1 :
考える名無しさん:
2 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 21:42:57 0
何にも矛盾してないよね
だって要するに「追い越すな」っていうルールの話だもん
3 :
ブーメラン殺法:2009/04/29(水) 22:11:41 0
考察は一貫するものだと、一貫性は順調で考えたらそうなるものに辿りつくのだと
だが、パラドックスは一貫した考察を妨げる論法だと
あるべきものに辿りつく考察であるのに、考えを放棄させるのだと
な?パラドックスなんて考えちゃ駄目だろ?
4 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 23:01:18 O
√2が無限に続くってのもおかしな話だよな
5 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 23:29:48 0
100メートルのロープを三等分したときの長さを求めよ
7 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:34:34 0
33.3333333・・・
で割り切れない?
8 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:39:04 0
100/3メートルでOKじゃね
何だって無限計算をしなければならないのかね
1.4ぐらいと1.4ぐらいの分割のものがあると考えるべきだ
話をずらして小数点に行けなんて言ってないんじゃないの
これが許されるなら、割り算にルールを上乗せしてよいってことにならないかね
10 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:43:46 0
割り算は全体に占める割合を示すことだろ
割り算ということを考えてねえじゃん
中身と割り算が摩り替わってますよ
何故なら、無限割り算という特殊な割り算をしているからだ。
だから、それは普通の割り算じゃございません。
12 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:48:29 0
ゼノンのパラドックスって、論理的にはパラドックスではなく、
運動・変化の存在の否定の論証なんだよね。
「運動・変化が存在すると仮定すると・・・矛盾が生じる」って。
13 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:51:07 0
>>12 「運動・変化が存在すると仮定すると・・・矛盾が生じる」って、
どこに矛盾が生じてるの?
美人は整えるが好きな性格の人だ、身奇麗にするし、部屋も整理整頓している
美人はどこまで整理したら気が済むのでしょう、ずっと整理し続けているだけの人生だ
だから、美人は良い物じゃないよ
って言っているのと似たような話だ
ワシは美人でけっこう、それなりに整えてあるでけっこう
15 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 23:15:40 0
>>13 飛ぶ矢は飛ばないとか、アキレスはカメに追いつけないとかで、
運動に関する常識的な見方から矛盾が生じることを証明した、
とゼノンは考えたようだ。
16 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 23:42:45 0
>>15 ゼノンが矛盾が生じると考えたというだけで、
本当は矛盾でもなんでもないということですか?
17 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 23:51:23 0
18 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 23:54:33 0
>>15 じゃあゼノンが考えたことは意味がないってこと?
ジジェクが『斜めから見る』でアキレスと亀の話をラカン的に解釈しちゃったりしてた
とりあえず、アキレスと亀の問題だけ見て解決とかいういつもの流れは勘弁。
>>1 前提が間違ってるから、計算が上手くいかない。
論破完了。
正しく記述せよ
>>22 不確定性原理により、この世には厳密に一箇所に留まっている存在などない。
一箇所留まることができない現実に対し、動く事ができない無限分の一の時間単位を
当てはめることは無理である。
前提が無理なので、論証・結論が無理となる。
以上。
よくわからないけど、分子のレベルでは特に不連続ではないのでは?
0点振動はあるにしても。
>>23 一ヵ所にとどまっていないのではなくて、
位置と運動量が確率としてしか定まらないということじゃないの。
>>24>>25 はい。
だからつまりゼノンのパラドックスは現実には前提が成立しない、で終了。
もっと細かく説明しないとだめ?
というかよく考えると
>>23は「飛んでいる矢は止まっている」についての言及だったな。
・二分法、アキレスと亀について。
最も短い長さ(プランク長さ)以下では、状態が確定しない。
これは現在の人類には観測できないがもっと文明が進めば観測できるようになる
というような問題ではなく、現実に、状態が確定していない。
点あるいは線として状態が確定していないものを分割することは不可能である。
よってプランク長さで二分法は終わりを告げ、アキレスは亀に追いつく。
・飛んでいる矢は止まっているについて
最も短い時間(プランク時間)において、静止する事は不可能である。
よって動くだけの時間がない、という仮定は却下。
・競技場
分割できる最小の長さ(プランク長さ)を最小の時間(プランク時間)で駆け抜ける
ことができるのは、質量がゼロの存在(例えば光)だけである。
勘のいい人はもうお分かりであろう。
光速度不変の法則により、競技場のパラドクスは厳密に否定される。
(ちなみに「一瞬のうちに一単位移動しようとすれば、二単位移動」するという仮定は、
異なる慣性系を混同させているために生じた混乱)
>>26 それは、物体はブランク長以下の移動はできない、といってるのかな。ゼノンと同じだ。
ぶ>ぷ
補足。世界がプランク長のメッシュ上に存在し、
その線の交点の上しか物は存在できないというなら納得できますが。
物体はブランク長以下の移動はできない、ゆえに物体は移動しない。
>>27>>31 ?
万物は移動可能である。
移動の最小単位はプランク長さである。
そもそもプランクの設定の仕方の段階についてのお話で、
独自に設定した後の成り行きについては問題としていないのである。
んで最小単位って何なの?
それ以上分割しちゃダメと決めた大きさ?
