1 :
考える名無しさん:
根源的な存在についてはどの学問が扱っているのか。
哲学は文によって陳述される主題を扱う。よって、哲学は言語を前提とする。
言語は情報などを伝達するためのものである。よって、言語は情報を前提とする。
データを情報たらしめている意味・概念は心理的な存在である。よって、情報は心を前提とする。
生物学的な基盤を持つものが心である。よって、心は生命を前提とする。(人工知能はむしろ工学を前提とするので除外)
生命は地球で生まれたというのが通説である。よって、生物は地球を前提とする。
地球や太陽系は天体である。よって、地球科学は宇宙科学を前提とする。
天体とは物質が重力的に束縛された物である。よって、宇宙科学は化学を前提とする。
化学反応の中心原理や電子の挙動については物理学の知見を前提とする。よって、化学は物理学を前提とする。
物理学は統計学を前提とする。
統計学は数学を前提とする。
ラッセルは数学は論理学の一分科に過ぎないとする論理主義を提唱し、これに基づいて作られた数理論理学では論理学を前提として数学を記述することが可能となっている。よって、数学は論理学を前提とする。
論理学と哲学は文についての思考という点で共通しており、論理学は昔は哲学の一分野だった。よって、論理学は哲学を前提とする。
哲学→論理学→数学→統計学→物理学→化学→宇宙科学→地球科学→生物学→心理学→情報学→言語学→哲学→……
という風に、根源的な存在について前提を遡って行くとループが生じる。おかしい。では根源的な存在とはどこで扱うものなのか。
ということを皆さんと一緒に考えていこうと思っています。
2 :
考える名無しさん:2009/03/05(木) 11:02:53 0
-学問と研究対象
--哲学
哲学では理性的な思考を通じて、様々な主題を扱う。
主題とは、文によって陳述される中心的対象をいう。
主題と対立しない限りの対象とは、意識や行為が向けられるもののことである。
概して理性的な思考という方法論が重要であるように思われる。
--論理学
論理学では思考の法則・思考のつながり・推理の仕方・論証のつながりを研究する。
法則とはある現象とある現象の関係を指す。
--数学
数学は量・構造・変化・空間を対象として、演繹的推論による定理による体系を目指す。
--統計学
統計学は観察のできる出来事を対象とし、数量的に把握する。
--物理学
物理学では時間・空間・物質・エネルギー(相互作用、力)を扱う。
(省略)
3 :
考える名無しさん:2009/03/05(木) 11:03:09 0
--心理学
心理学では心と行動を扱う。
心には、知覚・理解・記憶・思考・学習・推論・問題解決という認知的側面と、現時点では認知的側面として強調されない感情・意思・主体性・創造性・自己実現がある。
概して入力(知覚)・加工処理(認知のほとんど)・出力(行動)という、情報処理の一まとまりとして扱える。
ただし現時点では情報処理以外として扱われる側面(感情・意思・主体性・創造性・自己実現)もある。
--情報学
情報学は情報・データと意味・概念を扱う。
素材であるデータに、問題解決に役立つような意味がある場合、それを情報とよぶ。
または、問題解決に役立つと期待される素材をデータとよぶ。
概念は、精神外部の世界に存在するものに対応して存在する、精神内部に存在する何かである。
要約すると、素材であるデータと、心に存在する意味が対応した場合、その関係性を情報と呼ぶ。
--言語学
言語学では言語を扱う。
言語(げんご)とは、コミュニケーションのための記号の体系であり、広義には音声以外の手段、また動物やコンピュータなどの主体がありうる。
コミュニケーションとは、複数の主体が感情、意思、情報などを受信しあう、または伝達しあうことである。
>>5 そうなの? 統計学ってよく知らんけど、データ取って数的に処理するんでしょ?
統計学が言語って、たとえばどういう意味でだろう?
量的言語
>>7 ぐぐっても出てこない。どの学者の何という本の単語?
