規範としての宗教と理性

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1考える名無しさん
宗教・神を信じる人は、自分のすべてが論理・理性によって支配されていない。
自分の中心に非論理的部分があって、それが絶対的な規範・道徳を強制している。

神を信じない人は、自分のすべてが論理・理性によって支配されている。
そして、論理・理性から規範・道徳が導き出される。
しかし、論理・理性では、自分の利害・私益を基準とした他者との調整的な
規範・道徳が得られるだけなのではないか?

結局、すべてが論理・理性に支配された人は、エゴイストにしかなれないのではないか?
2考える名無しさん:2008/10/17(金) 13:28:18 0
一応、理性・論理に相対する感情っていうのも考慮すべきって言われるかも
しれないけど、感情は結局、欲望と同じように、理性によってコントロール、規制される対象なので。

つまり、感情や欲望は理性に影響を与えるけど、最終的に管理、コントロールする決定権は
理性が握ってるっていうことね。
3考える名無しさん:2008/10/17(金) 13:49:32 0
宗教・神の定義からよろしく
4考える名無しさん:2008/10/17(金) 14:41:53 0
神とは、人間の力が絶対的に及ばない人知を超えた善なる存在。
宗教とは、そうした存在に対する信仰。
5考える名無しさん:2008/10/18(土) 01:05:06 0
信仰者ならばエゴイズムからは無縁でいられる、と考えるのは早計に過ぎる。
信仰者も「倫理的・宗教的な清らかさ」を専有しようとするエゴイズムや
「神のためではなく、自分のために信仰を抱いているにすぎないのではないか?」という疑念から逃れるのは容易ではない。
ルターや親鸞の宗教改革は畢竟そうした問題に淵源するといえる
6考える名無しさん:2008/10/19(日) 07:12:40 0
何かを信仰してる人でも、欲望との葛藤はあるだろうな。
でも、何かを信仰してる人は、欲望を抑える手段として最終的には信仰を使える。

すべてを合理的に考える人は欲望を抑える手段として理性しか使えない。
理性は計算に基づいて、つまり自分の最終的な損得が得られる選択として
欲望を抑えるだけなのではないか。というか、すべてが万事その調子なのでは?
7考える名無しさん:2008/10/19(日) 10:19:44 0
神を信じていようがいまいが、
すべてが論理・理性によって支配されている奴なんて、
いるわけねーだろ。アホか?
8考える名無しさん:2008/10/19(日) 11:29:15 0
>>7
それはそうだけど、人間には誰でも欲望があるよね。
その欲望を抑える手段としては、無信仰であれば、理性や論理が基盤で
最終防衛線みたいな感じになるでしょ。感情は欲望を抑制したり、助長したりするけど
当てにならないというか。

規範としては、理性や論理以外は結局機能しないと思うんだが。
9考える名無しさん:2008/10/19(日) 11:52:07 0
信仰を求める者は、欲望を抑えるために信仰を求めているのかも
知れないが、実は心の安らぎと言う大きな幸福を求める大欲から
出発しているのではないでしょうか。

無神論の人のみエゴイストとするのはどうでしょうか。
10考える名無しさん:2008/10/19(日) 12:29:18 0
規範の背後にあって力を与えているのは、
有神論者でも無神論者でも恐怖心だよ。
「何を恐れるか」だけの違い。
11考える名無しさん:2008/10/19(日) 13:02:08 0
心身の苦悩を解決する為に信仰を求める。医学の進歩により、病気
に対する宗教の役割は少なくなったが、病む心までは医学も完全とは
言えない。今も昔も、生老病死が人間の苦悩であることは変わりが無い
理性や論理だけでは、解決が出来にくいのが、この娑婆である。そして
我われの欲望が、苦悩を作りだしていることも確かである。
12考える名無しさん:2008/10/19(日) 14:04:31 0
規範としての宗教ーー理想を求める団体。こんな団体は少ないのでは
ないか。そう危惧します。全ての団体は誕生、成長、成熟、衰弱と
移り変わり、死とたどるものもあります。仏教の無常観です。社寺
を見ていますと、観光仏教、葬式仏教が多いように感じます。

新しい団体も見られますが、いかがわしいものも有るようです。
13考える名無しさん:2008/10/19(日) 14:12:45 0
>>9
エゴイストとして非難してるわけじゃないんだよ。
それに、信仰がすべて解決するなんてとうてい思ってないし。

人が幸福にいきたいって気持ちは誰もが一緒だと思うんだが、
最終的な規範として理性に頼って生きた場合に、安らぎが得られる状態にたどり着けるのかっていうのが
疑問。つまり、理性による計算は永遠に完全解を求めてさまよい続けるんじゃないか?

>>10
信仰を持つ人で恐怖感が強い人は神を恐れ、無神論者は死を恐れるのかな。
人としては死は結局避けられないので、神を恐れるより死を恐れるほうが辛いんじゃないか?
避けられないものを恐れるっていうのは。

14考える名無しさん:2008/10/19(日) 14:45:40 0
心の安らぎは利害損得の計算ばかりでは得られないかも知れません。

諦めの境地に立てれば、理性により無宗教で死ぬことも出来ましょうが。
癌病棟では鎮痛の麻薬は
必須ですが、牧師や僧侶を受け入れる人も多い様です。
15考える名無しさん:2008/10/19(日) 16:13:03 0

規範としての宗教は人目に立たないところで、ひっそりと活動しております。
16考える名無しさん:2008/10/20(月) 14:17:18 0
ニーチェなんかは規範として理性にのみ従うべきって考えだよね。
彼は結局壮大な間違いを世間に広めてしまったんだろうか?
17考える名無しさん:2008/10/20(月) 14:51:43 0
総ての苦悩は、かくありたいと言う欲望から生まれると思われます。
心の問題であれ、身体の問題であれ、現状と希望のギャップから生まれ
る矛盾からなると思われます。
心の苦悩とて、人事を尽くして天命を待つ、しかないのでしょうが、
この「待つ」が出来ないのが人間の弱さです。身体についても同じこと。
この弱さを宗教に頼るか、理性に頼るかが問題です。
ポイントを整理するとこんなことでよいのでしょうか。
18考える名無しさん:2008/10/20(月) 15:16:05 0
>>17
そんなところだと思います。

ところで、理性とか近代的合理性に対するアンチテーゼとして
ポストモダンというのがあったと思うんだけど、これって結局何の意味もなかったの?
19考える名無しさん:2008/10/20(月) 16:20:44 0
18
よく分からないのですが、実存主義から始まる流れは、多くの人々により
様々な立場から論じられていますが、宗教を離れた理性による「良識」の
復権の試みだったのかーー失敗ーーと感じていますが、ピント外れではと
思いますが。それぞれに何かを求めているとは思いますが。
20考える名無しさん:2008/10/20(月) 16:26:48 0
確かに、成功してるって感じはしないね。世の中からスルーされてるしw
結局、近代的合理性が世の中を支配してるよね。

ここには、ポストモダン派の人も多そうだけど反論はないんだろうか?
21考える名無しさん:2008/10/20(月) 16:35:13 0
完全に宗教に取って代わる何かを、理性が手に入れることが出来るか
どうか。「良識」とか言う者が、宗教の「愛」や「慈悲」と共存して
理性と一体化出来るかどうか、問題はこれからです。
22考える名無しさん:2008/10/20(月) 16:57:24 0
人間って単純に純粋なエゴイストになれなくって
なぜか優しさを持ってしまうから社会性が生まれこの結論は
崩れるんじゃないかな?人間に希望抱きすぎ?
23考える名無しさん:2008/10/20(月) 17:03:38 0
「良識」とは、理性から出てくるものなんだろうか。
他人迷惑をかけないとか、人の嫌がることをしないとか。
たぶん、こういう道徳は親などからの教えが大きい。つまり、文化的な道徳観。
これは、自分の理性で演繹的に導き出された知恵じゃなくて、小さい頃から強制された
因襲的なもの。

こういう他から強制された道徳は純粋だと思う。ところが、理性から演繹される知恵は
結局打算的で、自身の利益を最大限にするために導き出される解でしかないのでは?

>>22

優しさって、規範としてはどうなんだろ。優しさってある人に対してはそうなれても
別の人に対しては違ったり。優しさは感情からくるものだから、不安定で最終的には
理性にコントロールされてしまう存在でしょ? まあ人によるかもしれないけど、大勢としては。
24考える名無しさん:2008/10/20(月) 17:29:06 0
たしかにちょっと弱かったね
君の言うとおり論理・理性によって支配されているモノ
は自己の利益を最大にする計算機になる、というのは分かるが
自己の利益が周辺環境に依拠している限りは周辺環境に
「優しく」しているような振る舞いが顕在化する(しかも
それが凄く純粋な動機から)ので、なんとなくエゴイストの
「悪い」イメージと合致しないように僕には思えるんだ。
25考える名無しさん:2008/10/20(月) 17:31:07 0
ごめんなさい24=22です
26考える名無しさん:2008/10/20(月) 18:19:48 0
>>24
そう。つまり、偽善とも言うべきものでしょ。エゴイストとは言えないとしても。

それで、すべてがうまく収まるのか?
個人の生活だけなら、それでうまく収まり、円満に暮らしていけるように思える。
ところが、そういう人たちが社会を構成したとき、あるいは数世代を経るときにどうなるか。
さまざまな問題が生じるのでは? たとえば、子供を育てるって行為は、この理性の知恵では
処理できない。自己利益を計算するコンピュータが自身のタンパク質を半分引き継ぐ存在を生み出す
ことに何か意味を見いだすとは思えない。だから、感情でしかこの行為は後押しされない。

結局、自己利益を計算するコンピュータが処理できないのは、自分の死を想定したあらゆる行為なんだと思う。
でも、社会はその構成員が死に、新しい構成員が生まれ、代替わりすることを前提として成り立ってる。

でも、宗教的価値観では自分の死はすべての終わりじゃない。伝統的な道徳でも、自分の死よりも
優先すべき事項を示唆してたりする。それがなくなったときに、自己利益を計算するコンピュータ群は社会を維持
できるんだろうか?

これは、現代の女性重視の価値観も関係してると思う。
母親は、感情を重視する。そして、その感情を理性でコントロールすることで満足してしまう。
父親は、理性を重視する。そして、その理性をコントロールするものが必要であることもわかってる。
27考える名無しちん:2008/10/20(月) 18:54:02 0

なんだか君の言っているのは刹那的な自己利益を解として出すコンピューター
を言ってるように読めるんだが、それこそまさに本能で理性を元にしたでは無いんじゃないかなぁ?
僕は理性が将来的利益を想定する、人間的に言えば打算的、偽善的な解を出すものであることは認めるけど
その解を極めて無感情的に行うことが人間には「優しさ」と捕えられてしまうから、
人間の定義する「エゴイスト」という言葉と結びつかないんだ。
「彼」が打算的に将来子供が自分を養ってくれることを理性的に導き出しているとき
車に轢かれかけている子供をとっさに無意識に手を出して助けてしまう振る舞いは
「彼」が無感情であるがゆえに他者には善意ある行動に見えないだろうか?
もし「エゴイスト」であることすら自己利益を損なうことに気づいた「彼」
が無感情に計算しそういった行動で「エゴイスト」的行動を覆ったら
彼には親性も善悪感も持たずエゴイストでもない世渡り上手的な人になるんじゃない?
最近は人間もそうだけど
28考える名無しちん:2008/10/20(月) 18:58:30 0
ごめんなさい間違えました
こっちが本文です


>>26

なんだか君の言っているのは
刹那的な自己利益を解として出すコンピューターを言ってる
ように読めるんだが、それこそまさに本能で、理性を元にした行為では無いんじゃないかなぁ?
僕は理性が将来的利益を想定する、人間的に言えば打算的、偽善的な解を出すものであることは認めるけど
その解を無意識に行うことが人間には「優しさ」と捕えられてしまうから、
人間の定義する「エゴイスト」という言葉と結びつかないんだ。
「彼」が打算的に将来子供が自分を養ってくれることを理性的に導き出しているとき
車に轢かれかけている子供をとっさに無意識に手を出して助けてしまう振る舞いは
「彼」が無意識であるがゆえに他者にとっては善意ある行動に見えないだろうか?
もし「エゴイスト」であることすら自己利益を損なうことに気づいた「彼」
が無感情に計算しそういった行動で「エゴイスト」的行動を覆ったら
彼には親性も善悪感も持たずエゴイストでもない世渡り上手的な人になるんじゃない?
最近は人間もそうだけど
29考える名無しさん:2008/10/20(月) 19:10:45 0
>>28
子供に老後を見てもらうっていうのは、昔の道徳なら当然なんだけど、今の社会ではどうだろう?
現代に生きる人の脳内コンピュータはそれを否としてるんじゃないかなあ?
それは、自分の行動に対する写像に過ぎないんだけどね。
そういう変化も人々が理性主導で動いてる結果だと思う。

理性による計算が結果的に表面上エゴイストに見えなくなるっていうのはあると思うけど
本質ではないと思う。
30考える名無しちん:2008/10/20(月) 19:33:43 0
>>29
なんだか上手く言えないけど
人間の面倒な所って脳内麻薬が出るとこなんだよなあ
君は脳内麻薬出すことは利だと思う?
思うなら君の言っていることは凄くわかる。
ドラッグガンガン打って他人の肉を食いそうで
非常に典型的エゴイスト像だ
でも僕は脳内麻薬の出ない計算機的な脳を考えちゃうから
論理・理性に支配された純粋な利追及の本質は
エゴイストではないと思えてしまうんだ。

31考える名無しさん:2008/10/21(火) 08:40:44 0
>>30
なるほどね。あなたは、邪心とか欲望とかはあまりないんだろうね。

本当の計算機はデータと命令を入力して計算結果が得られるわけだけど
脳内の計算機の場合はデータは外部環境から入力されるとしても命令は自前だよね。
その命令を方向付けるものが、欲望だったり感情だったり規範だったりすると思うんだけど。
欲望が少なく、良い感情だけを持つ人間なら規範はいらないって感じなのかな。

でも、感情も脳内麻薬を分泌するよね。脳内麻薬なしで機能する脳内計算機は
どのようにして「命令」を調達してるの?
32考える名無しさん:2008/10/21(火) 09:10:05 0
>>4
多神教なら善とは限らないからここでは多神教の宗教を信仰する人は神を信仰する人ではないことになるんですね。
33考える名無しさん:2008/10/21(火) 10:22:14 0
規範としての宗教が期待できず、理性も欲望をコントロール出来ない
となると、私どもはどうすればよいか。
宗教が目的達成のため、祈りと修行そして躾けをした様に、私どもも
教育の場及び家庭において、教育、指導、躾け、訓練などを心身に叩き
込む必要があるがあり、理性的ではあるが、「良識」を心身に植えつける
しか無いのかも知れない。

しかし、教育の現場も家庭もそれを実現出来る現状ではない。だが、政治
のレベルでの検討は必要に思う。
34考える名無しさん:2008/10/21(火) 10:38:20 O
理性的規範を維持するのは難しい。
なぜなら絶対的価値が右往左往しだすからだ。
その日その日の絶対的価値をその日の目標または意識下の欲望などに依存する。と思われる。
宗教においてはその前に神が存在する。規範の前提に神がありきと宣言される。
しかし理性のもっともらしい神に当たる存在はそこで属する社会、または個人そのものだったりする。
後者の個人そのものが絶対的価値に当たる場合は理性的規範はあまり必要ないように思える。
規範が振る舞いの規律であれば他者がなければ、振る舞いは存しない。
規範ではなく規律だけでいいと思う。
次に社会を絶対的価値観とした場合に利己的な価値と利他的な価値がある。
どちらか一方に極端に振れてしまうと善くは思われないと思う。
互いに相反する存在下にあって、
よどみなく決断するために理性的規範、または宗教的規範を持とうとする。
してみると規範はあいまいであって概ね中庸的な選択が心理的に善いとされ得やすくあるのではないか?
以上の仮説で持って自分の規範も見直してみるのはどうかなと思う。
35考える名無しさん:2008/10/21(火) 11:21:45 0
34
若者のマナーだけでも、躾けて欲しいと思います。
難しい問題ですね。
36啓蒙社:2008/10/21(火) 11:33:27 0
貧・病老死・・しない人には宗教って無用の存在・・かえって邪魔な存在です。
一度でいいから・・瀕死の××を味わってみるが良い、すると必ず死神、厄病が・・
お待ち申し上げて居ります、コトヨ・・http://www.keimousha.com へ
37考える名無しさん:2008/10/21(火) 14:40:48 0
規範としての宗教も理性も、現在の日本人に無いとすると、この
北東アジアの経済大国も、少子高齢化に一層向かう今日、問題は
深刻である。年金、医療、介護とわが国の福祉政策は既に行きずまり
つつあります。

哲学的に学問的に解決策が無いとしても、国家として、ひいては国民
として、放置してよい訳の問題では無い。ベストは望めないにせよ
セカンド.オピニオンは求めねばならない。どうすべきか。
38考える名無しさん:2008/10/21(火) 15:02:11 0
>>37
規範としての理性って、要するに人それぞれってことだよ。日本全体としてみても
しょうがない。理性が強い人もいれば弱い人もいる。これは他国でも同じ。

理性を規範として場合の問題点について、考えたいんだが、
理性の透明性について肯定してた人は、理性の原動力として「規律」を考えてるのかな?

規律は、決まったパターンの行動で適用されると思うんだけど、
随意の選択が求められる状況では、やはり規範が必要になるんじゃない?
39考える名無しさん:2008/10/21(火) 15:49:51 0
38
人それぞれに規範としての宗教が望めない。理性は自己の利益誘導
に成ってしまう。ベストは望めない。
個々の解決の無いところには、全体の解決も無いかも知れないが、それでも
パーセントの問題であるが、セカンドを考えたい。
個人のレベル、国家のレベル、厳密に分けて考えるべきでした。

理性から規律を考えてはいませんが、「良識」を念頭にしています。
40考える名無しさん:2008/10/21(火) 15:55:14 0

理性から「良識」を考えるのは甘すぎ。
41考える名無しさん:2008/10/21(火) 17:40:20 0
結局、随意に選択できる局面での判断が問題になると思う。

その判断を左右するのは何か? 因襲であったり、
経済的利益であったり、個人的嗜好であったり、宗教的価値観
だったりする。

今の社会情勢だと、たぶん因襲や宗教的価値観は徐々に軽視されていく。
経済的利益は理性と欲望、個人的嗜好は感情が関連する。
でも優先度はおそらく経済的利益>個人的嗜好だと思う。

まあ、結論を言えば、人が理性にのみ従い、他に従うべきものがないとき
経済的利益が最優先されるってこと。それが問題にしたいことなんだけどね。
42考える名無しちん:2008/10/21(火) 21:12:23 0
>>31
なんだか僕は利というものがうまく分かっていない気がしてきたなあ
僕は勝手に利とは自己の維持と自己の肥大化が目的だと思ってしまっていたから
最終的に利の追求者は大きくなって重くなってブラックホールになるんじゃないかなあ?

物理的にではなく情報的に自己維持と自己肥大を追及するにしても
やはり情報は物理空間に依存するものだから同様に…ってなんとなく思ってたんだ
だから利の追求の本質は究極的には単なる物理現象でありエゴイズムではないという考えなんだ
こういってしまうと僕の発言には一貫性がなくなってしまう不安があるけど根源的な僕の疑問点はこれなんだ

でも意見を聞いていたら利の追求っていう人間的な概念である論理・理性に支配された瞬間それはきわめて人間的
な評価によってエゴイストと定義される気がしてきた。

そうすると1に対しての僕の反論は無神論者たちも論理・理性という神にすべてを委ねているのだから
無神論者たちは無神論者ではなく、真の無神論者とは命令規範を持たないので、人間的な利己追求はできず
(というかそれはもはや判断基準を持たない物理現象に過ぎないので)エゴイストにはなれない、エゴイストではない。
論理・理性という神の信仰者は非常に人間的なのでエゴイストと判断されそうだなあってことかな

つまり1の言ってることは第三段落は正しそうだけどそれを宗教を信じる信じないに結びつけた第一、第二段落は間違っているっていう批判かな

43考える名無しさん:2008/10/21(火) 21:59:01 0
>>42
反論の趣旨はわかった。それに対する反論もあるんだけど、ちょっと質問したいのはこの部分。

>真の無神論者とは命令規範を持たないので、

あなたは、たぶん真の無神論者なんだよね。どういう風に考えて、どういう風に生きてるの?
何が楽しみで、何を目的として? それとも脳が「透明性」を持って勝手に動いてるわけ?
欲望とかに引きずられずに? でもどっちの方向に向かってるわけ?
44考える名無しちん:2008/10/21(火) 22:30:58 0
その意見はとても嬉しいよ。
僕はなるべくそういう立場を取ることに意識して書いていたつもりだったから。
でも君の解釈は残念ながら間違っているんだ

僕は>>42において自分では凄く簡潔に、身も蓋もなく言えば
「生物は総じて神の信仰者である」と言ってるつもりなんだ
だから僕は残念ながら僕の言う真の無神論者にはなれないんだ、
血が通ってしまっているから

でも真の無神論者の立場を想像したとき、彼らはきっとこの命題に反論すると思ったんだ
彼らにはそもそも神という概念が欠落してるから

もっと言えば僕には人間が神様が好き=信仰者、神様が嫌い=無神論者
って定義づけているようにすら見えるんだ。
でも好きの反対は無関心なんだよ、僕が「真の」とわざわざ言ったのはこういうことなんだ。


45考える名無しさん:2008/10/22(水) 06:11:58 0
とりあえず、反論だけど

>論理・理性という神

この部分ね。何らかの価値を信奉していれば有神論ってことはないよ。

神の定義として「神とは、人間の力が絶対的に及ばない人知を超えた善なる存在。」
としたけど(まあ「善なる」には異議が入ったけど)、この「人間の力が及ばない」って部分が
重要なんだよ。つまり「超越性」ね。論理・理性とかイデオロギーとかは、個人個人が
その有益性とか存在意義を自身でゼロからトレースできるよね。つまり、それを信奉する
うえで「強制」されてる部分はまったくない。それを信奉する理由はすべて自発的で本人は
自身の知性でそれを納得してる。

ところが神を信仰する場合は、自身の知性を超えて、無条件・強制的に神を信じるわけ。
この違いがとんでもなく大きい。そして、そのことが規範としての宗教と理性の働きが大きく異なる
理由そのものなんだよ。
46考える名無しさん:2008/10/22(水) 08:05:36 0
宗教は信ずるところから始まる。神を疑うことはしない。これはすごい
力である。理性は疑うことから始まる。絶えず動揺することは避けられない。
規範としての理性などと言うものは、成り立たない。しかし、教育の現場では
道徳を教えねばならない。べストではないが、躾けが必要なのだ。
47飛べないカラス:2008/10/22(水) 10:27:26 0
宗教を盲目的に信仰している人は結局、他人の言うことを素直というかそのまま受け入れている。
神などというよりまず他人に対する自分の行動規範が違うのだろう。
オレみたいな無信仰者にエゴイストのレッテルを貼ったところで、こちらとしては勧誘の一環としか
思わない。
こちらは盲目的信仰者のことを他人に操られやすい人と思っているよ。
48考える名無しさん:2008/10/22(水) 11:12:53 0
>>47
まあ、そういう人のための問題提起なんだけどね。
実際、理性と論理を自身のコアとして世の中を生き抜いてる人はそれほど多くない。
ほとんどの人は、因襲やら周りの人々やらそういう自分の理性・論理以外のものに従うことが多い。

でも現代社会では、理性と論理を自身のコアとする人が世の中のリーダーとしての地位を占めることが多くなってきてる。
これはそういう人たちが現代日本のシステムにマッチしているから。
昔であれば、日本の場合は宗教はともかく、因襲やら伝統をかなり重視する人たちがリーダーであったわけだけど。

そういう現代の理性と論理をコアとする人たちが突き当たるであろう矛盾、破綻、
また、そういう人たちの能力が高くない場合にはそのリスクと限界点の低さについて考えたいわけよ。
49考える名無しさん:2008/10/22(水) 11:18:38 0
47
熱心な信者の勧誘は、迷惑ですね。宗教は幸福を売る商売の様なところがあります。
また信者には無料だとご利益が無い様に感ずるのでしょうか。見ていて気の毒に感ずる
こともあります。入信したくなる様な宗教もありませんネ。
50考える名無しさん:2008/10/22(水) 13:39:08 0
勧誘ならこんな板にスレ立てないよw
自分でも考えをもっとまとめたいので、反論も歓迎してる
51考える名無しさん:2008/10/22(水) 14:45:58 0
理性的であろうと無かろうと、変化の激しいこの経済社会では、勝ち組で
であろうと、負け組みであろうと、将来の生活の保障は無い。天国から地獄
まである現実では、理性をどの程度維持出来るか、問題である。貧困だけでも
理性を狂わすに十分。実存の自我がどうあるべきか、一般的な回答は勿論
無い。貧困は直接生命にも関係する。現実の存在を兎に角見つめねばならない。
汝自身を知れーー古代ギリシャの哲人の言葉が思い浮ぶ。
52考える名無しさん:2008/10/22(水) 15:23:20 0
そりゃ、確かに現代社会は理性・論理を自身の中心において生きたほうが生き残りやすいよ。
ただし、頭脳に自信がある人はね。また、そうやって生き残ったとしても、実存の問題に突き当たるわけで。

いずれ人間は死ぬ。それを想定した行動が理性・論理を自身の中心に置いてると出来ない。
出来ると考える人は、おそらく文化的、因習的、伝統的な道徳を核に持ってて、その周りを理性・論理で
固めてる人だと思う。

理性・論理を自身の中心に置く人は、たとえばホリエモンのような行動パターンになると思う。
合理性がすべてに優先するタイプね。
53考える名無しさん:2008/10/23(木) 11:14:10 0
合理主義者のわなっていうのは、合理主義を追求していくと、何にも残らないってこと。
たとえば、変な例だけど、恋人同士っていうのは、ちゃんとしたデートをして、キスしたり、Hしたりする。
その手順は、結構めんどくさかったりする。さらに性欲が薄くなるとHすらめんどうになる。

合理主義者なら、そんな面倒なことはすべて省きたいって思うかもしれない。
でも、恋人同士って関係を維持するには、そうした形式、手続きが必要不可欠。
もちろん、恋人同士なんて関係はいつ壊れても良いって合理主義者は考えることもあるだろう。
でも、それが夫婦だったら? 親子だったら? さらに社会のもろもろの機構でさえ、そうした形式で成り立ってる。

結局合理主義者は、こうした形式で成り立ってるあらゆるものを破壊することになる。
ホリエモンもそうした行動をしていたと思う。
54考える名無しさん:2008/10/24(金) 10:57:44 0
昔の財界リーダーたちは、伝統的な道徳を自身の核としており、その周囲で
合理的思考を行っていた。だから、次のような発言ができた。
ホリエモンのような合理主義者には、次のような発言はただの偽善にしか聞こえないだろう。
合理主義を自身の核とする人は、すべてを破壊し、最後に自身をも破壊することになる。
それは、最終的にはすべての事象が合理化すべき「無駄なこと」だから。

岩崎弥太郎(三菱財閥創始)
「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず後に大きな利益をもたらすからである」

本田宗一郎(本田技研工業創業者)
「社長なんて偉くもなんともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ」

土光敏夫(旧経済団体連合会第4代会長)
「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」

ヘンリー・フォード (フォード・モーター創業者)
「奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える」
「ほかの要因はさておき、我々の売上は、ある程度賃金に依存しているのだ。より高い賃金を出せば、
その金はどこかで使われ、ほかの分野の商店主や卸売り業者や製造業者、それに労働者の繁栄につながり、
それがまた我々の売上に反映される。全国規模の高賃金は全国規模の繁栄をもたらす」

松下幸之助(松下電器産業創業者)
「産業人の使命は、水道の水のごとく物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価値で提供することにある。
それによって人生に幸福をもたらし、この世に楽土を建設する」
「Peace and Happiness through Prosperity 繁栄によって平和と幸福を」

渋沢栄一(実業家)
「その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない」
55啓蒙社:2008/10/24(金) 11:13:06 0
宗教理念なんて言うものは、理性だ哲学だ、とか、そんなに難しい問題では無い、
要は・・倫理道徳、家庭内の躾に帰結する、ノダ・・これが出来ない、難しいから・・
誠に困った世の中になった、原初的、考えを復活しょう。http://www.keimousha.com へ
56考える名無しさん:2008/10/24(金) 11:33:04 0
55
其のとうりですネ。あまりにも便利なサービスに満ちた社会で、お金
さえあれば、一応の解決がつくことから、拝金主義に大人も子供も
陥っているのが、寂しいです。
57考える名無しちん:2008/10/24(金) 15:39:13 0
>>45
なるほど。根本的なとこが間違っていましたね、すみません
ただ君は神を疑わぬものが宗教家で、疑う者が無神論者だと
定義づけているように見える。これはよく分かる。
でもね、1は
>神を信じない人は、自分のすべてが論理・理性によって支配されている。
って言ってるんだよ、この無神論者だらけの日本で
マスコミでバナナがダイエットに効くって報道したら
バナナが翌日から店頭から無くなるほど売れるこの日本で
更に
>結局、すべてが論理・理性に支配された人は、エゴイストにしかなれないのではないか?
って言ってるよね?
もし彼の言う通りなら日本は大半の人が
無神論者であり、=自分のすべてが論理・理性によって支配されている。 =エゴイストである。
これは良いよね?
で、日本は一応今のところとりあえず回っているわけ、
なら1の言っていることはただの事実であって、
全く問題提示となっておらず無意味なわけ

でも僕にはこの発言は無神論者のみの社会は機能しないと言っているように読める
また僕には僕のこれまでの極小の経験からでも無神論者たちの
すべてが論理・理性に支配されているとは到底思えない。
ゆえに僕はすべてが論理・理性に支配されている人≠無神論者と考える他無く、
(より厳密に言えばすべてが論理・理性に支配されている人⊂無神論者)
無神論者≠エゴイストであり1の発言は間違っていると考える。
これはおかしいか?って話なの

58考える名無しさん:2008/10/24(金) 16:32:12 0
>>57
とりあえず、日本の場合は伝統的道徳観(たぶん日本独自の神道的信仰心に関係してると思うけど)
を自身の核とする人が主流で
理性を自身の核とする人はそれほど多くなかった。

ホリエモンのような心の奥底までの合理主義者がリーダー的位置でみられるようになったのは
最近でしょ? 今現在でも、そういう理性主導の合理主義者は少数派だとは思う。
59考える名無しさん:2008/10/24(金) 16:36:43 0
論理、理性からエゴイストの顔を隠した方が、より利己的に生きれる
という結論を導き出すエゴイスト。こんな場合はありえませんか。
完全なる偽善者は考えられませんか。数学的にどうですか。
60考える名無しちん:2008/10/24(金) 17:00:09 0
>>58
じゃあ君はホリエモンのような無神論者が大量発生するのはマズいから
皆で神を信じて宗教に殉じましょうって言いたいの?
この問題定義は何が言いたいわけ?
無神論者はエゴイストで社会に悪いって言ってるんだよね?
そんなの無責任すぎでしょ
あとそもそも>>45
>何らかの価値を信奉していれば有神論ってことはないよ。
>>58
>日本の場合は伝統的道徳観(たぶん日本独自の神道的信仰心に関係してると思うけど)
を自身の核とする人が主流で
理性を自身の核とする人はそれほど多くなかった。

