1 :
考える名無しさん:
このスレッド名なら文句はあるまい。
比較対象として聖書主義や洋学を出しても、あくまで東洋教学主体。
東洋の哲学は宗教と不可分なんで教学と呼んだほうが適切。
その宗教もまたキリスト教やユダヤ教のような極端な形而上の夢想ではなく
実在に基づいた宗教となっている(西嶋和夫訳「中論」冒頭より)。
宗教と哲学が完全に分裂してしまっている西洋とは事情が違うのを留意されたい。
3 :
考える名無しさん:2009/01/16(金) 17:49:40 O
いまどき東洋と西洋の対立でものを考えるとは古いな
そういうのをな、「みそくそ」ってんだ。道徳と犯罪のみそくそ。
その論理に則って実動すりゃ犯罪者側の共犯になる。
道徳者にはなれないから、みそくそはくその側になる。覚えとけ。
ヘレニズムを原初とする、実質に基づかない極端な概念遊びと
ヘブライズムを主体とする、外界からの犯罪的な利益の収奪によって
西洋ってのは初めて成り立っていて、煌びやかに思える洋学の裏には
いつも聖書主義による内外共々の積極的な犯罪加害被害が実在している。
実在性を重視する東洋の側からすれば、洋学が常に実在上の
犯罪性と共にのみ発展してきたことを無視することはできず、
哲学である部分と宗教である部分を統合する教学の姿勢に則って
実在から全面的に道徳的である東洋教学と、少なからずいつも
犯罪的である洋学こと西洋教学のみそくそを忌避するものだ。
東洋の側に立つならば。西洋の側に立つならそうではないし、
東洋も西洋も同等なんてのもみそくそなんで西洋の側の立場だ。
6 :
考える名無しさん:2009/01/17(土) 11:19:33 O
「宗教なんかいらん」って、西洋の哲学寄りの人間はよう言う。
でも、それと同じぐらいかそれ以上に「哲学なんかいらん」っていう人間もいて、
何も考えずにただ動き回る多動性が自ずと聖書主義のようなカルトに利用される。
晦渋な考究なんかにいちいち構ってられない、
大部分の民衆を無視したままに西洋哲学は成り立ち、
それ故いつだって民衆から平気で不当利得をむさぼるカルト宗教の存在を黙認し続けてきた、
聖書主義が主犯なら西洋哲学は共犯や従犯、宗教と哲学が分裂してしまっている世界の実践的全様相。
哲学であり、しかも常に宗教でもあった、
愚鈍な民衆までも付いてこさせる教化的な姿勢を保ったままで哲学的な研鑽も続けてきた、
洋学と比べて若干地味に思える東洋教学の真髄はそこにこそあり、
勉強家には勉強家なりの(一切経の読破とか)、凡夫には凡夫なりの(念仏だけとか)
享受の仕方がある懐の深さ故に、勉強しているかしていないかで
極端に享受の差の生まれる洋学のような差別性もない、ただ
悪いことをせず善いことをする(諸悪莫作衆善奉行)という実践だけに特化されている
哲学でもあり信教でもある、自力でもあり他力でもある善き万人のための教学。
「宗教」という言葉が、現代人にとって極端なアレルギー反応の素となっている。
聖書教や創価学会、オウム真理教らのカルト宗教の異様さやきな臭さから
なるべく遠くに置いておきたい、蓋をしておきたい臭いもの扱いとなる。
そうではない、東洋でいう本来の宗教ってのは「教訓」とか「教科」とかいったぐらいの意味。
人間をなるべく犯罪や犯罪性に走らせず、道徳や道徳性に
繋ぎ止めておく上での要領のいい教えという程度のもの。
だから不当利得含む犯罪や犯罪性への積極を目論むカルトのほうがむしろ
東洋でいう所の宗教の条件を満たしていない。宗教の仮面を被ったただのヤクザやギャング。
オウムのように無力化させられてたらまだいいんだが、
未だに摘発も受けずに敬虔な信仰者であるかの如く思われ(実際、末端の信者は
カルト性に気付かずに本気で信仰していたりもする)、金融や権力の乗っ取りによって
社会全体を自分勝手にひっかきまわしてすらいるから、
そういうカルトの横暴を許さないための自己防衛策として、
非カルト・反犯罪な信教を一人一人の人間が携えておく必要がある。
一銭も払わなくたっていいから、最初は神仏を敬う所からでも始めてみること。
8 :
考える名無しさん:2009/01/17(土) 12:53:43 0
現代における、洋学の手法に基づく原典第一主義な仏教研究は、
仏教に対する「角を矯めて牛を殺す」仕打ちの様相を呈している。
玄奘三蔵や達磨らによって、信仰性のより強かった仏教教義が
思想の実践性のより強い東アジア社会に伝承されることによって、
漢訳仏典や禅書などの形で高性能化していった事情がある。
宗教では卓越しているものの実践的な思想には乏しいインド、
実践的な思想には長けているが宗教的な追及には乏しい中国、
両者が相まみえることにより、哲学としての仏教も発展していった。
そのような一番脂の乗っていた時期の仏教は、インドや中国では
もはや衰亡してしまっているものの、物持ちのいい日本では未だに
保存され続けている。南都六宗に天台真言、禅に浄土、わざわざ
実践性を欠く洋学の研究手法を取り入れるまでもなく、信仰でも
実践でも最適の状態にある古きよき時代の仏教を、ありのままに
見直してみる必要がある。わざわざ自分らで新宗教などを立ち
上げるまでもなく、昔からあるお寺にこそ懺悔の道を見出すべき。
9 :
考える名無しさん:2009/01/17(土) 21:44:39 0
仏教が超俗的な真理の探究に努めたのに対し、儒教は世俗上の最低限の道徳の死守に努めた。
仏教が何やら凄いってのは今でも結構知れ渡ってるが、俗世間を含む社会全体のレベルで
非カルト・反犯罪である道徳を頒布させた儒教の威力は未だに過小評価されている所がある。
とにかく頑固だ。禅ですらカルト仏教扱いしてたことがあるほど守旧的(朱子語類)、
絶対に安定的であるものだけを重んじ、不安定なものは例え真実であっても受け入れない。
儒者の林羅山など、地動説を訴えるキリシタン神父に対して天動説を押し付けて論破して
棄教させてしまってすらいる。こりゃあ別に天動説が正しいとかではなく、物事に対して
誠実であることは、真実への理解を振りかざすばかりで不誠実である者よりも上であるという
究極の実用主義(プラグマティズム)に基づく。今のアメリカ人なんかよりもはるかにすでに
実用的だった。遊戯的な金融操作で稼いだりする不安定さも士農工商の商業劣後などによって
すでに戒めてた。何よりも実用的である面において儒教は全西洋思想宗教哲学を上回っている。
道徳に基づいて実用的であることは、必ずしも道徳に基づかないままに実用的であるよりも
さらに実用的であるわけ。道徳とはすなわち実用性のことだ。人間社会を堅実に維持していく
上での何よりの欲得だ。人々が道徳を嗜むことでより社会が磐石なものとなる。決して精神的に
清らかであるとかそんなことではない、絶対に安定的なものを追い求める先にこそ道徳がある。
10 :
考える名無しさん:2009/01/17(土) 23:57:12 0
長いよ。
日記ならブログでやれよ。
ていうか、中華思想とか東洋思想(哲学)は結構好きなんだけどねぇ・・・・・・・
かの孔子様ってのは実はペテン祈祷師(それも詐欺まがいの占い師)だったてこと知ってんの?
祈祷師というと少し誤解があるか。
現代風に言えば、ただの葬式屋(葬儀屋)っていったほうがいいかな。
FF10に出てきたユウナみたいなことやってた奴。
12 :
考える名無しさん:2009/01/18(日) 00:21:17 0
>>4-9 を斜め読みしてみたけど、何か主張したいならまずは「精神手帳」を申請したほうがいいんじゃないの?
たしか、保健所にいけば詳しく説明してくれたはずだったかな。
君なら手帳3級は間違いない。
>>4-9はまさしく「言葉のサラダ」状態なんだよねw
なというか、東洋思想に興味があるなら文化人類学とか民俗学によくある「伝承・神話」とかの分野や、歴史書(史記とか)・文献学(聖書解釈とか)の方が、数学とかよりも君には向いてるんじゃないか?
斜め読みしてみてもよくわかるけど、大作とかオウムがカルトというよりも、君の長文の方が超カルトじゃないのか?それもサラダだし(笑いw
たぶん君なんか高卒ニートでヒマしてるんだろ?ww
>>7 学生さんだね。
社会に出ればわかるけど冤罪も罪のうち、疑わしきは罰するってのは法治国家の不文律だよ。
おはよう。
ブログでの日記ではなく掲示板に書くのは、討論も念頭に置いているから。
プラトンの対話篇のような自論の展開(ただしソクラテスの名を借りた)ばかりではなく、
挑戦的な公案との間で自己の意見も研鑽していくことが目的なので
誠実な書き込みには誠実な応対を、不誠実な書き込みにもそれなりの応対をなるべく欠かさないようにする。
不誠実でしかも間違っているような書き込みですら、このスレッド名の下での極端な嘲笑は避ける。
>>10-11 古代の祈祷師や葬儀屋というのは、現代の尺度では量れないほどに重大視されていたものだ。
何事に対しても定量的な分析が重んじられる現代とは違い、定性的な総合こそが重んじられていた。
時局を見抜く千里眼や、死のような人間にとっての(一見)堪えがたい不条理への独自の解釈を持つ人間が
祈祷師や葬儀屋といった職業に集まっていた。今ならそのような素養の持ち主は
先物取引業者や評論家、作家にだってなれるわけだが、差し迫った人々の苦悩を切実に処理するに関しては
昔の祈祷師や葬儀屋のほうが負わされていた所があるだろう。緩慢とした事務処理や金融を介さなかった分だけ。
>>12 「精神病」という概念は全くの西洋文化文明の創作だ。
ギリシャ悲劇や聖書、それらを叩き台にした中近世、近現代の西洋文学が
執拗に人々の情緒を煽ることにより躁鬱の双極性障害が生じ、
発狂や自殺のような極例をも踏まえることで精神病理学も生まれた。
どちらもないのだ、東洋には。文学で人々の情緒を極端に煽ることもなければ、
それによって引き起こされた深刻な病疾の治療もない。罪を犯させて罰を科すマッチポンプ、
法律の名を借りた犯罪律の増加と同じで、病を引き起こして自分らで治して治療代をかすめとる、
精神病理の過剰な増大もまた西洋文化文明だけでのマッチポンプだ。
西洋の法学や医学への批判は、弁護士でもあったガンジーの著作「真の独立への道」にも詳しい。
神がかりとして崇められることすらあった(ドストエフスキーの作中にも出てくる)
人間の精神性の妙義を、病気の一言で片付けてしまった西洋医学こそは病気である精神性の賜。
そのようなマッチポンプの塊でしかない陰性の洋学と、真理の把捉による実践を念頭に置く東洋教学との
みそくそを避けるために、ことに東洋と西洋を比較する場合にはるつぼではなくサラダの様相を呈する。
あえてそうなるように意図していること。本当に東洋の問題しか語らない古典文献中の
東洋教学とは明確に異なる点。未曾有の陰性である洋学とは比較的
陽性の立場にあるといえる東洋教学の特性に配慮しての便宜。
>>13 真っ当な社会人であるとも言わないが、学生であるわけでもない。
「罰する」も何も、現代の社会人の正統宗教への姿勢や態度は、ただひたすらの逃避に尽きている。
敬ったからって現代社会での即座な利益が返ってくるわけでもない、
古の神仏や偉人こそを祭っているのが正統宗教の主な特徴。
池田大作やロックフェラー、ロスチャイルドのような現世において存命である連中の方ばかりを向いて
既得権益のおこぼれに与かろうとする自分たちの卑しさを省みれば、
容易に正統宗教などに顔向けするわけにもいかない、うしろめたい気分にもなるわけだ。
葬式とか法事とかの、どうしても必要な時に関わるぐらい、
図らずとも現代においてすら、古代において祈祷師や葬儀屋であった職業に
今でも正統宗教が携わっている。時流が読めなかったり死が怖かったりするのは、
いつの時代でも所詮は同じことであり、そのような最も深刻な側面において人々を救えるのもまた
今も昔もカルトではなく正統な教訓のほうであるわけだ。
17 :
考える名無しさん:2009/01/18(日) 09:40:40 0
神道ですら、今上天皇ばかりに責任を押し付けてアマテラスやスサノオには見向きもしない
極右団体などはカルトじみている。本来は全国津々浦々の神社の祭司長である皇族を
クラウゼヴィッツやニーチェ、ヒトラー等、ドイツ欧州方面の独裁的な国家主義と結びつけて、
可住地が山岳や河川で分断されまくっている日本の地勢的な実情にそぐわない
全体主義的な国家社会の長として崇め立てようとする。実はこれは、藩や都道府県のような
多くの小国の集合体であるが故に、皇帝としての価値を持つ天皇への過小評価となっている。
東と西、北と南で気候も違えば方言も違う、考え方もかなり変わってくる狭くて広い
日本という“国々”を、イングランドとスコットランド、ウェールズのように分断させることもなく
統治できた何よりの理由は、全国統治のために神道という宗教的な体裁を用いた点にある。
端から端までどこに行っても、鳥居もあれば注連縄もある、独特の意匠に国全体を
纏わせることで国旗や国章、王宮や議事堂以上に結束感を民衆全体に植えつけている。
だから、本来は国家社会の長であるよりも、神道の祭司長であったほうがむしろ格式が上と
なる天皇を、わざわざ国家主義に擦り付けて崇めるのは過小評価になってしまうわけだが、
にもかかわらず右翼が当該の活動を続けるのは、たぶん政財界の回し者なんだろう。
象徴天皇制の下で、実は戦前と変わりなく政教癒着を続けている今の日本国政府、
右翼系の書物などにもたまに政府関係者の推薦文が入ってたりする。三島も「奔馬」の中で
右翼団体と政財界の癒着をフィクション混じりに告白している。自分たちが許せないと
訴えている相手からこそ資金援助を受けているジレンマもまた、罪と罰が同源である現代の
病理の有り様であり、金を動かすことしか能のないカルトに神道までも巻き込む不埒たる。
まあ、ぴかぁよりも良識はありそうだ。けど7日もしないうちに第2にぴかヵになるな。
ところで、イングランド都かウエールズとかまたサラダが出てきたんですけどサッカーの話ですか?
日本より面積が狭くて、国土もなだらかなくせして
二つ三つに分裂して、しかもアイルランドを半分以上敵に回してる
ヨーロッパ大陸の左斜め上の、アイスランドでないほうのあの国。
いくら世界中を侵略と植民の渦に巻き込んだ所で、
自国があの体たらくじゃ何にもならん、奇形結合児同然の「国際主義」のリーダー、英国。
発祥地ドイツ以上のプロテスタントの実践国でもある、
ユダヤの極悪さやアメリカのでしゃばりに隠れていまいち目立ちにくいが、
個々の国家が内情を疎かにしてまで国家間の競争に眈溺する、
個別の国家にとっても地球全体にとっても利益にならない中途半端なグローバリズムを
世界中に撒き散らした張本人ならぬ張本国家(連合)。
まずは内情第一で外交は二の次、統一の困難さを神道や儒教、仏教らの東洋教学の駆使によって成し遂げた
日本が結局は、グローバリズムよりもさらに上にある、地球全体の利益を考慮した超国家主義の下では
植民地を手放さざるを得なかった英国よりも上に立ち、地球最優良の島国となる。
(アメリカのような大陸国家の本物の対抗馬はあくまで中国やインド)
ウチの近くの神社で、本殿等とはまた別の施設の改築をしているが
ちょっと見ただけでも凄い量の骨組みの数だって分かる、たぶん宮大工の仕事。
どんなに手抜き設計やシャブコンのビルだマンションだが建ちまくった所で
意匠も構造も丹念に設計された神社やお寺が日本中にあることが何よりの安心の種になる。
特に神社は、質素な造りの多いお寺と違って、見るからに雅を思わせる雰囲気に満ちている。
仏教と比べて教義が些少なぶんだけの取り返しでもあれば、
「家」というものを重視する神道の理念にも依っている。
そんなに豪華でもない、中流下流の家であってもホームセンターあたりで神棚を買ってきて
儀式に則って部屋の中に飾れば、本当に徨やかな神社との連携の証ともなる。
神棚の価値ってのはそういうもんだ。それ自体が独立して豪華な仏壇とは違い、
設置する部屋や家、さらには販売しているホームセンター全体を、
模範的な建築物としての神社との連携下に置いてしまえるというお得感の要。
もちろんそれによって日本国の統合への多少の貢献ともなる。
仏具店なんかよりもむしろ、ホームセンターやネットで神棚は買うべきだ。
そしたら買った場所全体が“神域”になるわけだ。
家庭を重視する神道、世俗を重視する儒教、超俗を重視する仏教、
それぞれがお互いの領域を侵害し過ぎず、無視し過ぎない
絶妙な調和の下で、東洋教学は温故知新の営業を続けてきた。
でも西洋は違う。家庭も世俗も超俗も何もかも聖書主義で賄おうとして
結局は全てを蔑ろにした“三兎を追って一兎も得ず”の様相を呈した。
聖書によってぶっ壊された社会を何とかヘレニズム由来の無信仰的な学術で建て直そうとするが
こちらはこちらで極端な概念遊びに眈溺し、社会全体を建て直せないままに
上層階級と下層階級への二極化を招く結果となった。
ぶっ壊しといて、建て直そうとして失敗しっぱなしという
調和もへったくれもない洋学こそは確かにサラダであり、どこにも主体性のない責任の擦り付けあい。
あくまでそれは西洋であって、東洋は違う。東洋だけを題材に語れば決してサラダなどにはならず、
多様性の和合(大和)を期した聖徳太子の理念に全てを帰結させられる。
でも残念ながら今の世の中はそこら中サラダな洋学で溢れ返ってるんで
多少は語らざるを得ず、語った以上はサラダになっちまう。
大和とサラダのみそくそ。食える程度にはサラダのほうも調和を図れって話だ。
22 :
考える名無しさん:2009/01/20(火) 13:26:23 0
いま、講談社学術文庫から去年再版されたばかりの「『朱子語類』抄」を読んでるが、
朱子の読書論が
>>1のリンク先のドイツ人哲学者ショーペンハウアーの読書論と
全くの真逆であることが分かる。以下、両者の主張を要約。
朱子(同書より)
「書物を読む時は、無闇に私見を挟み込んだり、自己意見の手がかりにしようとしたり
などはせず、一語一句をよく味わって先人の意図を十分に汲み取り己のものとすべきだ」
ショーペンハウアー(「読書について」より)
「書物などというものは、自分の意見を鍛え上げるための参考でしかなく、ただ字面を
追って異口同音に賛美するぐらいなら、何も読まずに自分で考えたほうがマシだ」
朱子は書物(特に古典)を非常に貴重がっており、堕落した近現代人の意見などをそこ
に差し挟むべきでないという立場をとり、ショーペンはとにかく意見材料としての書物の
価値のみを重んじる。どう見ても真逆である両者の意見の裏には、それぞれが論述の
対象としている読書の違いがある。朱子のいう読書とは四書五経のような東洋古典を
主な対象とした精読、ショーペンのいう読書とはプラトンやカントのような西洋の古典や
哲学、それから多少はヴェーダや仏典なども抄訳で読んだりするという場合の読書。
読書対象としている書物の違いこそが両者の意見を食い違わせており、もしも朱子が
近代のドイツに生まれて洋学主体の読書をしていたならショーペンと同じような意見に
なっただろうし、ショーペンが12世紀の宋に生まれて東洋の古典だけを読んでいたなら
朱子と同じような読書論となった上に、儒教と比べれば超俗に過ぎる仏教を自分たちの
ライバルとして批判すらしていたかもしれない。洋学の立場からすればインド教は羨望
の対象にもなるようだが、儒学の立場からすれば(特に禅などが)批判の対象にすらなる。
世俗主義や無信仰の側面で、儒学が洋学よりもさらに徹底している根拠ともなっている。
あと、朱子は書物の読み方の手順に対しても非常に便宜を図っている。
四書の読み方も大学→論語→孟子→中庸の順が最良であるとし、
五経だと易経が最難解なのでさっさと他の四経を学び済ませとけとも言う。
逆に論語をさっさと読み飛ばしてしまった門下生を叱ったりもする。
とにかく丁寧な勉強を心がけるよう促し、生兵法を避けるように諭す。
これほど言われると、当の朱子の語録(語類)を抄書で読んでいる自分が
恥ずかしくなるし、印刷技術が発達しておらず、いちいち書写の必要だった時代の
先人の精読暗記ぶりなどと比べても、メディアに恵まれているが故の自分自身の
堕落を反省せざるを得ない所がある。あくまで試食程度としてならこの抄書も
薦められないこともないが、編者も結構無責任にふざけてる所があって(バカボンだし)、
今という時代が情報発信の最隆盛の時代である反面、儒学や朱子学のような
丁寧な学習や実践を必要とする東洋教学にとっては不遇の時代であることが分かる。
朱子語類の全訳事業も東大で始まっているようだが、全く採算の取れる見込みがない
というし、新釈漢文大系も出版社が事業を蔑ろにして編纂が滞っているそうな。
現代という時代の金銭の流れが、大切なものを反故にしたまま増幅していってる証拠。
だから破綻しかけてますって、それも当然のことであるわけだが。
体(性)を蔑ろにして用(情)を偏重すること、悪極まって善に転ずるかどうか。
24 :
考える名無しさん:2009/01/23(金) 14:28:08 0
朱子の薦めに従って、大学から順に四書を読み直している。
論語まで読み終わったが(ちなみに三回目)、本当に笑っちまうほど実践できてない
しごく当然な教訓ばかり。選択できるのにあえて選択されてない仁とか智とか。
自ら政治の表舞台に立つこともない代わり、道家的な隠者に徹することも戒める、
一つ一つの振る舞いから中庸に徹している絶対安定主義の権化。
空海に言わせればそんなのは十住心の内の最初から二番目、異生羝羊心の
上にある愚童持斎心でしかないそうだが、その最初から二番目でしかない
煩悩から多少の道徳に目覚めた程度の、しようと思えば誰でもできる程度の
基本にたどり着いて、そこから初めて道教やインド教、仏教らへと進む資格を備える。
親鸞や道元の主著(教行信証、正法眼蔵)にも論語は書名と共に引用されている。
犯罪をしない程度の社会常識への了解が当然のこととしてあった上でさらに
教学の山を登るかどうか。登るなら仏教や道教、登らないなら儒学や朱子学。
山上と地上、天と地と、本物の竜虎相見える対決は仏教と儒教の間にこそある。
25 :
考える名無しさん:2009/01/23(金) 16:53:34 O
人を殺すに梃を以てすると刃〔を以てする〕と、以て異なる有るか。
曰く、以て異なる無し。
〔曰く、人を殺すに〕刃を以てすると政〔を以てする〕と、以て異なる有るか。
曰く、以て異なる無し。
(孟子「棍棒で人をなぐり殺すのと刃物で斬り殺すのとでは、なにか違いがありましょうか」
王「いや、殺すことには違いはない」
孟子「それでは、刃物で人を斬り殺すのと政治が悪くて死に追いやるのとでは、なにか違いはありましょうか」
王「それも〔殺すことには〕、違いはない」)
岩波文庫「孟子」巻第一・四より
為政者とは常に殺人含む犯罪加害のリスクを負わされる立場であるわけだが、
「そうでしかありえない」との諦めの下で民の死を黙認したり、
さらには好き勝手に民の命を踏みにじってそれで当然だとすら思い込んだりする、
犯罪加害を正当化する論理ですらまかり通っている、少しも本物の儒学が介入する余地のないのが現代。
同巻における「できないとしないの違い」の比喩による解説も巧みだ。
大山を小脇に抱え、渤海を一またぎに跳び越えるのは、こりゃできないというもん。
でも目上の相手に対して膝を曲げて礼をするのができないってのはウソで、ただしないだけだ。
仁政を行うか否かの選択とは、すなわち後者のほう。
目上の相手を敬うようにして民を慮ること、そこからだ。
どんなにド派手で何万の聴衆を相手にした就任演説などもそれには叶わない。
牛がいけにえにされかかってるのを哀れんで羊に換えさせるような、
吝嗇扱いすらされかねないような些細な情けにこそ仁政への希望がある。
×大山
○泰山
×膝を曲げて
○腰を曲げて
四書五経ってのは、基本あくまで為政者のための書物だ。
庶民だろうと読んで実践するに越したことはなくとも、基本は多くの人間の
命を左右する立場にある者の心構え。士農工商の儒学的見地においては
支配者である士だけになるが、士も商もごちゃ混ぜで「政財界」なんて呼び方の
される世の中では財界人なども熟読や実践を要する。でもしないんだな、商人は。
民を養うどころか、民から利益を奪い取って肥え太ってるような奴らが今さら
民を慮ったところで、自分らで飢餓に陥らせた相手を助けるマッチポンプにしかならない。
だからやっぱり四書五経に基づく儒学の徹底のためには、支配者と商人を隔絶させる
必要がどうしても出てくる。稼ぎたい奴はいくらでも稼いでいいから政治には関わってくれるな、
少しだって圧力をかけてきてくれるなとの、政財分離がまず急務となるわけだ。
28 :
考える名無しさん:2009/01/23(金) 19:19:54 0
四書五経を読了後の仏教方面の読書スケジュール:
法句経→八宗綱要→往生要集→選択本願念仏集→浄土真宗聖典
法句経と浄土三部経は中村元の風情のない訳で一度読んでるが、それらも改めて。
念仏宗に重点を絞って研究してみる。理由は、徳川幕府の重視した宗派だから。
朱子学と浄土信仰、江戸期に支配層と被支配層に最も宛がわれてたのはこの二つ。
武士も仏教より儒教のほうが主だし、庶民も自力ではなく他力が本願だった。
自力の仏教である禅は今でこそ評価を受けてるが、そんなに重視はされてない。
猫殺しだ髑髏だだののおどろおどろしい教えは戦国期までで、江戸以降は役目を
終えて子供と遊んでたんだ、良寛のように。「宮本武蔵」で泰平の世に行き場を失った
剣豪たちとの交流が描かれている沢庵も禅僧、同病相哀れんでた所もあるわけさ。
29 :
考える名無しさん:2009/01/26(月) 18:54:46 0
抄書でしか読んだことのない孟子を読み通してる最中だが、
基本、こりゃあガチガチの政治学書だ。論語や大学以上の。
無責任な概念論を排して、徹底的な実用に即した考究においてこそ
「性善」とか「惻隠の情」とか「禅譲放伐」とか「規矩準縄」とか「自暴自棄」とかの
珠玉の名句や名言が編み出されている。ぜひ全文を読むべきだし、
名言名句の索引を自主的に編集してみたりしてもいいかもしれない。
儒教における孟子ってのは、日本仏教の禅宗における道元や、
念仏宗における親鸞に近い役割を持っている。国内における禅や念仏の
標準は栄西らの臨済宗や法然の浄土宗に譲っているが、その分だけ
日本曹洞宗や浄土真宗の宗祖である道元や親鸞の個人プレーを許している。
それと同じように孟子もまた儒学の祖としての役割は孔子に譲り切っている反面
論及の高機能性だけで屹立する、縁の下の力持ちとしての十分な役割を果たす。
本当に儒学を修めるのなら孟子もまた避けて通れないわけだが、
易姓革命論への誤解などから日本ではあまり重視されてこなかったし、
多くの人々に読まれた所で、その全容を把握しているとなると極めて些少となってしまう。
為政者であり、しかも孟子まで理解してしまっているような、稀有な事例が成立すれば
未曾有の仁政が敷かれること間違いないわけで、ぜひ誰と言わず目指してみることだな。
30 :
考える名無しさん:2009/01/26(月) 22:20:58 0
まだまだ未消化の部分の多い孟子や曹洞禅、真宗などと比べて
人々の消化対象として遥か昔からすでに円熟期を迎えている論語や臨済禅、浄土宗、
これらの標準的な儒仏を客体的に消費した最大級の人物こそが他でもない、
徳川幕府初代征夷大将軍、家康公でござる。
幼い頃には臨済宗の名僧太原雪斎に禅や論語を学び、
長年の苦心の末に勝ち取った天下統一の大御所となってからは
林羅山の下での朱子学の修養や、浄土宗への帰依に専心していた。
世俗と超俗、自力と他力、それぞれを比較してみれば相反する部分の多い
儒学や禅や念仏を、あくまで客体的に学び取った上で社会への還元に貢献した
家康公自身は士道の鑑であり、薨去の後には日光東照宮に神として祭られた。
外来の教えである儒教や仏教を消費するパッケージとしてこそ神道や士道の存在意義
がある所もあるのであって、神道自体の教義や士道における右文尚武などもまた日本独自
の精神性として存在する。対立性ばかりでは計り知れない柔和の尊重がそこにある。
31 :
考える名無しさん:2009/01/27(火) 13:04:00 0
易姓革命、王道覇道、禅譲放伐・・・
危険な思想家だという孟子への批評も、あながち全くの間違いではない。
ただ、何が危険かといって、性善や仁政をも同時に唱えていた孟子の教えの
特に際どい部分だけが、性悪や悪性のような相反する教義との
みそくその下で悪用されることこそが危険だ。
荀子や韓非子もダメだし、ルソーやヴォルテールなんてのももっての外。
ホッブズやロックに比べればまだ楽観的であるとはいえ、洋学の倫理は常に必ず性悪説に
基づいていて、基本的な学説を洋学に頼りつつ易姓革命論までも参考にしてしまった
フランス革命などは全く孟子の意図に沿ってない。孟子は共産主義も否定しているので
(岩波文庫「孟子(上)」巻第五・滕文公章句上四後半参照)ロシア革命も入らないし、
儒教を完全否定している文化大革命ももちろん入らない。孟子の意図に順当に沿っている
易姓革命などが今までに成功した試しなど一度もなく、「革命」という言葉の響きの甘さ
にばかり誘われた悪人どもが群がって自分たちの悪態の正当化に用いはするものの、
どこまで言っても性善論者である孟子の本意を汲み取れはしない。
性善故の革命、易姓革命。その真価を汲み取るためにはまた、
親鸞の悪人正機説など別の視点からの補足が必要になるが、それは後ほど改めて。
32 :
考える名無しさん:2009/01/27(火) 20:51:51 0
×悪性
○悪政
孟子読了。続いて中庸に突入。
たて続けにちゃんと読み通すと意外と結構疲れるもんだ、四書も。
堅苦しいってのも確かに間違いじゃない。普通の人間なら厭がっても仕方ないが
それぐらい精神力を遣うのが為政者としての本来の義務でもあるってことだ。
そしてそのような為政者の心がけに美意識を見出したのが中国人でもある。
儒家に関わらず諸子百家はみな政治に関しての論及を少なからず行っていて、
超俗志向の道家ですら避けられてない所があるんだが(そこが仏教とは異なる)、
それほどにも政治への関心の深い中国人の現代の体たらくはやっぱり
共産主義であるせいと、儒家の論敵だった法律万能主義である法家を
自家思想の側面でも持ち上げているから。韓非子を好んだ始皇帝と同じ。
時代が秦から漢に移って儒教が国教と定められたように、時が巡ってまた儒家の
復活があるのかも知れないし、ないのかも知れない。日本人としてはあまり
隣接の国ばかりが突出して活躍するのは癪なんで、インドにも頑張ってもらってな。
中庸第十三章における「庸徳をこれ行う」の庸徳という言葉、
特に無理もせずに当然行うべき徳、最低限の道徳という意味だが、
この中にはもちろん「犯罪をしない」という徳も入っていて、
犯罪性を容認しない程度の道徳という意味では庸徳のほうが適切。
誰にでもしようと思えばできる庸徳の実践。
まずは犯罪礼賛な洋学への嗜好は捨てるか最低限に止めること。
中庸愛読者の家康公も、幾何学や天文学を三浦按針に学びつつも
キリシタンの暴虐っぷりに我慢の限界を来たして鎖国を実行したし、
七歳で四書五経を暗誦していた合気道創始者の植芝盛平翁も
早々と洋学主体の現行の学業を諦めて武道の研修に専念した。
庸徳も嗜めないぐらいなら鎖国したり武道一直線だったりのほうが
ずっといいのだし、確かに実務的にもそのほうが理にかなっている。
犯罪礼賛だったり、道徳と犯罪のみそくそであるが故に総体的には
庸徳すら実践できてない世の中などは、一時だけ隆盛を叶えられた
所でそんなに長くは持たない、百年も続けば上等で、もう終わりだ。
34 :
考える名無しさん:2009/01/29(木) 13:21:47 0
その罪業(つみ)の熟するまで
おろかの人は
これを蜜のごとしと思い
その罪業
まさに熟するの日
彼ははじめて
くるしみを嘗む
(過罪未熟 愚以恬? 至其熟時 自受大罪)
友松圓諦訳「法句経」六九より
気分転換に五経の前に仏教の基礎固めを行く。
あんまり例えたくないが、聖書で言えば四書や仏典が新約に当たり、
五経やヴェーダが旧約にあたる。新しい分概括的だったり改善版だったり
するのが五経やヴェーダに対する四書や仏典。先にこっちを固めとく。
仏典も原典や日本語訳より漢訳が一番。これで泰平の世の中が
築き上げられてきた実績があるから。正法眼蔵や歎異抄はまた別物だが。
究極決定版の仏書が日本語で書かれているのも一興。
35 :
考える名無しさん:2009/01/29(木) 16:42:41 O
大発見。
仏教は本来自殺を禁じている(友松訳法句経・四〇五参照)。
原始仏教の正典中の正典である法句経にこそ自殺への戒めがある。
一方で原始仏典読みくさしな大乗仏教では、即身仏のような事実上の自殺行もある。
自分らの正典であるはずの新約にはどこにも自殺を禁じる記述はないのに、
あんまり狂信者が自殺しまくるんで、アウグスティヌスが後付けのこじつけで
自殺を禁じたキリスト教とは真逆。
知らない内にキリシタンどもも仏法に救われてきていたわけだ。
自殺を禁止でもしない限り、心神喪失状態でちっとも信者数が伸びない。
結局は嫌でも逆らわざるを得ないのが悪法であり、
嫌でも従わざるを得ないのが正法だってこと。
もちろんキリシタンは仏法にちゃんと沿ってるわけでもない。
原始仏教は自殺と同時に他殺も禁じてるが(同四〇五参照)、キリシタンは自殺はしなくても他殺はするんだ。
ちょうど六道輪廻から地獄・餓鬼・畜生の三悪趣だけを抽出して、
それぞれを地獄・煉獄・天国と強引に定義した神曲作者のダンテと同じ。
・・・つくづく仏教の劣化コピーでしかないんだな、キリスト教は。
ユダヤが古代インド教やゾロアスター教の劣化コピーなのと同じ。
心的不遇を他者への害悪として擦り付ける、挙げ句の果てにこそ今の崩壊寸前の社会がある。
自業自得にも程がありすぎて哀れみの気持ちすら抱けないが、
「それでも救ってやろうかね」というのが大乗仏教の、特に浄土教の主旨なんで
せいぜい弥陀の心におすがりするこったな。なもあみだぼなもあみだぼ・・・
法句経(ダンマパダ)は中村元の訳で一度読んでたがな、
確認したらただ「殺さず殺させず」になってた。
殺傷は能動的にも受動的にもダメだってこと。殺意がダメなんで自殺も他殺もダメ。
外界の民の殺傷を神に請いまくる旧約の詩篇の記述などとは明らかに相容れない穏健な教えだ。
38 :
考える名無しさん:2009/01/29(木) 19:37:15 0
殺意なんてのは、女でも抱くんだ。
むしろ実際の行動に移せば体力的に男よりも不利なぶんだけ
内心での殺意はむしろ女のほうが渦巻いてたりするもん。
そういう陰湿でウジウジとした内心の女々しさこそを釈迦は戒めている。
実際に好色を否定したりもしながら、殺そうとも殺させようともするなという。
それこそが内心からの「雄々しさ」となる。雄々しいが故の賢人や聖人。
勇気によって感情の右往左往を抑える、匹夫の勇を戒める孟子とも通じる
所があるし、例の「諸悪莫作 衆善奉行」を含む七仏通誡偈もまた
孔子の「己の欲せざる所を人に施すなかれ」という言とも通じる。
雄々しさという点でこそ仏教と儒教は共通しているし、神道の一部とも通じている。
家庭と世俗と超俗という分野の違いはあっても、同じ山を登る上での
経路の違い程度のものである、東洋教学に関しちゃ確かにそれは言えることだ。
犯罪を精神性から否定するぐらいの方向性を保つ教学であればみんなそう。
39 :
考える名無しさん:2009/01/29(木) 22:10:08 0
自殺・アル中・精神疾患の暴力行動の対策として大麻しかないそうです
アル中を麻薬中毒で治せるという意味が分からんが・・・
自殺や精神疾患や不当暴力の根源は麻薬的陶酔にある。
中毒による躁鬱への双極化によって我を見失い、正当性をも見失う。
何でもかんでもあってしまえという願望の成就は、庸徳と犯罪のみそくそと化し
殺したい相手を集中的に殺したいという願望の成就は、そのまま犯罪となる。
実際の行動に転嫁することで何とか生き延びていたものが、
行動の余地を失ったときに精神疾患や不当暴力、自殺などの自暴自棄に陥る。
動いていなきゃどうしてもそうなってしまう、多動性障害主義、
アダフディズム(ADHDism)の根絶こそが必要であるという事実に気づいたならば、
真宗聖典でも読み始めることだな。麻薬の無価値さを学ぶ取っ掛かりに。
41 :
考える名無しさん:2009/01/30(金) 14:28:50 0
麻薬的陶酔の宗教的祭儀化の起源は、古代インド教における
ソーマ(神酒)やアグニ(火神)への信仰。リグ・ヴェーダにも載っている。
今でもサドゥーが麻薬を服用するのは当然で、警察も咎めないのだそうな。
どうもコーカソイドというのは、麻薬的陶酔にやられやすい傾向があるようで
ゾロアスター教や聖書教にも陶酔を促す要素がふんだんに盛り込まれている。
イスラム教は教義としての陶酔性は極限まで抑えられているものの、
やはり暗殺教団(アサシン)の密議として麻薬の服用があったりする。
儒教や道教などの中国思想には全くそういった要素がなく、神道も神酒(みき)までであって
麻薬は絶対にナシなもの。モンゴロイドには麻薬までをも宗教化する意識は全くない。
仏教も古代インド教から麻薬的陶酔を除外した宗教だからこそ受け入れられた。
逆に聖書教は、古代インド教からゾロアスター教を通じて、麻薬的陶酔を体系構築的に
悪化させた宗教なので本当は受け入れたくなかったんだが、アヘン戦争や黒船来航
などを通じてどうしても関わらざるを得なくなって、帝国主義や共産主義、民主主義などの
一見聖書教由来ではないように思える部分の洋学だけを消極的に受け入れた。
「和魂洋才」などとのたまわってはいるものの、やっぱり精神性の部分でも聖書教に
侵害されている部分が多少はあって、みそくそであるが故にくそになってしまってもいる。
酒神信仰や麻薬信仰と共に、禁酒や禁欲への信仰もまた一種の極端信仰だ。
論語にも節度を保って酒を飲んだりすることへの記述ぐらいはあるし、
スサノオなんてヤマタノオロチを酔い潰れさした隙を狙って斬り殺してる。
麻薬なんかしないからこそ酒ぐらいは飲むっていう程度の問題、
いかれ過ぎもしない代わりに禁欲もしない中庸が極東教学の基本だが、
仏教はもうちょっと禁欲的な側面があったり、密教も一応はあったりする。
基本必要のないものではあるが、異世界の文化も多少は嗜んでおこう
という程度のもんとしてモンゴロイドも仏教ぐらいは自主的に受け入れた。
時には臨済や良寛のような名物僧も生み出したりした。ある種の趣向としてな。
旧約って、孔子や釈迦が活躍したのとほぼ同時期に作られてんだな。
儒教や仏教はあくまで創唱宗教なんで、形式的にはキリスト教と同格。
儒教や仏教の下地になってる中国神話やインド神話こそが旧約と
形式的には同格で、儒教や仏教よりも前だからもちろん旧約よりも前。
西洋・中東←|→東洋
約16000年前−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−縄文土器
|
約5000年前−−−−−−−− 中東神話 |
| |
3000年以上前−−−−−−−−−|−−−− 中国神話 インド神話 |
| | | |
約2700年前−−ギリシャ神話 (剽窃) | | (注連縄信仰)
↓ ↓ ↓ ↓ |
約2500年前−−ギリシャ哲学−−旧約−−−−−儒教−−−−仏教 |
| ↓ | └――┐|
約2000年前−−−− └―――→新約 └―――――――‐┐||
↓ ↓↓↓
約1300年前−−−−−−−−−コーラン−−−−−−−−−−−−−神 道
縄文土器には、文明の起源たる規矩準縄の内の一つである縄の
不不当利用の証拠という意味もあるが、「蓄財」の証拠という意味もある。
食料のような財物を貯えておく堅実さの現れ。縄文土器は世界最古の土器。
文化文明的な古さでほんの若干だけエジプト含む中東に劣る中国なども
15000年前から農耕を営んでいたことが近頃発見されている。他者の利権を
侵害したりせずにちゃんと自活する体勢、シリアなどよりも先だったようだ。
44 :
考える名無しさん:2009/01/31(土) 23:06:27 0
日本では小乗仏教よりも大乗仏教のほうが重視されている、
とはいえ一応は形式的にだけでも、漢訳の法句経などと共に日本にも
南都六宗の内の倶舎宗や成実宗、律宗などの形で小乗仏教が
取り入れられている。この内、「八宗綱要」においては冒頭に取り上げられている
倶舎宗の出家者の修めるべき素養の中に「五明」というのがある。
文学法学数学科学医学論理学自主勉強その他、今の世の中であれば
大卒程度が修めたり修めなかったりする学問のほぼ全てについて聡明であることが、
日本に取り入れられた小乗仏教の中では最低限であった倶舎宗において求められている。
成実宗は小乗仏教としては最高級だし、律宗は戒律の厳守という、
小乗でも大乗でも(基本は)大前提とされる問題を扱う。
煩悩が積極的にすら追い求められてしまうことのある一般社会の常識は、当然のこととして
超脱してしまっているという前提が、小乗仏教だけでなく大乗仏教にも備わっている。
小乗仏教がやっているような戒律の厳守を全て伝え終えたという功績の故にこそ、
小乗であるにも関わらず、律宗を日本へ伝承した鑑真和尚が称えられているのもそのせい。
小乗でも大乗でも基本は守るべき250戒ないし350戒(尼さん向け)、3歳の幼児でも
分かるが80歳の老人でもできないの逸話で禅宗ですら降参してしまってる、本物の道徳律。
45 :
考える名無しさん:2009/02/02(月) 18:33:06 0
創価学会や顕正会などの、日蓮宗系の新興宗教がよく使いたがる「破邪顕正」という言葉、
これは本来、空観を司る三論宗の用語であって、出典も般若思想注釈書の「三論玄義」。
有所得見(思い込み)であれば同じ大乗の教義ですら破砕の対象となる超絶論理思考、
仏教界の警察とでも呼ぶべき絶無の境地の探求者の言葉としてこそ破邪顕正がある。
あんまりギスギスなんで律宗などと同じく、あまり日本では発達の余地はなかったようで、
総合仏教の天台宗などもあくまで法華経の理解の助けとして参考にしているわけだが、
日蓮宗は天台宗から法華信仰だけを抽出して、般若心経も日用経典から外してるくせに
「破邪顕正」という聞こえのいい言葉だけを掠め取って自分らのもののように使いまわす。
あまりにも膨大難解すぎる古来の教義から、都合のいい部分だけを抽出し汎用化して
新たな宗派を作り出す。再構築者の側に誠意があれば換骨奪胎となるが、誠意がなければ
剽窃の様相を呈する。教義を適当に改竄するような誠意の欠ける再構築の場合には仏教で
すら剽窃になり得る。必ずしも真理学とは限らない中東教学の剽窃だったりすれば尚のこと。
46 :
考える名無しさん:2009/02/02(月) 19:40:55 0
「八宗綱要」読了。内容的には、禅や浄土が本格的に導入される前後における
旧仏教、南都六宗や天台真言の概括的な説明書ということになる。
空海の教判書である「秘蔵宝鑰」などとも似てはいるが、その存在意義は全く異なる。
片や日本最高の名僧が円熟期における己の悟りの境地を示すために書いた正典、
片や華厳宗の学僧が不勉強を恥じつつも私見を示した参考書。大蔵経にも入ってない。
どっちが分かりやすいかといえば、むしろ後者の八宗綱要のほうが分かりやすかった。
一つ一つの宗派を教義と実情との両方から解き明かし、私見の示し方も誠実。
密教会得者として顕教を上から目線で語る空海などよりも、顕教である華厳宗徒の
立場から弘法大師をも称える、ほとんど無名の僧である凝然の著書のほうが読みやすい。
それは結局、自分がまだ密教把握の境地にまで立っておらず、顕教の学僧のほうに
親近感が得られるということなわけで、じゃあこれから密教の修得に乗り出すか、
それとも顕教に留まるかとなれば、個人的には顕教を選ばせていただくところ。
密教が究極至極の境地にあることを十分踏まえた上で、自分はやっぱり顕教に準ずる、
顕密どちらの観点から見ても密教に敵わないと判断された南都六宗や天台宗とは
また別のものとして、鎌倉期に新たに導入された顕教である禅や浄土に望みを見出す。
47 :
考える名無しさん:2009/02/02(月) 22:53:35 0
>>28のスケジュールには沿ってないものの、たて続けに臨済録を読んでるんだがな、
最初のほうをちょっと齧り読みしただけでもう重大な記述を発見しちまった。
迷信禁止なわけだ、禅宗も。
臨済録「示衆」冒頭で、もう臨済は占い(指東画西、好晴好雨)をするような坊主を批判してる。
南都六宗や天台宗に対し上から目線だった真言宗こそは占い含む迷信呪詛の塊り。
八宗綱要に示された仏教宗派丸ごとさようなら。天台宗には一応禅もあるが、密教もあるんで。
日本では禅と競合していた(ただし布教対象は武士と民衆に別れる)浄土のほうがまだ
禅レベルの迷信禁止に則ってる。不体失往生を究める浄土真宗などはその極み。
一見三論宗の空観などよりも迷信性の高そうな浄土信仰が実は禅並みの無神論に基づいている。
比較のために一応禅書の臨済録も読んどく。正法眼蔵はもう読んでるが。順番が逆だな(笑)。
臨済「MOTHER F**KERRRRR!!!!!」
49 :
考える名無しさん:2009/02/03(火) 22:48:23 0
あれだ、「ロック」だ、禅は。
それもパンクとかハードコアとかの、一番どうしようもない類のロック。
もちろん禅のほうが早いんで、禅の精神性をロックのほうが模倣してる。
座禅する代わりにギターやドラム弾き叩いてんだって、ロック小僧どもは。
究極の親孝行と親不孝、どっちも中国にある、朱子学と禅。
親の喪に三年服す一方で、ジジイもババアもしばき倒し、どっちも中国産。
世俗と超俗の両極端という意味で、他のいかなる文化文明をも上回っている。
家族も含めて緩慢な人間関係に全てを持っていこうとする現代への爆弾投下。
いまロックなんかやったってちっとも金になんないのと同じで、禅も朱子学も
資本主義に真っ向から反しているのだけは共通する。そして禅や朱子学を
修めていた武士こそは、反金銭社会の支配者の権化中の権化たる。
禅がロックだという形容が褒め言葉に聞こえるか貶し言葉に聞こえるかも
人それぞれだろうが、金になんないのも含めて禅ってのはそんなもんなんだって
思っときゃいい。その上でしかも「正法眼蔵」などが人類究極の哲学書であるとも。
禅はダメなんだって。いくら哲学としては優れてるにしても。
千と百五十年の昔からマザーフ○○カー。無信仰者の行き着く先はいつもこんなもん。
面白いのも確かだけれども、だれ彼構わずこっちに行くと戦国時代の様相を呈する。
戦時中には戦時中の、戦後には戦後の相応な教理があって、いま必要なのは後者。
厭離江戸欣求浄土、底抜けに面白い禅書のほうをもっと読みたい衝動を抑えて、
いまは平和の信仰、家康公も愛好した浄土教のほうに遷る所存。
51 :
考える名無しさん:2009/02/04(水) 14:40:52 0
純和風の仏教、それが浄土教。
もちろん本来仏教は天竺ことインドの宗教、原始であれ大乗であれ。
ただ、外界に伝播するにつれて個々の地域の風情に合った教えが隆盛したり、
新たに生まれたりした。中国だとそれは禅であって、日本だとそれは浄土だった。
日本浄土教の影の創始者、源信和尚。
インドでも中国でも、まだ一代宗派としての体裁が保てておらず、
教団ではなく結社扱いだったりした念仏信仰を、「往生要集」という形で
体系的に纏め上げ、後の法然や親鸞、一遍による念仏宗の興隆に導いた。
根本経典である浄土三部経が般若経や華厳経、法華経などと比べて
量も少ない上に地味でもある、なかなか金科玉条に掲げにくいものこそを信仰する、
なればこそ生まれた「南無阿弥陀仏」だったり「悪人正機」だったりするのも興味深い。
法華宗徒である日蓮の「南無妙法蓮華経」や、華厳宗徒である明恵の「善人正機」
などと比べて決定的な次元の違いを持つ、その浄土信仰の真意を探ってみる。
52 :
考える名無しさん:2009/02/05(木) 19:34:29 0
ttp://item.rakuten.co.jp/kyo-butsudan/kyo-butsudan006/ もうな、こんな感じ、「往生要集」大文第二・欣求浄土の内容。
地獄道から天道までの六道の描写がつとに有名ではあるが、
これら全てが大文第一・厭離穢土に収められている。
ダンテの「神曲」であれば地獄煉獄天国に当たる地獄餓鬼畜生の三悪道のさらに上に
修羅人天の三道があり、しかもこれらを併せた六道全てが厭い離れるべき穢土とされる。
神道は天道、儒教は人道、士道は修羅道に納まるものであり、
仏教以外の東洋教学までもが浄土信仰においては穢土の範疇に置かれる。
とはいえ天台仏教の聖道門とは違い、浄土門では六道と声聞縁覚菩薩仏の四界を併せて
十界などと示すのではなく、六道の内側にいる人間こそが穢土を厭離して浄土を欣求する
あり方こそを述べている、そこが法華信仰などとは明確に違う点。
煩悩具足の凡夫に信仰者を絞っている、故にこそ虚心坦懐でもある。
浄土の描き方がどぎつい程に煌びやかなのも凡夫の欲心を慮ってのもの。
53 :
考える名無しさん:2009/02/05(木) 22:03:53 0
自力と他力という比較から、浄土教はよく禅と比較されがちだが、
実は浄土教の本物のライバルは密教だったりする。
どちらも本尊(阿弥陀如来、大日如来)が実在の人物である釈迦ではなく、
またゾロアスター教やタントラ教といった、古代インド教とはまた異色の教義の影響を受けた
仏教である点も共通する。実践の際どさとは裏腹に禅の教義などは極めてオーソドックス、
臨済録や正法眼蔵の中でも所依の経典中で最高級なのは華厳経や法華経あたりとされている。
でも浄土教や密教は、普通の顕教が拠り所としている華厳や般若、法華などの大乗思想を
大分に引用消化しつつも、さらにそこに阿弥陀如来や大日如来への信仰を上乗せする。
オーソドックスな仏教からは若干異端な方面に走ることでプラスアルファの要素を持ち、
自己研鑽に特化されている部分の多い仏教を全体的に纏め上げる側に回っている。
日本最高の僧侶と言っても、真っ先に思いつくのは空海で、その次が親鸞あたり。
最澄や道元が時系列上それぞれのライバル扱いされてしまいやすい所ではあるが、
空海や親鸞ほどのカリスマ性が最澄や道元にあるかといえば、若干閉口せざるを得ない。
本来は象牙の塔に籠もっているべきである仏教徒の中で、大衆に仏法を還元することにより
人気を獲得した、本来の仏教からは少し離れた所にある密教や浄土教の宗祖である空海や親鸞。
個人性と大衆性という、真逆の立場から衆生を極楽浄土へと導く追い込み漁の旗印でもある二人。
54 :
考える名無しさん:2009/02/07(土) 12:48:35 0
西尾幹二などの右よりの学者の中に、日本にも中近世などの発展的な歴史があったと指摘する者がいる。
全く歴史観に乏しいインドや、発展的ではなく循環的な歴史観を持つ中国などと比べて、
日本には武家社会の発達などで歴史を発展させていく姿勢があった、故に中国などとは別物であると。
反中反韓だが逆に欧米には擦り寄っていく、いわゆる「ポチ保守(by小林よしのり」の意図はともかくとして
確かに日本にもまたある程度の発展的な歴史観があって、その根源になっているのが浄土思想。
キリスト教などと同じく、終末における救済=往生を示す阿弥陀信仰の由来はイランのゾロアスター教。
聖書教もまたゾロアスター教から終末思想を借りとっており、根本になっている理念は同源たる。
もちろん浄土教もまたインドから中国を渡って日本にやってきたものであり、源信が己の往生論の根拠とする
文献もまた大乗方等経。大乗仏教という主体があった上でさらにそこに阿弥陀信仰が付随されている。
仏教全体からいえば副次的なものであるが故に、インドや中国では多数派を獲得しえなかった阿弥陀信仰、
浄土教がことに日本では源信や法然、親鸞らの尽力によって今では国内最大宗派とまでなるに至った。
残り物には福があったのかもしれないし、生臭坊主量産した悪禍でもあったかもしれない、日本独自の発展。
55 :
考える名無しさん:2009/02/08(日) 13:57:14 0
「衆生の善悪に四位の別あり」
「一には、悪用偏へに増す(ただ悪だけがなされ、それだけが高まっている状態)」
「二には、善用偏へに増す(ただ善だけがなされ、それだけが高まっている状態)」
「三には、善悪交際(きょうさい)す(善と悪とが交わる状態)」
「四には、善悪容やかに預る(善も悪も弱く消極的にはたらいている状態)」
――岩波文庫「往生要集」大文第十より
仏法を聞く機会に恵まれた人間の側にも多くの状態があるという文脈での提示。
偏に善を増すような人間(二)だろうとも必ずしも仏法に預かれるとも限らず、
逆に偏に悪を増すような人間(三)が仏法を聞いたような気になって思い上がる
こともあるのだという、ただしそんなのは聞いてる内に入らないとも。
六道輪廻の下で蠢く四生(胎生卵生湿生化生)はそのほとんどが四にあたる、
善も悪もよく分からずに存在する諸々の事物。源信はこのような善悪みそくその
状態を「容やかに預る」と表現する。善と悪の分別が覚束ない、曖昧な状態というのは
善が善たる所以や悪が悪たる所以が際立つことなく、消極的にあるということ。
善が善であることや、悪が悪であることが際立った上で交際するならもはや善悪が
みそくそとなるようなことはなく、ただ悪を好む凡庸さが投げ捨てられて善を嗜む
聖徳ばかりが追い求められるという。当然のこととしてそうなるという論陣を張る。
善悪みそくそな四の状態から、善悪が際立った上で交わる三の状態に移ったとき、
悪ばかりを高める一は立場を失い、善ばかりを高める二が選択されるものだと。
特に強く主張するわけでもなく、当然の流れとしてゴロリと提示しているのが
往生要集含む、極楽浄土論の基本中の基本となっている。
56 :
考える名無しさん:2009/02/08(日) 17:09:58 0
糞スレ
もう訳文読むのやめた。
浄土教ぐらい原文でも分かる。日本人が書いた漢文は元から訓み下されるのが目的なんで、
基本は訓み下しで、場合によって訳文や注釈も参照。
漢語や梵語だって必要となりゃ多少は勉強する。
真言密教が顕教と比べて高級扱いされるのも、梵字のマントラ(真言)にまで
遡って仏教を突き詰めてるからな所がある。
とはいえもちろんそれが全てではない。一切経を五度読み通しながらも
難行道による衆生の救済の不可能を悟り、易行道である浄土門を選択した
法然上人の意図をも汲んで、教学の分析と総合、帰納と演繹の
バランスを崩さぬよう注意を続ける所存。
58 :
考える名無しさん:2009/02/08(日) 19:37:58 0
往生要集でも使われていた「薄徳」という言葉、日本国語大辞典にも載っていない
(ただし大漢和辞典には載っている)「庸徳」などと比べればまだ使用頻度の高い言葉だが、
仮に庸徳を日常なすべき当然の徳であるが故に1と考えるなら、薄徳は0.1とか0.01とか。
逆に道徳は10とか100とかで、聖徳ともなれば1000とか10000とかいった具合。
逆に反道徳は-1とか-10とかで、悪徳は-100とか-1000とか。これらを線分図に表してみれば、
-10000 -1000 -100 -10 -1 0 1 10 100 1000 10000
├――┼――┼――┼――┼――┼――┼――┼――┼――┼――┤
犯 悪 反 不 薄 庸 道 聖
罪 徳 道 道 徳 徳 徳 徳
徳 徳
徳の高低でいえば0にあたる不道徳から上が一応善良な徳、不道徳から下は劣悪な徳。
とはいえ劣悪な徳の究極が悪徳なのではなく、悪徳のさらに向こう側に実在上の犯罪がある。
反道徳とか悪徳とかいうのは、実在の罪悪を正当化するための便宜的な言い訳でしかなく、
悪徳や反道徳が保護したり讃えたりしているものは突き詰めてみればいつも犯罪である。
犯罪が実在するように人徳もまた実在であり、実在する人徳が不道徳
以上に高ければ高いほど道徳的であり、低ければ低いほど犯罪的である。
道徳と犯罪の相反性がそこにあり、犯罪者が仏教の示すような聖徳を崇めるためには、
まずは道徳とか庸徳とかいった、儒教レベルの人徳にまで己の行業を引き上げる必要がある。
59 :
考える名無しさん:2009/02/08(日) 20:04:24 0
悪徳者や反道徳者ぶっていた人間が、悪徳や反道徳は犯罪のための道具でしかない、
犯罪が悪徳や反道徳のためにあるのではなく、悪徳や反道徳こそが犯罪のためにあるのだと
気づいたとき、二つの選択肢がそこにある。
1.開き直って完全な犯罪者、指定暴力団などと同じ精神性に身をやつすこと。
2.自分たちが犯罪主義者でしかないことを反省して、正の人徳の積み重ねに向かうこと。
1はもはや正当化や美化の余地が全くないただの犯罪者なんで、ある程度はそういう人間もまた
生まれざるを得ないにしても、相当な覚悟が必要だから普通は無理。カルト宗教だなんだの
洗脳によって、十分な覚悟もないままに罪を犯していたような人間が、洗脳が解けて己の罪業を
如実に直視してしまった場合などには、ほとんどはこのヤクザ一直線な1の選択などには
与れない。それほどの覚悟も勇気もないから。
1を選択できないが故に、2を選択せざるを得ない大部分の悪徳反道徳ごっこの関与者が
まず正の人徳を得ようとし始めた時に、一番最初に得るのは薄徳、0.1や0.01の庸徳1にも満たない
不完全な人徳であり、受刑者が出所して社会生活をやり直し始めた瞬間に得るような徳。
非常に情けない、うさぎのように怯えきった状態で、あらゆる言動や思考が怖くてたまらない。
庸徳を保てているが故の浩然の気などまだまだ得られない、幼稚園児級の精神状態から
大人の精神状態である庸徳や道徳にそのまま上るのは無理があるんで、仏教が提示するような
1000でも10000でもある聖徳をとりあえずは観じて、弥陀の本願に励まされつつ、結果として
庸徳や道徳に到達する。-1000だの-10000だのという害毒を聖徳という薬によって中和するのだ。
60 :
考える名無しさん:2009/02/08(日) 20:34:54 0
サンスクリット読めないだろ?
東洋人は言語学に無頓着だからな。
漢訳者の鳩摩羅什が東亜仏教の大成者の一人だったり、
玄奘三蔵の般若経が現存の原文よりも多かったりするんで
サンスクリットに全てを還元するわけにもいかない事情がある。
正法眼蔵や歎異抄は原文から和文だったりもするし。
あと、日本では伝統第一という特殊の事情により
国内で成立したり入ってきたりした順番がそのまま位階になる。
1位:神道、2位:儒教、3位:仏教、4位:カルト教その他
原初の発生順位でも縄文土器→孔子⇔釈迦→カルト教祖なんで
決して独断ではなく、実情でも古文≧漢文≧梵文≫その他雑文となる。
古文は慣れると現代文よりも安心して読めたりする。わざわざソワソワと
動き回らなくても一番近い所に一番いいものがある、恵まれた境遇に感謝。
密教は広くて深い、浄土教は狭くて浅い。
仏教としての程度でいえばそうだが、修得可能な層でいえば
むしろ浄土教のほうが広くて深く、密教のほうが狭くて浅い。
仏教としての程度を低く抑えることにより、誰にでもまずは仏門を開く。
敷居が高くて自分などには与れそうもないと感じられ易い仏教を、他力の念仏という
易行の選択肢を提示することで一般化し、しないよりはマシ程度の帰依をさせる。
それが確かに、帰依者を無宗教無信仰のニヒリストなどよりは多少だけでも
善良な人間へとさせる機縁になる。「南無阿弥陀仏」という、
素朴で安穏とした言葉の響きにかられて称名者までもが安穏となる。
ないよりはあるほうがいいという、存在性が根本から善良な教学だからこそなしうる離れ技。
犯罪を正当化するためだけにあるカルトなどには絶対に響かせられない安穏の通奏低音。
63 :
考える名無しさん:2009/02/08(日) 21:48:23 0
まぜサンスクリット習得しる!
「往生要集」だと「凡夫なので仕方なく念仏にする」までだったのが、
「選択本願念仏集」だともはや「あえて選択する」ものに念仏がなっている。
比叡山で30年の研修を重ねた挙げ句に法然自身もまた選択したこと。
修行が報われない末法の世では浄土門が聖道門よりも有効とすらされる。
自力の禅師の大家である道元などは一切同意しない、あえて選択される易行。
庸徳や道徳にも与れない薄徳の持ち主などにとっては、確かにそのほうが有効だ。
マントラまで教え込まれる密教などはお公家さんの趣味で済ませとけってことだ。
勉強するなだって。少なくとも勉強を「勤行」だと思うなって。
凡夫がヘタに修行したところで、氷河に熱湯をかけるようなもので
一夜を過ぎて朝になれば余計に氷の目分が増してるとな(往生要集)。
正法眼蔵随聞記での道元の「勉強やめろ」は、研鑽の限りを尽くしてきた
エリート故の達観だったが、法然の場合は本当に凡夫だからこそするなと。
とはいえ法然自身は結構勉強家で、自分自身が戒律を破ったわけでもない。
でも親鸞までなると本当に勉強も適当、浄土三部経読み込もうとして途中でやめたり、
肉食妻帯を決行して師の法然ごとの流罪に加担したり、真正の不良坊主まっしぐら。
にもかかわらずではなくだからこそ他力信仰の最長者はやっぱり親鸞だっての。
法然や一遍と比べて特に何かしたわけでもなく、ただ坊主として出来損ないだった。
坊主だからこそ際立った肉食妻帯も、在家であればむしろしないほうが珍しい、
普通して当然のことを坊主にもかかわらずしたから目立ってしまっただけの話で、
禁欲や勤勉すらしないという意味での「何もしない」を実践したが故にこそ
浄土門の宗祖として師である法然以上の支持を得てしまったのが親鸞。絶対に
理論上の成果は法然のほうが上なので、浄土門の理解には選択集も欠かせません。
66 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 00:08:06 0
まずサンスクリットの文法書をよみましょう
浄土関係の書物を一通り読み終わったら、次は五経の精読に入る。
凡夫には仏教以外にも携わらなければならないことが多いからこその浄土門の選択。
(このペースで書き込んでたら1000レスいく前に容量オーバー
なるんで、短文の落書きでもしたかったらやってろ、園児ども)
68 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 00:31:10 0
サンスクリットマダー
69 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 00:44:16 O
下は甘いとやられる。優しさは甘さではない。
70 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 00:51:43 O
あいつら正面からくるやつらじゃないぜ。最後に食うまでこっち見てくるから左でやるしかない。
般若心経の梵文と梵文和訳も読んだが、意味は漢訳と何も変わんない。
むしろ字面は漢文のほうが荘重さを増している。
ただ、音読の荘重さは若干梵語の場合のほうが強く、
中でも最後のマントラにあたる「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」は
荘重さの保護のために日本語読みでもサンスクリットの読みをそのまま継承していた。
これだけでも十分だった。西天の教理が極東にまで伝承されていることを証明する上では。
ただ読むだけでも難関な仏説を外語に訳してまで伝えることの困難さを
訳出の側の妙義によって叶えるという、究極至極の便宜を古人もまた図っている。
大量の文献を漢訳や和訳ででも読んだ上で、頂点だけは原文に沿う、
総論賛成各論賛成の追い込みを完結させる便宜が、
般若心経と選択集、真言宗と浄土宗あたりで日本でも達成されている。
72 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 01:30:37 0
般若だけじゃなくほかのサンスクリット文はどーよ
人類の古典中最高峰の仏典の、中でも最高峰な般若心経の原文だっての。
初めて手に入れた真剣が正宗の真作みたいなもの。法隆寺にも納められてる。
梵語の価値は何よりも読誦した場合の音の響きにある。
言霊信仰のある日本語とも多少は共通していて、字面こそが最大最高最強である
漢語とは決定的に違う点。故にこそ和文も漢文も梵文も共存できている。
ヴェーダも文字ではなく音読によって伝承されている。
公用語としてはもはや全くといっていいほど実用性のない梵語が
わざわざ読誦で伝えられているのも、文字ではなく音にこそ言葉としての最大の
価値があるというインド人の意向によっていて、確かに梵語はそうであり得る。
文字でも響きでも漢語や梵語によって最高峰たる東洋言語。
折衷の日本語。その他大勢の簡易言語ってな。
74 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 14:54:40 0
サンスクリットよめるの?
