アシスタント・シェフとその助手が二人の少女をの服を脱がし、特別な準
備椅子に縛り付けた。二人の腸を奇麗にするために、熱いぬるぬるした浣
腸剤が施された。二人が炉の上で調理され死んでいくときに、無意識のう
ちに暴れてしまう。そんななかで、若い娘がおもらしをしてしまったりし
ては、優雅ではないからである。下の毛が生えているものは、電気カミソ
リで奇麗に剃り落とされた。陰毛は石炭の火を引火しやすく、そうなると
せっかくの美味しい肉が焦げ、舌触りがそこなわれるからである。もちろ
ん一番若い方の娘たちには、その必要がなかった。陰毛が生えていなかっ
たからである。彼女たちの乳房もまだ固くて小さかったが、脂肪分が少な
いこともあって、誰もが食べたがる絶品の一つであった。最後に、すべて
の少女たちは、おかっぱ頭にされた。やはり炉の炎の上でひっくり返され
たときに、長い髪の毛に引火し燃え上がる恐れがあったからである。人肉
料理の最初の準備は終わった。次は、倶楽部の伝統である「社交タイム」
である。食事をするものと、これから食事となるものの交流の場である。
両者が語り合い、知り合いになるのである。15人の若い少女と少年が、宴
会場に引き出された。みんなが裸で、下の毛も剃られている。手は背中で
縛られていた。宴会はたけなわとなってきた。豪華に着飾った男女が、高
価なブランディを飲み交わす横を、ウェイターがキャビアとオードブルの
皿をかかげて歩き回っている。裸の美しい肉体が宴会場の中をパレードし
始めると、全員の関心がそちらに集中した。若者たちの人格が否定されて
いるわけではない。
407 :
ナレーション(第三層):2009/05/16(土) 18:43:56 0
食事をするものと、これから食事となるものの交流の場
倶楽部の伝統は、肉になる者たちと社会的な関係を最後まで維持するとこ
ろにある。食するものと知り合いになり、敬意を払い、優しくはする。し
かし、その娘を食べるという行為は、あくまでも賞賛されるべきことであ
り、否定されるべきことではない。この複雑な関係が、倶楽部の信条を際
立たせるのである。倶楽部のメンバーは、この娘たちをステーキで食する
よりも、その美しい肉体をまるごとローストすることを望んだ。また、名
も知らない他人を食するよりも、名前を聞き、最後の会話を楽しみ、そう
した人間関係を作り上げた後に調理することを望んだ。娘たちは後ろ手に
縛られていたから、倶楽部のメンバーたちは、彼女たちの口にオードブル
を運んでやり、ブランディやシャンパンを注いでやった。みんなは、触っ
たり押したり撫でたりしながら、性的な接触を楽しみ、また、どこの肉が
美味しいかしらと予測して騒いだ。宴会はいよいよ盛り上がってきた。興
奮したメンバー、ゲストたちは、男も女も、若い肉体を性の対象として利
用し始めた。裸の娘がテーブルの上に投げ出され、時には同時に複数の男
性から、膣、尻に噛付かれていた。一方、女性の来客たちも、事態に恐怖
しながらも性器を屹立させ始めた裸の若者たちに襲いかかった。若者たち
は、もともと性器の大きさで選択されていた。(これから述べる「一物焼
き」のためである。)女性たちは少年たちの睾丸を細紐で固く縛った。屹
立を持続させるためと、射精を防ぐためである。
二人は柱に結わえられ、残りの三人は長いテーブルに仰向けに縛られた。
女性たちは若い獲物の器官の上に腰を下ろし、情熱的に奔放に上下させた。
この騒ぎを見るだけの女性客もいたが、それにしても40人もの女性が参加
していた。彼女らは、自分の順番が来るのを忍耐強く待たねばならなかっ
た。その点男性客は恵まれていた。10人の娘たちには一人当たり三つの穴
があるので、女性の場合ほど、待たされることがなかったからである。次
に待っているのは、これも倶楽部の伝統であるが、肉を柔らかくする作業
と、自分の肉に印を付ける作業である。肉を柔らかくする作業に関して、
メンバーの間にいささかの論争があった。片方は、獲物の柔らかい部分を
徹底的に鞭打つことを主張した。論理的には、肉は、なんの肉であっても、
叩けば叩くほど、最後に調理されたときに柔らかい。もう一方は、おおむ
ね美的な動機で、獲物の美しい肌を、調理中も、皿に盛ったときも、残し
ておき楽しみたいという主張であった。両者の意見を取り入れ、5人を鞭打
ち、5人を美しい肌のままに残しておくことになった。誰もが、若い娘が鞭
打たれるのを見たがっているが、ここの鞭打ちの激しさは、いかなるSM
パーティもかなわない。いずれにしろその娘は数時間後には調理されるの
である、いくら激しくてもかまわなかった。天井から、重そうな木の梁が
降りてきた。滑車の音が不気味である。娘たちのうち、一番若いのと一番
軽そうなのが、手首を梁のボルトに固定された。残りの三人、もう少し年
上で、肉のついた娘たちは、足首を同じように結び付けられた。ウインチ
が回り、重い梁が上がり始め、裸の美しい娘たちが三フィートほど吊るさ