>>35 どうあがいても不確定になる大きさ。
その大きさでは、亀もアキレスも、前に走っているのか後ろに走っているのか、
はたまた右か左か上か下か、が、断言できなくなる。
不確定と決めたら全て不確定だわな
>>37 じゃあ波動関数が収束できなくなる領域と言い換えよう
39 :
考える名無しさん:2009/06/22(月) 23:33:09 0
ゼノンのパラドックスを理解するのには
まずゼノンが生きていた時代背景を理解しないといけない。
確か、エレア派の基本的な考えである
「すべては一である」というものを論証したものだったはず。
その「すべては一である」(たぶん一元論のこと)という考えを否定する人が多く、
その者達が、「もし一であるとするならば」たくさんの笑うべき、
しかも自分自身を反駁するようなことが起らざるを得ないとして、
この主張をはじめにしたパルメニデスを笑いものにしようとしていたそうだ。
そこでパルメニデス説を擁護しようと考えたものが、ゼノンのパラドックスなのだそうだ。
つまり、ゼノンが一番言いたいことは、「多ではなく、一である」ということなんだ。
要するに、それぞれのパラドックスは(wikipediaは説明不足のような気がするが)、
『「もしも運動が存在するならば」「もし運動が行われているとするならば」「もし運動が行われたとすれば」
という仮定によって論議を進めるとおかしなことが起こる、よって仮定が間違っているのである。』
という論議の進め方で運動について否定し、同時に「多ではなく、一である」ことを証明したのである。
まだ、自分も今参考資料を見ながら勉強中で、一元論多元論についてはまだよくわからないので説明できない。
できれば自分でも調べてくれ。ただ、四つのパラドックスについてはある程度説明できそうなので、後ほど書き込みたいと思う。
40 :
考える名無しさん:2009/06/22(月) 23:57:30 0
人生、棒に振らないでね。
41 :
39:2009/06/23(火) 00:13:57 0
ご心配痛み入るwww
43 :
39:2009/06/23(火) 19:47:12 0
実は、このゼノンの四つのパラドックスはゼノン本人が直接書いたものは何一つ残っていないのである。
それらは、アリストテレス『自然学』第六巻第九章に間接的報告があるだけなのだ。
アリストテレスはゼノンに対して敵愾心を持ち、その報告は公平無私な評価は期待できない。
しかも、アリストテレスはこの四つのパラドックスを誤解しているところがある。論点がずれているのだ。
これが後世に続いて、現在誤解された理解の仕方をされるようになったのだそうだ。
44 :
39:2009/06/23(火) 20:58:43 0
そこでアリストテレスの報告をある程度意訳されているが見てみよう。
第一逆理「二分割」
「第一は、動くものは終点に達する前にその半分の地点に達しなければならないので
動かないとするものである」
注意すべきは「動くものは・・・動かない」というところで、これはあからさまな矛盾である。
第一逆理「二分割」は「終点に達する前に」「半分の地点に達する」運動が完了していると想定されている。
さらに、終点に達する運動そのものが仮定的な仕方で完了されたものと見られている。
シムプリキオスという人はこう話している。
「もしも運動が存在するならば、有限時間内に無限なものどもを通過し終えている何者かが存在するであろう。……有限距離を運動し終えたものは、
それが有限距離を運動し終えるのに要した有限時間内に、無限数ある半分を通過し終えたことになるだろう」
この現在完了並びに未来完了表現は基本的に良い表現で、「もしも運動が存在するならば」ということで、シムプリキオスは、完了された運動を想定している。
45 :
39:2009/06/23(火) 21:57:14 0
第二逆理「アキレス」
「第二は、いわゆるアキレスである。これは、走ることの最も遅いものですらもっとも早いものによって追いつかれないであろう、
なぜなら追いかけるものは、まず最初に、逃げるものが出発したその地点に到達しなければならず、したがって必然的に、逃げる者が、
たとえ最も遅いものであっても、常に何ほどかは先んじていなければならない、というものである」
アリストテレスによれば「二分割の論と同じ趣向」のものである。単に、ドラマチックな表現が与えられているだけで、言いたいことは同じなのだ。
わくわく
47 :
39:2009/06/24(水) 17:29:17 0
第三逆理「矢」
これについてはwikipediaの記述には誤りがあるので注意してこの原文を見てほしい
「すべてのものは常に静止しているか動いているかであり、自身に等しいものに即してある時には、
何物も動くことはない。しかるに動くものは常に、いま、等しいものに即してあるとするならば、動く矢は不動である。
これは虚偽であろう。なぜなら他のどんな大きさも不可分なものからなってはいないように、
時間は不可分の今からなるのではないからである」
「第三は、いましがた述べられた、動く矢は静止しているというものである。これは時間が今からなるとすることから帰結するもので、
これが認められないなら、この推論は成り立たないであろう」
ゼノンの運動否定論のうちでもアリストテレスがとりわけ眼中に置いたものがこの逆理であった。
上記からわかるように、アリストテレスはこの逆理が逆理として成り立つ所以を、「不可分の今」または「今」に見ているのである。
ことの核心は当然「動く矢は静止している」という言説にある。これも第一の逆理に劣らぬあからさまな矛盾言説である。
この言説を考えるに際して、無視できないのは、ゼノンの真正の断片に、
動くものは、それが「ある」場所においても、「あらぬ」場所においても、動かない。
というものがあることである。そしてこれとは別個に、エピファニオスの伝える、
動くものは、それがある場所において動くか、あらぬ場所において動くかである。しかるにそれは、それがある場所においても、
あらぬ場所におても、動かない。したがって、それは決して動かない。
というヴァリエーションがあることも注目しておいてよいことである。
48 :
39:2009/06/24(水) 17:33:49 0
47続き
第三逆理が逆理として成り立つ核心部分は、動くものは常に、今、等しいものに即してある」という言説にある。
とくに、等しいものに即してあるという表現が注目されるが、そのことはのちほど検討する。
49 :
39:2009/06/25(木) 01:05:22 0
第四逆理「競技場」
これはアリストテレスでさえ完全に勘違いしている話なので後ほどの解説でくわいしく話したいと思う。
ただ一応報告の原文を乗せておく
「第四は、競技場において、等しい物体列の傍らを、たがいに反対方向に等速で運動するニ列をなす物体
――それらのうち一方は競技場の終点から真ん中に向かって、他方は真中から出発点に向かって位置を占めている――
に関するものであるが、ゼノンはこの議論で、半分の時間がその二倍に等しくなるものと考えている」
このあと、アリストテレスは運動の相対性について話したが、ゼノンが本当にそんな間違いをしたはずはないのである。
なぜならこの時代の一般人でさえ、走っているものを止まってみるときと、走ってみるときでは観測者にとっての速度が
違うことは常識として知っていたのだ。だからゼノンが言いたかったことがそんな事でないことは明白である。
これで終わり?
