東浩紀249

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14考える名無しさん
エリク塚田のありがたいお話。おもしろいとおもったから。要約下手でごめんね。
http://www.ustream.tv/channel/survive

今回の関門での通過者3人プラス峰雄は、キーワードは違えど、突き詰めれば
ニコ動的生成力の話をしている。作家性なき現代で作家性のようなものの可能性を
考えるにはこれしかないからそれはそれでよい。しかし彼らはお互いの差異を批評できて
いない(メタに立ててない)。彼らの状況がまさに彼らの議論を反映している。ゼロアカ道場は
ニコ動的である(人数は少ないが確率的あるいは進化論的に選ばれる)。これに抗う
方法論を語ることができていない。

ニコ動的なポストモダン的な状況(w:エリク)が一般化している現代においても作家性を
取り戻せているように見られているひとたち(「東方のずん」など)に対して批評し、
自覚して振舞えば抗う可能性がでてくるだろう。

そういう態度はガチムチパンツレスリングの兄貴」「永井先生」などのローカルスターたちに
現れている。彼らは匿名の期待から勝手に選ばれ、それを自分で自覚して受け入れる。
だがこれはローカルなカリスマのままで消費され尽くされてしまう。批評家はこういう状況を
匿名たちに批評の言説として投げ返さなければいけない。それが批評家ができることだし、
批評家の責任。

しかし藤田やこれからのゼロアカのひとたちはそういう仕事ができないのではないか。
村上はこういう状況での創造性の可能性を模索するようだから一歩抜けていて期待する。
しかし村上についても難がないわけではない。創造性が要求されるとき、村上は、
選ばれなかったひとにたいして選ばれるにはどうすればよいかの話している。選ばれて
しまったひと、選んでしまったひとたちにたいしてはどうするのか。ここに理論的背景を
与えられたらなお良い。
15未来数字563:2009/03/15(日) 03:57:38 0
一部のローカルスターなどについての話。彼らがカッコつけていることを
匿名たちが笑い、それを彼らが受け入れ、もう一度カッコつけたときに彼らは
キャラクターとして完成する(「先生」とつくひとや「ポイズン」)。藤田は
この系列。この意味で塚田は藤田を馬鹿にしつつ尊敬している(ダブルシンク)。
ダブルシンクはディストピアを形作るはずの技術だったが、エリク塚田は、
ひとを笑いたくなったときに同時に愛するにはどうすればよいかというときに
これを用いる(ローティ的)。2ちゃんねる、お笑い芸人、ものまね芸人、
スターの話。
(26:10で切断される)

ニコ動的状況が一般化していて、ゼロアカもそうなのにそれを批評的に
自覚できてないという指摘はおもしろいと思った。ただ、ゼロアカに関しては
選ぶのが匿名たちではなく(たしかに文フリとか一般投票も入れてるが)、
東浩紀神という絶対者がいるから、完全にニコ動的にはなっていないし、
その存在が自己言及的な再帰性を止めている、あるいは一部阻害し、横の
関係を見えなくしているところがあるのではという感想をもった。誤解なら申し訳。