>>8 うん、そこは確かに怪しいと思う。でも私にはどう怪しいのかはっきりと言えないので、
何か思い当たるところがあったら指摘してほしい。どう間違っているのかとか。
12 :
1:2009/03/10(火) 20:27:02 0
いい加減なこと言っていた。むしろ科学哲学系のようですね(これも誤読かも知れんが)。
13 :
1:2009/03/10(火) 20:43:38 0
そもそもの問題意識をしなければいけないな。
私は栗本慎一郎『パンツをはいたサル』を読んでいて、
マイケル・ポランニーの層の理論に強力な関心があったんですね。
で、できるだけ誠実に存在の層を積み重ねていこうと努力したのですが、
そこで
>>1で言ったようなループが見えて、おかしいな、と思ったわけです。
考えられるのは二つ。
1.ループに見えるのは勘違いで、どこかに根源的な存在があって、層は正しく積み重ねられる。
2.積み重ね型モデルは間違っていて、ループ型が正しい。
さあ、どっちだろう。そして1ならどこが根源的な存在なんだろう。
というのがこのスレ立てたそもそもの問題意識です。
14 :
考える名無しさん:2009/03/11(水) 05:53:56 0
基本は物理、化学、生物だと思うけどね。
これらは、原理的な研究。
地球科学とか何だとかは具体的対象の研究。
後者は前者の原理を適用して解明されるという関係に立つ。
理学系のものは、上記のように2分できると思う。
15 :
1:2009/03/11(水) 22:09:54 0
>>14 学問的手段としてはそれはごもっともなのですが、対象に着目すると、
地球が生命を前提としているというよりは生命が地球を前提としているように見えますね。
(パンスペルミア説を持ちだされると困るけど)
手段と対象の間にズレがある、ということなのですが、対象に着目していきたいところです。
16 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 05:28:11 0
>>15 んー、生物ってのは基本的には化学的な現象に還元されるだろうし、
その化学的現象はさらに物理学的現象に還元されるものと予定されてる。
だから、地球が先か、生物が先かはあまり気にしないでいいんじゃなかろうか。
17 :
格之進:2009/03/12(木) 06:59:44 0
「根源的な存在」というものを扱う必要がなぜあるの?
18 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 07:47:54 0
根源的な存在を現象の奥に潜む本質と考える時、現象の研究を自然科学
とすると、本質の研究は哲学や宗教である。本質の研究では矛盾や無限
を扱う為、科学ではありません。哲学宗教と自然科学のギャップはどうすることも
出来ませんが、概念の世界として、思考の限界として、参考にしてください。
「根源的な存在」への試論であります。
グーグル検索:c点による時空論
宗教?
20 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 10:05:33 0
矛盾無限を哲学的思索で了解出来る人には、宗教は不要であるが、了解出来ない人
には、例えば禅にをける座禅や生活上の純粋体験から色即是空が悟れる様に、宗教的
思索が必要である。矛盾や無限の肯定はロジックのみでは無理があります。
哲学と宗教の境界の世界です。勿論自然科学では認められません。
21 :
1:2009/03/12(木) 10:51:23 0
栗本慎一郎が層の理論を論じている『意味と生命』を読んでいる。
近々何か教訓を得ることもあるだろう。
>>16 うん、あんまりそこは気にしない。地球も生命も根源ではないはずだから。
>>17 関心や問題意識は
>>13をごらんください。
>>18 哲学はまあいいけど、宗教ってそういうものか?
信仰の対象が超越的存在だから、それが本質であるとかそういうこと?
>>20 矛盾や無限は広義の論理学や数学でも扱っているんじゃないかな?
ロジックのみでは無理、ということはないと思う。
22 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 11:16:18 0
哲学と宗教にはギャップがあります。禅は哲学的にも興味があります。
宗教一般は、超越的存在を「信ずる」ところより始まり、「疑う」ことより
始まる哲学とは世界を異にします。矛盾や無限は哲学で扱えると私自身は
考えています。
23 :
1:2009/03/12(木) 21:06:54 0
哲学も宗教も、対象をどうこうというより、方法論の方に重きを置いているように見えて。
疑うとか、信じるとか、心や意味の働きが不可欠だ。
論理学や数学は心や意味が不可欠かどうか分からない。どちらかというと対象寄りだと思う。
心がなくても量は量であり、真偽値は真偽値であるはずだ。
ポランニー自身はこのあたりのことについてどう言ってるの?