75 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 15:03:32 0
ギリシャ語こそ複雑な文が書けるのである
ギリシャ語に訳せない書物はない
76 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 15:30:23 0
そうか? 俺古典ギリシャ語ちょっと齧ったことがあるが、
現代の日本の新聞をギリシャ語に訳せるかどうか疑問だなあ。
77 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 15:59:10 0
ギリシャ語に表現できないことはない
78 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 16:10:32 0
トルストイって一人だけの全集で120巻もあるんだよね
こんな作家世界でもいないでしょ
79 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 17:38:04 0
イスラム教って東洋よりか?
80 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 20:04:12 0
選択集第三章において、法然は地獄餓鬼畜生の麁悪を厭い離れる「無三悪趣の願」と共に
「悉皆金色の願」を念仏行によって選択する四十八願の内の一つとして挙げている。
黄白二類の人天のある国土、黄色人種と白色人種のみそくそな国土を厭い離れ
だれしもが金色の肌の色をした国土を選択するという願望。
「無量寿経」にも悉皆金色を願う記述があるし、原始仏典にも釈迦が黄金の肌色を
持つことが讃えられている記述(スッタニパータ五四八、五五一など)があるが、
同時にアーリア人が讃えられてたりもするんで、有色のアーリア系であるインド人こそが
本来の意味での最大の称賛対象ではあるんだろう。「弥蘭陀王問経」などでも、比丘である
那伽犀那がミリンダ王ことギリシャのメナンドロス王を折伏して仏教に入信させてしまう。
おそらく法然もその当たりの仏典の記述から、黄白二類の国土を離れ悉皆金色の国土を
追い求めるという話を持ち上げたんだろうと思う。ほぼ全て黄色人種である日本人などには
懇願即達成な話なんで極めて都合がいい。ちなみに「論語」にも、孔子が東方の外国に
赴いて政治を執ろうかどうしようかなんて記述がある。釈迦も孔子も基本は自国や
自民族を一番であると自負しつつも、ちょっとだけ日本人などにとって嬉しいことを
言ってくれてる場合があるのも共通している。本場のインドや中国では廃れてしまっている
仏教や儒教が日本で温存されているのも、その辺を読み通している人間がいるからでもあるはず。
81 :
考える名無しさん:2009/02/09(月) 20:54:52 0
ギリシャ古典はいいねぇ
「南無阿弥陀仏」の「南無(なむ)」は、正確な悉曇(梵語の音韻)に基づけば「南謨(なも)」
となり、浄土真宗本願寺派(お西)などはこれに沿って「なもあみだぶ(つ)」と発音する。
「阿弥陀仏に帰依する」という、マントラにも値しない簡素な意味を持つ称名だが、
一応これだけでもサンスクリットまで遡って仏法に帰依しただけの意味を持つ。
念仏という正行こそを尊重し、それ以外の修行などは雑行だから捨て去れとすら促す。
法然の浄土宗の場合にはまだ念仏を助ける傍行を認めてはいるが、
とにかく仏教への帰依の姿勢を簡素化させようとする、法然の論拠は凡そこういったもの。
「仏の悟りというのは、無上であるが故にもはや区別が存在しないものであり、
個々によって見解の異なり得る菩薩などと比べて分け隔てがないものだから、
阿弥陀仏にすら帰依すれば、弥勒のような菩薩はもちろんのこと、釈迦のような他の仏に
すら別個に帰依する必要もない。阿弥陀仏への帰依これ即ち遍き仏への帰依であり、
故にこそ雑行を捨てて念仏という正行に専念することこそが望ましい(選択集第八章)」
膨大すぎて凡夫には計り知れない仏法への帰依を念仏に絞り込ませはするものの、
阿弥陀信仰もまた一つの仏陀信仰ではあるから、一切経(仏典全集)を五度読み通すのと
同じではないにしても、南無阿弥陀仏でもいいのだと、むしろ末法の世ではそのほうが
いいのであると、念仏と一切経読破両方の実践によって示しているのが法然上人。
ちなみに親鸞は聖人、日蓮は大聖人、坊主への敬称なんてあんまりアテになんないな(笑)。
浄土信仰の批判者としてはやっぱり日蓮が有名だが、
同じ叡山修行者である日蓮以上に法然の強力なライバルだったのが華厳宗の明恵。
浄土宗批判書の「摧邪輪」の中で、明恵は浄土信仰者が認めている三悪趣など存在しない、
大宇宙全体の縁起を示している華厳思想の下では地獄だ鬼畜だなどはあり得ないと主張する。
そりゃあ世界一豪華なお寺(東大寺)で、お偉いさんや金持ちだけを相手に布教活動してりゃあ
濁世の麁悪さなどを大して気遣う必要もなく、高尚な宇宙の真理だけにドップリ漬かってられる。
でも一般民衆はそんなことはない、今そこで辛く苦しい人生を送っている状態がそのまま
地獄や鬼畜だったりする。死後の世界なんて想定するまでもなく今まさにそこにある苦悩を
たとえ詐術だろうとも紛らわせたならそれに越したことはなく、まずそのような一般民衆の要求に
応える先鞭を付けたのが法然上人。完成させたのが親鸞聖人。蛇足が一遍とか日蓮とか。
諸子百家の中でも白眉だったのが孔子で、その良き助役が孟子だったように
鎌倉仏教にもやっぱり白眉がいて、法然親鸞がそれぞれ孔子孟子格に当たる。
孔子の論語や法然の浄土宗がすでに家康公らに活用されきっていて、
孟子や親鸞の浄土真宗が未だに本領の発揮を待ち続けている点も共通する。
全ての歴史を誰か一人の奇人(イエスとか)だけに集約させようとするような下衆の策謀をあえて
避けるバランス感覚の良さが、孔子と孟子、法然と親鸞のような教理の橋渡しを叶えている。
>>79 地理的には明らかに東洋寄りだし、実際行ってみれば分かるが
アラブってのは本当に東洋と何も変わらない、普通の世界。
アラブ人と欧米人を見分けるのは容易だが、アラブ人とインド人だと結構似てる。
肌の黄色い日本人にとっちゃ、まだハワイのほうが異国情緒に満ち溢れている。
西洋と西洋以外、アラブ含む東洋と東洋以外を明確に仕切っているもの、
犯罪性をも容認してしまう人間性のどぎつさの有無。
アブラハム教か否かよりも、むしろ犯罪精神圏か否かのほうが
積極的な道徳だ聖徳だ以前の基本的な正当性の有無を仕切るが故に、
イスラムはアブラハム教にも関わらず東洋教学寄りになってしまう。
聖書とコーランを精読比較して、しかも西洋とアラブ両方に実地で行くぐらいの敢行を
しないとちょっと分からないと思う。最々小限の正当不当の分かれ目、イスラムと聖書主義。
パレスチナとイスラエルの軋轢の原因にもなっている、人類最後の深刻問題。
>>78 グイン・サーガ124巻目。吉川英治文庫161巻。赤川次郎500巻以上。
業務的な編集出版体制を確立した上での作文の発端がゲーテとかトルストイとか。
「子曰く」「問うて曰く」「答えて曰く」ばっかりで、表現形態は素朴ながらも
本当に書くべきことだけが命を懸けて書かれている儒書や仏書の1ページほどの価値もない。
わざわざそんな麁悪な執筆環境で仕事をさせられていた吉川氏に供養の念を捧げる。
86 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 00:34:01 0
まちがった
巻だと分量がわからないね
一巻何ページあるかわからないし
87 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 02:59:51 0
おとのひびきならギリシャ語もまけてないな
とてもうつくしいし
88 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 04:41:53 0
「古今の聖賢のあらゆる議論の端々に至るまで、
全て、思いに邪なし、の一言で要約できる。
これ以上、何を言うことがあろう。
これこそ、一を知って百に通じる功夫なのだ。」
「私の場合、工夫の最も重要な点はただ日に減らすことを求めるにあり、
日に増やすのを求めることにあるのではない。
一ぶでも人欲が減らせたら、それはその一ぶだけ天理を回復できたということで、
なんと軽快なさっぱりとした、そしてなんと簡単なことではあるまいか。」 王陽明
【生死】日本陽明学 【超脱】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1142239107/
儒家のいう「聖賢」ってのは、伏羲とか堯とか舜とかのレベル。
法家の管仲や韓非も凡庸扱い、道家は“これを尊び遠ざく”鬼神扱い。
いわんや、三綱五常も守らず、剃髪で紫金を好む仏家など、物の数にも入らぬ。
父母への孝養、ある程度の長髪、朱色の尊重・・・儒教は儒教で仏教とは
対立する要素を多く含んでいて、儒家への反発などから中国仏教代表の禅が
極端な親不孝に走ったところなどもある。
儒教と仏教、どちらもが外来の教義として持ち込まれた日本のほうが
ことに両者の調和という点では優れている。聖徳太子の十七条憲法に冠位十二階、
ただの法律制度の擁立というだけでなく、儒教や仏教といったより高尚で体系的な
教学をうまくまとめ上げている点こそに、上代の日本国史の重要な意義がある。
源信や親鸞が聖徳太子への尊崇の下で浄土教を興隆した当たり、
日本仏教の調和性への重んじを裏付ける根拠ともなっている。
>>89 儒学の中でも陽明学は仏教に対してそれほど否定的ではないよ。
ま、それだからこそ朱子学派に、陽明学派は仏教的だと指摘されたわけだが。
伝習録にも王陽明が仏教用語や禅問答を使って弟子に語る場面は多い。
陽明学は朱子学と比べて認めているものが確かに広いようだ。
王陽明の支持する心即理の「心」は、朱子が支持する性即理の「性」よりも幅が広い。
性は体であり、情は用、体こそが理であるが故にこそ朱子は性即理と謳うけれども、
王陽明の場合は体も用も理であり、性も情も理であるが故に、性と情を併せた
心こそは理であると謳う。ここでいう「情」というのは、孟子が示した「惻隠の情」なども
入り、情が善であるが故にこそ心即理とも言える。孟子は性善も示しているので
性と情が共に善であると考えるのは、確かに孟子の考えにもある程度は沿っているんだが
孟子はあくまで本性が善であることを示したまでであり、成長するにつれて本来の
善性が覆い隠されて見えなくなっていくことも認めている。他者を憎み嫌って殺そうと
するような情もあり、それは決して人間の本性から生み出されたものではないにしても、
情にはそういった側面もあるのも確かであり、故に朱子はあくまで人間の本性が理である
という意味での性即理を主張したが、王陽明は情までもが理であると主張してしまった。
陽明学に凝っていた三島が市ヶ谷の自衛隊基地に突入して決起を促したけれども、
誰も付いてきてくれなくて、ホモ達と一緒に自殺してしまった。情に訴えた所で大局は
動かないという例示がすでになされてしまっている。大塩平八郎の乱の失敗なども同じ。
人間の本性にまで遡った場合にこそ大局を動かすほどの理に到達し得るというのは
実検によってこそ証明されたところがあり、性善の孟子が正しく性悪の荀子が間違っており、
性即理の朱子が正しく心即理の陽明が間違っていたのだと、今でこそ分かる部分がある。
92 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 13:49:55 0
梵語よりギリシャ語のほうがうつくしい件
ギリシャ語に書道はあるかね?
>>91 >王陽明は情までもが理であると主張してしまった
これは間違いですね。
心即理は、
「無善無悪が心の体 有善有悪は意の動(情) 善を知り悪を知るのが良知 善を為し悪を去るのが格物」
とした王陽明の四句経を読めばわかりますが、
情には善悪が発生すると弟子に言い残しています。
朱子の性即理は、根源は王陽明の心即理と変わらないと私は見ます。
ただ格物の読みとして、朱子が格(こと)に物(いた)ると読んだために、
この世には無数のことがあるのに、どうして全てのことに至りえるのか?
たとえば草木の性に至りえたとして、それが自分の心になにになるというのか?
だからこそ人は自らの性を心に体認しなくてはならないというのが、
王陽明の心即理です。
朱子が正しく、王陽明が間違いだと決め付けるほで両者の思想に差はありません。
ちなみに三島由紀夫は伝習録は読んでいなく、
井上哲次郎の日本陽明学派之哲学だけを読んでいたと言われています。
日本陽明学の大物安岡正篤は三島由紀夫自決を受けてこう言ったと言います。
「惜しい人物であった。もう少し早く先師(王陽明)に触れていたら・・・」
96 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 14:51:36 0
いやギリシャ語が美しいといったのは
サンスクリットが美しいというからだよ?
97 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 14:59:32 0
98 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 15:00:32 0
>>95 要は、ストイシズムの有無が陽命学と朱子学の差だわな。
情的な止悪修善までも含めて心即理という。
本性が善なればこそ情にまで善を強要する必要はないのだと
朱子は考えたのではあるまいか。性善への支持がより強固なればこそ
情念の扱いは却って冷徹だったのではないだろうか。
ちなみに冷徹な止悪修善こそは仏教の本来の主旨だったりもする。
儒教や仏教にも冷徹な側面があり、しかも洋学以上だったり。
100 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 15:22:01 0
ショーペンハウアースレ荒らしまくっただろ?
荀子や陽命学が孟子や朱子学と比べて間違ってるったって、
同じ儒家の看板を掲げてるぐらいだから、儒家ですらないものに比べればずっと正しい。
ただ、孟子や朱子学と比べれば蛇足の仮想敵扱いだってだけの話。相手が悪すぎる。
ちょうど親鸞が民衆仏教の完成者なのに比べれば、一遍や日蓮が蛇足なのと同じ。
同じ仏教者や叡山学徒である程度には、一遍や日蓮もそれ以外より上。
じゃあ孟子や朱子学や親鸞が、孔子や旧儒教や法然の教学の蛇足かといえば、
孟子も朱子も親鸞も師や先人の教えを忠実に受け継いで、
元の教えを歪曲しない限りでの補足や完成に徹しているので、蛇足とは言えない。
師や先人の教えをねじ曲げてまで新しい教えを打ち立てようとするような、無理のある姿勢こそが蛇足になり、
それに気付いてか気付かずしてか、一遍は己の文書の大部分を焼き払った上であの世に旅立った。
教学の橋渡しは決して二番煎じなのではなく、蛇足こそが二番煎じ三番煎じたる。
102 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 17:23:32 0
ギリシャ語のうつくしさは天上の美しさ
×ギリシャ語が美しい
○わたしが美しい
104 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 19:04:26 0
性即理と心即理のほかに、「情即理」ってのがある。
古代ギリシャ含む西洋哲学の、特にフッサールの現象学あたりが突出してそうだ。
西洋哲学の用語でいえば、情とは「現象」のことであり、性とは「精神」のこと。
だから朱子学(性理学)ってのは洋学流にいえば「精神学」、精神論でも精神主義でもなく、精神学。
精神医学でもなく精神学。人間が存在する以上は絶対に並存せざるを得ない精神を冷徹に学究する。
何もしない人間にだって現象はなくても精神はある。家族があるからこそ国家や社会があるように(孟子)、
主体(体)である性と、客体ないし客用(用)である情の優先順位を慮って、
情の本でもある、精神の選択的な研究に特化している。
精神と現象両方の関係性を探求したヘーゲル哲学などは、性情両者(心)を重視した陽明学に類似する。
でも陽明学があくまで朱子学でいう体と用、主と客である性と情の優先順位を受け継いだ上で派生した、
いわば「真の精神現象学」であるのに対し、ヘーゲルの場合は性と情の優先順位も覚束なく、
むしろ情のほうが性よりも上扱いする恒常的現象主義者たるユダヤ人(スピノザなど)の影響なども
受けて、「現象精神学」を派生してしまっている。主著の原題「Phanomenologie des Geistes」も
現象Phanomenが先で精神Geistが後になっている。
体と用、主客の転倒や無視の下でこそ、ヘーゲルやフッサールらによる西洋哲学は成り立っており、
あくまで主客の正当な関係性を把握した上で性や情、精神や現象を研究しているのが朱子学や陽明学。
故にこそ陽明学もまた、ヘーゲル哲学などに比べればより精緻であり、儒家の一員であるといえる。
同じように荀子の性悪説なども、四民制の順位の解釈が「士商工農」だったりするところから、荀子自身が
真性の性悪論者ではないことが分かる。ホッボズやロック、ルソーといった荀子以上の強度の性悪論者
によって提示された民主主義は、「商工農士」すら主張する。道徳の要である士人すら下に置く、
それでこそ真性の性悪論なわけだけれども、荀子はそこまではいかない、最低限道徳の優等さは
認めている、故に荀子もまた立派な儒家であり、ホッブズやロックやルソーは儒家に値しない。
105 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 19:29:27 0
性即理も心即理も情即理も、「有理」であることだけは共通する。
でも仏教などは有理ですらない、「無理」や「空理」だったりする。
多少は世俗的な有理の問題を説きつつも、無理や空理をも説明の対象とすることで
虚数的要素をも含む真実の道理=真理を指し示す。
無理や空理すらも議論の対象となることで初めて真理に到達する、洋学などは始めから
逃げ去って研究の対象としていない無理や空理の論及、般若経あたりが顕著だし
阿弥陀信仰者の源信や法然だって、尊びつつも自分たちが空観を選択しないだけだと言う。
無理や空理が把捉されるが故にこそ逆に我は否定される、浄土教もその当たりの教えは汲んでいる。
難解すぎて凡夫には計り知れない仏教の教理を最大級に演繹する手段こそが浄土教。
106 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 20:47:30 0
「情までもが理である」という陽明学への指摘は確かに不正確だったと思う。
ただ「情すらが理になる」という考え方ではあるだろう。
そのほうが確かに理想主義的ではあるんだが、残念ながらそんなこともないんだな。
情念の粗悪さをこれでもかという程に書きとめ、今では逆に粗悪な情念の
教科書にすらなってしまっている思想哲学や文学が西洋にいくらでもある。
もはや儒家の把捉対象ではない、積極的な悪質さや犯罪性を認める教学が
「黄白二類の国土」の内の、白いほうの側の国土で大量に生産されている。
そんな奴らとの付き合いの中で、情念にまで理や善を期待するストイシズムは通用しない。
際立った善悪が交際するという、善悪が緩やかに与っていた1000年前前後とは
異色の時代背景である現代においてでも通用するのは、陽明学や華厳宗ではなく
朱子学や念仏宗だってこと。毒を制するための毒まがいの薬。
臨機応変の柔軟な選択こそが必要なとき。
108 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 22:10:49 0
朱子学は精神学ではあるが精神主義ではない。極めて冷徹に精神という性分を研究する。
では精神主義とは何なのかといえば、一に神道、二に修験道、三に士道といったとこ。
>>1にも書いた。
剣道柔道合気道華道茶道香道、凡そ日本で「〜道」と呼ばれているものはみんな精神主義。
純粋な精神の養育こそが日本では好まれ、場合によっては行き過ぎて儚くすらある。
精神ってのは、もはや思想や哲学ではない。愛とか勇気とかの、人間の一番原始的な性分を司る。
無闇にゴチャゴチャと文章で説明しようとしてしまえば、それ自体は精神性に欠ける、
故にこそ精神学である朱子学は精神主義であるとまではいえない。
もはや自分から精神的であるもの、精神の実践者であるものこそが精神主義者であるといえ、
日本神話の登場人物や皇族、修験者や武士などはまさに精神主義者中の精神主義者。
精神の養育が衰えて、ネット情報含む現象ばかりに振り回されている現代人にとっては
18,9世紀の西洋人などが身近に感じられる反面、同時期の武士などは却って遠い存在に思える。
国家神道の下で米軍に突入していった特攻隊だって、はるか彼方昔々の思い出扱い。
美しくあると同時に儚くもある精神主義が、十分な教学的補足の下で復帰したときに、世界は変わる。
浄土真宗がすでに捨て去ってしまっている般若心経なども、神道や修験道では祝詞に次ぐもの
として認められている。うまく組み合わされて初めて一体となるパズルような相補関係が
神道や仏教、儒教の間にはあるんで、どれか一つだけの祭り上げなどは禁物。
109 :
し:2009/02/10(火) 22:18:27 O
まあ入江まで行きゃ世話ねえわ。駅弁なんて計算合わなくて懲り懲りだけどね。
110 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 22:29:30 0
精神性も精緻さも一個もねーな、ここ。。。。
だから、精神主義や精緻さは通用しないんだって、今の世の中じゃ、そのままでは。
精神性や精緻さを確信犯的に侵害毀損する類の粗悪な現象主義があって、
無防備なままに神道の精神性、精緻な陽明学などが対抗したところで勝てやしない。
だからこそ、実践的な精神性や教学としての精緻さには欠けつつも
「毒をもって毒を制す」の要領で、粗悪な現象主義を退治する一向な精神学が必要であり、
その要求に応えてくれるのが朱子学だったり念仏宗だったりする。
精神性や精緻さの側面から論敵と同じ穴の狢と化している点、実践面ではヤバイ奴らだ。
実践面でこそ次期家康公の手綱を取る、精神や精緻の養育に特化された女房が
また別に必要なところだ。スサノオや出雲を手なずけるアマテラスやお伊勢様がな。
112 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 22:51:51 0
日本語おぼえてから出てきてな。。
113 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 22:54:25 0
まあできたらドイツ語くらいはおぼえても欲しいけど。。
せめて中国語くらいはできるのかね。。
修験者向けの、後尾に般若心経と聖不動経の付いた神道大祓全集を愛用してるがな?
仏教最高峰の般若心経が、祝詞の前ではあたかも女房の尻に叱れた旦那のよう。
一つ一つの発音から日本語の究極を目指している祝詞には、日本語読みの般若心経すら敵わない。
サンスクリット完全習得までいけば対抗できたとて、自分はやっぱり日本人だから
日本語の発音で祝詞と般若心経を詠み比べたとき、ああやっぱり日本に生まれてよかったなあと思う。
国籍入れ換えるほどの意欲など一切持てないほどに、祝詞が言葉の響きに関しちゃ素晴らしい。
たとえ相手が般若心経であっても、あくまで日本人だからこその主観的な見解ではあるが。
115 :
考える名無しさん:2009/02/10(火) 23:43:02 0
じゃあサンスクリットが美しいというのも主観じゃん
日本人にも関わらず「厳かだ」というのが、悉曇に対する客観的理解。
人種に関しちゃ漢民族のほうが近縁だが、中国語の発音にまでは厳かさは感じない。
根本的な異人種であるコーカソイドの、中でもインド系である梵語由来の経典が
大祓全集の後尾に付帯できる程度には厳かだ。美しいか否かはまた別の問題。
厳かであることと美しいことの優劣は、仮に世界最高級の美女が
美しさを飾る衣装と、厳かさを飾る衣装を纏った場合の優劣に帰する。
美女に対する男性の側の奉仕は、美しくあるべきか厳かであるべきか。
個人的な主観では、厳かに飾られた美女こそを最優勝支配者であると認める。
男性の傍観者による美の助長など、蛇足であり二番煎じ三番煎じだ。
美女は美女であるがままに美女であるがいい、それでこそアマテラスたる。
117 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 00:33:08 0
要するに出鱈目じゃん
118 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 01:42:23 0
ギリシャ語も梵語にまけてないよ
「朱子学は精神学ではあるが精神主義ではない。極めて冷徹に精神という性分を研究する。
では精神主義とは何なのかといえば、一に神道、二に修験道、三に士道といったとこ」
XX道といったときに思考停止になって思いっきり精神主義になって、自我を失うと思うのですが如何でしょう?
ちなみに自分のポジションを明確にしないと卑怯なので私はクルシナムルティが好きです。
120 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 02:47:43 0
age進行でいきましょう
121 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 02:48:17 0
age進行でいきましょう
122 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 03:01:03 0
>サンスクリット完全習得までいけば対抗できたとて
サンスクリットはできるんだよね?
できるから対抗できるとかいえるんだよね?
123 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 03:02:09 0
「新外国人管理制度」とは、
今春、通常国会に提出される予定の改定法案。
1.法務省は、「入国・再入国・出国情報」だけではなく「在留情報」も一括して集中管理。
2.特別永住者を除く中長期在留外国人に在留カードを交付、常時携帯・提示義務を、刑事罰を課す。
3.外国人から「身分事項」「所属機関・派遣先等」「居住地」の届けをさせる。不申請・申請遅延・虚偽申請には刑事罰。
4.所属する機関に対し、個人単位で「就労状況、研修状況、就学状況」を定期的・随時報告させる。
5.オーバーステイ(超過滞在)など非正規滞在者、難民申請中の外国籍住民は、「在留カード」「外国人台帳」から排除されることになる。
さらに、
5.在日朝鮮人は「外国人台帳制度」の対象となり、「特別永住許可証明書」(名称未定)というカードの常時携帯を義務づける。
(新制度についてはここがわかりやすい→
ttp://www.repacp.org/aacp/)
新制度の内容は、在日外国人(在日朝鮮人含む)にとって、今一番大きな問題と騒がれています。
これに対する抵抗はかなり激しくなるでしょう。(在日団体の声明文→
ttp://www.repacp.org/aacp/Statement-02.html )
すでに公明党が要望を受けて動いています。
この法案は、実質上不法滞在者、不良外国人を浮き彫りにするものであるため、彼らにとっては、日本人に知られたくない法案です。
成立する前に水面下で圧力をかけてこの法案を潰したいということです。
ネットを通じて多くの人が知ってるとなると、当然彼らも動きにくくなります。
ご協力できる方は、個々に規制を注意しながらネット(2ch以外でも)で口コミをお願いいたします。m(_ _)m
124 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 08:27:49 0
>>119 〜学とか〜教とかがベクトル量とすれば、〜道はスカラー量。
方向性も持たずにただ蓄えられている静電気のようなもの。力になるのはあくまで教学。
いま「体育会系」とか呼ばれているものも一応は精神主義のうちに入るが、
神道や士道に比べれば何の教学的素養もない粗悪な精神主義。
一切スポーツなんかしなかった所で、終戦後も30年近く諜報目的で
フィリピンに潜伏し続けた小野田寛郎少尉なども究極至極の精神主義者。
修験道などは精神主義であっても真言密教などの修学を行うが
明治以降の神仏分離、廃仏毀釈によって廃れてるし、迷信呪詛禁止な浄土真宗に
お株を奪われてるところもある。精神主義が思考停止ばかりなのは近頃だけの話。
>>122 なもあみだぼ
125 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 08:38:15 0
教学的な素養のない精神主義は怖がられる。
中韓人からも米英人からも「鬼子」扱い。隣国で付いてきてくれるのなんて一部台湾人ぐらいのもの。
インドやヨーロッパ、アラブやアフリカまで行くともはや異国情緒として取り扱ってくれるが
あんまり遠くまで旅行して回るような癲動主義(ADHDism)もまた精神主義に違反する。
バイリンガルや英語教師の日本語の発音は不自然になるし、字もあんまりうまくない。
じっくりと座り込んで濃密な精神を養育してこその精神主義であり、他動性の現象主義などとは相反的。
どっちも仲良くなんて友愛もまたみそくそになるし、二兎を追って一途も得ずの様相までも呈するものだ。
要は、扱いにくいもんだってこと、精神主義は。教学的な補足があって初めて活用にも値するもの。
結構本気だ、選択集で法然の奨める正行としての念仏行。
念仏を奨めるのもそうだが、同時に念仏以外の雑行をしないことも奨める。
必要なものだけを選択してそれ以外はあえて選択しないエコ仏教。
本気で帰依するのは却って普通の仏教より難しいかもしれない、今は。
なぜって、今はそこら中情報が氾濫している時代だから、
何かをするよりも何もしないほうが難しいぐらいだからだ。
個人的にもまだ本気の帰依は躊躇してる。だからあえて「なもあみだぼ」と書く。
説明書き以外でも「なもあみだぶ(つ)」になったら本気の帰依に移行。
「般舟三昧経の中に、また一の選択あり。いはゆる選択我名なり。弥陀自ら説いて、
『我が国に来生せむと欲はば、常に我が名を念じて、休息せしむることなかれ』と言はく」
岩波文庫「選択本願念仏集」第十六章(十六)より
「我」があるんだって、阿弥陀仏にも。少なくともそういう方便を用いている。
空観による無我の主張ぐらい当然分かってるんだが、凡夫には無我の境地なんか
計り知れないから、それに合わせて阿弥陀様もあたかも我があるかのような言葉を仰せられる。
そのほうが分かりやすくて凡夫にはちょうどいいから。ヒンズー教の梵我一如などとは別物。
「念仏の行、水月を感じて、昇降を得たり(選択集十六)」
凡夫の心と仏心とは、あたかも水面と月のよう。
月は降りずして水面に映り、水面は昇らずして月を観ずる。
念仏によって決して凡夫が直接仏と対面できるわけではないが、
水面に月が映るかのごとくに仏が感応するということ。
小乗仏教が軽四、大乗仏教の聖道門がバスやダンプなら
浄土門は超大型豪華客船の模型とでもいったところ。
本物を手に入れたところで管理も大変だし、タイタニックのように沈んだりも。
一番豪華なものだからこそ模型でいいんだっていう庶民のわきまえ。
偉いんだか卑しいんだか。とにかく満足できればそれまで。
129 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 15:03:45 0
サンスクリット体得できてないのに、なんで対抗できるとか分かるの?
漢訳の日本語読みで祝詞の後尾にちょうどいいってんだ。
悉曇ならもっと上に決まってら。そのへん突き詰めてる真言宗が神道と仲がよくて
念仏止まりな真宗のほうが仲が悪いんだな。
空海にも日蓮にもすぐ大師号やったのに、親鸞には明治までやらなかったし。
僧籍剥奪の流罪ってのも、未だに宗教法人なオウムよりも酷い仕打ちだし。
地獄の底から這上がってきた究極の草の根仏教、浄土真宗。
一切の衒学を許さぬ愚鈍の底力を思い知れ。
131 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 16:38:16 0
ギ リ シ ア 語 は 神 レ ベ ル
なかなか、面白いスレです。
こういうのをもっと読みたいので、あれこれブログを探してるのですが、
仏教語で検索すると「現役僧侶のほのぼのブログ」とか、でなければ、
層化関係ぐらいしか引っかからない。
儒教の用語で調べると、なぜか株式投資のブログが引っかかったりw
なんか面白いブログやサイトがあったら、教えていただきたいんですが。
133 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 18:43:29 0
禅の自由、浄土の平等、そして真宗の民主。
天台教学や密教によって雁字搦めと化していた大乗仏教を
まずは禅が打ち壊し、自由な風習を持ち込んだ(「臨済録」にも「自由」という言葉がよく出てくる)。
でも空海の上から目線よろしく、仏教を分かっている人間と分かってない人間に断絶させる
差別性は禅でもまだ払拭できてない。禅語が分かるか分からないかの差はまだ大きい。
そのような差別までも一向専修念仏によって打ち砕き、念仏者の絶対的往生の平等を
源信や法然が打ち立てた。でも源信はあくまで天台浄土教の範疇に留まるし、
浄土宗を開宗した法然も大蔵経を五度読み通すほどの勉強家。
まだ宗祖たち自身がインテリであることには違いなく、開宗の時点からすでに
民主的であるためには、宗祖自身までもが愚鈍な凡人でなければならない。
その要求にこそ応えたのが親鸞。宗祖兼凡夫であることで、もはや一切仏教が要人貴人の
ためだけのものではない、真に民衆のためのものとなることを、
自分自身が僧籍剥奪や流罪の憂き目に会いまでしながらも達成した。
自由、平等、民主、仏教が民衆に還元される上での理念の揃い踏み。
決して親鸞の真宗が民衆仏教の全てではない。禅や真宗以前の浄土教などとの疎密両面での
連携の下でこそ真宗もまた機能を発揮している。ただ、民主主義という、民衆仏教が完成する上での
最終局面に立ち会ったのが親鸞であり、その親鸞の教学に基づいて創始されたのが真宗であるが故に
完全なる演繹仏教の達成、少なくとも最高潮となっているから、
後続の一遍や日蓮すらもが蛇足に見えてしまう。
自由だの平等だの民主だのといったところで、決して自民党や民主党やアメリカ政府の
掲げているような偽りの自由や平等や民主ではなく、真理を司る教学としての沽券に基づいて
自由や平等や民主までをも真理であるがままに達成している。自由と平等の真理はもう
臨済録と選択集である程度把握してるんで、最後にして完成系である民主の真理を
「浄土真宗聖典」を手がかりにこれから突き詰めていく所存(
>>28参照)。
134 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 18:47:50 0
>>132 東洋教学まで在俗の視点で詳述しているとなれば、
おそらく既読でしょうが、やっぱり松岡正剛氏のブログあたりでしょうかな?
道元や良寛らの禅に関する造詣も確かに深い。ただ、どう見たって松岡氏自身は
ペダンティストなんで、愚鈍な凡夫たる親鸞までをも語る資格はあまりない。
五木寛之氏や梅原猛氏なども同じ。なまじ学識の側面で優等だからこそ言及が
上から目線になって、親鸞や真宗の本質を見落としてしまう。
神道や儒教はともかく、洋学の知識ぐらいはもう全て廃棄してしまうぐらいの
覚悟でないと、親鸞聖人の境地には辿りつけない。自分はもうそこは捨てている。
カントだニーチェだを偉そうに語ってた時期が、今となってはもう恥ずかしい。
科学や数学すら全滅させてしまう段階の教学の実在に気づいてからの、君子豹変ならぬ凡夫豹変。
135 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 18:58:59 0
ギ リ シ ア 語 は 神 レ ベ ル
136 :
132:2009/02/11(水) 19:00:36 0
>>134 即答、ありがとうございます。が、既読ですw
親鸞も面白いと思っておりますが、禅や密教、東洋神秘思想全般にも
興味があります。いろいろ教えていただければ有り難いです。
スピリチュアル関連のブログなんか見ますと、
ボクは(宇宙のどこかから電波を受信して)これだけのことを知ってるから、
教えてあげるよ、といった、それこそ「上から目線」のものが多すぎて、
辟易しますね。あと、現役僧侶でも団塊の世代だったりする人は、
妙に社会問題にコミットしたがる傾向があって、これにも辟易します。
age進行とのことなので、上げておきます。
ミリンダ王女の改宗はいつぞや?
138 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 20:18:01 0
ギリシア語はサンスクリットを超えている!
139 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 20:42:19 0
ttp://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/kensaku/ 浄土真宗聖典の目次はご覧のとおり。ネットでも読めるがやっぱり所蔵の本で読む。
七祖篇の最後二つ、往生要集と選択集は予め読んでいる、六祖の源信と七祖の法然、
それ以前のインド・中国の五高祖の論書も読みたいとこだが、七祖篇はまだ所蔵していない。
往生要集や選択集にも大量に引用されてたんでどんなことが書いているかは
ある程度分かるし、もちろんいつかは読むつもりでいる、ただ今は本編のほうを先に読む。
浄土三部経から順を追っていくんで、書評も凡そその順番になる。
世にも珍しい、宗祖とその奥さんの文書が併載されている仏教の聖典。
必ずしも円満な家庭だったわけでもないようだが、それほどまでして非僧非俗を
追い求めたその真意やいかに。南無阿弥陀仏肉食妻帯、開き直りの妙義を拝見。
140 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 21:12:38 0
ギリシア語VSサンスクリット
141 :
閻王 ◆C5WojXN3R. :2009/02/11(水) 21:20:25 0
冥界のことなら俺に聞け。
究極の帰納仏教、真言宗。
究極の演繹仏教、浄土真宗。
どちらも1300万人前後、全国人口の10分の1強の信者数を擁する。
真言宗は元は金のかかる高級仏教だったのが、金満資本主義の下で需要が増し、
浄土真宗は百姓向けのぶっちぎり最大宗派だったのが、第一次<第二次<第三次という
産業従事者の割合の変化と共に伸び悩み、全体の割合ではむしろ目減りしてしまっている。
(日蓮宗も創価学会の膨張で肥大化しているように思えるが、寺院仏教ではないので却下)
帰納が増えて演繹が減っている。着想や認識の拡張ばかりがなされ凝縮が疎かとなっている。
空海のような一部の天才僧侶だけが営んでいた高尚な領域に、得度による戒律厳守の
覚悟などもないままにそこら中の有象無象の輩が食らいつき、悪用すらしてしまうことによって
むしろ入信しなかったほうがよかったほどに粗悪の限りを尽くしてしまう事例のなんと多いこと。
そうではない、おまえらにとっていま真に必要なのは真言でも座禅でもなく、念仏だ。
煩悩具足の凡夫にはそうであるなりの領分があって、善行も念仏程度に留める代わりに
悪行にも手を出さない、消極的でも清楚な生き方の指標こそが本当に必要であるもの。
帰納のやりっ放しで誰もその収拾をつけようとしない、ガバガバマ○コの娼婦に極端な
放蕩も禁欲も認めない、適度な選択肢を指し示す演繹を今は真宗に問うてみるものだ。
143 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 21:57:09 0
ギリシア語VSサンスクリット
これにも答えてください
今はもう真言VS念仏だ。洋学など物の数でもない。
>>58の線分図でいえば、不道徳以下であることが不当であり、
不道徳から悪徳までが、聖書教の支配下で発達してきた全洋学の範疇となる。
不道徳以上であるということが正当であり、イスラム以東の教学がこれに当たる。
庸徳から道徳までが儒教、道徳から聖徳までが仏教。
仏教の中でも、特に最大級の聖徳であるのが真言宗や華厳宗で、
最低限の聖徳であり、より道徳に近いのが浄土真宗。
最大級の聖徳である代わりに、真言宗や華厳宗は薄徳や反道徳、悪徳の問題にまでは関与しない。
逆に最低限の聖徳、道徳寄りである代わりに浄土真宗は薄徳以下の問題までも扱う。
親鸞の悪人正機が孟子の性善説や朱子の性即理と近似した意味合いを持っているのもそのせい。
最低限の聖徳であるが故に道徳寄りとなっているからこそ、最高級の道徳を示す孟子や朱子の言に
親鸞や真宗の教学は近似してしまう。人間の情念ではなく本性が性善であるからこそ
善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。聖徳の頂上付近に留まる華厳宗の明恵などには
把捉できない、程度が低いが故の仏教と儒教の近似。妻帯も儒教下ではむしろ推奨される。
真理という山の裾野で道徳という平野の住人と落ち合う、仏儒の不可避なる習合。
神仏の習合こそを果たした真言宗とはまた別の側面での、仏教による外界教義の征服がそこにある。
145 :
考える名無しさん:2009/02/11(水) 22:51:01 0
てかサンスクリットほとんど知らないでしょ?
文字もよめないでしょ?
不道徳から悪徳までだ、洋学の研究領域は。
>>58でいう悪徳から犯罪までの領域が、洋学の研究対象だったことはない。
犯罪なんてのは反道徳や悪徳の手下でしかない、反道徳や悪徳のためにこそ
犯罪があるのであり、犯罪のために反道徳や悪徳があるのではないという
西洋流の転倒した夢想の下で、洋学者や聖書主義者ってのはずっと生きてきた。
そこがひっくり返された。犯罪のためにこそ反道徳や悪徳があるのだという
実在上の真理を、悪徳から犯罪までをも包含する教学によって示されてしまった。
それこそを示したのが、他でもない親鸞聖人の悪人正機と、時代劇を始めとする
儒教まっしぐらな武家政権下の勧善懲悪主義。
親鸞聖人の悪人正機には、悪というものに対する恐怖的な偏見が一切存在せず、
ただの観察対象とすらしてしまっているほどの鈍感っぷりがあり、
そのような鈍感さの下でいま一度、時代劇の勧善懲悪などを見直してみれば、
非常に楽しいことがわかる。火付け盗賊が鬼平にひっ捕らえられるのを見るのが
最高に楽しい。悪が正義にやっつけられるってのは本来物凄く楽しいことであって、
それはなんでかっていえば、悪ってのは実は本質的にはただの犯罪でしかないと
分かってしまうからだ。悪人正機級の鈍感さの下で悪徳と実在の犯罪を
引き比べれて見れば、実は犯罪が体で悪徳が用である、犯罪が主体であって
悪徳は客体でしかないのだと分かってしまう。犯罪が怖いのはあくまで自分自身に
危害が及びかねないからであって、なんらそこに未知の恐怖があるわけではない。
未知の恐怖を誘発しうる悪徳や反道徳が、ただの犯罪の下にあるのだということを
分かってしまえば、もはや悪徳や反道徳に対する不必要な恐怖もなくなる。
悪徳と犯罪の真の関係性を洋学ではなく悪人正機でこそ気づくことによって、
気づかないままに発展してきた全洋学の概念遊びが一気にゴミクズと化してしまう。
全ての悪徳や反道徳がただの犯罪の正当化材料でしかないのだという、実在上の
真理の把捉の下で、全ての不思議ごっこな悪辣の賞味期限が切れちまうわけだ。
147 :
91:2009/02/12(木) 01:34:40 0
>>91 訂正
>格物の読みとして、朱子が格(こと)に物(いた)ると読んだために
〇格物の読みとして、朱子が物に格(いた)ると読んだために
148 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 01:37:07 0
てかサンスクリットほとんど知らないでしょ?
文字もよめないでしょ?
149 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 01:38:05 0
てかサンスクリットほとんど知らないでしょ?
文字もよめないでしょ?
150 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 01:46:48 0
>>132 ブログランキングとか見たことある?
上位には、確かに層化ブログや妄想スピリチュアルブログが多いが、
ちょっと下の方を調べると拾い物があったりするよ?
俺は、唯識思想を扱ったこのブログなんかが面白かった。
オカルトっぽいけど、神秘思想に興味があるんなら面白いんじゃないかな。
http://paaramitaa.blog24.fc2.com/ サンスクリットも知ってる人みたいだねw
151 :
147:2009/02/12(木) 01:47:09 0
152 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 01:59:47 0
153 :
150:2009/02/12(木) 02:19:32 0
154 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 03:43:29 O
五常の道
「仁」思いやり、やさしさ、儒学最高の徳目とされる。
「義」恩に報いる、恥を知る。
「礼」和を乱さない心がけ、他者への気配り。
「智」智慧、孟子の良知良能(後天的でない本来人間がもつもの)。
「信」自分自身を信じる、信頼される。
儒教道徳はわかりやすくて良いと思う。
神仏習合は真言宗で、儒仏習合は浄土真宗で自ずとなされている。
戦国武将の墓の多くは高野山にあったりと、真言宗と儒教的価値観を持つ武士の仲も悪くない。
ただ、バリバリ民衆向けの浄土真宗と、お公家さんの専売特許な神道の仲はあまり良くなく、
「神棚なんか焼き捨ててしまえ」と真宗の側は言う。
神道と真宗の仲が取り持たれるためには、直接両者をかち合わせるよりは
すでに神仏習合のなされている真言宗あたりと真宗の教義の整合性を推し量ることで
間接的に神道との整合も図るようにしたほうがいい。
簡略化しすぎてもはや仏教に値しないと華厳宗の明恵あたりは言う、
個人的にもまだ、愚鈍すぎて仏教としての正統さへの疑問は払拭しきれない親鸞や真宗の本義、
教行信証あたりを読むことで初めてその疑いは晴れるだろう。嘆異抄だけじゃまだ分からない。
サンスクリット含む原典遡りなんて、今じゃオウムや阿含宗だってやってやがる。
麻原が「尊師」と呼ばれてたのも、原始仏典原典の中村元訳からの流用だったり。
創価もそうだが、いくら仏教であっても目的が金満や犯罪なんじゃカルトにしかなんない。
最低限社会的な道徳は保つという、儒教的価値観のさらに上にこそ正統な仏教があり、
儒教を飛び越えてまで仏教を借りこもうとするような奴らこそは一番仏教の本旨から背いてる。
たとえ真言宗レベルの悉曇を身に付けたところで、正行が南無阿弥陀仏でしかない代わりに
悪いこともしない真宗の末端信者の足元にも及ばない、不道徳反道徳悪徳方面の住人。
前提となっている倫理性が負の人徳(不当)ではなく、正の人徳(正当)であるぐらいの
便宜は本来説明するまでもなく図っておくべきもの。反道徳や悪徳なんて地獄や鬼畜
でしかないという事実が覆い隠されて分かりにくくなっている現代に特有の問題ではある。
157 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 12:45:05 0
サンスクリットまなばない言い訳ですか・・
158 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 13:05:13 O
おせえよ下だばかやろう
159 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 13:26:39 0
「無量寿経」読了。
僧侶でもないのに根本経典にまで書評を書くのはおこがましいけれども
まあ簡単な解説だけしておけば、法蔵菩薩が四十八の誓願と共に阿弥陀仏となり、
娑婆世界を離れること十万億刹の西方にある仏国土(浄土)へと成仏された。
その仏国土には、罪悪による地獄や餓鬼や畜生といった悪趣は存在せず、
七宝や紫金で出来た樹々の立ち並ぶ、豪華絢爛の限りが尽くされているという。
五悪の限りを尽くして、下手に富貴を求めようとして却って三悪趣に落ち込んでしまう
娑婆世界の凡夫たちに、現世での虚実混同の無闇な富貴の追い求めはやめさせて、
悪がなくて善だけのある、真に極上の安楽(極楽)浄土だけを追い求めさせようという、
透徹した理想主義による現実での不正競争の防止がこの経典の主旨といったところ
法句経の七仏通誡偈、「諸悪莫作衆善奉行」の理念は、無量寿経でももちろん
貫かれてるし、諸法無我の基本原理に対する言及もある程度はある。
正統な仏典の一つであることだけは確かで、ただ若干世俗性が高いというのが特徴。
般若経の空観や華厳経の縁起などに比べればずっと素朴な、分かりやすい教え。
「浄土」という言葉は、サンスクリットの原語には存在しない。
無量寿経でも阿弥陀仏の居る「仏国土」が極上の「安楽」に満ちていると記述される。
そのような世界が清浄であるが故に「浄土」であると定義されたのは中国に入ってきてからのこと。
(世界大百科事典「浄土」より)
安楽な仏国土という、原語に即した浄土の真意に注目されたい。
天上でも山上でもなく、平民の住まう土面こそが安楽となる、
しかもそれが天人にとっての救いともなる、天界の普遍性すら認めない仏法の下で。
「何万億刹」なんて算数の破綻してる領域に理想の世界を示しつつも
人間が踏みしめる土面こそが安楽となるという切実さも同時に兼ね備えている。
信じることが情緒的にうわつくことも許してない。
だからこそ「厭離穢土欣求浄土」を旗印に掲げた家康公が本当に天下泰平を実現をもし得た。
死後の昇天ばかりをうたうキリシタンを拒絶もすることで。
161 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 19:04:49 0
サンスクリットの文法書もってるの?
162 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 19:40:01 0
「観無量寿経(観経)」ならびに「阿弥陀経(小経)」も読了。
大経(無量寿経)には一度も出てこなかったお馴染みの称名「南無阿弥陀仏」が観経で初めて出てくる。
お西こと本願寺派の版ではルビが「なもあみだぶつ」となっていて、お東こと大谷派の版では「なむあみだぶつ」
となっている。大経が浄土信仰の理念を示した経典なら、観経は実践を示した経典。
阿弥陀仏こと無量寿仏や観世音菩薩、大勢至菩薩らの正しい観想の仕方が事細かく書かれ、
上品上生から下品下生までの九段階における衆生の往生の仕方が順々に示される。
至誠心や深心、廻向発願心の持ち主である上品上生の貴人でも往生できて、
五逆・十悪までもはたらく下品下生の輩でも往生できるのは、上々である人間ほど
往生がた易く、下々である人間ほど往生までの道のりが険しいからであって、
結局は往生できるんだから下の下であってもいいじゃないかなんて自己正当化の材料にはならない。
ただそんな下の下の人間までをも往生させてしまう程に阿弥陀仏の慈悲が無量だということ。
親鸞の悪人正機とはちょっと食い違ってるような気がしないでもないが、親鸞や真宗が浄土三部経中で
最所依の経典とするのは大経であり、法然や浄土宗のほうが観経を最重要の経典としている。
一遍や時宗が重視する小経は大経観経両者の総括版といったとこ。踊りながら読むのにはちょうどいい長さかもな。
>>161 世界大百科事典からの引用だと書いちょろうに。平凡社版のな。
ウィキよりも信頼性があって、国語辞典よりも事物の説明が実際的、
2メートルの物差しのように、いらない時はいらないがいる時は重宝する、
無用の長物ならぬ多少有用の長物。
同じ大百科事典からの引用だが、
阿弥陀仏の極楽浄土の他に、弥勒の浄土や法華の霊山浄土もある。
やっぱり王道は極楽浄土にしろ、他の浄土信仰も多少は残ってて、その中で
弥勒菩薩の浄土には男も女もいるんだが、阿弥陀仏の極楽浄土には男しかいなくて、
女は一度男に生まれ変わってから往生するものとされている。
なんかこう聞くと弥勒菩薩の浄土のほうが良さそうな気もしないではないが、
仏教では煩悩が最大の敵の一つであって、男性性は煩悩を厭う反面、
女性性は煩悩を容認してしまう。そのような性癖の側面で女性的であるものが
駆逐されて、男性的なものだけが極楽浄土に往生するという抽象的な考え方。
元より仏教は、家庭性を否定したところで醸成されている教学。
女性が主婦として最大級の能力を発揮する家庭を肯定するか否定するかで
教学の方向性は全く変わってくる。家庭を肯定する儒教は男女の同棲も肯定するし(孟子)、
家庭こそが信仰対象である神道では主婦の神アマテラスが最高神にすらなってしまう。
無理に仏教にまでフェミニズムやジェンダーフリーを求めるのではなく、
男性性を肯定する教学と女性性を肯定する教学のつり合いこそを取るべきであり、
仏教と神道あたりの折り合わせでそれは達成できる。真言宗はもうできてるんで、
あとはお公家趣味嫌いな浄土真宗といかに仲直りさせるか。日蓮はどうでもいい。
>>58の線分図の中に、神道は基本出てこない。
古事記最後尾や日本書紀に出てくる聖徳太子こと厩戸皇子が「聖徳」に入る程度で、
肝心の神代篇の内容が
>>58の物差しで測れなかったり測りにくかったりする。
なぜかって、「人徳」の問題ってのは、あくまで文化文明を主体的に構築する立場にある
男にとっての重要概念であって、客体的だったり無関係だったりする女にとっては
少なくとも最重要概念ではない。女にとってより重要なのは愛とか生活とかのほう。
その愛とか生活とかが出産育児までも含めて主体的に営まれるのは、世俗の社会でも
超俗の真理世界でもなく、本当に衣食住をも司っている家庭であって、その家庭を
本格的に営んでいくことを“婦”人が家庭の“主”となることで受け入れた場合に
その女は「主婦」となる。世俗の儒者も、超俗の仏者も始めはそこから産まれている家庭。
女の腹から全ての男も産まれ、それらの男によってこそ全ての文化文明も形作られる。
あらゆる文化文明の最前提となっている家庭。家庭があるからこそ文化文明があるが
文化文明があるからこそ家庭があるのではない。家庭と文化文明という本末の関係性が
再認識された上で、家庭を守る主婦の神であるアマテラスの価値を見直したときに、
アマテラスという存在がとてつもない代物であることが分かる。子を産む女がいなければ
胎生の諸物への往生を誓う阿弥陀仏すら存在価値がなくなってしまう。救う必要のない
相手に対して救いを誓う必要などどこにもない。空海もそんなことを言っていた。
救う相手と救われる相手と両方があるからこそ仏教もまた「現出」している。
永久普遍の真理もまた把捉する人間がいなければ現出しない。科学や数学も同じ。
家庭を信仰する神道などが存在するからこそ、真理を信仰する仏教もまた存在する。
全く存在意義が真逆であるにも関わらず相補的な関係にもある、多様性の和合の実例。
165 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 22:23:03 0
引用ていうことは持ってないんですよね?
所蔵してる世界大百科事典と図書館にある世界大百科事典の内容は違うかね?
「世界」大百科事典。三千大千世界の内の、この宇宙というたった一つの世界だけの大百科事典。
「朱子学」の項なんかを見ると、完全に洋学ペースで分析している。
ことに地球上の世界というと、西洋社会が主体になって東洋は外界扱い。
とてつもなく広い意味にも狭い意味にも使われる、世界という曖昧な定義。
一つだけ言えば、真理によって司られている世界というのは、概念遊びによって構築されている
世界などと比べて「現出している分量」で桁外れに多いわけではない。
概念遊びは概念遊びで大量に構築されてて、20億の西洋人の産物がそう。
同じように、真理の把捉もまた大量に構築されてはいるが、それらもあくまで30億の東洋人によって。
概念が把捉されて書き留められて初めて現出するように、真理もまた把捉され書かれることで初めて現出する。
「山高きが故に尊しとせず。木あるが故になり(空海)」
把捉され書き示されて、活用されることこれら全て人間の所業。
人間という生物の活動領域としての世界を考えたとき、
未だに西洋でしかない世界という定義を東洋含む地球全体にまで広げるべき時。
167 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 23:22:16 0
だ か ら、サンスクリットは出来ないんでしょ?
阿弥陀仏の在する極楽浄土、沙婆世界からの距離は算数で計り知れないとて
「西側」にあるということだけは分かっている。いわゆる西方浄土。
その根拠は不可思議にしても、インドで生まれた西方浄土への信仰が
インド以西に広まるってことはなかったわけだ。なんで自分らより東の国に西側の事情が分かるのか?ってな。
逆にインド以東の人々にとっちゃ信じやすい、不可思議難思をさらに増幅さす理由になる。
生まれた瞬間には極東向けだった浄土信仰、今では地球が丸いことが分かって
西洋のまた西側に東洋があるのが分かってる。
ということは西洋人が西方浄土を信仰すれば東洋信仰になってしまう。
誰しもが自分たちの西側にあるものを信じていく、日本人の浄土信仰者はもう信じてるんで
中国からアメリカまでみんな西へならえ。
太平洋と日付変更線を越えた所にある極西の何物かを信仰しろってんだ。
何かは知らんがな、何かは。
169 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/02/12(木) 23:51:05 0
哲学板に神仏の尊名を表題としたスレがあるとは
意外ですね。
170 :
考える名無しさん:2009/02/12(木) 23:52:14 0
だ か ら、サンスクリットは出来るの? 出来ないの?
豊潤な国語の持ち主に語学はいらない。
>>169 それは、「教学」だからだ。
哲学であると同時に宗教でもある。自分自身までもが教理への姿勢を
正す必要のある教学を語るときに、神仏への敬いを欠いたのでは
それ自体がニヒリズムという一つの異端な教学への支持となってしまう。
仏教なら禅、中国思想なら道教あたりに類似してしまう、
それは浄土や儒教を支持する上では言行不一致となってしまうんで、
一つの立場の表明としての神仏への敬いが必要となる。
禅や道教への確信的な支持者にまで強要することではないし、
未だに洋学を支持するってんなら犯罪精神まっしぐらでもいい。
もっともその場合、浄土や儒教からは格好の論敵となってしまうがな。
儒教なんか、むしろ鬼神を遠ざけるためにこれを尊ぶんだから。
「仏神は貴し、仏神を頼まず」の宮本武蔵も同じ。
ニヒリズムはニヒリズムで悪魔信仰に情緒が近似したりするんで、
たとえ近似であっても魔がさすのを除けるためのお守り程度に
神仏への敬いを嗜めばいい。何も信じないのに
誠実でいられるほど人間はできた生き物じゃないから。
174 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 02:29:53 0
だったら最初からサンスクリットはできないといえばよいんだ
175 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 02:34:15 O
サンスクリットはできる
176 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 02:43:58 O
わからない。全員説明責任はある
ごちゃごちゃと必要のないことを(本当は必要のあることですら)説明しようとするのは
教学はともかく、精神性には欠ける。男は黙って中出し一直線、女は受精、それでこそ真の精神主義。
アマテラスがいるから阿弥陀仏も現出するように、教学展開の前提として常に精神主義はあり、
精神主義のために必要のない教学までをも嗜好するのは蛇足となる。いわんや、語学をや。
「天・人は、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形
に異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、天・人の名あり」無量寿経37-6
極楽浄土にはもはや天とか人とかいった差別もなく、胎生の生き物もいないが、
五濁にまみれた娑婆世界にその有り様を有効に説くために方便を用いている。
七宝や紫金の樹々が生え揃ってるなんてのも説明できる限りで説明してるだけ。
本物はもっとすごい、まさに無量であるその断片的な説明が浄土三部経だったりする。
読んで把捉しようとする人間の自我が真理なのではなく、真理はまた遠い所にある、
自我の行き着く先はせいぜい天界止まりで、その主は受精する女神アマテラスだったり。
天は天の、真理は真理の領分があり、役割分担をするのはそれぞれの教学が
矮小だからではなく、実在の三千大千世界があまりにも広大すぎるからだ。
世界世界といって、実はたった一つの世界の三分の一程度しか把握できてない
ような奴らこそがたった一つの宗教へのドグマなどを考えたりする。まさに井の中の蛙。
ちょっとというか、かなりこわいな、教行信証読むの。
また世の中ひっくり返してしまいかねない。
嘆異抄ですらああなのに、今度は親鸞の主著だし。
無駄な怨みは抱かれないよう心がけるに尽きる。
180 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 13:34:08 0
>豊潤な国語の持ち主に語学はいらない。
さっき出来ない言ったじゃん 出来ないのに出来る言うの?
181 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 13:47:59 0
「顕浄土真実教行証文類」こと教行信証を読み始めた。
序文だけ読んでもな、膨大な推敲の跡がすでに垣間見える。
一筆でさらっと書いた文章ではなく、後から後から修正し直した文章に特有の重厚さ。
なまじ頭がいい人間には書けない、言葉をただの利用対象としてではなく愛着の対象と考える者の文章。
サンスクリットまでいかなくとも、遠い西蕃・月支(インド)の教えに日域(日本)で与れただけでも本望だと。
引用する浄土三部経も漢訳なら、本文も原漢文。動き回って何でもかんでも勉強し回るよりも
普通にしてて分かる範囲内のことをじっくりと考え込むことのほうが重要にすらなりうる。
浄土宗、浄土真宗への個人的考察が続くスレなのか?
自分の考えを表明したいだけならブログでやってはどう?
浄土系の論及は教行信証がピークになるだろう。
その後はササッと読んで、次は五経あたりについてでも書いてみるわさな。
いくら論及対象が膨大だからって、一つ一つの教学への論及をおろそかにしたんじゃ
木も見えず、森も見えない様相を呈する、東洋教学に関しちゃ。
質が洋学とは桁外れで、しかも量すら洋学以上というその特性を十分に踏まえて、
初めて東教への真っ当な接し方となる。
184 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 14:42:48 0
出来ないなら素直にいえばよかったのにw
東洋教学の特質は、何といっても基本文献の膨大さにある。
古文漢文仏典サンスクリット文献、その道を目指す者が当然読んで理解しておくべきような
基本文献の合計がすでに、一人の人間が一生の内に修得できる分量を超えている。
しかも三綱五常を重視する儒教と、基本出家第一な仏教などはその内容が根本的に相反している。
何でもかんでもの博学が元より無力であり、自分にとって必要なものだけを選出する
堅実さの中でこそ、それぞれの東洋教学の効果もまた真に発揮される。
多様過ぎて少数の人間による征服などできないからこそ、
個々の人間による自主的な調和の重んじ、大和の精神の下で日本の豊潤な教学なども保存されている。
イギリスに征服されたインドや、文化大革命を引き起こした中国などにはもはやないようなものまでが。
真言密教とか、観無量寿経の原典とかな。
186 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 15:50:54 0
とかいいながら文献ほとんどよんでないんだろ?
187 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 15:57:28 0
,.-─ ─-、─-、
, イ)ィ -─ ──- 、ミヽ
ノ /,.-‐'"´ `ヾj ii / Λ
,イ// ^ヽj(二フ'"´ ̄`ヾ、ノイ{
ノ/,/ミ三ニヲ´ ゙、ノi!
{V /ミ三二,イ , -─ Yソ
レ'/三二彡イ .:ィこラ ;:こラ j{
V;;;::. ;ヲヾ!V ー '′ i ー ' ソ
Vニミ( 入 、 r j ,′
ヾミ、`ゝ ` ー--‐'ゞニ<‐-イ
ヽ ヽ -''ニニ‐ /
| `、 ⌒ ,/
| > ---- r‐'´
ヽ_ |
ヽ _ _ 」
ウプレカス [ Uprecus ]
( 西暦一世紀前半 〜 没年不明 )
188 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 15:58:06 0
,.-─ ─-、─-、
, イ)ィ -─ ──- 、ミヽ
ノ /,.-‐'"´ `ヾj ii / Λ
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ヽ _ _ 」
ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半〜没年不明)
教行信証の序文だけでも、戦争と平和とカラマーゾフの兄弟全文以上の価値があった。
込められている精神力の分量で言えば。どっちも読んだ上での比較。
正念が踏みとどめられている文章は例え原稿用紙一枚分だろうとも、
散逸している文章百万枚分以上の価値を持つ。
武士が己の正念を明かす一言と、泥棒がどうやって悪さをしようかと駄弁る百万弁。
取捨選択もないままに何でも取り込もうとするぐらいなら、まだ何もしないほうがいい。
190 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 16:18:59 0
-ー=-‐ 、__
, r '" ヽ,
l ' ,
/ 三ニ=ー-'`=ニiiiiiiiiiiil
/ ニ'" `ヾiiiiiiii|
/ ニ' 'liiiiii|
,l |,r=-;.,_ _,、-=-、|iiiiil
l .il .,rェェ、_" :;"ェェ j |iiiiiil
| . i| ,, :; ,, iiiiiiil
,| il, , :: , liiiiiill
l iil, ` ' ,|iiiiiiii|
/ l、 ー- -,ー イiiiiiiiiill
/ iゝ、  ̄ /|iiiiiiiiiiiil
/ i| `ー- ' " ,liiiiiiiiiiii|
クソスレータ・テルナー[Qtosleata Telnault]
(1946〜1992 イタリア)
191 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 17:55:14 O
何なんだろうな、これは。
こんなに異様な書物は今までに見たことがない。
本文の大部分が他の仏書からの引用で、しかもその引用がパッチワークのように継ぎ合わせられたり、
巧妙に読み替えられたりした上で、あるとき急に自論の展開がなされる。
あまりにも引用が長すぎて、なぜそんな結論となるのかが分かりにくい。
正法眼蔵や往生要集、選択集でも大量の諸文献からの引用はなされていた。
でもあくまで道元や源信、法然自身の自論の展開が主体であって、
引用はそのための副体的な道具でしかなかった。それがもはや引用が主で自論が副、
論及の姿勢から完全に他力本願に徹している。
思うにこれは、人間の思索というもののネタばらしではないのか?
自分で考えて、書いていることだと思い込んでいるほとんどのことが
実は他者からの借り物でしかない。しかも凡夫となれば、大半の思索が借り物な上に
煩悩を膨らませるような悪念ばかりを借り受けて、自覚もないままに悪人とすら化してしまっている。
そのような思索の構築による自我の強化の儚さを示すために、
親鸞聖人自らが身を呈しつつ、思索の虚構性の暴露に取り掛かったのではないだろうか?
192 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 19:51:38 0
ギリシャ語は漢文こえてる
193 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 21:46:06 0
スッタニパータはおすすめ?