が矛盾していて無神論者の定義ができてない。

61考える名無しさん:2008/10/24(金) 17:03:53 0
なんていうか、利己的に生きようとして生きてる人ってそれほど多くないと
思うんだよ。ホリエモンだって、自身で利己的に生きようとは思ってないでしょ。
日本の古い体制を新しい体制にみたいな使命感すら持ってたかもしれない。

ただ、理性・合理性を自身の核としたときに、最終的に自身のことのみが関心事に
なってしまうってこと。それは、論理的帰結としてそうなってしまう。
なぜなら、理性・合理性のみに従う脳は、脳内からしか「命令」を調達できないから。

それに対して、伝統的な道徳や宗教的道徳に従う場合は、外部から「命令」を調達することになるわけ。
62考える名無しちん:2008/10/24(金) 17:33:21 0
じゃあなんでホリエモンが出てきたの?
ホリエモンが1の言う無神論者=自分のすべてが論理・理性によって支配されている。 =エゴイストである。
典型だから出てきたんじゃないの?それを違うって言うんなら
理性・合理性を自身の核とし、脳内からしか「命令」を調達できないやつ
はどこにいるのよ?
いないじゃん。するとこの世には無神論者はいないっていう僕の説を君は支持することになるんだよ?
もしいるとすれば無神論者という語の指し示す範囲はそいつらだけであとは
有神論者になるよね?すると>>45
>何らかの価値を信奉していれば有神論ってことはないよ。
ってのは明らかにおかしいよね?何らかの価値を信奉していて神を信じない人はザラにいるから

君の発言はホリエモンを無神論者代表のように出しながら
彼を無神論者でも有神論者でもない立場に置いている。
すると彼は何者なんだ?教えてくれ

63考える名無しさん:2008/10/24(金) 17:46:13 0
>>62
ホリエモンは無神論者でしょ。完全ではないかもしれないけどね。
日本人の場合は、西欧人みたいなはっきりした信仰じゃなくて、
神道的な「穢れを恐れる」みたいな信仰から道徳が生じてると思う。
だから完全な無神論者は珍しいかもしれない。
ホリエモンを挙げたのは、有名人の中では理性を核とする無神論者に一番近い人たちの一人だと思うから。


>何らかの価値を信奉していて神を信じない人はザラにいるから

>>45をもう一度見てくれ
64考える名無しちん:2008/10/24(金) 18:11:55 0
>>45を見直しました
なるほど、君は多分有神論者なんだね。
だから食い違っていたのか。僕はそもそも自分でも気付かないうちに
完全に神とは歴史上で生み出された人工物(道具)であるって前提で
意見を出していたから君の言ってることが全く理解できなかった。
そこはものすごい断絶だと思う。

でも完全ではないかもしれない無神論者だとかってのは完全に逃げだとしか
思えない。君は1の意見に賛同し僕に反する立場なんだから
神を信じない人=すべてが論理・理性に支配された人=エゴイスト
の定義づけを曖昧にすべきではない。
君の「エゴイスト=理性を核とする無神論者⊂無神論者」という論は分かるが
僕の反論は「エゴイスト=理性を核とする無神論者=無神論者」という安易な決めつけに
向かっているのだから。

65考える名無しさん:2008/10/24(金) 18:24:44 0
>>64
なるほど。確かにね。1は少し誤解されやすい。
本当は、「外側からの規範」と「内側からの規範」を対立させるべきだったかもね。

まあ、「内側からの規範」といっても>>2で書いたように事実上は理性による規範になると思うけど。
それから、「外側からの規範」は、実質的には非論理的信仰(それが宗教と呼べるかどうかはともかく)
から来てる。
66考える名無しちん:2008/10/24(金) 19:00:31 0
>>65
なるほどそういった問題定義ならまだわかる。
僕がゆとりだからかもしれないが1は分かりづらいと思う。
実際スレ伸びてないのもそのせいかもね
で、僕としては君の言う「内側からの規範」はかなりキツいと思うな
なかなか「内側からの規範」で動く人っていないから想像しづらいと思う
金融危機を起こした奴らがマスになったそれっぽいんだけど、今はそれをどう解決するかの方にみんなベクトルが
向かっていて、おそらくこういった議論はそれがある程度収束してから分析中心に活発になるんじゃないかな?
僕の意見としては確かに今「内側からの規範」はポシャってるけど、漠然と「外側からの規範」復権はやっぱ難しいんじゃないかなってことぐらいかな
そこで思考停止はまずいけど多分現状みんなドン詰まりなんだと思う、そういう意味でこの議論はきつそうだなあってことかな
結局僕の君にしてきた反論は漠然とした『「外側からの規範」復権は難しそうだという思い込み』に過ぎないんだが、
君から明確な打開策(?)も出てないわけで、「内側からの規範」を叩いても不毛だよってことを言いたかったんだ。



67考える名無しさん:2008/10/24(金) 19:10:17 0
>>66
外側からの規範を復権すると確かにいろいろ問題が起きるよ。
でも、それが自然の摂理に即してるんだよ。

そして、内側からの規範のみに従うことは(社会はそちらの方向に向かってるよね)
自然の摂理に則さない。なぜなら、人には寿命があり、世代交代しないといけないから。
これがある限り、内側からの規範のみに従うことは破滅を意味する。
68考える名無しちん:2008/10/24(金) 19:39:30 0
>>67
それはすごくよく分かるし個人的には論としてかなり肯定したいが…
やっぱり色んな人がいたほうが良いと思うんだよね単純に。
あと肯定したら2ch自体いらなくならないかw?
神を信じない奴を排斥した先にある理想の世界なんて虚構だと思うよ
でも多様で平和って死ぬほどムズかしいからなあ…
僕が理想追いすぎなのか?




69考える名無しさん:2008/10/25(土) 10:15:27 0
排斥する必要はないと思うけど。主流派にならなければ良いだけで。
主流派がしっかりしてれば、そこからはみ出して何かする人がいても良い。

とりあえず、もう少し説明すると、人に寿命があり、世代交代があるとなぜ内側からの
規範にのみ従うとだめなのか?
まず、外側からの規範がなければ、世代交代で規範が途切れてしまう。
そして、内側からの規範の場合、結局自分個人の利益を基準とした他者との利害調整
に終始する。この場合、同時代的な横方向の社会全体の調整はうまくいくけど
縦方向の時間差がある世代間の調整がうまくいかない。

それから、外側からの規範がなぜ非論理的信仰で伝えられるのか?
論理的に伝えられるとすれば、それは各人の脳内でその根拠、理由がゼロから
トレースされ、結局のところそれを元に取捨選択されることになる。つまり、
論理的に伝えられる規範は結局内側からの規範に一体的に取り込まれることになる。
論理的なイデオロギーがこうした規範に相当すると思う。
70考える名無しちん:2008/10/25(土) 15:41:30 0
いや今そうなってるけどダメなわけじゃん
んで内側からの規範にのみ従う現代の流れはダメっつったて
どうすんのよ?そんな全世界の人間を覆いつくせる外側からの規範
なんて超限られたものだよ。あと歴史を見れば
主流派がしっかりしてればしてるほど少数派は排斥されるのは明らかじゃん
はみ出して何かすることを許される人ってはみ出して何かをしたいひとより
絶対多くなるよ。だって自由なんだから。そのとき社会に溜まる不満が今
顕在化し問題となってるのに今更二元論でどうにかなると思ってる君の姿勢は
楽観的すぎる。

71考える名無しさん:2008/10/25(土) 17:13:21 0
まあ、社会全体の流れはどうしようもない部分がある。
ただ、内的規範のみで生きる人はまともな人生は送れないリスクが
非常に高いってこと。社会全体がどうあろうと関係なくね。
その部分を考えていくのは有意義じゃないかな?
72考える名無しちん:2008/10/25(土) 22:52:10 0
でも君のやってることってリスクの啓蒙だよね?
君は社会全体が外側からの規範を得る方向に行ったらいいと思ったから
神を信じない人=すべてが論理・理性に支配された人=エゴイストにしかなれない
なんて煽情的な問題定義をしたんじゃないの?
社会を無視して草の根で有神論者を増やしたいなら友達に布教活動したほう
が有意義じゃない?そんでその友達たちで考えていけば?
君にとってはその方が有意義な議論ができるんじゃない?
73考える名無しさん:2008/10/26(日) 06:57:13 0
外側からの規範が非論理的であり
内側からの規範が論理的で自己の利益に基づく例として
昔のスチュワーデスの人気が似たものがあると思う。

スチュワーデスという職業は昔は人気でドラマにもなったぐらいだけど
最近ではあまり人気はない。
合理的に考えれば、スチュワーデスという職業が人気になる理由はないんだけども
やりがいとか美しさ、かっこよさ(給料の良さもあったと思うが)といった
非論理的な理由から昔はスチュワーデスが人気だった。

その後、合理的思考が普及し、それにともなって自己の利益をより
論理的に計算することが普通になると、スチュワーデスという職業の
自己の利益に対する貢献度が大いに疑問視されるようになり、
人気は急速に落ちていった。

これは規範とは少し異なるかもしれないけど、合理的思考が自己の利益
の計算に直結する例の一つだと思う。スチュワーデスという職業自体の
人気が落ちても、社会に損失はないんだけど、これと同じような現象で
人々の論理的思考化とエゴイズム化があらゆる分野で進行している。
74考える名無しさん:2008/10/26(日) 10:36:20 0
次に、内的な規範のみで生きる場合のリスクについて考えてみたいと思う。

内的な規範のみで生きる場合、脳内の「命令」を自己の内部のみで調達することになるため、
本当の意味で、自身のことしか興味がなくなる。他者に対する興味は自己の利益を調整するための
交渉相手としてのみ存在することになる。これは究極のエゴイスト状態といえる。

この場合、実質的には、他者の上位の立場に立つか、あるいはある程度の独立した立場に
立たないと生きていけない。こうした立場に立てるのは、自身の能力が他者を圧倒している
場合か、家柄が恵まれている場合に限られる。
凡人が内的な規範のみで生きるのは、そのエゴイスト状態が結局他者に見抜かれ、
社会への適合に失敗し、ニート等に引きこもることを余儀なくされるリスクがとても高い。

現状ニート的な状態にある人は、この「内的な規範のみで生きる」タイプがかなり多いのではないだろうか?
75考える名無しさん:2008/10/27(月) 08:31:43 0
>>69
論理的なイデオロギーって、左翼思想のこと?
76考える名無しさん:2008/10/27(月) 10:54:35 0
>>75
まあ、そうだよ。
結局、左翼思想は人間性を根底から破壊してしまうってこと。
左翼思想は、同世代なら利害の調整ができるけど、時間差のある世代間には対応できない。
左翼思想にかぶれた人が次世代の教育をうまくできないのもこれで説明できる。
77啓蒙社:2008/10/27(月) 11:19:00 0
啓蒙思想と言えば、カントの啓蒙が有名ですが、その動機は当時、神の概念というか、宗教が社会の人心を乱して居た?・・
現代、○○学会、××宗教の教えが人心を乱して居るに似て・・こうした時代の反発として、啓蒙思想が生じたのです。
啓蒙とは一般人による一般人の為の、一般の書ですから・・非専門書、雑学の書と心得て下さい・・http://www.keimousha.com
78心の仕組みドットコム:2008/10/27(月) 18:18:16 0

73>これは規範とは少し異なるかもしれないけど、合理的思考が自己の利益の計算に直結する例の一つだと思う。
それは合理的思考ではなく、合利的思考から産みだされるエゴイズムですよ。
合理的思考から産みだされる意識はヒューマニズムで、理性を持ち生きる人をヒューマニスト(人道主義者)と言い心の豊かな者達です。
79考える名無しさん:2008/10/27(月) 18:53:22 0
>>78
心底まで合理的思考をする人のは末路は、他人より上位にたって自己都合での合理的思考を
力で完遂させるか、他者との接触をなるべく避けて、社会から引きこもりつつ自己都合での合理的思考
を完遂させるかのどちらか。

その心豊かな人たちは社会から引きこもる仙人みたいな生き方を選ぶ人たちでしょ。
80考える名無しさん:2008/10/27(月) 19:35:28 0
心の仕組みドットコムて自身がエゴイズムだって周りから評価されて
いることに気がつかないか、気がついても周りと協調する駆け引きすら
できない心の障害者ってこと?
81考える名無しさん:2008/10/28(火) 06:45:25 0
>>79
普通は合理主義者は、他者と妥協・調整して自身の利益を確保するんだけど
純粋で硬直化してるとそうなるかもね。

合理主義といっても、何を基準に合理的になるかっていうのもある。普通の合理主義者
は自身の利益に対して合理的行動をとるわけだけど、人類の発展とかそういう抽象的な価値
を基準にする人がいるとすれば、ドットコム氏の言うような人たちも考えられるけど実際には
ほとんどいない。

合理主義者はなぜ普遍的価値ではなく自身の利益を基準にするのか。
それは、そのほうが自身にとって合理的だから。でもこの部分は、もう少し掘り下げる必要があるかもしれない。
82考える名無しさん:2008/10/28(火) 07:14:05 0
まず、内的な規範にのみ従う合理主義者は、内的な命令にのみ従う。
内的な命令は、内側からのみ調達されるわけだけど、その調達先となるのは、感情と欲望しかない。

そして、感情も欲望も結局自身の利益に直結してる。そのために、内的な規範にのみ従う人は
結局自身の利益を基準に置く以外に、命令の調達元と調和する方法がない。

つまり、欲望と感情からもたらされる純粋で直接的な命令を、計算により
自身の全体的な利益を損なわないように、他者や社会全体と調和する行動に昇華する。
これは実際には
「規範」とすら呼べない単なる「規制・制御」なのかもしれない。でも、「規範」に相当する働きであるとは
言えると思う。

ただ、能力が低い人がこれをまねしようとした場合は、結局計算による社会との調和が
うまくいかず、社会不適合になる可能性が高いんだと思う。
83考える名無しさん:2008/10/28(火) 10:09:27 0
次に、(宗教や伝統などの)外的な規範に従う場合だけど、
まず、こうした規範は通常、十数世代にわたり積み重ねられてきた経験的な
知恵の蓄積であり、ほとんどの場合にこの規範に従うことで、個人、そして社会全体が
うまく運営される。そこには、自身の利益と他者の利益の難しい調整の計算は必要ない。

このために、能力が平凡かまたはそれ以下の人であっても、こうした規範に従うことで、
社会に適合することができる。

つまり、外的な規範に従う場合、能力が凡庸であっても、内的な規範のみに従う場合のようなリスク
は生じない。

さらに、社会全体の世代間の調整という、個人の合理的計算のみでは対応不可能な問題にも
外的な規範は対処できる。むしろ、そうした問題にこそ外的な規範は強みを持つ。
84考える名無しさん:2008/10/28(火) 15:53:53 0
さらに、左翼思想などの論理的イデオロギー規範が外的な規範として機能しない
理由を考えてみようと思う。

左翼思想などの論理的イデオロギーの理想を挙げる人が、私生活ではエゴイストである
のはよく見られる例である。こうした理想は、すべてその根拠が論理的に説明されており
それを自身の理想として選択するとき、その理由について論理的に100%納得することになる。

その論理的な納得に鍵がある。このとき、自身の利益にその理想が矛盾しないことが
論理的計算により暗黙に確認されている。

このように、論理的に伝えられる左翼等のイデオロギーは、結局各人の利益に合致する場合にのみ
その人に取り込まれ、いったん取り込まれた後は、ほぼ内的な規範としてのみ機能することになる。
つまり、各人の論理的計算のコンテキストにおいて、適宜に引用、使用されるので、
外的(つまり強制的)な規範としてはほぼ機能しないことになる。

これが高い理想を挙げる人がその足下でエゴイスト的になる理由だと思う。


85心の仕組みドットコム:2008/10/28(火) 16:40:08 0

81>普通の合理主義者は自身の利益に対して合理的行動をとるわけだけど、
その場合には合利主義者と呼びます。
本当に理を悟りし者ならば、非合理も理で割り切ることができますので合理を唱えても合理主義に陥ることは有りません。
理性・合理・論理・理解・理想、これら全ての理は正しい心と言う同一の意味が有るのです。
正しい心の性質が理性で、正しい心に合う思いが合理で正しい心が産みだす言葉の法則が論理で、正しい心で解き明かすことが理解です。
そして正しい心が想像することを理想と言うのです。


86考える名無しさん:2008/10/28(火) 16:49:57 0
>>85
あなたは、人のために今すぐ死ねる? それなら、あなたの言うことをそのまま信じるよ。
もし、死ねないなら、自分の利益と他人の利益をどうやって調整するの?
それを教えてくれ。

87考える名無しさん:2008/10/29(水) 14:53:04 0

86>あなたは、人のために今すぐ死ねる? それなら、あなたの言うことをそのまま信じるよ。
>もし、死ねないなら、自分の利益と他人の利益をどうやって調整するの?
>それを教えてくれ。

人の脳は如何に命を大切に思うのか、と言うことで発育の度合が決められます。
つまり、命を粗末に扱えば扱うほど無知の度合も高いと言うわけです。
君の命は、この地球に生物が誕生した時から永遠と受け継がれ今、始めて数十年と言う僅かな時を理性を備えた人間として生きるチャンスに恵まれたのです。
君に意識は無くても、数十億年も待ち続けた君のこの数十年と言う人生が終われば二度と再び君は生物としてこの宇宙に現れることは有りません。
そして君の命に限らず、全ての命は君が得た命と同等の経緯を経て受けたものなのです。
ですから軽々しく命を扱う言動を口にしては成らないのですよ。
全ての命を大切に想う心が熟成すると、人は人為の全てを正しく推し量る物事の理を悟ると言うのです。
広辞苑に記されている【知恵・智恵=物事の理を悟り、適切に処理する能力】とは、この事を指すのです。

88考える名無しさん:2008/10/29(水) 15:28:40 0
>>87
命が何より大切なら、健康に気をつけて、危ないことはなるべく避けて
君子危うきに近寄らずだね。長生きしないと。

女性なら子供を生むことも危ないかもね。自分が死ぬ危険性が結構ある。
男性だって子供を作ることで経済的に追い詰められて死ななきゃならない場合もあるかもね。
一人のほうがストレスも少ないし長生きできるね。子供が老後を見るなんて最近では期待できないしね。

年金をたくさんもらえる人は、長生きもたくさんできるね。若い人は少子化で負担が大きいけど
年寄りは大切にしないとね。払った分は満額もらわないとね。それが若い非正規雇用者の月給より多くてもね。
とにかく、長生きが一番大切だね。これが一番大切な価値観だね。できれば、不老不死が理想だね。

こういうことですか? それとも、人間はいつかは死ぬべきなんですかね?
89考える名無しさん:2008/10/29(水) 16:21:47 0

88>こういうことですか? それとも、人間はいつかは死ぬべきなんですかね?

人は幾ら生きたかと言うより、如何に生きたかが大切ですね。

90考える名無しさん:2008/10/29(水) 16:44:28 0
>>89

いかに生きたかって、ずいぶん漠然としてるね。すべての生命を大切にするのが大事なんじゃないの?
すべての人が不老不死になれば一番良いでしょ? 違いますか?

まあ、とりあえず生きていく意志があるなら、他者との利益の衝突は
不可欠だよね。それをどうやって解決するのか、それも知りたいよ。

広辞苑のいう「知恵」があれば、すべての利害の衝突は、当事者間の応分の権利に応じて
1%のずれもなく、正しく調停されるんですかね?

91考える名無しさん:2008/10/29(水) 19:57:31 0

90>すべての人が不老不死になれば一番良いでしょ? 違いますか?

命に終わりが有るから、それなりの価値を見いだせるのですよ。
死とは子孫に、その席を明け渡すことです。
智恵を持たぬ者ほど死を恐れるのです。
今時、不老不死を望む者も少ないでしょうね。

>まあ、とりあえず生きていく意志があるなら、他者との利益の衝突は
>不可欠だよね。それをどうやって解決するのか、それも知りたいよ。

簡単なことです。
互いに分け合えば良いだけですよ。

>広辞苑のいう「知恵」があれば、すべての利害の衝突は、当事者間の応分の権利に応じて
>1%のずれもなく、正しく調停されるんですかね?

広辞苑に記されている【知恵・智恵=物事の理を悟り、適切に処理する能力】と言う言葉の意味を解説しましょう。
物事の理を悟り、適切に処理する能力とは物事の理を悟れば全ての事案に対して適切に処理する能力と言う智恵を産みだせると言うことです。
この場合の適切とは全てに対して痛みを与えぬ、と言う実に素晴らしい方法を指します。
君も物事の理を悟れば、全てを適切に処理する智恵を産みだせると広辞苑の智恵と言う言葉の原義は伝えているのです。
92考える名無しさん:2008/10/29(水) 22:08:50 0
>>91
何が簡単なんだ。分け合うって、誰と誰がどれだけの比率で分け合うんだよ?
結局利害対立の調整が一番難しいんだよ。それを簡単って、神にでもなったつもりか?
93考える名無しさん:2008/10/30(木) 03:16:25 O
ドットちゃんとおんなじ自分の正しい心に酔いしれる説教オヤジは世にゴマンといるよ。
こういう説教オヤジは需要がないにもかかわらず過剰供給になってる。

環境問題だ。

94心の仕組みドットコム:2008/10/30(木) 03:45:57 0

92>何が簡単なんだ。分け合うって、誰と誰がどれだけの比率で分け合うんだよ?
>結局利害対立の調整が一番難しいんだよ。それを簡単って、神にでもなったつもりか?

そこが知恵無しと知恵者の違いです。
物事の理を悟ると言うことは人が人間の心を持つ、人が知能を備えた人間に進化することです。
人とは互いに支え合って生きる動物ですが、人間とは互いに支え合い尚かつ全てとの間を保つ心を備えた生物を指します。
つまり人間とは、それぞれの全てに己の最高の愛を持ち迎え入れることのできる智恵が有るのです。
その人間に進化する方法は、先に示した通りで誰にでもできます。
95考える名無しさん:2008/10/30(木) 06:44:37 0
>>94
「理」を追求しても何も残らないよ。なぜなら、すべての事象は無駄なことだからね。
すべての事象に意味も目的も存在しない。

人間は互いに支え合うこともすれば、互いに殺し合うこともする。人間は物理的に可能であれば
何でもする。人間とは互いに支え合う動物ではなく、今の人間そのものがそのままで人間なんだよ。
だから、何をやろうが、殺し合おうが、助け合おうが人間に変わりない。

すべての事象に意味は存在しない。その中で「理」を追求しても、すべてゼロにすべきっていう
結論しか出てこない。なぜなら、すべての事象に存在意義がないからね。

大事なのは意味ではなく、形、形式。そう考えなければ、理性による利害調整すらできず
社会から撤退して、内側に引きこもるしかない。
96心の仕組みドットコム:2008/10/30(木) 15:59:32 0

人類に希望をもたらす、智と知の源である理は悟るものです。
つまり人類が探し求めている理とは個々自分の心の中に潜み在るもので、他に求めるものでは有りません。

辞書に記されて要るように、人間とは人格を中心に置く人科のホモサピエンスを指します。
人格を中心に置く人科のホモサピエンスは智恵を備えていますので争い殺し合う必要が有りません。

理は悟りて始めてその真価を発揮します。
人類は理性を育てていませんので理性による利害調整ができないのは当然の現象ですね。
97考える名無しさん:2008/10/30(木) 18:40:31 0
>>96
あなたの理論は有害無益だよ。
合理主義者は、能力さえ高ければ成功する可能性が高いけど
あなたの理論を信奉すると、能力が高くても社会不適合になるよ。

本質的に危険なのは、あなたの理論こそ
純粋な理性・合理性を志向してると考えられること。
一般的な合理主義者は、欲望(感情)という非理性的な動力を有してる分
それが推力になって直ちに破滅することはないけど、純粋な理性を志向
すると、自身が破滅するだけだよ。純粋な理性がこの無意味な世界に
生きる動機を見いだすことはできないよ。

98wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/10/30(木) 18:49:38 0
>97
確かに、形而上でしか成り立たない純粋理性などを、実践に持ち込もうというのは、大いなる錯誤でしかないですね。
純粋な理性がこの無意味な世界から生起する要因/ロジック等を見いだすことは不可能ですから。
99wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/10/30(木) 18:56:12 0
そういう事実をも省みず、理性もどきの精神の志向/指向性の性(さが)として、なにがしか超越的なものを追い求めていかないと安穏としていられない。
それが、私自身であったり、神であったりするわけです。
全くの無規範の中に放り込まれると、ヒトは瞬時にヒトであることをやめてしまうでしょう。
100wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/10/30(木) 19:00:10 0
完全な無規範とは、即ち、完全な自由です。
そのすべく自由の中に放り出されていること、これも形而上の概念です。
101考える名無しさん:2008/10/30(木) 19:09:47 0
>>100
純粋な理性は、完全な自由を志向するよ。
完全に自由でなければ、純粋な理性を維持できないし。

いずれにしても、人間に肉体が存在する限り、完全な自由は存在し得ないから、
純粋な理性を維持することも無理。

もっとも、純粋な理性を志向すること自体が危険だけど。
一般的な有能な合理主義者が成功してある段階に達したときに陥るであろう
危険な状況にいきなり近づくことになる。

102wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/10/30(木) 19:24:10 0
>101
<純粋な理性を維持することも無理>

「理性を維持する」というより、ヒトから純粋理性などは生起しないです。

<一般的な有能な合理主義者が成功してある段階に達したとき>

「成功する」とは、例えば、どういうことでしょうか?
103考える名無しさん:2008/10/30(木) 19:28:47 0
>>102
成功して、欲望という動力源が無くなったとき。頭が合理主義者のままなら、純粋な理性を志向する状態
に近づくでしょ。
104wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/10/30(木) 19:36:29 0
>103
「純粋な理性」は、形而上の概念。
合理主義は形而下の世界のノウハウ。
両者の間に接点/交点は無い。
105心の仕組みドットコム:2008/10/30(木) 20:24:53 0

97>純粋な理性がこの無意味な世界に生きる動機を見いだすことはできないよ
そもそも哲学とは理性を通して問題を適切に処理することが仕事ですよ。
理性の持ち合わせの無い者達は、理性を得るために物事の理を悟る為に理を希求することも哲学とされているのです。
君は理性を持たず、理性を云々と語ることに矛盾を感じるでしょう。
106心の仕組みドットコム:2008/10/30(木) 20:45:32 0
105>純粋な理性がこの無意味な世界に生きる動機を見いだすことはできないよ
そもそも哲学とは理性を通して問題を適切に処理することが仕事ですよ。
理性の持ち合わせの無い者達は、理性を得るために物事の理を悟る為に理を希求することも哲学とされているのです。
君は理性を持たず、理性を云々と語ることに矛盾を感じるでしょう。
107考える名無しさん:2008/10/30(木) 22:11:51 0
>>104
辞書的意味
「合理主義とは、すべてを理性的に解釈しようとし、合理的なもののみを認めようとする考え」

字句の揚げ足取りはやめてくれ。
あなたがこの定義に同意しなくても、こう定義して使われてる場合も多い。
ここでは、この意味で使うので字句の揚げ足取りは不毛ということでよろしく。
108飛べないカラス:2008/10/30(木) 22:23:40 0
誰が>>1かわからないです
1096:2008/10/30(木) 22:36:07 0
純粋な合理性で生きるとはまやかしだと思う。
なぜなら人間の意思は生きていく限り、
自らを純粋と称するほどそれを追求していく。
結局は取捨選択して捨てるものが山ほどでて、
全てがひとつの事象へ行き着くだけの話なのだ。
ではそこに行き着くまでの人生とは何なのか?
またはこれからの人生はそれで結末だと言うのか?
この前後は(知らないだけの)純粋であると言い切れるのか?

だがそのような本人でもいつか死ぬことが分かっている。
死ぬ直前までに自分は純粋な「考え」をもって生きてきた。
とう自負しか残らないだろう。

実際の生活および思考において「純粋な合理性」は生きている限りは
全て無効なのだ。
もちろん自己の哲学において「考え」を純粋にまとめあげることは構わないのだ。
その考えでもって実践しても問題はない。
なぜならそれは”その時その場合において有効である”という限定した条件下にあることが
生から死へ向かうという概念を持っている人間である時点で語らずとも
「ある条件下での」という既定が否応なしに適用されるからだ。

だから実生活においての合理性と規範としての哲学の合理性とは
相容れて混合して同時に語られるべきではない。

認識の上で純粋だと言うのならそれは過去を記憶せず、
未来を語ることのない単純な生物の一種に過ぎない。
110考える名無しさん:2008/10/31(金) 08:13:35 0
死ぬまで理知的でありたい、理知的でなければ生きていく価値がない
として、頭脳が衰える前に自死した哲学者がいたよね。西部氏もそんなことを言ってる。

このスレは左翼を批判してるけど、保守でも理性主義者はいるんだよな。
伝統を大事にすべきと主張してる西部氏が理性至上主義なのは矛盾だよ。
いずれ、その矛盾に突き当たると思う。それが死を選ぶと言ってる理由なのかもしれないけど。
111 ◆TANPanX3xc :2008/10/31(金) 08:44:33 0
106 名前:心の仕組みドットコム :2008/10/30(木) 20:45:32 0
おまえw
112心の仕組みドットコム:2008/10/31(金) 12:23:18 0

TANPanさん、
105は私ですが106は私では有りませんよ。
113考える名無しさん:2008/10/31(金) 20:36:58 0
>>112
同姓同名ということ?
よくあるね。www
トリップでもつけたら。
114心の仕組みドットコム:2008/10/31(金) 20:42:54 0
106は私だけど、105は偽物ですよ。

騙されてはいけません。
115考える名無しさん:2008/10/31(金) 21:14:57 0
短パンに指摘されてるしw
短パンも同名だらけだもんね。
116考える名無しさん:2008/11/01(土) 18:42:44 0
>>114
書いてること同じジャン。
名前なんてどうでもいいことだね。
言葉は独り歩きできる。
言葉に言葉で返す、これが2ちゃんねるだろ。
117考える名無しさん:2008/11/02(日) 20:55:03 O
理性を規範にするとは、絶えざる変化の認知を拒まず。
自己の変化を分析し、互いの調和を取ることかと思う。
ここで人よりも多い成果を得るならば欲が強いか有能かであり、
少ない人は欲が少ないか無能だ。
宗教を規範にしても同じことのような気がするが、
「他人にどのくらい成果を得れば善いかを尋ねる」ような
意志のない人間はさすがに居ないのではないかと思う。
ただ強弱がある以上に
〜は〜で自分は〜をする
そのような組み立てを行い、
実行し試行錯誤したり、
宗教が感情的とはあまり思えない。
既にある世界観に依るべくして宗教に帰依する場合もあるし、
帰依した人間は宗教的規範が全てとも思えない。
自分には規範がないと思い、
宗教に帰依する。
それもひとつの方法かもしれない。
だが、自己の規範を、より世界を広く、自己の周囲はより厳密に規定し、好き、嫌い、有効、無効、得意、苦手、意義、無意義、有条件、無条件、時間、無時間、生死、期間、正義、悪意、自愛、他者愛、様々な選択要素を整えて、規範とするならば、
宗教に依らず、自己の試行的振る舞い、
または他者の概念とのすり合わせや一般常識や礼節を知り、
振る舞いとして規範が出来上がる。
自己の創造なしに規範はないと思う。
118ラプラスの悪魔  ◆daemontaDA :2008/11/02(日) 21:09:15 0
神学と哲学は対峙する。

哲学はあえて目をそらしても、神学が睨みを利かせて来る。

規範とか理性とか、まるっきし(貧相な)宗教学だ。
119考える名無しさん:2008/11/02(日) 21:25:13 O
哲学と神学はどの辺りが対立するのか分からない。
何のことやらさっぱりだ
120考える名無しさん:2008/11/02(日) 21:58:57 O
哲学と神学が対立軸であるのはだいたいそうだろうと分かるが、
ある出発点が違うだけで基本的な道徳的観念が似通っているところもある。
神が言っているから、と他人が言うから、も同じ位置にある。
規範において宗教と理性(功利主義的な意味で)二者択一ということは無いと思う。
また宗教も多々ある。
宗教から来る死者への概念においても、
規範としてただ選んでいるというだけに過ぎない。
そこでは自己と世界の調和さえあれば良いと思う。
行動し、実証的であらゆる試行をするのならば宗教や自己の哲学的固執は邪魔な物になるかもしれない。
世界に身を置かず、ある一点に落ち着き、結末を迎えるならば、
それらは安らぎななるだろう。
ある一点に価値を置く、そこに留まるならば、
宗教であれ哲学やあらゆる学問も学ぶことはなく、ただなぞらえて終わりなだけだ。
だが、終わりを望む人もいるし、
絶望で死にゆく人もいる。
その心のよりどころにおいて、
ただ思い出の走馬灯、
ただの自己評価に終わるならば、
寂しいというより、
自己世界の閉塞という悲しみに触れるままに終わるのではないだろうか?
無論他人の自己の世界観がどのようであろうが構わないが、
そのような仮定的世界観の人間も
いずれ死にゆく時にその全てが無言の中に感じられるかもしれない。
それが静かにゆっくりと進めば進むほどに、、
もしそうだとすればだが、そこに宗教的または哲学的規範であっても個人にまで規範は限定され得ないと思う。
121考える名無しさん:2008/11/02(日) 22:13:40 0
まべつに、哲学と宗教は親戚同士って言ってみても良いがw。

心理学と哲学の境界も曖昧だが、哲学と宗教の境界も
多少は曖昧か?w。

宗教といったら一般論では、心の隅間を埋めるもので、
何かを信じきって心的安定を図る物だが、哲学というのは
その逆を目指すものだ。不安だろうが苦痛だろうが、真理を
突き詰める運動こそが哲学だろうに。

キミは不安じゃないのか。ま、哲学に無関係なら分からんか。
122ラプラスの悪魔  ◆daemontaDA :2008/11/02(日) 22:33:04 0
哲学の多くは抽象的な論調(曖昧的ではない。)で語られる。

それは、万物に潜む共通性、共通事項って意味だ。

今、君等の目の前にコップとバナナがあります。
これらの共通事項を述べなさい。

さもなきゃ哲学は、解読不能なヒエログリフにしかならないwww。
123ラプラスの悪魔  ◆daemontaDA :2008/11/02(日) 22:36:04 0
比較不能なものを比較可能(善し悪しの判断基準を作る)にするのが哲学なんだよ。


124考える名無しさん:2008/11/02(日) 22:53:41 0
それは一元論的な態度を示しているだけだ。くだらん
哲学が真理を突き詰める運動などという矮小なものであって欲しくはない。
真理などそれひとつでは存在できない言葉にすぎない。

哲学が神学における議論から展開したものもあれば
生活者の知恵として発展したものもあるだろう。

真理を突き詰めるとは「何のために」突き詰めるのか?
ただ事象の背景を理解したい。
という情動的な意義だけではないか?

