騙る実は虚
ならば、そいつにとっての虚は実なのだろうな。
もちろん、一般的にはそんなの通る訳ないのだが
928 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/21(火) 21:06:17 0
>>925 グローバリズムとは、資本の側からみた新規市場/低コスト製造拠点の開拓戦略の謂いです。
「なぜ、人は行き詰まるのか?」ということを少し考えてみたいと思います。
私の答え。それは、無闇にカッコつけるからなんだと思います。たとえば、
先の公園での露出騒動のタレントは、商品イメージとして爽やかで清々しい
という雰囲気を持っていた人だと思います。
ただ、その人の現実界はマスコミ的な印象操作で創られたイメージとは随分異なって
いる人だったのでしょう。だから、その仮のキャラクターに窒息しそうになって、
本当の自己存在の側が遂に叫びを挙げた、みたいな感じになるのだと思います。
偽メール事件騒動で亡くなった、元大蔵官僚、東大エリートの若手民主党議員の人
もそうで、肩書きが結構カッコいいので、そういうキャラを自ずとベタに演ずる
ようになって、結局は自己喪失してしまうという機序をそこに洞察することが出来ます。
若手の国立新進教授と議論したとか、バークレー校を目指すとか言うニートの人とかも
ある意味、同類の人達なのでしょうか。消費者金融を使って、あるいは風俗嬢になって、
ブランド品で全身を装い、拙いハイソを演出する人達もそうなのでしょうか。
ここから引き出せる教訓は、カッコつけない方が楽に自然に生きていける
のではないかな?ということ。
難解な哲学書や思想書をコピペ、切り貼りしたようなレスが多いのも、
そういう人達は皆カッコつけて、改行して読む人に配慮するような
精神的余裕すらなく、自分の実力以上のものを周囲に誇示しようとして、
ある者はそれで疲れ、病み、あるいは既知外にはそう簡単にはならないと
思いますが、とにかく、実際以上に背伸びをして自分を周囲に見せる、
あるいは自分自身さえをも欺くというのは、本当の意味では、とても
カッコ悪いことなんだと思います。
むしろ私から見ると、たとえ少々オドオドしていても、だらしがなくとも、
気弱でも、落ち込み、傷つきやすくても、妙に自分を実力以上に見せることなく、
変にカッコつけない人達の方が、本当の意味でかっこいい人達なのではないかな?
と思っています。
必要悪。この世で生きるためには、ある程度、必要悪というのは避けがたいし、
言葉の上ではいくらでも綺麗事を並べることが出来るけど、人が実際に生きる
ということは、決して机上の空論のようなものではないでしょう。
私達に必要なのは、もっと現実的で実践的な倫理なり態度や行為なのだと思います。
ポエジーのような観念論みたいなものは、幻想的で心地良いのだとは思うけれど、
やはりそれだと生きていけないし、基盤が脆弱なもの、そうしたイデアは
やはり現実という偉大な教師によって、後に簡単に現実的に破綻すると思うのです。
形骸化、もしくは教条(格率)化されていない現実的な倫理というのが、
私達には必要だと思うです。それは、個々人の実存的な決断なり投企を
要するようなもので、決してマニュアル化出来るものではなく、むしろ
マニュアル化、指数化されていない領域にこそ、真の決断なり、倫理や
行為があるような気がします。
なぜ、他者のテクストをコピーするだけの人達がこんなにも多いのでしょうか?