曹洞宗 統一スレッド
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1234456132/l50 1 :神も仏も名無しさん:2009/02/13(金) 01:28:52 ID:g8LX0+JX
無いようなので独断で立ててみました。既出でしたらすみませんm(__)m
本尊 曹洞宗はお釈迦(しゃか)さまをご本尊として仰ぎます。
本尊唱名 南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
教義 わたしたちはみな仏(ほとけ)の子(みこ)であり、生まれながらに仏心を具(そな)えています。
しかしそれに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくっています。
ひとたび仏さまに懺悔(さんげ)し帰依(きえ)するならば、
心が落ち着いておのずから生活が調えられて明るくなり社会のお役に立つことを喜び、
又 どんな苦難にも耐えて生き抜こうとする信念が生まれます。
そこに生きがいと幸福とを発見するのが曹洞宗の教えであります。
参考:曹洞宗 公式サイト − 曹洞禅ネット
http://www.sotozen-net.or.jp/
195 :
考える名無しさん:2009/02/13(金) 23:31:41 0
>>193 訳は最悪。内容も荘厳さに欠ける。
仏教の基本原理を示してるという点では法句経ことダンマパダのほうが上だが、
パーリ語原典からの直訳だからって漢訳より上だとも少しも思わない。
大乗仏教が小乗仏教と比べて決定的に違うのは、釈迦の教えに対する龍樹の解釈の有無。
大乗の用語でいう声聞や縁覚が、勝手に解釈して書き留めていたのが小乗経典なら、
龍樹のような実在の菩薩によって提唱されたり、書き留められたりしたのが大乗経典。
密教も禅も浄土も、仏法が龍樹を通じて正伝されていると認めているのだけは共通する。
ちょうど孔子に対する孟子のような立場に、釈迦に対する龍樹がいる。
こちらも正当な評価の待たれる、東洋教学の影の立役者の一人。
196 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/02/13(金) 23:46:56 0
>>172さん
やはり「瑜伽」が第一義と思います。
信仰の瑜伽、智慧の瑜伽
教義と実践あってこそ仏教ですね。
孔子は「聖人」、孟子は「亜聖」、釈迦は「仏」で龍樹は「菩薩」。
位階ではあくまでNo.2に甘んじるものの、有象無象の論客や声聞縁覚よりは上であるという、
No.1である者の教学の説明者として最大級であるような人物が、No.1と共に崇められている。
こんなことが可能なのは、あくまで東洋教学の提唱者がみんな実在の人物だからだ。
孔子も孟子も釈迦も龍樹も実在がほぼ明らかな上、実在の人物としてなしたことこそが讃えられている。
モーセだイエスだはまず実在しないし、それららしき人物が実在したとしても、海を真っ二つに割っただ
死後に復活しただなんていう事績は明らかに創作だ。そんな想像上の人物に次いで
実在の人物が何かをやったから偉いとかいったって、全く断絶した所ですべてがなされる。
初めから実践も継承も不可能であるものを称えたりするのではなく、実践や継承が
可能な実在の事績こそを称えるという大前提が東洋教学にはあり、洋学にはない。
道徳や犯罪といった現実の問題をつぶさに見定めようとした場合に有利になるのも当たり前のことだ。
アブラハム教の創唱者の中で、実在が明らかなのはムハンマドだけ。
他は自ら言責を持つ気もない、傍観者ぶった創作者(マルコとかマタイとか)の捏造。
言責を持つ発言者自身があるがままに称えられている時に、正念もまた踏み止まっている。
創作よりも実在を重視する全体的な方向性の中で、目上の者への崇敬も育まれ、
実在ではない阿弥陀如来や大日如来を信仰する宗派にも揃い踏みを促す。
釈迦だけを認める禅を信仰する武士が、浄土を信仰する農民や、密教を信仰する公家を
実力で抑え付けたりと、抽象的な宗教性の行き過ぎへの警戒がいつも東洋にはあったわけだ。
199 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 02:19:25 0
>>195 岩波文庫のですよね・・?
ほかの真理の言葉や神々の言葉などはどうですか?
おなじ訳者ですが
200 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 02:29:22 O
創価は破壊神恐ろしいことしてるようですね
201 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 02:31:43 O
足利高氏
202 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 02:43:16 O
堀さんのこといいのかねえ?堀井っつーのが前にここ見にきてたけど
203 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 02:46:45 O
ブタメンのcM
204 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 04:06:38 0
323 :日本@名無史さん:2007/02/17(土) 11:42:09
「孔子は知らないのにそれをするということがなく、
顔回は自己に不善があればそれを知らぬことがなかった。」 王陽明
324 :日本@名無史さん:2007/03/01(木) 18:04:08
「聖賢が人に教えるのは医者が病気の種類に応じて薬を処方し匙を加減するのと同じである。
その目的は患者の病を取り除くことであり、あらかじめ定まった療法をもって患者に臨むわけではない。
なぜなら、一つの療法だけに固執していては、結局は患者を殺してしまうことになるからだ。
今、私が諸君と話し合うのは、それぞれの不十分なところを診断して療法を教えようというだけのことであり、
もしその人が改まってしまえば、私の言葉などもはや無用の長物でしかない。
それをもし永久不変の教訓として墨守してしまうと、いつかは必ず己を、そして人を誤らすことになり、
私の罪過はとても償いきれないものになる。」 王陽明
205 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 10:08:54 0
>>199 「真理のことば」がダンマパダですが。
スッタニパータやウダーナヴァルガ(感興のことば)などと比べて短編なので、
中村訳の「ブッダのことばシリーズ」で読むと余計重要性が見落としがちになる。
律宗らと同じで、小乗にも関わらず無視の出来ない仏法の骨子が厳格に示されている
ダンマパダを漢訳や友松訳で読んどいて、大乗仏教との整合性を図るようにしたほうがいい。
大乗非仏説などが、江戸時代までの仏教権威を押しのけて膨張してきた
各種洋学研究機関(今の多くの大学など)によるねたみでしかないことが分かる。
仏教系の大学などもあるものの、現今の洋学主体の学術機関と
古来の伝統仏教とは根本的な対立関係にあるのを知っておく必要がある。
206 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 11:28:41 0
「徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。
能所の因縁和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。
真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。
内外の因縁和合して報土の真身を得証す」教行信証・行文類二・七二より
子を産ませたい善男子がいて、子を産みたい善女人がいて、例え両者が同意したとて
そこに信心が伴わないのであれば浄土にいたることはない。信心こそは内因であり、
男女の結びつきは外縁であり、両者が和合することによって初めて真に報われるのだと。
やっぱり親鸞聖人は日本人だな。信心の価値までも人間の生殖にたとえて、
しかも「真実信の業識」が生殖の達成、新しい命の芽生えに当たるとすら指し示す。
記紀神話のウケヒの描写ともすでに符合している。「光明の悲母」という例えもまんま
アマテラスに置き換えられる。なかなか自論を展開しないだけあって、した時は究極だな。
>>194 曹洞宗公式サイトの漫画「お釈迦さま」でも、
七つの的を同時に撃ち抜いたり、象を放り投げたりの超人技はあくまで青年期までで、
肝心の悟りを開いてから涅槃までのお釈迦様の行道は、全く実在性に基づいている。
華厳時から鹿苑時、方等時、般若時、法華涅槃時と、ほとんどの大小乗経典で示される教説も、
全てこの悟りから涅槃までの釈迦の教説に基づいている(天台宗祖智の教相判釈)。
その点からすれば少しだけ脱線してるのが密教経典や浄土経典で、
密教のほうは仏説のより帰納的な理解、浄土教のほうはより演繹的な流布を目的としている。
とはいえやっぱり密教や浄土教の僧侶もまた、密教部浄土部以外の経典の理解も
前提としていて、さらに密教や浄土教がそこに上乗せされているのが本当のところ。
密教だけや浄土教だけを見れば、呪術性や信仰性が際立ちすぎて異色に思えるが、
前提として実在性に基づいた教学、南都六宗や天台宗、禅宗らが司る基本的な仏教がある。
>>206 「徳号の慈父」は“徳”川家康に当てはめられないこともない。
ただ、徳川家(得川に由来)も家康公も親鸞よりは後代の人間なんで関与はない。
家康公も浄土宗には帰依してたようだけれども、真宗は軽視してたよう。
本願寺からの貢ぎ物を家臣が足で踏み付けたり。
膨張し過ぎて徳川家自体もまた掌中に置ききれなかった一向宗門、
「徳号の慈父」と「光明の悲母」の和合はあくまで、史実上の徳川やアマテラスではなく
さらなる次代に現れる何者かのためにこそ促されているものだ。
209 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 14:31:08 0
密教経典てなにがありますか?
210 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 15:31:59 0
>>209 大日経
金剛手言 如是世尊願樂欲聞
佛言菩提心爲因 悲爲根本 方便爲究竟
祕密主云何菩提 謂如實知自心
祕密主是阿耨多羅三藐三菩提 乃至彼法 少分無有可得
何以故 虚空相是菩提無知解者 亦無開曉
何以故 菩提無相故
祕密主諸法無相 謂虚空相
211 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 17:07:18 0
ほかにありますか?
いや、聞かなくてもググればいくらでも出てくるだろ
213 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 19:17:40 0
「願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮
邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや」教行信証・行文類二・九一より
天道や人道の雑毒雑心は愚か、声聞や縁覚(二乗)の雑善ですらもはや存在しないとな、念仏の前には。
親鸞聖人はもはや論及の対象とすらしていないけれども、もちろん地獄餓鬼畜生の三悪趣もなくて、
修羅もない、その上人も天も声聞も縁覚も全部なくなって、仏や菩薩、釈迦や龍樹の境地だけが
あるという究極の理想主義が、しかも念仏によって叶えられるという。
これはむしろ、仏や菩薩の境地だからこそ得られるという側面がある。
地獄餓鬼畜生の三悪趣に陥ったような連中ってのは、修羅人天の三善趣から
落ちこぼれてしまったような奴らだから、三善趣に対しては敵意を抱いたりする。
三善趣の内の人道を重視する儒者なども、超俗という仏者の方向性に不賛成を示すが、
超俗か否かなんてのは仏教にとっては声聞あたりの問題であって、仏や菩薩とは無縁。
あらゆる物事に対する絶対的な透徹者である無量寿仏の下で、いがみ合ってた三悪趣と三善趣、
人道家と出家者などを全て超越して救済に導く。故に救済を求める信仰者がなすべきことなどは
念仏ほどにも易行でなければならない。三悪趣の輩でもできて、しかも声聞や縁覚の修行にすら上乗せ
されるべきものである。正しく阿弥陀仏の名を称名するという、最々終局面の敬礼とでもいうべき何か。
>>211 理趣経の入ってる金剛頂経などもありますな。
密教徒でもないですし、あんまり詳しくもありませんが、簡単に言えば密教ってのは
大乗仏教をより際どい実践によって究めることを目的とした仏教宗派。
>>194曹洞禅ネットの漫画「お釈迦さま」の説明が非常に分かりやすいけれども、
仏教ってのは基本「中道」の実践を目的とした宗教。
中庸ではなく中道。中道と中庸と何が違うのかといえば、中庸は過ぎることも足らぬことも
一切受け付けず完全にど真ん中に留まる。ガチガチの保守主義であって、それ以上の
いかなる発展の余地もない。対する中道は過ぎることと足らぬこと、富貴と飢餓の両極端を
究めつくした上で中間に戻ってくる、極端を征服した上で真ん中に最大の価値を置く実験性を伴う。
釈迦が中道を認めたのは悟りの後、「華厳時」と呼ばれる成道の瞬間以降であって、
それまでの間に釈迦族の王侯として富貴を究めたり、逆に苦行の限りを尽くしたりした後に
スジャータに乳粥を施され、菩提樹の下で悟りを開いた。そこまでが富貴と苦行の両極端の実践。
華厳経から涅槃経まで、諸々の仏典によって記されているのはあくまでこの悟りの後から
涅槃までの45年間の事績。悟るまでの実践ってのは過渡期だから経典などにはならない。
その成道以前の行業までをも実践することによって、釈迦の成仏を完全に復元してしまうのが密教。
中道を重視する仏教の本旨から言えば、たとえ相手が釈迦であろうとも成道以前の極端な富貴や苦行
までをも右に倣えで実践してしまったのでは、いくら中道の価値をより深く計り知るためであろうとも、
それらの実践自体は中道という本旨からは背いてしまう。唯一無二の名刀を崇め立てるのが顕教なら、
たたら製鉄から名刀の作り直しに取り掛かるのが密教。もはや「あちら側」の人たちであるし、
修得者たち自身もその辺をわきまえてるんで、あくまで「密教」としての立場をとっている。
刀鍛冶が愛刀家の領分を侵さないようにという慮りの表れとしての、ヒミツ。
対する念仏は、中道堅持の究極。
富貴にも苦行にも一切手を出さず、中庸並みかそれ以上のど真ん中一辺倒。
45年もの間布教を続けたからこそ、せいぜい2,3年の布教期間でしかない(ということになっている)
イエスの言行を記録した(ということになっている)福音書などと比べて、釈迦の言行を基にした仏典は
膨大な分量に膨れ上がっている。それらを完全に修得して釈迦の境地に辿りつくなんてのは
空海や道元みたいな天才でもなけりゃ到底無理だし、道元などは只管打座によってどこまでも
即身成仏を続けるべきだなどという、仏教版体育会系の教理を打ち立てる。そんな普通の人間には
到底付いていけない仏法への全方向的帰依を否定して、ただ一つ、西方浄土だけへの帰依を求める
念仏の意図するところは、中道の堅持だけを選択するという「完全に完成された仏法」のみの一元化。
富貴と苦行の両極端を経験して、悟りを開いて布教を始め、45年も言行を見せしめて、ついに涅槃を果たした、
あまりにも汲み取るものの多すぎる釈迦という大丈夫の言行を、下手に自力で汲み取ろうとするよりは
救済は他力に徹して、帰依の対象も阿弥陀仏という架空の仏とし、代わりに釈迦が悟りの結果
最高のものとして認めた中道だけを実践する。ただそれだけを見れば中庸とも何も変わらない、
富貴と苦行の両極端の無価値を実検した上で、またど真ん中に戻ってくるという部分だけが中庸とは違う中道を、
両極端の実検はもう人任せにした上で、自分はただ「南無阿弥陀仏」と唱えるのみ。これこそは念仏の本旨。
仏神を敬うとか目上の者を敬うとか、実践すべきことが最後の最後には当たり前のことであるのが東洋教学
の本義だってこと。あくまで最後だから。最後の最後に戦乱ではなく泰平を選択さすことこそが東洋の叡智だ。
216 :
考える名無しさん:2009/02/14(土) 22:40:36 0
文献は量で勝負じゃないんだよww
その通りだ。文献が膨大すぎて収拾が付かなくなっているからこその「南無阿弥陀仏」だ。
究極天才の空海、究極凡夫の親鸞、両極端を味わってまた真ん中に戻るのもまた中道。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」の一言で済んでいるのが儒教なら、
大蔵経から念仏までの両極端をも網羅するのが仏教、
儒教と仏教の両極端を味わってまた真ん中に戻るのもまた中道。
儒教すら征服してしまう究極宗教、いわんや他の雑教をや。
218 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/02/15(日) 01:25:01 0
密教系は詳しく語らないほうがよろしいかと。
219 :
考える名無しさん:2009/02/15(日) 02:37:36 0
じゃあ文献の量を誇るいみはない
南無阿弥陀仏=水晶が詰まった大海の中のダイアモンド
アーメン=ゲロが詰まった洗面器の中のウ○コ
体得レベルで分かるということでは、念仏レベルの仏教や四書レベルの儒教、洋学まで。
密教や禅のような高度な仏教や、朱子学もある程度は勉強したけど、まだまだ生兵法でしかない。
ただ、仏教や儒教などの東洋教学は、特別善いことをしているわけでもない代わりに
悪いこともしていない、無辜の民である小生などにとっては、分かれば分かるほどに
「自分のもの」であることがわかる。悪いことをせずに善いことをする、
己の欲せざる所を人に施さない、邪悪さを根本の所から排除している教学だから。
逆に洋学は分かれば分かるほど、自分のものではないことがわかる。
確信犯的に悪いことをしたり、善いことも悪いことも平気でただやりまくったりの
無辜の民のメンタリティからは程遠い、前提から犯罪性を肯定してしまっている異様さが
自分のものであるか否かという、根本的な部分でどうしても受け付けられない。
おそらく西洋人などにとってはこの逆のはず。洋学は分かれば分かるほど自分らのものである
ことがわかり、東洋教学のほうは分かれば分かるほどに自分らのものではないとわかるはず。
庸徳以上の道徳だ聖徳だが、いかに自分らにとって異質の存在であるかに気づく。
前提となっている論理だとか、ものの考え方だとかが全く異質だから、そこから派生する
文化文明も決定的に食い違っている。実相が真正であるものと狂っているもの、
健常であるものと奇形であるものが「交際」して、厳密に比較されたなら、狂ってたり奇形だったり
する側は正否の落差によって壊滅的な打撃を蒙る。極端な躁だったのが一気に鬱に振れて、
自殺級の苦悩を味わわなければならなくなる。黒船だハル・ノートだで先にちょっかいを
出してきたのも狂ってたり奇形だったりする側なんで、あくまで自業自得でもあるんだがな。
222 :
考える名無しさん:2009/02/15(日) 20:27:19 0
浄土教の影の信仰対象は、実は閻魔大王だったりする。
地獄に落ちてきた罪人が、閻魔大王の配下である獄卒(閻羅人)に不平を言えば、
「自業自得が何をほざくか!」と冷酷な言葉を浴びせる(「往生要集」厭離穢土・地獄より)。
冥界の主への恐れから、何としてでも穢土を離れたいという気持ちの裏側には、
何の救いもない、惨めの限りを尽くした地獄の実在性への強固な信仰がある。
ダンテ「神曲」の地獄篇などは、ある程度は恐ろしげな地獄の描写があるものの
何か地獄すら飾ろうとする、そこにいることへのカッコよさを想起させようとするような
外連味がある。それは結局、陰惨の限りを尽くした本物の地獄というものに対する
見くびりであり、人間の想像力の限りにおいて最低最悪の地獄ですらも肯定している
人間などと比べれば、リスクマネジメントの側面でどうしても脆弱なものとなってしまう。
人間が想像できる以上は、想像の対象が実在しなくとも、そういう想像上の存在性に
順ずる精神状態というのは実在し得るのであって、西洋などで想像されてきた地獄よりも
遥かにどうしようもない、究極の地獄を想定していることが、そのような究極の地獄に
順ずる精神状態に己が身が置かれた場合の覚悟を遥かに強化させることになる。
陰惨さという点ではあらゆる地獄が東洋人にとって既知の範疇である反面、
西洋人などにとっては東洋人が想定するレベルの地獄などは全くの未知となる。
未知であり、しかも究極の地獄なんだから、普通はもう救いようもないように思えるが、
まあ、本気で弥陀の名号を念じられたなら救われるかもしれない。もちろん念じられるか
否かこそが問題であって、念じることにもまたある程度の研鑽が必要なようだが。
究極の地獄を想定していて、しかも救われる先が「天国」ではない。
天界もまた六道輪廻の最高として存在していて、相当に恵まれた環境ではあるものの
長寿の後に五衰という形で相当な苦悩を抱かされることになるという。
地獄の描写が切実だからこそ、天の描写もまた切実なもの。
神曲の天国篇などは煌びやかな描写に一見思えるようでいて、実は乱交パーティー
の寓意でしかなく、仏教の六道でいえば畜生道でしかないものの飾り立て。
処女膜が何度でも再生する少女とヤりまくれるなんてイスラムの天国描写と根は同じ。
そのような偽りの天ではなく、神道が実践しているような本物の天の場合には
ある程度は優良だったとしても、本物の地獄の苦悩を浄化してくれるほどの
機能性はなく、六道全体を透徹して救済し、浄土に導く役割は、東洋ではあくまで
阿弥陀仏や弥勒菩薩に帰せられる。架空だったり56億7000万年後の救済だったりする、
極めて望みが薄いという前提があった上で、それでも信仰される浄土への救済、
故にこそ想定される浄土もまた究極の理想や極楽に満ちている、無量のものとなる。
地獄と浄土、閻魔大王と阿弥陀仏でプラスマイナスゼロ。
どっちもヴェーダやアヴェスターからの派生であり、架空ではあるんだが、
閻魔信仰に基づく最低最悪の地獄と、阿弥陀信仰に基づく極楽無量の浄土とが
かち合わされて、それらの地獄や浄土に順ずる精神状態の安全性を確立する。
「南無阿弥陀仏」と念じている時、実はその裏側に究極地獄の支配者である閻魔大王がいて、
閻魔大王や地獄への恐れを、阿弥陀仏や浄土への望みによって克服する
内心だけにおいての最大級のマッチポンプが済まされている。
人間が想定しうる限りでの究極の地獄の、究極の浄土による相殺という思考実験により、
現実上のいかなる惨事の下でも驚愕せず、逆にいかなる快楽の前にもたじろぎはしない。
富貴と苦行の両極端を実践によって体験し、また中道に戻ってくるのが密教なら、
あくまで内心の範疇で両極端を想定し護身とするのが浄土教、念仏の本旨。
ヴェーダやアヴェスターといった世界最古級の古典によって確かに裏打ちもされている、
文化文明の極致の恒常的な思念による、あらゆる文化文明の超克という反則的手段。
冗談抜きで、アーメンでは救われない。
人間が想定し得る限りでの真の極限状態における救済は
正念によってしか叶えられない。正念すなはちこれ念仏なり。
すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
226 :
考える名無しさん:2009/02/16(月) 11:06:50 0
仏教の六道輪廻思想と、西洋の地獄・天国思想などが不当に混同されて、
東洋古来の伝統文化と西洋の文化とがみそくそと化している場合がままある。
神道が自分たちの本分としていた六道輪廻上の天道が、六道輪廻で言えば畜生道でしかない
西洋流の天国と混同されたり、士道の根本理念の一つである修羅道が、罪悪にまみれた
地獄と混同されたりしている。東洋では、たとえ仏教以外の教学や精神主義だろうとも、
地獄餓鬼畜生の三悪趣と、修羅人天の三善趣は明確に区別されて、天道と畜生道、
修羅道と地獄道は全くの別物として取り扱われている。それが神曲に代表されるような、
天国も畜生も、修羅も地獄も一緒くたな西洋の世界観などとすり合わされて、あたかも
太陽が月の裏側に隠れて見えなくなる日蝕のように、善趣の悪趣による覆い隠しが
画策されてしまっている。神道や武士道がカトリックやプロテスタントとのみそくそと化している。
227 :
考える名無しさん:2009/02/16(月) 11:07:22 0
この、善趣と悪趣の混同を引き剥がして、元の六道輪廻の世界観に是正したのが、
実は仏教ではなく儒教のほう。六道十界論や七仏通誡偈など、三善趣と三悪趣の違いを
如実に示しだす教義はもちろん仏教でも用意されている。ただ、仏教は三悪趣だけでなく
三善趣もまた必ずしも善良であるとは限らない、多くの苦悩に満ちた不完全な存在と捉える。
でも儒教は違う。三善趣の中でも人道を自分たちの領分と決めて、人間によって構成されている
現実の世界においては、仏教並みかそれ以上ともなる重大な教理を打ち立てている。救済は
他力に徹して念仏を尽くす浄土信仰者などもまた、現実の社会において規範とすべき教理は、
宗教以上に道徳学である儒教の教学。その儒教が示しだす、道徳性に満ちた人道というのが、
三悪趣における餓鬼道とは圧倒的に相違する。日本では未熟な子供への蔑称としても使われる
「ガキ」という言葉、このガキと相反する関係にある「大人」の精神性を司っているのが、儒教に
由来する道徳だったり庸徳だったり。三善趣の中間である人道と、三悪趣の中間である
餓鬼道が明確に真逆の存在であるからこそ、多少は類似するところがあるようにも思える
天道と畜生道、修羅道と地獄道などもまた明確に分離される。短絡的な地獄・天国思想による
精緻な六道輪廻思想への侵害・日蝕が、儒教という、仏教とはまた別の教理により駆逐される。
228 :
考える名無しさん:2009/02/16(月) 11:25:01 0
ギリシャ正教やプロテスタントでは認められてないようだけれども、
カトリックや神曲が承認している「煉獄」という世界の描写、これもまた六道輪廻でいう餓鬼界そのもの。
畜生界を天国だと思い込んだり、地獄界を修羅界だと思い込んだりしている西洋人にとっては
餓鬼界ってのは必然的に人界にあたる。特に宗教的に優れているわけでもない普通の人々、
宗教に対して特に積極的でもない末端の西洋人などは、みんな餓鬼界の住人。故に、
仏・菩薩=大乗仏教
声聞・縁覚=小乗仏教
天=神道
人=儒教
修羅=士道
畜生=正教、カトリック
餓鬼=聖書教末端信者(普通の西洋人)
地獄=ユダヤ、プロテスタント
となる。東洋だけでなく、西洋までもが仏教の六道十界論に包括されてしまう。
「宗教なんてどうでもいい」なんてほざいてる西洋人も、姓名は聖書からの引用だったり。
未だに「宗教」という抽象性に囚われ続けている現代人が、自ずと六道十界論の抽象性の支配下にもある。
西洋人だから、無宗教だから念仏とは無縁だなんてことも言えない事情が確かにあるわけ。
229 :
考える名無しさん:2009/02/16(月) 12:23:51 0
西洋で無宗教の哲学者とか科学者とか呼ばれているような連中もまた、仏教の
六道輪廻でいえば餓鬼にあたる。人徳もないくせに哲学用語や数式ぐらいは分かる、
十分な人間性と引き換えに概念遊びで突出するサヴァン症候群まがいの天才秀才は、
畜生天国の天使と地獄地獄の悪魔、カトリックとプロテスタントのいがみ合いの
中でこそ生まれたりしている。畜生にも地獄にも徹しきれないが故の、餓鬼。
餓鬼であることはちっとも中庸を得ていない。自分たちの上に声聞や縁覚、菩薩や仏がいて、
逆に自分たちの下には畜生や餓鬼、地獄といった三悪趣のいる、修羅人天の三善趣の内でも
天と修羅の中間にいる人、鬼神を尊びこれを遠ざく儒教こそは、真にど真ん中の中庸を得ている。
畜生と地獄の間に挟まれている餓鬼などは、いくら帰納的な哲学や科学の面で
博識だったとて、人間としての立場を鑑みればただの三悪趣の一員でしかない。
数学者に字のヘタな人間が多かったりと、着想や認識の拡張が行き過ぎた人間というのは
凝縮の側面で不得手になる場合が多いようで、精神力の凝縮の必要な人徳を得ることが
普通の人間以上に困難となる場合が多いよう。天才であってしかも人徳もある、空海や
道元のような仏教史上の有能な偉人というのが、いかに今の餓鬼状態な天才や秀才と比べて
別格であるのかを裏付ける根拠でもある。ただの科学者よりも僧侶のほうが格段に偉い理由。
230 :
考える名無しさん:2009/02/16(月) 18:59:17 0
信仰とは、神仏への敬いに伴う思考や言動の規律の是正である。
東洋においては余すことなくそうであり、神道なら精神性、儒教なら道徳性、
仏教なら真理性がより正される方向に進み、一つ一つの言動はおろか、
思考ですらも悪いことを考えずに善いことを考えるように癖付けられる。
しかし西洋は違う。信仰が始めから正当性ではなく愛執のためにあり、
溺愛の陶酔に伴う不当行為の正当化を宗教や学術に対しても求める。
「キリストを信仰している」などという時も、決して尊敬しているのではなく、
ただ愛している、溺愛によって陶酔状態と化すための道具としているだけ。
「宗教」といった時、正当性の追及のための宗教と、不当性の正当化のための宗教があるように、
「信仰」といった場合にも、正当性を追求する上でのやせ我慢への励ましとする場合と、
嗜好すればするほどただ気持ちいいだけの不当性の拡張を目的とする場合とがある。
全く逆なんだ。正統であることと不当であることの両極端に宗教や信仰は触れ切っている。
正当な宗教や信仰がある一方で、不当な宗教や信仰もあるから、ただ全体的に宗教とか
信仰とかを俯瞰した場合に、不当な側面だけが際立って嫌気がさしてアレルギー対象と化す、
内実がみそくそであるが故に、宗教とか信仰とかいった枠組みに対してまで当てつけられる忌避。
「宗教も信仰もいらない」の論理で、悪魔信仰に順ずる精神性へと触れ切ってしまう問題を
解決するためには、正当な宗教や信仰と、不当な宗教や信仰の分別を明確に付ける必要があり、
それぞれの宗教や信仰の効用を具に鑑みて、道徳や真理のために有効である場合などには
摂取して、溺愛や犯罪のためにしか有効でない場合などには廃棄する取捨選択が有効となる。
231 :
考える名無しさん:2009/02/16(月) 19:35:11 0
「愛」は、東洋では信仰の対象ではない。少なくとも肯定的な信仰の対象では。
陰部が焼けて死んで黄泉の国に行ってしまったイザナミを連れ戻しに行ったイザナギが、
腐れきったイザナミの姿に恐れをなして逃げ戻ってしまう記紀神話冒頭の逸話とか、
「法句経」での愛執に対する戒めとか、宗教面での東洋教学の愛に対する見解は冷たい。
イザナミを信仰するとか、立川流とかいったところで、それらはあくまで邪悪な存在への
変則的な信仰扱いとなり、大部分の正統な神仏への信仰は西洋的な溺愛とは無縁。
とはいえもちろん東洋にも愛はある。カーマ・スートラや房中術のような性愛奥義もそうだが、
それ以上に突出しているのが、「源氏物語」などの女性性に満ちた超絶純恋愛の発達。
紫式部に清少納言に後深草院二条、器質的な女性が女性であるがままに描き出した
純愛劇が、社会を司る宗教だの哲学だのとは無縁なところで独立的な発展を見せている。
東洋にしろ西洋にしろ、社会的な必要性に迫られて作り出されるような文化文明は
みんな男が作っているのであって、恋愛にまつわる神話だ哲学だもみんな男のためにある。
本来男のためでしかない教学を女までが横取りして嗜好することが、男が利用した場合に
外界の侵略や不当利得などの犯罪行為の道具になってしまうような悪質な教学までが
存続価値を付与されてしまう。純愛にとっては本来、宗教だの哲学だのは不純物でしかなく、
仮に教学を必要としたとしても、異性と実際に付き合うような場面で全く必要とするものでも
なければ、好き好んで差し挟むべきものでもない。愛は愛であれ、女性が立派な夫を
手に入れて子を産んで温かい家庭を営むに関してのみ愛はあるべきで、そのような場合に
のみ純粋な恋愛というのもまたあるのであり、仮に既存の文化文明にそのような純愛の
見本を求めるというのなら、源氏物語や「枕草子」や「とはずがたり」あたりが適当となる。
古今東西いずれにも関わらず、男臭い教学を純愛と混同するのは不健全の極みとなる。
>>231四段落目訂正:
×悪質な教学までが存続価値を付与されてしまう。
○悪質な教学にまで存続価値を付与してしまう。
233 :
考える名無しさん:2009/02/16(月) 21:21:50 0
女が愛を語ると、あんまりいやらしくはならない、あたまわるそうにはなっても。
ショタだろうがBLだろうが百合だろうが、社会性までをも侵略し尽くす陰惨さは女には描けない。
土方や歩兵のレベルから社会を形作る能力を持つのは男だけだから、そこまでに至り得ない。
にもかかわらずではなくだからこそ、社会性という純愛を毀損さす要素に対して隔離が利き、
「この胸のドキドキ」に全てを還元させるときめきワールドが展開され得る。
源氏物語を始めとする古文もそうだし、今の少女漫画などもそうだが、
日本で女性自身による純愛文化が発達した最大の理由は、神道におけるアマテラス信仰。
スサノオに高天原を荒らし回されて傷ついて天岩戸に閉じこもり、オモイカネらの談義により
無理矢理岩戸から引きずり出されてまた平和を取り戻すという、あくまで女らしさが保たれたままで
神聖さが発揮される記紀神話のハイライトが、女が女であるが故に主体的に純愛を嗜好する
余裕を日本の女に与えてきている。真正な根拠に基づいて女神が最高神となっている
全世界でも唯一の事例によって、無理に自己の権利を主張したり、ジェンダーフリーや
フェミニズムを男の側が上辺だけで持ち合わせたりしなくとも、事実として女が男よりも
上となり得るという奥義の提示によって、自ずと女性もまた真の自由や独立を手に入れている。
234 :
考える名無しさん:2009/02/16(月) 21:50:31 0
アマテラス神話の凄いところは、女という生き物の有り様を一切隠していない点にある。
岩戸隠れの前にスサノオと行ったウケヒにおいて、アマテラスがスサノオの「剣」を「口」で
さ噛みに噛んだら、三人の女神が産まれた。いわゆる宗像三女神。
三女神、女女女神、姦神。
世界遺産でもある、安芸の宮島こと厳島神社にも祭られているあり難い神様が
三人の女の神様なんだもの。女女女神様。ちっとも隠してることじゃない。ある程度記紀を
深読みすれば誰でも気づく程度の所に、生殖の上でどうしても必要な程度の姦淫も
示されていて、代わりに直後の受精の描写である、スサノオがアマテラスの玉をさ噛みに
噛んで五人の男神を産む話でもって、姦淫の深刻さを数理哲学的に浄化してしまっている。
姦淫3:受精5。無闇に姦淫を正当化するのではなく、姦淫よりもさらに優位である受精の
実在をゴロリと提示することによって、無理のない限りでの女性性の優良さを示しだす。
確かにちゃんとウケヒの本意を汲み取れたなら、アマテラスの権威が失墜することなど
少しもなく、むしろ強化されるし、宗像三女神もやっぱりありがたい神様だと思い続けられる。
ウケヒの描写の完璧さのせいでもあれば、伊勢神宮や厳島神社の美麗さのせいでも
あるだろう。とにかく子を産む所までこぎつけた女は、神道の奥義の下では全く不浄である
こともなく、逆に最高神とすらなれてしまう、慰めでもなんでもない絶対的な権威の確立。
235 :
考える名無しさん:2009/02/17(火) 19:45:03 0
宗像三女神の話からしても、記紀神話が漢字文化圏の影響を受けているのは明白。
古事記の序文にも日本書紀冒頭にも「陰陽」という言葉が出てくるし、
スサノオのオホゲツヒメ斬り殺しによる穀物発祥譚なども、弥生系渡来人による
稲作の伝来が織り込まれている。一方でスサノオによるヤマタノオロチ退治は、
縄の不当利用(奴隷的拘束)による乱れた治世を全滅させる意味合いがあり、
縄目文様を土器に施す縄文人の穏健主義とも符合している。
決して日本独自なだけではなく、極東社会全体の文化文明を総括した上で、
注連縄信仰などの下で独自性をも打ち出していることこそが神道の真髄だといえる。
あんまり中国や朝鮮あたりとの連携性を主張すると、右寄りの国粋主義者などは
反発するのかもしれないが、決して今の共産主義やプロテスタントの中朝韓ではなく、
陰陽道や儒教を生み伝えた、古式ゆかしい極東社会の善知識(よき友)としての連携。
隣国であるが故の緊密すぎる交友への危険は、聖徳太子の遣隋使よろしく、仏教という
日中朝韓いずれにとっても外来である教学の下でひとしなみとすることにより解消する。
236 :
考える名無しさん:2009/02/17(火) 20:45:54 0
「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。
摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、
貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごし」
教行信証・行文類二・一〇二より
熱心に少年を込めさえすれば、煩悩なんかあったって全然大丈夫だって。
暗雲や霧が立ち込めてたところで日中は明るいからと。
選択集における念仏の水月への喩えにも類似する、日月への絶対的な信頼。
どこか(西の果て)に無量光明を放つ絶対的な仏がいるという信念が
いかなる貪欲や迷妄の下でも良心を失わせない、朗らかさの源となる。
故にこそ「極重の悪人はただ仏を称すべし(同一〇二より)」ともいう。
弥陀の名号を念じられるぐらいであれば、もう心配はいらないから。
237 :
考える名無しさん:2009/02/17(火) 21:16:25 0
「信仰の洗練」こそは、真宗の本旨ではないかと思う。
まだ教行信証読破してないんで断言はしないが、
>>236の引用のちょっと手前(九八)にある
念仏とそれ以外の善行の対比の圧倒的な羅列などからして、思考や言動が未だ
迷妄の中にある凡夫に対して「ただ信じる」という一向な性癖だけを植え付ける。
あまりにも一向過ぎて、信仰というよりはもはや「信念」といったほうが適切かもしれない信仰、
親鸞はもちろんそれを浄土教に則って示し出してはいるんだが、ただ信念を持って
ことに当たるという性癖は浄土教のような宗教だけでなく、農作業のような実地の重労働にも
そのまま流用できるから、実際問題として大変な仕事をこなさなけりゃならない
百姓などから多くの支持をかち得ることとなった。
決して高級な教学ではない。僧籍剥奪下の流罪者が始めた上、念仏以外の修行も何もない、
簡易廉価版の限りを尽くした仏教であり、戦国期には信者の一揆により、家康公らをも
悩ませた一向宗こと浄土真宗が、宗教的な敬虔さが最大級に忌避排除されている現代において
臨時的に最大最強最高の教学となっている。一切の思考や言動を拘束しない、悪人が悪人で
あるままに帰依できる「信念貫き講座」が、粗悪な信念ばかりが横行する今の社会に楔を打ち込む。
信念の根拠が阿弥陀仏への帰依であることが、それ以外への帰依であることと比べて桁外れの
重みを持つ。密教や禅とすら渡り合っていた教義に司られている信念、当然のこととして強固となる。
238 :
考える名無しさん:2009/02/17(火) 21:22:56 O
>最大最強最高の教学になっている。それを左にもっていけよ。
239 :
考える名無しさん:2009/02/17(火) 21:29:06 O
右は鬼子母神だろ。頭かち割るという。それを愛にもっていくといい。つまりは日蓮の悪い信念を女は怒りつつ汲み取ったんだ。悪いぞ。女は日蓮という一個の崇高な個体を好きだったんだ。業が深い
240 :
考える名無しさん:2009/02/17(火) 21:39:54 O
それが日蓮であるにしろないにしろ大きくみれば法華経と日蓮に絶対帰依していた男を愛した女であったことには違いない
241 :
考える名無しさん:2009/02/17(火) 21:41:26 0
神道に始まり、真宗に終わる人類の文明。
世界最古の文明である縄文土器に由来する神道と、
文明の無益な増長への臨終宣告となる悪人正機を擁する真宗。
どちらもそんなに重厚ではない上、縄文含む土器文明というのは、ピラミッドなどと比べれば
女性性に帰するものだし、悪人正機も華厳経や法華経の豪華絢爛さからすれば
あまりにも粗末過ぎる頓知だと言える。文明として褒められたものではない類の文明だが、
より視野を広げて考えてみれば、ピラミッドだの大部の経典だのといった
資材や文字列の構築というのは、剣を振り回してりゃそれで満足な勇猛な男などからすれば
女々しい類のもの。文明というのは、構築すればするほど本質的には女々しくなってしまうもの。
一番男らしくありたいというのなら、文明性を全否定するに尽きるが、剣で鉄砲や大砲に
必ずしも対抗できるわけでもないんで、文明の際限のない膨張に対する歯止めとして
最低限かつ有効な反文明的文明の楔、縄文土器や悪人正機を文明信仰集団に打ち込む。
文明を信仰しないことこそが、文明を信仰する以上の信念になる。
一概な文明性を否定して、最低限必要な文明だけを選択する
知足の精神こそが人類にとって最大級の信念となる。
根本の所に、全文明に対する潜在的な反骨心のある日本人。
奴隷拘束のような不当行為の下でしか、目に見える文明の
発展はないのだと、ハッキリとではなくとも感付いている。
だからそれを膨張させる誘惑に囚われながらも、いつだって
後ろめたさを感じている、その不当な文明構築への後ろめたさ
の表現が念仏という形で広まりもしたんだろう。念仏でしかない
にもかかわらずではなくだからこその、その程度に留め置く美学。
日本人でなけりゃまだ分からない、内奥に全文明の否定を含有する
ものの考え方。とにかくまずそれだけの信念にあり付かなければ。
般若経が人類史上最高の古典なのも、その内容が絶無だからだ。
一切の人類文明を絶対的な無に帰することでこそ、真の福徳が獲得される。
ゴチャゴチャと無駄なことを考えなくていい所にあらゆる人類にとっての福徳がある。
人類自身の福徳のためにはむしろ、人類が織り成す業は完全なる絶無であれ。
宇宙の真理と一体となって自我すら消え失せる、不虚なる真実にあり付く。
信仰と関係のない所にある愛は、最高♪
信仰の車椅子でもあてがわなけりゃやっていけないような不具の愛はいらない。
身体が不具なのは仕方なくとも、愛までが不具なのはもはや救いようがない。
ざいふく〔罪福〕 罪とは苦果を招く悪業をいい、
福とは楽果を招く善業をいう。
すなわち善因楽果、悪因苦果の道理。
(「浄土真宗聖典註釈版第二版」巻末註より)
「方便化土」だってさ。罪福に基づいて自力で往生した浄土は。
誰しもが他力の信心を得ることで初めて「真実報土」に往生できるとさ。
仏智のみを信じ、偏に念仏の限りを尽くすことで。
あらゆる雑業を廃すことによって。
親鸞が悪人正機で往生先として説いているのはこの内の「真実報土」のほう。
罪福すら理解できずに悪業を重ねて苦しんでいる悪人こそは
真実報土への往生への素質に恵まれている、故にこその悪人正機。
無量寿経下巻の四二−四三にもまさにその通りの記述がある。
全く悪人正機も親鸞の創作ではなく、浄土教の本旨に基づいている。
自力の往生の上に他力の往生を示した当然の結論なわけ。
罪福の因縁を信じるのは華厳経(十地品)のほうなわけだが(教行信証・化身土文類六・九四)。
華厳の行者のさらに上に、念仏の行者、浄土の信者が確信的に上乗せされてるわけだが。
自力の仏者と同等かそれ以上の仏法への理解があった上で、
行だけを他力に転ずることで念仏とせしめている。
教行信証における無量寿経と華厳経らの厳密比較によっても明らかな、
易行道があくまで難行道への熟達によって切り開かれていることの根拠。
悪人正機⇔無量寿経⇔華厳経、般若経等という関連付けから、
確かに悪人正機もまた正統な仏法の一つであることが分かる。
やることは念仏だけなのにちゃんと仏教でもある、
ありえないことを実現してしまった親鸞マジックの種、教行信証。
読んでもやっぱり嘘ではなかった、精緻さの追求の突き抜けた所にあったどんでん返し。
「またのたまはく(大経・下)、『この諸智において疑惑して信ぜず、
しかるになほ 罪 福 を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。
このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず』と」教行信証・化身土文類六・四〇
「またのたまはく(華厳経・十地品・晋訳)、『占相を離れて正見を
修習せしめ、決定して深く 罪 福 の因縁を信ずべし』と」同・九四
両方とも親鸞聖人の自論ではなく、あくまで引文。
ただ、「罪福」に関する大経(無量寿経)と華厳経の記述の照合が
教行信証によってなされたことで、初めて悪人正機が提示されてもいる。
単なる頓知ではなく、厳密な仏説として醸成された言葉でもあった。
お坊さんは何もかもお見通しだ。
罪福の道理ぐらい750年以上前に確信してたとさ。
結論:
悪人正機は厳密な仏説でした。
しかも法然や明恵以上の深遠な経典理解に基づいた。
決して親鸞聖人の独創ではなく、かといって全くの剽窃でもない、
正統な仏法への精緻な考察が導き出した不可避な結論であります。
251 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/02/20(金) 23:14:00 0
浄土系は詳しくありませんが
正にに「信」を極めた聖人様ですね。
親鸞は華厳宗徒ではないので「罪福の因縁」を信じているわけではない。
罪福の因縁が実在するにも関わらず、罪悪を為してしまう愚鈍な凡夫までが
阿弥陀仏の取り計らいにより真実報土に往生させてもらえることを信じている。
故にこその南無阿弥陀仏であり、悪人正機。金剛の信心とはまさにこのことを言う。
罪福の因縁を知らぬ間だけ信じ込んどいて、
知った瞬間にポッキリと折れてしまうような代物ではなく。
重ね重ね持論をひっくり返して恐縮だけれども、
念仏宗門への“猥りがわしい”処罰の一番の責任は、
やっぱり法然にあるのではないかと思う。
天台宗も真言宗も禅宗も念仏を否定はしていない。
ただ、念仏こそが正行であるとし、それ以外の一切の行業を雑行だ助業だと
決めつけた法然の選択本願こそが糾弾され、それに馬鹿正直に付いて行った親鸞までもが
とばっちりを食らって流罪の目に会った。恵信尼と結婚したのもその後で、
教行信証も流罪や僧籍剥奪の後に(一旦は)仕上げられている。
「善本を修習する」という行すらも超えてしまう信心が、
公的な宗教教団としての体裁を排した所で初めて提示されている。
信が行よりもさらに人間の基礎を形作っているとなれば、
何らかの行を信者に強制することで代価をせしめる
通常の宗教教団にとってはたまったもんじゃない。
本当は信が行より上であるにしても、体裁上は行が信よりも上にあるとしておくことで、
行の先行による信の堅持を画策するのが普通に言われている「宗教」というものの本質。
明恵の善人正機などもそのような行の信に対する先行を前提として発せられている。
でも親鸞は違う。元より一切の行は信に先行しないのであり、
信すら堅持できれば行は念仏だけでもいいのだとする。
信が行を超え得ることが教行信証で示された上で、悪人正機もまた示されている。
信と行の優先順位が覆ってしまっているが故に明恵との意見もまた相反している。
ただ信が行よりも上であるというのは、方便を抜きにすれば確かなことなので、
方便ではない真実に基づいて提示されている真宗の教学こそは、正に読んでの通り「真の宗教」であり、
それ以外は例え顕教中最高峰である華厳宗ですら偽宗扱いとなる。
全ての宗教まがいの偽宗を終わらせる真宗。仏教はまだ哲学色の濃い教学なので
生き残りようがあるが、本当に宗教でしかない偽宗等にとってはたまったもんじゃない。
純粋な学術のフリをしといて、実は不当利得等を正当化する偽宗との二人三脚でしか
(コストパフォーマンス上)やっていけない洋学などにとっても大打撃となる。
純粋な学術として見た場合の東洋教学の長所は、そのコストパフォーマンスの良さにある。
根本的に東洋教学と洋学とは、その学術的な構造が違っていて、
洋学が「思想哲学」だったり「政治宗教」だったり、
「政治哲学」だったり「宗教思想」だったりするのに対し、
東洋教学は「宗教哲学」と「政治思想」、この二つだけに尽きている。
政治が杓子定規な哲学によって司られたり、宗教が夢見心地な思想で済ませられたり
することはどちらも現実に即していないので、莫大な費用がかさむ。
かといって思想と哲学が固着しっぱなしで世の中に還元されなかったり、
そのせいで悪性の偽宗教に政治が乗っ取られたりしてしまっても地獄と化す。
前者の政治哲学や宗教思想は主にプロテスタントの体制であり、
後者の思想哲学や政治宗教は初期のカトリックの体制などがこれに当たる。
現代は米英らによる、前者のプロテスタント型の体制が優勢なので
政治哲学、宗教思想共に莫大な費用を浪費している結果、アフリカやイラク、アフガンなどに
飢饉や戦乱のしわ寄せをもたらす結果となっている。
このような地球全体レベルの問題の解決のためには、
今の政治哲学や宗教思想に即したプロテスタント型の体制でもいけなければ、
思想哲学や政治宗教に即した初期のカトリック型の体制でもいけない。
哲学も思想も宗教も政治も平気でスワッピングしてしまう
洋学流の学術体制を全面的に改めて、仏教に代表される宗教哲学や、
儒教に代表される政治思想を選択することによってこそ
現実に即した低コスト高パフォーマンスの体制が確立される。
哲学を追い求めるものは宗教的にも敬虔であり、政治を司るものは概括的な思想によって
常に広い視野を保ち続ける。狭い視野の持ち主によって政治が司られたり、
浅薄な夢想の持ち主が宗教家を気取ったりすることの防止に東洋教学がなる。
教行信証があまりにも重すぎたんで、気晴らしに先に五経の内の「書経」を読んでるが、本当に軽い。
同じ漢文でも(読んでるのは訓み下しだが)儒書と仏書では内容が全く異なる。
儒者はあくまで現世の問題を現世の言葉で語るが、仏者は形而上の問題を形而上の言葉で語る。
完全に役割分担が働いていて、干渉する所がどこにもない。
政治思想と宗教哲学、自分たちの本分を見定めてそれらに徹しているんで
根本の所(世俗か超俗か)で相反しているにも関わらず良きライバルとなりうる。
逆に政治も宗教も思想も哲学も何もかも傍観しようとする覗き屋こそは共通の仇敵ともなる。
漢文でしかも中身まで重い仏典は訓み下しで、中身は軽くて分かりやすい儒書などは
原文まで遡ってみたり。何もかもを征服しようとする僭越さをまず控える所から始める。
「薬あるとて毒を好むべからず」
念仏以外の善行が真実報土への往生の根機にならないだけでなく、
積極的な悪行もまた往生に近づく理由となりえない。
結局は念仏を除いて真宗のためにすることなんて何もないということになる。
何をしようが何をするまいが、極楽浄土への往生とは関係がない。
ただ浄土への往生を一心に念ずることのみが真宗への帰依の根拠となる。
できそうでできないこと、ただ一つのものだけを信じて念じ尽くすこと。
例え苦行だろうとも、何らかの行為によって気を紛らわしてたほうが
何かを信じる上では助けになる。もし信仰のためになすべき行が、犯罪とか愛執とかの
物質的な快楽に結びつく行であれば、もはや信のための行ではなく行のための信の様相すら呈する。
そのような行のために蔑ろにされた信というのは、それ自体が独立して価値を持つ信と比べた場合には
苦悩とすらなってしまう。弥陀への帰依という信仰が「信楽」とすらなるのに対し、
犯罪や愛執のために蔑ろにされている信仰は「信苦」とすらなる。
信と行とがごちゃ混ぜの状態では、信の−と行の+でプラスマイナスゼロだったのが、
行が差し引かれて信のみとなった結果一概な−となってしまう。
260 :
考える名無しさん:2009/02/21(土) 13:56:39 O
悪人でも入信できて、しかも入信後も悪人でいられるにも関わらず
真宗の信者が聖書教徒や創価学会員ほどには悪行に手を出さないのは、
積極的な悪行によって「信楽」が毀損されることを厭うからだ。
至心、信楽、欲生の三心一体。阿弥陀仏への帰依が本当の真心に基づけば(至心)、
一切の疑いを捨て去った心(信楽)に目覚め、極楽浄土への往生を求む(欲生)。
これらの三心のうち、至心と欲生とは信楽の中に収まり、一体をなすと親鸞聖人はのたまう。
疑いを持たない晴れやかな心でいることが「信楽」だという。信じる楽しみ。
罪福の因縁までをも慮った上で悪人にまで往生を約束して下さる、
真正なる救済者に帰依することがそれだけでも楽しい。
信じることが苦しいから報われるのではなく、信じることすら楽しいから報われる。
信じることが苦しい以上は、信じることでなしている行も苦しければ、信じている内容も苦しい。
逆に信じることが楽しい以上は、信じることでなしている行もまた苦しくなかったり、楽しかったりするし
信じている内容もまた楽しい。信じるだけでも楽しいのはやっぱり、
阿弥陀信仰が華厳思想含む正統な仏法に正統に上乗せされた信仰だから。
「他力の仏教」というものが、いかに世界的に見て異様なものかということ。
いま人々が通俗的な意味で「他力本願」という場合、多くの場合は「責任の押し付け」という意味で用いる。
通俗表現だけでなく、世界的に見ても、他力信仰というのは自分たちの責任を他者に押し付ける
という場合がほとんどであり、聖書教などはその最悪例であるといえる。
しかし仏教の、浄土教でいう他力本願は決して自己の責任の他者への押し付けではなく、
仏法の追求とそれによる(自分たち含む)衆生の救済のみを阿弥陀仏にお任せするということ。
「自力の禅、他力の浄土」なんていう言われ方がなされているが、
禅に限らず仏教はどれも自力の教学であり、他者への責任の押し付けなどもっての外。
「そんな悪心は仏門に入る前に捨ててしまいなさい」というのが最々前提としてあって、
にもかかわらず入信後に積極的な仏法の探求をするわけでもない、
そんな暇も余裕もない人々のための入信対象として、他の宗派と比べれば
比較的消極的な教義(専修念仏)をもつ宗派である、浄土教が他力と呼ばれているだけのことだ。
262 :
考える名無しさん:2009/02/21(土) 15:38:25 O
真古文尚書(書経)二・皋陶謨第二節において、禹は帝や皋陶に己の任務を問われ、
「言うまでもないことですが」と前置きした上で、「洪水が山を覆うほどに溢れ返りましたので、
水路を切り開き、海や川に至らせて田畑を治め、食料も財貨も
下民にまで蓄えさせて安定させるよう画策しております」という。
一部の民だけを船に載せて生き延びさせる、ノアの箱舟神話が創作されるよりも
さらに昔から、ちゃんと治水をして全ての民を安穏に導く教えがちゃんとあるわけだが。
現存の書経は半分ぐらいが偽古文だが、これは真古文。
論語や孟子にも多くが引用されている、おそらく三千年以上前の記録。
内容は平易であっても、古から伝えられてきているだけの意味はちゃんとある。
不当な後発幼稚作文への退場勧告などの。
263 :
考える名無しさん:2009/02/21(土) 16:25:33 O
続いて真古文尚書三・禹貢では、禹の行なった治水工場の模様が
それぞれの地域の地形や土質も踏まえた上でこと細かに記述され、
中国全土が平定されたことをもって締めくくる。
モンスーン地域特有の多様な風土や気候が丹念に織り込まれ、
それぞれの地域にあった統治がなされることで平定が達成される。
極めて現実に即した治世の取っ掛かりの有り様であり、
「約束の地を与える」だの「富ませる」だのと空手形ばかり発行する
某作文などとは全く違う、堅実の限りを尽した古の伝説(←ここ重要)。
日本書紀や風土記もこのあたりを参考にして書かれたと思われる。
同じ農耕民族として親近感を抱かせる内容。今の産業汚染真っ盛りな中国とは大違い。
264 :
考える名無しさん:2009/02/21(土) 16:51:39 O
続いて四甘誓、五湯誓。
似たような内容の民への命令文ではあるが、
簡単に言えば「言うこと聞かなきゃ奴隷にして恥ずかしめるぞ」というもの。
恥ずかしいことなわけだが、奴隷であることは。
太古の昔から気高き極東民族にとっては、相手が王であれ神であれ何であれ、
奴隷にされることなどは恥辱の極みでしかないわけだが。
自分たちが統治する社会の人民などを平気で奴隷扱いするような神経は
ヘレニズムやヘブライズムにはあっても、本来の中国や日本にはない。
例え支配被支配の関係にある者同士だろうとも、ある程度の名誉は守る。
それは何よりも自分が奴隷となるのが嫌だからだ。
自分が嫌だから他者を奴隷扱いするのも嫌だ。
奴隷という概念に根本から忌避感を抱いている、
それだけの気高さがあるから奴隷にも奴隷の主人になるのも拒むもの。
児童書(星の王子様とか)から奴隷根性を植え付けようとするような
野卑な神経の持ち主が相手だろうとも、自分たちの姿勢を崩すものではない。
265 :
考える名無しさん:2009/02/21(土) 17:30:33 O
六盤庚では、治世に励む有り様を農夫の畑仕事に喩える場面がある。
支配者が被支配者の仕事を見習っている、こんな虚心坦懐な話が
3300年前の中国ですでにあったわけ。
ちなみに禹は4000年前、湯は3600年前。
書経の内容が史実通りではないにしても、全くの創作と呼ぶにはその内容が現実的過ぎる。
ここに書かれているような治世がなされれば確かに世の中はうまく治まり、
何も問題なく人々が平和に暮らせる。
何時の世にも普遍的であり続ける概括的な政治思想、
しかも世界最古級の古典文献。当然のこととして禅譲なされるべき相手。
266 :
考える名無しさん:2009/02/21(土) 18:55:56 O
十四康誥第三節においては、君子が下民に無分別な重罰を科すことを慎むよう戒める。
その最大の理由は「民が重罰を科した君子を恨むことで治世が乱れるから」。
支配者たる君子もまた世の中の構成員であり、己の振る舞いを反故にしてはならない。
それはあくまで世の中全体の福徳のためであって、決して形而上の問題などではない。
観測者(君子)と観測対象(民)が不可分の関係にある、
不確定性原理にも通ずる現象理解がすでにここにあり、量子論にも影響を与え、
書経にも大量に出てくる易占の活用がまんざらでもないことが分かる。
徳治とは、万物斉同の陰陽五行から不可避に導き出される結論であると。
[原文]人無水監、當于民監。
[訓み下し]人は水に監みる無く、當に民に于て監みるべし。
[訳文]人は水〔かがみ〕に〔姿を〕うつしてみるのではなくて、
人々のさまに〔自信のなすべきことを〕鑑みなければならぬ。
(真古文尚書十五酒誥第四節より)
これこそは徳治思想の基本理念といえる。
政治に対する広範な理解が自ずと統治者に徳性を要求する。
決して理想主義などではなく、現実の社会への透徹した理解こそが導き出すもの。
統治者と民の心が分裂した社会が乱れるのはいつの世でも同じことだ。
十五酒誥での禁酒もそうだし、二十無逸第二節での王の享楽と治世の成功の反比例もそうだが、
中国の政治思想は統治者に対して極めて禁欲的な姿勢を要求する。
下民でも助言者でもなく、統治者こそが最もな聖人であること、
実際にはなかなか無理なことであっても、理想としてはそうだということ。
支配者こそが己が身を正すことで被支配者に対する模範とする。
被支配者ばかりに規律を強制して支配者は遊楽に耽る場合のなんと多いこと。
だからって革命を起こして共和制に移行するなんてのも対処療法でしかない、
本当は支配者たち自身が自主的に明徳を修めることこそが最良に違いなく。
孔子もある程度は酒を嗜んだりして、結果として実政も執らなかった。
禁欲の強制という意味では、君主に人身御供たることを強要するのは中国なども同じであり、
ただわざと享楽に耽らせといてからギロチン台に追い込むような不埒な真似をしない点が違う。
二十二多方第五節で、成王は多士らに対して、「わしの言う通りにしなくて治世が乱れ、
責任を取らされることになろうともわしを怨むなよ」と言う。
他にも易占から天命を受け取ろうとしながら「あんまりアテにはならん」と白状したり、
尚書における王侯らの言行はどれも「正気」に満ちている。
信徒が言うことを聞かないのでキレて律法を刻印した石板を叩き砕いた
モーセのようなヒステリックな要素はどこにもない。
個々による素質や能力の違いはあれども、誰しもが徳治を目指す中で
無責任な言行を極力控え、思慮分別の限りを尽くす前提がはたらいている。
何よりも最前提の理想として常にある徳、
徳性に欠ける人間などですら「暴徳(二十三立政第二節)」と形容される。
政治という人間の問題を考える上で徳を抜きにするのは禁物、
抜きにすれば即それは犯罪となる。例え書き留めるだけであっても。
今の法律制度の理念の一つとしても唱えられる「疑わしきは罰せず」という格言、
恐らくこの発祥なのが二十五呂刑第五節における罰則の記述。
「真に罪ある者を罰する」という同第六節の記述でも補足されている。
今の社会制度においても、どう考えたって当たり前な部分などは、書経含む昔からの古典によっている。
ただ「罪を犯させて罰を科す」ほどの不当性の根本からの増幅などが書経からは
逸脱していて、そのような部分は結局、モンテスキューとかヴォルテールあたりの
後世の洋学者が余分に付け足したもの。
書経だけでも理念としては十分な所を、改善者面して実は改悪してるだけでしかないような場合がほぼ全て。
すでに3000年前に完成されてしまっている古典を、いかにその真価を損なうことなく
現代の社会問題などに応用するかを考えることこそが賢明となる。
真古文尚書最終章二十八秦誓の最後の文
「国の兀*臼*は、曰に一人に由り、邦の榮懷も、亦一人の慶に尚る(*変換不能文字の簡略)」
一国の不安も安楽も、結局は一人の人間の気持ちに左右される。
陰鬱な人間が支配すれば陰鬱となり、明朗な人間が支配すれば明朗となる。
どう考えたって陰鬱な人間に支配されている今の世の中。
「全世界の傍観者」ぶって、世界を好き勝手にひっかき回してやろうなんて考えてるとき
いくら実社会への操作が善良ぶってたって、その人間の内心は陰惨たる。
そういう己の全てを投げ打っていないような、傍観的な人間による支配だろうとも
結局は当事者が裏で溜め込んでいる悪心までもが反映されて、陰惨な社会を呼び招く。
そうやって傍観者ぶるような人間は、さっさと出家でもして世の中との直接的な関係を
一切断ち切るべきなのであって、傍観者気取りにも関わらずまだ社会に参加しようとするような奴らが、
傍観者であるに応じて社会から不当利得を自分の側に吸い上げようとする本質的犯罪者となる。
中途半端がいけない。世俗か超俗かの二つに一つ。
どっち付かずで結局はどちらの利益にもならない有り様こそが人類文明の不当性の起源だ。
偽古文尚書も一応読みはするが、如何せん偽作なんで
よっぽど琴線に触れた内容でもない限りは引用しない。
浄土教に関して言えば、いま現時点でもうすでに
善悪二元論を基調としたメタ=ゾロアスター教徒全員が強制的に真宗に改宗させられている。
キリスト教徒もユダヤ教徒も、悪人正機の前では自分たちの教義の一切が
無効と化してしまうんで、にもかかわらず自論にこだわり続けようとすればするほど
悪人正機の底無し沼にはまって、深く沈み込んで行く。
仏教全体にとっては、これはむしろ方手間の部類に入る業績。
「罪福の因縁」は大多数の自力仏教なら今でも信じられている。
親鸞聖人に言わせりゃ「方便仮土」でしかないにしても、善いことして楽したい、
悪いことして苦しみたくないと普通の仏教徒は思ってるから、
真宗に負けたことが仏教全体への怨みにまで及ぶのは控えられたい。
・・・さあ、これから大変だな、西洋20億の新・真宗門徒の手なずけ。
一向一揆にも手こずった、曾ての家康公の苦難が偲ばれる。
偽古文尚書の内容って、簡単に言ってこんな感じ。
ttp://pds.exblog.jp/pds/1/200606%2F25%2F54%2Ff0095754_19331029.jpg 孟子が公孫丑篇や勝文公篇で引用している
「天作?、猶可違、自作?、不可活(天のもたらす災いは避けられても、自分で招いた災いは避けられない)」や
「若藥不瞑眩、厥疾不?(めまいのする程の薬でなければ病気は治らない)」なども
偽古文尚書の八太甲中や十一説命上に載せられている。
全文はあくまで偽作にしても、遺失した部分の真作尚書から古の賢人が引用している
格言などをパズルのように当てはめて、意味のある文章に修復して現存の真古文と併載している。
だから偽古文尚書も全く無視することはできないし、偽作して補修しなければならないほどに
尚書含む漢文が実際の政治などにも本格的に活用されていたということでもある。
文章が全てであり、現実は二の次だなどという夢想を排して、あくまで文章を実用のために
使い回すものだと考えている、世界一現実性に即した文化文明は古代の中国にこそある。
>>273で文字制限に引っかかって出なかった「わざわい」↓
山立
自十
子
275 :
考える名無しさん:2009/02/25(水) 11:19:04 0
>>139の順序で「浄土文類聚鈔」も読了。内容はほとんど教行信証の行信巻と変わらない。
作中の「念仏正信偈」も中身だけでなく内容まで「正信念仏偈」とほぼ同じ。
商業ペースの文筆に慣れてしまっている現代人には、あまりにも愚直すぎるものの書き方のように
思われるが、正信偈のように詩頌の形式をとったり、
>>206や
>>236でも引用したように
比喩表現なども用いて読者の理解を助けようと試みた形跡が多々見られる。
法然上人も選択集で引用していた善導大師「散善義」における「二河の比喩」などは
教行信証でも浄土文類聚鈔でも再三に渡って引き合いに出されている。
276 :
考える名無しさん:2009/02/25(水) 11:20:14 0
比喩による教義の説法というと、どうしても福音書におけるイエスの言行を
思い出しがちになるが、仏教や神道などで示される比喩とは全く意味合いが異なる。
もっと正確に言えば、福音書における記述などを「比喩」と呼ぶのは、日本語における
「比喩」という言葉の本意からすれば間違っている。「confession」が「懺悔」と訳されたり、
「morality」が「道徳」と訳された場合などと同じで、西洋でいう「metaphor」が「暗喩」と訳されたのも
明確な誤訳であり、metaphorは「allegory」などと同じでただ「寓意」と訳すのが本当は正しい。
福音書におけるmetaphorは日本語でいえば「寓意」であり、直喩暗喩いずれであれ
「比喩」としての条件を満たしていない。というのも、例えばイエスの磔刑などは、本質的には
「姦淫の受け入れ」を示していることが明らかなのだけれども、姦淫の受け入れが磔刑に
当てはめられることは、比喩対象(姦淫)と比喩内容(磔刑)の存在性が覆っているから。
「書経」の真作部分にも書かれているように、刑罰とは本来十分な裁量を取りはかることで
受刑者や民衆の恨みも買わず、かといって甘やかしもしない中庸に基づくことこそが肝要なのであって、
刑罰が姦淫のごとく虐待的であることは、刑罰の本来の存在意義に反している。にもかかわらず
姦淫を刑罰の寓意で示したりしてしまったならば、姦淫のほうが何か刑罰のような重大な
倫理性を持つかのように思い込まれたりする上、刑罰のほうまでが姦淫のような淫靡な意味を持つ
のだと思い込まれてしまう。姦淫と刑罰が寓意で連結されることによって、両者の本義が濁されてしまう。
277 :
考える名無しさん:2009/02/25(水) 11:21:41 0
逆に記紀神話における高天原でのスサノオの暴虐(田の畔を埋めたり、下女に陰部を突かせて
殺させてしまったり)などは、これまた姦淫の比喩ではあるが、比喩対象(姦淫)と比喩内容(暴虐)
が全く相反する意味を持っているわけではなく、むしろ姦淫における男性の側の性欲の発露を
「脱糞」に喩えたりと、姦淫の淫靡さをあえて汚らわしさで表現しようとするほどの清浄志向が垣間見られる。
こういう場合は比喩対象が比喩内容によって正されようとすらしているんで、寓意的ではなくむしろ誠意的。
日本語ではこういった誠意的な比喩表現こそを「比喩」と呼ぶのであって、比喩対象と比喩内容が
覆っているような、詐術同然な比喩は「比喩」ではなく「寓意」と呼ぶ。もちろん浄土教における善導大師や
法然上人、親鸞聖人らによる念仏信仰の比喩表現は寓意的ではなく誠意的なので十分に「比喩」と呼べる。
善導大師などは散善義で二河の比喩を記した直後に、それぞれの比喩内容が何を示しているのかを
ちゃんと解説している。比喩表現の姿勢が誠意的であるなら、比喩の意味を暴露したところで少しも
比喩表現の価値が落ちることはないが、寓意的である場合には比喩の意味が暴露された時点で
あっという間に比喩内容の価値がなくなってしまう。もはや完全に明らかなことであるにも関わらず、
イエスの磔刑が姦淫の寓意でしかないことが公には認められようとしないのもそういった理由に基づく。
>>275訂正:
×作中の「念仏正信偈」も中身だけでなく内容まで「正信念仏偈」とほぼ同じ。
○作中の「念仏正信偈」も名前だけでなく内容まで「正信念仏偈」とほぼ同じ。
散善義における二河の比喩、選択集における水月の比喩
>>128、
教行信証における慈悲の父母の比喩
>>206や暗天の光明の比喩
>>236など、
仏教教義における比喩のうち、そのどれもが比喩の本意をこと細かに説明されて構わないし、
神道の記紀神話における姦淫や受精の比喩もまた暴露されて全くいい。
むしろ神話への誤解から皇国主義や右翼へと走ってしまったことへの呪縛が解けて都合がいい。
儒教の比喩などは当たり前の説教の範囲でしかない。
あらゆる東洋教学が比喩や方便の部分からその内実が真面目に説明されることを許すのみならず、期待すらしている。
その期待が叶えられるためには、悪質な比喩である寓意を内包するような西洋宗教共々、
宗教であること以上に重大な意味があるという事実を衆生へと開示しなければならない。
開示によって利益を被るにしろ危害を被るにしろ、
ある種の流れ(止悪修善)を世にもたらすことだけは確かとなる。
280 :
考える名無しさん:2009/02/25(水) 17:03:49 0
281 :
考える名無しさん:2009/02/25(水) 17:04:08 0
282 :
考える名無しさん:2009/02/25(水) 19:43:24 0
【罪福】ざいふく 罪悪と福徳。五逆十悪などは悪い果報を招き、衆生をそこなうゆえに罪であるとし、
五戒十善などは善い果報を招き、衆生を富楽にするので福であるとする。(中村元著「仏教語大辞典」より)
ざい-ふく【罪福】〔名〕善悪の行ないの報いとしてのわざわいとしあわせ。
(小学館「日本国語大辞典第二版」より)
ざい-ふく【罪福】〔仏〕 罪悪と福徳。悪い結果をもたらす五逆・謗法などは罪に、
良い結果をもたらす五戒・十善などは福に入る。(新村出編「広辞苑第六版」より)
仏教語大辞典と日本国語大辞典の説明は、
>>246で引用した真宗聖典第二版巻末註の説明とほぼ同じ。
上記の説明の後に仏教語大辞典は仏典での使用例、日本国語大辞典では古文(続日本紀や今昔物語)
における使用例が挙げられているが、広辞苑での「罪福」に対する説明は上記のみ。しかもその説明も
罪因悪果、福因良果のトートロジーに止まっていて、真宗聖典の巻末註や仏教語大辞典、日本国語大辞典
らにおける善因楽果、悪因苦果の原理の説明にまでは至ってない。キリシタン研究者の書いた辞書なんて
こんなもん。もっとも第五版以前には収録すらされていないんで、故新村氏自身は関知すらしていないが。
なかなか字面を見ただけでは本意の汲み取りにくい「罪福」という言葉。「罪を犯す幸福」とすら
誤読してしまいかねないが、ちゃんと善因楽果、悪因苦果という意味を持っていて、教行信証における
無量寿経と華厳経からの引用など(
>>249)を見ても、親鸞聖人が罪福の因縁の実在を確認した上で
念仏信仰の有効性もまた認めていることがわかる。決してまぐれ当たりなどではない真実の宗教の擁立。
283 :
考える名無しさん:2009/02/25(水) 20:06:34 0
>282
さらにいえば、仏教語大辞典と日本国語大辞典の内でも、日本国語大辞典の説明のほうが秀逸。
「罪福」をもはや仏教用語ではなく日本語として説明していて、仏教上の戒律などばかりではなく
あらゆる善悪に対して善因楽果、悪因苦果の道理が通用していることを事実上認めている。
中村元氏も東洋教学を洋学的手法で研究しようとするあまり、東洋と西洋の道理の共通性、
あるいは東洋の道理による西洋の道理の内包などは想定に入れられなかったところがあるよう。
もはや洋学的手法を排して、東洋教学の手法から洋学を鑑みてみたときに初めて、東西において
罪福の道理が余すことなく共通していることが分かる。東大が寺をではなく寺が東大を研究すると。
284 :
考える名無しさん:2009/02/25(水) 20:21:23 0
さらに細かいことを言えば、日本国語大辞典の説明も、本当は「善悪の行ないの報いとしてのしあわせとわざわい」
であったほうがもっとよかった。わざわいとしあわせではなくしあわせとわざわい。これぐらいの判別は
誰にでもできるにしろ、善因楽果や悪因苦果と善因苦果や悪因楽果では全く意味が逆になり、
しかも善因苦果や悪因楽果を信じてやってきたのが全西洋だったりするんで、善と楽、悪と苦の連動を
罪福の意味として厳密に説明したほうがいい。結局その説明をちゃんとできてるのは真宗聖典巻末註
>>246だけ。
本願寺派真宗聖典の編纂者である教学伝道研究センターに、仏教語辞典も国語辞典も作り直してもらわなけりゃ。
>>78 スレ違いだが、トルストイ全集の日本語訳って19巻+補巻だぞ?