その意味において規範における真理があったとしても個々人が勝手に決め、変化し得るものだ。
それは他人からは真理とはあまり言われないだろうし、それで十分だろう。
哲学の投げ合いにおいては無限の反論という言葉遊びの真理はあるかもしれない。
125ばかぼん:2008/11/02(日) 23:10:22 0
そうかな
126考える名無しさん:2008/11/02(日) 23:27:14 0
そうかもしれないし、そうではないかもしれない
127ラプラスの悪魔  ◆daemontaDA :2008/11/02(日) 23:29:50 0
>>124
(中途半端でなく)究極的な哲学は、他人なんぞ無関係だろうに。w
貴方の哲学が他人との差において結果をもたらすなら兎も角も。

自分にとっての真理や価値を突き詰める運動こそ、
まさに哲学の深淵だ。

僕の哲学は、他人を無限に深淵に追いやる哲学だからね。
128考える名無しさん:2008/11/02(日) 23:33:12 0
>>126
キミが正しい。

答えは無い、それがまさしく哲学的でもある。

129ラプラスの悪魔  ◆daemontaDA :2008/11/02(日) 23:34:37 0
>128は俺である。

俺にとってこのレスは極めて重要な意味を持つからね。
130124:2008/11/02(日) 23:48:34 0
>(中途半端でなく)究極的な哲学は、他人なんぞ無関係だろうに。w
>貴方の哲学が他人との差において結果をもたらすなら兎も角も。

結果をもたらすし、他人とは無関係ではないし、究極的にもなれないし
それが変とも思わない。
その上で、

>自分にとっての真理や価値を突き詰める運動こそ、
>まさに哲学の深淵だ。

その通りだよ。それで十分だよ。
哲学的レベルなどという低俗な考えや変な勘ぐりはなしでね。

君の哲学がどのような哲学かは言葉をはしょっていて分からんけど
それは良いと思うこともありながら、個人的にはどうでもいいからOKです。
「まさに」ねw
131考える名無しさん:2008/11/02(日) 23:51:13 0
文化は非科学的な偏見と迷信を多分に含んでいる。
人の行動様式は無意識的なので気づかないが、
意識的に見ると非合理的な事が多い。

科学的で理性的になって来たとはいえ、
完全に理性的になれるわけではない。

日本人は無神論者が多く、
集団の雰囲気が神という所があるので、宗教的非合理主義というより、
集団ヒステリー的非合理主義のようである。

だからといって、非合理的な宗教を信じろと言っても無理がある。
おそらくこれから未来も集団ヒステリー的非合理主義で日本人はやっていくのではないだろうか。
132ラプラスの悪魔  ◆daemontaDA :2008/11/03(月) 00:07:02 0
>>130
>哲学的レベルなどという低俗な考えや変な勘ぐりはなしでね。

実はね、それが普遍的な理論・理屈である場合が多い。
つまり、究極の哲学・心理学になりえるのだよね。

そんな瞬間が味わえるからこそ、俺は哲学や心理学が好きなのだよ。
133吉田メロウ:2008/11/03(月) 00:11:26 O
>>131
幸福の科学って宗教団体があるけど、科学と幸福は何の関係もない。寧ろ偏見や迷信について考える方が人間の本質に迫る事ができる。何故なら人間は矛盾に満ちている。矛盾を通して人と世界は繋がっているんだ。
(*´-`*)yー゛
134考える名無しさん:2008/11/03(月) 07:51:22 0
日本人は、集団主義の中に非合理性が潜んでるね。
これは、宗教とは別。
むしろ、欧米人の方が、宗教が衰えたときに、
合理主義に一挙に傾く危険性があるな。宗教だけがそれを阻止する状況というのが危うい。
135吉田メロウ:2008/11/03(月) 07:59:08 O
>>134
自我や主体性の一連の問題系ですな。昨今のサブプライム・ローンがよい試金石なる。金融工学はあるルールの元では合理的だ。しかし合理的であることの前提が問われなくてはならない。社会システムを考える際に注意すべきことだ。
(*^-^*)
136考える名無しさん:2008/11/03(月) 09:54:37 0
>>135
人は、合理的でないと何にもできないからね。そして、合理的であるほど物事をうまく処理でき、
他者に理解してもらえる。サブプライムは、ある特定部分の合理性を強調する詐欺だと思うけど。

ただし、すべてを合理的にすることはできない。それは、無、ゼロを意味する。
いずれかの非合理的な目標(それは、感情や欲望、信仰、因襲などからもたらされる)
を実現するために、合理性が手段として使われる。

キリスト教神学は、神の存在を前提にしさえすれば、合理性が非常に重視されている。
それは、他の非合理な要因(感情や欲望)を排除する効果を持つ。

逆に言えば、感情や欲望以外の非合理性が存在しないとき、感情や欲望からもたらされる
目標しか存在しないことになる。それこそ、現代人が直面している危機だと思う。
137考える名無しさん:2008/11/03(月) 11:20:57 0
合理性自体は「無」、「ゼロ」であり、非合理的な目標を包有しない合理性は、
物事を破壊する作用のみを持つ。

たとえば、ビートたけしという人がいる。この人は、世の中の非合理に対して、合理性を
ぶつけることで面白さを引き出した人だ。さんまや伸介など他の芸人は、非合理に対して自分なりの
非合理でつっこむわけで、こうした人たちとは大きく異なる特性を持つ。

ビートたけしの笑いは、物事を破壊する笑いだ。ビートたけし自体が自身の非合理さを表に
出さないために、ひたすら合理性のみがぶつけられる。そして、その衝突の後、非合理性は
笑いの中で解体される。しかし、合理性自体は「無」であるために、その後に何も残らない。

合理性のみを追求する合理主義者は、まさに破壊者としてのみ対象に作用することになる。
こうしたタイプの人は、他に中田英寿や小泉元首相などが挙げられると思う。
138wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/04(火) 20:55:42 0
これまでのレスを見ていると、合理性とは、理性を機軸とした/準拠すべきものとした「実践」の立脚点のようにみえます。
機軸とすべき/準拠すべき「理性」など無い、という立場から物申せば、現代の合理性とは経済的効率性/優位性の謂いではないか、と思えてくるわけです。
>>137さんのビートたけしの例で言えば、「世の中の非合理」は、特にリスクヘッジに長けた経済的合理性であり、ビートたけしの「狂気」は、それを揶揄し、破壊しようとする「哲学的合理性」であるとも解釈できます。
太田光にも、それに通じるものがあると思いますが、いずれにせよ、「純粋理性」が形而上においてしか、その居場所が無いことから、合理性は、現実的妥当性までが精一杯の領域であり、「現実の中ではありえようもない理性」準拠とは同意語ではなさそうです。
「現実的なものは合理的であり、合理的なものは現実的である」という弁証法哲学者の命題における合理性を、理性的と置くと落ち着きが悪くなる。
(そのつどの経済的合理性)=(イデオロギー準拠)=(合理性)としたほうが、落ち着きが出てきます。
139考える名無しさん:2008/11/05(水) 07:10:11 0
>>138
純粋理性はこの世には存在しないものでしょ。とりあえずそれは仮に「信仰」として考えることはできる。
信仰であるから、純粋理性と呼ばれてるものを目指してもとりあえずゼロにはならないと感じられる。
でも実は、深く追求すれば、両者は関連がある。それは非常に高度な議論になると思う。
純粋理性は「信仰」に似ているので、ゼロにならない安心感が一見ある。でもそれを極限まで追求すると
つながってしまう落とし穴がある。

経済的合理性と純粋理性は一見別のものに見えるけど、深く追求するとつながりが見えてくる。
これは、現代文明全体の根本を構成するとも言える非常に重要な部分だよ。

ビートたけしの合理主義は「狂気」には同意。これももっと深く掘り下げたい。
140wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/05(水) 17:02:39 0
>139
<純粋理性はこの世には存在しないものでしょ。>

純粋理性は、形而上では措定可能なものとであり、且つ現実性を持ち得ないアンビヴァレンスなものであるからこそ、コワク的なのです。
宗教/信仰は、超越的存在を措定し、あるいは措定された超越的存在(即自存在)と対自存在との果てしもなき合体を意図したものです。
「一見別のものに見える」ものではなく、両義性(純粋理性)と、超越的存在への希求とは全く異なる指向/志向性です。
141考える名無しさん:2008/11/06(木) 06:50:38 0
>>140
純粋理性を志向することは、信仰と似ているのでは?
一方はイデア、他方は神を求めることが異なるだけで。
両方ともに、現世には存在しないものでしょ。
142wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 12:29:17 0
>141
純粋理性は存在-非存在間の隘路に妖しく現前する「アンビヴァレントな存在」。
神は超越的な「即自存在」。
143考える名無しさん:2008/11/06(木) 14:18:37 0
>>142
即自存在と対自存在ですか。
うーん、それは自分が結論で述べたい部分の違いにも関係してそうなんだけど、
とりあえずある部分までは似ているんじゃないかなあ。

ちょっとこの議論は難しいのでまた後でということで、別に思いついたのは
人は対自存在的ではあっても、100%そうじゃない。
DNAによって既に決まっている部分が相当あるでしょ。
その部分に対応するための理性の処理が、神の存在意義にかかわるんじゃないかと思うんだけど。
144wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 16:21:41 0
>143
(そのつどの経済的合理性)=(イデオロギー準拠)=(合理性)としての理性であれば、その「処理」のあり方として、超越的存在であるところの「神」を必然的に産出していくと思います。
純粋理性が、超越的存在の「事実性」を説き起こそうとすると、アンチノミーに陥ることから、現実性の枠内では、純粋理性は、すべく無力です。
DNAを持ち出された場合、便宜的に、これを(形而下のもの)と置くと、
(合理性としての理性の処理のありよう)も(超越的存在としての神のありよう)も、予めDNAに書き込まれている因子(DNA自体の、生きながらえようとする盲目的欲求の発現)として、「形而下という同じ象限内」に納まるように思えます。
もし、DNA⇔合理性を同一象限内におけるアンチノムと置いた場合、「(DNAに支配される形而下の合理性)に対応するための理性の処理が、神の存在意義にかかわる」というのは、「現時点における」という制約を課した上で、
形而下という同一の象限内の「二者対峙関係」となります。
しかし、この範疇の問題であるならば、ごくごく日常的な処世ノウハウの問題(現実性/合理性のすべて)になってしまいませんか?
145考える名無しさん:2008/11/06(木) 17:12:34 0
>>144

>DNA⇔合理性を同一象限内におけるアンチノムと置いた場合

この前提は、わからない。DNAの求める欲望に従って、合理性がそのツールとして利用されるだけでは?

>(DNAに支配される形而下の合理性)に対応するための理性の処理が、神の存在意義にかかわる

これは、ちょっと。「(DNAに支配される自身が持つ即自性)に対応するための理性の処理が、
神の存在意義にかかわる」

こういいたかったんだけど。つまり、理性は、本質的には自身が対自的であることを求めるんだけど、自身にどうしようもなく
存在する即自性に対応するために、神の存在にすがるしかない。

もちろん、日常的な処世ノウハウの問題をここでしたいわけではないんだけど、なかなか難しい。
146考える名無しさん:2008/11/06(木) 17:59:21 0
ちょっと混乱気味だけど。

DNAはあらゆる要素にかかわるから、DNAを持ち出したのは混乱の元だったかもしれない。
DNAによる欲望によって、理性・合理性がドライブされてる部分もあるわけだから。
「DNAによって決定されてしまう即自性⇔理性・合理性」。これで良いのかな。

これの対処として神の存在意義が処世術の域ってこと? うーん。

147wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 18:41:30 0
>>145
>DNA⇔合理性を同一象限内におけるアンチノムと置いた場合
<この前提は、わからない。DNAの求める欲望に従って、合理性がそのツールとして利用されるだけでは?>

(そのつどの経済的合理性)=(イデオロギー準拠)=(合理性)としての理性を「合理性」とした場合、
その主体がDNA側にあるのか、その表出であるヒトの合理性にあるのかは、アンチノミーというより、視点の相違だけだと思います。
しかし、DNAにプログラミングされている、そのしもべ/現実性の中でのヒトのふるまい、
とすると他スレでやっている物質であることによる必然的存在となり、「自由意志」のあり場所を見出せなくなります(無ければ無いでなんら構いませんが)。

>(DNAに支配される形而下の合理性)に対応するための理性の処理が、神の存在意義にかかわる
<これは、ちょっと。「(DNAに支配される自身が持つ即自性)に対応するための理性の処理が、神の存在意義にかかわる」
こういいたかったんだけど。つまり、理性は、本質的には自身が対自的であることを求めるんだけど、自身にどうしようもなく存在する即自性に対応するために、神の存在にすがるしかない。>

形而下一元論の視点からは、DNAの仮象(Scheinとしての即自存在)としてのヒトが、(そのつどの経済的合理性)=(イデオロギー準拠)=(合理性)=(ヒトの分別の限界性)という構造を捏造し、
それに「理性」なる称号を与え、それを規範とする限りでは、ヒト=真性の即自存在となるでしょう。
そうであるなら、「自身にどうしようもなく存在する即自性に対応するために」、対自から即自への回帰は、必然の流れになります。
しかし、あなたが「本質的には自身が対自的であることを求めるんだけど」と書かれた瞬間、この流れが寸断されます。
ヒトは、その由来は知らず、「自身が対自存在であるにも関わらず、即自存在である/なることの不可能性を覚悟の上で、即自存在を求め続ける対自存在」となります。

「この即自を、直接的に超越的存在である神として措定するか」、または、「存在-非存在の狭間に点滅するアンビヴァレントな純粋理性(自由意志)なるものに撞着するのか」、
という指向/志向性だけのほんの些細な相違であると考えます。
148wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 18:51:49 0
仮の結論ですが、神、理性ともに、あまりにも脆い。
149考える名無しさん:2008/11/06(木) 18:52:22 0
ちょっとまってくれ。ますます混乱してきた。

>「自身が対自存在であるにも関わらず、即自存在である/なることの不可能性を覚悟の上で、即自存在を求め続ける対自存在」

これは
>「自身が即自存在であるにも関わらず、対自存在である/なることの不可能性を覚悟の上で、対自存在を求め続ける即自存在」

の誤りだよね? ケアレスミスかもしれないけど、ややこしいので一応確認しておきたい。


それで、
>「この即自を、直接的に超越的存在である神として措定するか」、または、「存在-非存在の狭間に点滅するアンビヴァレントな純粋理性(自由意志)なるものに撞着するのか」、
>という指向/志向性だけのほんの些細な相違であると考えます。

なるほど。ここで、神は即自的であり、純粋理性(自由意志)は対自的という違いを考慮すべき段階になる。
しかし、難しすぎるな。少しずつ進まないと、考えがまとまらない。
150wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 19:05:59 0
>>149
>「自身が対自存在であるにも関わらず、即自存在である/なることの不可能性を覚悟の上で、即自存在を求め続ける対自存在」
<これは>「自身が即自存在であるにも関わらず、対自存在である/なることの不可能性を覚悟の上で、対自存在を求め続ける即自存在」の誤りだよね?
ケアレスミスかもしれないけど、ややこしいので一応確認しておきたい。>

ヒトの生息する現実性の中での心的現象のありようは、「自身が即自存在であるにも関わらず、対自存在である/なることの不可能性を覚悟の上で、対自存在を求め続ける即自存在」ではなく、
「自身が対自存在であるにも関わらず、即自存在である/なることの不可能性を覚悟の上で、即自存在を求め続ける対自存在」であると書いています。

<神は即自的であり、純粋理性(自由意志)は対自的という違いを考慮すべき段階になる。 >

神は「a=a」の即自存在です。
一方、純粋理性は、対自が向かう指向/志向性の1つであり、対自存在とも即時存在とも置き得ないが、対自が必然的に指向/志向する「アンビヴァレントな遡及対象、または追い求め続ける選択肢のひとつ」であると書き続けています。
151wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 19:10:34 0
即自は沈黙するのみ。
ヒトは、対自存在だからこそ、即自への憧憬を語れるのです。
152考える名無しさん:2008/11/06(木) 19:13:25 0
>自身が対自存在であるにも関わらず

それでは、DNAの話はなんだったの?

>即自存在を求め続ける対自存在

即自存在を求めるって、そんな人はいないでしょ。究極の即自存在は死ですよ。


153wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 19:14:11 0
>151
対自は、即自を語れるだけであって、即時のひとかけらでも意識/存在の中にembedした瞬間、対自であり続けることを止めることができます。
154考える名無しさん:2008/11/06(木) 19:16:29 0
>>153
かもね。自由ではなくなるもんね。
155wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 19:20:38 0
>>152
<DNAの話はなんだったの? >
DNAの話は振られたから、それに即して書いたまでです。

<即自存在を求めるって、そんな人はいないでしょ。>
おおよそのヒトが即自存在=絶対的規範を求めているでしょう。

<究極の即自存在は死ですよ。>
ヒトにとっては死です。
且つ、徹底的に無意味な死。
156考える名無しさん:2008/11/06(木) 19:26:31 0
>>155
人は死ぬと、100%即自存在になる。つまり、ただの物質になる。

わたしを対自から永久に即自存在へと変じさせる死は、私の実存の永遠の他有化であり、
回復不能の疎外であるといわれる。
157考える名無しさん:2008/11/06(木) 20:10:19 0
また、混乱してしまったみたい。

自分が即自存在になるんじゃなくて、即自存在を追い求めるってことね。

DNAの話からの流れで勘違いしてしまった。失礼。また、明日書き込みます。
158wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/06(木) 20:39:10 0
>>156
「私の死」は、確かに他有化されますが、そのときには、既に「私」は存在していないのであるから、「私」と、「私の死」とは、なんらの関係性も持てない/あずかり知らぬものどうし、となります。
159考える名無しさん:2008/11/06(木) 21:34:47 0
>>158
自分自身の場合ならね。

とりあえず、話がかなりねじれたので、整理すると、最初に>>143

>人は対自存在的ではあっても、100%そうじゃない。
>DNAによって既に決まっている部分が相当あるでしょ。

こう書いた。哲学やるような人にとっては、人が対自存在的なのは自明と思えるかもしれない。
そして、無条件でそう考えた哲学者が過去に存在したことに、まず驚く。
でも、一般の人にとってはそうじゃない。人はみずからの意志で
生きている限り進歩、進化していけるなんてことは、夢物語としか思えない。

だから、DNAによってすでに決まっている部分が相当あるでしょと書いたわけです。

ところが、欲望によってドライブされた理性は、それでは収まらない。自分をもっと高めろ、
もっと自由になれ、もっと有能になれ、それで欲望がかなえられる可能性が高まる。
理性は計算によりその方向が欲望にかなうと調停する。そして、その理性が直面するのが
DNAにより制約される自分の能力の上限、器質の不具合などです。

それが、「DNAによって決定されてしまう即自性⇔理性・合理性」です。
つまり、即自的であるから本質はすでに決まっているわけです。もちろん、進化は望めません。それが理性と対立するわけです。
160考える名無しさん:2008/11/07(金) 02:46:56 O
即自存在の意味が分からないのですが、
即自は自分の性格や気質または自覚された能力に概ね従うものでしょうか?
例えば自分は人見知りで暗く、不細工で頭が悪いから女も友人を作るのは億劫だ。
といった考えでしょうか?
一方対自とは、自分は〜だが〜によって〜をやらないといけないと理解した。
それは〜でないと〜できないから〜をやり、〜になろう、そして〜を目指そう。
といった意味でしょうか?
161考える名無しさん:2008/11/07(金) 07:17:27 0
対自っていうのは、自由で知的な存在ってことです。
対自から見れば、即自は利用すべき「もの」でしかない。
自分以外の他の人間ですら、自分という対自から見れば即自にしたい存在。
それで、衝突しちゃう。

また、自分の中に存在する即自性にも我慢できない。対自はかなりつらい存在。
ある意味、哲学そのものが対自かもしれない。

対自・即自の概念は、このスレにすごく関係するものだと思う。

162wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/07(金) 12:44:30 0
>>159
<その理性が直面するのがDNAにより制約される自分の能力の上限、器質の不具合などです。>

現実世界の中で直面する「DNAにより制約される自分の能力の上限、器質の不具合など」は、ヒトが対自存在であるからこそ、その限界性を認識できる。
この「限界性」を作り出している場は、対自と、その環界である、個々のヒトが棲む共同体(その領域は不透明化してきていますが)との関係性の中においてです。

<即自的であるから本質はすでに決まっているわけです。もちろん、進化は望めません。それが理性と対立するわけです。>

<即自的であるから本質はすでに決まっているわけです>という認識も対自存在であるからこその認識です。
即自存在(a=a)は、自らも、その置かれている環界も、何も意識しないし、つぶやきもしない。
ましてや、自分の「限界性」等を認識する愚行などからは、最も自由な存在でしょう。
例えば、即自/対自という概念で語るにはやや微妙な存在ですが、何らかの要因から足をひきずっている犬がいる。
それを彼または彼女の「限界性」であるという認識を持ちえていたとする。
しかし、そこから意識を派生させ、即自である神やら理性やらを「捏造し」、そこに、その「限界性」を超越できるかもしれないような、なにものかを見出そうとする「愚行」からは自由でしょう。
また、それを「不憫」として見られる「他者からのまなざし」からも完全に自由です。
「不憫」という価値を伴う認識を持ってしまう/持たされてしまう環界内存在としての認識を持つことは無いわけです。
その引きずっている足を、そのような自分の足として、無意識に引き受けているだけです。
163考える名無しさん:2008/11/07(金) 13:07:45 0
自分の外側だけじゃなく、内側にも即自性が存在するってことです。
もちろん、すべてが即自なら誰かが何かを認識することすらないわけです。

だから、対自的である人間が自身の即自性にどう折り合いをつけるかってことです。
それがこの議論の最初からの意図です。


164wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/07(金) 13:21:28 0
>163
自分の内側には、「自身の即自存在」などはなく、「対他としての他者性」しかありません。
165考える名無しさん:2008/11/07(金) 13:28:11 0
>>164
あるでしょ。すでに本質が決まってるものが山ほど。
たとえば、自身の民族や人種は即自存在でしょ。
166wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/07(金) 13:34:21 0
>165
<たとえば、自身の民族や人種は即自存在でしょ。>

それらは、みな対他存在です。

本日はこれまでです。
167考える名無しさん:2008/11/07(金) 13:42:02 0
>>166
それは、自分の対自的部分でさえ、他者から見ると対他存在におとしめられるってことでしょ。

自分の外見、たとえば手とか足とかは即自存在でしょ。容姿とかね。
こうした生まれつきの特徴は即自的といえると思うよ。
168エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/11/07(金) 16:59:30 O
宗教の規範とはなんでしょうか。簡単にいえば意味がないことです。
お共を唱えることになんの意味があるのでしょうか。どれだけの人がお共の言語的意味を理解しながらとなえているか
あるいはお共は複式呼吸で健康によいという意味ある行為なのでしょうか。
意味があるとは論理的であるということです。そして論理的であるとは一つの方法論です。
宗教は論理的な方法論とはことなる方法論なのです。
169エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/11/07(金) 17:18:44 O
人の生活で論理的であることはほんのごくわずかです。ほとんどに意味はありません。論理的でない方法論をもちます。
方法論という時点で論理的、的なのですが、この方法論とはいかなるものか。しかし論理的でない以上問うことに意味があるのか、という問題があります。
しかしはお経を読むことに意味がなくても当然無駄な行為ではあらません。
170考える名無しさん:2008/11/07(金) 17:21:59 0
またぴかぁちゃんの「誤字脱字したいだけちゃうんか疑惑」が勃発したようだねw

○お経
×お共
171考える名無しさん:2008/11/07(金) 18:52:54 0
>>167
その手と足は誰に認識されてるのかわかってる?
認識されない即自存在は無だよ
172考える名無しさん:2008/11/07(金) 19:21:06 0
>>171
即自存在でない自身の部分も存在するってことですよ。こんなの自明じゃないですか?
手や足は自身じゃないってことはないでしょ。
173考える名無しさん:2008/11/07(金) 19:22:03 0
>>172
間違いです。

対自存在でない自身の部分も存在するってことですよ。こんなの自明じゃないですか?
手や足は自身じゃないってことはないでしょ。
174考える名無しさん:2008/11/07(金) 19:29:40 0
>認識されない即自存在は無

自身の手足は対自存在が認識しようがしまいが、
対自存在に影響を与えるでしょ。

まったく関係ない他の物質なら無と言っても良いかもしれないけど(実際はそんなことは
ないんだけどね。実存主義はその辺がおかしいと思う)
175考える名無しさん:2008/11/07(金) 19:30:20 P
理性ってのは装備であって本質じゃないよな
176考える名無しさん:2008/11/07(金) 19:33:44 P
それと「自分をコントロールできてる」って人間は
世間知らずだろ。 キチンと自分にショック与えて生きてきたのか?
自分が自分の支配下にない事くらい早く気付け。
177考える名無しさん:2008/11/07(金) 20:14:48 0
>>173
>>174
対自存在-対自に認識されるもの、は対。
だから自身の手足がどこにあろうが対自が無ければ、それは無。
同じく、対自と対にならない宇宙も無。
178考える名無しさん:2008/11/07(金) 21:07:57 0
>>177
それじゃ、対自で認識されない自分の心臓も無だね。
自分の血中に存在するアドレナリンも対自で認識されないから無だね。
ところが、無であるのにもかかわらず、血中のアドレナリン濃度は
対自に影響を与えまくるよね。不思議だね。

というふうに、「認識されないから無」は無理があるんですよ。
179考える名無しさん:2008/11/07(金) 22:24:52 0
>178
自分の心臓も自分の血中に存在するアドレナリンも対自が認識してくれからこそ、そこに存在するんだよ。
いくら鼓動が増え、濃度が上がっても下がっても、それを受けとめ、認識してくれる対自が無けりゃ、それらが自発的に俺はここにいるぞと何に向かって主張するのだ?
オレは心臓でアドレナリンだと即自がいくら暴れたところで、対自と対にならない限り、現象とも呼べないただの無であることこそ自明。
180考える名無しさん:2008/11/07(金) 22:29:44 0
>179
確かに、「世界は認識されない事実の総体である」としたらヴィット先生も目を丸くするだろうね。
181考える名無しさん:2008/11/07(金) 22:37:08 0
即自は対自の認識の対象ではなく、それ自体で存在するとしたら、もろ二元論じゃん。
182考える名無しさん:2008/11/08(土) 06:39:06 0
なんか、話がずれまくってるので、もう一度貼りますが

自分の外側だけじゃなく、内側にも即自性が存在するってことです。
もちろん、すべてが即自なら誰かが何かを認識することすらないわけです。

だから、対自的である人間が自身の即自性にどう折り合いをつけるかってことです。
それがこの議論の最初からの意図です。


誰も対自が存在しない世界の話はしてないので。
言いたいのは、対自が自身の肉体(即自)にどう折り合いをつけるか、さらに
対自がそれによって受ける制限にどう折り合いをつけるかってことです。
183考える名無しさん:2008/11/08(土) 14:39:34 0
即自の定義は
「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの」
であり、対自はその反対、つまり
「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」
ですが、即自の定義はその通りだとしても、対自の場合には制限が付きます。

つまり、対自であっても、「あらぬところのものであらぬ」範囲が存在します。
つまり、無制限に「あらぬところのものである」というわけにはいかないわけです。

対自は、人間の肉体的な制限、さらに言えばDNAによりあらかじめ定められた
限界の範囲でのみ「あらぬところのものである」ことができるわけです。

これが、真の意味での対自における即自性です。
184考える名無しさん:2008/11/09(日) 17:59:20 O
言い換えになるけど即自性は現実、対自性は仮想ではだめかな
185考える名無しさん:2008/11/10(月) 11:03:16 0
>>183
「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの」 と、「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの」との折り合いをつけるのは対自だろ?
だから、対自が無ければ即自は無いでいいんじゃないの?
186wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/10(月) 12:39:31 0
>>182
<言いたいのは、対自が自身の肉体(即自)にどう折り合いをつけるか、さらに対自がそれによって受ける制限にどう折り合いをつけるかってことです。>

>>183
<対自は、人間の肉体的な制限、さらに言えばDNAによりあらかじめ定められた限界の範囲でのみ「あらぬところのものである」ことができるわけです。
これが、真の意味での対自における即自性です。>