私から見ると、それは自己喪失し、思考停止(劣化)した人々のように映ります。
おのれの考えや洞察、観察をたとえ拙くとも自らの言葉で表明するという
基本項さえをも排除し、全てを他者(権威)の言葉と概念のみで自己の意見を
糊塗(もしくは武装、仮装)していくことを自明視し、あるいはそれに恣意的な
理論付けをして、その他の可能性を排除しているような学的な、もしくは
知的な風潮に私は疑問を感じます。そうした現象が至るところで頻繁に
見られる訳だけど、それは知的な頽廃、もしくは流産であるように
私には感じられます。
すなわち、他者からの引用の言葉や概念や意見の転写の増殖ばかりが異常に
多くなっているということ。もしくは、他者のテクストを丸ごとコピー、
それを切り貼りしたような意見表明の過剰な量的羅列。
そして私から見ると、現代哲学や社会評論、あるいは表現体の多くが
そうしたコラージュと化している状況で、それに真摯な疑問を抱いていない様子。
これは一部、私自身にもそう言えそうな所もあるから、ある意味、自己批判の
意味をそこに包含しています。そういう人達はまるで自宅に住むことを過剰に
嫌って、他人の(その殆どは、異国なのでしょうか?)召使いなり奴隷へと
成り下がって、その家なり、牢獄に住むことを心底願っている倒錯者や
乞食のように私の眼には映ります。
そしてそこは勿論、モノ慣れない場所で、不自然さを伴うものだから、
無用なストレスが発生しやすく、丁度やたらと背伸びをする虚栄的な人間が、
無用な心理的な負荷をおのずと抱え込むように、そうした自分の精神的な
誠実さを裏切るような態度は、かえって自らを損なうことになると思います。
量への還元、すなわち大量生産、大量商品、流通、あるいは多量な言語、
記号、シンボル、大量消費は今までの資本主義の論理にあったもので、
これは今の環境世界、あるいは今の社会体から考えて、そろそろかつての、
という修正が必要な古いモデルなのだと思います。ここで景気回復の話などを
ベタに行っているのは、哲学的にも無意味だし、それに現実の実存モデルにも
対して対応出来てないと思います。
そのため無闇にエネルギーを消費、蕩尽しない人々、商品の大量生産及び
消費に参加しない人々、少し極端な例で言えば解脱者みたいな人達が、
ある意味、最先端の実存的なモデルにもなり得るという奇妙な時代に突入
しています。サーバー負荷ということを考えれば、私ぐらいでもやはり
まずいのでしょうか。(笑
唯我的独断的すぎる
Aだと思う。Bでしょう。Cです。
詩や日記帳じゃないならAなぜならBだからCである、という形式じゃないと伝わらない。
>>933 それだと、逆に私には伝わりません。私の書いた内容のどこがAで、Bで、Cで
内容のどの箇所が、どの箇所と繋がってなくて、と具体的に言わないと
何が何だかよく分かりません。
それに、詩にしろ音楽にしろ、言葉にしろ論理式、三段論法を組まないと
伝わらないなんて言うのはおかしい。むしろ、純粋な論理式よりも直観に
拠る洞察の方がずっと先見性があるということだってあるでしょう。
学者の立てる説なんて、始終間違えている、及び大幅に修正されるものだし
(中には超重要なトピックについて……)、それなのにその人達は誰にも
伝わらない詭弁を弄して仕事を平気な顔で続けています。
たとえば、オウムは本物ですとか言ってた、宗教学者などね。
935 :
考える名無しさん:2009/04/25(土) 07:00:58 0
論理には構造ってものがあって、
既に積まれた大きな構造に欲求を合致させた意見ってのは、
議論の場では、人を圧倒し、説得力をもつ。男性的な言葉。
詩なんかの感性的な単語の羅列は、
読んだ人がそこから自由に文脈を組む事が出来て、主体性を勝ち得る。
文脈形成の過程で葛藤が生じ、情感が生まれる。女性的な言葉。
大学池よお前アホなのかこいつ。人と全然話してないな。だらしない。
日常の嫌な事ぐらい我慢しろ!
今時、そんなディコトミーを盲信している人がいるなんて!?
何時代の人?江戸時代だと、逆に瀟洒かも(笑
もっと、社会活動をした方がいいと思いますよ、そんなことで
説得や共感を得られる狭い井の中に住む蛙さんらしい意見だね。
シーラカンス、南無。
937 :
考える名無しさん:2009/04/25(土) 08:18:16 0
新しい事したけど基本押さえてない、自我も弱い。コンプを消化できていない。
ただ被害妄想と話してるだけ。相手が見えない。だからこっちは安心。
新しい事してびっくりさせたいだけのために哲学する幼稚ぶり。俗物根性。
だから新しそうな事何にでも影響受けてうんこ出すだけ。だから支離滅裂にしかなんないw
誰も見ない職人。そういうやつの書いたものがあふれすぎてる現状を把握してない。
新しいとか、エキセントリックとか。狙い過ぎ。ただ闇雲な感じ。
自分で考えられない奴はだめ。
>>935 他者に伝えようとする考慮や単純さや論理性を無くした「詩的オナニー」ではシェイクスピアのような
ごく一部の文才(レトリケーギフト)以外は他人とイメージを共有できないので影響力がなくなると手前さんのレスが証明してるよ。
939 :
そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/26(日) 00:24:18 0
ケインズとウィトゲンシュタイン
不況は貨幣への過剰な信頼によって起こる。
すなわち人々がもう貨幣しか信じられないと感じたとき(流動性選好)・
940 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 00:31:20 0
PIKARRRのブログ、いつも勉強させてもらってます。
アクセス数ももうすぐ80万件ですね。
大台にのる日も近いのではないですか?
7分で惨めな自演乙
942 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 03:30:35 0
>>941 自分のブログのアクセス数が少ないからってイジケチャイケナイヨ。ガンガレ!
943 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 05:50:19 0
標準的なブログ閲覧者が一度見て飽きような、
ページ数も少ない、レイアウトも野暮ったいネタも使い回しでスカスカなブログの内容、
他で何か活動するための宣伝でもない充実度の低さ、
自演厨のニートのブログであることもある。
そんなブログが80万件なら、
それは常識で考えて累計アクセスがほとんどだし自演とすぐわかる。
2ちゃんの気配を消して自演だけする。というえグさ。
944 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 06:01:22 0
>>928 あ?れすがある。
しかしニートは話にならん。
一般常識を詩だと思って読んで批判してんのか。アホだな。
高卒、不細工コンプが強すぎるんだな。かわいそうに。なぁ?
>>944 そうした根拠や論理性のない独断的な文章では他者に理解も共感もされんよ。
君にとっては真理、常識であっても、客観性のない、または客観的だと信じ込んでいる独断論的な真理は思い込みと同じ。
946 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 06:35:52 0
共感されたいのね。はいはいわかったわかた。
共感力は高いんだよ。エゴグラムに出てる。お前もエゴグラムやってみれば?
おまえぴかぁ?なんでコテつけないの?つけろよ話しづらいな。
で、自演の件はなんて答えるの?
947 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 06:38:29 0
え〜と、943=946ね。
949 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 09:47:36 0
貧困に対する恐怖と嫌悪―――それこそが奴隷にしてしまう権力である。
貧困と対立するのは裕福ではない。
「緩慢な死」と「暴力的な死」が対立するように「貧困」は「奴隷」と対立する。
この貧困への嫌悪―(裕福と貧困の対立構造)は
「困窮者」を「貧困」として生きる名誉と尊厳を奪い
「資本家」さえも、資本の「奴隷」としか生きるに値しないと判定された”慰めの象徴”にされるのである。
真の主人にあって資本家を含む奴隷にないのは「貧困」に自ら堕ち生きる権利である。
構造を規定する真の主人は、他者に「貧困」として生きる権利を奪うことで、資本と労働と経済に縛り付ける。
そう、「貧困」への嫌悪こそが「困窮者」を貧困せしめている。
950 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 10:02:46 0
そうやってむかつくたびに言葉でリリアンでも編んでればいいだろ!w
一定時間観察すると、心の軌跡が俗悪そのものだ。だから嫌悪感を与える。
まだ、当人のキャラが言葉のリリアンに出ていないのでつまらないんだよ。
自分の俗悪さに躊躇してる証だ。
>>948 いずれ劣らぬツワモノ揃い…。
哲学板って一体なんなんだろうな…。
952 :
そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/26(日) 10:40:38 O
人は不確実性を前にするといかに振る舞うのか
それがそれまでの経済学にないケインズの問題意識どあった。
そしてその答えはコンベンションである。ヒュームから連なる経済学の根本である。いかに経済的秩序は成立するのか。
神の手もコンベンションの一つの解釈である。そして流動性選考がケインズの解釈である。
953 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 11:00:48 O
ほう、これはたいした才能だ
何度、拡大型経済が終焉すればゾンビのようなケインズ主義は死ぬのだろうか
955 :
そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/04/26(日) 14:54:10 O
ケインズ経済学の特徴は不況分析にある。古典派にはない短期的、心理的
有効需要の原理
需要サイドの重要性から、マクロ経済の操作方法
不況の原因と対策
需要サイドの短期的性向と改善方法。
需要サイドは心理的に影響され、短期に変動しやすい。
957 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 21:29:17 0
おまえら、こうやって死ぬまで2chつづける気か?
958 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 21:53:11 0
いるのは分かってるよ
別コテで高説たれずにはやくでてこいよPIKARRR
百年に一度の霞ヶ関の悪乗り
最後に強調したいのですが、今回の経済危機は“百年に一度”でも何でもありません。既に、米国の経済対策や日本の金融対策が徐々に効果を発揮し出し、産業や企業の現場レベルでは底打ち感が出始めているようです。
経済がそうした段階に入りつつあるのに、“百年に一度の経済危機”という標語に悪乗りして霞ヶ関と永田町は大きな政府を志向し、マスメディアもそれを許容し、政策判断でモラルハザードがまかり通るというのは恐ろしいことです。
モラルハザードは政府出資に止まりません。消費者庁の焼け太り、政策投資銀行民営化の事実上の停止など、枚挙に暇がありません。
自信を持って断言しましょう。世界的に景気回復局面に入る段階では、日本経済の回復が最も遅れるでしょう。日本の株価も、世界の市場の中で最も回復が遅れるでしょう。こんな経済政策を平気で講じる国の株を買いたい外人投資家は間違いなく少ないからです。
960 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 12:34:22 0
いるんだろ?
962 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 12:50:45 0
いるのかい?
963 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 13:39:01 0
ふうしかし。薔薇の香り。。。。
ばらの、かおり・・・・いいにゃあ。
エンゲージメントのつらなる、茶園の中で、いろんなことが、すすんでいく。
いいにゃあ。個人的な立場も、いいにゃあ。
カラフルな、トリポルボギーだにゃ。
スパゲッティというのがなんとなく気になるけど、哲板にこないのかな。
ニュー速ってうざ。
スパゲッティ探ししたいけど、どのスレに居るの?
ボランティアの知的障害者のスレ
967 :
パレルゴン:2009/04/30(木) 09:39:43 0
ぴかぁ〜さん、テキストのタイトル映しは、もう、バレテいるようだね。
熟読して自分のものにして、書いた方が良い様ですよ。
それに、誰も、君のレスを理解していないし、このようなサブタイトル
写しでは理解できないでしょう。
そうなってくると、何のために君は書いているのか意味不明な訳で、
自己満足以外には考えられなくなると言う地点に君はいる事になるね。
タームの意味を解説せずに、流して行く、そして、安易に、別のターム
を繋いでいくと言う、煙に巻くスタイルは、明らかに意味不明であり、
自分自身が良く分かっていないと言う事が、少し勉強した者には
分るんだよね。931さんも、その辺が分かっているのだと言う事でしょう。
経済学は良いが、ケインズをたったの一週間読んだ位で分かったと思ってはいけない
ですよ。もっと、時代背景や、当時の経済学の問題点やケインズが影響を受けた
他の経済学者。古典主義など、幅広い知識を学ぶ必要があるでしょうね。
そこから、レスすると、より説得力があり、タームを繋ぐだけといった
段階を超えられるでしょう。頑張ってください。
968 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 22:18:07 0
969 :
そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/05/01(金) 10:01:59 O
いぜん、東海村で放射能漏れの事故があり、海外でも報道されるほどの大きなニュースになったことがあった。
このとき、息子を九州の大学に留学させていたオーストラリア人の母が心配になり、急遽帰国させたという話があった。
日本に住むボクたちからすれば事件の規模、東海村と九州の距離を考えて滑稽な行動でしかない。
しかしその母にとっては日本は日本である。
970 :
そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/05/01(金) 10:10:21 O
この逸話にあらわれるのは人間の認識の特性である、差異の思考である。
人はそのものを認識するよりも差異として認識する。たとえば男と女、大人と子供など
これは情報の整理方法といえるだろう。重要でないものは大括りでおぼえ、重要なものはより細分化した差異で覚える。
971 :
そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/05/01(金) 10:17:04 O
マスコミの報道はこのような階層を圧縮する。ごく狭い地域の問題を、大きな括りとして語る。
たとえば数人の貧困者の生活をえがき、それが社会の下層の姿であるように短絡する。
事故のもっとも悲惨な場面を切り取り、全体であるかのように描く。
オーストラリアの母はそのような報道にあおられ、草薙も大きく報道される。
メキシコのインフルエンザ問題はどうだろう。
972 :
そばかす次郎 ◆JXLBbnYqTY :2009/05/01(金) 10:26:38 O
マクロコンテクストとマクロコンテクストの短絡
人々は、それ自体に苦しむのではなく、支配的な(一元的な)価値観の
存在に拠って苦しんでいることが多いと思う。アメリカ的な先進国の
支配的な価値観を述べて見ましょう。経済、テクノロジー至上主義、
高等教育の有無、工学、あるいは生理学的な制御系の学知やスキーマの優越、
美醜、知能の高低、孤独を含めた人間関係、娯楽(生理的な享楽)嗜好/志向、
心身の健康状態などに拠るレイティング、すなわちダーヴィニズム的な
優生学の思想とその派生物。
速度、効率、量的なモノへの価値の一元化。遺伝子操作なども、やはり
こうした偏向的な優生学の思想から出て来ているものだと思われます。
繊細で不可知な精神的なものよりも、目にはっきりと見えるもの、
しっかりと触れることが出来るオブジェ的な物への偏愛。
そのため私の考えではクーポンなどを含めた疑似通貨のようなもので、
資本主義や大企業の論理のみが支配、蹂躙、侵襲する世界を相対化
(無産化)していく発想というのは駄目で、それは理論的に言えば
アンチテーゼが後にテーゼへと回収されてしまうような愚かさにも似ている。
それが仮に共産主義であれ、経済を人間の中心に据えているという点では、
同じ錯誤に陥っている。表層的なエコロジー志向が、ビジネスの論理へと
回収されていくのにも、同じ機制を洞察出来ます。
そうではなく、経済なり、テクノロジー至上主義(微視的な効果−帰結)の
考え方、「勝ち組・負け組」などのマスコミ的な浮薄な言説に代表される
ような偏狭な優生学、イデオロギー的な刷り込みの方を相対化(無化)
することで、まずは人々の集合的な意識にさえ侵襲されているような
支配的なヘゲモニー(怪物)となり、人々の家族関係や地域的な紐帯や
コミュニティ、フラタニティを破壊し尽くした一元的な価値観
(イデオロギーという目に見えない武器)に現実的な変更や修正を迫り、
すなわち人々の意識改革をまず空気としてでも少しずつ伝えていくことが
大切であると思います。これは様々な立場で、人々が実行出来る余地が
あるでしょう。こんな拙い書き込みの中でも、ほんの少しは出来ます。
もっと簡単に言うと、あらゆる種類の差別なり排除、隔離というのが
なくなるといいと思うのです。
ご存知のように現代は、神経症的な「隔離社会」です。自分にとって
害のありそうなものは、何でも一時的に隔離して済ませてしまうのです。
それで、真の問題項からは眼を塞ぎ、あるいはそれを先送り(忘却)して
しまう。ネットなどを見れば分かるように、あらゆる差別用語じみたものが
平気で使われているし、そういうことに鈍感な人々が少なくないということ。
この間の朝日のジャーナリストのようにね。
区別は、社会運営上勿論必要なのだけど、区別と差別は違います。
これは勿論、逆差別にならない配慮も含みますし(被差別者の方が有利に
成り過ぎるような制度、状況)、またこういう価値観(あらゆる生き物、
属性、存在者への差別をやめること)が極端に支配(抑圧)的で
一元的な価値観になってしまってはならないという臨界点も、どこかに
あるような気がします。
だから経済や資本にのみプライオリティーを置く人がいても、勿論、
良い訳です。ただそれを一般化させてはならない。私達には、
そうした微妙で繊細なバランス感覚が必要だと思われます。
これを「不可知なる倫理」と、私は呼びたいような気がします。