同じぐらいの分量の製本で吉川英治全集48巻、山岡荘八全集46巻だぞ?
120巻って作品数のことじゃないのか? 超短編なんかも含めた。
ちなみに吉川は長編80編、短編180編以上。長編の中には
「三国志」のような聖書以上の分量の大長編も含まれる。
大人気ない感じもするが、書こうと思えば書けるって意味だけ。
分かりやすくて面白くて善良な非・純文学の大海のご紹介。
286 :
考える名無しさん:2009/02/26(木) 20:56:07 0
仏教や宗教全体における浄土教の立場は、
武道や格闘技全般における合気道のそれに似ている。
合気道家が総合格闘技などの試合に一切出ないのは、自分から仕掛ける攻撃技が皆無だから。
従来の格闘技が攻撃と防御のバランスを取ったり、もしくは攻撃に特化したりしているのに対し、
合気道は本物の戦闘における護身、刀や薙刀で攻撃し合う場合の防御を司るという
本来の実戦柔術としての体裁を保っている。故に攻撃を素手で試みようなどとはしないが、
防御に関しちゃ槍でも鉄砲でもなんでも来いなわけで、例え相手がボクシングヘビー級の
チャンピオンだろうが、攻撃してきたのを組み伏せて倒すのであれば合気道家が勝ててしまう。
完全に防御技に徹することで、攻撃技を多少は内包しているあらゆる格闘技よりも(先に仕掛けられて
きた場合には)絶対に上に立つという反則的な割り切りが、浄土教における絶対他力の教えに
理念としてはほぼ符合している。自力で高尚な仏法を学び取り、即身是仏即身成仏を
叶えようとする野心を一切排する代わりに、自力の人間ならどうしても疎かにしがちな信心だけを
念仏によって養う。般若華厳法華その他、大部の経典への哲学的な探求は人任せとして
自分たちは阿弥陀仏への信念一辺倒となる浄土教が、自力も他力もごちゃ混ぜになっている、仏教
に限らぬあらゆる宗教よりも、信仰の優劣という最々終局面における裁決においては絶対優位となる。
合気道には前提として武器による攻撃があり、浄土門にもまた前提としての聖道門がある。
腕力による攻撃も自力のストイックな修行も無駄なもの扱いされてしまう近現代の反・士道社会で、
あらゆる格闘技や宗教が有名無実と化してしまっていると思われている中で、絶対防御や絶対他力
に徹している合気道や浄土教が未だに輝きを失うことなく、いやむしろあらゆる現状の人類文化文明
における究極至極無上無辺の存在と化してしまっている。
合気道は精神主義、浄土教は信仰宗教。前者は神道より派生し、後者は仏教より派生している。
まったく扱っているものが別物であるが故にこそ共存できる神仏の本質が図らずとも示されてもいる。
287 :
考える名無しさん:2009/02/26(木) 21:50:13 0
仏教の信仰もそうだが、神道の精神主義も一応「宗教的」ではある。
インド教とならぶ数少ない現存の「自然宗教」の一つであり、
教義への信仰すら自然に発生する限りで正統でありうる。国家神道なんかは別。
自然宗教ではなく、創唱宗教ですらない、信仰的な宗教であることを
完全に払拭した人類史上初の事例が、孔子によって興された儒学(儒教ではない)。
鬼神を尊びこれを遠ざく。宗教信仰を存在としては認めつつも自分たちはそれを選択しない、
宗教とは無縁なところで人道というものを論及していく初めてのとっかかりとなったのが「論語」。
それ以前の尚書含む五経などの記述は、卜占とか天命とか鬼神への恐れとか、
かなり宗教的な記述が散りばめられていて、まだ信仰を抜きにした論及にまでは至っていない。
それが論語含む四書までいけば、もはや完全な学術書として扱えるほどの無信仰が確立されている。
孔子より若干年下なソクラテスの論及を記述した「国家」などは、哲人王のあり方を一応非宗教的な
説明の仕方で長々と述べてはいるが、最終章になると途端に鬼神信仰一直線な迷妄が展開される。
結局膨大な概念遊びを好む人間の内心ってのは、いつだって鬼神との戯れの下にあるのであって、
宗教的な記述がほぼ完全に排除されている(ソクラテスの又弟子の)アリストテレスの著作なども、
論語に比べればまだまだ概念遊び真っ盛りな内容なので、この辺のギリシャ哲学と中国思想とで
どちらがより非宗教・無信仰的だったかとすれば、中国思想のほうに軍配が上がるもの。
儒学に始まる東洋思想の非宗教・無信仰は真正で、本当に鬼神との縁を根本から切っている。
対してギリシャ哲学に始まる西洋哲学思想の非宗教・無信仰は仮性で、文面では鬼神への
信仰を排除しているように思えても、いつだって内心における鬼神への囚われがあり、
恐怖と強がりの間を右往左往して概念遊びを構築する「仮面の宗教教義」となっている。
288 :
考える名無しさん:2009/02/28(土) 12:42:09 0
合気道家に戦って勝つのは極めて難しい。攻撃を仕掛けて勝つのはまず不可能と言っていい。
でも合気道家に負けないのは簡単。ただ自分から攻撃を仕掛けなければそれで済む話。
自分から仕掛けて勝つ攻撃は合気道にもないから、たとえ合気道家のほうが
攻撃に転じたとしても、それはまた合気道とは別個の武術となる。
相手が念仏の場合なども一緒。ただ自力の信仰で相手に立ち向かおうとしなければそれでいい。
自分もまた他力に徹して、信仰のために何か積極的な行動を試みるわけでもない、
さすらば結局信仰を競い合うという状況が発生しないので、他宗教間のいがみ合いなどもなくなる。
戦いのため信仰のため、何かを積極的になそうとすることが根本的に己の体勢を脆弱とさせる。
性交もすれば糞尿もする、汚濁にまみれた人間ごときが何をした所で悪質となる。
あらゆる行動は即罪悪であるという前提の下で、それでも何かをするというのであれば、
絶対防御の武術だとか、絶対他力の念仏だとかが、最低限不悪であるが故に最大級に善良となる。
積極的になされるあらゆる攻撃的武術や宗教行為などよりも常に上であり続ける正定業、
つつましやかな言行。つつましやかな時点ですでに上である。
289 :
考える名無しさん:2009/02/28(土) 13:03:30 0
「消極的な言行」というのは、現代においては何もしないことの内に入れられる。
積極的な言行か、消極的な言行を含む何もしないことかの二つに一つ。
前者は開き直った罪悪であり、後者はやせ我慢の善良であると考えられている。
確かに一切何もせず、禁欲の限りを尽くす人生などはやせ我慢となりうる。
でも消極的な言行程度ならやせ我慢などしなくていい上、開き直った積極的な言行により
罪悪を積み重ねまくる場合のような辛苦も負わなくて済む。本当に一切何もしない場合と
何でもやりまくる場合とのどちらよりも、消極的な言行を為すことが実は人間にとって一番楽。
念仏信仰者も合気道家もみんな長生き。言行のどこにも無理がないから健康にもいい。
言行も多少は為しているのに消極的っていう、微妙なたたずみ加減のせいでなかなか注目
されにくいが、故にこそ一番楽であるという見直されるべき点があるのも確か。
>>286>>289 武道には興味ないけれども、素晴らしい内容だと思います。合気道で思想系
というと内田樹しか思い浮かばないのだけれど、あの人の著作にこのようなのが
あるのでしょうか?確か浄土宗についても書いていたようだけれども、未読なので
分からないのです。
というより、浄土宗的なイデアに素朴な懐疑があって。だって、親鸞の歎異抄に
ある有名な「善人が往生するぐらいだから、悪人だって往生できる」みたいな
考え方が、念仏なり、絶対他力信仰だけで得られるというのは、どうも納得出来ない
のです。それだと、秋葉の加藤みたいなのも、酒鬼薔薇みたいなのも、ビンラディン
みたいなのも、麻原でも、毒入りカレーの林マスミでも、この間死刑になった
宮崎勤、三浦和義、誰でも往生し浄土入り出来てしまう訳で、この世界が、あるいは
あの世の世界が、そんな都合良く出来ているとは、どうしても思えません。
それよりは、そうした悪人は地獄に行くという考え方、あるいは輪廻して
餓鬼、その他の劣化した呪われた存在者へと生まれ変わって多大な苦を
課せられる、というのがむしろ、私的には自然というか、すんなりゆく
考え方なのです。勿論、これは精神的なカタルシスに過ぎないのかも知れない
けど、何か相当なトラウマなり、理不尽な苦を受けて悪人として生きざるを
得ないような人達は例外としても、たいして悪い境遇にいる訳でもないのに
オレオレ詐欺をしたり、他人を傷つけたり苦しめたり、あるいは自然を無意味に
破壊するような人達には、それ相応の罰なり苦が科せられて然るべきであると
思う。こうした考え方は偏狭な部分があることも認めるし、罪のない人間など
この世に一人もいないとは思うけど、何でもかんでも原因を神的なもの、あるいは
ブッディズム的な因果や縁のみに帰属させて、自力の要素を完全に消去すると
いうのは、これはその他の決定論などもそうだけど、責任主体を損なうという
意味で、個人が信条としてそれを持つのは自由だけれども、絶対他力という
立場には、やや疑問があります。自分に出来ることは取りあえず行った上で、
後はそうした大いなる力に委ねるというのなら、私には無理なく出来ること
なのですが。
291 :
考える名無しさん:2009/02/28(土) 22:43:27 0
>>290 他力信仰があらゆる行動を根本から否定するのではなく、
信仰に基づいて為される行動が善良さを帯び得ることを否定している。
浄土信仰者は、あらゆる宗教信仰者の中でも最大級に高尚な理想の持ち主であり、
阿弥陀仏のいらっしゃる極楽浄土に比べれば現世などは汚濁に塗れた穢土でしかないと考える。
その穢土にまったく馴染んでしまっている人間ごときが何をしたところで罪悪にしかなり得ない。
聖道門の自力修道者などが、華厳思想あたりに基づいて為しえた即身成仏なども
方便化土への往生でしかなく(
>>249)、それよりもさらに上にある真実報土への往生は
浄土門、他力信仰のみが達しうるとする、確信的な自力信仰への上乗せとなっている。
292 :
考える名無しさん:2009/02/28(土) 22:43:50 0
>>162にも書いたけれども、他力信仰による往生というのは確かに誰にでもできることだが、
観経(観無量寿経)では悪いことをする下品下生の人間ほど苦しみ抜いてから往生することが示されている。
親鸞や真宗は観経よりも大経(無量寿経)のほうを重視するのであまり特筆しないが、やっぱりそれはある。
悪を為す者は、わざわざ多重に罰を科すまでもなくすでにその時点で本当は相当に苦しんでいる。でも、
上品上生な人間などと比べて、下品下生な人間というのはもはやそれが苦しみであることすら分からない。
仏の言葉も届かない地獄餓鬼畜生の三悪趣の輩ども、自分たちが阿弥陀仏によって救われうる人間であること
すら分からない連中に、罰を科すことも確かに必要かも知れないが、まずはそういった悪の苦しみをウレシがる
倒錯者どもに、自分たちが上品上生のみならず中品中生、修羅人天の三善趣の人間などと比べても
ひどい辛苦の真っ只中にあるということを気づかせなければならない。治療の前に己の病気に気づかせること。
そのためには悪を為す苦しみと共に、善を為す楽しみもまた示す必要があり、色々の積極的な行動が
罪悪にしかならないとする他力信仰者が唯一にして最大の正定業とする念仏、念仏のためにあらゆる行動を
消極化してしまう慎ましやかな人間故の極楽加減を見せ付けることが一番で、善行であれ悪行であれ、
積極的な行動を為しているが故に幸せだと思い込んでいる悪人どもに己が苦しみを気づかせる機縁となる。
善因楽果悪因苦果の罪福の道理が、仏教に限らずあらゆる人間の行業に通じていることを知らせるものだ。
293 :
考える名無しさん:2009/02/28(土) 23:11:34 0
華厳思想に代表される、典型的な大乗仏教において展開される自力信仰は、
あくまで罪福の因縁が信じるべきものであるとされる。実在は覚束ないが信じて然るべきものであると。
しかしその大乗仏教の自力信仰に確信的に上乗せされた浄土教の他力信仰では、
もはや罪福の因縁は信じるまでもなく実在のものであるとされ、罪悪を為せば為すほど苦しまざるを
得ないにも関わらず罪悪を積み重ねてしまう愚鈍な凡夫が念仏により救われるとする。
ここにも透徹した人間性への諦観がある。人間が自力で善因楽果の善本を修習することなど不可能であり、
あるのはただ悪因苦果のみ。悪因苦果が少ないか多いかだけが、現実上の人間の善悪の価値基準であり、
さらには人間の行動は常に罪悪なので、結局は消極的な行動者が善人であり、積極的な行動者が悪人ということになる。
294 :
考える名無しさん:2009/02/28(土) 23:15:58 0
自力の発奮で何かをしようとすれば、当然行動は積極的になり、故に罪悪もより多く積み重ねられる。
人間が他者と比べて善良であろうとするならばただ一つ、行動を慎むことで罪悪の積み重ねを軽減するしかなく、
そのためには宗教行為が積極的であるわけにもいかない。念仏以外は全部余計なこととするぐらいでちょうどいい。
最大級の理想に基づく行為であるが故に、それは念仏でしかなくなってしまう。理想に基づかないのであれば
肉食でも妻帯でも別に構わない。親鸞の妻帯は有名だけども、あれも僧籍剥奪後な上、当時の腐敗した仏教界では
隠れて坊主が女を買ったり酒食に耽ったりはかなりなされていたらしい。行動によって宗教性を示さなければ
ならない堅苦しさこそが裏の腐敗を生んでしまうのであって、宗教行為は念仏でしかないから妻帯も肉食も
してしまいますという親鸞の潔い姿勢のほうが現実的にはつつましやかなものになっているわけ。
人間の行動は罪悪にしかなり得ないという透徹した理想主義が、一つ一つの行動に常に自己責任を要求し続ける
透徹した現実主義ともなる。行動すればするほど犯罪者としての度合いが増すにも関わらず、あなたはまだ
積極的な行動を続けますか?と、多動性障害じみている今の社会の構成者などにも重要な命題を突きつける。
行動は罪悪でしかないが、さりとて行動を完全停止するわけにもいかないので、結局は行動をつつしむ所にしか
人間が罪悪を軽減させて善良となる余地はないのだというさじ加減の必要の自覚を、全ての人間に促すものだ。
信仰による様々な積極的な行動が、結局は罪悪にしかならないというのは鋭い
見解だと思います。ただ、私から観ると、あなたが書いている言説(ディスクール)は
それを言語行為論として観ればとても積極的かつ過剰のように思え、念仏など一度も
したことがない私の方が、むしろずっと控え目な感じがするのは、気のせいなのでしょうか?
それで、私は議論は基本的に不毛な行為だと思っていますので、誰とも好んで論争する
ことはないのですが、これは多分、仏陀のイデーを私が一部採用しているのかも知れません。
彼は自灯明、自力の人ですが、テクストを書くこともなく、瞑想や感官を控えることを好み、
その自力信仰に拠って積極的に行動したり、悪果をもたらすようなことはなかったと思うのですが、
これは例外中の例外的なケースと考えれば良いのでしょうか?
それとあらゆる信仰なり、政治、経済的なイデオロギーを信奉している人達に対して
共通して感じることなのですが、その人達の傾向は、たいてい自分達の信じているものを
絶対正義のように称揚して、他の思想を排撃、もしくは悪のようなもの、劣ったものとして
扱っているように見えるのです。自分は、この思想なり信条を信じているけど、
もしかするとこれは間違っている可能性があり、もしそうであれば、その時は修正する用意がある、
という風に述べる信仰者なり、思想家というのは私が知る限り殆どおらず、その唯一の例外が
フロイトなのです。
人間は愚かで不完全であり、間違える生き物なのだから、それがどんな思想であれ
部分知(一面的)であることは避けられない面があって、それは真理の一部を照射、
もしくは開示しているのかも知れないけれど、絶対的な真理というのは、やはり
人間には不可能な領域なり、時空にあるような感覚があります。
それと儒教については、これは臣民をなるべく楽に制御したい統治者にとっては
非常に便利な社会モデルの箱として考えられたものの一つであって、これはパウロが
キリスト教を、そうした制御系のツール、あるいは市民、もしくは臣民のフラタニティ
(友愛)を仮構するための、言ってみれば統治形態のための道具であって、それが後に、
非政治的な信仰なり思想の要素に分岐することはあっても、それはマルクス主義についても
同じことを感じるけど、とにかく、大よそで言えば、人々を統治、あるいは無化するための
方便のように見えてしまいます。
あと念仏なり、写経、あるいは瞑想でも良いですが、こうしたものに、私は
生理学的な力学を感じることが出来ます。
それを善意に解釈すると、同じ軽作業の反復を繰り返すことにより、副交感神経の
作用を高め、そのことによって様々な強い刺激、あるいは不安、悩みなどで乱れがちな
自律神経を落ち着かせて、そのことによって生理学的な幸福感を得る、あるいは得たように
感じること。錯覚でもいいのでしょう、それが快適であれば。
これをネガティブに解釈することも出来ます。洗脳という要素です。マルクス主義などでも、
自己批判文を書かせたり、オウム的なヘッドギアなどもそうですが、そうした反復作業に
よって人間を変性意識へと持ち込み、その真空状態にあるような心のモードなり、
脳の状態にある時に、そうした思想家なり、催眠者、もしくは統治者、強者の側にある
人にとって好都合な原理や思想を導入して、人々をペット化することも一部可能だと
思うのです。
私は自分が知らないことがまだたくさんあるであろう、あるいは、今の私の知性なり
経験では掴めていないことも多々あるだろうと思うので、そして人間はどこまでいっても
不完全さや誤りから免れることは出来ないだろうと考えているので、あまり知識や
概念というのにも徒に拘泥することなく、身の程を知って慎ましく、落ち着いた気持ちで
生きていければいいなと思っています。
>>295 イデア論も精神分析も、内面に鬼神信仰を含有した典型的な思想の内に入る。
実在上の何らかの存在を、概念上の構築物に置き換えて、概念の側の帰納的考察を
実在の問題に演繹するという考え方が、すでに人間の考察を実体よりも上に置こうとする
思い上がりによって成り立っており、実際にはこの世界の一部分でしかない脳みそごときが
自分の実在しているこの世界の全てを把捉しようとしたところで、絶対に取りこぼしが起こる。
「国家」の洞窟の比喩もそうだし、絶対知なんて考え方もそうで、知が己の実在部分である
脳みそや人体を超えて何かをしようとすることは、すでに何かを間違える取っ掛かりとなる。
だから理想を目的として為す行動なんてのは念仏でしかありえないのであって、イデア論だの
精神分析だの個々のイデオロギーだのも、そのような体系構築的な論及によって何らかの
成果が得られると思い込んでいる時点で念仏や般若思想よりも甘い。前提として知性が
鬼神とつながって超能力になり得るというような考えを持つ人間特有の弱さが常にある。
「ある明治の文芸家は、主観の世界を固守するイズムに束縛された非文化性を排撃していう。
『人間の精神生活に於いて吾人が若し一個のイズムに支配されんとする時は直ちに与え
られたる輪郭のために生存する苦痛を感ずる』と。(中略)近代西欧の懐疑哲学者は、『われ
考う。故にわれあり』と考えるものの主体に我を発見した。この人は、あらゆる存在するもの
を懐疑したすえに、わずかに我の存在を発見してようやく自分の哲学体系を樹立した。
仏陀は懐疑哲学が発見して拠り所とした、我こそすべての人間的欲望のもとと見た。
そして、我意識に囚われる苦痛と悩乱に目覚めて、これを捨て去ることに専ら努力した」
(田久保周譽「解説 般若心経」より)
>>296 儒教はあくまで支配者が勉強して己の言動規範とすることを目的とした政治思想。
支配者だろうが被支配者だろうが無制限に価値観を征服しまくる鬼神信仰とはそこが決定的に違う。
実在上の物事をイデアに置き換えてまた実在に還元するような二度手間が基本的に鬼神信仰であり、
実在の側にとってそれは百害あって一利なしと孔子が見抜き、孟子や朱子がそれを補足した。
占いも含めて、物事の形而上への帰納を排除した結果、教学として示すものは専ら
支配者の支配者であるが故の修養に特化されて、民への愛想の振りまきすら否定してしまう。
「君子道を学べば即ち人を愛し、小人道を学べば即ち使い易し(「論語」陽貨第十七)」
支配被支配の関係にあるものが同等な友愛関係になり得るような夢想は容認しない。
孟子も博愛志向の墨家が、実の親への敬いを疎かにしてしまっている点などを批判している。
支配者であるぐらいなら、鬼神などに頼ることなく、全ての責任を自分で負うぐらいに謹厳であれ。
あくまでそれは支配者だから。被支配者なら念仏してりゃそれでいいわけで。
念仏や写経は、それらを為すこと自体による効能を外部の人間がどうこう言うべきもんじゃない。
やることによる効能はお寺の坊さんが一番分かってる。むしろ着目すべきなのは念仏や写経を
することで逆にしなくなることのほう。積極的な罪悪の積み重ね、無駄な政治行為への介入など
をしないということの対抗的な理念としての念仏や写経。座禅でも題目でもやることの側には
そんなに極端な相違は見えないが、座禅する武士も場合によっちゃ人を斬り殺してたし、
題目唱える商人も不当利得溜め込んだりすることもあった。その点念仏は武士でもなく商人
でもない、ただ農作業に励む百姓こそが唱え続けてきた。実績の点から行っても念仏が
それをすることで逆に悪いことをしなくなる効能を持つという点では白眉であることがわかる。
念仏が悪用を自明に抑制する意味合いを持つことは、浄土三部経や教行信証を精確に読めば
分かること。決して生理学だの脳科学だののいかがわしい概念遊びで計り知れるものではない。
概念の拡張を「方向性」から根絶させること。
「人間の行動は罪悪でしかないと私も思います」
「知性が全体性であり得るはずがありません」
言ってることは正しげであろうとも、やろうとしていることはやっぱり概念の拡張でしかない。
人間は不完全な生き物なのだから、不完全であるなりに神に近づいていこうとし、
未だに不完全であるなりの人間としての完成を受け入れようとはしない。
拡張をやめて凝縮に移る。いろんな物事への論及から一つの物事の固持に移る。
形而上の神への夢想を捨てて、現実に即した神仏への敬いのみを残す。
誰しもがそうなればもはや無駄な争いはどこにもない。「そんなことは無理だ」
ってんなら確かに無理だ。何よりもあなた自身が受け入れられてないから。
形而上への夢想をやめられない人間が争いも起こすし、それを対処療法的に
治めようともする、どっちも根の所に害悪を残存させていることには代わりない。
害悪の根源である抑制不能な自我を捨てて、実体に即した何者かのみで誰しもがあれ。
それだけで本当は十分なことだ。
愛を、支配被支配なんていうガサツで殺伐とした社会問題にも持ち込まぬこと。
愛の最大級の展開の場はあくまで家庭であって社会ではない。
社会だってムラ程度の矮小なものであればまだ愛を展開する場ともなしうるが、
巨大化して支配被支配の関係を呈しなければならなくなったような社会で
未だに愛に固執しようだなんてすれば、あまりにも多くの害悪をも同時に呈する。
愛のために浪費もすれば犯罪もする、個人的に愛している一部の間柄だけのために
それ以外を蔑ろにする性癖が大社会でこそ生まれるのであり、なければ生まれない。
愛は愛で純良でありうるし、社会もまた社会で儒教的価値観の下で徳治をなしうる。
ただ、愛と社会が混同されてしまった場合にのみ深刻な害悪を呈するのであって、
人間という生き物の不完全さを踏まえて両者をあえて分離させておくのが大人の選択。
支配者には儒教を、被支配者には念仏をというように、支配者と被支配者の社会関係を
ある程度分断させておくのもまた大人の選択。害悪の際限のない膨張を抑えるための
最低限の差別の受け入れ。完成した不完全さの受け入れ。
西洋人が「ない」と思っていたものが、あくまで「ない」という体裁を保った上で東洋にある。
善良な物事や、正当な自我などはないという前提の下である種の教学が荘厳されており、
正当に修学すれば確かにそれで人間が落ち着けるようになっている。
被支配者の側が無駄に罪悪を積み重ねることもなければ、支配者の側が無理にそれを抑え付けることもない。
害悪のマッチポンプが自明に排除されることを目的とした教学が確かに実在しており、その内容は確かに
西洋的な概念構築とは無縁である反面、確実に実在上の世界の側を安穏とさせられるようになっている。
より端的に言えば、概念構築こそが害悪のマッチポンプの元凶の最たるものであるという
事実をわきまえて、最大級の現実把捉と最低限の概念構築に基づいた教学を展開している。
物量的には洋学の1.5倍程度。洋学の大部分は基本文献の焼き直しなので、基本文献に限れば
東洋教学のほうが何十倍何百倍という分量になる。絶対に堅実な部分だけで何十倍何百倍ということ。
わざわざ独自概念を編み出すまでもなく、順当に従いさえすれば確かに無難でいられるもの。
逆に従わなければ従わないほど多くの問題を呈する。放蕩しっ放しのガキが大人になるか否かの瀬戸際。
洋学や聖書教のような、地獄餓鬼畜生の三悪趣を司る教学に耽溺していた人間が
完全に改悛した上で救われるということは確かに「観経」らによって認められている。
しかし、未だに悪趣に耽溺している人間が、それを少しでも善行だなんて思い込んでいるままに
救われるなんてことは絶対にあり得ない。それらは念仏のような正業はおろか、
念仏のついでになす助業にも、さらには他の自力仏教に基づく雑業にも値しない、ただの罪業。
正業>助業>雑行≧0≫罪業。正業や助業、雑行などがプラスなら罪業はマイナス。
プラスである程度は天道の神道や人道の儒教も叶えてはいるが、罪業はマイナス。
人類を存続さすか破滅さすかの内で、破滅さすほうにあえて持っていこうとしている側。
そんな側にいる内は、正念を込めた念仏なんてやろうとしてもできない。
華厳思想にすら上乗せされている浄土思想の感無量さには絶対についていけない。
念じられないから救われもしない。内心のふら付きが抑えられないが故の機縁の取り逃がし。
向上心すらもはや得られないのが悪趣の住人。念仏の価値を計り知ることなど一億万年早い。
303 :
考える名無しさん:2009/03/01(日) 11:29:30 0
浄土思想は確かに絶対的な平等思想ではある。
しかし同時に厳密な仏教でもあるのであって、六道十界の仏教的世界観の下で
あらゆる世界に序列を与え(
>>228)、その上でそれらの世界の住人が平等に救われると説く。
だからこそむしろ浄土教自体は、唯一無二の教学である必要があるのであり、
他の教学と仲良くお友達になるなんてことは許されないわけ。
それで事実、浄土教はあらゆる教学の強度の要になる信仰の部分で最強となって、
地獄や鬼畜の住人でしかないくせに不当信仰で生き延びているような連中の信仰も破砕する。
悪趣の辛苦を如実に知らしめると同時に、修羅人天の三善趣や、声聞縁覚菩薩の三乗も
不完全な者とし、此岸の仏である釈迦が説き印した、彼岸の阿弥陀仏のいる極楽浄土への
往生にこそ、尽十方あらゆる衆生への救済の道を見出しているもの。
平等とか救済とか、理念はどっかのカルト宗教と似ていても、上乗せの対象としているものが
大小乗仏教とか神道とか儒教とか士道とかの、本物の正当な教学である所が決定的に違う。
偽者の不当な教学が自分らだけで平等とか救済とか目指したって悪ふざけにしかならない。
東に伝承されるか西に伝承されるかで、これ程にも貴賎の幅が開きすぎた教学も珍しい、
ゾロアスター教の末裔。ゾロアスター教自体はプラスマイナスゼロで良くも悪くもない。
304 :
考える名無しさん:2009/03/01(日) 12:18:11 0
引き続き浄土真宗聖典を読み進めているが、親鸞聖人の言わんとすることはやっぱり「教行信証」に
凝縮されていて、それ以外の文書は重複だったり補足だったりで、ここで特筆すべきほどではない。
ただ、教行信証が分からないことにはそうであることすらも分からない、分かるか分からないかの
落差が激しくなるだろうとは思われる。歎異抄の悪人正機が厳密な仏説である理由も分からなくなる。
すごく狭い一定の問題だけを語っているのに、その一定の問題だけが誰にも分からない。
罪福の道理を無視して積極的に悪行を為している人間には、それ以外はなんでも分かるのに
それだけはどうしても分からない、善因楽果悪因苦果という人間の感覚の本質、その感覚の本質を
把捉した上でなお万人の往生を約束する浄土思想の本質的価値などは絶対につかめやしない。
次元が違いすぎる理想はもはやそれが自分たちの理想とどう違うのかも分からない。
どうせ似たようなもんだろうと思っているその理想が、実は自分たちの理想を地獄にまで
転落させるほどの理想であると、知った時点で二度と積極的な悪行なんかできなくなる。
まだ知らないし、認知しても分からないから悪行も続くもの。知った途端に終わってしまう罪福の因縁。
305 :
し:2009/03/01(日) 12:42:50 O
いいよゲームしとけ。
人間の苦しみとか楽しみとかは、あまり外部にはっきりとした形では現れて来ない。
仮に持続的に苦しみ続けている人間と、持続的に楽し続けている人間とが
関わり合ったからといって、相手が自分と比べて楽し続けてたり苦しみ続けてたり
することに気付かないから、ただ「分かんねえヤローだな」って嫌悪感を抱くだけで大体は終わってしまう。
そういう場合にまず、自分が持続的に楽している側か苦しんでいる側かを冷静に判断して、
楽してる側であれば楽してる側として、苦しんでる側であれば苦しんでる側として
自分とは逆の状態にある(らしい)相手の言動を汲み取ろうとしてみる、
すると相手がなぜそのような言動をなすのかが立ち所に分かるようになり、
楽してる側であれば慈悲を、苦しんでる側であれば憧憬を相手に対して抱くようになる。
まず自分と相手との正当な関係性を配慮した上で相手の言動を計り知ること。
関係性への配慮が不十分だったり、不当だったりすれば、
いくら相手の言動を汲み取ろうとした所で空振りに終わる。
自分が苦しんでる側か楽してる側か、感覚的に理解できなくても
とりあえず立場をわきまえてみる、そこから相手を計り知ってみればよく分かる。
何よりもまず「よく分かる」ということだ。
積極的な罪業に手を出すことで苦しみ続けている人間が
なぜそのような言動をなすのかということが、「自分とは違う」という
ワンクッションを介して計り知ってみれば、よく分かる。
分かるけれども、やっぱりそれは苦しみであり罪悪なので、
自分がそうなりたいなどとは少しも思わない。
善良であり、しかも楽である自分のほうがどっから見たっていいに決まってる。
善良であっても苦しかったりすれば、罪悪であっても楽なものに憧れたりするかもしれない、
でも今はそれですらない。善良で楽なものと罪悪で苦しいものとに二極化している、
罪福の道理が円満である状態。善悪が交際しているが故に悪は善に敗退せざるを得ない状態。
善であり楽である側は、もうすでに自他両側の有り様を十分に把握してるんで、
後は悪であり苦である側が、自分と他人との正当な関係性をわきまえること。
今までに一度だって自分らが悪であり苦である側だなどと認めたことはない、
だからこそ未だに悪や苦である側にとどまっている鈍感な外道が
初めて自分たちの本当の順位をわきまえる、地獄とか鬼畜とかの。
初めて自分たちの上にある存在を知る。
結局、何よりも自分が何なのかが分かっていない。
自分がいかなる存在かが分からないから、
誰が相手だろうとも間違った人間関係を呈する。
間違っているにも関わらず大量に構築された人間関係、
どこを見たって必ず不当だから辛苦に満ちている、
それら全て身から出た錆、悪であり苦しみであるという
根本的な自我の本質をわきまえぬままに広められた害悪の派生。
ぜんぶ駄目になる。自我の放蕩によって構築されてきたあらゆる人間関係が、
自我が害悪であることを認めることにより全てゴミと化す。
前提が間違っていることを認めることで、何もかもが間違っていたことがバレるドミノ倒し。
間違ってる以上はいつかは認めなければならない、悪であり苦しみであろうとも。
下品下生でも阿弥陀信仰なら救われうる。
悪の苦しみの持ち主としての正当な立場を受け入れさえすれば。
309 :
考える名無しさん:2009/03/02(月) 10:04:06 O
親鸞聖人は自著の中で、ものすごく狭い一定のことだけを何編も何編も繰り返し仰られている。
でもそのものすごく狭い一定のことだけが、心神喪失状態の犯罪者には決して理解できない。
悪を為すことが、善を為すことや悪を為さないことと比べて格段に苦しく、
故に悪人こそが最も救われるべきものであるという感覚的な理解。
今まさに現行犯であるが故に、精神が薄弱となって、物事の真の楽しみや苦しみを
感覚的に把握することができなくなっている人間にだけ致命的に理解できないこと。
悪行すらしなければ理解できるのに、してしまっているから絶対無理。
悪行をやめることによって自分たちが積み重ねてきた不当利得や人間関係が瓦解すること
ばかりを恐れて、肝心の悪を為す苦しみだけは全く理解できないでいる、
今まさに辛苦の真っ只中にいる悪人たち。
悪の苦しみを無視してでも既得権益にこだわり続けるか、
もしくは既得権益をかなぐり捨ててでも悪の苦しみを厭い離れるか。
既得権益がどこもかしこも悪の苦しみでしかないことを踏まえた上で考えてみること。
×何編
○何遍
ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりな
きゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、とりかへしとりかへし
書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。
しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。
312 :
考える名無しさん:2009/03/02(月) 10:48:30 O
悪文羅列しすぎ
どんなに分かりやすく書いても、分からない人間には決して分からない。
しかしある種の段階に到達すれば、貫通(by朱子)するようにいくらでも分かるようになる。
その「ある種の段階」ってのも、決してヘーゲル哲学みたいに隠し通してるわけじゃくて、
ただ「罪福の道理を体得した段階」という、明確な言葉で表せるもの。
善因楽果、悪因苦果の罪福の道理が尽十方あまねく宇宙を多い尽くしているという事実。
信じるまでもなくそうであるという事実を把握して、今さら楽果のための善根なんか
積めやしないという実情を鑑みて、悪人でも往生できる浄土信仰に帰依するということ。
罪福の道理を把握もしないままに終末論だの救済だの言ってるのが某カルト宗教。
把握をした上でさらに浄土への往生を本願とするのが浄土教。
形式は似ていても本質の部分が真逆になっている。
314 :
考える名無しさん:2009/03/02(月) 13:29:20 0
考察の限りを尽くしたところで、分からないうちは絶対に分からない。
たとえ分かっている人間の思考を分かってない人間が読み取ったって分かりやしない。
むしろ許諾も得ていないような相手の心を読み取るような罪悪に手を付ければ
余計に分からなくなる。善悪を等分に理解する上で必要な、善悪両面への
客観的かつ主観的な視点の欠如。悪に囚われている以上は持ててない。
悪が苦しみでしかないことを理解する上での前提的な立場に立ててないということ。
いかなる知能によっても、それが罪悪に囚われている内は決して不可能な
罪福の道理の本性からの体得。儒家ですら孟子や朱子はできて
荀子や陽明はできなかった。いわんや、罪悪こそは正義であるだなんて
倒錯の持ち主が体得するなど、夢のまた夢に違いない。しかしその一番罪福の道理
の体得から遠い所にいる連中までが往生に至れる、むしろそいつらこそが
一切衆生の往生を願う阿弥陀仏にとっての正機だとな。よかったな。
315 :
考える名無しさん:2009/03/02(月) 17:05:26 O
分からないってことは、信じられもしないってことだ。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生せんと欲ひて、乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く(「無量寿経」第十八願)」
因位の阿弥陀仏こと法蔵菩薩はわざわざ釘を刺して下さってるけれども、
五逆(殺父、殺母、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧)や誹謗正法(仏法への誹謗中傷)に
手を出しているような人間には始めから信じられやしない。
キリストは信じられても、阿弥陀仏は無理。
罪福の道理が確認された上でなお悪人までも摂取しようという
「難思の弘誓」が理解できないから、至心に信楽して往生を欲せられもしない。
嘘だと思うんなら称名してみればいい、「南無阿弥陀仏」と。
全く心がこもりゃしないから、度を越した悪を為したりしてる内は。
「薬あればとて、毒をこのむべからず」と親鸞聖人も仰られる。
悪人の往生すら保証する手前あんまり大きな声では言わないが、
仏法を信じられる程度の断悪修善の前提が信者に備わるのが暗黙の了解として目指されてるわけで、
悪人までが仏法に帰依することは、大局が仏法に征服される最終局面となる。
316 :
考える名無しさん:2009/03/02(月) 18:32:02 0
分からないから信じられない。信じられないから分からない。
無理解と無信仰のスパイラルに陥りがちな罪福の道理に基づく悪人往生を、
700年以上の月日をかけて日本人は体得してきた。今から外国人、特に西洋人が
同じことを体得するのには、やはり700年以上かかるのかもしれない。
現世の人間にとっては絶望的に過ぎる年月ではあるが、1億人以上の先人が
極東に顕在であることは、かなりの体得の手助けにはなるだろう。
悪であり、しかも苦しみであるという、自分たちの精神性の救いようのなさを
改めて、悪人であることはやめられないにしても、罪福の道理に則った往生を
願う上での先輩に日本人がなる。あんまり見た目ではよく分からないし、
言説を読み聞いてもやっぱり分かりにくい必至滅度の願、難思議往生。
信じる側からでも理解する側からでもいいから、まずは始めてみること。
317 :
考える名無しさん:2009/03/02(月) 21:06:01 0
共感ができない。罪福の道理への理解を体得できている者とできてない者。
何が楽(善)で何が苦(悪)かを感覚的に把握できている者とできてない者。
苦を厭い離れて楽を追い求める者と、苦でも楽でも平気で追い求める者。
楽なことだけする者と苦しいことばかりする者、あたかも主人と奴隷の如く。
楽なことだけやってりゃいい主人と、苦しいことばかりしなきゃならない奴隷。
楽することと苦しむことと、あまりにも慣れすぎてどちらもが堂に入っている。
主人はともかく、奴隷までもが自ら好き好んで悪の苦しみを追い求める。
誰か実在の人物が使役してるわけでもないんで、解散や帰命はご随意に。
318 :
考える名無しさん:2009/03/02(月) 21:20:38 0
「『他力には義なきを義とす』と、聖人(法然)の仰せごとにてありき」
(「親鸞聖人御消息」より)
法然上人が言ってたって、親鸞聖人が言ってたって。
他力他力のドミノ倒し。
319 :
考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:55:05 0
「念仏するひとの死にやうも、身より病をするひとは、往生のやうを申すべからず。
こころより病をするひとは、天魔ともなり、地獄にもおつることにて候ふべし。
こころよりおこる病と、身よりおこる病とは、かはるべければ、こころよりおこりて
死ぬるひとのことを、よくよく御はからひ候ふべし」(「親鸞聖人御消息」より)
こころ(本性や感情)が病に侵されている人間こそは、身が病に侵されている
人間以上に救いがたいとな。パスカルも「パンセ」で似たようなことを言ってたが、
適切な処方箋を提示しない上、パスカル自身までが心の病に侵されていたのに
対し、親鸞聖人は念仏という処方箋も出す上、90歳まで生きた健康ぶりも示す。
「私など凡夫でしかございません」という他力の謙遜こそが、かえって人間としての
健全な偉大さとなっている。自力の不健全さや卑小さを比較的思い知らされる程の。
320 :
考える名無しさん:2009/03/03(火) 12:12:36 0
>>139の順序で「歎異抄」にまでたどり着いた。ちなみに読むのは三回目。
本当に仏典なのかどうかも疑わしげだった歎異抄が、「親鸞選集・恵心尼文書付き」とでも言える
真宗聖典前半を読んでからだと、非常に“仏典として”よく分かる。意味が分かるだけでなく、
厳密な仏説としての悪人正機の価値が汲み取れるようになる。
善悪とか苦楽とかの罪福にまつわる問題以上に、他力の仏教としての存在性が問われており、
他力であるからには罪福の道理を自分で何とかしようだなんて考える必要がないということ。
善行も他力である上に、悪行も他力である。あらゆる思考や言動が他力であるが故に
消極的となり、善悪や苦楽に惑わされる必要がなくなる。とはいえ自力作善でもって楽を
追い求めているような人間は、わざわざ他力によって辛苦を霧消させられようだなんて
考える必要がないから、やっぱり他力信仰による救済の対象は、罪悪深重であるが故に
辛苦に見舞われ続けている凡夫こそが正統である、故にこその悪人正機。
他力によって悪人が救われるのは、他力信仰が信者への言行の慎み、自我の消極性を
あてがうからであって、自我や言行が慎まれ消極的となることは、思考言行即罪悪である
悪人にとってそのまま辛苦の霧消となる。念仏には無義こそを義とする程の意味がそこにある。
321 :
考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:16:53 0
「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこ
りとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業
をこころえざるなり」(「歎異抄」十三章)
やっぱり罪福の宿業をわきまえもせずに阿弥陀仏に帰依することは、
浄土信仰の本義に背いているとされる。悪いことをするのが辛苦であると
わきまえた上で、悪を恐れつつも、成り行き上悪事をやめきれない悪人が
自我による悪事への消極性の獲得の手段として他力信仰に帰依するもの。
「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、
すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、
害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、
百人・千人をころすこともあるべし」(「歎異抄」同章)
千人だって殺せる時には殺せてしまうが、一人だって殺せない時には殺せない、
それほどにも人間の行動というのは宿業に囚われているのであって、
自分で殺さずにおこうなんて考えるよりは、殺せることも殺せないことも宿業
でしかないという諦観の下で自我を萎縮させたなら、積極的な善行も
しなくなる代わりに積極的な悪行もしなくなる。善悪の火種になることを
信者が拒絶し、信者が増えれば増えるほど火種の数も自然と減っていく。
誰しもが言行を慎むことで結局は悪因苦果の全体量が目減りしていくことになる。
故に「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ(御消息)」と、悪人往生でも言えるわけ。
「本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ
信心も決定しぬべきことにて候へ」(「歎異抄」同章)
322 :
考える名無しさん:2009/03/03(火) 14:02:28 0
「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。
往生の信心においては、まつたく異なることなし、ただ一つなり」(「歎異抄」後序)
一切経を五回も読み通した法然聖人ほどの知識や才能は自分(親鸞)には
ないけども、往生を願う信心については聖人となにも変わることがないという。
知識とか才能とかは、朱子学で言うところの「情」であって、情報を取り扱う能力。
対して信心は「性」であって、それぞれの人間の本性に即した趣きのこと。
情は別物でも性は同じであり、性が阿弥陀仏の方に向いているから同じ信心だと、
法然聖人も異議を唱える同門者に、親鸞聖人の主張を公認する旨を述べている。
「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに
善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、
如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、
まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(「歎異抄」後序)
小ざかしい知識だの才能だので善悪を分かったフリなどする必要はない、
ただ阿弥陀仏への信心のみが真正であるならば、往生への道は確定している、
情ではなく性からの断悪修善が他力信仰によってのみ叶えられうる。
現実世界のどこにも主体的な断悪修善を達成しうる人間などいないという諦観の下で、
ただ誰しもが本性の部分でだけ悪の苦しみを厭い善の楽しみを求める真理の把捉を
体得させる易行の頒布、ないよりはあるほうがいい内心の善良な統率。
どこもかしこもの人間関係が善良さを前提とするから、大して悪くなくなる。
323 :
考える名無しさん:2009/03/03(火) 14:22:07 0
「教行信証」から「歎異抄」までの、浄土真宗の核となる親鸞聖人本人(および恵信尼公)の
文書は読み終わった。源信、法然、親鸞と日本浄土教の系譜の概括的な把握は済んだ。
その上でやっぱり思うのは、浄土教っていうのは本当に主体性を持たない教学だということ。
インドで発生した仏教の一宗派ではあるが、その時点からすでに「西方浄土」であって、
インドの西側にあるイランのゾロアスター教の影響を受けていることがほぼ明確ではある。
でもゾロアスター教がこれまたあまり主体的な教学ではなく、善悪二元論の下で
善一元論の仏教を東方に、悪一元論の聖書教を西方に派生した旧世代的な意味を持つ。
しかも善一元論である仏教は、主体的な教学の枠組みを古代インド教に多く依存してるので、
善一元論であると共に真理学でもあり、華厳思想や法華思想などの形で真理学のほうが
むしろ主体的な仏教扱いとなってしまってもいる。真理学であるついでの善一元論。
元より善一元論と真理学は不可分なものであって、真理学を大衆に流布しようとすれば
自ずと善一元論となり、模範的に流布された結果が浄土教となっている。仏教全体から
見ればむしろ副次的なものであるにも関わらず、大衆に流布するという機能に特化されて
いるという面では、普通の仏教よりも浄土教のほうが完成されている。大衆に仏法を効率よく
還元するために、仏教としては副次的なものとなってしまっている浄土教。一方で仏法が
回向されることは大乗仏教の本義中の本義でもある。どこまでも主体副体の関係性が曖昧
なままであり続ける一般仏教と浄土教の関係。これもまた仏法の一環ではあるんだろうが。
324 :
考える名無しさん:2009/03/03(火) 15:41:24 O
禅宗や浄土宗に関しては世間でもよく語られていると思うので、
次は密教を取り上げてください
リクエストです
「密教は語りすぎるな」と
>>218の方に戒められておりますが・・・
冗談抜きで密教はヤバいんだが。いま世界の資本利権を牛耳ってるような奴らも
密教を応用(悪用)して一般人から利益を巻き上げてるわけで。
扱いようによっては毒にも薬にもなる類の教義をあくまで薬として扱う、
白い粉を舐めて麻薬かどうかを判別する麻薬捜査官に徹してるのが密教なわけで。
空海の著書などを読んでも、その内容は教判、今でいう比較宗教学のようなもので
南都六宗や儒教、道教やヒンズー教などの、当時におけるあらゆる教学の
存在意義を十住心論や弁顕密二教論などの形で提示している。
でも同じように「八宗綱要」で仏教概論を示した凝然などとは違い、
密教においては教判こそが宗教行為の一環として行われていて、あくまで
入門書として八宗綱要を記しただけである華厳宗徒の凝然とはそこが全く違う。
浄土教が仏教の演繹を主要な目的とするため、極めて狭いことだけを扱うのに対し、
密教は仏教の帰納こそが目的なので、とにかく扱う領域が広い。仏教はおろか、
その他の教学にまでも教判の手が及ぶ。もし空海が今の世の中に現れたなら、
西洋教学までをも教判の対象とするに違いない。全世界、全宇宙を真理学によって
征服する最高級仏教としての沽券、最高級仏教であるが故に人類最高の教学
である面目を弘法大師なら示しただろう。あくまで教判という形ではあるだろうが。
326 :
考える名無しさん:2009/03/03(火) 21:35:26 0
浄土教はまた一旦おいて、書経に引き続き「詩経」を読み始めている。
>>287で述べた通り、四書と比べて五経は宗教的な記述が多く、あんまり四書よりも
五経を重視し過ぎると、宗教性からまで儒教を受け入れてしまった朝鮮のようになってしまう。
あくまで宗教性は仏教や神道に任せ、儒家に関しちゃ学術としての価値を重んじ、
五経よりも四書を重視する日本の風習に合わせて批判的に五経は読み通すもの。
とはいえ詩経も、冒頭を軽く読んだだけで素晴らしい内容であることがわかる。
何が素晴らしいって、柔らかげな風雅に満ちているところが素晴らしい。
国風序説における結婚賛歌など、モンスーンという共通した気候風土を持つ日本人にとって
中国人の自然描写は非常に馴染みが持てるもの。漢詩の原典中の原典でもあり、
短歌や俳句という形で短編詩文の表現形式を日本人も見習っている。
もちろん日本よりも中国のほうが文芸の歴史は深く、万葉集がせいぜい1300年前の
成立なのに対し、詩経は2600年〜3000年以上前の成立。文明では縄文で負けていないにしろ、
体系的な文化構築の面では日本は中国に決して敵わない。もちろんインドにも。
ただ、中国に生まれればインドより中国の文化を重視してしまっただろうし、
インドに生まれれば中国よりもインドやイランの文化のほうを重視してしまっただろうから、
インドと中国という世界最高級の文化の双璧を、等分かつ深長に学び取れる立場である
日本人に生まれたことが便宜的な意味で幸いと思う。空海もそんな風に思ってたんじゃなかろうか。
327 :
考える名無しさん:2009/03/03(火) 22:02:54 0
東洋教学の観点から見ても、朝鮮が曲者であることはどうしても否めない。
小国のクセして、儒家宗教とか華厳信仰とか高麗大蔵経とか、一番重たい東洋教学を独り占めにしようとする。
(道元も「正法眼蔵」の中で、朝鮮人の仏教への信仰態度が粗末なことを指摘している)
朝鮮よりも大きい日本のほうが、儒学とか浄土信仰とか一目置いた教学を重視している、
もちろん日本にも儒教や華厳宗もあるが、中国やインドのような超大国で編み出された教学が
比較的小国である日本でそのまま取り入れられても実用性に欠けるのが分かりきってるんで、
重すぎる儒教や仏教は博物的な採集にとどめ、比較的軽めの儒学や浄土教こそを国民全体で取り入れた。
それができなかったのが朝鮮。極小国にも関わらず一番重い東洋教学ばかりを取り入れて、
今では完全に宝の持ち腐れとなって、挙句の果てにはプロテスタントや共産主義とのみそくそとも化して
わけの分からない状態となっている、出来損ないの極東の次男坊。長男である中国と、三男や
長女(縄文文明、長男より年上)である日本ばかりがいい距離感でうまくいっている。
東洋教学にも駆使の上手下手があり得ることを示す好例となっている。
328 :
考える名無しさん:2009/03/04(水) 11:39:49 0
限りなく深いし、完全に大人として大成している「詩経」の詩文。
ttp://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/08056731/introd_id/Xmo46Wk9o3629m9ki81GiXXA6AGA3A6i/pg_from/u 古代オリエントの散逸文を復元した上の物語集の内容などと比べても、古代中国や古代インドの古典文献は
すでにその内容が大人の嗜むべき気品に満ちていて、確実に成長を遂げているものだが、
ヘレニズムやヘブライズムあたりは古代オリエントの中二病を持ち越したままで、しかも悪化させてすらいる。
ゾロアスター教が東に伝播した場合と西に伝播した場合と同じで、メソポタミアやバビロニアあたりから始まっている
人類の文章表現の技巧は、東に行けば行くほど年齢的には進化し、東に行けば行くほど退化している。
さらに特筆すべきは、極東社会における文章表現以上の古さを持つ「文様」の歴史で、縄目文様に甲骨文字といった
10000年以上の重層的な超言語的記号文化が、日本や中国に他とは全く異質の「相」を編み出させている。
端的に言って経験値が深い、一つ一つの文章表現やモノ作りの中に極東人ならではの趣向が凝らされていて、
西洋人などが真似したところでちっとも形になんない、大人ならではの実相が常に付帯し続けている。
詩経も訳文だけを見るとただ軽やかなばかりに思えたりもするのが、漢字で表現されているのと同時に
読み下しや訳文も読むと全く重みが違ってくるし、漢語で原文を読めばもっと趣きは変わってくるに違いない。
原文だけならほとんどが些少な文字数である漢文の名作が、読み下し文と注釈と訳文と解説を併載されて膨大な
書物となって日本では出版されていたりする。でもそれだけの分量で出版する意味の深さが確かに漢文にはあるわけで、
訳文だけでも意味は十分に汲み取れる簡易言語の著作とはまったく別の事情を持つことを前提としなければならない。
329 :
考える名無しさん:2009/03/04(水) 12:14:52 0
詩歌は言語表現の究極を目指すもの。漢詩であれ短歌であれ俳句であれ。
他言語には訳しきれないような語呂合わせ(詩経国風・相鼠など)とか、オノマトペとか、
有機的な工夫が何重にも何重にも施されて、独特の風雅を漂わせる。
漢語や日本語はその点が極めて巧みで、そのせいで世界一習得の難解な言語の内にも入れられる。
(ヨーロッパ系言語を数ヶ月で使いこなす英語圏の人間が、三年日本語を勉強しても使いこなせなかったり)
漢字の達筆などは小さいころから練習していないとまず習得が不可能といっていい、
それほどにも言語表現に豪華絢爛の限りを尽くすが故にこそ、数式や幾何学構造の伴うような
理論科学はあまり極東社会では発達しなかった。過剰とも呼べる言語重視。
もちろん極東人に理論科学の素養がないわけではなく、近頃の学力比較などでも
香港やシンガポール、台湾らが理数系の習得で群を抜いている。やろうと思えばできるが
自分らで科学を作りこむことにはあまり能力が発揮できなかった、自然宇宙の実相に即し過ぎた
が故に傍観的な物事の帰納には無頓着だった。しかしそれは「聖善(国風・凱風)」であることの条件でもある。
放射線による被曝のリスクを負ってまで核爆弾を作ろうとすることの愚かさを
中国共産党や朝鮮労働党は訴えなくとも、詩経は訴えている。その表現の有機さによって。
極めて完成度が高いが故にこそ、外部の日本人などにはそのままでは受け入れられない。
そのまま受け入れてしまうと朝鮮人のように精神性まで乗っ取られてしまう、
故に猿真似扱いされようとも、短歌や俳句などの形で日本語の形式に即した詩歌を再構築している。
古代オリエントなどからすれば成熟した大人の文章表現となっている五経やヴェーダ、
ウパニシャッドらがさらに完成度を高めて仏書や四書となっている。人類の文章表現としては
古今含めて最高峰である仏書や四書こそを受け入れて、五経や古代インド教典にあたる部分は
記紀や万葉集などの日本独自の文化で補っている。取捨選択された中国文化やインド文化
+神道や士道らの精神主義こそが日本文化の全様相。神道は注連縄、士道は刀剣を崇拝し、
それぞれが人類文明や人類文化の起源を司ってもいるので、精神主義としての成立は遅くとも
始まりと最高峰という、人類の文化文明の要所々々だけを抽出する巧みさがはたらいている。
弘法大師空海の共利群生
儒学の万物一体の仁
天然自然の理がそのまま社会道徳として機能する。
そんな境地なのではなかろうか
332 :
考える名無しさん:2009/03/05(木) 21:55:49 0
[原文]
豈曰無衣 與子同袍
王于興師 修我戈矛 與子同仇
豈曰無衣 與子同澤
王于興師 修我矛戟 與子偕作
豈曰無衣 與子同裳
王于興師 修我甲兵 與子偕行
[訳文]
きるものないなどいわぬこと。袍はおまえとともに着る。
もしもいくさがはじまれば、やりとほことをみがきたて、おまえとふたりともどもに。
きるものないなどいわぬこと。したぎもおまえとともに着る。
もしもいくさがはじまれば、ほことやりとをみがきたて、ふたりそろって征くものを。
きるものないなどいわぬこと。したぎのはかまもともに着る。
もしもいくさがはじまれば、よろいさしものみがきたて、ふたりそろって出てゆくに。
(堺武男「詩経全釈」国風・無衣)
「同期の桜」ばりの勇猛さが垣間見える汗臭い戦陣訓。華麗な結婚賛歌などとはまた別の詩経の側面。
極東人ならではの強大な精神力が、詩経でも記紀神話でも念仏信仰でも展開されている。
空海や役小角、塚原卜伝や宮本武蔵らの剣豪も含め、どこにも非の打ち所の無い完璧超人の系譜
ってのが日本などにはあって、男なら最大最強最高を目指して当然っていう傲岸不遜さが
あまり男らしさとは関係のない文筆行為にもやはり現れている。内心から女々しさを廃絶する前提がある。
333 :
考える名無しさん:2009/03/05(木) 23:08:09 0
あんまりガツガツと書き込むのが恐れ多くなる、細密さの限りを尽くした詩経の文章表現。
男は男らしく、女は女らしい、男とも女ともとれない中性的無性的な気持ち悪さを避けている、
それは帰納的な理論を作り込むには不向きでも、演繹的な物事の太線による描写には向いている。
一つ一つの言葉に精神性が込められているが故に、一読で全てを汲み取るなんてのはまず無理。
これの勉強や研究のためだけに、全ての学者や学生を動員しても足りないぐらいなのに、さらに
有害無益な洋学や英語まで学科に入れられている近現代。配点ではむしろそっちのほうが高かったり。
悪質な教学への耽溺を反省する以上に、良質な教学の比較的な素晴らしさに気づくべきだ。
334 :
考える名無しさん:2009/03/06(金) 20:48:33 0
今までほぼ無条件に長所を肯定してきた東洋教学が、ことに詩経まで行くと
手放しに褒め称えるわけにもいかないような危機感を抱かせるようになる。
それは決して詩経の内容が劣悪だからではなく、あまりにも高尚すぎるから。
人口では人類史上最大である日本の左側の隣国が、根本的な文化性の面で
アメリカやロシアなどとは比べ物にならないほどの重大さを潜在していることに気づかされる。
紛れもない「究極の文化」。文明はまた別のものとして、文字による化生の極致を擁している。
いくらコンピュータープログラムがアルファベットを用いた言語によって構築されようとも
最終的にプログラムの動作を消費するのはいつでも人間であり、人間が観察する時点で
最大級に高尚であるものを選別しようとしたなら、やっぱりプログラミングの成果などよりも
一つ一つの文字から究極の文化性に到達している漢文のほうが上として扱われる。
論理だ数学だ以上に人間の根本性を司っている実相の究極にこそ到達している漢文、
あくまで文明ではなく文化としてであれば、論理面でも実相面でも究極である
漢訳仏典こそが究極となる。実相だけの究極なら詩経を始めとする漢詩でも。
このスレまだあったのかよ
仏教とか中国とかもいいけど、たまたま君の脳みそにヒットしただけじゃないの?