51 :
39:2009/06/27(土) 00:04:37 0
ごめん、遅くなったね。今忙しいのでちょっとずつしか書けないが、気長に待ってほしい。
さて、ここまで原文を見てきたけど、これだけじゃ何が何だかチンプンカンプンだよね。
そこで、次に最初にいった、ゼノンがこの逆理を立てた目的を話していこう。
確認するが、目的はあくまで「多」の論駁なのだ。このゼノンの逆理は、その「多」の論駁
の一部にすぎない。つまり
(1)ゼノンの書物は「多」の論駁を主目的とするもので、
(2)運動・静止に関する議論は、その中に、一種の系のようなものとして含まれていて、
(3)その議論の種子は、論敵の「多」の存在の過程を否定するものであった。
では次に多元論者の主張を見てみよう。
52 :
39:2009/06/27(土) 18:47:53 0
「多元論者の基本的主張」
1.有るものはそのいたるところが一様である。
2.有るものは分割可能である。
(1)有るものの全体は一方で一なるものとしてあるが、他方でそれ以上は分割不可能な諸存在、
すなわち最小にして無限数の究極的な諸要素へと分割可能である。すなわち、それは多でもある。
(2)それらの諸要素自体は不可分体であるが、一つの要素と別の要素との間には分割可能性が成立する。
すなわち、ある不可分要素「α」と別の不可分要素「β」を分割することができる。換言すれば、
「α」と「β」を明確に識別することが可能である。すなわち、「α」であるものは「β」であらぬし、
「β」であるものは「α」であらぬ。
(3)それらの不可分要素の各々は一であって、しかも部分を持たない。
(4)有るもの全体は、その究極的諸要素間において一様に分割可能である。
何いってるかわからないかな?これは、数学の「点」と「線」に当てはめてもらえるとわかりやすいと思う。
有るものを「線」不可分体を「点」と置き換えて考えてくれ。そうするとこう読み取れる。
『「線」っていうのは任意の場所で分割できて、またその分割したものもまた分割できる。
そしてその分割をずーっと続けると、「点」っていうそれ以上分けられない、また部分を持たない、
物まで分けられる。そのある点「α」と「β」は絶対に同じ場所にはない』
っと簡単にまとめるとこんな感じかなあ
53 :
39:2009/06/28(日) 00:46:18 0
で、それに対するゼノンの論証がこれ(ただし多元論者の基本的主張が前提条件とする)
(1) 有るものはいたるところ一様に分割可能であるとする。(仮定)
(2)そこで、有るものの全面分割が完了したと想定する。
(3)すると、有るものの一切が、ことごとく雲散霧消し、何物も残らぬことは明らかである。
(4)全面分割完了の結果、なにものか(=有るもの)が残ることはあり得ない。
(5)なぜならば、仮定により
@ なにか有るものは分割可能であり、しかもいたるところ一様に分割可能である(2.より)
が、
A 分割の結果、もしも何か有るものがなおかつ残っているとするならば、それはすなわち、
全面分割(仮定)が完結してはおらぬ、ことを意味するからである。すなわち、
何か有るものが残るという帰結は、有るものの全面分割過程が完了したという仮定に反する。
(6)ゆえに、分割結果はあるもの全体の雲散霧消であり、もしそれがなおかつ部分からなるとしても、
それは無という部分からなることになるであろう。
(7)しかるに、「あるもの」が「あらぬ」とは、まったくの背理である。
(8)この背理は、「有るものが分割可能である」という仮定から導かれた。ゆえに、
その過程は却下されねばならぬ。
(9)したがって、「有るものは不可分割的である」という命題が真として定立される。
この論証で示されたのは、「有るものは不可分的である」ということだ。
(内容わかった?わからなかったらいってくれれば補足を入れるよ)
しかしこれだけじゃまだ説明が足りないと思ったのだろう、というか納得しなかった者がいたのだろう。
だからこの論証の補足としていくつか別の視点からの論証があったのだ。
その中の一部がゼノンのパラドックスと呼ばれるものなのだ。つぎからは、ゼノンのパラドックスも含めて
補足の論証を上げていこうと思う。
54 :
39:2009/06/28(日) 01:16:25 0
さっきいってくれれば補足するって言ったけど、やっぱり補足するわ。
53の論証でゼノンの言いたかったことをまた「点」と「線」で簡単にまとめてみると、
『君らは(長さという量を持つ)「線」を分割していくと(あらゆる量を持たない)「点」
になるというが、それはおかしくないか?だって量をもつものが、量を持たないものに
なるわけがないだろう?』
みたいな感じかな。まあ、詳しくはこの後付け加えられる補足論証を見ればわかると思う。
55 :
39:2009/06/28(日) 01:31:12 0
ていうか、wikipediaをよく見てみると
概要のところにちゃんとゼノンの意図するところのってるのかwww
すまん、見てなかった。見てない人は全部よく見ることをお勧めする。
最近の楽しみはこのスレを覗くことでして
57 :
39:2009/06/29(月) 17:29:34 0
楽しんでくれている人がいるようでうれしいです。
先ず補足論証として、ゼノンの「有るものには大きさがある」証明を見てみよう。
・「有るものに大きさがある」の証明
仮に有るものに大きさがないとすると、たとえそれが何か他の物に付け加えられたと
しても、そのものをいっそう大きくしないだろう。なぜなら、どんな大きさをも持た
ないものは、他のものに付け加えられたとしても、そのものの大きさを増大させえな
いからである。よって、その付け加えられたものというのは、無である。有るものが
無であると矛盾が生じたので、仮定である有るものに大きさがないことは否定される。
よって、有るものには大きさがある。
この証明が「点」の否定であることはわかるだろうか?ゼノンは大きさのないものは、
「有る」とは認めないと言っているのだ。これは私的見解だが、注意すべきはおそら
く、『「有る」とは認めていない』ということだろう。つまり、「点」を、量を持つ
「線」と同種として扱ってはならない、ということではないだろうか。
58 :
39:2009/07/01(水) 19:02:40 0
なんだかもうまどろっこしいので、とっとと4つのパラドックスがどういう意味を持つのか記述しよう。
第一逆理「ニ分割」
何度も言うようだが、ここで確認すべきは、時間、空間が無限分割可能な連続体であるという仮定は
、すべてゼノンの論敵の主張から引き出されたものということである。つまり、ゼノンはこの過程は
間違っていると思っているので、我々が論議すべきは、その仮定の下に議論を進めるゼノンのやり方
