうか・・・
173 :
考える名無しさん:2009/06/28(日) 11:58:35 0
哲学は不可謬性(あるいは理論的な永遠の真理)であってはならない。
「哲学が再生するためには、普通の人々が抱える問題を解決するための方法とならなければならない。」
自分の時代に生じている問題の解決することに対して貢献することができたとしたら、それは決して小さな成果ではない。
また、その際に哲学者が考えたことが将来において修正されれることは避けられないであろうし、場合によっては放棄されることさえ当然のこととして覚悟しなければならない。
哲学者として我々に課せられているのは、「不朽の名声」を得ることではないのである。
R.M.Hare
174 :
考える名無しさん:2009/07/07(火) 17:06:17 0
age
175 :
たべぞう:2009/08/30(日) 16:40:12 0
長いことアク禁をくらっていた間、クワインに対する興味も減ってしまった。
このスレもどうしようかと思うが、とりあえず上げとく。
少し前にクワインを文庫で読んだけど、「確証の全体論」はいいとしても
「意味の全体論」はクワインの積極的主張じゃないと思う。
そもそも「意味」って概念自体理論的には役立たずだって言ってる感じだったよ。
ウィトゲンシュタインも「意味の観念は時代遅れだ」って言ってるけど。
ウィトゲンシュタインが「意味=用法説」とか言われちゃうのと同じで
意味の全体論も外野が自分の枠組みで勝手に言ってるだけじゃないの。
丹治『クワイン』読んだ人います?
翻訳の不確定性の説明事例の、デモクリトス原子論と現代物理学原子論の間の翻訳
(アトモン=原子か、アトモン=クオークか)というのは、さすがに苦しすぎだと思う。
難しい話を何とか分かりやすくという親切にケチつけるのはいけないと思うけど。
現代物理学側で本質的な「原子とクオークの理論的関連性」に対応するものが
デモクリトス側にないわけだから、所詮その程度の大雑把な翻訳しかあり得ないだろ。
「不確定」というより「どっちでもいい」。
まあ丹治さんが苦労するのはクワインが悪いと思うが。
178 :
考える名無しさん:2009/10/25(日) 17:07:54 0
「どっちでもいい」から「不確定」なんじゃない?
179 :
考える名無しさん:2009/10/25(日) 18:27:17 0
>165,124-129,281-286,125-130,57-62,284-289,236-241,149-154,276-281,343-348,13-18,218-223,264-269,80-85,192-197,3-8,384-389,348-353,321-326,329-334,238-243,158-163,349-354,168-173,70-75,202-207,117-122,185-190,40-45,93-98
>295,82-87,249-254,385-390,139-144,208-213,226-231,266-271,373-378,139-144,362-367,83-88,394-399,226-231,88-93,255-260,185-190,176-181,312-317,370-375,180-185,372-377,270-275,86-91,215-220,224-229,304-309,145-150,252-257,54-59
>175,106-111,366-371,188-193,325-330,120-125,156-161,40-45,207-212,111-116,199-204,230-235,82-87,114-119,300-305,267-272,94-99,75-80,177-182,366-371,0-5,284-289,21-26,127-132,329-334,361-366,1-6,93-98,84-89,147-152
>173,270-275,263-268,150-155,17-22,249-254,367-372,60-65,221-226,108-113,339-344,294-299,190-195,337-342,49-54,200-205,3-8,3-8,239-244,161-166,380-385,130-135,157-162,296-301,167-172,186-191,299-304,238-243,271-276,362-367
>144,213-218,252-257,37-42,285-290,307-312,347-352,134-139,109-114,83-88,116-121,332-337,165-170,62-67,156-161,96-101,238-243,352-357,271-276,17-22,55-60,185-190,204-209,234-239,146-151,148-153,240-245,175-180,126-131,241-246
>134,180-185,9-14,83-88,93-98,274-279,232-237,94-99,207-212,195-200,395-400,183-188,4-9,36-41,67-72,393-398,390-395,367-372,156-161,395-400,182-187,353-358,51-56,292-297,196-201,236-241,389-394,152-157,141-146,202-207