オレも史記とか好きだけど、別に西洋文化も別の意味でいいものがあるじゃないのかな
中国・東洋文化万歳としても、結局アジア人は「馴れ合い」が好きなだけじゃないのか。日本も。
336 :
考える名無しさん:2009/03/07(土) 23:27:48 0
犯罪者に「君」扱いされる筋合いはない。
犯罪信仰(聖書教)の不当利得によって大量生産大量消費されている洋学と
絶対に価値のあるものだけを大事に大事に後世まで使い古している東洋教学が
同列に語られるのは、必ずどちらかにとって不公平なものとなり、多くの場合東洋教学が損をする。
人類の三分の二以上、多数派が所依としているのが東洋教学。なぜ聖書教や洋学じゃないのかといえば
他者の利権を侵害してまで自己利益を追い求める共食いの論理を多数派が選択すれば確実に自滅するから。
少数派だからこそ、共食いを礼賛する部族は甘い汁を吸えるのであって、全体の半分が共食いの論理を選択
した時点ですでに共食いによる利殖の増加はなくなり、過半数ともなれば共食いをすればするほど損をする。
全体性における共食いの論理の有害さを種としての人類が察知して、共食いを自明に排する教学である
東洋教学を多数派に選択させている。だから東洋教学を称賛している時、自己の立場を人類全体に見立てて
いるから、自ずと共食いを礼賛する西洋教学が批判の対象となる。もし自己の立場を自己利益第一とするなら、
比較的「馴れ合い」にも見えてしまう東洋教学が不評の対象となって、我田引水万々歳な西洋教学のほうが
称賛対象となる。人類代表と自己中、どちらが現時点においてより優先されるべきなのかと言えば前者。
地球人類社会が十二分な測量を受け済んで、完全に自己完結した一つの閉鎖社会として成立してしまっていて、
どこまでも領有権を広げ続けようとする侵略の論理が個人から国家までどの段階においてももはや認められない。
故に侵略の論理、共食いの論理を常に必ず内包し続けている西洋教学がもはや全く役に立つことがなく、
多様性の和合によって成り立つ東洋教学の全面的な活用こそが望まれる。
地球人類社会の完成という、時流に応じた評価こそが東教に向いている。
337 :
考える名無しさん:2009/03/07(土) 23:48:08 0
なんかここ、ぴかスレと同じだよね
338 :
考える名無しさん:2009/03/08(日) 12:51:03 0
中国だったら何でもいいなんてことも決してない。
四書五経は中国思想の中でも儒家の聖典だからこそ白眉となっている。
次いで道家、また次が法家、その他諸々の諸子百家。中には公孫龍子とかのかなり変な
詭弁家も混ざってて、古代ギリシャ哲学などが展開した哲学体系の大部分が一応は
網羅された上で、むしろギリシャにはない道徳主義が儒家として突出的に発展していった。
人間が考え付く物事なんて古今東西どこでも大して変わらなくて、ただ重視するものが違うだけ。
方や道徳倫理、方や概念遊び、男の子と女の子の成長の仕方が違うのと同じ。
仏教だって漢訳仏典が桁外れの文化的重大さを持つにしても、中国独自の仏教である
禅までが仏教の最高峰かと言えば、別にそうだとも言えない。仏法の体系的な学び込みという
点では密教に次ぐし、強大な信心の蓄えという点でも浄土教に劣る。ただ宗祖である達磨や
臨済らの言行の奇抜さがウけて面白がられているだけで、本物の仏教はもっとちゃんとした
荘厳を尽くすものだと朱子も「語類」で言っている。日本曹洞禅開祖の道元も別に禅宗を一義的な
仏教として捉えているのではなく、拡大散逸し過ぎた仏法を纏め上げてデフォルメさせた所にこそ
禅の価値を見出しているところがある。実はまだ浄土教のほうが信仰という面で本格的な仏教だったり。
339 :
考える名無しさん:2009/03/09(月) 12:12:24 0
[原文]
十月之交 朔月辛卯
日有食之 又孔之醜
彼月而微 此日而微
今此下民 亦孔之哀
[訳文]
十月と月がわりして、つきたちのかのとの卯の日。
あおぎみる天つ日の蝕。まつりごとにとがあるしるし。
蝕のおこる月にもあれど。日の蝕こそまこと忌まわし。
かかるとき生まれあわせた、わが民のいともかなしき。
(「詩経全釈」小雅・十月之交より)
実際の日食との照合から、この詩の成立が2894年前(紀元前885年)だと分かるという。
現実の時事をつぶさに描きこんでいるから、2500年以上前だろうとも年月が明確に分かる。
形而上の神話などと織り交ぜて描かれたトロイア戦争やその語り部であるホメロスなどは
現実上の年月も不明なら、本当に実在していたかどうかも覚束ない。季節感を漂わす描写
ってのは現実の物事を自然等とも織り交ぜて描いてこそ如実となるのであって、その点で
もっとも巧みなのが中国や日本らの極東民族。逆にまったく季節感がないのがインド。
季節感があるともないとも言えず、等比級数的な年月の積み重ねばかりを重視する西洋。
そのような大雑把な歴史観もまたゾロアスター教からのパクリであり、末法思想などの
形で一応東洋社会にも影響を与えているが、それ一辺倒なんてのは西洋だけのもの。
末法思想や絶対的善悪などのゾロアスター教由来の思想は浄土教が受け継ぎ、逆に
禅宗や華厳宗は完全否定している。どちらもあった上で選択ができるのが懐の深さたる。
340 :
考える名無しさん:2009/03/09(月) 12:46:08 0
[原文]
既醉以酒 既飽以コ
君子萬年 介爾景福
[訓み下し]
既に酒に酔いぬ、既に徳に飽きぬ。
君子は万年までも、爾(きみ)に景福を介わらん。
(「詩経全釈」大雅・既酔より)
分かりやすい句なんで読み下しで。
徳に満ち足りる(飽きる)こと、酒食に満ち足りるかのごとく。
人徳もまた決して夢想的な概念ではなく、人間性に則った聖善の様として描く。
酒食だって仁政が行き届いているが故の豊かさの象徴なのであって、誰かの「血と肉」を
収奪して自分らのものとするような不当性とは一切関係がない。それは詩経国風の「七月」における
季節ごとの労役やその実り豊かさの描写などからも伺える。常に君子から下民までが一体となって
健全な社会の運営を担っていく前提があり、王だから祭司だから洞窟の奥で概念遊びをしてても
いいなんていう考え方のたるみもないわけ。仁政が行き届き、徳も酒食も満ち足りた褒美に
同詩の後編では女子の賜りが決められる。子孫を作って後世まで仁政を長引かせよと。
君が代は千代に八千代に・・・本物の君子こそが「きみ」と呼んでそれを授けるもの。
341 :
考える名無しさん:2009/03/09(月) 13:39:30 0
[原文]
文王曰咨 咨女殷商
而秉義類 彊禦多(對に下心)
流言以対 寇攘式内
侯作侯祝 靡屆靡究
[訳文]
今はむかし文王のたまう。「おおなんじ殷商の君よ。
なんぞかくもよこしまをもて、勝ちほこり恨みをかさぬる。
流言をまこと受けいれ、あだぬすびと受けいれ用う。
国のうちにのろいの声はきわみなく止むなきことを」
(「詩経全釈」大雅・蕩より)
讒言や犯罪者を国の支配者までもが受け入れてしまい、国中に怨み呪いがはびこっていることを嘆く。
共食い(犯罪性)を全体性が受け入れてしまう様相は「ウロボロス」などの図像で示され、西洋社会では
人間心理の原型であるなどと賛美されたりもしてしまう。でもそこには常に、枠組みをなぞるだけの表層的
な概念思想では描かれ得ない怨恨が渦巻いているのであって、東洋ではそれは批判の対象にこそなれど
称賛の対象になることなどは決してない。ウロボロスに類似するような図像が「玄武」などの形で東洋にも
あった上で(ただし玄武の大蛇は自分の尾を噛んでいない)、評価の仕方が全く異なっている。扱っている
ものはほとんど同じな上で、重視や評価の仕方だけが違うという東西教学の相違の基本原理の一例だ。
342 :
考える名無しさん:2009/03/10(火) 20:03:12 0
>>324 まったくリクエストに応えないのも可愛そうなんで、詩経を読み終わってから
「秘蔵宝鑰」と一緒にちくま文庫で併載されてた「弁顕密二教論」を読んでいる。
僧侶ってのは基本あくまで宗教家であって文筆家ではない。
無闇に文章表現の幅を広げるような衒いもなく、僧侶独自の形式に乗っ取った
論文の編纂に徹していて、広義の意味では「教行信証」も教判書の部類に入る。
ただ、教行信証やその他の親鸞の著作が、華厳経などごく一部の仏教経典との
比較だけで浄土信仰の正統性を示しているのに対し、空海の場合は法相三論天台華厳、
あらゆる(当時の)顕教や他宗教を網羅した上での教判となっていて、論述姿勢の
多種多様さが自ずと空海自身の天才ぶりを見せ付ける結果となっている。
343 :
考える名無しさん:2009/03/10(火) 20:03:43 0
「我を益するの鉾を争い募って、未だ己を損するの剣を訪うに遑あらず」
(「弁顕密二教論」上より)
自分自身が傷つくリスクを負ってでも即身成仏に達するが密教であり、顕教は違うとな。
恐ろしいですな、密教は。だからこそ四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡提らの
無量寿経第十八願(
>>18)でも救われないような輩までが銷滅させられるとな。
(「二教論」下の「六波蜜多経」からの引用を参照)攻撃に特化された密教、
防御に特化された浄土教、攻撃防御兼ね合わせたその他の正統仏教。
カルトまでいくともはや仏教の体をなしていないんで正統な側からは敵となる。
344 :
考える名無しさん:2009/03/10(火) 21:34:13 0
筑摩版の訳出では、二教論における「法身」という言葉が「真理そのもの」と訳されている。
密教における「秘奥なる実説」こそは、真理そのものである「法(身)仏の談話」とされる。
カントが純粋理性批判で提唱した「〜そのもの」という実体的な考え方は仏教では最前提でしかなく、
あらゆる実体の中でも真理の実体である法身こそは密教の把捉対象となる。
これは、あらゆる「〜そのもの」への把捉からすればむしろ限定的な選択肢なのであって、
ちゃんと法身だけを選択して体系的な密教教義に則った把捉を試みなければ
高位の菩薩ですら「室に入る」こともできず、声聞縁覚や凡夫どころでは
「堂に昇る」こともできないのだという。それほどにも真理そのものである法身の把捉は困難なもの。
故に「〜そのもの」をやたらめったらと収集して征服しようだなんてしたところで、法身を
体得できるわけがないのであって、「ゴミそのもの」や「ウ○コそのもの」すらも混じってしまう上に、
収奪の仕方が不当なら収集者自身は「犯罪者そのもの」にもなる。決してそれそのものが
重要な価値を持っているとは限らない「〜そのもの」という考え方そのもの。
真理そのものやそれに順ずるものそのものだけを選択して初めて価値を持ち始める実体論。
345 :
考える名無しさん:2009/03/10(火) 22:09:21 0
密教の神髄の一つとなっているタントラは世界最古の宗教信仰とされる。インド発祥の。
一方で浄土教の基本教義の一つとなっている地獄の支配者である閻魔大王もまた
世界最古の「健在古典」であるリグ・ヴェーダのヤーマを起源としている。
健在古典っていうのは、要するに生まれてこの方ずっと途絶えることなく人々に享受され続けてきた
古典のことであって、ヴェーダやウパニシャッド、四書五経や中国の歴史書、古事記や日本書紀は
健在古典の内に入るし、残念ながらヘレニズムやヘブライズムの古典のいくつかもこの内に入る。
一方でエジプト神話やギルガメシュ叙事詩らの、古代オリエントの古文書はもはや継承が一旦は
完全に途絶えてしまっていて、近年の発掘作業で初めてその内容がまた明らかになったもの。
ゾロアスター教典のアヴェスタなども4分の3程度が遺失してしまっていて、かなり健在さを欠いている。
このような過去の遺物と化してしまっている文書を、健在古典と比較する場合には非常な慎重を要する。
なぜかといえば、遺失文献と健在古典とではこれまでに積み重ねられてきた文化文明史上での実績が
相当に異なるから。例えば武経七書の内の一つである「孫子」は多くの軍略家らによって
参考にされ続け、武田信玄のように引用文の「風林火山」を旗印に掲げて戦い抜いたつわものもいる。
一方で孫子とほぼ同時期に作られたものの、長らく遺失して近ごろやっと再発見された「孫?兵法」などは
歴史上の戦士の内で誰かが参考にしただなんてことは全く考えられない。孫子は歴史を動かしてきたが
孫?兵法は今までのところ全くといっていいほど動かしてきてはいない。古典文献の価値は
ただ古いだけではなく、昔から多くの人々に影響を与えることで重ねてきた実績にもあるのであり、
道徳や聖徳を与えてきた健在古典もあれば、犯罪の正当化を与えてきた健在古典もある。
文面だけでは計り知れない歴史との照合によって始めて明らかになる古典の価値もあるもの。
346 :
考える名無しさん:2009/03/10(火) 22:51:53 0
レベル低すぎてワラタ
347 :
考える名無しさん:2009/03/10(火) 22:53:35 0
>>343のリンク先は
>>315の間違い。
>>345の「孫?兵法」の?もにくづき(月)に寶。
遺失文献の題字なんかJISコードも捕捉していない。
中国神話の最重要人物の一人で、陰陽五行思想の創始者と言われている
伏羲の妻である女カのカもJISコードにはない。女偏(女)に咼と書く。
極東文化の古代オリエントとの対等さの要となっている中国神話が
儒教によって打ち棄てられている。鬼神を尊びこれを遠ざく方針で。
縄文土器や農耕遺跡のように、掘り出せばいくらでも古さの証拠は出てくるのに
極東人はそんなに考古学に執着しない。モンスーン気候による豊潤な自然の
移り変わりがすでに素晴らしいものなので、人間ごときの化石化した文化にまで
注意を払う意欲が殺がれるものと思われる。自分こそがまさにそうなんで。
>>346 個人的に密教とはあまり深く関わりたくないんで、
儒教や朱子学とも相性のいい低地の仏教、浄土教などを基準にものを語る。
密教という山は、上り詰めようとしてむしろ谷底にまっ逆さまに堕ちていく連中が大部分。
「十進九退(十人が試みて九人が失敗する)」とな。密教の劣化コピー真っ盛りな
今の時代においては十億進九億九千九百九十九万九千九百九十九退ぐらいかな?
一人だって成功した人間がいればしめたもんだが、それすらも疑わしい。
349 :
考える名無しさん:2009/03/11(水) 12:28:12 0
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E5%AF%86%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85%E5%8D%81%E4%BD%8F%E5%BF%83%E8%AB%96 「十住心論」で説かれた異生羝羊心から秘密荘厳心までの十段階の心のあり方が「秘蔵宝鑰」でも説かれていて、
信頼性が低いと言われるウィキの解説も上記に関しちゃこれで全く間違いない。
ただ、この十住心論の区分けの内で、現実世界の大部分に対して当てはまるのは最初の三つ、
異生羝羊心と愚童持斎心と嬰童無畏心の三つだけに尽きていて、しかも異生羝羊心が特に猛威を振るっている。
空海は関知しなかった聖書教や洋学に基づく心理状態ってのは、余すことなく異生羝羊心に入るのであって、
最低限の道徳心(庸徳)に目覚めて言行を慎み出す愚童持斎心にすら到達できていない。道家やヒンズー教やイスラムは
超俗性を社会性の上に置く嬰童無畏心の状態にあって、同じ超俗主義である仏教の立場からすれば愚童持斎心よりも上になる。
でもただ社会における犯罪性を正当化するための詐術の超俗主義なんてのは、本物の超俗主義からすれば一番見下げるべきもの。
儒教とか他力仏教とか、超俗的な精神性には与らずとも、世俗主義の展開の場である社会において最低限の品性を保つ教学のほうが、
社会への侵害を目論むような偽者の超俗主義よりはまだ上にある。超俗主義が社会を侵害するのは明らかな本分の逸脱だから。
350 :
考える名無しさん:2009/03/11(水) 13:08:58 0
アブラハム教という未知の存在の介入により、空海はもっぱら肯定の対象としていた
「超俗性」が必ずしも称賛できるものではないことが分かってしまっている。
ただ超俗性を賛美ばかりするという嬰童無畏心、道教やヒンズー教の段階を超えて
人々が超俗性の積極的な探求を考えるとき、小乗仏教であれば自利、大乗仏教であれば利他を考える。
いずれであれ自分や他者を利することが基本的な目的であって、故にこそ超俗の功徳が貴ばれる。
一方でユダヤ教が聖典とする旧約聖書は「害他」を、キリスト教が根本聖典とする新約聖書は「自害」を
唯一絶対神の超俗性によって正当化する。超俗性が自分や他人への侵害に悪用されるという場合が
アブラハム教にはあるのであって、仏教最高峰の威信をかける密教者である空海がそんなことを許すはずがない。
超俗性を社会への侵害に悪用しているとき、むしろ超俗性は社会上の犯罪のために劣後的に利用されている
だけなのであって、超俗性を社会性の上に置く嬰童無畏心はもちろんのこと、超俗性を尊びつつも
自分たちは社会性にとどまる儒教の愚童持斎心よりもさらに下、超俗性を社会性の下にすら置いてしまう
異生羝羊心こそが、自他の侵害ばかりを目的とした悪性の超俗宗教の領域となる。
しかしアブラハム教全体が異生羝羊心に留まっているのかといえば必ずしもそうではなく、
イスラムの場合は超俗性の悪用も善用も避けて、ただアラーへの絶対帰依に信仰上の行為を留める、
戒律が厳格な念仏宗とでも言えるようなものであって、すでに道教やヒンズー教程度の不不当性は保っている。
超俗性を善用だけするか、悪用しなければ嬰童無畏心以上にはなれるのであって、現人類の三分の二以上が
帰依対象としている道教とヒンズー教とイスラム教、そして仏教はこの条件を満たしている。
儒教や他力仏教でも愚童持斎心ではあって、聖書教の異生羝羊心よりは上。迷える子羊よりは。
>>343で引用したとおり、密教も自害(自分を傷つける)を教義に含んでいるのは確かだ。
ただ密教もまた大乗仏教でもあるのであって、最大の目的はあくまで利他になる。
自利を考えすらせず利他を考える、浄土教とも共通している全体性の絶対的安楽志向。
そのための検察とでも言うべき害毒までもの服用。そこに陥ってしまえばそれまでであって、
数々の密教もどきが毒の中和に失敗して自分らまでもが害毒と化している。
始めから害毒に陥ることを目的とした密教すら存在する。「如来秘密」とはまた別物の
「衆生秘密」、中には毒食わば皿まで的な鬼門もあるから、下手に関わりすぎないほうが。
352 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 13:48:25 0
密教はまた置いておくとして、書経、詩経に続き五経の一つである「礼記」を読んでいる。
「大学」や「中庸」も元はこれに入っていたが、この二篇だけが突出して重要なんで別に扱われている。
これまでの察知からすれば、詩経は易経並みに難しく、礼記は書経並みに分かりやすい。
易経は宇宙の真理を示した奇抜の書だし、詩経は古代中国の風俗に緊密にまつわり過ぎていて
いくら同じモンスーン気候とはいえ日本人には計り知れない部分がいくらかある。
対して書経はいつの時代どこであろうとも通用する天下国家の治世の方法が記されているし、
礼記は極端な宗教性に基づいた戒律などではない、世俗における品性の保ち方としての礼儀が
事細かに記されている。享楽で自分を見失うなとか、物事を一面的な愛憎ばかりで量るなとか、
無闇に争って勝とうとするなとかの基本原則もあれば、高すぎる所や低すぎる所に行くなとか、
外出するときにはちゃんと言えとかの小うるさすぎる程の説教もあるし、会食や葬式や赴任などにおける
当時の中国特有の儀礼もまたある。論語が孔子の語録なのに対し、五経は孔子自身の編纂した書物。
春秋戦国時代の中国において、数多に散逸していた古代の記録や文献を儒家という学団が纏め上げて
勉強しやすいように完成させたものであって、本当に昔のままである部分もあれば(易経本文や詩経)、
かなり孔子らの手がかかっていたり(礼記)、孔子自身によって作られたもの(易経繋辞伝や春秋)もある。
2500年前の時点ですでに温故知新であり、バラモン教の改善に徹した仏教とは明らかに違う儒教の側面。
353 :
考える名無しさん:2009/03/13(金) 12:52:39 0
「君子の人を愛するや徳を以てし、細人の人を愛するや姑息を以てす(「礼記」檀弓上第三)」
「君子曰く、人の軍師を謀りて、敗るれば則ち之に死し、人の邦邑を謀りて、危うければ則ち之を亡る(「礼記」同)」
おそらく五経の中で最も「論語」に近似する内容を持っている礼記。
孔子の言行もかなり織り込まれていて、中には孔子自身の死後の祭られ方までもが参考にされている。
道徳と儀礼は常に不可分のものであり、道徳を記す以上は儀礼が記され、儀礼を記す以上は道徳が記される。
ただ道徳寄りなのが論語で儀礼寄りなのが礼記である。論語の内容をより深く学び知りたいというのであれば
論語自体の解説書だなんだを読み漁る以上に礼記こそを読むべき。もちろんその他の四経も参考になる。
五経に対して頓着がなさ過ぎるのが日本人で、あまりにも重視しすぎなのが朝鮮人。
参考にはするが鵜呑みにはしないというのが外国人にとっての最も模範的な五経の学習態度。
風土記や万葉集、延喜式らの比較文化的な勉強にも日本人にはなる。何が五経と比べて改善されているか等。
354 :
考える名無しさん:2009/03/14(土) 13:02:31 0
「凡そ刑罰を作す、輕きも赦すことなし。刑は、イ刑なり、イ刑は、成すなり。
一成して變ず可からず、故に君子は心を盡す。
言を析き律を破り、名を亂り作を改め、左道を執りて、以て政を亂すものは、殺す。
淫聲異服、奇技奇器を作りて、以て衆を疑はすものは、殺す。
僞を行ひて堅く、僞を言ひて辨じ、非を學びて博く、非に順ひて澤に、以て衆を疑はすものは、殺す。
鬼神・時日・卜筮に假りて、以て衆を疑はすものは、殺す。此の四誅の者は以て聽さず」
(「礼記」王制第五より)
葬儀における事細かな取り決めなどが記される一方で、このような法律同然の記述もある。
もちろんこれはあくまで法律ではなく、法を妄りに犯さんとする者への法律を超えた君子の厳しい態度姿勢の表れ。
まことに儀礼とは(宗教的)戒律と(政治的)法律の中間の存在であり、完全なる実定上の戒律や法律に比べれば
融通が利くために、人間の感性の細部にまで行き届いた言動規範が示されている。
355 :
考える名無しさん:2009/03/14(土) 13:03:32 0
道徳や真理は人間の言動を直接示すものではなく、人間性に密接に関わるのはあくまで礼儀や戒律のほう。
正統な礼儀は道徳に纏わり、厳格な戒律は真理に纏わり、また実定上の法律は犯罪に纏わる。
戒律や法律は礼儀に比べれば際どいものが多く、過ぎたるも及ばざるも認めない儒家においては劣後対象となる。
同じ中国でも法家だと法律寄りになるし、禅だと戒律寄りになる。法律と戒律の間を取る中庸が自ずと
礼儀の大切さを追い求め、人間として見た場合の最も健全な有り様となる。弁護士や裁判官以上に。
犯罪を自明に否定する道徳に基づいた人間性を司っているんだから、犯罪の処理を司る場合よりも高潔たる。
356 :
考える名無しさん:2009/03/14(土) 13:35:50 0
まあ自分勝手な解釈をたらたらとw
占有スレだったら削除だな
357 :
考える名無しさん:2009/03/14(土) 13:52:29 0
今の時代において正統とされている東洋教学への解釈が、ちっとも東洋教学の実用性に即していないわけだが。
フェロノサのパシリと化して法隆寺の秘仏を強制開帳した岡倉天心とか、無礼にも程がある。
何よりも西洋教学と対等なものとして東洋教学を扱うことが決定的に受け付けられない。
儒教級の道徳倫理とは明確に相反する犯罪性だとか、仏教での六道輪廻における地獄餓鬼畜生の三悪趣の
精神状態だとかが、西洋教学では転倒した称賛の対象にすらなっている。そのような教学と東洋教学を
同列に比較すれば絶対にくそみその様相を呈するのであって、明治以降の第一級の研究者ですら
東西教学の同列化や、さらには西洋教学を基準とした東洋教学の批評などを試みようとしている。
そのような姿勢に基づいた東洋教学への解釈が正統であるというなら、今はまだ異端と呼ばれたほうがマシ。
聖書教や洋学ばかりにとって一方的な利益となり、東洋教学の側にとってはただの不利益にしかならない
みそとくそを同列に扱ったり、くそを基準にみその味を鑑定しようとしたりするくそまみれの解釈にはさよなら。
東洋優先西洋劣後を基準とした解釈であれば誰しもが論議していいところ。まだ誰も手を付けていない部分だが。
358 :
考える名無しさん:2009/03/14(土) 14:25:54 0
↑
句読点が少なくビッシリと漢字で埋めるパラノっぷり
必ず文末の語を文ごとに変える、必ず演繹法で論理的等
自負心があるらしいが見せ方がシステム化されすぎる完璧主義
「らしさ」に固執して自分を追い込む代わりに依存するものを求めていて、
それがいつか取り外される事に関して拒否感があるがついその事を考えてしまう
なんかそんな印象
糖質っぽい。なんか無理してる、あぶない感じする 宗教やりすぎ
カネになる文章→破綻し通しの奇天烈ワールドでも健康
カネにならない文章→筋の通った的確な内容でも病気
もちろん最終的な利益になるのは筋の通った的確な文章のほうだが、
その場限りの私益などにはならない場合が多いんで、そうなる文章のほうが好まれる。
独立生存能力の低い女の論理により。
宗教という、できる限り目を反らしておきたい陰鬱な問題からの逃避手段として
「宗教なんかどうでもいい」とか「嫌い」とかの言い訳がなされる。
宗教の名目により押し通され続ける罪悪に対して
「それは宗教のための罪悪ではなく罪悪のための宗教だ」
との正当な糾弾を為そうともしない。故にイスラエルのガザ侵攻等も止められない。
その時点で犯罪宗教(×宗教犯罪)の問題を黙認したそれらの人間もまた従犯となる。
書経や礼記から現代に至る、あらゆる正統倫理において確かにそう言えること。
宗教論ではなく現実論としての、犯罪黙認状態への告発。
361 :
考える名無しさん:2009/03/14(土) 18:48:15 0
仏教が宗教なのは認める。というよりも、模範の限りを尽くした宗教の中の宗教。
でも儒家に関しちゃ宗教性は極めて低い。無いとは言わないが、極限まで抑えられている。
どれぐらい抑えられているかと言えば、世界一非宗教・無信仰に近い所にある教学だと言えるほど。
哲学や法学、科学などの西洋ペースの学術は、それだけを見れば非宗教・無信仰のように思える。
でも洋学に宗教性がほとんど見受けられないのは、宗教性を聖書主義に丸投げしているから。
外界の利権を収奪して自分らのものとする我田引水が、常に前提的な背景としてあり続けることで
初めて高コスト低パフォーマンスの洋学もまた研究や実用化が可能になるのであり、故に洋学ペース
で物事が考えられている以上は、地球人類全体が利益を得るなどということが決してあり得ない。
ただ一部の人間が他の人間から利益を一方的に収奪する犯罪システムが存続するだけでしかない。
だから結局地球社会全体が、盗ったり盗られたりの犯罪システムを解消した上で成り立つためには、
我田引水の聖書主義が駆逐されるだけでなく、聖書主義による資金的庇護がなければやっていけない
洋学までもが排撃される必要があり、「教」と「学」両面での西洋文化文明の劣後が行き届いた後に、
東洋教学の「主流の宗教や学術」としての流布が促される。宗教の側面だけでなく、学術の側面でも
洋学以上に主流を成す学問として儒学や朱子学らが重んじられるようになる。無闇な資金投入など
なくとも、士農工商の四民制等によって低コスト高パフォーマンスの社会秩序を立ち上げられるから。
教学両面のバランスで考えればむしろ東洋教学のほうが洋学よりも非宗教・無信仰的なものだから。
362 :
考える名無しさん:2009/03/14(土) 22:59:56 0
犯罪性を排除する正当な教学にさえ随順したなら、精神不安なんかどこにもなくなるのに
犯罪性による我田引水の甘みが捨てられないあまり、正当な教学にまでケチを付ける。
「俺たち病人を治癒させられないんだから、おまえらも病人だ」と。
治しきれないほどの病理を自分らで作っといて、ただ健康でいることだけが目的な人々に
拡大し続ける病理への治療すら強要し、できなければやぶ医者かさらには同病扱い。
問題もその解決も両方ともがそちら側にあって、ただ病気を完全治癒させた先にこの上ない
安楽が待っているという保証だけがこちら側にある。犯罪すらしなければ人間は楽々だという。
種族としての人類を破滅に陥れてまで個々の人間が生き延びるほどに、人間は個体として
完成された生き物ではないという、絶対的な事実に基づいた和合だけが人々を安楽とさす。
この上ない程に絶対的であるものに、確かに人間としての絶対的な安楽はあるから、
安心してお縄を頂きなさい。
了解しますた!
364 :
考える名無しさん:2009/03/15(日) 13:18:40 0
「王命じて、農事を布く。田に命じて東郊に舍り、皆封疆を脩めて、審かに徑術を端し、
善く丘陵阪險原隰、土地の宜しき所、五穀の殖する所を相て、以て民をヘ道す、
必ず之を躬親らす。田事既に飭ひ、先づ準直を定む。農乃ち惑はず」
(「礼記」月令第六より)
王様自ら農事を民に教えるとな。天皇陛下も毎年田植えをしておられますな。
勉強すればするほど「正義の味方」まっしぐらな儒教だ。
戦隊ヒーローに仮面ライダーにウルトラマン、水戸黄門に銭形平次に鬼平に遠山の金さん、
考えうる限りでのあらゆる正義の味方の基本要素が四書五経や朱子語類に詰まってる。
ギリシャ神話の英雄やアメコミのヒーローなんかがいつもどこか影があるのに対し、
儒家に基づく正義の味方は完璧であり、一点の陰りもない勧善懲悪が完遂される。
しかもそれが最高に面白いってんだ。まったき善がすさんだ悪を完全にやっつけるってのが
子供からお年寄りまで全世代共通した娯楽として好まれる。最大最強最高のワンパターン。
悪いことをせずに善いことをする(諸悪莫作衆善奉行)仏教の基本原理が安楽ならば、
勧善懲悪な儒教の基本原理は究極のエンターテイメントだ。魅惑のお江戸捕り物劇だ。
365 :
考える名無しさん:2009/03/16(月) 10:30:10 0
韓国人が犬肉料理って作るだろう?
あれも儒教の儀礼に基づいている。祭祀のための儀礼食なわけ(「礼記」月令第六参照)。
別に大して美味くはないのは「羊頭狗肉」の用例からも分かるし、羊肉ももちろん食べる。
内陸国家である中国では肉食文化が豊富であって、魚食の多い日本とはそこが決定的に違う。
農耕民族だから草食だなんてことは全くなくて、究極の肉食である人肉食にすら手を出している。
だからこそ食人信仰であるキリスト教なんかに大した意味は見出さない。肉食を突き詰めて
いるからこその諦観っていうものがあるのであって、ろくに食文化も発達していないような
地域社会の文化と比べれば一段も二段も深遠さを高めている。多少グロくもあったりするが。
366 :
考える名無しさん:2009/03/16(月) 18:48:00 0
現行の学力テストにおける古文漢文の配点の低さなども響いてはいるだろうが、
今の東洋教学はちっとも本格的な勉強や研究を行うための環境が整っていない。
専門の書籍なども、法律書や医学書や聖書などと比べて“装丁から”実用性に欠けている。
例えば四書五経を明治書院版の「大系」で読もうとすれば、大判(A5)の分冊で18冊にもなってしまう。
これじゃあちょっとやそっとじゃ手を出す気にはなれやしないし、縦横無尽の参照なども困難。
どうせなら全文を模範六法ぐらいの縮刷で一冊本として、どこでも使い回せるぐらいにすりゃあいい。
犯罪や係争沙汰を未然に防ぐ道徳倫理の教科書なんだから、「超六法」とでも言うべき重要書となるし、
毎年度の改版なんかもいらないから無駄な重版も省けて一石二鳥。地球に優しい道徳倫理優先社会の急先鋒。
もちろん東洋教学はいちいち文書を参照するまでもなく体得できているのが一番いいのであって、
昔の武家社会のように道徳倫理のエリートがいないからこそ多少の便宜を図らなければならなくなってる。
君子も武士も不在である代わりに出版技術の発達した世の中。聖典の活用の仕方にも工夫が必要になる。
367 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 11:47:07 0
孔子やその門下である儒家(「孟子」での用例が初出)は、道徳だけでなくあらゆる儀礼のエキスパート
であり、人間が特に畏まった儀礼を要求されるのが葬儀なので、必然と葬儀にまつわる記述が多くなっている。
中には結婚とか毎月の行事などのやり方も書かれていて、神道の格式とかぶるような所に犬食とかもある
(故に日本では犬食までは真似られていない)。日々の出来事の中でも特に儀礼の重要な物事を
取り仕切ることで、より思想哲学としての純粋な道徳も究められている、実践からこそ派生している道徳倫理。
「賤しきものは貴きものを誄せず、幼いものは長を誄せざるは、禮なり(「礼記」曾子第七より)」
貴人や年長者の死に卑人や幼年者が下手に哀悼の意を述べたりするなとの意味を持つ上記の礼式。
身分の違いすぎる者同士が感情移入し合うのは、序列を乱す反儀礼的行為にあたるとされる。
儀礼を考慮に入れなければ、むしろそのほうがいいように思えるようなことまでがたまに忌避の対象となる。
形而上の問題に携わらず、かといって積極的な犯罪性も認めない中庸故の「過剰な現実性」が垣間見える。
昔の人たちも儒教の教義はあまりにも現実的過ぎて味気ないと思っていたようなので、信教としての面白さは
あくまで神道や仏教、道教などのほうに見出していたもの。宗教性の丸投げとまではいかない、ちょうどいい
距離感を保った学術と宗教の関係性がそこにあり、致命的な分裂を避ける聖徳太子の大和思想が常に活きている。
368 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 11:58:51 0
スレ違い。宗教スレでやれ。
369 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 12:06:58 O
「ねえどうして、ねえなやんで!答えてよ。どうしてなの?」島津
370 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 12:13:41 0
儀礼は戒律とは違って、信仰には基づかない。
ただ人間関係の穏便さを取り計らうことで、犯罪や争いごとを未然に防ぐのが目的。
厳密に社会性と繋がり続けていて、儒家が催す葬儀にも一切宗教信仰の問題は入っていない。
それぞれの信仰対象とする神(仏)に基づいてなされる葬儀の儀礼的な参考書に過ぎない。
位牌なんかも本当は儒家の提唱なんだが、完全に極東仏教の慣習の中に入ってしまってる。
仏教のほうはともかくとして、儒家にとってはそれでいいこと。ただ儀礼すら嗜まれれば。
位牌を迷信として切り捨ててる浄土真宗のほうがむしろ信仰過剰なものだ。
371 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 12:29:00 0
儒者だからって僧侶や神官なのではなく、ただ葬儀屋なだけ。
冠婚葬祭全てに通じていて、しかも政治顧問や哲学者や思想家でもあった。
しかも武士までいけば剣術まで覚える。儒学と剣術の文武両道で真の士道。
武士道といってもいいが、明治以降に捏造されたほうじゃない本物の武士道。
選択されていた学問は基本あくまで儒学であって、副次的に禅や実学も嗜む。
小乗仏教の倶舎宗が最前提の学術的素養として実学を置いていたように(
>>44)、
実学に確信的に儒学や禅を上乗せしているのが本物の武士道の真髄であり、
実学に武士道を応用するなんてのは武士道の引き摺り下ろし以外の何者でもない。
ただ浪人であるだけでも武士が平民より偉かったのは、儒学や禅といったより高尚な
学問を修めた貴人だったから。それだけで実学なんかやってる奴らよりも遥かに偉い。
下手に感情移入し合っちゃならないほどに身分がそれだけでも違うものだ。
哲学じゃなくてただの批判じゃねえかよ
そりゃあカントのほうだ。
あれこれ手出してカオスになってるのが文面からも窺えるな。
新興宗教と同じであらゆる思想のごちゃ混ぜでそれっぽく矛盾無く見せようとする下手な手法。
375 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 13:08:45 0
神道と儒教と浄土教、基本はこの三つが主要な領分。
神道と浄土教は家の宗教(父方が神道、母方が浄土真宗)だし、母方は曾祖父の代まで禅(臨済宗)でもあった。
だから浄土と禅の対比でどうしても浄土のほうを贔屓目に見てしまうし、儒家の教学は武家の末裔としての血が騒ぐ。
お公家さん向けの密教は恐れ多いし、町人向けの日蓮宗は士農工商で農民の信仰対象だった浄土教よりも下扱い。
神道は余りにも自分から近い所にあるものなので、主観的になりすぎるのを避けるため込み入った批評はまだ避けている。
道教、ヒンズー教、ゾロアスター教、イスラム教らの日本固有でない東教はあくまで外様扱い。敬いつつも遠い存在。
自分の立場から見れば東洋教学はそういうもの。たった一つだけでもなければ何でもかんでもでもない。それでも
無理に一言で括ろうとすればやっぱり「和を以て貴しとなす」となる。真宗聖典の最後尾にも載っている十七条憲法。
近代法学では公務員法程度の扱いでしかない聖徳太子の理念が、40億人以上の地球人類の文化文明を纏め上げている。
後は残りの20億人が犯罪の正当化を諦めて最後列からやり直すことを認めるだけ。それで宇宙戦艦大和アースの完成。
376 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 13:38:51 0
荘子にもマハーバーラタにもアヴェスターにもハディースにもまだ手は付けちゃいない。
仏教を本気で研究しようとしたら坊さんになるしかないが、もちろんその気もない。
今はとにかく実用性に即した東洋教学の究明に重きを置いている。
犯罪や争いを未然に防ぎ、起こっても後残りなく穏便に始末する、
諸悪莫作衆善奉行と勧善懲悪への最短経路、真宗聖典に四書五経。
東洋教学全書の読破なんかは、老後にゆっくりやればいいわけで。
あと40年もすればもうちょっと気の利いた読書体制が整ってくれてるだろうし。
377 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 16:21:53 0
378 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 17:12:19 O
「ドブの底でスッパだかで土下座して、後頭部を足で踏まれながら泣いて喜べ」ってことだ。
379 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 18:05:36 O
姑息な読み替えを発見。
明治書院版「礼記」文王世子第八における公族の子弟への指導方針として、
原文読み下しが「之に教ふるに孝弟・睦友・子愛を以てし」となっているのが
訳文では「孝悌・親和・友愛の心を養い」となっている。
「父母に孝行をつくし、兄など年長者によくつかえること(「大辞林」より)」
という意味を持つ「孝弟(孝悌)」がそのままなのはともかくとして、
「兄弟の仲がむつまじい(「大漢和辞典」より)」という意味を持つ「睦友」や
「子のように愛する(同)」という意味や「いつくしみ。慈愛(同)」という意味を持つ「子愛」が
「互いに親しみ、心を合わせること(「大辞林」より)」という意味を持つ「親和」や
「兄弟または友人間の情愛(同)」という意味を持つ「友愛」に置き換えられている。
誰彼構わぬ親しみ合いや、姑息な情愛はこれまでの「礼記」における記述や
「孟子」における博愛指向の墨家への糾弾からも、儒家では認められていないことが分かるのに、
わざわざダメな理念のために用いられてる用語のほうに読み替えてら。
あくまで原文の「睦友」や「子愛」のほうが正しい。
友人は適度に睦まじく、子は慈しむ。さようなら親和友愛。
>>296 というわけで、儒教の基本理念は「孝弟・睦友・子愛」の三つです。
年長者への敬い、同年代での適度な睦まじみ、若年者への慈しみ。
フラタニティかフタナリティか知らないが、決して友愛なんていう
気持ち悪い言葉で括られるもんではございませんので、あしからず。
381 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 18:46:49 0
「書経」も明治書院版で読んだが、
>>264の「奴隷にして辱める」という訳出も
「妻子に至るまで罰する」という意味を持つ「孥戮」の誤訳らしい。何とお粗末な新釈漢文大系。
読み下しは読みたいんで一応読破するつもりだが、訳文や語釈には気を付けないといけない。
現段階の第一次資料がこれなんだから困ったもん。全然やる気のない漢文学サイド。
ちなみに極東民族の反奴隷拘束主義の一番の象徴はなんと言っても縄文土器。
古代から近代に至るまで、奴隷拘束の肝心要の道具とされてきた縄を文様なんかに使ってた。
縄を奴隷拘束に使うような連中にはそんな心の余裕は絶対に生まれやしない。
奴隷を使役してピラミッドやスフィンクスは造れても、縄文土器は作れない。
不当な理念の持ち主には出来ないことこそを極東人はやり続けてきたのであって、
ちょっとやそっと方向性を修正したところでその経験の差は決して埋まることがない。
絶望的な格差の実在を踏まえた上で、なお現実を受け入れる苦しみを最後の苦しみとせよ。
おいおい
著作権違反には注意しろよ
383 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 19:34:31 0
>>379の大系版「礼記」からの引用(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E7%94%A8)の少し後にもう
「聖人の事を記するや、(中略)之を愛するに敬を以てし、(中略)之を紀するに義を以てし」とあり、新釈版でも
「聖人が一事を行なって、その次第を記録せしめるに際しては、(中略)人を愛して行なうことがあっても、
恭敬の心を失わず、(中略)また行動を正義によって規制し、(情愛のために偏向を生じないように注意し)」
と訳されている。わざわざ情愛に流されないよう注意せよと竹内氏(訳者)は注釈を入れられてるわけだが。
子愛を友愛と訳した先例と明らかに食い違ってるわけで。恐らく友愛の意味をちゃんと理解していない。
訳文や注釈にまで文句を付けるのはここでの主旨にはあまり沿わないが、需要面ではなく供給面のほうでこそ
東洋教学が貧窮した状態にあるのを裏付ける事例ではある。色んな文献からの切れ切れな引用は、無断転載
の許可要件を満たすのも偉く面倒だ。著作権法自体が引用の重大性が高い仏典の論文の編纂にも不向き。
「教行信証」なんかいま書かれたら全く購読物として認められなかったであろうほどの引用や改編のかたまり。
犯罪や刑罰を司る法律よりも上にある道徳や聖徳こそを扱っている文献なんだから、扱い方を法律に規制
させることがすでにおこがましいことではあるが、著作権法下での発行物であるには違いないので歯がゆいもの。
なるべく引用を50年以上前の古書から行なうように心がけるか。それも法律に道を譲っているようで腹が立つ。
384 :
考える名無しさん:2009/03/17(火) 20:40:35 0
>>383の訂正:
犯罪を司る程度に正当な法律のあり方は管子や韓非子といった法家こそが示している。
今の実定法なんてのは罪を犯させて罰を科すマッチポンプの片割れでしかないから、
犯罪を司れてすらいない。「犯罪律」という犯罪性増幅システムの法律部門なだけ。
そしてもちろん法家よりも儒家のほうが優勢。始皇帝が法家に則って中国を支配した
のなんて15年やそこら。漢代以降ずっと儒家が国教とされていたし、日本にも輸入された。
日本人が自分らから積極的に外地の教学を取り入れたのなんて儒学と仏教ぐらいのもんで、
洋学は江戸時代まではちょくちょく齧る程度で多数派は取り入れず、しかも松平定信なんて
朱子学以外の異学を禁止すらしていた。それで日本は過剰すぎるほどにも平和だったわけ。
無理矢理明治以降に洋学を全面的に取り入れさせられたりしなけりゃ、今でも子供の頃から
四書五経朱子語類に馴染んでたもん。洋学のほうに手こずらされて随分と修学が遅れたが。
これこそが一番正しい勉強だってことだ。世のため人のため真に役に立つ勉学のあり方。
あくまで有益無害を旨とし、有害無益な教学などには一切手を付けず、真の修身に励む。
悪の手先ではない正義の味方。悪を完膚なきまでにやっつけてこそ輝く真の正義の学問。
未だに洋学なんか重宝がってる連中は全部やっつける。両手に十手と数珠での大捕り物。
385 :
し:2009/03/17(火) 22:56:45 O
スノビズム
386 :
ね:2009/03/17(火) 23:18:09 0
剣を振ってりゃそれで満足な
387 :
考える名無しさん:2009/03/18(水) 08:31:10 O
儒家を含む中国思想は「知識」だ。「信仰」でもある仏教とはそこが違う。
でもただの知識ではなく、「君子講座」とか「儀礼講座」とかいった、正当で高尚な内容を持った知識。
対して洋学は、これもまた知識ではあるが、こちらは「泥棒講座」とか「詐欺講座」とかいった、
不当で低劣な内容しか持たない知識。
同じ知識でもより賢くなれる知識と、より馬鹿になる知識との両方があるから、
ただ知識があればそれで偉いだなんてことは決してない。
悪質な知識は悪用を防ぐためだけに留め、良質な知識のみを積極的に活用してこそ
つまらなくなく楽しい全てのものに与かれて、できなけりゃその一切がふいになる。
100キロの味噌に1グラムの糞でも混ざれば、全てが二度と食えなくなるように。
>>387 批判はもういいから他所でやれ
おまえの日記帳じゃねえ
389 :
考える名無しさん:2009/03/18(水) 12:46:46 0
人間が、道徳的な人間性を肯定しない時、常に犯罪者だ。
哲学者だろうが科学者だろうが法律家だろうが、道徳性を認めない以上は
即犯罪的な人間性となる。哲学真理や科学法則や法律文書とはまた別のものとして。
そこがいつも、常に必ず余す所なく完全に疎かになっているのが洋学。
純粋概念化された哲学や科学や法律のほうばかりに気を取られて、肝心の
自分たち自身の人間としての着実な道徳性をいつでも蔑ろにし、故に犯罪的たる。
実際の非合法も精神面では一切忌避しない。犯させて罰してこその法律だとすら考える。
だから非合法に直接手を出していなくとも、性分が常に犯罪性を欲求している。
道徳的ではないが故に、常日頃どんな時だろうとも内面では犯罪が礼賛されている。
内面からの犯罪や犯罪性の否定こそが道徳。道徳的でない以上は常に犯罪的な人間。
390 :
考える名無しさん:2009/03/18(水) 13:50:09 0
正しい形而上学的認識・・・ヒンディズム(インド宗教哲学)
正しい形而下学的認識・・・チャイニズム(中国倫理思想)
間違った形而上学的認識・・・ヘブライズム(聖書教)
間違った形而下学的認識・・・ヘレニズム(洋学)
「形而上学的か形而下学的か」でも「顕教的か密教的か」でもなく、
「正しいか間違っているか」こそが東洋教学と西洋教学の相反性となっている。
何においてか? あらゆる面において。いついかなる場合どんな側面においても
東洋教学はより模範的な東洋教学であらんとする限りにおいて常により正しく、
西洋教学はより模範的な西洋教学であらんとする限りにおいて間違っている。
正しいからこそ東洋教学は常にいつも余す所なく道徳的。東洋教学たる以上は。
間違っているからこそ西洋教学は常にいつも余す所なく犯罪的。西洋教学なら。
部分的に東洋教学が間違っていても、それは亜流の東洋教学だったりするし、
部分的に西洋教学が正しくても、あくまで亜流の西洋教学であり続ける。
存在性が根本から正しいのが東洋教学であり、間違っているのが西洋教学。
ヴェーダや仏典や四書五経や、聖書やギリシャ神話哲学といった根源の部分から
明確に正しいものと間違ったものとに分岐していて、最初に東洋教学が生まれ、
次いで善悪二元論のゾロアスター教が生まれ、その後やっと西洋教学が“発症”した。
本来は人間は正しく道徳的な生き物なのであって、後のほうになってちょっとだけ
犯罪性という病気にかかってしまってるだけだってのが、人類の正史からは伺える。
3000年前の、病気がまだ発症していなかった健康な時代に戻ればいいだけ。
正しいものがただ正しいままにあっただけの時代。儒教や仏教によって弁解
するまでもなく、ただ自然に正しかっただけの時代に還れば一番いいこと。
↑
とてもうるうるきた!
392 :
考える名無しさん:2009/03/18(水) 14:23:22 0
中国:人口1,324,424,000人、面積9,596,960km^2
インド:人口1,131,043,000人、面積3,287,590km^2
ギリシャ:人口10,647,529人、面積131,940km^2
イスラエル:人口7,026,000人、面積20,770km^2
大体が中国やインドと、ギリシャやイスラエルの国力の格差を比べれば、
お話にならないほど東洋教学の素地のほうが豊富で、洋学のほうが貧弱なのが目に見えてる。
ヨーロッパとかロシアとかアメリカとかオセアニアとか、後付けで征服した面積がやたら大きいだけで
文化文明の核になっている地域だけを抽出すれば、西洋ってのは本当に蚊か蝿のようなもん。
中国は虎でインドは象。日本だってまだギリシャやイスラエルに比べれば大きい鶴あたり。
ただでさえ豊潤な文化文明を内省によってさらに凝縮したものと、ただでさえ貧困な文化文明を
外界への侵略によってさらに水増ししたもの。東洋教学と西洋教学。方向性があまりにも違いすぎて
どっちが上でどっちが下蚊まで把握されにくくなってるが、正しい間違いの相反は頑としてあるもの。
394 :
考える名無しさん:2009/03/18(水) 21:40:49 0
知識とか認識とか、あるいは愛とか平和とか勇気とか、「彼岸の言葉」とでも呼ぶべき類の言葉がある。
それら自体が一概に良かったり悪かったりするわけではない、諸刃の剣のごとき価値を持っていて、
ただ無闇やたらに追い求めたところで、悪い知識だったり誤った認識だったり、姑息な愛だったり
スパイ活動放任状態の不義の平和だったり匹夫の勇だったりと、いくらでも不当なものになり得る。
ひたすら方向も見定めずただ膨張し続けてきた西洋社会ってのはまさにそのような状態にあるのであって、
良い知識や正しい認識、徳に満ちた愛や道義的平和や真の勇気に基づいた社会の発展こそが望まれ、
今でこそ旧態依然扱いとされている東洋教学に基づいた、新たな社会秩序でこそそれが叶う。
所依とする教学はあくまで旧来の東洋の文献に基き、それとはまた別に近代化してしまっている産業を
洋学ペースの統治から東洋教学ペースの統治に切り替える。古くて新しい変革社会の誕生となる。
知識も認識も愛も平和も勇気も、悪くなくて良いものこそを伸ばしていく。株価とかの目方の発展は
微々たるものと化したとしても、真に良質な人類文化文明の発展がそこにあり、むしろ純粋な良質さでは
これまで以上のものとなる。粗悪な小銃が大量生産される時代から、真の名刀こそを称える時代へ。
人口比で比べてみたり、「仏教は信仰だ!」と勘違いしてるようでとこどころ変だけど、ブログでやったほうが読んでくれる人が多いんじゃないの?
中国思想(特に儒学)についてはある程度教養があるみたいだし。教養とは言うけど、これぐらいならその分野の本読めば当然身につくんだけど。
396 :
考える名無しさん:2009/03/18(水) 22:41:03 0
3歳の幼児にも分かるのに80歳の老人にも出来ない、諸悪莫作衆善奉行。
誰でも剣は振れるのに、うまく振れる人間となればごくわずかとなる。
下手糞な創作や姑息な裏技ではなく、努力こそがものを言う所にいつも東洋教学はあって、
言葉で説明すれば自ずと仏教や儒教になってしまっただけのこと。
ラッキーではなく着実な研鑽でこそ伸びるものについて究められているいるから、
一部の秀才天才だけではなく、多くの挑戦者の選抜的な修学によってこそ東洋教学は
成り立ってきた。だから多くの人々によって作り上げられてきたということが
東洋教学に関しちゃ重要なこととなる。象牙の塔に籠もって出来るようなもんではないと。
397 :
考える名無しさん:2009/03/18(水) 23:10:47 0
洋学が主流の学術だと思い込まされていた時期に、ざっと中国思想を読んだこともあったが
(ちなみに諸橋轍次「中国古典名言事典」)、ちっともその重要さが分からなかった覚えがある。
概念構築が極端に些少で、みんな同じようなことを言ってるように思えてどうとも感じられない。
感覚の多様さを追い求めるあまり、「善良であるが故に楽しい」という、人間の感覚の王道中の王道
が蔑ろにされて、悪い楽しさや善悪みそくその楽しさにばかり耽溺してしまっている現代人の何と多い。
確かにそれらの楽しみもある程度は楽しめるものではあるが、純粋に善良であることの楽しさに比べれば
絶対的に劣るものであると、今になって初めて断言できる。苦楽の感覚が研ぎ澄まされた今だからこそ。
そうなってから中国古典や仏典を読めば、全くその見え方が変わってくる。どこもかしこもが善良である
が故に最高に楽しい。王道の楽しさでそこかしこが埋め尽くされていて、金銀財宝といっても過言ではない。
一番楽しいものだけを独り占めにして頭北面西で横たわってる大満足の塊。故に外界侵略なんかにも
手を出さなかった。金剛不壊の王者の余裕。体得できれば最高だが、できなけりゃどうってこともない。
ただの教養として特に価値があるとは今でも思わず、学んでも実践しても楽しいことこそが最大の意義。
道教のマキャベリズム的側面はどう解釈すればいいのでしょうか?
必ずしも東洋教学が『善』ばかりを教示しているとは言えないように思うのですが…
>>338で言った通り、東洋教学は洋学の基本概念ぐらいは一応網羅している。
その上で重視しているものが劣悪でない善良さであることこそが神髄となっている。
西洋の善良さなんて女性器の陰核のようなもの。数_程度の大きさで、基本機能は陰裂のほう。
東洋の善良さは男性器の陰茎のようなもの。18a程度の大きさで、それこそが男性器の基本機能。
存在性が根本から男である東洋、女である西洋。
世界最高峰のチョモランマも中国・チベットとインド・ネパールの境にあり、原初から東洋は常日頃、高みを目指し続けるように運命付けられてきたし、
ギリシャやイスラエルのほうは地中海沿いにあり、原初から西洋は低いほう低いほうへと落ちこぼれていくよう運命付けられてきた。
程度が高くて善良で楽しいものと、程度が低くて劣悪でつまらないもの、男性性と女性性への東西文化文明の分岐。
とはいえ文化文明は基本いつも性別上の男によって作られてきているので、男男しい男と女女しい男に分かれただけ。
性別上の女はいつも本当に産む側に回ってきたのであって、故にアマテラスであり続けてきた点に注意。
ありがとうございます。
岩波の日本思想大系5に入ってた、空海の「秘密曼荼羅十住心論」を
読み下し文だけでもいいから、岩波文庫あたりで再版してくんねえかな?