れた。両端と真ん中に逆さに足首で吊るされた三人、その間に手首で吊る
された二人、きれいに交互である。五人ともが、むやみに暴れている。
遠い処で、彼らはのたうち回っていた。
身体を掻きむしりながら、何かをぶつぶつと喋り続けていた。
何かを。
413 :
714:2009/05/21(木) 12:46:30 0
>>396 >ゲーテは、一瞬の怠りもなく自己を対象化し続けたと言います。
>感化されて、私も何となく真似しています。
自己を対象化するというのが、どういうことなのかよくわかりませんが…
ゲーテはすごい人ですね。
『自然と象徴』というゲーテの自然科学論集を読んだことがあります。
科学者としてのゲーテは、たぶん今はあまり知られていないと思いますが、
植物学、地質学、光学、解剖学、骨相学…と、幅広い研究をした人ですね。
当時は今のように学問が細分化していなかったから可能だったのだろうけど、それにしてもすごいと思います。
中でも『色彩論』の執筆には20年を費やしたそうで、
『ファウスト』を含む全ての著作の中で、ゲーテは『色彩論』を一番重視していたそうです。
ゲーテの自然観は、当時すでに中心となっていたニュートンの自然観に反対する自然観でした。
自然を死せる自然として機械的に見るのではなくて、自然を生きた自然として有機的に見る自然観です。
「生きた自然においては、全体と繋がりを持たないものは何一つとして起こりはしない。」(『自然と象徴』)
そして、
「孤立した事実を自分の思考力や判断力と直接に結び付けようとした人々が、真先に誤りを犯したのである。」
と、ニュートン物理学を批判しています。
ヘーゲルはそのようなゲーテの思想を高く評価していました。
ニーチェも、親近性を感じる思想家として、ゲーテをあげています。
ゲーテの文学では、僕は中学生の時に『若きウェルテルの悩み』を読んで、感動のあまり続けて3回読みましたw
それが僕の文学体験の始まりでした。
414 :
714:2009/05/21(木) 12:47:59 0
>いつでも流れとともにあり、いつ栄え、いつ滅ぶかを気にかける事もなく、
>淡々と生活できることもまた、幸せではないでしょうか。
>・・・
>そこで自分の存在をことさらに意識すると、動きがとりづらくなるんですよ。
〈中心軸としての自己〉は、「自分の存在をことさらに意識する」自己ではなくて、むしろ、
「いつでも流れとともにあり、いつ栄え、いつ滅ぶかを気にかける事もなく、淡々と生活できる」自己のほうです。
自分自身を意識することで、自己は、本来的自己から非本来的自己へと転落する
と仏教では考えられていると思います。
僕が今読んでいる『十牛図』でいえば、
第七図(忘牛存人)において、自己はもはやそれ以上はないと思われる完成を示しているにもかかわらず、
なぜ第八図へと進まなければならないのか? という問題について、上田閑照氏は次のように書いています。
「まさに完成した自己自身が有るというそのこと自体に問題があるのである。
第一から第六までの境位には、各図が示すようにそれぞれの仕方での動きがあった。
・・・第七ではしかし到り得たところで動きは終り、自己自身に落着いた人が座っている。
到り得て自らこれでよしとするところに、動きは停まり、そこに大きな危険が隠されているのである。
動きが停まるということ自体が逆転の始まりだからである。」
流れが止まり、動きが止まることによって、そこに自己意識が生じ、我執が生じる危険があるということだと思います。
415 :
714:2009/05/21(木) 12:50:42 0
>>397 >実在性ってのは証明できるのかな。
実在論という立場はありますが、実在性を証明することはできないでしょう。
何かが実在するとしても、その実在が何であり、どのように実在しているのかは知り得ないと思います。
例えば、人間が〈水〉として認識しているものは、魚にとっては、人間にとっての空気のようなものかも知れません。
それはH2Oである、と言ってみても、H2Oは、試験管の中にある人間にとっての〈水〉の理想型のようなものであって、
H2Oが実在するわけではないでしょう。
だから、〈人間〉という視点を離れて、ものがそれ自体として何であり、どのようにあるかを知ることはできないと思います。
人間が知ることができるのは、〈私にとって〉〈人間にとって〉という条件つきのものだけだと思います。
これに対して、普通の常識的な見方は、実在論的です。
僕が死んでも、みうんさんが死んでも、人類が絶滅しても、「太陽」は「太陽」のままであるという考え方です。
こういう常識的な見方は、無自覚な実在論であるので、素朴実在論といわれます。
416 :
714:2009/05/21(木) 12:52:02 0
>>398 >万人に共通の言質を与え続けようとする学者の意地と通底するものがありますね。
>その気概はたくましくて、讃えるべきモノではありますが、いかんせん、
>ファシズムの傾向を呼びやすくもあります。
