1 :
なうやいば:
近代的哲学を超克する!物的世界像から事的世界観へと迫る、
広松渉の関係の第一次性を語るスレです。
2 :
なうやいば:2009/04/27(月) 04:29:29 0
所識とは何か?当方の広松解釈に基づきますと、客観的対象が知覚される際
それは所与=所識構制で行われ、これらは一方で自存するものではなく相対的
自律性を持ったものです。つまり所与の意味が所識なのではなく、所与=所識
構制が知覚される客観的対象な訳です。そして所識とは物象化されない、
知覚される際の定位置で判断される意識反応態勢であり、この様な反応態勢
としての所識は、相違性と同一性の統合態であり相違性では個別的自己同一性
が、同一性では一般的本質同一性が理解されます。広義の判断論については
これから学習しますので既存知識というものが出てくるのかもしれませんが、
少なくとも狭義の判断においては、所識とは相違性と同一性の統合態であると
思います。
3 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 04:31:27 0
“広松”てスレタイトルに出てるけど、ここは著作に印刷されてる通りに“廣松”で良かっ
たんじゃなかろうか。せっかく立てるんだからその辺までやりましょうよ。
5 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 18:43:49 0
7 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 23:25:55 0
この辺りはやっぱOFWのコピペから行くかな。
「<関係の一次性>とは関係の直接性(始めに関係ありき)の主張ですが、
関係(相関)とは定立された媒介性ですから、それは直接性の否定です。
それはあるものと他のものとの中間(媒介)ですから、始めでもなく、
二次的な他者性を指しているのです。」
「関係とは他者との相互媒介(規定、作用)ですから、
既にそれぞれ(質料的部分)が実在しなくてはならないわけです。」
8 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 23:44:27 0
馬鹿が書き
アホがコピペする
2ちゃん哉
9 :
し:2009/04/28(火) 23:54:51 O
明日も小牧長久手の戦いのために浜名湖へ
10 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 00:00:45 0
>>7 兄弟(関係)は太郎と次郎がいるから成立する、でよい?
12 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 00:05:47 0
>>8 無知が読み
理解できずに
自家発電
って図かな?
13 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 00:15:58 0
それ何のコピペ?
この辺りはやっぱBAKAの改変コピペから行くかな。
「<項の一次性>とは関係項の直接性(始めに項ありき)の主張ですが、
関係項(相関項)とは定立された媒介性ですから、それは直接性の否定です。
それはある関係の両端(媒介)ですから、始めでもなく、
二次的な他者性を指しているのです。」
「関係項とは他社の相互媒介(規定、作用)ですから、
既に関係(質料的部分)が実在しなくてはならないわけです。」
>>12 無知なら自家発電にならんのよ。
情報が足りないままで理解しようとするから光る。
16 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 18:11:44 0
>>7 コピペすんなら、ならちょい出しなんかしねーでさぁ、ごっそり出せや。
17 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 18:40:09 O
18 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 18:43:36 O
>>16 ごっそり出せや?アン。テメーのセンズリでこいたザーメン
じゃねぇーんだよ!ぼけ!殺すぞ!
19 :
アラコキ:2009/04/29(水) 20:05:04 0
廣松哲学といえばあの一種特有の漢語的文体の魅力だね。
ここのレスの文体とは大違いだ。
われわれは、右の了解に立脚して、判断における真理性・
虚偽性の問題ーすなわち、一般には”客観的事実”と
”判断的事態”との一致・不一致といった構図で思念されて
いる問題ーの真実態を把え返しつつ、認識論的討究の歩を
進めることができるし、また、いうところの”客観的事実”の
諸契機が物象化されることにおいて、”事物の第一次性”という
思念が生じる次第などを批判的に剔抉することもできる。
ふううううぃ、これで一文だぜ、まったく泣けてくる!!!