25 :
1:2009/03/13(金) 00:24:38 0
>>24 『暗黙知の次元』が手元にあるので、後日まとめます。少々お待ちを。
明日か明後日をめどにブログに『意味と生命』要約を載せるので、その後にでも。
26 :
考える名無しさん:2009/03/13(金) 05:59:39 0
根源的な存在を問うって壮大だなぁ。
ところで情報学って独自領域があるんだろうか。
学というより、情報論という視点があって
その考え方が問題を考察するのに有用だから
いくつかの分野で利用されてるというような印象を持つな。
元々は、通信技術とかの工学的分野から生まれたアイデアだと推測してるんだけど
今じゃ、生物学で遺伝子の発現作用を情報論的に説明してたりするのを見かける。
その考え方をうまく言えないけども。。。
28 :
1:2009/03/13(金) 09:40:42 0
>>26-27 『量子が変える情報の宇宙』isbn:4822282651おすすめ。
「根源的な存在」
言葉の誤用だな。
ウィトゲンシュタインより
30 :
1:2009/03/13(金) 23:13:42 0
栗本慎一郎『意味と生命』
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』
要約しました。
http://d.hatena.ne.jp/a-kubota/20090319 『意味と生命』
-物理学・化学→生命→心→社会→言語
『暗黙知の次元』
-物理学・化学→生命・工学
-社会・権威→道徳(ポランニーの書き方ではここが最高になっている)
となっています。
そうなると、物理学以前と、言語・道徳以降がどうなるのか気になるところです。
栗本やポランニーにとって論理学や数学は物理学以前のものではないのかしらん?
31 :
1:2009/03/13(金) 23:31:21 0
>>29 あー、言いたい意味は何となく理解してください。としか言えない。
>>29 「存在のイデア」ということだよ。
プラトンより
34 :
1:2009/03/17(火) 18:25:53 0
>>32 イデアというと、論理学や数学が思い起こされますね。
やはり論理学や数学こそが万物を語るのに欠かせない根源なのかしら。
>>33 言葉遊びとはどういうことでしょうか。
一行レスが全部言い捨てだとは思いませんが、建設的な内容以外は、
こちらとしてもどうしようもありません。
35 :
1:2009/03/17(火) 18:35:02 0
36 :
1:2009/03/18(水) 19:07:03 0
私はプログラマだったので、存在論(オントロジー)というとER図やDFDを連想します。
ER図と言うのは事柄を静的に表現するためのもので、実体・属性・関連で表現します。
(実体に属性がいくつかついていて、実体同士は関連で結びついている)
DFDは事柄を動的に表現するためのもので、実体・プロセス・データストア・データフローで表現します。
(プロセス=実体を処理する・データストア=実体を保存する・データフロー=実体の流れの矢印)
こうすると、存在というのは「論理的に」存在し、論理学の世界は極めて世界の根源に近いと考えています。
が、
>>35を見ると、哲学ではそういう捉え方とは限らないようですね。
例えばどういう風に考えているんだろう?
>>1さんが頑張ってwikiとか作ったりしているので言いづらいんですが、
哲学的には知識の基礎づけや分類というのはできないんじゃないかとおもっています。
・たとえば、クワインは、われわれの知識に「確実な基礎」を与える「知識の基礎づけ」
は不可能と言っています。
>>1のループ的なものでは、クワインは“ルイス・キャロルのパラドックス”という
「無限後退」のパラドックスも扱ってます。
(『現代思想の冒険者たち 第19巻 クワイン ホーリズムの哲学』、丹治信春、
講談社、1997年、参照)
・また、デネットは進化論を用いて、プラトンのイデア論的に生物の種の分類わけはでき
ないと言っていますが、これは学問分野の分類わけにも言えるのではないでしょうか。
(『ダーウィンの危険な思想』、ダニエル・デネット、青土社、2001年、参照)
38 :
1:2009/03/18(水) 20:57:44 0
>>37 出典まで含めてありがとうございます。
哲学では知識の基礎付けや分類はできない!無限後退がありうる! それは困ったな。
論理学的にはできるように見えるのに、なぜ哲学的には不可能なのか?
論理学の見落としている構造があるのか? あるとしたらそれはどんなものか?
クワインと言えば科学哲学のデュエム・クワイン・テーゼですね。
理論があって、個々の観察と理論の整合性が取れなくても、
理論を微調整すればいいので、原理的にはどんな理論も
(矛盾する理論が両立することすら)ありうる。
論理学の公理ですら書き変えうる
(本当だろうか。そうなるとかなりクリティカルですね)。
二つの存在として、理論と観察が乖離している。
観察される存在について、理論が完璧な基礎付けや分類を与えてくれることはない。
例えば論理学は世界の根源としては頼りない代物である。ということかな?