ニーチェは、万人に共通の普遍的なものを求めた人ではなくて、
自分自身の立脚点にしっかり立つことを求めた人だと思います。
例えばツァラトゥストラの次の言葉には、それがよくあらわれています。
「『これが、私の道である。…君たちの道は、どこにあるのか?』と、私は、
私に道を尋ねた者たちに答えた。というのは、道一般などは存在しないからだ!」
ニーチェが重視した〈趣味〉という概念にも、それがあらわれています。
「これが私の趣味なのだ。この趣味を私はもはや恥じも隠しもしない。」
ニーチェが求めたのは〈正しい〉解釈ではなくて、〈健康な〉解釈、〈良き〉趣味、です。
学者の書き方が、万人に共通なものを与えようとしているように見えるとすれば、それはたぶん、
学者は自分の見解を明確に示すために、ある程度首尾一貫して、断定的に書くからでしょう。
それが論文の書き方なんだと思います。
ニーチェでも、どんな哲学者でも、実際は常に〈ああでもない…こうでもない…〉と
試行錯誤していると思いますが、論文では〈ああでもない…こうでもない…〉という書き方はしないでしょう。
また、〈ゲーテの考えにも一理あるし、スピノザにも一理あるし、仏教もすごくいいなあ…〉と
思っているとしても、論文ではそのようには書かないでしょう。
自分の見解を明確に示さなければならないからです。
417 :
714:2009/05/21(木) 12:53:17 0
>>399 >例えば、宗教画って、構成や色調それぞれに論理のバックボーンがあるんですよね。
>エレメントそれぞれに宗教的根拠が隠れていて、隠す事で幻惑を生みます。
バッハの宗教音楽にも、隠された象徴がありますよ。
バッハの象徴法についての研究の先駆者は、あのシュヴァイツァーです。
シュヴァイツァーという人もゲーテと同じように幅の広い人で、
バッハ研究者としてもオルガニストとしても著名な人です。
シュヴァイツァーは、例えば、マタイ受難曲やいくつかのカンタータの中で、
歌詞に「十字架」という語が出てくるところには全て、譜面にシャープ(♯)が登場することを発見して、
バッハは特定の概念には特定の音楽形態を象徴として与えていると考えました。
シャープ(♯)は譜面を読む者にだけ見えて、聴き手には見えないから、隠された象徴です。
バッハのカンタータは生前は印刷されなかったから、バッハ以外の誰もそういう隠された象徴を知らなかったと思われます。
バッハは音楽を神に向けて作曲したと言われるので、その隠された象徴も、神に向けられたものかも知れませんね。
シュヴァイツァーのオルガン演奏は、今でもCD化されています。
http://www.youtube.com/watch?v=60VPPMIioU4
418 :
714:2009/05/21(木) 12:56:06 0
>>400 >心から心に悟りを渡すために、あえて教典に頼らなかったのかも知れません。
>それが何百年も語り継がれてきたというのは、驚異的な事です!
釈尊もイエスも書かなかったし、ソクラテスも孔子も本を書かなかった人ですね。
一流の人物は本を書かなかった、だから私も書かない、と言っていた人がいましたw
>ところで、生老病死は、最近医学の発達で物理的に解決されかけてますよね。
>美容整形、強壮剤、延命措置と。八苦が問題ですよ。
ん…、美容整形や延命措置によっても、老・病・死から逃れることはできないでしょう。
老いつつあるのに若さを求め、死につつあるのに生を求めるならば、むしろ
いっそう、老・病・死が〈苦〉として迫ってくるのではないでしょうか。
>私は、穢多社会のリアルな実像って知らないんですよ。
>カムイ伝には耽溺しましたけど。714さんは見た事ありますか?
見たことありません。
部落差別については僕も実際には触れたことありません。
中上健次の小説で知っている程度です。
人々は遠くからそれを見ていた。
何か懸命な、
しかし何処かが、
ねじれて、
鞭打ちが始まると、いっそう激しく暴れる、怯える、泣く。なかなかの見
物である。しかしこの鞭打ちは見世物ではなく、娘たちの肉を柔らかくす
るためのものである。そのために鞭は仮借なく、たちまち娘たちの肌は傷、
みみず腫れ、血に覆われ始めた。多くのメンバー、ゲストが鞭打ちに参加
したがったので、それぞれの娘に三回づつと決めたにもかかわらず、長い
列ができたしまった。どの種の鞭が、この娘らの肉を一番柔らかくするか、
議論が分かれるところである。そのために、あらゆる鞭が使われた。猫の
尻尾的なものから牡牛用の頑丈なもの、皮紐。娘たちの美味しそうなあら
ゆる部分、足、太股、背中、乳房が鞭打たれた。娘たちの奇麗な身体は、
あらゆる方角に傷付き、切れ、血が流れた。次は、娘たちの肉の自分が食
べたい部分に印を付ける作業である。一時間ほどの激しい連続鞭打ちの後、
娘たちを吊るした梁が降ろされた。いよいよ最後の準備作業である。自分
の肉に印を付けるのである。倶楽部のメンバーの全てが、それぞれのイニ