>>19を翻訳
俺らはよく考えると物質主義を叩く事が出来る、ってか徹底的に叩け。
21 :
アラコキ:2009/04/29(水) 21:23:12 0
>>20 そうですね。
物的世界観から事的世界観への転回を図った廣松の
「もの・こと・ことば」(ちくま学芸文庫)の跋文
からの引用です。
剔抉、かっこいーぜ
23 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 05:52:38 0
糞スレ化も順調に進行中でんな。
マッハ主義者のエロ松関連のスレタイやさかい、
予想はしてましたがな。
ほな、更なる糞スレ化に寄与しまっせ。
7のBAKAが改変し、
14の頓馬が再コピペしはった、
カキコの再録で行きまっせ。
「<関係の一次性>とは関係の直接性(始めに関係ありき)の主張ですが、
関係(相関)とは定立された媒介性ですから、それは直接性の否定です。
それはあるものと他のものとの中間(媒介)ですから、始めでもなく、
二次的な他者性を指しているのです。」
「関係とは他者との相互媒介(規定、作用)ですから、
既にそれぞれ(質料的部分)が実在しなくてはならないわけです。」
24 :
アラコキ:2009/04/30(木) 07:08:22 0
>>23 インターネットを見ればネットワークこそ実在でノードなど
たいした意味は無い。関係の一次性などは現代の常識だね。
25 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 10:12:02 0
ソシュールとどこが違うの?
廣松:犬=dog
ソシュール:犬≠dog
27 :
なうやいば:2009/05/01(金) 22:10:28 0
test
28 :
なうやいば:2009/05/01(金) 22:14:59 0
スレを立てた直後に規制に巻き込まれ、書き込みが出来ませんでした。
>>4 >重複につき誘導
あちらのスレは広松先生のマルクス主義の成果や雑多なその他も含まれて
しまいますので、重複ではないと思います。
29 :
なうやいば:2009/05/01(金) 22:23:09 0
>>6 >所識の「所」を無視してると思いますよー
これは意味が分からないです。歴史・文化的な影響でしょうか?とりあえず
今まで読んだのは新哲学入門の認識論の途中までです。
>>2は別スレで
同一性は所識だが相違性はどこにある?という議論の中で生まれた結論で、
所識とは相違性・同一性の統合態であると結論付けました。レベルが低くて
申し訳ないです。今は、能知-能識構制に入っているのですが、いまいち
所与-所識構制との関係が分からないです。
>>29 所は受け身。
所与:与えられる事物
所識:識される事物
>所識とは相違性・同一性の統合態
これだと「識」のみ抽出してるんで
能知-能識構制と区別がつかんくなる。
31 :
なうやいば:2009/05/02(土) 00:19:17 0
>>30 有難うございます。全然違うかもしれないのですが、所与-所識構制は
客観的対象の知覚像で、能知-能識構制は概念表象の知覚像ということで
しょうか?
あと、レスはsageた方が良いですか?何もかも聞いてばかりですみません。
哲学では知覚を思惟とはしないことが多いが、
貴方が
>>31の説明で2つの構成を区別出来るならそれでいい。
上げ下げに関しては俺は知覚のみ。どっちでもいい
33 :
なうやいば:2009/05/08(金) 23:37:02 0
test
34 :
なうやいば:2009/05/08(金) 23:48:49 0
また規制に巻きこまれてしまいました。
>哲学では知覚を思惟とはしないことが多いが、貴方が
>>31の説明で
>2つの構成を区別出来るならそれでいい。
当方が疑問に思いましたのは、所識も能識も同じ感じがしたのですね。
共同主観性というのはまだはっきりとは分からないのですが、結局
所識に共通性があるのではないのか。思惟活動とは推測ばかりで申し訳
ないのですが内側-外側構制で能動的に用いているだけで、客観
対象的知覚像であれ概念表象的知覚像であれ、同じではないか。
四肢的構造とは人間がそう関係せざるを得ないと言う意味で人間において
の世界、人間と世界の関係におけるあり方を示しているのでしょうか?人は
四肢的構造の無限指定から逃れられず、これが世界でしかない。今の所
はそんな感じで了解しています。ただ広松先生が四肢といっているのだから
所与-所識と能知-能識は何か原理的に違うのかなとも考えています。
sageに関しては、当方2ちゃんを良く知らず、貴方はsageてらっしゃるので
迷惑になるかな、と思って伺いました。ありがとうございます。
なんでそう適当に了解できるのか感心するわ
36 :
なうやいば:2009/05/09(土) 16:27:23 0
37 :
し:2009/05/09(土) 16:34:58 O
山根いるみってことじゃないの?
>>34 ニュートン運動第三、作用反作用の法則。
能動的なのは俺で、俺が机を押しているだけで、
机の方から襲ってくるとか滅多に無い。
けど、俺と机と作用と反作用があるから俺は机を押せるのであって。
力は単独では存在出来ないし、作用と反作用は同じモノではない。
39 :
なうやいば:2009/05/10(日) 21:48:49 0
>>38 有難うございます。つまり受動性・能動性と言うことですね?
すると動物にとって世界は二肢的構造になるのであり、人は言語を
獲得することによって人となるというのが良く分かりました!
心の中のもやが取れたようです!
40 :
考える名無しさん:2009/05/15(金) 10:28:31 0
浅田彰に言わせれば単に構造主義≠セろ?
吉本みたいな文学論を用語を厳密化しただけで再生産してもな。
41 :
なうやいば:2009/05/16(土) 04:09:41 0
>>40 浅田彰とか、構造主義とか、吉本隆明とか、全てレッテル貼りですよね。
確かに私は広松渉の関係の第一次性の哲学を学ぶことに今日的にどの様な
意味があるかは分からないです。しかし役に立つという感じがしたので
とにかく石ににかじりついてでも学ぼうとしています。学ぼうともせずに
何も勉強しない人よりはましではないでしょうか。ただ広松哲学の古さ
を貴方が自分の言葉で語るなら、それは傾聴します。私は広松マニアでも
哲学マニアでもありませんので、それによっては貴方の同調してやめる
かもしれません。勿論今はやる気満々ですが^^。それでは。
42 :
考える名無しさん:2009/05/16(土) 22:23:00 0
どっちも馬鹿だと言葉に詰まるなw
>>40の方がいっそう馬鹿っぽいけど
43 :
なうやいば:2009/05/18(月) 00:29:56 0
>>42 貴方は笑ってらっしゃるのですね。私も違う意味で笑っています。
哲学的理解力の高さで自尊心を獲得していという脆弱な人間の
サンプルを獲得したという意味で嬉しいのです。
44 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 02:35:48 0
あげ
45 :
考える名無しさん:2009/06/15(月) 10:20:51 0
<関係の一次性>?
確かに吉本本に飽きるほど出てくるな、
特にフロイト関係のハイデガー批判でな…
>>34 >客観対象的知覚像であれ概念表象的知覚像であれ、同じではないか。
<関係性>の次元が違いますが、基本的に認識構造としては同じです。
つまり<対象>が<知覚>であるか<概念>であるかによります。
>人は四肢的構造の無限指定から逃れられず、これが世界でしかない。今の所
>はそんな感じで了解しています。
まさしく、世界はこれでしかない、ですね。
>ただ広松先生が四肢といっているのだから
>所与-所識と能知-能識は何か原理的に違うのかなとも考えています。
ベクトルが違います。
>>41 >浅田彰とか、構造主義とか、吉本隆明とか、全てレッテル貼りですよね。
言語は「全てレッテル貼り」ですね。
「人は言語を獲得することによって人となる」のですから。
>>43 >哲学的理解力の高さで自尊心を獲得していという脆弱な人間の
>サンプルを獲得したという意味で嬉しいのです。
誰でも自分と同じものに出会うと「嬉しい」のでしょう。
47 :
考える名無しさん:
廣松の仕事の最良の部分は青年マルクス論やエンゲルス論みたいな地味目の仕事だと思うわけ( TДT)ゴメンヨー