個人による思想哲学書としては「正法眼蔵」を抜いて世界最高峰なのに。
(神典や儒書や浄土教典は個人の労作とは言い難い。その面で密教や禅は突出している)
洋学エリート(笑)御用達の学術文庫が、思想哲学でまで大学中退の超天才に
乗っ取られるのはプライドが許さないだろうか? その、飴細工のようなプライドが。
402 :
考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:10:31 0
教判書と仏教哲学書という体裁の違いはあるものの、正法眼蔵を書いた道元もまた空海と同じ帰納仏教の大家。
帰納的分析的な教学の追及という、公家や武家向けな高級仏教の模範的な姿であり、専ら既存の教学の専守に務める
華厳宗や天台宗、臨済宗などと比べれば、真言宗や曹洞宗には空海や道元といった日本出身の突出した研究家がいる。
法句経や大乗方等経といった基本経典とはまた別に、論文の編纂でかなり革新的なことをやっていて、空海の教判は
今で言えば精神分析学、道元の正法眼蔵は部分的に相対性理論やハイデガー哲学と近似したものとなっている。
でも700年以上前に、近現代の洋学などとは全く無縁な所で編纂された仏教論が全く同じものであるはずなどがなく、
明らかに精神分析や相対論とは違っている部分がある。それが、「断悪修善の厳守」を主旨としているということ。
403 :
考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:11:39 0
各種仏教宗派や他宗教を対象とした空海の教判が、諸教学の深層心理を探求しようとしていることは「十住心論」の
題名や内容からも分かる。でも決して空海は心理学者や精神科医ではなく密教僧であり、心理学者や精神科医ではなく
密教僧であるということは、断悪修善を首尾一貫して厳守するという自己規律の現れであり、故に教判の内容も
ただの心理学などと比べれば、記述を行なう空海本人の透徹した真摯さが常に前提として備わり続けている。
同じように道元の「正法眼蔵」もまた、「有時」の内容が相対性理論やハイデガー哲学の時空論と共通していた所で、
あくまで道元は物理学者や哲学者ではなく禅僧であり、物理学者や哲学者ではなく禅僧であるということは、これまた
諸悪莫作衆善奉行を厳守するということであり、正法眼蔵もまた常に必ずそれを前提として書かれたものとなっている。
404 :
考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:12:16 0
断悪修善、諸悪莫作衆善奉行を本旨とする仏教の下でもまた帰納的分析的な研究は可能なのであり、700年以上前に
精神分析や相対論を超えるようなこともやっていた。ただ違うのは、悪いことをせずに善いことをするという面だけであり、
精神分析や相対論が断悪修善を厳守すれば自ずと十住心論や正法眼蔵となるし、逆に十住心論や正法眼蔵が
断悪修善を厳守しなければ精神分析や相対論になる。断悪修善を厳守しないということは、善いことをせずに悪いこと
をしたり、善いことも悪いこともみそくそにしたりを平気で行なうということ。十住心論や正法眼蔵に従わず、精神分析や
相対論に従うということはそういうこと、ただそれだけのこと、それ以外のいかなる意味もない。わざわざそうすることに。
405 :
考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:22:33 0
406 :
考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:32:08 0
帰納や分析の可能性を褒め称えると、密教や禅の劣化コピーをしてる連中までが、
自分が褒め称えられてると勘違いしかねないんで、なるべく演繹や総合に特化された浄土教や儒学に重点を置いている。
でもやっぱり仏教に限った帰納哲学や分析論は隅々まで余すことなく完全に悪くなく良い。
仏教や儒教といった東洋教学だけに限れば、帰納と演繹、分析と総合の均衡はうまく取れていて、どちらの側面でも問題がない。
対して洋学は帰納も分析もやりっぱなしで、誰もそれの責任を取ろうとせず、演繹者や総合家は完全に諦めきってる。
帰納演繹分析総合、あらゆる面において断悪修善や勧善懲悪を旨とするのが東洋教学。全くそうでないのが洋学。
断悪修善や勧善懲悪ってのは、何らの屁理屈の挟み込みようもない人間性の根本の有り様であって、
仏教や儒教はそれを十分に計り知って模範の限りを尽くしているが、洋学は善悪という人間性の原則にまで屁理屈を挟み込んで、
自分勝手な相対的善悪論を垂れ流した挙句、やってることはただ善いことをせずに悪いことをしたり、善いことも悪いことも
みそくそにやったりでしかなくなっている。人間性のカルマから抜け出せていないのは洋学もまた同じであり、
無理に抜け出そうとして失敗したせいで、ただの犯罪者要請講座でしかなくなってしまった。ご愁傷様限り上なく。
単なる西洋宗教批判スレかw
もっとグローバルな視点をもてよ
グローバリズム(国際主義)=国家としての利益も地球全体としての利益も顧みず、
ただ国家間の際限のない争いを捏造扇動するだけの不当なイデオロギー(
>>19参照)。
東洋教学を推して洋学を排したほうが、より多くの人々(40億人以上)と親密に交われるわけで。
わざわざ20億匹の犯罪主義者の側に付くことに、何らの利益も認められないわけで。
ありがとうございます‥
>>409 20億つっても、半数の10億である女は子を産めば主婦の神アマテラスになれる。極東の主神に。
深刻に問題なのは残りの10億匹。ぴょんぴょんプリプリどんだけーでオカマちゃん妹うさぎな女々しい男。
極東に乗り移れる側と乗り移れない側を厳密に選別する神道の奥義、卵巣信仰。
413 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 10:37:13 0
断悪修善ってのは、ちゃんと方向性を見定めてそれだけに専念しない限りは決して為しえないもの。
何の考えもなく適当に何かをしてしまえば、3000年前の洋学が影も形もなかった時代ならまだしも
現代においては必ず、善いことをせずに悪いことをしたり、善悪のみそくそを容認したりになってしまう。
ほんの少しだけでも断悪修善でないものが混じってしまえば、その時点でもはや断悪修善ではなく、
純粋に善良であることの楽しさもまた完全に霧消してしまうこととなる。断善修悪や善悪のみそくそには
そんな引き締まった振舞いは少しもなくて、誰を相手にも友愛を強要した挙句、相手をダメにしてしまう。
良質なものと悪質なものが交われば悪質なものになる。悪質な側にとってだけ都合のいい平等志向。
少しだけでも受け入れた時点でもはや断悪修善の余地はどこにもなく、心理学や物理学は服毒できても
密教や禅は全く修学できなくなる。本旨である断悪修善を毀損された以上は何の意味もなくなってしまう。
414 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 10:56:03 O
パチンコやってっと千円だけ使ってすぐわかる。だからよんぱちよりイチパチの方が有効
415 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 12:57:46 0
もちろん、ただでさえ難儀な断悪修善を、さらに密教や禅のような高級仏教で修めようとすることは
よっぽどの気概の持ち主でもない限りできないことだ。だからそうでもない普通の人間に対しては、
行動の規律までは求めなくとも、信心が断悪修善に向かうことだけを促す浄土教のほうを勧める。
とにもかくにも断悪修善は面白い。たとえ信心だけだろうとも、断悪修善を嗜むことの楽しみに比べれば
断善修悪や善悪みそくその楽しみなどは一段も二段も劣る。真の楽しみを得る手段こそが仏教であり、
本格的な帰納仏教の楽しみ≧最低限の演繹仏教の楽しみ≫断善修悪や善悪みそくその楽しみとなる。
真の楽しみに与る人間だけによる、低コスト高パフォーマンスの世の中か、
誰も真の楽しみには与れない、高コスト低パフォーマンスの世の中か。
前者が江戸までの日本であって、後者が明治以降の日本と全世界。
断悪修善や勧善懲悪こそが選択されるか否か、それだけの違い。
416 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 15:12:09 O
断悪修善や勧善懲悪の楽しみに比べれば、断善修悪や善悪みそくその楽しみ等はないにも等しい。
のみならず、それらは楽しみではない苦しみですらある。苦しみを楽しみだと勘違いしたマゾヒズム。
偽物の不健全な楽しみがいかなる手巧を凝らした所で、本物の健全なる楽しみに比べればただのゴミだ。
100dの糞で100cの金剛に対抗しようとする徒労だ。
417 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 22:46:57 0
東洋教学って、2500年前の釈迦や孔子の活動時期をピークとして、
朱熹が朱子学を興し、鎌倉新仏教が興隆した7〜900年前でほぼ成長が止まっている。
その後にも陽明学が興ったり、江戸幕府の下で士道が完成したりとある程度の進展は見られるが、
10年単位で世の中が大幅に変遷するようなせわしさは、東洋独自のものとしては全くなくて、
ただインド植民とかアヘン戦争とか黒船来航とかの、西洋からの外圧で仕方なく近現代の喧騒には介入させられている。
そうなってからの世の中が東洋教学によって司られたことは全くといっていいほどなく、
近現代の産業発展に直接的な貢献をしていないことが、衆生に東洋教学を見くびらせる最もな原因となっている。
418 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 22:48:44 0
元より近現代の爆発的な文明発展を主導した西洋人が、東洋教学の劣化コピーによって文明を形作ってきたことから
東洋教学が近現代の文明と全くの無関係だなんてことは決してないんだが、直接的な文明発展の主導を担ってきては
いないことが、いちいち難しい話を聞くのが面倒な大部分の一般人までをも納得させるのを困難としている。
東洋教学に社会運営の主導権が返還された途端に、文明の発展が滞って、丁髷や弁髪に戻らなきゃなんないと
恐れられるようなこともあるかもしれないが、誤解してはならないのは、東洋教学は洋学とは違って「シンボル(象徴)」を
主体とした教学ではないというところ。シンボルとは、何かより重大な何かを表出した記号であって、記号の寓意によって
受動者を操ることを目的としている。洋学が何かにかけてシンボルに重点を置いて教学を構築するのは、シンボルの
表出源である本体が、不当利得だったり強姦だったりするから。そのまま本体を如実に示せば犯罪目的であることが
あからさまになってしまうんで、わざわざシンボルという寓意を用いて不誠実な教学の構築を目指し続けている。
419 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 22:50:01 0
対して東洋教学は、シンボル以前の本体こそが、断悪修善や勧善懲悪といった聖徳や道徳なので、わざわざシンボルなどを
用いるまでもなく、聖徳や道徳である本体を如実にさらけ出している。禅寺の門前に「諸悪莫作衆善奉行」とは掲げられても、
教会の門前に「犯罪推進道徳唾棄」とは掲げられない。本体が犯罪でしかないものが重要視するのがいつもシンボルならば、
本体こそが善良であるものが真に重要視するのはいつでも本体。本体のためにこそシンボルがあるものと、シンボルのために
こそ本体があるもの。本体とシンボルの倒錯を認めないものと、それしか認められないもの。
丁髷や弁髪のようなシンボルではなく、本体である道徳や聖徳こそが真の東洋教学の目的であり、
道徳や聖徳のためにこそ表出するものが、自動車も飛行機もネットも携帯もある今の世の中で未だに丁髷や弁髪であるはずがなく、
時勢に応じた洗練さを持つだろう。極端な話、聖徳や道徳すら実現されれば後はどうなってもいい東洋教学。
一番難しいことすら達成されればそれだけでいいプロの美学。
420 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 23:59:34 0
>>417 仏教のピークが釈迦の活動時期というのは語弊があるかもしれない。
大乗経典の発祥や龍樹の活動時期である約1800年前が実質上のピークであり、釈迦が発端で親鸞が終結。
仏教のピークがキリスト教発症以後である埋め合わせは、やっぱり四書五経や諸子百家の諸書による。
春秋戦国時代こそは中国思想のピークであり、儒教も道教も紀元前にほぼ完成を見る。
朱子学や陽明学は時代の変遷に応じた儒教の補足。宗教よりも学術のほうに重きを置いた。
インド宗教と中国思想という二大潮流を持つことが、東洋教学に独自の特色と言える。
どちらかだけでも自立できて、習合すれば尚のこと良くなるという重畳的な善良さの構図。
ばくち打ちと金貸しという持ちつ持たれつの関係であり、合体することで最低最悪になる
ヘレニズムやヘブライズムとは全くの真逆。雄雄しき男(漢)同士の引き締まった睦友関係。
日本人である小生が東洋教学を称賛したとて、インドはインドで、中国は中国で完璧に自律してるんで、
たった一つの何者かにだけにおべっかを使うような姑息さが少しもいらない。聖徳太子が隋の煬帝に対等外交を
迫れたのも、天竺からの賜物である仏教があったから。中国やインドが相手であれば専ら誠実でいられれた日本人が、
不可解な唯一神への服従ばかりを強弁する西洋を相手にし始めた途端に姑息な愚策を弄し始めた。
徳性に満ちた相手に接すれば、例え相手が格上だろうとも真摯に対峙することができるが、
ただひたすら卑小な相手に接すれば、例え格下だろうとも自分自身までもが駄目になる。
やはり友は選ばなければならない。悪い相手とは決して付き合わず、善い相手とだけなるべく付き合う。
「友」も彼岸の言葉の内の一つだった、ただ嫌がるばかりではない。
421 :
考える名無しさん:2009/03/21(土) 04:09:53 0
自作自演晒しあげ
422 :
考える名無しさん:2009/03/21(土) 05:48:30 O
道
423 :
考える名無しさん:2009/03/21(土) 05:49:16 O
ファイバー
424 :
考える名無しさん:2009/03/21(土) 05:49:55 O
枝サバイバ
425 :
考える名無しさん:2009/03/21(土) 07:58:41 O
近頃(といってもここ2、300年)のインドや中国に、これと言ったほどの聖人は見受けられない。
ガンジーとか毛沢東とかの有名人はいるが、別に東洋教学の発展に貢献したわけではないし、
ガンジーはストライキしただけ、毛沢東は「毒食わば皿まで」の極悪非道と、
不遇の時代の東洋人として、何とも言い難い事績ばかりを遺している。
印中に限らず、日本でもネパールでもモンゴルでも同じ。
犯罪が礼賛されているような時代に名を売るのは、そのまま共犯や従犯に直結する、
なるべく何もしないでおいて、犯罪集団の自滅を待っていたほうが理にかなっている。
風のように疾く動くことも、山のように動かないこともどちらも兵法のうち。
ただ動き回ることや異生羝羊心しか知らないものと、動かないことも秘密荘厳心も知っているもの、
絶対的な度量の差が運命を分かれさせ、片や死に絶え片や生き残り、生き残った側はやっと本領を発揮もする。
釈迦と孔子しか評価の対象でなかったのが、孟子も龍樹も朱子も親鸞も付いてくる。
5000年以上前から連綿と受け継がれてきた東洋教学が全面的な評価対象となるには、
全人類が他の無駄骨などに手を出すことなく本気で立ち会わねばならないから。
426 :
考える名無しさん:2009/03/21(土) 10:58:04 0
東洋教学の中でも白眉なのがインドの仏教や中国の儒家。
ジャイナ教や道家のような他流派もある上に、中にはゾロアスター教や法家のような、
仏教や儒家よりも若干早くに生まれた流派もあって(ゾロアスター教はイランだが)、
しかもその内容が善悪二元論や法律万能主義といった現代にも通じる教学を擁している。
仏教や儒家に比べれば東洋社会の主流とはなり得なかったものの、浄土教の枠組みとか始皇帝の秦統一とか、
端的な部分でかなり重要な役割を果たしていて、その上で仏教や儒家に全面的な主流であることは譲っている。
善悪二元論や法律万能主義は、攻撃力ばかりが強過ぎてあまり全体性を司るのには向いていない。
まさに「万人の万人に対する闘争」を強要する精神状態であって、乱世のようなギスギスの様相は、自然状態
などではなく、善悪二元論や法律万能主義が全体性を司ろうとする場でこそ呈する(ホッブズは勘違いし過ぎ)。
縄文時代の日本のような和気藹々とした自然状態が、まず善悪二元論や法律万能主義によってかき乱され、
知謀の網羅が行き渡った後に、聖徳や道徳が司る成熟した社会秩序が完成する。東洋史の基本パターン。
東洋にとってそれはあくまでもこれまでの歴史の繰り返しだが、西洋を含む地球社会全体でとなれば全くの新規
のものとなる。「社会秩序が完成する」という未曾有の状態。東洋人としての経験から言えば、決して悪くないことだ。
カントの永遠平和論のような墓場同然の未来などではなく、そこにこそより発展隆盛した社会が開けているから。
427 :
考える名無しさん:2009/03/21(土) 22:07:17 0
「玉琢かざれば器とならず、人學ばざれば道を知らず。是の故に古の王者國を建て民に君たるには、ヘ學を先と為す。
兌命に曰く、終始學に典にせんことを念ふと、其れ此の謂か。嘉肴有りと雖も、食はざれば其の旨きを知らざるなり。
至道有りと雖も、學ばざれば其の善きを知らざるなり。是の故に、學びて然る後に足らざるを知り、ヘへて然る後に
困しむを知る。足らざるを知りて、然る後に能く自ら反るなり。困しむを知りて、然る後に能く自ら強むるなり。
故に曰く、ヘ學相長ずるなりと。兌命に曰く、ヘふるは學ぶの半ばなりと。其れ此の謂か。(一部代用文字あり)」
(新釈漢文大系「礼記」學記第十八より)
まるでこのスレの題名の詳説のためにあるような記述。教(ヘ)と学(學)が緊密に連携した姿こそを理想としている。
どこもかしこも教えっぱなし、学びっぱなしだらけの今の世の中。ここでいう「教」ってのは「教育」という程度の意味であって、
別に宗教とか信教とかいったいびつな意味を持っているわけではないんだが、教化的な姿勢であることがそのまま宗教的
な姿であると決め付けられて敬遠され、専ら学術が教育材料として道徳的な価値を持つことも否定され尽くしている。
「不当利得を得るため」とか「他者を貶めるため」とかの犯罪者養成講座の教育が敬遠されるのは最もな話であろうとも、
悪事よりも善事を勧める道徳的な教育までが忌避されるいわれは少しもなくて、問題なのはやはり道徳的な教育と
犯罪的な教育のみそくそであり、道徳の尊重も犯罪の糾弾も不十分であるという選別不全にある。ちなみにやっぱり
学術だけでなく教育の面でも、道徳と犯罪のみそくはただ一方的に道徳の側が損をして、犯罪の側が一方的に得をする
だけのものとなっている。犯罪の側こそが教と学を執拗に分離しているんで、まずそのペースを認めない所から始めないと。
428 :
考える名無しさん:2009/03/22(日) 09:48:21 O
世界宗教者会議か日本宗教連盟か知らんが、
犯罪の正当化だけが目的である宗教なんかと少しでも結託させられただけで、
神道や仏教のほうには大損害。悪い友に付き合わされて自分までが駄目になってる。
とはいえ神道や仏教は宗教らしい宗教でもあるんで、神道や仏教自身が反抗の意を示せば
「宗教戦争」の扱いを免れ得ない。だから宗教である以上に教学である儒家の出番となる。
人間は学術を賜わる一方でいつも教育を追い求めている。
教育のない学術は無用の長物だし、学術のない教育はただの盲信でしかない。
教と学の均衡が相まって初めて学術もまた有効かつ正当に活用できるのであって、
ちゃんとその点をわきまえているのが儒家であるが故に、学術としてもその内容が正当なものとなっている。
教育をおろそかにしている学術などがいくら整備を受けようとも、
教育を蔑ろにしてまで学ぶ目的なんていつだって犯罪者の養成でしかないから、
自分が学んでいることが果たして健全な教育たりうるかどうか、常に注意していなければならない。
429 :
考える名無しさん:2009/03/22(日) 12:49:51 0
「礼記」學記第十八に続いて、楽記第十九では「礼楽刑政」の内の「楽」である音楽について語られる。
とはいっても、普通に言うような音楽論ではなく、あくまで社会秩序の維持手段としての音楽の価値について。
論語や詩経でもそうだったが、儒学というのは極めて音楽を重視する教学。
「正法眼蔵涅槃妙心」など、視覚に仮託して教義を語る場合の多い仏教と比べて、聴覚に仮託して
礼記の礼楽などは多く述べられる。人間の知覚情報の9割方は視覚であり、聴覚は1割弱に過ぎない。
聾唖であることと比べても盲目であることが重大な障害であると受け止められやすいわけだが、
それでも聴覚には確かに視覚以上にも重大な側面があって、それは「大局」を司るという面。
見た目の虚飾で大衆を欺くということはかなり頻繁になされていることだが、音象によって他者を欺くという
ことは極めて難しく、地震や火山の噴火に匹敵するような重低音を人工で捏造することなどは不可能に等しい。
本物の衝撃というのはあくまでそのような捏造不能の地響きを立ててやってくるものであって、
視覚の欺きだけでどうにかなるようなものではなく、故に音響を重視する儒学のほうが視覚重視の仏教よりも
人間社会全体を動かすことには向いている。
430 :
考える名無しさん:2009/03/22(日) 13:00:55 0
聴覚という狭い領域をあえて重視することで、より大局に即した教学を構築する。
「性即理」の朱子学などもそれに似ている所があって、性は心に比べれば狭い領域におけるものであり、
性と情を併せた心のほうが文字通り情報量が多いので、海辺の砂遊びのように際限なく膨張させられる。
でもやはり大局を司っているのは、あくまで心の中でも性である部分だけであり、情は大局は司らない。
だから心即理の陽明学や情即理の洋学よりも、朱子学のほうが大局に即した教学の構築に特化されている。
ちなみに東洋教学における「心」の研究の大家なのは、密教や禅といった帰納仏教。
性も情も研究の対象とし、しかも両者を断悪修善の方向に持っていくことまでをも貫き通している。
ただ性も情も研究するだけで、何の方向性も持たない場合などと比べて格段に難しく、未曾有の偉業となる。
陽明学もそれなりに価値はあるだろうが、あくまで本流は密教や禅のほう。ちょっと儒教も真似してみただけ。
431 :
考える名無しさん:2009/03/22(日) 19:53:43 0
礼記はあくまで「礼」の書物であり、「楽」はついで。楽が文書として旺盛に表現されてるのは詩経のほう。
「刑」は慎罰などを提示した書経が卓越だし、「政」は四書五経全てに渡って共通の課題とされている。
これら四つを合わせた「礼楽刑政」こそは、道徳性が現実の物事として如実に現れた姿に他ならない。
犯罪性のほうだって、現実の物事として如実に示すことはできる。即ち「共食い」だ。
同族の利権を侵害してまで自身が食いつなぐことこそが犯罪性の本質であり、暴力ですら共食いに比べれば
犯罪性の本質を如実に示した姿としては如実でなく、あくまで共食いを完遂するためのいち手段でしかない。
犯罪性の本質は「共食い」の一言で完全に示されうる。極めて分かりやすい「核」を犯罪性は持っている
のに対し、道徳性はそこまでの分かりやすい核を持たない。礼楽刑政もまた一つ一つが細分化されて
多くの様式を持つようになっていて、その中のどれか一つだけが全ての道徳性を代表できるだなんてこともない。
多種多様で広大な本質が道徳にはあり、さらには道徳自体が庸徳とか聖徳とかいったの加減を効かせた
程度を持っていて、一言や二言で道徳の本質を述べるだなんてのも不可能に等しい。それでもあえて道徳の
本質を一言で述べるならば、「犯罪の防止」ということになる。庸徳から聖徳まであらゆる段階における人徳が
旨としているのが犯罪の忌避であり、故に共食いの防止である。共食いぐらい当然しないから、いちいち道徳者が
「共食いをするな」なんて忠告することはほとんどない(ただし「礼記」には食人を好んだ殷紂を伐ち取ることで
礼楽が行き届いた旨の記述がある。明堂位第十四参照)。当たり前過ぎて直言に値しないほどの前提として
共食いの防止があって、共食い礼賛犯罪推進が蔓延しきっている今の世の中になって初めて、道徳と犯罪の
分かれ目が、共食いの忌避と愛好の間にこそあると分かっている。「善悪交際す(源信)」る今になって初めて。
432 :
考える名無しさん:2009/03/22(日) 21:08:21 0
明堂位十四で食人の調理法として当てられた「脯」の意味を確認してたら、
「肉山脯林」という用例が載っていた。「酒池肉林」とほぼ同じ、贅沢な宴という意味。
脯は乾し肉という意味であり、古来から死刑囚の死体の食用の調理法とされていた。
食文化の発達した極東社会では、人肉食の調理にまで趣向が凝らされていて、
「うまく調理できたから食え」と諸侯に振る舞っていた殷紂が討たれることで道徳的となった。
犯罪の本質である共食いの人間版、食人までをも窮めつくした所にさらに礼楽刑政がある。
究極の罪悪を超えた所に、初めて究極の道徳が生まれる超悪全滅のカタルシス。
恐れなき実践面での追求までもが究極であるからこそ、如実に道徳までもが示されている。
433 :
考える名無しさん:2009/03/23(月) 11:37:15 0
儒家の道徳はまだ、実践上の行動が礼楽刑政などの積極的なものとして現れ得る。
でもこれが仏教の聖徳とまでなると、行動のほうが極端に消極的なものとなってしまう。
釈迦の頭北面西での横たわり、座禅に念仏、基本的な行業が極めて非・行動的な上、
八十八箇所巡りとかの比較的行動的な行業も、社会性とは全く無縁なものとなっている。
浄土教でもない限り、厳しい修行があるというのは建て前としては確かにあるんだが、
嬰童無畏心から秘密荘厳心に至るあらゆる超俗志向において、聖徳を現実の物事として
如実に示しだす上での人間の行動は、結局「何もしない」というこの点に尽きる(「老子」参照)。
実践的な修行に特化された密教だろうとも、あくまでそれらの修行もまた聖徳に辿り着く
までの過程でしかないのであって、まさに成道して涅槃に向かう時、人間の何らかの行動
によって聖徳が助長されるなんてことは一切ない。真理が糞尿をも垂れ流す人間の肉体などと
緊密な関係性を持っているなどと考えることが、すでに真理に対する名誉毀損なのであって、
人間が真理に基づく聖徳を体現するならば、何もしないこと以外に特に何もできることはない。
あくまで聖徳までいけばそうなってしまうというだけの話。人間性を超越した真理に基づくからこそ。
人間性に親密に密着した道徳であれば、いくらでも実践のための行動が為しうるし、しかも
その多種多様さは、犯罪の実践のために人間が為しうる行動などよりも遥かに上ですらある。
突き詰めればいつも共食いでしかない犯罪、礼楽刑政を始めとしどこまでも多岐に渡る道徳。
士農工商の均衡を取って雇用を促進したりと、本当に社会を活性化させる能力が道徳にはある。
君は中国に行ったことがおありかな?もちろん三年間滞在が条件。
だけど中国人って、日本人的な道徳(倫理観)で接してたらとんでもない目にあうよ。
中国人や朝鮮人(韓国 北朝鮮)は相手に対して平気で嘘をつくことに、なんの罪悪感もない。
信じられるか?騙された相手の方が悪いんだって考えてるんだぞ。信じられるか。
日本人ならどこかに罪悪感を感じているはず。
実際に中国や韓国に住んでみたら肌で感じてわかるよ。
日本は本当にいい国だよ。
435 :
考える名無しさん:2009/03/23(月) 12:19:11 0
聖徳のための成道とか涅槃とかは、人間にとっては「楽しみ」というよりは「安楽」と言ったほうが適切。
感覚の焼け付きを抑えて清浄であることを保つことにより、めちゃくちゃ楽しくもない代わりに苦しくもない。
道徳はそうではなく、本当に人間にとっての楽しみであり、あらゆる楽しみの中でも最大最強最高の楽しみ。
正義が悪をやっつけるという、人間の楽しみの王道中の王道だけをただひたすら追い求め続けている。
楽しみで言えば道徳の楽しみ≫聖徳の安楽>犯罪の楽しみ≒0であり、
逆に苦しみで言えば犯罪の苦しみ≫道徳の苦しみ>聖徳の安楽≒0となる。
ただひたすら楽しい道徳、苦しくなくて楽しい聖徳、ただひたすら苦しい犯罪。
人間にとっての苦楽でいえば、むしろ中庸を得ているのは聖徳のほうだったりする。
インドから中国、そして朝鮮半島を通してるのがブッタ思想。
よくも中国や朝鮮を通して、日本に純粋なブッタ思想が伝わったものだねw w w
あいつらは平気で嘘をつく。
俺は日本人が大好きだよ。
>>434>>436 今の中国は儒教国家ではありませんよ?
国家体制も共産主義なら、自前の思想でも法家優先儒家劣後。
政治への期待を捨てきってる一般民衆は現実逃避の道家。
韓国も犬食とかの儒教の表向きをなぞらえてるだけで、
ちっとも犯罪忌避という道徳の本旨をつかめてはいない。
おまえけにキリスト教とのみそくそだ。現大統領もプロテスタント。
真の儒学統治が行き届いていた江戸時代までの「昔取った杵柄」で、
宗教としての儒家は全く標榜していない日本のほうがずっといい国。
ライシャワーも「ザ・ジャパニーズ」の中で、日本人の主要な宗教の第一に
儒教を挙げていた。犯罪精神圏(聖書圏)の人間からすれば、日本人の
言動規範は十二分に儒家の道徳性を擁している。日本人らしい日本人で
あればあるほど。問題は本人たち自身がそうであることに気付いてないこと。
ふ〜ん。
へぇ〜。
日本人にしろ中国人にしろ朝鮮人にしろ、善良である部分は東洋教学特有のもの。
劣悪である部分は、資本主義とか共産主義とかキリスト教とか、西洋独特のもの。
問題はあくまで西洋教学の侵害、そこにこそ全ての悪質さの核が備わっている。
ドイツの地政学者が舌を巻いてうらやましがったほどの堅固な島国であることが
日本人に中国や朝鮮以上の、東洋教学の芯からの保全を叶えさせてもいる。
とはいえ日本にも、もうダメになってるような奴らもいくらでもいるわけだが。
はぁ?
441 :
考える名無しさん:2009/03/23(月) 13:56:19 0
どこもかしこも西洋文明で埋め尽くされて、今でも純粋に東洋的な風俗なんて神社かお寺か時代劇ぐらいのもん。
極めて平等な比較が困難な、現代における東西の文化文明を、ことに基本文献にまで遡って比較してみれば
東洋のほうはどこもかしこも人徳で埋め尽くされていて、西洋のほうはどこもかしこも罪悪で埋め尽くされていた。
西洋文明が中世以降に爆発的な膨張を遂げたのも、根源になっている教学のどうしようもない陰惨さの取り繕い
でしかなく、最大最強最高に善良な西洋文化とて、最低限の東洋文化(浄土教とか)の善良さにすら及ばない。
わざわざ穴に落ちてからまた登ってきてるマッチポンプと、始めから山や平地だけをを活動領域としてきた賢人達。
マッチポンプが完全に解消された以降の文化文明はパレスチナ以東にあり、しかもマッチポンプ主体の文化文明
よりも歴史は古い。純粋な東洋人にとっては過去に遡ることが、そのまま未来への橋渡しとなるほどにも。
理解した。
確かにな。
俺自身が西洋文化崩れだしね。日本人にはもっと東洋文化の素晴らしさに気づいて欲しい。
日本は本当に素晴らしい国だよ。
断言します。
443 :
考える名無しさん:2009/03/23(月) 17:01:18 O
春日だんじょう
>>442 西洋教学なんか修了したら、東洋教学の価値が余計に分からなくなっていた所だ。
ttp://stat.ameba.jp/user_images/60/79/10077200498.jpg 東洋教学というのは前にも言ったとおり(
>>417-419)、シンボルよりも理念のほうを重視する学問。
「諸悪莫作衆善奉行」とか「勧善懲悪」とかいった、本質的な理念こそを何よりも尊重するもの。
何よりそれは、根本になっている理念が悪くなくて良いものだから。根本になっている理念から
善良なものだから、わざわざ剃髪とか髷とかの象徴的な部分にまでそんなにこだわることがない。
だけども西洋教学のほうは、根本になっている理念が「犯罪推進道徳唾棄」だったり、
「金こそ全て後はゴミ」だったりする。それらの根本になっている理念が悪質なものだから、
なるべく理念のほうは隠して、「十字架」とか「エデンの園」とかいった、理念の悪質さを正当化した
寓意的なシンボルのほうを強調する。どれぐらい強調するかといえば、犯罪正当化目的の寓意を
強調しようとする本人たち自身までもが、強調を押し通すあまり、シンボルのほうが本質で
「犯罪推進〜」とか「金こそ全て〜」とかいった根本的理念のほうがついでだと思い込んでしまう程。
この、寓意的象徴を本質と思い込んで、本当の本質である犯罪や拝金のほうをついでだと
思い込んでしまう倒錯こそが、「西洋教学の修了」によって得られる唯一にして最大の成果。
犯罪性の寓意的象徴による正当化が、他者への犯罪の隠蔽のみならず、自己洗脳にまでも重症化
してしまうことで、もはや「理念こそが本質で象徴はついでだ」なんていう考え方は一切できなくなり、
故に本質的な理念のほうこそを重視する東洋教学の真の恩恵に与ることなどは全くできなくなる。
漢文学を修めようが仏教学を修めようが、象徴優先理念劣後の西洋教学のペースのままでは
何一つとしてそれらの内容を体得したことにはなり得ない。体得の相反性が東西教学の間にはある。
445 :
考える名無しさん:2009/03/23(月) 22:25:16 0
哲学法学科学文学社会学経済学政治学歴史学語学情報学博物学芸術学数学心理学・・・
際限なく広がっているように思える西洋ペースでの学術が、ことに「教学」として捉えた場合に、
その全てが何の役にも立たないゴミと化してしまう。なぜかってえと、犯罪推進金こそ全てな
最低最悪の宗教性による不当利得との連携でのみ、常に高コスト低パフォーマンスである
西洋の学術は有効性を保てているから。アフリカの女子供を餓死させることで初めて成り立つ
教学こそが洋学であり、その洋学によって形作られた社会もまた必ず餓死者や戦乱を生む。
不当利得によってのみ成り立つ学術なんかが、いくら科学的に精緻だろうとも、人間社会を本当に
富ませることなどあり得ないのであって、あくまで東洋教学レベルの低コスト高パフォーマンスな
学問体制においてのみ、人間社会が悪くなくて良い、満足の絶対量の増加を見せ始める。
本質的な理念が常に断悪修善や勧善懲悪である東洋教学の有り様にのみ沿うことで。
446 :
考える名無しさん:2009/03/24(火) 11:02:09 0
儒学を重視した江戸幕府は士農工商の区分けで商業への抑制を強めた。
それでも三井とか住友とかの大商家の繁栄もある程度はあって、寺子屋での識字率の
底上げと共に、明治以降の急激な近代化に順応する素地となっていた。
金を完全否定するのではなく、適切な抑制下での正当な運用のみを認めるのが、
ちゃんと真意を汲めた場合の儒学の有り様。杓子定規に商業を完全否定した朝鮮は
自分らだけでの近代への順応が叶わず、日本に双方合意の下併合されて教育を
受けなおすことにより初めて近代化できたが、それでも時流の荒波を乗り切れずに
南北へと分裂して今に至っている。儒学が適切に修了できたものとできなかったものの
分かれ目。適切に修了できただけでも国宝級の貴重さを持つのが儒学であって、
武家の大名行列に路傍の一般民衆が土下座していたのも伊達じゃないってことだ。
447 :
考える名無しさん:2009/03/24(火) 11:19:51 0
儒家は発祥はあくまで中国であって、朱子学もまた宋学と呼ばれることがある。
いくら日本文化と密接に結び付いてはいるにしろ、日本人が自画自賛の要領で褒め讃えるもんじゃない。
だから日本特有の士道や神道に限って見れば、「暴力」とか「愛」とかのあまり東洋的とは思われにくいものを扱う。
士道の思想はもっぱら儒家に基づくし、神道も仏教との習合によって発達してきた。そのような大陸教学との
密着をあえて引き離して、士道や神道特有の存在性を鑑みるなら、暴力や愛の不不当運用という特徴に行き着く。
暴力を正当な武力へと昇華する武士の美学、家庭を守る妻こそを最高神アマテラスとして掲げる神社神道、
道徳や真理に比べればずっと際どい、善用も悪用も可能な諸刃の剣のごとき、暴力や愛の善用に特化している。
同じようなことがイスラムにも言えて、こちらは「金」の善用の大家。資本の平等分配や行為能力不全者への
適切な禁治産措置など、共産主義が標榜していたような金銭上の平等はとっくの昔にイスラムでは叶えられている。
イスラム以東ともなればもはや金銭が第一の価値とすらされていない。極東の日本まで行けば金も暴力も愛も
全てが善用されることを前提とするようになっている。悪用によってどこまでも堕ちていくことのできる麻薬性を持った
三種の神器、愛と金と暴力、これらもまた悪用せずに善用するのであれば、東洋教学こそを模範とすべきもの。
448 :
考える名無しさん:2009/03/24(火) 12:13:19 0
洋学なき後の人類文化文明の大まかな担当配分:
凶暴でない純愛=神道
犯罪を防止する道徳=儒家
哲学を満足させる真理=仏教
暴力を不不当化させた武力=士道
隠居のすすめ=道家
摩訶不思議な複雑系=ヒンズー教
資産の公平な分配=イスラム
法律や科学も法家やイスラムの度量で事足りる。
道徳や真理が尊重されれば、法律や科学の領分は
自ずと減るものだから。マッチポンプが解消されて。
あんまり意味がないように思われるヒンズー教の多種多様さも
実はかなり重要な意味を持つ。人類文化が果てしなく広がっている
ものであり、一つや二つの価値観では計り知れないことの証左。
僭越な征服主義を排して多様性の和合こそを貴ぶ必要を知る。
449 :
考える名無しさん:2009/03/24(火) 13:04:00 0
地球人類が安定した秩序を得るためには、ある程度の分業も必要となるだろう。
特に金と暴力が癒着するのが致命的にいけない。今の社会では金と暴力のどちらもが
アメリカに一極集中していて、その結果両方ともが際限のない膨張を果たしてしまった。
人類を何十回と絶滅させられる量の核備蓄、ユダヤ金融による数10兆ドル規模の巻き上げ、
明らかに不当な運用がなされてしまったが故に過剰に増大してしまった金や暴力。
地球人類破滅の元凶中の元凶になってしまっている不当性増長の相乗効果。
完全なる崩壊にまで人類社会が悪化する以前に、元凶の責任者が音を上げるのであれば、
破産管財人としては、暴力は日本、金はアラブと言った風に、金と暴力の癒着増大を
出来る限り防止する措置を執ることになるだろう。地球の裏側同士、仲良くしようとも
地理的に親和できない程度にかけ離れた所にそれぞれ金と暴力の主導権を置くもの。
核備蓄も減滅し、正当運用不能な不当利得も禁止される。体系的な安定秩序の完成となる。
450 :
し:2009/03/24(火) 13:38:49 O
車の色は空の色
451 :
考える名無しさん:2009/03/25(水) 13:05:04 0
空海は教判による東洋文化の総括を密教僧として行なっている。世界最古の宗教(タントラ)の信仰者として。
空海自身がそうであることがすでに極めて高尚な文化なのであって、書道や土木工事などでの業績も大きい。
そこで確かに完成された教学であるから、別に今さら改善だの何だのを考える必要は全くなく、ただ正統な継承だけに努めればいい。
「虚しく往きて実ちて帰る」という本人の言の通り、確かに精神的な満足の賜物であるものが密教であったわけ。
儒教でも他の大乗仏教でも満足できなかったのが、密教で初めて満足できた。あり得ないほどの大満足がそこにある。
凡人には浄土教あたりでも十分なところが、十段階もの心理的な階梯の先にさらなる満足があり得るという余裕すらある。
保全に努める以外に何らの余地もない大満足が東洋文化の総括によっては得られるのに対し、西洋文化の
総括ともなれば不満のかたまり。どこもかしこも精神薄弱精神異常のかたまりだから、フロイトとかユングとかの
総括者もまた精神科医であらざるを得なかったし、研究のさ中に自分たち自身までもが精神病とならざるを得なかった。
今はもうそんなに敬虔な聖書信仰者ではなかろうとも、2000年前の昔から精神薄弱を代々積み重ねてきた結果として
起居動作や思考回路が常日頃不満の中でのみ働くような抑制が効いてしまっている。てっぺんの密教から
底辺の浄土教まで、満足で充たされきっている東洋教学の下でのみ代々生き続けてきた東洋人などが、精神的な
満足の中でしかものを考えられなくなっているのとは裏腹に、西洋人の場合は常に不満を前提とした考え方しか
できなくなってしまっている。完成しきった文化をありがたく頂いて保全に努めるなんていう大人の考えも一切持てず、
ただ壊しちゃ直し壊しちゃ直しを繰り返すだけのマッチポンプ教の信者と化してしまっている。とても成熟した大人の社会での
主導権を握れるような状態ではなく、アラーへの絶対帰依の下で無利子経済を営むアラブ人のほうがまだその素養を持っている。
>>451 仏教とその他外国の宗教を比較して批判するなんてナンセンス
日本には日本の宗教がもともとあって仏教は外来っていうのは知ってるよね?
その中でどのように変容していったか。
特に仏教は地域文化に順応しやすい(日本では神仏習合はいい例)
同じく海外の宗教にもその歴史、文化に沿った変容があるので日本の宗教価値観でもって海外の宗教を批判すべきではない。
マジレスすると長々高説のたまってるけど哲学じゃないんだよなw
仏教の一つのお経だけでも哲学しようとすればかなりの知識が必要になる。
生かじりの批評なんてただの日記帳だお。
>>452 ありきたりな宗教多元論ですな。
あんまり個人的には仏教でも宗教扱いするのは好まない。
宗教という枠組みがもう旧態依然とした無用の長物とされていて、その枠組みに押し込められるのが
近現代の哲学などよりも遥かに高尚で完成度の高い仏教教学の活用を妨げる結果となるから。
本来はただ随順すればよかったものが、粗悪な西洋哲学などの侵害に対処するために仕方なく
基本文献まで遡った批評を行う。宗教ではなく思想哲学として仏教教学を鑑みてみれば、
「西洋哲学みたいなことは決してやってはいけない」という内容だらけだった。
儒教も同じ。犯罪性や精神薄弱の増徴を予め防ぎ通す所にこそ道徳や聖徳があり、
それに基づいてやっていることが礼楽刑政や座禅や念仏である一方で、それに基づいて決してやらないことがあり、
それこそは西洋哲学みたいな実体性に基づかない概念遊びだったり犯罪の正当化だったりなわけ。
そういうものこそが哲学だと思い込んでいるような人間にとっては、東洋教学の批評は哲学に
見えすらしないかもしれないが、これもまた哲学であり、むしろこちらのほうがヴェーダ・ウパニシャッドや易
の時代から連綿と続く世界最古最長の王道哲学ですらあることを、事実として認めなければならない。
454 :
考える名無しさん:2009/03/25(水) 18:24:03 0
「天下の禮は、始に反るを致すなり。鬼神を致すなり、和用を致すなり、義を致すなり、讓を致すなり。
始に反るを致すは以て其の本を厚くするなり、鬼神を致すは以て上を尊ぶなり、物用を致すは以て民紀を立つるなり、
義を致せば則ち上下悖逆せず。讓を致せば以て爭を去るなり。此の五者を合せて、以て天下の禮を治むるや、
奇邪にして治まらざる者有りと雖も、則ち微し」(新釈漢文大系「礼記」祭義第二十四より)
原典回帰、神(仏)への敬い、和合の促進、道義性の追及、謙譲の徹底の五つすら守られれば、
どうしようもない偏屈者は消え去るとまでは言わないが、少数派になるだろうという、大局を重視した記述。
ピューリタニズムだの禁酒法だののギスギスの圧制によってかえって反発的な腐敗を生むのではなく、
やろうと思えば誰にでも出来る程度の当たり前な儀礼の重視によって全体的な善良さを実現してしまう。
遠ざけはするもののやっぱり鬼神は敬うのであり、心境の投影としての神仏までをも殺害しようとするような
虚無には与しないもの。昔の真宗や日蓮カルト等を除いて、大部分はそんなに熱烈でもない東洋教学の信仰、
にもかかわらずではなくだからこそ永久普遍の通奏低音として遍在し続けられているもの。
>>453 あれこれ批判するための長ったらしい文章ははっきり言ってうざい
仏教が高尚で他が低俗、粗悪、王道だとか、差別蔑視の言葉だらけw
仏教でいう煩悩じゃないの?
それぞれの宗教を生かじりしただけじゃなんにもならんのよって思うだお。
ていうか哲学じゃないしw
456 :
考える名無しさん:2009/03/25(水) 18:29:10 0
典型的右翼だろこいつ
実用的であり、しかも善用が可能なのが儒教や仏教といった東洋教学。
哲学の善用なんて絶対にあり得ないと思い込んでる奴らには哲学にすら見えないという。
そしてその善用不能な不当哲学である西洋哲学を否定された途端に、何もかもが否定されてしまったとも思い込む。
神道も儒教も仏教も士道も道教もヒンズー教もイスラム教もゾロアスター教もみんな肯定の対象で、
ただ洋学だけが否定の対象になっているだけなのに、全否定が目的の虚無主義扱いばかりしようとする。
ただ自分らだけがダメな奴らなだけだっていう特殊性にいつまでも気付こうとしない。
質でも量でも古さでも東洋教学以下の、亜流傍流の改変東洋教学でしかない洋学だけが問題なのに。
>>457 あれこれ宗教を列挙してるけど、それぞれの思想を書いてみて。
きっと1000スレでも収まらないからw
ていうか単なる辞典のコピペに勝手にケチつけてるだけじゃん。
生かじりはだめだお。
9999スレまでは想定してるから。それでも足りないっぽいが。
引用して評釈ってのが東洋教学の論文の基本スタイル。独り歩きの創作を避けるため。
しっかりと原典こそを熟読して、起居動作を律し得るほどの体得を目的とする。
頼朝公や家康公が自分ら自身で文芸を嗜んでいたわけではないけども、政治姿勢や端々の言動が
儒仏や神道によって律せられていることが伺えて、以て士道の鑑ともなれているもの。
四書五経や仏典を受動的に学びこんで、自分自身がやることは剣を振るほうでもいいわけ。
何もかもを文章に還元してしまうようなロゴス信仰は、漢字のような高尚な文字文化があるからこそむしろないもの。
良くも悪しくも文字文化は漢字の美しさこそが頂点だから、それ以上の買いかぶりを抱いたりもしないわけだ。
>独り歩きの創作を避けるため。
>しっかりと原典こそを熟読して、起居動作を律し得るほどの体得を目的とする。
これっておまいさんのことw個人の創作文ばっかじゃん。
あと熟読だけじゃだめよん。修行しなくちゃね。
書いてる暇があったら黙って座れってねw
461 :
考える名無しさん:2009/03/25(水) 23:23:47 0
「宰我曰く、吾、鬼神の名を聞けども、其の謂ふ所を知らずと。子曰く、氣とは神の盛なるなり、魄とは鬼の盛なるなり。
鬼と神とを合すは、ヘの至りなり。衆生必ず死す、死すれば必ず土に歸る、此を之れ鬼という。骨肉は下に斃れ、
隠れて野土と爲る。其の氣は上に發揚して、昭明と爲る。T蒿悽愴たるは、此れ百物の精に因りて、制して之が極を爲し、
明に鬼神を命けて、以て黔首の則と爲す。百衆以て畏れ、萬民以て服す」(新釈漢文大系「礼記」祭義二十四より)
人が死んで土に還ることによる悲壮な雰囲気が鬼神だって、ちゃんと定義してんだ、孔子さまは。
ぜんぜん不可思議な意味は持っちゃいなくて、際どい生死の非情さを軽んじないために尊び、打ちひしがれないために遠ざく。
力任せに肯定しようが否定しようが、当然のこととして佇んでいるだけな「気の屈伸(by朱子)」としての鬼神を冷静に見極めて、
畏れ過ぎず嘲らぬ適切な対処を儀礼として施している。それ故儒教は実際の人間生活を十分に取り仕切ることの出来る
教学としては最も非宗教・無信仰的なものとなっている。抽象哲学や科学は葬式は司れないが、儒教はそこも司れる。
人間性を全面的に司る責任を背負った上で宗教や信仰を最低限に止める妙技、儒教以外にはありそうで全くないもの。
462 :
考える名無しさん:2009/03/26(木) 10:15:23 0
定義が厳密なわけさね、漢文で用いられている言葉は。
何万文字という膨大な種類を持つ漢字を用いて形作られる言葉が、
さらに多種多様な意味を持ち合わせてたんじゃ扱いようがなくなる。
日本人みたいに定型化された熟語だけを享受するのならまだしも、
熟語の創設から携わっている中国人ともなれば、一つ一つの文字
から十二分な意味を汲み取っての文章の編纂に務めている。
漢字の数だけ意味があり、その漢字を組み合わせた熟語の数
だけまた意味がある。わざわざ裏の意味などを掘り起こす以前に
表向きの意味こそをあたう限り汲み取るだけでも精一杯であり、
そこから言葉に対して無闇な期待をかけない風習が備わるわけ。
463 :
考える名無しさん:2009/03/26(木) 10:59:31 0
464 :
考える名無しさん:2009/03/26(木) 12:09:44 0
「行けば規に中り、還れば矩に中り」と「礼記」仲尼燕居第二十八にもあるとおり、
定規やコンパスを人間としての正しい立ち居振る舞いの例えとして用いている。
欠陥住宅や原爆の設計にだって用いれる規矩準縄を善美さの例えとすらなす。
善悪自在な彼岸の言葉ならぬ彼岸の道具を「領惡而全好(「礼記」同篇参照)」
のためにだけ用いるという、明確な方向性が仏教だけでなく儒教にもある。
物事が善良であるための絶対条件、悪くなくてしかも良いこと。
一番難しいが一番楽しくもある、上質な大人の嗜好。
465 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 19:43:58 0
「子曰く、夫れ民は、之をヘふるにコを以てし、之を齊ふるに禮を以てすれば、則ち民、格る心有り。
之をヘふるに政を以てし、之を齊ふるに刑を以てすれば、則ち民、遯るる心有り。故に民に君たる者、
子のごとくして以て之を愛すれば、則ち民これに親しみ、信以て之を結べば、則ち民倍かず、恭以て之に@めば、
則ち民、孫ふ心有り。甫刑に曰く、苗民、命を用ふるに匪ず、制するに刑を以てす、惟れ五虐の刑を作りて法と曰ふと。
是を以て民惡コ有りて、遂に其の世を経つ」(新釈漢文大系「礼記」緇衣第三十三より)
民衆の教化に道徳を用い、礼儀によって立ち居振る舞いを正させたなら、民心の支持を得られるという。
でも政治や刑罰ばかりに頼れば民心は離れていく。人の上に立つものにならば親愛や恭敬の念を絶やしてはならない。
ただ事務的な統治で何もかもを済まそうとしたなら亡国は免れないとのこと(次レスで感想を一括して述べる)。
466 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 19:45:16 0
「子曰く、上の人疑はしければ、則ち百姓惑ひ、下知り難ければ則ち君長勞す。故に民に君たる者は好を章にして
以て民に俗を示し、惡を愼みて以て民の淫を御げば、則ち民惑はず。」(新釈漢文大系「礼記」緇衣第三十三より)
上に立つ人間が挙動不審なら下民は惑うし、下の人間の意図を理解できないぶんだけ支配者も徒労する。
だから支配者と被支配者の間には十分な意思疎通が必要であり、しかも支配者が毅然とした態度を取ることで
初めて民心までもが淫欲への耽りを抑えて右往左往することもなくなるということ。
権力道徳に関しての基本法則を示したこれらの記述、別にこれに背いて、権力者が民心を欺いた権力の濫用を
計ったところで、警察や法務機関までをも支配下に置いているわけだから、法律違反として糾弾されることはない。
それでもやっぱり権力犯罪は権力犯罪であって、どんなに超法規性を訴えたところで「道徳違反」であることには変わりない。
犯罪者は法律違反者である以前に道徳違反者であり、
例え法律違反ではなくとも道徳違反であるものは本質的に犯罪である。
権力機構の頂点にいるが為にもはや法律によって裁きようのない支配者などもまた、道徳違反であることは裁かれて、
性懲りもなく道徳違反を続けるのであれば、自分たちが亡国や人類破滅の引き金を引く張本人となってしまう。
天地万物を司る道徳真理に背いたことへの報いは、いかに強大な権力者だろうとも避けられないもの。
467 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 21:09:54 0
「礼記」第四十四の儒行では、儒者の模範的な有り様や、逆に少し変に見えてしまうような堅物な有り様などへの説明がある。
文献上は「孟子」が初出である、孔子を創設者とする教学への呼び名としての「儒」が多用されている点からも、
かなり後世の作であることが分かるし、儒者の振る舞いとされる行状にもかなりこなれた様子が伺える。
しかもこれは、完全に日本の武士の行状の基本ともなっているもの。質素倹約とか浪人とかもここですでにあるし、
犯しがたいオーラが備わっているみたいな記述もすでにある。一部の中国特有の風俗を除いて、この篇で用いられている
「儒」を「武士」に置き換えたとしてもそんなに違和感はない。いかに武士が儒教道徳の深い影響を受けているかの証拠といえる。
468 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 21:11:20 0
469 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 21:24:49 0
儒教教学に基づくような真の道徳に比べれば、現行の実定法の法律なんてのは、真剣に対する竹光みたいなもん。
違反したからって社会への悪影響が如実には現れず、竹光で斬り合いごっこをした場合のようにそうそうには死に至らない。
でも儒教道徳に違反すれば、真剣で深く斬り込まれた場合のように即死が免れず、道理に基づく不可避なる破滅が待っている。
儒教道徳に深く根ざした武士が斬り捨て御免や切腹を実行していたのも決して気違い沙汰ではなく、本当にそうしなければ
世間が破滅に陥らざるを得なかったから。人間社会の際どさを一手に引き受けて、寸分も逃げることなく対峙していた勇猛さ。
武士やそれに匹敵する勇猛さがなくなってしまっている近現代が、近代法理論によって無難に運営されているように思えた所で、
やっぱり真剣さを置き去りにして竹光での斬り合いごっこばっかりに耽溺してきたしわ寄せはどこかに実在してしまっていて、
侍並みの道徳的勇猛さを受け入れねばならない時がすぐそこまで来ており、受け入れない以上は自滅だけが待っている。
470 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 22:10:50 0
礼記において、具体的な道徳の発現とされる「礼楽刑政」、これは「士農工商」と同じように
先にあるものほど貴く、後にあるものほど賤しいという意味を持つのではないかと思う。
>>465の引文などは、明らかに刑罰や政治よりも儀礼を上に置いている、刑や政も事実として
存在せざるを得ないものの、そこに全てを還元してしまったんじゃ本末転倒となる。
本質である道徳、末節である法律、法律が刑罰や政治であるなら、道徳は儀礼や音楽。
儀礼もそうだが、音楽もそう。人間の苦楽は刑罰や政治よりもさらに上にある。
苦楽を蔑ろにしてまで政治や刑罰ばかりを独り歩きさせたなら、ただ苦しくなる。
ちゃんと音調を整えて技巧を凝らして初めて音楽となり、ただ滅茶苦茶楽器を弾き倒した
所で雑音にしかならないように、苦楽は蔑ろにされた以上はまず苦しみにしかならない。
ちゃんと楽しさを追求すること、そしてもちろん儀礼も嗜むこと、どちらかといえば
無礼や苦しみであり続ける刑罰や政治を最小限に抑えて、人間性に基づいた社会の繁栄を
望む場合の不可避な選択。刑政の上にある礼楽、法律の上にある道徳の確固たる堅持。
471 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 23:03:40 0
記述内容を冷徹に鑑みれば、五経の内容は後世の改編や付け足しがかなり多く見受けられる。
偽古文尚書もそうだし、礼記の後篇の文書もそう。「孔子曰く」ということにはなっているものの、
あくまで仮託であって、確かな本人の言行記録ともなれば「論語」に尽きると言わざるを得ない。
それでもまだ、孔子という偉人の実在がほぼ確かな上、構成の改編や付け足しも紀元前後である分、
四書五経に則っている儒教のほうが、主要登場人物が実在しない聖典を崇めたてる宗教ごっこ
などよりも堅実。実用に徹したり、焚書坑儒の危機を切り抜けたりの「文章信仰の低さ」の下で
今の今まで生き残ってきた極東社会の聖典、四書五経。今こそ定本の認められるべき時。
472 :
考える名無しさん:2009/03/27(金) 23:33:00 0
そろそろ洋学との比較は控えようかと思う。
精神病患者の妄想なんかと比較したんじゃ、東洋教学の側の貫目が下がるというもの。
いくら見下しやすい谷底だろうとも見下さず、いくら見上げにくい山頂だろうとも見上げる、
それでこそ東洋教学に対する模範的な勉学の姿勢というもの。嘲りには別れを告げて。
473 :
考える名無しさん:2009/03/28(土) 01:34:20 0
ショーペンスレやここでギリシャ語ギリシャ語言ってた者ですが
最近、本棚に有る老子や仏典を読んで東洋教学の素晴しさに気付きました。
何で自分があんなに西洋西洋言ってたのか、今思うと恥ずかしいです
特に老子は凄いですね。此れからはギリシャ語止めて漢文やサンスクリット、パーリ語
を学ぶ事にします。取り合えず今の読書予定は、岩波文庫の原始仏典を読破して行こうと
思ってます。もしアドバイス等が有れば教えて下さいませ。
本棚に有る西洋古典らどうしようかな・・・
474 :
考える名無しさん:2009/03/28(土) 02:57:31 0
自作自演スレ
475 :
考える名無しさん:2009/03/28(土) 12:50:27 0
>>473 道家の老荘思想は、儒家の孔孟思想からすれば「遠ざけつつも尊ぶ鬼神」に関する
より主体的な思想信条なので、よきライバルといったところ。法家などよりもずっと。
神道や陰陽道も道家の影響を色濃く受けているので、国家神道だのオカルトだのでない
昔からの伝統としての神道や陰陽道なら、道家との関連で勉強すると面白いかも。
原始仏典ってのも、早い話が「小乗経典」のことで、天台宗の五時の教判などでも
「阿含部」として各種大乗経典との比較対象とされている。決して日本の伝統仏教が
完全無視してきたわけではなくて、漢訳の阿含経典なども一応は審査の対象とした上で
大乗経典にさらなる優位性を見出しているもの。竜樹菩薩の功績にも重きを置いて。
道家や小乗仏教にも確かに重大な価値があり、太古からの伝統を守り通しているという
点では儒家や大乗仏教以上のものとすら言える。ただその上で無信仰的な社会性や
自利を超えた利他といった別の優位性を選択しているのが儒家や大乗仏教といえる。
立場の違いによって長所も短所も違う、分業が基本となっている東洋教学の特徴。
東洋教学は、女性にあまり優しくない場合が多いので、女性であればそこは気を付けたほうがいい。
文化文明ってのは、いつだって男によって主体的に形作られてきたものだから、男が尊重されているという
ことはそのまま男たちが自己責任に徹しているということだし、女が(なぜか)尊重され過ぎているということは
男が媚びへつらっているということだから、男が形作る文化文明であるぐらいなら男らしくあったほうがいい。
「礼記」間伝第三十七でも、葬礼での敬礼の意を示す儀礼として、男子は被り物を脱ぎ、女子は腰帯を解くという
記述がある。頭で色々と考えて何でもやるのは男であって、女は頭よりも腹のほうを大切にするものとのこと。
頭で考えて作り出すものが、妊娠出産によって作り出される生命よりも上だなんてことはあり得ないんだから、
生命の重大さへの理解が十分であるなら、文化文明に真の女性性をやたらと食い込ませることは控えるもの。
それでもやはり東洋にも女性文化ってのは確かにあって、日本の古文が全体的に女性性優位となっている。
平仮名からして本来女性用の文字だし、「源氏物語」「枕草子」「とはずがたり」など、主要な文学作品が女流の
扱いを受けるまでもなく女性によって書かれている。本当に女が形作っている文化文明。日本の丈夫は公家や
僧侶でもない限り、剣を振ってばかりで自分から文章を書かなかったから、文筆では手弱女に譲ってるわけ。
聖徳太子の十七条憲法で有名な「和を以て貴しと為す」も、「礼記」の儒行第四十一に儀礼の一つとしてある。
三経義疏も大半が引文であることが分かっているし、聖徳太子もあくまで文芸家ではなく儒者や仏者なだけ。
主著の「教行信証」のほとんどが引文である親鸞もまた、文筆家である以前に仏教者(ただし僧籍を剥奪された)。
実情把握や自己研鑽ばかりに特化して、少しも「読んでください」というへつらいが東洋文化には見られない。
宮本武蔵の「五輪書」などは、本人の超人的武力がそのまま書き示されたものだから、結局誰にも再現できない。
本物の超人が書いたり書かれたりしている文章なので、崇められている一方でどこか不可思議でもあり続ける、
読んだり読んで実践する側にまで体を張った努力を要求する真剣な文筆行為のかたまり、それが東洋文化。
>>475 レス有難う御座います。勉強に成ります
老子を読むなら神道の勉強も面白そうですね。
先ず仏教を学ぶよりも老子からの方がいいかな?短いから。
其処ら辺に就いて教えて下さったら嬉しいです。
後、聖書やギリシャ語の本、大量の西洋古典は如何したら良いと思いますか?
売って東洋古典の資金に仕様と思っているのですか。
あ、このスレ最初からざっと読みました。面白かくて為に成りましたw
×かくて ○くて
481 :
考える名無しさん:2009/03/28(土) 16:21:23 0
自演なら上手にやれw
レス間隔短すぎw
>>478 >先ず仏教を学ぶよりも老子からの方がいいかな?
老荘思想はインド宗教でいうヒンズー教あたりだと思ったほうがいい。
古代バラモン教を確信的に改善したのが仏教、聖典などをそのまま受け継いで古来のままを保っているのがヒンズー教。
同じように中国にも古代神話や古代宗教が混沌とした形で存在していたのだけれども、儒家によって教学としての整理が
なされたことで鬼神信仰が脇に置いてかれそうになっていた、そこを受け継いで超俗志向としたのが老荘思想こと道家。
本気で研究しようとすれば荘子や列子、抱朴子、神仙伝など文献もまた多岐に及ぶし、易も重大な要素の一つとなっている。
仏教や儒教ばかりが受け入れられて、あまり日本では著名でない道家やヒンズー教にも相当な体系が備わっているので、
本気の研究対象とするか、鑑賞程度に留めるかでまた選択肢も変わってくるもの。日本での道家研究の門は狭いので。
>後、聖書やギリシャ語の本、大量の西洋古典は如何したら良いと思いますか?
