>>935 乙
>>930 やっと学校から書き込み!
■『心』の定義。主観や直観や知覚や表象や想起や想像や反省や意識や自我や私や統覚や持続など、
一般的に『心』は文脈により様々な呼ばれ方をされています。では統一的な性質は無いのかと考えます。
>とにかく今述べた現象群のどれかが現象している場合に(条件)、それを指して
>「心は〜」と語られるわけですから、要するに諸現象のうちどれかが
>『作動』してれば、その作動状態が『心』と呼ばれているわけです。
諸現象が心以前に定義され、それが「心と語られるがゆえに」「心」と呼ばれる、
というのがスパゲティの主張。しかし、任意の現象を心と定義しているので、
心を現象として定義していないことに注意。スパゲティのように、心的と
思われる現象群が、常識的に「心」と呼ばれることを踏まえて、
それでは今度はあらゆるほかの事象が普遍的に「心」と呼ばれうるのかどうか、
を論じる段になると、彼は観念論をここぞと持ち出すのである。
ここには、心という同一性以前に、絶壁がある。すなわち、
スパゲティが挙げた常識的意味での心、自我や反省や直観や知覚、が、心と定義される。
すると、心の定義は個人毎に異なることになる。定義が、彼らが思いつく限りの心的状態の
集合によってなされるのだから。そしてこの定義は、すぐ無意味となる。つまり、
スパゲティは、定義を一般的なものにしようと、すべての現象は心によって考えられるが
ゆえに、すべての現象は心である、という。すると、初めに出発した心の諸状態は、
ここで相殺される。しかし、スパゲティが最初に挙げた心的現象が、特にかつて「心」と
呼ばれたのには、特別な意味を見出すべきである。それこそが、スパゲティの心への接近であり、
ついで、それら心的現象を、その一部として含めるという全体性を得るのに、具体的で常識的なな心の状態を
特に心的である、とは言えなくなる。ここに彼の気づいていない淵がある。
>ですがもう少し厳密に定義を追い詰める事ができます。例えば「寝ている時」はあらゆる現象が現象しません。
>勿論、夢を見ている時は除外します。「寝ている時」「気絶している時」は現象が全くない、これは決定的に重要な知識です。
>勿論、“あとから“想起して「あれは夢だった」「事故って昏睡してた」と
>回想するからこそ、こうやって睡眠や夢や気絶について語れるわけです。
これは間違っている。なぜなら、スパゲッティのとる観念論を前提すると、
すべての現象は観念的だから、そこに内外の区別がない、ということになる。
しかし彼は、夢を見ているときは現象がないという。彼の言う現象とは、要するに、
知覚にとって無であるという現象である。しかし、知覚自体も現象であり、それが現象のすべてだ、
とすると、確かに彼のように無意識の領域は、反省はされない。が、夢のなかで知覚があるのは
自明である。彼は、この意識を具体的に捉えられる瞬間を唯一の現象としている。
しかし、そうして捉えた夢の内容は、その時間に赫々の知覚可能な現象をしていた、と
言えないはずがない。なぜなら、意識を意識することは、覚醒時さえ不可能である。
すると、覚醒時と夢との間には、なんら差異はないのである。もし覚醒時に意識を意識することが
できるとすれば、それは私の唱える「書き」によるしかない。
一元論をとっているからこそ、身体の外の現象については何も語れないどころか、何もない、という
典型的な独我論に陥っている。
上の書き込んでる哲学書の切り貼りと換言よりは読み応えがある。
具体的な相手スパに直接投げかけているから、意志がはっきり出ているのだろうね。
名無しで自演しながら牽制し合う罵り合いとか、
ボクのほうがしっかり本を読めているよとか、そういう駄文の弾幕とか必要ないよ、これからは。
944 :
考える名無しさん:2009/08/24(月) 16:12:50 0
>>940 メルロ=ポンティのハイデガー批判を思い出した
肉とか意味不明で投げて読むの止めたけど
>>任意の現象を心と定義しているので、
心を現象として定義していない
?????????