シャルの焼き印を持った。焼き印は真っ赤に燃えた石炭の大鍋で熱せられ
ていた。倶楽部のメンバーは望むなら、食べたい部分を予約することがで
きる。若い肉の太股や乳房が美味しそうだと思ったら、その部分に焼き印
を押せばいいのである。娘たちの全身がすっかり焼き上がった後も、焼き
印はその部分に残っているから、切り捌いて予約者に渡すことができるの
である。鞭打たれた五人は梁に結ばれたままであった。残りの五人は後ろ
手に高く、ホールの梁に縛りつけてある。頭の先から爪先までつるつるに
剃られた五人の男子は、天井から降ろされた木製の輪型の大きな燭台に結
わえてある。
鞭打ちされた五人の娘たちの苦しみなど問題ではない苦痛が、15人の肉の
提供者たちを襲うことになるのだが、今はまだ身動きできずにじっとして
いるだけである。客たちは誰のどこがおいしそうか、注意深く観察してま
わった。歯応えはがいいのは誰か、身のつまっているのはどこか、客たち
はここで自分の今夜の夕食を決めるのである。肉カットの仕方も選択する
ことができた。一部のメンバーは、どこでも結構ということで、この過程
に参加しなかったが、大方は、自分の好みに忠実で、熱心につまんだり叩
いたりしながら、乳房、尻肉、太股と今夜の食事を選んでいった。決まっ
たら、それぞれの赤く熱した焼き印をその部分に押し当てた。焼き印がゆ
っくり皮膚に食い込んでいくジューという音。それが筋肉にまで達して娘
たちが耐えきれずにあげる悲鳴。両方ともが、大いに愉快であった。好み
は一部に集中し、気の毒な男女には、何度も焼き印が押された。慈悲をか
けられた訳ではないが、焼き印とのキスを免れた者もいた。これで「社交
タイム」は終了である。いよいよ人肉ローストというエキゾチックな料理
の時間である。泣いている10人の娘たちは、ひとまず宴会場から出された。
5人の青年たちは、輪型の木製の燭台の内側に丸く並べて繋がれたままで
ある。性器の根元は先程レイプされたときのままに細紐で固く縛られたま
まであった。彼らは、何人もの倶楽部の女性メンバーやゲストと性交をし
たのだが、射精は許されなかった。青年たちの性器を料理する前に何度で
も楽しむことは、女性たちの食欲増進のためにきわめて有効なこととして
推奨されていたから、何人かの夫人たちは青年たちの輪の中に押し入り
(実際希望者が多すぎてちょっとした混乱があったほどだ)、縛られたオ
チンチンを口に入れ、また興奮させようと努力した。
実はこの作業、これから作る「一物焼き」には是非とも必要なものであっ
た。「一物焼き」のためには、一物をできるだけ大きく、固くしておいた
ほうがいい。夫やボーイフレンドたちは、奮闘する女性たちをはやしたり
、コーチしたりして大騒ぎである。文字通り eat cock するのだから、実
際にかじったり、咬んだり、歯を立てたり、血を流したり、夫や恋人とセ
ックスをするときには出来ないようなことをしてもいいのである。みんな
が満足したら、「一物焼き」の開始である。青年たちが片方に寄せられ、
丸型のグリルが押し込まれ、輪の真ん中に置かれた。30分ほど前に火が付
けられ、灰色の練炭の間からチロチロと炎が上がっている。バーベキュウ
には絶好の火加減である。青年たちの裸の腰と膝に新たなロープが掛けら
れ、グリルから逃げられないように固定された。若者たちの太股はグリル
の側面に押し付けて固定され、彼らの屹立したペニスと睾丸がグリルの上
に水平に突き出された。グリルの網目から一センチちょっと上、赤く燃え
ている石炭から五センチほど上である。ちょっとでもペニスが萎縮したら、
たちまち睾丸もろともジュッと焼かれることになる。先程までのセクシー
な刺激の後、気の毒な青年たちは、胴体に付いたままの性器を焼かれると
いう経験をさせらるのである。生きながら焼かれる痛みが腰を襲う。ペニ
スと睾丸の皮膚がたちまち真っ赤になり、湯気があがり、ジュージュー音
を立て始めた。すぐに水脹れができ、焦げ始め、グリルの上のホットドッ
グのようになった。ご夫人のためのスペシャルタイムである。湯気を立て
るペニスにバーベキュー・ソースを塗る。料理バサミで左右に傾ける。若
者たちの嘆願は、ご夫人たちを喜ばせるだけであった。何を言っても「あ
なたのオチンチンは美味しそうよ。誰とも分けたくないわ」などという返
事がくるだけであった。
じきに、縛られた青年たちは苦痛で震えだした。膝がガクガクし、お尻が
引きつり始める。しかし彼らがどうなろうとお構いなく、青年たちの一番
大切な部分は、彼らの目の前で、美味しそうな食べ物に変わっていった。
「一物焼き」はほぼ焼き上がった。ご夫人たちは料理バサミをと尖ったフ
ォークを使い、ペニスの方向を変え、焼き網に押し付けた。きれいな焼き
目を入れるためである。フォークを焼き性器に突き立てたのは、焼け具合
をチェックするためである。青年たちの叫びはうめきに変り、性器は脂が
ジリジリ焼け、皮膚は剥がれ、バーベキュー・ソースにくるまれた。尖っ