となると、クワインは観察される存在の方に重きを置いているんだろうか。
ある種反論理学的でむしろ経験科学的とも言える。
39 :
1:2009/03/18(水) 21:09:46 0
進化論のため分類わけができないというのは、
多分生物の種は動的に変化するものであるから、
静的・固定的なイデア論では対処できないということかな。
多分それはその通りで、分類モデルは各事例の後を追う形にならざるを得ない。
やはり各事例という存在の方が根源であり、論理学はそれに一歩譲るということかな。
40 :
37:2009/03/19(木) 20:06:55 0
>>38 正直、クワインは自分も最近手をつけたばかりなので。
なにか手がかりになってくれればとおもって書き込みました。
>>39 >>37で書いたデネットの部分は説明不足かなとおもったのですが、
>>39の言うとおりです。
ただ、論理学的なものは出てこなかったとおもいます。
あと、どうでもいいけど、
>>37で書いたものが奇しくも師弟コンビの本だったとさっき
気がつきました。(デネットはクワインの教え子。)
41 :
1:2009/03/19(木) 23:03:22 0
私もいずれ暇になったら科学哲学について調べてみます。
42 :
1:2009/03/19(木) 23:24:08 0
・観測と推論の立ち位置について
自然科学の扱う現象の基本に観測があることは既に常識ですが、その観測とは一体何でしょう。
心理学的プロセスが必要なのか、心がなくても対象があって、それが観測される現象と同一視しうるのか。
前者なら唯心論に、後者なら唯物論に近くなる。
普通の説明では唯物論的「心がなくても対象があって、それが観測される現象と同一視される」とされる。
私が読んだ量子力学の本でも、「観測は心がなくても、物質同士の相互作用に還元しうる」と書いてあった。
で、次に問題なのは哲学・論理学・数学(・統計学)の立ち位置だ。
哲学・論理学・数学は推論によって行われる。
これも心理学的プロセスが必要なのか、心がなくても対象があって、それが推論される事象と同一視しうるのか。
主題や法則や量・構造・変化・空間は心の産物なのか、何かそういうものが心と関係なく実在するのか。
後者だったらそれは唯物論と密接な関係にある物理学とどういう関係にあるのか。
物質・相互作用・時間・空間が主題等を構成するのか、主題等が物質を構成するのか。
これは唯物論ほど明らかではないと思う(既に議論がしつくされているなら済みませんが)。
43 :
1:2009/03/28(土) 22:56:14 0
観測と推論について追記。
法則などは物理的存在の属性ではなく、
心があって初めて成り立つものなのかも知れない。
即ち、法則は自然界を記述するために人が作るものだ。
自然界そのものは記述や法則とは関係なく存在し、
記述される以前にはそこに法則は存在しない。という考え方もありうる。
44 :
1:2009/04/02(木) 22:17:16 0
>>43 とか書いていたけど、要するに法則と対応する自然界の何かがあって、
それは法則を作る作らないとは関係なく存在するはずだよなあ。
法則を作ったら現象が新たにそれに従うとはおよそ考えにくい。
法則や図形であるような何ものかが、人間以前に自然界に何らかの形で存在すると考えたくなる。
>>44 言葉が始めに在るんだよ。
キリスト、ソシュールより。
46 :
1:2009/04/03(金) 23:41:48 0
>>45 そこです。言語は社会や心を前提にしないと存在しえないのでは?
誰もしゃべってない言語なんてナンセンスです。
言語にも二つあって、論理学や数学などの形式言語は
誰がしゃべってなくても世の中に存在する特殊なもので、
自然言語は誰かがしゃべってないと存在しないということか?
48 :
1:2009/04/04(土) 21:55:52 0
>>47 他者と区別するための自我は他者の認識やコミュニケーションによって
構成されるというのは心理学でも通説のはずで、
それはそれでいいんですが、別に心=自我ではないでしょう。
意志や感情や、それ以前の情報処理機能には
別に会話や社会性は関係ないのではないでしょうか?
会話しないと赤ちゃんに何の意志も感情も情報処理機能も存在しない?