に、論理的誤りがあるかどうかという点なのだ。
第一第二逆理について
これは両方共ニ分割の話なのでまとめて説明してみる。
【仮定】:時間、空間が無限分割可能な連続体である。
ニ分割で設定された状況を思い出してみよう。ゼノンは「走者が始点から終点に行くまでにまずは全体
の半分の地点に行かなければならず、またそこから終点の半分の地点に、また・・・」のような表現を
していたね。これはゼノンが「終わりのない仕事を終わらせること」ということを一番表したかったか
らである。つまり、元々の設定がたどり着かないような設定だ(自分も最初そう思っていた)という主張
は論点がずれているのだ。「【仮定】を認めれば運動をこうとらえることもできるし、そのことに問題
はないだろう?」とゼノンは思っていたはずだ。
ではゼノンの言いたいことを表現を変えて説明しよう。
【仮定】を認めれば、始点から終点までは無限の部分からなる(無限の部分に分割できる)だろう。しかし、
無限の部分を走り終えることはできない、なぜなら無限とは言葉通り「数え切ることができない」という
意味だから、まさしくそれは、「走りきることができない」ということになるだろう。これは始点と終点
をどのように取るかに依存しないので、この場合走者はどこへも移動できないということになってしまう。
寄って運動は存在しないことになる。これは明らかにおかしい。よってこの「論議に誤った部分がなけれ
ば」仮定が間違っていることになる。
1.2分割
およそ有限のものについて
分割されたものが分割されるものの量を超えることはない。
無限については、これを分割するのは無意味である。
2.アキレスとカメ
1と同じ。
アキレスの速度のほうが大なので、距離によってはアキレスが勝つだろう。
3.矢
観測者も停止しており全世界が停止している状態であると思われる。
4.馬車
2単位というのは、A馬車の1単位とB馬車の1単位を足した結果であって
どちらかの馬車がいっときに2単位飛んでもう片方が停止しているのではない。
数え違いをしているのである。こういう噺落語にもあったな。
非常にわかりやすいですこれ
61 :
考える名無しさん:2009/10/09(金) 12:33:05 0
ドーピング暦三十五年のアキレス腱四郎VS
ピーピング暦三百五年の出刃の亀吉の激烈な戦いは、
次のステージ逝っちゃったからなぁ
けっきょく世界が多であると仮定するとこのような矛盾を呈しますよ、ということだろう?
ピタゴラス的世界観に対する反駁がゼノンの4つの逆説。
たしかに出発点自体が成立しないんだよね。
これはあるところで十年以上前から論じている人がいる。
64 :
考える名無しさん:2009/12/08(火) 10:28:34 0
おそらくこの現実は夢の中の出来事なんだろう。
だから不可能なことも可能となる。ゼノンの定理はこのことを証明していると考えるのが正しい。
その夢のようにあやふやな現実を鵜呑みにして「現実に矢は飛ぶ。だからゼノンの定理は間違ってる」と主張するのは愚かなことだ。
65 :
考える名無しさん:2009/12/08(火) 10:44:00 0
第一第二は、プランク長なんて持ち出さなくても
時間を無限に加算するにしても、収束して極限値があるってだけの話じゃん
無限をうまく扱えなかった当時の数学の限界というだけの話であって
それ以上でもそれ以下でもない
66 :
考える名無しさん:2009/12/08(火) 22:51:57 0
ワイエルシュトラスのイプシロンデルタ論法は、あくまでも有限の範囲での論法です。
極限値に限りなく近づくとは言えますが、極限値に一致する事は保証しません。
例えば1/xは、xを限りなく増加させると、0に限りなく近づきますが0にはなりません。
ワイエルシュトラス流の極限では、最小の長さがないとアキレスは追いつけないのです。
67 :
考える名無しさん:2009/12/09(水) 02:53:19 0
到達に必要な時間の総和が発散しないで収束するんだから、最小の長さとか関係ないよ
なんという良スレ
69 :
考える名無しさん:2009/12/09(水) 22:34:16 0
この話のポイントは、ゼノンはユークリッド空間の不完全さを指摘しているのであって、アキレスが亀に追いつけない事を主張しているのではないという点です。
ゼノンは、現実にはアキレスが追いつく事は百も承知です。
つまり、アキレスが亀に追いつく事を前提にした反論では、このパラドックスを正面突破した事にはならないのです。
確かにゼノンは、アキレスが亀に追いつくまでの時間において、追いつくまでの両者の差を問題にしています。
それは承知の上で、あくまでもゼノンの論法の正面突破を目指します。
アキレスの速度が亀のx倍とすると、アキレスが亀のいた地点にn回到達した時点での両者の差は、1/x^nとなります。
この値は0に収束しますが0にはなりませんので、無理に0にする方法は実無限を用いるしか有りません。
そこでワイエルシュトラスを無視して、無限回追いついた時点でnに無限大を代入して、両者の差が0に成ると主張するとします。
その時点でアキレスが亀のいた地点に到達した回数を数えていたとすると、アキレスは自然数を数え終えた事になってしまいますが、そんな事は可能なのでしょうか。
自然数には必ず次の数があるので、数え終える事は出来無いはずです。
また、無限回の1回前は無限回ですし、その1回前も無限回で、これは何回前でも無限回となってしまい、無限回から有限回には戻れません。
逆に、有限回の1回後は有限回ですし、その1回後も有限回で、これは何回後でも有限回となってしまい、有限回から無限回には到達出来ません。
このように考えると、実無限には到達出来ないという結論になり、両者の差を0には出来無い事になります。
そうすると最小の長さを用いるしかないのです。
70 :
考える名無しさん:2009/12/09(水) 23:10:22 0
「ユークリッド空間の不完全さ」という、一見したところ科学的な言明を目指しているようなので突っ込んでおくけど
それは極限(値)を過程と混同しているだけ
あるいはもう少し好意的に言って、可算集合と非可算集合の違いを語っているだけで
「ユークリッド空間の不完全さ」とは何の関係もないよ
71 :
クニ:2009/12/09(水) 23:13:36 0
あ
72 :
考える名無しさん:2009/12/13(日) 23:57:05 0
極限値というのはワイエルシュトラスの定義が普通の数学では使われています。
この定義は哲学的にはアリストテレスに基づいているので、無限を使わずに極限を定義出来ます。
