1 :
たべぞう :
2009/05/23(土) 22:15:10 0 今クワイン関連の著作を読んでいるので、 勉強したことをメモしていきます。
2 :
たべぞう :2009/05/23(土) 23:00:58 0
で、やはり2つのドグマから読むわけだが、 そこでの結論はほぼ3つ、 @分析/総合の区別の否定 A還元主義の否定 そして@とAから B確証の全体論(およびプラグマティズム) が帰結する。 この2つのドグマは当時かなりの影響力をもった論文。 今では分析哲学の古典的作品。 しかし、論証にはかなり穴がある。というか穴だらけ。 言語哲学大全2巻をよむと突っ込みまくられているのがわかる。
3 :
たべぞう :2009/05/23(土) 23:06:56 0
2つのドグマでは、分析性という概念が問題になっている。 分析性にこだわる。 分析的命題という言葉が幅をきかせているけど、 本当にわかってつかってんの?実はわけわかんねー概念なんだぜ。 あいまいな概念なんだぜって言っている。 分析性を非循環的に定義づけることができないという ことを一生懸命論証している。 しかし、そもそもなんで分析性にこだわるのか。 そこが初心者にはわからない。 時代背景というか問題意識がよくわからない。 そこが困るところ。
4 :
たべぞう :2009/05/23(土) 23:14:32 0
論理実証主義(特にカルナップ)との関係の中で 読み解かないと問題意識がはっきりしない論文。 論理実証主義を攻撃した論文。 おもてだっては攻撃されていない。 カルナップの名前がちょこっとでてくるぐらい。 しかし標的はカルナップ。 クワインのお師匠さん。 カルナップ→クワイン→デイビッドソンって感じで影響関係が つづいていく。 クワインがカルナップを2つのドグマをかかえているって攻撃する。 その後、デイビッドソンがクワインを三つ目のドグマを抱えていると 攻撃する。 そんな関係。
5 :
考える名無しさん :2009/05/24(日) 01:44:55 0
誰でも知ってるようなことだけ書く。 そんなスレ。
この板の住人に分析系は無理。恥を晒すだけ。 ポモや文芸評論でお茶を濁しておくのが吉。
7が分析系ならシニシズム良くない
9 :
考える名無しさん :2009/05/24(日) 14:10:30 0
10 :
考える名無しさん :2009/05/24(日) 14:34:26 O
おらも丹治さんの『クワイン』と飯田さんの『言語哲学大全』読んで勉強してます。
ポモ系でもクワインは読むだろ
12 :
たべぞう :2009/05/24(日) 17:04:48 0
で、カルナップ。 クワインのお師匠さん。めちゃめちゃ影響を与えた。 後に、2つのドグマで攻撃する相手。でも別に仲がわるくなったという ことはない。 論理実証主義者の親玉的存在。 論理学をがりがりつかって哲学的問題にけりをつけようとした人。 ハイデガーを批判したことで有名。 でも、実際どういうぐあいに批判したのか知らない人も多いかも。 『カルナップ哲学論集』という本におさめられている論文で読むことが できる。でもマイナーな本だからあんまり見かけない。 東浩紀という人の「存在論的、郵便的」という本のp224〜p226で 解説されている。こちらの本は入手しやすいので立ち読みすると いいかも。
タシーロ
14 :
たべぞう :2009/05/24(日) 17:11:29 0
問題は、分析性という概念。 分析性という概念がなぜ問題なのかという点がここでの問題。 わかりにくい。 というか、一見問題がなさそうにみえるところが問題。 なんで問題にしているのかがよくわからないということろが問題。 ”独身者は結婚していない。” こんな言明が分析的言明の例としてよくでてくる。 分析的ということでなにがいわれているのかなんとなくわかる。 語”独身者”の中に、”結婚していない”という概念が分析的に 含まれているんだ、といわれればなんとなく理解できる。 だから別に問題なくね?って感じ。
15 :
たべぞう :2009/05/24(日) 17:33:04 0
分析性の概念のどこに問題があるかより以前になんでそもそも分析性に こだわるのかがわからない。ここが問題。 でクワインの2つのドグマ。 ”一般に、真理が、言語と言語外の事実の両方に依存するということは 明白である。「ブルータスはシーザーを殺した」という言明は、世界が 何らかの仕方で別様であったならば偽となろう。だが、もし「殺した」 という語が「産んだ」の意味をもっていたとしても、この言明は偽となる。 こうして、言明の真理性が、言語的要素と事実的要素とに分析できると 一般に想定したくなるのである。この想定のもとでは、事実的要素が無で あるような言明が存在し、そうした言明が分析的言明であると考えるのが 理にかなっているように思えてくる。”
16 :
たべぞう :2009/05/24(日) 17:42:20 0
言明の真理性を、言語的要素と事実的要素に分けられるという発想。 この発想のもとで登場する、事実的要素をもたない言語的要素だけによって真理が きまる言明=分析性という概念。 クワインとカルナップの立場の究極の対立点は、ここ。 言語的要素と事実的要素の峻別を維持しようとするカルナップと 維持できないとするクワイン。 なんか話しが飛んでるような気がするが、しょうがない。 勉強したことのメモ。勉強して理解するところはトビトビ。 点と点がつながらない。つながるとおお、そういうことだったのかと 深い理解が得られる。なかなかそういう理解はえららない。 自分のノートにかいてりゃいいじゃん? 2chにかいたほうがなんとなくやる気がでる。
カルナップとクワインの対立以外にもそんなのがありましたよね なんだっけ?フッサールか、ガダマーだったか、ウィトゲンシュタインか そのへんだったような・・・
18 :
たべぞう :2009/05/24(日) 18:21:13 0
言語における「内部問題」と「外部問題」という発想。 カルナップが終生手放さなかった区分。 結構おもしろい発想。 こんな感じ。(丹治の本から) 実在論者:「物体は認識者と独立に存在する」 現象主義者:「物体とはセンス・データからの構成物にすぎない」 物体とはなにかということについて両者は対立しているように思える。 カルナップによればそうじゃない。 両者は、「物-語」を原初記号とする言語を採用するか「物-語」をセンス データ語を基礎とする言語を採用するかという、言語の枠組みをめぐる 対立にすぎない、となる。 どの言語を採用するかがきまれば、その言語のわくぐみのなかで どの言明が真理かが決まる。それが内部問題。 しかし枠組みとしてどの言語を採用するかは、勝手にきめてよい。 ようするに、その言語を採用するほうが便利だからそれを採用しようと いうものでよいとなる。 すると、真理は各言語という枠組みに相対的に決まる。 枠組みをこえて、なにが本当のことなのかを問うことに意味はなくなる。 面白い。
19 :
考える名無しさん :2009/05/24(日) 18:33:05 0
yamane irumi
20 :
たべぞう :2009/05/24(日) 18:47:54 0
外部問題=言語の枠組みの採用(哲学)と 内部問題=枠組みが決まったあとの言語内部における真理の探求(経験科学) カルナップにとって哲学は、科学(内部問題)をこえた 言語選択という(外部問題における)審判役。 あるいみ科学よりえらい役職。 哲学に特権的役割を与えたい。 哲学者のロマン。 クワインに破壊された。
21 :
たべぞう :2009/05/24(日) 19:07:01 0
言明の真理性には、言語的要因と事実的要因に二分され、 事実的要素をまったくもたない言語的要因だけから真理がきまる 言明が分析的言明である。 例えば、数学。 2+2=4は真。 でもなぜ真なのときかれたらなんてこたえる。 取り決めによって。 規約主義的発想。 2+2=4なのはそこでの語の意味のとりきめによる。 語の意味の取り決めによって真な言明=分析的言明。 経験主義者にとって、やっかいなのは数学や論理学がもつ真理性。 2+2=4が真なのを経験から導き出そうとするのは難しい。 規約主義は便利な発想。 語の意味の取り決めによって真なのだといえばなんとなく納得できる。
22 :
たべぞう :2009/05/24(日) 19:17:22 0
クワインもむかしは規約主義者。 2つのドグマでクワインは、分析/総合の区分を否定した。 分析/総合の区分の否定の意味。 @すべては総合的言明である。 Aすべては分析的言明である。 クワインはたぶんなんとなく@の立場と思われている。 でもAはない。 でも昔のクワインはそれっぽいことを主張していた。 真とされるあらゆる言明を、言語の規約に基づく真な言明(分析的言明) とみなすことができると主張していた。 例えば、ニュートンの万有引力の法則は、クワインによれば分析的言明である とされた。 規約主義者クワイン。 すべては分析的言明であるという立場からすべては総合的言明であるという 立場に変転。 君主豹変する。 変わりすぎ。
23 :
考える名無しさん :2009/05/24(日) 22:25:17 0
言葉と対象と論理的観点ならどちらを先に読めばいいか教えてくれませんか?