「人間の肉体的な制限、さらに言えばDNAによりあらかじめ定められた制限」等との「折り合い」は、対自/対他存在である私(たち)が、自らの身体に対し、
「世界内存在」として、
他者からのまなざしに晒され続けながら、
自らのそのつどの超越(選択)により、
付け加え続けていく「価値付け」や、「判断」、「諦め」等の「選択という行為一般」(超越)。

その「自由」の中に、神や純粋理性を忍び込ませることは、錯誤にして不可能。
187wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/10(月) 12:49:31 0
マンモスを狩れないヒト、重度精神障害者等にどのように、どこまでで折り合いをつけられるか。
それを選択し続けていくのも、共同体内/世界内存在としての「自由」のありよう。
相対主義は、「対自が、即自を即自のままに超越させる/越権させる」という錯誤に起因する。
188wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/10(月) 12:53:21 0
>>187
<相対主義は、「対自が、即自を即自のままに超越させる/越権させる」という錯誤に起因する。>

肌の色しかり、偏差値しかり。
189wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/10(月) 12:55:36 0
民族しかり、階級しかり、国家しかり。
190wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/10(月) 13:05:18 0
(「私は私である」というトートロジー)しかり。
191wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/10(月) 13:07:48 0
>>184
だめ。
192考える名無しさん:2008/11/10(月) 13:40:23 0
神や純粋理性を考えないなら、なぜ共同体内で
マンモスを狩れないヒト、重度精神障害者等に折り合いを付けないといけないの?
それを後押しすべき動機がまったくないんだけど。
193wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/10(月) 18:45:41 0
>192
<マンモスを狩れないヒト、重度精神障害者等に折り合いを付けないといけないの?
それを後押しすべき動機がまったくないんだけど。>

折り合いを付けようとする「対自/対他意識」を持たない/持つ必要性の無いヒトには、後押しすべき動機がまったくないのは当然です。

<神や純粋理性を考えないなら>

ヒトは「対自/対他存在」であるという立場から、それらは「即自存在」であると何度も書いています。
194考える名無しさん:2008/11/10(月) 19:23:57 0
>>193
じゃあ、そのまま捨て置いてもいいんじゃないか?
何か問題ある? 問題のある遺伝子を残しても、本人を含めて不幸が拡散するだけじゃないの?
195wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/10(月) 19:37:30 0
>194
例えば、どういう遺伝子なら問題は無いの?
196考える名無しさん:2008/11/10(月) 21:30:23 0
>>195
だから、マンモスを狩れないヒト、重度精神障害者等でしょ。
197考える名無しさん:2008/11/10(月) 21:50:49 0
>>195
逆か。
マンモスを狩れる人、重度精神障害者以外。
まあ、自然に淘汰されない人じゃないか?
198wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/11(火) 11:37:32 0
>197
自然淘汰は人智の及ぶ領域ではないです。
ヒトによる環境破壊等によるヒト由来の淘汰、商品価値の相対性/一過性等による市場からの撤退/不可参入等(マンモスを狩れないヒト、重度精神障害者等の参入不可/参加不可者にも生きる権利はあります)までが対自/対他の及ぶ限界性であり可能性の領域でしょう。
199wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/11(火) 11:59:08 0
>>198
その限界性=可能性を超越する主体は、
神や純粋理性等の形而上の即自存在ではなく、
非合理的なものが現実性を持ったり、
非現実的なものが合理性を付与される、
この世界/共同体の中でしか存在基盤を持ちえないところの、
対自/対他存在としての私(たち)です。
200考える名無しさん:2008/11/11(火) 14:15:06 0
>>199
>その限界性=可能性を超越する主体は、
なんで、その限界を超越しないといけないの?
その動機も存在しないと思うんだが。

>198
>マンモスを狩れないヒト、重度精神障害者等の参入不可/参加不可者にも生きる権利はあります

生きる権利って? そりゃあるでしょ。ただ放っておけば生きられないだけで。
201wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/11(火) 14:59:44 0
>200
>その動機も存在しないと思うんだが。
>生きる権利って? そりゃあるでしょ。ただ放っておけば生きられないだけで。

>>194の「そのまま捨て置いてもいいんじゃないか」のレスで、この議論は終わり。
202考える名無しさん:2008/11/11(火) 15:25:34 0
>>201
それでは、限界を超越しないんだ。
じゃあ、自由じゃなくなっちゃうね。
203考える名無しさん:2008/11/11(火) 16:04:34 0
>>200
>生きる権利って? そりゃあるでしょ。ただ放っておけば生きられないだけで。
権利を考える人がいなければ、有る無しという判断は生じない。
生き物は放置しておけば生きているものは捨てるほどある。
もっと具体的に言わないと、主観的な妄想と煽られるだけだ
204考える名無しさん:2008/11/11(火) 16:07:41 0
>>203
wisteria-1氏に言ってね
205wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/11(火) 17:50:13 0
>>203
>>194氏に言ってね
206wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/11(火) 18:15:40 0
>>203
<生き物は放置しておけば生きているものは捨てるほどある。>

例えば、何でしょう?
207考える名無しさん:2008/11/11(火) 18:16:51 0
くりすますの話題がちらほらと耳にきこえてくるようになりました
ほんと嫌な時期ですね 毎年へどがでる
208考える名無しさん:2008/11/11(火) 18:31:38 0
人が生きる権利ぐらいあるだろ。ないなら、死ぬしかないわけ?
いちいち、引っかかってたら議論が前に進まないって。
209NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/11/11(火) 18:33:37 0
人は誰でも死ぬ必ず死ぬ
死ぬ為に生まれてきたようなものだ
210考える名無しさん:2008/11/11(火) 18:36:40 0
>>209
そうだよ。遺伝子による究極の限界だね。
211考える名無しさん:2008/11/11(火) 19:48:53 0
死ぬことと遺伝子は関係ないだろ。
遺伝子の中で死ぬことが決定されているのか?
212考える名無しさん:2008/11/11(火) 22:10:24 0
>>211
関係あるだろ。種によって寿命が違うのも遺伝子のせい。
遺伝子が生物である人の寿命を決めてる。
213考える名無しさん:2008/11/11(火) 23:25:28 0
>208
権利と義務は同程度にあるべきであるとして、生きる義務ってあるの?
214考える名無しさん:2008/11/12(水) 00:34:17 0
>>194
>問題のある遺伝子を残しても、本人を含めて不幸が拡散するだけじゃないの?

仮に本人に判断能力が無い場合、その人が不幸だと誰が決めるんだ?
215考える名無しさん:2008/11/12(水) 06:54:49 0
>>213
ないでしょ。生きる権利っていっても、死ななくても良いっていうぐらいの意味だし。
権利がなければ、その行為は禁止されてしまうわけだから。

>>214
そういう自明っぽい議論は辞めようよ。とりあえずスレのテーマは認識論じゃないんだし。
216考える名無しさん:2008/11/12(水) 09:18:49 O
いつも心正しくあるには、すべてを所有するか、すべてを所有しないかの二つに一つ。
妥協や我慢が魂を腐らせる。
http://homepage2.nifty.com/kariba2/sakka/sakka08.htm
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html
217考える名無しさん:2008/11/12(水) 10:56:18 0
即自は良いにしても、対自を特別扱いしてもしょうがない。
対自はDNAによってほぼ規定された即自であるとさえいえる。他者から見ればね。
その差異は微々たるもの。本人からすれば天と地だが。

対自が自身の即自性にどうなっとくするか、結局これが現実と折り合いをつけるために最も
難しい点。これをごまかそうとしたり、逆方向に向かわせようとする思想は、引きこもり推奨思想でしかない。

218考える名無しさん:2008/11/12(水) 12:36:25 0
>217
そういう自明っぽい議論は辞めようよ。とりあえずスレのテーマは遺伝子決定論じゃないんだし。
219考える名無しさん:2008/11/12(水) 12:47:00 0
子供のころ読んだ岩波新書(だったと思うが)に、音楽家のバッハ家では音楽的才能が受け継がれ、ゲーテの文学的才能は狂気の家系から出てきた奇跡のようなものであった、と記されていたことを思い出した。
220考える名無しさん:2008/11/12(水) 12:57:27 0
>>217
不勉強で申し訳ないが、遺伝子が生物の形質/気質等を100%決定しているとして、それはどれだけ解明されているの?
221考える名無しさん:2008/11/12(水) 13:29:21 O
宗教は長い年月をかけて変化し、
人々の経験や悟りを取り入れて発展してきた。とすると
なんとなくそれそのものは正しい、
またはある程度信頼できると思ったりしてしまわないだろうか?
実際にはその内容を理解し、判断すべきだろう。
しかしその長い長い教説やら教典全てを確認、理解したり
持論と対比したり出来ない。
宗教は信じるか信じないかで有、無宗教とに分けたりしがちだが
一体、何を信じるというのか?
おそらくはその部分的な事のうち、気にいったもの、認められるもねだけでしかないだろう。
我々は理解できない現象の世界にいるようでいて、
既に存在として理解しないことを承諾する。
興味がないものは自己内に存在しないように、しがちだったりもする。
ただ我々は理性で判断していると
言うとき、
言葉や概念を繰り混ぜても結論はでない。
ある前提から別の前提に移る中でそれが意志によるものか無意識か、
言葉の内に即自性があるものを無意識に受け入れながら、
そのようにしただけで、
即自と対自の折り合いは即自性を多く有する前提での折り合いなのか?
またはその逆か?
あとはそのひとのみが知ることだろう。
222考える名無しさん:2008/11/12(水) 13:38:33 0
>>220
そのメカニズムがすべて解明されていないにしても、少なくてもそうであることが前提になってる。
まあ、遺伝子なんて言葉を使わなくても良いんだけどね。

人間には明らかに即自性が存在する。つまり、あらかじめ本質が決まっている部分。
定義に従って言えば
「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの」
まず、これを認めないといけない。そうしないと、地に足が付かないことになる。

神の存在意義、そしてその代替である純粋理性の存在意義はこのことに大きく関係していると思う。
223考える名無しさん:2008/11/12(水) 13:50:41 0
>>219
そういうのを追跡することに意味が無いとはいわないが、音楽家や文学者になることは、置かれた環境と、それをどう受け止めたかのバッハやらゲーテ等の個々人の結果だしな。
224wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/12(水) 14:02:32 0
>>222
順序が逆。
ヒトは、「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの」ではありえないからこそ、「地に足が付かない」。
その基盤にしか存在できないからこそ、「地に足をつけたい」という対自の衝動の現前の1つとして、自分の気質やら体質やら環界の制約と対峙しながらも、
それらと、そのつどの折合いをつけながら、「絶対的規範(即自存在。超越的存在)」となってほしい神やら純粋理性を「捏造」し続けていかざるをえない。

225考える名無しさん:2008/11/12(水) 14:14:43 0
>>224
逆だよ。
人は、自由でありたい、無限の可能性を信じたいと思ってる。
さらに言えば、常に若くありたい、常に元気でありたい、常に頭脳明晰でいたい、そしてできれば永遠に生きたいと思ってる。
これが対自の正体。

ところが、自分の能力、社会的制約等の限界に直面することになる。
つまり、あらゆる方向から、内外の両方向から即自性の制約を受けることになる。

こうした制約を直視しない人は、引きこもりになって、こうした制約を感じないように
あらゆる社会的活動、自身の能力の制約を受ける活動から撤退するしかない。

226考える名無しさん:2008/11/12(水) 14:34:06 0
自由からの逃走なんて、病気の哲学者が考えたことだよ。
単に、生存本能が自由への希求にまさっただけ。そんなことは、単なる理性の利害調整にすぎない。

本質は、そこに存在する対自が時間、空間、能力、その他あらゆる制約を受けるってこと。
227考える名無しさん:2008/11/12(水) 14:34:12 O
地獄における規範か天国における規範か、
恐怖が先か、希望が先か、
選ぶものか選べないものか?
絶対的でない生活から生まれる「絶対と呼べる概念」は逃避なのか飛躍なのか、
どちらでもあるようでまた別であって欲しい。
228wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/12(水) 15:24:57 0
>>225
<人は、自由でありたい、無限の可能性を信じたいと思ってる。>

5〜6歳くらいまでの対他-対自存在は、そういうものかもしれない。

<あらゆる方向から、内外の両方向から即自性の制約を受けることになる。>

ここからが「対他-対自存在」の本領。
世界内存在/共同体内存在としての私が、もろもろの制約と対峙し、自身の自由のありようを、その最大値を目指し、選択し(乗り越え)ていく。
もちろん、乗り越えられないものはある。
しかし、「自分の死以外」は、即自ではなく、個々の対他-対自存在にとってのそのつどの制約として規定(選択)される。

>>226
<そんなことは、単なる理性の利害調整にすぎない。>
そんなことは、単なる「経済的合理性」に身をまかせ、「エポケーに陥ることの快への馴化」、即ち、対他-対自存在の機能停止という「超越的」選択にすぎない。

>>227
<絶対的でない生活から生まれる「絶対と呼べる概念」は逃避なのか飛躍なのか>

対他-対自存在に付随する「超越的」飛躍。
229考える名無しさん:2008/11/12(水) 15:32:18 0
>>228

>しかし、「自分の死以外」は、即自ではなく、個々の対他-対自存在にとってのそのつどの制約として規定(選択)される。

自分の死以外にも老いがある。さらに、自分の能力の限界や欠損もある。これは対他ではなく即時。
さらに言えば、自身の民族や人種も対他ではなく即自だから。

対他であれば、対自の自由性を損なうことなく克服可能として、そこに希望を見いだすんだろうけど
それは対自の肥大化を招くだけ。
230考える名無しさん:2008/11/12(水) 15:46:39 0
さらに、性別も即時だね。
これを対他と無理矢理みなした活動がジェンダーフリーだけど、
現実から逃避、あるいは現実を破壊してるだけ。
231考える名無しさん:2008/11/12(水) 16:24:31 0
結局、人間は自由を求めるけど、まったく自由じゃないってこと。

性別からも人種・民族からも能力の限界からも老いからも死からも自由にはなれない。
もともと自由じゃないのに、「自由からの逃避」なんて概念を考えても無意味。
こうした意味で自由でいるには、現実から逃避するか、現実を破壊するしかない。
232wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/12(水) 16:26:25 0
>>229
<自分の能力の限界や欠損>

それを、「そのように意味づけをした/されたもの」として受け入れるのは対他-対自存在。

>230
On ne nait pas femme, on le devient. と自身の小説で書いたボーボワール自身はジェンダーフリーの提唱者ではない。
性差はあるが、「女であること」を即自として受け入れてもいないが、否定しているわでもない。
対他-対自存在が、「男に従属すべき女性」として偏狭な共同体/偏狭な歴史的規範から紡ぎだされた「価値」の引き受けのありようを、a posterioriな規範としてデッサンしてみただけ。
233考える名無しさん:2008/11/12(水) 16:43:19 0
>>232
結局、そうした哲学者がそうした思索を行ってきたのは
すべて、あらゆる物理的制限を逃れて自由になりたいっていう子供じみた理由から。

さらに、そんな自由はもともと存在しないのに、それをあると前提して、
それを基盤に思索体系を構築しても無意味。それに巻き込まれた人は確実に社会に対する適応障害の被害者になる。

たとえば、「老い」を対他とみなす試みだけど、これはすでに現在社会でかなり広がっていると思う。
でも、その結果は悲惨なものになると思う。それすら自由というならしょうがないけど、はっきりいって害毒でしかない。
234wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/12(水) 16:48:52 0
このスレ、「自由を狭隘化し、賢い人たち(一部の選良)の僕になるのはあなたがたの社会的使命だよという偏差値教育を受けたものたちの果てレス」が充満してる。

235wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/12(水) 16:54:38 0
>233
「老い」は対他-対自存在。
それが悲惨なものになるのは、生産に関わらないものたちを排他していく国家資本主義の当然の結果。
おじ捨て、姨捨の時代から、「規範」は何も質的に変化していない。
236wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/12(水) 16:56:49 0
>>234
×「偏差値教育を受けたものたちの果てレス」
○「偏差値教育を受けたものたちの、なれの果てレス」
237考える名無しさん:2008/11/12(水) 17:16:09 0
>>235
「老い」は対多と言い張っても肉体的衰えはどうなるものでもない。
アンチエージングなんていうのは、老いつつある人がいつまでも若者と同じでいたい
という「老いからの自由」を求めたものだけど、その思いは悲惨な結末を迎えることは避けられない。
その思いは社会から期待される「老人」の役割(つまり、次世代への橋渡し)を放棄し
自身も若者と同じように生きることを望ませる。

性別も老いも本質は決まってる。それを見ないは、対多なんて概念に該当するかどうか
にかかわらず、現実を無視/破壊してるだけ。それをする自由があるというなら確かにそうだが
それは害毒でしかない。
238wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/12(水) 17:19:47 0
>>237
もう一度だけ書くけど、老いは対他ではなく、「対他-対自存在」。

本日はこれまで。
239考える名無しさん:2008/11/12(水) 17:21:17 0
>>238
ばかなの?
240飛べないカラス:2008/11/12(水) 18:12:18 0
単細胞生物がしばらく多細胞生物へと進化できなかったのは細胞間の連携が難しかったからだと
思われる。単純に個々の細胞の生存能力が上がっただけでは他の細胞と連携することは出来な
かった。
それがあるときある性質の獲得によって細胞間の連携がうまく出来るようになり、多細胞生物の
爆発的進化を可能にした。その性質は現在の多細胞生物にもなくてはならないものである。
もちろん人間の細胞にもその性質が備わっている。
241飛べないカラス:2008/11/12(水) 18:19:24 0
>>228
> >>226
> <そんなことは、単なる理性の利害調整にすぎない。>
> そんなことは、単なる「経済的合理性」に身をまかせ、「エポケーに陥ることの快への馴化」、即ち、
対他-対自存在の機能停止という「超越的」選択にすぎない。

> >>226に反論するには飛躍しすぎている。
242NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/11/12(水) 20:49:23 0
理不尽な世界で合理的であるべきだ

そもそもコレが間違えてるから

残念でした
不条理なんですね
243考える名無しさん:2008/11/14(金) 00:52:03 O
常識的判断は理性的判断であるか?
違う。
常識は我々の文化の経験的集合値だろうか?または平均だろうか?
いずれも違う。
244考える名無しさん:2008/11/14(金) 09:47:01 0
人間には、限界がある。
その限界を「神」と呼んで無条件に受け入れるか、
その限界を意識しつつ、自発的にその枠内に留まるために理性を働かせるかの違い。

後者の場合は、形式的には「自由」は維持されている。あくまで形式的だけど。
245考える名無しさん:2008/11/14(金) 18:40:49 0
本質的に、エゴイストとは精神が自由な人、
誠実な人とは、精神の自由を放棄した人といえると思う。
246考える名無しさん:2008/11/14(金) 18:46:43 0
>>245
>誠実な人とは、精神の自由を放棄した人といえると思う。

さすがにこれは言いすぎであろう。
精神の自由をそう簡単に放棄できるわけがない。
247wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 00:15:01 0
>>245
>246
そういう見地から言うなら、「自由の領域」が狭められている/いってしまう危機感を、いかに多少で、つぶやきにすぎなくても、どこまで持ち続けられるか。
それが、かりに自問で終始したとしても、問い続けていく/いかざるをえないのが哲学の領域。
そのための武装が想像力であり、存在選択。
248wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 08:39:47 0
>247
「自由」は、「〜から自由である」の謂いではなく、「私(たち)の存在を規定してくれるものは、何も無い、誰もいない」ということ。
即ち、自由こそが、実存の眉間に突きつけられている「刃」。
これは常に試されている。
例えば、言論の自由がある程度は保証されている現在において、戦争反対などを叫ぶ行為ほど自明でたやすいことはない。
朝日新聞等の社説等は、過去も現在も、本当のファシズムの中では無力、即ち「不自由」。
249考える名無しさん:2008/11/15(土) 09:02:40 0
人間は元々自由じゃないし、
自由を目指すこともほとんどの場合善ではない。
少なくとも無条件で善ではない。自由自体に何か価値や特別な意味があるわけでもない。

欧州啓蒙主義時代の亡霊に振り回されすぎたね。
その時代にのみ固有・特別に、自由に価値が特異的に存在しただけ。

自由なんて概念を主題にして何かものを考えること自体が無意味。
250wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 09:08:05 0
>>249
では、「自由」以外の規範とは?
251考える名無しさん:2008/11/15(土) 09:13:12 0
自由って規範じゃないでしょ。むしろ、自由を制限するのが規範なわけで。

というか、自由なんてものに特別な意味を付与しても無駄。
まして、自由が規範はありえないにしても、自由をイデオロギー的理想にすること自体が無意味。
自由にそんな特別な意味はない。
252wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 09:29:00 0
>251
自由と規範はゼロサムに納まるものではない。
webのような規範内存在の中における超越の方向性。
もちろんイデアだけど、しかし、それを規範にしたい、ということ。
253考える名無しさん:2008/11/15(土) 09:37:29 0
>>252
規範にはならないって。規範とは、自由を制限することだから。
自由をイデアにするのは意味がない。自由にそんな特別な意味はないし。亡霊なんだよ、近世欧州の。
254wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 09:45:08 0
>>251
所与としての規範をひとつづつ無限に剥がしていく先は、free from anything、即ち、自由にして、無。
形而下の実態だが、とてもヒトが棲める場ではない。
そこで、なにがしか価値あるものにみえるもの(規範)に身をゆだねていく。
要はそれをどれだけ意識してしまうか、無意識でいられるかだけの程度の差異。

255考える名無しさん:2008/11/15(土) 09:54:26 0
>>254
価値があるもの=規範じゃないって。
自由を制限するもの=規範

自由を制限しなきゃ規範じゃないだろ。何やっても良いっていうのが規範?

規範をはがしていくとか、身をゆだねるとか、自由にそんな価値はないって。
いくら哲学でも無意味なことに時間は使いたくないでしょ。
256wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 09:56:09 0
>>253
<亡霊なんだよ、近世欧州の>

現在における私(たち)の心的現象としても恒常的/断続的に実在している。
そこが、厄介なんだよ。
257考える名無しさん:2008/11/15(土) 09:57:52 0
>>256
イデアとして棲みついてるからね。
このイデアが厄介なんだよ。神の代替だけどね。まあ、神は神で問題があるんだが。
258wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 09:59:36 0
>>255
<価値があるもの=規範じゃないって。
自由を制限するもの=規範>

自由でしかありえない寂寥をひと時でも忘れさせてくれる。
それが規範。
259考える名無しさん:2008/11/15(土) 10:01:49 0
>>258
文学的すぎw

自由を制限するもの=規範

260wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 10:05:59 0
>>257
<イデアとして棲みついてるからね>

どうも噛み合わないが、自由は、イデアとして能天気に棲みついてくれているものではなく、そこに身をおくことなど一瞬でも不可能な時空だよ。
261NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/11/15(土) 10:08:10 0
ある者の自由はある者の拘束なんですよ
そこでハムラビ法典です
262考える名無しさん:2008/11/15(土) 10:09:53 0
>>260
だから、自由にそんな意味づけしなくていいって。
たいそうな意味を付けすぎなんだよ。

自由がイデアとして棲みついている自由病の人が現代に一定数いる。
その病状を分析するために、そういう思索を行うなら意味があるが。
263wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 10:11:14 0
>>259
<自由を制限するもの=規範>

ステレオタイプすぎw
自由からのせつな的緊急回避先=規範
264考える名無しさん:2008/11/15(土) 10:14:03 0
>>263
せつな的ってなんだよ。
自由に意味付けしすぎるのをまず止めた方が良い。
自由をただ制限するのが規範。
265wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 10:21:55 0
>>264
<自由をただ制限するのが規範>

規範は自由の中にいたたまれないがゆえにそのつど捏造されていくもの。
神やら純粋理性をこしらえ続けていくのが、ヒトの性(さが)。
266NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/11/15(土) 10:24:37 0
自由幻想です
ガチガチに拘束された一本道を歩んでいるだけです
267考える名無しさん:2008/11/15(土) 10:24:52 0
だからさ、自由を中心に思考するからそうなるんだよ。
逆でしょ。
人間社会にとって必要があるから、規範により自由を制限する。
それだけ。
268wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 10:30:23 0
>267
ヒトは本来、自由。
しかい、自由は虚無。
だから、自由のままでは、自分も社会も営んでいけないから、規範をこしらえていく。
それだけ。
269考える名無しさん:2008/11/15(土) 10:34:39 0
>>268
ヒトは最初から不自由なんだが。
社会的にはもちろん、肉体的にも、さらには精神的にさえ自由ではない。
あらゆる制限が存在する。生まれたときから死ぬまでね。
270wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 11:30:11 0
>>253
<規範とは、自由を制限することだから>
規範のアントニムに、自由をもってくる理由は?

>269
同じく不自由のアントニムに、自由をもってくる理由は?

自由と規範/制約のどちらが本源的なものか?
それを問うことは本来的に空しい。
しかし、規範が紙の上にかかれうるものであるかぎりは、規範の方を弾劾し続けるしかない。
どちらがどちらの鏡像かは問わず、自由の方は、おそらくは永久にヒトからは取り除けず、且つ、えたいもしれないものだから。

271考える名無しさん:2008/11/15(土) 11:38:31 0
>>270
>自由と規範/制約のどちらが本源的なものか

別にどっちも本源的じゃない。自由を特別視するから、それに対する制約も特別視したくなるだけ。
272wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 11:41:13 0
>271
スレタイが規範だから。
テーブルと枠をこさえない議論は空論。
273考える名無しさん:2008/11/15(土) 11:45:08 0
言えるのは、人は生まれついて自由じゃないっていう事実だけ。
でも、そのことを特別視する必要はない。自由を特別視しなければ、
自由じゃないことも特別視する必要はない。

>272

このスレは規範がテーマだけど、規範が本源的ってことはないでしょ。
はじめに規範ありきじゃないし。あくまで、必要だから作られるだけのものでしょ。
274考える名無しさん:2008/11/15(土) 11:47:52 0
そもそも、自由か規範かなんて対立軸はどうでもよい。
問題なのは、どういう規範かってことだから。自由を特別視するから、自由か規範かっていう対立軸になる。
275wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 11:53:53 0
>>273
<言えるのは、人は生まれついて自由じゃないっていう事実だけ。>

揚げ足とりと取るのは自由だが、「自由じゃないことも特別視する必要はない」と、
「言えるのは、人は生まれついて自由じゃないっていう事実だけ」という文言が矛盾しているのは自明。
制約に対し、「無-制約」という対概念があるからこそ、制約だけが踊り出てくる。
276NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/11/15(土) 11:56:33 0
痛い思いをするだけの世界に生まれさせられる自由ですか?
277考える名無しさん:2008/11/15(土) 11:58:19 0
>>275
だから、「ヒトは本来、自由」の反論として「人は生まれついて自由じゃない」と
言ってるだけ。それだけの話。特別視してるわけじゃない。
278wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 12:00:52 0
>>274
<問題なのは、どういう規範かってことだから。>

とりあえずのお題は、宗教と理性でしょ。
だから、それらは、ヒトが自由であることに由来する捏造物という解釈を書き続けているだけ。
279wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 12:07:04 0
>>276
そのように問えてしまうのも、生を受難と受け止めるのも、生物の中でヒトだけがたまたま自由だからこそでしょ。
280wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/15(土) 12:10:54 0
>>277
最初に制約ありき、と書いたのは、君の方だったというのは、間違い?
281考える名無しさん:2008/11/15(土) 13:41:21 0
最初に自由ありき、じゃないから。
最初に制約ありき、とは言えると思うけど、別にそのことに特別な意味はないでしょ。
他にも、世の中にはさまざまなもの、ことが存在する。その中の一つの要素でしかない。

それから、人にあるのは自由じゃなくて知能ね。
282NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/11/15(土) 14:13:39 0
動物なんて微生物に分解される分際で何が知能だろうね
283考える名無しさん:2008/11/15(土) 16:36:18 0
http://www.geocities.jp/oshi_ete_kun/syukyou.html
キリストを信じることは宗教に入ることですか?
284考える名無しさん:2008/11/15(土) 19:03:47 0

自由でなければならない理由って実は現代では既に何も存在しない。
封建時代ならともかく、現代において自由を求める意味はすでにまったくない。
まず、不可能なものを求めてもしょうがないが、仮に可能だったとして、それで何が良くなる?
本能の赴くままに自由に出来て楽しいってことだけ。そんな状態が楽しいのは最初だけ。

人間は山のような責任やら役割やら仕事やらを押しつけられて、それに文句を言いながらも
生きていくしかない。それが健全な姿だし。責任やら役割やら仕事やらを背負うことで、
自由からは遠ざかり、それに伴って自身の自我は透明化していくことになる。それが幸福なんだよ。
自由を求め、それに伴って自我を色濃く肥大させていくことは、結局悲惨な不幸を招くだけ。
人間はそういう風に出来てる。
285考える名無しさん:2008/11/15(土) 20:08:33 0
人間が自由でない理由など何もない。
封建時代ならともかく現代において自由を制限する意味はまったくない。
本能のままにしか行動できないならそれは自由ではない。
自由とは自分の意思に従って行動できることだ。
自由のないところに責任はないと言われる。
しかしこれには合理的な理由はない。
自由と責任は関係ない。
自由とは強制されないこと、自分の意思に従えること、それだけだ。
286考える名無しさん:2008/11/15(土) 20:29:57 0
生物は細胞と言う構造により自己と外界を区別するようになった。
自己を知ること、これが知能だろう。
287考える名無しさん:2008/11/15(土) 21:47:03 0
>>285
自由な人間なんて存在しないんだが。生まれてから死ぬまで人間は自由じゃない。
あらゆる内外の制約が存在する。
そして、性別、年齢に応じた役割が求められる。性別は選べない。年齢は選べない。
職業でさえ、自由に選ぶのは無理。一部の優秀な人以外は妥協で選んでる。
優秀な人であっても自由に仕事ができるわけじゃない。
みんなが自由な行動をすれば、当然のように衝突する。
自由な人間なんていないんだが、どこの世界に住んでる人なんだ?
288考える名無しさん:2008/11/15(土) 22:22:58 0
生物は自己を持つ。生物の生命は自己の生命による。
これが基本的な生物の自由だ。
人は生まれてから死ぬまで一人で自己により生きるしかない。
だれもあなたの自己の代わりはできない、かけがえのない
あなたの自己により生きる、それが自由と言うことだ。
289吉田メロウ:2008/11/15(土) 22:24:35 O
>>287
目的があってその為の日々を過ごしている人間は、自由を行
使してると言えるだろう。しかし目的もなく、迷いの中にい
る人間の日々はとても不自由なことだろう。「自由」の概念
や意味は、時代や文化や制度の違いによって変わる。それは
動機付けられた人間の姿を意味するものであり、どこかに自
由という状態がポンと存在するわけではない。
(´-`;)yー~~
290考える名無しさん:2008/11/15(土) 22:27:25 0
自由とは何事も自己に依り、他に依らない、それだけのことだね。
291考える名無しさん:2008/11/18(火) 07:37:43 0
自由にへんな理想、イデアを意味づけしすぎてる。
自由とは、「制約のない状態」。これ以外に特別な価値とか意味はない。

経済的に自由を求めれば、それは自由主義経済になるけど、
これと個人的な自由も繋がってる。個人で「自由」に過剰な意味づけをしても、
あるいはどんな思い入れをしても
集約されれば、「自由」の意味は中立的になって、
最も生活に影響を及ぼす経済の面では「自由主義経済」になる。
292考える名無しさん:2008/11/18(火) 12:01:33 0
>291
誤解をおそれて言えば、資本主義社会ほど不自由なものはないだろ。
全部、自分で決められるといいながら、自分で決められることなんてほとんど無いんだから。
キャリア官僚や偏差値秀才等の特権階級のパイも限られているし。
もちろん社会主義も嘘っぱちだけど。
293考える名無しさん:2008/11/18(火) 12:17:02 0
>>291
自由主義経済=大資本主義経済→不自由社会
294考える名無しさん:2008/11/18(火) 12:18:11 0
>>292
自由に何かの意味づけをしなければ、制約がより少ない資本主義が今のところ最も
より自由な体制でしょ。さらにより制約が少ない体制が発明されるかもしれないけど。

まあ、ある人の自由は、その他すべての人の自由と対立するから、すべての人が
自由になるっていうのは原理的にあり得ないけど。

肉体的、能力的な制約は取り除きようもないけど、社会的な制約は
社会の合意があれば取り除くことはできるよね。それが自由主義経済社会の
目指す方向なんでしょ。

とりあえず、自由に変な意味づけをするのは止めるべき。
自由=制約のない状態。これ以上でもこれ以下でもない。
295考える名無しさん:2008/11/18(火) 12:28:05 0
>294
パレート最適は可変的。
この調整は政治力学(発言力は資本の大きさに比例)。
296考える名無しさん:2008/11/18(火) 12:34:03 0
>>294
社会の表層だけをそのまま描画することは哲学ではない。
297考える名無しさん:2008/11/18(火) 13:10:44 0
>>296
別に良いでしょ。この板的には、哲学と社会の表層の関係について
考えればいいんじゃないの?
298武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/19(水) 02:55:42 0
自由主義的な自由は無法地帯ではありません。当然なことですが。
何でもあり=無法地帯ではなく、秩序ある自由です。

秩序とはなにかといえば、自由主義は経済活動と深く関係します。
だから経済活動の自由です。自由な経済活動が、経済発展を生む。

だからそれから逸脱することは、制限されます。
まず法によって制限されます。たとえば経済活動に逸脱する略奪は
罰せられます。
次に経済的な主体になるように、生まれたときから規律訓練されます。
貨幣交換による経済活動に従事することが当たり前であるように
訓練されます。

現代の自由は、このような人類史の中でももっとも高度は秩序、
それはある意味でもっとも制約的、の上に成り立っています。
299武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/19(水) 03:06:34 0
さらには生権力ですね。市場というマクロな秩序によって政策が決定し、
経済活動のあり方を決定する行政政策、法令によって社会が制約されます。
たとえば金融証券規制を緩和すれば、人々の経済活動はそちらへ向かうで
しょう。そのような余波は知らないところで人々の生活に影響を与えます。
ミクロには学校、病院などなど身の回りの規律として決定されます。
自らのあり方がなぜそのようであるかを考えると、多くがマクロ秩序の
影響を受けています。

このような影響は〜しなければならないという「強制」という形では現れません。
調整という形で間接的な影響を受けます。童話の北風と太陽のような
ものでしょうか。人は方かも自らの意志として、上着を脱ぐのです。
300武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/19(水) 03:21:24 0
何でもあり=無法地帯というのは、なかなか存在しないでしょう。
人々が集まれば、そこにルールが現れ、秩序としての公共性が現れる。
そして何でもありは制約される。

確かに現代は、制約は少ないでしょう。そもそもこれだけ人が多く、
流動性が高いと、強い公共性を管理することは難しい。
儀礼的な無関心のような、干渉しないことが公共性を支える。
しかしこのような高度は「間合い」は豊かで、高い規律訓練をされた集団
でなければできない高度な秩序です。

人々は生まれながらに高度は教育をされるために、それが制約を
思わないが、制約が少ない秩序ある社会が営まれるには、
そのはじめに高度に教育され、規律訓練された主体が必要と
されるのです。

301考える名無しさん:2008/11/19(水) 08:09:18 0
>現代の自由は、このような人類史の中でももっとも高度は秩序、
>それはある意味でもっとも制約的、の上に成り立っています。

自由が制約の上に成り立っているというのは矛盾以外の何者でもないけど
結局、自由というイデアを上げながら、現実への整合のために制約を設定している、
ということだと思う。

その自由というイデアの設定が必要なのかというのが疑問。もちろん現実はさまざまな制約を
課さなければいけないわけで、自由でありようがない。それでも、無理矢理、自由をイデア
として設定する。それは、絶対に実現しない、あるいは実現させてはいけない状態を
イデアとして設定することになる。そんなイデアをお題目じゃなくて、実際に持ってしまった
人間は社会不適合を起こすしかないんじゃないか、と思う。
302wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 12:16:28 0
>301
自由をイデアというから誤解を生むのかな。
自由は、根源的なものにして本質。
自由への希求ではなく、自由からの逃避先が神とか純粋理性。
303wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 12:25:24 0
>302
「本質」というと、また誤解を生みそうだから、自由であることは「理由づけられえない事実性」。
何故、ヒトだけに自由があるのかを理由づけられないのは、ヒトの思考基盤からは推し量れない「偶然性」。
304wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 12:37:31 0
>>300
<儀礼的な無関心のような、干渉しないことが公共性を支える。>

ぴかぁ〜さん、これこそ、統治者/為政者/独裁者にとっては、最も好都合な社会ですね。

305wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 12:39:00 0
>304
事実、そういう社会になっていますが。
306wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 13:00:18 0
>>302
<自由への希求ではなく、自由からの逃避先が神とか純粋理性。>

または、「私の外部」から、私の思考/行為を規定し続けてくれる「規範一般」。
307考える名無しさん:2008/11/19(水) 13:48:42 0
完全な自由は根源的にも原理的にも、存在し得ないんだが。
ループしてるけど。ある人の自由は、その他の人の自由と衝突する。

現実に存在し得ないものを、理想として設定した概念はイデアでしょ。
まあ、名前にこだわってもしょうがないが。

まあ、自由とは単純に「制約のない状態」のことだけどね。その単純な状態でさえ
現実には実現不可能なんだが、それよりもさらに難しい理想的な何かを
考えても意味がない。
308考える名無しさん:2008/11/19(水) 13:56:43 0
「本能のままに生きるの」は自由じゃないとか
勝手に意味を決めてるだけ。

自由とは、制約のないのこと。本能のままに生きてももちろん
かまわない。もちろん、本能のままに生きなければならないってことはない。
本能のままに生きるのも自由、そうしないのも自由。ただし、結果責任は生じる。
まあ、自由じゃなくても結果責任は生じるが。

本能のままに生きるのは自由じゃないなんて勝手に意味づけしても意味がない。
自由とは制約のないこと、それ以上でもそれ以下でもない。
309武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/19(水) 14:14:34 O
イデアとは形而上学的な意味論だと思います。経験論的には歴史主義に回収されるものでしょう。
310wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 14:41:02 0
>>307
<1.ある人の自由は、その他の人の自由と衝突する。>
<2.現実に存在し得ないものを、理想として設定した概念はイデアでしょ。>

1と2は矛盾。
衝突するものは存在するから。
しかし、私が書いている自由とは、規範を作り続け改変し続けているヒトを突き動かしている根源的な要因となるもの。

>>309
<イデアとは形而上学的な意味論だと思います。>

存在論、認識論、且つ疎外論として書いています。
311考える名無しさん:2008/11/19(水) 14:50:12 0
>>310
><1.ある人の自由は、その他の人の自由と衝突する。>
><2.現実に存在し得ないものを、理想として設定した概念はイデアでしょ。>

>1と2は矛盾。

1だから2なわけ。まあ、1がなくても、つまり世界に自分一人しかいなくても、完全な自由は
実現しないけどね。範囲を限定する部分的自由なら、1を考慮しても存在するけど、その範囲の境界での葛藤も
すごいだろうね。


>ヒトを突き動かしている根源的な要因となるもの

それが「制約のない状態」、つまり自由ってことね。完全な自由に近づくために、つまり、あらゆる制約を
取り払うために、あがき続ける。
でも、それは絶対に実現しない。
312wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 15:13:21 0
>>307
<自由とは制約のないこと、それ以上でもそれ以下でもない。>

本来、何の制約も無く、且つ制約が無い世界ではヒトは生きられないからこそ、自らの、そして他者の思考/行為を縛りあうために規範をつくり続ける。
私の自由と他者の自由とはトレードオフの関係。
しかし、自由⇔規範は、1枚のコイン(ヒトの認識/存在のありよう)の裏表。
313考える名無しさん:2008/11/19(水) 15:23:08 0
>何の制約も無く、且つ制約が無い世界ではヒトは生きられないからこそ、
>自らの、そして他者の思考/行為を縛りあうために規範をつくり続ける。

制約のない世界は存在しない。人間自身が時間的、空間的、能力的な制約を生来に抱えてる。
存在しない世界の心配をして、規範を作ってるわけじゃない。
人間自身が時間的、空間的、能力的な制約を抱えてるからこそ、つまりすでに制約が存在するからこそ
その制約を逸脱しない安全装置としての規範がその物理的制約よりも手前に設置されてる。

314wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 16:41:33 0
>>313
<つまりすでに制約が存在するからこそ>
<その制約を逸脱しない安全装置としての規範がその物理的制約よりも手前に設置されてる。>

それらの制約とは、どこから来るのだろうか?
制約/欠如を認識するのは、「欠如者」としての現実の存在者(実存)に固有のもの。
欠如を世界に現前させ、実存と欠如とを、同時に、同一の全体の統一の中でとらえ、その全体性のなかで「欠如を被るもの」として自分を構成するのが対他-対自存在。
即ち、対他-対自存在(人間存在)は、自分に欠如している全体に向かって自分を欠如していなものへと超越する。
それが、「<自分があるところのものであれば、そうであるであろう特殊な存在>に向かって超越を繰り返す」ヒトの存在のありよう。
制約は所与のものではなく、超越により、全体性を取り戻そうとする対他-対自存在特有の「全体性」取戻しのための営為(=自由)。

即ち、「その物理的制約」を「欠如」として受け止め、「その制約を逸脱しない安全装置としての規範」を設置するのは、対他-対自存在側(自由側)であり、所与としての即自存在側ではない。
315wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 17:05:04 0
ヒト以外の生物の行動「規範」は、縄張り争いであったり、最強のものを群れのボス/統治者として「設置」し共同体にとって無駄なふるまいを最小化するようなものであり、おそらくは>>314のようなヒト固有のものではないだろう。
316考える名無しさん:2008/11/19(水) 17:08:05 0
>制約は所与のものではなく、超越により、
>全体性を取り戻そうとする対他-対自存在特有の「全体性」取戻しのための営為(=自由)。

制約は、意識、思考そのものにも存在するよ。
人間はあらゆる思考を行うことはできない。その能力がないし、それに耐えることもできない。
つまり、制約は所与のものとして既に存在する。

>即ち、「その物理的制約」を「欠如」として受け止め、「その制約を逸脱しない安全装置としての規範」を設置するのは、
>対他-対自存在側(自由側)であり、所与としての即自存在側ではない。

対他-対自存在側といっても自分自身ではないからね。人間社会全体を一つの意志とみなして、
それが自由かどうかを考えてもしょうがない。
317wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 17:18:22 0
>>316
<人間はあらゆる思考を行うことはできない。その能力がないし、それに耐えることもできない。つまり、制約は所与のものとして既に存在する。>

「あらゆる」という全体性の概念はどこからくるの?

<対他-対自存在側といっても自分自身ではないからね。>

「制約」は、個々のヒトそれぞれにとって固有のものだよ。
318考える名無しさん:2008/11/19(水) 17:35:11 0
>>317

ある人にとって可能な思考が他の人にとって可能ではないことはよくあるでしょ。


319wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 17:47:22 0
>318
偏差値を取れるような画一的なものも、日常生活一般内のことがらにおいても、可能/不可能と受け止める/引き受ける制約のありようは、もちろん個々に固有のもの。
320考える名無しさん:2008/11/19(水) 17:55:40 0
>>319
>可能/不可能と受け止める

思考の制約なんて本人は気がつかないけどね。

>個々に固有のもの

人類全体の意志なんて考えてもしょうがないでしょ。
321wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 18:10:15 0
>>320
<思考の制約なんて本人は気がつかないけどね。>

個々人の間のレベルの差異は別として、大方のヒトが日常的に個々の世界の領域内では気が付いているというか、四六時中、痛感しているんじゃないの。
絶対評価軸等は無いけど。

<人類全体の意志なんて考えてもしょうがないでしょ。>

考えたくても、考えようとしても、考えられる基盤は無い。
個々の対他-対自が抱く自分にとっての「全体性」と、そこから常に逃れていき、再構築を迫られる他者の思考まで、かな。
だから、紙の上に書かれた規範やら、映像(編集者やらスポンサー等の介入があるから危険極まりないけど)等を媒介として、斟酌するしかない。
322考える名無しさん:2008/11/19(水) 18:18:05 0
>>321
痛感してるかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。それは本人と環境次第。
別に、制約が意識されてなくても良いんじゃないの?
323wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 18:27:58 0
>322
<別に、制約が意識されてなくても良いんじゃないの? >

ヒトが自由の中に放り出されている存在である限り、欠如/制約/全体性等は否応無く意識するでしょ。
そして、欠如/制約/欠如を超越した全体性、等を補完してくれるもの/与えてくれるもの、に見える「規範」を拵え、そこに一時でもいいから絶対的なものとして置き、そして、そこに逃避し続ける。
324考える名無しさん:2008/11/19(水) 18:30:12 0
>ヒトが自由の中に放り出されている

放り出されてないでしょ。ある限られた範囲で思考して、行動してるんだよ、ヒトは。
325wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 18:33:07 0
>324
<ある限られた範囲で思考して、行動してるんだよ、ヒトは。>

そのように決め付ける越権は規範に属する。
326考える名無しさん:2008/11/19(水) 18:37:46 0
>ヒトが自由の中に放り出されている存在

こっちが決めつけでしょ。ある限られた範囲で自由な選択ができるってだけ。
ヒトが生物である以上、制約からは逃れられない。
327wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 18:54:26 0
>326
では、生物を超越するウルトラマンやらスーパーマン等の惑星外生物型/変身可能型オールマイティロボットへの変位への可能性におすがりなさい。
328考える名無しさん:2008/11/19(水) 18:58:37 0
>>327
すがる必要はないでしょ。自由でないのは自明なんだから。
限られたコンテキスト、条件、範囲で自由を尊重すべきっていう社会的配慮が存在するだけ。
その配慮の下でも、求められた自由が保証されるとは限らない。
329wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 19:13:00 0
>328
では、あらゆる制約から自由になるため、生物を超越するウルトラマンやらスーパーマン等の惑星外生物型/変身可能型オールマイティロボットへの変位への可能性におすがりなさい。
330考える名無しさん:2008/11/19(水) 19:20:11 0
>>329
別に自由を目指さなくても良いでしょ。
無理なものを目指してもしょうがないのでは?
331wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 19:25:35 0
>330
別に制約を絶対的なものと置かなくてもいいでしょ。
乗り越えられない制約として個々人の手前勝手で「意味づけ/価値付けされたもの」は、その人にとっては乗り越えようもないのでは?
332wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/19(水) 19:29:53 0
>331
×その人にとっては乗り越えようもないのでは?
○その人にとっては乗り越える必要性もないのでは?
333考える名無しさん:2008/11/20(木) 06:45:34 0
生物である以上、乗り越えることが出来ない制約が存在するんだよ。
生まれてから死ぬまでのサイクルそのものが、制約だし。
だから、制約は絶対的に存在する。それは、どうしようもない事実。
ここで指摘するまでもない話。

制約のない自由を得るには、理性のみの霊のような存在になるしかない。
肉体を持つ人間には無理。
334考える名無しさん:2008/11/20(木) 10:02:05 0
自由じゃなくても結果責任が生じるとあったけど、
判断能力のない精神病患者が犯罪を起こしたときに
罪に問われないのは、「自由のないところに責任なし」の原則に従ってるから。

こういう部分にも、過去の病気の哲学者の悪影響が及んでる。
335考える名無しさん:2008/11/20(木) 11:34:59 0
>334
>「自由のないところに責任なし」の原則

自由じゃなく責任能力ね
それと過去の病気の哲学者って誰よ
336考える名無しさん:2008/11/20(木) 11:35:00 0
このことは、理性の制御下で犯罪を犯したのでなければ、
つまり、理性が道徳・法を認識しながら、意図して道徳・法を
犯したのでなければ、責任は生じないという考え方。

これは、理性以外は道徳を認識できないって言ってるのと同じ。
この部分が根本的に間違ってる。このスレの論点もきっとここにあるんだと思う。
337考える名無しさん:2008/11/20(木) 11:44:01 0
さらに言えば、理性以外は人間の精神活動とすらみなしていない
ということになる。この奥には、とんでもなくいびつな考えが潜んでる。
338考える名無しさん:2008/11/20(木) 12:14:49 0
にわかに劣情を催し、同女を姦淫しようとしたが、被告人の陰茎が勃起しなかったため、その目的を遂げなかったものである。

 にわかに劣情を催し、同女を姦淫しようとしたが、被告人の陰茎が巨大であったため、膣内に陰茎を挿入することができず、
その目的を遂げなかったものである。

 罪名及び罰条 強姦未遂

http://school.2ch.net/shihou/kako/998/998937590.html
339wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/20(木) 13:01:33 0
>>336
>337
確かに、もしヒトが完璧な理性などを持ち合わせていたら、道徳やら法をつくっていく必然性も無い。
340考える名無しさん:2008/11/20(木) 17:16:58 0
精神病患者が犯罪を起こしたときの「責任能力がない」
とはどういうことだろうか?

彼らが、理性により善悪を把握しないで、衝動的に犯罪を
犯した場合、つまり理性によりその行為の非道徳性・違法性
を把握することなく、そして理性によりその行為を選択したのではなく、
衝動的に犯罪を犯したときに、その行為に「責任能力がない」とされる。

これは、理性に従って「思いどおり」にその行為を行ったわけでない、

つまり、自由意志によって、その行為を行ったわけでないために、責任能力がないとされる。

このように、理性の管理下にない行為は、「自由」な行為とすらみなされず
したがって、責任能力すら問えないのである。
つまり「自由のないところに責任なし」である。

このいびつな「自由」観は、病気の哲学者の業績であるが、このように実生活にさえ
悪影響を及ぼしている。
341飛べないカラス:2008/11/20(木) 19:26:30 0
>>1さんは居ないのでしょうか。のっとられちゃったようですね。スレの主旨と違ってきてます。
342考える名無しさん:2008/11/21(金) 10:50:55 0
理性によらない道徳が、このスレの真のテーマかもしれない。
狭い意味の信仰心だけじゃなくて、論理的じゃない感覚的な
モラル意識というか。日本人独特の道徳観も決して論理的なものじゃない。

そういう道徳観を持つ意識は、理性の範囲外にあって
それでも、人間なら誰でも持つことが期待されている。

心神喪失で理性を喪失していても、そういう意識が働いていれば
罪は犯すはずがない。そういう前提が特に日本人には強くて、
心神喪失時に責任能力を問わないという法律に違和感が強いんだと思う。

この法律の背後には、理性によらない行為は自由な行為と見なさないという
考えがある。この考えは、自由を欲するあまりに、理性のみを対象と限定する
ことで、その理性が「自由」であるとみなしたい願望があると思う。
これは大変に危険な考えだと思う。

そして、この考えには、驚くべきことに人間の規範・道徳は理性によってのみ
維持するべきという前提が隠れていることになる。それは、社会全体を
「エゴイスト」の集団に変えてしまうことになる。
343考える名無しさん:2008/11/21(金) 18:19:40 O
毎日「愛してる」と言わなければ、離婚に不利になるという伝説について考察してみよう。
毎日愛してると思うから言うのか?
夫婦ならば当たり前だから儀礼として言うのか?
妻を愛すべき存在だから進んで愛そうと良い点を探り、
愛し、愛してると言うのか?
能動的であり、
偽善的であり、
自己洗脳的であり、
このまさに普通とは何か?
この「愛してる」について規範を説いてみて欲しい。
344考える名無しさん:2008/11/21(金) 18:44:43 0
>>343
興味深い例だけど、ちょっと考えさせて。

一応、>>342の続きだけど、たとえば泥酔して心神喪失状態
になって犯罪を犯した場合、泥酔したこと自体に理性が関与しているので、
免責にはならない。でも、心神喪失状態には変わりない。そして、
泥酔して心神喪失状態になったときに、誰でも犯罪を犯すわけじゃない。
そういう状況でも犯罪を犯す人はほんのわずかでしかない。それは、精神障害者の場合も同じ。

泥酔した場合でも、精神障害者の場合でも、
理性というブレーキが外れた状態で、犯罪を犯すかどうかは、
まさにその人の純粋な人間性そのものに依存しているのでは?
その純粋な人間性に起因する行為に対して、責任能力がないとはどういうことだろう?

それは、こうした純粋な人間性に対して責任を課すことは、「自由のないところに責任なし」の原則
に違反するからだと思う。つまり、この純粋な人間性は、本人が「自由」に変更・修正できない。
この「純粋な人間性」とは、ある意味「神に与えられた属性」と言えると思う。
そうした属性に依存して人を裁くことは、「人の理性」をある意味「神」とみなす現代文明において
最も忌避すべきこと、あるいは現代文明に対する冒涜とみなされることなんだと思う。

しかし、「純粋な人間性」をこのように軽視することは問題ないんだろうか?

345考える名無しさん:2008/11/21(金) 22:09:27 O
純粋な人間性とはいい考えですな。
知的障害者でも天才(例えば小室被告)でも純粋な人間性においては分析がいかに進もうとまだまだ推し量れないだろう。
犯罪に関しては心の中身次第なはずだ。
制約は目に見える制約と見えない制約があると思う。
実際には見える制約のみで犯罪は裁かれるし、判断もされる。
しかし精神における問題は元々見えない制約であったものが、
医者が概念を与え、見えるものにする。
哲学においては概念を言葉に当てはめたりするだけではなく、
ある状態における思索の真理を概念に変換するだろう。
だが、原則となるべき前提は何か?
先の方が言うように犯罪においては純粋な人間性に依存するだろう。
自由における規範、
制約における規範、
いづれも純粋な人間性に類するだろう。
結果でしか判断出来ないと言うならば経験論も合理的理性もなく、
ただあるがままに当てはめているに過ぎない。
規範において合理的であらねばならない理由も別の機会に考えたい。
私は純粋理性は純粋な人間性よりも下位にある、いや、あって欲しいと思う。
346ラプラスの天使  ◆daemontaDA :2008/11/21(金) 22:27:45 0
怪しいスレですねw。

347ラプラスの天使  ◆daemontaDA :2008/11/21(金) 22:30:23 0
>>規範として宗教と理性

ファシズムとローマ教会とローマ法王ですかねw。

ろくなもんじゃんぇwww。
348ラプラスの天使  ◆daemontaDA :2008/11/21(金) 22:34:58 0
>>345
極めて合理的だ。

良いとか悪いとか合理的とかより良いとかの文言には、

裏があるからね。
349考える名無しさん:2008/11/23(日) 13:30:30 0
>>340
かりに脳科学が発達して、語の十全な意味でのマインドコントロールがもし
可能になった場合に、その実行犯の罪は問えると考えるわけ?
350考える名無しさん:2008/11/23(日) 14:37:09 0
>>349
問えないと思う。それは他者の意図にのみ従った行為だから。

精神障害者の場合には、その人の生まれ持った属性だから
その人の責任を問える。それは、理性の管轄外の属性だけど
理性によって、すべてのことを管理できるわけじゃない。
生まれ持ってそういう属性を持ち、その属性が不幸にして
活性化した場合には、罪に服さないといけない。
その人の生まれもった境遇は、どんなものでもその人が甘受しないといけない。
351考える名無しさん:2008/11/23(日) 15:04:21 0
>>350
それじゃあかりに他者に操られやすい、あるいは狙われやすいなんらかの弱点をその個人が
もっていた場合には、その責任をその個人は全部負うことになるの?
352考える名無しさん:2008/11/23(日) 15:13:41 0
>>351
全部の責任はかからないかもしれない。でも、責任はゼロにはできないよ。
理性による自由の範囲外の属性にも、その本人は責任を負う。
それは、本人にとって完全に運に左右されるわけだけど、その運をも本人が引き受けないといけない。

353考える名無しさん:2008/11/23(日) 21:32:51 O
そうだな。
理性は本能や振る舞いの良からぬものを抑えてしかるべき行動をとらせるべきだろう。
だが理性や概念が全てを抑えるわけではなく、
概念そのものの理解のありようによっては、
考えかたそのものも本人の特性を表すだろう。
精神分析ではないが
そのような考察で様々なタイプの人間がいると思う。
354考える名無しさん:2008/11/23(日) 21:59:59 O
神経や脳に障害があり、理性を持つことが出来ない人は過失においてなかなか責任には問えない。
または問いつめたところで保護者の責任にしか転嫁できない。
洗脳においては例え騙されたとした場合でも、
悪徳な類の宗教に騙される人など
自発的に動く一面からして
その行動、発言、振る舞いには責任を持つべきだろう。
犯罪においてそのような言い逃れをする人間がいたとして
果たしてそれが本人にとって良いことなのか?
自律的判断における制約がない振る舞いにおいては誰かがそのように言ったから
だとか皆がそのように考えているから
などの理由付けは真似として行うと自覚がない子供を除いては
理性的判断の要素の全てである時。
これは醜悪または白痴な「汚らわしい」と思う。
無論そんなもの通用するなら犯罪など犯すはずもないだろう。
だが本人はこのようなことを自覚すればするほど罪悪感に悩まされるだろう。
355考える名無しさん:2008/11/23(日) 22:37:52 O
法律はその背後に哲学的判断があると思う。
356考える名無しさん:2008/11/24(月) 00:16:44 0
宗教は規範でしかないだろう。ただそれが欠ければ人間はもっと殺すだろう。
道徳や倫理は社会という奴隷的社会を構成する為に必要なものだ。
道徳や倫理は大抵の場合宗教を拠り所とする。
なぜならば罪を清算する存在が必要であり、それが神に置き換えられるからだ。
実際には日本の場合は無神論が往々にしてあるゆえに異常犯罪が多い。
これはつまり宗教的道徳観念が欠損している結果とも言える。
親子の血縁殺人の多さや自殺率の高さは多くの宗教の規範には相容れない。

社会性を無視すれば理性や宗教はいらない。
殺人者には罪が無い。しかしそれでは不都合だと信じるものが大半
犯罪は今以上に増える。だから必要なのがアイデンティティとしての宗教
または道徳、倫理観。

これらに関してはこれを破るもの、つまり犯罪者や先天的理由からそれをするもの
については、認めることができないし罪を定義するのは一般の為で
決して犯罪者に対してではないことに注視しよう。
つまり犯罪を犯すものについては社会性では本当の意味では裁けない。
なぜならば彼らは社会性を無視、或は認識できないのだから。
一般は犯罪者を憎悪するが、不条理性でしかないこれらに憎悪を持っても
本質的にあまり意味が無いように思える。
357武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/24(月) 01:31:22 0
>>356
ほぼキチガイ発言。
人が集まれば、すなわちそのはじめから、社会はある。
動物でさえあるのだから。人々が生きるところに、規範をすでにある。
宗教はあくまで事後的でしかない。

>実際には日本の場合は無神論が往々にしてあるゆえに異常犯罪が多い。

こんな事実はない。むしろ西洋の宗教のもつ原理主義性が、
集団的な闘争を生み出してきた。

罪を憎むか、犯罪者を憎むか。
歴史的には「目は目を」犯罪者が憎まれてきた。
犯罪者を憎まず、罪を憎むのは高い司法的な秩序が
必要とされる。
それが社会的に認められるのはフーコーのいうように
生ー政治、すなわち資本主義経済重視という近年になってからだ。
なにが正しい、ということではない。
社会のあり方でしかない。
358考える名無しさん:2008/11/24(月) 01:37:07 0
別に犯罪者を擁護したつもりは無い。あしからず。
359考える名無しさん:2008/11/24(月) 11:50:10 0
人にとって、「神」は必ず必要なもの。絶対的に信頼できる「何か」が必ず必要。
そして、現代の「神」は人の理性なんだよ。理性とそこから発するヒューマニズム・人間至上主義(動物には理性はない)
への絶対的な信頼。それは、まさに神としての扱いだと思う。

昨日の島田伸介のチャリティ番組で、カンボジアへの寄附という名目でそれほど価値があるとも思えない
絵にそれほど裕福でない人たちが100万、200万の値付けを出していたが、あれはヒューマニズムという「神」
へのお布施だと思えば納得がいく。カンボジアや発展途上国への思い入れなんて庶民にはそれほどない。

でも、このヒューマニズムという「神」は他の一般的・伝統的な宗教の神とは違っていささか厄介。
それは、この神を信仰しているといつの間にか自分自身が「神」となってしまうから。

そのメカニズムを説明するのは簡単ではないんだが、とりあえずこのスレを見てる人には
ヒューマニズム・理性を「神」として絶対的に信頼するのは保留しておくことをお勧めする。
360武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/24(月) 11:57:53 0
>>359
原理として考えることは、神はコミュニティの価値であるということ。
宗教的な神でも、ヒューマニズムでも、その時代のコンテクスト。
そして価値の共有はなんらかのつり上げ点を持つ。それが神性。

ラカン、贈与論では、教科書レベルだ・・・
361考える名無しさん:2008/11/24(月) 22:57:04 O
社会における絶対的信頼を寄せる何かは神と同一の価値に似通っているが、
それに対して反動的に感情を爆発させるのが昨今の犯罪のようにも思える。
神は為政者には利用すべき者でもある。
よく「新聞を読め」と言われるが
本来の目的は情報の収集であるが、
大多数の人間が読むという集合の価値もあるように思えるだろう。
だが新聞には多くの見解や見通しが
「普通ならこう考えるであろう」という雰囲気を装いながらも
そこにあるテーマが存在し、
誘導的内容にもなっている。
新聞に絶対的信頼はなくとも
なんとなく目を通すこともあるが
かといってそれに左右はされたくないというのも
反骨的感情ながら
経験的な理性と合致することも多い。
何者にも左右されないと感じるかことは自由であるだろう。
その上で規範は主導的により良くあろうとするのが望ましのかもしれないと私は思うが、
実際には社会における様々な制約や困難な状況において規範が形を整え、
自由な状況を夢想しながら、
自己の規範となると思う。
しかしながら、そのような局面にない立場においては
さながら宗教的に信じ、
それに自己の時間や財を投資したり、
お布施をしたりする。
そのような人が多いとも思うが、
さすがに優しさや礼儀正しさが
制約なく出てくる時は否定し難く、
規範のレベルの低下を嘆くのは
そのような自由な善意を教条的に期待する、
さもしい期待でもある。
362考える名無しさん:2008/11/25(火) 13:59:14 O
世間一般の規範が概ね上記のような構成にはなっているとは思うが、
一個人として、出来れば妄想、盲信をさけ、
かつ感覚的にしろ合理的にしろまたは両者の一致が得られるよう、
自己の規範の過不足を捉え、
構成し直したい。
盲信にしろ、勝手な思い込みにしろ、
今までの規範の価値、特に神がかりなところはそのままにしながらも、
経験によっては何かに置き換えられるかもしれない。
宗教は道徳的であるのが社会的な存在の根拠であるべきだろうし、
1の意図する事が方法論によるならば、
様々な事象の前提に準じた、宗教的であり、理性的であり、両者を択一または混合させるような、
プラグマティックな選択と組み立てが、
より「らしくある」または意志的な選択の道筋にあると思う。
経験的な結論に依るならば、
過去や未来の不明確な思推は宗教的な性質に近く、
その性質は思慮したほうが良いだろう。
現在のあるがままの状態においては感情に対しては過去からな宗教的性質を思慮しながら、
行動においてはより合理的であるべき規範が成し得ると思う。
これは私のパターンの一例であるが
他に前提によっては宗教的でなければならないかもしれないし、
合理的、理性的積み上げによる規範をもつ人もいると思う。
363考える名無しさん:2008/11/25(火) 15:12:01 0
現在、日本で日常化、頻発化している殺人事件の抑止力たりえるものは、規範側か、または経済/政治側か、と問えば、後者。
364wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/26(水) 17:29:41 0
>363
確かに、明日の糧もままならないヒトに対し、規範に従え、というのは無力ですね。
365考える名無しさん:2008/11/27(木) 03:22:52 O
規範の中で絶対的価値がどこにあるかによるだろう。
規範そのものは良くあろうとする姿勢ではあるだろうが
必ずしも良いものの集まりとは限らない。
反社会的な規範もあり得る。
規範そのものと政治、経済、権力が比べるとすれば、
規範の内に社会的適合性、有用性のあるものと比べる事になる。
それでもなお、犯罪に対しては政治、経済、権力の制約に勝るものは無く、特性に準じた規範、社会に準じた規範があり、ようやく理性的と見えそうな態度になりそうでもある。