売り払って流通させた所でまた新たな被害者を生むだけだし、よほど金に困ってでもいない限りは押入れにでも仕舞い込んどけば。
今の、お宝がゴミに埋もれている状態の世の中を、ゴミを盛り立てる側から形作っている文化であることには違いないんで、
一切を捨て去ってお宝だけを嗜好しようにも、そうそうには誰しもがその恩恵に与れるわけでもない。毛虫や毒蛇級の極彩色に溺れている
洋学中毒者からすれば、健康な淡色である東洋教学が一見つまらなさそうに見えかねないのも、自分自身の経験から知っているので、
有害無益な学問の志向を徐々に減退させて、有益無害な東洋教学への志向に徐々に切り替えさせていく必要がある。
洋学は本来、遠い遠い世界のもの。日本海の向こう側の、中国大陸の向こう側の、インド半島の向こう側の、ペルシャやアラブの
さらに向こう側にある一番遠い世界のもの。それが太平洋を横断するズルをして直接入ってきてしまってるだけだから、
それぐらい本来は遠い遠いものであるという意識に還って、逆に「自分のもの」としての東洋教学の勉強に励めばいい。
484 :
考える名無しさん:2009/03/28(土) 19:34:43 0
「天子は男ヘを聽き、后は女順を聽く。天子は陽道を理め、后は陰コを治む。
天子は外治を聽き、后は内職を聽く。ヘ順俗を成して外内和順し、國家理治すと。
此を之れ盛コと謂ふ」(新釈漢文大系「礼記」昏義第四十四より)
婚儀について書かれた同篇の中でも、特に思想的な定型化がなされている部分。
結婚式で仲人さんが引用するのにもちょうどいい感じ。男は外に出て女は内職に勤しむという
典型的な儒教的男女論だけども、決して男尊女卑なんていう短絡的な批評で済むものではなく、
陰陽五行に深く根ざした国家論として提示されており、女性が女性なりの婦徳を持つことが
天下国家の隆盛にまでも結び付くという、重大な責任論にまで昇華させている。
>>206での教行信証の引用にもかなり類似している感がある。親鸞聖人もこの篇を
読んで「徳光の父母」の比喩を思いついたのかも知れない。鎌倉時代の仏教者が山を下りて、
平地の考えに根ざした教学を展開しようとした時に、自ずと参考となったのが儒教だった。
それほどにも昔の日本では、儒教的価値観が当たり前のものとしてそこら中に流布されていて、
男は外事、女は内事という考え方が隅々まで行き渡るあまり、日本の古文は紫式部のような宮女に
よって興されるまでにもなった。宮廷での内輪ごとがそのまま日本文学、さらには世界文学の
金字塔と化してしまった「源氏物語」、女が女らしくあるがままに偉人となる選択肢が開かれている。
485 :
考える名無しさん:2009/03/28(土) 21:59:13 0
「礼記」読了。法典のさらに上にある儒教の礼典。
法典ではないから罰金だの刑罰だのが厳格に定められているわけではなく、
ただ人間が人間らしくある上での積極的な有り様が描かれている。
法律を守る程度は消極的な人間らしさ。礼儀正しさまでいって初めて積極的な人間らしさとなる。
法律違反もまた消極的な非人道であり、無礼であるが故の道徳違反こそは積極的な非人道。
積極的な非人道とまでなればもはや破滅は免れず、誰と言わず道理に裁かれる。
天に向かって吐いた唾が自分の顔に降りかかってくる、無礼を尽くした者の末路。
486 :
考える名無しさん:2009/03/28(土) 22:09:26 0
礼儀は法律でないことはもちろん、迷信でもない。
立ち居振る舞いの正しさによって人間関係を穏便に済ませる常套手段、
正しいということは、規矩準縄のようであるということ。身の割り振りから定規やコンパスのように
しっかりと正されていること。定規やコンパスで何かを作りこむことばかりに没頭して
自分自身の立ち居振る舞いは少しも正されていない、規矩準縄を体得できていない人間が
かえって欠陥住宅や原爆をも作り出してしまう。善用することは礼楽刑政となる一方で、
悪用することはあたう限りの不吉ともなる規矩準縄。依拠の対象は同じものだから、
別にその部分でどちらが上か下だなどとは言えない。規矩準縄は規矩準縄でしかないから、
ただ悪用せずに善用していることが、善用せずに悪用していることよりも上となっているだけ。
487 :
考える名無しさん:2009/03/29(日) 07:09:05 O
梅雨とをち 梅雨と消えにし我が身かな
488 :
考える名無しさん:2009/03/29(日) 17:49:31 0
>>482 レスありがとうございます。参考になるなぁ。
道家ですが、荘子は好きなのですが、易は読んでもちっとも分からないし面白くありません。
わたしが占い嫌いだからかもしれません。あと道教と老子は別物だと思っているのですがどうでしょうか
>>483 そうですね本棚の奥にでも入れときます。流布させたらまた被害者が増えますもんね。
あと、一見東洋教学ってつまらなそうに見えますよね。仏教や儒教って暗いイメージがあるとわたしも思ってましたから。
>>488 >易は読んでもちっとも分からないし面白くありません。
朱子も易は五経の中でも飛び抜けて難解な書物だと言っていた(
>>23)。
軟体動物のように有機的で、つかみ所のない現実真理をそのまま記している書物。
量子力学やコンピュータ理論の参考にもなったりと、かなり人類文明のやばい側面まで
司ってるんで、その潜在的な重大さが警戒感を抱かせたとしても仕方ないことであるとはいえる。
占いに使われるのなんて極めて瑣末な意義でしかない。その本義が解読された途端に
人類の歴史が一旦は終わってしまうことにもなるかも知れないんで、覚悟もなく近寄らないほうが。
>道教と老子は別物だと思っているのですが
老子は道教の社会的立場の宣言書。儒家によって社会の中核から排除された鬼神信仰を
これからも続けていくために、自分たちが超俗性を保っていくことを思想哲学としてしたためたもの。
「山海経」に出てくるような変な神々を、社会に迷惑をかけない段階で愛でる。
日本のように、八百万の多神信仰が神道として先に完成していた上で、後から儒教が入ってきた
国であれば、鬼神信仰が儒教からの圧力で排斥されることは(少なくとも武家の登場までは)
なかったから、老荘思想のような超俗志向を鬼神信仰のために取り入れる必要はなかった。
超俗的であることで哲学真理を追究する仏教が入ってきて初めて超俗性が認められるようになったわけ。
>一見東洋教学ってつまらなそうに見えますよね。
何しろ、近現代文化の参考としてちっとも活用されていないからな。
梵字のあしらわれた戦国時代の甲冑とか痺れるほどかっこいいし、儒教的価値観に基づいて
悪い奴らをバッタバッタと倒していく鬼平も最高に面白い。ただ、如何せんどちらも数百年前の産物。
近現代に主流の文化とされているものが、儒教や仏教を参考に造られたことなどほとんどなく、
辛うじて特撮ヒーローが時代劇のストーリー展開に沿ってたり、ガンプラが仏像の造形に影響を
受けてたりする程度。お年寄りや子供が楽しむにはいいにしても、働き盛りの青年や壮年が
嗜好の対象とするようなものではなく、社会の多数派が消費の対象とする主流の最新文化こそが
儒教や仏教を参考にされ始めた時に初めて、一見しただけでも面白くなる。
潜在的な面白さだけでも本当は最高なんだから、それを参考に新たな主流文化を形作れば
未曾有の面白さになること間違いなし。もちろん最初期の儒教や仏教からの温故知新によって。
質問ばかりで申し訳有りませんが、老子を勉強するついでに漢字も勉強しようと
おもってるのですが、どういう文献を読めば良いでしょうか。
有名なところでは白川静がいますが、この方はどうでしょうか。
どうぞ宜しくお願いします
漢字(というか習字)はそんなに自分も得意ではないんだけども・・・
「千字文」あたりは昔は誰でも初級のお稽古に用いてたそうですが。
漢和辞典をパラパラめくってるのが、漢字の特性を覚えるのには一番いい。
偏とか旁とかの部首構成はもちろん、漢字ってのはどれもある程度の
法則に基づいて出来てるのが、数をこなすことで漠然と把握できる。
囲碁の法則もコンピュータによる捕捉がほぼ不可能とされていて、
理論的解釈だけでは説明しきれない、実相に基づいた有機性が
漢字には備わっているから、森林浴によって草木のすがすがしさを
感じ取るように、全体の雰囲気を受け止めることが肝要かと思われる。
>>489 朱子も易は難解といっていたのですか!。
多分、これからもなんかい読んでも分からないだろうと思います。
老子ですが、老子と道教は切っても切り離せない、ということでしょうか。
>>490 はい、わたしも暗くてつまらさそうな感じがしていました
そして、梵字って格好いいですよね。でも最近のパーリ語文献やサンスクッリト文献は
アルファベットで書かれているんですね。梵字にするべきだと思いますが・・
>>492 千字文は面白そうですね。買ってみることにします
漢籍をよむならやはり漢字の知識はある程度あったほうがいいですもんね
参考に成りました。
>有名なところでは白川静がいますが、この方はどうでしょうか。
残念ながら、近現代の研究者の創作論文はどれも有用性が保証できない。
昨日読み終わった新釈版「礼記」の訳者である竹内氏も、出来の悪い部分の原文にケチを付けてるし、
「法句経」のパーリ語原典の訳者だった友松氏も、同経典の講義で道徳にケチを付けるような発言をしてた。
前者の場合は、内容を会得してこそ意味のある四書五経に対する研究姿勢としては不誠実だし、
後者の場合は、宗教だから道徳なんか無視しても構わないというような甘えが見受けられる。
学者である以上は侮蔑的虚無的な分析主義ですらあればそれでよく、宗教家である以上は
現実的な倫理性をも無視して形而上の夢想に走ってもいいというような、教学分裂状態な
近現代の学界や宗教界の流れに沿った論文だったり講義だったり。原典の訳者ですらこうなんだから、
独立した論文を記す学者の論弁ともなれば、さらに問題となる。近現代の学者は総じて学識だけは
立派なものなんで、原典や史実に基づいた正しい知識だけを学んで、彼ら独自の意見だ活動だまでをも
鵜呑みにはしないように心がければ。最悪の場合、犯罪集団とつるんでるなんてこともあり得るので。
>>493 >老子と道教は切っても切り離せない、ということでしょうか。
そんなことはないでしょう。世俗性を超えた所に何らかの真理を見出すという考え方が
道教だけでなく仏教やヒンズー教、修験道などにも備わっており、超俗性の価値を保証する
基本文献として、世俗的な道徳の価値を保証する「論語」とも対をなしているとすら言える。
しかも別名が「老子道徳経」。超俗的であることによって道徳性を養うという考え方の取っ掛かり。
普通は仏教や修験道などは「道徳を養う」などとは言わない。道徳なんてのは世俗の価値だから
自分たちはもっと高尚な何物かを追い求めているとする。確かにそれは道徳以上のものではあるが、
決して道徳以下のものではない。至上の道徳である聖徳あたりこそが、超俗性に基づいた正統な教学
を修める人々が現実的に追い求めているもの。まず道徳すら追い求めない禽獣のごとき心理状態
(異生羝羊心)があり、まだ世俗的でありつつも道徳を追い求めようとする心理状態(愚童持斎心)
がその上にあり、さらにその上に超俗的であることによって道徳以上の聖徳を追い求めようとする
心理状態(嬰童無畏心)がある。道教もヒンズー教も仏教も、道徳ぐらいは当然のこととして
超えてしまっているという前提があって、犯罪のための悪用なんて始めからあり得ないもの。
超俗性もまた道徳を超えてのみ価値を持つという点を、取っ掛かりとして記しているのが老子。
完成の段階にまで到達したのが空海の「十住心論」。今度はこの空海の主著を読んでみることにする。
497 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/03/30(月) 00:10:59 0
このスレも久々ですね。
>>496さんへ
老婆心ながらご忠告を。後期仏教に於いては特に
「字面、文字」だけの解釈は道を大きく外れてしまいます。
くれぐれも「学」だけに留める様お願いしたいものです。
儒教の「徳」について思うのですが、プラトンの対話篇みたいに、そもそも徳そのものがわかっていないと
徳っておしえられないと思いませんか?仁や義しかり。まずは徳とはなにかから問うていかないと駄目
だと思いませんか。しらないものについては考えられませんからね、人間は。
久しぶりにプラトン読み返して気になったのですが。
>>497 本格的な実践者でもない身で、さも密教を会得したかのような論及は絶対に避けるものですが、
かといって虚無的侮蔑的な分析主義に走るのも避けねばならない。ただ教学分裂、言行不一致状態な
今の世の中において、密教や禅のような実践仏教がいかに敷居の高いものであるかを調べておこうと思うのです。
異生羝羊心や愚童持斎心のような、十住心論においては最低段階の所から上位を見上げることで
いかに仏教における成道の階梯が高く険しいものであるのかを、改めて確認しておく。
十住心論の簡略版である「秘蔵宝鑰」はもう読んだので、ある程度は内容も察知していますが。
>>498 「徳」を言葉で説明するのは簡単。「一概な善良さ」というのが、東洋教学において「徳」という言葉で
説明されようとしているあらゆるものの正体。儒教なら社会における善悪の衝突の中で善を推し進める「勧善懲悪」が
常に本義であり続けるし、仏教なら社会を厭い離れることで、悪からも厭い離れて純善を養う「断悪修善」が本義であり続ける。
行業を部分的に俗世間には隠している密教も、それによって社会性から隔絶した修善を目指している。
凡そ一概な善良さこそを目指すという方向性だけは、「徳」を追い求める人々の間には共通しているが、
それぞれの段階において目指されている善良さというのが多種多様なので、どれこそがそうだなどとも言えない。
儒教の礼楽刑政もそうだし、仏教の修行もそう、それぞれの行業によって善良であるが故の徳を積んでいる。
それ故どうしても、善良さを善良さの側だけで一括りにすることはできず、劣悪な側の有り様に基づいて
「犯罪ではない」という括りをすることで、初めて善良さが善良さである理由は分かってくる。極めて程度の低い括り。
パッと見で犯罪の防止であることが分かるのは道徳程度、ただその道徳のさらに上に聖徳や仁徳や徳義が
あるわけで、共食いという以外のいかなる意味もない犯罪と比べれば「徳」には大幅な高低があることが分かるもの。
愚童持斎心から秘密荘厳心までの九段階全てが、程度の違う徳を修めていることには変わりないので。
501 :
考える名無しさん:2009/03/30(月) 13:26:59 0
ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2425_,77,0304a06:2425_,77,0304a25.html 「十住心論」異生羝羊住心第一冒頭における、異生羝羊心の概括的な説明。
善悪への無知、因果への不信、博打への耽溺、無益な殺生、不当利得、不貞姦淫、カルト礼賛・・・
草を食む羊のごとき蒙昧さが全てここに入り、結局これは近現代に特有の文化文明そのものとすら言える。
「科学技術の発展」なんて言われ方もなされるけども、科学ってのは人間にとって善だとも悪だとも言えない
「無記」に当たるものなのであって、無記の理論構造の発展ばかりに終始するあまり、善因楽果悪因苦果の
罪福の道理を蔑ろにしてしまって、人類文化文明とした場合の心相は異生羝羊心でしかなくなってしまった。
無記に関する説明も、罪福の否定による地獄への堕落も本編の引文に入っていて、実相に基づいた本物の
無記は「無覆無記」であるともしている辺り、間違いや無駄な概念構築の伴わない真正の科学統一理論が
無害なものとなることもすでに予言されている。一方でやはり罪福の道理もまた存在する。人間の本性に
根ざした善因楽果悪因苦果は、信じるか信じるまでもなく肯定するかのいずれかでないと、悪の苦しみに堕落
せざるを得ない。阿弥陀如来の第十八願でも救われない五逆や誹謗正法の輩、密教なら救われうるらしい。
502 :
考える名無しさん:2009/03/31(火) 14:53:17 0
「地獄と傍生と鬼と、及び人と天と是れを五趣とす。善と染と無記と有情と無情と、及び中有と等、皆是れ界の性なり。
趣の体は唯し無覆無記に摂す。唯し是れ有情にして中有に非ず」(日本思想体系「秘密曼荼羅十住心論」巻第一より)
神道の天界や儒教の人界、犯罪推進道徳唾棄な地獄界や鬼畜界は、善悪や情念や未だ生まれ変わらぬ命と共に
「無記」を性分としている。形而上的な存在論とか概念論とか、人間の善悪とは直接関係のないもの。現実主義者
である釈尊はそのような夢想に関する論述を行なわなかったから「無記」という。それでも確かに無記は存在していて、
地獄餓鬼畜生人天の五趣の本体である無記は「無覆」であり、善良さへの差し障りとなるものではない。けれども本体
ではない無情や中有に基づく形而上の夢想は「有覆無記」でもあり得る。現実世界の物理現象を記述する理論科学が
一切の非現実的な概念論を排して、現実の記述だけに特化したなら何も問題はないが、現実を記述している部分と
学者の側の勝手な推論とのみそくそであるような場合には問題となり、人間性を欠いた無情さや亡霊にもなってしまう。
リグ・ヴェーダの宇宙開闢讃歌や陰陽五行の創出などにより、形而上学的な存在論を太古の昔に卒業してしまっている
東洋社会には基本科学がないが、現実への把握が磐石であるために、無記であるにも関わらず理論科学の最終到達点
までをも察知してしまっている。どうせ無覆無記なんだからそれでいいじゃないかと、さっさと諦め去ってしまっている。
503 :
考える名無しさん:2009/03/31(火) 15:13:07 0
>>502をちょっと訂正。
「有情」は仏教用語では一般大衆のことを言うらしい。確かに情的であるには違いない。
じゃあ「無情」って何かっていうと、大衆ではないもの。俗世間から隠れているもの。
隠れているくせに別に天人以上の境地を目指そうってわけでもない、洞穴の奥の潜伏者。
洞穴の奥の潜伏者であり、しかも亡霊であるようなもの、有覆無記だったりもする。
確かに五趣の世界に存在はするが、本体ではあり得ない。「無覆無記であり有情にして中有に非ぬ
現実世界」の本体ではない、寄生的な存在として、有覆無記な亡霊状態の潜伏者がいる。
全体性の責任を負う主体性を持たないが故にそうであり得る。五趣の世界における寄生的な何か。
ただでさえ数少ない、仏教における無記に関する論述の中で、さらに副次的な扱いを受ける、
みぜらぶるな諸物の陰謀。異生羝羊心から愚童持斎心に移った時点で既に断滅されるそうな。
504 :
考える名無しさん:2009/03/31(火) 16:52:31 0
論語って読んでも退屈なんだが・・
505 :
考える名無しさん:2009/03/31(火) 20:07:04 0
論語は仏教でいう法句経だぜ。
悪いことをせずに善いことをする、己の欲せざる所を人に施すことなかれ、
儒教や仏教の一番根幹的な部分だけを纏め上げて、
孟子や近思録や朱子語類、大乗経典といった後世の佳作大作にバトンを繋げた。
決して論語や法句経で終わっているわけではなく、そこから儒教や仏教の
成長が始まったわけで、金科玉条に掲げるのとはまたちょっと違った意義がある。
儒学を修めた武士は確かにかっこいい。でも武士になるためには剣術などでも
厳しい鍛錬が必要で、同じように儒学もまた努力的な勉学の対象となるもの。
一生懸命学ぶことで人間としての真摯さも学ぶ。近道のない学問とはまさに
儒学や仏学のことをいい、例え天才や秀才だろうともやっぱり努力は必要になる。
506 :
考える名無しさん:2009/03/31(火) 20:27:37 0
む-き 【無記】 仏語。善とも悪とも記すことができないもの。事物の中性的な性質。
また、哲学用語のIndifferenceの訳語としても用いる。(小学館「国語大辞典」より)
む-き【無記】〔仏〕@釈尊が他の思想家から向けられた形而上学的質問に対し、
沈黙を守って答えなかったこと。無記答。A三性の一。善でも悪でもないもの。(岩波書店「広辞苑」より)
相変わらず広辞苑は仏教用語の説明が悪意的。まるで「釈迦にも答えられないことがあった」とでも言いたげな。
法蔵館の「仏教大辞典」で調べても、広辞苑のAの意味のほうが@の意味よりも先に載せられている。
形而上学的な問題は善でも悪でもなく、人間にとって無益無害(ただしそればかりに耽溺して現実の善を蔑ろ
にすれば有害無益)な問題には釈尊は取り合わなかったというのが「無記」の本意。形而上学を語ってしまって
いる人間もまた、本物の形而上学を説明できているわけではなく(そんなものは存在しないが)、ただ自分たちの
勝手な妄想をあたかも真実であるかのように触れ回ってるだけだから、誰一人として形而上学への言及によって
釈尊を超えられたわけではない。鬼神信仰を遠ざけた孔子に対しても同じ。超えたつもりでも一切超えられてない。
507 :
考える名無しさん:2009/03/31(火) 21:51:51 0
ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2425_,77,0314a05:2425_,77,0314a16.html 「十住心論」愚童持斎住心第二冒頭の愚童持斎心に関する空海自身の説明。
初めて善根が芽生え、因果や罪福も承諾し、親や目上の者に対する恭敬の念も抱くようになる。
仏法僧の三宝への帰依と共に、忠君愛国の気持ちなども芽生えるあたり、まだ世俗上の諸物に対する
思い入れが強く、自分自身が自力で仏法を突き詰める程の気概はない。他力の浄土教などもそうであり、
「教行信証」では最後篇に引用されていた論語が早々にここでもう引用されてしまっている(左伝なども)。
仏典でよく使われる「転輪聖王」という喩え、いまいち超俗性を称える仏教における立場が分からなかったが、
ここでの詳説でやっと分かったような気がする。もはや世俗へのしがらみを捨ててしまっている仏教者には
自分自身が世俗で活躍するつもりはないが、もしも世俗で活躍するなら転輪聖王の如き大王となるということ。
あくまで最大級の国家的社会的な価値の上にこそ超俗の仏法が存在しているとする、自分自身もまた釈迦族
の王であり、その上で出家し求道者となった釈尊の意図にちゃんと沿えば自ずと導き出される、鎮護国家。
日蓮はわざわざおせっかいにも北条政権に立正安国論を上程して棄却されたが、空海ともなれば本当に
本物の鎮護国家の礎となってしまっている。わざわざ自分から主張するまでもなく、ゴロリと提示するだけで。
508 :
考える名無しさん:2009/03/31(火) 22:36:44 0
「教行信証」と同じで、「十住心論」も引文だらけ。
「秘蔵宝鑰」は冒頭からノーベル文学賞2000回受賞級の名文の宝庫で、決して創作文芸能力が
低いわけでもないはずなのに、引用集+注釈や偈のほうをより大部の主著としている。
「自分自身がこれらの文章内容の修得者である」ということのほうが、自分自身が新たに創作した
概念だの理論だのよりも重要なことである。だからこそどちらかといえば取っ付きやすい創作文である
秘蔵宝鑰や歎異抄よりも、十住心論や教行信証のほうが真言宗や浄土真宗の根本宗典となっている。
日本天台宗典の「顕戒論」は、最澄自身による教団創設のための事務的な記述が多いし、
日本曹洞宗典の「正法眼蔵」も、引用はするものの道元自身の注釈の割合が大きい。
別に引文ばかりになるのが仏教宗典の絶対条件なわけでもないらしいが、むしろそのほうが
「字面だけでの解釈(
>>497氏の忠告より)」が困難になるために、ただの学者などには理解不能となる。
広辞苑も仏語の説明が粗末だが、いま読んでる日本思想大系版の「十住心論」も、頭注のページ指定が
ずれまくってたり、読み下しの鍵括弧が抜かってたりと誤植だらけ。洋学者がお得意様な岩波書店はやっぱり
東洋教学に関する出版は疎かになっている所がある。日本仏教界の大スターである空海や親鸞の主著からして
引文だらけで、形而上の夢想による「有覆無記」の捏造こそが要である近現代の学術とは全く噛み合わない
のが忌避の原因になっているのかも知れない。だからって創価学会に飛んじまってもいけないとは思うが。
509 :
考える名無しさん:2009/04/01(水) 13:10:36 0
ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2425_,77,0322c09:2425_,77,0322c18.html 「十住心論」嬰童無畏住心第三冒頭の嬰童無畏心に関する空海の序説。
第一住心の異生だけでなく、第二住心の愚童もまた思い悩むことはまだまだ多い。
因果や罪福の道理も許諾しただけに過ぎず、少しも信じて実践に励むことはなかったのが
第三住心の時点でついに確信を抱くようになって、天上の世界への踏み入りを始めていく。
他力の信仰では仏法僧の三宝に帰依していたのが、自力の実践の初歩である第三住心では
一旦仏法への帰依が横に置かれて、ヴェーダや陰陽五行の実践に取って代わられる。
自力に関しての本格的な仏心への言及は、もっと後にするから捨て置けということ。
とはいえ仏教は古代インド教をベースにしているので、話の内容はほとんどインドの外道信仰に
まつわるもので、道家の陰陽信仰は少しだけ言及される程度。陰陽道との関わりの深い
神道も入れるとすればここに入るだろうし、イスラムのスーフィズムなどもここに入るかもしれない。
ただ、神道やイスラムは社会的な統治行為にも深く纏わっている総合教学なので、超俗性に
全てを還元する第三住心で何もかもを説明できるわけではないので、あくまで一部分だけの話。
そもそも空海の生きていた平安初期には神道はまだ宗教ですらなかったはず。朝廷即ち神道なので。
社会全体を宗教的精神性によって統率してしまう理念、比較的後発な神道やイスラムだからこそ持つ。
510 :
考える名無しさん:2009/04/01(水) 17:38:56 0
イスラムってどこがいいの?
511 :
考える名無しさん:2009/04/01(水) 18:47:01 0
すごく、とてつもなくいいなんてわけではない、ただそんなに悪くはないだけ。
テロ報道などとは裏腹に、犯罪性にまつわるが故の危うさが取り払われた、とてもゆったりとした所。
アブラハム教圏が外界侵略による不当利得を捨て去って、完全なる自活を始めれば自然とああなる。
法衣も物々しければ、一般人の服装も地味なものが多い。戒律も極端に厳格なものばかり。
でもそれが完全に燃え尽きて炭となったアブラハム教の末路。完成されたアブラハム教。
客人に対しては賓客を招くようなおもてなしをするくらい
友人愛はすごいらしい。
同性愛者でもないのに男同士や女同士で手を繋いで歩いたり。
厳しい灼熱の砂漠社会では、それほどにも仲間関係が緊密でないとやっていけないから。
もてなしがいいつっても、飯もそんなに美味くないし、基本的な事務処理がルーズなんで
最高級のホテルでも日本みたいな細やかさは期待できない。もてなしの本場と言えばやっぱり中国。
自分たち自身が一切酒を飲まないから、そこら辺の人間に酒屋の場所を聞いただけでも
まるで悪魔でも見るような怪訝な反応を返される。戒律で禁じられてるからって、たとえ一般人だろうとも
絶対に飲まない。要するにアホだ。随順がそのまま服従に直結する、アブラハム教の本当の姿。
514 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 01:06:05 0
昔々、文化文明を作り出すほどの知能を備えた人類の祖先がアフリカに黒人(ネグロイド)として生まれ、
北方に避暑を追い求めた連中が少しだけ進化して白人(白色コーカソイド)となり、
東方の灼熱砂漠地獄やその向こう側の南方モンスーン地域に移住した者がさらに進化して
今のアラブ人やインド人(有色コーカソイド)となった。この時点でネグロイドから進化したコーカソイドが
「太陽による暑さを忌み嫌う者」と「あえて太陽による灼熱のさ中に身を投ずる者」とに分岐し、太陽との
真剣勝負に挑んだ有色コーカソイドの落ちこぼれがユダヤ人として白人社会に逃げ込んだりもした。
ただ、インドやアラブを越えてさらなる東方、太陽の出ずる処へと足を運んだ者が、有色コーカソイドから
さらに進化して黄色人種(モンゴロイド)となった。太陽との真剣勝負を超えて「日出ずる処」を制した者。
太陽に面と向かって対峙することを貫徹した者が日本人や中国人といった極東民族となった。
ここから人類の文化文明は始まっていて、地球社会において最も進化した人類であるにも関わらず、
黄色人種は世界最古の文明(縄文文明や農耕文明)を形作る人種ともなった。
ほんの数百年前まで、これらの順序だてられた人種民族階位に基づく人類文化文明の発展が
なされていたのが、太陽の暑さから逃げ出した白人種が自分たちの部落だったヨーロッパからさらに
西方のアメリカへと移住を始めた。ただでさえ太陽を忌み嫌っていた連中が、さらに太陽に背を向けて
西方に見出した新大陸、そこを拠点にさらなる西方への侵略を続け、最後には太陽と面と向かい続けてきた
人種民族の代表である日本人にまで侵害の手を伸ばすまでにもなった。日出ずる処の代表と日没する処の
代表。人類のみならず、あらゆる地球上の生命体への熱量補給を司る太陽とあたう限り対峙してきた者と
あたう限り目を逸らし続けてきた者、あまりにも根本的な精神性の違う者同士が衝突して、
未だにいびつな関係性を続けている状態にある。
自演?書き方が全く同じなんだけど。
あげsageすればいいってもんじゃないよw
516 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 01:28:41 0
日本人も中国人もインド人もアラブ人も、白人や黒人と比べれば太陽とより親しい人種民族。
地球上のあらゆる生命を司る太陽のことをよりよく知ろうとした人々が、そうでない連中と比べれば
明らかに一概に追い求めてきた善良さ、それは詰まるところ、「地球人類社会の繁栄を求めること」であるよう。
太陽に背を向け続けてきた人種民族の信仰対象が犯罪(共食い)を公認礼賛する類のものであることからも
人間が人間であるが故に善良である条件は、人類の繁栄を心から追い求めていることなのがよく分かる。
現代社会における勝ち残りのイデオロギーとなっている資本主義、GDPや株価の増大ばかりが
最高の価値とされ続けている。金があれば何でも買えるってのは近視眼的な考え方であれば誰もが納得する
ものではあるが、詐欺同然の不当利得によって正当運用不能な死に金を蓄積した場合などには、
むしろ人類全体にとっては利権が大幅に制限されるという意味で、重大な損失となってしまう。
そのような人類にとっての損失である犯罪的な資金と、真っ当な労働によって得られる資金とが
どちらも絶対値だけを比較されて上だ下だと取り沙汰されている、人類にとってプラスである金とマイナス
である金がどちらも符号を除かれた状態で累積されて、何億何兆なんていう天文学的な数字で示されている。
人類にとっての利益であるか損失であるかを十分に計算に入れれば、実は金なんてのはプラスマイナスゼロ
でしかない。人類の繁栄にとって金銭というのは本質的に無記なのであって、ちゃんと人類全体にとっての
利害が計算されれば無覆無記となるし、そうでなくただ絶対値だけが計算されれば有覆無記ともなる。
一概な善良さを追い求める余り、自らの王座を捨てて求道者となった釈尊の選択にも明確な必然性がある。
地球人類全体の繁栄を願うという真の善良さの追求のためには、金銭的な利権は確かに無記である。
反発的な否定の対象としてではなく、冷静な考慮によって確かに無記であると判断された資本利権。
日本からアラブまで、真っ向から反対するとまでいかない反犯罪主義者は今でも人類の大部分を占める。
>>511 そゆこと。原理主義なんたらとは違うんだよえ。
518 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 01:39:55 O
道
要するに、「善」とは人類の繁栄、「悪」とは人類の破滅のこと。
破滅を追い求めるのは簡単。ただ殺し合い共食いし合ってりゃいつかは破滅する。
でも繁栄は大変。何かこれだけをやってりゃ繁栄できるなんて手っ取り早い選択肢はない。
金だ法律だ科学だもあくまで無記であって、人類の繁栄を直接司ったりはしないから。
人類の繁栄こそを司る善良さが一体どこにあるのかを見極めないと。
>>519 繁栄とか善良なんて少なくとも仏教ではあるとかないとかではないね。
そういうのは俗諦っていう。
人類の繁栄でもあり得るもんだ。転輪聖王でも。
522 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 12:35:26 0
>>520 真に衆生の繁栄を願えばこそ、俗諦ではなく真諦に基づく。
世俗の富者などは、他者からの利権の吸い上げばかりによって肥え太っている。
イスラムのように資産の公平な分配を行なえばそれで済む所を、わざわざ資産の囲い込みに耽っているわけで、
そんな人間が人類の救済だ繁栄だなどを語った所で、自分で飢えさせた相手を自分で救うマッチポンプ
にしかならない。だから儒教道徳は社会の統治者に対して一般民衆以上の自己規律を要求するし(孟子や書経を参照)、
仏教に至っては世俗の内側で衆生を傍観しようだなんていう甘えきった考え方を完全に捨て去ってしまう(浄土教以外)。
俗世間のしがらみから離れた所で真理を追究して、その成果を衆生の救済にも反映させる、鎮護国家をも旨とする
大乗仏教や密教の不可避なる有り様。決して世の中を捨て去ることで自己完結しているわけではなく、
求道の成果は衆生にまでも及び、そこが古代インドの外道信仰や小乗仏教とは明らかに違った部分となっている。
523 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 13:34:02 0
>>522 横レスだが違うんじゃないの?
世間、出世間の法っいうの知ってたらそんな考えは出ないはずだけど。
浄土教と他の仏教をごっちゃにしてるだけのようなw
あんまネットばっかの検索してるとどこ見てるかバレちゃいますよ。
524 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 13:50:40 O
525 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 13:51:49 0
>>523 仏者の側から意見しているのではなく、あくまで世俗の側から批評している。
日本に仏教を始めて導入した聖徳太子、奈良の大仏を建立した聖武天皇、天台真言ら平安仏教の後ろ盾となった桓武天皇、
現存の寺院史跡の規模などからも相当な支援を行なったことが伺える上代日本の統治者たちが
いかなる思いによって仏法の庇護を考えたかを鑑みれば、やはり衆生への仏果のお目こぼしを狙っていたからに
違いないのであって、事実、平安時代などは死刑一つない平和な時代となり得たもの。
出家者には出家者なりの禁戒による悟りの境地があり、在家信者には在家信者なりの大乗仏教への理解がある。
教団と社会とを意図的に断絶させるような考えは一切なくて、ただ真理に恐れなく立ち向かっていく
超人が自ずと一般社会を超えた所に正法を見出さんとしたに過ぎないもの。
526 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 13:54:02 O
527 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 13:57:19 0
>>525 それってただの民衆のひがみみたいなものじゃね?
そんなもんと仏教や他宗教を比較しても、っていうか比較するもんじゃないと思うけどね
今でこそ「仏教とキリスト教」なんて並べ方がなされるが(
>>524の四段目とか)、
仏教とキリスト教を比較するなんてのは、男と女に相撲をとらせるようなもので、
ややもすればそのままセックス突入なんてことになりかねない。
やはり相撲は男同士でとるべきであって、仏教との誠実な比較対象となるのもまた、
世俗の王道教学こと儒教であることが望ましい。
世俗だからってただ卑しいのではなく、世俗であるにはあるなりの公衆道徳を保つもの。
女が子を産まなけりゃ寺院も僧侶の補充のしようがない、
僧籍剥奪で肉食妻帯の親鸞などは、三綱五常を掲げる儒教の側からすれば
不淫戒の僧侶などよりもより模範的な人間ですらある。
世俗だろうが超俗だろうが、どこもかしこも善良であろうとする世の中でこそ
大乗仏教もまたその本領を発揮する。犯罪大好きな連中なんかにあてがうのは、
太陽に背を向ける西方信仰の浄土教だけで十分だから。
仏教は社会的地位が高い者が学べば統治に応用するから世俗的だが
下層階級が学ぶなら形而上学以上のものではなく常識的世界観を転倒させて
自己革命を経て純粋理性・純粋客観の視点から自己への意味付けをやめさせ
主体性を喪失することで苦痛を麻痺させて生きさせる。
いくら真理でも仏教は禁断の智慧の実では無いんだろうか……?
イエス・キリストが問いかけはしても仕組みを教えなかったのは
人というのは例えそれが罪でも、自分と仲間を愛し信じ仲間のために喜び泣き怒り戦うことこそ、
もっとも尊い人間の姿だと考えられたからでは無いだろうか。
「主体性」なんてカッコいい言い方をするもんじゃない。
ただの「我」だ。それも、梵我一如のような真理との一致を目指す真我ではなく、
ただひたすら自分や、自分の気に入った仲間内だけへの偏愛を増長させていく虚しい我執でしかない。
そのような我執が人類全体の繁栄の責任を負うようなこともないから、
人類の側からすれば主体などころか「寄生体」でしかなくなってしまう。
人類全体の責任を負うような主体性はむしろ、己れ自身こそを虚しくする恭しさと共にこそあり、
仏教とまでいかなくとも、太古の中国の君主が独断を避けるために卜占を用いた事例等からも見受けられる(礼記)。
個我を超えた全体的主体性を己れのものとするためにこそ、我はすぼめられたり、捨てられたりする。
洗脳による自我喪失などとはむしろ真逆の目的があってのこと。
531 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 17:07:46 0
>>505 論語のつまらなさにも答えてくれよ
一回だけ通しでよんだが、二度と読む気がおきない
それならまだ荘子や韓非子のほうが面白い
論語は言行がかぶってたり、孔子の食生活とかそういうのばっか
座席が整ってないと座らないとかもあるし。
ヘーゲルが、孔子の名誉の為に翻訳しないほうがよかっただろうと凄く思う。
仏典・聖書・論語・コーランを面白さで比較するなら一番つまらない
悪人正機も分からんだろう。
「こんなもん仏説じゃねえ」と思ってるだろう。
異生羝羊心と愚童持斎心の境界に論語や悪人正機がある。
大人の階段第一段目。そこを登らなけりゃ仏教は愚か、
全ての東洋教学の真価が、世俗の人間としてでも理解できない。
犯罪主義とのみそくそに留まるか、みそくそを脱して真の理解者となるかの境界線。
現行犯なんかには、逆立ちで地球二十周しようが越えられないから、まずは自首から。
533 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 17:36:30 O
>>530 統治者・権力者は我欲を抑えるべきだと思う。
しかし、何一つ物質社会で権力も財も所有できない者、実利を所有出来ないものが
真理を得たとしても、それは物質社会からはただの逃避にしかならないのではないか
愛情という執着(仏教では渇愛といって捨てるべき我欲の一つ)さえ捨てて自由になることが果たして正しいのだろうか
仲間と共に喜び共に泣き共に戦うことこそ、貧しき者達のあるべき姿ではないだろうか
ゴーダマ・シッダールタは貴族だ。ナザレのイエスは貧民だ。
真理は一つだが、貴族として生まれ育ったものと、貧民として生まれ育ったものは、取るべき態度は違うのではないか。
534 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 17:50:29 0
貧民に精神を司られれば、そりゃあ誰も彼も心が貧しくならあな。
たとえ身分が低くとも、内心だけでも王者と同じ気高さを持っていたいと東洋人なら思う。
姑息さではなく徳を以て人を愛する君子(
>>353参照)、さらには我執も愛着も捨て去る聖人、
両者を併せて仏語で「賢聖(賢者と聖者)」という。何も出家者だけで世の中が成り立ってるわけではなく、
世俗での最低限の道徳を保つ君子の後ろ盾があって初めて、空海のような聖徳を修める仏者も現れえた。
仏教に全てを還元するような考え方は世俗に持ち込むべきではなく、まずは儒教から始めて見ようか。
535 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 18:14:56 0
異生羝羊心・・・聖書信仰者、聖書圏のイデオロギー信仰者、20億人強。
愚童持斎心・・・儒者、潜在意識からの浄土信仰者、数億人。
嬰童無畏心・・・道家、ヒンズー教徒、イスラム教徒、40億人(中国の被支配層含む)。
唯蘊無我心・・・小乗仏教信仰者、数億人。
抜業因種心・・・小乗仏教信仰者、上記に加算。
他縁大乗心・・・法相宗、60万人。
覚心不生心・・・三論宗、ごく少数。
一道無為心・・・天台宗、300万人。
極無自性心・・・華厳宗、4万人。
秘密荘厳心・・・真言宗、1400万人。
空海の十住心論に基づいた場合の、アブラハム教含む現今社会における人口分布。
全人類の大部分が異生羝羊心と嬰童無畏心を司る教学に随順していて、最低限の道徳心の下で
生きていく儒教や浄土教の信仰者は、世界的に見ればかなり少ない(儒学が宗教の体を保っていないせいもある)。
世俗で活躍して、しかも徳性を保つというのが非常に難しいので、世俗上の活躍を捨て去った上で
徳性をたしなむ道家やヒンズー教、イスラム教への随順者の合計のほうが遥かに多く、抜群で世界一の人数。
仏教は小乗信仰者がタイやスリランカ等に分布し、大乗信仰者が日本や中朝などに分布する。
日本国外の信仰者や禅宗を計算に入れればもうちょっと多くなるが、いずれにしろ異生羝羊心や嬰童無畏心への
随順者数に比べれば極めて少なく、十住心論の階梯に基づけば極めて偏った人口分布となっていることが分かる。
536 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 18:24:38 O
>>534 >たとえ身分が低くとも、内心だけでも王者と同じ気高さを持っていたいと東洋人なら思う。
それが我欲。
537 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 18:28:12 O
538 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 18:35:06 0
あくまで出家ではなく在家、世俗の立場から真言密教のような最高級仏教の教学までをも鑑みる意義は、
異生羝羊心に基づいて形作られてきたような、莫大な文化文明の体系構築が、愚童持斎心以上の徳性を擁する
東洋教学主体の体制によって、完全なる運営の代行が可能であることを確かめておくことにある。
断悪修善、勧善懲悪の善良さを旨とする東洋教学が、劣悪さや善悪のみそくそを旨とする西洋教学よりも常に
上であることは、わざわざ真言密教に頼るまでもなく、浄土真宗宗祖である親鸞聖人の悪人正機だけでもすでに
証明され尽くしている。潜在意識から罪福の道理を体得する上での金言となった悪人正機、それはそれで重大な
意味を持つものではあるが、何しろたった一言でしかなく、浄土真宗の他の聖典を読んでみても、その部分だけを
何度も何度も繰り返し説法し続けているだけのもの。確かにそれが異生羝羊心から愚童持斎心以上に、潜在意識から
昇り始める第一段目ではあるものの、それ以上の階梯はやっぱり浄土門ではなく自力の聖道門を叩く必要があり、
あらゆる自力仏教の中でも最高峰である真言密教の教学を、体系構築として十分なものであるかどうかを、
僭越ながらも世俗の立場から確かめておく。
犯罪主義者が掘り下げてきた巨大な穴を埋め尽くすだけの山を、東洋教学の偉人たちが果たして盛り立ててきてる
かどうか、まず間違いない(というか埋め立てて余りある)のは分かりきっているんだけども、あえて確かめておく。
今の世の中を支配している犯罪主義者たちが逮捕されても、すぐに代行できるだけの用意があるかどうかを。
>>536 王者にはなりたいとは思うもんだ(とはいえあくまで東洋の王者だが)。
でも出家者になりたいかってえと、そうでもないわけ。
仏教の僧侶の慣習である剃髪は、当時のインドでも賤しいとされていた剃髪を
あえて釈尊が実行したことに依るし、袈裟も古い言い方で「糞掃衣」という。
決して我欲に基づいた出家なんかしないように教団の側も配慮している。
転輪聖王が、十住心論ではせいぜい愚童持斎心に留まると分かった所で、
自分はやっぱり仏や菩薩ではなく転輪聖王のほうを目指したいと思う。
尊びつつも遠ざける、貴くとも頼まない所に弘法大師らもいらっしゃるわけ。
女にはやっぱり分からないんだ、儒教は。
社会性に基づいて徳性を嗜むこと、ローライズで半ケツ覗かせてるような生き物に分かれってほうが無理なもん。
女が大人の階段を昇る以上は優しい奥さんであるのが一番で、
受精して産みもすれば極東の主神アマテラスにもなれるんだからしめたもん。
儒教と仏教の公平な対決を見守り続けてきた日本皇室の祖神、自ずと儒仏にも一目置かせられるわけで。
541 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 19:43:50 O
>>539 それは目指してどうなる物じゃない。
世俗を究めて神格化するほどの男は生まれながらに因縁で常人離れした気質を備えている。
田中角栄や勝慎太郎のような度胸と機転は天性の才だ。
女のケツごときに目くじら立てているお前なんかは何度編転生しても無理だ。
とりあえず儒教は最高だ。男が男らしくあるが故のカッコよさが凝縮されている。
ヘーゲルの恋人に宛てた手紙の内容とか噴飯もの(清水書院「人と思想」)、
女々しい男なんかにこの価値は絶対に分かりゃあしねえ。自分もある程度女々しかったからこそ分かること。
本物の女が女らしいのは少しも咎めやしない。女が自分自身を飾り立てるのは即ち卵巣の飾り立てであり、
故にアマテラス信仰そのものだから、どうぞ存分に着飾った上で、剣を噛み噛みよろしく。
太宰治みたいなセンチメンタルな感傷に振り回されている小者が大口叩くな。女、女、といじけたことヌカしてんじゃねえ。
我欲を捨てろ。中道を行け。お前が救われる道はそれしか無い。
儒教は人情だ。人情に基づいて男泣きしたり女の尻を追っかけたりもする。
心神喪失状態の情愛とは自己抑制の利き具合が決定的に違う。
法律にも戒律にも振り回されない真の自由人、義人とでも言うべき。
>>544 儒教において義は仁と併せて一つだ。
仁は慈悲であり忍耐だ。
義人は目的以外のことで誰が自分を裏切ろうとすべて赦す。
目的以外のことに一喜一憂しない。凡俗の煩いなどとは無縁の人生だ。
お前には無理だ。諦めろ。
犯罪の防止が儒教の目的だから、その論理だと今の世の中で赦せるものなんか一つもなくなるぜ?
鬼平もそうだし、最悪こち亀の両津だって多少は儒教的な存在ではある、一応警察だから。
警察官や軍人がより警察官や軍人らしくあればそれだけでも模範的な儒者にはなれるわけで。
権力犯罪の飼い犬に成り下がるようなことすらなければ、巡査や三士からでも始められるもの。
547 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 20:54:09 O
>>546 お前は義人にはなれないと言っている。
正義であれ忠義であれ仁義であれ、真の義人は無我の境地に至っている。
そこには悲願達成という一つの純粋な目的しか無い。
凡俗の煩いとは無縁の人生だ。
お前には無理だ。諦めろ。
正義が悪をやっつけるが故に楽しいのが儒教の本質だから、
本当に自分自身が悪をやっつける正義の立場にいないけりゃ面白くない。
正義にやっつけられる悪の側、火付け盗賊じゃあ、ただ嫌なだけ。
怖いだけ、逃げたいだけで、何としても抑えつけときたいってとこ。
「愚童持斎心」ていう、十住心論
>>535での儒教的道徳倫理への呼び名も
「随分と見下げられたもんだなあ」とは思うが、それで別にいいなとも思う。
愚かな童子であるにはあるなりに、言行のつつしみをわきまえているもの、
何のつつしみもない最低最悪の異生羝羊心より多少は上であるブービー賞。
それだけですでに世俗上においては立派な正義なんだから、正義の重みを
愚童持斎心の上に八段階も上乗せしてくださった弘法大師に感謝の限り。
550 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 21:35:31 O
>>548 主を最高の至高の主にするために富と名声、あらゆる美と力を主に集結させることこそが義人の目的であり
その目的の為にあらゆる忠義をつくすことに喜びを感じるのが義人だ。
お前は本質を見誤っている。
551 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 21:45:24 0
そりゃあ新渡戸武士道のほうだ、キリスト教患者の捏造。
「十住心論」唯蘊無我住心第四と抜業因種住心第五も読んだが、もうさっぱり分かんねえってんだ。
五蘊を確信することで無我の境地を得る声聞と、煩悩や悪因苦果から抜け出す独覚とが
どう比較されて、どうやって上下関係が取り決められて、しかもまだ利他までには至らずにいる理由、
実践を伴っていないただの読者にはもはや少しも体得の余地のない領域。まだ小乗にも関わらず。
しかもまだこの上に利他を目指す大乗仏教があり、さらにその上に金剛乗の真言密教がある。
もう完全に体得レベルでの理解は諦めている。ただ体系構築としての堅固さの趣きを感じ取るに特化す。
>>551 真理は空だから比較も上も下も無い。
お前は義人にはなれない。
四締八正道で清く正しく生きろ。
553 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 22:01:51 O
>>551 義人の主は真理だ。
義人は真理に確かめるためにあらゆる価値あるものを主に集結させ完成させようとするアーティストだ。
554 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 22:16:06 O
あくまで正義を愛し、悪を憎む真の警察主義の庇護下でのみ、真正真理の体得もまた成しうる。
桓武天皇や家康公の支援の下で真言宗や浄土宗が隆盛したように、賢聖の最強タッグによって初めて
真理もまた真正に探求される。我流の適当な勉強法ではなく、体系構築的な研究体制が備わることで。
今はまだ下見の段階。修学旅行の用意で先生が法隆寺や東大寺を下見するようなもの。
昔の教師には武家出身者が多かった。時を経てかなり劣化しているとはいえ、
悪いことをすりゃ叱られた義務教育下を懐かしむ日本人は多い。
ただ幼かった、若かったというのではなく、道徳の抑制が体裁だけでも利いている
「まだ金銭犯罪(人類にとって損失である金もマイナス符号を取り払って
絶対値だけで決算し、あたかも増益であるかのように見せかける)に
関わらされなくてよかった時代」への懐かしさを抱いてしまうのではないか。
冷静に考えればただの童子(年齢的に)でしかなかった時代が、
道徳的なたがが外れていなかったというだけで、無闇に懐かしく思えてしまう。
ローティーンなんていう年代を本気で懐かしんでいるのではなく、ただ最低限でも
道徳的でいられたことを懐かしんでいるだけ。江戸時代なら壮年でもそういられた。
557 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 22:45:47 O
外部に依存するな。己で悟れ。
自灯明・法灯明。
誰にも侵害を受けずに済む絶対的な孤独の境地にこそ秘密荘厳心があっただろう。
そのためにこそ空海も朝廷から莫大な支援を受けてただろう。
今で言えば監視衛星を完全停止させるぐらいの。
559 :
考える名無しさん:2009/04/02(木) 23:05:56 0
なんだよこのスレ
560 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 00:01:34 0
自演スレ
561 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 00:12:19 0
善悪の彼岸に立ったとき、やっぱり相変わらず正義でしかなかったものが、
やっぱり相変わらず悪であったものをひねり潰す、それが勧善懲悪だ。
股間の、ぴったり貼りついた二つの明太子を、
箸でキッチリ切り分けて美味しくいただきます。
562 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 00:36:11 0
悠悠たり悠悠たり太だ悠悠たり
内外の兼相 千万の軸あり
杳杳たり杳杳たり 甚だ杳杳たり
道をいい道をいうに百種の道あり
書死え諷死えなましかば本何がなさん
知らじ知らじ吾も知らじ……(欠文)……
思い思い思い思うとも聖も心ることなけん
牛頭草を甞めて病者を悲しみ
断災車を機って迷方を愍む
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
空海「秘蔵宝鑰」冒頭(ちくま文庫、一部代用文字)
563 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/03(金) 00:37:20 0
あっという間に伸びているようですが
どの方がどのように書かれているのかお名前がないので分かりませんが
後期仏教(わかりやすく言えば密教)について。
これは文字通り「秘密」なわけでありまして
我々凡夫の知る世界ではありません。
特に密教は「加行」を修習し、灌頂を受けない限り
(つまりは入壇しない限り)秘密なわけでありまして
>>497で申しましたように、字面文字だけでの解釈は無理であり
その字面文字の解釈のみでの実践は無謀というであります。
十住心について触れられた内容を散見しますが
九顕十密でもあり、密教という深い教えを一密とし秘密荘厳心とすともあります。
つまり秘密荘厳心である大日如来は顕密であり、また自内証であるということです。
これを何かの比較の為に引用、利用しようという考えには賛同できません。
564 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 01:16:18 0
東洋にはそれならではの良さがあって、また同じく西洋にはそれならではの
よさがあるんでないの?
東、西にわけるのもなんかなぁと思うし。
565 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/03(金) 01:34:25 0
>>564さん
そうですね。洋の東西を問わず。
そして私たちの知らない価値観、風習文化があるでしょう。
それに良し悪しはないと思います。
何ですか、あなたも異生羝羊心の持ち主でしたか。
善悪の分別もつかない、愚童持斎心以下の。
567 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 09:16:06 0
>>563 字面だけを見て全てが分かるわけがないのは
密教だから仕方ないが、字面は字面なりに分かることもあるだろう。
十住心論も、真言密教の宗旨を説明するために朝廷に提出された
(ただし直接提出されたのは簡約版の「秘蔵宝鑰」のほう)という経緯からも
決して門外不出の品などではなく、同時期に提出されていた
他宗派の宗旨書などと比較されることも考慮に入れていただろう。
文書としても秘伝にする場合には「歎異抄」のようにちゃんと
後尾に但し書きがなされるはず、それは別にないから。
日の当たらないほう、沈むほうばかりへと逃げ込んでいったから、本当に白人の
肌は白い。逆に灼熱の炎天下へと挑んでいったアラブ人やインド人の肌は黒い。
この時点で肌が白いから上、黒いから下だなんて倒錯は一切通用せず、
パレスチナ以東には何十億という「当たり前の常識」としての有色人種賛美がある。
それでも人種差別なんて起こりうるのは、白人が自分らで“すら”も優位を示せる
黒人ばかりを虐待して、日没するアメリカ大陸へも奴隷として引っ張ってったり
したから。ただでさえ陰鬱な連中が、さらに陰鬱な者同士で虐待関係を作りつつ
極西に作り出した地獄。せいぜい20億程度の少数派でステータス気取りもする。
569 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 12:31:19 0
白人の体格が大きかったりするのも、アフリカの黒人社会や黒人奴隷から絞りに搾り取った“成果”だから。
戦国期には白人の体格も日本人と大して変わらなかった。それが奴隷貿易だなんだで一気に物量的な
増大を始めた。奴隷使役が物量的な増大を極端に促進するのは、古代エジプトの文明遺跡が縄文土器と
比べてやたらと規模が大きいことからも分かる。縄を悪用せずに文様に用いていた者と、奴隷拘束という
悪用に用いていた者。本当に種も仕掛けもなく、始めから体格が大きかったりするのなら文句の付けよう
もないが、ちゃんと種も仕掛けもあるわけで、それが人間という(交配が可能な程度には)同族同士での
虐待的使役によって一方的に利益を収奪するという罪過があってこそのもの。仏教でいえば地獄餓鬼畜生
の三悪趣で、奴隷化したりされたりの精神性は厳密に餓鬼や畜生であり、人間同士での共食いであるが
故に犯罪でもあるから地獄でもある。空海もあまり自分自身の筆は運ばないものの、引文などに基づいて
それらの精神状態と、端的な悪行によって一時的に罪業に出してしまった人天の精神状態を異生羝羊心
として括っている。十住心論の中ではどんけつ、それ以上下のない禽獣同然の状態。それでしかあり得ない
ものが奴隷使役による物量的増大。奴隷使役なんか一切伴わない最低限の道徳倫理を擁した物質文明
ならば愚童持斎心ぐらいにはなれる。物質主義的だから最低なのではなく、鬼畜や地獄だから最低なだけ。
「アフリカでは、毎年○○万人の子供が飢えや病気で亡くなっています」
ユ○○フあたりが触れ回ってそうな広告、自分らこそが飢え死なせてる張本人の分際で
さも救済者か何かのような偉ぶりよう。ただの賠償以上や以外の何ものでもなく、
しかも本気で賠償するってんなら、自分らの物質的な収奪利益を全て返さなけりゃならない。
収奪したものを全て返したりすれば、白人社会にあと残るのは洞窟の壁画程度。
洞穴の奥で腐った肉を食んでいた時代に戻ることで初めて賠償が完遂する。
アフリカとアメリカ、名前も似てるコインの裏表、貸金と借金両面の絶対値を下げて。
571 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:04:52 O
たとえ世俗の勝者になろうとも純粋な思いで挑まなければ阿修羅になるだけ。
572 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:14:00 O
>>570 お前を餓鬼という。妬み貪りすべてに不満を抱き、己が悪い因縁を撒き散らしていながら強情を張り、因果応報に怒る愚か者。
主導権はまだこちらにはない。
また、あったからと言って誰しもに悟りの境地を得させるような保証もできない。
ただ、最善を尽くすのみ。自分は自分なりにできることをやる。
親鸞から空海、鬼平から家康までのあらゆる段階において。
574 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:26:51 0
東洋には東洋、西洋には西洋。もうそれにつきるだろ
貸し借りのない東洋、貸し借りしかない西洋、です。
576 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:32:26 0
その西洋にショーペンがいるんだが
>>573 諦めろ。拗ねたりせずに、正しく諦めろ。
「あきら」かに「め」ざめ「ろ」。
四諦八正道。
578 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:35:11 0
>>573 できるわけねじゃんw
やる人間はこんなとこに書きこまねえよ
>>576 商家のどら息子がな。貯蓄(借り賃)はさらに増やした。
580 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:37:24 0
なんかこのスレ、最初は自分ひとりで書いてたのに
よそから他の人が入ってきただけで一気に崩れたな
581 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:49:25 O
582 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:57:18 0
もとから崩れてるよ^^v
583 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 13:59:13 O
>>580 あのままのペースで書いてたら、1000レス行く前に容量オーバーなってたから、ちょうどいい一服。
他縁大乗心以降の十住心論体系にも余り込み入った批評はできそうにないので、軽い気持ちで。
586 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 14:11:42 0
けちょんけちょんにのされるだけだろ
ていうか哲学じゃねえじゃん
何も仏教ばかりが論究の対象じゃあないから。
無宗教的な世俗の支配道徳、儒学や神道、イスラムの統治機構モデルとしての存在性についても。
自滅まっしぐらな踏み倒しばかりの貸し借りはもう無しで
世の中をちゃんと成り立たせていく方法の模索。
>>587 オウム真理教の人?
自分がなにか大きいことがやれるんだ、みたいな感じがするんだけど
マジ通報よw
589 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 14:38:52 0
糞スレ
犯罪者が統治する世の中よりは、まだ元失業者や元ニートが統治する世の中のほうがマシだから。
犯罪者しか権力に与かれない世の中が刷新された暁には、何もしていなかった人間ほど統治権に与かれる。
今はただ共犯や従犯に堕する行動を避けて、できる限りのことが即座にできるだけの識見を育むのみ。
学識でも見解でもなく識見。正しい知識と正しい意見、両方があって初めて君子としての条件を満たすもの。
591 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 14:52:39 O
592 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 15:02:31 O
三國連太郎
593 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 15:08:31 0
なんだよこのスレ
594 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 15:26:29 0
三国連太郎の本人公認ファンスレ
595 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 15:26:42 0
東洋って西洋みたいにクラシック音楽がないよね
音楽にかけては太刀打ちできないとおもう
ジャズやブルース、ロックは黒人の産物だがな。
ジミヘンなどはモンゴロイド系であるネイティブアメリカンの血も入ってる。
奴隷化や迫害の憂き目に遭った怨み節。
昔は五経と共に音楽の理論書である「楽経」が学ばれていたようだが、
始皇帝の焚書坑儒によって遺失してしまったらしい。
「礼記」の音楽に関する記述はあくまで政治的効用についてなので、その全容は計り知れない。
いずれにしろ音楽はある程度人口密度の低い社会でないと発展しない。
ピアノやバイオリンの練習も、やもすれば近所迷惑になるから。
オーストラリアとカナダとシベリアぐらい東洋がもらっとこうか。
597 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 16:18:49 0
クラシックにはかなわない
音楽はあくまでサブカルチャーだ、西洋では。
メインなのはあくまで演劇や映画のほう。
言葉によって直接人心を操るほうが遥かに金になるから。
政治や刑罰のさらに上に音楽を置く儒教のような志しはどこにもない。
人口密度が高すぎて余り練習が出来ないにしても、
東洋人でもやればできるのは武満徹やヨーヨー・マらの例を見ての通り。
例によって、東洋には演劇や映画もあまりない。
京劇とか歌舞伎とかあった所で、やっぱりその規模も小さいし、
日本では芸能人を「河原者」として差別する風習すらある。
わざわざ演技なんかするまでもなく、常日頃の立ち居振る舞いがそのまま流麗であること、
それこそが礼儀の本旨であり、儒教では政治や刑罰の上にある、音楽のさらに上に置かれる。
刑罰や政治も司る支配者がそのまま礼儀を兼ね備えた士人であるから、
中国や日本の歴史はそのままいかなる演劇や映画、創作文芸などよりも遥かに面白いものとなっている。
わざわざ舞台や撮影スタジオ等に行くまでもなく、その場その場が正念場である峻厳さの塊。
要は、東洋には「芸能」があまりない。
演技や舞踊ではなく、現実の社会での行動こそが最大級の責任を伴い、
その責任が完遂された所にこそ、いかなる演劇や映画でも現せない大満足の面白さがあると知っているから。
舞台上や画面上の夢想にばかり囚われて、現実の道徳が蔑ろにされるのを最も忌み嫌うから。
601 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 18:15:33 0
アメリカが、よく「劇場型国家」という言われ方がなされるが、別にアメリカの為政者が
東洋史の登場人物並みに自律しているわけでもなく、ただ「舞台裏」があるだけ。
アフリカを代表とする後進国からの利益の巧妙な吸い上げ、
911やイラク・アフガン侵攻の自作自演、その他諸々の「陰謀」の体系構築。
宗教多元国家などと謳われることもあるものの、今のアメリカはまだ明らかに聖書圏。
オバマも一般教書演説で(リンカーンも使ったという)聖書に手を置いて宣誓を行なった。
この「聖書」という書名、あまりにも漠然とし過ぎていて、その全容が読みもしないと全く分からない、
アダムとイブだキリストの磔刑だもほんの一部であって、読破しようとなると相当な気力を要する。
しかも読み終わった時にはもはや完全に洗脳されて、この文書の本旨が掴み取れなくなってしまってたりもする。
結局この書物を「聖書」と呼ぶのはあながち全くの間違いではない。ただ、これは一体何の「聖書」なのかと言えば、
「権力犯罪」の聖書、「権力犯罪聖書」がこの文集の正式名称であることは間違いない。
なぜかと言えば、為政者に絶対的な徳性を要求する四書五経が「権力道徳聖書」であるのに対し、
権力犯罪聖書であるほうの聖書の内容は、四書五経に書かれているような権力道徳をことごとく否定して
違反の限りを尽くすような内容になっているから。四書五経が権力道徳聖書であるに応じての権力犯罪聖書。
仏典は権力と直接的な関係を持つ内容ではないので、聖書と対比するような代物ではない。
ただ四書五経と聖書の対決を見守って、最終的に善である四書五経の悪である聖書に対する勝利を告げるのみ。
権力犯罪の放任を「陰謀」という言葉で隠蔽し続ける、アメリカの完全崩壊が完了するのみ。
602 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 18:24:21 O
ウゴウゴ
603 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 18:57:45 0
仏典も宗教じゃん
宗教であろうとも、権力との癒着が目的ではない。本当に真理の追究だけを目的とする。
大学教授や政治顧問の役職すらかなぐり捨てて、人間社会のしがらみから完全に離れきった所で
真理をつかみ取り、また還ってきて(回向)、善悪への完全に公平なる審判をも下すもの。
605 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 20:45:54 0
キリスト嫌ってるようだけど、イエス自体が悪いわけじゃないよ?
そこらへん注意してね
606 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 22:29:24 0
なに言ってんだい?
イエス・キリストこそは、究極至極の、紛う方なき「完全悪」の如実なるお姿に他なりやせんぜ?
十字架に磔にされて、いかにも辛く苦しそうだろ?
それこそは「悪」だからだ。犯罪であり、故に真悪であるが故に、辛く苦しいんだ。
しかも現世への未練たらたら、煩悩たらたらだから、一回死んだクセしてまた生き返りやがる。
悪だからだ。物事への諦観もできない羝羊のごとき異生だからだ。
生き返ったせいで福音書の記述が実話でないこともばれちまった。
頭北面西でゆったりと横たわる釈迦如来、いかにも安らかで楽々そうだ。
それこそはまさに、究極至極の紛う方なき「完全善」の如実に現れた姿であるからに他ならない。
何もしないで横たわっているから無罪であり、故に真善であるが故に、安らかで楽なんだ。
あまりにも安楽すぎてもう現世への未練なんかも全くないから、二度と生まれ変わることもない。
善だからだ。諦観が完遂された荘厳なる仏だからだ。
生き返りもしないんだから実話なのも当然だ。
善であるが故に安楽であるものと、悪であるが故に辛苦であるもの、罪福の道理に基づいた。
天使だ悪魔だなんていう善悪のパブリックイメージではなく、完全ある善や悪が
如実に現れた姿こそが仏陀やキリスト。完全善である仏陀、完全悪であるキリスト、
一方は実在、一方は創作、実在性の点でまで完全に善と悪に分かれてる。
完全なる悪であるが故にこそもはやただ忌み嫌うだなんてものでもない、完全悪であるが故に
辛苦でもあり、しかも不在でもあるというその限りなき哀れさに慈悲の念すら抱くもんだ。
どこまでいってもどうしようもない悪、それはそれでそれなりの真理性を見出すもの、辛苦という。
607 :
考える名無しさん:2009/04/03(金) 23:31:55 0
イエスは実在した人物なのですけど・・
ンで、死んでまた生き返ったのも事実だと?
さっき言ったとおり、東洋では演劇や映画であるまでもなく、一つ一つの現実が正念場だ。
中でも涅槃のような、人類史上未曾有の一大事ともなれば、嘘偽りなんて絶対に許されやしない、
だからインド宗教では輪廻信仰が一般的であるにも関わらず、釈迦は二度と生まれ変わることがない。
それが現実であり、現実であるが故に紛う方なき真理でもあるから。たとえ方便としてだろうとも
生まれ変わったり生き返ったりする必要もないほどに大満足であることこそが真理であり、善だから。
形而上の夢想においてですら復活など必要なく、にも関わらず復活なんか追い求めることこそが煩悩。
煩悩だから、自分らにとって一大事であるはずの復活が演技だろうとも別に構わない。
復活を追い求めることが間違いなら、演技である復活を金科玉条に掲げようなんてのも間違い。
間違いが間違いのドミノ倒しを生み続けて今に至る。始めから現実であり、故に真理であって善である
不生不滅の涅槃を目指していれば何一つ間違いは起こらなかった。嘘である復活なんかのために
何かをしようとして、死んだ所で決して生き返りはしない現実に抗うことができず、結局現実で行うことは
権力犯罪の大量生産でしかなくなってしまった。間違いのドミノ倒しここに極まれり。
現実の善良なる真理を始めから追い求め続けているからこそ、正統な仏教は権力なんかに拠りかからない。
架空の劣悪なる誤謬なんかを追い求め始めたからこそ、聖書教は権力犯罪の元締めになってしまった。
現実の権力問題に対応するのはあくまで仏教ではなく儒教のほう。勧善懲悪の正義の味方、警察教学。
権力犯罪への空手形発行者などが、本物の真理の探究者に対抗するなど百億万年早い。まずは服役から。
610 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 02:17:43 0
輪廻転生思想って差別を生むと思いませんか?
差別もなにも、輪廻思想もある程度は事実だから。
個別の生命が、思考も身体も以前のままに生き返るだなんてのが大間違いなだけであって、
生命が死後に、この世界を形作るある種の構造的な法則に溶融して、また新たな生命を形作る糧となるのは
事実、そうであることだから。殊更に主張するまでもなく事実そうであること、その上で自分が悪因苦果の
輪廻からは離脱しようというのが仏教の本旨。後残りのない大満足な人生を送ることでしがらみを断つ。
612 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 11:40:23 0
輪廻が事実だとか科学的に認められてませんよ
613 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 11:46:57 O
何もないよ
614 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 12:01:17 0
>>612 ばか?科学には捉えることができない領域の事象である無限とか
輪廻は、意味として扱えない故に認める以前に、耳を塞ぎ引きこもり
している状態にある。
そもそも科学では客観性で物事を捉える必要があるので多くの面から
観察した共通の計りしえる意味として存在できないものは、
考える以前に対象外として思考する必要もないと思考停止する学問の
類だってことぐらいしっておけ。
615 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 12:07:01 0
じゃあ科学って理性的ですね
616 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 12:14:44 0
イエスが死んで生き返ったのは後生の創作
有名なところではトルストイはこれを否定している
現実の法則が十分に把握された上で、それを便宜的に分かりやすく示した方便と、
一切現実の法則に基づかない虚言とは、似ているようで全く異なる。
科学は現実の法則が厳密に記述さえされれば終わってしまうもの。
人間性を司らない無覆無記だから、ちゃんと把握すらされればそれで終わる。
極めて定性的であるために科学とは言い難いものの、東洋ではリグ・ヴェーダや易の時点で
現実の法則に対する概括的な把握が終わってしまっていて、それ以上無記であるような
物事への構想を練るような余地がなかったから、既に把握が完遂してしまっている
現実の真理を、もうちょっと分かりやすく方便として示してみたのが輪廻だったりしたわけで、
さらにそのような方便を基に、完全なる現実真理を提示したのが釈迦の興した仏教だった。
定量化が杓子定規に厳密であり過ぎるが故に、論争が無闇に続いている理論科学も、
完全に現実の法則だけが記述された無覆無記となれば、それで終わる。
3200年以上前に宇宙開闢讃歌や陰陽五行が編まれた時代に還ってやり直す。
618 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 13:07:20 0
でたらめじゃん
厳密に記述された理論科学の法則等とは無関係に、悪人は悪人、ゴミはゴミだ。
そうではない、お宝がお宝、善人が善人であるがためには、無記である科学等とはまた別物の
善性の法則にこそ従う必要があり、中でも世俗で模範的なのが儒学、超俗で模範的なのが仏教だ。
人間性を蔑ろにした概念遊びへの帰納で、人間性までもが改善されるなんてことは、一切決して全く完膚なきまでにない。
そんな無意味無駄無益無効な徒労はやめて、古えの賢聖の言葉へと素直に耳を傾けるのが一番。
620 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 13:24:39 0
科学が嫌いならなんでパソコンしてるんだよw
621 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 13:34:45 O
わかったわかったじゃあ後で方法を考えよう
622 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 13:37:05 0
びっくりした、これら携帯で書いてたのかよwww
変換大変じゃないのか?、なんでそんなに漢字で埋め尽くすんだよ
623 :
し:2009/04/04(土) 13:45:44 O
そんなことより浜名湖競艇連単3-2当たった
無記は無記だ。善でも悪でもない。
そんなものを好いたり嫌ったりした所で何の意味もない。
何もかもを好き嫌いで判定しようとするのも女子供の論理。
人間性を司る善悪の問題にそのような染愛を持ち込めばそのまま悪にもなる。
本物の女子供は社会や真理を司ったりしないから愛苦しくても構わないが、
大人の男までもがそうであった場合には致命的な問題となる。ゴミになる。
625 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 13:55:08 0
意味不明
626 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 14:24:50 0
あ
時が全てを裁く
628 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 15:53:05 0
629 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 16:31:20 0
ドイツ語のかっこよさは異常
630 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 16:32:36 0
アルファベットは合理的だね^o^
漢字は覚えるのが大変-o-;
631 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 16:34:30 0
輪廻が事実かどうか分からないが、前世で悪いことしたから現世が不幸とか
あきらかに差別だろ
耐怨害忍(他より迫害を加えられても能く忍耐して復讐の心なきこと)
安受苦忍(疾病・水火・刀仗等の苦に迫られても能く忍んで心を動かさぬこと)
諦察法忍(諸法の本体には生滅なきことを審かに観察して、その真実を了解し忍可すること)
(日本思想大系「秘密曼荼羅十住心論」巻第六・頭注より)
事実として存在する苦難を事実として断滅する、それが仏法。
実在する苦難から目を背けて夢想に耽るあまり、
現実の苦難はさらに加算されていく、
悪徳金融の借金地獄からも抜け出す。
633 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 18:19:24 0
だから?
634 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 18:21:08 0
ただのペテン師だろ
霊感商法と同じパターン
635 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 18:59:22 0
「よく世俗諦と第一義諦とを知る。此の菩薩は、衆生を利益せむが為の故に、世間の伎芸、
該習せざること靡きなり。四摂法を行ず。十度の中には禅波羅蜜多なり。多く兜率天の王と作る」
(日本思想大系「十住心論」他縁大乗住心第六、「凡聖界地章」引用内の「華厳経」取意略抄)
聖徳太子の建立した法隆寺も、ついこの前まで同派だった法相宗の心相である他縁大乗心。
未だ仏とまではいかない菩薩の立場において、真諦(第一義諦)だけでなく俗諦(世俗諦)にも通じ、
欲界の一つである兜率天の王となるという。「凡人か仏か」なんていう短絡的な区分けではなく、
その間に声聞縁覚菩薩らの多くの段階があり、中には下界への回向をより具体的に目論む段階もある。
解脱の過程でついでに俗界までをも救済してしまう、三千大千世界の王者ならではの度量の大きさ。
>>635 意味わかっていってるの?
詳しく解説きぼん。ヘタなコピー禁止よんwすぐわかるから。
638 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 19:46:11 0
「世間の伎芸」には、声明、算数、図画、方薬、歌舞音楽などが入るそうな(同大系頭注より)。
今でいえば国語、代数、幾何、医術、芸能といったところか。
これらはあくまで菩薩行。仏とまではいかないが、声聞や縁覚よりは上である菩薩。
自利に徹していた小乗仏教に利他を上乗せし、即身成仏に至る過程としての菩薩行によって、
世俗と超俗両方の真理を見抜く仏者ならではの、世俗への利益の還元があるということ。
小乗の倶舎宗ですら、入門前の素養として五明(
>>44参照)が要求されていたわけで、
一旦は自利に徹していた行業が、大乗や金剛乗で確信的に衆生へと回向されていくこととなる。
空海も土木事業などで多大な成果を上げているし、密教の流れを汲む修験者も修行の過程で
山中の金銀鉱脈などを捜し当てたりしていたわけで、決して寺に籠もりっきりだったわけでは。
639 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 20:32:35 0
儒教の行業も「礼楽刑政」。今の世の中では最重要扱いされる政治や刑罰の上に、さらに礼儀や音楽を上乗せする。
それによって政治や刑罰の役割を軽減して、朗らかで道徳的な世の中を形作るための均衡を保たせる。
仏教もまた、超俗の真理把捉者である四聖(声聞縁覚菩薩仏)を世俗に上乗せすることによって、逆に
世俗の鎮護や繁栄をも促進する。政治刑罰や世俗思想で頭打ちな今の世の中などよりも遥かに次元が高くなり。
「差別」ではある。菩薩や二乗にもやたらと階梯があって、ちゃんと段階を追って仏となるなんてのは、考えただけでも
気が遠くなる。ただ、仏教での階位はあくまで(現行犯の犯罪者でもない限りは)誰でも昇っていけるものであって、
絶対に前世のカルマから抜け出せないヒンズー教の輪廻などとはまた違っている。人間間でのどうしようもないほどの
立場上の差別っていうのは確かに実在しているのであって、ヒンズー教下のインドに限らず、どこの世界でもそれは
同じなんだが、それとはまた別の自由参加型の解脱の階梯によって、輪廻のカルマから抜け出せる選択肢が
極めて高く険しいものであるにしても、一応は実在している。実在する差別を切実に解消するためにまた別に
拵えられた差別、差別の差別による解消、剃髪して糞掃衣を着ることで確かに一応は可能なものとなっている。
640 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 20:56:40 0
別に他力なら称名だけでもいいわけ。悪人正機が原理の一つとなっている他力の阿弥陀信仰だけでも、
異生羝羊心から愚童持斎心ぐらいには上がれる。論語の価値が分かる程度の最低限の大人にはなれる。
でも儒教や浄土教は、本当に人間社会の道理だけを示した教学で、ちっとも真理探求の奥行きなどはない。
真理に基づいた善良さの価値を体系構築的に示しているのは、やっぱり真言密教のような自力の高級仏教。
今まで悪すぎることをしてきたから、今度は良すぎることをしたいというような難病者への特効薬の処方箋。
掘り下げすぎた罪悪の穴を底の底まで埋め尽くす金剛頂。拘置所での教誨師にも密教僧を指名すれば。
641 :
考える名無しさん:2009/04/04(土) 22:05:03 0
今の世の中で金になっているようなものは、まず間違いなく何かが間違っているとみて差し支えない。
別に金になることが必ずしも間違っているのではなく、使途不明の不審な資本流動が介在する世の中で
ある商品がある程度の金になっているっていうことが、その商品に人類の破滅すらをも促進させるような
不当な意図が組み込まれているのを自ずと証明してしまっている。
例えば本であれば、その内容が一部の富者だけにとって利益になり、そのせいでアフリカあたりの
女子供が餓死病死してしまうようなことが必ず書かれている、だからこそ値段とバーコードを付けられて
売られている。たとえ東洋の古典だろうとも、訳注や解説の内容が(人類の破滅へと直結する)現代社会の
意図に沿っているからこそ再版されてたりもする。部分的に正しい内容の書物だったりしようとも、何らかの
間違った意見とのみそくそ処理がなされてのみ、初めて出版の目処が立つ。常に金銭の流れが人類の破滅を
促進するような方に向いているから、販促される書物の内容ですらが人類の破滅にまつわるものとなる。
「金を使うな」「物々交換にしろ」、そんなのは今の世の中の規模から考えて絶対に無理なこと。
物価や労働条件をトップダウンで統御するのも共産主義の失敗などからすでに無理であると分かっている。
望むらくは、世の中を形作る資本、金銭の流れが人類の破滅などではなく、人類の繁栄のほうへと
全体的に向かうようになること。金を稼いで使えば稼いで使うほど、人類の繁栄が促進される世の中になること。
品性が根源から善良であるが故に、正統に随順すらすれば人類の繁栄が促される仏法や儒学が敬われた上で
金もまた稼がれて使われること、全体の流れがそうなれば、もうちょっと新刊書だって読みやすくなる。
642 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 01:40:04 0
じゃあ本かうなよ
643 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/05(日) 03:19:49 0
>>
>>567と638-640さん?