例えばεを任意の正の数としますと、いくらでも小さいεを考える事は可能です。
ところが、どんな小さなεに対しても、十分に大きなmを選択すれば、1/(x^m)< ε とする事が出来ます。
だから、nを限りなく増加させた場合、1/(x^n)は限りなく0に近づき、極限値0に収束します。
ここまでで反論はありますか。
線グラフでお願い
74 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 23:30:24 0
それではこれはどうです。
無限大は任意の自然数より大きいので、、∞>n(nは任意の自然数)でなくてはいけません。
ところが自然数には、必ず自分より1大きい自然数があります。
それが自然数の定義です。
もしも、∞より1大きい自然数があるとしたら、∞はどんな自然数よりも大きいという仮定に矛盾します。
すなわち∞は自然数ではありません。
また、任意の有限な自然数に1を加えると、1だけ大きい有限な自然数が生じます。
つまり自然数に1を加えていく操作を、いくら繰り返しても無限大には到達出来ません。
75 :
考える名無しさん:2009/12/19(土) 23:12:37 0
無限大の自然数は、あらゆる自然数より大きくなくてはいけません。
あらゆる自然数より大きい自然数。
この言葉自体が矛盾ですから、有限の自然数しか存在せず、無限大の自然数は存在しません。
これを前提として、空間の無限分割が可能であると仮定します。
空間が無限分割可能であれば、ゼノンの論法を正面突破するには、無限大の自然数が必要になります。
ところが無限大の自然数は存在しません。
すなわちアキレスは亀に追いつけません。
これを解決する唯一の方法は最小の長さを導入する事です。
ここで現実に話を戻すと、現実には長さの最小単位としてのプランク長が存在します。
おかげで現実にはアキレスは亀に追いつきます。
76 :
◆xOLbFG9QNU :2009/12/19(土) 23:34:50 0
>>75 どはっ。
ある段階でアキレスが亀の後方1プランク長にまで迫りました。
そこで、その次に想定される段階とは 貴方の考えではいかなる状態なのですかね?
77 :
考える名無しさん:2009/12/19(土) 23:58:12 0
>>72-75 それ「追いつくのに必要な時間」という肝心のファクターを落とした話だから
何の意味もないよ
追いつくのに無限に時間を足していかなければならない、ということを
古代人は、時間が無限大にかかると勘違いしたからパラドックスになるのであって
収束する以上パラドックスにはならない
78 :
考える名無しさん:2009/12/20(日) 09:22:35 0
>>77 追いつく事自体は、誰が見ても明白です。
アキレスが亀のいた地点に到達する度に、両者の差は小さくなり、追いつくのに必要な時間も短くなる。
時間は止まらないので、必然的にアキレスは亀に追いつく。
ここまでは正しいし、誰にでも理解出来ると思われ、そこが争点になったとは思えません。
いくら古代人でも、それぐらいは分かったと思われます。
問題は、何回アキレスが亀のいた地点に到達しても、少しの差が残る。
しかも無限の大きさを持つ自然数は存在しない。
これは矛盾です。
つまり哲学的には、数学的に無限等比級数の和が収束することを、簡単には受け入れたくない。
数学において等比級数の和が収束するのは、公理によってそうなるだけです。
数学的にはゼノンのパラドックスは解決済みですが、その解決法は哲学的には受け入れ難い。
哲学の立場では、物理学的な解決法を採用したい。
解決してねえじゃんw
80 :
考える名無しさん:2009/12/20(日) 09:44:39 0
数学的には解決しています。
無限等比級数の和は収束するからです。
ただし、それは公理によってそう決めただけです。
哲学的には、その公理が適切かどうかについて詳細な検討が必要です。
物理学的にも解決しています。
アキレスと亀の差がプランク長以下になると、不確定性原理のせいてで、アキレスが前にいるのか、亀が前にいるのか決定不能になります。
81 :
79:2009/12/20(日) 10:32:23 0
>>80 まてまてw
収束というのは例えばα→0とかだろ?
これはどこまでもα≠0だよ。
だから、いつまでもアキレスは亀に追いつかないじゃんw
不確定性原理て、おいw
アキレスが前にいるのか、亀が前にいるのか決定不能なら、
アキレスが亀に追いついたかどうかも「決定不能」じゃんかw
ぜんぜん解決してねえじゃんw
82 :
考える名無しさん:2009/12/20(日) 11:14:44 0
>>81 確かに本来の収束は、α→0であってα≠0ではないはずです。
ところがインターネットで検索すると、無限級数の和の極限の事を無限級数の和と呼んでいるページばかりです。
世の中では、そのあたりは曖昧にしているようで、その方が現実との整合性が良いからでしょう。
それならば、無限級数の和と無限級数の和の極限は等しいという公理を作れば、アキレスと亀のパラドックスは解決します。
そういう数学も有り得るが、哲学的には認められないということです。
物理学の方は、アキレスと亀のどっちが前か分からなくなったら、それを追いついたとしてどうしていけないのですか。
83 :
79:2009/12/20(日) 11:52:28 0
>>82 世の中では、ておいw
人生相談してんじゃねえぞ
公理を作ればて、・・・それは公理を振り回しすぎだろw
クリスマスケーキ作ってんじゃねえぞ!
「無限級数の和の極限」と「(仮想的)無限級数の(実)和」が「等しい」なんて公理を作ったら、
解析学の計算が混乱するだろうがw
x→0をx=0と等しいと公理にしたら、「2x/x」はいくつにするんだ?ええ、おいw
物理学の方は、て(・・それって物理学なんすか?w)
「アキレスと亀のどっちが前か分からない」=「アキレスが亀に追いついた」とするのかよw
どうしていけないのですか、て・・お前さんはそれでいいのかよ。すげーな
「亀がアキレスよりプランク長だけ前にいる」なんて想定は既に形而上の問題だろ。(不確定性原理は観測限界)
そこで「アキレスと亀のどちらが前か分からない」状況を(不確定性原理をねじこんでw)形而上的に作りだしたら、
そこで事態は消散し、それ以降の想定は不可能になるだろw
アキレスは亀に追いついたかもしれないし、追いついてないかもしれない」状況にて考察は停止を強制されるだけだ。
なーんも解決したようには思えんね。
ゼノンのパラドクスに量子論を適用させようなんて、ナンセンスだろおw
84 :
考える名無しさん:2009/12/20(日) 11:54:12 0
「無限級数の和の極限」って何なのさ?