366考える名無しさん:2008/11/27(木) 03:29:16 O
しかしながら、少ない例外として、
政治、権力が誤っていた場合、
後々の判断によるが、
規範が有用で(それしかない)とされる場合も想定される。
またはそのような事もあると考えておいたほうがいいかもしれない。
我々一人一人は理性的に社会から、理解すべき規範を見いだすだろう。
だが、政治、経済、権力のうちに
最も身近なのは経済だろう。
367wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/27(木) 12:51:58 0
規範を「自分の外部」に求めるのはヒトの必然性。
そして、規範は抑止力を持つことが必要条件であるから、そのつどの統治側が、そのつどの統治都合により、共同体構成員全員が遵守すべきものとしての規範をつくり続けていく。
368武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 17:02:40 0
■コンベンション(黙契)とリヴァイアサン(怪物)

コンベンションと贈与交換

人々を集めるところに集団的秩序、コンベンション(黙契)が生まれる。それは環境圧が高
いほど助け合いが必要であるからだ。外部からの純粋略奪/贈与にさらされる。

助け合いは贈与交換として生まれる。困った人を助けること。そこに助けてもらったからそ
の貸しを返さなければと、多めに貸しを返し、負債感を与えるという負債(引け目)の連鎖が
うまれる。ここにある貸し借りという交換が継続した絆、信頼関係として延滞されつづける。
貸し借りという交換であるということはそこにゼロがある。負債感の基準としての公平感で
ある。これは時間的、量的に漠然として、質的なものである。

コンベンションと「シニフィアンの規則性」

贈与交換の連鎖は反復されることで慣習化し、象徴秩序になる。このような反復は外部の
純粋略奪/贈与が反復性をもつからだ。農耕を中心にする場合には自然環境ももつ四季
という反復性の中で生きることになる。作付け、収穫など人手が必要な時期では交代に助
け合う。

象徴秩序ではそこに暗黙の掟(規範)がある。そして公平感が埋め込まれている。人々は
秩序全体を内面化してるわけではないし、さらに暗黙の掟(規範)に従おうとしたり、公平感
を満たそうとするわけでもない。ひとりひとりただ毎日行うこと、習慣を反復するだけであ
る。これは構造主義的な象徴秩序の特徴である。秩序は「シニフィアンの規則性」に従うだ
けであって、シニフィエ(意味)は関係しない。ここでいうシニフィアンは言語であるかどうか
ではなく、意味(シニフィエ)なき法則性を表す。象徴秩序の掟はなぜそうであるのか、では
なく、規則性としてある。
369武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 17:03:29 0
ゼロ記号と主権者

このような象徴秩序はなぜそうであるのかと、突き詰めていくと一つの消失点に行き着く。
そして逆に消失点は象徴秩序全体のつり上げ点となる。簡単にいえば、なぜ掟を守らなけ
ればならないのかと問い続ければ、最後に神をおかなければならない。神がなければ、象
徴秩序は破綻する。

なぜ掟を守らなければならないのかという懐疑はそれぞれの人々の習慣の中では現れな
い。人々はただ行っているだけである。このような懐疑が持ち上がるのは、象徴秩序の境
界においてである。習慣によって対処できないような非常事態において、問題になる。どの
ような社会においても例外状態は訪れる。象徴秩序への外部の侵入である。外部とは予
測されない自然環境の変化であり、敵の来襲である。

構造主義的にはゼロ記号(超越論的シニフィアン)として神が現れ、そして神にかわり決定
する者が求められる。ここにシュミットの「主権者とは例外状態において決定する者である」
というテーゼが現れる。


法権力と暴力

贈与交換を基本とするコンベンションは、負債の交換という身近な者たちを中心にするある
めに力のおよぶ範囲に限界がある。だからコンベンション群を生むことになる。コンベンショ
ン間も慣習化すれば、象徴秩序として有効な関係を維持することが可能であるが、多くに
おいてコンベンション間には戦争が生まれる。

戦争の反復によって、勝者は敗者を取り込み集団は大きくなるが、大きな集団は贈与交
換、象徴秩序のみで秩序をもたらすことは困難になる。その他の装置が必要になる。戦争
は例外状態であり、戦争の反復は必然的に決定者としての主権を強化する。強力な主権
者が大きな集団を統治する方法は、主権者が執行する法権力であり、それを遂行するた
めの暴力である。
370武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 17:04:24 0
「シニフィアンの規則性」の規律訓練化


しかし大きな集団においても、法権力や暴力はあくまでも補助的なものでしかない。人々は
日常を法や暴力を意識して生きるわけではない。身近な贈与交換を基本とするコンベン
ションによる地域コミュニティを中心に生活をする。すなわち。すなわち秩序の中心はコン
ベンションであることにはかわりがない。

ただコンベンションもまた変容する。象徴秩序としての「シニフィアンの規則性」は村社会の
中で生まれながらに自然に身につくだけではなく、大きな集団に適用した形へと変容する。
権力も日常レベルで「シニフィアンの規則性」へと組み入れられて習慣として人々へ浸透し
ていく。そしてあたらな「シニフィアンの規則性」はより積極的に規律訓練権力として教育さ
れていく。
371武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 17:05:13 0
貨幣交換と規律訓練


その中で重要であるのが貨幣交換である。生活の中で食料・日用品を手に入れることは生
存に直結する差し迫った問題である。大きな集団においてもコンベンションが維持されてい
れば贈与交換は有効であるが、都市のように物理的に様々なコンベンションに帰属する
人々が流動的に集まり生活する場ではあたらな交換様式が求められる。

それが貨幣交換である。貨幣交換の大きな特徴は贈与交換のように相手を選ばないとい
うことである。貨幣を持っていれば、はじめてあった人でも商品と交換する。そのかわりに
知らない人と交換することは略奪の危険がつきまとう。

それは人を騙そうという貨幣交換を理解した上での略奪だけではない。贈与交換社会に生
きる人々は私的所有の感覚さえ希薄であり、ある商品がどのぐらいの貨幣価値と等価であ
るのかを短期間で交渉する等価交換は慣れない高度な行為である。貨幣交換が主に都市
の市場(いちば)のように、大きな集団の統治下で行われたのはそのためだろう。逆にいえ
ば、貨幣交換が社会に広く浸透するのは、国家が生まれて、社会全体が都市化が進んで
からのことである。

現代人には当たり前である貨幣交換システムであるが、貨幣交換もまた規律訓練によって
身につけるものである。そして貨幣交換は新たな「シニフィアンの規則性」の規律訓練化と
して行われている。自由主義的にいえば、人々はただ「シニフィアンの規則性」として貨幣
交換を行うことで、市場は均衡という秩序を生み出すのだ。この市場の全体性は人々の外
部性としてしかないのだ。
372武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 17:06:32 0
国家による習慣秩序から教育秩序へ


再度言えば、大きな集団でも集団の秩序(治安)は人々が「シニフィアンの規則性」による
習慣的秩序を基本とする。しかし村社会と異なり、コンベンション間の戦争の可能性から、
「シニフィアンの規則性」は規律訓練が重視される。すなわち法権力、市場制度という主権
者の意図を組み込んだ教育が行われる。それでも治安の不安定である場合には、主権者
による暴力的な行使が行われる。

絶対主義時代に、地域的な領主が国家への統一された背景に重要なことは、火気による
強力な武器の発明と、市場の巨大化(貿易の活発化)があげられている。暴力と経済力が
大きくなり、それを中心化させることで地域領主の権力を抑えて、国家統治が成立した。そ
こで重視されたのは、規律訓練である。地域の民族的なコンベンションは弾圧されて、国民
としての教育される。それは知識として以上に「シニフィアンの規則性」による習慣へと介入
する、すなわち規律訓練権力が行使された。

国家は自国内統治すること、「内政」のみが重要であるわけではない。国家はそのはじめ
から国家間の均衡として発達した。暴力と経済力の均衡のために国家間の競争関係であ
り、貿易や武力協定など互いに均衡しながら力を増加させていく。そこにはじめて「欧州」と
いう地域は生まれた。これからの均衡する力の向上ために、国民はあるときは基本的に労
働者として経済力を高め、また時に軍隊として働く。そして国民は規律訓練によって均質化
することで分業としてより巨大な力を生み出す。
373武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 17:07:40 0
平等と自由は独占を生む


平等にしろ、自由にしろを実現するための障害は秩序なき無法地帯よりも、コンベンション
との対立である。コンベンションは集団の根源的な秩序である。コンベンションは平等も自
由も目指さない。平等、自由はコンベンションを抑圧し続けることでしか実現しない。

現代人は理念的には平等、自由の重要性はわかっているし、実行しているつもりである
が、実生活においてはコンベンショナルである。コンベンショナルとは身近なものを贔屓す
るだろうし、身近な習慣に埋め込まれることで、過剰な自由は歓迎しない。

現代においても人々はコンベンションを社会秩序の基盤とする。日常において法権力も、
国家権力も意識しない。あくまで規律訓練によって習慣化された規範として無意識に従っ
ているにすぎない。

さらにえいば、コンベンションを越えて、平等・自由を重視しすぎることは、身近な人間関係
を分断し危険でさえある。たとえば最近の新自由主義の格差社会では、コンベンションを越
えて自由を重視してしまったために悲惨な格差を生み出した。格差はいつも時代もある
が、新自由主義の格差が悲惨であるのは、人々が経済的な自由を重視することで、コンベ
ンションが分断されて孤立化してしまったことによる。いつも格差は贈与関係という貧しい
者同士の助けあい、「貧しいながらも楽しい我が家」として緩和されてきた。むしろ勝ち組は
助けあい(コンベンション)によって、弱者を排除することで、富を独占してきたのだ。

あるいは国家社会主義では、コンベンションを越えて平等を重視した。ここで起こったこと
も、分断された個人と勝者のたすけない(コンベンション)による権力の権力の独占である。
374武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 17:08:38 0
コンベンションの根源性


社会主義にしろ、新自由主義しろ、これは原理的な間違いではない。うまくシステムが作動
しなかっただけである。平等が徹底されれば、自由が徹底されれば、きっとうまくいく、とい
うのがいいわけであるが、ここで忘れられているのが、集団秩序におけるコンベンションの
根源性である。

コンベンションは雑草である。大災害が発生し、社会システムが機能不全に陥っても、コン
ベンションは作動する。そのときこそ人々は助け合うだろう。無法地帯では略奪が横行する
だろうが、これはコンベンションと対立しない。略奪とはコンベンショナルな集団間の戦争で
ある。ある略奪集団と治安維持集団との戦争である。
375武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 17:09:45 0
現代のコンベンションの透過


現代は法治国家である。しかし人々は法についてどれだけ知っているだろうか。窃盗罪、
殺人罪。しかし人のものを盗んではいけない。人を殺してはいけない。は法である前に規
範である。ボクたちは法をくわしくしらなくても社会の規範として守ることを訓練されている。
それは社会環境であり、規律訓練として学び、体で覚える。

懸命に守ろうとしなくてもすでに守っている。貨幣交換も同様である。現代では法権力、市
場は規律訓練と環境設計としてコンベンションにつながるのだ。たとえば現代の贈与は貨
幣交換を通して行われる。貨幣商品交換は原理的な等価交換などではない。現代で消費
するとは、買ってくださいに対する、買ってあげること。擬似的なコンベンションへの帰属で
ある。ボードリヤールが示した記号消費とはあるコンベンションへ帰属するためのチケット
である。これはマルクスと物象化にもつながる。人の関係が商品の関係にかわる。

あるいはナショナリズム、さらには企業への忠誠心などとして働く。しかしこのような法、市
場というとのコンベンション浸透は広域に広がるとともに力は弱まる。
376wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/28(金) 17:53:47 0
>>368 ->375
そのように解釈すると、現在の間接民主主義/代議員制における投票者-被投票者間は「投票という貸し」と、「被投票という借り」によるコンベンションの締結になる(貨幣交換を介さない合法投票の場合に限る)。
即ち、民主主義を維持する基盤としてコンベンションが制度として定着していることが必要条件になる。
商取引においても、貨幣を支払う方と支払われる方とは、商品を媒介としながらもコンベンションが構築されていることが前提となる。
そう見ると、コンベンションは、貨幣交換の基盤であることになる。
コンベンションが構築されていないものの間での貨幣による取引は成り立たない、とすれば、貨幣はコンベンションの質/量の表出ということになる。

377wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/28(金) 18:00:51 0
もう少し敷衍すると、贈与による債務と債権の交換ルールを定めたものがコンベンションであるならば、それはそのまま貨幣を介した取引一般の規範ともなる。
378wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/11/28(金) 18:05:10 0
即ち、貨幣を介する労働力や商品の売買一般も、その根本は取引相手は裏切らないという贈与の存立基盤に基づく、ということになる。
379武田直 ◆YXVNsnwYQo :2008/11/28(金) 18:23:52 O
そのとうり。しかしいつも人は信頼(懐疑)しているわけではない。規律訓練され習慣化されることでただ行っている。
しかしだまされると臆病(懐疑)する。また慣れるまでは。それがまさにウィトの言語ゲーム論。
380考える名無しさん:2008/11/28(金) 21:52:55 O
武田さんの説明は素晴らしい。
細かなルールがあれば規範はいらないのかもしれず、
規範はこうあるべきだと試行錯誤するような自己の思想と行動の一致、
または感情と自己の理論の一致のための感情的な理想の一部と考えていましたが、
貴君の合理的な説明で謎が解けたように思います。
秩序がどのように形成されるか大変勉強になりました。
コンベンションは村社会だけでなく企業体にも存在するように思えます。
正社員と契約社員においては属するコンベンションの共同体の相違が紙きれに記されているのだとも思います。
このコンベンションは同じ立場では発生するが、
異なる立場では発生しないのかもしれない、そうすると街のサラリーマンが利己的でもなく、
親切な人でもホームレスに無関心なのも納得がいきます。
381考える名無しさん:2008/11/29(土) 00:41:34 O
駅に母と子供がいた。たあいもない遊びに夢中になって言うことを聞かないわがままな子供に対し、
母親は「人として最低」などと言っていた。
子供は蒼白な顔になり、絶望的な顔でうつろ気になって本気で泣いていた。
私は身も蓋めないもの言いで子供を責めるは母親は基地外ではなかろうかと思い、母親を見た。
いたって優しいは母親の様子だった。
怒りながら子供にいいきかせようと必死なようだ。
私が子供の頃はげんこつの度合いによって重要度を理解していたが
不暴力の世代は恐ろしくもある。
何故か、
この利便性に富む社会、
モラルやマナーで埋め尽くされ、
ルール化された世界では、
どうもそれに容易に身を任せ、
その中で言葉が極限かされがちで、
平和を唱える人間はただ身を守る術がなく。
エコを唱えるものはただ貧しいだけではなかろうか。
そうであってもそうでない者がそれに追随するようにも出来ているような気もする。
それは止めようもない。
個々人が利便性の中で他人の価値が見いだせなくなっているとも思える。
それも互いに共有する不自由がない故に、
互いに抽象的に理解し、
抽象的に結論を見いだす。
そのような生活では共通の規範が生まれにくいのではなかろうか
前段の母親は手段として言葉の暴力を使っただけなのかもしれない。
規範が入り乱れているが故におかしな言葉が生まれる。
規範が歪み、
それぞれの価値観と混同されながら、見いだすべき規範は
反証的に現れは消え
やがてその実態はただの振る舞いとしてしか見られなくなるのかもしれない。
382考える名無しさん:2008/12/05(金) 02:42:23 0
誰からも意見されない者、生活に対する極度の切迫感がない者
老人、熟したニート、組織のトップ、主婦
自由であり、不満はあっても外的な支配不安がなく、

この時の規範は利己的解釈によって為されるだろう。
良き規範を最も必要とする人間はそのような人間であるが、
孤独な人間ほど観念的規範に陥りがちだと想像されるが
雲をつかむような行動も出来ず、闇雲に独論へと突っ走りやすいであろう。

よく働いた会社人間であっても退職後にぷっつり人間関係が途切れたり、
同世代でのしがらみしか存在しない者は

「若いころは」「昔は」「今は」に始まる不明瞭な前提に基づく
勝手なことを言っていることが多い。

このレスも独論ではあるだろうが、それは横に置いといて、、、、

このような人間が追い詰められた時、
DV、パワハラ、モラルハザード、ボケ、妄想、殺人、借金、怠惰
引きこもり、クレーマー、自殺、営業妨害、マナー違反、繰言
ストーカー、
となるのかもしれない。

孤独であろうと規範に問題なく、理性的な人間であると自称、
意識される人間はそうでもないだろうが、、、、
それが難しい、だから宗教や理性に頼って規範を創造しようとするのだろう。





383考える名無しさん:2008/12/05(金) 03:56:53 0
自演乙
384考える名無しさん:2008/12/05(金) 13:02:16 0
野球でピーンボールを左ほほにぶつけられたとき、今度は右ほほにぶつけて、というのがキリストで、ぶつけられた怒りでピッチャーをなぐり倒しても良い、というのがハンムラビ。
えっ、違う?
385考える名無しさん:2008/12/14(日) 17:10:35 0
>>1
宗教に100%支配されてる人も理に100%支配されてる人もいない。程度問題。
386考える名無しさん:2008/12/15(月) 18:23:22 0
>>385
そうかな。現代日本人は、多くの人が自身の知性を「神」としてると思うけど。
つまり、信仰心は持っていないか、あるいは持っていても意識下に理不尽なものとして封印してる。
387考える名無しさん:2008/12/16(火) 19:17:33 0
>>386さすがに日本人でも自身の知性を神とするような自惚れ屋はいないとおもうけんども、科学が神だと思ってる人は多いだろうね。
究極的には科学も宗教と同じカテゴリーに入れられるからね。
根本の法則、例えば万有引力の法則の方程式が99.999・・・%正しいことを、100%とみなすことで科学の前提を作ってるわけだから。
388考える名無しさん:2008/12/17(水) 11:40:17 0
>>387
科学と宗教は違うよ。科学は、人の理性から超越してない。宗教は人の理性から超越してる。
この違いは、人の生き方や考え方に決定的な影響を及ぼすよ。
389考える名無しさん:2008/12/17(水) 19:02:19 0
>>388
科学を底の底の根本で支えているのは、やはり信仰でしかない。
万有引力の方程式が絶対であるというには、無限回の実験が必要。そしてこれは物理的に不可能。
われわれは、過去の幾多の実験によって、かなり高い確率でこの方程式が確からしいとみなしている。
でも、あした実験をやったら、ぜんぜん違う式になるかもしれない。確率論も1つの科学分野だし。
でもでも、俺らは過去の歴史から明日も万有引力は絶対だと考えて生活する。
これが科学に対する信仰心であり科学も宗教に内包されうるとする根拠。
でも、科学といわゆる宗教を一緒にするのは乱暴すぎるとは思う。
390考える名無しさん:2008/12/17(水) 20:17:46 0
>>389
自身の心のありようが違うでしょ。知性・理性ですべてを解明できる(と信じる)のが科学。
知性を超越したものを信じるのが信仰。
科学を信仰しても、自身を「神」とみなすことと矛盾しない。これが宗教との大きな違い。

人間は、何かを信じないと生きていけない。だから科学を信仰とか言ってもあんまり意味がない。
どっちにしろ何かを信仰しないとといけないわけだから。
391考える名無しさん:2008/12/18(木) 19:23:32 0
>>390
大体同意なのだが、科学を信仰する事が自身を神とみなすことと矛盾しないというのがわからん。
宗教のほうが、「自身」と「神」を同一視したり、「神」の一部であるとしたりするのが多い貴がするが。
科学自体が自然(神)を覆い尽くせると科学万能主義者は信じてるけど、さすがに科学万能主義者自身が自然を覆い尽くせるとはおもってないでしょ。
392考える名無しさん:2008/12/19(金) 08:24:35 0
>>391
自分を超える神の存在を認めるのが宗教だよ。自身が最高神になる宗教っていうのは、カルトはわからないけど
基本存在しないはず。基本的に宗教は、自身を超越する(自身と断絶する)神の存在を認めるものだし。

自身を最高神とするのは、あまりに中二的すぎるので、直接的にそう唱える宗教は
受け入れられないと思う。間接的にそうなってしまうものならあるんだが。科学という信仰もそう。
知性を信仰すると、最終的には自身が最高神ってことになってしまう。自身でさえ気がつかない
潜在意識でね。
393考える名無しさん:2009/01/05(月) 13:11:31 0
文化とは、非合理性の集合である。
だから、宗教も文化に含まれる。

合理性を追求すると、すべての文化は消失する。
さらに進むと、文化だけじゃなく、人間すら不要の存在とみなされるようになる。
合理性を追求すると、最終的にはすべての存在が不要とみなされる。
394考える名無しさん:2009/01/05(月) 13:16:08 0
なんでカントの話が出てこないんだよ・・・。
395考える名無しさん:2009/01/06(火) 09:05:44 0
合理的な人間が生きる意味を考えた場合、その答えは「ない」となるしかないだろう。
合理性の最終ゴールは、「すべての存在が不要」であるためだ。

存在がそこに存在する意義は、不合理性を尊重、保守する決意を持った場合にのみ、
発生する。

つまり、人間が生きる意味がわからないという奴は、合理主義に犯された人間である。
396考える名無しさん:2009/01/06(火) 16:27:11 0
>>394
上のレス見ろって
397考える名無しさん:2009/01/22(木) 11:09:51 0
世の中の知性主義がうまくいかなかった原因がここにある。
日本では、知性を「神」の1つとして崇拝することで、理想郷を作ろうとしたが
知性崇拝が自分自身の崇拝化に繋がるというしくみに気づかないまま、
その結果としてもたらされる荒廃した事象に翻弄されることになった。

まだ、知性崇拝に救いを求める人は多いけど、それは自分自身の崇拝化に
終わり、求めてるものは何も得られないだろう。
398心の仕組みドットコム:2009/01/22(木) 11:52:43 0

理性の発育は、同時に知性の発育を促します。
この理性が未発達の場合は無知・無智に陥り、人は神と言う幻想に頼ります。
399考える名無しさん:2009/01/22(木) 12:02:14 0
神様登場
400考える名無しさん:2009/01/22(木) 14:53:41 0
400
401考える名無しさん:2009/01/22(木) 14:59:40 0
401
402考える名無しさん:2009/01/22(木) 20:53:20 O
真なる信仰の自由を考える時、ある対象への信仰、また、そこに必然に発生する超越は各個人の自由による選択により為されるものであり、その際、付随する「責任」は各個人に分散されるべきだと考えます。
こういった立場からの批判として現存の宗教は、ある創られた、信仰の対象となる超越。を用意し、その超越を為す者に儀式や洗礼といった形で干渉をし、超越に付随する「責任」の一部を聖職者が請け負っている。
また、その「責任」は恐らく永らく延滞可能なほとんど架空な債務である。そして、その対価としての権力が発生している。
これらの点で現存の宗教は真なる信仰の自由を阻害するものと考えます。
403考える名無しさん:2009/01/22(木) 21:01:33 O
そして公正さを望む立場として、目指すべき「教え」の規範とはまさしく哲学それと考えます。
各個人が疑い得る(信じ得る)あらゆる事象を知り、本当の意味での自由、勇気と責任を全て、自己で負わねばならぬ自由により選択した信仰を持つための、「教え」としての哲学。
その「教え」の上で、ある同質の信仰を持つ者達、ある同質の形而上学的立場をとる者達の集団、組織は内部に集権的システムは成立できず、外部への集団的権利行使という目的のみ残る。
404考える名無しさん:2009/01/23(金) 09:42:49 0
逆説的だけど、自分で選んだ信仰はすでに純粋な宗教として機能しないんだよ。イデオロギーになってしまう。
先祖代々受け継いでる宗教のみが純粋な宗教として機能する。
自由なら何でも善というわけにはいかないから、人間というものは難しい。
405考える名無しさん:2009/01/23(金) 15:21:23 O
もちろん自由には秩序(ここで言う規範)が必要なものと考えます。
が、その規範において制限すべき矛先の一つとして、現存宗教の持つ集権的システム、また、それを作り、利用する者(聖職者)を掲げるべきではないかということを論点として考えます。
社会的な規範となる宗教を目指す時、信仰の自由とは規範によって守られる側であるべき自由であるとし、現存宗教の持つ集権的性質が信仰の自由を守るための社会的規範に反するものだと考えます。
406考える名無しさん:2009/01/23(金) 15:48:52 0
信仰に自由なんかないよ。幼少の頃に両親から伝えられなければ、それは信仰じゃない。イデオロギー。
まあ、2世代にわたって考えるなら、選択の自由はあるとも言えるけど。幼少の頃にすり込まれてもまともに
育つ教えであることが条件にはなるね。理性のみを基盤とするイデオロギーを幼少にすり込まれたら悲惨ではあるけど。

こんな風に危険が伴うので、今ある信仰について何かの新しい実験をするべきではないと思う。ある意味、生体実験より恐ろしいよ。
人間の精神を破壊する恐れすらあるわけで。昔の人がそうした実験を経て残してくれたのが既存の宗教なんだしね。
しかも数十世代にわたってね。
407考える名無しさん:2009/01/23(金) 17:01:16 O
宗教の伝播のされ方に刷り込み的方法が使用されることがあることは否定しませんが、{信仰=刷り込み的方法で伝播されたもの}ではなく、信仰とは、何らかの形而上学的対象を信じることです。
また、宗教とは、ある形而上学的な真理や存在を信仰する人達が織り成す社会的{集団、文化、現象}です。
408考える名無しさん:2009/01/23(金) 17:10:39 0
それだけじゃ不十分なんだよ。
自分で信仰を選択した人は、単にイデオロギーを選択しただけ。
もちろん、宗教団体や宗教の教えではそんなことは言わないけどね。
信仰がその真の機能を発揮するのは次の世代から。
409考える名無しさん:2009/01/23(金) 19:37:05 O
「信仰の機能」とはなにかについて考えてみました。
信仰とは投機に似ていますが違います。信仰とは、行為を、思考を、生き方を、一瞬一瞬、何らかの形而上学的解答に、唯、放り捧げるもので、それ以上もそれ以下も無いものと考えます。
>>>408の考える「信仰の機能」について聞きたいです。
410考える名無しさん:2009/01/24(土) 21:23:23 0
信仰とは、人が運命を受け入れるためのより良い道を教えるものだよ。
運命を受け入れる教えを自分で選択するのは変な話でしょ。

自分が物心つくまでに、それは備わってないといけない。
それにより、以降の人生の絶対的な基盤として、人が決して避けることの出来ない
運命に立ち向かい、そしてそれを受けいれるためのガイドとなる。
その基盤は、ほいほいと変えられるものじゃない。絶対的、圧倒的な運命を前にして、
人がよって立つべき基盤となる考え。それは、自分で選択なんてできるものじゃない。
自分で選択できるぐらいの軽いものはなら、圧倒的な運命に対抗し、そしてそれを受け入れる
ための本当に深い基盤になることなんてできない。
411考える名無しさん:2009/01/25(日) 00:25:48 O
「信仰」ですが。
〜を教えるものではなく。
前にも言ったとおり、何かしらを信じることです。
また、信仰が幼少期に刷り込み的方法によって無自覚の部分でなされるものであるという解釈は、信仰という言葉の極一部分を切り取った解釈です。
例えば今、私が何かしらの形而上学を信じたらそれは紛れもなく信仰です。

412考える名無しさん:2009/01/25(日) 06:51:50 0
>>411
形式的にはね。でも、信仰が真にその真価(マイナスの場合にはその悪影響)を発揮するのは
第二世代からなんだよ。
413考える名無しさん:2009/01/28(水) 15:08:09 O
信仰の自由の否定は人間の非人格化、あるいは強引な決定論によってしかなされ得ないはずです。また、それらはあまりに非直観的な観念ではないかということを訴えます。
また、宗教が刷り込み的に伝播される要素が社会に内在する場合は有りますが、それでさえも、解釈するのは個人の理性に帰するものであるはずです。
414考える名無しさん:2009/01/29(木) 06:30:47 0
>>413
信仰の選択の意志を禁止してるわけじゃない。自分で選択した信仰は、イデオロギーでしかないって言ってるんだよ。
415考える名無しさん:2009/01/29(木) 08:11:48 O
論点がごちゃごちゃになってきてますが 、あなたが信仰と明確に区別されているイデオロギーという言葉にどういった解釈をしているかかが判断できません。
また、その解釈がここで語られる、「規範」になりえないものとして批判されているのでしょうか?そうでなければ特に訴えはありません。
416考える名無しさん:2009/01/29(木) 09:28:46 0
つまり、その本人が信仰を選択しても、それは表面的なものに留まるってこと。
次世代に繋がるレベルならまだまし。次世代に繋がらないレベルかもしれない。それなら、そんなのは単なるお遊び。

次世代に繋がったとして、その次の世代がそれで人生の指針となりうる確固とした信仰を得られたとすれば、
その信仰を選択したことは価値があったといえる。でも、それを選択した本人にとっては真の信仰としては機能しない。
意識的なイデオロギーレベルの指針に留まる。

417考える名無しさん:2009/01/29(木) 17:07:08 O
思想が次世代に伝わるか否かは宗教としての成立性について論じる事柄です。
宗教は共通認識的な信仰によって成立するものであるため、1人、あるいは0人の信仰では宗教として成立しません。
従って、共時的または通時的に何者かに伝わり信仰されなければ宗教として成立しません。
しかし、信仰とは前にも言ったように何らかの形而上学の解答(超越)を信じることです。
何者かに伝わるものが真の信仰だとか、何者かに伝えられたから真の信仰だとかはなく、対自的なものです。
また、イデオロギーの(できるだけ)公的な定義は、広義に「観念、及びその体系、さらにそれらに基づく態度」です。
あなたの文面を見ただけでは、信仰という言葉とこれの対比というより「強固な信仰」と「強固でない信仰」という意味の対比をしているような気がします。続きます。