946 :
論理卿09 ◆gl3M7q7BbA :2009/08/24(月) 18:47:53 O
>>939 どうも「スパゲティは心のもつ全体性・包括性を見逃している」という点が
あなたの主張の中心にあるようだ。これに答える。
1.独我論は正しいよ。しかし情報が言葉より多いので言葉では独我論の定義ができない。
つまり「心」の全体性・包括性は言葉で定義できない。ゆえに心の定義を正しく他人に伝えることもできない。
2.では他人に正しく伝えられないものを、言葉で追い詰めて他人に正しく語ろうとする意義や効用はあるのか?と考える。
私のスタンスは「どうせ言葉にした時点で劣化するなら、劣化するなりに、それなりの事実を含みつつ
他人の役に立つように語るしかない」というもの。
947 :
論理卿09 ◆gl3M7q7BbA :2009/08/24(月) 19:21:45 O
>>940 ちょっと待ってくれ、「夢は除外する」と書いてあるから。当然、夢も現象の一つ。
しかし熟睡中や失神中はあらゆる現象が現象せず、起きたあとで「ああ、もう朝の8時か」とか
「俺はバイクで事故って3日も寝てたのか」のように想起と状況証拠で
空白の時間が「埋め合わされる」。
何がこの「埋め合わせ」を用意したかといったら、過去の想起や未来予測といった主観的な時間移動とは
独立に進行する客観的な時間進行が用意したと考えるしかない。
つまり前にのみ進む客観的時間は実在する。「世界5分前創造説」の類いの突飛な条件を除くならば。
「空間」はどうかというと、知覚に現れる空間であれ思考される空間であれテキストに書かれた「空間」であれ、
時間と比べ「心についての哲学」ではあまり重要でないように思う。
というのも、例えば目を瞑り鼻を塞いでフトンにくるまって「音楽」を聞いてるときは、
「空間」という知覚や概念はとても実感の薄いものになるだろう。
しかし時間経過は音楽でわかる。逆に時間経過がわからない状況というものは
考えにくい。私には「熟睡中」や「失神中」以外には一つも思い付かない。
例えば寝ようとしても考え事をしてしまう。考え事をしているときも時間経過はわかる。
要するに「順序をつくっていく」という作用が、心について考えるには重要なのだ。
空間には順序がない、時間のない空間はずっと一枚の絵だ。
「心と知覚では心が親だ」「いやそれでは知覚の一回きりの具体性を見逃してる」
「意識は何物かについての意識だから、心なんてない。知覚しかない。心は疑似カテゴリーだ」
とか色んな意見があるが、その多くは集合論モデルで考えてる。
「知覚と心、どっちが親か(=どっちがより大きな集合か?)」とか
「知覚と心はどっちが親かなんて議論が間違ってる(=どちらも排反関係だ)」と。
しかし、重要なのはどう定義すれば他人や社会にどんな「効用」が与えられるかだ。
心の定義について色んな意見があるが、大抵は事実を含んでるのだから、
「事実性」という一段階論理の議論は切り上げて、「有用性」という「二段目論理」に行かねばならない。
949 :
考える名無しさん:2009/08/24(月) 20:19:02 O
ああやっぱり、良くも悪くも社会学の徒であることよ。
950 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 01:13:09 0
ν速で素人相手に哲学を語ってきただけあって恐ろしいほど明瞭な文章だ。
951 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 02:41:10 0
知覚とは当然感覚器官の作用に過ぎない。つまり君は自分の感覚器官が上手く機能していないことすら気がついてないじゃないか?
952 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 04:44:06 O
あのさあ、
0=0
1/4=1/4
(1/2)^2=(-1/2)^2
(1-1/2)^2=(0-1/2)^2
1-1+1/4=0-1+1/4
1=0
とかやって喜んでるガキではないのだから
じっくり自分の言ってることを考え直してみ?
「自分はこう思う」っていうのは議論の正当化にはならんよ。
とりあえず、君の疑問が
見せかけでしかない問題、
内実の伴わない問題、
所謂pseudo problem
ではないということを示しなよ。
話はそれからだ。
そして、数学の証明のように一行ずつ詳細に説明してみよう。
例えば、上の式が誤っているのは一見して明らかだ。
このように、誰でも分かるくらい平易に問題を解き明かすのが肝要なのだよ。
今の君は無闇に1=0と主張しているに過ぎない。
953 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 05:10:41 O
別に君が1=0と取り決めるのは構わない。
そしてそれは、あくまで君の中でしか通用しない取り決めである。
自分の適用している因果関係が皆に共通のものだと思うが間違い。
因果関係こそが、ウィトゲンシュタインも言うように、迷信なのであるから。
迷信深い人と話が通じにくいのは、彼が己の取り決めた因果関係を省みないからである。
各自の取り決め、つまり各自の内的世界における因果関係は
そもそも個人間で共通するように形成されるわけではない。
例えば、「10」という表象が必ずしも十進法に基づいているわけではない。
二進法か十二進法か十六進法かはその個人の取り決めに依存するのだ。
十進法と十六進法では計算結果が異なるように、
各自の取り決めが異なる場合には表象の意味も異なる。
だから、他人にきちんと自分の思考を説明したいと思うならば
自分がどのような取り決めに基づいて思考しているのか説明すべきではないだろうか。
まあ、えらくめんどくさいんだけどさ、それって。
954 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 05:23:30 O
955 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 05:30:29 0
独我論も一種の現象学的還元で一つの観点と思想にすぎない。
>>940 :kyrie@うつ病
kyrie@うつ病君の書き込みは、全体的に、何が言いたいのかよくわからない。
特に
>意識を意識することは、覚醒時さえ不可能である。
は意味不明。
哲学で「自我意識」とか「反省」といわれるものは、「意識を意識すること」だよ。
そして自らの意識を意識することから、自己言及によるいろんなパラドックスが生じる。
>>947 :論理卿09 ◆gl3M7q7BbA
>つまり前にのみ進む客観的時間は実在する。
それは、独我論と両立するの?