ブログでやれよゴミ
稚拙な読書メモをここに垂れ流すことに意味はあるのか? まあ大した量じゃないからいいけど、sage進行でやってくれ。
>君主豹変する。
29 :
考える名無しさん :2009/05/25(月) 12:38:16 0
>1 おもしろいから 続けてください。
30 :
たべぞう :2009/05/25(月) 21:45:13 0
で、ふたたび2つのドグマ。 分析性という概念が問題。 事実とは独立に、意味によって真である言明を分析的言明と言う。 なんとなくわかる。特に問題を感じない。 しかしでは、意味とはなにかときかれると答えられない。 理解しているようでよくわからないものの代表のひとつ。 意味そのものを問うのは辞めましょうというのがクワイン。 かわりに同義性という概念を問題にする。 @結婚していない男はだれも結婚していない。 @は論理的真理。 A独身者はだれも結婚していない。 Aの独身者を同義語の結婚していない男に置きかえれば @になる。 分析的言明とは、同義語を置きかえることによって論理的真な言明に 変えることができる言明のこと。 でもこれでは駄目。 では同義とはなに?意味が同じってこと?また意味が登場してきた。 意味そのものは捨てましょう。そんな感じ。
31 :
たべぞう :2009/05/25(月) 21:59:30 0
いろいろ検討する。 同義、定義、交換可能性、意味論的規則などなど。 いろいろアイテムをだして検討する。 でもうまく行かない。 みんなぐるぐる循環しちゃう。 同義性は、分析性を前提にしているし、定義は同義性を前提にしている。 ぐるぐるまわっている。 結局分析性という概念を非循環的に明瞭化しようとする試みは失敗におわる。 ここまででだいたい論文の半分くらい。 ねちねち論証が続く。 分析性はよくわからない概念。 でも、なんとなく違和感が残る。 言語哲学大全2巻を読むと違和感がなんだったのかはっきりする。
32 :
たべぞう :2009/05/25(月) 22:13:49 0
クワインがそこでやったのは、単に、分析性、同義性、定義といった 意味論的概念が相互循環しているということを指摘しただけじゃん。 全然分析性に対する決定的批判になってない。 そういう批判が書いてある。 確かにいわれればそう思う。 でも、クワインは意味というものにとことん批判的。 ”確かに循環性の指摘がインパクトを持つのは、分析性のような意味論的 概念が非意味論的概念に還元されねばならない、と考える 人々にとってだけである。しかしこの点で、クワインが意味そのものに 対してきわめて懐疑的であり、言語行動レレべでの経験的概念による特徴づ けをうけつけない意味論的概念には何の説明上の価値も認めていない、とい うことが「2つのドグマ」の前提に置かれねばならない。” (『経験主義の変貌と知識の全体論』 柴田正良) 批判があれば、擁護もある。 哲学の議論はだいたいいつもそんな感じ。 決定的な論証というものはまずない。どっちつかず。 言葉だからなんとでも言える。そんな感じ。
33 :
たべぞう :2009/05/25(月) 22:26:51 0
『経験主義の変貌と知識の全体論』 これはクワイン擁護の論文。 言語哲学大全2巻のクワイン批判にいろいろ再反論している。 面白い。 クワインの簡単な解説にもなっている。 経験主義者クワイン。 でも経験主義という言葉にあんまり魅力を感じない。 なんでかしらないけど。
34 :
考える名無しさん :2009/05/26(火) 09:41:11 0
>>4 クワインが影響を受けたのはマッハやアインシュタインが台頭してきた時代背景じゃないいの?
一挙に実証主義自体が瀕死になってクワインはその流れに乗っただけだと勝手に思ってる
35 :
考える名無しさん :2009/05/29(金) 22:42:00 0
私も最近2つのドグマとその関連文献を読んだのだが、 なんとなく分かったような私からないような感じだなあ。 他人の感想を読むとナルホドと思う。 ということで、続きをキボン
36 :
たべぞう :2009/05/30(土) 00:31:50 0
また週末がきましたよ。 ということで今日も書きこみ。 もうこのスレッドが俺のブログ。w コメント欄開放。w でも質問されても、答えないけど。というか答えられない。 あんましらないから本よんで勉強中。 クワインは日本でも比較的有名。 解説本、関連本がいろいろ出てる。 フォーダーの『意味の全体論』でも取り上げられている。 この本かなりいい。 まじお勧め。 ”・・・そのような仕方でわれわれは哲学をしたいとは思わない。 論証のないものに関してはそれを信ずべき理由もない、とわれわれには 思われる。そして信ずべき理由が存在しないものに関しては、 それを信ずべき理由を人が持つこともない。” 序文からかっこいい。
37 :
たべぞう :2009/05/30(土) 00:46:46 0
で、やはり2つのドグマ。
実はテキすとは英文だとウェブで読める。
英語わかんない。でもそんなに難しい文章じゃない。
http://www.ditext.com/quine/quine.html 二つのドグマ。原題はTwo Dogmas of Empiricism。
略してTDE。
略すとなんかかっこいい。ちょっとプロっぽい。
分析的/総合的区別はanalytic/synthetic 略してa/s区別。
どんどん略して使っていく。
なんとなくプロな感じ。
後でたぶん触れる有名なデュエム・クワインテーゼは略してDQNテーゼw
内容も結構DQNな感じ。ぶっ飛んでる。
でもそこがいい。
38 :
世者 :2009/05/30(土) 01:17:18 0
おもしろいです!
39 :
たべぞう :2009/05/30(土) 01:19:38 0
で、a/s区別。 クワインは否定的。認めない。 @結婚していない人は、みな結婚していない。 A独身者は、みな結婚していない。 @のクラスの分析性はクワイン的にはOK。 クワインが問題にしたのはAのタイプの分析性。 一般には、同義語に置きかえることによって@のタイプの分析性 つまり論理的真理に変えられるとされてきたタイプ。 ここで分析性に関してちょっと気になる記述。 分析哲学大全2巻p214 DQNテーゼに関する説明の個所において。 ”そして、推論的関係を表現している言明は、分析的言明の一方の典型 と考えられてきたものである。” 推論的表現は分析的であるというのはどういうことかしらん。
40 :
たべぞう :2009/05/30(土) 01:24:03 0
実は、類似の指摘は『意味の全体論』にもでてくる。 p36 ”〜あなたがQを信じていない限りPを信じることができないとするならば 「もしPならばQ」は分析的(あるいはおそらくあなたにとって分析的) でなければならない・・・” p302 ”Pを信じるために信じなければならない命題をAとすれば、多分「Pならば A」は分析的であるに違いない。(あるものを動物だと信じていない限り だれもそれを犬だとは信じることができないならば、もし何かが犬ならば それは動物である、という信念は意味論的に真である)・・・” クワインが問題にしているのは、推論でいえば、 例えば、 それが牛ならばそれは動物であるというようなタイプの推論。 これが分析的であるということを認めない。 それが赤い牛ならば、それは赤い といったタイプの分析的言明にかんしては問題にしていない。 『意味の全体論」p345 ”彼は、言語の合成的構造そのものから生ずると思われるような種類の分析性 を論じていない。彼がこれに関して何と言うか、ということを知るのは 興味をそそる問題であろう” わかったような、わかんないような。 まあ、勉強ってそんな感じ。わかるときは一気にわかる。 わかんないときはいつまでもわかんない。でも先に進んでいく。
41 :
たべぞう :2009/05/30(土) 01:35:15 0
しつこいけど、またa/s区別問題。 勉強は反復。おんなじところをいったりきたり。そういうもん。 TDNでの流れ的には、 前半、a/s区別は意味論的に循環しているから駄目だということをねちねちと やっている。 後半は、ねちねちさが消える。あっさりしている。 後半の主題は、意味の検証主義と還元主義批判。 でもねちねちとした論証はしない。 かわりに持ち出すのは反対提案。 論証しないかわりに提案しちゃう。 提案は楽。でも根拠はある。 それがデュエムのテーゼ。 有名なDQNテーゼの登場。ぶっとんだテーゼ。でもそこがいい。 そんな感じ。 これからゆっくりみていく。
42 :
たべぞう :2009/05/30(土) 02:16:38 0
いろいろ書いてきたので一応まとめ。 クワインの主張。 独身者は結婚していない、のような言明は分析的言明。 哲学では分析的言明が幅を利かせている。 でもそもそもある言明を分析的ということで何を意味してるわけ? そこでつかわれている分析性ってなんなの?ちゃんと説明してもらえます? 分析性という言葉をつかわずにちゃんと分析性の概念を定義してもらえますか? 同義語に置きかえることで論理的真になる言明のこと?ははあ〜ん、じゅあ その同義性って言葉を今度はちゃんと説明してもらえますか? 同義性という概念を同義性という言葉を前提にせずに説明してください。はいどうぞ。 今度は意味が同じ?じゃ意味ってなんですか?結局循環してますね。 結局循環せずには説明できないということでいいですね>ALL そんな感じ。2chでたまにいるタイプ。 まともに議論しても絶対に勝てない。というかまともに相手しちゃだめなタイプ。 で、結局だれかから、言葉なんて結局循環してるんだから循環的説明しか 与えられないからその言葉を使うなんて非論理的だ、とかなんとか攻撃されて 消えていくタイプ。2chでたまにみかける。マジで。 TDEの前半の議論はそんな感じ。 だからあとから反論くらってフルボッコ状態。 でも全然負けていない。クワインのa/s区別批判はめちゃめちゃ影響力をもってる。 そこがすごい。 クワインはすごい。
43 :
たべぞう :2009/05/30(土) 02:22:28 0
>結局だれかから、言葉なんて結局循環してるんだから循環的説明しか >与えられないからその言葉を使うなんて非論理的だ 結局だれかから、言葉なんて結局循環してるんだから循環的説明しか 与えられないからその言葉を使うな、というのは非論理的だ
44 :
たべぞう :2009/05/31(日) 01:34:39 0
今日も俺様ブログに書きこみ。 ここにアマゾンのリンクはって そのうちアフィリエイトとかもやる。 バンバン小遣いかせぐ。 意味の検証理論。 言明の意味はその検証方法という理論。 そこから検証のしようのない言明は無意味という基準がうまれる。 論陣をはったのは論理実証主義者たち。 形而上学的言説批判。 ハイデガー、ヘーゲルの特定の言説をとらえて攻撃する。 今でいう知の欺瞞みたいな感じ。 歴史は繰り返す、みたいな。 でも、実はこの基準は自己論駁的。 検証のしようのない言明は無意味だという言明それ自体 検証しようがないから。 もちろん、論理実証主義者は、有意味な言明はすべて経験的に検証できると かんがえたわけじゃない。 経験的内容をもたない言明が存在する。 規約=定義によって真なる言明=分析的言明。 こうして経験的=事実に依存する言明=総合的言明と、 事実的要因をもたない言明=分析的言明という区分がなりたつ。 でも、それはドグマ、思いこみ。 クワインの登場。
45 :
し :2009/05/31(日) 01:51:44 O
しかし国分太一まったく変わったな
46 :
たべぞう :2009/05/31(日) 02:40:21 0
分析性をとことん追い詰める。 TDEの後半の議論。 意味の検証理論が問題。 論理実証主義が掲げた意味の検証理論は、還元主義的理論。 還元主義。何を何に還元しているんだ。 論理実証主義の基本的発想。 語の起源は、誰かが何かを指し示して、あれが・・・なんだよと教えることに よって経験的に習得される。これが直示的定義。 言明は、本質的にこのような直示的定義語からなりたっているので、 一見抽象的な言明も、有意味であるかぎりかならずこの種の直示的定義語から なる言明に還元可能だ。 直示的定義は、なにかを直接指し示すことによって語と対象を結びつけたもの だから経験的に検証可能。 こんな感じ。
47 :
たべぞう :2009/05/31(日) 02:54:55 0
でもこの還元主義はうまくいかなかった。 いろいろあって挫折。 うまいぐあいに還元できなかった。 でも、もしうまくいっていたら分析性をきちんと定義できた。 どうやって? 言明の意味は、その検証方法。 うまいぐあいに還元ができて検証ばっちり。 すると、検証方法が同じ言明は意味が同じ言明となる。 つまり、言明間の同義性が非循環的に定義できる。 これと論理的真理をつかって分析性を定義できる。 ”ある言明が分析的であると記述されるのは、それが論理的に真である言明 と同義であるときにほかならない”(TDEp57) でも還元主義はうまくいかなかった。 ”かれは、物理的世界についての言明の、直接的経験についての言明への翻訳可能性 という考えを、まったく放棄している(略)その根元的な形態での 還元主義は、カルナップの哲学に現れなくなってから久しい”(TDEp60)
48 :
たべぞう :2009/05/31(日) 03:09:30 0
書くと結構考えがまとまってくる。 理解がまとまってくる。 何が理解できていないのかがわかってくる。 書くの大事。 でもめんどい。 動機付けが必要。 そこでブログ。なんとなく書く気になる。 ブログ的勉強法は結構あり。 検証から確証へ。 検証主義的還元主義は挫折。 でもまだ還元主義は途絶えていない、とクワイン。 確からしさを高める・低めるという確証というゆるめられた形で残っている。 ”還元主義のドグマは、個々の言明が、他の言明から孤立して考えられても 、ともかく確証や反証を受け付けうるという想定の中に生き残っている”(TEDp61) これが、TDEの後半で批判される第二のドグマ=還元主義。 ここからまだ分析性の復活がありうる。 個別の言明の確証・反証について語ることが有意味ならば、何が起ころうとも 確証される言明という特徴づけによって分析性が維持される、とクワイン。
49 :
考える名無しさん :2009/05/31(日) 03:27:21 0
いいぞいいぞ。引用の頁までちゃんとある。
50 :
たべぞう :2009/05/31(日) 03:28:23 0
ここ結構大事。 TDEにおける2つのドグマとは、 @a/s区別。 A還元主義。 特にAの還元主義は、 ”個々の言明が、他の言明から孤立して考えられても 確証や反証を うけつける”という発想として指摘されている。 意味の検証理論そのものを批判しているわけじゃない。 ここ結構大事。 ”明かに多くの哲学者たちは「ふたつのドグマ」が検証主義を棄却しているものと 読んでいる(略)「ふたつのドグマ」において棄却されているのは検証主義 ではなく、クワインの言う「還元主義」である。(略)前者は「ふたつの ドグマ」においてあからさまに攻撃されているが、しかしあらゆる理由から して、検証主義の棄却はクワインがまったく考えたことのなかった選択肢 だと想定すべきである”(『意味の全体論』p308) "信念の正当化についてのクワインのモデルは、論理実証主義のそれよりも、 はるかに大きな説得力を持っている。(略)それは、論理実証主義の 「意味の検証理論」を、ある決定的な一点--還元主義の拒否--において変様 させながらも、それを引き継ぐものである。”『言語哲学大全2」p248 クワインはあるいみ意味の検証主義者。
51 :
考える名無しさん :2009/05/31(日) 17:46:58 0
二つのドグマよりもword of objectのほうが気になる
of?