(同じ方だとは思いますが)
文面を読む限り「密教」を最高とするお考えでしょうか?
失礼ですが単刀直入に思想哲学の上ではそれは誤りだと思います。
(もちろん個人で密教こそ最高、という「信」のお心は一切否定しません)
先に述べました九顕十密では第一であろうと外道の教えであろうと
はたまた三悪道から三善道さらにその上に到るまで
端的に「三世十方」総てが大日如来ですから
その段階のどれが低い高いの論ではないのです。
教相判釈と九顕一密の「一密」の部分だけを採っての批判?は
密教の思想(特に大日経)とは違うものになってしまいます。
繰り返しになりますが
例えば現代社会への転用、引用、他の宗派の批判の為に
これらを(十住心に限らず)用いるのは誤った考えの元になりますので。
とりあえずスレッドのタイトルのように
広く東洋思想、そして西洋も交えながら
批判的でなく尊重するようなスレッドはいかがでしょうか?
644 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 04:08:17 0
難しいこといってるけど、どうせ30超えたニーとだろ
そのうちのたれ死ぬからほっとけ
645 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 05:19:29 0
サーンキヤ学派
646 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 05:23:29 0
大丈夫はヴィシュヌ神だったか
647 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 08:46:52 0
どんなに平等ぶろうとも、密教は公家、禅は武家、浄土は農家、日蓮は商家といった風に
社会的な序列に応じて仏教各宗派も興隆してきたわけで、そういった現実的な側面までをも
無視して概念論に耽れば、それこそが仏法を象牙の塔に引きこもらせる最大の原因になる。
現実に存在する差別ですらも解消できてこその大乗仏教や密教であり、地球人類という
大局から見た場合に外界侵略や不当利得といった犯罪加害に当たる行為を続けてきた
連中に自首を決意させる上で有効な、「善良な体系構築」の趣きだけでもちらつかせとく。
十住心のいずれにも本気で上がろうと思えばできるからこそ、異生羝羊心なんていう最低最悪
の心相ばかりに留まっている必要もないのだという、まさに文字通り「心の余裕」を持たせる。
どうせ密教や華厳宗、天台宗らを勉強した所で、教義体系が浩瀚過ぎて一般人にはついていけない。
実際に現実で対応するのは、だいたい浄土教のような分相応の下級仏教。
下級なればこそ裾野は広く、上級なればこそ密教などは狭い山頂付近。
登ろうと思えば登れるが、そのぶん高く険しい山。万人が万人を蹴落とし合って掘り下げていく
陰湿な穴ぼこ差別とは真逆の、努力の度合に応じて高められていくすがすがしい向上差別。
649 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 13:07:51 0
真の「利益」を考えることだ。一部の人間の不当利得だけが肥え太った結果、
人類全体にとっては全くの不利益にしかなっていないような偽りの利益ではなく、
尽十方界の衆生誰しもが福徳にあずかれるような真の利益を考えること。
自分らの見えているだけの世界が全世界だなんていう近視眼的な視野ではなく、
三千大千世界を見渡す正法眼蔵に基づいて初めてそれが考えられるようになる。
剃髪して糞掃衣を着た、社会的にはむしろ除け者であるような立場の人々こそが
真に俗世間を平等な視野で眺めて、誰しもへの利益を考える能力をも持ち得る。
ただ社会の側がそれらの人々に接する場合の適切な宗門が違ってたりするだけ。
事実として差別が存在する社会に応じて、宗門にも臨機応変な差別があるだけ。
>>637 そっちもちょっとだけ覗いてみたが、ホントに辻直四郎訳あたりでインド学って止まってんだな。
仏教ならいくらでも国内にあるのに、ヒンズー教やジャイナ教ともなれば一気に門扉が狭まる。
中国思想も儒家は有力なのに、道家や法家は極めて些少。結構偏食家だった古来の日本人。
人口も面積も桁外れに大きい大陸の教学を、島国なりに取捨選択して自分のものとしてきた、
そういう所からも先人の叡知を学び取るべきで、欲張って何もモノにできないような徒労は避ける。
651 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 17:38:52 0
じゃああなたがサンスクリットまなんでヴェーダ研究したらどうですか
ここで自説たれながしてるよりよっぽど有益だと思いますが
なかなか学もっていらっしゃるみたいですから
社会の金銭の流れが最低限、人類の破滅ではなく繁栄の方に向けばな。
求道者と世間を繋ぐ中庸(×中道)の立場として、文献の整理などにも参画していく。
人類の破滅を助長するような連中であれば、たとえそれが一流大の教授だろうとも
ヴェーダやウパニシャッドの不文暗記内容を求道者たちも提供したくないだろうて。
653 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 18:20:30 0
ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2425_,77,0348c27:2425_,77,0349b14.html 「秘密曼荼羅十住心論」覚心不生住心第七における、「三論玄義」略抄取意。
「中論」における真俗二諦を拠り所とする論弁の解説。超俗の真理(真諦)ばかりを追求する
小乗教徒は世俗の真理(世諦)を疎かにする。また大乗の教義が分かったようなフリをする
外道(方広道人)も、超俗の真理ばかりに固執して世俗の真理を蔑ろにするから、
罪福因果の道理も存在しないなどと思い込む迷妄に陥る。大乗の教義すら知らない外道
とまでなれば、もはや世俗超俗いずれの真理も把握できない有り様となる。
世俗の真理と超俗の真理両方を十分に把握した上で、両者の間を行く第三の真理をも見出し、
これが「中道第一義諦」となる。世俗の富貴と超俗の苦行の両極端を味わった上で、
また中間に戻ってくる「中観」の根本的な姿勢。世俗の真理と超俗の真理両方を遍く
把握することで、自利と利他と、さらには「共利」すらも達成させてしまう。
衆生への利益の還元が、教義の内奥にまで深く組み込まれている大乗仏教の本義。
654 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 18:40:44 0
空観は般若思想に主に携わる。破邪顕正の「大空三昧」を旨とする、仏教版警察教学。
個人的にはこの、空観やその宗門である三論宗の心相である第七住心(覚心不生心)よりも、
唯識やその宗門である法相宗の心相である第六住心(他縁大乗心)のほうが分かりにくかった。
眼耳鼻舌身意の六識の他に、第七識として「末那識」があり、さらに第八識として「阿頼耶識」がある。
この阿頼耶識は、異名が「異熟識」といって、「異熟」とは、善悪のような定義上の原因が
苦楽のような感覚上の結果として現れてしまうようなことをいう。善は善だ、悪は悪だみたいな
発言はトートロジーにしかならないが、異熟に基づいて善であることが安楽となったり、
悪であることが辛苦となったりする。トートロジーが破綻する超意識系が阿頼耶識として
人間等には備わっており、これが善因楽果悪因苦果の罪福の道理を司る根本原理ともなっている。
自分がいま唯識に関して分かっているのはそれぐらいのこと。
まだまだちゃんと勉強すれば汲み取れるものは多そうな、法隆寺も昔そうだった宗派(今は聖徳宗)。
十住心は下であればあるほど分かりやすく、上であればあるほど難しいなんて短絡的なものではなく、
「心相」という密教ならではの切り口で見た場合の序列であるということ。「こころ」がやたらと重視
されている今の時代であればこそ、重大な階位の提示ともなっている所がある。
655 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 18:43:46 0
656 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 19:15:20 0
657 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 20:10:04 0
いじゅく 【異熟】(梵vipka)仏 善または悪と定めうる行為が原因となって、それ自体は
善でも悪でもない中性的な結果である楽や苦を生ずること。果報。(三省堂「大辞林」より)
いじゅく-しき【異熟識】(梵vipka-vijnanaの訳)仏語。阿頼耶識の別名。(小学館「日本国語大辞典」より)
あらや-しき【阿頼耶識】(梵araya-vijnanaの訳。蔵識、真識、阿梨耶識、無没識などと訳す)
仏語。唯識宗で説く八識の一つ。宇宙の万有を保って失わず、万有が展開する際の基体であり、
万有を収蔵している心の主体。(小学館「日本国語大辞典」より)
日本国語大辞典には「異熟」の解説はなかった。日本最大級の国語辞典も完璧とまではいかない。
罪福
>>282の道理も厳密に仏教の唯識思想に基づいているのであって、もちろん罪福の道理に基づいた
悪人正機も仏法に叶ったものとなっている。俗諦と真諦両面を考慮に入れてこその大乗仏教においては
衆生の苦楽もまた当然考慮の対象なのであって、善悪も苦楽もないなんて主張は外道に止まるもの。
658 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 20:28:59 0
;
659 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 20:35:52 O
道
660 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 20:45:05 0
・・・まあ、そういうことです。
661 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 21:00:39 0
けっきょくはでたらめじゃんかよ
662 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 21:00:50 0
まな-しき【末那識】(末那は梵manasの音訳)仏語。唯識宗で説く八識の一つ。第七識をいう。
第六意識と区別される識作用で、意識がなくなった状態にも普段に存在し、自己を愛し存在
させる迷いの根源とされる心のはたらきをいう。(小学館「日本国語大辞典」より)
これが、心理学用語でいう「無意識」のことだな。ショーペンハウアーが「盲目な意志」と呼んだ
のもこれ。西洋の思想哲学はこの末那識までの把握に止まり、より完全なる万有の識見の本体
である阿頼耶識(異熟識)の把握までには至っていない。故に論調が常に性悪的でもあり続ける。
完璧である識見は愛執や迷妄に囚われた無意識をさらに超えた所にあり、そのような普遍的な
識見に基づいた罪福の道理から導き出された悪人正気も、善悪や苦楽のトートロジーを破綻
させるほどの真理性を持った言葉となっている。確固たる真理の把握に基づいた当然なる結論。
×悪人正気
○悪人正機
悪人が正気だったことなど、一度も。
664 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 21:46:12 0
1500年以上前の昔から無意識(末那識)ぐらい把握してて、さらなる普遍的な識見としての
超無意識系(阿頼耶識)すらも把握していたとな。差がありすぎてもはやそれが差であると
どうしても理解されなかった程の、東西の真理到達の格差がここにも。
人間の心の把握もまた、最新の心理学などよりも仏教のほうが遥かに普遍的。
性悪なる無意識と性善なる超無意識の両方を把握した上で心を研究しているんだから、
性悪なる無意識しか把握できないままに心を研究してきた近現代の心理学よりも視点が正しい。
末那識を無意識と訳したりして、心理学の文脈で研究したりするよりも、無意識を末那識と訳して
仏教の唯識思想の文脈で研究したほうがより普遍的になる。心理学者や精神科医よりも、
法相宗の僧侶のほうが確かに人間の心の普遍性を把握している。1500年以上前から。
665 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 22:44:44 0
だから?
さようなら、まるくす。
さようなら、ふろいと。
さようなら、うぃとげんしゅたいん。
十住心論で空観(覚心不生住心第七)が唯識(他縁大乗住心第六)の上に置かれているのにも確かな理由がある。
善因楽果悪因苦果の罪福の道理が、信じるまでもなく真理として存在していることを、阿頼耶識までをも包摂する
唯識思想によって把握した上で、初めて中道第一義諦を追求する空観の真価にありつける。
罪福の道理が確実に把握されないままに空観にとんでしまったんじゃ、何もかもを否定してそれで終わる
ニヒリズムになってしまう。善悪の感覚に基づいた分別もないままに般若思想に寄りかかったなら、
俗諦への把握が疎かとなって無機質な論理主義に陥ってしまうんで、やはり罪福の道理を的確に説明する
唯識への事前の理解が必要。やはり十住心論の階位は普遍的な意味を持っているようだ。
人情の分からない警察はいやだわな。権力犯罪にも平気で協力するような。
罪福の道理は唯識の他縁大乗住心第六で明確に理解されるが、嬰童無畏住心第三の時点ですでに
確信されているし、愚童持斎住心第二の時点でも許諾ぐらいはされている。罪福の道理が全く分かって
おらず、許諾すらもしようとしないのは異生羝羊住心第一だけ。仏教はおろか、その他の東洋教学にも
全く与ることのできない犯罪推進道徳唾棄状態の連中、やっぱり空観なんかよりも自首のほうが先だ。
669 :
考える名無しさん:2009/04/05(日) 23:49:50 0
さよなら ぶっきょうのりんねさべつ
さよなら かーすと
輪廻による絶対的差別はバラモン教やヒンズー教。
身分制度(カースト)としてであれ内心の趣きとしてであれ、
事実として存在してしまっている輪廻を、いかに事実として
解消するのかを切実に考え抜いてるのが仏教。
その場限りの気休めで、結局は輪廻の業を加算してしまう
だけでしかない、夢想への逃げ込みなどには依らず。
671 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 10:34:33 0
ヒンズー教や道家もイスラムと同じで、とてつもなく良いなんてこともない代わりに、そんなに悪くもない。
「害為正法外道」ってのもいて、生き物を殺害してその肉を食うことにより解脱できるなんて輩もいるが、
それでも人間同士の共食いである食人とまではいかず、犯罪の本質である共食いだけをピンポイントに
信仰対象とするどこぞやのカルト宗教ほどの確信的な悪質さはない。
確信的に劣悪な教学≪0≦良すぎも悪すぎもしない教学<確信的に善良な教学
であって、仏教や儒教が「確信的に善良な教学」である一方で、ヒンズー教や道家は「良すぎも悪すぎも
しない教学」に入る。確信的に劣悪な教学に比べれば、まだ輪廻差別のヒンズー教だってマシなほう。
672 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 12:50:57 0
ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2425_,77,0352b12:2425_,77,0352b19.html 「十住心論」一道無為住心第八における「摩訶止観」からの引用で、
空海はこれを天台法華宗における行業の基本理念としている。
善悪への順不同な愛憎(法愛)すらも捨て去って、ただあるがままの真理を享受する、
大乗(摩訶衍)の根本理念の一応の完成となる。空観や唯識はまだ実質上の菩薩乗
であったのが、天台教学に至ってついに一乗(仏の教法)となる。
もちろん天台宗が声聞縁覚菩薩の三乗を全く無視しているわけではなく、
三乗もまた一仏乗に集約されるという「会三帰一」の立場をとる。
罪福に基づく善悪は第二住心で初めて許諾され、第三住心では重大な信仰の対象となり、
第六住心の唯識によって理論的な把握が完遂し、第七住心の中観では
罪福の道理を理論的に把握した上での真俗二諦や中道第一義諦が認められる、
その上でさらに、罪福の道理への執着までもが捨て去られた真の中道の悟りがある。
一道(菩薩乗)への無為すらも達成してしまう、とんでもない境地が一乗なわけで、
ちゃんと十住心の段階を追って鑑みれば、到底凡人の辿り着けるような代物ではないんだが、
日蓮宗などはこの天台宗の法華信仰だけを抽出して衆生へと還元しようとした。
そのせいで「信じなきゃ重罰を受ける(一道無為住心第八巻末)みたいな過激な
側面ばかりが強調されて、総合教学としての天台宗の特色がデフォルメされてしまっている。
仏とまではいかずとも、凡夫に比べれば遥かに高尚である菩薩や二乗があった上で、
さらにその上に一仏乗があるという本来の天台宗の重厚さを見落としてはならない。
673 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 13:01:01 0
さよなら じゅきょう
さよなら こうし
もうな、あまりにも物事の本質を見抜き過ぎているんで、逆に怖くなる。
創価とか阿含宗とかのカルトだと全くそんなことないのに、本物はやっぱり違う。
罪福の道理は捨てられたのではなく、執着するまでもなく実在するのが確認されたわけ。
一切衆生悉有仏性、とな。禅も浄土もそれは同じ。大乗が大乗である基本条件。
大乗ぶった所でカルトにはなかったりする。手順を追って形作られたには
それなりの重みが備わっている。儒教級の儀礼にすら上乗せされただけの重みが。
675 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 13:40:41 0
第一住心:善悪のわきまえもない愚人
第二住心:善悪ぐらいはわきまえた賢人
第三住心:善悪を信じる初級の聖人
第四、第五住心:自利の断悪修善の聖人(声聞、縁覚)
第六、第七住心:共利の断悪修善の聖人(菩薩)
第八、第九住心:善悪を脱落する聖人(顕教の仏)
第十住心:聖人の完成形(密教の仏)
最終的に善悪苦楽は脱落されるにしても、最大級の善悪への
追求の先にこそ脱落するのが仏であって、愚人の分際で「善も悪もない」
だなんて強弁するニヒリストとは全く次元の違った存在。
善悪苦楽(罪福)の真理に基づいて解脱する、最高級の聖人こそが仏。
676 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 13:55:04 O
道
さようなら、にーちぇ。
さようなら、ひとらー。
さようなら、おちぶれげるまんのあんぐろさくそん。
678 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 15:32:19 0
さよなら ろんご
さよなら ぶってん
679 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 15:36:25 0
>>2 >その宗教もまたキリスト教やユダヤ教のような極端な形而上の夢想ではなく
>実在に基づいた宗教となっている(西嶋和夫訳「中論」冒頭より)。
これは誤解。西嶋和夫は、不当前提、臆見に基づく非仏教を説く人です。
>>45 >創価学会や顕正会などの、日蓮宗系の新興宗教がよく使いたがる「破邪顕正」という言葉、
>これは本来、空観を司る三論宗の用語であって、出典も般若思想注釈書の「三論玄義」。
>有所得見(思い込み)であれば同じ大乗の教義ですら破砕の対象となる超絶論理思考、
>仏教界の警察とでも呼ぶべき絶無の境地の探求者の言葉としてこそ破邪顕正がある。
誤解、天台宗も華厳宗も三論、つまり、中観に基づいている。
>>71 >般若心経の梵文と梵文和訳も読んだが、意味は漢訳と何も変わんない。
結構違うよ。
>>345 >密教の神髄の一つとなっているタントラは世界最古の宗教信仰とされる。インド発祥の。
誰の説? インダス文明に起源を求めるってこと?
680 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 15:47:11 0
さよなら こーらん
さよなら ぶっきょう
681 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 15:48:56 0
富貴(世俗)と苦行(超俗)の両極端を究め尽くした上で、結局どちらにも
拠りかからず中間を行くのが「中道」だろう。始めから両極端に目もくれず
中間だけを堅持するのが「中庸」。最終的な結論だけは同じである仏教と儒教。
683 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 16:48:58 0
ただでさえアーリア系(インド人、イラン人含む)の落ちこぼれであるゲルマン系の、中でもどん尻の支族が
アングロサクソンだぜ? そりゃあグレて暴れまわりたくもならあな。灼熱砂漠での生存競争に敗れて、
逃げ込んだ先である白人社会で悪徳金融と化した、元祖犯罪加害原理主義者あたりとつるんでな。
ヒトラーはアーリア系を世界最高の民族だと触れ回った。確かにアーリア系の中でも最高級の民族である
インド人の慧眼だけを見れば、アーリア人ってのは凄い民族だなあと思ってもしまうもんだが、ヒトラー自身や、
さらにはチャーチルやルーズベルトといった、人類の足を引っ張る出来損ない中の出来損ないまでもが
アーリア系なせいで、アーリア系全体が最も優れた民族だなどとは決して言えない。
結局、善悪の両極端に触れきってしまっている民族こそがアーリア系なのであって、善一元論のインド、善悪二元論のイラン、
悪一元論のゲルマンへと分枝してしまっている。原始仏典にもアーリア人を称える記述が見受けられるあたり、
釈迦もまたアーリア系(ただし有色)だった可能性が高いが、釈迦族の領地はインド・ネパールの国境付近だったようだし、
仏教の基本原理である「中道」が善悪をも脱落してしまう意味を持つことからも、仏教の教学は超アーリア系、
超ゾロアスター系としての意味を持っていることが分かり、インドでの消滅後も極東社会で仏教が生き延び続けたことが、
善悪の両極端に触れきるまでもなく、始めから中間に止まり続ける中庸教学である儒学と共に、極東民族のアーリア系に対して
すらもの優位性を(教学の秀逸さの点からも)付与することとなっている。玄奘三蔵や達磨らの功績もあって。
684 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 16:49:58 0
>>682 そういうバランスを中道と見ると中観は理解できない。
『中論』24-18、いわゆる三諦偈は、縁起・空・中道を同一と説く。
それが全く理解できないでしょ。
中道というのは縁起であり、空である。
言語化すれば、有でもなく無でもなくないこと。
公式化すれば a でもなく 非aでもないこと。
これが中道であり、縁起であり、空である。
仮設して a とは言わないことなのである。
>>679(順不同で返答)
仏教が実在論であるという意見は別に間違っているとも思えませんが?
形而上の問題に対しては確かに「無記」なわけで。
天台宗は確かに中観に基づいているようだ。その上で法華思想をさらに上乗せしている。
でも法華信仰だけを抽出してドグマと化している日蓮カルトまでもがそうだとは思えない。
般若心経も唱えないという。浄土真宗も唱えないが、破邪顕正も別に掲げちゃいないから。
例えば、心経の梵文と漢文でどこが違うのか。
自分で反例も提出せずにただ否定するんじゃガキと一緒。
リグ・ヴェーダの未翻訳部分にすでにタントラにまつわる記述があるそう(何かの本で見た)。
宗教らしい宗教(信仰を伴う)で最古なのがバラモン教なんだから、すでに最古だ。
>>684 >682の中道に関する説明への反論は、
>>194リンク先の漫画「お釈迦さま」
にでも言ってくれ。むしろあなたのほうが中観の概念論と、唯識の異熟論を
分裂させて、真俗二諦への理解を疎かにする「方広道人」のように思える。
中観と唯識はちっとも教学としては反発し合っていない。ただ両者を同時に
理解できない人間が、分からないほうの教学を敵に回しあって喧嘩してるだけ。
687 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 17:26:23 0
なぜ 最古 にそんなにこだわるのか
ちゃんと起源や由来を確かめとかないと、
自分らのほうが劣化コピーなくせして、自己起源を主張する
朝○人みたいな奴らが現れるんで。
唯識の、せめて罪福因縁の原理についてぐらいは理解してからでないと、
中観はただの論理ゲームと化してしまう。人情の分からない悪徳警察になる。
トートロジアンのうぃとげんしゅたいんが帰ってくる。
起源を主張する劣化コピーが。
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伝統と女だけは神道で保全される。たとえ西洋だろうとも。
神道を仏教や儒家の上に立つ姉さん女房として認めるならば。
691 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 19:28:30 O
ハンナアーレント
アマテラスは主婦の神。もちろん子も産む。
693 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 20:35:46 0
>>685 仏教が実在論という根拠はなんですか?
縁起は実在論を全く認めない見解ですよ。
無記というのは形而上学の否定ではありません。
現に釈尊は、宿命通などで過去世を説いています。
>天台宗は確かに中観に基づいているようだ。その上で法華思想をさらに上乗せしている。
>でも法華信仰だけを抽出してドグマと化している日蓮カルトまでもがそうだとは思えない。
>般若心経も唱えないという。浄土真宗も唱えないが、破邪顕正も別に掲げちゃいないから。
日蓮カルトというのは同意。破邪顕正というのは、まさに実在論否定に他ならない。
>例えば、心経の梵文と漢文でどこが違うのか。
>自分で反例も提出せずにただ否定するんじゃガキと一緒。
サンスクリットが分かるのでしたら、出しますが分からないのに
出しても証拠にならないでしょう。
>リグ・ヴェーダの未翻訳部分にすでにタントラにまつわる記述があるそう(何かの本で見た)。
>宗教らしい宗教(信仰を伴う)で最古なのがバラモン教なんだから、すでに最古だ。
リグ・ヴェーダにタントラがあるという説は聞いたことがない。
未翻訳部分はありません。ゲルトナーの全訳もグリフィスの全訳もある。
たぶん、リグ・ヴェーダではなくアタルヴァ・ヴェーダにマントラがあるということを誤解したのでしょう。
>中観と唯識はちっとも教学としては反発し合っていない。ただ両者を同時に
>理解できない人間が、分からないほうの教学を敵に回しあって喧嘩してるだけ。
その根拠は?
弘法大師は、中観と唯識を分けるのは見解の高低によると思いますが?
インド・チベット・シナでも唯識は低い見解とされる。
694 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 20:57:45 0
今日は昔のことに引きずられながら、神経質な人に気おつかって疲れたよ。
昔の嫌な彼奴にそっくりだあーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
いいこといっぱいあったのにね。ああ、これがあるのはいいこと。予約もした。
一歩進んだんだよ。間違いないよ。
神経質な人亜あじょ。掃除をすると埃が舞うからアレルギーの私は云々。やだった。
やることやってんの。
ネガティブ思考、完璧主義。やだ。
目の周り真っ黒で鼻ずるずるしてるジェントルマンもないだろう。
アレルギー持ちの美容師は、鼻に小さく丸めたティッシュを見えないようにさし込む。
見習いやがれよ。
それに?ドライバが最新じゃないから欠陥でもあんのか。あるように言うな。
てめえで用意したもんだろ。
二番目のやつが正しい。わかりやすい、さばさば、明るい。若い。とげがない。配慮もできる。
695 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 20:59:46 0
>>688 >唯識の、せめて罪福因縁の原理についてぐらいは理解してからでないと、
>中観はただの論理ゲームと化してしまう。人情の分からない悪徳警察になる。
罪福因縁は、別に唯識ではなく通仏教で、中観も当然説きますよ。
まずは、水野弘元『仏教要語の基礎知識』から学んだ方がいいですよ。
『十住心論』は名著だけど、難しい。特に天台、華厳、密教の違いは、
それ以前の中観、唯識、倶舎あたりが正確に分かっていない人に
分かるわけがない。そして密教は殆ど『菩提心論』に依拠している。
『大日経』『金剛頂経』『釈マカエン論』あたりがある程度分かってないと
とても読めない。もちろん、私も完全に理解したとは決して言えない。
>>693 >仏教が実在論という根拠はなんですか?
洋学レベルの転倒夢想状態な形而上学と比較した場合のこと。
実相に基づいた方便までもが形而上学扱いされるんなら、それは無記ではない。
>破邪顕正というのは、まさに実在論否定に他ならない。
俗諦を仏教の把捉対象として認めない方広道人の悪癖がここにも。
(あと、天台宗が中観を認めているのは
>>45でもすでに書いてある)
>リグ・ヴェーダにタントラがあるという説は聞いたことがない。
確か近くの図書館のタントラ(マントラではなく)特集の本に載ってたはずなんで、
明日にでも行って調べなおしてみるから。
>(中観と唯識は教学としては反発し合っていない)その根拠は?
唯識が中観と比べて程度が低いのは分かってるんだ。第二住心の時点ですでに
許諾のなされていた罪福の道理が、第六住心の唯識に至ることで理論的に説明されきった。
罪福因縁の原理である異熟が、信じるまでもなく実在していることが確かめられたからこそ、
そのままそれだけを論じれば論理ゲームにしかならない中観が、真俗二諦のバランスをとる
人倫思想としても機能し得る。「中論」が二諦を以て宗とするというのも、
>>653の十住心論
からの引用部分で弘法大師自身が「三論玄義」の取意として述べていることそのままなので、
まだ反論がしたければ、当該部分をリンク先か図書館あたりで調べて正してみておくれ。
697 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 21:50:56 0
いくら唯識の程度が低いからといって、その内容を軽視までもしていいだろうか?
第六住心の唯識論で、罪福の原理である異熟識(阿頼耶識)が把握され終わったからといって、
第七住心の中観や第八住心の法華にレベルアップした途端に、それを疎かにしてもいいのだろうか?
有相から無相に上がった途端、急に警察が権力犯罪に加担するのまでをも赦し始めるのだろうか?
宮崎哲弥や池田大作あたりはそうっぽいが、正統な仏教宗派でもそうなのか?
698 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 21:58:15 0
>>696 俗諦というのは実在ではないよ。唯、仮設として世俗用法、
世間で習慣的に用いたれてきた言語習慣をそのまま用いること、
別に世俗が無ということではない、仮設としての名指される対象は存在するとは言えるが、
実在するとは言えない。なぜなら、縁起しているだけだから。
縁起によって、習慣通りの本体・本質を持って認識されるだけで、
実体は空なだけ。
『祕藏寶鑰』でもこのように縁起であれは実在論ではありえないと明言しています。
T2426_.77.0370c17: 因縁生法本無性 空假中道都不生
T2426_.77.0370c18: 波浪滅生但是水 一心本自湛然澄
T2426_.77.0370c19: 色空不壞智能達 眞俗宛然理分明
T2426_.77.0370c20: 八不利刀斷戲論 五邊面縛自降平
T2426_.77.0370c21: 心通無礙入佛道 從此初門移心亭
因縁生法本無性:縁起した現象は、本来、実体・本質がない。
空假中道都不生:それらは空であり仮設された中道だが全て生じたのではない。
波浪滅生但是水:波という縁起した現象も、すべて空という水に他ならない。
一心本自湛然澄:本来の心は(分別を離れ)清らかである。
色空不壞智能達:現象が空であるという智に達して、
眞俗宛然理分明:勝義も世俗もあるがままにはっきりする。
八不利刀斷戲論:八不によって実在論の妄想を断ち、
五邊面縛自降平:五つの実在論的極論は自ずと解きほぐれて、
心通無礙入佛道:心はさわりなく悟りに入る。
從此初門移心亭:この中観の初門から次の境地に行く。
699 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 22:18:28 0
実在は空であり、故に空は実在でもある(色即是空空即是色と同じ)。
たとえば、人間は子供を作るためにセックスをするように出来ている。
生殖第一姦淫第二、これは生物としての人間の存在性に即した事実=実在。
でも、人間はセックスをするつでいに子供を作るとも想定しうる。
姦淫第一生殖第二、これは生物としての人間の存在性に反する転倒夢想。
前者は空ではあるにしても実在。後者は空であってしかも転倒夢想。
実在性に基づくことは善良なので、空であるにしろ安楽でもある。
転倒夢想に基づくことは劣悪なので、空であって苦痛でもある。
善悪苦楽の罪福の道理もまた実在ではあるが、確かに空でもある。
善は楽で悪は苦だっていう問題ばかりに囚われると、どうしても善因楽果
のほうばかりに味方をしたくなるが、それでは善悪への公平な裁判官には
なれないので、中観によって一切皆空の境地に達し、法華の会三帰一によって
善楽への法愛を絶ってしまう。それによって初めて原告である善と被告である悪、
両者の意見を平等に聞いた上での判決を下すことが可能になる。
700 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 22:25:19 0
>>699 >実在は空であり、故に空は実在でもある(色即是空空即是色と同じ)。
全くの誤解。色というのは縁起によって仮設されたものだから、空なんです。
実在なら空でもなく、縁起もしない。
何も分かってない。自覚されたし。
701 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 22:33:51 0
「実在」という言葉の使い方がずれてるだけじゃんか。
>>699の用法に基づけば、確かに実在は色っぽいんだ。
子供を産める女は、その能力が旺盛であればあるほど色っぽいんだ、ケツもでかいし。
でもオカマは、ただ姦淫したいだけで子供は産めないからキモいんだ。
生殖第一姦淫第二の女は色だが、姦淫第一生殖第二のオカマは色ですらない。
「色即是空空即是色」という言葉の美しさばかりを掲げて、
色ですらないものの悪の苦しみを無視したんじゃ、それこそ俗諦への軽視だ。方広道人だ。
小乗ならいいが、唯識以上である大乗としては失格だ。
「実在」って仏語ではなく西洋哲学用語だからな。仏者なら使い方が間違ってても仕方がない。
むしろこんな粗雑な言葉の使い方を心得ている自分のほうが恥ずかしいぐらい。
703 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 22:56:52 0
>>698「祕藏寶鑰」引用部分の「五邊」という言葉、真言宗智山派管長・総本山智積院化主の宮坂宥勝氏
の訳(筑摩書房)では「実在論的極論」ではなく「概念的な認識」と訳されているわけだけども。
「生滅・不生不滅・亦生滅亦不生滅・亦非生滅亦非不生滅」が五邊なそうだし。
実在と概念って哲学上では相反するものですらあるんだが。
概念が解きほぐされなければならないのも確かだが。
705 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 22:59:44 0
>>701 実在という意味は、本当にあるものの意味で使ってますが。
そういうものは認めないのが仏教です。
縁起する諸物、現象、知覚、経験が、社会習慣、言語習慣として
なんとなく想定する対象、本質、意味を持って存在することは認めます。
これが世俗。その諸物、現象、知覚、経験は縁起する。
縁起するというのは、諸原因・条件によって生成認識されるということ、
なので実体はなく空。これが色即是空。
>>702 言葉は、適当なものですから、なんとなく了解して、
摺り合わせるよりしかたないでしょう。
706 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 23:12:35 0
仏教の中にはいろいろあるんだろうが、特に中観仏教と限定してみたりすると
いっさいは空であるという思想だから実在とはむしろ正反対だとおもう。
と素人の私がつっこんでみる。
それが中観以前の唯識が分かってない一般人の意見。
うぃと(ryとも見分けが付かないただの否定主義。
うん、ただ意見しただけ。
中観以前の唯識?なんてしらない。
でも、一切は空であり、でも仮の実体としての現存在も大切だという私の知ってる仏教思想はそれはそれで素敵だとおもってる。
それって否定主義ってよりも中庸的、肯定的で素敵だとおもうんだけど・・・
707は喧嘩好き?
意図的か無意識か知らないが(唯識が分かってるぐらいだから無意識ではないだろうが)、
弘法大師は唯識の第六住心の記述に、中観の第七住心と法華の第八住心の記述を併せたよりも
多くの分量を割いておられる。「分かってそうで分かってないから、ちゃんと勉強しなさい」ってのが
法隆寺や、「バガボンド」に出てくる宝蔵院も宗旨とする唯識だってことじゃなかろうか?
十住心論での、第六住心の全文を自分が理解できたとは言い難いが。
711 :
考える名無しさん:2009/04/06(月) 23:29:48 0
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
>>708 >仮の実体としての現存在も大切だ
それが唯識。三島みたいに自殺せずに。
713 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/06(月) 23:44:20 0
>>675さん
そこを「人」とするのは誤りではないでしょうか?
「心」とすべきです。
また十住心の他にも同じような、または典拠となる経典や論はありまして
例えば華厳十地品もそうですね。
心は人間としての立場に囚われる、
だからこそ求道者は道徳や犯罪に惑わされない超俗を目指す。
第三住心から第十住心は人でも心でもあり得るにしろ、
第一住心と第二住心は人間としての業から抜け出せないことへの留意を。
715 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 00:04:29 0
>>704 実はあんまりきっちり訳してません。
宮坂さんはあんまり信用してません。
どうせなら、勝又先生の訳がいいと思います。
ちょっと調べてみました。
「生滅・不生不滅・亦生滅亦不生滅・亦非生滅亦非不生滅」は、
『弁顯密二教論懸鏡抄』のこれに基づいているのでしょう。
此五邊者是以五句即云五邊也。無相
T2434_.77.0435a16: 宗方言義記云。且其五句者云何。答。一生。
T2434_.77.0435a17: 二不生。三亦不生。四非生非不生。五非
T2434_.77.0435a18: 非不生也。是俗諦所治五句也。
この注釈も「是俗諦所治五句」と言ってますから、
世俗的思考形態の五形式といった意味と思われます。
だから、実在論的極論でそんなに問題ないと思います。
また、以下のような大師の用例、
『平城天皇灌頂文』
揮八不以
T2461_.78.0003b24: 斷八迷。擲五句以拂五邊。四種言語道斷
『三昧耶戒序』
揮八不
T2462_.78.0005a09: 以斷八迷。擲五句以拂五邊。四種言語道
716 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 00:09:39 0
特に『辨顯密二教論』の以下、
T2427_.77.0375c08: 亦出四
T2427_.77.0375c09: 句亦離五邊。自然之言不能自然。
これが『釋摩訶衍論』の以下の引用です。
T1668_.32.0637c09: 亦出四句亦離五邊。自然之言不
T1668_.32.0637c10: 能自然。
すると四句こそが有る、無い、有無、非有無という
世俗の四つの認識形態なので、五辺は、一般的な、
辺見、常見、断見、有辺見、無辺見などの実在論的極論という
意味でいいんじゃないかと思います。
まあ、どっちでも目指す意味はさほど変わらないと思う。
717 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/07(火) 00:10:33 0
>>714さん
第一から第十まですべて「心」です。
十の住したる心の世界(人だけではありませんね)。
これすべて法界です。
一点、気になるお言葉に「超俗」とありますが
それでは密教ではありません。
失礼ですが経典はお読みですか。特に大日経です。
718 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 00:13:47 0
>>713 仰る通り、『大日経』の住心という見解に他なりません。
>>716 >辺見、常見、断見、有辺見、無辺見
そういうのを世俗では「概念論」というんですわ。「実在論」の反語として。
世俗の側の用語が錯綜しているだけなんで、お手数かけます。
>>717 大日経なんか読んでるわけありません。読んでたら今頃密教の寺にいる。
世俗の余りにも自分勝手な語法によって、中卒レベルの国語理解者よりも
仏法に基づいた語法が理解できなくなってしまっている知識人がいる。
そういう人間は結局、言葉が理解できない羝羊も同然なので、
言葉によって内心を人間としてのカルマから引き離すことすらできない。
文法破壊に仏者の側が随順していくような破戒はもうそろそろ避けるよう。
あまりにもどうしようもない、腐敗疑獄の限りを尽くした「世俗」。
その対義語としての「超俗」なので、江戸時代の「浮世」あたりとは
また別の意味であることをご了承ください。
×また別の意味であることをご了承ください。
○また別の対義語であることをご了承ください。
要は 曲学阿世 です。
十住心は全て「心」である、それは仏者としての当然の意見だろう。
でも、善悪の分別すらない犯罪者と、それぐらいはある道徳者とは
「人」として違っているというのが、俗人としての当然の意見でもある。
仏の金言すら必ずしも届かない、語法すら違う世の中をどうやって
救っていくか。異生用語の翻訳ぐらいの仕事は自分でもできそうな。
724 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 01:16:12 0
725 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 01:21:25 0
一住心ごとの登壇に、重犯罪者の服役以上の重みを。
727 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/07(火) 02:28:48 0
>>719さん
密教のお坊様でなくても大日経(住心品)には触れることは出来ると思いますし
解説の著作もたくさんあります。
(しかしあくまでも「学」までですね)
>>723の「仏の金言すら届かない」とありますが
三世十方、遍く照らす大日如来ですから。
届かぬ闇は己自身の心にあるものと。
論のための論では目的がまったく見えなくなってしまいます。
論の典拠たるお経に触れるのが第一歩ではないでしょうか。
大乗仏教は現世からの離脱でもなんでもなく
しかも密教の思想は・・・、言うまでもないことです。
728 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 02:46:41 0
>>727 大日経や金剛頂経こそは、本物の密教者でもない限り本義の理解できない奥義書でしょうに。
十住心論はいくら難解にしろ、朝廷への提出を意図して編まれたものなので、
あえて仮名文字で書かれた道元の「正法眼蔵」と同じで、一般にはまだ取っ付きやすい。
弘法大師や道元禅師も含め、仏者の意向から一般人は随順していくべきであって、
それすら守られれば別に密教も論及の対象となっていいだろう。絶対にいけないのは、
岡倉天心みたいに、寺院宗門の側が意図的に秘伝としているものを一般人の分際で強制的に
開帳させようとするような無礼な僭越。日本の寺社はエジプトの遺跡などと違って、代々
継承者がいるからこそ保たれてきてるんだから、墓泥棒みたいな真似だけはしちゃいけない。
行動が仏者の意向を含めた仏法に沿わない人間は、ただでさ金言の届かない心の闇を
さらに自分たちの行動によって隠し逃げ通そうとすらしている。仏法から積極的に逆行すら
してしまっているような人間こそが異生羝羊の犯罪に手を染めてるんで、そういう人間の場合は
道端ではなく、ADHDの抑制が効いた刑務所や拘置所での教誨こそが必要となるもの。
730 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 12:02:29 0
>>729 >大日経や金剛頂経こそは、本物の密教者でもない限り本義の理解できない奥義書でしょうに。
>十住心論はいくら難解にしろ、朝廷への提出を意図して編まれたものなので、
>あえて仮名文字で書かれた道元の「正法眼蔵」と同じで、一般にはまだ取っ付きやすい。
ごもっとも。
>弘法大師や道元禅師も含め、仏者の意向から一般人は随順していくべきであって、
>それすら守られれば別に密教も論及の対象となっていいだろう。
聖者の伝承、解釈に従えということ?
>行動が仏者の意向を含めた仏法に沿わない人間は、ただでさ金言の届かない心の闇を
>さらに自分たちの行動によって隠し逃げ通そうとすらしている。仏法から積極的に逆行すら
>してしまっているような人間こそが異生羝羊の犯罪に手を染めてるんで、そういう人間の場合は
>道端ではなく、ADHDの抑制が効いた刑務所や拘置所での教誨こそが必要となるもの。
これは自分の行動を正当化するために仏教を利用するという意味?
ちょっと言葉が難解です。
731 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 12:06:32 0
>>716 >>辺見、常見、断見、有辺見、無辺見
>そういうのを世俗では「概念論」というんですわ。「実在論」の反語として。
>世俗の側の用語が錯綜しているだけなんで、お手数かけます。
ども。 哲学の術語も人によって用法が違うようなので、
そうでしたら、それでもいいです。
要するに〜である、〜でないと断定する思考様式のようなものを
指しています。
732 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 12:16:01 0
>>730 >聖者の伝承、解釈に従えということ?
そのほうが大作や麻原に従うよりは手堅いでしょうに。
もちろん他の権力犯罪助長集団などよりも。
>これは自分の行動を正当化するために仏教を利用するという意味?
仏教によって正当化される世俗上の積極的な行動などあり得ない。
座禅とか念仏とか消極的な行業の極みだし、不動明王もそのご尊名の通り。
人類にとっての利益か損失か、プラスかマイナスかの符号も取り払われているような
資本主義社会で金になるような、積極的な行動はいつだって罪業でしかないから、
表向きは仏教系だろうとも、必ず正統な仏法からは背いた犯罪正当化のカルト教義に
本質的には随順していて、一旦本物の仏教に帰依しようだなんてなると、
まずは積極的に積み重ねすぎた罪業の清算が必要になる。
真理以前の世俗道徳のわきまえ。また塀の外に出てこられようとも、無理だろうとも。
734 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:08:39 0
わけわからねw
仏教の批判なのか社会への反骨なのかそれとも自分のひがみか
最終的には脱落されるにしろ、仏教は強度の善悪論でもあり、
世俗の善悪論である儒教に超俗の善悪論を上乗せして補足してしまう。
空海が論語に留まらぬ五経レベルでの儒学にも精通した上で、さらに上の
断悪修善を目指すものとして仏教を選択したのは「三教指帰」でも分かる。
(分かりやすい現代語訳が角川文庫から出てるんで、読んでみれば)
儒教じゃ救い切れないような、どうしようもない地獄同然の世の中までをも
救済するに値する真理教学だからこそ出家を決意し、家族も承諾した。
中国以上の孝行社会だった当時の日本でも支持されていただけの価値。
全く世俗との繋がりを絶って物事を考えるようなことは当時の聖者にこそなかった。
736 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:37:34 0
で?なにが言いたいのかな?なにがしたいのかな?
何もしないことだ。
道徳犯罪みそくそ状態のADHDこそが治療されること。
現代人にとっては一番困難なこと。
難解な数式や法律文書を読み解くよりも遥かに。
738 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:56:14 0
739 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 14:08:53 0
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( ・∀・)♪ ( ・∀・)♪ (( ( (( ( ) ))
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740 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 14:09:48 0
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( ) |ナカダシ ヽ ( / ミ
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| | ⊂=⊃ ) (⌒))) ) (⌒))) ノ つ つ ))
(∩・∀・)(_) (_ノ⌒ ̄ ((__)⌒ ̄ (((⌒ノ⌒(_)
⊂=⊃
(((_ノ⌒(_)
((|/⌒\ (○)) ((|/⌒\ (○)) ドンドン♪
∩ ^人^ )/ ∩ ^人^ )/
ヽ つ ヽ つ
(_人_) (_人_)
人間は必ずしも犯罪によって病に侵されるとは限らない。
しかし、実際に犯罪を為したぐらいの人間であれば、必ず病に侵される。
そのような実在する犯罪によって発症した病までをも、仏教によって治療されようだなんて考えずに、
まずは世俗での罪の清算を十分に済まして、最低限の道徳(庸徳)ぐらいは嗜んだ上で
仏法という山への登攀も試みよ。高い高い山が本当にあるということだけは教えといてやるから。
>>741 もうやめときなよ。言ってることカオスだし。
ただ弘法大師の、十住心論での意向に沿わせて頂いているだけだけれども。
凡夫が聖道を修習するためには、まず第二住心の道徳から。犯罪者なら自首から。
744 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 14:52:57 0
/⌒\
( )
| |
| | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・) < ティ○ポ 完全体!
( ・∀・) \_____
ノ;;ヽ /;;;ヽ
\ メ;;;; ~~ ;;;χ
/;;; 〜〜 ;;Y 〜;;ヽ/
| ;│ ;;|
メ 〜〜 ;;| 〜 ;;|
ヽ ;| γ
メ____人__/
|
745 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 15:03:23 0
西洋全否定しないと自分が保てないんだろ
746 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 15:08:33 0
完全に魔境だな。理想と現実と自分が分離してる。
素人が手を出すとこうなる。
747 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 15:09:51 0
>>743 なんで犯罪者が出てくるのか?自分のこと?
伝統と主婦だけは西洋だろうとも神道によって保全され得る。
もっとも、男系女系ごちゃまぜの西洋に正統な伝統はないし、
女もやたらと自我を主張して家庭や子供を守ることを放棄しようとする。
伝統や主婦なんかが保全されたからといって西洋からすれば何も嬉しくなく、
ただ東洋だけがその価値を計り知っているのかも知らんが。
749 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 15:16:29 0
プラトンの素晴しさに気づこうね^^
あほみたいに容量食ってるからこのスレで終わりだなw
今度立ったらスレ削除出しとく
751 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 15:20:37 0
>>748 今度は仏教から神道でしかも主婦とか
大丈夫か?
日本皇室や真言密教のような、身命を賭してまでの血統や正法の正伝は
コツコツとした永年の努力があって初めて叶うもの。
一発当てて後は遊び放題なんていう不誠実さじゃ決して伝えられやしない。
ただ墓泥棒やりたい放題な風化した瓦礫の山が残るだけ。
753 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 15:33:13 0
日本皇室
真言密教
一発当てて後は遊び放題
墓泥棒
瓦礫の山
おーいマジで大丈夫か?それとも笑いでもとってるのかw
だいたいが、「最後の審判」で何もかもが清算されて終わるってのが西洋の歴史観じゃねえか。
自分らの教学が犯罪正当化のためのものでしかないことがバレて全部オシャカになる。
借金踏み倒し博打うち集団に相応な末路じゃないか。
755 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 16:05:40 0
なにはともあれ、まずは自首から。
千里の道も一歩から。
757 :
:2009/04/07(火) 16:22:23 0
^p^
758 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 16:22:44 O
いちごの気持っち
これから君たちがたくさん目にするもの――「網」。
署や護送車の窓ガラス、拘置所の檻にまでも張り巡らされた丈夫で目の細い金網。
アメリカだと強化アクリル板だったりもするが、日本では金網、空気穴もいらない。
漁業が盛んなので網の扱いには慣れてる。そしてもちろん「縄」もだ。
16000年前の昔から縛り方を練習してきた、ぶっちぎりで最古の警察。
エジプトの王族もせいぜい6000年前、年季が桁外れに違う。
カルトと宗教なんて紙一重じゃない?
法人化されてたらカルトではないくらいの差にしか見えない
つまり法人が免罪符みたいな
まあ中には例外もあるけど
国家に従わなければカルトとみなしますよみたいな
あ、でも宗教者に限らず「私の嫌いな宗教、集団、人」はカルトになるのかもね
もう一億総カルト!
なんでPIKARRRって自分の専門外のスレが盛り上がると荒らしに走るの?ねえ、なぜ?
宗教は、いやな、いや〜なものだ。誰しもが目をそらし続けていたい、蓋をしておきたい臭〜いもの。
だからこそもう逃げることなく対峙して、積もりに積もった廃棄物を一挙に片付けてしまえという。
犯罪を正当化するようなダメな宗教は、麻薬や毒獣と同じように一致団結して警戒対象とするよう。
763 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 20:57:07 0
どんなに好き好もうとも、聖書教は権力犯罪を正当化するカルト宗教だし、
またどんなに忌み嫌おうとも、儒教や浄土教は権力犯罪を防止したり積極的な悪行を踏み止まらせる正統宗教だ。
仮にカルト宗教の犯罪正当化が厳密に裁かれて、聖書教なんか二度と信仰できなくなったとして、
儒教や浄土教はイヤだけども、真言密教のような高級仏教だったら鞍替えしてもいいだなんて考えたとする、
それでもやっぱり十住心体系における第二住心である儒教や浄土教も通過していかなければならず、
これらを通過する以上は犯罪者だったら自首せねばならないし、犯罪主義者も自分の方向性を破棄しなければならない。
また、聖書教による犯罪正当化が禁止されたことにより、聖書教レベルでの外界侵略不当利得による支援がないと
やっていけない、高コスト低パフォーマンスの西洋学術もまた連動して廃棄されねばならなくなった結果、
それらの代替となるのもまた仏教のような超俗教学ではなく、儒学や朱子学といった世俗の学術となる。
高級仏教などはある程度いいとは思えようとも、儒教や浄土教のようにイヤだけども受け入れねばならないものもある。
正統な宗教に限ってみても、やっぱり疎ましいことはある程度ある。正統な宗教を疎んじなければならないほどに
犯罪や犯罪性に身心を染めてしまった連中自身の自業自得ではあるものの、やっぱり確かに疎ましくもあること。
764 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 21:03:04 O
日本仏教に限らず、宗教全体をカルトと区別するのは難しい。
その違いが一つだけあるとすれば、それは国家に迎合し、認められた宗教だけがカルトでは無いということのみである。
本来宗教は、あの世の論理を説くものであり、この世の論理とは相容れないものである。
日本の伝統仏教、或は私の信仰する宗教だけはカルトでは無いとする定義はできないはずである。
例えば昔、法然、親鸞が島流しに遭い、還俗させられたことでも分かる。
これは天台宗が貴族化し、権力を握り、万民救済のために山を下りた法然、親鸞などを弾圧したのは、国(権力)に従わなかったからである。
これは本来あの世の論理を説く宗教が、この世の論理(権力側のルール)、つまり相容れないもの同士が迎合した結果です。
即ち、その時代時代のルールに従わなかった者、あるいは宗教は、カルトと見なされてしまうだけの話です。
765 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 21:11:59 0
儒教はあの世の論理なんか一言も語ってねえんだ。鬼神は尊びつつも遠ざけてんだ。
仏教はあの世の問題も説くが、代わりに世俗の問題には一切教義として関わりゃしねえんだ。
あの世の論理を世俗に持ち込んで現世での犯罪を正当化するような宗教こそがカルトだ。
浄土教も一時そうであると勘違いされて迫害されたこともあったが、事実そうではなかった。
教義の深奥から現世での犯罪を正当化するようなカルトとしての条件は満たしてなかった。
国家権力に服従なんかせずとも正統な宗教は正統な宗教として認められるし、カルトならカルト。
犯罪を正当化する邪教という意味でのカルト。別の意味でのカルトなら今は置いておいてもらう。
766 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 21:35:14 O
客観的に見て、明らかに本人の利益になっていないのが洗脳でありカルトだろう。
例えば、きっかけはチベット密教を学びたいと志し入信したのだが、結果は壷を売らされてたりする。しかし本人は気が付いていないのがカルトだろう。
結果が伴わないのが明らかに客観視できるのが洗脳である。
多くの宗教はあの世の論理が教義となるわけだが、あの世のことは結局死んでからしか分からない。
つまり生きてる内は結果が分からない。そういう意味では、ある種の洗脳であり、カルトだと思う。
神道も禅も教義の根幹にあの世の論理を置いているとはいえない。輪廻を説く類の仏教も、
最高の理想はあの世への迷妄の持ち越しを避けて二度と生まれ変わらない即身成仏とする。
あの世の論理に致命的に囚われて右往左往してるのなんてアブラハム教だけ。
しかもあの世で赦されるからといって、現世での犯罪を正当化してるなんてのは聖書教だけ。
教義の根幹から国際権力犯罪を正当化している。非公認という意味でのカルトを嫌うフランスと、
カルトだろうが何だろうが平気で認めまくるイギリスと、どっちがより模範的なキリスト教国家
かといえば、イギリスのほう。一時的に自分自身の利益になったりしようとも、人類全体という
大局から考えればむしろ不利益になってしまう国際権力犯罪を正当化してしまう不当な教義
が聖書自体にこそ盛り込まれている。聖書の解釈の仕方だ以前に、ありのままの聖書の内容
こそが権力犯罪を助長するものであり、イギリスはその内容に素直に従っているだけだが、
フランスは聖書の内容こそがありのままにカルトであることからは目をそらして、無理矢理
聖書教までをも正統な宗教たらしめんとしている。そんなやせ我慢なんかしなくとも、浄土教
みたいな教義の根幹こそが正統な宗教こそを信じたなら、始めから何の無理もないわけなのに。
>>693 フィリップ・ローソン著(本園正興訳)「タントラの世界」に、
「タントラはヴェーダやウパニシャッドから表象や思想を受け継いでいる」との記述がある。
特にリグ・ヴェーダとは書いてないし、当該部分を指定しているわけでもない。
日本含め世界中で女陰や男根を模した何千年も前の石像が見つかったりもしてるんで、
いつの時代も人間の興味は大して変わらないという意味では、やっぱり最古かもしれない。
教義の根幹こそが犯罪の正当化を本旨としているのが、アブラハム教の、しかも未だ燃え尽きて
炭(イスラム)にはならないでいるキリスト・ユダヤ両聖書教だ。
創価やオウムみたいに仏教系でカルトな宗教もある。でもこれらは明らかに仏法への曲学阿世だ。
自分らで既存の仏教を勝手に解釈し直して、犯罪正当化に用いようとするからこそカルトである。
でも聖書教は違う。自分らの教義の根幹になっている聖書の教義内容にありのままに随順する
ことこそが犯罪正当化のカルトになる。聖書教という存在性の根本こそがカルト。
存在性の根本からカルトであることを抜け出すためには、仏教カルトであれば曲解をやめればいいわけだが、
聖書教の場合は曲解をやめたところで無駄で、自分らの教義の根幹である聖書からの破棄が必要になる。
教義内容が国際権力犯罪の正当化であることになかなか気付けず、犯罪性の過剰な増長で本当に人類が
破滅の瀬戸際に立たされるようになって、初めてカルトであることが明確に露呈した。ヨハネ黙示録の内容など、
大無量寿経あたりと比較しつつ読めば破滅の寓意でしかないのは明らかなんだが、それしか知らなかった
悪食家たちには、天国からの招聘にすら見えてしまっていた。
煩悩を減らすどころか増やしてすらしまうあたり、アブラハム教は世界的に見れば屈指のアホ宗教なんだが、
アホばっかりで世の中を成り立たせていくこともできないから、無理矢理曲解することで逆に社会を
保たせてきた。曲解することがむしろ正統であることに近づいてすらしまう、根幹こそがカルトである宗教。
ゲロの詰まった洗面器の中のウ○コを食わされる苦痛の中で2000年も生き延びてきたその奇特さだけには舌を巻く。
770 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 23:12:43 0
「十住心論」極無自性住心第九も読了。これは華厳宗の心相に当たるが、
「密教に比べれば道半ばですらない」と空海自身が言う。でも、その密教にとっては道半ばの
華厳思想ですらが「末学の凡夫、強ちに胸憶に任せて難思の境界を判摂すべからず」といった内容。
確かに「黒白善悪、心に随つて自在なるが如し」とか、かなり危険なことも書いてある。
第八住心の法華思想で善悪苦楽への執着が断ち切られて、華厳思想に至ることで初めて
善悪の扱いが自由自在になる。ちゃんと手順を追っているからこそ善悪みそくそなんかにはならない。
華厳思想だけを見て善悪みそくそになったり、中観だけを見て論理ゲームのニヒリストになったりは
十住心の階梯をちゃんと守るならば決して起こりはしない。僭越を避けるための不可避なる差別。
浄土教とは他教を攻撃の対象とするのが教義なのかな?
仏教は無記、中道の立場を取るのが本来の姿ですよね
ミイラ盗りがミイラになるみたいな、本末転倒さが伺えますね
浄土系の人は、空観ひとつ述べたにしても「もっと勉強しなさい、我々浄土教の教えに行き着くはず」など、非常に保守的で原理主義な傾向を見受けられるが、たまたまそういう人に縁があっただけなのかな
772 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 23:34:13 0
華厳経は全文をまだ読んじゃいないが、禅でも浄土でも頻繁に引用される経典。法華経なんかよりずっと。
「八宗綱要」での華厳経の解説なども併せて鑑みるに、華厳経はどうも「仏教版易経」とでも言えるような内容らしい。
全宇宙を満たす真理としての毘盧舎那仏、時間も空間も超えて普遍的に存在し続ける。
自我は唯蘊無我住心第四ですでに捨て去られていたが、ここでは自性までもが捨て去られる、
もうちょっとちゃんと言えば、全宇宙に自性が破砕されて「無性の性」となる。凡夫の迷情を払う「遮情」と
諸法の真理を積極的に表示する「表徳」によって、全く収め尽くされたが故に無為の性が獲得される。
773 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 23:35:18 0
朱子学の「性即理」もこの華厳思想を参考にしたのかもしれない。朱子もライバルである禅だけを糾弾してたのであって
仏教全体までをも否定していたわけではないから(ただし三綱五常を旨とする立場からあくまで出家は遠ざける)。
粗悪な人生経験を通じてのすさみを取り払った、本来の人間の性は理であり、故に善である。悪人正機などはむしろ
こちら側から説明したほうが分かりやすいんだが、親鸞聖人はあくまで大無量寿経と華厳経の比較から、悪人正機を仏説
として編み出している(朱子は親鸞や法然よりも少しだけ前の人間で、鎌倉新仏教興隆期に朱子学はまだ盛んではなかっら)。
程度は低いにしても、世俗の教学である儒学や朱子学も華厳経などと同じ結論に達していて、第二住心から第九住心
いずれに帰属する教学においても、悪人正機を支持する程度の最低限の真理に基づいた性善ぐらいは備わっている。
774 :
考える名無しさん:2009/04/07(火) 23:53:27 0
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善を好み悪を憎むような、罪福の道理への法愛を捨てきれていないことは自分でも自覚している。
せいぜい儒学や浄土教程度の素養しかないんだからしょうがない。
法愛も捨て去って、善悪自在な境地に達する天台華厳の心相は、まだ鑑賞の対象でしかない。
本当にそんな境地に達しようだなんてなら、本当に比叡山や東大寺にも行かなきゃなんなくなる。
でもそれは儒学や浄土教の意向には背く。三綱五常も選択本願も捨てなきゃなんない。
そこまでの意欲は今の自分にはないから、せめて一緒にお寺参りをできる相手ぐらいが
いてからにしたいもの。犯罪者だったらお勤めを済ませてから、女だったら産んでからの相手と。
776 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 00:03:04 0
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777 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 00:30:40 0
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ヽ つ ヽ つ
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儒学や浄土教 す ら よりも下だってんだ。
パリジェンヌやイギリス紳士のほうが、
十手持った岡っ引きやナモナモ言ってた百姓よりも心相が下だってんだ。
人類を破滅させる者と破滅ぐらいはさせない者。本質的犯罪者と本質的道徳者。
教義の根幹がカルトである宗教に随順していたか、正統である宗教に随順していたかで
運命を分かれさせた最後の審判。下だった側は潰れ、上だった側は再興する。
女だったら今からでも勝ち組になびく打算も可(ただし主婦になる)、男だったらアウト。
779 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 01:31:52 0
(σ)
/ 人\
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( ( ・∀・ ) ) だから?
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) Y (
(__Y_)
780 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 02:21:14 0
ショーペンハウアーいがいで一人の西洋人も認めないの?
だれか一人も居ないの?
全否定?
781 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 02:27:39 O
北緯38℃線
>>780 哲学に限らず、法学科学政治学経済学、あらゆる学術が悪徳金融カルトからの
資金や妄想の借り受けを前提として展開されている。当該の学者自身が無借金だったり無信仰
だったりしようとも、西洋という社会全体の風潮がそうだから、悪友に交わらされて結局は駄目になる。
誰しもが無借金無妄想の高みを目指そうとする風潮の中でこそ、初めて空海のような真の天才も現れる。
「山高きゆえに貴からず、樹あるをもって貴しとなす(弘法大師)」
>>781 北朝鮮は共産主義、韓国はプロテスタント、どっちもそっち側。
これまではそれでもよかったかもしれない。
でもこれからはもうだめなんだ。
存在性の根本から人類破滅の元凶である、
外界侵略不当利得の国際権力犯罪を根本原理とするカルト教学。
これからも継続発展させていこうにも、人類の側がもうもたない。
壊しちゃ直し、壊しちゃ直しのマッチポンプが、昔からあるものを
コツコツと継承していくのと比べて少しも優位でないのは、
仏教や儒学を素直に統治原理に用いた平安時代や江戸時代の日本と比べて、
「西洋近代精神」に罹患してからの近現代世界が
戦乱や飢餓の続き通しであることからも分かる。
660年の平和、140年の戦争、果たしてどちらが恒常的な状態か。
784 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 11:31:55 0
785 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 11:33:15 0
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786 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 11:52:57 O
おまえら目を覚ませ
787 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 00:26:12 0
?
788 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/09(木) 00:50:45 0
>>729さん
仏教の経典を奥義書というような解釈は間違いです。
何かの武道や兵法ではないのですから。
あくまでも「学」という程度で、その思想等々は分かりますよ、
という意味です。
これは別に大日経に限らず、すべての経典に言えることです。
経典の意味を真に解したならば(否、解した者は解したという事もないのでしょうが)
その人?は経典そのものであり、法界そのものであり、
真如であるということではないでしょうか。
まずは経、そして論という順序は大切だと思います。
般若法華華厳あたりの、普通の大乗経典ならそうでしょうけども。
密教経典でも果たしてそうなのか。十住心論での引用からして悉曇だったりしますが。
(以後、次スレへ)
フランス人って偉そうにはしてるが、実は極東文化パクリまくってたりするんだよな。
赤白青の三色旗も「礼記」に祭礼用として出てくるし(ただし赤白青赤白青の六連)、
ヴォルテールからして孔子を崇め立ててたり、フランス革命も「孟子」の劣化コピー
だったり。フランス料理も中華料理のパクリ、近代絵画でも日本画をパクってたり。
起源を主張したり圧力かけてきたりするわけじゃないんで、ユ(ryやメ(ryに比べれば
まだかわいいもんにしても、立場もわきまえずに偉ぶってるとそのうち痛い目みるぜ。
791 :
考える名無しさん:2009/04/10(金) 12:39:31 0
(σ)
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( ( ・∀・ ) ) ???
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(__Y_)
792 :
:2009/04/10(金) 15:48:05 0
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793 :
) ) ( ( ) ) ( :2009/04/11(土) 01:38:57 0
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794 :
) ) ( ( ) ) ( :2009/04/11(土) 01:43:16 0
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考える名無しさん: