おー漫画は読みますか
ゴルゴは私も読んだことがあります。漫画はもう学問としても十分通用すると思います。
アニメも面白いものは面白いので良かったら見てみては?
402 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 21:12:33 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20327&if=gb 「左伝」昭公二十九年冬に、晉の趙鞅と荀寅が刑法の法文を刻んだ鼎を作って民衆に公開した。
昭公六年に子産が犯してしまった過ちを性懲りもなく繰り返している。以前は叔向が批判していたのが、
今度は孔子直々による批判が展開される。「成文法など定めなくとも、晋には上下関係や職分を礼によって
堅持する法度があったのに、文面だけへの依存の原因となる刑法の鼎への刻印を行なってしまった。
これでは上限関係も職分も蔑ろにされてしまう。必ず将来滅びるに違いない」と嘆じている。
礼儀と成文法は相反するものですらある。法律すら守ってるんだから後はどうだって構わないだろうという
自分勝手が思考や言動の隅々まで行き渡り、礼儀を重視する道徳者を侮蔑する一方で、自分たちは
法律の網を潜り抜けての、出来る限りの犯行を試みる潜在的犯罪者でしかなくなってしまう。
所詮文章はそれ自体が人間の全てを取り仕切れるほどに完全であることなど決してないのであって、
人間たち自身が自主的に成文法を超えた反犯罪性としての道徳性の追求を行なっていく必要がある。
端的にはその道徳追求の如実な姿が礼儀となり、他にも色々と巧妙な工夫が図られる(
>>342とか)。
全ては犯罪性の無闇な拡大に基づく破局を食い止めるため、安定性の確保のためのリスク処理のため。
403 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 21:30:57 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20339&if=gb 「左伝」昭公三十年夏、晋の頃公が亡くなり、葬儀に多くの弔問客が訪れたものの、
鄭からは副使である游吉だけがやってきた。晋の魏献子らはそれを不満に思い、
非礼の理由を游吉に問いただせば、「今のわが国の君は年が若すぎて十分なお勤め
が果たせませんので、私が代行で参りました」と、他にも色々な理由を付けつつ回答した。
葬儀や祭礼は今の日本でも、線香や榊を供える順番などがかなり厳格に取り決められる。
身分が上なのに年が下であるような弔問者は場を乱す原因にもなってしまうし、
やっぱり礼儀は年を重ねるごとに貫禄を増していくものだから、あんまり若いうちから
重大な儀式にばかり引き回されるのは助長の感も否めなくなる。
あんまり若造に末期の儀礼の責任などを負わせるなということ。
所詮は一回りも二回りも世代の違う相手なんだから、死への共感などを強要するなと。
404 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 21:47:59 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20348&if=gb 「左伝」昭公三十一年冬、K肱という身分の低い男が土地の所有権を持ったまま
チュウから魯に亡命してきたことが春秋経にも書かれていることについて、
「悪いことをした奴はたとえ身分が低くても実名を公開した勧善懲悪の見本」だと称える。
犯罪者の実名公表の起源も実は春秋だったりして。まさに真正警察教学の姿。悪徳警察なんかでなく。
義をなすことには一切ためらわず、不義の利欲のために心よこしまにすることも決してない。
だから君子は春秋を尊び、姑息な小人(淫人)は春秋を恐れるのだという手前みそ。
まあ、事実みそなんでしょうがない。自分自身を男前扱いする鬼平も、
確かに言行の面でも男前を目指す努力をしているから、自分自身の美しい顔を
水面に映して陶酔してそれっきりなナルシシズムなどとは決して違うものであるといえる。
405 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 22:10:10 0
「彊を違け弱を陵ぐは、勇に非ざるなり。人の約に乘するは、仁に非ざるなり。
宗を滅し祀を廢するは、孝に非ざるなり。動きて令名無きは、知に非ざるなり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」定公四年より)
強い者を避け弱い者をいじめるのは、勇気ではない。
人の弱みにつけ込むのは、仁義ではない。
王統を途絶えさせて儀礼も廃するのは、孝行ではない。
やるべきことをして名を上げないのは、上智ではない。
悪徳警察に勇気はないし、詐欺や誹謗中傷も仁義ではないし、
伝統を蔑ろにする踏み切りラインオーバーの先進主義も孝行ではないし、
いつまでも自首をしないままで汚名を隠蔽し続ける石女も上智ではない。
言ってしまえば当然のことではあるんだが、言及によって指摘されないのを
いいことに、モラトリアム状態をいつまでも続けようとするおっさんおばさんたち。
2300年以上前から分かりきっていることを「分かりきっているから」って侮らず、
何度でも重畳的に反芻を繰り返す牛さんとなって、幸福な余生を全うしやがれ。
406 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 23:01:06 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20508&if=gb 「左伝」定公十年春、ついに孔子自らの政治手腕の発揮の記述が載せられる。
今までにも政治や礼儀に関する孔子の説話は多く載せられていたが、あくまで傍観的な
後世での意見感想であって、別に本人が政治行為に参加していたわけではない。
それがついに、自ら魯の定公の補佐役として活躍する立場となり、尊称ではなく本名の
「孔丘」として扱われ、しかも日本語訳なら(定公に仕えているという体裁から)本人が
敬語を使って話す場面すらもが描写される。その、左伝史上初めての孔子の活躍、
敵国からヘタレ扱いされて威嚇され、しかも侮蔑に従って退いちゃってます。
儒家の祖であり、釈尊とも並ぶ東洋教学の巨星であり、勧善懲悪の原典として
称えられる「春秋経」の著者でもある孔子が、左伝での初めての活躍の場において、
「孔丘は礼儀ばっかりで勇気はないから適当に脅しつけとけばいいだろう」という理由で
武力で威嚇され、挑発に乗って何をするかと思いきや、定公の命が第一としてただ退却を命じた。
法家や毛沢東主義者などが、孔子を貶めるためのヘタレ逸話としてあげつらうならまだしも、
儒家の正典である四書五経の内の、春秋経の最も代表的な注釈書である左伝の中でこそ、孔子が