それは心理学で観察される事実に反する。
常識に囚われることなかれ
50 :
1:2009/04/05(日) 23:36:01 0
科学や科学哲学の本を出している吉田伸夫のサイト。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/P3_idx.htm 実在と論理学・科学哲学の関係について論じているようです。
「実在とは、外界と自我にギャップがあるため、両者を統合したいという哲学的動機に応えるためのものである」
「論理学は心がつくったもので、心の機能的な限界に拘束される」
「科学は説明のためのもので、実在についての統一的な説明が可能かははっきりとは言えないし、論理学の持つ限界に拘束される」
などなど。
一つの意見として重要だし、内容もトンデモ臭は低いように見える。
しかしこれだと論理学や科学は全然根源に近くないということになってしまうな。
根源なのは観測される現象であって、その後ろに実在があるというのは心のフレームの限界にすぎないのか。
51 :
1:2009/04/17(金) 10:04:25 0
論理学と心理学の関係については現象学についてやればいいという意見が(理系全般板で)あった。
なるほど。余裕があったらフッサールでも読んでみるか。
>論理学と心理学の関係については現象学についてやればいいという意見が(理系全般板で)あった。
なわけないよ。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
/ ,――――-ミ
/ / / \ |
| / ,(・) (・) |
(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < たまには僕のこと思い出してね。
/| /\ \________
54 :
概念は覆る ◆GAINENZdAQ :2009/05/10(日) 21:25:01 0
55 :
:2009/05/11(月) 09:32:51 0
矛盾について肯定観測と推論があり無限のロジックのみでは
無理(プロセス=実体を処理する・データストア=実体を保存する・データフロー=実体の流れの矢印)
重力的に束縛された物である。こうすると、存在というのは「論理的に」存在し、論理学の世界は極めて世界の根源に近いと考えています。
・たとえば、クワインは、われわれの知識に「確実な基礎」を与える「知識の基礎づけ」
は不可能と言っています。 (『ダーウィンの危険な思想』、ダニエル・デネット、青土社、2001年、参照)
56 :
:2009/05/12(火) 21:31:10 0
57 :
:2009/05/15(金) 10:51:52 0
根本的誤想
拡大解釈
そうだね
哲学を自己正当化や他人を動かすための道具としては使わず、
自分自身への戒めとしている限りは。
ただ残念ながら、哲学にかぶれるほとんどの人間は間逆になってしまうんだ。
根本的に人間には過ぎたおもちゃなのかもね。
キモい度すなわち被害妄想とか、リセット不能な状態。
65 :
1:2009/07/24(金) 01:59:07 0
今さらですが、存在論を論理学の前に設定しました。
論理学といえども何かの存在を反映しているはずだ。
そしてその存在(や性質や機能)が究極原因のはずだ。
67 :
1:2009/07/24(金) 21:04:20 0
あ、えーと、今編集の方針が(俺の頭の中で)混乱中ですので、
ちょっとローカルでいじっては直ししています。
形而上学・存在論=存在の項目もローカルで新しく作ったものです。
もうしばらくして編集方針が固まってからのお披露目になります。
>>66 「形而上学・存在論」の文献学ならあるよ。
69 :
1:2009/07/25(土) 22:13:02 0
存在の項目を追加した(あと因果関係の優先順位を整理した)版をwikiにアップしました。
70 :
考える名無しさん:2009/08/28(金) 00:18:35 0
織物なんだな
というか、そもそも根源的な存在が有る/無いと困るという根拠は何?
72 :
1:2009/08/30(日) 20:27:08 0
>>71 因果関係があるのなら、たとえループがあったにせよ、
時間をさかのぼればループの元となった原因がある。
その原因は明らかにしたい。というだけです。
生態系の食物連鎖とかはループで、一見どこが始点か問うのはばかげているけど、
それでもどの生物がいつできてループのどこに組み込まれたかは追うことができる。
そしてさらにそのループの背景として地球や宇宙を想定することもできる。
じゃあそういうことを繰り返したら究極原因に至ることも不可能じゃないんじゃないの。
と思った次第です。
今のところ、論理学で扱う領域よりさかのぼろうとすると、
最近の論理学は実体関連モデルとかキュビットとかあって、
大抵の存在を表現するのには概ね適していると言えるでしょう。
実体・属性・関連全体は論理といえるけど、各要素は論理とは言えないので、
結局実体や属性や関連についての存在論はどうしても必要になるのかも知れん。
今考えているのはそんなところです。
73 :
考える名無しさん:2009/11/10(火) 03:50:46 0
「我思う故に我あり」は絶対の真実だと思っていたのですが、最近、「我思う故に我あり」すら果たして本当に確かなことなのか検証してみたくなりました。
背景:「我思う故に我あり」が発表されながら数百年これを発展させた新事実がないような気がするので、もしかしたら、「我思う故に我あり」が何か重大な間違いを持っているのかもしれないと思ったので。
74 :
考える名無しさん:2009/11/10(火) 03:52:17 0
目的:「我思う故に我あり」を検証することが更なる真実の解明に役立つのではないだろうか?