「無限級数の和」って「有限級数の和の極限」以外にどう定義するのさ?
全体として言ってることは変じゃないが、
明らかに基本的な知識を欠いていると説得力がなくなるよ。
85 :
考える名無しさん:2009/12/22(火) 22:33:12 0
以下は
>>67の、「到達に必要な時間の総和が発散しないで収束する」という発言の根拠について、代弁したものです。
無限級数の和を有限級数の和の極限と等しいとするのは、ある程度の根拠はあります。
等比r、初項aの無限等比数列の和は、lim[n→∞]a(r^n-1)/(r-1)となります。
ここで r<1 とすれば、nをどんどん大きくしたとき、r^n はどんどん小さくなるので、無限級数の和を a/(1-r) としてしまっても良いという議論は、現実的には成り立ちます。
この話は、到達に必要な時間の総和が収束するという発言に、ある程度の根拠があるので、解説しただけです。
ただし、これは物理学的な話であって、哲学的には認めにくい話です。
実用的には無限級数の和を有限級数の和の極限と定義して問題はないし、数学的ににも問題はない。ところが哲学的には問題があるし、厳密に考えると数学的にも問題がある。
この話は本題ではないので、このぐらいにしませんか。
本題は以下の部分です。
物理学的な解決の方には哲学的な意味があります。
時間と空間が無限分割可能とすると、アキレスは亀に追いつけません。
それどころか、二分法によるとアキレスは一歩も動けません。
それを解消するには最小の長さを導入するしかありません。
人間の世界の認識方法としては、今のところ知られている範囲では、世界をデジタルと認識するかアナログと認識するかしか有りません。
最小の長さがないものはアナログ、最小の長さが有るのはデジタルとなります。
そうすると、第一第二のパラドックスから導かれる結論は、時間にも空間にも最小単位があり、世界はデジタルであるとなります。
86 :
79:2009/12/23(水) 01:21:30 0
>>85 >時間と空間が無限分割可能とすると、アキレスは亀に追いつけません。
無限回の思考行為を繰り返しても、追いつく状況に到らない、という意味ではそうなんでしょうね。
>それどころか、二分法によるとアキレスは一歩も動けません。
「動的なアキレス」よりも、「時刻に凍結されたアキレスの位置」を優先して思考するならそうなんでしょうなぁ。
>最小の長さがないものはアナログ、最小の長さが有るのはデジタルとなります。
んー・・・デジタルそのものは「長さの無い、点の分布」ですよね。「長さ」の想起には連続性が要請されてしまいますので。
>そうすると、第一第二のパラドックスから導かれる結論は、時間にも空間にも最小単位があり、世界はデジタルであるとなります。
時間と空間が差分的だとしても連続的だとしても、アキレスと亀との距離が1プランク長になるまでは
思考作業の内容はほぼ同じでしょう(初期での差が1プランク長の奇数倍だと最初から割り切れませんので
どーするのか、って問題も発生しますが)。
しかし、アキレスが亀の後方1プランク長にまで迫った時点から「1プランク時間」後のアキレスと亀の状態を
いかように表記すれば、アキレスは無事に亀に追いつき、追い越すことができるのか、合理的に説明すべきでしょう。
不確定性原理という「言葉」だけでは解決してるとは思いません。貴方は納得してるのですか?
追いつくということ
A 衝突するケース
A1 同一線上を同一方向へ移動する2点の距離(0含む)問題
A2 ある一点で交差する2つの線上を移動する2点問題
B 衝突しないケース
B1 同一線上を同一方向へ移動する2点の距離(0含まない)問題
B2 2本の線は交差してもしなくても可
B2a 同一方向へ進む2点の最小距離問題
B3 2本の線は交差しない
B3a 同一方向へ進む2点間の最小距離問題
B3b 平行する2(直)線上それぞれに位置する2つの点を通る直線の垂直問題
88 :
考える名無しさん:2009/12/23(水) 22:44:36 0
追いつくとはどういうことかを考えます。
通常は直線コースを真横から見て、どちらが前にいるかを決めます。
現代の技術では写真判定が普通ですが、写真の解像度には限界があります。
どうしても一定の長さ以下は無視するしかないのです。
どこかでアキレスは追いついたとするしかなく、次の瞬間にはアキレスのほうが前にいます。
高速シャッターで何枚も写真を撮ったとして、どこで追いついたかは決定できます。
プランク長以下の差になった時も、どちらが前にいるか判らなくなりますが、これは原理的に判定不能なので、本当は写真判定の場合とは異なります。
それでも、一定の長さ以下の差で判定不能という点で、写真判定の場合と同じように考えることは可能と思います。
89 :
79:2009/12/24(木) 07:50:12 P
>>88 不確定性原理は観測による解像度の限界を示すもので、
本質的に写真の解像度の限界と「同質」のものです。
それゆえにこそ、「アキレスと亀」という形而上の(無限回の思考行為なる欺瞞)問題に対し
現実のミクロ世界を記述する道具である不確定性原理及びプランク長を適用させるのは苦しすぎるw
現実問題でよいのであれば、アキレスが亀を追い越すのは経験上「あたりまえ」のことです。
これは貴方もそのように認めておられたように思います。
アキレスと亀はどちらも運動しているので、”空間が連続であっても”いや、であるからこそ
解析的に解決してるのでは?
x→∞に於けるx/x=1とすることを「哲学的に了解」するところから出発しているのでしょう?どうですか?