418考える名無しさん:2009/01/29(木) 17:21:33 O
その上で、話しのスピードを早めるために、てきと〜な解釈をしますが怒らないでください(勘違いは指摘してください。)
「何らかの信仰対象の刷り込み的伝播に影響を受けた信仰」=【真の信仰】=「強固な信仰」→指針として強固である。
「自分で選んだ信仰」=【イデオロギー】=「強固でない信仰」→指針として強固でない。
こう解釈する時、「何らかの信仰対象の刷り込み的伝播の影響を受けた信仰」=「強固な信仰」
と、「自分で選んだ信仰」=「強固でない信仰」
の部分が非人格的な人間性の形而上学の上にしか成立し得ない論理です。

419考える名無しさん:2009/01/29(木) 18:11:13 0
>>418
定義の話をしたいならそうでしょ。
強固な信仰とそうでない信仰の話って言われれば、まあそう。


420考える名無しさん:2009/01/29(木) 18:33:34 O
そっか
421考える名無しさん:2009/01/30(金) 22:15:46 O
宗教の集権的システムが、人間が信仰を肯定することを阻害する。
神がいると信じると騙されてる(気がする)。特に日本でこういった感覚が強く伝染している気がします。
これは日本の宗教組織のより多くが集権システムをより強く持っている、或いは持っていた可能性を示唆する要素となります。
日本人は文化的に発生、伝播している信仰対象を疑う。そこに内在する(かもしれない)組織的集権性から逃げる。

422考える名無しさん:2009/01/30(金) 22:20:02 0
>421
バチカンだって似たようなもんだろ?
423考える名無しさん:2009/01/30(金) 23:27:05 O
バチカンの市民は全て聖職者(受権的地位)にあたるといえます。非常に特殊な国家であり、組織として考える時、キリスト教における最大の集権性を持つ組織として位置付けできます。
424考える名無しさん:2009/02/01(日) 07:30:31 0
集団的・形式的な組織は信仰に不可欠だよ。
むしろ、信仰そのものより、結果として生じる集団的・形式的な組織の方が大事。
まあ、信仰の質と内容を反映した集団的・形式的な組織ができるから、
そういう意味では信仰の質と内容が大事だけど、直接的に人間にとって影響が大きいのは
信仰の結果として生じる集団的・形式的な組織だからね。

結局、どういうコミュニティを作るのかっていうのが一番大事。信仰とか文化とかも
コミュニティに貢献するという意味で大事なわけで、集団的・形式的な組織よりも信仰や文化を
優先したら、それは本末転倒な話。

コミュニティよりも、信仰や文化だけを純粋に重視するようになると、それはある種のエリート意識
自我肥大の現れ。自身が神になりたい、あるいは神と一体化したい、あるいは神と一対一の関係になりたいっていう願望
がそこにある。

425考える名無しさん:2009/02/01(日) 20:13:25 O
聖職者の信者への干渉は必然的に福祉的である。これをフーコーが「司牧権力」と呼ぶ概念において解説しています。
司牧達は迷える者達への救済という名目における幾つかの技法によって干渉し、同時に服従を迫る。また、こういった権力の発生を「生かす権力」と呼ぶ概念に発展させています。
そして私の訴えは、この「生かす権力」に対する抵抗が、信仰を拒否する立場というかたちで現れ、伝染しているのではないか。ということと
我々が社会に規範を求める時、何らかの信仰対象を基に集う組織への「生かす権力」の侵食性に対抗できる立場であるべきではないか。ということです。

426考える名無しさん:2009/02/08(日) 18:41:13 0
『自己チュー親子』 諏訪哲二/著

子どもの問題は、親を語らずして解決できない。モンスター・ペアレントに向き合い、
現代の家族を解読した注目の本。「かけがえのない自分」が暴走するとき、社会は悲鳴をあげる。

[目次]
第1章 フェアプレーなきヒーロー―亀田親子について;
第2章 「オンリーワン」はそれほど大切か?;
第3章 秋葉原事件をめぐって;第4章 「親」は何をしてきたのか;
第5章 モンスターペアレントの「妄想」;
第6章 「自己チュー」の発生源としての家庭;
第7章 理不尽と非合理の効用

この本がこのスレの趣旨に似たことを書いてた。
427考える名無しさん:2009/02/15(日) 12:54:40 0
人にとって、「神」は必ず必要なもの。絶対的に信頼できる「何か」が必ず必要。
そして、現代の「神」は人の理性なんだよ。理性とそこから発するヒューマニズム・人間至上主義(動物には理性はない)
への絶対的な信頼。それは、まさに神としての扱いだと思う。

昨日の島田伸介のチャリティ番組で、カンボジアへの寄附という名目でそれほど価値があるとも思えない
絵にそれほど裕福でない人たちが100万、200万の値付けを出していたが、あれはヒューマニズムという「神」
へのお布施だと思えば納得がいく。カンボジアや発展途上国への思い入れなんて庶民にはそれほどない。

でも、このヒューマニズムという「神」は他の一般的・伝統的な宗教の神とは違っていささか厄介。
それは、この神を信仰しているといつの間にか自分自身が「神」となってしまうから。

そのメカニズムを説明するのは簡単ではないんだが、とりあえずこのスレを見てる人には
ヒューマニズム・理性を「神」として絶対的に信頼するのは保留しておくことをお勧めする。
428考える名無しさん:2009/02/18(水) 13:49:00 0
神の定義として「神とは、人間の力が絶対的に及ばない人知を超えた善なる存在。」
としたけど(まあ「善なる」には異議が入ったけど)、この「人間の力が及ばない」って部分が
重要なんだよ。つまり「超越性」ね。論理・理性とかイデオロギーとかは、個人個人が
その有益性とか存在意義を自身でゼロからトレースできるよね。つまり、それを信奉する
うえで「強制」されてる部分はまったくない。それを信奉する理由はすべて自発的で本人は
自身の知性でそれを納得してる。

ところが神を信仰する場合は、自身の知性を超えて、無条件・強制的に神を信じるわけ。
この違いがとんでもなく大きい。そして、そのことが規範としての宗教と理性の働きが大きく異なる
理由そのものなんだよ。
429考える名無しさん:2009/02/18(水) 14:14:01 0
とりあえず、もう少し説明すると、人に寿命があり、世代交代があるとなぜ内側からの
規範にのみ従うとだめなのか?
まず、外側からの規範がなければ、世代交代で規範が途切れてしまう。
そして、内側からの規範の場合、結局自分個人の利益を基準とした他者との利害調整
に終始する。この場合、同時代的な横方向の社会全体の調整はうまくいくけど
縦方向の時間差がある世代間の調整がうまくいかない。

それから、外側からの規範がなぜ非論理的信仰で伝えられるのか?
論理的に伝えられるとすれば、それは各人の脳内でその根拠、理由がゼロから
トレースされ、結局のところそれを元に取捨選択されることになる。つまり、
論理的に伝えられる規範は結局内側からの規範に一体的に取り込まれることになる。
論理的なイデオロギーがこうした規範に相当すると思う。
430考える名無しさん:2009/02/18(水) 15:07:31 0
理性・合理性を自身の核としたときに、最終的に自身のことのみが関心事に
なってしまうってこと。それは、論理的帰結としてそうなってしまう。
なぜなら、理性・合理性のみに従う脳は、脳内からしか「命令」を調達できないから。

それに対して、伝統的な道徳や宗教的道徳に従う場合は、外部から「命令」を調達することになるわけ。
431考える名無しさん:2009/02/18(水) 15:36:48 0
> 理性・合理性を自身の核としたときに、最終的に自身のことのみが関心事に
> なってしまうってこと。それは、論理的帰結としてそうなってしまう。

ならんだろ。論理的帰結って主張するんなら、
どう論理的に帰結するのか説明してごらん。
432▲むささびん ◆JXLBbnYqTY :2009/02/18(水) 15:37:17 0
>>430
理性・合理性によって世界を説明しようとすると、論理的に自己言及のパラドクスに
落ちいって(フリーズして)しまうためですね。

それを回避する方法として、超越性を持ち出すのは不十分でしょう。
ものすごく簡単にいってしまうと、動物は神を信じないが、
ある種の文化を伝承する。
本質的に文化伝承は、身体知(見よう見まね)で行われるのです。

論理→自己言及→超越性というのは、
イデオロギーなどかなり限られた分野です。
433▲むささびん ◆JXLBbnYqTY :2009/02/18(水) 15:48:56 O
さらにいえば見よう見真似とは環境・道具との関係として伝承されます。
言葉そのものが伝承です。いくら記録に残ろうが伝承されなければ世代間でつたわらない。
これがコンベンション(規範)です。
434考える名無しさん:2009/02/19(木) 00:35:44 O
超越(信仰対象)が伝わってくるものであれ、自分の中から発生したものであれ、それを経験の中で帰納的に推論していくのは個人の論理性になります。

>自分が神になる
という言葉は的確で、あらゆる帰納的推論は私の経験の中でされ、あらゆる演繹的推論は超越に至るという意味で

私の経験は、神と呼べるような特権を持つ命令の発生源です。

外部から伝わる超越の意味はより多くのサンプルとしての超越の獲得だと考えています。その意味で非常に重要だと考えます。

宗教が持つ超越への反証に対する態度はサンプルとしての超越の許容を限定するものであり

私がそれを拒否する理由は、より多いサンプルを通した推論による、より強い正当性への憧れなんだと思う。
435考える名無しさん:2009/02/19(木) 10:51:14 0
それで、すべてがうまく収まるのか?
個人の生活だけなら、それでうまく収まり、円満に暮らしていけるように思える。
ところが、そういう人たちが社会を構成したとき、あるいは数世代を経るときにどうなるか。
さまざまな問題が生じるのでは? たとえば、子供を育てるって行為は、この理性の知恵では
処理できない。自己利益を計算するコンピュータが自身のタンパク質を半分引き継ぐ存在を生み出す
ことに何か意味を見いだすとは思えない。だから、感情でしかこの行為は後押しされない。

結局、自己利益を計算するコンピュータが処理できないのは、自分の死を想定したあらゆる行為なんだと思う。
でも、社会はその構成員が死に、新しい構成員が生まれ、代替わりすることを前提として成り立ってる。

でも、宗教的価値観では自分の死はすべての終わりじゃない。伝統的な道徳でも、自分の死よりも
優先すべき事項を示唆してたりする。それがなくなったときに、自己利益を計算するコンピュータ群は社会を維持
できるんだろうか?

これは、現代の女性重視の価値観も関係してると思う。
母親は、感情を重視する。そして、その感情を理性でコントロールすることで満足してしまう。
父親は、理性を重視する。そして、その理性をコントロールするものが必要であることもわかってる。
436考える名無しさん:2009/02/19(木) 15:12:38 0
       /\
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      ||   |  < `Д´>
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
韓国異端の行方
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1176032470/
437考える名無しさん:2009/02/19(木) 15:37:15 0
438考える名無しさん:2009/02/20(金) 08:34:03 0
合理主義者のわなっていうのは、合理主義を追求していくと、何にも残らないってこと。
たとえば、変な例だけど、恋人同士っていうのは、ちゃんとしたデートをして、キスしたり、Hしたりする。
その手順は、結構めんどくさかったりする。さらに性欲が薄くなるとHすらめんどうになる。

合理主義者なら、そんな面倒なことはすべて省きたいって思うかもしれない。
でも、恋人同士って関係を維持するには、そうした形式、手続きが必要不可欠。
もちろん、恋人同士なんて関係はいつ壊れても良いって合理主義者は考えることもあるだろう。
でも、それが夫婦だったら? 親子だったら? さらに社会のもろもろの機構でさえ、そうした形式で成り立ってる。

結局合理主義者は、こうした形式で成り立ってるあらゆるものを破壊することになる。
439▲むささびん ◆JXLBbnYqTY :2009/02/20(金) 09:17:36 0
合理主義の快楽は、世界を俯瞰し、形式化し、手に入れ、組み立てる。

合理主義の罠は、このような快楽は世界に対して、自らを超越的な位置(鳥瞰位置)におくことで
成り立っているが、世界に自らを組み込んだときに、自己言及のパラドクス(ボクはなんのために
生きているのか)に陥る。自らがないことがもっとも合理的という結論に至ってしまう。
440考える名無しさん:2009/02/20(金) 10:23:39 0
形式とは仏教の言うところの「色」でしょう。
そしてここでいう合理性とは、仏教でいうところの「空」。

色即是空、空即是色が揃わないといけない。
ここでいう合理主義とは、色即是空のみに片寄ることでしょう。
441考える名無しさん:2009/02/20(金) 13:58:43 O
経験できない外部
442考える名無しさん:2009/02/20(金) 14:06:52 0
>441
それが思考することのmotiveでしょうね。
443考える名無しさん:2009/02/22(日) 09:17:25 0
外側からの規範を復権すると確かにいろいろ問題が起きるよ。
でも、それが自然の摂理に即してるんだよ。

そして、内側からの規範のみに従うことは(社会はそちらの方向に向かってるよね)
自然の摂理に則さない。なぜなら、人には寿命があり、世代交代しないといけないから。
これがある限り、内側からの規範のみに従うことは破滅を意味する。
444考える名無しさん:2009/02/22(日) 11:44:31 O
例えば子供を生み育てる快楽があるか、人類の繁栄に貢献する快楽があるか

そういった快楽について経験の無い私は伝承される超越的なイメージでのみ触れることができます。

この時、「やってみよう」とさせるのは伝承される超越の力でしょう。

しかしこの時、この力が「やらなければいけない」ものとして働く時、超越への反証は閉ざされる。

私は「やってみよう」とされる超越を生み、伝えていこうとするのが哲学の信仰であり、快楽だと思います 。

ただし、この信仰はメタ的に反証は閉じないように見えて「チャレンジ精神」の言葉に似たものを、閉ざされた真理としているといえます。

私にとってポストモダンの罠は「疑う」という、この哲学の信仰としてのメタ的な快楽そのものに懐疑を入れる矛盾に苦しい経験をしたことことです。
445考える名無しさん:2009/02/22(日) 11:59:08 0
快楽を動機とする行動は内的規範との相性は
良いけど、外的規範とはかなり相性が悪い。

オートマティックに、無意識に、何の前提もなく、強制を受ける。それが外的規範。
そうした規範が必要。もちろん内的規範も必要だけど。
446考える名無しさん:2009/02/23(月) 13:40:20 0

快楽を動機とする牧師↓

韓国人・キリスト教・牧師…もう何の記事かわかるだろ
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1235245030/
447考える名無しさん:2009/02/23(月) 17:00:18 0
そういう犯罪とか極端な例を考えなくても、行動の動機を考えるのは面白いよ。
行動の動機としては、快楽(知的欲求ももちろんこれ)、責任感、習慣、そして前提のない規範への追従などが
考えられる。
昔の家同士の婚姻なんかは、快楽が動機じゃなくて、前提のない規範への追従だったんだろうと思う。
448考える名無しさん:2009/02/23(月) 21:35:24 O
演繹した、或いは伝えられた、未来の快楽を信じ、それに向うことの動機になること(規範)

そういったものが信仰対象としての超越になると思います。

現代の信仰離れの要因として、伝えられた信仰対象に対し、権力の脱中心化が強く働いている。これはポストモダンの特徴だと考えます。

しかし、この時、服従を拒むことを止めろとの訴えは当然伝わらない。

一方で、脱中心化が信仰の否定を生み、シニシズムに至っているのは現代の姿だと思うのです。

脱中心、脱構築、脱権力、これらの言葉の中心には快楽に対しポジティブな信仰がある。

しかしその中心を持たないままポストモダンを生きることは、懐疑主義を生きるのと同じであることを現代への訴えとするべきと考えるのです。
449考える名無しさん:2009/02/24(火) 07:18:37 0
未来の快楽が動機になるのは内的規範のことでしょ。
宗教なんかで来世に天国に行けるとかは、快楽と言うより救いというか、
現実的な快楽を求めるのとは少し違う。死んでからの話は、超越の向こう側。

内的規範では、未来の(現世の)快楽の到来を計算して、目の前の制約に従う。
450考える名無しさん:2009/02/24(火) 09:42:16 0
いわゆる一神教と科学の真理が一致してると誤解するから、いつまで経っても、思考停止の宗教はなくならない。
いい加減科学も、真理探究なんて意味不明な十字軍遠征やめれ。

所詮、すべての事象は相対主義に縁起してる。
空だ(笑
451考える名無しさん:2009/02/24(火) 10:14:24 0
違う。色即是空、空即是色だよ。
452考える名無しさん:2009/02/24(火) 13:54:36 0
それが縁起なんだよ。
453考える名無しさん:2009/02/24(火) 14:19:08 0
だから、いずれ壊れるとわかってても形に固執すべきなんだよ。人間なんだから。
雨風土と違ってね。人間は形に固執する、その方が自然なのさ。
いずれ死ぬとわかってても、身近な人が死ねば悲しいだろ。そして死なないように努力するだろ。
形あるものが壊れないように死にものぐるいで頑張る。そしてそれが壊れたら真剣に悲しむ。
すべて真剣にやるべき。それこそが、空即是色だ。
空だからって全部達観しちゃうのは、それこそ人工的で不自然。色即是空のみの片手落ちになる。
454考える名無しさん:2009/02/24(火) 14:31:54 0
>453
色即是空とは、そこまで形や死にものぐるいさなどにこだわるものなの?
片手落ちというより両手落ちでない?
もっと、やりすごす、ってことじゃないの?
455考える名無しさん:2009/02/24(火) 14:40:49 0
>>454
真剣にならないと、本当の自分の無力さはわからんよ。
「すべては空」と達観してる自分は、まだまだ余裕なのさ。それでは、空の片鱗すら認識してないだろうな。
まあ、空を認識することは、知的欲求の充足じゃなくて、救いなんだけどな。
456考える名無しさん:2009/02/24(火) 14:44:46 0
おやおや、「我こそは空を認識した者」君の登場ですか?
ドットコム君の「理」といい勝負ですな。
457考える名無しさん:2009/02/24(火) 14:54:10 0
別に空を認識したからって、すべての問題が解決するわけでもないし、神に近づくわけでもないよ。
まあ、仏になる準備が出来るけど。つまり、土に帰るって意味で。
458考える名無しさん:2009/02/24(火) 20:23:19 O
宗教が作る規範はもはや宗教の持つ権力から逃げ出すようなかたちとしてしか働かないでしょう。

無前提な規範とは、超意識的な視点を想定した時、既にある制限として意識を据える時、考えることはできるものですが

超越としての快楽でも救いでも、苦しみからの解放でも、想定するのは意識です。信仰を意識から分離できないはずです。

そして脱中心化が機能する社会で、宗教的な信仰対象の押し付けと権力の発生が、信仰の否定を迫るように働いている。

信仰の復権を目論む時、この問題は無視できないと考えます。
459考える名無しさん:2009/02/24(火) 20:40:52 O
神がいると思うのも科学が正しいと思うのも信仰でありますが、信仰である点を止揚して同じものとする飛躍があります。

信仰を止めたところだけが真理であると思うのも、全ての信仰が外部と重ならないとするのも、外部が無いとするのも信仰です。

また、それを理解した上で信仰をくだらないものとするのはシニカルです。

これは、つまらない。権力から脱するだけでは足りない。

科学とはあらゆる修正を許容し、より強い信仰を獲得する快楽にポジティブな信仰だと考えます。
460考える名無しさん:2009/02/26(木) 08:25:34 0
>科学とは快楽にポジティブな信仰

その気持ちよさを追求していくと、「自分が神」になるんだよ。
461考える名無しさん:2009/02/26(木) 09:24:20 0
>>455
「空を認識する」とか言っちゃってるんだから、まだまだ君は本物の「空」を得られていないようだなぁ
462考える名無しさん:2009/02/26(木) 09:52:54 0
「空」とは認識の不能、不毛を指しており、それは突き詰めた挙句に開かれる
かもしれず、逆に軽くやり過ごしていながら、その境地にいたることもありうる。
「空」は本物/偽物が消失する境位といってもよく、むろん「得る」ものではない。
463考える名無しさん:2009/02/26(木) 10:01:04 0
>>462
それも違うな。例えば「その境地」にいたることをいつ・どうやっては認識・把握できる?ん?
464考える名無しさん:2009/02/26(木) 10:20:56 0
ヒトはドジョウじゃないから救ったり救われたりしないだろ。
465考える名無しさん:2009/02/26(木) 10:33:27 0
死ねば真の空の境地になるよ。だから、死んだら仏様になるって言う。
これは、単なる言葉のあやじゃない。
466考える名無しさん:2009/02/26(木) 10:37:51 0
死んだら生まれ変わる。
それが仏教。
467考える名無しさん:2009/02/26(木) 10:44:24 0
仏教の一部はね。釈迦自身は、輪廻転生を否定も肯定もしていない。
「わからない」としてるだけ。つまり、どうでもいい話ってこと。
468考える名無しさん:2009/02/26(木) 10:53:49 0
>>467
その通り。
死んだ後のことは死んで見なければわからない。
したがって、死後を語る仏教は、間違い。
お釈迦様の教えに反してる。
469考える名無しさん:2009/02/26(木) 10:59:14 0
別にそこまで厳密に考えなくてもいいだろ。輪廻転生の有無なんて明らかに「わからない」けど
死の状態は推測はできる。
空の境地になれば死は怖くなくなる。なぜなら、死と変わらない境地になるから。
死ねば凡人でも空の境地になって仏様になるさ。
470考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:06:23 0
>>469
死んだ後はことは死んでみなければわからない。
それをさもわかったように語って、自己正当化を図るのが宗教の常套。
科学のロジックを基本とする今の理性的な時代には反してるのは、明確なこと。
釈迦の教えは明解だが、それが仏教と違うのは、その成立の歴史をみれば明白なこと。

宗教なんて、古代と中世の遺物。




471考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:10:30 0
その理性を制御する何かが必要なんだよ。
理性だけでOKとはいかない。
472考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:14:22 0
>>471
理性を制御する必要はない。
欲望を制御するのが理性。

基本を理解してないな。

宗教で頭おかしくなってんじゃないか?
473考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:17:21 0
↑おまえがなw
474考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:19:02 0
結局、「理性を制御する何かが必要」っていうのがこのスレの趣旨だから。

475考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:35:57 0
理性の下部構造を支えているのが宗教?
そんな宗教の定義は聞いたことがないな。

宗教というのは、反論理的な無根拠な体系の盲信に過ぎないからね。
理性は、宗教の体系を組み立てるロジックの手かがりとはなるが、宗教そのものとは反するもの。
理性を定義すれば終わる話だろう。

今まで、議論された理性の定義って、なに?

ないじゃんw

476考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:41:20 0
宗教は理性を超越するものだからね。
宗教が理性の下部構造を支えているわけではない。
477考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:50:13 0
たしかになぁ・・・
オウムは、普通の人間の理性を超越していた・・・

478考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:56:19 0
理性を超越する分、宗教は危険なんだよ。だから、長い年月を掛けた試行錯誤を経た
毒抜き、あく抜きと有益性の検証が不可欠。新興宗教はそれがないからきわめて危険。
479考える名無しさん:2009/02/26(木) 11:59:10 0
>>478
>毒抜き、あく抜きと有益性の検証が不可欠

なるほどね。
理性で検証するわけだねw

480考える名無しさん:2009/02/26(木) 12:03:17 0
違うよ。その宗教を信仰する集団の勃興で
判断される。その宗教が有益なら、その集団は繁栄する。
害があればその集団は滅び、その宗教も消える。
数十世代にわたり生き延びてる宗教であれば、こうした淘汰を経ているので安全と言える。
481考える名無しさん:2009/02/26(木) 12:18:05 0
同様に、現代の日本でそれぞれの宗教を信じている人の
平均年収、犯罪率なんかの統計を取って、
それでどの宗教を信じるかを決めるなんてのもありかな。
482考える名無しさん:2009/02/26(木) 12:22:06 0
何いってんだこいつら。マクローニーに決まってんじゃん。馬鹿か
483考える名無しさん:2009/02/26(木) 12:30:59 O
資本主義の中心に、技術の発展や労働からの解放という快楽にポジティブな信仰が有ります。

その信仰を生きる時、貨幣経済に合理的主体としての人間性を規範として見出す。

>自分が神となる

経験論的な視点から言えば、天国や、労働から解放や、技術の発展といったものを信じることは推理という理性の働きによりされ、命令もそこから発するため、「自分が神」と言えなくもないものです。

或いは、エゴイズムに対しての訴えなのであれば、それは集団の中で生き、快楽を目指す個人として、集団の合理性(助け合い、分業)を推理する理性の働きを無視したものです。
484wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/02/26(木) 12:32:38 0
>>476
<宗教は理性を超越するものだからね。>

論理操作により超越者を作り出すのは理性の本性。
その操作を逆行し、超越的存在を否定するのも理性の本性。
そのアンビヴァレンスを外部化できないのが理性。
超越的存在を措定しておく方が、自省する上でも、社会的活動をする上でも、理性にとって楽だから。

485考える名無しさん:2009/02/26(木) 13:39:43 0
>>484
そこまで言っちゃうとほとんど意味がない。
人間の頭脳が発達してなければ宗教は生まれないとか言っても、実質的に無意味。
486考える名無しさん:2009/02/26(木) 13:50:31 0
何の意味がないんだ?
487考える名無しさん:2009/02/26(木) 13:51:41 0
>>486
人間の頭脳が発達してなければという前提が無意味。
488考える名無しさん:2009/02/26(木) 13:57:50 0
その頭脳というものは、たった2000年程度で発達するものなのか?
489考える名無しさん:2009/02/26(木) 14:00:29 0
別に2000年に限定する必要はないでしょ。
頭脳が発達した原始人類はすでに宗教的な儀式や埋葬なんかもを行っていたわけだし。
490考える名無しさん:2009/02/26(木) 14:28:10 0
>>489
それってなんか言い訳に聞こえるし終わってるよね。
もうちょっと世界の宗教について調べてから書き込んだほうがよかったのかもしれない・・
491考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:13:57 0
>>463
“空”を経験していないので空想的にw語るしかないが、「空(の境地)を
認識する」ことはできない。はじめから、そう断っているだろう? 認識
されたものは“空”ではない。
そもそも“認識”とはw時空(形式)において対象を差異化することである。
対象に“意味”を付与することだと言ってもよい。“娑婆”を明確に把捉
するための営為でもある。
したがって“空”とは娑婆から離脱し、さらに時空(形式)から解き放たれ、
主客の合一する“意味”のない境位にいたることである。ww

まぁ、ふつうは死んでいるわな。w お釈迦さんは還って来たのか、稀代の
○○○かのどちらかではないか。
492考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:24:06 0
イエスの場合は、そのモデルとされる人物が処刑されたのは実話かも
しれぬが、“復活”が神話であるのは狂信者でないかぎり、読み取れる。
お釈迦さんの“覚り”は本当なのか、それとも彼が「夢を語った」のかわかりにくい。
493考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:25:59 0
>>491
だからそれも違う。というかさっきから同じことをかいてるよな。

>したがって“空”とは娑婆から離脱し、さらに時空(形式)から解き放たれ、
主客の合一する“意味”のない境位にいたることである。ww

この「したがって」というところが上の文章とつながってないんだよねぇ
空とシャバの区別がないとき、シャバから離脱した(出来た)ということをいつ・どうやって把握するんだ?
結局君は「空」のうわべだけに一所懸命で、「空」を得ていないようだ。
494考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:38:31 O
ここで空について語るのは止めるべきです。
495考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:52:46 0
空って求めて得るものじゃないだろ。空の境地に立てば人に自慢できるってものでもない。
どうせ死ねば空になるんだから、そんなに焦らなくてもいいだろ。
さらに言えば、風がそよぐのも空、雨が降るのも空だ。人間が生物として精一杯生きるのも空だろ。

そして人間が死ねば、「空の理論によって」仏様になる。よくできた宗教だね。理論的に救いを提供してくれる。
救いは理性では得られない。なぜなら、人は必ず死ぬから。理性は自分の死を処理できない。
仏教もキリスト教神学もその体系は論理的だが、
理性を超越する中核を持つことで、救いを提供してるんだよ。つまり、空は理性を超越してるってことだが。
496考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:54:23 0
>>493
君も「うわべ」とか言っているようでは覚りへの道は遠そうである。
「したがって」以下は私の空想であり、それを言葉で書くとそうなる。
はじめから空想だと言っているだろう。

もし空にいたったなら、娑婆からの離脱の把握は、時空も消滅するので不可能。
というか、把握したり認識したりしているあいだはその境地にいたっていないということ。

というか、きみの言葉をかりれば「空を得る」ことの不可能性を語っているつもりなんだけど。

というか、wwをみればわかるだろう? 何がしたいのか。w
497考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:56:34 0
そうか「空」を想うことが空想なんだ。
498考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:57:18 0
なるほど!
wwをみればわかるのか!
499考える名無しさん:2009/02/26(木) 16:57:39 0
いやそれはただのクソだ。
500考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:03:01 0
>>494
“空”を解体しないと、板違いになる。
501考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:11:09 0
>>1 は何か誤解している。ほとんどの争い、殺し合いは“宗教戦争”
502考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:11:12 0
>>462
しかし、おしい。実におしい。もう少しで「空」を得られるところまで来ているようだが・・・

>>495
もし各宗教が、君が言うように「妄想である」というなら、全世界の半分以上は理性的がない妄想にしがみついて生きているようだが、実際の世の中はそうでもない。

>>496
問答が出来なくなったからといって結局「空」なんかいないよというなら、なぜ仏教ではこれほどまでに「空」が重視されているのか?さらに「空」を得たものがいるからこそ経典などで説明がなされている。
君が言うように「そんなもん存在もしないし不可能」というなら、そもそも世代を渡って語り継がれるはずもないんじゃないか?
503考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:13:04 0
結局「空」なんかないというなら、
504考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:14:22 0
>>484
仏教的な論理は嫌いですか?あなたの言う「超越者」ってのは、たぶん「理性」そのもののことでしょう。
505考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:19:16 0
生きながら空の境地に達するというのも、布教の目的なら意味はあるかもしれないけど
一般人には意味がないよ。どうせ死ねば仏になるしね。空の境地に達するって死ぬのと同義だし。
死後に地獄に堕ちるなんて脅す宗教はカルト・邪教だよ。

506考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:25:24 0
>>502
「惜しい」ところに私はとどまりたい。w

宗教というのは、集団的な夢を語り継ぐことによって生き延びるもの。
イエスが処女からうまれた、あるいは復活したという挿話ほど神を待ちわびる
人々を鼓舞するものはなかったのではないか。

「空を得たものがいる」という伝説ほど娑婆苦にあえぐ人たちを力づけるもの
はなかったのであろう。

事実ではなく、真実(フィクション)を人々は欲しているからである。

507考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:39:48 0
>>505
空の境地に達するって死ぬのと同義なのか?
508考える名無しさん:2009/02/26(木) 17:53:29 0
>>507
そうだよ。結局、仏教っていうのはその中核のテーマが死の扱いなんだよ。
「空」の理論も結局、人が避けられない「死」をどうとらえるかってことだし。
縁起やら諸行無常やらも、その理論が最も処理したいのが人の死。