観念論というものは、ニュートン的絶対時間の否定であるはずだが。
957 :
考える名無しさん:2009/08/27(木) 22:45:18 0
>しかし時間経過は音楽でわかる。逆に時間経過がわからない状況というものは
>考えにくい。私には「熟睡中」や「失神中」以外には一つも思い付かない。
>例えば寝ようとしても考え事をしてしまう。考え事をしているときも時間経過はわかる。
微妙だな
再考の余地あり
958 :
考える名無しさん:2009/08/27(木) 22:58:41 0
日本の1人あたりGDP世界ランキング推移
------25-24-23-22-21-20-19-18-17-16-15-14-13-12-11-10--9--8--7--6--5--4--3--2--1
1991年----------------+----------------+--------------+-----------● 5位 宮澤
1992年----------------+----------------+--------------+--------------+-● 4位 宮澤
1993年----------------+----------------+--------------+--------------+----● 3位 細川
1994年----------------+----------------+--------------+--------------+----● 3位 羽田 村山
1995年----------------+----------------+--------------+--------------+----● 3位 村山
1996年----------------+----------------+--------------+--------------+----● 3位 橋本
1997年----------------+----------------+--------------+--------------+--● 4位 橋本
1998年----------------+----------------+--------------+----------● 6位 橋本
1999年----------------+----------------+--------------+--------------+-● 4位 小渕
2000年----------------+----------------+--------------+-------------------● 3位 森
2001年----------------+----------------+--------------+------------● 5位 小泉
2002年----------------+----------------+--------------+-------● 7位 小泉
2003年----------------+----------------+-------------● 10位 小泉
2004年----------------+----------------+-----------● 11位 小泉
2005年----------------+----------------+● 14位 小泉
2006年----------------+----● 18位 小泉
2007年----------------+--● 19位 安部 福田
2008年------● 23位 福田 麻生
959 :
考える名無しさん:2009/08/27(木) 23:08:31 O
>>953 社会が成立している状態とは、あなたのいう「取り決め」が多数の人間によって共有されている状態なのですね!☆
>>946 >どうも「スパゲティは心のもつ全体性・包括性を見逃している」という点が
>あなたの主張の中心にあるようだ。
違う…貴方が了解的に「心的」である、と言っている諸事象(反省、自我等)が、
改めて心を定義するに際して、その諸事象が、スパゲティに現象した必然性が奪われる、と言っている。
>しかし熟睡中や失神中はあらゆる現象が現象せず、起きたあとで「ああ、もう朝の8時か」とか
>「俺はバイクで事故って3日も寝てたのか」のように想起と状況証拠で
>空白の時間が「埋め合わされる」。
つまり状況証拠と想起とに当の時間が依存しているのなら、何も睡眠中に限らず、
過去から現在までの系譜は、過去―現在に対応する時間が、内容を含みつつ、
その内容の推移でもって時間の流れを証明するのだ、と貴方の主張を拡張しうる。
やはり、ここでも睡眠時と覚醒時の差異は認める必要がない。
もちろん睡眠時と覚醒時とは、違う。その違いを貴方は論じ切れていない、ということだ。
>というのも、例えば目を瞑り鼻を塞いでフトンにくるまって「音楽」を聞いてるときは、
>「空間」という知覚や概念はとても実感の薄いものになるだろう。
これは不十分。音楽も絵画も、空間性がアプリオリな形式なら、あるいは現代風に言って、
全ての解釈可能な現象は比喩形象に還元されるならば、視像すら純粋であることは
なく、視像を写像によって理解可能にするなにか二重の手続きめいたものがある、と言わなければならない。
日本語が変だ…
諸心的事象は、改めて心を定義するに際して、その諸事象の、貴方に
現象したという必然性を奪われる
>>953 俺は西洋哲学に連なる系譜に対し、日本人として抗い、脱構築のさらに
輪郭を俯瞰できる位置において、記述をしている。