相手の威嚇に応じて退却した話が載せられている(春秋経には定公の動向が載っているだけ)。
407 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 23:04:10 0
孟子が言った「匹夫の勇」なども、ヘタレを嘲笑われて反発して沸き立たせるような蛮勇こそを
言うのであって、孔子が少なくとも匹夫の勇の持ち主ではないことを立証する話ではある。ただ、
それにしたって、人類最大級の偉人の初めての活躍にしては地味すぎる。明らかにこれは
「文章信仰」を読者に捨てさせるための作意が込められている。文章を読むことは確かに必要だ、
でも文章を読むことそれ自体が目的と化して、文章読解によって現実を楽しむことは二の次と
化してしまう、そのような優先順位の転倒を防ぐために、論語から左伝に至る四書五経は、
文面理解だけでの陶酔を最低限に止めて、代わりにその内容を理解したことによる現実での
最大級の楽しみこそを保証している。カーリダーサもシェイクスピアに比べれば悲喜劇的な起伏
に乏しい円満劇ではあるが、本物の現実の恋愛に当てはめるんなら、破綻し通しのシェイク
スピアなどよりもずっと適当であると誰にでも分かる。ただ文章だけで楽しみたけりゃシェイク
スピア、現実に応用して現実でこそ楽しみたけりゃカーリダーサ。同じように、文章だけでの陶酔は
聖書のほうが四書五経よりも遥かに上だろうとも、内容を体得したことによって現実を楽しめる
度合いでは、四書五経のほうが聖書などよりも遥かに上だ。文章自体が楽しいことなんかよりも、
現実が楽しいことのほうが遥かに楽しいから、最大級の楽しさを提供してくれるのもあくまで四書五経。
408 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 23:05:02 0
文章を楽しむ以上に現実を楽しむことで、普遍的に最大級の楽しみを得ることを目的とする東洋教学。
仏教だと「楽しみ」よりも「安楽」のほうが重視されたりもするが、文章よりも現実を重視するのは同じ。
大蔵経や四書五経や朱子語類といった、万巻の東洋教学の文献が、全て現実の楽さ楽しさの実現の
ためにこそ存在している。それ自体のためではなく、それによって提供される理想的な現実のために。
文章のための文章などよりも、遥かに多くの分量の文章が、より善き現実のためにこそ存在している。
あまりにもその価値が大きすぎて、その価値が分かられすらしなかった東洋からのプレゼント。
文章のドグマから逃げ出した所に、実はドグマを否定するドグマ以上の文章群が存在していた。
文章が文章以外のためにこそ存在すべきものであることを逆説的に証明している、止め処ない領域。
409 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 23:46:12 0
馬鹿が左伝みたいな日記でその気になってやがる
410 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 02:26:33 0
左伝よみたいけど高い
論語含む四書が中型車やバイク止まりの普通免許なら、
五経はタクシーからバスからキャタピラ車から何でもこいの特殊免許、
朱子語類までいけば飛行機やヘリの操縦まで許されるってとこだ。
もちろんただ「分かる」ってだけじゃなく、その内容が「できる」とまで行った場合の話。
筆記試験だけで免許は取れない。あくまで儒家は運転に値する実践まで行って初めて意味を持つ。
412 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 13:09:30 0
左伝て小説でしょ?
定義上は厳密に大説。それ自体を楽しむのではなく、現実への応用こそを楽しむ大人の説話。
三国志演義とか水滸伝とか西遊記とか金瓶梅とか、小説は小説でまた別にあるから。
より生産行為、業務用に特化された大説。より消費行為、民生用に特化された小説。
頂点の指導者までもが小説で何もかもを済ませたんじゃ、どこにも真の主人公なんていなくなる。
主人公であるからには、大説によって大立ち回りを演ずる素養を養う。素朴でも得るもののある
実物資料の勉強によって、魅せられる側ではなく魅せる側に回る。真理自体、超人自体だなんて
よそ様風情の考え方を捨てて、本当に真理を体得した超人となる。大説こそがそれを保証する。
414 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 14:09:26 0
>>413 大嘘言ってんじゃねえぞw
左伝っていうのは
>>412が言うように日記であって
感想文みたいなもの。人の感想文読んで勝手に浸ってるおまえ自身に気づけよ。
大説=四書五経、二十四史などの実物の経史書
中説=東洋の歴史文学、時代文学
小説=西洋の全作文、近現代小説
大説はまさに、古からの偉人たちが直接紐解いてきた業務用資料。
中説はその、偉人たちの言行を多少のフィクションも交えつつ記したもので、
大説ほど業務向けに特化されてはいないが、小説よりは偉大なことが書かれている。
小説はまさにずばり、姑息で卑怯な小人たちの落書き。
書いてる本人も小人ならば、書こうとしてる内容も搓末なそぞろごと。
頂点の聖書からしてそうである西洋の全作文がそれに当たるし、
それらの影響を受けて作られた近現代の日本の諸文書もそれに当たる。
いま自分が書いていることはかろうじて中説あたり。
大説を立てて小説を侮る、興るものと滅びるものの均衡を取った中正な説話。
ここで書かれていることが分かるようになったら、
次は本当に小説を捨てて大説を読む実践に移ればいい。
新刊書店にはほとんど置いてなく、図書館や古書店にかろうじて置いてある、
難しそうだし、本当に難しいけれども、本当にためになる古からの経史書こそを手に取って。
>>415 自分勝手な分類はやめてくれないか?
自分でHP立ち上げりゃいいだろ
ここは「自分だけ」の掲示板じゃない。
417 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 15:02:57 0
厳密に分類しようとすればどう考えたってそうなるから。
「中説」は造語だけども、小説的価値観に侵されず、大説に基づいて書かれて
いるような歴史時代小説は、犯罪推進状態の純粋小説とは区別するために
中説と言い直したほうがいい。吉川英治氏も山岡荘八氏も厳密には中説家。
嗽石や三島は小説家。大衆小説なんて格下扱いは
筒井康隆あたりだけにあてがっときゃいいんだ。時をかけるおっさん。
>>418 だからさあ
ここはみんなが書き込める掲示板なわけね。
そこでひとりだけ俺はこうだっていってもあんま意味ないわけ。
常識からズレてるなら当然。
その分類法って一般常識なの?