たフォークが簡単にペニスに刺さるようになった。十分に火が通ったので
ある。肉切り包丁で端を切り取っても血が流れない。なかも焼けたようで
ある。その時が来た。ご夫人たちが青年たちにキスをして、「あなた立派
だったわ。さすがよ、あの苦痛に男らしく耐えたのだから」などと耳元で
囁いているうちに、一つ一つ、彼らのペニスと睾丸が切り取られた。青年
たちは恐怖の目で、自分の股間がきれいに去勢されていくのを見ていた。
ご夫人たちは、切り取った性器を、てきぱきとグリルの上でひっくり返し
ている。上の方がまだ少し生焼けだったからである。最初の食事の時間で
ある。伝統的にご夫人のための時間となる。調理されたペニスは、睾丸が
繋がったままであるが、ジュージュー煙を上げているところを突き刺され、
丸いパンの上にのせられた。調味料がたっぷり広げられる。辛しと胡椒、
ドイツのザワークラウトが添えられた。調理された睾丸が大きすぎて、パ
ンからあふれ出ている。趣向を増すために、ご夫人たちに野球帽がわたさ
れ、野球の試合のビデオが映された。アメリカ、日本、ヒスパニック系の
ご夫人たちに、自宅でくつろいでいる雰囲気になってもらうためである。
ヨーロッパからのご夫人には、異国情緒を楽しんでいただくことになる。
427 :
みうん:2009/05/23(土) 04:38:32 0
しかし、機械さんは文才豊かですねえ。。。
インモラルながら、このエロティックな料理がおいしそうと感じてしまう。
作者と読者の共犯関係が成立し、そこから個々の離脱があり、
カタルシスが演じられるのかも知れません。先は読めませんが。
428 :
みうん:2009/05/23(土) 04:41:31 0
>>413 714さん
「人間は行きたいほうへ行くがよい。人間はしたいことをするがよい。
しかし人間は、自然がえがいている道へ、必ずまた戻ってくるに違いない。」
と言ったのはゲーテですが、
ゲーテ仕込みの色彩論を、私は大学でアカデミズムと共にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、
ほとほと嫌気が差してレポートの日に教室から逃げたら、教授が裸足で追いかけてきて、
構内を長い事走り回り、なんでこんなにしつこいんだと笑ったとたん捕縛、連行された、
なんかそんな記憶があります。
ゲーテもそうですし、ニーチェも、ヘーゲルは、?ですが、
彼らの思想って熱くって、有機的で、それを好きな人もまた、情熱的な事が多いです。
熱い、熱くないの差って、人と価値観を整列させたがるかどうかの差なんですよね。
「『これが、私の道である。…君たちの道は、どこにあるのか?』と、私は、
私に道を尋ねた者たちに答えた。というのは、道一般などは存在しないからだ!」
ニーチェはこう言ったようですが、で、それぞれが軌道を持ってがちゃがちゃに動き回って、
ある一瞬、惑星が整列するようにその座標が一本線上で結ばれる、
彼はそんな瞬間を待ちこがれて、そこから真理をつかみ出すために生きてた訳じゃないですか。
哲学者なんだから。真理をつかんで人に見せるって、価値観を統合させたいからでしょう?
でも、生命が活動する大規模な範囲を視野に入れて、そこから法則性なり真理をつかむなら、
観測する側としての個人的な感傷や激情をのりこえないと、脳が破壊されますよ。
脳が壊れたらもともこもないでしょう?学問どころじゃないし。
>ゲーテの文学では、僕は中学生の時に『若きウェルテルの悩み』を読んで、感動のあまり続けて3回読みましたw
>それが僕の文学体験の始まりでした。
中学生でゲーテなんて早熟ですね!すごいなぁ。体験についてもっと詳しく教えてくださいよ。
429 :
みうん:2009/05/23(土) 04:45:13 0
>>414 >なぜ第八図へと進まなければならないのか?
十牛図・・・ということは、克己の境地は十図まであって、
今は、六、七あたりの話をしているということですか?奥が深いですね^^
まだまだある十まで教えてください。゚+.(・∀・)゚+.゚
「いつでも流れとともにあり、いつ栄え、いつ滅ぶかを気にかける事もなく、淡々と生活できる」
というような中心的自己が、傍観者態度を望むのでは物足りない、というのについても、
もっと聞きたいです。
>>415 >実在論という立場はありますが、実在性を証明することはできないでしょう。
諸事情の関係性が実在的に証明されないなら、決定論は観念論ですよね?
「風が吹けば桶屋がもうかる」も楽しくていいですが、ナンカ単純ですよね。
決定論を医学に持ち込もうとする学者さんもいるみたいですが、変ですねえ。マッドです。
原因群の、結果への移行に見られるヴァリアントは、ポリフォニー的なものでしょう?
>僕が死んでも、みうんさんが死んでも、人類が絶滅しても、「太陽」は「太陽」のまま
能天気な考えですねw内的体験のありようを描き出せるのが人間らしさだと思いますよ。
やがてやってくるだろう死について、どんな風に考えていますか?
430 :
みうん:2009/05/23(土) 04:46:53 0
>>416 >「これが私の趣味なのだ。この趣味を私はもはや恥じも隠しもしない。」
>ニーチェが求めたのは〈正しい〉解釈ではなくて、〈健康な〉解釈、〈良き〉趣味、です。
ちょっと話がずれますけど、趣味の格言について、
ニーチェがドイツ人だからかもしれませんが、、、
例えば、彼の趣味趣向について、だれか他者と、
「さあ今から君と趣味の違いをぶつけあおう、ぶつけあって全て理解し合おうじゃないか!」
と鼻息を荒くするみたいなのは、コントっぽくて滑稽に見えます。
「エロぼんの事でもパンツのシミの事でもクラスメイトの美香ちゃんの事でも
何でも言ってくれなわからんやないの!水臭いわあ!なんやの!」みたいな、
恥も外聞もないコテコテの体当たりオカンみたいな風情が漂ってますよ。
始終そんなペースで迫られたら、サロメも怖気をふるって逃げ出すでしょう。
お互い、相手への配慮で、自分の興奮する対象(趣味)についての口述は控え、
それでもある時、趣味の接点が見つかり、喜びと当惑の中でひっそりと納得する、
そういう情緒が欲しい所ですねえ・・・
そうだなぁ。714さんはよく、自身の日常性を哲学に落とし込んで拡散させますが、
哲学に身を隠して逃走、また顔を出す、このかくれんぼのような行為は、
一見児戯的なようですが、繊細で濃密なエロティシズムを発散しています。
実際会っていない人間にこういう喜びを与えられる精神性の高さに、驚かされますよ。
とても魅力的な対話者なので、私は幸せです^^
何でも露出をして断定を繰り返すよりも、隠す事、表現をあえて抑える事が、
心理的効果から論説への興味を倍加させる事を、学者さんにも認識してほしいです。
断定の語調は、論文の定型に従っているだけだとしても、むやみにそればかりだと、
「何か意地になっているのかな?」という印象を与えずにはおかないでしょう。
431 :
みうん:2009/05/23(土) 04:48:12 0
>>417 >シャープ(♯)は譜面を読む者にだけ見えて、聴き手には見えないから、隠された象徴です。
そうなんですか。初耳です。興味深いなあ。
そういえば、シャープって、直角に交差する線だから、十字架に見えますね?
なるほど〜。
音律と歌詞の両方に、祈りの意味をこめた十字架を宿し、
和合させる事で、彼の音楽はより強固な宗教的時間を形作る、と、
バッハは、そういう仕掛けをしているのかも知れませんね。
歌を歌えたり、楽器を弾ける人というのは、要するに耳が良くて、
どんなに複雑にミックスされた音でも分析でき、正確に記憶できるんですが、
バッハの場合、それを感覚的にやっているだけじゃなくて、
楽曲に論理、宗教と接合させて広がりを持たせている訳ですよね。
キャパシティが広く、緻密な頭脳と創造力を持った、天才です。
私は今の所ざっくりとしか彼について見れないけれど、
714さんは音楽の細部まで知ってるんですねえ。うらやましいです。
432 :
みうん:2009/05/23(土) 04:49:20 0
>>418 >一流の人物は本を書かなかった、だから私も書かない、と言っていた人がいましたw
本を書かずに教えを広めるのって大変じゃないですか?
自分の考えから一挙手一投足までシステム化して、美を付加した上で、
師弟制の中に反映させるんですから。
>老いつつあるのに若さを求め、死につつあるのに生を求めるならば、むしろ
>いっそう、老・病・死が〈苦〉として迫ってくるのではないでしょうか。
体裁を整えれば、満足して、肉体の刻々の変化を受け入れられる人って多いですよ。
健康ブームに従って生活を徹底させ、健康診断の結果
「あなたは今50歳ですが、脳年齢、肌年齢は20代です」とお医者さんに言われて、
自信を持つ人って多いでしょう。
容貌から思考、ライフスタイルまで絶えず20代以前に合わせるのは年齢差別的な発想で、
あまりスマートとは言えないですけどね。前時代的です。
不老不死の源とされるツバメの巣を求めて、大挙して世界をかけずり回り、
命の危険をさらして断崖の隙間に手を伸ばしていたジンギスカンの時代が終わって、
人々にも多少ゆとりができたと思いますよ。死に対するゆとりみたいなの。
433 :
みうん:2009/05/23(土) 04:51:25 0
なるほど〜。
そういえば、漢数字の十って、十字架に見えますね?
わたしも一度ははりつけにされてみたいです
>>423-426あたりで、
>後ろ手に高く、ホールの梁に縛りつけてある。
というところで興奮しちゃいました♪
また、
>縛られたオチンチンを口に入れ、また興奮させようと努力した。
と書かれていらっしゃいますが、
とってもおいしそう。。。
女は何もわかっていなかった。
次に、 女は、男が裏切ったのだろうかと考えた。
40人からのご夫人がいたのに、わずか五本の「コックドッグ」である。ほ
んの味見程度、一口か二口しか食べられない。しかし味は最高であった。
自分の番を待つ価値が十分にあった。世界最高の血入りソーセージである。
焦げた皮膚を噛み破るときのガリッとした感触、豊潤な中身。血管と海綿
体のちょうどいい歯応えがつづく。大胆なご夫人がはみ出た睾丸に噛付く。
若い青年の表現できないほどリッチな睾丸である。飲み込むまで何分もか
かるほど噛みでがあった。倶楽部の伝統では、「一物焼き」の量がいくら
少なくても、ご夫人たちは、その珍味を提供者と分け合わなくてはならな
いことになっている。去勢された青年たちにも、一口づつは食べさせねば
ならないのだ。しかも自分の性器を食べさせる規則になっているが、いつ
も大騒ぎになるので、どの「コックドッグ」が誰の性器でできているか、
実際分からなくなる。そのために、まあそれが望ましい、くらいの規則に
なっているのである。青年たちは一日中何も食べていない。大変な苦痛の
連続でいっそうお腹が空いている。強制しなくても、進んで自分の性器
(と思われる)を口にした。この最初のコース、興味尽きない調理法とわ
ずかな食事によって、ご夫人たちの食欲は刺激され、より空腹になったよ
うである。もちろん彼女らのパートナーたちは、待たされつづけて、耐え
られないほど飢えていた。メインコースの開始である。10人の娘たちが宴
会場にもどされた。この度は、いささか威厳がないというか、縛った手足
に棒を通され、前後をにこやかなシェフに担がれて登場した。お腹を上に
して揺れる裸の娘たちは、お腹を空かした人々の歓声の中をぐるぐるパレ
ードし、そのまま内庭に向かった。
内庭は城壁に四方を囲まれ、真ん中に六つの大型のレンガの炉があった。
それぞれの炉には二つづつの串受けがあり、大型の獲物を二匹並べて処理
できる大きさがあった。計算をしてみる。娘たちが10人、さきほど「コッ
クドッグ」を作られた青年が5人、合計15人。六つの炉に二人づつ掛けると
12人。という訳で、15人引く12人で、3人は、他の連中が炉で調理されるの
を見ながら、自分の順番を待たねばならないことになる。炉はすでに石炭
で満たされ、一時間も前から火が着けられていた。火加減は完璧で、石炭
の表面は灰色に、隙間からは指のような炎が無数に立ち上っていた。焼き
人たちは、石炭をならし、炎に香木を投げ入れていた。裸の娘たちはみん
な、棒受けのある棚に掛けられた。順番に進んできて棚に掛けられながら、
娘たちは哀願し、泣き、涙を流したが、笑われ、無視されただけだった。
実際、メンバーやゲストたちは空腹であったし、このエキゾチックな禁断
の肉を食するのを何ヶ月も待ちこがれていたからである。ここで、倶楽部
で長い間論争の種になっている、もう一つの問題にについて触れておかね
ばならない。先に、肉は生きたまま調理されたときに最高の味がすること
に関しては、みなが同意していることは述べた。また、火にかけられた獲
物が自分が焼かれる様を生きて経験すること、美しく悶え暴れること、そ
れを眺めるのは最高にエロチックで素晴らしいことは衆議一決していた。
意見が対立していたのは、それから先である。一方は、伝統を重んずるグ
ループで、獲物が人であっても、正しく古典的に串刺しにしてローストし
なければならないと考えた。しかしこの場合は問題があった。串刺しの鉄
串が重要な内臓、心臓とか胃とかを傷つけ、獲物が即死しないまでも、石
炭にかけて一、二分しか生きていないことである。何年もの試行錯誤の後、
内臓解剖学にのっとった熟練の技量で、注意深く娘たちに鉄串を押し込ん
でいけば、生きたままの串打ちが可能なことが分かった。また、串先をサ
ーベルの鋼鉄の格別に鋭いものにすれば、さらにダメージを与えずに串刺
しにできることが分かってきた。そうしたとしても、娘たちが致命傷を受
けることは同じだが、最低30分は意識がしっかりある。娘たちは生きなが
ら焼かれ、炎の上に掛けられる貴重な経験をすることができるのである。
もちろん、彼女たちの肉も最高の状態にローストされることになる。もう
一方のグループは、割合最近の意見なのだが、そんな面倒くさいことはせ
ずに、特別に設計された鉄串に娘たちを縛り付けるという方法を選んだ。
こちらの美点は、まるっきり健康で元気な娘を石炭にかけることができる
ことである。口も自由であるから(先の串打ちの場合、口を串が通り抜け
るために、発音が明瞭でなくなるのである)、彼女たちの可愛いい声も聞
くことができる。固く鉄串に結び付けてあっても、熱と炎に皮膚、肉、筋
肉を焼かれ、熱波が身体を貫くと、娘たちは激しく暴れる、それがその肉
をこれから食べようとしているものたちには、たまらなく楽しいのである。
串刺しにした娘たちも、生きているから怯え震えるけれども、やはり縛り
付けられた娘たちより、元気がない。しかしもちろん古典的な串打ちの娘
の美しさも捨てがたい。
どちらにしろ、好みの問題であった。という訳で、娘たちは二つのグルー
プに分けられた。鉄串に縛り付けられるものと、串刺しにされるものと。
ロシア娘のソーニャは鉄串を打たれる方に選ばれた。二人のシェフが彼女
を吊るしていた棒をラックから外した。ソーニャの両手は結ばれたまま城
壁の上のウインチから伸びる重いロープに繋がれた。ソーニャの身体が5
フィートほど引き上げられた。足首が折り曲げられ太股に結び直された。
さらに足首間に横棒が取り付けられ、太股を閉じることができなくされた。
これですっかり剃り上げられ、ぬめって見えるソーニャの性器がむき出し
にされた。春にしては寒い日だったが、恐怖と精一杯の抵抗、また炉の高
熱と煙のために、ソーニャの肌は汗の粒で光っていた。太陽が彼女の全身
を照らしていた。豊かでしかも固い乳房から、彫刻のような腹部、さらに
筋肉質の太股の方に、太粒の汗が流れ落ちている。その乳房と太股の両方
に、新しくて深い異なったイニシャルの焼き印が押されているのが見えた。
ここにいるメンバーの何人かが、彼女のみずみずしい乳房と太股を渇望し、
食事として選んだのである。焼き印以外の傷はなかった。ソーニャは最初
の肉を柔らかくするための鞭打ちはされなかったのである。吊るされたま
まで準備が終り、ロープはさらに4フィート引き上げられた。ソーニャ用
の鉄串の先にカミソリのように鋭い穂先がねじ込まれた。二人のシェフが
彼女の震える身体を支え、彼女が運命を変えようと最後の抵抗をするのを
押さえていた。ソーニャは穂先が彼女の太股の間にセットされたのを恐怖
の目で見下ろしていた。
料理長が新しいオリーブオイルをナイフのように尖った穂先に注いだ。そ
して注意深く、ソーニャの陰唇を開き、穂先を入れた。ウインチ係に頷く
と、少しづつソーニャの身体が下がってきた。ソーニャは膣一杯に穂先が
入ってきたのを感じてうめいたが、まだどこも切れてはいない。そこで数
分間、シェフは、残忍な槍先を5インチ上下させ、捻り動かしつづけた。
空腹に時間の無駄ではあったが、みんなはこの可愛いロシア娘が、冷たい
鉄のペニスで最後のエクスタシーに達するのを見て息を飲んだ。ソーニャ
は大きな胸を波打たせ、太股を震わし、エクスタシーのうめき声を出した。
これがソーニャにとって最後のエクスタシーであると、彼女自身も不思議
に自覚していたが、それでも喜びのうめき声を我慢できなかった。シェフ
がウインチ係に頷いた。一度に一インチ下がった。鋭い穂先が、子宮口を
破った。血が鉄串、太股の内側に流れた。ソーニャは泣き、叫び、うめい
た。穂先が子宮の中を通過するのを感じていた。情け容赦なく、穂先はす
ぐ子宮上端に達した。ここから先がシェフの永年の経験の見せ場である。
ほんの小さなミスでも彼女を殺すことになってしまう。シェフはソーニャ
の腹部をしっかり抱え、穂先を注意深く彼女のお腹の中に通していく。少
し差し込むだけでソーニャは激しく震え暴れたから、大変な作業である。
数インチ片方に寄せ、肝臓と胃の間を通過される。動脈を避ける。外科医
の練達であった。最大のポイントは、穂先が彼女の上半身の中ほどにきた
ときである。シェフはソーニャの胸骨に指を食い込ませながら、巧みに心
臓の横をすり抜けさせる。シェフは三度目の合図をウインチ係に送り、ソ
ーニャの降下スピードを少し上げさせた。穂先が食道壁に来た。梯子の上
の調理助手が、ロシア娘ソーニャの髪を掴み、頭を後ろに引っ張り、喉に
一パイント(約0.5リットル)のオリーブオイルを注ぎ込んだ。
443 :
ナレーション(第三層):2009/05/30(土) 15:53:02 0
それほどまでに自らの醜さを、人々に見せつけたいのである。
444 :
ナレーション(第三層):2009/05/30(土) 15:56:33 0
その腐臭を、嗅がせたいのである。
肉の襞を自ら拡げ、
どろどろと流れ出す内容物を指ですくい、
読む者の鼻面に押しつけたいのである。
「わたしの、きたない、
あれ」
どろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろどろ
液晶から流れ出し、
中国の汚染された川のように、
その醜い意識のかたちが、奔流となって、
佃煮=みうんくん、まだ気づかないのかね?
そろそろ気づけよバーカ(w
全部わたしの陰謀なのでR(w
パンダンス〜♪
かくして、最初の食事の儀式は無事終わった。それぞれのゲストは、数オ
ンスづつの青年、娘たちの肉を食べたのである。それは、彼らを満足させ
る量には足りなかったが、人の肉が最高の美味であることを知るには十分
な量であった。彼らの食欲は、いよいよ貪欲に旺盛に刺激されたのである。
野生動物の味でもなく、家畜の味でもなく、人の肉は白身と赤身の間で、
まったく独特の味である。どこか親しみやすい味なのは、結局自分自身を
食しているわけだから当然として、きわめて美味しい。禁断の罪深い喜び
の味である。古くからのメンバーが知っていた驚くべき美味を、いま新し
いメンバーも知ったのである。このエキゾチックな肉は絶品中の絶品。道
徳、倫理などでこの究極の料理を禁止するのは罰当たりである。二人の娘
はグリルの上で残った部分を切り捌かれていた。内庭の炉に掛けられてい
たメインコース料理が出来上がる頃である。ソーニャとカティは、500度ま
で上がる二番目のフックに移された。生きていたが、二人の意識は少し朦
朧としていた。裸の身体を貫いた鉄串を中心に、ゆっくりと回転をつづけ
ていた。おおかた焼き上がったと見えた。白い肌は奇麗に焦げ、香木、た
っぷり塗られたマリネードの芳香が立ち上っていた。二人の目は開いてい
た。自分たちが、回転しながら、タレを塗られながら、豪華な宴会料理に
なっているのだということは理解していた。二人は、こんなに多くの人々
を満腹にし、美味しかったと褒められる料理になれるかしらという不安に
とらわれ、いや、そうならなくてはという不思議な責任感を持った。身体
を鉄槍に貫かれ、仮借ない炎に一時間以上さらされ、意識をなくしながら、
自分はいま最高の料理を提供しているのだと、ある種の達成感も感じてい
た。さらに最後に、美食家たちに考えうる最上の食事を提供できる、自分
の美しくて締まった肉体に感謝もしていたのである。