>>956 >哲学で「自我意識」とか「反省」といわれるものは、「意識を意識すること」だよ。
>そして自らの意識を意識することから、自己言及によるいろんなパラドックスが生じる。
正確には、「意識の現在性を意識すること」は不可能だ、と言いたかった。
なにか過ぎ去ったものがあれば、それは精神性を帯びる。つまり、過去である、というだけで、
事象間の整合性が付加され、過去は円滑に解釈されるまで、存在論的な反省状態から抜けられない。
存在は、過去の解釈の系譜を理解していく営みで、自らの存在を扱う限り、
それは意識だけには留まらない。意識の志向・被志向関係を理解していくのが過去。
新たな現象群に対しとる行動は、その現象に対してとる行動を考えるのだが、記憶の持続、
つまり整理された過去の記録があれば、それを参照して、新しくない行動を表象することができる。
このように現在をかわしていき、現在そのものを反省するようになったとき、彼は哲学者だ。
そしてそれは、時間から精神的(超越的)になった存在であり、かつ現在と対応する限りで、
二元論的だ。二元論を論じるには、意識があって、志向性があって、対象がある、という
だけでは足りない。意識―志向性―対象の構図は、独我論的でスパゲティの論じる一元論と
正確に一致する。対して二元論は、現在をあしらいつつ現在を考えるということ。
それが、「現在の意識を、現在、意識する」こと。時間から超越的なこの意識は、
しかし、現象にすぎない。そこで、「書き」だ。書きは、心と外在を繋ぐ対応。
心は実在しているかどうか結局示せず、外在も同様だ。それだから、外在と内在との対応部分、
外在でも内在でもない、それらを超越した関係、「書き」関係が、関係としてのみ明証的である。
963 :
考える名無しさん:2009/08/28(金) 21:16:49 O
>>962 日本人として抗う、ってどこから出てきたの?
前々から思ってたんだけど、kyrieは彼女に対してもこんな喋り方をするの?
もしかしたらそれで通じてるのかもしれないけど。
だとしたら、少なくとも私は君の彼女じゃないからさぁ、つまり君とそんなに親しい訳でもないから、もっと分かりやすく話してくれないとわかんないよ。
>>953に対するなんの回答にもなってないじゃん。
君は俯瞰してる気になってるかもしれないけどさ、本当に出来てるようには見えないなぁ。
君の言ってることは、理解できないという点では、狂人の戯言と変わらないよ。
正気を装いたいなら、もう少し努力しなさい。
964 :
考える名無しさん:2009/08/28(金) 23:33:51 0
kyrieは良くも悪くも哲学書を読み込んでるな、と思うし、そこは尊敬する。
たまには新書とか解説書とか緩い文体に親しんでみては。
965 :
考える名無しさん:2009/08/28(金) 23:40:47 0
>>962 黙れ鬱病
やっぱりさ、ゴミは早く死んだ方がいいよな?
えー、私、このkyrieって人、前から天才だと思ってるけど。
殆ど読んでないけど、(だって、行間開けないから、眼に負荷がかかるし、
紙媒体ならいいのだけど、あと、長文のコピペなどは全て読まない)
二、三レス読めばすぐ分かることだし。
なんか柄谷チックなカキコもあって、二進法がどうだとか、数式まであって
かなり笑えました、この人の本、一度も読んだことないけど(笑
ところで、なんでこんなに頭が良さそうな人が、鬱病になるのかが
私的には不思議。何か、ここまで厳密、かつ厳格に現実なり現象なり、
その多色々な事を自ら定義し得ないと収まらないというその超完全
主義者志向の気質なり態度に問題があるのかも。そういう病を治す
ことに、その優秀な頭脳を使えばいいのに。
「死に至る病」の日本ヴァージョンを期待したりして。
>俺は西洋哲学に連なる系譜に対し、日本人として抗い、脱構築のさらに
輪郭を俯瞰できる位置において、記述をしている。
これ、日本の思想系の著者に、毎日、朝歯を磨く時にでも朗唱して欲しい。
社訓みたいな感じで。西洋哲学の交通整理の叔父様達やモンタージュ、
切り絵を作っている拙い人達ばかりだから。
>>962 :kyrie@うつ病
956ですけど、ん。。。意味不明なところが多すぎです。あなたの文章の書き方はおかしい。
院試を受けるそうですが、もっとちゃんと意味が通じる文を書かないと、難しいよ。
一文ずつ見ていきましょうか。
>正確には、「意識の現在性を意識すること」は不可能だ、と言いたかった。
これはいいです。意味はわかる。
>なにか過ぎ去ったものがあれば、それは精神性を帯びる。
「それ」は「過ぎ去ったもの」を指しているのだろうから、過去そのものが精神的になる、と一応解釈できる。
>つまり、過去である、というだけで、事象間の整合性が付加され、過去は円滑に解釈されるまで、存在論的な反省状態から抜けられない。
「抜けられない」の主語が不明だが、上からの流れで「過去」が主語であると一応推測される。
そうすると、「円滑に解釈される」の「解釈」する主体も、おそらく「過去」なのだろう。過去が過去自体を解釈しているということになる。
(しかし本当は、過去にとっての過去は「現在」であり、時間のズレによって過去が生じるはず。その辺の説明がない。)
>意識の志向・被志向関係を理解していくのが過去。
ここまでは一応は、存在そのものが精神であるというヘーゲルの『精神現象学』のような流れ。ところが、
>このように現在をかわしていき、現在そのものを反省するようになったとき、彼は哲学者だ。
ここで突然「彼は」となる・・・。 ?
そうすると、「抜けられない」の主語も「解釈」する主体も、実は「彼」だったのか?
となり、ここで完全に意味不明、お手上げになります。
上は、文章の書き方そのものの問題。
次は内容的な問題。
>そしてそれは、時間から精神的(超越的)になった存在であり、
これは二行目の「なにか過ぎ去ったものがあれば、それは精神性を帯びる。」と矛盾していると思われる。
この二つの「精神」の意味が異なるのならば、説明が必要。
>意識―志向性―対象の構図は、独我論的でスパゲティの論じる一元論と正確に一致する。
対象があるのなら独我論ではありません。
また、「意識―対象」「主観―客観」構図は、一元論ではなく主客二元論です。
>対して二元論は、現在をあしらいつつ現在を考えるということ。
「主観―客観」「物―心」のように、対立する二つの原理がなければ二元論にはならない。二つの原理が不明。
>それが、「現在の意識を、現在、意識する」こと。
一行目の「『意識の現在性を意識すること』は不可能だ」と矛盾していると思われる。
kyrie@うつ病君。
>>962を、もっと意味がわかるように、書き直してみてくれ。
とくに次の2点に気をつけて。
・主語-述語関係をはっきりさせること
・「それ」などの指示語が何を指しているかをはっきりさせること
>>960も読んでみたけれど、kyrie@うつ病君の書き方は、やはり主述関係がとてもおかしいよ。
>違う…貴方が了解的に「心的」である、と言っている諸事象(反省、自我等)が、
>改めて心を定義するに際して、その諸事象が、スパゲティに現象した必然性が奪われる、と言っている。
・「諸事象(反省、自我等)が」に対する述語がわからない。
・「その諸事象が、」の述語はおそらく「現象した」なのだろうが、それなら「その諸事象が」の後の「、」はないほうがいい。
>つまり状況証拠と想起とに当の時間が依存しているのなら、何も睡眠中に限らず、
>過去から現在までの系譜は、過去―現在に対応する時間が、内容を含みつつ、
>その内容の推移でもって時間の流れを証明するのだ、と貴方の主張を拡張しうる。
・「系譜は」の述語がおそらく「証明する」なのだろうと推測されるが、「対応する時間が」の述語が不明。
>これは不十分。音楽も絵画も、空間性がアプリオリな形式なら、あるいは現代風に言って、
>全ての解釈可能な現象は比喩形象に還元されるならば、視像すら純粋であることは
>なく、視像を写像によって理解可能にするなにか二重の手続きめいたものがある、と言わなければならない。
・「音楽も絵画も、」の述語が不明。(おそらくこれは主語になるべき部分ではないのだろう。
ならば、「音楽においても絵画においても、」のように書くと、わかりやすくなる。)
仕方ねえよ
kyrieは芸術学部の学生なんだから
ちなみに日芸ね
>>なにか過ぎ去ったものがあれば、それは精神性を帯びる。
>「それ」は「過ぎ去ったもの」を指しているのだろうから、過去そのものが精神的になる、と一応解釈できる。
違う。「過ぎ去ったもの 」と「過去そのもの」が同じであるはずないじゃん。
>>つまり、過去である、というだけで、事象間の整合性が付加され、過去は円滑に解釈されるまで、存在論的な反省状態から抜けられない。
>「抜けられない」の主語が不明だが、上からの流れで「過去」が主語であると一応推測される。
>そうすると、「円滑に解釈される」の「解釈」する主体も、おそらく「過去」なのだろう。過去が過去自体を解釈しているということになる。
違うよ。主語は、純粋過去でない。俺がいちいち主語を省略するのは、
あまりに自明だから、と考えてください。つまりこの場合、主語は思惟一般。
だから
>>このように現在をかわしていき、現在そのものを反省するようになったとき、彼は哲学者だ。
>そうすると、「抜けられない」の主語も「解釈」する主体も、実は「彼」だったのか?
その通りです。彼とは、思惟者一般。私は思惟者についてしか語れない、しかも十分に類似していて、
重複している思惟者の、その重複部分を。
>>そしてそれは、時間から精神的(超越的)になった存在であり、
>これは二行目の「なにか過ぎ去ったものがあれば、それは精神性を帯びる。」と矛盾していると思われる。
>この二つの「精神」の意味が異なるのならば、説明が必要。
精神の意味すら分からないのか。それが普通なのか?
俺が言う精神とは、ヘーゲル的意味での精神であり、それは、実在している観念でありかつ、
その観念の対象が実在しているかどうかはエポケーされている、という状況そのもの。
>対象があるのなら独我論ではありません。
>また、「意識―対象」「主観―客観」構図は、一元論ではなく主客二元論です。
対象が思惟的なものなのか実在しているのかすら読み取れないこの部分で、
簡単に「対象があるのなら独我論ではない」というのは、浅はかだ。
ウィトですら、関数を知覚の対象としている。スパゲティの思想はナイーヴだが、
それでも独我論に依拠しながら、対象と主体という構図を維持している一元論だ。
>「主観―客観」「物―心」のように、対立する二つの原理がなければ二元論にはならない。二つの原理が不明。
教科書的知識をあてはめるだけなら、俺の思想は永遠に理解できないよ。
俺の言う二元論は、対立する二つの原理によるものではない。還元不可能な、二重の現実の在り様を記述するとすれば、
真実は、現実を生きる一面、現実から剥離する一面をもった二元論です。
>一行目の「『意識の現在性を意識すること』は不可能だ」と矛盾していると思われる。
ここがKyrie哲学の核心なのに。現在性を意識することは、「書き」による以外は不可能。
>>971 :kyrie@うつ病
背伸びするのもいいけれど、人のアドバイスを聞く耳は持ったほうがいいよ。
あなたの文の主述関係がおかしいというのは、揶揄というよりアドバイスだから。
主述関係がおかしいから、文章がとてもわかりにくくなっている。
あなたは「俺がいちいち主語を省略するのは」と書いているけれど、それよりも、このまえ指摘したように、
主語に対する述語が見当たらない(あるいは不明瞭)というケースがほとんどだから。
哲学に関しては、自分が良く理解していないことは書かないほうがいいです。
自分がちゃんと理解していないことを書けば、読む人にとって、それが意味不明になるのは当然の結果。
難しいことを、できるだけ分かりやすく書くのが基本。
それをするのは難しいことだけれども、それができなければ、人とは話が通じない。
それに、そういう努力をしなければ、自分自身も成長しませんよ。
自分が本当に理解していなければ、分かりやすく書くことはできないから。
また、あなたの言う「教科書的知識」を踏まえて書かなければ、院試は受かりません。
二元論について書くなら、少なくともデカルトの物心二元論を踏まえて書かないと。
何事も基本が大事。基礎がしっかりしていないと応用はきかない。だから院試でもそこが見られる。
しっかりした哲学的知識。しっかりした文章が書けるかどうか。そして語学力。
974 :
考える名無しさん:2009/09/01(火) 18:03:54 O
さすがにこれは酷いね。
わざわざ添削してくれてるのに、ありがとうもなしに言い訳だもん。
院試を受けるときもこんな文章で答案書いたら、間違いなく落ちるね。
答案ってさ、自分の書いたことを採点する側に「分かってもらわないといけない」わけじゃない。
それなのに、一般的じゃない、もっと言うと他人に分からないような用語使って文章書いてどうするの?
教科書的な文章も書けないの?
簡単なのに。
「教科書的な理解をあてはめるだけなら、俺の思想は永遠に理解できないよ。」なんてのは、いかにも本ばっか読んで哲学をやってない人の言いそうなことだよね。
あんまり対話とかしたことないでしょ。他人と話さないから、他人に分かってもらえるように書けないんじゃない?
もし分かってもらえなくていいとか思ってんなら、他人の無理解を責めらんないよね。そもそも文章なんか書く意味ないからやめちゃいなよ。
もし分かってもらいたいんなら、相応の努力はしなきゃ。全然勉強してないじゃん、君はさ。
あ・・・
>>974は私じゃないよw
(
>>973の続き)
>違う。「過ぎ去ったもの 」と「過去そのもの」が同じであるはずないじゃん。
あなた自身が、初めに「過ぎ去ったもの」と書いておきながら、次からは、単に「過去」と書いている。
つまりあなたには、「存在」と「存在者」との存在論的差異が理解できていないように思われた。
初めに「過ぎ去ったもの」と書いておきながら、次からは単に「過去」と書いた理由を説明してください。
>つまりこの場合、主語は思惟一般。
>その通りです。彼とは、思惟者一般。
ここも、存在論的差異についてあまりに鈍感であるように思われる。
「思惟」と「思惟者」は全く別。
「思う」という働きから「我」という「思惟者」を導いて、「我」を実体化してしまったのがデカルトです。
それに対してカントは、「思う」という働き(機能)に踏みとどまり、「我」を実体化しなかった。
デカルトとカントのこの違いは哲学史的にとても大きくて、だから、カントにおいて初めて近代的「主観」が確立されたとされます。
>俺が言う精神とは、ヘーゲル的意味での精神であり、それは、実在している観念でありかつ、
>その観念の対象が実在しているかどうかはエポケーされている、という状況そのもの。
ヘーゲルの「精神」は、「観念」と「対象」と分けられたもののうちの一方である「観念」ではないです。
「観念」と「対象」と分けて考えること自体が、弁証法的でない。
矛盾的契機が相互媒介して移行していくのが弁証法であって、その移行していく「プロセス」そのものがヘーゲルにおける「精神」です。
>俺の言う二元論は、対立する二つの原理によるものではない。還元不可能な、二重の現実の在り様を記述するとすれば、
>真実は、現実を生きる一面、現実から剥離する一面をもった二元論です。
意味不明。
まず「二重の現実」の内容が全く不明。
(もしそれが、「現実を生きる一面」と「現実から剥離する一面」とを指しているとすれば、それは
「二重の現実」ではなくて「現実に対する二つの関わり方」だろう。現実そのものが二重になっているのではないから。)
また、「現実を生きる」と「現実から剥離する」でどういうことを言いたいのかの説明がない。
977 :
考える名無しさん:2009/09/01(火) 18:18:40 0
>>973,974
哲学やりすぎると釣りだってことにも気がつかなくなるんだなw
978 :
kyrie ◆.RYdSpBfEI :2009/09/01(火) 18:20:48 O
お、なかなか手応えのある人が現れたじゃん。
今アクセス禁止中なので、明日学校からレスします。
>>977 973ですけど、
釣りかどうかなんて、どっちでもいいことですよw
981 :
考える名無しさん:2009/09/01(火) 18:46:41 O
>>973 あらあら被ってたw
横から茶々入れすまんね
>あなた自身が、初めに「過ぎ去ったもの」と書いておきながら、次からは、単に「過去」と書いている。
>つまりあなたには、「存在」と「存在者」との存在論的差異が理解できていないように思われた。
>初めに「過ぎ去ったもの」と書いておきながら、次からは単に「過去」と書いた理由を説明してください。
過ぎ去ったのものとは、「現象」である、と理解してください。そして確かに
説明が足りなかったのですが、私は存在者も現象であると捉えていて、
自分のなかで存在者と存在とは、内包―外延関係にあるのです。つまり、
あらゆる存在者は現象にすぎない、というところから私の哲学は始まります。
で、現象の定義ですが、一なる主観に対して立ち現われ、主観の持続のうちに、
持続を共にするものすべてが現象です。それは、感情や自我も例外でない。
一生を同一性として貫く一において、一を変形するのが現象。
つまり、彼(現象)に対する態度形成を促す当の現象が、そう呼ばれる。
人間は自由ではないが、自由の経験はできる。詳しくは話さないが、
仮に自由になったとき、つまり一そのものとして、諸現象から超越的態度を
とっているとき、つまり諸現象がすでにそのようには呼ばれず、一なる主観を
刺激せず、主観を意味論的に曲げる前に現象を解釈してしまうという「思考」という現象に、
主観が立ち現われる一切を任せ、かつそれができるとき、思考そのものが現象している、
といえます。
>「思う」という働きから「我」という「思惟者」を導いて、「我」を実体化してしまったのがデカルトです。
>それに対してカントは、「思う」という働き(機能)に踏みとどまり、「我」を実体化しなかった。
>デカルトとカントのこの違いは哲学史的にとても大きくて、だから、カントにおいて初めて近代的「主観」が確立されたとされます。
それでフッサールが、コギトの我すら純粋自我から超越している、と言ったわけか。
この辺は非常に勉強になる。
俺の立場は、まず超越論的自我を疑い、それを留保する、未決定にする、というものです。
すると、そうしても、そうした恣意的な操作を経ても、超越論的自我の彼岸に、
何かがその自我を超越しているところの、その視点がある。そして超越論的自我と
その視点との間の深淵は、判然としないところからの被志向性。
視点そのものは現象であって、それが可能である、と推理されている
だけだが、志向されないものが存在しないのなら、現象学は超越論的自我を
反省するからくりを説明しなければならない。それはメルロ=ポンティが
「見えるものと見えざるもの」でやった。
このデカルト→カント→フッサール→メルロ=ポンティの流れを初めて意識した。
>ヘーゲルの「精神」は、「観念」と「対象」と分けられたもののうちの一方である「観念」ではないです。
>「観念」と「対象」と分けて考えること自体が、弁証法的でない。
>矛盾的契機が相互媒介して移行していくのが弁証法であって、その移行していく「プロセス」そのものがヘーゲルにおける「精神」です。
そういうことじゃないです。ヘーゲルにとって精神とは、観念であり、実在性が永久に
問われないままの、観念の展開。その展開に、弁証法があってもいいが、それは本質的でない。
要は、ヘーゲルがもついろいろな世界への観察方法のひとつとして、自己―共同体の関係を
探ることが挙げられるが、まず共同体が自己から精神的である。
自己は任意に含み、任意に含まれるから、共同体に含まれ、その含まれた部分を超えて共同体全体を語るときに、
自己が及ばない領域を語るときに、精神の力に依らないでは共同体を俯瞰できない。
精神性は私を若干含み、超越性はそうでない。
>まず「二重の現実」の内容が全く不明。
>(もしそれが、「現実を生きる一面」と「現実から剥離する一面」とを指しているとすれば、それは
>「二重の現実」ではなくて「現実に対する二つの関わり方」だろう。現実そのものが二重になっているのではないから。)
>また、「現実を生きる」と「現実から剥離する」でどういうことを言いたいのかの説明がない。
これは微妙なところ。私は出発点が残念ながら観念論だから、現実は理念的、観念的なもので、
「現実そのもの」という言い方はできない。
そして、現実そのものが私の現実であるならば、現実が存在に関して相対的である以上、
二つの現実があると言ってなにが悪い?
985 :
考える名無しさん:2009/09/02(水) 15:37:52 0
・…━━━━論理卿09が送る血も凍るサスペンスギャルゲー「フクロマンス (サブタイ未定)」━━━━…・
フクロマンの正体や「動機」を暴かないと ずっと守りの姿勢ではヒロインたちは殺されてしまうでしょう。
「袋男」は連続殺人鬼だった。
それはホラーマンガ雑誌に載っているたぐいの作り話ではなく、
また人面犬や口裂け女のように、社会学的な考察の対象となる都市伝説でもなかった。
要するに、「袋男」とは観念的で浮ついた言葉のゲームではなくて、
分類すると、それはれっきとして歴然として血と肉にまみれた連続殺人事件だった。
― 殺人事件 ―
殺したのは袋男で、殺されたのは14通りの生を生きていた14人の人間たち。
いや、正確には<15人>と言うべきなのか?それに関して僕は今でも迷っている。
事件が起こっていた頃、テレビや新聞に「フクロオトコ」という呼び名を見ない日はなかった。
いや、「フクロオトコ」なんて人殺しに与えるにしては軽はずみな呼び名自体が、
――ちなみに、この名付けが広まったのはインターネットのとある掲示板だったらしい―
そしてテレビや大手新聞といったマスメディアがこの浮ついたバズワードをそのまま伝えて
いたという空気自体が、今にして思えばどこか浮世離れしていて、すでに普通の世界の出来事ではなかった。
さっき僕は言葉のゲームではないと否定したけれど、
「袋男事件」という1つの現実には、やはり幻想的な生々しさが付かず離れず漂っていた、というしかない。
始まりがどこか解らない、重心がどこかわからない、
暗闇がどこかわからない、限界がどこか解らない、そんな出来事だった。
「袋男」と、それを取り巻くさまざまな事柄というものは。
そしてそんな奇妙な形をした渦の中心付近に僕たちも巻きこまれていたと言えると思う。
なぜなら、袋男という存在をこの世界から消し去ったのは、他でもない僕たちなのだから。
前置きはこのくらいにして、いや、こんな長い前置きを語ったくらいなのだから当然の流れというべきなのか、
僕はこれから袋男事件について、僕の見たことのすべてを話すつもりだ。
986 :
考える名無しさん:2009/09/02(水) 15:38:36 0
話したところで起こってしまった事柄がどうなるわけでもない。
死んだ人は戻らないし、僕が回想したところで、街の人々から袋男の忌まわしき記憶が消えるわけでもない。
でも僕にはあの事件が完全に終わったとはどうしても思えない。
これは単なる直感だ。僕の皮膚を不規則に流れる悪寒が教える直感。
そんな不確かな根拠でも、いや根拠が不確かだからこそ、今のうちにきちんと情報を整理しておきたい。
不確かな未来に備えるという意味と共に、語ることで少しでも真相が明らかになり、この不安が解消されると信じて。
それに僕たちにとっては、あの白昼夢のような出来事のすべてが悪夢だったというわけではないのだから。
■公式サイト
論理卿09プレゼンツ
http://09th.web.fc2.com/ (^笑^)サスペンスギャルゲー『フクロマンス』
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/gameama/1251743880/
987 :
考える名無しさん:2009/09/03(木) 02:50:15 O
無意識スレは投げ出しちゃったの?
>>987 そういうわけじゃないけど、あっちは俺のスレというより、普通に需要あると
思ってる。でも久しぶりに書き込みに行くよ。