別に小説は小説で楽しんでりゃいいんだ。小人の慰み物として。
江戸時代にだって近松の心中物あたりが商民あたりにウケてた。
平和な世の中で、他者に迷惑をかけない程度に制動の効いた楽しみなら別にいいんだ。
聖書も新宿二丁目あたりで細々と面白がられてりゃあ、それで。
421 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 15:13:58 O
山根いるみ かわいい
422 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 15:47:13 0
下 ガダム マサラ
423 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 16:50:15 0
>>419 ここのスレ主もそうとうずれた物の見方してるし会話不能だけど
2ちゃんって好き勝手書く場所だし、いんじゃね。
そもそも、「掲示板が常識を提示する場所」なんてのは勘違いだ。
別に、個人的な偏見などを述べているのではなく、
あたかも3+3=6であるかのように、当然のことだけを述べている。
別に今の世の中では、3+3=7や8であることも認められていて、
「間違い続けることの自由」が謳歌されることにより、むしろ7や8であることのほうが
多数派とすら化してしまっている。そんな中で改めて3+3=6であることを述べれば、
極端に偏った個人的な私見扱いされて、「3+3=7や8であることもあっていいように、
3+3=6であってもいいじゃないか」というような、間違っている側からの正しい側へのかばいすら試みられる。
別にいらないことだ。自分が個人的に主張しようがするまいが、3+3が6であることは、
人間の側の原則的な定義として存在しているんだから、
原則的な取り決めを逸脱し続ける自分勝手の側のほうこそが
自分らの今後を心配すべきだ。普遍的に安定しているものと不安定なもの、
いくら後者が前者への優越を試みようとも、釈迦に説法ならぬ仏像に説法でしかないから。
別に、3+3が7や8であることも頑なに否定したりはしないが、
(公孫龍子や害為正法外道あたりは認める)、
そういう考えはあくまで「外道」のものとして、基本は3+3=6に止まって、
重畳的な構築を続けてきたのが東洋教学。
対して、始めから3+3=6であることを完全否定して、
7でも8でも2691でも579134802でも、
何でもアリだとし続けてきたのが西洋教学。
今さら3+3=6であることを認めた所で、6であることこそを完全否定して、
それ以外だけを構築してきた連中が、3+3=6こそを構築してきた偉人たちと
友好を望んだ所で、あまりにも格が違い過ぎるわけで、
明らかに敬い敬われる長幼の関係であるほうが適当だ。
存在を完全否定したりはしないから、ただ身分をわきまえた付き合いを試みよとだけ促すもの。
426 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 18:49:38 0
東洋全般言いながらシナばっか
シナ教学総スレって改めたら?
427 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 18:56:15 0
>>425 なんで算数と孫子が関係あんのか
もう基地外としか言えない。
>>426 一冊の本で1スレを消費し尽くしたとしても余りある。
東洋全体を俯瞰するなら本当に9999スレでも足らないぐらいだ。
>>427 春秋時代の詭弁家で、公孫龍子ってのがいたんだよ。
いつの時代にも馬鹿はいて、その馬鹿を戒めて真面目に戻るのと、
面白がりすぎて正道を踏み外し通しになるのとが、
>>424-425での
算数の比ゆにおける、3+3=6とそれ以外との分かれ目だ。
冗談程度の詭弁は東洋でも認められていて、それが現実の犯罪の
正当化までいくとちょっと問題になるだけだ。「ああ、こいつらは
滅びるな」との運命を察知して、侮りの対象になるわけだ。
人類の最終目的ってなんだと思いますか?
完全な平和が確立された場合の話で。
やっぱ宇宙でしょうかね
ショーペンハウアーも天文学程人をひきつけるのはない、とうろ覚えですが言ってました
宇宙の神秘に勝るものはないですよねぇ・・・
不識
431 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 01:01:20 0
中国スレ
432 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 01:47:44 0
漢字には長所と短所がある
433 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 02:53:41 0
左伝は小説
3+3=6の道理を、非常に入り組んだ法則に至るまで詳述した大説。
7でも8でも何でもありな小説とは違う。超越神(に仮託した作者の恣意)
の一存でどうとでもなる妄想劇とは違い、占いのように不安定な現実の運命を
ありのままに描いている。
多くの人間の最大級の願望が錯綜する、
カオスに溢れた現実をつぶさに見つめ、それでも通用している法則だけを
「勧善懲悪」という、極めて大雑把だが絶対に手堅い枠組みで提示している。
人間は勧善懲悪こそを楽しむ生き物であるという、善とか悪とかいった言葉の
原則的な定義に立ち返ってみれば必ずそうである当たり前の取り決めだけに即して
恣意を超えた多元的な人間性の道理を把握し、現実の社会動向にも柔軟に対応できる
大局を見計らった思考や言動の規範を身につける材となる。
自分自身の盲目な意志こそを最大級に増大させて、大局を見計らう所か
ただひたすら外部に迷惑をかけ通す病巣と自らが化してしまうのとは逆に、
あっちも立ててこっちも立てる、多数派の意図を個人でまとめ上げる
賢忍不抜の統括者となって、個人的な活躍は地味なものになろうとも
最後の最後には全てを丸く収める、人類という一家の大黒柱となる。
435 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 13:00:37 0
論語も創作
436 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 13:14:24 0
応仁の乱から大坂の役までが148年。明治維新から現在までが142年。
江戸時代や平安時代等、3、400年の泰平の後に150年程度の乱世が続き、
また長期の泰平に戻るの繰り返し。何も変わらない日本の歴史。
一方で終わってしまう世界の歴史。
根幹になっている思想宗教からしてペテンである西洋社会が破綻して
統計上の等比級数的な増長は途絶え、悠久の時空を司るインドや、
日本と同じく循環型の歴史を営む中国の台頭に取って代わられる。
西洋20億だけが実質的な世界扱いされていたのから、
65億超の全地球人類社会がまとまっての歴史をつむぎ始める。
順当な人類レベルでの歴史観も、宇宙の神秘までをも包含した普遍性も、
いずれもが多様性こそを推奨する調和的価値観の下で容認され、破綻を
来たすような不安定な価値観も、十分に制動が利いた中であれば黙認される。
全てが肯定され尽くした先にこそ、実は秩序立てられた将来が待っている。
437 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 13:58:15 0
孔子って胡散臭くね?
3+3=7は創作、3+3=8も創作。
3+3=6も創作。だから何?
3と3を足そうとする時点で、人間の側の原則的な創作(定義)であり、
その答えを6とするのも原則的な創作。
そこからさらに、3+3を7や8とするのは、原則には反しているものの、
二重の創作としては許される。
3+3を6とするのは一重の創作。
3+3を7や8とするのは二重の創作。
一重の創作の原則である3+3=6を、
3+3=7や8と同じ二重の創作であると主張すること、
そりゃあ一段階目の自分自身の創作を反故にしているだけ。
自分自身で勝手に定義した原則的な創作こそを否定する自己欺瞞、
そりゃあ別に許さないことはないが、その自己欺瞞が自己否定に発展し、
さらには自殺へと帰結した所でどこにもおかしい所はない。
自分自身による原則的な定義の否定、自己欺瞞、自己否定、そして自殺。
敢行が許される代わりに破綻も許される、
全てが許された結果そういった悪趣味は自ずと減っていく。
439 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 14:01:17 0
>自分自身で勝手に定義した原則的な創作こそを否定する自己欺瞞、
>そりゃあ別に許さないことはないが、その自己欺瞞が自己否定に発展し、
>さらには自殺へと帰結した所でどこにもおかしい所はない。
>自分自身による原則的な定義の否定、自己欺瞞、自己否定、そして自殺。
>敢行が許される代わりに破綻も許される、
>全てが許された結果そういった悪趣味は自ずと減っていく。
ぜーんぶおまえの自己紹介乙。
まことに、真理とは原則的な定義のことであり、
原則的な定義を見定めることで自己を欺かないことにより、
仏者や儒者はこの上ないほどの楽さ楽しさを味わい続ける。
真実の道理たる原則的な定義を蔑ろにし、
自己を欺く辛苦のただ中に居座り続ける者もいる。
一度だって原則的な定義の厳守に戻ってしまったなら、
自己欺瞞のさ中に創作し続けてきたあらゆる事物のゴミさ加減に気づいてしまう。
概ねゴミであることは知覚してしまっているんだけども、
偽りであろうとも自分であるはずの今の自分が可愛いすぎて、
最終的な納得だけは受け入れられずにいる。
詐欺師廃業一歩手前。苦しんで苦しんで、その一歩を踏み出せ。
441 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 15:10:53 0
孔子って人物って作り話?小説?
