1 :
ぽん太郎:
<問1> 世界とは何か、生命とは何か、人間とは何か
これらの問いの真の答えを明らかにします。
ここで対象とする問題は存在論と呼ばれる問題です。
ここで対象とする問題は存在論のみであり、存在論以外の問題は対象外です。
例えば、人生論とか、善悪論、価値論等の当為論に関する問題は対象外です。
冒頭の、世界とは何か、生命とは何か、人間とは何かという問いは他の分野(自然科学(特に生物学)、心理学、社会科学等)でも問うことが可能です。
ここではこの問いが存在論の問いであることを明確にするため次のように言い換えることにします。
<問2> 世界とか如何なる存在か、生命とは如何なる存在か、人間とは如何なる存在か
この問いをさらに簡略化し明確化するため次のように言い換えることにします。
<問3> 人間の身体は物質でできている。では人間は物質のみによりできているのであろうか?
この問いは冒頭の問い<問1>を全て含んでいます。
本スレッドはこの問いの真の答えを明らかにするのが目的です。
冒頭に「これらの問いの真の答えを明らかにします」と書いたのは筆者(わたくし、ぽん太郎のことです。以下同じ)が存在論の真の答えがわかったと
感じていることを表しています。筆者にとって存在論は解決済みの問題です。
本スレッドを読めば次のことが明らかになります。
・心とは何か、その真の意味が明らかになります。
・クオリアとは何か、その真の意味が明らかになります。
以下、本スレッドに対するレスの形で続きを書きこんでいくことにします。
2 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 13:58:17 0
2ゲット
3 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 16:14:26 0
このテの議題で「答が出てる」と言う奴は何を言っても受け付けないことが多いから
とりあえず意見は出さない。その答えが書き込まれるのを待とう。
そのあと、それに対応して意見を出すことにする。
まあ俺と同じ意見なら「同意」としか言えないんだけど。
4 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 10:27:01 0
<問3> 人間の身体は物質でできている。では人間は物質のみによりできているのであろうか?
存在論の問いに対する答えは無数にあり哲学者の数だけ答え(説)があるといえます。
本スレッドでは主に下記の3つの説について検討します。
<説1> 然り、人間は物質のみによりできており、世界も物質のみによりできている。(唯物論)
<説2> 否、身体(物質)に霊魂が宿ってはじめて人間になる。世界は物質と霊魂よりなっている。(二元論)
<説3> 世界は心の生み出す現象にすぎない。心は未規定、不可知の何かである。(観念論)
上記以外にも多数の説がありますが、皆さんはどの説が正しいとお考えでしょうか?
ここで早速結論を示しておきます。
<結論> 人間は物質のみによりできており、世界も物質のみによりできている。(唯物論)
これが真の答えです。これ以外に真の答えはありません。
二元論は間違った答えです。唯物論以外の実在論に属する説はいずれも間違いです。
観念論は存在論の答えとして的外れです。観念論を研究対象としている哲学者が多いように思いますが徒労です。
もし、あなたが唯物論をお考えなら一応正解です。
しかし、なぜ唯物論が正解であるのか明確に答えることができますか?、
唯物論で心とは何かを明確に説明できますか?
唯物論でクオリアとは何かを明確に説明できますか?
...つづく
P.S. > 考える名無しさん
『このテの議題で「答が出てる」と言う奴は何を言っても受け付けない』というのはその通りでしょうね(^^;;;
誰も真の答えを知りませんし、これまで出版されたどの書物にも真の答えは載っていませんから。
誰も一つの答え(真の答え)が出るとは夢にも思っていないでしょうから。
しかし..... 乞うご期待。
5 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 10:59:16 0
<筆者のプロフィール>わたくし、ぽん太郎のプロフィールです。
情報処理技術者のはしくれです。コンピュータソフト開発の仕事をしていました。定年で引退しています。
まあ、言ってみれば、3流のプログラマだったというところです。
哲学は全くの素人です。一応存在論に興味があるのでその手の本には目を通します。
専門の哲学書には歯が立ちません。おもに主に初心者向け哲学入門書、解説書が情報源です。
カント、フッサール、ハイデッガー、ヘーゲル等を読みかけたこともありましたが全く歯が立ちませんでした。
このような哲学ど素人が「答えがわかった」と称してもまともに相手してもらえないことは承知しています。
以上
P.S. 旧ハンドル: BCWorld, ぽん太郎
本スレッドは以前別の掲示板で発表した「生命論」の改訂版です。「生命論」の完成版と考えています。
しばらくネットワーク、掲示板の世界から遠ざかっていました。
久しぶりにネットワークの世界に戻ってまいりましたので、ここ2チャンネルで「生命論」完成版の書き込みを開始いたします。
6 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 11:33:50 0
存在論の真の答えが唯物論にあることを述べました。
その必然の結果として以下のことが結論できます。
<命題1> 自由意思は存在しません。
この世界のすべての現象は物理法則に基づく必然です。
<命題2> 神は存在しません。
神も神話もすべて人間の創作によるファンタジーです。
<命題3> 真実の宗教は存在しません。
宗教はすべて人間の創作によるファンタジーです。
もし、真実の宗教が存在するとすれば、それは唯物論を世界観とする宗教でなければなりませんが、筆者の知る限りそのような宗教は存在しません。
宗教の本質は何か、それも本スレッドで明らかにする予定です。
...つづく
7 :
満豚:2009/04/09(木) 12:35:25 O
ねぇねぇぽん太郎く〜ん。君は
〉世界も物質のみによりできている
って書いてあるけど、これって一体ど〜ゆー意味なの?「世界とは物の集合である」ってことなの?良かった教えて〜。
8 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 12:38:41 0
存在論の真の答えが唯物論にあることを述べました。唯物論は実在論(客観的実在論)に基づいています。
ここでは、実在とは何かについて筆者の定義を述べます。下記二つの定義を満たすものが実在です。
<定義1> 物質は実在である。
したがって、存在論では(実在論を基に考える限り)物質以外に実在が存在するかが問題になります。
二元論では物質以外の実在として霊魂が考えられています。
<定義2> 実在は物質と直接的/間接的に相互作用しなければならない。
もし、物質以外に実在が存在するとすれば、それは物質と相互作用しなければなりません。
物質と相互作用するもののみが実在です。物質は物質と相互作用しますので<定義2>の意味でも実在です。
もし、霊魂が存在(実在)するとすればそれは物質と相互作用しなければなりません。
以上が定義です。以下は説明です。
デカルト二元論では物質以外に霊魂が存在し物質である身体と相互作用するものとしています。
その意味でデカルト二元論の霊魂は筆者の実在の定義を満たします。
霊魂と物質の相互作用が自然科学法則との関係を整合的に説明することが困難であることから相互作用を否定する二元論の説もあります。
相互作用を否定する二元論の説は心身並行論と呼ばれています。これに対し、相互作用を肯定する二元論の説は相互作用論と呼ばれています。
デカルト二元論は相互作用論です。
心身並行論での霊魂は筆者の定義によれば存在(実在)ではありません。
したがって、心身並行論は実質的には唯物論と変わりません。独立した説として立てる意味はありません。
...つづく
9 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 12:51:07 0
>>7 > 満豚さん
物質というのは正確にいえば物理的実体ということです。
この世界は物理的実体のみによりできている、という意味です。
素粒子は物理的実体ですが、空間も物理的実体です。
空間は何もないのでなく物理的特性を持つ物理的実体です。
もちろん、人間も物理的実体のみによりできています。
世界も人間も物理法則に基づく必然により動いています。
人間もロボットと同様自動機械にすぎません。それ以上でもそれ以下でもありません。
以上
10 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 14:17:01 O
機械どんも懲りないのう
11 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 14:24:56 O
ぽんた君
定義が、
実在は物質である。
でないのはなぜ?
クオリアも物質である
物質じゃないからクオリアじゃね?
いやそれなら最初からクオリアという語はいらないはず
じゃあクオリアって何だ?
本スレでやればいいだろ?
14 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 16:06:43 0
>世界とは何か、生命とは何か、人間とは何か
世界とは、個に対する何か個があるときに世界がある。個が定まらない世界が
あればそれは滑稽としか。
生命とは、死ではないこと秩序として活かされた存在であること。
永遠の生命とは不死のことであり、活きていない。
比喩すればろうそくが燃えている状態が生きていて、消えれば死。
人間とは、人という形を持ったものがその間(社会)で活動する系にある
存在で人間の尊厳が無い状態では人間とは呼べない。
>世界とか如何なる存在か、生命とは如何なる存在か、人間とは如何なる存在か
世界は個からみた存在、主体が変われば世界の依存関係も変わってくる。
自分の世界と他人の世界が同一と思うならそれは君だけの主観でしかない。
生命は、一定の秩序の元に生まれて死ぬ存在、極論ではそれは物質である必要はない、
人間は、人間の肉体と思考で言葉を操り社会を作る存在、原始まで帰って
類人猿とか一言も言葉がなければ、それは人ではなく猿だ。
>人間の身体は物質でできている。では人間は物質のみによりできているのであろうか?
人間の物質面でしか捉えることができない君には、物質しか見えない。
意味でしか物事を考えない奴は意味しか見えない。
つまり物質のみと思う時点で、君の限界はそこまでってはなしさ。
>>11 > 考える名無しさん
もちろん、物質以外の実在(例えば、霊魂)も考えているからです。
結論では物質以外に実在は無いということにはなりますが。
16 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 17:19:03 0
>>11 > 考える名無しさん
もちろん、物質以外の実在(例えば、霊魂)も考えているからです。
結論では物質以外に実在はない、ということにはなりますが。
P.S. どなたか教えてください。
先ほど名前欄を入れ忘れて書き込みをしてしまいました。
不慣れなため削除の方法がわかりません。とりあえずあぼーんにしました。
これでよかったのでしょうか?
17 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 17:21:52 O
重複スレ
決定論スレに誘導
18 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 17:25:19 0
>>12 > 考える名無しさん
心もクオリアも物質ではありません。
心もクオリアも物質系のある働きとして出てきます。
もちろん、心という語も、クオリアという語も必要です。
19 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 17:26:49 O
「苦しい?」「苦しい。」「よしよし」
20 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 17:30:36 0
>>14 > 考える名無しさん
どうも観念論的視点でお考えになっているように感じましたが、仰っていることを理解できませんでした。
哲学素人の限界です。ご勘弁ください。
実在とは?
22 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 17:54:07 0
>>21 > 救いを求める者 さん
実在の定義は既に示しました。
物質であるか物質と相互作用するものが実在です。
物質以外の実在としては霊魂が考えられています。(二元論の場合)
結論では物質以外に実在は存在しません。
23 :
11:2009/04/09(木) 18:31:37 0
>>22 >結論では物質以外に実在は存在しません。
ならやはり実在を物質で定義すればいい。
24 :
満豚:2009/04/09(木) 18:47:20 O
>>9 ぽん太郎くんの返答は回りくどいなぁ。だいたい「物理実体」って何?って感じだな。回りくどいくせに、そこんところの説明が一切ないのは失礼だとは思わない?
だから教えてよ。君は「物理実体」という言葉をどういった意味で使用しているの?
25 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 18:50:23 0
>>23 結論を導く過程では物質以外の実在も考慮する必要があります。
ですので、実在を物質で定義することはできません。
26 :
11:2009/04/09(木) 18:54:58 0
>>25 >結論を導く過程では物質以外の実在も考慮する必要があります。
>結論では物質以外に実在は存在しません。
この2つの実在は違うのか?
ならば分けた方がいいな。
27 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 19:00:14 0
>>24 > 満豚さん
物理学の対象である素粒子やそれらから構成されたもの、光の媒体である空間等を物理的実体と考えています。
単純に言えば物理学の対象物が物理的実体ということです。
物理的実体といえばその指している意味は明白である、というのが筆者の感覚です。
回りくどいとか、説明不十分とか評される感覚がわかりません。
28 :
心の仕組みドットコム:2009/04/09(木) 19:09:07 0
<問1> 世界とは何か、生命とは何か、人間とは何か
世界とは何か、
世界は、私の好きな大事な庭です。
生命とは何か、
他に掛け替えの無い、大切なものです。
人間とは何か、
自分と、全ての間を取り持つ心を得れる生物です。
29 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 19:11:41 0
人間の感覚機能で知覚出来ないものは対象外なんでしょ?
世界とは何かっていうのもあくまで人間的な話でしょう?
その真の答えって、要は事実というよりはぽん太郎さんの解釈でしょう?
>>22 するとやはり問題が起きるように思う。
というのはその定義だと「もの」が未定義だからである。
私はこの点についてかれこれ2年は悩んでいる。
31 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 19:26:25 0
>>29 > 考える名無しさん
人間の感覚機能で知覚できないもの、いかなる物理的測定器を使用しても検出出来ないものは実在でないと考えています。
それは、物質(人間の感覚器官、物理的測定器)と相互作用しないことを意味します。
物質と相互作用しないものは筆者の定義により実在でありません。
その意味でそのようなものは(実在の)対象外となります。
その真の答えが、筆者の解釈にすぎないのか、それとも客観的事実と言えるのか、
それは読者の皆さんの判断にお任せします。
32 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 19:56:29 0
>>30 > 救いを求める者さん
『「もの」が未定義』と仰る意味が理解できませんでした。
以下は救いを求める者さんが求める回答とは異なるかもしれませんが筆者が関連する話題と考えたことについて述べます。
世界は物質のみよりなっている、と述べました。
それでは物質とは何か、が問題になります。
単純には物理学の対象物が物質であり、物理学により定義されるものが物質です。
問題は物理学によって定義されている物質とはそもそも如何なる存在か、という点です。
つまり、物理学で定義される以前の物質存在の意味が問題なのです。
この問いについて、我々人間は答えることができません。
この問いは我々の知の限界を超えています。
もしこの問いに答えるとすれば、我々はこの世界の外に出て、外からこの世界を客観的な眺める必要があります。
残念ながらそれは実行不可能です。我々はこの問いに答えることはできません。
同様に、なぜこの世界がこのような形で与えられているのか、という問いにも我々は答えることができません。
我々にできるのは、この世界が物理学の示す通りの物質よりなる世界として、それを前提として、それを出発点として
この世界を理解するしかありません。
その前提を、出発店を遡って理解することはできません。これが我々の知の限界です。
33 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 20:21:03 0
例えば意味、思考、感情、未来
これらはぽんたさんのいう「もの」に含まれますか?
34 :
11:2009/04/09(木) 20:35:53 0
あれ?〜
35 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 20:40:43 0
>>32 >物理学により定義されるものが物質です。
じゃ、時間や空間も物質でいいのかな?
36 :
11:2009/04/09(木) 20:43:10 0
おーい。 ボクがきましたよー。
おーい。
37 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 20:45:44 0
>>32 >物理学により定義されるものが物質です。
まだ、まだいっぱいあるね。
力は物質なの?
温度は物質なの?
エントロピーは物質なの?
電荷は物質なの?
光速度は物質なの?
質量は物質なの?
38 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 22:03:23 0
この世界は物質のみよりなっていることを述べました。
なぜそう言えるのかについて述べます。
もし、物質以外に存在(実在)するものがあるとすれば、それは物質と相互作用しなければなりません。
物質と相互作用があってはじめて存在(実在)と言えるからです。
物質以外で物質と相互作用するものがあるのか否か、それが問題です。
もし物質以外で物質と相互作用するものがあるとすれば、それは物質の運動に影響を及ぼすことになります。
それは物質の運動に影響を及ぼす以上、物質の運動法則(物理法則)にその影響を示す記述がなければなりません。
物質の運動法則(物理法則)には物質の運動に影響を及ぼすすべての力について記述が必要だからです。
もし、物質の運動に影響する力が物理的力以外にも存在するにもかかわらず、それが物理法則の記述に含まれていないとすれば、
物理法則自体が成立しないからです。
しかるに物理法則の記述の中に記述されているのは物理的力のみであり、物理的以外の力は全く含まれていません。
これは、物質が物質以外のものと相互作用していないことを示しています。
したがって、物質以外に存在(実在)は無い、ことが結論できます。
言い換えれば、この世界は物質のみよりなっている、ことが結論できます。
つまり、唯物論の正しさが結論できたことになります。
残る問題は、下記の問いに答えることだけです。
・唯物論で心とは何かを明らかにすること。
・唯物論でクオリアとは何かを明確にすること。
...つづく
39 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 22:17:49 0
>>33 > 考える名無しさん
>物理学により定義されるものが物質です。
うーん、確かに説明不足ですね。
下記のように言いかえることにします。
> 物理学により物質(物理的実体)として定義されるものが物質(物理的実体)です。
以上でいかがでしょうか。循環的定義でいまいちですが。
空間は物理的実体ですが、時間は物理的実体ではありません。
答えじゃなくて前提じゃねーかよクソが
41 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 22:29:52 0
>>33 > 考える名無しさん
本スレッドの筆者の文脈では、「もの」という語を主に実在物や実在物の候補(例えば、物質や霊魂)をさす語として使用しています。
この語法では「意味、思考、感情、未来」は「もの」ではないことになります。
ただし、文脈によっては「意味、思考、感情、未来」も「もの」と呼ぶ場合があります。
どの意味で「もの」という語を使用しているかは文脈によります。
どの語がどの意味で用いられているかは文脈よりご判断願います。
42 :
ぽん太郎:2009/04/09(木) 22:35:34 0
>>37 > 考える名無しさん
定義が説明不足でしたので別レスで言い直しました。
例示されているものはいずれも物質(物理的実体)ではありません。
43 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 07:31:58 0
自由意志は存在しない、ことを述べました。
ここでは、自由意志とは何か、なぜ自由意志が存在しないと言えるのか、について述べます。
自由意志は存在しない、と述べると、意思が存在しない、と主張しているのだとよく勘違いする人がいます。
もちろんそうではありません。
自由意志は存在しない、というのは、意志の存在を前提としたうえで、その意志が自由でないことを主張しているのです。
意志の自由は存在するか否か、それが問題です。意志は自由か否かそれが問題です。
意志の自由とは何からの自由かといいますと、物理的条件からの自由ということです。
同一の物理的条件のもとで、複数の選択肢の中から自由に行動を選択し得る、なら意志の自由は存在すると言えます。
今、二筋に分かれた道があり右の道へ行くか、左の道へ行くか、決めようとしている場面を想定します。
もし、同一物理的条件のもとで、右の道へ行くことも左の道へ行くことも可能であれば、意志の自由が示せることになります。
では、実験を開始します。
まず、右の道を行ってみます。問題なく行けました。
元に戻って、次は左の道を行ってみます。問題なく行けました。
これで、同一物理的条件のもとで、右の道へ行くことも左の道へ行くことも可能であることが実証できました。
これで意志は自由であることが示せました。めでたし、めでたし.........
?????? はてさて、これで本当に意志の自由が示せたことになるのでしょうか?????
...自由意思について、つづく
44 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 08:53:24 0
[自由意志について・その2]
二筋の道を左右へ行く実験を示しました。これで意志の自由を実証したことになるのか否か、それが問題です。
一回目の試行では右へ行き2回目の試行では左へ行きました。
しかし、一回目の試行と2回目の試行では試行者の記憶内容が異なっています。
2回目の試行時には、一回目に右へ行ったという記憶がありますが、一回目の試行時にはそうした記憶がありません。
記憶内容の変化は意志の決定に影響を及ぼす重要な物理条件の変化です。
前回示した単純な実験では、2回の試行が同一物理条件のもとに行われていません。
したがって、前回の単純な実験では意志の自由を実証できません。
意志の自由を実証するためには、試行者の記憶内容も試行ごとに同一にしなければなりません。
試行者の記憶内容も試行ごとに同一にしてはじめて、同一物理条件での試行が可能になるのです。
我々の記憶内容は常に変化していますので記憶内容を試行ごとに同一にすることは不可能です。
したがって、実際上、意志の自由を直接実証することはできません。
意志が自由であるか否かは、間接的方法により論証するしかありません。
...自由意志について、つづく
45 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 09:45:07 0
[自由意志について・その3]
意志の自由を直接実証することは不可能であることを示しました。
ここでは、意志の自由を判定するための思考実験を示します。
世界のどこかで起こった小さな出来事でもめぐりめぐって我々に影響を及ぼす可能性があります。
つまり、世界のどこかで起こった小さな出来事でも我々の意思に影響を及ぼす可能性があると言うことです。
同一物理条件を作り出すためには実験を行う場所とその周辺のみではなく、全世界的に同一物理条件を整える必要があります。
遥かに遠い星から何万光年もかけてやってきたかすかな光さえ、我々の認識に変化を与え、我々の意志に変化を及ぼす可能性があります。
また試行者の記憶内容も同一にする必要があります。
このように同一物理条件を整えることは至難の業であり実際上実行不可能です。
ここでは思考実験による方法を示します。
それはビデオテープを巻き戻すように時間を巻き戻す方法です。
ここで、二筋の道を左右へ行く実験を再度行うことにします。
まず、第一回目の試行では、左右どちらかの道を自由に選択して行きます。
ここで、時間を実験開始時点まで巻き戻します。
これで、第2回目の試行を行います。
左右どちらかの道を自由に選択して行きます。
さらに、試行ごとに時間を巻き戻しながら、試行を繰り返します。
この方法で、同一物理条件下での試行が可能になります。
もし、試行ごとに異なる選択をおこなう場合があれば、意志の自由を示せたことになります。
もし、何回試行しても同一選択しか行わないとすれば、意志は自由でないことを示せたことになります。
皆さんはどちらの結果になると思いますか?
もちろん、これは思考実験であり実際に実験することはできませんが。
...自由意志について、つづく
46 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 12:30:39 0
[自由意志について・その4]
自由意志は何らかの力によりもたらされます。
その力は物理的な力とは異なる力であり、物理的力からは独立した力です。
その力を以下、自由意志の力と呼ぶことにします。
通常、自由意志の母体は霊魂とされており、自由意志の力をもたらすのは霊魂です。
(もちろん、これは二元論の場合のみの話です)
自由意志の力は物理的力からは独立した力であるため、同一物理条件下で複数の行動を選択し得るのです。
自由意志は決して物質(物理的実体)からは生まれません。
自由意志が存在するためには物質とは異なる実体が必要です。
自由意志を担い、自由意志の母体となる実体、物質とは異なる実体が必要です。
二元論では、自由意志を担い、自由意志の母体となる実体として霊魂が示されています。
自由意志は唯物論からは決して生まれません。
すでに存在論の真の答えは唯物論にあることを述べましたので、自由意志は存在しないことが結論できます。
...自由意志について、終わり
47 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 13:36:08 0
[自由意志について・番外]
孫悟空がお釈迦様の手のひらから飛び出そうとする場面を思い浮かべてください。
孫悟空は懸命にお釈迦様の手のひらから飛び出そうとしますが、ついにお釈迦様の手のひらから飛び出すことはできませんでした。
ここからは喩です。
お釈迦様の手のひらの上は自由意志のない世界です。
お釈迦様の手のひらの外には自由意志に満ちた世界が広がっています。
我々はお釈迦様の手のひらの上にいます。
孫悟空がお釈迦さ物手のひらの上で自由に動き回れたように、我々もお釈迦様の手のひらの上で自由に動き回ることができます。
我々がお釈迦様の手のひらの上で自由に動き回れるのは、自由意志によるものではありません。
我々の高度な環境対応能力、我々の高度な状況判断能力により、お釈迦様の手のひらの上で自由に動き回れるのです。
鉄腕アトム(機械)がこの世界の中で自由に動き回れるように、我々もこの自由意志の存在しない世界の中で自由に動き回れるのです。
我々は決してお釈迦様の手のひらの外へ飛び出すことはできません。
我々は決して自由意志に満ちた外の世界へ飛び出すことはできません。
以上
48 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 13:57:53 0
>>29 > 考える名無しさん
追加レスです。
> 世界とは何かっていうのもあくまで人間的な話でしょう?
この文は観念論的相対的視点でお考えになっているように感じました。
読んでいただけばお分かりのように、筆者は客観的実在論の立場をとっています。
この世界は客観的存在であり、だれにとっても共通の客観的存在である、と考えています。
その意味で、世界は何かというのは単なる人間的な話、個々人に相対的な話ではないものと考えています。
49 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 16:16:59 0
>>10 > 考える名無しさん
> 機械どんも懲りないのう
こうした発言は、ご自身が確かに自動機械ではないことをはっきりさせた後に行ったほうがよろしいかと。
例えば、自由意志の存在を実証するなり論証するなりした後ということですが。
あとで、自分自身も自動機械にすぎなかったことに気づけばばつの悪いことになりますから。
50 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 17:31:24 0
[物理学とは何か]
E.フッサールはその著書のプロローグで、自然科学の研究対象は頭のない身体である、と述べています。
そして自分(フッサール)は頭と身体を含めたすべてを対象として研究し全ての真実を明らかにしたい、と述べています。
* 今、当該書籍が手元になく記憶で書いていますので文面はこの通りではなかったかもしれません。 *
ここで、頭というのは精神的なものを意味し、頭を除いた身体というのは物質的なものを表しています。
自然科学の研究対象は物質的なもののみであり、この世界の一部分しか研究対象としていない。
したがって、自然科学は部分的な学問にすぎない。
自分(フッサール)は物質的なものと精神的なものを含むすべてについて研究し、この世界のすべての真実を明らかにしたい。
以上が、フッサールの述べている内容です。
自然科学の研究対象は物質的なもののみであり、この世界の一部分しか対象としていない。
この、主張はフッサールに限らず多くの哲学者が認めている主張であろうかと思います。
しかしながら、この主張は誤っており誤解です。
以下は、自然科学の基礎をなす物理学を代表として述べます。
物理学は、世界とは何か、という存在の問いに対して、その問いのすべてに答えるための学問です。
決して、この問いの一部だけに答えようとしているわけではありません。
物理学はこの問いのすべてに答えるための学問です。
では、なぜ物理学は精神的なものを対象とせず、物質的なもののみを対象としているのかといいますと、
それは、この世界が物質的なもののみよりなっていることの結果です。
精神的なものは物質系のある働きであり、存在物(実在物)ではありません。
したがって、存在物(実在物)の基礎を研究対象とする物理学の研究対象にはなりえません。
精神的なものは物質系から生まれる、ある働きであり、物質系の派生物にすぎません。
存在についての基礎的研究の対象にはなりえません。
物理学こそ存在の問いのすべてに答える学問です。
物理学の示すものこそがこの世界存在の全てです。
以上
51 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 18:09:01 0
[量子と実在]
物理学には測定問題という未解決の問題があります。
そこでは、量子(素粒子)が如何なる存在であるかが問われています。
つまり、物理学における存在問題といったところです。
測定問題とは如何なる問題かについてここで述べるつもりはありません。
測定問題について書かれた下記の書物について、本スレッドと関連する部分のみについてコメントします。
> 「量子と実在」(不確定性原理からベルの定理へ) 柏陽社刊 ニック・ハーバート著 はやし・はじめ訳
この著書では量子は如何なる存在かという問いに対して、8つの答え(主張)が述べられています。
この内、7番目の主張は下記の通りです。
> 量子実在#7 −意識が実在を創造する− (上記書物よりの引用です)
測定者の意識が測定結果を左右する、測定者の意識が実在を創造する、というショッキングな主張です。
当時マスメディアでかなり話題になりましたので目にした方も多いかと思います。
しかし、この主張は無効です。
この世界に存在するのは物質のみであり、現象としては物理的現象のみしか存在しません。
意識(精神現象)も物理現象の一部にしかすぎません。
もし二元論が正しく、精神的現象と物理的現象が別物であれば上記の主張は有効ですが、
そうではありませんので上記の主張は無効です。
52 :
満豚:2009/04/10(金) 19:14:43 O
>>27 〉物理的実体といえばその指している意味は明白である、というのが筆者の感覚です。
君に限らず多いんだよね〜。ここで使用されているような「感覚」で文章をつくる奴が。でも、このことはもういいですよ〜。こんなことで言い合うつもりはありませんので〜。
〉単純に言えば物理学の対象物が物理的実体ということです。
こら!ぽん太郎くん!!僕を馬鹿にするのもいい加減にしてくれたまえ! そんなことは百も承知で僕は君に君の使用する「物理実体」という言葉の意味をたずねたんだよ!! まず君は
〉世界は物質のみによってできている
と言った。更に
〉正確には物質ではなく物理実体
だと修正した。つまり
「世界は物理実体のみによってできている」
と君は言っているわけなんだけど、この君の使用する「物理実体」とは、他のレスを見るかぎり、おそらく認識論で言うところの「物そのもの」だとか「物自体」といったところだろうな。
君の嫌いな「認識」という言葉を使用するならば、人間の認識がおよぶ以前のもの。といったところだろう。どうだい?ぽん太郎くん?僕の解釈が間違ってたら教えてよ。
ちなみに僕は認識論者ではありませんので〜。
53 :
考える名無しさん:2009/04/10(金) 19:39:58 0
意志の自由の前に「自由」とはどういうことかを定義しておくべきだろ。
何でもかんでも無定義ではじめるのは悪い癖だね。
選択の自由というならそれは選択するときだけの意志の問題であってその後の行動は
含まれない。行動の自由なら物理的法則にしたがって行動するのも自由のうちだろ。
物理で自由落下とはどんな運動を言うのか知ってないのか?
物体にさえ自由はある。
54 :
満豚:2009/04/10(金) 20:24:13 O
〉ぽん太郎
ごめん、ごめん。君の嫌いなのは観念論かぁ。ま、どっちでも良いけどね〜。
55 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 22:04:06 0
[茂木健一郎とクオリア]
以下は、茂木健一郎さんの出されているクオリアに関する本の感想です。
茂木さんはクオリアに関する本を何冊か出されていると思います。
茂木さんのクオリアに関する本には、クオリアとは一体何であるのか、という問いに対する答えは全く書かれていません。
クオリアの本質は何であるのか、クオリアの真の意味は何であるのか、この問いに対する答えは茂木さんの本を読んでも
何も明らかになりません。
茂木さんの本を読んでわかるのは、クオリアとは如何なる現象であるのか、ということだけです。
もし、あなたが「クオリアってどんなの?」という疑問をお持ちであれば、茂木さんの本にその答えが載っています。
しかし、クオリアの本質、クオリアの真の意味について問うても、茂木さんの本にその答えを見つけることはできません。
茂木さんの本を読んで一般の人が感じることは、クオリアとは何か訳の分からない怪しげなものだ、ということであろうと思います。
恐らく、茂木さんの本を読んで、クオリアについてよく分かった、クオリアについてすっきり分かった、と感じる人はほとんどいない
だろうと思います。
それは、クオリアとは一体何であるのか、という問いに対する答えが全く書かれていないからです。
ニューロンの発火という言葉を使ってもクオリアの本質は何一つ明らかになりません。
以上
56 :
I love you.:2009/04/10(金) 22:06:34 0
I love you.
I love you.
I love you.
I love you.
I love you.
調べりゃ出てくるような話を垂れ流してるだけだな。
58 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 22:59:55 0
>>52 > 満豚さん
ん〜、物理的実体というのは物理学の本に載っている通りのもので、明白すぎてこれ以上説明のしようがありません。
物理的実体というのは「物そのもの」だとか「物自体」だといえば、そうとも言えるかましれませんが、「物そのもの」だとか
「物自体」という語はカントの観念論で出てくる言葉で、不可知の実在を指す言葉です。
筆者は観念論ではなく、客観的実在論の立場で考えていますので、物理的実体は認識可能な存在(実在)として
考える立場です。
筆者は客観的実在論の立場で考えており、また、自然科学的、物理学的視点でこの世界をとらえています。
通常、哲学では実在と現象をきっちり分けたうえで議論を行いますが、筆者の場合実在と現象を明白に切り分けず、
両者を同一視した視点で物事を見ています。
それが、つまり、自然科学的、物理学的視点でこの世界をとらえているということの意味です。
もちろん、実在と現象が別物であることは十分承知しているつもりです。
実在と現象をはっきり切り分けて議論する必要があると判断した場合は、はっきり切り分けて議論を行います。
筆者の文脈では実在と現象をはっきり切り分けなければならない場面はほとんど出てきません。
以上
59 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 23:05:59 0
>>54 > 満豚さん
好き嫌いの問題ではなく、何が真実かが問題なだけです。
観念論で存在論の問いに答えることはできない、と考えています。
60 :
ぽん太郎:2009/04/10(金) 23:23:00 0
>>53 > 考える名無しさん
意志の自由の「自由」というのは物理的条件からの自由を意味します。
同一物理条件下において複数の選択肢から自由に行動を選択可能な場合、その意志が自由意志であることになります。
自由意志により選択が行われ、その選択の結果に基づいて行動が行われることになります。
自由落下の場合の自由と、自由意志の場合の自由では意味がまったく異なります。
物体にもある自由は自由意志の自由とは全く異なります。
61 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 02:41:26 O
重複スレ
>>60 通常の自由の意味でいいのでは?なぜ一般的な自由とは別の意味であえて自由という
言葉を使うのでしょう。
Aの自由という場合Aにおいて制約が無いという意味。意志の自由ではその意志を制約
するのが無ければ自由なのではないでしょうか。
すべては霊魂という考えとすべては物質という考えは違う考えなのかな。
64 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 03:47:09 0
518 :考える名無しさん:2009/04/10(金) 19:58:55 0
2ちゃんねるで真偽を見分けられるならもう大学も行く必要ないだろ。
無学者の一員で十分通用する。
無学者というのは「学が無い者」ではなく「学ぶことが無い、全知者」
を意味する。
65 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 08:35:09 0
>>60 >意志の自由の「自由」というのは物理的条件からの自由を意味します。
意志が物理的条件に制約されるということは意志が「物理的実体」で
あると認めてることになるだろ。無関係なものなら相互作用が無いのであって
制約されることは無い。
物理的条件からの自由でも物理的条件に従うことも自由だろ。
>自由落下の場合の自由と、自由意志の場合の自由では意味がまったく異なります。
それは言葉の使い方を知らないだけだね。
「自由落下」と「自由意志」とでおなじ「自由」という言葉が使われるからには
そこに共通する「意味」が無ければならないだろ。
その共通の「自由」の意味とは「自分による」ということだろ。
「自」とは「自分」のこと、「由」とは「よる」ということ。
「自由落下」を擬人的に表せば「俺は重力だけにしたがって落ちたいのに空気が
邪魔しやがって」ということだろ。
「自由意志」なら「俺は自分の意志によってきめている。他人から強制されている
いるのではない」ということだろ。
自由に落下する、落下を制限するものがないという状態ですね。
制限するものはあるよ。重力。
自由落下とは重力以外に制限するものがないということ。
自由意思とは自らの意思以外に制限するものがないということ。
それが他人の強制力だろうとミクロな物理的条件であろうと。
この二つの「自由」の意味が同じかどうかはこの際どうでもいい話。
68 :
ぽん太郎:2009/04/11(土) 22:02:57 0
繰り返しになりますが、物理的実体とは何か、について述べます。
物理学の対象となる存在物(実在物)が物理的実体です。
具体的には素粒子および、光の媒体である空間を指します。
力や温度やエントロピーは存在物(実在物)ではありませんので物理的実体には含まれません。
物理的実体という言葉を簡略化して述べる場合は物質という語を使います。
通常筆者の文脈ではほとんどの場合、物理的実体という語の代わりに物質という語で済ましています。
それは、一般の読者にとって物理的実体という語より物質という語のほうが親しみやすいと思うからです。
(専門の哲学者でない)一般の読者にも分かりやすい、読みやすいスレッドにしたいと思うからです。
筆者自身哲学素人です。一般の読者にも読んでもらえるスレッドを目標にしています。
69 :
ぽん太郎:2009/04/11(土) 22:31:45 0
[ちょっと一息・休憩タイムです]
ここまでいろいろ書いてきましたが、この中には筆者オリジナルの部分はほとんど含まれておりません。
これまで述べたことは、既存の存在論に関する様々な主張を敷衍して述べているだけです。
もちろん、敷衍して述べているのは筆者の結論に関連する話題についてのみですが。
筆者オリジナルの部分を述べるのはもう少し先になります。
これまで述べたことは、筆者オリジナルの主張を述べるための土台作り、足場作り、足場固め、と
いったところです。
P.S.
できるだけ誤字脱字のないように気をつけているつもりですが、読み返してみると誤字脱字だらけです。
ん〜まだまだ修業不足ですね.....(^^;;;
70 :
ぽん太郎:2009/04/11(土) 23:18:12 0
>>65 > 考える名無しさん
> 「自由落下」と「自由意志」とでおなじ「自由」という言葉が使われるからには
> そこに共通する「意味」が無ければならないだろ。
同じ自由という語がつかわれている以上当然共通の意味合いが含まれていますが、
別の熟語の一部として使われている以上、共通でない意味合いも含まれています。
自由意志の問いの中で問題になっているのはまさに、その共通でない意味合いの部分に於いてです。
> 「自由意志」なら「俺は自分の意志によってきめている。他人から強制されている
> いるのではない」ということだろ。
違います。他人から強制されているか否かは、無関係です。
自由意志があるか否かとは無関係に、
> 「俺は自分の意志によってきめている。他人から強制されているのではない」
この主張は成立し得るからです。
孫悟空の喩で述べましたように、自由意志があろうとなかろうと我々が自由であるのに変わりは
ありません。
71 :
ぽん太郎:2009/04/12(日) 04:33:54 0
>>62 > 飛べないカラスさん
> 通常の自由の意味でいいのでは?なぜ一般的な自由とは別の意味であえて自由という
> 言葉を使うのでしょう。
筆者は、当該発言においては、自由意志の有無について議論しているわけですが、
このレスの文面を読むと、自由意志の有無の議論の意味をご理解いただけていないように感じました。
例えば、もし、自由意志の自由と自由落下の自由を同じ意味に使ったとすれば、まったく無意味な議論
になってしまいます。
> Aの自由という場合Aにおいて制約が無いという意味。意志の自由ではその意志を制約
> するのが無ければ自由なのではないでしょうか。
このレスも、自由意志の有無の議論の意味をご理解いただけていないように感じました。
制約云々という表現も、自由意志の議論には似つかわしくない語法であるように思います。
もし、あえて制約云々という語を使用するとすれば、
同一制約下で複数の選択肢の中から自由に行動を選択可能であるのか否か、それが問題です。
つまり、制約の有無は何も問題になっていません。
制約があることは前提です。制約がある状況で、かつ、複数の選択肢の中から行動を選択しなければ
ならない場合の問題です。
同一制約下で、複数回の試行を行った場合、試行によって異なる選択をすることが可能であるのか否か、
それが問題です。
しかし、やはり、制約という語は不適切です。物理条件という語を使用するほうが適切です。
同一制約下という語より同一物理条件下でという語を使用するほうが適切です。
72 :
ぽん太郎:2009/04/12(日) 04:46:55 0
>>63 > 飛べないカラスさん
少なくとも筆者にとっては違います。
すべてが霊魂なら、物質は存在しないことになり、筆者の実在の定義によれば実在がないことになります。
筆者は客観的実在論の立場をとっており、実在なしには始まりません。
すべてが物質なら問題なく実在を定義でき何も問題を生じません。
>>71 自由の説明に使用される語としては物理条件より制約の方が一般的です。しかも、言葉には
指し示す対象があるという一般的理解に反して
>>6 で自由意思は存在しないとしている。
あらかじめ存在しないしないものとして独自の用語で定義してもそれをいくら存在しないと
説明してもそれだけの閉じた説になってしまいます。
>>72 物質の方が客観的というニュアンスのレベルでとどまり霊魂と物質の違いをあらためて説明しないで
いくら物質が実在といってもやはり独自用語の定義で完結した閉じた説になるような気がします。
74 :
ぽん太郎:2009/04/12(日) 21:10:47 0
[心とは何か] 心とは情報処理という働きである。
心とは何であるかについて唯物論を基に明らかにします。
心とは物質系より生まれるある働きです。
どのような物質系より生まれる、どのような働きであるのか、それを明らかにします。
我々の脳を中心とした神経網は情報処理システムを構成しています。
この情報処理システムで行われる情報処理という働き、それこそが心です。
我々は脳をよくコンピュータ(情報処理機械)に喩えることがありますが、その場合でも通常、
そうした機械的なものやその働きのみでは心を説明できない、ものと感じています。
そうした機械的なものやその働きのみではなく、それに別途精神的なものを加えて初めて心が
説明可能であると感じています。
しかし、それは誤りであり、心とは何かを説明するのに、物質的、機械的なもの以外なにも必要としません。
心とは、(脳を中心とした神経網により構成される)情報処理システムを母体として生まれる、情報処理という働き
であるのです。
心というのは、そうした、純物理的、純機械的システムから生まれる働き、そのものであるのです。
心を生み出す母体は(脳を中心とした神経網により構成される)情報処理システムです。
その情報処理システムで行われる情報処理という働き、それこそが心です。
心は、存在物(実在物)ではなく、働きです。
以上
75 :
ぽん太郎:2009/04/12(日) 21:34:26 0
>>73 > 飛べないカラスさん
制約という語を用いて議論される自由は、自由意志で議論される自由とは意味合いが異なります。
自由意志の問題というのは、あくまで、同一物理条件下での複数選択肢からの選択可能性の問題です。
あくまで、同一物理条件下、ということであって、ここで制約という語は不適切です。
筆者は客観的実在論の立場をとっており、物質の客観的実在性、この自然世界の客観的実在性、は
前提であり、出発点です。当然、物質と霊魂では存在性が異なります。
76 :
ぽん太郎:2009/04/12(日) 22:40:38 0
[心とは何か・その2] 辞書からみた心の定義
辞書で心の訳を引きますと、人間の精神活動のこと、といった訳やそれに類似の訳が載っています。
これらの訳を見ますと、心は人間のみが持っているものだと言っているように見えますが、
そうではありません。
人間が心を持っていることは明らかであるので、人間の心については記述するが、人間以外の動物が
心を持っているか否かについては共通の見解がないので、それについては記述を控えているのです。
決して、心は人間のみが持っているものだ、と言っているわけではありません。
それは、心とは何か、その本質が分かっていないことの結果です。
心とは何か、その本質が分かっていない以上、人間の心についてのみ記述するしかないわけです。
筆者の場合、心とは何か、が(唯物論的に)明らかになった結果として、人間以外の動物についても
心の有無を明確に述べることができます。
すべての動物は心を持っている、というのがその結論です。
心の有無は情報処理システムの有無で判定できます。
情報処理システムが存在すれば、そこで情報処理が行われ、心が生まれることになります。
通常生物の情報処理システムは神経網により構成されますが、神経網を持たない原始的な生物でも、
神経網によらない原始的な情報処理システムが構成されていると判断できる場合は、そうした原始的生物も
心を持っていると判定できます。
以上
>>75 どのみち同一物理条件下では選択肢は存在しませんというのでは?それでは選択肢も一般の
使用法でなく独自定義で自由意志同様存在しないとするものに名前をつけているのでは?
存在するという意見が出るとそれは自分の定義のものではないと反論するしかないパターン
ではないでしょうか。物質と霊魂と存在性についてもあなたの定義があるのでは。
>>76 トランジスタで心を作る場合の最低条件は何でしょうか。1個だけでもいいのでしょうか。
79 :
ぽん太郎:2009/04/12(日) 23:36:11 0
[心とは何か・その3] 心と情報処理の関係
心は情報処理という働きですが、その逆、情報処理という働きはすべて心ということになるのかといいますと
それは違います。逆は必ずしも真ならず、です。
生物は生存機械であり、動物も生存機械ですが、動物における情報処理システムはその生存を支える機能と
して存在しています。
情報処理システムが本体の生存を支える機能として存在する場合、そこで行われる情報処理は心と呼ぶこと
ができます。
情報処理システムが本体の生存を支える機能とはなっていない場合、そこで行われる情報処理は心と呼べません。
つまり、生存を支える情報処理は心と呼べるが、生存と無関係な情報処理は心と呼べない、ということです。
動物の情報処理は生存を支える情報処理であり、心と呼ぶことができます。
それに対し、コンピュータの情報処理は生存と無関係な情報処理であり、心とは呼べません。
もし、コンピュータ制御のロボットがあり、その情報処理システムがロボット本体の生存を支えるように働く、
というように作られているならば、その情報処理は心と呼ぶことができ、そのロボットは心を持っていると
いうことができます。
80 :
ぽん太郎:2009/04/13(月) 00:08:29 0
>>77 > 飛べないカラスさん
自由意志は存在しない、同一物理条件下で選択肢は存在しない、というのは結論です。
議論の過程では、自由意志の有無は不明である、同一物理条件下で選択肢が存在するか否かは不明である、
という前提で議論を進める必要があります。またその前提で用語を定義する必要があります。
最初から、自由意志が存在しないことが明らかであれば、自由意志の有無について議論する必要がありませんし、
自由意志という語を定義する必要も使用する必要もないのは仰る通りです。
実在の定義やその他の定義について、筆者は筆者なりの見解に基づいて定義し、それを基に議論を進めている
わけですが、もし、それに同意できないのであれば、皆さんはみなさんなりの定義を提示して議論をお進めになれば
よろしいかと思いますが。
81 :
ぽん太郎:2009/04/13(月) 00:43:49 0
>>78 > 飛べないカラスさん
> トランジスタで心を作る場合の最低条件は何でしょうか。1個だけでもいいのでしょうか。
1個だけでも可能です。
心のもっともシンプルな形は単純反応にあります。
外部刺激に単純反応し、その刺激から遠ざかる行動をするような簡単なおもちゃを作れば、
そのおもちゃは心を持っていることになります。
その(刺激に対する)単純反応が心です。(その刺激から)遠ざかる行動が生存行動です。
その単純反応(情報処理)は生存行動に結びついているため、心と呼ぶことができます。
具体的には、熱センサー、モーターを備えた簡単なおもちゃを作れば OKです。
熱センサーが熱を感知すればモーターのスイッチが入りモーターの力で後方(熱源から遠ざかる)
へ移動するように作っておきます。
この熱センサーの部分はトランジスタ一個のみで制作可能かと思います。
この熱センサーの単純反応処理が心ということになります。
82 :
ぽん太郎:2009/04/13(月) 08:45:58 0
[心とは何か・その4] 心の原点
生物には、最もシンプルな心をもつ種から最も高度な心をもった種まで、さまざまな種が存在します。
人間はもっと高度な心をもった種です。
心の最もシンプルな形は単純反応にあります。単純反応はシンプルな形の情報処理です。
ここで、シンプルな心をもった生物を例示してみます。ゾウリムシです。
ゾウリムシは微生物であり、動物でさえなく、神経網さえ持ちません。
しかし、外部刺激に反応し生存行動を行うことができます。
ゾウリムシは、神経網によらない、情報処理システムを備えていると言えます。
ですので、ゾウリムシは心を持っていると言えます。
以上
83 :
ぽん太郎:2009/04/13(月) 14:58:41 0
[心とは何か・その5] 心と進化
進化の過程は化学進化と生物進化に分けられます。
化学進化は、無生物から生物が生まれる過程です。
地球誕生当時は地球上に生物は存在しませんでした。
化学進化の過程を得て、無生物から生物が生まれたと考えられます。
生物進化は生物が様々な遺伝子変化を遂げていく過程です。
遺伝子変化の結果さまざまな種が生まれます。
生存競争が行われ、その結果、生存競争力の強い種が生き残り、生存競争力の弱い種が
滅んでいくことになります。
これまで、化学進化や生物進化の過程には様々な説があり、我々はその過程のいくらか具体的な
イメージを得ることができています。
しかし、我々はこれまで、心が化学進化や生物進化の過程でどのように生まれたかについては
ほとんど具体的なイメージを得ることができませんでした。
それは「心とは何か」についてその本質、真の意味を知らなかったことの結果です。
これまで、ほとんどの人が、「心は物質的なもののみによっては説明できない何かである」と
感じてきた、信じてきたことの結果です。
本スレッドでは「心とは何か」その本質、その真の意味が明らかになった結果として、
また、最もシンプルな形の心のイメージを示すことができた結果として、無生物から心をもった
生物が生まれることが十分可能であることを示し得たと思います。
(シンプルな形の心のイメージ: 熱センサーを持つ簡単なおもちゃやゾウリムシの例を指します)
化学進化は純物理的、純化学的反応のみにより起こります。
それのみによって心も生まれます。霊魂等の非物理的存在はなにも必要としません。
以上
84 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 15:30:47 0
>>67 >制限するものはあるよ。重力。
はて?自由落下状態は無重力状態ではないか?
無重力の体験をするため航空機などの自由落下を利用するだろ。
重力だけにしたがって運動してる系の中では重力を感じないだろ。
85 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 16:07:41 0
ぽん太郎さんの言う「心」という用語は「命」や「魂」や「精神」と同じもの
としか理解できないね。
「情報」や「生存」の定義はなにかな?
情報は機能なのか物質なのか?
情報も実在するのかな?
86 :
ぽん太郎:2009/04/14(火) 08:08:38 0
>>79 > 自己レス、追加レスです。
[心とは何か・その3] 心と情報処理の関係(その2)
心は情報処理であるが、情報処理の全てが心とは限らないことを述べました。
生存を支える働きとしての情報処理のみが心と呼べることを述べました。
定義を拡張して、すべての情報処理を心と定義することも可能です。
そのように定義すれば、心は情報処理であり、情報処理は心であることになります。
その定義では、動物の情報処理のみならず、コンピュータの情報処理も心であることになります。
そのように定義することは可能であり、何も問題は生じません。
筆者の場合、心がもともと人間(動物)において定義されたことを尊重して、生存と結びついた
情報処理のみを心と定義しています。
以上
87 :
ぽん太郎:2009/04/14(火) 08:57:04 0
>>85 > 名前:考える名無しさん(レス#1)
> ぽん太郎さんの言う「心」という用語は「命」や「魂」や「精神」と同じもの
> としか理解できないね。
筆者は、心とは物質系の情報処理という働きである、と考えています。
もし、考える名無しさんが「命」や「魂」や「精神」を物質系の情報処理という働きである、とお考えなら
同じものであり、そうでなければ違うものであることになります。
88 :
ぽん太郎:2009/04/14(火) 09:25:00 0
>>85 > 名前:考える名無しさん(レス#2)
「情報」の定義について述べます。
まず、コンピュータの場合についての情報の定義です。(情報処理分野の専門用語としての定義です)
<定義> 情報: データに一定の意味が与えられたもの
コンピュータの中のデータは2進数列で表わされています。
この2進数列に、この部分は日付の数値を表す、この部分はタイトル文字列を表す、この部分は本文文字列を表す、
というように意味が与えられた場合、それが情報です。
ただ、ここは情報処理専門部屋ではないので、データと情報を特に区別せず、データもひっくるめて情報という語を
使用しています。
人間の場合、感覚器で受け取られたデータは神経パルスに変換され、脳を中心とした神経網により処理されます。
この神経パルス列は机の上のリンゴの色を表す、この神経パルス列は子供の笑い声を表す、等々というように
データ(神経パルス列)に意味が与えられたものが情報です。
89 :
満豚:2009/04/14(火) 09:49:15 O
>>58 OK〜、ぽん太郎く〜ん。 要は超単純に「そこに石ころが在るから、石ころが在る」ってことだね?
これまでの文脈上、これ以外に解釈しようがないっぽいんだけど、一応確認をさせてくれない?
90 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 09:49:50 0
>>88 >この神経パルス列は机の上のリンゴの色を表す、この神経パルス列は子供の笑い声を表す、等々というように
>データ(神経パルス列)に意味が与えられたものが情報です。
ニューロンの発火による神経パルス列は意味の違いによって符号化はされていないんじゃないの。
ただ感覚の強さによって発火頻度が違うくらいの差しかない。
これはどのニューロンもおなじ機能だね。それなのに情報処理ができることは
デジタルコンピュータとはまったく違ったしくみの情報処理ということだね。
やはりニューロンのネットワーク構造自体に情報処理機能があるということだろう。
いわゆるコネクショニズムが正しいのではないか?
91 :
ぽん太郎:2009/04/14(火) 10:25:03 0
>>85 > 考える名無しさん(レス#3)
「生存」の定義について述べます。
「生存」とは死でない状態のことです。ですので「死とは何か」が問題です。
人間(動物)の場合について述べます。
死は脳死段階と生物死段階に分けられます。
生物死段階は慣習上、法上の死、と全細胞死の段階に分けられます。
(1) 脳死 : 意識が消失し回復不能と判断される状態です。
(2) 慣習上、法上の死 : いわゆる3兆候(心肺停止、意識消失)が現れた状態です。
(3) 全細胞死 : 全細胞が死滅した状態です。
どの段階を人間の死とするかはさまざまな意見のあるところですが、本スレッドではそれ以上の
議論は行いません。
生物以外の場合について述べます。
コンピュータ制御のロボット(例えば鉄腕アトム)や例示した熱センサーおもちゃの場合、
情報処理機能が壊れれば脳死であり、動力源を含む本体が壊れれば、個体死であることになります。
もちろん、これらは修復可能であり、いつでも生き返らせることが可能です。
人間(動物)も物質のみよりできており、死んだ場合でも、原理的には修復し生き返らせることが可能です。
ただ、現在のところ、修復するに必要な技術力を我々は持ち合わせていない、というだけです。
92 :
ぽん太郎:2009/04/14(火) 10:56:24 0
>>89 > 満豚さん
多分、仰る通りかと思います。
物質は客観的実在であり、この自然世界(物質世界)も客観的実在である、
というのが筆者の立場であり、筆者の前提であり、筆者の出発点です。
物理的実体というのは筆者にとって明々白々な概念であり、満豚さんがそれの何を
問題にしているのか、なぜ問題としているのか、一向に把握できません。
恐らく、客観的実在論以外の立場でお考えになっているせいだろうとは思っていますが。
93 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 11:28:07 0
>>91 >(1) 脳死 : 意識が消失し回復不能と判断される状態です。
意識不明や昏睡は脳死じゃないだろ。
94 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 11:32:00 0
>>91 >(3) 全細胞死 : 全細胞が死滅した状態です。
細胞の死はどのように判定するのかな?
95 :
ぽん太郎:2009/04/14(火) 11:36:14 0
>>90 > 考える名無しさん
神経パルス列は、ニューロンの発火、符号化というレベルでは同じですが、各神経パルス列はそれぞれの
意味合いを持って処理されています。
その意味合いを含めて考えた場合、それが情報ということになります。
コンピュータの情報処理システムと生物の神経網による情報処理システムでは、その実現方式が全く異なり
ますが、情報処理システムであるという点では共通です。
コンピュータの情報処理システムはノイマン方式であり、逐次処理方式です。
生物の神経網による情報処理システムはニューロンネットワークによるものであり、並列処理方式です。
実現方式は異なっても、どちらも情報処理システムです。
コネクショニズムは(その正確な意味は知りませんが)、多数のコンピュータを網状に接続し、並列動作させることで、
ニューロンネットワークをシミュレートすることを狙ったシステムを指すものかと思います。
コネクショニズムがニューロンネットワークをうまくシミュレートできているか否か、という問題は
本スレッドの問題とは無関係です。
それが情報処理システムであるのか否かだけが本スレッドに関連する問題です。
96 :
ぽん太郎:2009/04/14(火) 11:40:49 0
>>93 > 考える名無しさん
勿論そうです。回復の見込みがありますから。
植物状態も回復の見込みがゼロではありませんから死ではありません。
97 :
ぽん太郎:2009/04/14(火) 11:43:13 0
>>94 > 考える名無しさん
そのあたりは生物学、医学の専門家にお任せします。
98 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 11:53:35 0
>>95 >神経パルス列は、ニューロンの発火、符号化というレベルでは同じですが、各神経パルス列はそれぞれの
>意味合いを持って処理されています。
個々のニューロンの発火は符号化されていないし識別できないんだろ。
どのニューロンが発火したかということに意味(情報)があるだけ。
これがコネクショニズムの言うところだろ。
人は何のために生きるか
人間は何のために生きるか、などという問いに対して答える
べきことはきまっている。そのように問うこと自体間違っている、
と答えればよい。そのように問えば必ず、人間存在以外の
何か或るものを人間存在の目的として探すことになってしまう。
しかし人間が何かのために生きる、などということがあっては
ならない。人間の生は「何か或るもの」などをはるかに超えた
巨大な質のものである。人間の生をけちくさい「何ものか」のために
犠牲にしたり、縮小したりしてはならない。そのような基準によっては
とてもはかることができない程度に、人間の生は、巨大で複雑な
実態である。
あるいはまた、その「何か或るもの」は人間の生の外にあるのでは
なく、人間の生の中にあるのだ、という人がいるかもしれない。
しかしそうだとすれば、人間の生の中にある一つの要素を
取り出してきて、それによって人間の生の全体を代表させることに
なる。それでは人間の生の不当で強引な縮小にしかならぬ。
これと似ているようでやや異なるのが、人は何によって生きるか、
という問いである。「何のために」という問いは、人間の生を何か
ある目的のために用いるという発想に立っているが、
こちらの問いは、人間の生が何によって支えられているか、
ということを問うている。従って、問いとしては前者の問いとは
鮮明に異なる。
そして、こちらは十分に問うに価する事柄である。けれども実際には、
こちらの問いも前者の問いとほとんど同じ質の事柄に還元されてしまう
ことが多い。何故か。
人間の生が何によってできあがっているか、と問うとすれば、
本当は、生の内容をなしている複雑多岐な構成要素に目が向けられる
はずである。それらの構成要素が人間の生をつくり上げているのだが、
逆にまた、人間の生がそれらの構成要素をつくり上げる。
別の言い方をすれば、人間の生をつくるさまざまな構成要素(A)が
他のさまざまな構成要素(B)を生み出していくのだが、こうして
生み出されたさまざまな構成要素(B)が、また力となって働いて、
はじめのさまざまな構成要素(A)をさらに生かし、つくり上げる。
むろん実際にはAとBなどと単純に分けることはできず、無数の要素が
複雑多岐に相互に働きあっている。
つまり、結論として言えば、人間の生の原因は人間の生であり、
人間の生の結果として人間の生が生み出される。
因と果は分けることができない。
そして、この複雑多岐な働きかたの総体が人間の歴史である。
(以下略)
以上、田川建三著 「宗教とは何か」第一部「「宗教を越える」より
ムダンテンサイゴメンナサイ
[心の働き]
以下、人間の場合について、心の働きを分析してみます。
筆者は、心の働きを3っつに分けて考えます。
認識、思考、意志形成の3っつです。
それに加えて、それとは別に、それらを補助する働きとして、記憶システムを考えます。
つまり、3+1で心の働きを捉えているということです。
認識はさらに、対象認識と自己認識に分けます。
対象認識は外部認識とも表現します。対象認識と外部認識は同じ意味で使用します。
自己認識は内部認識とも表現します。自己認識と内部認識は同じ意味で使用します。
思考は記憶内容を入力とし、加工し、新しい認識を生み出す働きです。
思考の結果生まれた新しい認識は記憶システムにより保存されます。
* ここで使用している「認識」という語は、直前で使用している「認識」の語とは異なる意味です。 *
* 別の語で表現したいのですが、適当な語を思いつきませんでした。 *
* とりあえず、そのままにしておきます。 *
意志形成は読んで字のごとく、意志を生み出す働きです。
記憶システムの働きは、記憶処理と想起処理の2つの処理で考えます。
記憶を保存するのが記憶処理であり、記憶を取り出すのが想起処理です。
心の働きのすべてをひっくるめて表現する場合、認識機械という表現を使います。
この場合の認識という語は心の働きすべてを含む広義の意味での使用です。
認識という語を狭義の意味で使用する場合は、対象認識と自己認識のみを含む意味で使用します。
広義の意味で使用しているか、狭義の意味で使用しているかは文脈で判断できるようにします。
認識機械という表現を使った場合は認識の語を広義の意味で使用しています。
以上
106 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/14(火) 18:27:12 0
>105
<認識はさらに、対象認識と自己認識に分けます。 >
自己認識(内部認識)と、対象認識(外部認識)とが対象とする、内部認識と外部認識との相違とは何でしょうか?
>>98 > 考える名無しさん
> 個々のニューロンの発火は符号化されていないし識別できないんだろ。
> どのニューロンが発火したかということに意味(情報)があるだけ。
何を問題とされているのか把握できませんでした。
本スレッドの問題(存在論)とは関連性の薄い問題を問われているように感じています。
脳の働き、ニューロンの働きの問題を問われているように感じます。
脳の働き、ニューロンの働きの問題は存在論と関連の深い部分もありますが、ここで
考える名無しさんが問題にされている部分は関連性の薄い部分であるように感じています。
> これがコネクショニズムの言うところだろ。
前レスでのコネクショニズムという語の筆者の理解は間違っていたようですね。
お詫び申し上げます。
>>99 > ケンゾーさん
> 人は何のために生きるか
この問いは当為論の問いであり、本スレッドの対象外としている問題です。
>>108 > ケンゾーさん(追加レス)
ケンゾーさんの一連のレスは当為論の問いであり、本スレッドの対象外としている問題です。
>>106 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU さん
> 自己認識(内部認識)と、対象認識(外部認識)とが対象とする、内部認識と外部認識との相違とは何でしょうか?
認識対象の違いです。
内部認識の対象は心の内部であり、外部認識の対象は心の外部です。
例えば、机の上にリンゴがある、という認識は外部認識です。
お腹が空いた、という認識も外部認識です。お腹が空いた、という場合のお腹は身体内部にありますが、
心の外部にあるため外部認識ということにになります。
それに対し、自分は今リンゴを見ている、という認識は内部認識です。
それは、自分の心が働いている状況に関する認識であり、心の内部を対象としています。
111 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/14(火) 19:22:09 0
>110
そうであるとすると、<机の上にリンゴがある>という認識(仮に外部認識とする)と、<自分は今リンゴを見ている>という認識(仮に内部認識とする)との相違点は、「自分は」という主語概念の有無ということになりますね。
112 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/14(火) 19:26:01 0
>>110 では、<机の上にリンゴがある>という「外部認識」の認識主体は何でしょうか?
113 :
執恒性 ◆O4UqE6bveQ :2009/04/14(火) 19:47:55 0
てついたには雑多なスレタイがたっている。
114 :
ネオマトリクス信者:2009/04/14(火) 20:20:57 0
殺せー!
産まれる前に殺せー!!
苦しみの元凶を殺せー!!!!
ひあー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
[世界とは何か] その真の答えを知るには
本スレッドを読むのが最も確実ですが、ここでは、それ以外の方法について述べます。
世界とは何か、世界とは如何なる存在か、その答えは物理学の本に書かれています。
物理学の本を読めばその答えを得ることができます。
物理学の中にこそ、この問いの真の答えがあります。
物理学こそがこの問いの真の答えを与えてくれます。
もし、世界とは何か、世界とは如何なる存在か、を知るため哲学を学んだとしても、この問いの真の答えを
得ることはできません。
哲学(存在論)の世界はファンタジーに満ちています。
哲学(存在論)を学べばファンタジー世界に迷い込むだけであり、ファンタジー世界から抜け出すことは困難です。
特に、観念論はファンタジーそのものです。
観念論は難解な用語に満ちています。哲学素人にはほとんど解読できません。
この観念論について、その難解さは高度な事柄を探求している為だ、事柄を精緻にとらえている為だ、
と評価する人がいますが、その評価は誤っています。
観念論の難解さは、深い森の中で道に迷い出口(真の答え、真実)を探しあぐねている姿を現しているにすぎません。
行けども行けども真実に近づけない、そういう状況を表しているにすぎません。
哲学(存在論)の中心には観念論があります。哲学(存在論)を専門に学ぶとすれば観念論を中心に学ばざるを得ません。
結果として、この問いの真の答えからは遠ざかるのみになります。
筆者の本スレッドの主張内容は単純明快です。この単純明快さこそが真実の証である、と考えています。
もし、筆者の本スレッドでの主張内容に多少難解な部分があるとすれば、それは既存の哲学について述べた部分です。
筆者本来の主張を述べた部分は単純明快です。
以上
>>111 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
内部認識は自己認識であり自分自身(の心)を認識対象としていますので、仰る通り「自分は」という主語付きで
表わされることが多いかと思います。
>>112 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
認識主体といえば、外部認識であるか内部認識であるかに関わりなく、認識を行っているその人自身(の心)、
であることになります。
[心の働き・その2] 別視点による認識の分類(論理認識と情念認識)
前回、認識を認識対象の違いから、対象認識(外部認識)と自己認識(内部認識)の2つに分類しました。
ここでは、認識を、別の視点で分類します。認識特性の違いによる分類です。
まず、コンピュータ制御のロボットを考えます。(以下、コンピュータ制御のロボットを単にロボットと略記します)
ロボットは機械そのものです。この、ロボットで人間をシミュレートすることを考えてみます。
鉄腕アトムやソニーのアイボをイメージしています。
結論では、人間自身、機械以外の何物でもないことを示しましたが、ここではしばらくそのことを忘れます。
ここでは、人間は単なる機械ではない、という日常的感覚・直観に戻って考えることにします。
我々の、日常的感覚・直観に従って、ロボットで人間をどこまでシミュレート可能かを考えています。
心の働き(認識)についてのみそのシミュレートを考えます。
心の働き(認識)以外の運動機能等についてのシミュレートは考察対象外とします。
心の働き(認識)をロボットでどこまでシミュレート可能で、どの部分がシミュレート可能でないか、それが問題です。
...つづく
[心の働き・その3] 別視点による認識の分類(論理認識と情念認識)
(以下、コンピュータ制御のロボットを単にロボットと略記しています)
いま、目の前に机があり、その上にリンゴが置かれている状況を考えます。
ロボットは目の前に机があることを認識可能でしょうか?
ロボットは机の上にリンゴがあることを認識可能でしょうか?
ロボットはそのリンゴの色が赤であることを認識可能でしょうか?
これらは何れも可能であることにどなたも異存はないだろうと思います。
これらはシミュレート可能であることが明らかな部分です。
さて机にぶつかってしまったとします。
人間なら「痛い」と感じてしまいます。ロボットも「痛い」と感じてしまうのでしょうか?
氷に触ってみたとします。
人間なら「冷たい」と感じてしまいます。ロボットも「冷たい」と感じてしまうのでしょうか?
何か喜ばしいことがあったとします。
人間なら「うれしい」と感じてしまいます。ロボットも「うれしい」と感じてしまうのでしょうか?
これらはどうもシミュレートできないと思われる部分です。
シミュレート可能であることが明らかな部分を論理認識と呼びます。
論理認識は純機械的認識です。
機械でシミュレート可能であることが明らかな心の働き(認識)です。
どうもシミュレート可能でないと思われる部分を情念認識と呼びます。
「痛い」という感じ、「冷たい」という感じはクオリアです。クオリアは情念認識に含まれます。
「うれしい」と感じることは感情(喜怒哀楽)です。感情(喜怒哀楽)は情念認識に含まれます。
情念認識にはクオリアや感情(喜怒哀楽)の他、人間の持つ様々な思い、想いが含まれます。
論理認識が純物質的に、純機械的に説明可能であることは明らかです。
はたして、情念認識が、本当に、純物質的に、純機械的に説明可能であるのか否か、
それのみが我々に残された問題です。
...つづく
[心の働き・その4] クオリアとは何か
クオリアの定義を下記に示します。
<定義> クオリア: 感覚に伴って感じる感じのこと
机にぶつかった場合に感じる「痛い」という感じ、氷を触った時に感じる「冷たい」という感じ、
そうした、感覚(五感)に伴って感じる感じ、それがクオリアです。
「熱い」という感じ、「明るい」という感じ、「暗い」という感じ、「うるさい」という感じ、「静かさ」の感じ、
そうした様々な感じがクオリアです。
「痛い」という感じを例としてクオリアの特性について述べます。
今だれかが机にぶつかって「痛い」と叫んだ場面を考えてみます。
彼の痛みを自分が感じることはできません。
彼の状況を自分の場合に引き写して、どのように痛いのかを類推することは可能です。
しかし、彼の感じている痛み自体を自分が感じることはできません。
彼の感じている痛み自体がクオリアです。
クオリアは決して他人に伝えることはできません。
もし、クオリアを伝えることが可能であれば、他人が感じている痛みそのものを自分が感じることも
可能になりますが、実際には不可能です。
クオリアは他人に伝えることができず、個々人の心の内に閉じています。
クオリアは個々人の心の内に閉じたものである。
それがクオリアの特性です。
クオリアは情念認識に含まれています。
「情念認識とは何か」を明らかにすれば「クオリアとは何か」も明らかになります。
以上
事実、経験、観測に繋がらずインターフェイスの無いローカル変数だけ決めてある
何の役に立つかわからないコードですね。
物質の定義が不明確だから物質でないものの定義もさらに不明確。
122 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/15(水) 19:51:08 0
>>119 <これらはどうもシミュレートできないと思われる部分です。>
痛点に相当するセンサーからの信号と、それに対応するデコーダー/ロジック回路を埋め込めば、「リンゴの色が赤であることが認識可能」と同じロジックで、「とりあえずは認識可能(あなたの言う「シミュレート可能」)」になりませんか?
>>120 <クオリアは決して他人に伝えることはできません。>
>>119で書かれている「目の前の机」、「リンゴの色が赤であること」は、前記の「痛み」と同じく、「他者が認識している机、赤色、痛み」等々の「認識」であり、論理としてのみ自他間で共有しあえるものです。
即ち、「目の前の机」、「リンゴの色が赤であること」を「論理認識」とするなら、個々人が感じている「痛み」もまた論理認識となります。
クオリアは(その存在を概念としても理解していませんが)、モナドと同じく、「窓が無い」。
だから、「論理認識」としての交通手段しか持ち得ないのでは?
123 :
満豚:2009/04/15(水) 19:57:20 O
>>92 ぽん太郎く〜ん、久しぶり〜。レスするよ〜。いつも遅くてごめんなさ〜い。
〉多分…
ってのが気に食わないなぁ。だって、これまでの文脈上こうとしか解釈出来ないんだもん。間違ってたら、間違ってると言って、と言ったのに、「多分」じゃあね〜。ま、いっか。次行ってみよ〜。
これで君が言っていた
〉世界は物質のみによりできている。
って主張の意味が理解出来たよ〜。相手の主張を誤解したまま議論を重ねることは失礼だからね。でね、ぽん太郎く〜ん。本題に入る前に一つ突っ込ませて。
君は「存在論を扱う」と言った。少なくとも君は扱っているつもりだ。更にその「真の答え」を僕らに聞かせてくれるとも言った。少なくとも君は、その真の答えを知っているつもりだ。
だからね、僕は純粋に期待してたんだ。だけど君ときたら僕の「つまり、そこに石ころが在るから、石ころが在るってことですか?」という確認に対し
〉多分、仰る通りかと思います。
と言ってしまう始末さ。だけど存在論を扱うってことはさぁ、「そもそも何故我々は、『そこに石ころが在る』と言えるのか? 何かが『在る』とは如何なることか?」という所から議論がスタートするんだと思うんだよ。地下に潜って行くって感じかな。
だけど君の場合は「まず石ころが在る」ってことが前提になってて、そこから議論がスタートするんだよ。つまり空に昇って行くって感じかな。とてもじゃないけど、存在論を扱っているとは言えない、というのが読書の感じるところではないでしょうか?
そこんところを、君自身はどう考えてるのかを一度聞かせてくれないかなぁ?
124 :
考える名無しさん:2009/04/15(水) 19:59:30 0
豚漫
125 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/15(水) 20:02:44 0
例えば、介護ロボットが、リンゴの赤色や、目の前の机や、「私」の痛み等をどのように感受していようが構わない。
要介護者に対し、信号を感受し計算処理された適切な処理を施してくれるのであれば。
俺が古いタイプの人間だからかもしれないが、
自分の二倍も三倍も長く生きてるであろう人に向かって「○○く〜ん」とか
呼びかけるのは失礼じゃないか?
127 :
考える名無しさん:2009/04/15(水) 20:19:19 0
>>123 >何かが『在る』とは如何なることか
有名な馬鹿質問 さすが豚は自覚がないか、豚じゃしょうがない
128 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/15(水) 21:44:27 0 BE:1709916858-PLT(13230)
何かが『在る』とは如何なることか
とりあえず自己が存在するのはこの時点において確か?だお^^・・・
129 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/15(水) 21:46:25 0 BE:769463429-PLT(13230)
で・・・この時点が難解なんだお^^
「時間」とは何か・・の問題に突き当たる・・・
[心の働き・その5] 論理認識と情念認識
認識(心の働き)をその認識特性の視点から論理認識と情念認識に分けました。
論理認識は純物理的に、純機械的にシミュレート可能と思われる心の働きです。
情念認識は純物理的に、純機械的にシミュレート可能とは思われない心の働きです。
この情念認識があるために我々は我々の心を「物質的なもののみによっては説明不可能な
何かである」と感じるわけです。
この情念認識があるために我々の心が「物質的なもののみによっては説明不可能な何かである」
と断定するする人が多数(あるいは、ほとんど)なのです。
情念認識には、クオリア、感情、その他のさまざまな思い、想いが含まれます。
これらは何れも我々が、物質的なもののみによっては説明不可能である、感じているものです。
本スレッドでは「この世界が物質のみよりなっている」という結論を示しました。
もし、その結論が正しければ、情念認識も物質的なもののみにより説明可能なはずです。
果たして、本当に、物質的なもののみにより、情念認識が説明可能であるのか否か、
それが問題です。
この問題こそ本スレッド最大の問題であり、それに対する解答こそが本スレッドの核心をなす部分です。
以上
>>123 > 満豚さん
前回「多分」と書いたのは、満豚さんが筆者とは全く異なる視点、まったく異なる立場でお考えになっていることを
感じたからです。
> 「そもそも何故我々は、『そこに石ころが在る』と言えるのか? 何かが『在る』とは如何なることか?」という所から
この文章を読むとハイデッガーを思い出します。最も観念論的視点での問題の捉え方ですね。
ハイデッガーは最もファンタジックな哲学者であり存在の真実からは遠くかけ離れた哲学者である、というのが
筆者の感想です。
物質は実在である、というのは筆者の前提であり、出発点です。それ以上潜ることはできません。
それは、それ以上潜ることのできない、我々の知の限界です。
筆者は、存在の真実を語るには客観的実在論の立場で考えなければならない、と考えます。
観念論では存在の真実について語りえない、と考えます。
現代の哲学界は観念論に毒されています。存在の真実からは遠ざかるばかりです。
>>122 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> 痛点に相当するセンサーからの信号と、それに対応するデコーダー/ロジック回路を埋め込めば、「リンゴの色が赤で
> あることが認識可能」と同じロジックで、「とりあえずは認識可能(あなたの言う「シミュレート可能」)」になりませんか?
痛点センサーで痛みを認識するところまでは論理認識です。
その先の「痛い」と感じる部分がクオリアであり情念認識です。
例えば、一般の人に「ロボットも痛みを感じると思いますか」と尋ねた場面を考えてみてください。
恐らく「ロボットが本当に痛みを感じるはずがない」という答えが返ってくるはずです。
ロボットは「痛みを感じたふりはできても、本当に痛みを感じるはずがない」というのが一般の人の認識であろうと思います。
この機械(ロボット)で実現不可能に思われる部分が、クオリアであり情念認識です。
> 即ち、「目の前の机」、「リンゴの色が赤であること」を「論理認識」とするなら、個々人が感じている「痛み」もまた論理認識となります。
「リンゴの色が赤であること」を認識するのは論理認識ですが、「リンゴの色の赤さ」を感じる部分はクオリアです。
この場合、論理認識部分と情念認識部分(クオリア)の区分けは少し解りづらいかと思います。
痛みの例のほうが、多少とも、論理認識部分と情念認識部分の区分けが解りやすいように思います。
我々の感覚認識には常に論理認識と情念認識が伴っています。
感覚認識のうち、どの部分が論理認識でありどの部分が情念認識であるのか、の区分けは多少わかりづらい場合もあります。
もし、機械(ロボット)では実現できない、と感じる部分があれば、それが情念認識です。
通常一般には、機械的なもののみでは人間の心を説明できない、と考えられていると思います。
この、機械的なもののみでは説明できない、と考えられている心の働きの部分が情念認識です。
情念認識クオリアが物質ではないから存在しないといいたいなら物質を明確にするべき。
自分では違うものと定義しているというだけで他人から見たら違いは不明瞭だよ。
134 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/16(木) 19:04:07 0
>>132 <その先の「痛い」と感じる部分がクオリアであり情念認識です。>
医師は、痛みを訴える患者に対し、問診、触診をしながら、どこが、どのように痛い?と質問し、患者の言葉による反応から「痛みの情報」を引き出します。
医師は、その情報から、その痛みの要因を専門知識と照合し治療法とマッチングさせます。
これができるから、体脂肪計メーカー等のように、数万人分からのデータの蓄積に基づくメモリー/ロジック回路等を作る必要が無いのです。
圧痛センサーも不要です。
溶接ロボット等に、暑さ、痛み、疲労等を感じるセンシング/感知/認識機能を与える必要性も、同様の理由から無い。
即ち、「実現不可能」なわけではなく、実現させる必要性が無いのです。
とはいえ、日常生活で出会う他者一般の「情念認識」も、「痛いんだろうなあ」、「哀しいんだろうなあ」、「死にたいんだろうなあ」、
という私(たち)の憶測の域を出ることはなく、私(たち)には伝達不可能なもの、共有不可能なものとしてとどまったままで認識されます。
確かに、医師に対し、言葉やその他の伝達手段を失った患者は悲惨です。
しかし、その悲惨さと、私(たち)が他者と接するときの日常的な感覚は、「同一」です。
即ち、「情念認識」は、私(たち)の想像力を超越したところに立地したまま放置され続けているだけで、「論理認識」の領域に、解読可能な範囲における情報としてのみ、そのつど与えられます。
ですから、あなたのいう「機械的なもののみでは説明できない、と考えられている心の働きの部分」(=情念認識)は、
「不在ではない(かもしれない)/偽ではない(かもしれない)」が、「語りえないもの」、即ち、世界を構成する概念/事実/事象等にはなりえない、ということになります。
[心の働き・その6] 論理認識と情念認識
我々の認識には、感覚に伴う認識の場合のみならず、すべての認識において論理認識と情念認識を
伴っています。
論理認識と情念認識はコインの裏表です。
論理認識と情念認識は分かちがたく結びついています。
どちらか片方のみで認識が行われることはありません。
論理認識と情念認識は常にペアです。
(話は変わります。以下は情念認識についてのみの話です。)
我々の心の働きのうち、物質的なもの、機械的なもの、のみによっては説明できないと感じる部分が
情念認識です。
もし、貴方が、心の働きはすべて物質的なもの、機械的なもの、のみによって説明可能であるのは
明らかであるとお考えなら、少なくとも、貴方にとって、情念認識の問題は存在しないことになります。
皆さんは、いかがお考えでしょうか?
以上
>>134 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
医師が患者について知りえるのは論理認識に基づく内容のみです。
患者の痛みそのものはクオリアであり情念認識であり、医師がそれを知ることができません。
推測することができるのみです。
クオリアを含め情念認識は伝達不能であり、個々人の心の内に閉じています。
論理認識の内容のみが伝達可能であり共有可能です。
医師は、患者から論理認識に基づいた情報のみを得て患者の状態を診断し治療を行います。
> 日常生活で出会う他者一般の「情念認識」も、「痛いんだろうなあ」、「哀しいんだろうなあ」、「死にたいんだろうなあ」、
他者の「痛みそのもの」「悲しみそのもの」「死にたいという思いそのもの」は情念認識であり、他人がそれを認識すること
はできません。
他人にできるのは推測することのみです。
話は変わりますが、これまで繰り返し述べている通り、情念認識は我々の心の働きのうち、物質的なもの、機械的なもの、
のみによっては説明できないと思われる部分を指します。
もし、wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさんが、我々の心の働きは、、物質的なもの、機械的なもの、のみによって説明可能である、
とお考えなら、少なくとも、wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさんにとって、情念認識の問題は存在しないことになりますし、
そうでなければ、やはり、情念認識の問題は存在することになります。
いかがお考えなのでしょうか?
137 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 21:05:36 O
重複スレ
138 :
ネオマトリクス信者:2009/04/16(木) 21:37:45 0
毒
[心の働き・その7] クオリアと情念認識
クオリアという概念と情念認識という概念がなぜ必要であるのか、について述べます。
それは、繰り返し述べている通り、我々の心の働きの中に、物質的なもの、機械的なもののみによっては
説明不可能であるように感じる部分があるためです。
その説明不可能であるように感じる部分を表す概念としてクオリアという概念が生まれました。
情念認識も同様にクオリアを拡張した概念として筆者が定義しているものです。
以上
>>134 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん(追加レスです)
医師が患者に「どこそこがどのように痛いですか」と尋ねます。
患者は「どこそこがどのように痛いです」と答えます。
その返事を聞いて、医師はそれを、自分の身に場合に引き写して、「どこそこがどのように痛いん
だろうな」と推測します。
その推測やその他の情報(触診や検査等の情報)に基づいて診断を行い治療を行います。
医師は患者の痛みそのものについて知ることはできません。推測ができるのみです。
痛みそのものはクオリアであり情念認識であり、共有できません。
[心の働き・その8] クオリアと情念認識
この世界はクオリアや情念認識に満ちています。
すべての人の心の中には常にクオリアや情念認識があります。
クオリアと情念認識は共有不可能な形でこの世界に満ち満ちています。
以上
[心の働き・その9] 対象認識、自己認識、論理認識、情念認識、それぞれの関係
認識を認識対象の違いから、対象認識と自己認識に分けました。
また、認識を認識特性の違いから、論理認識と情念認識に分けました。
それら四者がどのような関係にあるのかを明らかにします。
その関係は単純です。
対象認識は論理認識であり、論理認識は対象認識です。
自己認識は情念認識であり、情念認識は自己認識です。
このような単純な関係にあります。
しかしながら、自己認識の中には論理認識としか感じられない部分もあり、なぜ、自己認識すべてを
情念認識に含めるのかについては、多少説明を要します。
それについては、情念認識の本質を明らかにする過程の中で示していきたいと思います。
以上
144 :
満豚:2009/04/17(金) 20:41:20 O
>>131 出た!「ハイデッガー」。もしかして「フッセル」?「ソクラーテス」?
いや〜、まいった。ホントにまいった。君が喋れば喋るほど、突っ込まにゃならんことが、増えてしまって僕の方としては途方にくれそうだよ。
だけど僕に与えられてる時間では全てを満たすことは不可能なので、今からする僕の突っ込みが、氷山の一角に過ぎないことは念頭においててくださいね〜。
だからハイデッガー云々についてはスルーします。だけど、君からすれば能動的なものの見方は全て観念論になっちゃうんだね。まぁ、それすらもハイデッガーが認めるかどうかは僕には分からないけどね。
では雑談とはサヨナラを告げて本題です。
〉物質は実在である、というのは筆者の前提
と君はしきりに連呼するが、僕がその前提を共有しなければならない義務が一体何処にあるんだい?仮に僕が君の言うところの観念論的な視点をもって、その前提に異議を申し立てても君は
〉物質は実在である、というのは筆者の前提
と言うのかい?まぁ、それでも良いだろう。だがその時は君の主張があくまでも「その前提では」という、かなり制限られた狭い範囲での条件の下でなら、ということになってしまうよ。
だが、それは君の本望ではないだろ?
145 :
満豚:2009/04/17(金) 20:49:56 O
>>131 前にも言ったが、だいたい「物質は実在」という前提をもって、どうして存在を問う必要があるのか、さっぱり分かんない。その説明も一切ないしね。
146 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/17(金) 21:41:48 0
>>136 <我々の心の働きは、物質的なもの、機械的なもの、のみによって説明可能である、とお考えなら、少なくとも、wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさんにとって、情念認識の問題は存在しないことになりますし、そうでなければ、やはり、情念認識の問題は存在することになります。>
前レスでも書きましたが、あえて繰り返しますと、「私」や「他者」は、「物自体」と同じく、主語概念にも認識対象としても措定不能な「語りえない」(語る意味を持たない)ものです。
それゆえ、「情念認識」というあなたの認識「概念」は存在しないことになります。
<もし、wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさんが、我々の心の働きは、物質的なもの、機械的なもの、のみによって説明可能である、とお考えなら>
「物質的なもの、機械的なもの、のみによって説明可能である」と主張しているわけではありません。
前期の「語りえない」ものは、認識の対象、他者と共有可能な概念/事実/事象とはなりえないことから、あなたのいう「論理認識」からも外れるものであると述べています。
>>141 <痛みそのものはクオリアであり情念認識であり、共有できません。>
私(たち)の「痛みそのもの」は、医師を含め、他者一般にとって相互間での認識が不能です。
それゆえ、くどいようですが、共有可能な概念/事実/事象等にはなりえない、即ち、認識の対象、認識の基盤とはなりえない、と述べています。
それを「クオリア」と呼ぼうが、「物自体」であることに変わりは無く、カントの「純理」におけるアンチノミーが提示されて以降の現在において、そのような到達不能な問題を提議することに対し、何がしかの意味を付与できるものではありません。
「すべては決定されている」、「すべてが決定されているわけではない」というテーゼと同様、アンチノミー(形而上超越論)の罠に陥るだけです。
[心の働き・その10] 対象認識、自己認識、論理認識、情念認識、それぞれの関係
それら四者がどのような関係にあるのかを述べました。
対象認識は論理認識であり、論理認識は対象認識です。
自己認識は情念認識であり、情念認識は自己認識です。
四者はこのような単純な関係にあることを述べました。
この表現を見ますと、対象認識と論理認識は同値であり、自己認識と情念認識は同値である、
と言っているように見えます。
しかし、それぞれの両者は異なる視点での分類であり、同値にはなりません。
表現方法を変えてみます。
対象認識の認識特性は論理的な認識であるところにあり、自己認識の認識特性は情念的な認識で
あるところにある。
この表現のほうが事態を適正に言い表しきれているように思います。
この表現なら、それぞれの両者が同値でないことは明らかですから。
以上
>>144 > 満豚さん
満豚さんの立場は観念論にあるものと判断してしています。
筆者の立場は客観的実在論であり、観念論の立場の方との相互了解は困難であるものと考えています。
頂いたレスにはできるだけ返答をさせていただくつもりですが、恐らく、ご了解いただけることは期待でき
ないものと思っています。
>>146 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
今回のレスで、wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさんの立場が観念論にあるものと判断しました。
満豚さんへのレスにも書きましたが、観念論の立場の方との相互了解は困難であるものと考えています。
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさんの立場が観念論であれば、前回の筆者の問い返しは無意味であったことに
なりますね。
> 私(たち)の「痛みそのもの」は、医師を含め、他者一般にとって相互間での認識が不能です。
> それゆえ、くどいようですが、共有可能な概念/事実/事象等にはなりえない、即ち、認識の対象、認識の基盤とはなりえない、と述べています。
『私(たち)の「痛みそのもの」』も、原理的には、相互間での認識が可能である、というのが筆者の結論です。
それゆえ、原理的には、共有可能である、というのが筆者の結論です。
この結論をまだ述べるには至っていませんが、もう少し先でこの結論を示す予定です。
この世界は物質のみでできており、すべての現象は物理的現象であるため、原理的には、他人の心の中であれ、クオリアであれ、
自然科学的方法により調べることが可能です。
(しかし、もちろん、あくまで「原理的には」ということであり、実際上は技術的に困難です。)
ですので、当然ながら、認識の対象、認識の基盤になり得ます。
[観念論と客観的実在論]
現代の哲学界は観念論にどっぷり浸っています。
筆者は、観念論によっては存在の真実を語りえない、と考えています。
観念論では存在の真実から遠ざかるばかりである、と考えています。
その意味で、現代の哲学界の潮流に乗っている限り、存在の真実に近づくことは望めない、と考えています。
存在の真実について語るには、客観的実在論の立場で考える以外にない、と考えています。
現代の哲学界では、客観的実在論の立場などほとんど見向きもされないようですが、この状況は憂うべき状況で
あるものと思っています。
観念論の世界はファンタジーの世界です。存在の真実とはかけ離れた世界です。
以上
>>144 > 満豚さん
筆者が存在(実在)をどのように捉えているのか、は既に述べました。
存在(実在)について問われても、それ以上筆者からは何も出てきません。
満豚さんのご期待に添えるような答えを提示することはできないかと思います。
満豚さんは満豚さんなりの存在の定義を提示して、お互いに見解が違いますネ、ということで
決着させるしかないかと..... (^^:::
ハイデッガーに対する理解をハイデッガー本人が認めるだろうとは、浜辺の砂粒一つほども思ってはおりません。
「そんなこと、俺の言っていることとは全く違うじゃないか」って叱られるのが関の山でしょう。
まあ、単なる哲学素人の感想、といった程度にしかすぎません。
152 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 07:20:28 0
客観的実在論は科学的実在論と同じでそれを論じることは
存在論ではなく認識論だろう。
科学哲学は認識論に過ぎない。
存在論はハイデガーで終焉している。
残ってるのはコンピュータ科学のオントロジーくらいだ。
私はがちがちの唯物主義者のつもりですが
人間が世界を理解する能力 を 物理現象から説明するのは絶対に不可能と考える(悲観的)唯物主義者です。
しかしその解明を切望する者でもあります。
ですので ぽん太郎さんがどのような飛び道具を用意しているのか 非常な期待を寄せています。
>>146 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
多少繰り返しになりますが再度述べます。
この世界は物質のみでできており、すべての現象は物理的現象である、というのが筆者の結論です。
ですので、この世界の全ての現象は、自然科学的方法により、客観的に調べることが、原理的には、可能です。
他人の心の中であれ、クオリアであれ、すべては物理的現象であり、原理的には、自然科学的方法により、
客観的に調べることが可能です。
それら全ては客観的事象であり、原理的には、全て共通了解可能です。
この世界のすべての現象は、原理的には、すべて共通了解可能であり共有可能です。
さらには、死んだ人を生き返らせることも、原理的には、可能であり、物質を組み立てて新しく人間を作り出すことも、
原理的には、可能です。
それが、客観的実在論(唯物論)の結論です。
もちろん、それら全ては、あくまで「原理的には」ということであり、実際上は技術的に困難です。
我々のこの地球上では、遥かに長い長い年月をかけて、物質を組み立てて生物(生命)を生み出し、人間を生み
出してきました。この大自然は実際にそれを実行したのです。
我々の心もすべて物理的現象であり、客観的存在(実在ではなく働きとしての存在)です。
観念論の言うように、未規定な何か、不可知な何か、語りえない何か、などではありません。
>>153 > 抄録 ◆xOLbFG9QNUさん
やっと味方に出会えたようで心強く感じています。
我々の心の中には情念認識がありますから、いくら唯物論を支持している人でも、本当に物質的なもののみ
により我々の心が説明可能であるのか否かには疑問を感じるのが普通だろうと思います。
自然科学的知識、また、物理学法則の中に物理的力以外なにも含まれていないこと、から、この世界が
物質のみによりできているであろうと想像はしても、ふと心の中をのぞいてみると、そこには情念認識があり、
本当に物質的なもののみにより心が説明可能であるのか、ふと疑問を感じてしまうのが普通であろうと
思います。
本スレッドで、これから「情念認識とは何か」を唯物論的に明らかにしていく予定です。
それをお読みになれば、心の唯物論的イメージが明らかになるものと思います。
そこから「人間が世界を理解する能力」や「人間の様々な思い、想い」を唯物論的に理解するのには多少
距離があります。
そのあたりはすぐにはご了解いただけないかもしれませんが、多少時間をかければ、徐々にご了解いた
だけるものと思っています。
156 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 08:39:25 0
>死んだ人を生き返らせることも、原理的には、可能であり、
死んだ人を生き返らせることは論理的に不可能だろ。
死んだ人が生きかえるならそれはまだ死んでいなかったという
ことが論理のお約束だね。
死とは不可逆的に生命機能を失うことだろ。
>>152 > 考える名無しさん
> 客観的実在論は科学的実在論と同じでそれを論じることは
> 存在論ではなく認識論だろう。
「客観的実在論は科学的実在論と同じ」というのは同意です。
それも認識論にすぎないという主張があることは承知しています。
客観的実在論は認識論にすぎない、自然科学の主張も全て認識論にすぎない、
そうした主張があることは承知しています。
もちろん、筆者は、客観的実在論が単なる認識論ではないものと考えています。
同様に、自然科学の主張も単なる認識論ではないものと考えています。
見解の相違とお答えするしかありません。
>>156 > 考える名無しさん
> 死んだ人を生き返らせることは論理的に不可能だろ。
もちろん、そうではありません。
現在のところ技術的に困難であり、実際上できないというだけです。
> 死とは不可逆的に生命機能を失うことだろ。
もちろん、これも間違いです。生と死は可逆的です。
現在のところ技術的に困難であり、実際上できないというだけです。
この大自然は生命の存在しないところから生命を生み出し人間を生み出してきました。
それを考えれば、生命の存在しないところから生命を生み出すことが可能であるのは明らかであり、
当然ながら、死んだ人を生き返らせることも、原理的には、可能であることが明らかです。
>>156 > 考える名無しさん
そう主張することに特に問題はありません。
原理的には可能でも、実際上困難であり不可能ですから。
ただ、原理まで遡れば偽になるというだけです。
原理まで遡って考えなければならない場面でもない限り、考える名無しさんの主張に同意できます。
160 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 17:59:12 0
>>159 俺は原理主義者じゃないからね。
どっちかといえば公理主義になじみがあるね。
原理なんて経験則なんだろ。確実性が無いね。
161 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 18:11:13 0
>>158 >生と死は可逆的です。
うそだろ。
どっかでそういう現象見たのか?
鶏がひよこになりそれから卵になって雌鳥のお腹に
入っていくのを見たことあるのか?
いい加減なこというとうそつきといわれますよ。
162 :
満豚:2009/04/18(土) 19:44:27 O
>>148 ヤッホー、ぽん太郎く〜ん。う〜みーは〜、ひろいーな〜、おーきーなーわ〜。
〉満豚さんの立場は観念論にあるものと判断してしています。
NOー!!! それは断じてNOー!!! 君のその超〜おおざっぱな区分で僕を観念論者に仕立てあげるは止めて〜。 お願いだから僕にそのレッテルを貼らないで〜。
〉ご了解いただけることは期待でき
ないものと思っています。
それもNO〜!断じてNO〜! ぽん太郎くん、理解出来ないことと、同意出来ないこととは違うじゃな〜い。 立場の違いによって同意出来ないという事態は十分あり得る。しかし同意は出来ないが、理解することは出来るという事態も十分に成立可能です。
で、僕の考える正しい議論の仕方とは、まず相手の主張を理解することです。相手の主張を理解もしてないで、どのように反論が出来ましょうか。つまり、僕とぽん太郎くんとの議論はまだ一歩も前進していないということです。
僕がまだ自分の立場を一つも表明していないのが、その証拠です。まだまだ、そんな段階には達していないのです。
だから、さぁぽん太郎くん、僕に君の主張を理解させてくれたまえ。
163 :
満豚:2009/04/18(土) 19:47:23 O
>>151 「ぽん太郎くん的唯物論と二つのドクマ」
〉現代の哲学界は観念論にどっぷり浸っています。
へ〜、そうなんだぁ。
〉筆者は、観念論によっては存在の真実を語りえない、と考えています。
へ〜、そうなんだぁ。でもなんで?
〉観念論では存在の真実から遠ざかるばかりである、と考えています。
だから、なんで?
〉現代の哲学界の潮流に乗っている限り、存在の真実に近づくことは望めない、と考えています。
だから、なんでって!?
〉存在の真実について語るには、客観的実在論の立場で考える以外にない、と考えています。
だーかーら〜、なんで??
〉観念論の世界はファンタジーの世界です。存在の真実とはかけ離れた世界です。
……………なんで???ただ君の感想を述べているだけじゃない。
164 :
満豚:2009/04/18(土) 19:48:39 O
>>150 「ぽん太郎くん的唯物論と二つのドクマA」
僕は決して観念論者ではないし、ましてや観念論を擁護しようとしている訳でもありません。 そうではなくて、君の主張はただ自分の中の結論を述べているだけであって、他人を納得させる力が全くないのです。
それはちょうど、どつき合いの喧嘩をしたこともない人間が、「俺は喧嘩が強い」と豪語して歩いてるのと同じです。
自分の主張に対する、根拠を語らないまま
〉物質は客観的実在であり、この自然世界(物質世界)も客観的実在である
〉というのが筆者の立場であり、筆者の前提であり、筆者の出発点です。
と言ったところで、それはただの個人的な意見の吐露でしかありません。
ましてや「出発点」「前提」というのであれば、なおのこと、その根拠を示さなければならないのではないでしょうか。そういった根拠を語らないまま、いくらあなたが議論を重ねても、それはただの独断論でしかありません。
ここは世界とは何かを問題としながら世界を解明せずmy定義をするスレ
166 :
満豚:2009/04/18(土) 21:17:03 O
「真理は女である、と仮定すれば、――どういうことになるか?
すべての哲学者は、彼らがドグマティカー(独断論者)であったかぎり、この女をうまく理解できなかったのではないかという疑いも、もっともなことではなかろうか?
これまで彼らが真理に近づく際にとった常套的やりまえである恐るべき厳粛さ、ぶざまな厚かましさは、女というやつを手なずけるには実に拙劣な、不似合いなやりくちではなかったか?
女が手なずけられなどしなかったのは、きまりきったことだ。――されば、あらゆる種類の独断論は、今日では、悄然たる意気阻喪の様で立ちつくしている。
それとても、それらがまだ立っていると言えるとすれば、の話だ!
というのは、それらは倒れたんだ、あらゆる独断論は地に潰えたんだ、いなそれどころか、あらゆる独断論は断末魔の形相を呈しているんだ、と主張する皮肉屋もいるからだ。
これは真面目な話だが、――哲学における独断的教条主義のすべては、それがいかほど勿体ぶった、ぎりぎりの決着のものだといわんばかりの振りをしたにしても、所詮は気取った児戯の類いか新参者の未熟沙汰にすぎなかったのだ」
ニーチェ『善悪の彼岸』からの抜粋
霊魂に相互作用をしない物質などというものは存在しないに等しい。よって存在のすべては霊魂である。
168 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 23:00:07 O
169 :
NAS6:2009/04/18(土) 23:07:46 0
自殺してしまえば取引を強制されることも無い
170 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 23:18:10 O
現代物理学によれば霊魂はダークエネルギーの別称だろ。
171 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 23:23:57 O
>>119 精密なロボットを作って、何一つ人間と違わないようにすれば、ロボットにも「痛い」や「冷たい」があるのは当然だと思いますが。
173 :
考える名無しさん:2009/04/19(日) 08:28:45 0
>>172 鉄腕アトムやドラエモンは心があるように振舞ってるね。www
世界とはルーツとの関係もある?
[情念認識とは何か]
これから述べることが本スレッドの核心です。
対象認識の認識特性は論理認識であり、自己認識の認識特性は情念認識であることを述べました。
情念認識は「物質的なもののみ、機械的なもののみによっては説明不可能」としか感じられない心の
働きを指します。
この世界は物質のみよりなることを結論として示しました。
その結論が正しければ、情念認識も物質的なもののみにより説明可能であるはずです。
情念認識は果たして、本当に、物質的なもののみにより説明可能であるのか否か、それが問題です。
もし、可能であるとすれば、どのようにして可能であるのか、それが問題です。
我々の日常的直観に従う限り、情念認識は、物質的なもののみ、機械的なもののみ、によっては説明
不可能であるとしか感じられません。
そうであるからこそ、我々の心が物質的なもの、機械的なもの、のみによって説明不可能であるのは
明らかである、と多くの人(ほとんどの人)が断定してしまうのです。
これまでも、もちろん、唯物論者がいなかったわけではありません。
少数派とはいえ、唯物論者、唯物論を支持する人々も、そこそこいるにはいました。
しかし、これまで、心を明確に唯物論を基に説明できた人はいませんでした。
同様に、情念認識を唯物論を基に明確に説明できた人はいませんでした。
(少なくとも筆者が知る限りはそうです)
心および情念認識を唯物論に基づいて明確に説明できて始めて、唯物論は完成品になります。
これまでの、唯物論には最も肝心な部分が欠けていました。
これまでの唯物論は未完成品であったと言えます。
未完成の唯物論ほど、説得力に欠けるものはありません。
未完成の唯物論では、ほとんど唯物論としての価値を持ちません。
だからこそ、唯物論は存在論哲学の片隅に追いやられているのです。
だからこそ、存在論哲学の本道を歩む哲学者たちは、唯物論に見向きもしないのです。
.....つづく
176 :
アラコキ:2009/04/19(日) 20:31:57 0
いかなる説明であろうと説明は情報であり情報は物を媒体とするが
情報は物ではなく事である。
だからこの世界は物と事からなる。すべて物事は物だけでは説明
できない。
唯物論は間違いである。唯佛論なら正しいかも知れない。
>>161 > 考える名無しさん
生と死が可逆的である、というのはあくまで原理まで遡った場合の話です。
通常、そこまで遡らなければならない場面はまず出てきません。
ですので、生と死は不可逆的である、と主張することに特に問題はありません。
この大自然が、生命のないところから生命を生み出したことをお考えいただければ、
死から生へ戻すことの原理的可能性について多少ともご理解いただけるのでは
ないでしょうか?
生と死が可逆的である、というのは、この世界が物質のみよりできていることからの
当然の帰結です。
>>162 > 満豚さん
了解しました。満豚さんがどのようなお立場でお考えであるのかについては、未だ不明である
ものとみなすことにします。
>>163 > 満豚さん
何故「観念論によっては存在の真実を語りえない」のか、その理由は「情念認識とは何か」について
述べる中で出てきます。今しばらくお待ちください。
180 :
アラコキ:2009/04/19(日) 20:59:31 0
>>177 それは個体の生死と生物全体の生死を一緒にした暴論に過ぎない。
くそと味噌はやはり違うのだ。
>>172 > てす ◆LLLLLLLLL.さん
それが「当然」だと思うのであれば立派な唯物論者ですね。
それを「当然」だと思わない人が多いので議論になるわけです。
もし、それが「当然」であることを、それが「当然」だと思わない人に対して、説得できれば
完璧ですが、如何でしょうか?
>>176 > アラコキさん
唯物論はこの世界を物と事により説明します。
相互作用という語は事を表しています。
一般的に言って、客観的実在論では、この世界を物と事により説明します。
183 :
アラコキ:2009/04/19(日) 21:28:30 0
事を物に還元して説明するのが唯物論だろ。
そうでなければ唯物とはならないから。
事は事のまま説明すればよい。
185 :
アラコキ:2009/04/19(日) 22:14:50 0
>>184 どこの説明が違うの?
唯物論なら物と事の相互作用など考えられないだろ。
物は物同士で因果関係がある、というのが唯物論すなわち
物理主義だろ。物と事が相互作用するならそれは唯物論ではない。
事象(出来事)はものの随伴現象とか付随現象だというのが唯物論だろ。
186 :
184:2009/04/19(日) 22:25:37 0
>>185 例えば、
「励起状態の電子が基底状態となるとき、光を発生する。」であれば、
この「励起状態の電子が基底状態となるとき」は事象(現象)だが物ではないし、随伴現象でもない。
「発光」も現象だが物ではなく、事象(現象)であり、随伴作用ではない。
・君にとって物理現象とは「物」なのかね「事」なのかね?
187 :
184:2009/04/19(日) 22:30:15 0
>>163 > 満豚さん
ご指摘の個所で観念論について述べていることは、仰る通り結論のみであり根拠については
まだ述べておりません。今しばらくお待ち願います。
>>164 > 満豚さん
いまだに、満豚さんが、筆者の前提をなぜ問題にされているのか、把握できておりません。
「物質は客観的実在であり、この自然世界(物質世界)も客観的実在である」というのは筆者の前提であり、
それ以上遡ること(根拠を求めること)はできません。
もし、それ以上の根拠求めるとすれば、それは物理学(自然科学)の役目であり、既に、哲学(存在論)の
役目ではありません。
例えば、「物質とは何か」を問うとすれば、それに答えるのは物理学の役目であり、既に、哲学(存在論)の
役目ではありません。
>>183 > アラコキさん
少なくとも筆者の考える唯物論ではそうはなりません。
唯物論では事を物に還元したりはしません。
唯物論の「唯物」というのは「実在は物質のみである」という主張です。
物理的力や物理的力に基づく相互作用等を物に還元することはありません。
物理的力に基づく相互作用等は唯物論においても事のままです。
>>185 > アラコキさん
唯物論では物質と物質が物理的力を介して相互作用を行います。
どのように相互作用するのかは物理法則として示されている通りです。
「物と事の相互作用」というような表現は、用語法として間違っています。
カテゴリー混合の誤った用語法です。
相互作用するのは、あくまで、物と物、であり、物理的力を介して相互作用を行います。
物質が物であり、相互作用が事です。
>>183 > アラコキさん
この世界を表現するためには、物と事が必要です。
唯物論では、この世界を物と事により説明します。
物のみにより、この世界を説明することはできません。
事のみによっても、この世界を説明することはできません。
事があればそれを担う本体(=物=実体=物質)が必要です。
事は事それのみで存在することはできません。
194 :
アラコキ:2009/04/20(月) 07:50:08 0
>>186 >・君にとって物理現象とは「物」なのかね「事」なのかね?
物理現象とは読んで字のごとく物の表す現象だね。
人はその現象でそれを物と認識する。
物と物の相互作用も物理現象だね。
現象に対する名前や物を支持する名前が「事」だね。
事とはことばのこと。www
>>178 > 自己レス、追加レスです。
>>162 > 満豚さん
筆者の「XXXXさんの立場を観念論と判断しました」という表現は、筆者のセンサーです。
相手の立場を探るためのセンサーです。
相手の立場が観念論であるように感じるがはっきりしない、という場合に使用するセンサーです。
「自分の立場は観念論ではない」というように返事(反応)を得られれば、その役目を果たした
ことになります。
196 :
アラコキ:2009/04/20(月) 07:54:17 0
197 :
アラコキ:2009/04/20(月) 08:12:40 0
>>193 >事があればそれを担う本体(=物=実体=物質)が必要です。
ほう、では「数」を担う本体は何でしょう?
幾何学の図形の本体は何でしょう。
幽霊の正体は枯れ尾花かもしれませんが。
198 :
救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/04/20(月) 12:01:50 0
私も基本的にアラコキ氏に賛成する。
199 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 12:04:24 0
アラコキ?都電荒川線のことかい?
200 :
184:2009/04/20(月) 12:06:09 0
>>194>アラコキ
>物理現象とは読んで字のごとく物の表す現象だね。
君は「(出来)事」は「事象」だとしているが、現象は事象ではないのかね?
>現象に対する名前や物を支持する名前が「事」だね。
また俺定義か。いろいろ忙しいな君は。
>事とはことばのこと。www
古代日本では「コト(言)」と「コト(事)」は確かに未分化だ。
奈良時代以前に戻るかね?
場当たりに言葉をスライドさせて遊んでばかりだな君は。
だから文藝だというのじゃ。
201 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/20(月) 12:39:11 0
私も基本的にアラコキ氏に賛成する。
物の定義をしてないから。
>>32 のようにあえて説明から逃げて無用な混乱を引き起こし
議論が活発であるかのように見せているだけ。
>>202 まあそう言わずに
この後に核心が述べられるそうだから
それをしばし待とうではありませんか。
なんかね。マクスウェルの悪魔とかね見てたら。情報はエネルギーなんじゃないかと。
ただ読み取る人によってそのエネルギー量がことなるわけなんだけどさ。
それはだよ、精神が情報処理そのもので、時空が物質の属性であるように、
精神は情報の基本属性なんじゃないかと考えるとき。全てが相互変換可能になる。
そうなれば、二元論は一元論に還元でき、クオリアは定量的に観測可能となり、
哲学者は、数式で哲学を語り始めるんじゃないかな。
[情念認識とは何か・その2]
さて、我々の問題を整理してみます。
<命題A> この世界は物質のみによりできている。
<命題B> 心を物質的なもののみで説明することは不可能に思える。
この2つの命題が我々の問題状況を表しています。
もし<命題A>が正しければ、心を物質的なもののみにより説明することが可能であるはずですが、
どう考えてもそれが可能であるとは思えません。
この2つの命題は一見矛盾しており両立不可能であるように見えます。
果たして、この矛盾を克服することは可能であるのか否か、それが問題です。
.....つづく
>>204 すべては物であるという唯物論の立場で考えるとき、物を表現するときは物と物の関係のみであらわす
べきで、属性があるとすると物とは違う存在を扱わなければならず厳密な唯物論の範囲におさまらなく
なります。
>>205 > もし<命題A>が正しければ、心を物質的なもののみにより説明することが可能であるはずですが、
> どう考えてもそれが可能であるとは思えません。
>>81 のような説明は物質的な説明ではないのでしょうか。心理学や経済学など専門分野に適した
説明方法がありますがそのような説明が物質的でない説明なのでしょうか。
207 :
アラコキ:2009/04/21(火) 07:02:21 0
>>204 >哲学者は、数式で哲学を語り始めるんじゃないかな。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』なんか真理値関数なんか
つかってるから数式で哲学を語り始めた最初じゃあるまいか?
論理学と哲学を々分けるのかビミョウだね。
数学の哲学というのもあるし・・・。
208 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 07:04:56 0
「真理は女である、と仮定すれば、――どういうことになるか?
すべての哲学者は、彼らがドグマティカー(独断論者)であったかぎり、この女をうまく理解できなかったのではないかという疑いも、もっともなことではなかろうか?
これまで彼らが真理に近づく際にとった常套的やりまえである恐るべき厳粛さ、ぶざまな厚かましさは、女というやつを手なずけるには実に拙劣な、不似合いなやりくちではなかったか?
女が手なずけられなどしなかったのは、きまりきったことだ。――されば、あらゆる種類の独断論は、今日では、悄然たる意気阻喪の様で立ちつくしている。
それとても、それらがまだ立っていると言えるとすれば、の話だ!
というのは、それらは倒れたんだ、あらゆる独断論は地に潰えたんだ、いなそれどころか、あらゆる独断論は断末魔の形相を呈しているんだ、と主張する皮肉屋もいるからだ。
これは真面目な話だが、――哲学における独断的教条主義のすべては、それがいかほど勿体ぶった、ぎりぎりの決着のものだといわんばかりの振りをしたにしても、所詮は気取った児戯の類いか新参者の未熟沙汰にすぎなかったのだ」
ニーチェ『善悪の彼岸』からの抜粋
霊魂に相互作用をしない物質などというものは存在しないに等しい。よって存在のすべては霊魂である。
>>202 まあそう言わずに
この後に核心が述べられるそうだから
それをしばし待とうではありませんか
>>208 >霊魂に相互作用をしない物質などというものは存在しないに等しい。
>よって存在のすべては霊魂である。
色即是空、空即是色
では?
霊魂に対するそれはなに?
210 :
カムヤマトイワレビコイヤテラススメラヒノ尊:2009/04/21(火) 07:14:55 0
「真理は女である、と仮定すれば、――どういうことになるか?
すべての哲学者は、彼らがドグマティカー(独断論者)であったかぎり、この女をうまく理解できなかったのではないかという疑いも、もっともなことではなかろうか?
これまで彼らが真理に近づく際にとった常套的やりまえである恐るべき厳粛さ、ぶざまな厚かましさは、女というやつを手なずけるには実に拙劣な、不似合いなやりくちではなかったか?
女が手なずけられなどしなかったのは、きまりきったことだ。――されば、あらゆる種類の独断論は、今日では、悄然たる意気阻喪の様で立ちつくしている。
それとても、それらがまだ立っていると言えるとすれば、の話だ!
というのは、それらは倒れたんだ、あらゆる独断論は地に潰えたんだ、いなそれどころか、あらゆる独断論は断末魔の形相を呈しているんだ、と主張する皮肉屋もいるからだ。
これは真面目な話だが、――哲学における独断的教条主義のすべては、それがいかほど勿体ぶった、ぎりぎりの決着のものだといわんばかりの振りをしたにしても、所詮は気取った児戯の類いか新参者の未熟沙汰にすぎなかったのだ」
ニーチェ『善悪の彼岸』からの抜粋
世の中には、
物と事の2つだけと思っている奴が多いが、
物と事のほかにも神がいる。
この神とは=もののけ
人がいて神がいるんじゃないの、人が見ている人とは物理現象に
過ぎないわけ、そこに古来でいう神という観念があると
不確かな見えない何かがそこにあるってことが分るはず。
いま言葉によって偶像化された神ではなく。霊的な存在を示す
可能性の連鎖による秩序の類。風がふけば桶屋が儲かる現象ね。
212 :
アラコキ:2009/04/21(火) 07:34:10 0
>>207 訂正ついでに追伸。
>論理学と哲学を々分けるのかビミョウだね。(誤)
論理学と哲学をどう分けるかビミョウだね。(正)
んで、「情報」を物理学の対象とする考え方として
「情報物理学」というのがあるね。古本屋で買ってきて
積読になってる本だけどトンデモだったらごめんな。
「情報物理学の探求 情報と宇宙の内的構造」(T.ストウニア著)
帯の解説によると
「既存の物理学全体を「物質+エネルギー+情報」という観点
から、再解釈を試みた意欲的著作。」
だそうな。
213 :
アラコキ:2009/04/21(火) 08:23:24 0
>>209 >霊魂に対するそれはなに?
プドガラ。
[情念認識とは何か・その3] 真実の扉を開く鍵
<命題A> この世界は物質のみによりできている。
<命題B> 心を物質的なもののみで説明することは不可能に思える。
一見矛盾するかに見える、この2つの命題をどのようにすれば克服できるのか、それが問題です。
その答えは、コロンブスの卵と同様、まったく単純です。
<命題A>には何の問題もありません。
問題は<命題B>の意味するところにあります。
自己認識は(自分自身の)心を対象とした認識です。
心の中で起こる現象はすべて物理的現象です。(<命題A>よりの帰結)
<命題X> 自己認識は対象が物理的現象であるにも拘らず、それが物理的現象であることを認識できない。
これこそが<命題B>の意味するところです。
この<命題X>こそ、最も重要な状況認識です。
この<命題X>こそ、存在の真実へ至るための道しるべです。
従って、我々が問わなければならないの下記の問いです。
<問いX> 自己認識は対象が物理的現象であるにも拘らず、何故、それが物理的現象であることを認識できないのか
この問いこそ最も重要な問いであり『真実の扉を開く鍵』であるのです。
つまりは、自己認識の働き方の問題であり、自己認識の特性の問題であるわけです。
この<問いX>に答えれば、それこそが存在の真実を示すことになります。
.....つづく
P.S. *** ここで述べていることが本スレッドの核心です。 ***
215 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 09:46:36 0
ニーチェならセックスしたいけど脳梅毒だからなあ。やだな。梅毒。スピロヘータか。
少女5人にフェラチオさせるとか引くわ。
そらサロメも逃げるわな。
なんかさあ、遠くの人間の集合にばっか思いを巡らせていて、
近くにいる一人の人間の欲望と趣向をフォローできる大人さ加減がかけていたね。
大味な人なんだ。
216 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 09:49:50 0
ニーチェとは間接的に同居はできても、スピロヘータまでは請け負えんわ。
性欲を自分で整理できない人ってやだな。
217 :
アラコキ:2009/04/21(火) 09:51:25 0
>>200 >場当たりに言葉をスライドさせて遊んでばかりだな君は。
「遊びやせんと生まれける」という言葉もある。
哲学は「言葉遊び」というウィトゲンシュタインもいた。
「もの・こと・ことば」(廣松渉著 ちくま学芸文庫)
に物的世界観から事的世界観への思考展開が語られている。
このスレの主題にはあってると思う。一読したらいかがかな?
218 :
184:2009/04/21(火) 10:00:17 0
>>217 お前さんは昔から無駄に難しい本を買ってるようだが
その成果がまるで発信する文章に反映されないという希有なる存在だな。
どんな読み方をしてるのだ?
君に推薦する本はショウペンハウアの「読書について」だ。
これも多分、買って積んであるだろ。
219 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 10:01:02 0
近くの100円より遠くの一万円な奴は失敗する。
それでいいならそうすればいい。
苦労しても見合うだけのものは手に入るだろうから。
ただ、そういう人間にありがちな1か100か、という欲望形態は一生満足させられない。
100がよくても0.2、46、999999とかの現実を見続けなきゃならない。
それを見てびっくりする訳じゃろ。衝撃的な体験にくぎづけになるんじゃろ。
中毒になってればいい。ただ辛かろう。そういうのは人は直接助けてくれない。
でも、刹那的な孤独が楽しいように自分を持ってけばいい。
不満か。
220 :
アラコキ:2009/04/21(火) 10:02:19 0
>>211 >この神とは=もののけ
「もののけ」とは普通「物の怪」というが「物の気」
のことでもある。天気や元気や空気のことだね。
現代物理学で言えば「エネルギー」という目に見えないものだね。
♪ちってすがれたたんぽぽの・・・
♪見えぬけれどもあるんだよ、
♪見えぬものでもあるんだよ >みすゞ
221 :
アラコキ:2009/04/21(火) 10:12:53 0
>>218 >君に推薦する本はショウペンハウアの「読書について」だ。
デカンショ、デカンショで半年暮らす・・・なつかしいね。
デカルトの「方法序説」は中学時代の愛読書だったね。
カントの「純粋理性批判」は高校通学の電車の中の愛読書だった。
ショウペンハウエルといえば「読書について」と「知性について」
の岩波文庫本がある。発行年月から推測するとこれは会社の
新入社員時代に暇に任せて読んでたみたいだね。
中身は全部忘れた。ははは
222 :
184:2009/04/21(火) 10:14:54 0
アラコキさん
あんたには負けたよ。カッカ
>>220 > >この神とは=もののけ
> 「もののけ」とは普通「物の怪」というが「物の気」
全然違う。
君は意味に支配されている、そして言葉に支配されている。
気も怪も、物ではないのだよ。事でもない。
根本的に神の領域は意味の領域にはないのよ。比喩はできても
それは言葉で表せるものではない、比喩、つまり偶像の類、かりそめの
存在でしかない。
224 :
アラコキ:2009/04/21(火) 17:29:55 0
>>223 >それは言葉で表せるものではない
そうだね。
天気も元気も空気も感じるものだ。
だからといって空気が読めないNKYがいいということはない。
空気よめ。
>>224 >>それは言葉で表せるものではない
>そうだね。
>天気も元気も空気も感じるものだ。
まだ分らないのか?
すこしは近づいたが、意味ではない。天気も元気も空気も
それは意味である。君は意味の領域でしか考えられないのか
天気も元気も空気も神に通じる比喩にはなってないね。
オカルト君まで来たか。
228 :
アラコキ:2009/04/21(火) 18:42:03 0
>>225 >天気も元気も空気もそれは意味である。
そうだ、そのとおり。
それを「気は心」という。心とは意とも言う。
なぞなぞで「その意(こころ)は?」というときの
意が味わうものが意味だね。
建前の見かけではないホントのことを味わうのだ。
[情念認識とは何か・その4] 自己認識は何を認識しているのか?
<問いX> 自己認識は対象が物理的現象であるにも拘らず、何故、それが物理的現象であることを認識できないのか?
それは何故か? その答えは、またまた、単純です。
自己認識には心(心の内)が見えていない、というのがその理由です。
自己認識は、(自分自身の)心(心の内)を対象とする認識です。
我々は自己認識を通して自分自身の心(心の内)について知っています。
それなのに、何故、自己認識には心(心の内)が見えていない、と言えるのか?
それは、我々が自己認識を通して知っている(自分自身の)心(心の内)というのは、心(心の内)で起こっている
現象そのものではないからです。
我々は自己認識を通して自分自身の心(心の内)について知っていますが、それは心(心の内)で起こっている
現象そのものではありません。
我々の心で行われているのは認識作業(情報処理作業)です。
この認識作業(情報処理作業)そのものは、まったくの物理的現象です。
しかし、我々は、自己認識を通して、この認識作業(情報処理作業)そのもの(物理的現象)について知ることは
できません。
我々が、自己認識を通して知りえるのは、その認識作業(情報処理作業)の結果のみです。
認識作業(情報処理作業)の結果は現象そのものではありません。
認識作業(情報処理作業)の過程こそが現象そのものであり、その結果は現象そのものではありません。
我々は自己認識を通して現象そのものを知ることはできません。
我々が自己認識を通して知りえるのは、認識作業(情報処理作業)の結果のみです。
そのあたりの具体的なイメージについても明らかにしてまいります。
.....つづく
>>217 > アラコキさん
> 「哲学入門一歩前―モノからコトへ」 講談社現代新書 廣松渉著
筆者が廣松渉について読んだのは、この哲学入門書のみです。
これまで筆者がアラコキさんに返したレスはこの書物を念頭に置いて書きました。
この書物は、唯物論、客観的実在論に対する誤解に満ちている、というのが筆者の印象です。
筆者の知る哲学者の中では筆者が最下位に評価している哲学者です。
もちろん、上記入門書でしか知りませんし、哲学素人の評価ですから、ほとんど価値はありませんが。
原子の中はスカスカだから実在論はだめだとか、素粒子には自己同一性がないから、実在論は破綻しているとか、
書かれていますが、全くの誤解であり、実在論に対する無理解に満ちています。
いったい物無しの事のみで何を説明できると言うのでしょうか?
いったい物無しで事のみが存在できるのでしょうか?
筆者には到底理解できません。
何故、廣松渉が哲学者から高い評価を受けているのか、筆者には理解できません。
[ちょっと一息・休憩タイム] 哲学者の印象
以下は、筆者の知る哲学者のうち、主な哲学者についての筆者の印象です。
もちろん、それぞれの哲学者は入門書でしか知りませんし、哲学素人である筆者の印象です。
以下に挙げるのは近代以降の哲学者のみです。
筆者の評価の高い順に並べています。
(1) デカルト : 最も親しみを感じる哲学者です。(二元論(相互作用論)を唱えています)
(2) スピノザ : 結構親しみを感じます。(有神論です)
(3) フッサール : 観念論ながらほとんどファンタジーに陥っていない点を評価できます。
(4) カント : 観念論でありファンタジーに陥っていますが、実在を認めた点やその他一部評価できる部分があります。
以下は筆者が評価していない哲学者です。
(5) ハイデッガー : ファンタジーそのものです。
(6) ヘーゲル : 精神発達論、精神発達史であり存在論にはなっていません。
(7) 廣松渉 : 実在論に対する誤解に満ちています。ファンタジー以下です。
以上
[情念認識とは何か・その4] 自己認識は何を認識しているのか?
自己認識は現象そのものを認識できません。
自己認識が認識できるのは認識作業(情報処理作業)の結果のみです。
認識作業(情報処理作業)そのものは物理的現象です。
認識作業(情報処理作業)の結果は、2次的な物理的現象です。
自己認識は現象そのものを認識することができず、2次的現象を認識できるのみです。
精神的現象もその正体は物理的現象ですが、自己認識はそれが物理的現象であることを認識(判断)
できません。
だからこそ、自己認識は、精神的現象を物理的現象とは異なる現象として認識(判断)するのです。
対象認識の視線は現象まで届き現象そのものを把握できます。
自己認識の視線は現象まで届かず現象そのものを把握できません。
対象認識は現象そのものを客観的に把握できます。
それに対し、自己認識は現象そのものを把握できません。
存在について語るには現象そのものを客観的に把握できなければなりません。
現象そのものを客観的に把握できて初めて、存在について語る資格があります。
対象認識は存在について語る資格がありますが、自己認識は存在について語る資格がありません。
.....つづく
[情念認識とは何か・その5] 観念論は、何故、ファンタジーか?
「観念論によっては存在の真実を語りえない」、「観念論はファンタジーにしかなりえない」
筆者は、これまで、上記のことを述べてきましたが、その根拠についてはまだ述べていませんでした。
やっと、その根拠を述べる準備が整いましたので、ここで述べることにします。
物理学(自然科学)の研究方法は対象認識に基づくものであり、対象となる現象そのものを客観的に
把握できます。したがって、物理学(自然科学)は存在について語る資格を有しています。
それに対し、観念論の研究方法は内観(自己認識)に基づく方法であり、対象となる現象そのものを、
原理的に、把握できません。したがって、観念論は存在について語る資格を有しません。
観念論は存在について語る資格を有しない以上、存在について語ろうとすれば、ファンタジーにしか
なりえません。
.....つづく
[情念認識とは何か・その6] 情念認識とは何か、その答え
情念認識とは何か、その答えを定義の形で示します。
<定義> 情念認識 : 現象そのものを認識できず、2次的現象のみしか認識できない、自己認識の認識特性
自己認識は、その認識特性の結果、心の中の現象がすべて物理的現象であるにも拘らず、それが物理的現象で
あることを認識(判断)できません。
以上
>>235 言葉がおおすぎる。もっと原始的、素的なものをそれで表現するには
問題もあるだろ
237 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/22(水) 20:09:03 0
>>235 「現象そのもの」と、「2次的現象のみ」との相違点は、前者が「物理的現象であること」であるとすれば、その「定義」は、「情念認識」としても「論理認識」としても、「仮定」を前提としていることから、「空論」に堕します。
[自己認識のイメージ] 自己認識の認識しているもの
自己認識は現象そのものを認識できないことを示しました。
自己認識の認識力は現象そのものまで届きません。
では、自己認識は何をどのように認識しているのか、それを明確にしていきます。
自己認識の認識内容を明確にするため、パソコン(パーソナルコンピュータ)で喩えて示します。
自己認識の認識対象は自分自身の心です。
自己認識は自分自身の心を第3者的視点で眺め認識します。
自己認識は自分自身の心を、あたかも自分自身の心の外から見ているかのように、第3者的視点で
眺めます。
今、ここにパソコンがあり誰かがそれを操作している場面を思い浮かべます。
パソコンは情報処理システムであり、それを我々の(脳を中心とした)情報処理システムに喩えます。
パソコンで行われている情報処理を、我々の心に喩えます。
入力機器であるマウスとキーボードを、我々の五感に喩えます。
パソコンを操作している人を、我々の自己認識に喩えます。
ディスプレイ(パソコンの画面)にはパソコンで情報処理された結果が映し出されます。
パソコンを操作している人(自己認識)に見えるのはディスプレイに映し出されている内容(情報処理された
結果)のみであり、情報処理の行われている様子(心の中の現象そのもの)は見ることができません。
自己認識(パソコンを操作している人)に見えるのは、情報処理された結果のみであり、心の中の現象その
ものは見えません。
マウスやキーボードの操作に応じてディスプレイ画面の表示が変化します。
その様子を見て、自己認識(パソコンを操作している人)は、その背後で何らかの処理が行われていることを
推測しますが、具体的に何が行われているのかを知ることはできません。
自己認識(パソコンを操作している人)は、ディスプレイ画面の舞台裏で何かが行われていることを推測しますが、
具体的に何が行われているのかを知ることができません。
.....つづく
>>238 ぽん太郎さん ちょっとまって下さい。
貴方は「対象認識は現象そのものを把握する」としてしまったはず。
そのとき「現象を(知覚して)把握する処理」は無視しています。
しかし今度は自己認識の不可知性を示す目的で
「脳内ディスプレイの背後は知ることはできない」
としてしまった。
全く御都合主義の矛盾した論理展開であり、看過できません。
240 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 23:17:15 O
矛盾こそが現象を映し出す鏡だ。矛盾を見つめよ。そこに己
の姿を見たものは迷い、友の姿を見たもは幸福になる。
[自己認識のイメージ・その2] 自己認識の認識しているもの
心や自己認識をパソコンで喩えました。
自己認識(パソコンを操作している人)に見えるのは、情報処理された結果のみであり、心の中の現象その
ものは見えていないことを示しました。
情報処理された結果は2次的現象であり、現象そのものではありません。
情報処理の行われている様子が現象そのものですが、それは自己認識(パソコンを操作している人)には
見えません。
自己認識(パソコンを操作している人)は現象そのものを知ることはできませんが、現象そのものの存在は
推測できます。
それは、マウスやキーボードの操作に応じてディスプレイ画面の表示が変化することから分かります。
自己認識は、現象そのものを知ることはできませんが、現象そのものが舞台裏に存在することを推測でき
ます。
自己認識にとって、現象そのものは、姿を見せない舞台裏の住人です。
もし、現象そのものが見えず、その存在を知ることもできなければ、自己認識にとって、それは存在しないも
同じです。
しかし、そうではなく、姿は見えずとも、その存在は認識できています。
以下、自己認識が認識できているものと認識できていないもの、についてまとめます。
現象そのものは認識できません。
現象そのものの存在は認識(推測)できます。
情報処理された結果(=認識作業の結果=2次的現象)は認識できます。
.....つづく
物を説明できない唯物論者は似非。
243 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 23:36:28 O
現象を、そこに存在するように語ること。これが認識の言
語化であり、言語の一般プロセスだ。
>>239 > 抄録 ◆xOLbFG9QNUさん
今回のレスは、抄録 ◆xOLbFG9QNUさんが何を問題とされているのか把握できませんでした。
もう少し具体的に述べていただければ、より適切な返答が可能かと思います。
> 貴方は「対象認識は現象そのものを把握する」としてしまったはず。
> そのとき「現象を(知覚して)把握する処理」は無視しています。
対象認識は感覚器からの刺激を入力として、さまざまな情報処理の工程を得て認識内容を形成します。
情報処理の工程の中には、当然ながら、「現象を(知覚して)把握する処理」やその他、認識内容を形成するに
必要な様々な処理工程が含まれています。
何を無視している、と仰っているのか理解できません。
> しかし今度は自己認識の不可知性を示す目的で
> 「脳内ディスプレイの背後は知ることはできない」
> としてしまった。
自己認識にとって「脳内ディスプレイの背後は知ることはできない」というのは、その通りであり、筆者の主張している
通りですが、それの何が問題なのでしょうか?、それの何が矛盾だとおっしゃるのでしょうか?
>>244 その”認識内容(まだ認識されていないが)を形成する様々な処理工程”の結果、外界現象は「対象化」され、
「知覚された」となるのです。
「知覚」と「脳内ディスプレイ(?)で内観を見る」はどちらも脳内作業であり、
対象化する作業が中核にあります。
貴方の論理であれば、外界の現象そのものは「脳内ディスプレイ」の背後にあり、不可知であります。
>ぽん太郎さん
もう寝ます。
脳内の「ディスプレイを見る観察者」は全てをディスプレイ越しにしか見ることができません。
そのような構図により説明がなされるのは観念論であり、ファンタジーです。
おやすみなさい。
[自己認識のイメージ・その3] 自己認識の認識しているもの
「自己認識にとって、現象そのものは、姿を見せない舞台裏の住人です」
この表現は、自己認識の置かれている状況を的確に言い表しています。
もし、自己認識が、その舞台裏の住人の姿を見ることができれば、それが物理的現象であることを認識する
ことができるはずですが、実際には、その姿を見ることができないため、それを物理的現象とは異なる現象
(精神的現象)として認識(判断)してしまうのです。
パソコンでの喩を終わり、ディスプレイ(パソコン画面)の代わりに、心の中に仮想のディスプレイを想定して、
話を進めることにします。
この心の中の仮想のディスプレイを以後「心の中のディスプレイ」と記述することにします。
心の中のディスプレイには、心の中で情報処理された結果(認識作業の結果)が映し出されます。
自己認識が認識するのは、この心の中のディスプレイに映し出されたもののみです。
自己認識は心の中で行われている情報処理の様子(現象そのもの)を知ることはできません。
自己認識は心の中で情報処理が行われていることは認識(推測)できます。
それは、心の中のディスプレイに映し出されている内容が時々刻々変化することから分かります。
自己認識にとって、現象そのものは、姿を見せない舞台裏の住人であり、いわば、幽霊です。
それは、闇夜に揺れるススキの穂のようなものであり、幽霊(非物理的現象)として認識されてしまいます。
幽霊=非物理的現象=精神的現象です。
.....つづく
248 :
アラコキ :2009/04/23(木) 08:16:26 0
>>243 >現象を、そこに存在するように語ること。これが認識の言
>語化であり、言語の一般プロセスだ。
そうですね。そのとおりだ。
これに便乗してこんなこと考えついたお。
現象をそこにそれが存在するように見せること。
それが視覚の知覚化すなわち眼識であり脳の情報処理プロセスだ。
あれ、パーセプトロン理解から進展してないのかな?
249 :
アラコキ :2009/04/23(木) 08:24:07 0
>>246 >脳内の「ディスプレイを見る観察者」は全てをディスプレイ越しにしか見ることができません。
>そのような構図により説明がなされるのは観念論であり、ファンタジーです。
「デカルト劇場」の批判なのかな?
でもこのディスプレイは眼の網膜に移る像であるとすればヒトは網膜に映る像に
よってしか外界を認識できない、というのは観念論ではなく優れて
認知科学的であるとおもう、今日この頃です。
>>249 ふむ。いいこと言ったアラコキさん
網膜に映る像によってのみ外界を認識する、までは唯物論的であり、問題ないと考えます。
しかし、脳内にディスプレイと観察者を置いたら、脳内の観察者も「網膜(に対応する感覚器)と脳」が必要となる
このような無限後退と世界分裂を含む説明は全く認められない。
また夜に来ます。
>>245 > 抄録 ◆xOLbFG9QNUさん
未だ、仰ることを理解(把握)できておりません。(哲学素人の限界かもしれません)
> 貴方の論理であれば、外界の現象そのものは「脳内ディスプレイ」の背後にあり、不可知であります。
外界の現象そのものは、対象認識を通して、「脳内ディスプレイ」に映し出されており認識可能です。
心の中の現象そのものは「脳内ディスプレイ」に映し出されず認識不可能です。
というのが筆者の主張していることですが、どのような意味で不可知と仰るのか理解できておりません。
>>250 > 抄録 ◆xOLbFG9QNUさん
無限後退の論理を廣松渉の哲学入門書で見かけました。かなり手強い論理だと思います。
自分も、脳内にディスプレイと観察者を置いて主張を述べてますので、この無限後退の批判を受けそうです。
それが無限後退になるとは思いませんが、その批判を論破するのは困難そうです。
254 :
アラコキ :2009/04/23(木) 10:07:15 0
>>250 >このような無限後退と世界分裂を含む説明は全く認められない。
まさに「デカルト劇場」批判ですね。
でも無限後退はなぜ認められないんでしょうね。
数学の極限の存在証明にイプシロン・デルタ論法があるが
無限後退とおなじ論法に見える。
0,1,2,3・・・と書いて自然数(全体)が存在するとする
無限集合論は無限後退ではないのかね?
無限後退でもいいじゃないか、というとその開き直った態度が
気に入らないのよ!というのかな?
夜を期待してる。(かんちがいはなしよ!)
俺は犬の散歩に出かける。
[自己認識のイメージ・その4] 自己認識の認識しているもの
「自己認識にとって、現象そのものは、姿を見せない舞台裏の住人です」
自己認識は、心の中のディスプレイに映った内容によって認識を行います。
その認識内容は、舞台裏の住人の存在を感じさせる(推測させる)ような内容の場合と、
舞台裏とは無関係な内容の場合に分けられます。
例えば、感覚刺激を通して外部対象を認識している場合、を考えます。
対象認識によって外部対象の様子が心の中のディスプレイに映し出されます。
自己認識はその様子を第3者的視点で眺めています。
感覚刺激に応じて、心の中のディスプレイに映し出される内容が変化するのを見て、自己認識は舞台裏の
住人の存在を感じ取ります。
それに対し、心の中のディスプレイの、この部分には赤い色が映っている、とか、あの部分には丸い形が映っている、
とかといった認識は舞台裏とは無関係な内容です。
舞台裏の住人の存在を感じる場合、我々はそこに物質的なもののみでは説明不可能なものを感じてしまいます。
それは、舞台裏の住人(心の中の現象そのもの)が見えないことからきています。
それに対し、舞台裏と無関係な認識内容は、物質的なもののみでは説明不可能なもの、とは特に感じません。
このように、自己認識のすべてが、物質的なもののみでは説明不可能なものを感じさせるわけではありません。
それにも拘らず、自己認識はすべて舞台裏が見えていないという意味で、情念認識に分類しています。
以上
>>253 > 自己レス、追加レスです。
>>250 > 抄録 ◆xOLbFG9QNUさん
脳内にディスプレイと観察者を置いた場合、観察者として或るのは、認識工程のみであり、そこに
第2のディスプレイ、第2の観察者を想定する必要はない、従って無限後退は起こらない、
というのが、素朴な直観ですが、これでは全くご了解いただけないんでしょうね?
認識なんてセンサーからの情報を独自フォーマットに変換しているだけ。
カメラでもできる。そのうちイヌネコ顔認識オートフォーカスも製品化されるの
だろう。
>>256 スミマセン。またまた名前を書き忘れてしまいました。
>>256 はわたくしぽん太郎のレスです。
どうも不慣れなため名前の記入忘れを防ぐ方法を知りません。
まあ、名前の書き忘れは集中力不足ですね。
259 :
アラコキ :2009/04/23(木) 11:46:18 0
認識論はいまは科学哲学とも言うようだが、プラトン、
アリストテレスの昔から延々と議論されて答えが
でない問題だろ。
素人に何ができるというのだ?
素人はすっこんでろ、なんてな。www
260 :
満豚:2009/04/23(木) 11:59:39 O
>>250 つまり、カルテジアン劇場ということですな。
261 :
アラコキ :2009/04/23(木) 12:10:59 0
俺なんか名前を一遍つけたら消せなくなっちゃった。
262 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/23(木) 13:09:37 0
>>255 少し話を戻します。
脳内にディスプレイと観察者が有る/存在する、と仮定します。
このとき、あなたのいうところの対象認識と自己認識の内、対象認識の場合は、脳内のディスプレイと観察者は不要である、ということでしょうか?
263 :
考える名無しさん:2009/04/23(木) 14:45:14 0
>>254 数学だって無限の長さの証明とか、定義の無限後退とかはダメだろが。
264 :
アラコキ :2009/04/23(木) 15:41:06 0
>>263 >数学だって無限の長さの証明とか、定義の無限後退とかはダメだろが。
無限の長さの存在証明はどうするのかな?
単位の長さを決めて自然数との一対一対応が存在することでとりあえず
証明するのかな?で、その自然数の存在が無限後退となるでしょう。
一番大きい自然数の目標はどこまで行ってもたどり着けないから。
行けども行けども目標はその先にある・・・。どうしよう。
定義の無限後退とは何だろう?
ルイス・キャロルの「アキレスと亀の話(だったかな?)」のような
モードゥスポネンス(MP)による演繹証明が無限後退に陥る例かな?
265 :
アラコキ :2009/04/23(木) 15:47:14 0
>>264 追伸
ルイス・キャロルの「アキレスと亀の話(だったかな?)」
アキレスと亀でぐぐったら確認できた。
ルイス・キャロルの「亀がアキレスに言ったこと」だね。
266 :
考える名無しさん:2009/04/23(木) 16:16:47 0
>>234 > 自己レス、追加レスです。
「観念論によっては存在の真実を語りえない」と書きましたが、その主張のもう一つの根拠について述べます。
観念論は基本的に認識論であり、認識論は存在論ではない、と考えているのが理由(根拠)です。
認識論は「我々はこの世界をどのように認識しているのか」という問いに答えるためのものであり、
存在の問いに答えるためのものではない、と考えます。
以上
>>262 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
対象認識の場合、外的対象に関する認識内容が脳内のディスプレイに映され、それが最終的認識となります。
自己認識の場合、自分自身の心が働いている様子が脳内のディスプレイに映され、それが最終的認識となります。
自己認識は対象認識が行われている様子を第3者的視点で捉え認識します。
例えば、目の前のリンゴを見ている場面を考えます。
対象認識は「目の前にリンゴがあること」「そのリンゴの色は赤であること」等を認識します。
目の前にある赤いリンゴ、が脳内のディスプレイに映しだされ認識されます。
この認識結果は対象の現象そのものを捉えています。
自己認識は、「自分は目の前のリンゴを見ている」「自分はそのリンゴの色が赤であると認識している」等、自分自身の
心が働いている様子を認識します。
「自分は目の前のリンゴを見ている」「自分はそのリンゴの色が赤であると認識している」等の心が働いている様子に
関する認識内容が脳内のディスプレイに映しだされ認識されます。
自己認識の認識対象は自分自身の心ですが、認識される内容は心の現象そのものではありません。
心の現象そのものとは、心の中で行われる認識作業(情報処理作業)を指しますが、自己認識が認識するのは、
心の現象そのものではなく、認識作業(情報処理作業)の結果です。
対象認識が対象の現象そのものを捉えているのに対し、自己認識は対象の現象そのものを捉えることができません。
対象認識の場合、脳内のディスプレイに映しだされるのは、対象の現象そのものです。
自己認識の場合、脳内のディスプレイに映しだされるのは、対象の現象そのものではありません。
>>262 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
対象認識であれ自己認識であれ、脳内ディスプレイと観察者の構図は変わりません。
>>269 それだと自己と対象が不明確な場合、観察者もアヤフヤなので構図はなりたた
ないのでは?
>>253>ぽん太郎さん
「私からのちょっとした批判」程度に覚えておいてもらえれば十分です。
論戦など俺の性に合わない。優れた論客が揃ってますので そちらにお任せします。
貴方が哲学素人なら、私はど素人。基本は機械屋。「俺哲学」しか信用していないし、所詮は脇役です。
デカルト、カント、フッサールぐらいは知ってるが廣松渉など聞いたこともない。
>>260>満豚さん
”カルテジアン劇場”ですか。
ここでのオリジナルではなかったのは残念だが、そのキーワードは覚えときます。
>>254>アラコキさん
”無限後退”なんて用語はちょっとした気分で使ってみたのです。
以前にネオマトリクスが使って かっこよさそうだから 俺もいつかどこかで使おうと思ってたのです。
解析学のイプシロン・デルタ法が無限後退かどうかよく分からんが
数の極限の場合、どのような実数を想定しても数直線上に区別可能に対応できる、
っつー強力なツールがあるのが大きいのじゃないの?
自然数の全体集合も確かに際限はないが、無理数との区別可能性を持つから、
(局所的には)そこに境界の設定が可能とするのではないかしら。
世界が記述された時、それがオカルトかどうかを俺が判断する基準としてるのは
・想定可能性
・区別可能性
・描画可能性
です。それを満たさないものは観念内の無駄な世界分裂と考えてます。
イプシロン・デルタはそこへの抵触は回避していると思うので、
俺は貴方ほどのアレルギーは特に無いです。
272 :
アラコキ :2009/04/24(金) 07:16:51 0
>>271 >”無限後退”なんて用語はちょっとした気分で使ってみたのです。
落語で無限後退をネタにした話で「浮き世根問い」というのがあるね。
宇宙の果てはどこなのか、どうなってるのか八っつあんが大家に問う
話だったと記憶してるがアラコキの言うことだから当てにしないでね。
無限については数学屋でも「可能無限」は許容できるけど「実無限」は
納得できないという人はいるようです。もちろんカントールの無限集合論
は認めたうえでの話しだけどね。
「可能性」なら様相論理があるけどいまいち古典論理ほどすっきりはしない。
なにをもって「可能」と判断するかがいまいちなんだよね。
オカルトだって可能だと思えるしね。ミステリは好きだし。
俺はどっちかというとカルテジアンでは無くプラトニアンだろうね。
リアルよりイデアルがいい。何である?愛である!。なんてな。www
273 :
考える名無しさん:2009/04/24(金) 08:04:04 0
生きている限り世界はある。諸行無常のこの世ではあるが、移り変わる
自我ではあるが、世界に執着する訳では無いが、生きている限り世界は
ある。前世、来世のことは信じないが、現世が色即是空の矛盾ではあっても
現象世界はある。無いとも言えるが。この矛盾どう答えればいいのか?
274 :
アラコキ :2009/04/24(金) 08:09:37 0
色即是空が矛盾の解消にならないならどうしようもないではないか?
275 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 12:58:10 0
>>268 <心の現象そのものとは、心の中で行われる認識作業(情報処理作業)を指しますが、自己認識が認識するのは、心の現象そのものではなく、認識作業(情報処理作業)の結果です。>
外的な対象を認識しているときは、「赤いりんご」等の「質料」等を感性で感受し、自己認識をしているときのみ、これに加えて「情報処理機能」が働いている、ということになります。
即ち、「目の前にリンゴがあること」/「そのリンゴの色は赤であること」という外的な対象認識と、「自分は目の前のリンゴを見ている」/「自分はそのリンゴの色が赤であると認識している」という自己認識との間の差異は、
「情報処理機能」が働いているか否か、ということになります。
すると、外的な対象を認識しているときは「情報処理機能」が働いていないことになります。
では、「目の前にリンゴがあること」/「そのリンゴの色は赤であること」という外的な対象認識は、誰も認識しないディスプレイに映し出されていることになり、この事実は、検証不能なものになります。
この誰もいない時空において、ディスプレイに映し出された「質料自体」は、誰の、何の認識対象でしょうか?
276 :
考える名無しさん:2009/04/24(金) 15:21:54 0
而二不二の世界、色即是空の世界、絶対矛盾的自己同一の世界、そして
c点による時空論の世界、これ等は同じものか?
世界へのアプローチとなれるか?
相対論、量子論から始め科学哲学がロイヤルロードだろう。観測された
世界以外に世界などは無い。
277 :
考える名無しさん:2009/04/24(金) 15:51:38 0
私にとっては私の世界が世界のすべてだね。
簡単なことだ。
>>272 アコラキさん
エンドレス(輪廻無限)と
無限大(線形無限、水平の末端)は違うよ。
この2つが区別できないようでは、まだまだだな。
前者は計れないタイプと、後者は計れる観念ということ。
すべてを計れると考える領域でしか物事を考えられない人には
たどり着けないんだろうけどね。
279 :
アラコキ:2009/04/24(金) 17:12:52 0
>>278 循環無限と線形無限の区別だね。
確かに循環小数はかならず有理数となるから桁数無限とは
ならないね。数字の表記法の問題だけだ。
しかしアナログ時計の文字盤の上を回転する針は循環無限とは
いえその間に経過する時間は循環しないね。
結局時間は数えつくせないだろ。
この世に無限は存在しないね。あるのは可能無限だけだろ。
[エピローグ]
以上で、本スレッドの本文をすべて述べ終わりました。
これにより、存在論の真の答えを示し得たものと確信しています。
存在論は解決したものと確信しています。
本スレッドでは下記の問いについて、その答えを明確に示しました。
・「なぜ唯物論が存在論の答えか」
・「自由意志とは何か」
・「心とは何か」
・「情念認識とは何か」
本スレッドで、存在論が存在の問いについて答えるべき答えは尽きているものと考えます。
本スレッドでは存在の問いについてすべてを述べているわけではありません。
しかし、存在論が答えるべき問いにはすべて答えました。
本スレッドで述べなかった存在の問いは、存在論の答えるべき問いではなく、その他の諸学の
答えるべき問題です。
以後は、下記のことを引き続き書き込んでいく予定です。
・補足事項 ..... 補足事項を思いつき次第書き込んでいきます。
・哲学者の印象 ..... 筆者の知る主な哲学者について、その印象を書いてみます。
・宗教とは何か ..... 宗教の本質について書いてみます。
以上
>>270 > 考える名無しさん
「自己と対象が不明確な場合」というのはどのような場合を指しているのか把握できませんでした。
どのような場合をお考えなのでしょうか?
282 :
アラコキ:2009/04/24(金) 17:48:43 0
まぁ、大言壮語少なし真というとおりのスレだね。www
>>275 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
対象認識であれ自己認識であれ、我々が認識する内容はすべて情報処理の結果であると考えます。
ですので、後半でお述べになっていることは無効です。
284 :
ザ・スミス:2009/04/24(金) 17:58:11 0
世界とは現象でオレ様とはその中に織り込まれた
主観(かなあ?)
285 :
アラコキ:2009/04/24(金) 18:06:13 0
俺様の世界の中に俺様はいないだろ。
俺様は世界の限界だね。>ウィトちゃん。
286 :
ザ・スミス:2009/04/24(金) 18:12:20 0
オレは俺様で出来ている 俺様とは
世界の限界ではなく何つーかこうスッゲー存在である
[補足事項] 存在論の答えるべき問題
存在に関する問いには、存在論の答えるべき問題と、その他の諸学が答えるべき問題が
あることを述べました。
存在論の答えるべき問題は本スレッドで述べたことで尽きています。
その他の諸学が答えるべき問題としては下記のものが考えられます。
・「物質とは何か」 ..... 物理学の答えるべき問題です。
・「知覚するとはいかなることか」「理解するとはいかなることか」等々
..... 認知心理学の答えるべき問題です。
以上
288 :
考える名無しさん:2009/04/24(金) 18:36:33 O
で、何が存在するの?
[補足事項] 存在論の真の答え
本スレッドで存在論の真の答えを示し得たものと確信しています。
存在論の真の答えに気づき得たのは、筆者が哲学素人であるからだと思っています。
もし、仮に、筆者が哲学を専門に学んでいたとしたら、ファンタジーの解読に一生を費やし、
恐らく、存在の真実に気づくことはなかっただろうと思います。
>>47 [補足事項] 自由意志と我々の自由
我々はこの世界の中で自由に動き回ることができます。
しかし、この「自由」は「自由意志」による自由ではありません。
我々の「自由」は「必然の中の自由」です。
291 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 19:52:53 0
>>283 <対象認識であれ自己認識であれ、我々が認識する内容はすべて情報処理の結果であると考えます。>
あなたの「論」を丁寧に辿ったわけではないため、誤解があれば申し訳ありません。
(「目の前にリンゴがあること」/「そのリンゴの色は赤であること」)という外的な対象認識と、
(「自分は目の前のリンゴを見ている」/「自分はそのリンゴの色が赤であると認識している」という自己認識)との相違点に関する定義付けがいまだに理解できません。
両者ともに情報処理に依存するものであり、自己認識と対象認識の情報処理の相違(自己認識の情報処理は脳内のディスプレイを見る主体が必要であるが、対象認識ではそれは不要であると読みましたが)、再度お示しいただけると助かります。
292 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 19:59:23 0
>290
<我々の「自由」は「必然の中の自由」です。>
こう結論づけられると、リニア(ヒトの認識を超越する)の「決定論」を、対象認識と自己認識という座標を設け、2つのドメインにブレイクダウンしてみました、ということに等しくなります。
293 :
アラコキ:2009/04/24(金) 20:07:42 0
>>286 >俺様とは世界の限界ではなく何つーかこうスッゲー存在である
そうですね。俺様はスッゲー存在であることは間違いない。
だって、眼に見えるこの俺様の世界を作り上げてるんだもんな。
(もしあなたがメクラだったらごめんなさい。いずれにしろ感覚で
感じるこの世界を作り上げているということですぅ。)
だけど俺様は俺様の世界の中に俺様を作り上げる必要はない。
ただ俺様は俺様だと思うだけでいい。
294 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 20:15:07 0
>293
<もしあなたがメクラだったらごめんなさい。>
アラ古希さんには差別用語を使って欲しくないと思うのは私だけではないと思います。
295 :
アラコキ:2009/04/24(金) 20:33:48 0
>>294 言語の働きはすべからく物事を分別・差別(しゃべつ)することに
あります。
だから「差別語」などといって言語を差別することは無用のことです。
[補足事項] 観念論の難解さ
観念論は何れも難解であり、素人にはほとんど解読不可能です。
この難解さを、高度な内容を研究しているためだ、高尚な研究を行っているためだ、精緻に
研究を行っているためだ、と評価する哲学者が多いかもしれません。
しかし、その評価は誤っています。
観念論の難解さは、単に、真実を探しあぐねて難渋している姿を表しているにすぎません。
観念論の研究方法は内観(自己認識)による方法です。
内観(自己認識)の認識対象は、姿を見せない舞台裏の住人です。
決してその姿を見ることはできません。
観念論哲学者の主著がよく未完に終わるのはそのためです。
297 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/24(金) 20:38:22 0
観念論哲学者とは・・
簡単な現象をいかに哲学的に難解な言葉で表現するかに長けている非哲学者・・
298 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 20:43:52 0
>>295 「差別語」、「識別コード」などではなく、「差別用語」と書いています。
>>296 観念論哲学(者)って何ですか?
299 :
アラコキ:2009/04/24(金) 20:56:49 0
>>291 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
脳内のディスプレイと観察者、という構図で考えた場合、
認識に於いて最終的認識結果を認識するのは観察者であり、最終的認識内容は
脳内のディスプレイに映し出され観察者により認識されます。
このことは、対象認識であれ、自己認識であれ変わりません。
対象からのデータを情報処理システムで情報処理して最終的認識内容を形成します。
最終的認識内容は脳内のディスプレイに映し出され観察者により認識されます。
このことは、対象認識であれ、自己認識であれ変わりません。
「脳内のディスプレイに映し出されること」イコール「認識されること」になります。
このことは、対象認識であれ、自己認識であれ変わりません。
自己認識が認識するのは自分自身の心の中の様子、心の働いている様子、です。
「自分は目の前のリンゴを見ている」/「自分はそのリンゴの色が赤であると認識している」という認識は
自分自身の心が働いている様子を表しています。
この認識内容は心の中の現象そのものは表していません。
対象認識の場合は対象の現象そのものを捉えます。
「目の前にリンゴがあること」/「そのリンゴの色は赤であること」という認識内容は、対象の現象そのもの
です。
301 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 21:15:49 0
>300
<「目の前にリンゴがあること」/「そのリンゴの色は赤であること」という認識内容は、対象の現象そのもの
です。 >
繰り返しで恐縮ですが、この現象は、誰が/何が、「最終的認識内容」として認識するのですか?
302 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/24(金) 21:34:36 0 BE:1496177257-PLT(13230)
303 :
考える名無しさん:2009/04/24(金) 21:41:07 0
20代後半のモテない男です。
存在価値について相談があります。
いわゆる「モテない男」にも、2つの部類がありますよね。
@20代後半で、まったく女性に触れた事がない完全な童貞。
A20代後半で、恋愛経験・セックス経験は一応あるものの、せいぜい1人か2人。
恋愛しまくりセックスしまくりの現代的な若者と比べると、かなり恥ずかしいレベル。
僕はこれのA番に当てはまる男なのですが、劣等感がかなりあります。
まわりの同年代の男女たちは、当然のようにバリバリの経験者ばかりだし、
まわりの高校生〜20代前半の男女たちも、当然のように経験豊富な子ばかりで、
僕はもう、恥ずかしくて悔しくてうらやましくてたまりません。
しかし、@番に当てはまる友人からは、
「お前は劣等感を持つ資格なんてねえよ」といつも言われます。
もしかして僕は、「モテない」と悩む資格もない中途半端な人間なのでしょうか?
A番に当てはまる男は、「モテない」という劣等感を持つ資格がないのでしょうか?
しかし実際に、僕の劣等感は間違いなく存在しているんです。
304 :
考える名無しさん:2009/04/24(金) 21:42:30 0
(続き)
なんだか、自分の存在価値が消滅してしまったような気分になります。
僕の劣等感を「モテない劣等感」と表現する事が矛盾であるのでならば、
一体どのように表現すれば矛盾ではないのでしょうか?
童貞の人からは「お前はモテるじゃねえか」と言われ、
経験が多い人からは「お前はモテねえな、しょぼいな」と言われ・・・
おそらく、理屈で考えればどちらの言う事も正しいのでしょう。
だとすれば、僕のこの劣等感の存在価値はどこにあるのでしょうか?
どなたか助言をお願いいたします。
>>292 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
この世界は物質のみよりできており、すべての現象は物理法則に基づく必然として起こっています。
我々が考えること、我々が意志すること、我々が行動すること、我々が感じること、それらの全ては
必然として起こっています。従って自由は全く存在しません。
「我々はこの世界の中で自由である」という表現は、「我々はこの世界の中で自由である」と思いたい、
という我々の気持ちを表しているにすぎません。
我々は高度な条件判断能力を持った情報処理システムを備えています。
我々は高度な条件判断能力に基づいて、高い環境適応能力を持って行動できます。
そのことにより我々は行動の自由を感じています。
「我々はこの世界の中で自由である」という表現は、また、「我々が自由を感じている」という事態を
表しているのだとも言えます。
これらのことと、対象認識や自己認識ということとは無関係です。
306 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/24(金) 21:52:42 0 BE:769463036-PLT(13230)
307 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 21:55:50 0
>>305 <これらのことと、対象認識や自己認識ということとは無関係です。>
そう思います。
<この世界は物質のみよりできており、すべての現象は物理法則に基づく必然として起こっています。>
これは、「決定論スレ」の方がいいかもですね。
アンチノミーを語り合うスレですが。
308 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/24(金) 21:59:37 0 BE:256487832-PLT(13230)
<この世界は物質のみよりできており、すべての現象は物理法則に基づく必然として起こっています。>
ということは非物質はこの世に存在しないと・・・
はたしてそうかな・・・
309 :
アラコキ:2009/04/24(金) 22:16:56 0
物質でなければこの世界ではないというだけ。
物質でないのはあの世界なんだね。
>>298 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
観念論哲学者は多数いるかと思いますが、筆者の知る主な観念論哲学者は、
カント、フッサール、ハイデッガー、ヘーゲルです。
それぞれの主張内容は大きく(あるいは、まったく)異なります。
観念論哲学は実在を認めず、主観に基づいてこの世界を記述します。
主観に映るイメージを観念と呼びます。
主観に映る世界のイメージを現象と呼びます。
観念論哲学では、この世界を心の生み出す現象として捉えます。
実在論で現象の背後にあるとされる実在は観念論哲学では否定されます。
実在を完全に否定する観念論哲学者もいれば、実在は不可知である、語りえぬものである、として
完全には否定しない観念論哲学者もいます。
どちらにしろ、観念論哲学に於いて、実在が語りえぬもの、であることに変わりはありません。
観念論哲学の研究方法は内観(主観、自己認識)に基づく方法です。
観念論哲学での心は「未規定の何か」「不可知の何か」「語りえぬもの」であり、
主観であり、観念論哲学のすべての出発点です。
>>301 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
「誰が/何が」と問われれば、単純には「我々の心が」と答えることになります。
それとも、もっと別の答えをお求めなのでしょうか?
対象に関するデータをもとに、心の中で情報処理が行われ認識内容が形成されます。
その形成された認識内容が我々の心で認識されます。
>>303 >>304 考える名無しさん
お書きになっている内容は、当為論に属する問題であり、本スレッドの対象外としている問題です。
悪しからず..... (^^;;;
>>312 スミマセン。また名前の書き忘れです。
>>312 はわたくしぽん太郎のレスです。
集中力不足です.....
哲学って議論して本当に真実が現れるのだろうか
[補足事項] 不確定性原理と自由意志
不確定性原理では、物理的現象が確定的にではなく確率的に起こることが示されました。
不確定性原理では、物理的現象が波動関数に従って確率的に起こります。
ニュートン力学では、物理的現象が物理法則に従って確定的に起こるものとされていました。
それが否定され、不確定性原理では、物理的現象が確率的に起こることが示されました。
不確定性原理が発表された当時は、物理的現象の確率性から、物理的なもののみにより、
物質的なもののみにより、自由意志の存在を説明可能ではないか、と考えた人が多数いた
ようです。
自由意志の自由というのは結果を自由に選択できることを意味しますが、確率というのは結果
を自由に選択できないことを意味します。
どのような結果が起こるか分からない、結果を選択できない、だからこそ確率であるわけです。
従って、自由意志と確率は無関係であり、自由意志と不確定性原理も無関係です。
どちらにしても、自由意志を、物質的なもののみ、物理法則のみから説明することはできません。
不確定性原理も物理法則の一部であり、そこから自由意志を説明することはできません。
物質以外の実在を持ち出さない限り、自由意志を説明することは不可能です。
316 :
アラコキ:2009/04/25(土) 08:08:23 0
因果的決定論だからこそ自由意志は効果を発揮する。
因果の法則がわからなければ予定行動(スケジュール行動)は
行えない。結果がそのとおり成就するかはまた別問題だ。
因果の法則が正しくても縁が無ければ結果は無い。
確率的決定論でも行為選択の自由はあるから自由意志はある。
自由意志が無ければ競馬等の賭けや株式市場などの相場は成り立たない。
317 :
考える名無しさん:2009/04/25(土) 08:11:04 O
大変だった!!
>>235 [補足事項] 情念認識の定義
<定義> 情念認識 : 現象そのものを認識できず、2次的現象のみしか認識できない、自己認識の認識特性
自己認識は、心の中のディスプレイに映ったもの(2次的現象)のみを認識できます。
自己認識は、心の中のディスプレイの背後にあるもの(心の現象そのもの)を認識できません。
それが自己認識の認識特性であり、情念認識です。
>>316 > アラコキさん
本スレッド以前には筆者も確率的決定論という表現をよく使用していました。ナツカシイですね。
不確定性原理的確率性は決定論(確率的決定論)であり、自由意志の正反対である、という
意味で使用していました。
> 自由意志が無ければ競馬等の賭けや株式市場などの相場は成り立たない。
現に、自由意志が無くとも、競馬等の賭けや株式市場などの相場は成立しています。 (^^)
(このレスは無意味レスです。お気になさらずに.....)
>>311 > 追加レスです。
>>301 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
さらに、(形成された認識内容が我々の心で)最終的に「認識されるとは如何なることか」と
問うことも可能です。
しかし、その問いに答えるべきは認知心理学の役目であり、存在論の役目ではないものと
考えます。
>>316 > アラコキさん
> 自由意志が無ければ競馬等の賭けや株式市場などの相場は成り立たない。
自由意志の有無と、競馬等の賭けや株式市場などの相場が成立するか否か、と
いうこととは無関係です。
自由意志の有無とは無関係に、競馬等の賭けや株式市場などの相場は成立します。
[補足事項] 自己認識の認識しているもの
これまで述べたことの繰り返しになります。
自己認識が認識するのは、自分自身の心の中の様子であり、自分自身の心が働いている様子です。
それは、心の中の現象そのものではありません。
心の中の現象そのものとは、心の中で行われる認識作業(情報処理作業)を指します。
自己認識は心の中の現象そのものを認識できません。
自己認識にとって、心の中の現象そのものは、姿を見せない舞台裏の住人です。
その、姿を見せない舞台裏の住人、の存在自体は認識(推測)できています。
自己認識にとって、「声はすれども姿は見えず」というのが舞台裏の住人です。
ぽん太郎氏の見解はカントの観念論にそっくりである。
ということはやはり名付け方の問題であろう。
観念論も唯物論も対象の命名の仕方が同じだけで同じところに行き着く。
>>310 > 追加レスです。
>>298 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> 実在論で現象の背後にあるとされる実在は観念論哲学では否定されます。
カントは実在を認めており、それを「物自体」という語で表現しています。
この「物自体」は不可知な何かとされており、「語りえぬもの」である点では他の観念論哲学者と
変わりません。
しかし、カントに於いて「物自体」は霊魂の永遠性を担うものであり、自由意志の存在を担うものであり、
等々、さまざまな属性が付与されており全くの語りえぬものにはなっていません。
>>323 > 救いを求める者 ◆7UpSOEZchgさん
全ての物事は眺める視点によってその姿を変えます。
ある視点で違って見えるものでも、別の視点から見れば同じに見えることがあります。
全ては視点しだいです。
326 :
アラコキ:2009/04/25(土) 12:31:01 0
>>271 抄録さん。
>
>>254>アラコキさん
>”無限後退”なんて用語はちょっとした気分で使ってみたのです。
ここから話が無限後退に脱線してしまった。
>>250に戻って網膜の外界の実像から再スタートしましょう。
だれかが言ってる脳内ディスプレイが何を意味するか解らないけど確かに
人の脳内には網膜の像以後には光学像は存在しないでしょう。
網膜の神経細胞の錐体や「かんたい」で像はニューロンの神経信号に変換されてしまうから。
デジタルカメラでCCD撮像素子などで光学像が電子信号に変換されるようなものですね。
で、脳内にはデジタルカメラの液晶ディスプレイのようなモニタはないし、それを見る
カルテジアン劇場の観客は存在しない。
デジタルカメラのCCD素子の電子信号相当から脳はそれを感覚・知覚・認識処理して
あたかもその像がもとの外界のあるべき位置にあるように外界の光景に重ね合わせて
表示するんですね。だからまぶたを閉じればその像は消えてしまう。
決して網膜の像であるとは見ていない。デジタルカメラのモニタ画像や
パソコンのモニタ画像とはまったく異なるところです。
ここまでは問題ないですね。
>>325 それは科学でもないし、論理学でもない。
329 :
満豚:2009/04/25(土) 13:15:00 O
>>300 いや〜、ぽん太郎くん。君は相変わらずタフだねぇ。君の目の前にまで鏡を突き付けているのに、それでも「自分の顔じゃない!!」とダダをこねる子供みたいだよ。
誰かがぽん太郎くんの理論に無限後退が内包されていると指摘していたけど、君が真っ正面から答えていないので、繰り返しになってしまうけど僕からもう一度指摘させてもらうよ。
だが、ぽん太郎くん。前にも言ったが、僕のする指摘が氷山の一角に過ぎないということは忘れないでくれよ。僕には時間が少ないからね。では雑談とはサヨナラを告げて本題です。
と、思いきや君の文章をじっくり読み返してみると「最終的認識結果」と「最終的認識内容」の違いがよう分からん。「最終的認識結果」とは言語的なものと考えてもいいの?
「最終的認識内容」とは像と考えてもいいの?でも「最終的認識」というからには既に認識はされているってことっぽいしなぁ。君の言葉で確認させてよ。
>この世に無限は存在しないね。あるのは可能無限だけだろ。
それは、貴方の思考が可能無限で建前の考え方、決められた思考しか
できないと自分を表現しているのに等しい、
331 :
考える名無しさん:2009/04/25(土) 13:31:20 0
>アラコキさん
抄録ですが
ただいま書き込み規制中です。
私のプロバイダーはDIONなのですが最近は書き込めない時期の方が多いです。
この文章は シベリア郵便局から配達していただいています。
>>326は全く同意致します。脳内ディスプレイなど「観念内のファンタジー(空想)」なのです。
>>280>ぽん太郎さん
抄録ですが、
まさかこれで主文が終わるとはびっくりです。ついに何も解決しませんでしたね。
貴方は「心=情報処理」としてしまいましたが、混沌から情報を選択・形成しているのは人間なのです。
コンピュータはその人間の能力によって作られた線路の上を超特急で走っているだけです。
ですから「心=情報処理」などという説明は同語反復以上のものでは全くありませんよ。
貴方が存在論(≒唯物論?)を標榜するなら
「”いわゆる”情報」が客観世界のいかなる性質によるのかを(唯物論的に)探求せねばなりません。
332 :
満豚:2009/04/25(土) 13:50:21 O
>>331 あなたの書き込みはいつも僕と同意見なので嬉しいです。
僕もホントにビックリしたよ。
>>331 あなたは主観的情報処理しか存在していないような雰囲気ですが、
客観性のない主観的情報処理も存在しますよ。
物(もの)でも事(こと)でもない、情報という話です。それは意味でもないです。
もしかして知りません?
あなたは主観的情報処理しか存在していないような雰囲気ですが、 ×
あなたは客観的情報処理しか存在していないような雰囲気ですが、 ●
335 :
満豚:2009/04/25(土) 14:39:50 O
>>326 >>331>>ついでにぽん太郎くん
僕は単純に何かを「見る」といったことですら、「意味」というものと分けて説明することは不可能だと考えております。
ぽん太郎くんの主張するようなカルテジアン劇場や無限後退を内包するような理論などを受け入れるわけにはいかないのは当然のことながら、私は更に彼の主張から意味の指示対象説を嗅ぎつけます。
(まぁ、彼の組み立てる議論には論理的な飛躍や説明不十分な箇所が多すぎて、実際のところを彼の言葉で確認してはいませんが)これも到底受け入れられたものではありません。何故、意味の指示対象説を受け入れられないかについてですが、おそらくお二人には説明不用でしょう。
もし仮に彼の言うところの脳内のディスプレイに「ウサギ/アヒル」の絵(騙し絵って言うのでしょうか?)が写し出された場所、彼の言うところの観測者はウサギだと判断するのでしょうか?アヒルだと判断するのでしょうか?
仮にウサギだと判断したと仮定してみましょう。しかしそれはアヒルだと判断する時にディスプレイに写し出された内容と全く同じです。といったところでしょうか。
この議論はウィトゲンシュタインが彼の著書『哲学探求』でしております。
336 :
満豚:2009/04/25(土) 14:48:24 O
このことは、もちろん脳内のディスプレイやその観測者といったものが全く不必要であることも意味しています。
337 :
満豚:2009/04/25(土) 16:07:04 O
〉ぽん太郎くん
あと、あなたの決定論について抄録さんは「アンチノミーだ」と指摘しましたが、私はウィトゲンシュタインの『哲学探求』(たしか)第204か201節の「規則は行為の仕方を決定出来ない。何故なら如何なる行為の仕方もその他の規則と一致させられ得るから」
という切り口から、更にクリプキにもアドバイスをもらいながら私からの意見を述べさせてもらおうと考えております。
しかし残念ながら、今のところ私にそんな時間の余裕は与えられておりません。
「私は見ている」
「私は味わっている」
「私は触っている」
だが、認識が存在するという人々は言う。
「「私は見ている」と認識している」
これは単に文を長くしただけである。
「私は見ている」
そこに認識というものはない。
339 :
アラコキ:2009/04/25(土) 17:35:05 0
>>338 >「「私は見ている」と認識している」
確かにこれは冗長だね。
こんなことを誰がいつ言うのだろうか?
哲学者の妄想としての文でしかない。
>「私は見ている」
これも普通の表現じゃないね。
「私は」は余分だ。
普通見ている対象を示すだけだろ
「あ、赤い夕日だ」
「トマトだ」
「豚がいる」
これが普通の表現だろ。
「私は豚を見ていると認識していると確信している」
誰がこんなこと言うか?www
>>339 表現としては「私」は余計ではない。
なぜなら、伝達するときは自己と相手方が必要だからである。
つまり、諸現象をまとめる主体が仮設されねばならない。
これが「私」である。
私は諸現象をまとめる主体として仮設される。
仮設されたものであるから、諸現象の中には存在しない。
そして、表現でないときは「トマトだ」と言う必要すらない。
「前方にコップがある」と「私はコップを見ている」は同義である。
と言ってみたもののやや自信が無い。
>>331>>335>満豚さん
ぶっ。俺と同意見ですか・・いや抄録ですが。
俺の方はと言えば、貴方が記憶喪失君とやり合っていたころから 貴方の論旨はよく分かりません。
またヴィトゲンシュタインとか出してこられると本屋に立ち読みに走らないといけないレベルです。
>>333>オカルト君
抄録ですが
貴方とは一度邂逅したことがあると思いますが、何が言いたいのかさっぱり分からんですわ。カッカ
”意味すら無い”もいいでしょう。しかしまさに意味がない訳ですが。
確か俺の印象では「意味は無くとも 有用である」旨の話だったような記憶が・・。
意味が無いものは言葉で説明してもまさに無意味な訳ですから、その「有用」であるところを
実際に示すしかないわけです。それが無く ただ思わせぶりな謎掛けに終始しても有用でもなく、
面白くもない・・かもしれません。
オカルトの術を持つ貴方なら分かると思うが、無秩序が集積すると 逆転して対称性に収斂する・・のでは?
世の中に完全なる無意味を見出すことも 作り出すことも実は困難ではないですかね?
規制が解けたらまたきます。ぽん太郎さんの活躍を楽しみにしています。本当です。
ぽん太郎さんの文章はすばらしい。論旨が明確で分かりやすい。毎度感服します。
[補足事項] 存在目的からみた対象認識と自己認識
繰り返しになりますが、対象認識と自己認識を、存在目的の視点から眺めてみます。
対象認識の存在目的は、対象の現象そのものを捉えることにあります。
自己認識の存在目的は、心の中の様子、心の働いている様子を捉えることにあります。
自己認識の存在目的は、心の中の現象そのものを捉える事にはありません。
ですので、自己認識が心の中の現象そのものを捉えることはありません。
>>331 > 抄録 ◆xOLbFG9QNUさん
> ”いわゆる”情報」が客観世界のいかなる性質によるのかを(唯物論的に)探求せねばなりません。
何をお求めになっているのか把握できておりませんが、とりあえず書いてみます。
我々の脳は高度な抽象能力を備えており、さまざまな抽象概念を取り扱うことができます。
「情報」であれ、その他の抽象概念であれ、唯物論で説明可能であることに何の問題もありません。
我々の脳は高度な抽象能力を備えており、唯物論であるか否かに関わりなく、抽象概念を取り扱える
ことに何の問題もありません。
>>329 > 満豚さん
> と、思いきや君の文章をじっくり読み返してみると「最終的認識結果」と「最終的認識内容」の違いがよう分からん。「最終的認識結果」とは言語的なものと考えてもいいの?
> 「最終的認識内容」とは像と考えてもいいの?でも「最終的認識」というからには既に認識はされているってことっぽいしなぁ。君の言葉で確認させてよ。
「最終的認識内容」というのは仰る通り、心の中のディスプレイに映った像です。
「最終的認識結果」というのは「最終的認識内容」が観察者によって認識された結果ということです。
「最終的」というのは認識工程の最後ということです。
認識工程は、対象からの素のデータをもとに、様々な認識工程(情報処理工程)を経て「最終的認識内容」を形成します。
>>335 > 満豚さん
ダニエル・デネット著『解明される意識』をだいぶ前に読んだことがあります。この書に何らかの意味を見出す
ことはできませんでした。カルテジアン劇場モデルが無限後退になるとは思っていません。
「明けの明星」と「宵の明星」の議論を以前見かけたことがあります。(指示対象説関連)
これらの問題は認知心理学の答えるべき問題であり、存在論の問題ではないものと考えております。
満豚さんの問われている問題は、概ね、認知心理学の答えるべき問題であり、存在論の問題ではないものと
感じています。
「ウサギ/アヒル」の絵の場合、脳内のディスプレイには、
「ウサギ/アヒル」の絵、そのものも映っているでしょうし、
ウサギと認識されている場合は、ウサギの絵が脳内のディスプレイに映っているでしょうし、
アヒルと認識されている場合は、アヒルの絵が脳内のディスプレイに映っているでしょう。
脳内のディスプレイには我々の認識している通りのものが、その時々で、写されています。
「脳内のディスプレイに映されること」イコール「認識されること」です。
大事なことは、カルテジアン劇場(脳内のディスプレイと観察者)モデルが、あくまで仮想的なものにすぎないと
いうことです。
ウィトゲンシュタインの著書は読んだことがありません、のでコメントできません。
>>340 > 救いを求める者さん
> 私は諸現象をまとめる主体として仮設される。
> 仮設されたものであるから、諸現象の中には存在しない。
「私」は物質系から生まれる2次的現象(情報処理)です。
ですので、諸現象の一部であり、諸現象の中に存在します。
>>341 > 救いを求める者さん
「前方にコップがある」は対象認識であり、「私はコップを見ている」は自己認識です。
その意味で違いますが、別の意味では同義であるとも言えます。
>>335 > 満豚さん
追加レスです。
脳内のディスプレイには我々の認識している通りのものが、その時々で、映されており、
ウサギと認識されている場合とアヒルと認識されている場合とでは映されている内容が
異なります。
[補足事項] 脳内ディスプレイと観察者
「脳内ディスプレイと観察者」というモデルを用いていますが、それはあくまでモデルであり、
仮想的なものです。
あまりモデルに囚われすぎると本来の姿を見失う可能性もあります。
認識の働きは、対象からの素のデータをもとに、様々な認識工程(情報処理工程)を経て
認識内容を形成し認識します。
この「認識内容を形成し認識する」という認識の最終工程を表現するためのモデルとして、
「脳内ディスプレイと観察者」というモデルを用いています。
あまりモデルに囚われすぎず本来の姿を捉えることが必要です。
事故崩壊スレ
353 :
満豚:2009/04/26(日) 11:16:05 O
〉抄録くん
そんな奴とやり合った記憶はないが、誰かと間違ってないかい?
〉あなたの論旨がわからない
>>335 > 満豚さん
追加レスです。
> 僕は単純に何かを「見る」といったことですら、「意味」というものと分けて説明することは不可能だと考えております。
この切り口は、認知心理学の問題であると感じます。存在論の答えるべき問題ではないと考えています。
355 :
満豚:2009/04/26(日) 11:34:19 O
〉ぽん太郎くん
いつものことだけど、ちょっと待っててね。
>>348 誤字訂正です。
>>340 > 救いを求める者さん
(誤) 「私」は物質系から生まれる2次的現象(情報処理)です。
(正) 「私」は物質系から生まれる2次的存在物(情報処理)です。
「私」は情報処理としての現象であり、情報処理という働きとしての2次的存在物です。
>>335 > 満豚さん
これまでの繰り返しですが.....
そもそも、脳内のディスプレイというのは我々の認識内容を表すための(仮想の)概念です。
「脳内のディスプレイに映っている内容」イコール「認識内容」です。
もし、対象を錯覚して認識している場合であれば、錯覚した通りの内容が脳内のディスプレイに
映されます。
「ウサギ/アヒル」の絵を、ウサギと認識している場合であれば、ウサギとして認識された内容が
脳内のディスプレイに映されます。
「ウサギ/アヒル」の絵を、アヒルと認識している場合であれば、アヒルとして認識された内容が
脳内のディスプレイに映されます。
どちらにしろ、脳内のディスプレイに映されるのは、認識している通りのものです。
そもそも、脳内のディスプレイとはそうしたものとして仮想されている概念です。
>>356 物質の他に情報処理を加える必要があるのだろうか?
例えば、情報処理とは何かと尋ねれば、ぽん太郎氏は、
それを人体の身体的機能として説明するだろう。
例えば、視覚であれば、基本的には眼と神経と脳の働きとして。
しかし、眼も神経も脳も物質であり、そこで行われていることも
物質的であり、結局、その説明も物質の説明である。
とすれば、物質の他になぜ情報処理という言葉が必要なのだろうか?
360 :
満豚:2009/04/26(日) 22:05:33 O
〉ぽん太郎くん
やぁやあ、ぽん太郎。まるで嘘をついたあとの人間が取るような焦りようじゃないか。
まぁ、そんなに焦らずにお互いゆっくりと気長にいこうよ。今はちょっとほろ酔いなんでまた明日ね。
最後のあなたの発言についてだが、あれはまずいって。止めといたほうが良いって。
361 :
ザ・スミス:2009/04/26(日) 22:28:11 0
>>1 目が言うことにはこの世は平面なんだそうだ。
だけど手がいうことには世界は立体なんだって。
音や匂いは空間的な事柄なんだろうか?
362 :
アラコキ:2009/04/26(日) 22:48:08 0
>>361 >目が言うことにはこの世は平面なんだそうだ。
眼も両眼の視差を解釈して風景に奥行きを与えているね。
視野も平面ではないよ。
363 :
一般人:2009/04/27(月) 00:02:47 O
>>38 ぽん太は、物理的実体は実在といい、物理法則に物理的実体以外の関与が認められないから、物理的実体以外は実在し無いという。
完全な循環である。
物理法則は、ぽん太の言う物理的実体を対象としているし、物理的実体から帰納的に求められたのが物理法則である。
ぽん太は、こう述べているに過ぎない。
「物理法則によって捉えられたものは、物理的実体だ。」
程度の低い循環に他ならない。
さらに続けて言う。
「物理法則には、物理的実体以外(霊魂等)の関与が認められないのだから、物理的実体以外(霊魂)は実在しない。」
何を説明しているのか?
>>362 >眼も両眼の視差を解釈して風景に奥行きを与えているね。
>視野も平面ではないよ。
奥行きがあるから平面ではないでは論理になっていない。
それは平面で見えているだけにすぎないし、奥行きをあるように
脳が2つの視覚差から奥行きという錯覚(現実)を合成しているのに
すぎない。頭悪いな
>オカルトの術を持つ貴方なら分かると思うが、
君はとんでもなく勘違いしているし、その何処をどのように錯覚したのか
しらないがオカルトの術なんて何?そんなのあるの?と連呼したらw
アホだな。まるで何でもコジツケで展開でき分解でき、理解できると
思い込んでいるとしか。
>無秩序が集積すると 逆転して対称性に収斂する・・のでは?
貴方には、意味の領域でしか物事を理解できない故にその通りにしか
考えることができない。それが貴方の限界というもの。
我々が扱うものは、その奥にあるものであって、貴方が想像すらしていないし
認知すらできていないのに特定できたと思い込んでいないか?
できてないものを語るとはどういう論理?それこそトンデモ発想というものだろう。
>世の中に完全なる無意味を見出すことも 作り出すことも実は困難ではないですかね?
貴方が作り出した幻想にすぎない。
オカルトの秘という立場ならば、すべては喩えでしかなく認知すらできては
それは間違いであるということを1つだけ説明しておく。
計れるものを扱っているのと計れないものを扱っているのでは、捉え方が
違うんですよ。それを知った風なのはまるで君こそがオカルトに染まっているんじゃ?
>彼の組み立てる議論には論理的な飛躍や説明不十分な箇所が多すぎて
彼の対象が不明ですが、私が言うオカルトとは論理ではないし、理屈でもない。
論理的な飛躍でもない。見た人は論としてしか見てないだからですよw
自分の捉える計りでしか表現方法は存在しないと俺正義しているだけです。
世界の関係を論理も仕組みも無視した関係のみというつながり
それは類似、共感、接触、相似などの主観的なつながりを扱う分野であり、
議論でもないので議論や論理ではないと言われても、それは議論でも論理
でもないのは明らかなので何を言っている?としか答えられません。
神秘を説明不十分という意味を感じているのならば、それは言葉で説明できる
類ではありません。この分野では体感や経験で場の認知することで世界の秘を
相互に繋げるという形態であり、論理的な客観性での説明は不要なのです。
意味ではなく本質の質の部分、つまり特徴や性質や秩序という類を複雑(混沌)
の高次の立場から物事の質を扱うとういことで、物事を単純化して単純なもの
との結びつきを探求する分野ではないってことですね。
367 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 01:16:45 0
>>345>ぽん太郎さん
抄録ですが、
なるほど・・・貴方は私とは問題意識を共有していないのですよ。
貴方の文章が整然としていたので これほどの隔絶があるとはよもや想像していませんでした。
これは例えば、「このラジオは番組を選局して音を発する能力がある」との説明で貴方が納得できるということでしょう。
私が知りたいのは唯物還元的な「心」のしくみです。
そして貴方はそのようなことは問題とは思っていないのです。残念です。
>>353>満豚さん
抄録ですが
貴方が決定論スレで「記憶くん」と呼んでいた御仁は「記憶喪失した男」なるハンドルネームです。
私は彼を「記憶喪失君」と呼びます。
>>365>オカルト君(?)
抄録ですが
そんなにヒステリーを起こさないで下さい、と断定するとまた怒られる訳ですが。
つまり貴方は私などには理解されたくないわけです。
こちらが勝手に忖度するとカチンとくるわけです。
そして「お前なんかに我々の扱うものなど想像すらできるわけない」と言いたいわけです。
ですから無目的に俺に絡んでいる訳です、文章化など不可能な訳ですから。
なんてこと言うと 再び貴方は不快かつ不明なる文章で言い返す・・かもしれません。
すいませんが 私は全く興味がないのですよ、そんな貴方には。
368 :
ザ・スミス:2009/04/27(月) 01:21:11 0
>>364 フォローはありがたいがアラコキはナイスな哲学者だぜ
369 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 01:25:04 O
ないもの強請りしてんじゃねえよ
370 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 01:25:46 O
道子仁美
371 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 01:28:08 O
アテルイ何かやんねーぞふつー
[補足事項] 存在論の語るべきこと
存在論の語るべきことは本スレッドの本文に述べたことで尽きています。
それ以外の存在の問いについては、その他の諸学が答えるべき問題です。
「物質存在の詳細」については物理学が答えるべき問題です。
「心の働きの詳細」については認知心理学の答えるべき問題です。
例えば「知覚するとは如何なることか」「理解するとは如何なることか」「錯覚するとは如何なることか」等々
は認知心理学の答えるべき問題です。
観念論は認識論であり、「我々は世界をどのように認識しているのか」という問いに答えるための学です。
この問いは存在論ではなく、本来、認知心理学の範疇に属する問いです。
観念論は、認知心理学の分野で語られるべきで、存在論として語られるのは間違っています。
>>358 > 救いを求める者さん
「私」を説明するためには「情報処理」が必要です。
1次的存在物は物質であり、(心としての)「私」は物質(系)からの働きとして生まれる
2次的存在物です。
>>359 > 救いを求める者 ◆7UpSOEZchg さん
この世界を説明するには物と事が必要です。
物が物質であり、事が働きであり情報処理です。
>>360 > 満豚さん
> 最後のあなたの発言についてだが、あれはまずいって。止めといたほうが良いって。
「最後のあなたの発言」とはどの発言をお指しでしょうか?
先ずは、感じた通りをどんどん書き込んで、後で、本当にまずい、と思った場合はその時で
訂正する..... というモードで書き込みを行っています。
確かに少々言いすぎかな、と感じている部分もありますが、自分のその時々感じていることを
率直に書いています。あまり率直に書きすぎるのもよくないかましれない、もっと抑え気味に
書くべきかもしれない、とかも思ったりしながら書いています。
しかし、とにもかくにも、まずはボールを投げなければ何事も始まらない、と思っています。
まずはボールを投げてみよう、という気持ちで書いています。
376 :
アラコキ:2009/04/27(月) 09:08:18 0
>>364 >それは平面で見えているだけにすぎないし、奥行きをあるように
>脳が2つの視覚差から奥行きという錯覚(現実)を合成しているのに
>すぎない。
遠近法で書かれた絵画やスナップ写真じゃあるまいし現実風景を見て
平面で見えてるならまじ病院にいったがほうがいい。
奥行きが錯覚なのか正覚なのか迷えることもあろうがよく見よ!というしかない。
現象が現(うつつ)か幻(まぼろし)かも覚醒しろというしかない。
>頭悪いな
そうだね。
頭悪く物分りが悪いから哲学に興味を持ち続けているんだろうね。
ソクラテスの無知に知、ブッダの無明、養老のバカの壁と同じだ。
錯覚というのは現にそう見えているのであって、
本当はそう見えてないことを見えているように誤解しているのではない。
>>363 > 一般人さん
全ての基礎的概念は循環的定義にならざるを得ません。
循環的定義を避けるためには公理から出発せざるを得ません。
しかしこれでは問題の解消になりません。
筆者の定義も循環的定義に過ぎないことは十分承知しています。
それとも、一般人さんは全く循環的定義無しに存在論の問いに答え得るとお考えなの
でしょうか?
もし、循環的定義を批判されるのであれば、一般人さんご自身が循環的定義の無い存在論
の答えを提示される必要があるのではないでしょうか?
そうでもない限り、その批判に説得力はないかと思いますが?
>>367 > 抄録さん
ついに抄録さんの問題意識を把握できなかったようですネ。
どなたとであれ問題意識を共有するのは困難な場合が多い(或いは、ほとんど)です。
まあ、致し方ないことかもしれません。
380 :
アラコキ:2009/04/27(月) 09:42:10 0
>>377 そうですね。
錯覚は見えてるものの読み間違つがいだね。
ホントにそのように見えてるからそのように
解釈するんだね。
♪飛んで火に入る夏の虫
>>367 > 抄録さん
『唯物還元的な「心」のしくみ』という語を見ますと、それは筆者が、
存在論の答えるべき問いではない、認知心理学の答えるべき問いである、と考えている問い
に当たるように思います。
382 :
一般人:2009/04/27(月) 12:54:33 O
>>378 例え基本概念の説明に循環が必要不可欠としても、ぽん太の循環そのものもは質が悪い。
まだ40スレまでくらいしか読んでいないが、ぽん太の論を適応して数学を論じよう。
数学に霊魂は実在するかという問いに答えよう。
まず、実在を定義する。数学は実在である。実在は数学であるとしないのは、霊魂が実在するかもしれないからである。次に、実在は数学的に関係性を持たなければならない。以上が定義である。
ところで、霊魂は数学的法則には認められない。従って霊魂は数学と関係性を持っていないのだから、定義を満たせない。よって霊魂は実在しない。
私はこれを見たときこう思う。そりゃそうだ。
383 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 13:15:55 0
文系には過ぎた悩みだ
忘れろ
[哲学者の印象・その1] デカルト
デカルト著「方法序説」、筆者がデカルトの著書で読んだのはこの書のみです。
二元論(相互作用論)、有神論を唱えています。
方法的懐疑を研究方法としています。
先ず、「我思うゆえに我あり」を最初の真理とし、出発点とします。
次に、神の存在証明を行い、神の正直さから、「わたしがが明晰判明に真理と認めるものは真理である」
という原理を導きます。その原理をもとに様々な真理を導き出します。
世界を物質と精神という2つの実体で説明します。
自然世界(物質世界)は自然科学法則(物質的法則)のみで説明可能であり、
精神世界は精神(魂)のみで説明可能であるとしています。
近代以前、デカルト以前は、一般に、物質的なものと精神的なものが分離されず、不可分一体のものと
して考えられていました。
デカルトにより、物質的なものは物質的なもののみにより、精神的なものは精神的なもののみにより、
分離して説明することが可能になりました。
物質的なものを物質的なもののみにで説明可能になったことにより、唯物論への道が開かれたと、
筆者は評価しています。
実は、デカルトは唯物論者であったのではなかろうかと、考えています。
時代が唯物論を容認しなかったために、二元論、有神論に偽装したのではないかと、密かに考えて
います。
論理が明快で比較的分かりやすい点を高く評価しています。
唯物論への道を開いている、と考えられる点を高く評価しています。
哲学者の中では最も親しみを感じる哲学者です。
その意味で筆者はデカルト派であると言えます。
以上
>>382 > 一般人さん
何をもって質の良しあしを判断されているのか不明ですので、その点にはコメントを控えます。
質が悪いといえば、一般人さんの問題設定「数学に霊魂は実在するか」自体、質が悪いという
印象ですが?
(中身は無意味ですが)論理自体はまずまず問題ないかと思います。
しかし、それで何が問題だとお考えなのか把握できません。
386 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/27(月) 17:43:18 0
>>372 <「物質存在の詳細」については物理学が答えるべき問題です。
「心の働きの詳細」については認知心理学の答えるべき問題です。
例えば「知覚するとは如何なることか」「理解するとは如何なることか」「錯覚するとは如何なることか」等々
は認知心理学の答えるべき問題です。>
では、「世界とは何か」に関しては、「何が答えるべき問題」でしょうか?
ぼん太郎君の言うように「物理的実体=実在」なら、もう話は終わっている。
しかし、それは“現象”のことだ。
現象がそのまま実体=実在と本当に思っているのなら、あとは物理学に任せる
べきで、わざわざスレを立てるまでもなかろう。
物理的実体?がなぜ“実在”なのかも、よくわからない。
388 :
一般人:2009/04/27(月) 18:58:39 0
>>385 >質が悪いといえば、一般人さんの問題設定
「数学に霊魂は実在するか」自体、質が悪いという印象ですが?
その通りです。
ポン太が「数学に霊魂は実在するか」を質の悪い問題設定と感じるのと
同じように、ポン太の問題は質が悪い。
先ほどの私の例は、いたって滑稽なのである。数学に霊魂の痕跡が認められないのと同じ様に、
物理学にも霊魂の痕跡は認められないのである。
<定義1> 物質は実在である。
<定義2> 実在は物質と直接的/間接的に相互作用しなければならない。
<定義2>は明らかに物理を前提としている。
既にあらかじめ答えを前提にしている。
物理的実体は物理法則によって捕らえられ、物理法則は物理的実体によって
捕らえられている。この循環の中に、もとから霊魂など入り込む余地は今の所無い。
数学に霊魂が入り込む余地が無いのと同じように。
ちなみに数学では芸術も入り込む余地は無い。故に芸術が実在しないと
どうして言えようか?
389 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 19:32:11 0
なにが「動物化」なんだ?
それというのは、勘違いした、屑ニートの犯罪者予備軍に、かける言葉、なのか?
それで結果を、お前は把握してるのか?デブだから無責任に放置か?
犯罪者予備軍育てて何が楽しいんだ?死ねよ。もろあげで死ね。
無責任に妊娠もしちゃった訳か?最悪だな。
おまえは、なにをやってるんだ?反省してみろよ。
ゼロアカなんて、くだらない批評家育てて、なにを批評させようというんだ?
そんな連中隔離しとけよ。ろくな事いわないんだから。
批評家なんて、今の状況で必要だとでも思ってんのか?
なに血迷ってるんだ?
なんでだ?
390 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 19:40:17 O
上じゃねえだろふつうだ
391 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 19:42:47 O
アテルイ
[哲学者の印象・その2] スピノザ
スピノザの著書は読んだことがありません。哲学入門書の記事で知るのみです。
汎神論を唱えています。
この世界は神であるとしています。
神は無限の属性を持ち、人間はその内、物質と精神の二つの属性のみを認識できるとしています。
別の表現をすれば、この世界は神であり、物質(物質世界)であり、精神(精神世界)であることに
なります。
自由意志を認めず、全ての現象は神の本性に従って起こっているとしています。
スピノザの説は容易に唯物論に読み替え可能であり、当時から、唯物論であるという批判があった
ようです。
筆者もスピノザの説は唯物論そのものであると考えています。
時代が唯物論を容認しなかったため、汎神論に偽装したのではないかと考えています。
スピノザの説は唯物論と見做せる点を高く評価します。
自由意志を否定している点を高く評価します。
スピノザは結構親しみを感じる哲学者です。
以上
>>386 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
これまで繰り返し述べている通り、本スレッドの本文で述べている範囲については存在論の
答えるべき問題であり、それ以外の範囲についてはその他の諸学の答えるべき問題です。
>>387 > 考える名無しさん
「現象がそのまま実体=実在」とは思っていません。
物質(物理的実体)が実在である、というのは客観的実在論の前提です。
前提ですのでなぜと問うことはできません。
395 :
ザ・スミス:2009/04/28(火) 00:23:59 0
>>376 かなりキモイ例えだけど仮に人間に目が100個あったとしても
それは100枚の絵画を見ているのと同じなんじゃないかなあ?
まず最初に世界が立体だと知るには世界に触らなくてはいけない気がする。
わかんねーけど
396 :
ザ・スミス:2009/04/28(火) 00:29:53 0
だけど世界の仕組みがわかってくると実際に目で物に触ることもできるかなあ。
箱を見てこれは立体だと思えるのもそのためかな?
若干メルロポンティをパクってしまったけど
>>388 > 一般人さん
「質が悪い」というのは単なる感想のようですネ。感想にどうこう言うつもりはありません。
> <定義2>は明らかに物理を前提としている。
これは明らかな誤読です。
<定義2>は物質以外の実在も想定しています。
ですので、<定義2>のもとで物質以外に第2、第3の実在を想定することが可能です。
ただ、物理法則との整合性から、物質以外に実在はない、という結論になるだけです。
<定義2>では霊魂の実在性も想定されています。
ただ、物理法則との整合性から、霊魂は実在しないという結論になるだけです。
実在の定義の段階では霊魂の実在性は否定されていません。
ただ、物理法則との整合性から、霊魂の実在性が否定されるだけです。
最後の芸術云々の部分は何を仰りたいのか把握できませんでした。
>>388 > 一般人さん
もしかして、霊魂は存在(実在)するとお考えなのでしょうか?
もしそれなら、霊魂は確かに存在(実在)するということを論証されたほうが説得力が
あるかと思いますが?
結局、存在論は我々の生活について何も言えないのだろうか。
言えないという予感がある。これはなぜなのか?
[補足事項] デカルトとスピノザの印象
筆者はデカルトとスピノザを隠れ唯物論者と見ており、その意味で特に親しみを感じます。
もし、両哲学者がその著書の文面通り、唯物論者でなかったとしても、筆者の評価は変わり
ませんし、親しみやすさも変わりません。
401 :
アラコキ:2009/04/28(火) 07:59:28 0
>>395 >まず最初に世界が立体だと知るには世界に触らなくてはいけない気がする。
そうですね。
眼の視覚で遠近法が認識されるのは歩き回ることによってその視点の
変化に応じて見え方が変わることを経験するからだよね。
空間認識は人にカラダがあって動き回れる動物だからだよね。
空間の上下、左右、前後の位置認識はカラダを基準にして決められる。
そもそも感覚などの動物の神経系は動物が動き回るのを助けるように
進化してきたんだろう。その証拠は神経系の入力は眼や耳などの感覚器官
だけどその神経系の中枢神経である脳で処理された出力信号は筋肉などの
運動系にしかつながってないと唯脳論の養老先生が言っていた。
>>399 > 救いを求める者 ◆7UpSOEZchgさん
通常、存在論は我々の生活についての学ではなく、我々の生活について問うなら当為論と
して問うのが適切かと思います。
ただ、本スレッドは存在論についてのスレッドであり、当為論については論じませんが。
本スレッドで示した筆者の存在論は、その(存在論解決後の)後継者を自然科学としており、
自然科学を通して間接的に生活とつながっていると言えます。
403 :
アラコキ:2009/04/28(火) 08:17:04 0
>>396 >だけど世界の仕組みがわかってくると実際に目で物に触ることもできるかなあ。
まさか?
インド哲学のヴェーダンタでは眼から見えない手が出て物をなで回すことにより
その物の色・形を知るという説を唱えている。
そこまで言わなくてもインド哲学のニヤーヤでは眼から光が出て物の色・形を
知るという説だね。眼から光が出ていることは暗闇で猫などの眼が光っていること
を観察するし、まぶたを閉じれば光が出て行けないから(w!)見えなくなることで
明らかだとしている。
まぁ、そこまでは言わないとしても物を見るのは光が入ってきて物が見えるのでは
なく意識的に物を見に行っていることはたしかだ。
ただ眼を開けていても見れども見えず状態だから。
とにかくインド哲学ではどんな物事も「触」れなければその物事との相互作用は無く
知覚・認識できないとしている。
これは相対性理論でも近接作用しか認めないところから現代科学の考え方と同じだね。
人は触れることによってそれを認識する。
♪袖触れ合うも他生の縁
404 :
アラコキ:2009/04/28(火) 08:24:51 0
存在論は世界は何からできているか、そのせかいの存在要素を
問うもんだろ。
数学で言えば集合論だ。
で、世界の要素はなんだというのかね?
アビダルマくらい精緻な存在論を提起できるのか?
ブッダは人は五蘊すなわち「色・受・想・行・識」の
集合からなる存在とした。
>>394 ぼん太郎君
ではお尋ねするが、「物質」とは何ですか。
それが「実在」するとは、どういう事態ですか。
それを曖昧にしたまま話を前に進めても“哲学”にならないと言っているのです。
そこを問うのがこのスレの意義のはずです。
[補足事項] 存在論の後継者
本スレッドの「エピローグ」で存在論が解決済みであることを示しました。
存在論解決後、存在の問いに答えるのは自然科学(特に物理学)の役目です。
その意味で、自然科学(特に物理学)は存在論の後継者であると言えます。
存在論解決後、心の働きの問題に答えるのは認知心理学(や大脳生理学等)の役目です。
それは、存在の問いとは別分野であり、存在論の後継者ではなく、いわば分家であると
言えます。
>>405 > 考える名無しさん
> ではお尋ねするが、「物質」とは何ですか。
「物質とは何か」との問いであれば、それは物理学の答えるべき問題です。
「物質とは如何なる存在か」との問いであれば、それは知の限界を超える問いであり、
我々には決して答えることができません。
> それが「実在」するとは、どういう事態ですか。
この問いも知の限界を超える問いであり、我々には決して答えることができません。
我々は、「物質は実在である」ということを前提とし、それを出発点として考えるしかありません。
知の限界を知り、存在論の答えるべき問題を明らかにするのが本スレッドの意義です。
408 :
アラコキ:2009/04/28(火) 08:48:34 0
>>406 >存在の問いに答えるのは自然科学(特に物理学)の役目です。
それはまったくの認識違いだろう。
自然科学は存在論ではなく認識論だね。
その基礎論が科学哲学だろ。
数学の基礎論が数理哲学であるように。
>>407 その謂いは「存在論は不可能」と解される。
「物質」と「実在」を等閑に付した存在論?
しかも、それら前提にするという。
それなら、わざわざ哲学板にスレを立てる意味はないでしょう?
「哲学は科学のハシタ女」と言いたいのなら別だが。(そういう立場もあっていい)
[補足事項] 存在論と知の限界
存在の問いには我々の知の限界を超える問いもあります。
知の限界を超える問いに、我々は決して答えることができません。
「物質とは如何なる存在か」、「実在するとは如何なることか」、
「この世界はどうしてこのような世界として、このような法則をもった世界として、
我々に与えられているのか」等々。
これらの問いは我々の知の限界を超える問いであり、我々には決して答えることが
できません。
もし、仮に、我々がこの世界の外に出て、この世界を外側から客観的に眺めることが
できるとしたら、あるいはこれらの問いに答えることが可能かもしれません。
もちろん、それは実行不可能です。
我々は、「物質は実在である」ことを前提とし、それを出発点として考えるしかありません。
以上
>>409 > 考える名無しさん
「物質」や「実在」を等閑に付さない存在論、とは如何なるものかご教示いただけないでしょうか?
>>408 > アラコキさん
自然科学も認識論にすぎない、という批判のあることは十分承知しているつもりです。
ただ、自然科学は単なる認識論ではなく、不完全ながら、実在の姿を捉えているものと考えます。
それに対し、観念論は完全な認識論であり、その研究方法である内観(自己認識)の特性から
全く実在を捉えることができません。
その意味で、自然科学は存在論(の後継者)であり、観念論は存在論にはなりえない、と考えます。
413 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 09:58:01 O
世界とは「小林明子〜恋に落ちて Fall in love」 もしも願いがかなうなら〜
>>411 それが、ここで展開される思ってスレを覘いたわけです。
物質や実在の意味を問わないのなら、存在論ではなく、“存在者”論
ではないでしょうか。
415 :
アラコキ:2009/04/28(火) 10:04:09 0
>>412 観念論は「観と念」すなわち人間の認識のすべてだから
人間論でしょうね。
人間の関係しない「もの」はどうでもいいんじゃないか?
416 :
満豚:2009/04/28(火) 12:29:39 O
>>350 〉「最終的認識内容」というのは仰る通り、心の中のディスプレイに映った像です。
〉ウサギと認識されている場合とアヒルと認識されている場合とでは映されている内容が
異なります。
つまりだね、ぽん太郎くん。「内容が異なる」とは「ウサギ/アヒルの絵」を見て、ディスプレイに映し出される像が異なるということなんだが、このことを僕がこれまでの君の発言から矛盾なく解釈しようとするならば
「ウサギ/アヒルの絵」を見てウサギだと認識した場合、ディスプレイに映し出される像は、線としてのウサギの像ではなく、リアルなウサギの像(例えば毛がフサフサとしてて、生気のある目をしているウサギ)ということになる。
しかしだね、ぽん太郎くんよ。あくまでも僕が今した解釈が正しいのならばだが、「ウサギ/アヒルの絵」を見て、リアルなウサギの像がディスプレイに映し出されるとは、既に君の言うところ「最終的認識結果」が出されているということではないか?
そうじゃないと「ウサギ/アヒルの絵」を見て脳内のディスプレイにリアルなウサギの像が写し出される理由が分からないからね。このことを君の言葉で説明してくれないかい?
それともう一つ、仮に僕のした解釈が正しく、「ウサギ/アヒルの絵」を見て脳内のディスプレイにリアルなウサギの像が君の言うところの最終的認識内容として写し出された場合、君の言うところの観測者はいったいどういった最終的認識結果を下すのかい?
417 :
一般人:2009/04/28(火) 12:40:18 0
><定義2>は物質以外の実在も想定しています。
ですので、<定義2>のもとで物質以外に第2、第3の実在を想定することが可能です。
ただ、物理法則との整合性から、物質以外に実在はない、という結論になるだけです。
誤読どころか自分で、物理を前提としていることを認めてしまっている。
注目すべきは『物理法則との整合性から、物質以外に実在はない』という箇所である。
当たり前だろう。物理では物理的実体を扱うのであって、物理法則も物理的実体を
扱うのである。
さらにこの定義の基では物質以外に第2、第3の実在を扱うことは不可能だ。
なぜなら第2、第3の実在は最初から物理的実体に含まれておらず、
よって物理法則では捕らえられず、ゆえに「実在しない」ことが最初から
前提されているのである。
418 :
満豚:2009/04/28(火) 12:53:51 O
>>417 今君がしたようなぽん太郎くんへの指摘は、前に僕も指摘したが、君の方が分かりやすく綺麗にまとめられているので感心しました。
つまり、彼がしていることは、かなり狭い範囲での限定された条件のもとで「世界とは何か?」に答えようとする試みなのですね。
419 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/28(火) 12:57:19 0
>>393 :ぽん太郎 :2009/04/28(火) 00:05:16 0
<本スレッドの本文で述べている範囲については存在論の答えるべき問題であり>
即ち、ヒトが、網膜で感知する表象の認識パターン(認識とはなにか論)の1つを開示していただいた、ということになります。
420 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 14:41:27 O
これは持論ですが、外(神とか)から誘導されて形成されたのではなく、
物質が自ら何らかの意志を保持していて、小さい原子や素粒子ではあるが、この小さいものこそが大きく客観的に觀ることが出来、動かしている。
まず、全てを上手く運ぶには重力を存在させる必要がありました。この重力こそが必要不可欠で全てを動かす役目を司り、不思議な存在なのです。
また、人間は他人から觀た世界を見るのは不可能です。
言い換えれば、自分での世界でしか觀れません。
ここが重要な骨子なんです。
自分(心)から觀る自分(心)以外の全ては、自分とは無関係に存在しているのか確信がありません。
前述のように物質自体に何らかの意志作用が在るなら、その意志と自分の心との相互作用で形成されるなら、つじつまもある程度は合います。
421 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 14:46:29 0
世界って誰のものなの?
422 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 15:05:49 O
意志的なものを持ち出さないと、物質だけでは人間の理性では理解不可能です。
ここは、設計者(何らかの意志)が存在していると解釈するほうが辻妻も合って来るでしょう。
人体の中では、そのようなことが多々起きてます。
白血球は外敵である黴菌と闘い駆除してゆく過程において、
物だけでこのような計算された巧妙な行為をするのは、
自分が転びそうになったとき、側にある動かない机が動きだし助けた。
と同じで、到底に人間の理性では理解出来ません。
しかし、机は机としての本来、動いてはならないという役目的な意志が在るので、本当は全ては同じものから出来ているのです。
423 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 15:17:43 O
白血球はいったい誰からの命令でこのような巧妙な行為をするのでしょう?
また、命令があったとしても何故にそれに従う行為をするのか?
白血球は、黴菌という物が侵入すると、自分達に関係している人体が危険だと自覚することが出来るのか?
もし、電気的な信号を受けて自動的に行為するなら、何故にそのように設計されて作られているのか?
理性解釈からして、設計者の意志なるものを抜きにしては理解出来ない。
424 :
アラコキ:2009/04/28(火) 15:29:48 0
425 :
ツタンカーメン:2009/04/28(火) 17:34:08 O
ハンネを入れました。
人間がロボットを作り上げる場合は、既に人間脳という設計者が確認され、客観的にも理性で理解できます。
しかし、その人間の脳を作り上げた物質には、一般に設計者がいたとは考えられません。
医学的に細胞遺伝子が設計者なのですが、この遺伝子もミクロ的解釈から素粒子の集合体でしかありません。
それでは、物質である素粒子は何故に各々がその役目を担うように結び付いてゆくのでしょうか?
必ず元の最初の設計者が存在しないといけない。
そして、設計者=意志なのです。
人間が教育上で学ぶ範囲は、遺伝子が細胞分子を形成させていると、しかし、これらは途中からしか説明がされていません。
肝心の素粒子から遺伝子に成る説明がされていません。
426 :
アラコキ:2009/04/28(火) 17:44:03 0
>>425 >肝心の素粒子から遺伝子に成る説明がされていません。
そうですね。
DNA遺伝子を説明するのは分子生物学だから分子以下の
説明は物理学そのものになるでしょうね。
私も分子生物学では生命の説明はされていないように感じます。
だから人間は細胞ひとつさえ無機物から作ることはまだできない。
ただDNA遺伝子は生命の無い物質であることはお忘れなく。
だからDNAコードはPCR法なんかで機械的に、生命に関係なく、
増幅できる。
[補足事項] 全ては自然科学的方法で客観的に解析可能
この世界は物質のみでできており、人間自身も物質のみでできています。
ですので、この世界も人間自身も、全て自然科学的方法で客観的に解析可能です。
人間の心も情念認識も全ては物理的現象であり、全て自然科学的方法で客観的に
解析可能です。
もちろん、それは、あくまで原理的な話であり、技術的に困難で、不可能なことも多数
あります。
「全ては自然科学的方法で客観的に解析可能である」という主張は、一昔前なら到底
受け入れられない主張であったものと思います。
しかし、現在は既にゲノムの全解析が可能になっている時代です。
「全ては自然科学的方法で客観的に解析可能である」という主張も、少しは現実性を
帯びて考えることのできる時代になっているのではないでしょうか?
この先、生物体(生命体)の解析をどこまで進めても、出てくるのは自然科学的現象/
物理的現象のみであり、それ以外の現象(例えば霊的現象)が出てくることは決して
ありません。
以上
428 :
ツタンカーメン:2009/04/28(火) 17:55:46 O
また、自分から離れての世界を確認することは不可能なのは自明なのですが、
確認しえないものを自分とは無関係に存在してると言うほうが無理があります。
他人が觀る世界を体験出来ません。となると、自分と世界との一対一での在り方にやり、この二者は相互作用関係にあるものです。
方法序説論、または観念論に近い思考ですが、確信がないかぎり疑うしかない。
事実、自分の觀る世界の中でしか生きてゆけない。
そして、その世界はいつも決まっているのではなく、自分の思考の在り方で世界も変貌変化してゆく、
これこそが二者間の相互作用ではないでしょうか?
429 :
満豚:2009/04/28(火) 18:07:10 O
〉ぽん太郎くん
「ウサギ/アヒルの絵」を見て、あなたの言うところの最終的認識内容として、脳内のディスプレイにリアルなウサギの像が写し出された場合、もうそれは既に、
つまりそのディスプレイに写し出される前にあなたの言うところの最終的認識結果が下されているということではないか?
と書きましたが、その時、あなたの言うところの観測者の仕事は一体何なのでしょうか?
ということを一応付け足しておきます。今流行りのリストラでしょうか?
>>414 > 考える名無しさん
「物質や実在の意味を問う」ということをどのようにお考えであるのか把握できませんので、
コメントは差し控えます。
何をお求めであるのかもう少し具体的に述べていただけると助かります。
431 :
満豚:2009/04/28(火) 18:11:18 O
〉ぽん太郎くん
書き忘れていましたが、問題をシンプルにするために「ウサギ/アヒルの絵」が騙し絵であることを知らない人間が見た場合。という設定にしましょう。
>>415 > アラコキさん
何を問題とされているのか把握できませんでした。
433 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 18:32:13 O
今更、存在論もないでしょう
434 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 18:32:42 0
>>416 > 満豚さん
> 「ウサギ/アヒルの絵」を見てウサギだと認識した場合、ディスプレイに映し出される像は、
> 線としてのウサギの像ではなく、リアルなウサギの像(例えば毛がフサフサとしてて、
> 生気のある目をしているウサギ)ということになる。
ディスプレイに映し出される像は、線としてのウサギの像であり、リアルなウサギの像ではありません。
線画と、ウサギとして認識している事態を表す内容も含めて、ディスプレイに映し出されています。
線画をウサギとして認識するのは、線画の特徴を抽出し、それがウサギという概念の特徴に一致する
ことを判定するからです。
この辺りは認知心理学的問題であり、本スレッドでこれ以上議論するのは不適当です。
436 :
満豚:2009/04/28(火) 19:04:49 O
>>435 〉この辺りは認知心理学的問題であり、本スレッドでこれ以上議論するのは不適当です。
出たな!「最終的認識結果」・・・じゃなくて「最終兵器」。
また明日ね。
>>417 > 一般人さん
> 誤読どころか自分で、物理を前提としていることを認めてしまっている。
やはり、誤読だと思います。
実在の定義(<定義1><定義2>)は物理的なもののみを前提にはしていません。
「物理法則との整合性」という条件は「実在の定義」とは別の条件です。
> 注目すべきは『物理法則との整合性から、物質以外に実在はない』という箇所である。
ですから、それは「実在の定義」とは別の条件です。
> さらにこの定義の基では物質以外に第2、第3の実在を扱うことは不可能だ。
> なぜなら第2、第3の実在は最初から物理的実体に含まれておらず、
> よって物理法則では捕らえられず、ゆえに「実在しない」ことが最初から
> 前提されているのである。
ここも全くの誤読です。
「実在の定義」のもとでは「第2、第3の実在を扱うこと」が当然可能です。
>>429 > 満豚さん
「リアルなウサギの像」が映し出されるわけではありません。
脳内のディスプレイと観察者は分けて考えるべきではありません。
両者一体で(認識工程を経て最終的に)認識するという事態を仮想的に表現しているだけです。
>遠近法で書かれた絵画やスナップ写真じゃあるまいし現実風景を見て
>平面で見えてるならまじ病院にいったがほうがいい。
平面としても見えないなら間違いなく医者で病気と判断されるよ。
100%錯覚するのではなく、場合によって錯覚するものであることを
わかっとらん典型的な奴なんだろうね。
>奥行きが錯覚なのか正覚なのか迷えることもあろうがよく見よ!というしかない。
まるでMRIで目でみた脳内の情報を読み出したという科学ニュースの記事を
みて、脳の情報処理が解明できたとか思い込むマヌケ君とは君のことを
言うと思うよ。
440 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/28(火) 19:57:26 0
>>8 <定義1> 物質は実在である。
<定義2> 実在は物質と直接的/間接的に相互作用しなければならない。
あなたの「論」の唯一の起点となっている「物質」は、どこに、どのように実在するのでしょうか。
と問えば、おそらくは、宇宙の中に物質として実在する、というレスが帰ってくるでしょう。
<物質は物質と相互作用しますので<定義2>の意味でも実在です>はトートロジーですから、「無意味」であり、これは定義の要件を満たせないことから棄却されます。
すると、物質以外に、<物質と直接的/間接的に相互作用>するものとは、あなたの「論」に準拠すると、<最終的認識結果>となります。
そして、これは物質と相互作用することから、実在する。
これは、あなたのいう<デカルトの霊魂>と同義です。
それゆえ、霊魂は実在する。
これで宜しいでしょうか?
441 :
アラコキ:2009/04/28(火) 20:51:40 0
>>432 >何を問題とされているのか把握できませんでした。
それならあなたには縁が無かったということでいいじゃないですか。
唯物論ですべてを物質と考えるという認識した情報の利用法なのです。
443 :
満豚:2009/04/28(火) 21:14:59 O
〉ぽん太郎くん
ぽん太郎くんよ。僕は何も「リアルなウサギ/アヒル」にこだわっているわけでは全くないの。そうではなくて、「ウサギ/アヒルの絵」をウサギと認識した場合とアヒルと認識した場合とでは、ディスプレイに写し出される像が「異なる」ということを問題にしているんだよ。
では明日ね。
[哲学者の印象・その3] カント
カントについては、主に、カント入門書の類が情報源です。
カント著「純理」(純粋理性批判)を読みかけたこともありましたが全く歯が立ちませんでした。
カントは3批判書を著していますが、そのうち存在論について書かれているのがこの「純理」です。
以下、この「純理」についての要約と感想です。
カントは観念論を唱えており、自分の観念論を超越的観念論と称しています。
諸学には経験に基づく学と非経験的学(経験に基づかない学)があるとしています。
経験に基づく学の代表が自然科学です。非経験的学の代表が数学です。
数学の対象は経験世界に存在せず、よって数学は非経験的学であるとしています。
純粋理性の純粋とは非経験的学を表しており、「純理」が非経験的な概念を対象としていることを
表しています。
「純理」は観念論であり、不可知の私(心)が出発点です。
カントは心の働きを3段階(感性、悟性、理性)に分けて捉えます。
感性は対象を直観に於いて捉えます。感性は対象を空間と時間のもとに捉えます。
空間や時間は心の外の世界に存在するのではなく、感性の働きとして感性によって与えられます。
悟性は感性の捉えた内容を概念化します。悟性は対象を個々別々に概念化します。
悟性の働きは12のカテゴリーに分類され、その12のカテゴリーに基づいて対象を概念化します。
理性は対象を普遍化し、抽象化し、法則化し、理想化します。
例えば、悟性は個々のリンゴ(リンゴ1、リンゴ2、リンゴ3...)を認識します。
理性は、それをリンゴという普遍化した、抽象化した、集合概念として捉えます。
感性と悟性は経験的なもののみを対象とします。経験的なものは感性と悟性を通して認識されます。
理性のみが非経験的なものを認識できます。
空想的なものは非経験的なものであり、理性のみがそれを認識できます。
.....つづく
ぽん太郎氏の実存概念は、記述可能なもののみを実在とする立場であると
解する。
なぜなら、関係を持たないと記述不可能であるとは、
ここでは同義であると考えられるからである。
したがって、これもまた関係的な決定論なのである。
>>441 そういうのを屁理屈というんだよ
>それならあなたには縁が無かったということでいいじゃないですか。
>>440 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> すると、物質以外に、<物質と直接的/間接的に相互作用>するものとは、あなたの「論」に準拠すると、<最終的認識結果>となります。
「物質以外に、<物質と直接的/間接的に相互作用>するもの」として想定しているのは、二元論の霊魂です。
(もちろん、物質、霊魂以外に実在を認める説があれば、その実在も含みます)
何故、筆者の「論」に準拠して、<最終的認識結果>となるのか理解できません。
哲学の授業で使えるな
「あなたには縁が無かったということでいいじゃないですか」
「記述可能なもの」以外に仮に実在があるとしても、
しかしそれは記述不可能なものの領域に属する。
このことが示唆するのは、実在が何種あるのかということではなく、
記述可能な実在は何種あるのかという限定へと導く。
なるほど、霊魂は記述可能なものかもしれない。
しかし、そのように言う人は、霊魂を記述する必要がある。
ではいったいどのように記述するのか?
[哲学者の印象・その3] カント(その2)
カントは心の働き(感性、悟性、理性)を明らかにしようとしています。
心の働きは非経験的に認識されるものであり、アプリオリに(経験に先立って、経験を超えて)
認識されるものであるとしています。
感性の働きを明らかにし、悟性の働きを明らかにし、理性の働きを明らかにします。
そして、最後に、理性の限界を明らかにしようとします。
「神の存在」「魂の永遠性」「自由意志の存在」等を理性によって解きえない問い、理性の限界を
超える問い、として掲げます。
しかし、カントは「神の存在」「魂の永遠性」「自由意志の存在」を信じています。
理性によって解きえないが、否定することもできないので、信じることは可能だと考えているようです。
カントは実在を認め、それを「物自体」と表現しています。
「物自体」は不可知とされていますが、さまざまな属性が付与されており、(他の観念論のように)
全くの語りえないもの、にはなっていません。
「物自体」には下記のような属性が付与されています。
・魂の永遠性を担っている
・自由意志の存在を担っている
・(恐らく)神の存在性、絶対性も担っている
・経験の対象物である(感性、悟性の対象物である)
カントは、我々の認識するこの世界(現象世界)は物理法則にしたがう世界であり、そこから自由意志
は導けない、と考えており、「物自体」に自由意志を担う役目を与えています。
また「物自体」には経験的対象(例えば、目の前のリンゴ)と空想的対象(例えば、ドラえもん)を区別
可能にする役目も与えられています。
以上、要約終わり。
.....つづく
452 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 02:40:04 O
意識の存在の基礎づけは究極的には循環論法としての自己言及にならざるおえないと考えるとする
これを認め、何故ならざるおえないかと考える時、意識の発生の説明のために自己産出する機械(オートポイエーシス)を想定することができます。
オートポイエーシスとは「アウトプットがそのままインプットとなる閉鎖系」とか「自己複製する機械」とか言わるシステム概念です。
これは説明のための推論であり超越であり循環論法としての自己言及ですが、そうであることと矛盾しない。
さらにこの時、何故矛盾しない推論を私の中で「正しいもの」として思考停止されるかについて考える時、「正しいもの」を閉鎖系の中で脱構築し続けるオートポイエーシスを想定できます。
[哲学者の印象・その3] カント(その3)
−−−以下、説明と感想−−−
空間と時間は感性が与えるものとされています。
「物自体」は空間、時間の属性を持たず、空間、時間に規定されません。
ですので、「物自体」は「神の存在性、絶対性」「魂の永遠性」「自由意志の存在性」を担うことが
可能です。
一般に、観念論では全ての認識は主観の中の観念とされ経験的なものと空想的なものを区別
できません。
例えば、目の前のリンゴも、ドラえもんも、存在としては同じであることになってしまいます。
これは日常的直観からはかけ離れた結論です。
カントは実在「物自体」を認めることで、経験的なものと空想的なのを明確に区別可能にしています。
カント「純理」は、観念論であり、おおむね評価できませんが、何点か評価できる点もあります。
「神の存在」「魂の永遠性」「自由意志の存在」を信じ、前提にしている点は評価できません。
心の働きを含め物事を普遍性の視点でとらえようとしている点を評価できます。
普遍性の視点は客観的実在論の客観性の視点に通じるものであり評価できます。
この普遍性の視点は、ハイデッガーの相対的視点とは対照的です。
(因みに、ハイデッガーや相対的視点は評価できません)
我々の認識するこの世界(現象世界)からは自由意志を導けない、と認識している点は、筆者の
主張に一致しており、高く評価できます。
経験的なものと空想的なものを明確に区別可能にしている点を評価できます。
以上(カント・終わり)
>>443 > 満豚さん
単に認識するという事態を視覚的に表現するため、脳内ディスプレイと観察者というモデルが用い
られているだけであり、そのことを忘れてモデルにこだわり過ぎるのは混乱のもとになるだけです。
映し出される像が異なる、ということは、単に認識された結果が異なっているということを表現している
にすぎません。
ある時はウサギと認識され、ある時はアヒルと認識される、というように、その時々で認識された結果が
異なっている、という事態を表現しているにすぎません。
特に議論する必要のある事柄ではない、と思いますが?
455 :
アラコキ:2009/04/29(水) 07:58:11 0
>>448 「縁なき衆生は度し難し」を度忘れしていて自分でその意
をとって書いただけだ。ははは
アラコキは度忘れ世代でもある。ははは
[哲学者の印象・その4] フッサール
フッサールについては、主に、フッサール入門書の類が情報源です。
フッサール著「危機」書(ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学)を読みかけたこともありましたが、
全く歯が立ちませんでした。
フッサールは現象学(観念論)を唱えています。
実在は語りえぬものとし、主観の内の現象のみを語ります。
一切、外なる世界については語りません。全てを主観の内の風景(現象)として語ります。
我の外に世界は存在せず、我の外に他者は存在しません。
この世界は主観のうちの風景(現象)に過ぎず、他者も主観の内の風景(現象)に過ぎません。
従って、独我論から出発せざるを得ず、フッサールは独我論から出発するとしています。
フッサールは全てを主観の内の風景(現象)として説明しようとしています。
自分は「この世界の存在を直観し確信している」が、何故そう直感し確信しているのか、その理由を
主観の内の風景(現象)の中に求めようとします。
その理由を求め「この世界の存在を直観し確信している」ことの妥当性を明らかにしようとします。
自分は「他者の存在を直観し確信している」が、何故そう直感し確信しているのか、その理由を
主観の内の風景(現象)の中に求めようとします。
その理由を求め「他者の存在を直観し確信している」ことの妥当性を明らかにしようとします。
自分は「他者が自分と同じように心を持っていることを直観し確信している」が、何故そう直感し確信
しているのか、その理由を主観の内の風景(現象)の中に求めようとします。
その理由を求め「他者が自分と同じように心を持っていることを直観し確信している」ことの妥当性を
明らかにしようとします。
−−−以上要約、以下感想−−−
観念論の立場を徹底すれば独我論にならざるを得ず、率直に独我論から出発するとしている点を評価できます。
観念論ながらほとんどファンタジーに陥っていない点を高く評価できます。(率直に独我論から出発しているためです)
観念論特有の限界を持ち、その点は評価が落ちます。
以上
話の抽象度がやや高過ぎです。もっと具体的な話を織り交ぜて話すと良い
と思います。1さんの論法は、前期ウィトが哲学に恣意的な限定をして、
それで哲学の問題は全て解決されたみたいなショートカットをした錯誤の
履歴に類動的なものを感じます。
それで、こんなに難しい話ではなく、たとえばあなた達が人間ではなく、
複眼を持ったトンボであるとしましょう。そうすると、そこで表象化される
トンボの世界のおいては、人間的な次元である程度自明視されているような
物理式とか、真理概念とか、イデアとか数、言語、経済、法を含めた殆どの
概念が役に立たない、あるいはそれらのことは、それ程確実でも根拠が
あるものでもないということが想像されるということ。
これはハイデガーの世界、あるいは存在の無根拠性にも繋がる話で、
そういう意味で存在それ自体が非常に不可解で、一種の謎で、それは
私達が偶発的に人間であるのみならず、世界−宇宙システムが存在して
いることの意味やその根拠が殆ど把捉出来ないことの方が、人間を
真の意味での哲学へと動機付けるものだと思う。
確かモンシロチョウには紫外線を識別する認識機能が備わっており、
そのことによって私達人間には見えない雌雄を判別する色彩の差異を
白い羽に感受することが出来、それで種の保存が為されているらしい。
つまり、これで分かるのは人間的な感覚器官では知覚なり、認識、及び
記述(表象)出来ない領域が幾らでもあるであろうということであり、
そこへ恣意的な定義付けにおいて存在についての問題を全てクリアー
出来たなどと称揚するのは、存在論に対する誤謬も甚だしいのではないかな?
ということです。
人間によって認識されない事柄は人間と無関係である。
「認識されない世界があるのではないか?」
という問いに対する解答は単純である。
「そのような世界は私と関係ない」
さらに、トンボや蝶の視覚はまさに生物学の問題であり、
哲学の問題ではないのである。
そして、記述もしくは表象化出来ないものを存在論から即排除していく
ような考え方はナンセンスであり、それは過去の学問の歴史を観れば
すぐに判明することです。すなわち、それが物理学であれ、社会学であれ、
化学であれ、もしくは死刑廃止などを巡る最近の倫理についても、
全ての知的記述はデコード及び書き換え可能性へと開かれ続けていたのであり、
天動説が自明視されていた時代もあったのだし、現在自明視されている地
動説も後に書き換えられな保証は少しもなく、現在記述化出来ない、
あるいはある程度の確率で科学的に実証されないからと言って、
それを人間とは無意味なもの、無関係であると即断、思考停止するのは、
むしろ非論理的な態度だと思います。
他の生命体の在り方を観察することで、そこに人間と共通の、あるいは
人間にも敷衍出来るような発想なり、概念を後に抽出することも可能であるし、
多くの詩人や芸術家がメタファーなどを使って、現にそうした表現体を創って
きた。だから、人間と関係ないから哲学ではないではなく、だって、
たとえばあなたは普段、何を食べ、飲んで生きてるの?人間を食べて生きてる
訳ではないでしょう?医薬品、たとえば抗生物質は何から出来ているかご存知?
全ての存在者は、無機物をも含めて大きな関係性の網の目の中で、共存在して
いるのがむしろ常態であるのだから、豚インフルエンザが哲学とは
即関係だとは決して言えないのです。
現にカミュは「ペスト」という小説において、そうした危機が人間の
フラタニティなりコミュニティを再生する可能性をそこに描写している訳で、
それは現代の孤独死などの社会環境体の話ともリンク可能な現実的で、
哲学的な存在論にも十分成り得る訳です。
461 :
あなたには縁が無かったということでいいじゃないですか :2009/04/29(水) 12:31:20 0
名言。
>>457 もんしろちょうが紫外線だけで判断していると断言した考え方は
貴方を滅ぼすだろう、
×豚インフルエンザが哲学とは 即関係だとは決して言えないのです。
○即無関係だとは…
そして私はコミュニティの再構築ということに少し興味があるんだけど、
それにはむしろ危機があるといいのです。
戦争、長引く不況、大地震、訳の分からないウィルスetc…こうした出来事は
人々に通常ただの不幸だと解釈されて終わりだけど、私はこういう
事変を逆に、地域的なコミュニティを新しく造り直す契機として、むしろ
利用すればいいと思うのだけど、たぶん、政治家や官僚にはそういう
発想が全然ないのでしょうね。パフォーマンスで印象操作して、選挙に
勝ち続けることぐらいしか……。
表象できないものを排除しているのではない。
なぜなら、排除する以前に表象されていないからである。
つまり、排除するまでもなく最初から「無い」のである。
我々の表象は拡大される。
なるほどこれは学問の歴史から、あるいは人生からも明らかである。
しかし、このことは表象されていないものについて論じる
ということが可能であることに繋がらない。
もう一点。
理論Aが間違っているかもしれないという主張は、
理論Bが正しいということに繋がらない。
これはしばしば宗教家の科学批判に見られるものである。
しかし、科学が間違っているかもしれないということは、
ある特定の宗教が正しいということを示さない。
467 :
アラコキ:2009/04/29(水) 13:01:25 0
>>461 最近2ちゃんねるの名言(!?)を二つ創作したでぇ。
ひとつはこれ。
「あなたには縁が無かったということでいいじゃないですか。」
もうひとつは例の「無学」だね。
「2ちゃんねるで真偽を見分けられるならもう大学行く必要ないだろ。
無学者の一員で十分通用する。無学者というのは『学が無い者』では
なく『学ぶ事が無い、全知者』を意味する。」
こっちは、ちょっと長いけどね。
どっちも仏教の智恵だね。ハンニャハラミツ。www
468 :
アラコキ:2009/04/29(水) 13:09:47 0
>>458 >人間によって認識されない事柄は人間と無関係である。
これはちょっと暴論じゃないかな?
CO2問題がこれからどうなるかは予測つかないが
それを認識したときは手遅れという事態も多いだろう。
自然災害でもいかに早くそれを予測・予知できるかが
対応策の決め手になるだろ。
認識できなくても豚インフルに感染する危険はある。
>>468 アラコキ氏が「CO2問題」に言及するとき、
それは既に認識されている。
豚インフルエンザもそうである。
気付いたときに手遅れだと言うことはありえる。
だが、気付く前に対処するということはありえない。
なぜなら、対処の対象が分からないからである。
補足
私がここで認識不可能と言うものは、あらゆる感覚に入ってこず、
またいかなる関係においても私の生に関与していないもののことである。
それは、認識可能なものでないものという形で、否定的にしか表現されない。
472 :
アラコキ:2009/04/29(水) 13:50:02 0
>>470 「認識されない」というのを「いまだかって認識されていない」
と誤読していた。すまん。
認識可能性なら問題ないけどどこまで可能性があるのかは不明だろ。
>>472 もちろん可能性の問題は残る。
例えば、「認識可能なものでないもの」という命題は、
単に形式的で理念的なものに過ぎない。
その具体的な内容は不明である。
したがって、「認識不可能なものは私に関係ない」という主張は、
単にスローガンに留まる。
しかし、逆に言えば、「今は認識されていないものが認識される
かもしれない」という主張も、それだけでは無内容である。
これだけでは唯物論への反論になっていない。
474 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 14:39:07 O
閉鎖系の中で生きる第一歩はフッサールの言うエポケー(思考停止)を認め続けていくことだと思います。
しかし、「正しいもの」として産出されたコードとしての唯物系がコードを生むと言う推論はハイデガーフッサールデリダの流れの存在論から離れている。
これは、そこに究極的な基礎づけが自己言及的であることを説明する推論がなされていないから。
要するに、純粋な物理学的な記述やその式に拠らないと存在論を語れない
というのは錯誤であるということ。音楽も絵画も、何らかの存在を示して
いると思うし、可聴音域にない声なき声、音というのもあるでしょう。
イルカは超音波で何十キロ?(違うかも)も離れた仲間と話をするでしょう。
たとえば項垂れた人の沈黙に、心的な言葉はないのでしょうか。
そして無意識は無いのではなく、今のところ意識化されていない意識
でもある訳で…
埴谷雄高の「死霊」に、鉄に関する記述があります。鉄が錆びるのは
酸化したことに拠る化学反応ではなく、鉄がずっと鉄自身であり続ける
自同律、その不快に耐えかねて、それにウンザリした結果、鉄は
鉄自身の意志で錆びることを選ぶのだみたいな話があるのですが、
面白いですよね。カントを原書で読んでいた作者だというのが、また
興味深いです。
物の破壊というテーゼがあるけど、たとえば神、紙、パルプ、紙幣、
マルクス的な物神性などと言うように、ある一つの存在者なり存在物が
他の物へと変位していき、その意味と内容を変更していくというような
機制も私達の環境世界には多く観察されると思います。
死後の世界、それがあるのか、ないのか、それがどんな世界なのかは
私達には分からないけど、それを・・・だと一概に決め付けることは
誰にも出来ないように思います。
あなたが使っているテーブルが木製のものだとします。そうであれば、
それはかつて樹木、有機体の一部であった。今は、無機物であっても、
あなたを生かすための箸、学ぶために使っていた鉛筆、お椀、椅子など
として、あなたの存在や生命を支えている、すなわちそれは存在論的には
生きているようなモノとして表現することも可能です。
ブッディズムのテーゼに、有無同然というのがありますが、無は有への、
あるいは有は無への可能態を潜勢させており、無だから存在ではないとは
言えないものです。物理式だけを自明視するのであれば、死者を弔うことに
何の意味、存在論的な価値があるというのでしょうか?夢、それは有なの
でしょうか無なのでしょうかみたいな話もそうなのです。
>>472 :アラコキ:2009/04/29(水) 13:50:02 0
> 「認識されない」というのを「いまだかって認識されていない」
> と誤読していた。すまん。
君は常に、誤読の塊みたいなものだから
発言するのは遠慮してはどうかね。
[哲学者の印象・その5] ハイデッガー
ハイデッガーについては、主に、ハイデッガー入門書の類が情報源です。
ハイデッガー著「存在と時間」を読みかけたこともありましたが、全く歯が立ちませんでした。
ハイデッガーはフッサールの弟子であり、フッサールの下でその現象学を学びました。
しかし、後に現象学を離れ、フッサールと袂を分かちました。
ハイデッガーは「存在するとは如何なることか」と問い、独自の存在論を展開しました。
人間の「気付き」により存在は存在となるとしています。
人間がその存在に気付いた場合、それは存在となるとしています。
例えば、そこにあるリンゴは人間がその存在に気付いた場合に存在となるとしています。
もし、そこにあるリンゴに誰も気づかなければ、そのリンゴは存在ではないことになります。
そのリンゴはその存在に気付いた人にとっては存在となり、気づかない人にとっては存在ではない
ことになります。
人間のみが存在を存在たらしめることができるとしています。
人間こそが「存在の開かれる場」であるとし、その意味で人間を「現存在」と呼びます。
このように、ハイデッガーの存在論は人間中心の存在論です。
Aさんが、そのリンゴをおいしい食べ物と捉えれば、Aさんにとって、そのリンゴはおいしい食べ物と
しての存在です。
Bさんが、そのリンゴを絵画のスケッチの対象と捉えれば、Bさんにとって、そのリンゴは絵画の
スケッチの対象としての存在です。
Cさんが、そのリンゴを机の上の書類を抑える重しと捉えれば、Cさんにとって、そのリンゴは机の
上の書類を抑える重しとしての存在です。
そのリンゴは、Aさん、Bさん、Cさんそれぞれにとって異なる存在性を持っています。
このように、ハイデッガーの存在論は(個々人に)相対的な存在論です。
ハイデッガーの存在論は人間中心的、相対的存在論です。
.....つづく
479 :
アラコキ:2009/04/29(水) 20:16:55 0
>>477 >発言するのは遠慮してはどうかね。
お気遣いありがとう。
でも、誤読は新しいアイデア創発の契機でもある。
これからも迷言つくりに励むよ。ハンニャハラミツ!
[哲学者の印象・その5] ハイデッガー(その2)
ハイデッガーはカントと同様、空間と時間は感性によって与えられるものとしています。
しかし、空間と時間を、カントが普遍的なものとして捉えるのに対し、ハイデッガーは(個々人に)相対的な
ものとして捉えます。
ハイデッガーに於いて、空間は個々人にとって異なる広がりを持っています。
ハイデッガーに於いて、時間は個々人にとって異なる流れ方をします。
このように、カントとハイデッガーでは空間・時間の捉え方が全く異なります。
−−−以上要約、以下感想−−−
人間中心の存在の捉え方、相対的な存在の捉え方は、ファンタジー以外の何物でもないと考えます、
ハイデッガーの主張はファンタジーそのものであり、存在の真実は何ら捉えられていないと考えます。
その意味で、ハイデッガーの主張に評価できる点は見いだせません。
[哲学者の印象・その6] ヘーゲル
ヘーゲルについては、主に、ヘーゲル入門書の類が情報源です。
ヘーゲル著「精神現象学」を斜め読みで読みました。丁寧には読んでいません。
精神の発展段階を弁証法の形式に添ってドラマチックに記述しています。
それは、精神発展論/精神発展史であり、存在論とは呼べないと考えます。
その意味で存在論としては評価できません。
以上
[哲学者の印象・その7] 廣松渉
廣松渉について読んだのは「哲学入門一歩前 モノからコトへ」のみです。
実在論を実体主義という語で捉え批判しています。
前半の実体主義批判の部分のみを少し読みとれた程度です。
後半の本論と思われる部分は、ほとんど解読不能で読み取れませんでした。
原子・素粒子について、中身がスカスカだから実体主義は破綻している、とか、自己同一性が
ないから実体主義は破綻している、と批判しています。
筆者から見て、この批判は誤解であるとしか思われません。
モノ(物)を排除しコト(事)のみでこの世界を記述しようとしているようです。
筆者はこの世界を記述するにはモノ(物)とコト(事)の両方が必要であると考えます。
ですので、コト(事)のみでこの世界を記述しようとする考え方は支持できません。
上記著書から見る限り、廣松渉に評価できる点を見いだせません。
以上
483 :
ザ・スミス:2009/04/29(水) 22:27:49 0
>>1 もし人間に視覚が無かったら色なんて概念を
考え出すことはできなかったんだろうなあ
[哲学者の印象] まとめ
以上で、筆者の知る主な哲学者7名について、その印象(要約と感想)を述べました。
勿論、哲学素人の要約と感想であり、ほとんど価値はありません。
各哲学者の思想をこれだけの短文で要約することは不可能です。
要約は、筆者の視点・切り口で、その思想のほんの一部を抽出したものに過ぎません。
要約の妥当性については保証の限りではありません。
以上
485 :
一般人:2009/04/30(木) 00:14:34 O
>>437 やはり、誤読では無いようです。
>実在の定義(<定義1><定義2>)は物理的なもののみを前提にはしていません。
だから、それは定義の建前上、ぽん太の気持ち上の話です。
>「物理法則との整合性」という条件は「実在の定義」とは別の条件です。
これが<定義2>の「実在は物質と直接的……相互作用する」を意味しないとする。
すると一概に「物理法則との整合性」がとれないからといって「実在しない」とはいえなくなる。
なぜなら、物理法則と整合性をとらないで、実在が物質に相互作用するという可能性は依然として消えないからだ。
以上が要だ。
そもそも霊魂等は(現代の科学では)物理法則と整合性はとれておらず、神秘的な存在なのである。
だから謎に包まれているのだ。
(今のところだが)物理法則に無いもの(霊魂等)を、物理法則に無いから、実在しないと言っているにすぎないのだよ。
[補足事項] 実在の定義と存在論の真の答え
筆者は客観的実在論の立場をとっており、実在を下記のように定義しています。(少し、表現を変えています)
<定義1> 物質は実在である。
<定義2> 物質と相互作用するものは実在である。
<定義1>は客観的実在論の大前提であり、公理であるとも言えます。
<定義2>は物質と(直接的/間接的に)相互作用するものは実在であることを述べています。
<定義2>に拠れば、デカルト二元論(相互作用論)の霊魂は実在であることになります。
<定義2>に拠れば、二元論(心身並行論)の霊魂は実在ではないことになります。
この実在の定義に「物理法則との整合性」を加味すれば、下記結論が導かれます。
<結論> 物質のみが実在である。(唯物論)
この結論(唯物論)こそが存在論の真の答えです。
以上
>>485 > 一般人さん
今回のレスを見ますと、少しは誤読をお解きになったのを感じます。
> すると一概に「物理法則との整合性」がとれないからといって「実在しない」とはいえなくなる。
> なぜなら、物理法則と整合性をとらないで、実在が物質に相互作用するという可能性は依然として消えないからだ。
> 以上が要だ。
仰る通り、正にそこが要ですネ。
「物質以外に実在があり、物理法則と整合性をとらないで、物質と相互作用可能である」ということを論証できれば、
筆者の存在論に対する強力な批判になり得ます。さて、論証できますでしょうか?
> (今のところだが)物理法則に無いもの(霊魂等)を、物理法則に無いから、実在しないと言っているにすぎないのだよ。
仰る通りです。
只、「すぎない」のか「すぎる」のかは、上記の論証次第ということになりますネ。
[補足事項] 意志の自由
この世界は物理法則に基づく必然によって動いています。
真の自由(自由意志に基づく自由)は存在しません。
只、我々が意志の自由を感じている、という事態があるだけです。
以上
>>8 > 文章訂正
(訂正前)
霊魂と物質の相互作用が自然科学法則との関係を整合的に説明することが困難であることから相互作用を否定する二元論の説もあります。
(訂正後)
霊魂と物質の相互作用を自然科学法則で整合的に説明することが困難であることから相互作用を否定する二元論の説もあります。
>>45 > 文章訂正
(訂正前) もし、試行ごとに異なる選択をおこなう場合があれば、意志の自由を示せたことになります。
(訂正後) もし、試行によって異なる選択をおこなう場合があれば、意志の自由を示せたことになります。
>>76 > 文章訂正
(訂正前)
筆者の場合、心とは何か、が(唯物論的に)明らかになった結果として、人間以外の動物についても
心の有無を明確に述べることができます。
(訂正後)
筆者の場合、心とは何か、を(唯物論的に)明らかにしています。その結果として、人間以外の動物に
ついても、心の有無を明確に述べることができます。
(訂正前)
通常生物の情報処理システムは神経網により構成されますが、神経網を持たない原始的な生物でも、
神経網によらない原始的な情報処理システムが構成されていると判断できる場合は、そうした原始的生物も
心を持っていると判定できます。
(訂正後)
通常、生物の情報処理システムは神経網により構成されています。
しかし、神経網を持たない原始的な生物でも、神経網によらない原始的な情報処理システムを備えていると
判断できる場合があります。
その場合は、そうした原始的生物も心を持っていると判定できます。
>>83 > 文章訂正
(訂正前)
本スレッドでは「心とは何か」その本質、その真の意味が明らかになった結果として、
また、最もシンプルな形の心のイメージを示すことができた結果として、無生物から心をもった
生物が生まれることが十分可能であることを示し得たと思います。
(訂正後)
本スレッドでは「心とは何か」その本質、その真の意味を明らかにしました。
また、最もシンプルな形の心のイメージを示しました。(熱センサーおもちゃやゾウリムシ)
その結果、無生物から心をもった生物が生まれることが十分可能であることを示し得たと思います。
[補足事項] 存在の問いと学との関係
存在の問いと学との関係を下記に分類します。
(分類1) 存在論の答えるべき問い : 本スレッドの本文で示した通りです。
(分類2) その他の諸学が答えるべき問い : 補足事項等で示しました。
(分類3) 我々の知の限界を超える問い : 補足事項等で示しました。我々はこの問いに答えることができません。
以上
494 :
一般人:2009/04/30(木) 12:54:15 O
>>487 実はぽん太郎が展開する理論をぽん太自身が誤読している。私はその誤読を正しているにすぎない。
要は理解していただけたようだ。
>「物質以外に実在があり、物理法則と整合性をとらないで、物質と相互作用可能である」ということを論証できれば、 筆者の存在論に対する強力な批判になり得ます。さて、論証できますでしょうか?
ぽん太の理論を批判するとき、そのような論証は重要ではない。「物質以外に実在があり、物理法則と整合性をとらないで、物質と相互作用可能である」と言う可能性を、ぽん太の理論が否定できていないという事実が重要なのだ。
つまり、ぽん太の理論がこの可能性を否定できない以上、「第二の実在(霊魂等)」の可能性を否定できない。
故にぽん太の理論では「霊魂は実在しない」と結論することができない。
ぽん太の理論で「霊魂が実在しない」といえるのは、「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を保たなければならない」という前提のもとでのみ可能なのである。
この前提は事実上、すでに「物理的実体のみ」を実在と言っているに等しい。
なぜなら、物質と相互作用する実在の内、物理法則と整合性を保ちつつ作用する実在は「物質(物理的実体)」しかないからだ。
完全な循環である。「霊魂(物質以外)は実在しない」という結論を得るとき、「実在は物質のみだ」という前提を使ってしまっている。
>>494 さらっと読んだが意味がわからん。ポン太のほうがわかりやすい。
496 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 13:57:01 0
世界は俺の物だ。
497 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 14:20:58 O
「私は受動体である。」と言う時、そうした自己存在を定義する能動性がある。そしてその能動性こそ受動的なものである。と言うことができる。この論法はどこまでも続けることができる。
何故そうであるかが存在論の本質的な問いであると思うのです。
私にとっての正しさも目的も、私の中で生んでいる。正しさも目的も幻だと言えば即それが正しさであり目的を作る。
そうした自己言及性を自己言及してしまう私は何か。
私はアウトプットがそのままインプットになる連続的な自己複製(コピー)機です。変化も上擦りで説明は効きます。こう言う時、存在論は当たり前のように形而上学です。
そしてこれは、私達の生について形而上学からの出発を許容、或いは強く肯定するものです。
>>480 > [補足事項] ハイデッガーの印象
観念論の立場を徹底すれば、実在が語りえぬものになると同時に、他者も語りえぬものになります。
従って、必然的に、観念論は独我論の立場をとらざるを得ず、独我論から出発せざるを得ません。
カントは実在(物自体)を認めることで、独我論となることから免れています。
フッサールは率直に独我論から出発しています。
ハイデッガーは観念論であるにも拘らず独我論にはなっていません。
ですので、ハイデッガーは観念論としての立場を徹底していないと言えます。
これもハイデッガーの評価できない点です。
以上
>>494 > 一般人さん
> ぽん太の理論で「霊魂が実在しない」といえるのは、「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を
> 保たなければならない」という前提のもとでのみ可能なのである。
ここは、正に、筆者の主張どおりです。珍しく共通了解に達したのを感じます。
> この前提は事実上、すでに「物理的実体のみ」を実在と言っているに等しい。
ここは多少筆者の主張していることとは異なります。
「物質のみが実在である」ことを最初から前提にしているわけではなく、実在の定義に物理法則との整合性を加味
した結果として「物質のみが実在である」ことを導いています。
> なぜなら、物質と相互作用する実在の内、物理法則と整合性を保ちつつ作用する実在は「物質(物理的実体)」しかないからだ。
ここは全く同意です。
> 完全な循環である。「霊魂(物質以外)は実在しない」という結論を得るとき、「実在は物質のみだ」という前提を使ってしまっている。
ここは誤読です。
「実在は物質のみだ」というのは結論であり前提としては使っていません。
前提として使っているのは、「<定義1> 物質は実在である」のほうです。
というよりも、霊魂が仮に発見されて、霊魂と霊魂との関係、
霊魂と物質との関係が明らかにされたならば、それは颯爽、
物理学が霊魂を説明の領域に加えるということに他ならない。
なぜなら、科学とは結局のところ関係の額だからである。
×関係の額
○関係の学
たとえ諸学がある哲学的見地において統一されるとしても、
その哲学的見地自体はさして重要ではない。
なぜなら、結局のところ我々は諸学に精通することによってのみ、
個々の具体的な解決へと赴くことができるからである。
ある哲学的真理を把握していることが、倫理的な人間であったり、
技術的な人間であったりすることを可能にするのではない。
命題。
観念上の無を泳ぐ魚がいたとします。
この魚は無を掻き分けて推進力を得ます。
ここまで観念上の無に存在を持たせると、観念上の無は、無足り得ますか?
ついでに魚にとって無は有ですか?
(魚は泳ぐとき無の抵抗を感覚器官で感じるとする)
[宗教とは何か・その1] 宗教の教義と効果
宗教とは何か、筆者の見解を書いてみます。
<宗教の教義>
宗教の教義を「世界観」と「実践論」に分けて考えます。
「世界観」とは、「神とは何か」「世界とは何か」「人間とは何か」等について述べられている部分です。
宗教における存在論的部分であると言えます。
「実践論」とは宗教生活の在り方、行動基準、実践方法、等について述べられている部分です。
宗教における当為論的部分であると言えます。
<宗教の効果>
我々は宗教に何らかのものを求めて入信します。
その宗教に求めるもの(その求めた結果も含めて)を宗教の効果と呼ぶことにします。
宗教の効果は下記の3っつに分けて考えます。
<効果1> 宗教本来の力によるもの
<効果2> 方便によるもの
<効果3> 偶然によるもの
以下、<宗教の効果>を<薬の効果>で喩えてみます。
<効果1> 薬本来の力によるもの : その薬本来の働きで病気が治る場合です。
<効果2> 偽薬効果(方便)によるもの : ただの水を貴重な薬だと騙して飲ませた場合、本当に効いて
しまう場合があります。そのような場合です。
<効果3> 偶然によるもの : 薬の力や偽薬効果(方便)と無関係に、体調の好転等でたまたま
病気が治ってしまうような場合です。
.....つづく
>>500 > 救いを求める者 ◆7UpSOEZchgさん
もし、仮に、霊魂が発見されたならば、霊魂と物質の関係を示す式が物理法則に加えられる
ことになります。
物理法則を見れば、霊魂と物質の関係が判るようになります。 (^^)
505 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/30(木) 18:04:46 0
>>447 <何故、筆者の「論」に準拠して、<最終的認識結果>となるのか理解できません。>
準拠した論は、あなたの下記の論です。
>>300 >>291 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
<脳内のディスプレイと観察者、という構図で考えた場合、認識に於いて最終的認識結果を認識するのは観察者であり、最終的認識内容は脳内のディスプレイに映し出され観察者により認識されます。
このことは、対象認識であれ、自己認識であれ変わりません。
対象からのデータを情報処理システムで情報処理して「最終的認識内容」を形成します。
最終的認識内容は脳内のディスプレイに映し出され観察者により認識されます。
このことは、対象認識であれ、自己認識であれ変わりません。>
(「 」はwisteria-1)
>>451 [補足事項] カントと物自体
カントにとって「物自体」は魔法の道具であると言えます。
現象世界(我々の認識するこの世界)からは説明可能でない事柄を「物自体」は説明可能にします。
例えば、「神の存在」、「魂の永遠性」、「自由意志の存在」等を説明可能にします。
観念論では本来区別可能でない事柄を区別可能にします。
例えば、経験的対象物(目の前のリンゴ)と空想的対象物(ドラえもん)の区別を可能にします。
カントにとって「物自体」は説明できないものを何でも説明可能にする魔法の道具です。
>>505 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
「物質以外に、<物質と直接的/間接的に相互作用>するもの」として想定されているのは、あくまで、
存在物(実在物)です。(この定義は実在の定義ですので)
<最終的認識結果>はそうした存在物(実在物)ではありませんので、該当の論理は不適切です。
508 :
一般人:2009/04/30(木) 21:15:15 0
>>499 >> ぽん太の理論で「霊魂が実在しない」といえるのは、「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を
>> 保たなければならない」という前提のもとでのみ可能なのである。
>ここは、正に、筆者の主張どおりです。珍しく共通了解に達したのを感じます。
繰り返そう。ポン太は何故その前提を導入できたのか?
「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を保たなければならない」
何故この様にいえるのか?
何故「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を保つ実在と、整合性を保たない実在がある」
と言えないのか?そこが説明されていない。
>「物質のみが実在である」ことを最初から前提にしているわけではなく、実在の定義に物理法則との整合性を加味
した結果として「物質のみが実在である」ことを導いています。
明らかに矛盾している。『「霊魂が実在しない」といえるのは、「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を
保たなければならない」という前提のもとでのみ可能』ということに同意してくれたはずだ。
つまり、「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を 保たなければならない」という前提を
導入するなら、「霊魂は実在せず、実在は物理的実体のみ」ということに必ずなる。
霊魂が実在するかどうかを考えているのに、どうしてこの前提が既に導入されているのか?
この前提は「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を保たなければならない」ということが
正しいと証明されて始めて導入できる。正しいと証明することは、「実在は物質以外(霊魂等)は無い」ということが言えて
初めて導入できる。
「実在は物質のみである」だから「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を保たなければならない」
だから「実在は物質のみである」だから「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を保たなければならない」
循環である。
509 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/30(木) 21:40:18 0
>>507 であれば、あなたの<定義2>は、<定義1>を主語概念とした述語概念となり、これはトートロジー以外のなにものでもなくなります。
即ち、「デカルトの霊魂」等を導出する論理操作の基盤にもなりえません。
>>506 <カントにとって「物自体」は説明できないものを何でも説明可能にする魔法の道具です。>
カントが、「物自体」を、アンチノミーとして以外に、論理操作、演繹/帰納等のアポステリオリな総合判断等の道具として用いているとすれば、その箇所をご指摘ください。
510 :
一般人:2009/04/30(木) 22:54:56 O
「実在は物質と相互作用しつつ、物理法則と整合性を保たねばならない」という前提(条件)が正しいと言うためには、もう一つの前提が必要である。すなわち「実在は物質のみ」である。
なぜなら、仮に「物質以外の実在(第2の実在、霊魂等)は、物質と相互作用するとき、物理法則と整合性が保てない」という可能性が消えないからだ。
そして「物質と相互作用するとき、物理法則と整合性が保てる実在」は、「物質」に他ならないからだ。
この可能性を消すことができるのは「実在は物質のみ(実在=物質)」なのだ。
このとき初めて「実在(=物質)は、物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を保たねばならない」といえる。
これが、ぽん太の理論が陥っていて、ぽん太が見ることのできていない誤読の正体に他ならない。
>もし、仮に、霊魂が発見されたならば、霊魂と物質の関係を示す式が物理法則に加えられる
霊魂は、物質世界にできた模様にすぎないよ。
それ以上でもそれ以下でもない。悟れよ。
オカルトとは「神秘」だ、ミラクルだ。それだけ。難しい説明など不要なのね。
霊はオカルトの類であって、物質で現れる世界にできた模様。
模様の原理?
それは物質世界の考えからすれば、相似したり類似したり、何かが再現
つまり存在が共感によって生じたり、伝染して感染したりするという
非論理の現象で関係がなりたつ模様の世界というはなし。
そこには論理性はない。
存在には区切り(境界)はなく、境界は人智が捉えるものでしかない。
人智が捉えたもの(存在)と、それを表す世界との相互の相性による関係に
より物と物が事象の原則を表す、これが存在と世界でしかない。
実に簡単、1つのは全て、全ては1つそこを区切るのは人智、
そこを現象や存在と認知するのが人智、人が意味にする世界が存在ってことさ。
真理なんて、物の現象しかみていないやつには分らない、
本質ってものは、物の中に現象の中に潜んでいるまだ生まれない未来へ繋ぐ
流れのようなもの、それは可能性とか未来への流れとか物と物の間の性質とか
まあいろいろあるが、それを神秘と呼ぶのよ、
森羅万象が生む流れは自然の非論理な関係により連鎖し輪廻し、そこに
秩序が生まれたときに人智が意味を特定して物理などの論理で表現している
だけにすぎない。
と、オカルト板の住人から電波してみたが。
荒らしてごめんw
[宗教とは何か・その2] 宗教の効果
我々が宗教に求めているものに、宗教のもたらす結果を含めて、それを宗教の効果と呼ぶことにします。
<効果1> 宗教本来の力によるもの
・キリスト教であれば、キリスト教の神の持つ力と、その神への祈りによりもたらされます。
・イスラム教であれば、イスラム教の神の持つ力と、その神への祈りによりもたらされます。
・念仏宗であれば、阿弥陀仏の持つ力と、阿弥陀仏へ念仏を唱えることによりもたらされます。
等々、それぞれの宗教教義に示された、その宗教本来の力により効果がもたらされます。
<効果2> 方便によるもの
真実でないことを真実であると信じることによってもたらされる効果です。
信じる心が効果をもたらします。信じる心が強ければ、時に、信じられない効果をもたらします。
只の水でも、それが高価で貴重な薬であると強く信じて飲めば、治癒困難と思われていた病気が奇跡的に
治ってしまうことがあります。
方便は時に信じられない効果をもたらします。
<効果3> 偶然によるもの
この世界では様々な偶然が起こります。偶然とは我々の予測を超えた出来事を指します。
稀に、信じられない大幸運に巡り合うことがあります。稀に、信じられない大不運に巡り合うことがあります。
時に、中幸運に巡り合うことがあり、また、中不運に巡り合うことがあります。
よく、小幸運に巡り合うことがあり、また、小不運に巡り合うことがあります。
この世界は様々な偶然に満ちています。複雑な因果の網の中で様々な偶然が起こります。
この世界では我々の予測を超えた出来事が様々に起こります。
−−−効果について・以上−−−
一般に、宗教の効果は、ほとんどの場合、宗教本来の力によってもたらされると信じられています。
特に信者の間では強くそう信じられているものと推測しています。
.....つづく
>>508 > 一般人さん
筆者の場合、実在を定義した時点では、物質以外の実在の可能性も考えています。
その実在の定義に「物理法則との整合性」という条件を考慮した結果として、
「物質のみが実在である」という結論を導いています。
筆者は、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」と考えており、その前提で
考えています。
ですので、物質の運動に影響を及ぼすもの(つまり、相互作用)があれば、それに関する
記述が物理法則に含まれていなければならない、と考えます。
それを否定し、
> 「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を保つ実在と、整合性を保たない実在がある」
と主張することは、論理的には可能です。
この立場をとれば、筆者とは異なる(或いは、反対の)結論を導くこともできます。
筆者は、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」と考えており、「実在は物質と相互作用する
とき、物理法則と整合性を保たなければならない」と考えているわけではありませんが、結果的には同じかも
しれません。
> つまり、「実在は物質と相互作用するとき、物理法則と整合性を 保たなければならない」という前提を
> 導入するなら、「霊魂は実在せず、実在は物理的実体のみ」ということに必ずなる。
繰り返し述べている通り、実在の定義(前提)の時点では、霊魂の実在性は否定されていません。
その定義(前提)に「物理法則との整合性」という条件を考慮した結果として、結論で霊魂の実在性を否定
しています。
一般人さんがお述べになっていることは、前提と結論の混同による誤読だと思います。(以下同じ)
>>509 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> であれば、あなたの<定義2>は、<定義1>を主語概念とした述語概念となり、これはトートロジー以外のなにものでもなくなります。
実在の定義は基礎的概念の定義であり、おおよそ、基礎的概念の定義はトートロジーにならざるを得ません。
トートロジーを避けるためには公理から出発せざるを得ません。
筆者の実在の定義は、筆者の存在論における公理であると言えます。
> 即ち、「デカルトの霊魂」等を導出する論理操作の基盤にもなりえません。
ここは仰っていることを把握できませんでした。
> カントが、「物自体」を、アンチノミーとして以外に、論理操作、演繹/帰納等のアポステリオリな総合判断等の道具として用いている
> とすれば、その箇所をご指摘ください。
「論理操作、演繹/帰納等のアポステリオリな総合判断等」これは筆者の知らない専門用語です。悪しからず。
「純理」をほとんど読み込めていず、当該書籍も手元にないため記憶のみを頼りに書き込みを行っています。
ですので、その箇所の指摘はご容赦ください。
只、カントが「物自体」に「魂の永遠性」、「自由意志の存在」、「経験的なものと空想的なものの区別可能性」の役目を与えている
ことは間違いないと思っています。(「神の存在」も同様であるか否かは不明)
その意味で、「物自体」はカントにとって「魔法の道具である」と言えると考えます。
>>510 > 一般人さん
繰り返し述べている通り、ここも筆者の前提と結論を混同した誤読であると思います。
・「物質は実在である」(定義・前提) 物質以外の実在も否定されていません。
・「物理法則との整合性」(実在の定義とは別の条件)
・「物質のみが実在である」(結論)
抄録ですが、
前提に結論が含まれている という指摘は一般人さんの言うとおりだと俺も思いますよ。
ぽん太郎さんの言うことはほとんど全て同語反復と思われます。
「物質とは物質の性質を持つもの」
「人間とは人間の能力を持つもの」
「心とは情報を処理するもの」
そしてそれ以上のことは存在論ではない・・と。残念です。。。。
世界の理解とは何でしょう?
それは未知の相関を見つけることでは?
ぽん太郎さんは小さくまとまらずに既成概念のひっくり返すような作業を期待します。
それは存在論の範囲ではありませんか・・・そうですか。
哲学とは何でしょうね・・んー
>>511 > 考える名無しさん
仰ることについては、おおむね了解しました。
支持はできませんが、一つの立場として首肯はできます。
むしろ前提に結論が含まれていないことなどあるのだろうか?
>>517 > 抄録さん
問題意識がお互いに全く異なるようですね。まあ、致し方ありません。
> ぽん太郎さんは小さくまとまらずに既成概念のひっくり返すような作業を期待します。
存在論に関して、本スレッドの本文で述べたことが筆者の全てです。
それ以上は何もありません。ご期待には添えません。
>>519 > 救いを求める者 ◆7UpSOEZchgさん
仰っていることは重要なポイントだと思います。
全ての論は前提命題を立てることから始まります。
<前提命題1>、<前提命題2>、<前提命題3>.....
そこから、様々な中間命題が導かれ、そして最終命題が導かれ結論となります。
中間命題や最終命題は前提命題から論理的に導かれますので、それは前提命題にもともと
含まれていたということができます。
ですので、「前提に最初から結論が含まれていた」と批判することは、それだけでは無意味です。
そう批判するのであれば、その批判の有効性を説得できるだけの根拠を提示する必要があります。
それは決して容易なことではありません。
また、前提命題自体はそれ以上遡ることができません。
それを定義しようとすれば、勢い、循環的定義、トートロジー、同語反復にならざるを得ません。
前提命題を循環的定義、トートロジー、同語反復と批判しても、それだけでは無意味です。
その批判が有効であることを論証するのは、決して容易なことではありません。
522 :
一般人:2009/05/01(金) 12:56:30 O
>>514 ぽん太は論点が見えていないようなので、簡潔に書きます。
>筆者は、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」と考えており、その前提で考えています。
ですので、物質の運動に影響を及ぼすもの(つまり、相互作用)があれば、それに関する
ですので、物質の運動に影響を及ぼすもの(つまり、相互作用)があれば、それに関する
記述が物理法則に含まれていなければならない、と考えます。
これは物質の説明に他ならないよね?
実在の説明ではないよね?
なぜなら実在には、物質と相互作用するとき、「物理法則と整合性を保つ実在」と「物理法則と整合性を保たない実在」があるかもしれないよね。
なぜ後者の可能性を否定し、前者のみを肯定するの?
ここを説明して欲しい。(問1)
問2。>筆者は、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」と考えており、その前提で考えています。
この前提で物質以外の実在が考えられますか?考えられないなら、ぽん太は「物質以外の実在はない」と結論づけるとき、なぜ「物質以外は実在しない」という前提を使うのですか?
答えられますか?
523 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/01(金) 15:06:50 0
>>515 <実在の定義は基礎的概念の定義であり、おおよそ、基礎的概念の定義はトートロジーにならざるを得ません。
トートロジーを避けるためには公理から出発せざるを得ません。>
では、主語/述語/集合概念で書き直してみます。
<物質は1である>
<1の性質は2である>
<3の性質は2である>
・
・
・
<nの性質はfである>
これに、あなたの「論」に準拠し、1:実在、2: 物質と相互作用する、3. デカルト二元論(相互作用論)の霊魂、を代入していくと、<霊魂は1である>に還元されてしまいます。
これは、ラッセルのパラドクスを逃れるためのタイプ理論の変形ですが、実質は「この文は偽である」という矛盾命題となり、棄却されます。
即ち、あなたの<筆者の実在の定義は、筆者の存在論における公理であると言えます>は、「還元公理」になりえていないことから、トートロジーとなります。
[筆者の存在論の成立経緯・その1]
高校時代に存在論に興味を持ち、学校図書館で存在論関連の本を手当たり次第読みました。
その結果、存在論の答えは唯物論か二元論かのどちらかに違いないと思うようになりました。
観念論は存在論の答えとしては不適当だろうと考えていました。
(二元論は相互作用論で考えていました)
唯物論が正しいのか二元論が正しいのか、それが当時の問題でした。
どちらにも難点があり決めかねていました。
精神現象を唯物論で説明するのは不可能に思われました。
唯物論を採用するのであれば、精神現象を物理現象に還元する必要がありますが、それは
不可能に思われました。
唯物論について書いてあるどの書を読んでも、精神現象を物理現象に還元する方法が記述
された本は見つかりませんでした。
二元論は物質と霊魂の相互作用を物理法則と矛盾しない形で説明する必要があります。
しかし、それはどうも困難そうでした。
二元論に批判的な他の哲学者からもその点に批判が向けられていました。
もし、唯物論が正しければ、精神現象を物理現象に還元する方法がなければなりません。
もし、二元論が正しければ、物質と霊魂の相互作用を物理法則と矛盾しない形で説明可能で
なければなりません。
どちらも不可能に思われました。
存在論の答えは唯物論か二元論かのどちらかに違いないという思いは変わりませんでしたが、
どちらも不可能に思われました。
答えが出ないまま長い年月が過ぎ去りました。
.....つづく
>>522 > 一般人さん
> なぜなら実在には、物質と相互作用するとき、「物理法則と整合性を保つ実在」と「物理法則と整合性を保たない実在」があるかもしれないよね。
筆者は、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」と考えています。
この筆者の前提と、上記一般人さんの前提とは矛盾しますので、どちらか一方の前提を採用するしかありません。
どちらの前提を採用するかは立場の違いと言うしかありません。
> 問2。>筆者は、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」と考えており、その前提で考えています。
筆者の実在の定義とこの前提を組み合わせると、「物質のみが実在である」という結論が導かれます。
> この前提で物質以外の実在が考えられますか?考えられないなら、ぽん太は「物質以外の実在はない」と結論づけるとき、
> なぜ「物質以外は実在しない」という前提を使うのですか?
「物質以外は実在しない」という前提は、実在の定義にも、上記前提にも含まれていません。
実在の定義と上記前提を組み合わせた結果「物質以外の実在はない」という結論が導かれるだけです。
>>523 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
何故、<霊魂は実在である>に還元されたのか、論理の流れをつかめませんでした。
仮に、その論理が正しかったとして、何故、矛盾命題となるのか理解できませんでした。
少なくとも、<物質は実在である>と<霊魂は実在である>は矛盾しませんし。
[筆者の存在論の成立経緯・その2]
ある日突然、精神現象を物理現象に還元する方法がひらめきました。
「精神現象も物理現象であるが、それが物理現象であることを認識できないだけだ」
このアイデアがひらめいたとき、これが求めていた答えであることを確信しました。
存在論が真の意味で解けたことを確信しました。
このアイデアがひらめいたのは日航機墜落事故という衝撃的な事件の起こった年です。
この年は筆者にとって二重の意味で記憶に残る年になりました。
もう20年以上も前の出来事です。
「情念認識とは何か」その答えこそが本スレッドの核心です。
その答えを含め、本スレッドの本文で述べたことが存在論の真の答えの全てです。
本スレッドの本文で述べたことで必要十分です。
存在論の真の答えを述べるのに多言は要しません。
以上
抄録ですが
ぽん太郎さん、やはり貴方も人間(私)を唯物還元しようとしてたのじゃありませんか!
20年も前にそこまで考えたのなら どうしてさらに突っ込まないのですか!!
私が唯物論の限界に気付いたのはつい半年ほど前ですが、まだ諦めてませんよ。
貴方の論述のキモは、認識を「対象認識」と「情念認識」に分けたことでしょう。
これ、面白いと思いますよ。
しかし、この二つを有効に区別する方法がいまのところ提示されていません。
それ故、観察者とディスプレイなる構図を作って納得させようとしておられる。
しかしやはり そのような説明が有効である根拠が分かりません。
私は「認識」なるものは全て「対象化」する能力に一元化して考え、それ故に
人間の理性を唯物還元的に説明することは不可能と考えていた。
なぜなら、世界を認識するのに、対象化して理解する能力は前提であるからです。
しかし「(貴方の言う)対象認識」とそれ以外の精神活動を有効的に区別可能な方法があるなら、
あるいは、その間の相関を見出す方法論があるなら、前進があると思いますよ。
もっと暴走してください。
529 :
一般人:2009/05/01(金) 18:32:58 0
>>525 > なぜなら実在には、物質と相互作用するとき、「物理法則と整合性を保つ実在」と「物理法則と整合性を保たない実在」があるかもしれないよね。
筆者は、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」と考えています。
この筆者の前提と、上記一般人さんの前提とは矛盾しますので、どちらか一方の前提を採用するしかありません。
どちらの前提を採用するかは立場の違いと言うしかありません。
<問1>は「実在には、物質と相互作用するとき、「物理法則と整合性を保つ実在」と「物理法則と整合性を保たない実在」があるかもしれないよね。
なぜ後者の可能性を否定し、前者のみを肯定するの? 」であった。
<問3>問1の回答は、「立場の違いにより、根拠無く独断的に前者のみを肯定した」でいいのかい?
> 問2。>筆者は、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」と考えており、その前提で考えています。
筆者の実在の定義とこの前提を組み合わせると、「物質のみが実在である」という結論が導かれます。
> この前提で物質以外の実在が考えられますか?考えられないなら、ぽん太は「物質以外の実在はない」と結論づけるとき、
> なぜ「物質以外は実在しない」という前提を使うのですか?
「物質以外は実在しない」という前提は、実在の定義にも、上記前提にも含まれていません。
実在の定義と上記前提を組み合わせた結果「物質以外の実在はない」という結論が導かれるだけです。
<問4>では、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」は実在の内の物質に関する条件ですね?
<問5>では「実在は物質と相互作用するとき、その運動は物理法則と整合的でなければならない」は間違いですね?
正確には、「実在は物質と相互作用するとき、物質の運動は物理法則と整合性を 保たなければならない」ですね?
>>456 [補足事項] フッサールとわがまま息子
さて、今美術の授業で各自空想上の動物を考え出して絵に描く課題が与えられたとしましょう。
生徒は頭の中(心の中)でああでもない、こうでもないと動物のイメージを練りながら創り上げていきます。
イメージが纏まったらキャンバスに向かうことになります。
次に、目の前のリンゴを静物としてスケッチする課題が与えられたとしましょう。
生徒はキャンバスに向かってリンゴを描き始めることになります。
空想上の動物の場合は、心の中でそのイメージを自由に変更できます。
イメージを消して、新しいイメージを作り出すことも可能ですし、イメージを自由に変更することも可能です。
目の前のリンゴを描く場合は、そのイメージを自由に変更することはできません。
空想上の動物のイメージの場合は、そのイメージを自由に変更可能ですが、目の前のリンゴはそのイメージ
を自由に変更できません。
* 「目の前のリンゴ」という表現はフッサール流にいえば否定されます。「目の前に」=「心の外に」 *
* リンゴがあるわけではありません。全ては主観の内にあります。 *
* 自分の主観の内に「目の前にリンゴがある」と感じるイメージが映っている、という表現になります。 *
目の前のリンゴのイメージは自分の意のままに変更することができません。
この「自分の意のままにならないもの」をフッサールは「わがまま息子」と表現します。
目の前のリンゴのイメージは「わがまま息子」です。
この「わがまま息子」の存在こそが、「そのリンゴの存在を直観し確信する」理由であり、「そのリンゴの存在を
直観し確信する」ことの妥当性を与えます。
ひいては、それが、「この世界の存在を直観し確信している」理由であり、「この世界の存在を直観し確信して
いる」ことの妥当性を与えます。
以上
531 :
一般人:2009/05/01(金) 21:46:03 O
ぽん太の理論チャート。
@実在には物質以外の第2の実在があるかもしれない。
Aだから「実在=物質」かはまだ解らない。
B実在の定義をしよう。
C<定義1・2>を導入。まだ「実在=物質」なのか、結論はでていない。
D前提「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」を導入する。まだ「実在=物質」なのか結論はでていない。
E定義と前提を組み合わせる。「実在は物質と相互作用するとき、物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」。まだ、「実在=物質」なのかわからない。
F「実在=物質」を使って組み合わせを書き換える。「実在は物質と相互作用するとき、実在(=物質)の運動は物理法則と整合的でなければならない」
Gこの組み合わせを満たす実在は物質しかない!
H「実在=物質」だ!
I実在は物質である。
>>530 なるほど!有効です。もとい、技あり。いや一本とられたか。
まてまて フッサールの力なので、やはり効果 としますか。。。
・・・いや、気にしないで下さい、独り言です。
ぽん太郎さん 貴方の確信犯ぶりは決定論スレッドの御大を彷彿とさせますわ。
私も全く勉強不足ですね。カッカ
もっと研鑽を積めとの激励と受け止め、出直します。
>>528 > 抄録さん
> ぽん太郎さん、やはり貴方も人間(私)を唯物還元しようとしてたのじゃありませんか!
結論は唯物論ですので全てを唯物還元することになりますが、それが何か問題でしょうか?
> 20年も前にそこまで考えたのなら どうしてさらに突っ込まないのですか!!
それ以上突っ込む必要性は感じていません。
抄録さんが何を突っ込む必要があるとお考えであるのか、少々興味があります。
> 私が唯物論の限界に気付いたのはつい半年ほど前ですが、まだ諦めてませんよ。
唯物論の限界とはどのようなことをお考えであるのか、少々興味があります。
> 貴方の論述のキモは、認識を「対象認識」と「情念認識」に分けたことでしょう。
ここは少し違います。先ず、認識を対象認識と自己認識に分けます。
そして、対象認識の認識特性は論理認識であり、自己認識の認識特性は情念認識である、
としています。
対象認識と自己認識の区分は、心理学等で標準的に用いられている区分であり、オリジナリティ
は全くありません。
論理認識と情念認識という区分も特にオリジナリティのある区分であるとは思われません。
> 私は「認識」なるものは全て「対象化」する能力に一元化して考え、それ故に
> 人間の理性を唯物還元的に説明することは不可能と考えていた。
> なぜなら、世界を認識するのに、対象化して理解する能力は前提であるからです。
この辺りはどのようなことをお考えなのでしょうか?
この文面のみでは把握できませんが。
534 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/01(金) 22:06:57 0
>>530 フッサール and/or カント風に言うのであれば、「空想上の動物」は、感性が感知する/した対象として、予め経験/記憶としてインプットされている表象/またはその結合であり、
これは、アポステリオリな総合判断に基づきます。
「目の前のリンゴ」は、今、その時点で、感性が「質料」として感知している対象ですが、これも、また、表象の域を出ず、実体の存在根拠/実証根拠とはなりえません。
「目の前のリンゴ」を感知し、「この世界の存在を直観し確信している」のは、前記の「空想上の動物」と同じく、予め経験/記憶として刷り込まれている表象/またはその結合の経験知を基盤としています。
即ち、「空想上の動物」も、そして、「目の前のリンゴ」が、いくら「わがまま息子」であったとしても、両者は、「構造」としては等しく、それらを感知する認識主体(あなたの言うところのデカルトの霊魂)側の幾層かのプロトコルにより、
あなたの言う「対象認識」として、デコード化されたものとなります。
>>533>ぽん太郎さん
私の考えはこれまでちょこちょこ述べてきたことです。期待するような反応はなかったですが。
そして貴方も私とは問題意識を共有していないことをお認めになられた。
私も特にこれ以上開陳できるようなものは持ち合わせません。ごきげんよう。
536 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/01(金) 22:18:54 0
>>534の卑近すぎる例えとしては、キリンビールのラベルの「麒麟」が挙げられます。
最初に、「麒麟」を書け、と言われたキリンを見たことのない幾世代か前の絵師は、「ちょっと待ってよ」と臆したかもしれませんが、見事なまでに、
>>534で書いたプロトコルを駆使して書き上げました。
>>529 > 一般人さん
> <問3>問1の回答は、「立場の違いにより、根拠無く独断的に前者のみを肯定した」でいいのかい?
いま一つスッキリしませんが、概ね、仰る通りかと思います。
> <問4>では、「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」は実在の内の物質に関する条件ですね?
その通りです。その条件は、物質のみに関する条件です。物質以外の実在には適用されません。
> <問5>では「実在は物質と相互作用するとき、その運動は物理法則と整合的でなければならない」は間違いですね?
> 正確には、「実在は物質と相互作用するとき、物質の運動は物理法則と整合性を 保たなければならない」ですね?
その通りです、物質以外の実在については、「物理法則と整合性を 保たなければならない」という条件は適用されません。
>>531 > 一般人さん
@からDは特に問題ありません。
Fは変です。E末尾で『まだ、「実在=物質」なのかわからない』としているのに『F「実在=物質」を使って組み合わせを書き換える。』
というのは論理的につながっていません。
> E定義と前提を組み合わせる。「実在は物質と相互作用するとき、物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」。まだ、「実在=物質」なのかわからない。
もし、物質以外に実在が存在する場合、その実在は物質と相互作用しなければなりません。(実在の定義<定義2>より)
その実在が物質と相互作用すれば物質の運動に影響を及ぼします。
「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」ので物理法則には、その実在と物質の相互作用に関する式が
含まれている必要があります。
物理法則には物質の運動に影響を与えるすべての力に関する記述が含まれていなければなりません。
そうでなければ、「物質の運動は物理法則と整合的である」ことはできません。
然るに、物理法則には物理的力以外含まれていません。
このことから、物質は物質以外のものと相互作用していない、よって、「物質のみが実在である」ことが結論できます。
>>534 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
専門用語が多いので思うように読み取れません。誤読でしたらご容赦ください。
> フッサール and/or カント風に言うのであれば、「空想上の動物」は、感性が感知する/した対象として、予め経験/記憶と
> してインプットされている表象/またはその結合であり、これは、アポステリオリな総合判断に基づきます。
過去に見たことのある動物(や動物以外のもの)を複数組み合わせて「空想上の動物」を組み立てることになるなるかと思います。
大事なことは、どのように組み合わせるかは自由であるという点です。
つまり、「空想上の動物」は「わがまま息子」ではないということです。
> 「目の前のリンゴ」は、今、その時点で、感性が「質料」として感知している対象ですが、これも、また、表象の域を出ず、実体の存在根拠/実証根拠とはなりえません。
この辺りは、認識論の基本的考え方が述べられているようですので、特に問題はありません。
> 「目の前のリンゴ」を感知し、「この世界の存在を直観し確信している」のは、前記の「空想上の動物」と同じく、予め経験/記憶として刷り込まれている表象/またはその
> 結合の経験知を基盤としています。即ち、「空想上の動物」も、そして、「目の前のリンゴ」が、いくら「わがまま息子」であったとしても、両者は、「構造」としては等しく、
> それらを感知する認識主体(あなたの言うところのデカルトの霊魂)側の幾層かのプロトコルにより、
> あなたの言う「対象認識」として、デコード化されたものとなります。
ここは仰る内容を把握できませんでした。「わがまま息子」であろうとなかろうと同じ事だ、と仰っているのでしょうか?
フッサールは「わがまま息子」であるのか否かは重要な違いである、と考えていたものと思っていますが?
540 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 06:32:55 0
世界とは何かを理解するための必読書って何?
541 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 06:44:45 0
↑お経(聖書)
542 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 06:45:10 O
いらねーこと言うな
[補足事項] 経験的なものと空想的なもの
実在論では経験的なもの(目の前のリンゴ)と空想的なもの(ドラえもん)の存在性の違いは明確です。
しかし、観念論では経験的なものであれ空想的なものであれ、全ては主観の内の観念ということになり、存在性は
同一ということになってしまいます。
この結論は、我々の日常的直観とはかけ離れています。
経験的なものと空想的なものの存在性は同一である、と肯定する観念論者もいれば、やはり、区別可能であるはず
だと考える観念論者もいます。
区別可能であると考える観念論者の代表は、カントとフッサールです。
カントは実在「物自体」を認めることで、経験的なものと空想的なものの存在性を区別可能にします。
フッサールは「わがまま息子」により、経験的なものと空想的なものの存在性を区別可能にします。
>>540 > 考える名無しさん
もし「世界とは如何なる存在か」を理解したいのであれば、本スレッドの本文を読むのが確実です。
どの書籍を読んでも真の答えは載っていません。
或いは、どの書籍にも真の答えが載っていないことを確かめるために読書することも必要かもしれ
ません。読書により、この問題の問題点の所在を確かめることができますから。
↑それはない
546 :
一般人:2009/05/02(土) 13:54:17 0
>>537 <問5>問3の回答によると、ぽん太は前提を「立場の違いにより、根拠無く独断的に前者のみを肯定した」のだね。
つまり、思い込みですね?
理論の一部に思い込みを利用して、結論を断言したのですね?
<問6>思い込みにより、物質と相互作用するとき、「物理法則と整合性を保たない実在」を否定したのですね?
<問7>問4で「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」は「物質のみに関する条件」と明言している
わけですが、つまり「第2の実在(霊魂等)」の条件ではないということですね?
<問8>問5の回答によると「実在は物質と相互作用するとき、物質の運動は物理法則と整合性を 保たなければならない」とのことです。
つまり、これは実在の内、物質に関する結論なのですね?
547 :
一般人:2009/05/02(土) 14:05:07 0
>>538 @実在には物質以外の第2の実在があるかもしれない。
Aだから「実在=物質」かはまだ解らない。
B実在の定義をしよう。
C<定義1・2>を導入。まだ「実在=物質」なのか、結論はでていない。
D前提「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」を導入する。まだ「実在=物質」なのか結論はでていない。
E定義と前提を組み合わせる。「実在は物質と相互作用するとき、物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」。まだ、「実在=物質」なのかわからない。
F「実在=物質」を使って組み合わせを書き換える。「実在は物質と相互作用するとき、実在(=物質)の運動は物理法則と整合的でなければならない」
Gこの組み合わせを満たす実在は物質しかない!
H「実在=物質」だ!
I実在は物質である。
EとFがつながらないのですね?
>もし、物質以外に実在が存在する場合、その実在は物質と相互作用しなければなりません。(実在の定義<定義2>より)
>その実在が物質と相互作用すれば物質の運動に影響を及ぼします。
>「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」ので物理法則には、その実在と物質の相互作用に関する式が
>含まれている必要があります。
問4で「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」は「物質のみに関する条件」と明言していますね?
>「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」ので物理法則には、その実在と物質の相互作用に関する式が
>含まれている必要があります。
上は間違いですね?
<問9>正確には「「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」ので物理法則には、その『物質』と物質の相互作用に関する式が
含まれている必要があります。」ですね?
<問10>これはEですね?
ぼん太郎君は、いぜん最高位に喰らいついていた感嘆氏だろう?
549 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 18:22:55 0
ぼん太郎君は、名前のヒビキのような存在だと自分で悟っているんじゃね?
それを変えようとしても。それはその存在の答えでしかない。
君がどんな説得をしても、それは君の答えでしかない。
論で説明する説などそんなもの、存在を語ろうとしているが、
アウトフレーム、つまり建前とか観察した表層の1つでしかない。
君は本質も真理もまったく分っていない。
それは理解できる類ではないことを理解しようとしているから
その程度の結論にすらたどり着けないんならwww
550 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 19:42:23 0
所詮ポン太はぽんぽんでも痛くして
喚いている程度でしかない。
551 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 20:06:35 O
原子を壊したら、電磁波がでるん?
電磁波は物質なん?
552 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 20:36:51 0
各家庭に配電されている電気も電磁波だね。
よその家の電気を勝手に断りも無く盗んで使うと窃盗罪
となる。これは電気=電磁波が物質だからだね。
法律で電気を物質だと定義としている。
ご家庭用のは交流電流だから電子を出したり入れたりして電力会社はお金もらっているんだよな
電子を納品しているわけではない、どうでもいいか……
554 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 23:11:53 O
電流は電子の流れの事だよね。
[宗教とは何か・その3] 宗教の本質
存在論の答えが唯物論にあることを示しました。ですので、真実の宗教が存在するとすれば、その世界観は
唯物論に基づくものであるはずです。しかるに、筆者の知る限りそのような宗教は存在しません。
従って、真実の宗教は存在しない、すべての宗教はファンタジーである、ことが結論できます。
一般に宗教の効果は、ほとんどの場合、宗教本来の力によるものであると信じられています。
しかし、宗教本来の力による効果は宗教が真実であってはじめて発揮される効果です。
真実の宗教は存在しないので宗教本来の力による効果は存在しません。
宗教の効果は、宗教本来の力による効果ではなく、偶然の場合を除けば、全て方便によるものです。
宗教の効果は、偶然の場合を除き、全て方便によるものです。
宗教によって引き起こされる様々な奇跡は、偶然の場合を除き、全て方便によるものです。
方便は、我々が想像する以上の力を持っています。
方便は我々の想像をはるかに超える力を持っています。
方便は、心を変え、人間を変え、世界を変える力を持っています。
方便の効果は信じる心によってもたらされます。
信じる心が強ければ強いほど高い効果をもたらします。
相手の信じる心を強く引き出せれば引き出せるほど、方便は高い効果をもたらします。
相手の信じる心をどこまで引き出せるか、それは宗教指導者の力量にかかっています。
相手の信じる心をうまく引き出せれば、時に方便は奇跡さえ引き起こします。
相手の信じる心をどこまで引き出せるか、それは宗教指導者のカリスマ性にかかっています。
宗教指導者のカリスマ性が高ければ高いほど、方便は効果を発揮し、時に奇跡的結果をもたらします。
もし、真実の宗教が存在すれば、その宗教は普遍性、永遠性を持ち得ます。
残念ながら、真実の宗教は存在しません。よって、どの宗教も普遍性、永遠性を持ち得ません。
どの宗教も、諸行無常、栄枯盛衰、勝者必滅の理(ことわり)を免れることはできません。
以上(宗教とは何か・終わり)
ファンタジーってなに?
557 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 23:56:53 O
ロードス島戦記。
初めて通しで読んだのこれだな。
SFだと ARIEL
全巻読んだ。
>>546 > 一般人さん
<問5>
この論理を用いると、あらゆる学説の前提に対して「つまり、思い込みですね?」と批判/否定することが可能に
なります。
全ての学説は「思い込みだ」と言っていることと変わりません。(それもアリとは思いますが)
<問6>は同上、<問7>はその通りです。
<問8>
「実在は物質と相互作用するとき」という条件と「物質の運動は物理法則と整合性を 保たなければならない」という
条件とは独立した条件であり直接関連していません。後者の条件は物質のみに関する条件です。
あ、わかった?
人間が創造したもので真実ではないという意味?
>>547 > 一般人さん
> 上は間違いですね?
間違いではありません。
> <問9>正確には「「物質の運動は物理法則と整合的でなければならない」ので物理法則には、その『物質』と物質の相互作用に関する式が
> 含まれている必要があります。」ですね?
違います。
物質の運動が物理法則と整合的であるためには、物質の運動に影響を及ぼす全ての力についての式が、
物理法則に含まれている必要があります。
>>548 > 考える名無しさん
2チャンネルで書き込みを行っているのは現在本スレッドのみです。
>>548 > 考える名無しさん
訂正レス、再レスです。
2チャンネルで書き込みを行っているのは現在までのところ本スレッドのみです。
ハンドルも「ぽん太郎」以外は使用していません。
でかい話だ
[補足事項] モデルの利点と欠点
今回「心の中のディスプレイと観察者」というモデルを使用しました。
このモデルは認識の働きを示すモデルとしてよく用いられています。
哲学者の中にもこのモデルを用いている人は何人もいますし、心理学や大脳生理学等々の様々な
分野で広く用いられているモデルです。
多くの人に馴染みのあるモデルであろうと思います。
この馴染みの広さが今回このモデルを採用した理由です。
モデルを利用した説明には様々な利点があります。
例えば、抽象的概念を視覚化することで概念の意味を明確に伝達可能にすることができます。
しかし、モデルを利用した説明には欠点もあります。
モデルはそのモデルの対象事物と共通の特徴を持っています。
モデルはその共通の特徴によって対象事物の代役を務めます。
モデルについて語る人が、その共通の特徴に着目している限りに於いて、モデルは対象事物の代役を
問題なく果たすことができます。
モデルについて語る人が、その共通の特徴以外の特徴に着目した場合、モデルは対象事物の代役を
努めることができなくなります。
モデルについて語る人が、その共通の特徴以外の特徴に着目した場合、モデルはモデルとしての役目
を果たすことができなくなります。
モデルをモデルたらしめている条件は時に忘れられやすく、説明やその理解を混乱させる原因になる
場合があります。それはモデル利用の欠点になります。
モデルを利用する場合は、常に、その対象事物を念頭に置き、また常に、その対象事物に立ち返って
考えるようにする必要があります。
以上
無反省なる自己肯定ですか
566 :
一般人:2009/05/03(日) 03:12:28 O
<問5>問3の回答によると、ぽん太は前提を「立場の違いにより、根拠無く独断的に前者のみを肯定した」のだね。
つまり、思い込みですね?
問5の解答に、
>この論理を用いると、あらゆる学説の前提に対して「つまり、思い込みですね?」と批判/否定することが可能に
なります。
と解答されています。
<問11>可能ならば、貴方の学説は「思いこみ」と批判/否定することが可能ですね?
<問12>なぜ貴方の学説と、他の学説が同じように「真である」と言えるのですか?
567 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 08:48:18 0
あんたのはドクサ
ドクサは何さ
独断さ、無意味だろ。
568 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 02:27:01 0
物理学で素粒子は直接観測されてないでしょう。
569 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 02:32:58 0
570 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 02:38:35 0
ポン太は意味の本質を知ってから言葉を使え。
>>566 > 一般人さん
<問11> 勿論、可能です。 (^^)
<問12> 真であると言えるか否かは立場しだいです。
572 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/04(月) 14:01:42 0
>>539 <「わがまま息子」であろうとなかろうと同じ事だ、と仰っているのでしょうか?
フッサールは「わがまま息子」であるのか否かは重要な違いである、と考えていたものと思っていますが?>
「目の前のリンゴ」は、「私の直感」 and/or 「私の概念」として与えられます。
「目の前のリンゴ」を、手に取り、それを食する。
自然に蓄積されてきた、この経験知を欠くとき、「目の前のリンゴの実在性」は破綻します。
無謀な実験ですが、被験者が大人でも赤子であっても、「目の前のリンゴ」が、CGの場合が1/2、
手に取り、食せるリンゴの場合が1/2、という恣意的な実験を繰り返した後においても、「目の前のリンゴ」という表象が、
「無条件に実在性を有する」ことと同義であり続けることが可能でしょうか?
あるいは、「私だけしかいない閉鎖空間」というものを設定してみます。
今、私の目の前にリンゴがある。
そのリンゴを手に取らず、食することもせず、その空間の外(「目の前のリンゴ」が表象として現前していない空間)に出ます。
その時、その閉鎖空間にあった「目の前のリンゴの実在性」は、何が/誰が、どのように担保してくれるているのでしょうか?
573 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/04(月) 14:47:26 0
>>543 物自体(Ding an sich)は、それを認識することはできないが、「超越的存在」として「考えること」はできます。
即ち、それは、「仮想的存在」であり、「私(たち)ヒトの認識を切り離しさえすれば」、それ自体の合法則性(モデル化可能性)は備えている「はず」のものです。
しかし、私(たち)ヒトには、それは表象としてしか与えられません。
これが、物自体のアンビヴァレンスの在り処です。
だめだこりゃw
575 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/04(月) 19:35:05 0
>>573 <しかし、私(たち)ヒトには、それは表象としてしか与えられません。>
(訂正後)
<しかし、私(たち)ヒトには、それはモデルとしてしか与えられません。>
[補足事項] 存在の不思議
「この世界は、何故、このような世界として、このような法則をもった世界として、我々に与えられているのか」
この問いこそ存在に関する究極の問いである。この問いこそ存在の不思議を示す問いである。
しかし、この問いは我々の知の限界を超えており、残念ながら、我々には決して答えることができない。
この存在の不思議を表す概念として、この世界を創り上げた仮想の存在を想定し、それを「神」と呼ぶことにしよう。
この「神」は、宗教上の神とは無関係の仮想上の概念である。
「神」は、何故、「このような世界として、このような法則をもった世界として」、この世界を創ったのか?
物理法則はどうも少々複雑すぎる。もっと単純な法則を与えてこの世界を構成することもできたはずである。
「神」は、何故、もっと単純な法則でこの世界を構成せず、わざわざ複雑な法則でこの世界を構成したのか?
コンピュータの基本は驚くほど単純である。
驚くほど単純な法則のもとで、高度で複雑な情報処理を行っている。
ごく単純な法則を与えるだけで、いくらでも高度で複雑な処理が可能である。
どうも「神」は少々凝り性のようだ。複雑な法則がお好みのようである。
もし、「神」が怠け者であったら、単純な法則で済ませていたであろうし、あるいは、そもそも苦労してこの世界を創る
こともなかったかもしれない。
「神」の真意は測りがたい。
以上
(注)コンピュータの基本と単純さ
コンピュータの基本は、「0」と「1」の2進数と「AND」「OR」「NOT」の論理操作より成っている。
「AND」「OR」「NOT」の代わりに「NAND」(または、「NOR」)の一つのみでも十分である。
(NAND=NOT・AND、 NOR=NOT・OR)
「NAND」(または、「NOR」)の一つのみあれば「AND」「OR」「NOT」を導ける。
コンピュータの基本は、「0」と「1」の2進数と一つの論理操作(「NAND」または「NOR」)のみで構成できる。
「0」と「1」の2進数と一つの論理操作を複数組み合わせれば、いくらでも高度で複雑な処理をこなすことができる。
驚くほど単純である。
>>572 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
以下、フッサールの主張を、筆者の理解に基づいて述べます。
「目の前のリンゴ」の実在性は可能な限りの経験知に基づいて捉えられます。
閉鎖空間にいて視覚的にしか確認できない場合は、そのレベルで実在性が認識されます。
手に取り、それを食することが可能であれば、それによりそのレベルで実在性が認識されます。
測定器が利用できる場合は、それを利用したレベルで実在性が認識されます。
猟師のように視力が発達している場合は、そのレベルで実在性が認識されます。
調理師のように味覚が発達している場合は、そのレベルで実在性が認識されます。
このように対象の実在性は、可能な限りの方法を用いることで、そのレベルで認識されます。
もし、対象がCGやホログラム映像であったとすれば、そのレベルで実在性が認識されます。
(ですので、可能な方法が限定されている状況では、実在と呼べないものが実在として認識されることもあり得ます)
ここで述べた実在性は、心の外の対象を指すのではなく、あくまで、主観の内に実在性を感じるイメージが映っている、
ということを意味します。
対象の実在性を担保するのは「我」です。(フッサールは独我論ですから)
>>573 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
お述べになっていることは、概ね、(筆者が理解する限りの)カントの主張に一致しているように感じます。
ただそれが、「経験的なものと空想的なものの区別可能性」という問題について、肯定されているのか、否定
さているのか、そのどちらでもないのか、把握できませんでした。
コンピュータはその”複雑な物理法則”に沿って作動しますけどね
0と1の集合など単なる混沌にすぎません
580 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 10:25:30 0
コンピュータの物理法則なんて人間でも理解できる
簡単なことだ。
それよりコンピュータが壊れることは人間に理解できない。
↑機械なんだから壊れるさ
アホばっかりだな
[補足事項] フッサールの求めるもの
フッサールは「この世界の存在」を直観し確信しています。
フッサールは「他者の存在」を直観し確信しています。
フッサールは「他者が自分と同じように心を持っていること」を直観し確信しています。
しかし、フッサールは世界や他者が心の外に存在することを認めません。
全てを主観の内の風景(現象)の中に求めようとします。
直観し確信していることの理由、妥当性を、主観の内の風景(現象)の中に求めようとします。
「わがまま息子」の存在が、その解明の出発点です。
以上
583 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 13:33:07 0
>>581 >機械なんだから壊れるさ
「機械はなぜ壊れるんだ?」という問題だよ。
さぁ、答えられるなら答えてみなさい。
諸行無常だからなんてカンニングはなしだよ。
>>583 凡そ存在するものは全て現象だからだ。
存在とは変化そのものでもある。
時間に相関して変化しないものは世界に現出しないのだ
さあ、では「人間には理解できない」の意味を教えてもらおうか。
585 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 14:41:47 O
584人間でなない(笑)
586 :
584:2009/05/05(火) 14:49:09 0
>>585 機械が壊れることより 作動することこそが面白いのだ。
オカルトよりも科学の方が不思議だぞ。
587 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 15:07:53 O
この世界の物質は永遠に状態維持が出来ない点では大きな観測時間から見れば、すぐシャーレから蒸発して見えなくなるようなもの。
人間の時間尺度では液体や固体の物質は補足しやすいが、気体や自由電子の補足は困難である。
観測主体の知覚に存在の有無が左右される。
千里眼や地獄耳は凡人には感知出来ない物を捉える。
588 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 15:08:37 0
>>584 壊れる理由が述べられていない。
ただ、壊れるから壊れると同語反復してるだけだね。
589 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 15:14:42 O
観測主体の知覚強化に観測機器を使っている。
観測機器の性能が上がれば様々な現象を捉える事ができるだろう。
590 :
584:2009/05/05(火) 15:34:18 0
>>588 機械が機能することの方が異常なのだ。
変化すれば機能しなくなる。
>>580がもし、機械が何故動くかを本当に理解しているのなら
作動する理由が失われれば”壊れる”ということも理解できるだろう。
(*壊れるから壊れるなど、どこにも書いてないぞ。適当な返しだな、ふふ)
それはいいが「人間には理解できない」とは何が云いたいんだ?早く説明しろ。もう出かけるぞ。
[筆者存在論のまとめ・その1] 存在論の問いと答え
[存在論の問い] 世界とは如何なる存在か、生命とは如何なる存在か、人間とは如何なる存在か
[前提1] 実在の定義
<定義1> 物質は実在である。
<定義2> 物質と相互作用するものは実在である。
この<定義1>と<定義2>を満たすもののみが実在である。
[前提2] 物質の運動は物理法則と整合的でなければならない。
・[前提1]と[前提2]より下記結論(存在論の答え)が導かれます。
[存在論の答え] 物質のみが実在である。(唯物論)
・この存在論の答えは下記のように言い換えることもできます。
[存在論の答え] この世界は物質のみよりなっている。(唯物論)
・ここで示した答えのみが存在論の真の答えです。それ以外に真の答えは存在しません。
以上
592 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 17:36:00 0
>>590 壊れた機械を修復するのは簡単だ。
壊れた部品を取り替えるだけだから。
それよりなぜ壊れたかを知ることができないといってるのだ。
壊れてない機械を壊すのも簡単だがな
594 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 17:45:29 0
>>593 壊すのは簡単だがその壊れた理由はわからない、といってる。
たとえばかなづちである部品をたたきつぶしたら壊れたとする。
ではなぜその部品はたたきつぶすことで壊れるのかということだ。
「叩き潰す」と「壊す」とはどう違うのか
意味分かりません
>>591 [補足事項] 存在論の答えを導く手順
[前提1]と[前提2]から[存在論の答え]を導く手順を下記に示します。
[前提1]実在の定義では物質が実在であること、及び、物質以外に実在があることが想定されています。
もし、物質以外に実在が存在する場合、それは物質と相互作用しなければなりません。
物質以外の実在は物質と相互作用するので物質の運動に影響を及ぼします。
物質の運動が物理法則と整合的である([前提2])ためには、物質の運動に影響を及ぼす全ての力に
関する式が物理法則に含まれている必要があります。
然るに、物理法則には物理的力に関する式のみしか含まれていません。
このことは、物質が物質以外のものと相互作用していないことを示しています。
従って、[前提1]実在の定義から物質以外に実在は存在しないことが結論できます。
以上
>>591 [補足事項] 存在論の答えを導く手順(その2)
結局、物質以外に実在を想定すれば、物理法則との整合性が取れなくなります。
従って、物質以外に実在を想定することはできないことになります。
それが[前提2]の意味するところです。
[前提2]自体に「実在は物質のみである」という結論が含まれているわけではありません。
あくまで[前提1]と[前提2]とを組み合わせた場合に導かれる結論です。
598 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 19:04:38 0
>>595 >「叩き潰す」と「壊す」とはどう違うのか
叩き潰して壊れ無いなら叩き潰すことと壊れることは別事象でしょ。
そんなこともわからないの?
機械でも物体でもそれが壊れたときどのようにしたら壊れたと
言うこととなぜ壊れたということは別事象だね。
だけど物理というのは「どのようにして」に対して答えるが
「なぜ」については答えられない。
だから
「(叩き)潰した部品」と「壊した部品」とは具体的にはどのように違いがあるのかを訊いてるのですよ
コンビニに行ってきますよ。
つまり、ぼん太郎君が縷々語っていることは通俗的な“物理学”なんだよ。
その掌のなかで論述?している。
カントの用語を使えば先験的実在論。これは素朴観念論wでもある。
この派の大御所が機械先生。w 機械先生は無自覚な信仰者です。
おかしいと思うならwなんかで誤魔化さずに指摘すれば?
603 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 19:37:01 0
>>599 それが問題ではない。
壊れたか壊れなかったかという差がある。
そして壊れたとしたらなぜ壊れたかが問題。
604 :
599:2009/05/05(火) 19:59:52 0
>>603 ・機械が機能するとしたらなぜ機能するのかが問題。
これも同じではないの?
[補足事項] 存在論と存在者論
存在論を存在論と存在論者論に分けて考える考え方があります。
以下、筆者の意味での存在論を、存在論、または、筆者の存在論、と表記します。
存在論と存在者論を分ける場合の表記は「存在論」、「存在者論」と「」付きで表記することにします。
この表記で言えば、筆者の存在論は「存在者論」に当たります。
<存在論> そもそも、存在するとは如何なることか、を問います。
<存在者論> 存在するものについて、その存在の意味を問います。
筆者の存在論に於いて「そもそも、存在するとは如何なることか」という問いは、我々の知の限界を
超える問いであり、我々には決して答えることのできない問いです。
ですので、「存在論」は筆者の存在論における問題にはなりません。
「世界とは如何なる存在か」、「生命とは如何なる存在か」、「人間とは如何なる存在か」、というのが
筆者の存在論における問いであり、その意味で筆者の存在論は「存在者論」であることになります。
以上
606 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 20:09:14 0
>>604 そうだよ。何か問題でも?
どうすれば機能するかが解れば機械は作れるよ。
>>605 > 誤字訂正、文章訂正
(訂正前) 存在論を存在論と存在論者論に分けて考える考え方があります。
(訂正後) 存在論を存在論と存在者論に分ける考え方があります。
どうすれば壊せるか解れば壊せるでしょーよ
609 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 20:14:05 0
>>608 そうだよ。それは問題ではない。
なぜ壊れるかが問題だね。
だから
なぜ機能するかが問題でしょーよ
[筆者存在論のまとめ・その2] 自由意志について
自由意志とは何か、自由意志は存在するか、それが問題である。
自由意志とは意志の自由を意味する。自由意志とは物理条件からの意志の自由を意味する。
自由意志とは、同一物理条件下で複数の選択肢が与えられている場合、選択が自由であることを意味する。
自由意志が存在するとは、意志が自由であること、意志の自由が存在する、ことを意味する。
自由意志の存在の有無を検証するには、同一物理条件下で複数の選択肢が与えられている状況で、複数回の
試行を行えばよい。そして、試行によって異なる選択を行い得たか否かを確認すればよい。
試行によって異なる選択を行い得たのであれば、自由意志が存在することを示し得たことになる。
どの試行でも同一選択しか行われなかったのであれば、自由意志が存在しないことを示し得たことになる。
但し、「同一物理条件下」でというのが問題である。
通常の物理実験では(誤差範囲内として)除外可能な条件でも、意志決定に影響を及ぼす可能性があり、そのような
条件は除外することができない。
特に、試行ごとに、試行を行う人の記憶内容を同一にする必要がある。
記憶内容の変化は、意思決定に大きな影響を与える、物理条件の変化だからである。
試行ごとに、試行を行う人の記憶内容を同一にするのは、実際上不可能である。
従って、自由意志の存在の有無を直接検証するのは不可能である。
自由意志の存在の有無は直接検証できず、間接的方法で論証するしか方法がない。
自由意志は物理的な力とは独立した力に基づくものであり、物質からは生まれない。
自由意志が存在するためには、物質とは異なる実在が必要である。
二元論では自由意志を担う存在(実在)として霊魂が想定されている。
自由意志は唯物論からは決して生まれない。
すでに存在論の答えは唯物論であることを示したので、自由意志は存在しないことが結論できる。
以上
>>611 >意志決定に影響を及ぼす可能性があり、そのような条件は除外することができない。
これは霊魂の存在を否定できない、と言ってるのと変わりませんね。
物理的に排除不可能なのだから。
[筆者存在論のまとめ・その3] 心とは何か
心とは情報処理という働きである。心は存在物(実在物)ではない。
心とは、情報処理システムを母体として生まれる、情報処理という働きである。
但し、生存活動と結びついた情報処理のみを心と呼ぶ。
生存活動と結びつかない情報処理は心と呼ばない。
心の有無は、情報処理システムの存在の有無と、それが生存活動と結びついているか否かで判定できる。
通常、生物の情報処理システムは神経網により構成されている。
微生物等の原始的生物には神経網に拠らない情報処理システムを備えているものもいる。
全ての動物は心を持っている。微生物の一部、ロボットの一部は心を持っている。
以上
オカルトスレか
>>612 > 考える名無しさん
該当の箇所は、物理条件について述べた個所であり、霊魂の存在の有無とは直接関係ありません。
>>615 「意志」の差を説明するための物理法則による記述の限界を認めてるのだから同じですよ
全ての実在は物理法則と整合性も持つのでしょ?説明が矛盾してますよ
[筆者存在論のまとめ・その4] 心の働きと認識の分類
心の働きを、「認識」「思考」「意志形成」の3っつに分けて考える。
(さらに、それらを補助する働きとして「記憶システム」を考える)
認識は、認識対象の違いから対象認識と自己認識に分ける。
対象認識の認識対象は、心の外部にある対象である。対象認識は外部認識とも呼ばれる。
自己認識の認識対象は、自分自身(の心)である。自己認識は内部認識とも呼ばれる。
さらに、認識を認識特性の違いから論理認識と情念認識に分ける。
論理認識は純機械的システムでシミュレート可能と思われる認識の働きである。
情念認識は純機械的システムでシミュレート可能でないと思われる認識の働きである。
対象認識の認識特性は論理認識であり、自己認識の認識特性は情念認識である。
対象認識の存在目的は、外部的対象の現象そのものを捉えることにある。
よって、対象認識は対象の現象そのものを捉えることができる。
自己認識の存在目的は、心の中の様子、心が働いている様子を捉えることにある。
自己認識の存在目的は、心の中の現象そのものを捉える事にはない。
よって、自己認識が心の中の現象そのものを捉えることはない。
情念認識とは現象そのものを捉えることのできない自己認識の認識特性を指す。
以上
>>616 > 考える名無しさん
該当の箇所は物理条件について述べた個所であり、「物理法則による記述の限界」については
述べていません。
物理法則と整合性を持つのは物質のみであり、全ての実在ではありません。
>>618 物質と相互作用するのが実在であり、物質が物理法則と整合性を持つのなら
実在が物理法則と整合性を持つ、のと同じことですよ
さらに、物理条件の設定に限界があるなら
それは物理法則による世界記述が常に不正確であることを意味します。
つまり、物理法則と整合性を持たない実在が存在したとしても
この範囲であれば物理法則が影響を受けません。
従って物質でない霊魂の存在は否定できずに残ります。
[筆者存在論のまとめ・その5] 精神現象の物理現象への還元
我々の心は物質的なもののみでは説明不可能に感じられ、誰もが「我々の心は物質的なもののみでは
説明不可能である」と断定してしまうのが普通である。
しかし、唯物論が正しければ、我々の心も物質的なもののみで説明可能であるハズである。
如何にすれば、我々の心を物質的なもののみで説明可能であるのか、それが問題である。
この問題は、「精神現象の物理現象への還元問題」と呼ばれ唯物論最大の問題である。
この問題を解くのは一見不可能にみえるが、実は、コロンブスの卵と同様簡単に解ける。
それは単に、「精神現象も物理現象であるが、それが物理現象であることを認識できないだけだ」という
事態を表しているだけに過ぎない。これは我々の認識能力の問題である。
「精神現象が物理現象であることを認識できない」これが我々の認識能力の本質である。
この認識能力の限界は自己認識の認識特性からきている。
自己認識の存在目的は、心の中の様子、心の働いている様子、を捉えることにある。
自己認識の存在目的は、心の中の現象そのものを捉える事にはない。
従って、自己認識は心の中の現象そのものを捉える事が出来ない。
唯物論に拠れば、心の中の現象も全て物理現象であることになるが、自己認識はそれが物理現象である
ことを認識できないのである。
それは自己認識が心の中の現象そのものを捉える事が出来ないことに由来している。
自己認識は心の中の現象を物理現象とは異なる現象(精神現象)として認識する。
以上で「精神現象の物理現象への還元問題」が解決したことを示した。
この世界は唯物論で全て説明可能であることを示した。
以上
>>620 それは何も説明も解決もできていません
ただの逃避です
>>619 > 考える名無しさん
「物質が物理法則と整合性を持つ」と「実在が物理法則と整合性を持つ」は同じではありません。
物理法則は不完全です。物理法則には未解明の部分も多々あります。
その未解明の部分について、どう考えるか二つの立場があります。
<立場1> その未解明の部分も物理法則に従っているであろう。
<立場2> その未解明の部分は物理法則とは異なる法則に従っている部分もあるに違いない。
筆者は<立場1>を採っていますが、<立場2>を採れば霊魂の存在を想定することも可能では
あります。
>「物質が物理法則と整合性を持つ」と「実在が物理法則と整合性を持つ」は同じではありません。
実在が物質と相互作用するなら同じ事です。物理法則とは相互作用の記述なのですから
実在と物質の相互作用も法則となり、これは物理法則です。
><立場2>を採れば霊魂の存在を想定することも可能ではあります。
立場を決める根拠は無いということですね。
[筆者存在論のまとめ・その6] 筆者存在論の成立経緯
高校時代に存在論に興味を持ち、存在論に関する様々な本を読んだ。
その結果、存在論の答えは唯物論か二元論のどちらかに違いないと思うようになった。
観念論は存在論の答えとしては不適当であると思った。
もし、唯物論が正しければ、精神現象を物理現象に還元できなければならない。
もし、二元論が正しければ、物質と霊魂の相互作用を物理法則と矛盾しない形で説明可能で
なければならない。
どちらも不可能に思われた。
精神現象を物理現象に還元する方法は、唯物論に関するどの本にも載っていなかった。
物質と霊魂の相互作用を物理法則と矛盾しない形で説明可能にする方法は、二元論に関する
どの本にも載っていなかった。
答えが出ないまま長い年月が過ぎ去った。
ある日突然、精神現象を物理現象に還元する方法が閃いた。
「精神現象も物理現象であるが、それが物理現象であることを認識できないだけだ」
このアイデアが閃いたとき、それが求めていた答えであることを直観した。
これにより、存在論が真の意味で解けたことを確信した。
以上で筆者存在論のまとめを終わります。
.....まとめ終了
>ある日突然、精神現象を物理現象に還元する方法が閃いた。
ほうほう。
>「精神現象も物理現象であるが、それが物理現象であることを認識できないだけだ」
・・・・・・。
>このアイデアが閃いたとき、それが求めていた答えであることを直観した。
そんなものを求めてたのですか。。。
自己認識を中断して脳を対象認識すればよいのでは?
>>623 > 考える名無しさん
「物質が物理法則と整合性を持つ」と「実在が物理法則と整合性を持つ」は、仰る通り、同じであると
言えるかもしれません。前言を撤回します。
あるいは「あらゆる現象は物理法則と整合性を持つ」と言い換えたほうが良いかもしれません。
立場を決める根拠を示せば、さらにその根拠の根拠が問われます。無限遡行できませんので、
いつか根拠を示せない地点に至ります。
その意味で、あらゆる学説は、その立場を決める根拠はどない、と言うことが可能です。
>>625 > 考える名無しさん
> 自己認識を中断して脳を対象認識すればよいのでは?
勿論、それができれば問題の解決は簡単です。
原理上は可能ですが、実際上は不可能です。
実際上不可能だからこそ、それが問題となっているわけですが。
>>626 誤字訂正
>>623 > 考える名無しさん
(訂正前)その意味で、あらゆる学説は、その立場を決める根拠はどない、と言うことが可能です。
(訂正後)その意味で、あらゆる学説は、その立場を決める根拠などない、と言うことが可能です。
>>626 根拠の根拠までは問いません。
「なるほどそのような根拠があっての立場の表明か」と分かればよいのです。
貴方は「実在」と「物質」と「物理法則との整合性」を柱に話をしています。
「存在」と「相互作用性」は互いを要求しており、存在は相互作用によってのみ世界に現れます。
したがって相互作用が発生すれば存在も発生します。
この思考の先には非実在が実在となる可能性すら否定できないのです。
>>627 >原理上は可能ですが、実際上は不可能です。
>実際上不可能だからこそ、それが問題となっているわけですが。
原理上は可能としているならば、なおさら何も解決していないではないですか。
実際の方法論があると思われますか?ありませんよ、現状では。
たとえ脳内の全ての原子の状態が分かっても心が分かったことにはならないのです。
心を物理現象として対象認識することと、「心」との間には埋まらない断絶があることを先ず示し、
その埋まらない(原理的な)理由はどこにあり、その困難を回避するための方法を探らねばなりません。
***** [スレッドの終了宣言] *****
筆者の主張したいことはほぼ尽きましたので、ここでひとまずスレッドの終了を宣言したいと思います。
本スレッドにお付き合いくださいました皆様に心より感謝申し上げます。
ひとまず終了しますが、補足事項を思いつき次第書き込んでいく予定です。
頂いたレスにはできるだけ返事を差し上げるようにします。
引き続き宜しくお願いします。
論を組み上げるのは大変ですよね。外野から突っ込むのは容易ですが。
ご苦労お察しします。ご苦労さまでした。んー
>>629 > 考える名無しさん
> 根拠の根拠までは問いません。
> 「なるほどそのような根拠があっての立場の表明か」と分かればよいのです。
筆者が
>>622 で<立場1>を採った理由をお尋ねのようですので、ここで改めてその理由を
述べてみます。
これまで、確かに、物理法則とは異なる法則に従っているとみなせる現象は発見されていない、
と判断しているのがその理由です。
また、これからもそのような現象が発見されることはないであろうと、推定していることもその
理由です。
> 「存在」と「相互作用性」は互いを要求しており、存在は相互作用によってのみ世界に現れます。
> したがって相互作用が発生すれば存在も発生します。
> この思考の先には非実在が実在となる可能性すら否定できないのです。
「存在」と「相互作用性」の関係については仰る通りであると思います。
もし、物質以外の存在との相互作用が確認できれば、物質以外の実在の可能性も認められること
になるでしょう。
物質以外に実在が存在するとした場合、その存在をどのように確認可能であるのか、それが問題
になります。
>>630 > 考える名無しさん
人間は物質のみによってできており、原理的には、その心も含め、自然科学的方法で客観的に解析可能です。
人間の心を自然科学的方法で解析する場合のアウトラインを下記に示します。
(段階1) 脳の原子的分子的構成を解明する。(物質構成の解明)
(段階2) 神経網の構成を解明する。(ハードウェア構成の解明)
(段階3) 神経網の働きを解明する。(ハードウェアの働きの解明)
(段階4) 記憶内容を含めた情報処理システムとしての働きを解明する。(ソフトウェアを中心とする解明)
段階が進めば進むほどその解明は技術的に困難になります。
実際上はほとんど不可能であると言えます。
心を物理現象として捉えることと、「心」との間には埋まらない断絶は、何もありません。
技術上の断絶があるだけです。原理上の断絶は何もありません。
>>634 そのように精緻に脳内の機能を調べたとします。
「情報処理システムとしての解明」からして空論ですが、そこまで良いとしましょう。
「心」とは時間的な現象です。そしてそれは常に「今」行われます。
脳内空間で遍く時系列に発生する物理現象(情報処理?)が全体として「心」を形成するのですか?
それはファンタジーというものです。
凡そ現象とは局所的なものです。各瞬間にての極小領域での状態変化の空間的・時間的な集積とも云えます。
そして、ある場所Aでの現象は、その瞬間には別の場所Bの現象とは相互作用しません。
現象の影響の伝播は光速以下でしか許されないからです。
さあそれでは、意識とは脳内のどの特異点に起因すると思われますか?
コンピュータが計算結果を出すことと、意識との間にはちょっと考えるだけで非常な断絶があります。
さらに困難であるのは、脳を対象認識する際に、この脳は対象化された脳だということです。
つまり人間は、水を感覚的に液体と認識することもあり、H2Oとすることもあります。
しかし、分子や原子が世界の完全な姿の投影とするのは早計です。所詮は有効な範囲内で有効であるだけです。
そしてその分子・原子へのモデル化も、量子力学を創造したのも「心」が行ったのです。
さてそこで、その「心」の能力そのものを、「心」が自らが創りだした道具によって解明できるでしょうか?
それはあまりに短絡的でしょう。常識的に考えれば全く確証など無いというのが本来であるはずです。
脳を原子や情報ネットワークの集まりとして認識したその先に「心」の解明など・・あるのでしょうかね。
心=世界
>>637 そいつは( )付きでないと認められねえ。
[補足事項] 認識とクオリア
認識は対象認識と自己認識に分けられます。
我々は目覚めている限り常に対象認識と自己認識が働いています。
対象認識と自己認識はコインの裏表であり、常に同時に働いています。
対象認識は五感を通して対象を認識します。
クオリアとは、五感に伴って感じる感じのことです。
ですので、クオリアは一見対象認識の一部であるように感じられますが、そうではありません。
五感を通して対象認識が行われているときに、同時に自己認識も働いており、クオリアは、その
自己認識の働きから生まれます。
コインの表では五感を通して対象認識が行われ、同時に、コインの裏では自己認識が働き
クオリアが生まれます。
このように、クオリアは、五感を通して対象認識が行われているとき生まれますが、それは
対象認識から生まれているのではなく、自己認識から生まれているのです。
これがクオリアの重要な特性です。
>>635 > 考える名無しさん
我々の脳内では、神経網(ハードウェア)と記憶内容(ソフトウェア)が相互に協力し合って、情報処理が
行われています。それは純物理的、純機械的作業です。
ですので、それは原理的には自然科学的方法で客観的に解析可能です。
しかし、高度な技術力を要します。現在の人類の技術力では到底及びません。
> 「情報処理システムとしての解明」からして空論ですが、そこまで良いとしましょう。
原理的には可能であり、空論ではありません。
> 「心」とは時間的な現象です。そしてそれは常に「今」行われます。
心とは情報処理という働きです。情報処理という働きは、時間的な現象であり、それは常に「今」行われます。
> 脳内空間で遍く時系列に発生する物理現象(情報処理?)が全体として「心」を形成するのですか?
脳内で行われる情報処理という働きそのものが「心」です。
> 凡そ現象とは局所的なものです。各瞬間にての極小領域での状態変化の空間的・時間的な集積とも云えます。
> そして、ある場所Aでの現象は、その瞬間には別の場所Bの現象とは相互作用しません。
> 現象の影響の伝播は光速以下でしか許されないからです。
ここでお述べになっていることは、今回の問題とは無関係です。今回の問題とは無関係に成立します。
> さあそれでは、意識とは脳内のどの特異点に起因すると思われますか?
意識=心=情報処理であり特異点は存在しません。
> コンピュータが計算結果を出すことと、意識との間にはちょっと考えるだけで非常な断絶があります。
「非常な断絶」があるように感じますが、実際には何の断絶もありません。
641 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 00:43:48 0
>>640 無条件に否定しているだけのようですが、
少しは唯物論的な反論はありませんか?
いつまでもファンタジー世界の話では説得力がないですよ。
>ここでお述べになっていることは、今回の問題とは無関係です。今回の問題とは無関係に成立します。
>>635の言うことが理解できてますか?
>>636 > 考える名無しさん
> さてそこで、その「心」の能力そのものを、「心」が自らが創りだした道具によって解明できるでしょうか?
原理的には、我々の創りだした道具によって解明可能です。
> それはあまりに短絡的でしょう。常識的に考えれば全く確証など無いというのが本来であるはずです。
原理的には可能です。現在の我々の常識自体が誤っています。
> 脳を原子や情報ネットワークの集まりとして認識したその先に「心」の解明など・・あるのでしょうかね。
「YES」です。技術的には困難ですが、原理的には、その先に「心」の解明があります。
「原理的」の大安売りですね。
644 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 00:53:15 0
>>642 >636が「原理的に不可能だ」と主張してることが理解できませんか?
>>641 > 考える名無しさん
> 無条件に否定しているだけのようですが、
考える名無しさんの発言に応じた必要十分な返答を述べているつもりです。
もし違うとお感じなら、その点をご指摘くださるか、より具体的な発言をお願いします。
> 少しは唯物論的な反論はありませんか?
唯物論に基づいて必要十分な反論を行っているつもりです。
> >ここでお述べになっていることは、今回の問題とは無関係です。今回の問題とは無関係に成立します。
>
>>635の言うことが理解できてますか?
そのつもりです。もし違うとお感じならご指摘ください。
>>643 > 考える名無しさん
原理的な事項が問題になっている以上、「原理的」という限定詞は欠かせません。
それが何か問題でしょうか?
>>644 > 考える名無しさん
勿論、理解しているつもりです。だからこそ「原理的には可能だ」と反論しているわけです。
648 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 01:25:53 0
>>645 >より具体的な発言をお願いします。
>> 「情報処理システムとしての解明」からして空論ですが、そこまで良いとしましょう。
>原理的には可能であり、空論ではありません。
シンプル(プリミティブ)な情報はニューロンの何に対応すると想定可能ですか?
シナプス結合?(数百種類の)脳内物質?細胞の動的平衡によるパターン保持?チューブリン?その他?
>>648 > 考える名無しさん
脳内の具体的な構造に関する問題は、存在論分野の問題ではなく、大脳生理学等の他分野の問題です。
ですので、本スレッドで扱うのはあまり適切ではありません。
以下は、本スレッドとは直接関係のない、(大脳生理学素人である)一個人の意見として述べます。
短期的情報/データは神経パルス列(電気的信号)として存在していると思います。
長期的情報/データは、シナプス結合の増(または、減?)、または、シナプスの閾値の変更(化学物質による
化学的変更)、により行われているのであろうと想像しています。
長期的情報/データは、このような古典物理的な現象のみを考えており、量子力学のかかわるような現象は
考えておりません。
ペンローズは脳の量子力学的構造を主張していますが、筆者(自分)は賛成できません。
その他「(数百種類の)脳内物質?細胞の動的平衡によるパターン保持?チューブリン?」は考えておりません。
以上は、素人である一個人の感想にしか過ぎません。
650 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 03:02:24 0
>>649 つまり、貴方自身はよく分からないのに「原理的に可能だ」と強弁できる訳です。
貴方のいう「原理的」は古代ギリシャのデモクリトスが「原理的に可能だ」と言うのと
同じくらい滑稽です。デモクリトスはもちろんそんなことは言いませんが。
次に行きます。
>情報処理という働きは、時間的な現象であり、それは常に「今」行われます。
機械的に
@1時間前にある情報処理を行います。
Aそして今、全く同じ情報処理を行います。
処理内容は同じですが、Aの情報処理が今であることの特殊性はどこにありますか?
>>650 > 考える名無しさん
特殊性という語をどのような意味で仰っているのか解りませんが.....
それぞれの「今」があるだけであり、それぞれの「今」に特殊性はありません。
一時間前の「今」と、その一時間後の「今」があるだけです。
[補足事項] 筆者の問題意識
筆者の存在論に対する問題意識について述べます。
観念論ではダメだ、実在論でなければならない。
唯物論か二元論が存在論の答えであることは間違いない。
もし、唯物論が正しければ、精神現象を物理現象に還元可能であるハズだ。
もし、二元論が正しければ、物質と霊魂の相互作用を物理法則と矛盾なく説明可能であるハズだ。
どちらも不可能に思え、答えを得られないまま長い年月が過ぎた。
ある日突然、精神現象を物理現象に還元する方法が閃いた。
唯物論が答えであることを確信した。
以上
>>650 > 考える名無しさん
> つまり、貴方自身はよく分からないのに「原理的に可能だ」と強弁できる訳です。
筆者の主張していることは、「脳内の詳細な構造がどうであるのか」等の問題とは無関係です。
筆者の主張していることの中心は、唯物論という結論からすべて導き出されています。
唯物論という結論を前提として、「原理的に可能だ」と述べているだけです。
「脳内の詳細な構造がどうであるのか」等の問題とは無関係です。
>>648 > 考える名無しさん
「より具体的な発言」というのは、あくまで、「存在論の範囲で」という限定がつきます。
本スレッドは存在論に関するスレッドですので、「存在論の範囲で」という限定が付くのは
暗黙の了解事項です。
[補足事項] 本スレッドでの発言
本スレッドは存在論に関するスレッドであり、存在論以外の話題については扱っていません。
但し、存在論は様々な諸学と関連をもっています。
存在論以外の分野の話題であっても、存在論と関連が深いと思われる話題について発言することは、
何ら問題ありません。
存在論以外の分野の話題であって、存在論との関連がないか薄い話題の場合、本スレッドで発言する
のは適切ではありません。
以上
656 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 07:45:45 0
>>610 >なぜ機能するかが問題でしょーよ
いや、機能するのは当たり前だから問題ではない。
それになぜ壊れるかが解ればなぜ機能するかもわかるでしょ。
657 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 10:00:37 0
>>656 もーどーでもええわ
ついでにぽん助もどーでもいい
658 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 10:43:56 0
>>656 君には部品を壊すことはできても
ねじ一本作ることなどできないのだよ。ふっ
661 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 16:29:31 0
ネジはすぐに頭が飛んだり、山が馬鹿になって締めれなくなる
662 :
635-:2009/05/07(木) 16:37:08 0
>ぽん太郎さん
これまでの話の全ては存在論そのものではないですか。別に政治やタレントの話をしているわけではありませんよ。
>>650 「情報処理」内容自体には過去も現在も差違は無い、ということですね。
そしてどちらの情報処理も「今」である、
情報処理はその内容によらず今として実行され得る。
さてそこで、その「今」とは何でしょう。
「今」なるものは物理学では定義不可能です。
「今」を保証しているのは何ですか?
それは「貴方自身の心の今」しかない。
ここまで宜しいですか?
663 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/07(木) 17:19:54 0
>>577 :ぽん太郎さん
<ここで述べた実在性は、心の外の対象を指すのではなく、あくまで、主観の内に実在性を感じるイメージが映っている、ということを意味します。>
<対象の実在性を担保するのは「我」です。(フッサールは独我論ですから)>
あなたの言うところの、「物質と、直接的/間接的に相互作用を持つ<デカルトの霊魂>」の両者ともに、外的対象、内的対象となる物質の実在性にはレベルがあり、
実在性は、「o or 1」ではなく、「0〜1までのレベルがある」ということですか?
>>578 :ぽん太郎さん
<「経験的なものと空想的なものの区別可能性」という問題について、肯定されているのか、否定さているのか、そのどちらでもないのか>
物自体は、経験的/空想的なものではなく、(「仮想的存在」=「超越的存在」)です。
認識の対象である現象ではなく、経験的な総合(結合)判断ですから、可変的、且つ到達不能の(だからこそ超越的存在であるわけです)イデアです。
これに、「客観性」、「一般常識」等の概念を持ち込む「汎物質論」を唱えることは、思考停止と等しくなります。
何故なら、それは、「客観性」、「一般常識」等でしか支えきれません。
「aという物質があり、それは実在性を有し、且つそれと相互作用を持つもののみ実在である」、とすると、「相互作用の定義」(相互作用の対応関係のモデル構築は至難な作業となると想定されます)が新規に必要となります。
即ち、あなたの定義では、素朴実在論(素朴二元論)の域を出られません。
664 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/07(木) 17:38:51 0
>>653 <筆者の主張していることの中心は、唯物論という結論からすべて導き出されています。
唯物論という結論を前提として、「原理的に可能だ」と述べているだけです。>
今まで、あなたの唯物論は、仮説からの論理操作による導出結果だと読んでいたのですが、最初に結論有りき、の後付け理論だったのですね。
>>662 > 635-さん
何を問題とされているのか把握できませんが.....
もし、「今とは何か」という問いでしたら、
情報処理の行われているその時々が「今」であり、それは時間に沿って流れていくものである、
という答えになります。
もし、過去の「今」と現在の「今」はどのように識別・区別されるのか、という問いでしたら、
それは「記憶によって識別・区別される」、「記憶の連続性によって識別・区別される」
というような答えになります。
どちらにしろ、そこに、物理学で定義不可能ものは何もありません。
>>665 :ぽん太郎さん
>情報処理の行われているその時々が「今」であり、それは時間に沿って流れていくものである、
この「情報処理が行われる」はどのような現象を想定していますか?
計算機の基板上の特定の現象のようなものですか。
>>663 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> あなたの言うところの、「物質と、直接的/間接的に相互作用を持つ<デカルトの霊魂>」の両者ともに、外的対象、内的対象となる物質の実在性にはレベルがあり、
> 実在性は、「o or 1」ではなく、「0〜1までのレベルがある」ということですか?
直前で引用されている文はフッサールの主張ですので、この質問はフッサールに向けられるべきです。
もし、筆者に向けるのであれば、「あなたの理解に拠れば、フッサールは以下のように主張しているのですか?」
というような問い方でなければなりません。
> 物自体は、経験的/空想的なものではなく、(「仮想的存在」=「超越的存在」)です。
筆者もカントの物自体は「不可知な何か」(=「仮想的存在」=「超越的存在」)であると述べたとおり、その点に理解の違い
はないものと思います。
只、カントは物自体を「経験的なものの対象物(=感性、悟性の対象物)」としており、それにより「経験的なものと空想的なもの」
の区別を可能にしています。
> これに、「客観性」、「一般常識」等の概念を持ち込む「汎物質論」を唱えることは、思考停止と等しくなります。
筆者はカントの主張に「客観性」、「一般常識」を持ち込んだことはありません。
カントは感性、悟性、理性の働きを「普遍性」のレベルで捉えています。
「普遍性」であって「客観性」や「一般常識」等ではありません。
カントの「普遍性」の立場は、筆者の「客観性」の立場に通じるものであり、カントを評価する一点になっています。
> 「aという物質があり、それは実在性を有し、且つそれと相互作用を持つもののみ実在である」、とすると、「相互作用の定義」
> (相互作用の対応関係のモデル構築は至難な作業となると想定されます)が新規に必要となります。
仰る意味が把握できませんが.....
相互作用で大事な点は、それが物質の運動に影響を及ぼすことです。
その点さえ押さえれば、そこに何一つ「至難な作業」はありません。
>>666 > 635-さん
> この「情報処理が行われる」はどのような現象を想定していますか?
> 計算機の基板上の特定の現象のようなものですか。
論理回路による論理操作がその現象です。
下記に最も基本的な論理回路である「NAND」回路を示します。
「NAND」回路は二つの論理値(2進数)を入力し、一つの論理値(2進数)を出力します。
+−−−−+
入力1−−−>|NAND |
| |−−−>出力
入力2−−−>| |
+−−−−+
入力1、入力2、出力はそれぞれ電気信号(=論理値=2進数)です。
この「NAND」回路を複数組み合わせることであらゆる論理回路を構成できます。
「NAND」回路は二つの電気信号(入力1と入力2)を一つの電気信号(出力)に変換します。
こうした、電気信号の変換処理(その組み合わせ)が情報処理です。
>>664 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> 今まで、あなたの唯物論は、仮説からの論理操作による導出結果だと読んでいたのですが、最初に結論有りき、の後付け理論だったのですね。
筆者は、まず前提命題として[前提1]、[前提2]を置き、そこから「唯物論」の結論を導いています。
次にその結論を用いてその他の結論を導き出しています。
それを後付理論であると評価するのであれば、世の中のあらゆる学説を後付理論であると評価できることになってしまいます。
>>668 :ぽん太郎さん
なるほど。恐らく、論理回路そのものは情報(とされるもの)の流れであり、
対応するトランジスタ、ダイオード、抵抗、コンデンサなどに流れる電気があるのだと推測します。
電気(信号)がコンデンサ内の充放電と相互作用し、トランジスタが電気(信号)を増幅作用するわけですね。
プログラムなどはコンデンサ内に物理的な状態として”記録”される、のでしょうか?
最終的な出力も”ある物理状態として”確定するわけですね。
確定された物理状態は 「人間側の作った規則により人間が」 解釈します。
これらのデバイスは空間的に分散し、局所的に物理法則に従い状態変化しています。
どの時点でどの部分を取り出しても物理状態以上のものではありませんよね。
そこで
>>665ですが、
>情報処理の行われているその時々が「今」であり、
つまりそれぞれの「局所的な状態に対応する時刻」こそ「今」だという理解ですね?
ところで、貴方は心とは情報処理だと言われました。
脳は空間的な広がりを持ち、あらゆる部分でミクロに物理的な状態変化(≒情報処理と貴方が信じるもの)をしています。
しかし、貴方の心は一つであり、一つの今を認識します。
「空間内に分散した脳内ミクロ現象(情報処理)の総体」は各瞬間に於いてそれ以上のものでは全然ありません。
さらに各瞬間では脳内空間の瞬間状態は相互作用しません。
(
>>635の内容はだいたいこのような意味です。)
このような物理還元された説明と「心の発生」との間には決定的に断絶があります。
それをぽん太郎さんが平気で踏み越えるので、私との間に非常な認識の齟齬が発生している、
というわけです。
分かってもらえましたかね??
もう遅いので、気が向いたらレス下さい。おやすみなさい。
>>668 >論理回路による論理操作がその現象です。
現象の一つで、それでは現象を全て説明した言い方になっていると言われるぞ。
論理は客観的に捉える再現できる確実な順序や工程で理に適った
因果関係を誰でも反復できる事実として意味として扱うことのようなものだろ。
論理回路では特定を狭めすぎている。
たとえ仕組みが飛躍していても中身がまったく謎でも、状況を特定した話では
関係性が正しく客観性の元に常に再現できる技術的なもので、
究極の根本原理が何か不明でもその説明となりえる。
不確実になるのではなく、確実になるという話である。
論理で説明しえないものは、大雑把に必然になるようなもの、正確に捉えれば
違うが全体の流れの意味としては正しいような抽象的(不確実)な存在には
論理は適用できない。「必然」は自然の様子を説明したものであり、明確に確実で
ある絶対的になる結果ではない。マクロ的には概念が確定できてもミクロ的には
意味として適合しえないのが必然の結果というもの。
論理ではこの必然性を表すものではなく、廻り巡って連鎖し、輪廻してたどり着く
生命現象のような喩えは局所的には論理的に説明ができても全体がなりえる
マクロ現象を論理では説明できないのは明らか。
よく論理で全てを扱えると過信しているのが多い
>>670 > 635-さん
> 電気(信号)がコンデンサ内の充放電と相互作用し、トランジスタが電気(信号)を増幅作用するわけですね。
通常、アナログ回路では増幅という言葉が使われますが、デジタル回路では使われません。
但し、デジタル回路でも「0」と「1」の信号レベルを一定に保つための増幅が縁の下で行われています。
> プログラムなどはコンデンサ内に物理的な状態として”記録”される、のでしょうか?
記憶はRAM(ランダムアクセスメモリ)回路により行われます。
ダイナミック方式とスタティック方式があります。
ダイナミック方式はNAND回路+コンデンサで記憶を行います。
スタティック方式はNAND回路を2つ組み合わせたフリップフロップ回路で記憶を行います。
> 確定された物理状態は 「人間側の作った規則により人間が」 解釈します。
その人間による解釈も全て情報処理であり、全て純機械的、純物理的処理です。
> つまりそれぞれの「局所的な状態に対応する時刻」こそ「今」だという理解ですね?
「局所的な状態に対応する時刻」というのが「情報処理の行われているその時々」の意味で仰られているので
あれば、その通りです。
> 「空間内に分散した脳内ミクロ現象(情報処理)の総体」は各瞬間に於いてそれ以上のものでは全然ありません。
> さらに各瞬間では脳内空間の瞬間状態は相互作用しません。
何を仰りたいのか把握できませんでした。恐らく、次の質問と同様のことかと思います。
次の質問の返答をご参照願います。
> このような物理還元された説明と「心の発生」との間には決定的に断絶があります。
> それをぽん太郎さんが平気で踏み越えるので、私との間に非常な認識の齟齬が発生している、
> というわけです。
ここはとても重要な点でなかなかご理解頂き難いところですが、何ら断絶はありません。
何ら断絶がない、というのが要点中の要点です。
そこに断絶を感じるのは、情念認識の壁に阻まれて、心の中の現象そのもの認識できないという、自己認識の
認識特性から生じる必然的な思い込みにしか過ぎません。
>>669 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
筆者の主張は、(他のあらゆる学説の主張の場合と同様に)下記手順で導いています。
前提命題−>中間命題−>中間命題−>.....−>最終命題
最初に導いた中間命題が「この世界は物質のみよりなる」(唯物論)という命題であり、
それ以降の中間命題、最終命題の導出にはこの中間命題を利用しています。
[補足事項] 情念認識の壁
我々は情念認識の壁に阻まれ、心の中の現象そのものを知ることができません。
そのため必然的に様々な思い込みが生じます。
その思い込みの最たるものが「精神現象は物理現象とは異なった現象である」というものです。
存在の真実を知る為には、この情念認識の壁を突破する必要があります。
しかし、我々は情念認識の壁に阻まれ、そこに壁があることさえ気づきません。
まずは、その壁の存在を認識することが重要であり必要です。
その壁の存在を認識できて初めて、存在の真実の扉を開くことが可能になります。
我々はその壁の向こうに舞台裏の住人の存在を感じますが、その姿を見ることは決してできません。
もし、舞台裏をはっきり見ることができれば、存在の問題はたちどころに解消するになるところですが、
残念ながらそれはできません。
まずは、その壁の存在に気づかなければ何事も始まりません。
そこに壁のあることさえ気づかないのが我々の現状です。
存在の真実の扉を開くことは容易ではありません。
以上
>>672 >> 「空間内に分散した脳内ミクロ現象(情報処理)の総体」は各瞬間に於いてそれ以上のものでは全然ありません。
>> さらに各瞬間では脳内空間の瞬間状態は相互作用しません。
>何を仰りたいのか把握できませんでした。
ここを理解していただかないといけません。これは自己認識、情念認識の壁とは関係なく、
物理学からの演繹です。
つまり、もし、貴方の言うように、脳内で論理回路に対応する素子が論理操作を行っているとして、
その現象が(随伴現象のような観測不能の超現象となり)プリミティブな心の萌芽を生じせしめるとします。
これらの ばらばらの現象が、個々の場所で、個々の「今」に於いて現象している、というわけです。
そして、これらのプリミティブな心の萌芽が統一されて いわゆる「この心」となると考えておられるのでしょうか?
しかし、その空間内に分散する”心の萌芽”は、そのままでは統一された「心」とは成り得ないのです。
なぜなら、これらは常に瞬間瞬間に於いて個々ばらばらで、相互作用不可能だからです。
凡そ、現代物理学では、相互作用とは「近接作用」であり、遠隔作用は否定されています。
重力であれ、電気であれ、瞬時に影響が伝播することは無いのです。
その壁を突破しなければ「心」なる現象は解決され得ないのです。
論理的に考えれば、ばらばらの現象の影響が集積する脳内特異点に起因して心が発生する、
などの結論となるしかないのです。(他にも方法はありますが、超物理的です)
分かってもらえますかね???
676 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/08(金) 12:50:41 0
>>667 :ぽん太郎さん
a. <筆者もカントの物自体は「不可知な何か」(=「仮想的存在」=「超越的存在」)であると述べたとおり、その点に理解の違いはないものと思います。>
b. <只、カントは物自体を「経験的なものの対象物(=感性、悟性の対象物)」としており、それにより「経験的なものと空想的なもの」の区別を可能にしています。>
a.においては、物自体は「不可知な何か」、
b.においては「経験的なものの対象物(=感性、悟性の対象物)」(即ち、不可知ではないもの)となります。
これは矛盾します。
「あなたの理解に拠れば、カントは物自体を、上記のb. のように主張しているのですか?」
677 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/08(金) 17:49:33 0
>>591 :ぽん太郎さん
<[前提1] 実在の定義
<定義1> 物質は実在である。
<定義2> 物質と相互作用するものは実在である。
この<定義1>と<定義2>を満たすもののみが実在である。
[前提2] 物質の運動は物理法則と整合的でなければならない。>
>>674 :ぽん太郎さん
(1)<我々は情念認識の壁に阻まれ、心の中の現象そのものを知ることができません。>
(2)<存在の真実を知る為には、この情念認識の壁を突破する必要があります。>
>>591の「定義2. and/or 前提2」と、
>>674の「(1) and/or (2)」との間の乖離を架橋させているものは、結局、何なのでしょうか?
>ぽん太郎さん
今頃になってこんな事を尋ねるのは 私も迂闊でしたが、
もしかして貴方はデカルトの云う「私」とこれまで話題にしてきた「心」とは別に考えておられるのでしょうか?
>>671 > 考える名無しさん
全体的に論理の流れを把握できませんでした。
最後の一文にご主張が集約されているように感じましたので、そこに対してコメントします。
> よく論理で全てを扱えると過信しているのが多い
「論理で全てを扱える」と考えるのが過信であるのか、それとも、「論理では全てを扱えない」と
考えるのが過信であるのか、そのどちらであるのかそれが問題です。
筆者(自分)は後者が過信であると思っています。
(もちろん、心の働き(=神経網の働き)に関してのみの話です)
>>675 > 635-さん
> ここを理解していただかないといけません。これは自己認識、情念認識の壁とは関係なく、
> 物理学からの演繹です。
どうも誤解があるようですが、物理的な話を「把握できません」と言っているわけではありません。
筆者が述べていることに何ら遠隔作用に関する話がないにもかかわらず、いきなり、遠隔作用を匂わすような
お話が出てきたのでビックリしただけです。
> つまり、もし、貴方の言うように、脳内で論理回路に対応する素子が論理操作を行っているとして、
> その現象が(随伴現象のような観測不能の超現象となり)プリミティブな心の萌芽を生じせしめるとします。
> これらの ばらばらの現象が、個々の場所で、個々の「今」に於いて現象している、というわけです。
> そして、これらのプリミティブな心の萌芽が統一されて いわゆる「この心」となると考えておられるのでしょうか?
脳内で神経網によって行われている論理操作が情報処理であり、その情報処理そのものが心である、
と述べているのです。(つまり、論理操作=情報処理=心、ということです)
随伴現象や超現象といったようなこととはまったく無関係です。
> しかし、その空間内に分散する”心の萌芽”は、そのままでは統一された「心」とは成り得ないのです。
> なぜなら、これらは常に瞬間瞬間に於いて個々ばらばらで、相互作用不可能だからです。
>
> 凡そ、現代物理学では、相互作用とは「近接作用」であり、遠隔作用は否定されています。
> 重力であれ、電気であれ、瞬時に影響が伝播することは無いのです。
> その壁を突破しなければ「心」なる現象は解決され得ないのです。
> 論理的に考えれば、ばらばらの現象の影響が集積する脳内特異点に起因して心が発生する、
> などの結論となるしかないのです。(他にも方法はありますが、超物理的です)
ここでお述べになっていることは全て全くの的外れです。
近接作用云々、遠隔作用云々、脳内特異点云々、等々、筆者の主張と何らの関連もありません。
>>680 >論理操作=情報処理=心、ということです
なるほど。少し分かってきました。
人間は検知と情報処理と反応を行っているだけ、という訳です。
ホンダのASIMOが発展したようなイメージでしょうか?
その場合は、この「意識」とか「心」などは不要ですが、
そのように理解して宜しいですか?
>>676 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> 「あなたの理解に拠れば、カントは物自体を、上記のb. のように主張しているのですか?」
勿論、カントがそのように主張していることは間違いないと思います。
筆者もカントのこの主張に多少の矛盾は感じますが、只、それを矛盾といって良いのか否かは
かなり微妙なところです。ある意味筋が通っており矛盾ではないと見ることもできます。
つまり、カントの考えに拠れば、感性と悟性は物自体の世界の中にある対象を捉える力を持って
いる、ということになります。
例えば、目の前のリンゴを見ている場面を考えます。
物自体としてのリンゴが物自体の世界の中にあり、それを感性と悟性が対象として捉えます。
物自体としてのリンゴは、空間や時間の属性を持たず、形、色、大きさ、重さ、等々といったリンゴ
のイメージにつながるような属性を一切持っていません。
感性が空間や時間の属性を与えます。
悟性が形、色、大きさ、重さ、等々といったリンゴのイメージにつながるような属性を与えます。
こうして、リンゴのイメージが主観の内に形成され認識されます。
物自体としてのリンゴは何ら我々の認識できるような属性を持っていません。
その意味で、物自体としてのリンゴが不可知であることは間違いありません。
物自体としてのリンゴを我々に認識可能とさせるのは感性と悟性の働きです。
感性と悟性は物自体としてのリンゴを対象として、我々に認識可能なリンゴのイメージを与えてくれ
ます。
このリンゴのような経験的なものは、物自体を対象とし、感性と悟性を通して我々に与えられます。
それに対し、ドラえもんのような空想的なものは、感性、悟性を介さず直接理性によって与えられます。
以上が、カントの主張していることです。(もちろん、筆者のアレンジが入っていますが)
如何でしょうか? ある意味で筋が通っているとは思いませんか?
>>681 > 635-さん
> 人間は検知と情報処理と反応を行っているだけ、という訳です。
> ホンダのASIMOが発展したようなイメージでしょうか?
その通りです。それが正に筆者の主張している事です。
> その場合は、この「意識」とか「心」などは不要ですが、
> そのように理解して宜しいですか?
情報処理=意識=心、と述べているのであり、不要とは述べていません。
>>683 >情報処理=意識=心、と述べているのであり、不要とは述べていません。
いえいえ、いわゆる「意識」「心」を全て「情報処理」で言い換えれば良くなるので、
意識とか心は不要ですよ。
情報処理と意識に差違があるとお考えなら、それは何だとお考えですか?
>>678 > 635-さん
デカルトの「私」は霊魂ですし、筆者の「心」は物質系のある働きですから、仰る通り、別ということになります。
>>685 >デカルトの「私」は霊魂ですし、筆者の「心」は物質系のある働きですから、仰る通り、別ということになります。
いや。。。ちょっと話がずれましたね。
「私」について、それを「霊魂」と考えるか「物質」と考えるのでは違う、
という話をするつもりではありません。
ぽん太郎さんは、対象認識とか 自己認識とか 霊魂であるデカルトの「私」の存在を前提にしたような
話をされているように感じました。
唯物論は霊魂とか精霊とか云うものを物質科学的に解明しようとする運動と思っています。
ですから、デカルトの「私」が霊魂なのであれば、唯物論が解明する対象となりますよね。
貴方の考える、デカルトの「私」に対応する物質系の働きは、「情報処理」という理解で宜しいですか?
>>684 > 635-さん
> いえいえ、いわゆる「意識」「心」を全て「情報処理」で言い換えれば良くなるので、
> 意識とか心は不要ですよ。
言い換えれるのはその通りですが、だからと言って不要とはなりません。
今回は人間のみを念頭に置いていましたので、情報処理=意識=心、と述べましたが、人間以外の
場合も考慮に入れた場合は、情報処理>意識=心、となり、言い換えはできなくなります。
それは、情報処理の内、生存活動と結びついた情報処理のみを「心」と呼び、生存活動と結びつかない
情報処理は「心」と呼ばないことにしているからです。
つまり、動物の情報処理は「心」と呼ぶが、コンピュータの情報処理は「心」と呼ばない、ということです。
> 情報処理と意識に差違があるとお考えなら、それは何だとお考えですか?
(人間のみを念頭に置いた場合)大雑把に、情報処理=意識=心、と考えており、差異は考えていません。
>>686 > 635-さん
唯物論は、この世界は物質のみよりなるとし、この世界を物質(とその働き)のみによって、
説明しようとする説です。
唯物論では、霊魂や聖霊は否定されます。デカルトの「私=霊魂」も否定されます。
ですから、それらは解明の対象になりません。
>>687 >情報処理の内、生存活動と結びついた情報処理のみを「心」と呼び、
>生存活動と結びつかない情報処理は「心」と呼ばないことにしているからです。
ん?ちょっと分かり難いですが。。。
それは呼び方だけの話ですね?
本質はコンピュータの情報処理も心と呼んで問題ない、ということでしょうか?
つまり社会通念上のみの話だ、という理解でよろしいですね?
>大雑把に、情報処理=意識=心、と考えており、差異は考えていません。
なるほど、
では、人間について、情報処理=意識=心ですから、
情報処理以外、「この意識」そのものも必要ありませんよね?
ただ情報処理して反応すればよいわけですから、「この意識」など仲介するだけ無駄というもの。
変なことを訊きますが、ぽん太郎さんに「この意識」はありますか?
>>688 >唯物論では、霊魂や聖霊は否定されます。デカルトの「私=霊魂」も否定されます。
>ですから、それらは解明の対象になりません。
「心」の存在は否定されず、「私」の存在は否定される、というところがよく分からないのですが、
「心」という主観的・非物質的な概念を、ぽん太郎さんの唯物論では「情報処理」とするわけですよね?
デカルトが 確かにある、とした「私」を消滅させることのできる根拠は何ですか?
ぽん太郎さん、恐らく連投規制ではなかろうかと思います。。。
私もこれが最後です。
>>686でも申しましたが、ぽん太郎さんはデカルトの「私」を前提としていると思います。
全てをデカルトの「私」から見て判断しておられるとしか思えません。
脳内ディスプレイなどがその典型です。
であるのに、デカルトの「私」など霊魂であるから初めから無いのだ、と完全否定されるのはとても違和感を覚えます。
おやすみなさい。
>>689 > 635-さん
> つまり社会通念上のみの話だ、という理解でよろしいですね?
ご参照ください。(
>>86 )
> 情報処理以外、「この意識」そのものも必要ありませんよね?
> ただ情報処理して反応すればよいわけですから、「この意識」など仲介するだけ無駄というもの。
何を仰られているのか把握できません。
また、「意識」に何故「この」という修飾子が付いているのかも理解できません。
> 変なことを訊きますが、ぽん太郎さんに「この意識」はありますか?
ご質問の意図が把握できません。
>>690 > 635-さん
> 「心」という主観的・非物質的な概念を、ぽん太郎さんの唯物論では「情報処理」とするわけですよね?
その通りです。
> デカルトが 確かにある、とした「私」を消滅させることのできる根拠は何ですか?
情報処理=心=私であり、消滅などさせてなどいません。
>>692 書けるかな・・・?
>何を仰られているのか把握できません。
>また、「意識」に何故「この」という修飾子が付いているのかも理解できません。
「この」とは貴方の中にありありと存在する意識、という意味で、割と普通に使う言い方だと思うのですが。
つまり、「私の”この意識”」に対応する「貴方の”(その)意識」なのですが、私から見て
「その」と指し示すことは不可能なので、一般化したつもりで「この意識」と呼ばせてもらいました。
>>689の主旨は、人間は精密な機械として動いているので、いわゆる心象など必要ないのでは?
計算して適切に反応すればよいのであり、意識(アウェアネス)の存在理由は無いのでは?
(事実、意志が意識上に明らかになる前に、行動は決まっている、という研究もあるようですから。いや、ご存じかもしれません)
あの・・哲学的ゾンビとかの話です。・・・・やはり俺では相手に不足ですかね。。
御縁があればまたお会いしましょう。
おやすみなさい。
>>691 > 635-さん
> 全てをデカルトの「私」から見て判断しておられるとしか思えません。
『全てをデカルトの「私」から見て』というのをどのような意味で仰っているのか把握できません。
無理にデカルトと結びつけるのは混乱のもとだと思いますが?
> であるのに、デカルトの「私」など霊魂であるから初めから無いのだ、と完全否定されるのはとても違和感を覚えます。
デカルトの霊魂としての「私」は否定されますが、情報処理としての「私」は残ります。
「私」自体はなくなりません。「我思う故に我あり」の「我」がなくなることはありません。
>>695 主観的な世界にある霊的なものを、貴方は学問の域にある客観的な物質的に
無理やり置き換えている。
物質世界からみれば、霊や魂の類はすべて否定されるのは正しい。
オカルト通の俺が言うんだから間違いない。
霊的なものに主体などない、それは論として捉えるから主体が必要になる
違うのか?
我思うゆえそれが分らない、故に霊と喩える。
それは思考することを放棄し分らないものを霊的だと説明し定義しているだけ
にすぎない。
そもそも定義できない何かがあってはならないと考えているだろ?そうだろ?
霊の類は定義できない領域として生じた観念であり、それを学問や言葉や
論理の領域にもってきてイミフと言われるのは論の対象とすれば明白に正しい
としかいえない。つまり霊的なものが何かすら悟っていない。
論で説明しきれない何かを捉えることができるように成れとはいわないが、
それは存在するというのなら、その詳細まで説明するべきだろう。
それを放棄して良く分らないけど、多分といういい加減なその場の主観的仮定
で定義している君の考えは、矛盾している。
@客観的な意味では、霊は無い。これで正しい。
A主観的な関係では、霊は在る。これも正しい。
後者を受け入れられるようになってからだな、まだまだ若いよ。
@とAは同時に矛盾なく成立する。それは捉え方の違いにすぎない。
主観的な世界は、理でも論でもないんだよ。
>>694 > 635-さん
> つまり、「私の”この意識”」に対応する「貴方の”(その)意識」なのですが、私から見て
> 「その」と指し示すことは不可能なので、一般化したつもりで「この意識」と呼ばせてもらいました。
「この」の意味はわかりましたが、それでも尚、ご質問の意図を把握できません。
>
>>689の主旨は、人間は精密な機械として動いているので、いわゆる心象など必要ないのでは?
「人間は精密な機械として動いている」であろうとなかろうと、何らかの認識を行う以上は心の中に認識
内容が生成されます。その認識内容が心象であり、認識に伴って必然的に生じる事柄です。
この必然的に生じるものを「必要ないのでは?」と言っても無意味だと思います。
> 計算して適切に反応すればよいのであり、意識(アウェアネス)の存在理由は無いのでは?
「計算して適切に反応する」のが「アウェアネス」だと理解していますが、違うのでしょうか?
> あの・・哲学的ゾンビとかの話です。
「哲学的ゾンビ」というのは「心とは何か」が未解決である結果「他者にも心があるのか否かを客観的に
判定できない」ということから生じる問題です。
つまり、「他人にも心があるか否かを客観的に判定できない」ことから生じる問題が「哲学的ゾンビ」の
問題です。
筆者の存在論では「心とは何か」が解決済みであり、他者およびすべての動物に心があることを明らか
にしています。
ですので、筆者の存在論では「哲学的ゾンビ」の問題は生じません。
>>696 > 考える名無しさん
見解の相違という言葉しか思い浮かびません。
>>698 分らないものは語らない
はっきり言ったら?
>>699 > 635-さん
引用された、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(哲学的ゾンビ)の記事を読みました。
その記事の「機能的意識」という語が、筆者の「論理認識」という語に当たります。
その記事の「現象的意識」という語が、筆者の「情念認識」という語に当たります。
以下筆者の用語を用いて、上記記事の要約とそれに対する筆者の主張を述べます。
<要約始め>
本物の人間は「論理認識」と「情念認識」を持っている。
哲学的ゾンビは「論理認識」のみを持ち「情念認識」を持たない。
哲学的ゾンビは見掛け上、本物の人間と区別できない。(姿、動作、解剖的所見でも区別できない)
本物の人間と哲学的ゾンビの違いは「情念認識」の有無のみであり、見掛けでは区別できない。
「情念認識」は物理的事実からは出てこない。
哲学的ゾンビは唯物論(物理主義)で説明可能であるが、本物の人間は唯物論(物理主義)で説明できない。
本物の人間(少なくとも「私」)を含むこの世界は唯物論(物理主義)で説明できない。
従って、この世界を物理的事実のみから説明可能とする唯物論(物理主義)は間違っている。
<要約終わり>
上記記事の主張のポイントは下記命題部分にあります。
<命題1> 「情念認識」は物理的事実からは出てこない。
筆者の本スレッドで論証していること、本スレッドの核心は下記命題にあります。
<命題2> 「情念認識」は物理的事実のみから出てくる。
拠って、上記記事の結論は否定され、この世界は唯物論(物理主義)で説明可能であることが結論できます。
筆者の本スレッドの核心は、正に、「哲学的ゾンビ問題」を解決しているところにあります。
以上
>>701 >哲学的ゾンビは「論理認識」のみを持ち「情念認識」を持たない。
いえ、哲学的ゾンビは「意識を持たない」のです。(クオリアや感情はもちろんですが)
コンピュータは意識など必要ありません。情報を機械的に処理すればよいのです。
それでは、人間の「自己の発生を含めた意識体験」とは何か?という問題です。
>「情念認識」は物理的事実のみから出てくる。
出てくる情念認識を「認識しているのは何か」が抜け落ちてきます。
それがデカルトの「私」です。(それが霊魂であるのか物質系であるのかは今は問題ではありません。)
情念認識として対象化された、とするなら、それを認識する「私」が必要となります。
貴方は、それを無条件に前提としています。しかし「私」=情報処理だという。
であるなら、論理回路による「情報処理」なる運動により、全く何もない空間に
(”対象と私”という構図を含めた)意識なるものが立ち現れることを合理的に説明できなければなりません。
貴方はそこに、魔法をかけて唯物論を超越しています。唯物論として全く解決していません。
>>699 > 635-さん
> ですから、その心の中に形成された認識内容を、何が認識するのですか?
・入力情報(感覚器入力)−>情報処理(認識内容形成)−>出力情報(認識内容1)
・入力情報(認識内容1)−>情報処理(認識内容形成)−>出力情報(認識内容2)
・入力情報(認識内容2)−>情報処理(認識内容形成)−>出力情報(認識内容3)
・入力情報(認識内容3)−>情報処理(認識内容形成)−>出力情報(認識内容4)
・
・
・
このような動的な流れが「認識する」ということの内実であり、どこかに認識者とかいった特定のポイントが
あるわけではありません。
要約すると、下記の動的な流れが「認識する」ということの内実です。
・感覚器入力ー>認識内容1−>認識内容2−>認識内容3−>認識内容4−>.....
この流れを司っているのが情報処理であり、その流れに記憶システム(記憶、想起)が介在しています。
> その認識内容が心象であり、認識に伴って必然的に生じる事柄です。
そこに、物理的事実から説明できない何かがあると感じるので、それを随伴現象と呼んでいるのです。
随伴現象とは、情念認識を「物理的事実で説明できない何か」と捉えるところから生じます。
筆者の存在論では情念認識も全て物理的事実から説明できます。
ですので、随伴現象という語は不要です。
>>682 ぽん太郎さんのカント理解はほとんど間違いなので、カントの哲学を少し説明しておくね。
(たまたまカントのところを見ただけで他の書き込みは読んでいないしあまり興味ないので、
その他の間違いについては関知しませんw)
>つまり、カントの考えに拠れば、感性と悟性は物自体の世界の中にある対象を捉える力を持って
>いる、ということになります。
カントによれば、感性と悟性の協働によって成立するのは、「現象」についての認識です。
つまり、「物自体」は経験も認識できない。認識できるのは「現象」だけ。
>感性が空間や時間の属性を与えます。
カントによれば、時間と空間は、感性でも悟性でもない「直観形式」です。
>このリンゴのような経験的なものは、物自体を対象とし、感性と悟性を通して我々に与えられます。
物自体は経験の対象にはなりません。経験の対象になるのは物自体ではなく現象です。
物自体は、感性を「触発」するだけ。
というか、『純粋理性批判』では、はっきり言って物自体は不要なものです。
物自体は人間の認識の限界を示すだけのものです。
>それに対し、ドラえもんのような空想的なものは、感性、悟性を介さず直接理性によって与えられます。
ドラえもんも当然、感性的直観と悟性のカテゴリーを通して認識されます。
>>703 >・入力情報(感覚器入力)−>情報処理(認識内容形成)−>出力情報(認識内容1)
・・・・・・
>このような動的な流れが「認識する」ということの内実であり、どこかに認識者とかいった特定のポイントが
>あるわけではありません。
それなら統一された意識など必要ありません。各々、機械的に作動すれば問題ないのです。
それでも、「この意識」が現にあるのは間違いなく、それは物質に関する我々の知見を越えるしかありません。
いくら貴方が、「情報処理」=「心」と言おうとも、
外界に対象化できる論理回路の作動をどれだけ組み合わせようと、意識の現れを説明できません。
>物理的事実から説明できない何かがあると感じるので、それを随伴現象と呼んでいるのです。
現に意識がここに明確にあるのだから仕方ありません。存在するものは解明されなければいけません。
「それは情報処理さ」と無根拠に名称を統合して由とできるぽん太郎さんの論旨が全く理解できません。
そもそも情報処理など曖昧な話ですが、貴方の
>>668のNAND回路内のいかなる物理現象が心なのでしょう?
ダイオードとコンデンサ、電圧により機械的に切り替わるスイッチ、そして電流。これだけなら全くの合理的な機械です。
心などが介在する余地はありませんよね。
>>702 > 635-さん
> いえ、哲学的ゾンビは「意識を持たない」のです。(クオリアや感情はもちろんですが)
> コンピュータは意識など必要ありません。情報を機械的に処理すればよいのです。
「情報を機械的に処理する」=「意識」と考えます。
しかし、その点は差し当たりの論点ではないのでそれ以上は述べません。
> 出てくる情念認識を「認識しているのは何か」が抜け落ちてきます。
ご参照ください。(
>>703 )
> それがデカルトの「私」です。(それが霊魂であるのか物質系であるのかは今は問題ではありません。)
> 情念認識として対象化された、とするなら、それを認識する「私」が必要となります。
> 貴方は、それを無条件に前提としています。しかし「私」=情報処理だという。
情報処理システムで行われる情報処理の総体が「私」です。
「私」はどこかにある特定のポイントではありません。
> であるなら、論理回路による「情報処理」なる運動により、全く何もない空間に
> (”対象と私”という構図を含めた)意識なるものが立ち現れることを合理的に説明できなければなりません。
> 貴方はそこに、魔法をかけて唯物論を超越しています。唯物論として全く解決していません。
「私」が情報処理の総体であることを理解せず、ある特定のポイントであるように理解することから
生じる誤解です。
>704
私もそのような危惧を持っています。
ぽん太郎さんは、「物自体」と書いていますが、それは「物質」(正確には物質自体は感性/悟性の認識対象にはなりえませんから<物質の現象/表象>となります)のことです。
そして、物質も「心」も(即ち、ぽん太郎さんの定義1〜結論までに登場するすべての概念は)、思惟する主観(超越論的な我思う=Ich denke)を除去してしまえば、全物質界もろとも消滅せざるをえません。
それと、
>>677で書いた、
>>591の「定義2. and/or 前提2」と、
>>674の「(1) and/or (2)」との間の乖離を架橋させているものは、結局、何なのでしょうか?
>>706 >情報処理システムで行われる情報処理の総体が「私」です。
それは「ある情報処理の総体」 が 無条件に「私の意識」となる、ということを意味します。
ここに「貴方と同じ情報処理構造を持つ総体」が現れたら、それは「貴方の意識」ということです。
このようなことも”原理的には”可能な訳です。
>>704 > 考える名無しさん
> ぽん太郎さんのカント理解はほとんど間違いなので、カントの哲学を少し説明しておくね。
筆者は哲学素人であり、カント(の「純理」)をほとんど読み込めておりません。
ですので、仰る通りであるかもしれません。
間違いだらけであるかもしれませんが、以下、筆者のカント理解に従って述べてみます。
(以下は筆者の理解に基づくカントの主張です)
> カントによれば、感性と悟性の協働によって成立するのは、「現象」についての認識です。
> つまり、「物自体」は経験も認識できない。認識できるのは「現象」だけ。
「現象」は認識対象ではなく認識結果です。
「物自体」が感性と悟性の認識対象であり、その認識結果が「現象」です。
> カントによれば、時間と空間は、感性でも悟性でもない「直観形式」です。
「直観形式」は感性の特性(働き方)です。
感性は「直観形式」により対象を捉え、対象に時間と空間の属性を与えます。
あるいは、表現を変えれば、下記のようになります。
感性は「直観形式」により対象を時間と空間の中に捉えます。
> 物自体は経験の対象にはなりません。経験の対象になるのは物自体ではなく現象です。
経験の対象になるのは物自体であり、現象は認識結果に過ぎません。
> というか、『純粋理性批判』では、はっきり言って物自体は不要なものです。
「純理」は「物自体」無しには成立しません。
「物自体」無しには経験的なものと空想的なものを区別できません。
(この区別可能性をカントは重視していると思います)
> ドラえもんも当然、感性的直観と悟性のカテゴリーを通して認識されます。
ドラえもんは空想的なものであり、感性的と悟性を通しません。
710 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/09(土) 13:10:57 0
>>709 悟性/理性という認識プロトコルのアプリケーション層を失えば、感性という物理層が受け取れる対象はカオスになります。
711 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/09(土) 13:16:33 0
セッション層辺りに「統覚」というものをカントは置いていますが、それは悟性に制御されます。
>>709 >「現象」は認識対象ではなく認識結果です。
カントによれば、感性と悟性の協働によって、認識対象が生じます。
つまり、カントの哲学では、認識対象と認識結果の区別はありません。
認識によって対象が生じる。カントのこういう考え方を哲学では構成論といいます。
>感性は「直観形式」により対象を捉え、対象に時間と空間の属性を与えます。
これも、認識対象と認識結果を分けて考えているところが誤り。
>経験の対象になるのは物自体であり、現象は認識結果に過ぎません。
だからそれは違うってw
>「物自体」無しには経験的なものと空想的なものを区別できません。
>(この区別可能性をカントは重視していると思います)
カントが重視したのは、経験的なものと、形而上学的(あるいは宗教的)なものとの区別です。
形而上学的思考は、感性的直感が与えられないものについて悟性によって思惟することによって生じます。
カントはそういう形而上学的思惟が学問にはなり得ないということを『純粋理性批判』で示したんです。
形而上学的思惟の典型的なものが、「神」ですね。
それは信仰の対象にはなり得ても、認識の対象にはなりません。
>ドラえもんは空想的なものであり、感性的と悟性を通しません。
ドラえもんの絵は、時間空間という直観形式を通して与えられるので、経験的認識です。
「神」の場合でも、こういうのは経験的なものだねw
http://www.okoushop.com/i_ai/poster/p06.jpg
>>707 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> それと、
>>677で書いた、
>>591の「定義2. and/or 前提2」と、
>>674の「(1) and/or (2)」との間の乖離を架橋させているものは、結局、何なのでしょうか?
スミマセン。 #677 に対する返答漏れがあったようです。ここで改めて述べてみます。
[前提1]と[前提2]から命題「この世界は物質のみよりなる」(唯物論)が導き出されます。
その結果、この世界の現象は全て物理的現象のみであることになりますが、それにも拘らず、心の中の
現象は物理的現象のみでは説明できないと感じられる、という現実があります。
これは、心の中の現象が物理的現象のみであるにも拘らず、それが物理的現象のみであることを認識
できないことから生じている事態である、というのが筆者の主張しているところです。
その事態は、自己認識がその認識特性から、心の中の現象そのものを認識できないことから生じています。
「自己認識がその認識特性から、心の中の現象そのものを認識できない」というのが「情念認識の壁」であり
存在の真実を知るためには、その壁を突破し、心の中の現象も物理的現象のみであることを理解する必要
があります。
>>708 > 635-さん
> ここに「貴方と同じ情報処理構造を持つ総体」が現れたら、それは「貴方の意識」ということです。
『「貴方と同じ情報処理構造を持つ総体」が現れたら』それは、私と同じ意識を持つ別の意識が現れたと
いうことになるだけに過ぎません。
2人とも自分は「ぽん太郎」であると主張するでしょうが、それでも(同一意識を持つ)別人であることに
変わりはありません。そこに何の不思議も問題もありません。
(まあ、2人にとっては不思議な体験になることは間違いありませんが)
715 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/09(土) 14:14:17 0
>>713 <「自己認識がその認識特性から、心の中の現象そのものを認識できない」というのが「情念認識の壁」であり存在の真実を知るためには、
その壁を突破し、心の中の現象も物理的現象のみであることを理解する必要があります。>
これは、
>>523でも記しましたが、「心の中の現象を語る述語は、心自体に述語づけができない述語である」という、「自己言及に対するラッセルのパラドクスを逃れるためのタイプ理論」のレベルでは、
トートロジーに陥るしかないからです。
716 :
闇:2009/05/09(土) 14:18:25 O
いや
>>712 > 考える名無しさん
多分仰る通りであろうと思います。
筆者の理解は誤りだらけに違いないとは思います。
それ以上、理解を深めようという意欲もないので、カントについてはここまでにしておきたいと思います。
勿論、その他の観念論、観念論哲学者についても同様です。
718 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 14:24:35 0
もう腰が疲れたよ
>>715 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
#523も含め、仰る内容を把握できませんでした。
お求めの答えとは違うかもしれませんが、感じたことを書いてみます。
心の中の現象も物理的現象であり、心自体も含めすべて客観的に記述可能(把握可能)です。
ですので、その点に関して、トートロジーに陥ることはありません。
720 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/09(土) 14:45:27 0
>719
では、あなたの言うところの「情念認識の壁」を突破することなしに、どのようにして、「心の中の現象も物理的現象のみである」ことに到達できる/できた、のですか?
721 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/09(土) 14:47:54 0
>>719 <心の中の現象も物理的現象であり、心自体も含めすべて客観的に記述可能(把握可能)です。>
今まで、あなたが述べた「論」の中の、どこに、それを見出したらいいのでしょうか?
>>705 > 635-さん
> それなら統一された意識など必要ありません。各々、機械的に作動すれば問題ないのです。
統一は、情報処理システムの各部がお互いに関連しあって、協働して働くことによってもたらされます。
情報処理システムで行われる情報処理そのものが意識であり心です。
そうした純機械的動作そのものが意識であり心です。
そうした純機械的処理と別に意識や心があるわけではありません。
「機械的に作動すること」そのものが意識であり心です。
> それでも、「この意識」が現にあるのは間違いなく、それは物質に関する我々の知見を越えるしかありません。
情報処理システムで行われる情報処理そのものが意識であり心です。
「物質に関する我々の知見を越える」ものは何もありません。
そうした純機械的処理と別に意識や心があるわけではありません。
> いくら貴方が、「情報処理」=「心」と言おうとも、
> 外界に対象化できる論理回路の作動をどれだけ組み合わせようと、意識の現れを説明できません。
同上
> 現に意識がここに明確にあるのだから仕方ありません。存在するものは解明されなければいけません。
> 「それは情報処理さ」と無根拠に名称を統合して由とできるぽん太郎さんの論旨が全く理解できません。
現に意識があることを否定したことはありません。それは純機械的処理以外ではないと言うだけです。
> そもそも情報処理など曖昧な話ですが、貴方の
>>668のNAND回路内のいかなる物理現象が心なのでしょう?
NAND回路の信号変換処理が情報処理であり心です。曖昧なものは何一つありません。
> ダイオードとコンデンサ、電圧により機械的に切り替わるスイッチ、そして電流。これだけなら全くの合理的な機械です。
> 心などが介在する余地はありませんよね。
ですから、その合理的な機械の働きそのものが心であると述べているのです。それと別に心があるわけではありません。
>>720 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
では、あなたの言うところの「情念認識の壁」を突破することなしに、どのようにして、「心の中の現象も物理的現象のみである」ことに到達できる/できた、のですか?
「心の中の現象も物理的現象のみである」という命題は「この世界は物質のみよりなる」(唯物論)という
命題から直接導かれます。
ですので、何故、我々は心の中の現象を「物理的なもののみでは説明できない何か」と感じるのかその
理由を求め明らかにすることにより、「情念認識の壁」を突破することができます。
>>721 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
「この世界は物質のみよりなる」(唯物論)という命題から直接導かれます。
>>714>ぽん太郎さん
つまり、どちらか一方は貴方ではない、ということですね。
ならば「情報処理の総体」≠「私」ですよ。
またもや貴方はデカルトの「私」を前提とされている。
いや、屁理屈を言うつもりはないのです。
「ある情報処理系での情報処理の総体」を貴方に結びつけているのは何でしょうね。
>>722 なるほど、一種の汎神論ですね。
それなら文句は言いません。
これまでお付き合いありがとう。とりあえずさようならです。
726 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/09(土) 16:17:48 0
>>723 >724
「物質という実体」と「物質である心」とが、両者ともに物質であるからこそ、「相互作用」が機能する、という媒介可能性が成り立ち、「汎物質論」は成立する、とあなたは述べられていたと思っていたのですが、違うのでしょうか?
そうでなければ、あなたの「この世界は物質のみよりなる」(唯物論)、というテーゼは、論理操作を欠くドグマとなり、トートロジー(aとbは意味ゼロしか共有しない)、即ち、無意味(sinnlos)となります。
>>725 > 635-さん
> つまり、どちらか一方は貴方ではない、ということですね。
そうです。
> ならば「情報処理の総体」≠「私」ですよ。
ぽん太郎1の(脳で行われる)情報処理の総体がぽん太郎1としての「私」であり、
ぽん太郎2の(脳で行われる)情報処理の総体がぽん太郎2としての「私」です。
> またもや貴方はデカルトの「私」を前提とされている。
仰る意味が掴めません。
> なるほど、一種の汎神論ですね。
神は何も出てこないので、汎神論ではありません。
>>726 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
> 「物質という実体」と「物質である心」とが、両者ともに物質であるからこそ、「相互作用」が機能する、
> という媒介可能性が成り立ち、「汎物質論」は成立する、とあなたは述べられていたと思っていたの
> ですが、違うのでしょうか?
心は物質ではなくある働きです。
心は物質系(情報処理システム)より生まれるある働き(情報処理)です。
相互作用は物質と物質の間で行われます。
筆者は「汎物質論」という語を使っていません。
この語は筆者の主張にはそぐわないものを感じます。
> そうでなければ、あなたの「この世界は物質のみよりなる」(唯物論)、というテーゼは、論理操作を
> 欠くドグマとなり、トートロジー(aとbは意味ゼロしか共有しない)、即ち、無意味(sinnlos)となります。
ここは仰る意味を把握できませんでした。
「この世界は物質のみよりなる」
これを繰り返しているだけで、前に進んでいないのでは。
730 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 17:06:12 0
↑それは・・・言っちゃいかん
731 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 21:57:45 0
世界は分析的概念。世界の中に占める位置や割合を意味する。
世界に存在するとは、分析した結果、一つのものがあるという意味がある。
732 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 22:05:06 O
物質も一つの材料でしかない。
機会があったら、違うもので自己を構成してみるといい。
733 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 22:08:16 0
「世界とは何か、生命とは何か、人間とは何か」
で
これまでの結論を1行で示して下さい^^
世界<生命<人間
736 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 22:11:11 0
そうゆうことか・・・・
わかりました^^
>>733 >>729に書かれているよ。
「この世界は物質のみよりなる」ということを
信仰しなさいということだろう。
>>712 > 考える名無しさん
> カントによれば、感性と悟性の協働によって、認識対象が生じます。
> つまり、カントの哲学では、認識対象と認識結果の区別はありません。
> 認識によって対象が生じる。カントのこういう考え方を哲学では構成論といいます。
何もないところから、忽然と認識対象が生まれる、ということですか。
ファンタジックですね。
カントはファンタジックだとは思っていたのですが、ここまでファンタジックだとは
思っていませんでした。
少しはファンタジックでない面もあると思い評価していたのですが、だいぶ評価
を下げました。
こういうファンタジックなところが哲学専門家に受けるのでしょうね。
739 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 22:39:49 0
この我々の住んでいる物質世界(物質宇宙)は、六つの“光”エネルギー
で構成されています。
ということは光エネルギーがどうしたと・・・・?^^
740 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 03:06:08 0
ぽん太は、
>筆者の存在論では情念認識も全て物理的事実から説明できます。
このように言っている。
つまり
全ては俺が定義する、おれ正義論に何も反抗できるものはない。
このようなイカレタ考え方をしている限り何も俺が基準であり
説明は全て俺が気に入るか気に入らないかという非科学的な
非論理にすぎない。
「全て物理的事実から説明できる」
のではなく、一部が事実から説明できることがある。であって
全てを説明したい、できないと俺が困る
彼はそういっているにすぎない。アホもここまでくると病気だ
<<611-622によって命題とした筆者の唯物論もほぼ崩壊しているわけですが
742 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 07:22:37 0
[補足事項] 情念認識と存在の真実
人類誕生以来、情念認識は我々の目から存在の真実を覆い隠してきました。
現在も覆い隠し続けていますし、これからも覆い隠し続けるでしょう。
この壁を突破することは容易ではありません。
この壁の突破が容易でないのは、そこに壁があることさえ気づくことのできない仕組みに
なっているからです。
情念認識は我々の目を欺き、存在の真実に気づくことを阻んできました。
存在の真実を知るためには、情念認識の壁を突破する必要があります。
情念認識の壁を突破するには情念認識の正体を知らなければなりません。
情念認識の正体を知れば、その壁を突破し、存在の真実を知ることができます。
情念認識の正体は本スレッドで明らかにした通りです。
その正体は単純明快であり難解な点は何もありません。
ですので、理解するのは全く簡単です。
しかし、理解が簡単なのは文面上のみで、真にその意味を理解するのは困難でもあります。
理解が、簡単でありながら困難である、この二重性が情念認識の特質です。
理解が困難であるのは情念認識の創りだす心理的な壁の力に依ります。
本スレッドをお読みの皆さんは情念認識の正体をご理解いただけたものと思います。
しかし、その理解は文面上にとどまり、真に理解されている方は、恐らく、未だいらっしゃらない
かもしれません。
以上
・なんか宗教じみてきたな(笑
744 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 07:43:45 0
[補足事項] 筆者存在論への批判
<命題> この世界は物質のみよりなる。(唯物論)
筆者の主張のほとんどは、上記命題を前提として導き出しています。
ですので、筆者の存在論に批判的である方々は、上記命題に批判を向けることが
多いように思います。
しかし、上記命題は[前提1]と[前提2]から必然的に導き出されている命題です。
上記命題を直接批判するのは無意味です。
上記命題を批判するのであれば、その批判は、[前提1]と[前提2]と上記命題の導出
手順、に向けられて初めて意味があります。
以上
745 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 07:56:19 0
>>744 > 文章訂正
(訂正前)
上記命題を批判するのであれば、その批判は、[前提1]と[前提2]と上記命題の導出
手順、に向けられて初めて意味があります。
(訂正後)
上記命題を批判するのであれば、その批判は、[前提1]と[前提2]と上記命題の導出
手順、に向けられなければなりません。そうして初めて意味があります。
746 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 08:11:00 0
>>702 > 635-さん
> いえ、哲学的ゾンビは「意識を持たない」のです。(クオリアや感情はもちろんですが)
少なくとも、引用された『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(哲学的ゾンビ)の記事』
に拠れば、哲学的ゾンビは「機能的意識」(論理認識)を持っていることになっています。
747 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 08:42:20 0
[補足事項] 哲学的ゾンビとロボット
(ロボット: ソニーのアイボをイメージしています)
哲学的ゾンビは論理認識のみを持ち、情念認識を持ちません。
ロボットも論理認識のみを持ち、情念認識を持たないものと、一般に考えられています。
その意味で、哲学的ゾンビとロボットを同一概念として扱うことができます。
以上
748 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 09:00:07 O
念力はどういう位置付けだろうね。
心が物質に直接作用しているように見受けられるが
749 :
し:2009/05/10(日) 09:10:53 O
深い意味があんだよ。今になってやっとわかったうなぎ犬とか石川県七尾市だっけ?
>>748 相互作用の定義がされていないから、理論崩壊だな。
751 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 09:58:42 O
>>748 心が物に揺り動かされて、ホロリと涙が出ることがあるね。
でもそれは念力じゃない。感動なんだよ。
752 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 12:30:15 0
[補足事項] 認識の分類とウィキペディア
以下『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(哲学的ゾンビ)の記事』を参照します。
以下『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(哲学的ゾンビ)の記事』を<記事>と略記します。
筆者は認識を認識対象の違いから対象認識と自己認識に分類しています。
この分類は、心理学等で標準的に行われている分類であり、何ら筆者のオリジナリティはあり
ません。
また筆者は認識を認識特性の違いから論理認識と情念認識に分類しています。
論理認識は上記<記事>の「機能的意識」に当たります。
情念認識は上記<記事>の「現象的意識」に当たります。
用語は異なっても、この概念/分類自体は哲学界で広く普及している概念/分類であり、何ら
筆者のオリジナリティはありません。
このように筆者の行っている認識の分類は、広く普及している分類であり、筆者オリジナルの
分類では全くありません。
以上
マッチポンプ
>>738 >何もないところから、忽然と認識対象が生まれる、ということですか。
>ファンタジックですね。
違います。何もないところからではありませんよ。
感性と悟性の協働によって認識は成立するから、感性的直観と悟性の働きがあります。
ぽん太郎さんが、感性的直観と悟性の働きによって認識が成立する「前に」
対象(物質)が在ると考えているとすれば、実は、その考え方のほうがずっとファンタジックなんです。
>>682のリンゴの例で言えば、初めにあるのは何らかの感性的直観(感覚、知覚)です。
そのカオス的な感覚が、悟性の働きによって分類整理されていきます(赤いとか丸いとかすっぱいとか)。
それによって、これはリンゴであると認識され、リンゴとして本質規定され、リンゴという認識対象が成立します。
それとは違って、ぽん太郎さんのファンタジックな考えによれば、初めにあるのは直観ではなくて、「対象」(物質)なんでしょう。
では、リンゴの場合、認識が成立する前に対象が在るとすれば、その対象Xは「何」なのですか?
「リンゴ」ではありませんね。「リンゴ」として本質規定し得るのは、リンゴとして認識された「後」だから。
「物質」でもないでしょうね。「物質」という概念は、感性的直観と悟性の働きが積み重ねられて、
歴史的に形成された概念だから、そのようにして「後」にできたものが「前に」在るとするのはへんな話です。
つまり、仮に認識が成立する前に対象が在るとしても、その対象Xは、「語り得ぬもの」なのです。
対象Xは「何」なのか?という問いに対しては、「○○」であるとは答えられない。
「○○」に何を入れるとしても、その前に必ず、「○○」として認識し、本質規定する働きがあります。
だからカントは、唯物論は形而上学であるとしました。
それは、唯物論が語り得ぬものについて語ってしまっているからですよ。
ぽん太郎さんは「物質は実在である」を前提としているみたいですが、
それはカントに言わせれば、「前提」なんていうものではなくて、
とてもファンタジックな、形而上学的「信仰」なのですw
756 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 15:38:13 0
>>755 > 考える名無しさん(レス#1)
> 違います。何もないところからではありませんよ。
> 感性と悟性の協働によって認識は成立するから、感性的直観と悟性の働きがあります。
「感性的直観と悟性の働き」によって、何ら対象のないところから、忽然と対象が現れるわけですね。
> ぽん太郎さんが、感性的直観と悟性の働きによって認識が成立する「前に」
> 対象(物質)が在ると考えているとすれば、実は、その考え方のほうがずっとファンタジックなんです。
カントサイドからそのような評価になるのは、当然ではあるでしょうね。
>
>>682のリンゴの例で言えば、初めにあるのは何らかの感性的直観(感覚、知覚)です。
何らリンゴの対象が無いにも拘らず、感性的直観の下に対象としてのリンゴが立ち現れるわけですね。
最初に感性的直観ありきで、対象としてのリンゴはその後であるわけですね。
とてもファンタジックです。
もっとファンタジックであるのは、それをファンタジックと思わない人がいる、ということです。
.....レス#2へつづく
757 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 15:44:02 0
>>755 > 考える名無しさん(レス#2)
> では、リンゴの場合、認識が成立する前に対象が在るとすれば、その対象Xは「何」なのですか?
実在としてのリンゴがそこにあり、認識によって現象としてのリンゴが捉えられます。
現象は実在ではありませんが、実在論の立場では、同一視して考えます。
この同一視は、自然科学では無自覚に行われ、実在論(哲学)では自覚的に行われます。
勿論、個人差により、種差により、現象(リンゴのイメージ)は異なってきますが、自然科学的方法で
対象を捉えれば、個人差、種差を超えて共通のイメージが得られます。
* (注) 種差: 例えば、人間とトンボでは対象の見え方が大きく異なるに違いありません。
この共通のイメージに対応する対象が「客観的に存在している」(=実在)ものと考えます。
それが客観的実在論の立場であり、最も自然な世界の捉え方であるものと考えます。
そして、その自然な世界の捉え方で世界のすべてを説明可能である、それが、客観的実在論を支持
する理由です。
わざわざ、観念論のような不自然な世界の捉え方をしなければならない、理由は存在しません。
客観的実在論の最も優れた点は、自然科学との完全な整合性にあります。
自然科学との完全な整合をを持ち、世界のすべてを説明可能である、これ以上のものはないと思います。
> ぽん太郎さんは「物質は実在である」を前提としているみたいですが、
> それはカントに言わせれば、「前提」なんていうものではなくて、
> とてもファンタジックな、形而上学的「信仰」なのですw
カントサイドからそのような評価を受けるのは当然であり、それは立場の違いでしかありません。
物理を知らない唯物論者は哲学には邪魔
参考にもならんし
759 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 16:12:52 0
>>757 > 追加レスです。
>>755 > 考える名無しさん(レス#2)
客観的実在論のうち、自然科学と完全な整合性を持つのは唯物論のみです。
二元論は自然科学と整合的ではありません。
760 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 16:44:17 0
[補足事項] 唯物論と観念論の重要な相違点
「私」は観念論の出発点であり、それ以上遡ることのできない地点です。
唯物論での「私」は客観的な存在であり、客観的に考察可能な対象です。
「私」は出発点ではなく、遡ることの可能な派生的存在です。
・ 物質−>情報処理システム(物質系)−>情報処理(物質系の働き)−>私(心)
一次的存在物は物質であり、「私」は二次的存在物(派生的存在物)です。
「私」は物質系から生まれる働きとしての存在です。
情報処理システム(物質系)こそが「私」の母体です。
観念論では「私」を生み出している母体について、関知できません。
それが観念論の持つ本質的な限界です。
以上
761 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 17:22:37 0
[補足事項] 存在論と唯物論
存在論に於いて、これまで唯物論は連敗続きでした。
いつも存在論の末尾についていました。
それは「精神現象を物理現象に還元」する方法を発見できなかったからです。
唯物論は「精神現象を物理現象に還元」する方法を発見できなければ、その真価を発揮
することはできません。
筆者の唯物論では還元方法を明らかにしています。
これで唯物論の逆転勝利は間違いないものと思っています。
以上
762 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 17:30:42 0
唯物論者が物を認識する場合に、物はどのようにして、意識の以前に
存在すると言えるのでしょうか?
また、そうした物を認識する「我」はどのようにしてその物を
客観的に知り得たと言えるのでしょうか?僕にはどうしてもわかりません。
教えて下さい。
>>761 お前さんみたいなのがいるから唯物論が馬鹿にされるんだよ。
764 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 18:16:19 0
まあ、世界も物質も観念だからね。
765 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 19:54:20 0
>>762 > 考える名無しさん
> 唯物論者が物を認識する場合に、物はどのようにして、意識の以前に
> 存在すると言えるのでしょうか?
唯物論では、物が「意識の以前に存在する」という前提で物事を考えます。
「物は意識の以前に存在する」と考えることも、そうでないと考えることも可能です。
どちらが正しく、どちらが間違いであるのか、ということは決定できません。
どちらを選ぶことも可能です。どちらを選ぶかは立場しだいです。
大事なことは、その選択の下で整合的にこの世界を説明することです。
どれだけ整合的に、この世界を説明できているのか否かで、その論の評価が決まってきます。
> また、そうした物を認識する「我」はどのようにしてその物を
> 客観的に知り得たと言えるのでしょうか?僕にはどうしてもわかりません。
> 教えて下さい。
唯物論の場合、対象のデータを五感が捉え、それを脳内で情報処理することで認識内容が形成
され、それが認識されます。
認識内容が形成された後、「認識される」=「知覚される」=「知り得る」とは、いかなる事態であるのか、
ということが問題になります。
それについては認知心理学等の分野の問題であり、存在論で扱う問題ではないものと考えます。
唯物論以外の場合は違った解答になるかと思います。(筆者には答えられませんが)
766 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 19:58:51 0
>>733 世界とは、混沌。
生命とは、混乱。
人間とは、混濁。
767 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 20:48:44 0
>>760 [補足事項] 唯物論と観念論の重要な相違点(その2)
地球誕生当時、この地球上に、生命は存在しませんでした。
物理化学的反応によって化学進化が行われ、無生物から生物が誕生しました。
その後、生物進化が行われ、様々な種の生物が誕生しました。
今、この地球上には様々な種の生物が満ち満ちています。
この進化の過程で心も生まれ、心を持つ生物も生まれました。
この心を持つ生物の頂点に人類がいます。
この地球上に最初から心が存在したわけではありません。
進化の過程を得て心が誕生したのです。
こうした状況を必要十分に説明できるのは実在論のみであると思います。
こうした状況を必要十分に整合的に説明できるのは唯物論のみであると思います。
観念論では、心が誕生する以前のことを語れません。
観念論では、最初から心が存在することを前提に語るしかありません。
これも観念論の持つ本質的な限界です。
以上
768 :
ぽん太郎:2009/05/10(日) 21:01:14 0
>>767 > 誤字訂正
(訂正前) 進化の過程を得て心が誕生したのです。
(訂正後) 進化の過程を経て心が誕生したのです。
唯物論は観念論と対立する必要はないのでは?
俺も独我論は認めませんけど。
科学・物理学が圧倒的に優勢な現状で唯物論を信仰するのは十分の価値がある。
でも「物」のイメージを限定したのではしんどいかも、
存在の現れ方を柔軟に考えた方が世界を理解しやすいかも、と最近は思います。
あらゆる存在は相関・相対性としてしか普遍性を示さないのですが、
全てが相関であり世界には実体などない、と到達した時に、
「それでは何も無い??」と矛盾を孕み、
反転して実体が要請される、という事態が生じるなーと思う今日この頃。
770 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 23:20:14 0
>>769 科学と唯物論を混同してはいけません。クリスチャンの科学者は普通にいますよ。
>>770 ぶっ
キリスト教まで介入してくると面倒くさいな〜
神は唯物を認めんのかえ?
772 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 00:37:43 0
唯物論的世界が全てなら俺らは道端に落ちてる石と同じ存在だよ。
石が石になんでお前は石なんだ?と問うのと似ているな〜
「哲学がくだらないものだ」ということを見事に証明したな。
774 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 02:42:17 O
出来損ないの神が造った世界なんだから、物質も出来損ないなんだよ。
いい加減目覚めろよ。
物質に焦点を当てても、「存在=物質」を言い表すには、物質が普遍性を備えていなければならない。
しかし物質には普遍性がない。永遠に形態を保持できないのである。
物質だけに真理を求めるのは根本的に間違いである。
775 :
ぽん太郎:2009/05/11(月) 06:33:58 0
>>774 > 考える名無しさん
> 物質が普遍性を備えていなければならない。
この断定がそもそもの誤りです。
776 :
ぽん太郎:2009/05/11(月) 07:27:43 0
[補足事項] 実在論と唯物論
実在論(客観的実在論)では「物質は実在である」ということを前提にして物事を考えます。
二元論では、さらに「霊魂は実在である」という前提を置きます。
唯物論では、物理法則との整合性の観点から霊魂の実在性を否定します。
どちらにしろ、実在論では物質の実在性が前提になります。
では何故、物質の実在性を前提に考えるのか、その理由は自明であると思います。
それは我々の日常的、自然科学的直観にマッチするからです。
勿論、我々の日常的、自然科学的直観は哲学的には素朴な直観に過ぎませんから、否定
することも可能です。
しかし、日常的、自然科学的直観を否定するのであれば、それを否定するに足る十分な根拠
が必要です。残念ながら観念論にそのような十分な根拠は見いだせません。
唯物論ではこの世界のすべてを説明可能です。
自然科学との完全な整合性をもってこの世界を説明できます。
唯物論では進化(化学進化、生物進化)の事実をリアリティを持って描画できます。
唯物論では心が進化の過程で生まれたことを明確に説明できます。
唯物論では心が物質構造(情報処理システム)から生まれることを明確に説明できます。
観念論はそれを否定するに足る十分な根拠を持っているとは到底思われません。
例えば、観念論では進化の事実を説明できないか、譬え、説明できたとしてもリアリティに欠け
るかリアリティの希薄な説明しかできません。
この世界をありありとリアリティを持って説明できるのは唯物論のみであると確信しています。
以上
777 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 08:36:08 0
765のレスについて。
「どちらを選ぶかは立場しだいです。
大事なことは、その選択の下で整合的にこの世界を説明することです。」
立場しだいと言う事は、自説はないのですか?
どちらとも言えると言う事ですか。
それと、整合性についてですが、整合性は時代毎にその体系を異にする
のであって、時空を超えた絶対的な整合性はないのではないでしょうか?
だから、整合性の意味を先に定義づける必要がある気がしませんか?
「唯物論の場合、対象のデータを五感が捉え、それを脳内で情報処理することで認識内容が形成
され、それが認識されます。」
脳内によってどのように情報処理されるのでしょうか?
つまり、アプリオリに(先験的に)処理する基準がないと処理は
出来ないのではないでしょうか?
他の方が言っていたように、カントの感性の時間空間認識システム
やそれを受けて悟性の範疇システムのように、あらかじめ処理をする
基準が必要だと思うんですが、その様な基準が脳内にあるとすれは、
それはどのようなものなのでしょうか?
以上が質問点です。
>>755 君の言うとおりだと思う。あちらの機械スレで、君ほどには厳密ではないが、
同じ主旨を述べた。
ところで、その語りえぬXだが…。カントを読み込んだわけではないが、彼の
言説からは「Xにはそれ自体として“一定のありよう”がある」かのトーンが
感じられる…。「ヒトにはそれが認識できないだけ」というわけだ。
もしそうなら、カントの不可知論はヒトの認識能力の不完全さゆえの、いわば
技術的な“未知論”ということになる。つまり“確たる客観世界”は未知の闇に
保全されることになる。
このあたりは語れば落ちるのだが、もしよければ君のXにまつわる想像wを
聞かせてくれないだろうか。
779 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 14:26:22 0
このスレって意外と動きあるのね
スレ主は哲板で有名なの?
780 :
ぽん太郎:2009/05/11(月) 17:45:31 0
>>777 > 考える名無しさん
> 立場しだいと言う事は、自説はないのですか?
立場も自説も明示していますが?
> どちらとも言えると言う事ですか。
筆者とは異なる立場を取る人も当然いますが?
> だから、整合性の意味を先に定義づける必要がある気がしませんか?
現時点での整合性を持てば十分です。未来の整合性まで悩む必要はありません。
あまり難しく考える必要はありません。
時代を経るごとに洗練されていけば、それで十分です。
> 脳内によってどのように情報処理されるのでしょうか?
> つまり、アプリオリに(先験的に)処理する基準がないと処理は
> 出来ないのではないでしょうか?
> 他の方が言っていたように、カントの感性の時間空間認識システム
> やそれを受けて悟性の範疇システムのように、あらかじめ処理をする
> 基準が必要だと思うんですが、その様な基準が脳内にあるとすれは、
> それはどのようなものなのでしょうか?
答えは簡単です。難しく考える必要はありません。カントは忘れましょう。
我々の遺伝子の中には認識を可能にする脳(神経網)の設計図が備わっているのです。
オギャーと生まれた時には既に認識を可能にする仕組みが脳内に備わっています。
認識を可能にする仕組みは純機械的仕組み(情報処理システム)として我々に備わって
います。ごくごく単純な話です。
この至って単純な話をカントは難しくしすぎます。ファンタジーにしかなりません。
781 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/05/11(月) 17:58:03 0
>>780 <認識を可能にする仕組みは純機械的仕組み(情報処理システム)として我々に備わって
います。ごくごく単純な話です。
この至って単純な話をカントは難しくしすぎます。ファンタジーにしかなりません。>
そのように、「なんの根拠も無ちえない一般常識/なんの根拠も無ちえない客観性」に依存してしまえば、それは「哲学」からの逸脱(無思考への逃避)です。
782 :
ぽん太郎:2009/05/11(月) 18:19:27 0
>>781 > wisteria-1 ◆3MvUSsmnEUさん
我々人間は遺伝子を基に構成されます。
遺伝子が構成するのは純物質的構造物です。
人間も脳も純物質的構成物です。
その純物質的構成物である脳は、赤ちゃんとして生まれた時から既に認識を可能にする
仕組みが備わっています。
脳の「認識を可能にする仕組み」は、その設計図が遺伝子の中に組み込まれています。
その仕組みは純物質的な仕組みです。
遺伝子が構成するのは純物質的構造物です。
783 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:45:13 0
>>782 狼少女の話は知らないのか?
結局、遺伝子だけでは、人間には成れないんだが。
784 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 19:05:15 0
まぁ赤ん坊を、ほったらかして、食事だけあたえても
人間にはならない。例えば日本語はまず話せない。
我々のような、認識もないだろうな。
狼少女も十代後半まで生きたが、結局数十単語しか話せなかった。
785 :
ぽん太郎:2009/05/11(月) 20:16:17 0
>>783 > 考える名無しさん
遺伝子だけで人間に成れる、という話をしているわけではありません。
遺伝子によって本能の仕組みが作られます。
その本能の仕組みには既に認識を可能にする仕組みが備わっています。
誕生後、経験を積むことによって人間に成ります。
つまり、人間は本能+経験によって人間に成ります。
(注)「人間に成る」という語は下記のような意味で使用しました。
・人間に成る : 年齢に応じた社会常識を備えた人間に成長する。
>>785 >遺伝子によって本能の仕組みが作られます。
作られるんじゃねーつのw
環境と共に自然に生じるのであり、誰も作っていない。
何もない環境からは作れない。作った事実もない。
人が作ったものは自然物ではなく人工物で自然なものからすれば
滑稽なだけの複雑性や多様性がない模造品。
人は成るのであっても作られるものではない、
どこにも正しい教育や正しい育て方など存在しない。
もし正しさがあるなら、君の脳内の思い込みだけ。
787 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 01:05:24 0
>>786 > 考える名無しさん
見解の相違のようですね。
> 環境と共に自然に生じるのであり、誰も作っていない。
自然に生じるとは、またファンタジックですね。
> どこにも正しい教育や正しい育て方など存在しない。
> もし正しさがあるなら、君の脳内の思い込みだけ。
正しいとか、正しくない、というのは当為論的問題であり、
そのような話はしておりませんが?
>>778 >このあたりは語れば落ちるのだが、もしよければ君のXにまつわる想像wを
>聞かせてくれないだろうか。
Xについて・・・
テーマが大きすぎて書きにくいな。
そういう大きなテーマに対しては、大きく答えておきます。
色即是空、空即是色。
素人さんのお知り合いの方?w
ぽん太郎は自分で自分の壁を作ってなんになるの?
>>591 >
> [前提1] 実在の定義
> <定義1> 物質は実在である。
> <定義2> 物質と相互作用するものは実在である。
> この<定義1>と<定義2>を満たすもののみが実在である。
>
> [前提2] 物質の運動は物理法則と整合的でなければならない。
物質とは? 相互作用とは? 運動とは? 中学生か?
792 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 08:31:59 0
[補足事項] 人間の生きる目的
この世界は物理法則に基づく必然によって動いています。
人間も物理法則に基づく必然によって動いています。
人間も時計じかけと同様自動機械に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもありません。
人間は反応機械であり、環境に対する反応の総体が人間の心を構成しています。
しかしながら、人間はこの世界の中で目的を持って自立的に行動しています。
この必然の支配する世界の中に於いて、人間の生きる目的、人間の自立的行動はどこから
出てくるのか?
我々の、目的を持って生きているという想い、この世界の中で自由に自立的に行動していると
いう想い、は何処から出てきているのか?
それは、生物が生存機械である、ことから出てきています。
人間も生存機械であり、そこから生きる目的が生まれます。
生物の全ての生命活動のルーツは「生存する」という一点にあります。
人間の全ての行動目的のルーツは「生存する」という一点にあります。
「生存する」をルーツとして様々な行動目的が生まれます。
そうした様々な行動目的の総体が、人間の生きる目的を構成しています。
実は、生物は生存機械であり繁殖機械です。(上記では生存機械のみに絞りました)
人間も生存機械であり繁殖機械です。
生物の全ての生命活動のルーツは「生存する」「繁殖する」という二点にあります。
人間の全ての行動目的のルーツは「生存する」「繁殖する」という二点にあります。
「生存する」「繁殖する」をルーツとして様々な行動目的が生まれます。
そうした様々な行動目的の総体が、人間の生きる目的を構成しています。
繁殖能力を持たない生物は存在しますが、生存能力を持たない生物は存在しません。
その意味で生物の本質は「生存機械」であるところにあり、「繁殖機械」であることは二次的、
副次的な特質であると言えます。
以上
793 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 08:58:38 0
[補足事項] 有情の生き物と非情の生き物
「有情の生き物」とは、心をもった生き物のことです。
「非情の生き物」とは、心を持たない生き物のことです。
動物は「有情の生き物」であり、植物は「非情の生き物」です。
生物は生存機械であり、「代謝能力」に拠ってそれが実現されています。
動物の場合は、それに加えて、「運動能力」と「情報処理能力」を持ち生存活動を支えています。
この「情報処理能力」こそが心の母体です。
「運動能力」と「情報処理能力」を持ち、それらが生存活動を支えているのであれば、譬え、動物
でなくとも、生物でなくとも、「心をもった生命体」と言うことができます。
例示した、熱センサーおもちゃやゾウリムシは「心をもった生命体」であると言えます。
以上
>>788 彼はどこへ消えたのでしょうか。w 時おり、名無しで登場しているようにも…
まさか成仏は…w
結局、そのように述べるしかないということか。空、無常…
これは語りえぬものを仄めかす最小限の表現ではあるが、しかし、この立場は
対象を擬似的に実体化するそれに、この現世では勝てないwということだろう。
795 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 09:32:43 0
>>752 [補足事項] 認識の分類とオリジナリティ
対象認識と自己認識の分類、論理認識と情念認識の分類。
これらの分類は広く普及している分類であり、筆者オリジナルの分類ではないことを述べました。
それに対し、それら四者の関係は一般に明らかにされていません。
(筆者の知る限りそうです)
筆者はそれら四者の関係を明示しています。
対象認識の認識特性は論理認識であり、自己認識の認識特性は情念認識です。
この部分は筆者オリジナルの部分であると思っています。
以上
>>793 心を持つ生き物のことを、「運動能力」と「情報処理能力」を持ち、
それらが生存活動を支えているものと考えられているようですが、
それだけでは普通に考えられている心を持っているということには、
ならないのではないでしょうか。
この定義では、心の定義として不十分であるように思われます。
心の重要な性質の一つとして、例えば、
自分自身の存在を認識しているということがあると思います。
他にも重要な性質があるかもしれません。
そのような性質が考慮されていない心の定義では、
説得力があるように思えないのですが…?
「情報処理能力」をいくら複雑にしても、
単なる物体や情報処理ソフトが、自己認識するとは考えられないように思います。
つまり、熱センサーおもちゃゾウリムシが、
自己の存在を認識しているとはとても考えられません。
熱センサーおもちゃゾウリムシに心があると考えるのは、
無理があるのではないでしょうか。
797 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 10:12:11 0
>>796 > 考える名無しさん
> 心の重要な性質の一つとして、例えば、
> 自分自身の存在を認識しているということがあると思います。
それら(その他も含め)は全て考慮の中に入っています。
只「自己の存在を認識するとはいかなる事態か」というような問題は、「知覚するとはいかなる
事態か」、「理解するとはいかなる事態か」等々の問題と同様に、認知心理学分野で扱うべき
問題であり、存在論の問題ではないものと考えます。
> 「情報処理能力」をいくら複雑にしても、
>単なる物体や情報処理ソフトが、自己認識するとは考えられないように思います。
それは可能であるのですが、情念認識の壁に阻まれてそれを理解するのが困難であるという
事情があります。
また、それは認知心理学的で解析すべき問題であり、認知心理学で解析可能な問題であるもの
と考えます。存在論的知見のみでは理解が難しいかと思います。
> つまり、熱センサーおもちゃゾウリムシが、
> 自己の存在を認識しているとはとても考えられません。
自己認識は心の高次の機能です。
熱センサーおもちゃやゾウリムシの心は低次の機能しか持たず、自己認識機能を持ちません。
最も低次の心の機能は単純反応にあります。
> 熱センサーおもちゃゾウリムシに心があると考えるのは、
> 無理があるのではないでしょうか。
自己認識機能を持つ心は高次の心のみであり、低次の心では自己認識機能を持ちません。
低次から高次まで、様々なレベルの心が存在します。
>>797 自己の存在を認識するのは、認知心理学の問題とありますが、
もし仮に、認知心理学やその関連分野が、
情報処理能力と生存活動の支持だけでは、
自己の存在を認識することが不可能であるということを実証したら、
唯物論では心が説明できなくなりますので、
唯物論的な存在論は間違っていたということになるのでしょうか?
799 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 12:45:19 0
>>798 > 考える名無しさん
それが実証できれば、仰る通り唯物論は間違っていることになります。
801 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 15:52:07 0
すべての生物は情報処理能力を持つ。
DNA遺伝子を解読してその生物の体を作るのは
物理化学変化だけでなく情報処理が無ければできない。
802 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 16:55:21 0
>>801 > 考える名無しさん
「DNA遺伝子を解読してその生物の体を作る」場合の処理は、筆者の意味での
情報処理には含めていません。
定義を拡張して、その場合の処理を含むようにすることも可能です。
筆者とは異なる意味で情報処理と言う語をお使いのようですが、それであれば、
用語定義を明示したうえで、主張を述べていただきませんと、議論の混乱を招き
かねません。
あと200レス。
ぽん太、耐えられるか。
>803
耐えられるかって?
もうとっくに死んでるじゃん。
805 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 17:02:14 0
「物質は実在である」と強弁してるだけだね。
「神は実在である」と強弁するのと同じだ。。。
806 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 17:13:08 0
>>803 > 考える名無しさん
ほとんど述べつくしたので、そろそろ終わりにしてもよいかな、とは思っています。
でも、あと200レス行くかもしれませんネ。
行っても行かなくても、成り行き次第ですが.....
スレ主は、存在者はすべて“情報処理能力”を持つと言うべきだろう。唯物論者なら。
さらに、その“情報処理”の一切が物理法則に則る、というのがスレ主の立場だろう?
808 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 17:36:18 0
>>805 > 考える名無しさん
> 「物質は実在である」と強弁してるだけだね。
それは単なる前提に過ぎません。単なる前提ですから強弁にはなり得ません。
別にそれを実証しようとしているわけではありません。
その前提の下で、この世界を整合的に説明可能であるのか否か、それのみが
問題です。
誤解されやすいのですが、「物質は実在である」と主張しているわけではありません。
ただ単に、それを前提として考えると言っているだけです。
実在論(客観的実在論)では、「物質は実在である」と主張しているわけではありません。
ただ単に、それを前提として考えると言っているだけです。
あえて言えば、「物質が実在である」のか否か、はどうでもいいのです。
「物質が実在である」という命題を前提として、この世界が整合的に説明できればそれで
よいのです。
とはいっても、気持ちの上では、勿論、「物質が実在である」と思ってはいます。
809 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 17:40:17 0
>>808 だからそれは神の実在を前提とする宗教と同じなわけ。
神の実在を前提として世界を整合的に説明するのも可能だから。
つまり前提に信仰があるってこと。
810 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 17:41:33 0
>>807 > 考える名無しさん
情報処理システムが構成されて始めて情報処理能力が生まれます。
情報処理システムが構成される以前には情報処理能力は存在しません。
811 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 17:46:09 0
>>809 > 考える名無しさん
要するに、あらゆる学説の前提は信仰である、と仰りたいわけですネ?
812 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 17:50:11 0
>>811 ちがうよ。
神への信仰とか実在への信仰を前提とする哲学なんて哲学の中のごく一部だ。
813 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 18:04:05 0
>>812 > 考える名無しさん
哲学や宗教のみに限らず、あらゆる学説は、何らかの前提を出発点として構成されます。
「神への信仰とか実在への信仰」のみに限らず、あらゆる学説の前提は信仰である、と
お考えなのではありませんか? (それもアリとは思いますが)
814 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 18:05:10 0
ぽん太郎さんは、理論家ですね。
そして、突っ掛かっている人達は論理家です。
論理家の人はそれすら理解していないのはわかるんですが、
ぽん太郎さんは、なぜ論理家の人を相手にするのですか?
論理家の人達は、理論家の考えを子供だましとしか理解できません。
いつか気づくと信じるしかないのに、相手をしていても無駄だと思うのですが。
>ぽん太郎さん
>>807氏の指摘は正しいと思います。
「情報処理システム」を限定する必要があります。
物理実体の時系列の変化は、もとより全て関数により表記されます。
そして
>>668は関数を示しているに過ぎず、他の物理現象に比べての特殊性は獲得されていません。
・「情報処理能力」とは何か?
・「情報処理能力を持つ情報処理システムの構成とは何か」が問題となります。
816 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 18:25:48 0
>>814 > 考える名無しさん
このスレッドを立てたのは、存在論に関する自分の主張を整理してみたかったからです。
自分一人だけで整理するのは限界があります。
皆さんのお力を借りて、論点を明らかにし、主張内容を整理するのが目的です。
お陰様で、これまで気づかなかった数々の論点に気づくことができ、主張内容をより深め
ることができました。
やはりネットワークの力は偉大であると思います。
皆さんのお力で、思った以上に整理できました。
お付き合い頂いている皆さんに感謝申し上げる次第です。
817 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 18:33:38 0
あっはっは、なるほどごもっともです。
理解してもらうためのスレではなかったんですね。
ぽん太郎さんの積み上げた理論、いつかゆっくりと読みたいものです。
失礼しました。
818 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 18:49:21 0
>>815 > 考える名無しさん[唯物主義者]
> 「情報処理システム」を限定する必要があります。
どのような限定をお考えなのでしょうか?
限定といえば、「生存活動と結びついた情報処理のみを心と呼ぶ」というような心の定義と結びついた
限定があるのみです。そのほかには特に限定と呼べる条件は付けていません。
> そして
>>668は関数を示しているに過ぎず、他の物理現象に比べての特殊性は獲得されていません。
「他の物理現象に比べての特殊性」とはどいうことをお考えなのでしょうか?
「他の物理現象に比べての特殊性」など何もない、何もないことに意味があるものと思っています。
> ・「情報処理能力」とは何か?
> ・「情報処理能力を持つ情報処理システムの構成とは何か」が問題となります。
ここも何を問題とされているのか把握できません。
情報処理システムが存在すれば、それは情報処理能力を持ちます。
単純にそれだけですが、それの何を問題とされているのでしょうか?
>>818 >「生存活動と結びついた情報処理のみを心と呼ぶ」というような心の定義と結びついた限定があるのみです
それを本質的な問題とするために、「生存活動」とは「何を」生存させているのか?
「生存とはいかなる事態か?」と突き詰めるのが俺の興味のあるところです。
文藝には興味が無いのです。
>「他の物理現象に比べての特殊性」など何もない、何もないことに意味があるものと思っています。
材料を曲げたりする場合の内部の応力や
極小領域での流体の挙動
量子力学での多状態系・・・・
唯物的には森羅万象、全て物理量の入力に対する出力です。
決定論的には、石ころから空気まで、”計算的に”変化します。
しかし、ぽん太郎さんは、石ころが情報処理をしているとは考えないのでしょう?
石ころと脳は違うのであれば、
「いわゆる(有意な)情報処理」とは、いかなる条件が付与されるのか、が俺の興味対象です。
>情報処理システムが存在すれば、それは情報処理能力を持ちます。
世界の全てはシステムです。
「情報」とは唯物世界のいかなる性質なのか?物質の集合から情報が発生する瞬間とは?
生命体と石ころとの差違は何か?
私の興味はそこにあるのです。
ぽん太郎さんが「把握できません」なのは残念です。んー
まあ、俺と絡んでも無益な様なので スルーしてください。
820 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 20:03:59 0
>>802 >筆者とは異なる意味で情報処理と言う語をお使いのようですが、それであれば、
>用語定義を明示したうえで、主張を述べていただきませんと、議論の混乱を招き
>かねません。
情報とは物理的にはエントロピーと同じ概念です。わたし個人の定義ではありません。
シュレーディンガーなどもそのように定義しています。生物とは自己によってそのエントロピーを
制御できる情報処理機能があることが非生物と異なる点です。自己組織化ができることが
すなわち生物の情報処理です。
ぽん太は、まがいものの論しか言わない三流詐欺師。
ぽん太は、まがいものの論しか言わない三流詐欺師。
ぽん太は、まがいものの論しか言わない三流詐欺師。
ぽん太は、まがいものの論しか言わない三流詐欺師。
ぽん太は、まがいものの論しか言わない三流詐欺師。
ぽん太は、まがいものの論しか言わない三流詐欺師。
すべては因果の繋がりがあり、記憶や通信に適した形体に置き換えるのは情報で
論理積や論理和など条件分岐するのは情報処理というイメージがあります。
>>820 情報=エントロピーならエントロピーが何かということになります。
824 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 21:33:06 0
>>819 > 考える名無しさん[唯物主義者]
> それを本質的な問題とするために、「生存活動」とは「何を」生存させているのか?
> 「生存とはいかなる事態か?」と突き詰めるのが俺の興味のあるところです。
「生存」の定義については (
>>91 ) 参照。
> しかし、ぽん太郎さんは、石ころが情報処理をしているとは考えないのでしょう?
筆者の考える情報処理は、神経網によるものや論理回路による情報処理です。
石ころは、この意味での情報処理機能を持っていません。
情報処理の定義を拡張して、あらゆる反応処理、あらゆる相互作用を情報処理と定義する
ことも可能です。筆者はそこまで拡張した意味では情報処理という語を使用していません。
> 石ころと脳は違うのであれば、
> 「いわゆる(有意な)情報処理」とは、いかなる条件が付与されるのか、が俺の興味対象です。
筆者の意味の情報処理は、主に、神経網によるものか、論理回路によるものです。
石ころは、この意味での情報処理機能を持っていません。
> 「情報」とは唯物世界のいかなる性質なのか?物質の集合から情報が発生する瞬間とは?
> 生命体と石ころとの差違は何か?
「情報」の定義については (
>>88 ) 参照。
筆者の場合は、(神経網や論理回路による)情報処理システムの有無が、その差異になります。
考える名無しさん[唯物主義者]は情報処理という語を筆者とはかなり異なる意味で使用している
ように感じます。
このように、同一語を異なる意味で使用している場合は、議論が噛み合いにくくなります。
同一語を異なる意味で使用している場合は、そのことを十分意識しないと議論がすれ違いやすく
なります。
だから、遺伝子だけでは、日本語は話せないってことだよ。
むしろ遺伝子だけという説は唯物論的ではない。
なぜなら、あらゆる物質の相互関係を無視しているからである。
あらゆる実体が相互に関係し合っている以上、
遺伝子だけに実体を限定することはできない。
逆に、環境を取り込むことによっても唯物論は打破できない。
なぜなら、遺伝子によって決定されているという単純なモデルに、
環境による決定を付加しているだけだからである。
それゆえに、決定論に対する反論にもなっていない。
828 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 23:14:25 0
[補足事項] 物質は実在である
「物質は実在である」というのは筆者存在論における前提であり、出発点である。
この命題は前提であり、この時点では「物質は実在である」ことは主張されていない。
つまり、物質は実在であるか否かはわからないが、先ずは「物質は実在である」という
ことを仮定して考えてみよう、ということである。
「物質は実在である」という命題を前提とする、というのはその意味である。
この命題を前提として、この世界が整合的に説明可能であるか否か、を検討してみる。
検討してみた結果、その前提で、この世界が整合的に説明可能であることが分かった。
その結果、「物質は実在である」と主張することは妥当であることが結論できる。
従って、「物質は実在である」と主張することに何ら差支えがないことが分かる。
「物質は実在である」という命題は、出発点では、仮定であり前提である。
出発点では「物質は実在である」ということは主張されていない。
議論の最後に、「物質は実在である」と主張することの妥当性が得られる。
この妥当性が得られたのを受けて「物質は実在である」と主張することになる。
妥当性が得られた結果、「物質は実在である」と主張しても差し支えないことになる。
以上
829 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 23:22:40 0
論として無矛盾であることと
世界を記述できているかどうかは別問題ですよ。
そして実証可能性を持たない論は科学として無価値です。
830 :
ぽん太郎:2009/05/12(火) 23:31:38 0
>>820 > 考える名無しさん
情報処理という語の定義は筆者と考える名無しさんでは大きく異なるようです。
その意味で、考える名無しさんの批判は、筆者に対する批判にはなり得ていない、
ように思います。
むしろ検証可能性
833 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 01:13:05 0
>>829 その無価値の科学を、実証性がある科学だと思い込むマヌケ学生が
捨てるほどいる。彼らは学んだことを決して疑わない。
自分で直接確認したのでもないのに、それは自分で体験した事実の
ように思い込む。これは宗教の類としかいえない。
必然は、必ずに極限に近いという自然であって、
100%確実に起こる論理性ではない。
99.9999%であっても100%ではなく
常に例外が含まれるのが必然というもの。
「物質は実在である」=「南無阿弥陀仏」
837 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 07:06:45 O
ぽん太郎の論はすべて形而上学だから反証できないのは当然だよね。
838 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 08:02:26 0
>>834 > 考える名無しさん
アンチノミーはカントの「純理」で読んだことがあります。
理性でこういうことは判断できませんよ、と言っているだけです。
理性で判断できない項目を何点か挙げているだけです。
別に大したこと言っているわけでもないと思います。
839 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 08:57:39 0
>>834 > 考える名無しさん
もし、「物質は実在である」という前提を否定して、この世界を整合的に説明可能である、この世界を
整合的にリアリティをもって説明可能である、ことを論証できたのであれば.....
アンチノミーに従って「物質は実在である」という主張の妥当性を否定することが可能です。
観念論では、実際に、「物質は実在である」という前提を否定して論を構築しています。
ではそれで、この世界を整合的にリアリティをもって説明できているのかというと、筆者の見る限り、
この世界を十分に説明できていないし、その説明にリアリティもない、と判断しています。
観念論では、進化(化学進化、生物進化)の事実を十分に説明できません。
観念論では、心が進化の過程でどのように生まれてきたのかを説明できません。
心はこの地球上に最初から存在したわけではありません。
進化の過程を経て、心は、この地球上に生まれてきたのです。
この事実を観念論は説明できません。
観念論では、最初から心が存在していることを前提に論を進めるしかありません。
観念論はこの世界を十分に説明できません。リアリティもありません。
命題の肯定と否定を同等に論証できて初めてアンチノミーは成立します。
ここでのアンチノミーは成立しません。
840 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 09:09:04 0
>>823 >エントロピーが何かということになります。
エントロピーは物理学で定義されてる物理量です。
もっと詳しく知りたければ「エントロピー」をキーワードにして
情報検索すればネタはいくらでも集まる。それを元に自分で考えればよい。
>>840 情報学でいうエントロピーは物理学ではない。
きみは自分の専門分野用語を他の分野へも押し付けしているのにすぎない
842 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 09:30:24 0
>>839 >もし、「物質は実在である」という前提を否定して、この世界を整合的に説明可能である、この世界を
>整合的にリアリティをもって説明可能である、ことを論証できたのであれば.....
>アンチノミーに従って「物質は実在である」という主張の妥当性を否定することが可能です。
アンティノミーを理解してないw 定立も反定立も両方成り立つのがアンティノミーだろw
>観念論はこの世界を十分に説明できません。リアリティもありません。
↑
おいおいw
↓
>筆者は哲学素人であり、カント(の「純理」)をほとんど読み込めておりません。 (
>>709)
カントをほとんど読み込めていない人が、なんでこういうことを言えるのか
トンデモにもほどがあるぞ。
843 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 09:39:57 0
>>842 > 考える名無しさん
> 定立も反定立も両方成り立つのがアンティノミーだろw
その通りです。両方成り立たたないとアンチノミーになりません。
844 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 09:53:51 0
>>842 > 考える名無しさん
> カントをほとんど読み込めていない人が、なんでこういうことを言えるのか
哲学素人の単なる感想です。あまり気にしないでください。
また、哲学玄人の皆さんの意見を求める気持ちを表している文です。
>>840 一般的に使用される情報の意味とエントロピーの意味が同じだという主張なら
使用例をもとに反論も可能ですが、独自定義だというなら反論しても意味無い
ですね。何かこのスレは独自定義して終わりというスレです。
>>839 :ぽん太郎さん
>観念論では、進化(化学進化、生物進化)の事実を十分に説明できません。
進化は、「事実」ではなくて「仮説」でしょう。
(その他のすべての科学的仮説と同様に。)
進化であれ、素粒子であれ、何であれ、科学的「仮説」であり「モデル」であるはずのものを、
「事実」であると考えてしまうと、科学は、形而上学になってしまうと思います。
それらはあくまでも、このように説明すると経験的現実をうまく説明できるという「仮説」であり「モデル」でしょう。
ところで、ぽん太郎さんはご存じないかも知れませんが、
カントの『純粋理性批判』は、そのような自然科学を基礎付けるために書かれた本なのですよ。
「純粋理性」というのは、科学的(学問的)認識能力のことなのです。
カントの念頭には特に物理学がありました。カント自身、自然科学者でもあったんですよ。
このことをまとめて書いてあるサイトから引用しておきましょう。
http://www2.ncc.u-tokai.ac.jp/v-kouza/www/98no2j.html 【従ってカントの功績は、「近代自然科学の哲学的基礎付けをしたこと」と言い換えることも出来る。
近代の自然科学の最大の特徴は、その知の普遍性を主張する点にある。カントの言うア・プリオリな
必然的認識がその基礎になっている。ただしこうした必然的認識、科学的法則が可能な世界は、
現象としての自然の世界に限られる。つまり自然科学の対象である自然が決して物自体の世界で
あるのではなく、認識の対象になりうる現象であることを忘れてはならない。この点で、今日の科学の
あり方とそれを受けとめる人々の科学観には大いに疑問が残るように思われる。
それは、カントが繰り返し自覚を促した「認識の限界内」ということが、いつのまにか忘れられて
しまっているように思われるからである。】
847 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 10:47:14 0
>>845 情報量がエントロピーと同じだというのは情報理論の
定説だよ。私の独自定義でもなんでもない。それよりウィキ
で調べれば済むことをいちいち質問することはないよ。
>>847 温度の高いところから低いところへ熱が移動したらエントロピーは増えますが
記憶媒体の情報量は増えるとは限らないですが。
849 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 11:11:45 0
>>848 >温度の高いところから低いところへ熱が移動したらエントロピーは増えますが
そんなこと無いよ。物理学をきちんと学んだほうがいい。
エントロピー増大のためには条件が必要だよ。
>>849 熱力学の第二法則がそのまま適用される系という条件付きです。
そこからエントロピーが定義されたので。
ぼん太郎。
カントなど気にするな。
カントの功績は、「近代自然科学の哲学的基礎付けをしたこと」と言い換えることも出来る。
なんて大嘘だからな。
852 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 13:18:58 0
>>846 > 考える名無しさん
> 進化は、「事実」ではなくて「仮説」でしょう。
それが「仮説」であることは十分承知しています。
只その「仮説」は「事実」と呼べるだけの資格を持っているものと判断しています。
ある「仮説」が、この世界を必要十分に整合的に説明可能であれば、その「仮説」は「事実」と
呼べる資格を持っているものと考えます。
> カントの『純粋理性批判』は、そのような自然科学を基礎付けるために書かれた本なのですよ。
> 「純粋理性」というのは、科学的(学問的)認識能力のことなのです。
感性の空間と時間の形式、悟性の12のカテゴリー等は、単に心の働きを分類しただけのものに
過ぎず、自然科学を基礎付けといえるほど大げさなものとは評価できません。
そうした分類なら心理学等でも十分可能であり、わざわざ存在論の中で語るほどのこととは思われ
ません。
分析的判断、総合的判断等の概念についても同様です。
> カントの念頭には特に物理学がありました。カント自身、自然科学者でもあったんですよ。
カントが自然科学者でもあったことは承知しています。
カントが普遍性のレベルで物事を捉えている点は、筆者の評価する点です。
実在論、自然科学では現象と実在を同一視して物事を考えます。
この同一視は、自然科学では無自覚に行われ、実在論(哲学)では自覚的に行われます。
カント(および、その他の観念論者)はこの同一視を問題にし否定しています。
しかし、それは立場の違いに過ぎず、どちらにしろ、それにより、この世界を必要十分に整合的に説明
可能であるか否か、それのみが本質的な問題です。
というより、世界の整合的説明が目的であるならば、
世界が何でできているかはほとんど問題にならない。
なぜなら、対象が説明可能であるというそれだけで十分だからである。
854 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 13:35:38 0
>>846 > 考える名無しさん
観念論では、進化は「仮説」だからという理由で不問に付してしまうのでしょうか?
カントは2流の自然科学者・心理学者だよ。
カントに時間をつぶすな。
856 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 13:47:08 0
>>853 > 救いを求める者さん
「物質は実在である」を前提としてこの世界の整合的説明が可能です。
ですので「物質は実在である」と主張することは妥当性があります。
勿論、「物質は実在である」ことを主張しないことも可能です。
それを主張するかしないかは立場しだいです。
筆者は主張する立場です。
その理由は、それが我々の日常的、自然科学的直観にマッチするからです。
857 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 13:50:27 0
>>856 おまえは細かいことばかりワロス。
達観できねーんなら、哲学板で発言するな。
結局は名前の問題である。
人智ってものは意味を持たせないと、認知も論じあうこともできない。
計れないものは、科学にすらできない、
計れない存在は、あったとしても思考停止するか、全面的に拒否して
見ていないことにする。
それは学校で学ぶことばかり優秀だったやつが得られること。
人は選ぶことはできる、たとえ見えなくても、計ることができなくても
理解できなくても、意味ですらなくても。
ただその1歩を進む勇気があるかどうか心構えでしかない。
愚か者は他人が進んだ後しか歩めない。おまえのことさ
860 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 14:11:07 O
かずえね
861 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 14:12:25 O
やめね
>>856 後出しの説明なら要らないよ。
問題は「予言能力」があるかどうかだよ。
そのために物理学者は艱難辛苦しているというのに
哲学徒はお気楽だな。
863 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 15:52:51 O
我々、存在者が互いに他者の存在を認識できる空間が、世界である
と同時に我々がその空間の存在を認識していることにより世界が成り立つ
自己の存在を認識するのみでは世界は存在しない
他者を認識できなければ内面世界でしか存在できないことになるから
哲学の伝統的な手法は、具体的諸学問へ立ち戻り、
そこから出発するということである。
自然学者でない唯物論者は必要ないと言えよう。
866 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 16:36:42 0
>>841 >情報学でいうエントロピーは物理学ではない。
それは承知しています。だからエントロピーという「概念」
と断っている。ただ、物理学の対象として「情報」も入れるべきだという
学説も有る。エネルギー・物質・情報を対象にしなければ物理は不完全だとか。
考え方としては非常に興味がある。生物を物理だけで扱えないのがなぜかともつながる。
867 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 16:40:33 0
>>863 > 考える名無しさん
我々が認識しようとしまいと世界は存在する。(客観的実在論)
結局、どう考えるかは立場しだいです。
868 :
863:2009/05/13(水) 16:47:08 O
>>867 認識できないのに世界が存在するとどうしてわかるんですか?
>>867 ところが、この世が我々が想像をできないほどの技術をもつ
知性体が作った仮想世界だということを否定することは
仮想世界からはできない。その認知程度では(ry
>>876 主観的実在は主観であるがゆえに証明可能だが、客観的実在が本当に実在るか否かは証明不可能。
認識した瞬間にそれは主観となり、認識するまでそれがはたして存在しているのか、はたまた存在していないのか・・・
それは立場の違いを超えた、遥かに深淵な問題だ。
871 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 17:13:20 O
確かに。
他者が犬を猫だと言うからこれは猫であるとはならない
他者が犬を猫だと言ったことにより自分がそれを猫だと認識したから猫になるんだからな
872 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 17:21:10 0
集団的錯覚は現実にある
しかし
世界が四角いと認識させられたとしても、本当に世界は四角くはならないよな
言葉遊びって面白いですか?
何故真面目に物理をやらないのですか?
立場しだいですか?
>>824 >>91の内容は
「生存」とは何か=それは「死ではない状態」・・・ということですね。
さらに「死とは何か」の説明に関し、「細胞の生死」など「死」という言葉を使っています。
死を死で説明されておられ、「生存状態」を物質の性質として扱っておられない。
また「生物以外」についても言及されていますが、これは「非生命」であり、生存と無関係です。
もし(熱センサーロボットのように)生きているように感じられるものが「生」と言われるならば
お好み焼きの上でゆらゆら揺れるかつお節も生命ですね。
文藝ですね。。。。まあ立場の違いでしょう。
それ以外の箇所は「情報」とは「論理回路による情報システム」であることを強調されているように思います。
これは「論理回路」に重点を置く、ということですか?
論理回路は電子デバイスに限定されませんよ。油圧回路でも、空圧回路でも同等の作用が原理的には
可能です。
ぽん太郎さんは恐らく、油圧回路の作動も情報処理である、とするのでしょう。
油圧回路は、油と配管、タンク、弁、蓄圧器などで構成できますが、これらの総体が「心」なのでしょう
拡大解釈して川の流れも、空を流れる雲も、鳴門の渦潮もある意味「心」なのかもしれません。
火山や地震、台風、プレートテクトニクス・・「心」の候補は多いですな。カッカ
私にとっては全くナンセンスですが、まあ立場の違いなのでしょう。好きにして下さい。
876 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 20:01:24 0
>>868 > 863さん
わかるわからないに関わらず、そう仮定するのが客観的実在論の立場です。
877 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 20:36:34 0
>>875 > 考える名無しさん[唯物主義者]
> 「生存」とは何か=それは「死ではない状態」・・・ということですね。
> さらに「死とは何か」の説明に関し、「細胞の生死」など「死」という言葉を使っています。
> 死を死で説明されておられ、「生存状態」を物質の性質として扱っておられない。
「生存」、「死」という語を厳密に定義するつもりはありません。
それを厳密に定義するのは生物学や医学等の役目です。
それらは物質系の状態として定義可能です。
> また「生物以外」についても言及されていますが、これは「非生命」であり、生存と無関係です。
筆者の生命の定義には非生物型の生命も含まれています。
> もし(熱センサーロボットのように)生きているように感じられるものが「生」と言われるならば
熱センサーおもちゃは「生」ですが、生きているように感じるものすべてを「生」と定義しているわけ
ではありません。
> それ以外の箇所は「情報」とは「論理回路による情報システム」であることを強調されているように思います。
> これは「論理回路」に重点を置く、ということですか?
主に、神経網、論理回路網を情報処理システムとして考えています。
それ以外に、ゾウリムシに見られるような反応系も情報処理システムとして考えています。
> 論理回路は電子デバイスに限定されませんよ。油圧回路でも、空圧回路でも同等の作用が原理的には
> 可能です。
通常、油圧回路や空圧回路は運動系であり情報処理系ではありません。
油圧回路や空圧回路が、運動系ではなく、純粋な情報処理系として機能している場合は、そして
その場合のみ、筆者の意味での(心の定義に関わる)情報処理システムと見做すことができます。
> 拡大解釈して川の流れも、空を流れる雲も、鳴門の渦潮もある意味「心」なのかもしれません。
拡大解釈すれば可能ですが、筆者はそこまで拡大解釈はしていません。
情報処理を拡大解釈すれば、物質の相互作用まで行き着きます。
この解釈では、全ての物質の相互作用が情報処理であることになります。
筆者はそこまで拡大解釈はしていません。
>>876 客観的に見て、幽霊という肉体を持たない実在について歴史上語られている
文献、体験談は枚挙に暇がありません。
私と貴方とこのスレ住人の100%が幽霊を認識した経験がないとして、幽霊は
実在すると仮定するのは客観的実在論の立場から考慮すると是ですね。
というよりもむしろ、
>>1氏のこれまでの論法を適用すると、幽霊の実在を肯定する
以外の結論を出すことはダブルスタンダードにあたると思われます。
>>877 「純粋は情報処理系」とは何ですか?
電子回路は純粋ですか?
結局は貴方の胸先三寸です。好きにして下さい。
880 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 21:02:45 0
>>878 > 考える名無しさん
客観的実在論には様々な論があります。
霊魂を実在とする論もあれば、幽霊を実在とする論もあります。
唯物論では物質のみを実在としています。
物を説明できない唯物論者は似非。
そうではなく、霊魂の科学的説明が可能であれば、
物質に新たな「霊体」というものが加わるのである。
それゆえに、物質というのはxであり、変数であり、
名前の問題でしかないと言ったのはそういうことなのである。
883 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 21:11:12 0
もう下からきてんだから悠長なことしてんなよ。ちょっとでもへんだと思ったらなんにもしねえぞ
>>880 認識しようとしまいと幽霊は実在する、と認めるよりは
と言うよりは、コンデンサ内の電気の流れと配管内の油の流れに有意の差はない
と認める方が客観的に容易いと思うのだが、いかに。
これだけ定義だけで引っ張るスレもめずらしいかも。
グローバル変数決めるだけのお気楽SEみたい。
886 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 21:26:00 0
>>879 > 考える名無しさん
> 「純粋は情報処理系」とは何ですか?
情報処理機能のみよりなる系、という意味です。
動力系を含む系は純粋な情報処理系ではありません。
例えば、モーターやエンジンを含む系は純粋な情報処理系ではありません。
純粋な情報処理系でない場合でも、そこから情報処理機能のみを取り出せば
純粋な情報処理系になります。
> 電子回路は純粋ですか?
論理回路は、概ね、純粋です。
電子回路の全てが純粋とは言い切れません。
ドライバー回路は動力系とのつながりが深く純粋とは言い切れません。
(注)ドライバー回路 :
情報処理回路(論理回路)の微小電圧を動力系をコントロール可能な電圧まで引き上げるための回路
887 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 21:34:11 0
>>884 > 考える名無しさん
勿論「コンデンサ内の電気の流れと配管内の油の流れに有意の差は」ありません。
どちらでも情報処理システムを構成可能です。
>>886 >モーターやエンジンを含む系は純粋な情報処理系ではありません。
油圧供給源の油タンクを高位に配置して(位置ポテンシャルを上げて)モータ、エンジンを除外できますよ。
シリンダーなどを作動器として利用せず、バルブの位置やタンクの水位で情報を示せば
”純粋な”論理回路として使用できるでしょう。結局は、こちらの解釈次第ですけどね。
>純粋な情報処理系でない場合でも、そこから情報処理機能のみを取り出せば純粋な情報処理系になります。
「情報処理機能のみを取り出す」の意味が分かりませんが、解釈するという意味でしょうか?
こちらの解釈次第で「心」は生まれたり、生まれなかったり、ということですね。
>論理回路は、概ね、純粋です。
それは電荷の移動が無い、という意味ですか?そうでなければ程度問題ですね。
「概ね純粋」とは何でしょう・・・?
貴方が気持的に納得すればいいということでしょうね。
>>885 定義さえままならぬままスレが終わりそうだ。
>>1 >本スレッドを読めば次のことが明らかになります(笑)
>
>・心とは何か、その真の意味が明らかになります(笑)
>・クオリアとは何か、その真の意味が明らかになります(笑)
890 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 22:16:24 0
>>879 > 考える名無しさん
人間(の身体)は一つのシステムを構成しています。
このシステムは様々なサブシステムより構成されています。
例えば、情報処理システム、動力システム、輸送システム等よりなります。
また、それぞれの臓器、身体各部はそれぞれサブシステムを担っています。
そこから、情報処理システムのみを取り出せば、それが純粋な情報処理系に
なります。
891 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 22:25:56 0
もういいから全員わかろうとしろ
>>890 >情報処理システム、動力システム、輸送システム等よりなります。
それは便宜上、そのように説明することもできるでしょうね。
しかし、リンパや血液は輸送系であるとともにホルモンや免疫情報を伝達しますし、
筋肉は運動系ですが、心臓は輸送系でもあり、太ももの筋肉は血流を促進します。
しかし区分した方が便利な場合もあるでしょうね。都合しだいです。
情報は物質を媒介にするしかないので、「純粋な情報処理系」とか御都合的な名称ですが、
「純粋」と冠を付けて納得できるなら それでいいんじゃないですか。
893 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 22:36:00 0
>>888 > 考える名無しさん[唯物主義者]
> 油圧供給源の油タンクを高位に配置して(位置ポテンシャルを上げて)モータ、エンジンを除外できますよ。
> シリンダーなどを作動器として利用せず、バルブの位置やタンクの水位で情報を示せば
> ”純粋な”論理回路として使用できるでしょう。結局は、こちらの解釈次第ですけどね。
それが純粋な情報処理系と見做せる場合は、どのような材料で構成されているかは問題では
ありません。
> 「情報処理機能のみを取り出す」の意味が分かりませんが、解釈するという意味でしょうか?
物理的に取り出すという意味ではなく、その機能のみを分離して考えるという意味です。
> それは電荷の移動が無い、という意味ですか?そうでなければ程度問題ですね。
電荷の移動とは無関係です。
それが情報処理機能のみとして機能しているのか否かの問題です。
例えば、動力系との関連の深い回路は純粋な情報処理機能とは見做せません。
> 「概ね純粋」とは何でしょう・・・?
それが情報処理機能のみとして機能していない論理回路もあり得るかもしれない、という
意味です。具体的にどのような論理回路があり得るのかは考えていません。
論理回路がすべて情報処理機能のみとして機能しているとは断定できないかもしれない、
という意味です。具体的な内容は考えていません。
>>893 >物理的に取り出すという意味ではなく、その機能のみを分離して考えるという意味です。
こちらの認識(主観)により、ある情報系が心を持ったり、持たなかったり、ということですか。
それとも物質の作用に起因して心が発生しているのだから、
少しでも情報系の要素があれば心は生じているのでしょうか。
どちらでもいいですが、貴方の中で納得できるのなら それでいいんじゃないですか。
貴方が
>>877で言われたように(→全ての物質の相互作用が情報処理であることになります。)、
宇宙は量子コンピュータですから、未来へ向けて最速で情報処理しているとの解釈もできるでしょう。
そのことと 生命・心とはまた別の話と俺は思ってますが。
ぽん太郎さんは自分の考えがおありでしょうから 好きにして下さい。
895 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 23:28:17 0
>>894 > 考える名無しさん[唯物主義者]
> こちらの認識(主観)により、ある情報系が心を持ったり、持たなかったり、ということですか。
情報処理機能のみを取り出す、ということと、ある情報系が心を持ったり、持たなかったり、という
こととは直接関係がありません。
> それとも物質の作用に起因して心が発生しているのだから、
> 少しでも情報系の要素があれば心は生じているのでしょうか。
少しでも情報系の要素があり、それが生存活動を支える機能として存在しているのであれば、
それを心と呼ぶことができます。 (
>>86 ) 参照。
> 貴方が
>>877で言われたように(→全ての物質の相互作用が情報処理であることになります。)、
> 宇宙は量子コンピュータですから、未来へ向けて最速で情報処理しているとの解釈もできるでしょう。
情報処理という語はかなりの拡大解釈(拡張定義)が可能です。
情報処理の範囲をどこまで考えるのかは立場しだいです。
筆者の場合は、主に神経網、論理回路による情報処理を考えています。
それに、ゾウリムシ等の反応系も含めて考えています。
それ以上の拡大解釈(拡張定義)は考えていません。
しかし、それ以上の拡大解釈(拡張定義)ができる余地は残しています。
(それは、例えば、SFに出てくるような超生命体というようなものも視野に入れています)
(勿論、それは筆者の存在論の範囲には含まれていませんが、その余地は残っています)
896 :
ぽん太郎:2009/05/13(水) 23:59:44 0
[補足事項] 情報処理とは
情報処理という語はかなりの拡大解釈(拡張定義)が可能です。
情報処理の範囲をどこまで考えるのかは立場しだいです。
情報処理に類似の概念として相互作用、反応があります。
相互作用、反応はほぼ情報処理と同じ概念として使用可能です。
情報処理系、相互作用系、反応系はほぼ同じ概念として使用可能です。
勿論、完全に同じ概念ではありませんので、同じ概念として用いるのは不適当な
場合もあります。
同じ概念として用いて良いか否かは、ケースバイケースで判断する必要があり
ます。
>>895 >少しでも情報系の要素があり、それが生存活動を支える機能として存在しているのであれば、それを心と呼ぶことができます。
貴方は
>>877で「「生存」、「死」という語を厳密に定義するつもりはありません。」
と言っておられるのだから、土台からしてよく分かりません。
まあ 貴方が納得してるのだから それで宜しいのでしょう。
生命にはアポトーシスなど、生存のなんたるかの不可思議を突きつける現象もあり、
御都合主義の文藝などで生命を包握できるとは全く思いませんが、これも立場次第なのでしょう。
>情報処理の範囲をどこまで考えるのかは立場しだいです。
>筆者の場合は、主に神経網、論理回路による情報処理を考えています。
>それに、ゾウリムシ等の反応系も含めて考えています。
>・・・・・・・・・・SFに・・超生命体・・・・・。
そうですか。