方法:例えばカントは「我思う故に我あり」を誤謬推論だと批判している。カントの言ってるこ
とは難解なので、「我思う故に我あり」のどこがどのように間違っているのかすら僕にはわかりませんが、カントの言いたいことを理解して「我思う故に我あり」に対する反論を僕なりにも考えたい。
75 :
考える名無しさん:2009/11/10(火) 03:53:07 0
結果:おそらくカントは「我思う故に我あり」自体は正しいと思っているのだろうが、その「我思う故に我あり」という表現に正確さが足りないといっているだけなのであろう。
76 :
考える名無しさん:2009/11/10(火) 03:55:22 0
考察:カント以外にも「我思う故に我あり」に対する批判はあると思う。それを吟味しながら「我思う故に我あり」をより詳しく検証して、「我思う故に我あり」の我とは何か、思うとは何か、あるとは何か、を考えていきたい。
ただし、個々の言葉の定義を考えるのが目的ではなく、あくまでも自分と言うもののの存在が確かにあるという一見真実に思えることに着目して、本当の事実を探していきたい。「我思う故に我あり」に何か意外な盲点があるのかもしれない。
それがパラダイムシフトにつながるかもしれない。。。
77 :
考える名無しさん:2009/11/15(日) 05:16:39 0
「我思う故に我あり」は「我感じる故に我あり」になるが、感じるというのは受動態なのか、それとも能動態たりうるのか?また感じるというのは神には僕の感じることが正確に同じように感じられているものなのだろうか?
悪魔が僕に様々な幻覚を見させていたとしても、それを感じる僕の存在がなければ悪魔もどうしようもないわけで。僕が空想しているときに空想の中で他人に色々良い思いをさせてもその人に良い感じが発生しているとは言えないだろう。
78 :
1:2009/11/22(日) 21:02:02 0
>>73-77 あー、すまん、ほったらかして。
あまり自意識(カントで言うと統覚か)には興味ないんだ。
これはいまだ予想だけど、認知科学で意識については何か答えが出るでしょう。
「自」意識に限って言えば他者認識や模倣や会話の結果獲得される社会性の強いものだと思う。
「根源的な存在」とやらが言語や論理で扱えない領域に在ったらどうなってしまうの?
語り得るものだけが扱われているように思ったんだけど。
80 :
1:2010/02/16(火) 19:38:26 0
>>79 今の図案ではもうループ構造はとっていなくて、ハイデガーが存在論で扱うような、
開示されていたり隠れていたりする(語り得たり語り得なかったりする)「存在」を根底において、
その上に「論理学」とかいろいろを置いています。
論理学はある意味で関連(と実体と属性)の体系だから、それに組み込まれた存在は論理学に埋没してしまう。
逆に、開示されていない、関連していない存在は、論理学の土俵に乗ってないかも知れない。
論理学に組み込まれる前の存在となると、ハイデガーの存在論の領域になってしまうのだろうと思う。
とにかく存在というのがあって、論理学はそれが「現われた」、(特に現存在=私と)関連した時にのみ可能になる。
ラフな感じだがそんな感じ。
81 :
1:
あれだ、データベースの世界にはnullって値(厳密には値じゃないが)があるじゃないですか。
あれは「である(true)」「でない(false)」に次ぐ第三の値、「わからない(unknown)」なんですよ。
「わからない」から演算ができない。どう演算しても結果は「わからない」になる。(本当はもうちょっと複雑だが)
そういう「わからない」存在を無理やり形式言語や論理で扱うことはできるけど、
それは「これは普通の形式言語や論理ではない」という記号でしかない。
そういうnullとしか言えない存在が世の中には沢山あるだろうと思う。
そういうのも何か関連を持つ=観測することでtrue/falseが言えるようになることはよくあるし、
そうすれば論理学で論じられるようになるけど、なってないものは沢山ある。