言葉が紡がれたり、文章が書かれたりすることがすでに創作だから。
その創作の中でも、現実に通用するような原則的な定義だけを示す場合と、
本当に好き勝手な妄想を積み重ねていく場合とがあって、
仏教は絶対的な真理について、儒家は世俗の道理ついて
前者の取り決めを守っている。基本は創作を忌避するものの、
やむなく創作する以上は、そのように取り決めるわけだ。
443 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 15:34:44 0
じゃあこのスレのほぼ全部が創作・妄想ってことがあるわけ?
原則的な定義ぐらいには即している創作文芸。
大説だったり中説だったり。
445 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 15:52:25 0
このスレが?
>>445 「言を食む(左伝・哀公二十五年)」のを止めるが最善として、
その次ぐらい。良言を食んで悪言を捨てている。
論争の相手がいなくなりゃあ自然と言自体もなくなる。
448 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 17:23:19 0
なぜキリスト教は駄目でイスラム教はいいのか不明
イスラムは出来損ないのアブラハム教だから。
出来損ないであることで、害為が旺盛であればあるほど
偉大扱いされるアブラハム教の毒性を緩和している。
極端な戒律厳守とか女性差別とかの内的な問題はあるものの、
自分らから外界に侵害をけしかけるほどの不埒さはない。
過激派も西洋からの挑発や武器供与でこそ膨らんでいる。
乱痴気騒ぎの種となるからこそ面白がられているのが聖書教
だから、そうでなく、しかもインド以西の東洋教学ほどの積極的な
善良さに満ちているわけでもない、極めて没個性的な文化圏と
イスラムは化している。宗教風俗の頑なさとは裏腹に。
450 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 18:31:44 0
偏見じゃないの〜
偏見は苦しいもんだ。対して正見は楽で楽しい。
大乗仏教の流布などによって、日本人は苦楽への特級の敏感さを供えている。
だからキリスト教発症率も増えない。これだけ洋学が出回っているにも関わらず。
洋学ペースでの文化文明の構築にも、なるべく苦しくない範囲で携わる。
ウォークマンとかCDとかTVゲームとかアシモとか、最先端技術もなるべく無害な
ことのために用い、軍事とか宇宙開発とかの悪用されかねない方面には、たとえ
携わる能力があっても控えめでいる。ステルス技術もロケットの筐体加工も
日本人が担ってるが、民間人の虐殺などにも使われかねず、そのせいで
自分自身が苦しむ原因にもなってしまいかねない、だからなるべく公表もしない。
徹頭徹尾楽が好きで苦が嫌いだから、一時の名声などよりもそっちを優先するんだ。
452 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 18:56:05 0
>>451 なんで大乗仏教がウォークマンなわけ?
こういうの精神病でなんて言ったっけ?
なんでもかんでも結びつけるやつ。強迫神経症?
453 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 19:26:22 0
仏教においては、数的な概念論もあくまで無記なので、あまり適切な表現にはならないが、
3+3=6であるというのが正見として、7や8であるとするのが偏見であるとまず考える。
6であることだけが正見であり、それ以外は全て偏見だから、「3+3」という算数の答えは
正見よりも偏見のほうが遥かに多い。それでその選択肢の広さに惑わされて、3+3が7や8で
あることのほうにのめり込んでしまい、偏見同士での言い争いの世界にとどまってしまう。
この状態が、唯識思想でいえば「末那識」にあたる。偏見的な迷妄に囚われた状態の識見。
対して3+3=6こそを認め、それ以外を認めないことが「阿頼耶識」にあたる。3+3に関しては
偏見よりも遥かに少ない、たった一つの正見でしかない3+3=6だけが、阿頼耶識に基づく。
454 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 19:27:35 0
阿頼耶識だけに基づく正見は安楽となり、末那識に基づく偏見は辛苦となる。
唯識だけだと説明できるのはここまでになるが、さらにここに中観を導入することで、
積極的な正見の推し進めと偏見の排除、破邪顕正を試みることができるようになる。
(中観を唯識とは別個の存在と考える人間も多いようだが、
>>17での「十住心論」からの引用
からも分かる通り、本物の中観は唯識と同じく、六識に末那識と阿頼耶識を足した八識〔八心〕を扱う)
例えば、ある所に一つないし二つの「犯罪を正当化することだけを目的としたカルト宗教」があったとする。
この宗教に対する識見として、「犯罪のための宗教ではなく宗教のための犯罪」だとか、
「宗教でも犯罪でもある」とか、「宗教でも犯罪でもない」とかいった多くの意見が挙げられうる。
これらの意見は、上記の元来の当該宗教の原則的な定義に即していない、二重の定義を施した偏見であり、
唯識でいえば末那識に相当する。この宗教に関しての原則的な定義に基づいた正しい識見は
「宗教のための犯罪ではなく犯罪のための宗教」のみであり、この識見だけが「阿頼耶識」に相当する。
455 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 19:28:54 0
阿頼耶識に基づく楽な正見だけを選び、それ以外の末那識に基づく辛い偏見を捨てるために、
あらゆる事物を一切皆空と断ずる中観の下で一旦は全ての識見を平均化させ、それでも不虚なる真実である
「宗教のための犯罪ではなく犯罪のための宗教」という、原則的な定義のみを虚無のざるによって掬い出し、
唯識だけでは末那識からの侵害を受けやすかった阿頼耶識の正見を不退転のものとさせてしまう。
すると阿頼耶識は完全なる純化を果たした阿摩羅識と化し、天台華厳らの最高級顕教へと接続する。
わざわざ善因楽果を好き好むまでもないほどに、「宗教のための犯罪ではなく犯罪のための宗教」
という正見だけが絶対化されることで法愛を断ち、さらには「釈摩訶衍論」らにおける乾栗陀識なども
相まって、一旦は中観で完全なる引き離しの対象とした、末那識の迷妄なる偏見に対しても臨機応変な
対応ができるようになる、ここまでいけば、大乗を超える金剛乗とも言われる密教の境地となり、
空海の「十住心論」に基づく心識の最高段階(秘密荘厳心)にまで到達することとなる。
456 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 20:05:23 0
1さんにいっておきます
ピラミッドと縄文土器を比較されましたが
最近の研究では実はピラミッド製作の奴隷はムチでビシビシしごき倒すような
ものではなかったらしい研究が出ています
休みもちゃんとあり、急な用事とかで休みももらえたそうです。
お間違えなきよう
休みもちゃんとあり、急な用事とかで休みももらえる奴隷か。
しごき過ぎるとかえって労働力の低下を招く、
ムチの適切な加え加減も原初から考慮に入れられていたわけだな。
オーバーワークにならない限りでの辛苦の強要、真綿でできた縄。
無意識(末那識)にでも強要されている時点で
すでに辛苦であると気付いてしまった時点で終わる。
二日酔いで休みとかもかかれていたそうですよ
だから縄文土器と比べるのはおやめください
459 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/10(日) 01:00:51 0
>>453さん
どこの書籍を読まれたらそういうお考えが出てくるのか。
末那識とは自他を区別、差別する根本的自我の心です。
識見は道理を見極めるという意味ですから、内容が通りませんし
3+3=6こそを認め、それ以外を認めないことが「阿頼耶識」にあたる
とありますが、これが末那識であり、全く逆です。
6はそのまま6であり種々の縁に依りて(3+3でも3x2でも)成り立つ。
その縁起を知るのが第一歩です。
阿頼耶識だけが正見というのも誤りです。
(そもそも正見(正しく見るでよろしいでしょうか)という観察の働きは第六意識ですし
それが出来ればそのまま悟りです。もはや意識とは言いません)
末那識によって煩悩が薫習された世界(阿頼耶識)が清浄(貴方の言われる
正見の世界)でしょうか?