53 :
たべぞう :2009/06/01(月) 22:12:10 0
翻訳の不確定性とか指示の不確定性とかおもしろそうなテーゼがでてくるのは 『言葉と対象』の方。 でも分厚いし、文章も難解な感じ。 はっきりいって、クワインの本って、いまさら読む必要ある のって感じ。 議論しつくされた感があるし、クワイン自体あんまし魅力感じない。 読んでる俺が言うのもあれだが。 カントやウィトが読まれるようにはクワインは読まれない。 結論だけしっていればいいって感じ。 クワイン読むなら、デイビッドソン読んだほうがいんじゃねみたいな。 いや、俺は読むけどさ。
kiryeと仲良くなれそうだな
55 :
たべぞう :2009/06/03(水) 00:25:49 0
還元主義のドグマ。2つめのドグマ。 個々の言明は、それ自身で適切な範囲の確証条件を持つ。 これに対するクワインの反対提案。 ”外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、ひとつの団体 として、感覚的経験の裁きに直面する”(TDEp61) これがいわゆる確証の全体論。 経験的言明の確証の単位は理論全体であるという主張。 ”経験的有意味性の単位は、科学の全体なのである”(TDEp63) カルナップからこの発想をうけとったとクワインは書いている。 カルナップとクワインの主張はじつはとっても似通っている。 カルナップはこのアイディアをデュエムから受け取った。 デュエムの考察は論理実証主義者たちの間でひろく受け入れられていたという。 ”こうした事実は、クワインの言う「経験主義の第二のドグマ」は本当に 経験主義のドグマだったのかという疑惑を引き起こしかねない”言語哲学大全2p266 なにはともあれ、TDEのクライマックスに突入。 いろいろゆっくりみていく。
56 :
考える名無しさん :2009/06/06(土) 21:12:21 0
クワインはどうして解説書が少ないの?
57 :
たべぞう :2009/06/06(土) 21:14:42 0
58 :
たべぞう :2009/06/06(土) 21:26:42 0
>クワインはどうして解説書が少ないの? 解説本は、丹治の本と、フックウェイの本がでてるよ。 少ないのはクワインが人気がないから。 というか分析系で人気があるのはたぶんウィトぐらい。 単純な市場原理。 売れるなら書かれる。かかれても売れないから書かれない。 そんな感じ。 多分。
>>58 クワインは人気がないのですか・・・英米でもマイナー扱いのホワイトヘッドの解説書は以外とあるのにクワインがないなんて・・・
フックウェイの解説書は知りませんでした、教えていただきありがとうございます
60 :
たべぞう :2009/06/06(土) 23:01:21 0
確証の全体論<−対立−>確証の局在論(還元主義) 確証の全体論:言明は、他の言明との関係において確証条件をもつ。 確証の局在論:言明は、個々独立に確証条件をもつ。 ”私の反対提案は、本質的には(中略)カルナップの説に由来するものであるが、次のものである。 外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、ひとつの団体として、 感覚的経験の裁きに直面する”(TDE p61) この文章の直後の注においてクワインはデュエムに言及している。 ”この説は、Duhem(中略)で的確に擁護されている”(TDE p70) クワインがTDEでデュエムに触れているのは唯一ここだけである。
61 :
たべぞう :2009/06/06(土) 23:04:38 0
クワインが触れているように、カルナップはすでに同じことを述べている。 ”テストは、単一の仮説に対してではなく、仮説のシステムとしての物理学 のシステム全体に対して、なされる”(『論理的構文論』) よってカルナップが確証における局在論者ということはありえず、 ”「ふたつのドグマ」は(例えば)カルナップの確証の局在論に対抗する ためにQ/Dテーゼ(注クワイン・デュエムテーゼ)を提起した”(『意味の全体論』p58) という見方は成り立たない。 TDEの謎の一つは、クワインが問題にした 第二のドグマの還元主義者とはだれのことかということ。 カルナップのことではない。 見えない敵と戦うクワイン。 でもそこがいい。
62 :
外国人 :2009/06/06(土) 23:11:51 0
鳥坂A106
>>58 それは違う
クワインは生前から「解りやすさ」にこだわっていた「自然主義者」だった
だから、クワインは彼の著作を読めば大抵はわかる
だから解説書の必要なんかない
そこが、ウィトゲンシュタインなんかとは違うところ
64 :
たべぞう :2009/06/07(日) 01:13:17 0
解りやすいかどうかと、自然主義をとるかどうかは まったく無関係。 そんな感じ。 でもそこがいい。
65 :
考える名無しさん :2009/06/07(日) 02:36:55 0
自然主義の系列って比較的わかりやすい人多いよねえ? 自然主義の系列って文字通り"自然さ"に重点を置いているから、 思想的にも理解しやすい特性がある。 クワイン、サール、パトナムがそう。 デイヴィドソン、ダメットなんかとは明らかに違う。
クワインが解りやすいのは 自然主義者だからじゃなくて 論理学者だからじゃないの?
論理学者ではない分析哲学の学者なんていません
じゃなくて、 クワインは狭い意味での論理学者でもあるわけだが。
67はサールみたいなやつが嫌いなんじゃね
>>68 ホワイトヘッドだって論理学者だろ?
難しいじゃん
71 :
たべぞう :2009/06/07(日) 20:31:20 0
確証条件の話。デュエムの話。 なぜ確証の単位は、局在ではないのか。 普通に考えれば、経験的言明には、その言明を確証・反証する一定範囲の経験内容が そなわっているように見える。 例えば、”フラスコの中の液体は酸性である”という言明を考えてみる。 この言明の確証条件は、この液体にリトマス試験紙をつけて赤くなるかどうか 見てみることだろう。 フラスコの液体につけたリトマス試験紙が赤色にかわればその液体は酸性であり かわらなければ酸性であるという言明は反証される。 フラスコの液体は酸性であるという言明は、その言明自身単独で それを確証する適切な範囲の確証条件を持っている。 正しいのは確証の局在論ではないのか。
72 :
考える名無しさん :2009/06/07(日) 20:41:22 0
たべぞうはpikarrrの正統な後継者だな
73 :
たべぞう :2009/06/07(日) 21:05:23 0
ここでようやくデュエム登場。 仮説を実験・観察で確証する際に、確証されるのは、その仮説だけではなく 当の仮説と連言でむすばれた複数の補助仮説を含んだ一群の命題群だという 事実に注目したのがデュエム。 意図した結果が観測されたなかった場合、当の仮説を含む一群の命題が 間違っていることが示される。 しかしその命題群のどの命題を退けるかは、その観測結果からは直接導くこと ができない。 当の仮説を保存して、他の補助仮説を葬り去ることによって観測結果と 仮説を両立させるという選択肢がありうる。 これがデュエムの認識。 確証にかけてられているのは、当の仮説単独ではなくて、仮説と補助仮説群を含む 一群の命題全体だという発見。 これが確証の全体論の根拠。 フラスコの液体につけたリトマス試験紙が赤にかわったことが フラスコの液体が酸性であることを確証すると主張するとき、 すでに、例えば、リトマス試験紙と酸性との関係に関する理論上のさまざまな 命題が補助仮説として前提されている。 よってフラスコの液体についたリトマス試験紙が赤色にかわらなかったとしても、 論理的には、それらの命題群のどれかを否定することによって、フラスコの液体が 酸性であるという仮説を維持することができる。 クワインが強調するのはこの点である。
74 :
たべぞう :2009/06/07(日) 21:06:28 0
デュエムはドM だがそこがいい。
たべぞうには期待してる
76 :
考える名無しさん :2009/06/07(日) 21:08:15 0
>>65 そういえばパトナムとサールも解説書がないですね。
77 :
たべぞう :2009/06/07(日) 21:27:26 0
Duhem(D)にQuine(QN)が加わってDQN化するテーゼ。 論理的には、どのような観測結果がでようと、補助仮説群に手をつける後づけ行為によって 当の仮説自体を維持しつづけることができる。 ”デュエム自身は、良識を備えた科学者ならどういう後つけの修正ならいいかわかる はずだ、と考えたので、これが科学の合理性に対する深刻な挑戦になるとは考えなか った。しかし、1950年代に(中略)クワインがこれをとりあげて「どんな仮説でも どんな観察からも支持される」という非常に過激な主張にしたてあげた” (『擬似科学と科学の哲学』p54) 見えない敵と闘いつつ過激化するクワイン。 でもそこがいい。
78 :
考える名無しさん :2009/06/07(日) 22:25:08 0
独り言文体も 他者を受け付けないところも 全てが同じ たべぞうはpikarrrと双数関係にある
79 :
たべぞう :2009/06/13(土) 03:47:18 0
ひさしぶりに更新。 わだいのミヤディーの本を読んでみた。 線引きの恣意性と不可避性がテーマの本。 途中でデリダの脱構築の簡単な解説がでてくる。 ”構築あるいは人のなす区別は、必ず間違っているのに回避できない。(中略) だから、区別をなしつつ、区別を信じずに、前に進め!それが脱構築の概念です。” (『日本の難点』p130) こんなふうに短く人生訓ぽく要約されると、ちょっとばかっぽい。 でもそこがいい。 脱構築。 あるいみクワインも脱構築の人。 論理実証主義を脱構築。 デリダが、コンスタティブ/パフォーマティブの厳密な線引きを脱構築したように クワインも、A/S区別の線引きを脱構築する。 区別をなしつつ、区別を信じず、前に進め! ということでふたたびデュエム/クワインテーゼ(D/Qテーゼ)の話。
80 :
たべぞう :2009/06/13(土) 04:25:57 0
観察データによって確証・反証のテストにかけられているのは 単独の仮説ではなく、補助仮説を含む仮説群全体である。 このデュエムの物理学に関するテーゼを過激化し外的世界についての言明に まで超拡大適用したのがクワイン。 過激派クワイン。 通常デュエム/クワインテーゼ(D/Qテーゼ)と呼ばれるテーゼは、 主に2つの柱から構成されている。 @”外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、ひとつの 団体として、感覚的経験の裁きに直面する”(TDEp61) A”体系のどこか別のところで思い切った調整を行うならば、どのような 言明に関しても、何が起ころうとも真と見なし続けることができる。(中略) 逆に、まったく同じ理由から、どのような言明も改訂に対して免疫が あるわけではない。”(TDEp64)
81 :
たべぞう :2009/06/13(土) 04:28:51 0
@とAのどちらをD/Qテーゼの特徴とするかは論者によって分かれる。 例えば、『擬似科学と科学の哲学』では ”この「どんな仮説でもどんな観察でも支持される」という考え方は( おそらくデュエムにとっては不本意なことに)「デュエム=クワインテーゼ」 と呼ばれる”(p54−55) とAのテーゼをD/Qテーゼの特徴としている。 対して『言語哲学大全2』では ”「外界についてのわれわれの言明は、個別的にではなく、ひとつの団体 としてのみ、感覚的経験の裁きに直面する。」(略)これが、一般に 「デュエム=クワイン・テーゼ」と呼ばれるものである”(p213) と@の特徴づけを採用している。 そんでもって「意味の全体論」によるD/Qテーゼ評はこなる。 ”われわれの考えでは、Q/Dテーゼ「そのもの」は実際は互いに 等値ではない(が密接に関連した)諸説の複合体であり、「ふたつのドグマ」 は論争上の目的に応じてそのテーゼの様々なバージョンを使い分けている。” (p56-57) 使い分けするクワイン。 だがそこがいい。
82 :
たべぞう :2009/06/13(土) 04:57:48 0
TDEの論証を振り返る。 分析性を徹底的においつめろ。 分析性を非循環的に特徴づけできない。 意味は同義性に、同義性は定義に、定義は同義性に ぐるぐるぐるぐる。 でも、確証の局在論(還元主義)がただしいのなら分析性は救われる。 個別の言明の確証について語ることが有意味なら、なにがあっても確証 される言明として分析性の非循環的特徴づけが可能になる。 しかしD/Qテーゼにより確証の局在論は謝りであることがしめされる。 よって分析性は生き残れない。 要するに、D/Qテーゼ→確証の局在論(還元主義)の否定→A/S区別の棄却。 こんな感じ。
独り言文体も 他者を受け付けないところも 全てが同じ たべぞうはpikarrrと双数関係にある
84 :
たべぞう :2009/06/13(土) 15:28:08 0
D/Qテーゼの話の続き。 D/Qテーゼから何が帰結するか見てみる。 もともとの話は分析性。 分析性には二つのタイプがある。 タイプ@ 結婚していないならば結婚していない こちらはAならばAの形式。 いわゆるトートロジー。論理的真理。 それに対して タイプA 独身者ならば結婚していない こちらは、同義語におきかえることによって@のタイプに変換できると される。クワインがあやしげとして批判するのはこちらのタイプA さて、D/Qテーゼによって分析性の概念が否定された。 Aのタイプの言明が分析性といわれていたのは、同義語におきかえることによって @のタイプつまり論理的真理(トートロジー)に変換できるから。 しかしクワインによればAのタイプの言明は分析的言明ではない。 ここから帰結される結論は、表現が異なる言葉が同義であるということはない。 つまりいいかえれば、表現が異なる言葉は意味が同じであるということはない。 これはかなり異様な結論。 独身者と結婚していない人は同義だといわれる。 しかしD/Qテーゼは、そのような表現がことなる言葉の同義的関係は 存在しないという帰結を含意する。 やばい。やばい。D/Qテーゼはやばい。
85 :
たべぞう :2009/06/13(土) 15:52:31 0
D/Qテーゼはヤバイ。 クワインは分析的言明の特徴を2つ挙げている。 ひとつは、同義語におきかえることによって論理的真理に変換できる言明。 もうひとつは、何が起ころうとも真でありつづける言明。 ”言明の確証と反証について語ることが一般に有意味であると考えられている 限り、トリビアルに確証される、つまり、事実上何が起ころうとも確証 されるといった極限的な種類の言明についてかたることも、有意味である ように思われる。そして、こうした言明が分析的なのである。”(TDEp61-62) しかしD/Qテーゼによれば、個別の言明は、それ単独では確証も反証もうけつけない。 よって、何が起ころうとも確証される言明というものについて語ることは意味をなさない。 クワインによれば、AまたはAでないのような排中律のような論理法則でさえ、 経験の裁きに直面して改訂される余地を残している。 ”どのような言明も改訂に対して免疫があるわけではない”(TDEp64) ながらく分析的言明は、意味にもとづく真な言明として語られてきた。 意味に基づいて真であるがゆえに、世界の出来事には影響をうけない。 何が起ころうとも真でありつづける言明が分析的言明であると。 しかしD/Qテーゼはそれをはっきりと否定する。 言明の真理性に関して事実的要因と言語的要因との間にはっきりとした 区別をもうけることができるという発想がドグマとして葬り去られる。
86 :
たべぞう :2009/06/13(土) 16:22:14 0
TDEの分析性の概念は多義的であるとよく指摘される。 そこでは意味論的概念と認識論的概念とが混同されていると。 @同義語におきかえることによって論理的真理に変換できる言明。 が分析性の意味論的な特徴づけだとすれば、 A何が起ころうとも真でありつづける言明。 というのは、認識論的特徴づけであると。 一般的には何が起ころうとも確証される言明というのは、 ア・プリオリな言明とされる。 ア・プリオリな言明とは経験による正当化を必要としない言明のことで 確かに@の同義語に置きかえることで論理的真理に変換できる言明=分析的言明 はそれが真なる言明であるとわかるために経験による正当化を必要としない 言明であるが、ア・プリオリな言明が分析的言明かどうかは一概にいえない。 ”ある言明Aに関して、それが「いかなる経験によっても確証される」ことから、 Aは事実によってではなく言語によって真である、と結論することには、大きな 飛躍がある。こうした結論の代わりに、Aが「いかなる経験によっても確証され る」のは、Aが、経験の一般的特徴に由来する真理であるから、というカント 的結論を導くことも、当然可能のように思われる。(中略)「何が起ころうとも 確証される」真理というのは、伝統的には、ア・プリオリな真理のことに他ならない” (言語哲学大全2p209)
87 :
たべぞう :2009/06/13(土) 16:26:16 0
TDEでクワインが否定したのは実は分析性ではなくア・プリオリな言明であった という読みも可能。 言い方をかえれば、意味論的な分析性概念は問題がない。 しかしある言明が分析的言明であるとなぜわかるのか?というのがクワインの 問い。 ”明白に真だと思われる言明が定義にって真であるかどうかは、どうしたらわかる のだろうか。例えば、その言明を眺めてみれば、それに反するような観察はとても ありそうにないとおもえるかもしれない。しかし、もしかしたらこのことは、 単にわれわれの想像力の欠如を反映しているだけであり、その言明が実際に ア・プリオリ(中略)であるという事実を反映しているわけではないのかもしれない。” (ソーバー『進化論の射程』p146)
88 :
たべぞう :2009/06/13(土) 17:05:54 0
”アプリオリ性に訴えることによっては分析性を再構成することはできない、 と彼(注クワイン)は(略)論じたのである。つまりもし分析的真理があるとして も、われわれはそれらをアプリオリに知るのではない(略)a/s区別が存在する ことの否定と、認識論的な性質(例えばアプリオリ性)に基づいたa/s区別が 存在するということの否定との間には違いがある”(『意味の全体論』p314-315) TDEから得られるひとつの教訓は、 ある言明を分析的言明であると判断するときは気をつけろということなのかしらん。 いろいろはっきりしないことも多いけど、でも前に進む。 進んでいくうちにいろいろわかってくる。 そんな感じ。
89 :
たべぞう :2009/06/13(土) 17:18:53 0
D/Qテーゼはヤバイという話のつづき。 まだつづく。 確証の局在論を否定したのがD/Qテーゼ。 個別の言明はそれ単独では確証条件をもたない。 ”外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、 ひとつの団体として、感覚的経験の裁きに直面する”(TDEp61) これが確証の全体論。 ところで、クワインはある説によれば意味の検証主義者。 "信念の正当化についてのクワインのモデルは、論理実証主義のそれよりも、 はるかに大きな説得力を持っている。(略)それは、論理実証主義の 「意味の検証理論」を、ある決定的な一点--還元主義の拒否--において変様 させながらも、それを引き継ぐものである。”『言語哲学大全2」p248 かつての意味の検証主義者=論理実証主義者たちが、確証の局在論=還元主義 の意味の検証主義をとなえていたのだとしたら、 クワインは、確証の全体論において意味の検証主義のたちばをとる。 さて、この見解からなにが帰結されるか見てみる。 つまり、意味の検証主義とD/Qテーゼをあわせると何が帰結するのか。
90 :
たべぞう :2009/06/13(土) 17:28:29 0
@意味の検証主義は、言明の意味はその確証条件であると主張する。 AD/Qテーゼは、個別の言明は、それ単独では確証条件をもたないと主張する。 @とAから B個別の言明は、それ単独では意味をもたない が帰結する。 これはかなり途方もない結論。 言明は文脈において意味が定まるとはだれもがいう。 しかし言明は、それ単独では意味をもたないと言うひとはそんなにいない。 しかし意味の検証主義とD/Qテーゼからは、 言葉の意味に関するかなりぶっとんだ結論がでてくる。 ヤバイ。ヤバイ。 D/Qテーゼは超ヤバイ。
たべぞう お前かっこいいよ
独り言文体も 他者を受け付けないところも 全てが同じ たべぞうはpikarrrと双数関係にある 引用文が大杉で、長杉のアホ
93 :
たべぞう :2009/06/14(日) 03:22:57 0
>引用文が大杉で、長杉のアホ まあ、ここは俺の読書メモみたいなものだからな。
>>92 よかったな
おれたちの導師、たべぞうに相手してもらえて
95 :
たべぞう :2009/06/14(日) 03:43:02 0
確証の全体論は、確証の単位=経験的有意味性の単位は、 個別の言明ではなく、一群の言明の集まり=科学理論全体であると 主張する。 一方、意味の全体論は、意味の単位=有意味性の単位は、 個別の言明ではなく、その言明が属する言語全体であると主張する。 確証に関する全体論と意味に関する全体論は本来別のことがらである ことに注意。 にもかかわらず、それらはあるしかたで密接にむすびついている。 というのも、意味の検証主義は、 確証条件が意味論的であることを主張するテーゼだから。 意味と確証をむすびつけるこの意味の検証主義と 確証条件は全体論的であることを主張するD/Qテーゼからは 確証の全体論がそのまま意味の全体論を含意するようにみえる。
96 :
たべぞう :2009/06/14(日) 04:09:12 0
@意味の検証主義:言明の意味はその言明が真であると判断する際の確証条件である。 AD/Qテーゼ:単独の言明は、それ自身では確証条件をもたない。 それが確証条件をもつのは、理論内の他の言明と結び付けられた場合に限る。 B意味の検証主義は、意味の概念と証拠の概念の等値性を主張している。 @とAとBより、 C意味の全体論:単独の言明はそれ自身では意味をもたない。それが意味をもつのは、 理論内の他の言明とむすびつけられた場合に限る。 問題は、確証の全体論がなにを主張しているのかは明瞭に見える一方、 意味の全体論が実際に主張している内容が不明瞭な点。 証拠の単位は理論全体であるとD/Qテーゼが主張するとき、 そこで含意されているのは、ある仮説から予言が導けるとき、 その予言が観察されなかった場合でも、その仮説を含む理論内の他の すべての言明のうちどれかを改訂すればよい、ということを含意している。 実験観察によってテストされているのは、単独の仮説ではなく、 補助仮説をふくむ理論全体だという主張である。 一方言明の意味の単位が理論全体であると主張するとき、そこで 含意されている内容は不明瞭。 ”何らかの言語行動がひとつの理論全体を用いて遂行されることはない。 (略)われわれは何ごとかを言うために文を用いるが、同様な仕方で 理論を用いることはしない。さらに上述のスローガン(注意味の全体論) は個別の文の使用ないし理解についてなにも語らない。” (フックウェイ『クワイン』p294-295)
97 :
たべぞう :2009/06/14(日) 04:29:34 0
”意味に関する全体論は懐疑的な教義である。それは意味に関して非常に体系的な ことや興味深いことは何も言えないという示唆をもっている。”(『クワイン』p295) "(ダメットには失礼ながら)予期されるものは『意味に関する全体論的理論や モデルではなく」むしろ意味に関して多くの語るべきことがあることの否定なのである。” (『クワイン』p296) ”(注意味に関して)ニヒリズムこそあらかたの人々がクワインの見解だと思っている ものであって、意味論的全体論ではない。そして恐らくそれが彼の見解だろう。 彼は『理論と事物」の中でこう述べている。「意味は思考や信念と同様に、 哲学的および科学的な解明や分析にとっての価値ある対象であるが、それらと 同様に、哲学的および科学的な解明や分析の道具としては不都合である」”(『意味の全体論』 p314) 見えない敵と闘い過激化し使い分けをしながらニヒリズムにひたるクワイン。 だがそこがいい。
98 :
たべぞう :2009/06/14(日) 05:02:29 0
しかし意味の検証主義というのはよくわからない。 理論内のある言明の意味がわかっているなら、その言明が真である と判断するためにどういう証拠がいるのか言えるはずだよね、という 話ならわからなくもない。 つまり、言明の意味が理解できていることの必要条件は、その言明が真である とみなせる証拠がなんであるかを言えることだという主張ならわからなくもない。 しかし、言明の意味が、その言明の確証条件であるというふうに、 言明の意味の本質が確証条件であるといわれるとよくわからない。 素朴に考えるならば、この主張はあからさまに循環しているようにみえる。 その言明を確証するものが何かについて語れないのであれば、 その言明が意味するものがなにかについてかたることができない。 というのが意味の検証主義のテーゼだとすると、 それと真逆のこともいえるきがする。 つまり、その言明が意味するものがなんであるかわからないかぎり、 その言明を確証するものについて語りようがないではないか、と。 確証条件について語るためには、すでにその言明の意味の理解が前提に なっているのでは、というのが素朴な疑問。 意味の検証主義はよくわからない。
99 :
たべぞう :2009/06/14(日) 05:15:58 0
しかしクワインはなぜ意味の検証主義者なのだろうか。 ”もしもわれわれが、パースとともに、文の意味はその文が真であるための 証拠とみなされるものによってもっぱら決定される、ということを認識する 〔略)ならば、理論文における翻訳の不確定性はそこからの当然の帰結である。 (略)こういうこのましくない帰結が生じるなら、われわれは意味の検証主義を 放棄すべきだろうか。もちろんそうではない。翻訳の場合にも、また母国語を 学ぶ場合にも基礎となる意味はかならず経験的意味であってそれ以上ではない。 (略)言語の意味に関する理論的立場が問題である場合には、われわれは経験主義者 になる以外に撰ぶべき途はない。”(クワイン『自然化された認識論』p55-56) ”意味に関与するものはすべて何らかの仕方で経験にさかのぼられるべきである”(『クワイン」 p297) という信念がクワインの大前提にある。
やっぱ読書メモはsageてはどうか。 やめろとは決して言わないから。
101 :
たべぞう :2009/06/15(月) 21:30:05 0
>>100 sageて書けって要求の意味がわかんないんだけど。
これがあがることで、なにか大事なスレッドが下がって消えてしまうわけ?
だとすればそれはなんというスレッドなの?
あるいはなにか別の理由があるわけ?
一応、スレ立てルールの
>学問カテゴリーに属する哲学を扱う掲示板です。
>「 学術的な哲学 」から「 一般教養としての哲学 」
>「 個々の経験、人生観、世界観からの哲学へのアプローチ 」なども趣旨にふくみます。
のうち、「一般教養としての哲学」のうちにこのスレッドははいると思うので
スレたてルールに反しているとはおもえない。
また読書メモと俺は主張しているが、たんなるメモではなく
他人が読んでもそれなりに、筋だって読めるように書いているつもり。
「クワインの哲学について」知識を共有することを目的としたスレッドとして
なんら問題ないと思っている。
さらにいえば、意味不明なスレッドが乱立している(と俺には思われる)現状で、
ことさらこのスレッドをsageて書きこむ必要がどこにあるのか不明。
そのへんをふくめてなんでsageろって要求するのかもうすこし説明してほしい。
納得できる理由なら従う用意はあるよ。
面倒くせえ香具師だなあ 掲示板なんだから、行って来いが必要なわけよ オマエのはオナニーレス ウザイからsageろ ノータリン野郎
103 :
考える名無しさん :2009/06/16(火) 05:45:04 O
何か変なの来たなぁ。
たべぞうって自演するんだな
いや、掲示板はメモ帳ではないんだ。そして、君のメモ帳がageられることによって、 これまで多くの対話を記録してきたスレが落ちたりするんだ。 普通に考えよう。sageろ。
こんな読書メモ、 ブログでやってくれよ。
終わったな(w
対話ねえ。 ほとんどが哲学とは関係がなくて内容のない適当な思いつきを書いて それに反応してるだけだと思うけど。 基礎的かもしれないけど哲学と認められる内容があるだけ こっちのほうがいいって立場も「普通」にあると思うよ。
おれはたべぞうを歓迎するよ。 どうぞ続けてください。
ここだけで荒らしてるんだから別にいいんじゃないの ぴかぁ〜と同じことしてるだけだろ
>>109 別に続けるなとは言ってない。おれも歓迎ぐらいはしてやる。
ただこういうのはsageでやってほしい。それだけだ。
ある意味クワインなんかより大事なことだ。
いやならみなきゃいいだけだろ
>>112 そのとおり。一字一句賛成。
だから、そのためには目障りでないsageたところにいてほしい
と言ったわけだ。
>>113 2chブラウザを導入して、透明スレッドあぼ〜んしろ
>>114 最前列にしゃしゃり出てきてオナニーする奴のために
なんでこちら側がいろいろと用意しなきゃならんのだ?
むしろ「オナニーはあっちの木陰でやっていただけますか」
と言うべきだろう。一言そう言うぐらいの労力は払うよ。
オナニーも自由に好きな場所でできない世の中なんて。。。
鬼才たべぞうが、出る杭がうたれはじめたな
119 :
たべぞう :2009/06/16(火) 21:34:52 0
>>105 >いや、掲示板はメモ帳ではないんだ。
俺のレスもたんなるメモのつもりはないんだ。
>そして、君のメモ帳がageられることによって、
>これまで多くの対話を記録してきたスレが落ちたりするんだ。
それは2chの仕組みなのでしかたがない。
>>101 でかいたように、このスレッドは哲学板のスレたてルールに
反していない以上、このスレッドがあがることによって
落ちるスレッドがでるのはしかたがない。
それが2chの仕組み。
もし、落としたくないスレッドがあるならそのスレッドを
落としたくない人が上げる保守活動をするしかない。
そもそもわけのわからない題名のスレッドが定期的にあげられている
現状でこのスレッドだけそんな要求をしても意味がないことに気がついて欲しい。
>>118 どう考えても「出る杭」じゃねーよw
なに持ち上げてんの?
ageというのは、スレ画面に隠されたところからその上部に「出る」ことだ
そんなにあがるのがいやなら裁判でもおこせよwww
馬鹿すぎ・・・ ついにオナニストと馬鹿だけのスレに成り下がったかw
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まけるなたべぞう。応援してるぞ。
じゃあ上げてやれよw つーかここ、たぺぞう以外は見事にsageなんだなww
127 :
考える名無しさん :2009/06/18(木) 11:40:04 0
たべぞう氏 期待age
128 :
考える名無しさん :2009/06/18(木) 18:53:53 O
たべぞう応援あげ
なにがDQNテーゼだ たべぞう氏ね
130 :
考える名無しさん :2009/06/19(金) 17:36:11 0
荒らしは嫌なら見るな
ばぁ〜〜〜〜〜〜か(笑)
(;´Д`) 嫌なら見るな〜 _(ヽηノ_ シコシコシコシコ ヽヽ
133 :
たべぞう :2009/06/20(土) 04:49:34 0
俺的読書メモブログ更新age。 /たべぞう \ / \ , , /\ / (●) (●) \ | (__人__) | このスレはただのメモ帳じゃないんだよ! \ ` ⌒ ´ ,/ それを超えたものなんだよ! . /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ | ,___゙___、rヾイソ⊃ | `l ̄ どのへんがこえてるんですか? ___ / ̄ ̄\ / \ |:::::: | / \ . |::::::::::: | / ⌒ ⌒ \ |:::::::::::::: |/ (⌒) (⌒) \ ただのメモ帳ですがなにか? . |:::::::::::::: } | (__人__) し | . ヽ:::::::::::::: } \ ` ⌒´ _/ ヽ:::::::::: ノ | \ /:::::::::::: く | | | |
134 :
たべぞう :2009/06/20(土) 05:37:53 0
全体論の話のつづき。 確証の全体論(D/Qテーゼ)と意味の検証主義から意味の全体論が導出 される。 しかし意味の全体論はその内実がよくわからない理論。 意味を解明する理論というより意味についてニヒリスティックな 結論をみちびきだす理論。 意味の全体論をまともにうけとると意味に関してかなりやばい結論が でてくる。 ヤバイ。意味の全体論も超やばい。 しつこいけど、またD/Qテーゼと意味の検証主義から意味の全体論を導く論証の話。 D/Qテーゼが主張するのは、理論内のいかなる言明も、理論内の他の 多数の言明との確証関係にはいらないかぎり、確証されないということ。 一方意味の検証主義は、確証関係が意味論的であることを主張する。 そして、一般に、言明は、その意味内容によって個別化される。 つまり、ある言明Sは、その意味内容によって、他の言明Rと区別される。
絶対神きたーーーーーーーーー
136 :
たべぞう :2009/06/20(土) 06:00:47 0
さて、すると次のことが帰結する。 理論内の言明Sは、理論内の他の言明との確証関係によって個別化される。 つまり言明Sの意味は、理論内の他の言明との確証関係によって定まる。 すると、同一の言明Sを含む二つの異なる理論が存在するならば、 言明Sの意味は、二つの理論では異なるという結論がでてくる。 つまりいかなる言明の意味も、理論に相対的となる。 すると、異なる二つの理論にまたがって同一な意味をもつ言明というものは 存在しないことになってしまう。 つまり理論横断的言明の同一性というものはない、という結論になる。 もし、理論Aにでてくる言明と”同じ意味の”言明が、理論Bに 登場するならば、理論A内の他のすべての言明が、理論Bに 登場しなければならなくなる。つまり、理論Aと理論Bはなにかひとつの 言明でも共有するためには、事実上すべての言明を共有するほかなくなる。 ここで「理論」を「言語」に読みかえてみるとことの異常さがより際立つ。 ”「理論」が「言語」に置きかえられても、必要な変更を加えれば事情は 同じである。全体論が真ならば、あなたの言語の事実上すべてを理解しない かぎり私はあなたの言語をいささかも理解できない。しかしそうだとすると 継ぎ目のないたった一回の発作的認識による以外、そもそもいかにして言語は 学ばれうるというのだろうか。”(『意味の全体論』p13)
137 :
たべぞう :2009/06/20(土) 06:17:05 0
もし各々の言明に、それぞれ明確な意味内容が定まっていると考えるならば、 意味の全体論は、言語の共有や理解ということにかんして致命的な帰結を もたらすように見える。 そこでその致命的な帰結をさける途として、 意味の全体論をとりながら、個別の言明がおのおの明確な意味内容を もつということを否定する方法がある。 クワインがとるのはおそらくその方向。 個別の言明がそれぞれさだまった意味内容をもつということを否定する方向に いく。 意味に関するニヒリスト。
138 :
たべぞう :2009/06/20(土) 06:36:30 0
ところで、いままではD/Qテーゼと意味の検証主義が正しいとすれば、 そこから意味の全体論が導出されるという話。 しかし本当にそうなのって話がでてくるところが哲学のおもしろいところ。 堅固な論証というものは哲学ではまずおめにかかれない。 堅固にみえる論証も、実際は言葉のあいまいさやレトリックに依存している というのが哲学のおやくそく。 所詮言葉ならなんとでもいえるという世界。 だが、そこがいい。
なんだってー
140 :
考える名無しさん :2009/06/21(日) 12:10:41 O
論理的観点から、 間違えて二回も買ってしまった。 だがまだ読めてない、さすが俺。
141 :
たべぞう :2009/06/21(日) 14:22:02 0
反復反復また反復。 同じことを繰り返し書くことによって脳細胞に知識を 染みこませる。 これがたべぞう式勉強法。 とにかく書いてまとめてみることは大事。 書いてみることによってどこが理解できていないのかが よくわかってくる。 読んで理解できたとおもったら書いてまとめてみる。 ということでまた意味の全体論の話。 D/Qテーゼは、どの言明の確証条件も、理論内の他の言明の確証関係に 部分的に関与すると主張する。 つまり、いかなる言明も、他の言明から孤立して考えられる限り 反証も確証もうけつけえない。 そして、意味の検証理論は、言明の意味はその確証条件であると主張する。 ここから意味の全体論は次のステップで導出される。 確証関係は全体論的である。 他の言明との間で確証関係をもたない限り、 いかなる言明もその確証条件をもつことはできない。 確証条件は意味論的である。 いかなる言明も、他の言明との間で確証関係をもたないかぎり、 意味論的値をもち得ない。 そして、言明はその意味内容によって個別化されるとすれば、 いかなる言明も、他の言明との間で確証関係をもたないかぎり、 自身の同一性を持ちえない。 いかなる言明も他の言明が存在しないかぎり言明としての同一性を もちえない。
>>138 お前、本当にバカだな。
言語学の問題と言語哲学の問題を
ごっちゃにするな
クソボケが
143 :
たべぞう :2009/06/21(日) 14:50:51 0
反復ぷくぷくぷく反復。 今度は『意味の全体論』にそって、 いかなる理論もたったひとつの言明を含むことはありえないことを 証明する簡便な論証を見てみる。 たったひとつの言明からなる理論はたぶん役に立たない。 しかしここではその論点は関係ない。 役にたたないことからたったひとつの言明からなる理論は原理的に ありえないという帰結はでてこない。
144 :
たべぞう :2009/06/21(日) 14:54:14 0
@雨が降っているという言明(R)は、街路がぬれているという言明(S) によって部分的に確証される。(D/Qテーゼ) A確証関係はすでにそれだけで意味論的である。(意味の検証主義) B言明はその意味論的性質によって個別化される。あるいは 言明はその意味論的性質を本質的に持つ。(自明の真理) 中間帰結:言明Rはとりわけ言明Sとの関係によって個別化される。 結論:Rを含むいかなる理論もSを含まなければならない。いなかる理論も Rだけを含むことはできない。 さて『意味の全体論』によれば、この論証の鍵は、「言明」の身分にある。 「言明」とはなにかという点にふれないことがこの論証に妥当性をあたえている。 TDEの確証の全体論は、意味の全体論を含意するという説は、「言明」の意味に ふれないことによって説得力をもっている。 ”事実「ふたつのドグマ」においてクワインは、言明とは何であるかを言わないよう に細心の注意を払っている。”(『意味の全体論』p63) 細心の注意をはらう用心深いクワイン。 だがそこがいい。
あのさー、フォーダー=ルポア読みたいなら、もっと頑張って「2つのドグマ」とか検討して から読んでも遅くないよ。「2つのドグマ」の主張を自力で検証してから、批判本読んでもいい んじゃないか?あとsageろ。
146 :
たべぞう :2009/06/24(水) 21:57:34 0
>>145 違うんだよ。
君は勉強法がわかってないなあ。
批判本こそが重要なんだよ。
自力で検証なんて敷居の高いことをいっているからだめなんだよ。
批判的言説の中に位置付けられることによって、当の言説の意味が
はっきりうかびあがるわけなのよお。
思考も基本は暗記。
思考パターンの暗記。
思考パターンを議論本によって学習する。
自力でものを考えようなんざ10年はええのよお。
>自力でものを考えようなんざ10年はええのよお。 そうだな、たべぞうは10年以上は確実に早いな 納得。
たべぞうが正しい! 自力で検証するのはプラトンまでだ
149 :
考える名無しさん :2009/06/25(木) 10:22:28 0
クワインってホワイトヘッドの思想の真似事なのに ホワイトヘッドの名前を出さない卑怯者 同じ弟子のデイヴィドソンは何度か自分の思想の源流がホワイトヘッドであることを明かしているのに
どうでもいい
>>149 そいつはベルクソンを歪曲しただけだろうに
ベルクソンは偉大
ドゥルーズは偉大
pikarrrは偉大
155 :
考える名無しさん :2009/06/25(木) 13:45:38 0
>>146 「批判的言説の中に位置付けられることによって、当の言説の意味が
はっきりうかびあがる」というのは正しいが、それ以外は完全な誤りだね。
哲学を勉強する場合には、自力で批判しようと試みながらテクストを読む
ということを最初から心がけなければ絶対ダメ。まず、自分で反論・批判を
考えてみる。それから、本を読んでいけば、あなたが思いついた批判が、
すでに他の人によって、より洗練された形で提示されていたことを知る。
それが正しい学習法。批判的な思考法は、「議論本」から学習できる
ようなものではなく、自ら批判的な思考を繰り返すことによってのみ
身に付くものだから。
君は基本的な勉強法が分かっていないことをまず自覚すべき。何かの
間違いで君がもし哲学を教える立場にあるとしたら、すぐに辞職すること。
学生に害毒を垂れ流すのは、人類と学問にたいする危害だからね。w
成熟した社会において、正しい学習法は存在しない
まず手始めに貴様の考えから批判してやる。 「批判的言説の中に位置付けられることによって、当の言説の意味が はっきりうかびあがる」とするなら、 当の言説の意味がはっきりしないうちにぼんやりと「批判」して なんになるのか、って疑問が浮かぶな。 つまり、批判する以前にきちんと理解するのが先だということだ。 というか、漠然とした疑問くらいだったら普通に読んでれば浮かぶだろ。
158 :
考える名無しさん :2009/06/25(木) 14:34:41 0
>>157 そういう考えだから、いつまでたっても受け売り以上のことが何も言えないんだよ。
批判と言うのは、対象になる言説がはっきりしたあとで行うことではないよ。
批判を繰り返すうちに、最初はぼんやりしていた言説の意味が明確になっていく。
それが、理解するということなのだよ。
それもせずに解説本なんか読んでも得られるのは、「きちんと理解する」とは
程遠い「理解したつもり」になって受け売りを偉そうに語る能力だけ。
お前自身がその見事な証明だな。w
逆逆。ふつうにやってると、妄想的批判が多め、あるいはオリジナリティーがありすぎるので、 きちんと理解することを重視しているわけで。 まあ意識的にやらないと「受け売りを偉そうに語る能力」しかない人は本当に可哀想だなw
ヘーゲルでも読めよ。 批判というのは最もよい理論・システムの構築であって、難癖をつけることは批判とは言わない。
クワインの奥さんとかだったら、こんだけ滑稽に描かれて、怒らないほうがおかしいくらいだ まあ、たべぞうも一回謝っとけ。な
162 :
たべぞう :2009/06/27(土) 15:10:12 0
>>155 >哲学を勉強する場合には、自力で批判しようと試みながらテクストを読む
>ということを最初から心がけなければ絶対ダメ。まず、自分で反論・批判を
>考えてみる。
つまらんことに突っかかってくるねえ。
しかし素朴すぎるよ、発想が。
こういう自力信仰の根本には知識なき思考が可能であるという
素朴な思いこみがあるんだよ。
実際にはそんなものはない。
知識のもとに思考が立ちあがるの。
有効な批判を思いつくためにも、知識が必要なのであって、
そういった知識を得ようとすれば、膨大な哲学書を読む必要がでてくる
のよ。
批判本のいいところは、その哲学的言説をささえている隠れた諸前提や
無数の参照項を明示的に提示してくれることによって、
その哲学的言説の背景的知識を効率的に学ぶことができる点にあるわけなのよお。
そしてなにより大事なことは、ある言説に対する批判は、それ自体ひとつの思考パターン
として学習可能だってことなのよお。
そういう批判的言説の思考パターンをたくさん学習し、自在に使いこなせる
ようになっていくことが思考するってことなのよお。
既存の思考パターンの汲み合わせが、新しい思考を生み出すってわけなのよお。
つまり、思考するためにもまずは既存の思考パターンを暗記することからはじめよって
ことなのよお。
自力の思考なんて10年はええのよお。
まずsageろ。 そして「哲学書を読むこと=知識を得ること」という考えをまず疑え。 懐疑無いところに哲学が生まれるわけないだろ。 ただ受け入れるだけの人間が、ドグマ=根拠無き信念を批判している クワインを読んで、なにかを考えるつもりになっているなんて、皮肉だな。
分析哲学は自然科学の婢女だろw
165 :
たべぞう :2009/06/27(土) 17:17:35 0
君は批判する以前に、相手の主張をまともに理解するという ことができてないぞ。 どこから”ただ受け入れるだけの人間が”という話になるわけ。 疑うことは大事です。はい。 でもやみくもに疑おうとしてもうまくいきませんよ。 有効な批判をするためには知識が必要です。 まず知識を蓄えましょう。 という話をたべぞうはしているだけ。 君は批判的思考は本を読むことでは学習できないと主張していて たべぞうは本を読むことで学習可能だと主張している。 あえて論点をさぐるなら、そこが論点であって、 懐疑なき哲学はないとか、ただ受け入れるだけの人間とか、 そういう話は全然関係がない。 まるで相手にレッテル張りをすることが批判することだと暗に いっているようだ。 それではたべぞうをぎゃふんといわすことはできなねえのよお。
166 :
たべぞう :2009/06/28(日) 11:09:45 0
「言明」とはなにかが
>>144 の論証の妥当性を左右する。
『意味の全体論』では「言明」の候補が複数提示される。
おおきくわけて2つの方向がある。
ひとつは、言明とは文であるという説。
これはきわめて素直な読み。
例えば、大庭の『はじめての分析哲学』では完全に「言明」を「文」に読み替えている。
しかしここでの「文」は文字面としての文、つまりもじのつらなりのこと。
文字のつらなりは、その形態によって個別化されるのであって、
その内容によって個別化されるのではない。
「雨が降っている」という文字のつらなり=文が意味をもつかどうかは、
その文がどの言語システムに属しているかに依存する。
つまり、文字のつらなり自体=文は、意味論的性質を本質的にもたない。
すると、
>>144 の論証の前提Bに抵触する。
Bは言明は意味論的性質を本質的にもつと主張し、しかし文は意味論的性質を
本質的にもたない。
矛盾。
ロゴスチェックメイトオオオ!!!
167 :
たべぞう :2009/06/28(日) 11:16:21 0
もうひとつの方向の代表は、命題。 命題は、言語横断的存在。 同一の命題Pが、複数の言語で表現される。 命題は、例えばそれが表現される文字の形態ではなく、 その内容によって個別化される。 よって命題は意味論的性質を本質的に持つ。 Q/Dテーゼは、確証条件の改訂可能性について言及する。 個々の言明が孤立して考えられる限り、確証も反証もうけつけえないのは、 経験的テストにさらされているのは、当の言明だけではなく、その言明の 背後にある無数の補助仮説を含んだ理論全体であり、不都合な実験・観察に 直面したとき、当の言明だけでなく、補助仮説を含んだ理論全体のどこかが 間違っていることがしめされるだけであって、理論内のどこかを訂正するかは 決まらない。そしてどこを改訂するかは自由だというのがQ/Dテーゼであった。 つまり、Q/Dテーゼは、言明が他の言明間に現にもっている確証条件は、偶然的であるという 立場にたつ。 一方意味の検証主義は、言明の意味はその確証条件であると主張する。 さて、言明が命題なら、その内容によって個別化される。 つまり、言明が現にもっている内容が、その言明の同一性を決める。 そして言明の内容が確証条件であるのだから、 言明が現に他の言明間にもっている確証条件が、その言明の同一性を決める。 したがって、確証条件が改訂されれば、その言明の同一性が維持されなくなる。 つまり、言明はその確証条件を本質的に持つことになる。 言明が命題であるなら、Q/Dテーゼは、確証関係は偶然的であると主張し、 意味の検証主義は、確証関係は本質的であると主張する。 矛盾。 ロゴスチェックメイトオオオオ!!!!!!!
168 :
考える名無しさん :2009/06/28(日) 11:25:02 0
合意や受容を無視して、論理学の教義を並べればいいと思っているから 分析哲学は困る。
169 :
考える名無しさん :2009/06/28(日) 11:29:58 0
「理想的な論理とは、日常生活と無関係である、というのは、何とも奇妙なことだ もし論理学の深遠な問題などについてもっともらしい理屈がこねられるようになるだけ しか哲学が君の役に立たないなら、 また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、 哲学なんて無意味じゃないのか?」 Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『ウィトゲンシュタイン−天才哲学者の思い出』
170 :
たべぞう :2009/06/28(日) 11:32:31 0
”言明に関してQ/Dテーゼとパースのテーゼ(注:意味の検証主義のこと) が主張することは、相互に矛盾しているかのように見える。意味論的 全体論に関する問いをひとまず置くとしても、「ふたつのドグマ」 には何か深い欠陥があるに違いない、とわれわれは結論する。というのも それはそのふたつの原理の両方にあからあさまにコミットしているから である。”(『意味の全体論』p73) TDEがD/Qテーゼにあからさまにコミットしているのは明白である。 しかし意味の検証主義に対してどういう立場であるのかは、 はっきりしていない。 TDE自体は、意味の検証主義がもつ還元主義を批判しているだけであり、 意味の検証主義そのものに対してはなにも語っていない。
171 :
たべぞう :2009/06/28(日) 11:42:35 0
確証の全体論と意味の全体論との関係はこれくらいにしてふたたび TDEの議論にもどる。 D/QテーゼとA/S区別の否定からクワインはなにを導きさすのかを 見ていく。 いよいよTDEのクライマックス。
いい加減に生活世界に目を向けては如何だろうか・・・
173 :
考える名無しさん :2009/06/28(日) 11:58:35 0
哲学は不可謬性(あるいは理論的な永遠の真理)であってはならない。 「哲学が再生するためには、普通の人々が抱える問題を解決するための方法とならなければならない。」 自分の時代に生じている問題の解決することに対して貢献することができたとしたら、それは決して小さな成果ではない。 また、その際に哲学者が考えたことが将来において修正されれることは避けられないであろうし、場合によっては放棄されることさえ当然のこととして覚悟しなければならない。 哲学者として我々に課せられているのは、「不朽の名声」を得ることではないのである。 R.M.Hare
174 :
考える名無しさん :2009/07/07(火) 17:06:17 0
age
175 :
たべぞう :2009/08/30(日) 16:40:12 0
長いことアク禁をくらっていた間、クワインに対する興味も減ってしまった。 このスレもどうしようかと思うが、とりあえず上げとく。
少し前にクワインを文庫で読んだけど、「確証の全体論」はいいとしても 「意味の全体論」はクワインの積極的主張じゃないと思う。 そもそも「意味」って概念自体理論的には役立たずだって言ってる感じだったよ。 ウィトゲンシュタインも「意味の観念は時代遅れだ」って言ってるけど。 ウィトゲンシュタインが「意味=用法説」とか言われちゃうのと同じで 意味の全体論も外野が自分の枠組みで勝手に言ってるだけじゃないの。
丹治『クワイン』読んだ人います? 翻訳の不確定性の説明事例の、デモクリトス原子論と現代物理学原子論の間の翻訳 (アトモン=原子か、アトモン=クオークか)というのは、さすがに苦しすぎだと思う。 難しい話を何とか分かりやすくという親切にケチつけるのはいけないと思うけど。 現代物理学側で本質的な「原子とクオークの理論的関連性」に対応するものが デモクリトス側にないわけだから、所詮その程度の大雑把な翻訳しかあり得ないだろ。 「不確定」というより「どっちでもいい」。 まあ丹治さんが苦労するのはクワインが悪いと思うが。
178 :
考える名無しさん :2009/10/25(日) 17:07:54 0
「どっちでもいい」から「不確定」なんじゃない?
179 :
考える名無しさん :2009/10/25(日) 18:27:17 0
>165,124-129,281-286,125-130,57-62,284-289,236-241,149-154,276-281,343-348,13-18,218-223,264-269,80-85,192-197,3-8,384-389,348-353,321-326,329-334,238-243,158-163,349-354,168-173,70-75,202-207,117-122,185-190,40-45,93-98 >295,82-87,249-254,385-390,139-144,208-213,226-231,266-271,373-378,139-144,362-367,83-88,394-399,226-231,88-93,255-260,185-190,176-181,312-317,370-375,180-185,372-377,270-275,86-91,215-220,224-229,304-309,145-150,252-257,54-59 >175,106-111,366-371,188-193,325-330,120-125,156-161,40-45,207-212,111-116,199-204,230-235,82-87,114-119,300-305,267-272,94-99,75-80,177-182,366-371,0-5,284-289,21-26,127-132,329-334,361-366,1-6,93-98,84-89,147-152 >173,270-275,263-268,150-155,17-22,249-254,367-372,60-65,221-226,108-113,339-344,294-299,190-195,337-342,49-54,200-205,3-8,3-8,239-244,161-166,380-385,130-135,157-162,296-301,167-172,186-191,299-304,238-243,271-276,362-367 >144,213-218,252-257,37-42,285-290,307-312,347-352,134-139,109-114,83-88,116-121,332-337,165-170,62-67,156-161,96-101,238-243,352-357,271-276,17-22,55-60,185-190,204-209,234-239,146-151,148-153,240-245,175-180,126-131,241-246 >134,180-185,9-14,83-88,93-98,274-279,232-237,94-99,207-212,195-200,395-400,183-188,4-9,36-41,67-72,393-398,390-395,367-372,156-161,395-400,182-187,353-358,51-56,292-297,196-201,236-241,389-394,152-157,141-146,202-207 >103,275-280,60-65,182-187,395-400,308-313,151-156,384-389,338-343,23-28,109-114,370-375,54-59,300-305,307-312,179-184,198-203,236-241,383-388,247-252,306-311,362-367,261-266,147-152,241-246,108-113,222-227,291-296,39-44,319-324 >97,48-53,342-347,10-15,214-219,73-78,143-148,209-214,13-18,142-147,343-348,346-351,38-43,367-372,318-323,276-281,189-194,218-223,278-283,4-9,267-272,204-209,156-161,104-109,187-192,42-47,95-100,59-64,159-164,162-167 >93,160-165,47-52,276-281,3-8,120-125,271-276,378-383,332-337,229-234,7-12,393-398,103-108,24-29,394-399,362-367,40-45,56-61,19-24,197-202,220-225,40-45,158-163,326-331
180 :
考える名無しさん :2009/10/26(月) 19:22:40 0
>>177 まだ最初の3ページしか読んでいない。
半年後にレスするわ。
182 :
考える名無しさん :2009/11/18(水) 16:48:35 0
本スレあげ
183 :
考える名無しさん :2009/11/18(水) 17:14:10 0
いやこっち
184 :
たべぞう :2009/11/23(月) 01:07:22 0
>少し前にクワインを文庫で読んだけど、「確証の全体論」はいいとしても >「意味の全体論」はクワインの積極的主張じゃないと思う。 >そもそも「意味」って概念自体理論的には役立たずだって言ってる感じだったよ。 そうだろうね。 というかむしろ、”「意味」って概念自体理論的には役立たずだ” という認識と意味は全体論的であるという認識がクワインの中では両立 しているというべきかもしれない。 意味の検証主義のなんらかのタイプの立場に立つ人にとっては、 確証の全体論と意味の全体論とを区別する必要がないと考えるのは自然 でしょう。 意味の検証主義において意味と確証がみっせつに結びついているのだから。 確証の全体論は、個別の言明の真偽をテストする経験的証拠は存在いない、と 主張する。証拠によってテストをうけるのは言明の全体であると。 そして、意味の検証主義は、個々の言明の意味についてかたるためには、 なにがそれらの個別の言明の真偽の証拠となるのかいついて語れなければ ならないと主張する。 そのふたつの主張をたせば、個別の言明の真偽を決める証拠は存在しない。 よって、厳密にいえば、個々の言明が何を意味するのかについて語ることはできない という主張が誕生する。それが意味の全体論の結論なのだろう。
185 :
考える名無しさん :2010/01/11(月) 22:12:22 0
記号の多義性なんてソシュールがクワインよりずっと前にすでに指摘していること
記号の多義性なんて凡庸な話をクワインはしてない
187 :
考える名無しさん :2010/01/11(月) 23:41:39 0
いや 結局同じことだよ 指示の不可測性も翻訳の不確定性も
188 :
考える名無しさん :2010/01/11(月) 23:44:10 0
分析哲学の俺様ぶりは有名
>>187 微妙に違うだろ
クワインのいいたいのはそもそも意味なんてものは存在論的にあやしいぞって話だろ
190 :
考える名無しさん :2010/01/11(月) 23:50:11 0
クワインは意味を行動主義的に定義しようとしただけの話で 意味を存在論的に否定したわけじゃないよ
191 :
考える名無しさん :2010/01/12(火) 00:10:51 0
>>187 馬鹿は背伸びしてクワイン読まなくいいよ
ソシュール(笑)あたり読んで満足してろw
192 :
考える名無しさん :2010/01/12(火) 00:26:35 0
自分が馬鹿じゃないというなら ソシュールとクワインの主張のどこが違うか説明しないとだめだよねw
193 :
考える名無しさん :2010/01/12(火) 02:11:23 0
で、ソシュールとクワインの主張の違いは?
クワインの文庫本てあるの?
あ、『哲学事典』か。うーん……。
197 :
考える名無しさん :2010/01/12(火) 07:38:48 0
原書で読めるだろ 簡潔で明晰な文章
原書なんかでよんでられるか めんどくさ
で、ソシュールとクワインの主張の違いは?
クワインには全体なるものがあるが,ソシュールには差異しかない。
201 :
考える名無しさん :2010/01/16(土) 08:39:11 0
そうかな クワインは理論体系の全体 ソシュールは記号体系の全体 という違いで両者とも全体性を意識していると思うが
>>199 読む価値あるかどうかの違いにきまってんだろ
アホか
203 :
考える名無しさん :2010/01/17(日) 09:23:21 0
どっちが
踊る方がアホだろ?
うわ つまんねw
踊る方がアホだろ?
207 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 11:04:26 0
くわっ!
208 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 11:14:06 0
淫ッ!
// / .人 / (__) パカ / ∩(____) あ、クワたんインしたお! / .|( ・∀・)_ // | ヽ/ " ̄ ̄ ̄"∪
211 :
考える名無しさん :2010/02/13(土) 21:34:41 0
マルチポスト乙
212 :
考える名無しさん :2010/02/16(火) 16:55:43 0
オーマン国際女子大学
ロジック論(1)の境界線 La logique a ete definie, pour la derniere fois peut-etre, par Dewey,la théorie de la recherche. ロジックは、最後の時間おそらく、研究、デューイの理論によって定義されています。 Ainsi comprise, la logique couvre une foule de péchés intellectuels. このように理解し、論理の罪の知識人の多数をカバー。 Qu'est-ce qui, appartenant a la théorie de la connaissance, n'appartiendrait pas a la logique entendue comme theorie de la recherche? どのような知識の理論に属する論理理論の研究と理解に属していないのですか? Et pour le métaphysicien de tendance idealiste,qu'est-ce qui, dans la métaphysique, n'appartient pas a la théorie de la connaissance? そして、何を、形而上学、知識の理論ではない形而上学的理想主義者の傾向のため? C'est ainsi que nous rencontrons un traite de métaphysique dans la Logique de Hegel ; et aussi dans les Recherches logiques de Husserl. したがって我々ヘーゲルのロジックで形而上学と、また、フッサールの論理的な調査にはかなり見つける。 L'extension accordée par Hegel et Husserl au terme de ≪ logique≫ etait excessive ; nous pouvons en toute confiance en exclure la metaphysique. 拡張子はヘーゲルやフッサールの"論理"という用語を与え、我々自信を持って形而上学を排除することができます過剰だった。 Mais la confusion ou la fusion de la logique avec la théorie de la connaissance est plus courante. しかし、混乱や知識の論理的理論の合併で最も一般的です。 (1) Ce texte reproduit l'une des quatre conferences consacrees aux ≪ Frontières de la Philosophic ≫ sous les auspices de l'Universite de Yale. (1)このテキストは、哲学の最前線"に"エール大学の後援の下に4つの会議を再現します。 Elle fut prononcée le 13 novembre 1962.これは1962年11月13日可決された。
214 :
考える名無しさん :
2010/03/27(土) 12:19:10 0 オーマン最高