恐らく貴方の書き込みであろう
>>74に於いて「∞より1大きい数」などが思考されていますが、
∞なる概念は数値と比較できるものではなく、無限大を扱うツールであり、方便であり、象徴でしょう。
ですから、
>>74などで表明される貴方(?)の疑義は・・・・まあいろいろ考えるのが哲学だな。だは
90 :
79:2009/12/24(木) 09:32:55 P
>>89 訂正
>x→∞に於けるx/x=1
「x→0に於ける」ですよね。ワシも耄碌しましたわ・・・・
91 :
74:2009/12/31(木) 12:08:15 0
確かに哲学の立場としては、現実を根拠にするのは好ましくありません。
ディオゲネスも、ゼノンは論理で挑戦しているのだから、あくまで論理的に論破しなくてはいけないと言っています。
そうするとアキレスと亀については、ゼノンは正しいと見なすしかありません。
無限大の自然数が存在しないということは、空間が連続であればアキレスは亀に追いつけません。
どうしても空間に最小単位が存在すると見なすしかありません。
ワイエルシュトラスのイプシロンデルタ論法は、限りなく近づくことを保証するだけで、追いつくとは言っていないのです。
どんなに空間の最小単位が小さくとも、アキレスと亀の差を最小単位より小さく出来ると主張するだけです。
lim[n→∞]1/n=0 であっても、1/∞=0 という式は認められません。
ところが、物理学、工学の立場ではこれで十分です。
有効数字というものがあって、ある長さ以下は誤差と見なすしかないからです。
結果的として、実用的には 1/∞=0 として十分となるのです。
ニュートンは物理学者だったので、極限の概念がいい加減でも、微積分を作ることが可能だったのです。
物理学ではそれで良いのですが、哲学はもう一つ深く考えなくてはいけません。
哲学の立場では、空間に最小単位があったとして、運動を記述する方法があるのかということが問題となります。
そこからゼノンの第三第四の逆理が生じます。
92 :
79:2009/12/31(木) 13:06:56 P
いやいや そうではなくてだな、
ニュートンだかライプニッツだか知らないがだ、
微分なる魔術に対して積分なる魔法返しにより困難を回避可能してるのではないかねぇ。
つまりは毒をもって毒を制すというかだ。。。。。
つまりは{lim[n→∞]1/n}=0で、
しかしこのとき 1/n≠0 であるので、
これをn倍すると(たとえn→∞であっても)、「1」となることが「論理的に可能」であるだろう、と。
無限小を同次数的に無限回数積算することにより、通常に認識できる計算問題に解消することが可能である、
・・・とするのでしょう。これは空間が連続であっても(であるからこそ)成立するわけです。
時間は「動的」であるため、長さ0の時間は存在しない、ということを認めれば(ゼノンはこれを認めていないがw)、
アキレスと亀の移動距離は無限に分割した後においても、分割数で積算すれば、めでたく距離が戻ってくる。
実際には数学的にも哲学的にも(もちろん物理的にも)困難は回避されているのでは、思いますよ。
ただしかし、
無限回の事態の想定、無限回の思考行為、が可能であり、これが人間の思考の有限性と照らして解消できない・・・
・・気がする・・のではないか、と思うんだなぁ・・・あたしゃぁ・・・。よいお年を
93 :
74:2010/01/02(土) 00:11:07 0
lim[n→∞]1/n=0 であっても、1/n≠0 というのは、運動を記述する上では良いのです。
積分の根拠ともなって好ましいのです。
いくら運動を細分化しても、瞬間には運動は無いということは、アリストテレスも指摘していました。
飛ぶ矢のパラドックスの反論としては使えます。
しかし、それではアキレスは亀に追いつけない。
物理学では、アキレスと亀の差は無限に小さくなるので、平気で 1/∞=0 としてアキレスは亀に追いつくとします。
それなのに 1/n≠0 として積分も用います。
これは矛盾です。
ニュートン力学は、矛盾した根拠の上に構築されているのです。
94 :
79:2010/01/02(土) 00:39:14 P
>>93 ちがうと思うよー
物理学ではぜーんぜん矛盾なんか無いよー
「アキレスと亀の間の距離」を相対速度で割れば、
何の矛盾もなく追いつくまでの時間が出ちゃうんだよぉ
そーすると、追いつく位置も矛盾無く導出されるさー
「位置に固定(凍結)された事態」の想定が矛盾を引き込むのでしょう。
矢のパラドクスと同じですよ。
95 :
考える名無しさん:2010/01/02(土) 02:31:32 0
96 :
74:2010/01/02(土) 10:29:41 0
追いついた瞬間が存在すると認めてしまえば、その瞬間には速度はない。
さらに次の瞬間というものも有り得ない。
次の瞬間が前の瞬間とは別の瞬間であれば、その間には無限の瞬間がある。
同様に空間には隣接する点は有り得ない。
ニュートン力学ではアキレスも亀も質点とみなすけれど、質点は移動できない。
どんなに近い点に移動しようとしても、それより近い無限の点を通過しなくてはいけない。
点とか瞬間は、人間の頭の中だけに作り出されたものではないでしょうか。
97 :
79:2010/01/02(土) 11:52:34 P
>>96 Ohいえす。です。たぶーん
点とか瞬間は運動とは相容れない。
貴方は全部理解しているではありませんか。私はまだふらついてるがw
点とか瞬間(瞬間なる漢字はちょっと良くなかもだが)は、実在しない(かもしれない)。
しかしそのことが空間距離や時間の「最小単位」を直ちに要請するか、と云えば、そうではないと考えます。
実数が数直線の上での点でしかない、としても実数の連続性を上手く取り入れることで困難を回避しているのでは?
つまり、実数をAとBの二つに分けるとし、
Aの全ての数がBの全ての数より小さいとし(デデキント切断)
点としての実数sを考えて、
sより大きい数をBに入れ、sより小さい数をAに入れるとする。
このとき、このsをAに入れると集合Aの最大値はsであるが、
集合Bには最小値がない!!とするのですよ(こいつはたまげる!)。
これは解析学に於ける「基本規約」であります。
ゼノンの場合、数直線の入れ子構造となってしまい、数直線を引き伸ばしたその上に、
別の尺度の数直線を重ねる、という作業を永遠に繰り返すことができる、
みたいな無限音階もどきのことをしている、ところに困難があるのではないの?
・・・なんてな〜w
(規約無用の)観念の浪費による“構造欠陥にすぎない”ゼノンのパラドクスをもって
ニュートン力学を責めるのは筋違いでしょう。
むしろニュートンを褒めてやってくださいー。はっはー。あけましておめでとう。
98 :
74:2010/01/03(日) 11:06:28 0
アキレスが亀を追っかけてるフィルムの再生速度を毎秒半分にしていけばゼノンが何を言ってるかわかるよ。
で、なんのパラドックスもない事もわかる。
フィルム再生速度を段階的に半分にして「ほらいつまでたっても追いつけないだろ」と
言ってるのがゼノン。
フィルムを見てるとアキレスの動きが徐々に遅くなり最後はコマ送りでさえ間に合わなくなる。
亀の後で足を振り上げてるアキレスの画像が延々と続く。
これがゼノンのアキレスと亀のパラドックス。
>>99 まあ、簡単に言えば、そういうことなんだよね。
しかし、不思議だな〜。ゼノンのパラドックス、アキレスと亀の話はおもしろいな。
数学の世界では、1と2の間には小数点つけたら無限の数がある。1.5とか1.67とか1.764とか1.897654…とか。
無限であると言うことは、1から2へはいつまでたっても到達できないと言うこと。到達できたら無限じゃない。
なんか、どこまでも穴掘ってる感じだ。顕微鏡の倍率をどんどん上げて言ってる感じ。
実際、1メートル地点から2メートル地点に行くのは簡単に行けるし、距離的には有限なんだけど、
数学的には無限になっちゃう。
これって、結局、数学と物理の2面性の問題なんだろうね。
物理的には実験したら当然、亀に追いつけるけど、数学的には難しい。
数学は、あくまでも抽象的な存在で、実際にあるものじゃない。実際にないもので、実際にある
物理世界を表現しようと思ったら、矛盾が出てくる。
数学って、デジタルでしょ。でも実際の物理世界はアナログ。
突き詰めたら不確定で、未分化な世界。
デジタルなものでアナログを表現しようとするムリさが、ここで露呈してくるのかも。
そのことをゼノンは言いたかったのかもねぇ。
>>100 ゼノンはそんな事言いたかったんじゃないだろうけど、そういう解釈もできるな。
計測の不自由さに対する皮肉、という解釈もできる。
どこかに固定された基準点がなければ計測ができない。
部分を積み重ねてもその総和は全体に到達しないというか
物事を最小単位に分割してわかりやすいかたちから発想していく「科学」的手法の限界というか
ゼノンの話は尽きせぬ魅力があるね
全体を部分に分割するとき、何かが消えている
その何かを探求するのが哲学だと思うわ
103 :
考える名無しさん:2010/04/12(月) 23:20:11 0
ageとくか
さらに敷衍するなら、極小部分の総和は全体を構成しない
この発想が数学に生かされるには、アブラハム・ロビンソンの超準解析を俟たねばならない
どのレスもナルホドだよ
ただ数学を用いての物理学的解釈だと「時間」は運動方程式の中に入っていて、ここから話しを進めても問題はない
しかし哲学的解釈で考えると[「時間」とはなんぞや]という根本的な問題をクリアしないといけない
誰かがどちらの方法で説明しても、「時間」の問題とか根源的な存在論に突入してしまう
これは、だからパラドックスとして存在し続けるんだよな
105 :
考える名無しさん:2010/04/13(火) 01:03:15 0
ここの連中は実数体の構成の仕方を知らないんだろうか?
そもそもどの実数も、それ自身、点列の同値類なんだけどねぇ
数学はアキレスと亀を点にする
>>106 点から線、線から面へディメンションが移行する界隈で起こる出来事について
数学のひとは無口なんだよね
jこの辺に深入りするとカフカの迷宮が待っている
>>100 「いつまでたっても追いつけない」の「いつまでたっても」が嘘だって事だよ。
「何が」無限なのかを考えた方がいいよ。
「分割」という操作が原理上無限回行えるということであって、「距離」は数学的にも物理的にも有限。
そしてアキレスが亀に追いつくまでの時間も有限。
有限の量を無限に分割出来る事は矛盾でもなんでもない。
不思議に感じるのは「等速運動してるのに〜」という前提があるからだが
等速運動してるのはアキレスであって、過程を無限分割してる記述者はない。
アキレスは亀に追いつくが、記述者のこの記述法では永遠にその瞬間にたどり着かないって事。
アキレスの運動と、記述者の行為を摩り替えてる事からパラドックスに見えるだけ。
飛んでる矢が止まってるってのは
単純に運動という概念を曲解したペテン。
運動とは「ある瞬間とある瞬間で位置が違っている事」なんだから、ある瞬間一個だけ取り出しても何も言えることは無い。
ある瞬間にある位置に存在する事は「静止してる」とさえ言えない。
なぜなら静止しているとは、少なくとも二つの違った観測時に同じ位置にある事を言うから。
有限の量を無限回であろうと、分割だけによって無に出来たら
そっちの方が論理的に有り得ないわけで
そもそもの「何回分割してもゼロにならない!オカシイ!」ってのが意味不明
>>108 >「距離」は数学的にも物理的にも有限
いや、これはおかしいだろ。
たしかに距離は物理的には有限だが、数学的にも有限だとはいえない。
そもそも数学の数字はもともとただの目盛りに過ぎない。いくらでも任意で分割したり引き伸ばしたりできる。
あくまでもイデア的、観念的なものなんだよ。言い換えれば、ただの言葉、言語に過ぎない
数学と言う表現方法、言語を使って、物理世界を説明しているのが物理学なだけ。
やっぱり数学上の数字の「1」と、物理学上の「1メートル」あるいは「1キログラム」は違うんだよ。
前者は具体的な数量を持っていないが、後者は具体的な数量を持ってる。
数学的にはアキレスは亀に追いつけない。そもそも数学は、動くと言う行為を行わない。常に静止している。
弁証法的な運動を行わない。1は永遠に1のまま。
しかし、物理学的には簡単に追いつける。実際やってみたらいいだけ。
数学の無限集合論の考えだよ。
数学では、部分が全体に等しいと言う、物理学的にはありえない現象も起こる。
でも、それが数学なんだ。
>>112 この手の論破厨多いから一言書いとくけど
クイズみたいに解ける問題としてしかゼノンを扱えないひとは想像力が欠如してる
なぜ、繰り返し意匠を変えてこのパラドックスが問題視されるのか、
その地点まで降りたって問題を捉えることが出来ない論考は、まあ屑だよ
先に似非二次元に引きこもったのは数学。
ゼノンによって机上の空論が論破された。