>>455についても
もっともらしい事を書かれていますが
唯識では一切皆空(これでは中観ですので)は一旦置いて
まず三性を考えます。
末那識の「引き離し」などどこにもありません。
また人の話をちゃんと聞かない、自分の意見だけのまくしたてか。
>>453の始めの時点で、算数を当てはめるのがあまり適切ではない比喩
であるのは断っている。算数では3+3は6が正解となり、7や8が誤りとなるから、
6という正解を尊重できる識見を阿頼耶識、7や8といった誤りばかりを認める
「誤った識見」が末那識であると“例えて”いる。別に算数が唯識そのものなのではない。
>>454-455はすでに唯識を抜け出して、中観や法華、華厳といった十住心論上の
高階領域に上っている。上ったから唯識がなくなるのではなく、唯識での成果にさらに
一切皆空や会三帰一らを上乗せしている。これはあくまで十住心論の階梯に沿って
いるので、唯識が厳密に中観や法華、華厳などよりも下であると断定することへの
文句は弘法大師にでも言われたい。高野山でまだ生きているそうなので。
ピラミッドみたいな無駄な巨大建築を作らされてる時点で、
否が応にも膨大な辛苦が伴っているのは分かりきってんだ。
重たい石を何重にも何重にも積んでいって、時には崩落事故などによって
多くの人命が失われつつも、最期に出来上がるのは別にそれらの人々を供養するためでもない、
たった一人の王のためだけの墓。死への恐怖を脱落も出来ない煩悩にまみれた小人の王の墓。
これがまだ、書経の禹王伝説のような、洪水を未然に防ぐための治水工事だったりすれば、
誰しもがその恩恵に与かれる、「大変でもやりがいのある仕事」になる。本当に人々のためになる
仕事であるなら、どんなに重労働でもその苦労が報われるが、ピラミッドの場合はそうでもない。
エジプトでも毎年起こっていた洪水のほうはそのまま放りっぱなしにして、たった一人の小王の
ためにやたらと石を重ね続ける徒労感、賽の河原にも似たどうしようもない辛苦がそこにある。
重労働だから辛苦になるのではなく、重労働でしかも徒労だから辛苦になる。
誰も住まない過疎地でのマンション建築は反対を押し切ってでも進められ、
住民が本当に望んでいる都市部への連絡道路の整備は滞っていたりもする。
近現代の土建業を見ても似たようなことはいくらでも起きている。労働行為の制御を司る
統治者が無能だったり小人だったりすればああなるという失敗の先例にピラミッドがなっている。
最近の研究ではピラミッドは景気対策のためだったと主張されている。
つまり、ケインズのいう穴掘り事業だったらしい。
土建業の内の「建築」なわけ、ピラミッドは。
マンハッタンも一枚岩の上にやたらとビルを載せてるだけ。
対して、「土木」のほうはむしろ中国や日本のほうが発達している。
トンネルにダムに埋め立てに道路、成果が見えにくくとも確かに役に立つ。
東京湾の海岸線の入り組み具合も半端じゃない。あれも別に今に
始まったことではなく、家康公が駿遠三甲信から関東に移って以来の伝統。
江戸城(現皇居)のお堀も四十年かけて造り上げられた巨大人工物。
それでも300年の泰平を保証するための礎としては価値があった。
たった一人の王の死などではなく、全ての人々の生のためにこそなされる
土建ならば、どんなに大変でもやりがいがある。金の動きのほうばかりに
囚われて、本当にその事業がやりがいのあるものかどうかが蔑ろにされる
ことこそが厭われなければならない。全ての土建業を否定するのではなく。
万里の長城に、安土桃山城に、ブルジュドバイ・・・
巨大建築ってのは、古今東西に関わらずバカっぽい。
苦労や見てくれの割りに何の役にも立たないのが原因。
江戸城は、お掘りの巨大さの割りには質素だったという。
土壁晒したままの簡単な建て付けで、建物としての豪華さは
名古屋城や大阪城に譲っていた。だから焼失後も特に再建計画は立っていない。
東京が建物に関しちゃ作っちゃ壊しの有機的な風潮が許されているのも
土台となっている整地がすでに普遍的な遺産だから。
ピラミッドや万里の長城みたいに風化を心配する必要もない、
何万年も残り続ける真の人類文明の英知だから。
465 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 11:58:46 0
だからピラミッドは無駄なもんじゃねーの
分かる?
全ての土建が無駄なわけじゃない。
本当に必要なものであればこれからも伸びる。
禹の土木事業も伝説上はピラミッドより古い。
本当に大規模で、有用で、普遍的な人類文明は
ピラミッドなどとはまた別のところにある。
砂上の楼閣を超える縁の下の力持ち。見てくれ
ばかりが頼りな小人はその存在にも気付かず。
間違えた。ピラミッドより古いのは禹王伝説ではなく三皇五帝伝説のほう。
最古級の重要文化文明の順位を挙げると、
1位:縄文土器(文明の起源である縄の正当利用)
2位:楔形文字(世界最古の文字)
3位:易(規矩を用いた実相文明の把握)
4位:ピラミッド(無駄な大工事の起源)
5位:禹の治水事業(有益な大工事の起源)
文明ではなく、純粋文化としてであれば、縄文土器の上に石器や
壁画なども入ってくるが、規矩準縄を用いる体系的な文明の構築は
縄文土器からこそ始まっている。文字でも大工事でもなく縄の活用から。
次いで文字が生まれ、三皇の内の伏羲によって暦法の活用道具
でもある易が生み出され(暦は農作業にとって重要な意味を持つ)、
その次にやっと、バカ建築の起源であるピラミッドが生まれた。
文明の起源という点から見ればピラミッドは最古でもなんでもなく、
大工事としても治水事業のような本当に有用な工事とは別物の無駄建築。
中途半端な存在の割りには、見てくれの奇抜さで小人を引き付ける、
「見せ物」の起源にはなっているといえる。重要でないのに奇を衒う起源に。
468 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 13:32:56 0
469 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 13:38:31 0
世界最古の文明が「文字」ではなく「文様」である点も重要なことだといえる。
文様は文であると共に図像でもある。文と図像とを分裂させない考え方が
東洋に書道などの文字芸術を発達させる余地も与えた。文字が図像としての
意味も持つことで、ただ文字であるだけでは把握のしようのない実相までもが
把握される。文字は文字、図像は図像と完全に分裂しきっている西洋社会では
実相の把握が疎かになって、実相に基づかない文字や図像への迷信に耽溺
してしまった挙句、現実社会を破滅に陥れてしまう。漢字や梵字のような実相から
の理念の把握を目的とした文字に基づけば、現実を蔑ろにしてまでの文章信仰
や図像信仰が起こりえず、例え南無阿弥陀仏や曼荼羅を信仰しようとも、その
信仰がそのまま現実での大人しさに落とし込まれるようにちゃんとなっている。
東洋文化文明が、西洋のそれと比べて決定的な相違を持っている根拠となって
いるのが縄文土器の縄目文様。文化文明が常に実相の把握を怠ることなく発展
していくためのお守りとでもいうべき存在に縄文土器がなっていて、縄文文明の
恩恵に与かることなく、文字と図像が完全分裂した状態の粗雑な文化文明だけ
を構築してきてしまった西洋は、まことに不遇であったといえる。実相を蔑ろにして
しまっているが故に何もかもが辛く苦しい、東洋の文化文明と比べてどこもかしこ
もが楽でも楽しくもない徒労の塊たる。小学校の工作からでもやり直さないと。
471 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 15:28:22 0
472 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 19:42:51 0
面白いな
473 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 22:36:07 0
「富みて能く臣たらば、必ず難を免るるは、上下、之に同じ。(中略)富みて驕らざる者は鮮なし。(中略)
驕りて亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり」(新釈漢文大系「春秋左氏伝」定公十三年より)
臣下としての礼儀を重んじれば、例えどんなに富み栄えようとも問題はないが、
だいたいは富み栄えてしまうと同時に驕り高ぶり、そのせいで必ずといっていいほど滅んでしまう。
「平家物語」の冒頭、「驕れる者は久しからず」の依拠元ともなった可能性のある記述。
朝廷を脅かすほどの隆盛を極めた平家は落ちぶれ、例え弟(義経)だろうとも幕府体制に差し支える
朝廷へのおもねりを目論めば許さなかった頼朝等、私情よりも公共性を重視した源氏こそが
武家の棟梁として鎌倉時代の政権を掌握した。
徳川幕府もそれに倣って、諸国を治める大名が朝廷から高位の官位をもらうことを禁止し、
太閤秀吉の子供であることから例外的に右府まで上り詰めた秀頼も結局は自決させてしまった。
実力社会の支配者として君臨する代わりに、朝廷での最高官位は征夷大将軍までとする、
富み栄え故の驕り高ぶりを抑制させる計らいが日本の武家社会では利いていて(ただし室町幕府は
若干その点で不完全だった部分がある)、権威(朝廷)と権力(幕府)の分離措置に基づく
長期の安定統治が叶えられてきた。これも実は左伝などの儒家教学を参考とした便宜措置。
権力者が権威としての偉さを頂点の君主(天皇)よりはかなり下に置くことで、臣下としての礼儀を保つ、
だからこそ最大級の富み栄えの下でも驕り高ぶることがなく、故に久しからぬこともなくなる。
日本の歴史が奇跡的なほどにも長期の平和政権を維持し続けてきたのも、本国中国以上の儒家教学の
厳格な活用があってこそのもの。道家でも法家でもなく儒家こそを抽出して活用しきったことこそによる。
474 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 23:03:14 0
「夫れ禮は、死生存亡の體なり。將に左右・周旋・進退・俯仰。
是に於てか之を取り、朝祀・喪戎、是に於てか之を觀んとす」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」定公十五年より)
礼儀は生死存亡の要であり、一つ一つの立ち居振る舞いの
礼儀正しさの如何によって、命までをも左右するものである。
極端な例としては、「左伝」哀公十七年に、宴席で肩脱ぎして帯剣したままで
食事を始めた良夫が「死罪三つ分に値する」として即刻殺処分されている。
無礼が過ぎて殺されるというのも、実は日本の武士ではなく儒家が起源。
人間関係の無難さを司る礼儀を大幅に踏み外しているから殺す、
こんな奴をそのままのさばらしておけばそのほうが秩序を余計に乱す原因に
なってしまうから殺す、穏便さのためにこそこいつだけは殺しておくという、
温厚さ故の巧みな殺伐さのわきまえが斬り捨て御免となったりもしている。
決して個人的に気に食わないとかの話ではなく、公共性のためにこそ
無礼者が死ななければならなくなることがある。法律ではなく礼儀に基づいて。
475 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 23:20:54 0
「私讎は公に及ばず。好めども過ちを廢てず、惡めども善を去らざるは、義の經なり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」哀公五年より)
私怨は公共性に匹敵するものではない。好きだろうとも過ちは見逃さず、
嫌おうとも正しい部分から目を背けないことこそは、義の極みである。
「私情を差し挟まない」のではなく、私情は私情で置いておくとして、
事実としての正誤善悪を優先することこそが、公共性を真に尊重する道義性となる。
人間はロボットではないから、感情は普通はある。坊さんのように情念からの解脱を
目指す人間もいるはいるにしろ、普通は人間は感情に左右されるもの。だから「感情を
捨て去る」のではなく、感情と公務は全くの別物と捉え、正しい公務のために私情が劣後
されることを耐え忍ぶ点にこそ、儒家教学の本髄もまたあるといえる。現実の社会で本格的
な仕事をする人間などに、情念を捨て去る余裕などはないから、せめてでも情念と公共性
とを完全に分離して、社会上の行動が外見だけでも正しくなるように努力する。
社会を捨て去った聖でもなく、かといって好き勝手やり放題な俗でもなく、
俗であるにはあるなりの最大級の正しさを見込む、ありそうで他にない特殊な教学。
476 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 23:45:12 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20679&if=gb 「左伝」哀公六年、楚の昭王が発病した際、「黄河の神が祟っている」と占いに出たが、
昭王は決して黄河の神を祭ろうとはしなかった。黄河の神を祭るのは楚の伝統ではないからと。
孔子もこれを褒め称えている。自分たちが昔から祭ってきた長江などの神こそを尊重して、
たとえ呪われていると言われようともそちらの神に乗り換えたりはしない伝統保全の優先。
「信じないと呪われる」の論理で信者拡充を目指すカルト宗教などに対して、
ただ「嫌だ」とか、「何も信じてない」だとか言うよりも、「ウチは○○宗ですから」とかいう風に
昔から檀家であった正統な宗教を出してきたほうが、うまく断れることが多い。
それはただ「席が埋まっているから」なだけではなく、カルト宗教の物理的な侵害などに対しても
十二分な防備を図れる教義を正統な伝統宗教が携えているから。下手に侵害しようものなら
カルト宗教の側が自業自得の被害を受けてしまうほどの、本当に強靭な教学を持っているから。
人間は何も信じないでいられるほど強い生き物ではなく、何も信じていないつもりでいるような人間
ですら、先祖代々の潜在的な信仰心に基づいて健康でいられたりしている。その恩恵を忘れ去って
ダメな方向、ダメな方向へと陥っていき、自滅寸前にまで追い込まれることがあろうとも、
本当に正統な教学の素地が備わっている人間であれば、また立ち直ることも必ずできるもの。
人間の歴史は正統な文化文明からこそ始まっていて、後から少しグレ気味の文化文明が派生した
だけだから、原初まで遡れば誰しもが立ち直れる可能性を宿している。悪いことをしたり言ったり考えたり
しないままに、平穏な生活を営める素地が本当の原初にまで帰れば必ずあるから、心配はいらない。
食事は日本食ですか?
だいたい日本食だな。
日本人が作ればカレーでも洋食でも和風の味付けになるがな。
世界で一番うまいフランス料理が食べれるのは東京ってな。
479 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 13:00:32 0
「君は器に異なり。以て二ある可からず。器の二は匱しからず。君の二は難多し」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」哀公六年より)
忠君は唯一無二の君主に対してこそ成り立つもの。「象徴」なんていう道具扱いされたり、
面従腹背の権力者との友愛に参加させられたりではなく、尊敬の対象としての立場の
洗練が為されていなければならない。「尊皇攘夷」という幕末の討幕運動は、明治から
昭和20年までの大日本帝国の皇国主義に転化したものの、その内実は儒家教学も
仏教も捨て去った洋学一辺倒の専制君主体制であり、君主たる天皇の意向も大して
尊重されず、枢密院らによる自分勝手な決断ばかりがまかり通っていた。敗戦後にはその
建て前上の皇国主義すらもが拝されて、討幕の名目であった尊皇攘夷は全くの有名無実
と化し、まだ権力の正当性の拠り所としての君主の価値を儒家教学などからわきまえていた
征夷大将軍による幕府制のほうが、忠君を実の伴う威儀とさせていたといえるほどにも、
君主の存在性を形骸化させた、二心三心持ち放題な粗末な社会体制と化してしまっている。
皇国主義の復権のためではなく、儒家教学に基づいた大夫士人の復権のためにこそ、
二心なく尊敬するに値する君主の復権もまた望まれる。いかなる面においても道具扱い
などはせず、権力の上に立つ権威としての唯一無二の貴さが持ち直されること。もちろん
血統上は今でも健在である天皇家こそが、細くて長い昔のあり方を取り戻すこと。日本なら。
480 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 13:11:30 0
うよさよでも呼んでくるか
481 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 13:20:43 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20695&if=gb 「左伝」哀公七年、呉の太宰ヒが魯の季康子を招聘したけれども、代理の子貢がやってきた。
太宰ヒはなぜ本人が来ないのかと攻め立てると、「貴国を今治められている仲雍は、
髪を切り、刺青をして裸で居られている。そのような無礼な王の治める国に本人などが
出向けましょうや」と言い返した。
短髪や坊主がいけないというのは、「論語」にも書かれている儒家教学上の取り決め、
他にもこんな風に、刺青をしたり裸でいることも(
>>474の哀公十七年の話からも分かるとおり)
礼法には背いたものとされている。「この桜吹雪がに見覚えがねえとは言わせねえぜ!」で
肩脱ぎして犯罪者に刺青を見せ付ける遠山の金さんなどは、とんでもなく無礼なことをやっている。
実はこれも確信犯なわけ。不埒な犯罪者に対する、儒家教学を逆手に取った物凄い威嚇なわけ。
もちろん金さんこと遠山景元も、幕府のお偉いさん相手ならば慎重な礼儀作法を尽くしていた。
泰平の世の中でまだ奇抜なことをやってたのが逆説的に面白がられたわけで、あれが江戸時代
の全てだなんて考えたんじゃ本末転倒の誤解に陥ってしまうことを留意されたい。
だーかーらー
他人の日記読んでその気になんてんじゃないわよって
483 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 13:56:50 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20754&if=gb 「左伝」哀公十一年、孔子の門人冉求の統率者としての大活躍が見られる。
「軍備には疎い」と自分から白状する孔子とは違い、かなり軍務についての
積極的な発言が行なわれ、自らも兵を率いて多くの成果を挙げている。
もうすでに「左伝」は全て読み通したが、この後にも孔子は無礼な君子の
質問に三度答えなかったりと、ふてくされとも思えるような些細な話だけを残して、
哀公十六年の四月己丑に亡くなっている。まだ上記の冉求の活躍や、
同じく孔子の門人である子路の哀公十五年における和睦の交渉などのほうが
政治的な事件としては突出している。要は、孔子は政治家としてはそんなに
活躍したほうではなく、純粋な思想家や賢人としてこそ大成したものだということ。
思想家としての卓越さが唯一無二であることは、後世における、儒家教学による
統治社会の成功ぶりからも伺える。実際の統治手段としての伸びしろが無限大
であることこそが、管仲や晏嬰や子産ら左伝上の活躍者とは決定的に異なる。
やったことの凄さ以上に内在する凄さを見極める慧眼が他の極東人(孟子など)
にもあったからこそ、後々盛り立てられていった協調的な偉人の系統となっている。
だーかーらー
他人の日記読んでその気になんてんじゃないわよって
おじょうちゃん、なんさい?
【朱熹】中国教学総合スレ0002【無門】
これからはこのスレタイで
左伝の寸評が終わったら、次はスレタイに沿って「無門関」でも読んでみようかね。
あんまり最初から代表的な人物ばかりを挙げすぎると竜頭蛇尾になるんで、
朱熹のライバルとして地味目な禅僧を挙げといたが、短篇だし、軽く読んでみようか。
もちろん仏説としてではなく中説として、専門的過ぎない話に止める。
488 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:12:16 0
寸評?小学生の感想文だろw
ほざくな。
人類総幼稚園児状態な中での小学生の感想文だ。
ありがたい大先輩のお言葉だ。ありがたく頂戴しろ。
490 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:18:30 0
491 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:45:30 0
幼稚園児に指図される覚えはない。
「コを務めて民を安んぜよ」(新釈「左伝」哀公十年より)
「小の大に勝つは、禍なり」(哀公十一年より)
「需ひは事の賊なり」(哀公十四年より)
「險を以て徼幸する者は、其の求め、厭くこと無し」(哀公十六年より)
「寡に及ぼすことなかれ。衆を畏るること無かれ」(哀公二十七年より)
短文の引用集。こんな感じの抜き出しを集めた「中国古典名言集」とかが
よく作られたりしているけども、編者はともかく、読者までもがそれだけで
中国思想を分かった気になるのはかなり危険な所がある。
「孟子」も抄訳されて規矩準縄とかの重要語が省かれたりしている。
四書五経レベルの儒家教学は隅々まで余すことなく重要なものばかりで、
一つや二つの成語を挙げただけでは「群盲象を撫でる」の様相を呈する。
左伝の中だと、特に重要なのは上記の一番上の「務徳安民」であって、
この一言で儒家教学の全ての理念が代弁されいるといっても過言ではないが、
そうであると分かるのはあくまで四書五経を全読してからのこと。
儒家という系統が本気で務徳安民を目指していることがそこまでいって
初めて実感できるようになる。決して片手間などではなく、全文を読むぐらいの
覚悟があって初めて教えを真摯に受け止める姿勢も勉学者の側に備わる。
抄訳は避け、訳文もなるべく補足程度に止める。儒家のような本当に
正しい勉強のためにこそ、それほどにも本格的な勉強姿勢が必要とされる。
492 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:50:35 0
493 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:53:36 0
494 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:57:48 0
孔子作とされてるのは偽作だよww
孔子は何も書いてないよww
495 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 19:10:29 0
問題は孔丘という個人、釈迦という個人がどうかではなく
儒家という系統、仏教という系統がどうであるかだから。
儒家や仏教といった会社を立ち上げたのが孔子や釈尊で、
そこに入社した人々の中から多くの偉人が派生してきた。
孟子に朱子に龍樹菩薩に親鸞聖人、正道を敷設する会社として
儒家や仏教が名門中の名門であることこそが重要なのであって、
一人や二人偉人がいてそれっきりなんていう個人プレーとは違う。
やはりそれは、男系を重視する風潮から来ている。日本の皇室から
アラブ社会に至るまで、男らしさを射精から尊重する系統信仰が
あって初めて「正伝の系譜」というものが成り立ちうる。自分勝手な
焼き直しであれば女系社会でも成り立つが、先人の教えを真剣に
継承する真面目さは男系社会でのみ育まれる。男系社会が
成立するためには女性の出産が貴ばれる必要もあるから、
自ずと主婦の神であるアマテラスもまた信仰の対象となる。
筋肉ムキムキなんて以上に本質的な男系信仰がそこにある。
496 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 20:47:51 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20838&if=gb 「左伝」哀公十六年六月、位牌の保守に関する命がけの説話がある。
仏具なら舎利(遺灰)を入れる特殊容器などがあったりもするが、
位牌は儀礼に沿って名前を書いているだけの木板。それでも命がけで
守り通そうとし、日本でも自然災害や空襲の際に真っ先に家から持ち出す
ものとして上位に置かれている。浄土真宗はこれを「迷信」として、位牌は
用いないようにしているが、別に位牌を大事にすることが全くの妄信扱い
などにされることは今の日本でも別にない。先祖を大事にする気持ちを
何かに仮託したいと考えたとき、舎利ほどにも扱いが難しくもなく、
それでいて金銀財宝のように先祖故の尊重とは別に大事がられる
ものとも違う、まさに自分たちの先祖への供養の気持ちの現われとして
適切なものとしての位牌を大事にすることが、外聞上も先祖供養の
大切さを流布させて、男系社会を守り抜く手段の一つともなる。
位牌を認めない真宗が百姓専門であるのもそんな理由がある。
497 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 20:49:50 0
>>486 おれも賛成
まあ、たまにスキムしてるROM専のオレがいうのもなんだがね。
仏教や儒教が中心、専門ぽいし、
>>1とスレタイは大きくくくりすぎの気がする。
ないようが充実してきたらスレタイかえればいい。
背伸びしすぎ。
別に自分ひとりでの単独占有が目的ではないから。
非カルト・反犯罪という東洋教学の理念を承諾した上で
儒家や仏教以外についても書きたい人間は書けばいい。
「左伝」を最後に四書五経は読了するんで、少しは他人
にも自由に書き込む余地を与えようかとも思っている。
9999スレ目指して協力していこうじゃないか。可能ならば。
499 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 21:18:23 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20873&if=gb 「左伝」哀公二十一年、儒書ばかりを拠り所として現実の礼儀をわきまえない
魯の非礼が非難されている。この頃からすでに「論語読みの論語知らず」はいた
(「論語」はまだなかっただろうが)。文章を偏重し過ぎて現実を蔑ろにすることが
左伝という文章の中でこそ戒められている。成文法も孔子本人らによって否定
されていたのだから、一旦自分たち(儒家)が文章を書く側になったからといって
自分たちの文章を金科玉条扱いにしたりすることも認めない。文章信仰ならぬ
不文律信仰とでも言うべきものが儒家にこそあって、禅の不立文字ですら儒家
に比べれば後発。いかに実践のための不文律教学を育むかという点でこそ
儒家と禅とは競合していて、朱熹も一旦は禅門を叩きつつ、公共性を重視する
儒家のほうへと方向転換した。儒家が打ち棄てられて禅は結構持て囃されている
今の世の中は、要するに公共性の欠如した世の中。禅は元来出家第一の、強度
の個人主義なのであって、社会で多くの人々と協力し合う場合になどに応用
するような代物ではない。集団行動の極みとも言える軍事行動までをも具に
鑑みて(ただし孔子ではなく後世の儒家に基づいて)、組織的な社会体制の
構築のために用意されているのはあくまで儒家のほう。社会を自分自身と共に
繁栄へと導く公共性の持ち主は儒者であれ。禅や小乗仏教は敬遠しておけ。
500 :
考える統合失調症さん:2009/05/11(月) 21:28:09 0
全ての事象が感覚によって造られる産物であると拡大解釈すると、
自分が車輪でもし触覚だけしかないとすると、幾何学的に全て感じられる世界は線か点になる。
(味覚があるなら,それらが色づいて見えるかも知れない。)