>103,275-280,60-65,182-187,395-400,308-313,151-156,384-389,338-343,23-28,109-114,370-375,54-59,300-305,307-312,179-184,198-203,236-241,383-388,247-252,306-311,362-367,261-266,147-152,241-246,108-113,222-227,291-296,39-44,319-324
>97,48-53,342-347,10-15,214-219,73-78,143-148,209-214,13-18,142-147,343-348,346-351,38-43,367-372,318-323,276-281,189-194,218-223,278-283,4-9,267-272,204-209,156-161,104-109,187-192,42-47,95-100,59-64,159-164,162-167
>93,160-165,47-52,276-281,3-8,120-125,271-276,378-383,332-337,229-234,7-12,393-398,103-108,24-29,394-399,362-367,40-45,56-61,19-24,197-202,220-225,40-45,158-163,326-331
180 :
考える名無しさん:2009/10/26(月) 19:22:40 0
>>177 まだ最初の3ページしか読んでいない。
半年後にレスするわ。
182 :
考える名無しさん:2009/11/18(水) 16:48:35 0
本スレあげ
183 :
考える名無しさん:2009/11/18(水) 17:14:10 0
いやこっち
184 :
たべぞう:2009/11/23(月) 01:07:22 0
>少し前にクワインを文庫で読んだけど、「確証の全体論」はいいとしても
>「意味の全体論」はクワインの積極的主張じゃないと思う。
>そもそも「意味」って概念自体理論的には役立たずだって言ってる感じだったよ。
そうだろうね。
というかむしろ、”「意味」って概念自体理論的には役立たずだ”
という認識と意味は全体論的であるという認識がクワインの中では両立
しているというべきかもしれない。
意味の検証主義のなんらかのタイプの立場に立つ人にとっては、
確証の全体論と意味の全体論とを区別する必要がないと考えるのは自然
でしょう。
意味の検証主義において意味と確証がみっせつに結びついているのだから。
確証の全体論は、個別の言明の真偽をテストする経験的証拠は存在いない、と
主張する。証拠によってテストをうけるのは言明の全体であると。
そして、意味の検証主義は、個々の言明の意味についてかたるためには、
なにがそれらの個別の言明の真偽の証拠となるのかいついて語れなければ
ならないと主張する。
そのふたつの主張をたせば、個別の言明の真偽を決める証拠は存在しない。
よって、厳密にいえば、個々の言明が何を意味するのかについて語ることはできない
という主張が誕生する。それが意味の全体論の結論なのだろう。
185 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 22:12:22 0
記号の多義性なんてソシュールがクワインよりずっと前にすでに指摘していること
記号の多義性なんて凡庸な話をクワインはしてない
187 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 23:41:39 0
いや 結局同じことだよ
指示の不可測性も翻訳の不確定性も
188 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 23:44:10 0
分析哲学の俺様ぶりは有名
>>187 微妙に違うだろ
クワインのいいたいのはそもそも意味なんてものは存在論的にあやしいぞって話だろ
190 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 23:50:11 0
クワインは意味を行動主義的に定義しようとしただけの話で
意味を存在論的に否定したわけじゃないよ
191 :
考える名無しさん:2010/01/12(火) 00:10:51 0
>>187 馬鹿は背伸びしてクワイン読まなくいいよ
ソシュール(笑)あたり読んで満足してろw
192 :
考える名無しさん:2010/01/12(火) 00:26:35 0
自分が馬鹿じゃないというなら
ソシュールとクワインの主張のどこが違うか説明しないとだめだよねw
193 :
考える名無しさん:2010/01/12(火) 02:11:23 0
で、ソシュールとクワインの主張の違いは?
クワインの文庫本てあるの?
あ、『哲学事典』か。うーん……。
197 :
考える名無しさん:2010/01/12(火) 07:38:48 0
原書で読めるだろ
簡潔で明晰な文章
原書なんかでよんでられるか
めんどくさ
で、ソシュールとクワインの主張の違いは?
クワインには全体なるものがあるが,ソシュールには差異しかない。