釈迦は非常に理性的な人物だったと思われるし、龍樹なんかもそう。
そういう人が理性で処理できなかったのが自分の死だよ。その自分の死を処理するために
考えられたのが仏教の壮大な理論だよ。
509考える名無しさん:2009/02/26(木) 18:05:16 0
>>508
仏教が扱っているのは「死」ではなく「苦」だが・・・
その観点のままでは君はいつまでたっても堂堂巡りだろう。
510考える名無しさん:2009/02/26(木) 18:11:52 0
>>509
それは、最終的には「死」なんだよ。
「苦」は最終的には避けられない。それは最終的には人は死ぬから。
現代の技術と富があれば、「苦」は一時的には避けられる。理性的手段でね。
でも、最終的には人は「死」からは逃れられない。そして、「死」は理性では扱うことができない。
だから、宗教が存在する意義がある。どの宗教も、最終的には「死」を中核的なテーマにしてるはず。
なぜなら、「死」は理性では扱えないから。理性で扱えるなら、宗教が必要とされることはない。
511考える名無しさん:2009/02/26(木) 18:17:08 0
死じゃなくて、生だろう。
そこから、生老病死の四苦がある。
なんちゅうトンデモ仏教が展開されてんだ?
512考える名無しさん:2009/02/26(木) 18:22:48 0
>>510
また堂堂巡りなのか?
君みたいなゴミのために3行も書く必要はないが、君の書いたその長文のどこに理性があるというのか?
自分でも理性的な長文を書いたとは思っていないだろう。君のようなゴミにとっては、苦悩のまま、オウムの教義を探るのもまたいいのかもしれない・・・
513考える名無しさん:2009/02/26(木) 18:24:43 0
>>511
仏教が主題としてるのは「生」じゃなくて「苦」だ。
その「苦」のうちで、最も究極的なのが「死」であり、最も扱いが難しいんだよ。


514考える名無しさん:2009/02/26(木) 18:52:00 0
>>512
別にオウムは関係ないだろ。仏教は殺生を禁じてるし。第一、死ねば仏になるからって
人を殺すのは、逆に仏教を理解してない。仏になるのは目的じゃないからね。
それは目的じゃなくて、避けられないもの。人は死ぬのは避けられないからね。
その避けられないものを受け入れないといけない部分での救いとなる教えでしょ。

すべては空なんだから、人が何をしようが、人はいずれ空の境地になるんだよ。
515考える名無しさん:2009/02/26(木) 18:58:06 0
とはいうけど、オウムをどこまで知ってるですか?(宗教的な教義において)
516考える名無しさん:2009/02/26(木) 19:01:31 0
宗教エリートを目指したアホ集団だろ。
517考える名無しさん:2009/02/26(木) 19:02:37 0
ニートの集まり
518考える名無しさん:2009/02/26(木) 19:05:11 0
大作ちゃんを崇めよ!
519考える名無しさん:2009/02/26(木) 19:18:36 0
>>516
他のスレで暴れるなよ。
おまえがいると空気が悪くなるからな。
520考える名無しさん:2009/02/26(木) 19:20:43 0
>>513
苦と空の洒落か?
苦に収斂するのは単なる煩悩だ♪
潔く、毎日、赤玉出るまで、オナニーしていればよい。
すぐに苦は楽になるw
521考える名無しさん:2009/02/26(木) 19:28:47 0
というよりも誰よりも死について勉強してるみたいだからもうちょっと待ってみない?
仏教とか精神的なものだけじゃ一義的だからフリークスとかもちゃんと勉強しておかないと。
522考える名無しさん:2009/02/26(木) 19:44:12 0
赤玉ってなんですか?
523考える名無しさん:2009/02/26(木) 19:45:23 0
>522
ワインじゃよ、ワ・イ〜ン。
524考える名無しさん:2009/02/27(金) 08:51:33 O
死について考えるのは理性の範疇でしょう。ただ理性は基本的に正誤を語れませんし、また、死は知覚できませんので死について推論していく理性は妥当性すら語れない。

即ち、死とは○○といった命題は超越でありますが、これは理性を超越しているのではなく、知覚の欠如を埋めるような理性の働きです。


さらに知覚の欠如とは、死だけで無く、中心を持てないかたちで、生きる中で様々に、たくさんに、発生します。
525考える名無しさん:2009/02/27(金) 09:51:46 0
>>508
>そういう人が理性で処理できなかったのが自分の死だよ。その自分の死を処理するために
>考えられたのが仏教の壮大な理論だよ。

壮大な理論じゃなくて、生即死の3文字で済むw

つまりそれは、理性で処理できないんではなくて、
二元論では処理できないというだけのことだ。

526考える名無しさん:2009/02/27(金) 13:17:38 0
>>558
理性で処理できないが、壮大な理論だと処理できるのか? んな阿呆なw
527考える名無しさん:2009/03/01(日) 14:04:17 0
理性では、自身の生命の価値と宇宙の価値が同レベルになる。
つまり、理性にとって自身の生命の価値は無限大ってこと。
自身の生命が終われば、理性が目標とするありとあらゆる理想も無意味なものになる。
そして、この宇宙さえ存在する意義が失われる。

自分の死後に何らかの価値を見いだすのは、感情であったり因襲であったり宗教的価値観であったり
理性以外のもの。

たとえば、理性的な人間は自分の命を捨てるあらゆる行動を絶対的に回避することからそれがわかる。
それに対して感情的であったり、因習的であったり、宗教的価値観を重視する人間は、
他の人間や他の価値観のために
自身の命を捨てることがある。
528考える名無しさん:2009/03/01(日) 14:22:05 0
>>527
>たとえば、理性的な人間は自分の命を捨てるあらゆる行動を絶対的に回避することからそれがわかる。

違うと思う。利他主義というのは「主義」である限り、理性的なものですよ。

逆に自利だけを求めるエゴイズムは、普通はとても「理性的」だとは考えられていないと思う。
貴方の考え方は、なんかへんですよ・・・

529考える名無しさん:2009/03/01(日) 14:33:33 0
利他主義といっても、自死は選択しないでしょ。理性的な利他主義は、その結果として
自身に好影響が及ぶことを計算している。

他人を助けるために自分の死を選択するのは、突発的衝動的な行動か、因習的・宗教的価値観で決断する場合。

理性が自死を選択するのは、その理性が近い将来に継続不可能になることを
明確に予測した場合だけ。
530考える名無しさん:2009/03/01(日) 14:51:51 0
オウムだよ!オウム!AUM
マスコミは狂気のところばかりを取り上げてたけど教義はやっぱり凄かった・・・
こいつら只者じゃないなと思ってたけど
531考える名無しさん:2009/03/01(日) 14:56:06 0
オウムはくそ。こいつらも、色即是空のみの片落ち。
色即是空、空即是色が揃ってこそまともな仏教。
532考える名無しさん:2009/03/01(日) 15:05:09 0
押入れにしまったまんまだから般若心境がホコリまみれだろうww
糞はおまえw
やっぱオウムだよね〜
実践だよね〜
533考える名無しさん:2009/03/01(日) 15:16:55 0
どっちにしろ、新興宗教なんて糞だけどな。
理性による評価がされない宗教は、数十世代にわたって社会で淘汰されたものでないと
危険すぎる。
理性よりも上位で人を制御する宗教はきわめて重要であり、新興宗教はきわめて危険。
安定した伝統宗教が存在する現代社会では、百害あって一理もない新興宗教は法律で禁止しても問題ないとすら言える。

534考える名無しさん:2009/03/01(日) 15:23:21 0
>>533
あなたの理性で新興宗教(オウムなども含む)の何が危険なのか説明してもらえませか?
そのままじゃまったく説得力ないですよ。
535考える名無しさん:2009/03/01(日) 15:28:54 0
>>534
新興宗教だから危険でOK。
どっちにしろ、宗教は理性を超越してるから、理性で説明しても
意味がない。
536考える名無しさん:2009/03/01(日) 15:40:26 0
そうだよね。今度精神科の先生に聞いてみたほうがいいかもしれないね。
537考える名無しさん:2009/03/01(日) 16:01:17 0
このスレにかまうなよ。オウムでもなんでも勝手に拝んでろ。
538考える名無しさん:2009/03/01(日) 19:22:44 0
規範としての宗教ね。ふーん。
まぁ人間が欲望どおりに生きてしまったら世界は地獄と化すだろう。
だから絶対的価値観、つまり規範である宗教が必要だったってわけだが
現代社会の宗教見てると、時代遅れだとつくづく感じるね。
神と言う存在そのものが古いんだよ。これだけ物理学が発達してる時代に。

問題なのはその古い規範がいまでも生き残り、権力者達に利用されてるって事だ。
そしてその多様化。
宗教の神は価値観そのものでそれを否定されることは自己否定と同じこと
だからそれぞれの宗教家は自分の信じる絶対的な神に対して服従するし
異教に関して排他的だ。宗教上そうならざるをえないわけだが
まぁ時代に即してない規範だと思うよ。

あたらしい価値観が必要だ。哲学的な規範がね。
539考える名無しさん:2009/03/02(月) 09:39:48 0
その哲学的な規範って、理性で導き出すのか?それなら無理だよ。
理性では結局、各人が自信の脳内でその是非を個別に判断することになる。

理性で導き出された規範は、その規範が各人に受け入れられるときに、各人の理性で
是々非々に自身の納得した部分が取り入れられる。それは結局、内的規範と一体化する。

そして、各人が自身の生存戦略に従って、その規範を是々非々に運用する。
そうなると、その規範では人間にとって避けることの出来ない「死」の問題を解決できず
したがって、世代間の調整、人間にとって必須の世代サイクルの円滑な交代に支障をきたし、少子化等の問題を
引き起こしながら、社会はいびつな衰退を招くことになる。

したがって、既存の数十世代にわたって淘汰された規範を使うしかないんだが、
その中では仏教が>>538の問題についてはわりと基準を満たしてはいる。
まあ既存の宗教については一長一短な部分はあると思うが。
540考える名無しさん:2009/03/02(月) 19:40:03 0
宗教も理性だよ。説いてる内容に理性的でないものが含まれているだけの話。
というか宗教規範における、死の認識が古いんだよ。
既存の認識では死後の世界云々が連想されるが
死を忌むべきものとした人間の本能的恐怖を人は乗り越えなければならないのでは?
死は生と対極だとされているが、そうではないというね。
死は生と同じだと。死が身近なものだとする規範をね。
個人的にそうなんで言えることだが、死の認識さえ変われば生を尊いものと認識できる、無論、万人がそうではないけれど
生物としての現実は全ての人にとって平等であり必然だからね。
必ず生命は死を迎える。
結局は宗教は死と言う現実から逃避する思想なのでね。
そうね、仏教ね。まぁ仏教ももとは哲学だしな。
541考える名無しさん:2009/03/03(火) 08:11:38 0
宗教は理性じゃない。理性を超越した存在。その教えを無条件で受け入れるんだよ。理性とは無関係にね。

理性に期待しすぎ。理性への期待の背後には、人間万能思想が隠れてる。
その人間万能思想とまったく相反するのが宗教なんだよ。仏教も含めてね。
542考える名無しさん:2009/03/03(火) 09:05:59 0
>>529
>利他主義といっても、自死は選択しないでしょ。理性的な利他主義は、その結果として
>自身に好影響が及ぶことを計算している。

あなたの主張は根拠が乏しいですね。単なる独断じゃあ議論にはならない。もちろん哲学にはならない。

>>539
>したがって、既存の数十世代にわたって淘汰された規範を使うしかないんだが、

その「淘汰」には、もちろん理性が関わっているわけですけどね・・・

>>541
>宗教は理性じゃない。理性を超越した存在。その教えを無条件で受け入れるんだよ。理性とは無関係にね。

あなたは「理性」に対する拒否反応が強すぎて、極端な見解に傾いてます。
仏教の基本は「中道」。つまり極端な見解を排するのが仏教の基本ですよ。
543心の仕組みドットコム:2009/03/03(火) 09:17:43 0

………………… 理の意識…………………

――――――――――――――――――
左の意識…………仏教…………右の意識
だね、、




544考える名無しさん:2009/03/03(火) 09:36:38 0
>>542
別に理性を全否定してはいないよ。
理性をコントロールする何かが必要ってこと。

理性を最上位の規範とすることは、自我肥大を招き、「自分は神」という潜在意識あるいは
顕在意識を持つことにつながる。
545考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:15:09 0
>>544
>理性を最上位の規範とすることは、自我肥大を招き、「自分は神」という潜在意識あるいは
>顕在意識を持つことにつながる。

誰が理性を「最上位の規範」と考えているの?
「最上位の規範は何か?」なんていう問いが、そのものが不適切な問いなんだよ。
「世界の根源は何か?」なんていう問いも、それに似ている。
そういう問いに答えようとすれば形而上学になってしまうんだね。
そういう問いに対しては、神を持ち出すのが手っ取り早い答えになってしまうんだけど、
それでは哲学にはならない。
哲学って、まずどのように問うか、その問い方を考えるところが大事だね。

546考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:20:41 0
理性によって自然を知るのは重要なことだ。
それによって、理性では汲み取ることができない自然の偉大さを知り、私達は謙虚になれる。
しかし、宗教は、そこに超越した神を根拠不明に導入し、神を知る人間が神と同等だと錯覚させ、他人を支配し、暴力を平気で行う。
さらに、人の死まで決定し、わかるはずもない死後の世界までも決定し、時には殺人目的ためだけに殺人も肯定する。
いまだにこんな低知能の宗教など信じてるのは相当のバカだが、バカの囲い込みとしての社会的役割は機能しているので、宗教は有用である。
そして、そういうバカを集めて統率するために、神など信じてはいない理性ある人間が、宗教のリーダーになるなのも重要だ。
神など信じて、自分が神だといいだしたら、こんな危険なことはない。
従って、今はどこの宗教団体も神など信じていない金儲けのうまい奴が指導者になっている。

しかし、それでいいのだ。

結局、宗教信者は、神ではなく人間に騙されているのだが、それに気付かないのは、自分に弱いからだ。
強くなりたいと思ったら、宗教なんか信じないで、経験と知性を理性的に働かせて一人で生きるしかない。
しかし、それは難しい高度な人生だ。
宗教という他人に人生をゆだねる方が楽で怠惰に過ごせる。
だからこそ、宗教とは弱者の囲い込みであり、哲学とは孤独で勇気のある謙虚な行為のことである。
いくら言っても、宗教信者にはわからない。
弱い奴は自分が弱いとは認めないから弱いのだ。

我々は自然という対象を知るために理性を使い、謙虚になれば宗教など信じることはない。
宗教など隷属でしかない弱者の証。
547考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:21:21 0
>>545
「最上位の規範が理性」とは、つまり無神論または無宗教のことだよ。
548考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:24:31 0
>>546
その高度な人生を目指すべき理由がない。その能力が自分にあるかどうかもわからないのに。
というか、大半の人にその能力はない。一部のエリートのみが人間万能思想を自身の主義として追求できる。
結局、そうした思想がもたらすのは真の意味でエリートのみが幸福になる社会なんだよ。
549考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:30:12 0
>>547
>「最上位の規範が理性」とは、つまり無神論または無宗教のことだよ。

無神論と無宗教は全然違うんだけど、
神の存在を全く否定する無神論者は少ないですね。
哲学的立場として多いのは、神は存在するとも存在しないとも言えないと考える不可知論。
そして不可知論からは、理性を絶対視する考え方は出てこないです。

あなたはたぶん、理性を絶対視する立場を勝手に作り上げてしまって、
その空想上の敵と戦っているんですね。
550考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:32:53 0
>>548
我々は、自然と闘っている。
しかし、神を導入することによって、人間同士の戦いにすり替え、一部の人間が得するように不公平不平等にエネルギーを集中させるのが宗教組織だ。
その不合理のシステムに隷属するのが正しいと思うのは、その人それぞれの人生だから、別に否定することはない。
既にそれは、モダニズムとして批判されているからね。
宗教の社会的機能も説明したとおりだ。

怠惰に生きることは、別に誰も否定していない。
宗教を信じるのは自由だ。
隷属して生きることは楽でいい。
ただ、それだけのことだ。
551考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:35:29 0
>>549
> そして不可知論からは、理性を絶対視する考え方は出てこないです。

理性というのは、方法であり、ひとつのテクノロジーです。
結果ではありません。

552考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:46:02 0
>>550
人間は神にはなれない。人間は自然に必ず負ける。
なぜなら、人は必ず死ぬから。

そして、理性を最上位の規範とする限り、「自身は神」という
潜在意識にとりつかれることになる。それが、仏教でいう「苦」を招くんだよ。
553考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:52:24 O
キルケゴールの「永遠の生」それ自体が信仰にとってのつまずきになってしま、か
554考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:53:46 0
>>552
> そして、理性を最上位の規範とする限り、「自身は神」という
> 潜在意識にとりつかれることになる。

それが宗教。
モーゼ教ならば、聖書やイエス、仏教ならば教典や釈迦などを根拠不明の最上位に置き、なんの批判もなく洗脳される。
理性によって思考する人間は、そんな怠惰に満足しない。
その理性の方法論のひとつが科学であり、科学とは相対主義なのだよ。

科学に絶対はない。
宗教にはあるけどね。
555考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:55:57 0
>>553
キルケゴールとニーチェはキリスト教の信仰としては酷似してる。
ニーチェはキリスト教は否定したが、イエスを否定したわけではない。
556考える名無しさん:2009/03/03(火) 10:58:28 0
>>554
それは違う。宗教は他の存在を神とすることで、自分自身を神とみなすことを避けている。

科学をはじめとする理性主義は、神はこの世に存在しないとしているが、
そうなると、人間は「自身を神」とみなしてしまうんだよ。そういう習性を持ってる。
この世に神がいないとすれば自分でも気がつかないうちに人間は「自身を神」とみなしてしまう。
557考える名無しさん:2009/03/03(火) 11:08:29 0
>>556
> 宗教は他の存在を神とすることで、自分自身を神とみなすことを避けている。

キミは宗教のロジックをまったく理解していないようだね。
例えば、キリスト教は、聖書を絶対とするが、絶対としてるのは人間であり、その絶対性を守るのは人間なのだよ。
神ではない。
ということは、その絶対を行使する人間は神と同等なのは明確。
カトリックであれば、バチカンであり法王であり、教会であり、権威伝統だ。
キリスト教では、そこらじゅうに神が存在し、聖書解釈によって、悪魔が日常的に大量生産され、根拠不明にいたるところで魔女裁判が繰り返される。
許されれば、日常的に悪魔の烙印がつけられて殺されることは間違いない。
つまり、いつでも神を行使して、他人への暴力を肯定する。
そういう狂気が常に許されているのが宗教なのだ。

宗教というのは、弱者の烙印なのだよ。

わかるかい?
558考える名無しさん:2009/03/03(火) 11:47:17 0
>>556
>この世に神がいないとすれば自分でも気がつかないうちに人間は「自身を神」とみなしてしまう。

自分自身を神とみなしている人間とは、具体的にはどういう人間のことを指しているの?
『罪と罰』のラスコーリニコフのこと?ww
現実にはそういう人間はあまり存在しないと思う。
559考える名無しさん:2009/03/03(火) 12:09:02 0
人間には、いずれにしても神が必要なんだよ。つまり、絶対的な存在がね。

その神がこの世に存在しないなら、自分が神になるしかない。まあこれは、普通は潜在意識下での話だけど。

表層意識で「自分が神」と考える人はまずいないとしてもね。
560考える名無しさん:2009/03/03(火) 12:13:53 0
>>559
>人間には、いずれにしても神が必要なんだよ。つまり、絶対的な存在がね。

絶対的な存在を必要とする人間は弱い人間だとニーチェは書いていた。
その通りだと思う。
561考える名無しさん:2009/03/03(火) 12:37:21 0
たとえば、これは典型的なアメリカファンダメンタルのプロテスタントの妄想を現しているのだが、これを理解できる人間はここでは少ないだろう。

Are you ready?
http://www.youtube.com/watch?v=SmLhyPjHVes

raptureで検索すれば、いくらか知識は身に付けることができるだろうが、それでも最後で顔を覆って哀しむ少年の姿を理解できる人間は少ないに違いない。
raptureとは日本語で「携挙」と訳され、最後の審判の前後に敬虔なクリスチャンは天上界に引き上げられて、最後の審判で天国へ導かれるというものである。
つまり、携挙されるということは、信仰において正しいと証明されることであり、それによって、自分の現在の人生を肯定されることでもある。
携挙されなかったということは、信仰において間違っているということであり、地獄へ落ちるということなのである。
その意味で、まさに「Are you ready?」なのだw
これは、いまやアメリカクリスチャンの大多数の常識であり、また同時に宗教の姿でもある。

しかし、これがカルトがはびこっているアメリカの話などと対岸の火事に感じているのはとんでもない間違いだ。
日本にも魔の手は伸びている。
レフトビハインド
http://www.wlpm.or.jp/leftbehind/1/1788.htm

このように現世を否定してる人間ほど怖いものはない。
562考える名無しさん:2009/03/03(火) 12:37:25 0
ニーチェによれば、絶対的な存在を必要とする人間は弱い、
そういう存在を必要としない人間になれってことでしょ。

つまり、自分が絶対的な存在にならないといけない。
それはつまり、自分が神になれってこと。
超人と言う言葉を使おうが神と言う言葉を使おうが、両者に対して違いはない。
563考える名無しさん:2009/03/03(火) 12:50:20 0
>>562
>超人と言う言葉を使おうが神と言う言葉を使おうが、両者に対して違いはない。

超人は常に自己超克する者。つまり常に変化して没落を欲する者だから、神とは全然違うよ。
564考える名無しさん:2009/03/03(火) 12:50:25 0
>>562
> そういう存在を必要としない人間になれってことでしょ。
>
> つまり、自分が絶対的な存在にならないといけない。
> それはつまり、自分が神になれってこと。

まさに、「神を必要としない人間=自分が神」
と発想してしまう人間こそ、宗教で囲い込まれ、社会的に隔離される必要がある。
そういう絶対性を求める幼稚な人間は、誰か指導者に常に監視されて拘束されていなければ社会的に危険で仕方がない。
通常の理性ある人間はそんな発想しないし、行動はしない。
正しさというのは、便宜上のものであり、まさにケースバイケースであり、絶対などというものではない。
それが通常の人間の発想だ。

神とはひとつのジョークであり、信じる対象ではない。

565考える名無しさん:2009/03/03(火) 12:52:58 0
>>563
超人とは、絶対的な存在でしょ。
外側に絶対的な存在を求めるな。自分が絶対的な存在になれってこと。

いずれにしても、人間には絶対的な存在が必要なんだよ。
566考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:03:01 0
>>565
>超人とは、絶対的な存在でしょ。
>外側に絶対的な存在を求めるな。自分が絶対的な存在になれってこと。

同じことを何度も書かせないでくれ。
常に変化し没落を欲するのが超人だから絶対的な存在ではない。
絶対的な存在は没落しないだろ?

567考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:05:24 0
>>561
偉そうに語っちゃてるようですけど、そういう映画、そういう書籍、そういうドラマDVDの宣伝用演出じゃないの?
大げさな演出と知ってれば別に変な挙動をしているわけではなく、天を仰いだり十字をきったたりするしぐさは逆に自然だろう。
それよりも君のごたくによれば、突然学生達がいなくなったのだから、宗教に関係なく教室を飛び出したり逃げ出したりする方が自然のはず。
そのyoutubeは漂流教室を髣髴させるけどね。妄想が酷いのはプロテスタントじゃなくて君自身じゃないのぉ?
568考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:15:48 0
>>566
そう、つまり人間自身は絶対的な存在にはなれない。
でも、人間には絶対的な存在が必要。
569考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:17:52 0
>>567
なにを否定してるのかまったく意味不明だが、これは、まさにアメリカファンダメンタル教会のプロモーションビデオだよ。
私は、宗教はその指導者にとっては、単なる金儲けでしかないと言ってるつもりだ。
キミのような自分の頭で思考できない人間を囲い込むために、彼らはせっせと洗脳してるのだ。
そして、彼ら信者にとっては、それによって、天国か地獄かの重要な瀬戸際となり、だからこそ現世をも左右する重大なメッセージとなってるのだ?
もしかして、キミも、そんなバカなカルト信者のひとりなのか?
それならこんなところで布教してないで、教会でお祈りでもしてなさい。

天国にいけないぞ(笑

(^。^)ノシッシッ
570考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:19:03 0
プロモーションビデオw
571考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:24:06 0
>>568
>でも、人間には絶対的な存在が必要。

うん、だから・・・
弱い人間には必要なんだろうねw


572考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:31:20 0
幸福の科学なんて、金儲けの典型だろう。
でも、ああいう金儲けを宗教だと信じて、オイタしないのは社会的に有意義なことだ。
ニーチェを読んで、自分は超人だと誤解するよりは、大川隆法を神だ仏だと信じている方がはるかに害はない。

遠慮なく、宗教に埋没して神を信じなさい(笑

それもひとつの生き方である。
573考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:40:17 0
プロモーションビデオw
574考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:44:36 O
ピノッキー
575考える名無しさん:2009/03/03(火) 13:53:44 0
>>569
プロモーションビデオってなんですかぁ?
576考える名無しさん:2009/03/03(火) 14:47:09 O
人は誰でも根拠なき理由があるんじゃないか
どこまで意識に恣意が働いてるかわからないが
577考える名無しさん:2009/03/03(火) 16:54:02 0
仏教は、結構いいセンいってるとは思うのだが、原始仏教で中観ぐらいまでだな。
大乗仏教では、チベット仏教ぬかしてほとんど全滅だろう。
578考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:01:53 0
日本仏教が最もよいと思うよ。
その中でも浄土真宗が最もよい。
宗教とは何かを一番わかってる。
宗教の本質を哲学的に理解し、そこから演繹して宗教としての体裁を整えた浄土真宗
はある意味すごい。哲学は総じてゴミだけど、その中でも仏教哲学だけは認めざるを得ない。
579考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:27:36 0
浄土真宗なんて、たんなる和製キリスト教だろう。
あの手の末法浄土救済思想は、中世で終了してる。
いまだに真面目に信じてるのは、単なる低能。
まあ、そういうバカは幸福の科学のような振り込め詐欺と一緒で、騙されてかね吸い取られればいいんだね。
葬式仏教で役には立ってるからね。

現在の仏教で哲学なんて言えるのは皆無だろう。

580考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:30:22 0
浄土真宗は「宗教の本質を哲学的に理解し、そこから演繹して宗教として
の体裁を整えた」もの、って理解はそもそも思想史的に成り立つのかい?
581考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:32:12 0
釈迦の教えの核心は相対主義の空だが、それはある意味科学よりも徹底してる。
しかし、今の坊主がそれを生きていけるわけがない。
サラリーマンの方が、まだ、仏教的な相対主義を実践できる。
582考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:38:09 0
結局このすれも頭いい人が居なくなっちゃうと創価学会になっちゃうよね。
583考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:44:23 0
そもそも、このスレのテンプレが意味不明だけどね。
584考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:46:28 0
>>581
何だなんだ?学会さんをなめてんのか?
585考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:47:03 0
>>579
低脳は哲学全般ね。その中で仏教哲学は例外。
まあ、もともと哲学なんて人間には必要ないけど、
理論的にしか物事を理解出来ない人には、仏教哲学だけやってればいい。
586考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:58:07 0
>>584
学会ってなに?
池田教のこと?
あいつらって、単なる低能だろう。
舐めてるとかいうレベルでもないと思うけど?

今の創価学会って、そもそも、宗教ですらないと思うけど・・・・・・・・・・・・・・
単なる、池田教のネットワークビジネスじゃない?

>>585
> 仏教哲学は例外。

どこが、例外?
というか、どこが哲学なんだ?

宗教だろう?
587考える名無しさん:2009/03/03(火) 17:59:14 O
それにしても加羅の連中変なこと吹き込みやがって
588考える名無しさん:2009/03/03(火) 18:01:45 0
>>586
浄土真宗は宗教だけど、釈迦やら龍樹やらは宗教というより哲学
589考える名無しさん:2009/03/03(火) 18:06:18 0
>>588
だから、竜樹あたりまで。
それ以降は、単なる宗教。

まあ、哲学も似たようなもんだけどね。
590考える名無しさん:2009/03/03(火) 18:14:07 0
だから、哲学からまともな宗教を生み出せなかったギリシャ以降の哲学は
全部クズなんだよ。それに対して、仏教哲学は正当な方向に進み、宗教として結実した。

もちろん、キリスト教のように先に宗教ありきで、そこから哲学を下におろしてもかまわない。

哲学は、人間が宗教的観念を理論的に理解するためのはしごとしてでなければ、存在する意義がない。
591考える名無しさん:2009/03/03(火) 18:15:46 0
>>590
宗教ってなに?

定義は?
592考える名無しさん:2009/03/03(火) 18:16:42 0
>>589
というよりも何でそんなキモ面なの?
自分の顔を鏡みたことないだろ
593考える名無しさん:2009/03/03(火) 18:34:41 0
>>592
今の創価よりましだと思ったけど・・・・・・
594考える名無しさん:2009/03/03(火) 18:52:45 O
ぼくは五百万円で創価の星型のロケットペンダント買ったよ。
多分金はメッキだろうけど気にしない。
ポートレートにはもちろ御本尊様の笑顔
これ手に入れて不幸なことなくなって大儲け
これだけ喜捨したアナタは天国へのパスポートを手に入れたも同然だって。
595考える名無しさん:2009/03/03(火) 20:41:09 0
>>594
メッキならまだいいじゃん。

そんなにいいことあるんなら、あと10個ぐらい買うべきだな。
596陽子さんへ:2009/03/03(火) 23:10:22 O
関西のアーバン銀行と東北の銀行がいい
597考える名無しさん:2009/03/04(水) 01:19:56 0

【893】コリアン・マフィア教団【U】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1208304394/
★キリスト教★『什一献金って義務ですか?』10匹目
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1225383569/
朝鮮人が絡んでる宗教は高確率でインチキ2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1202876014/
【決起セヨ】暴言執事【日本人信徒】その2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1180705826/
【韓国】19年服役強姦魔クリスマス特赦後また犯行
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1174496145/
(`∀´)韓国系プロテスタント教会(`U´)
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179921349/
【弟子訓練】●●●(←難読漢字につき表記不能)氏【韓国】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1231966553/
聖○中○教会ってどうよ?vol.3 【真理を語る】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1216205264/
【内幕】キリスト教の裏事情U【暴露】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1227278287/
行ってはいけない教会3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1210585485/
598考える名無しさん:2009/03/05(木) 09:46:14 0
世の中は理性の計算通りには進まない。
理不尽なことでいっぱい。
理性を絶対視していれば、理不尽な世の中を見下し、それに適合できなくなる。

家に引きこもるニートには、こういうタイプが多いのではないだろうか。
世の中の理不尽さは、ある意味はサイコロをふったときに出る目と同じ。
どんな目がでようとも、それを受け入れないといけない。こうした行為は理性では
まったく対処できない。

仏教が指摘するように、世の中は縁起の連鎖で動いている。
したがって、目の前の事象を取り出してみれば、それはサイコロをふったときに出る目
と同じように、自身ではほとんど制御することはできないもの。
理性はこうした事実に我慢できず、それを受け入れることを本質的に拒否する。
599考える名無しさん:2009/03/05(木) 14:45:37 0
『自己チュー親子』 諏訪哲二/著

子どもの問題は、親を語らずして解決できない。モンスター・ペアレントに向き合い、
現代の家族を解読した注目の本。「かけがえのない自分」が暴走するとき、社会は悲鳴をあげる。

[目次]
第1章 フェアプレーなきヒーロー―亀田親子について;
第2章 「オンリーワン」はそれほど大切か?;
第3章 秋葉原事件をめぐって;第4章 「親」は何をしてきたのか;
第5章 モンスターペアレントの「妄想」;
第6章 「自己チュー」の発生源としての家庭;
第7章 理不尽と非合理の効用

この本がこのスレの趣旨に似たことを書いてた。
600考える名無しさん:2009/03/08(日) 16:23:41 O
現代の規範とは、歴史の中で模倣されてきた規範の延長である。

秩序は発明されるというよりたまたま導入され、発見され、事後的にのみ正当化されうる。

こう言う時、道徳の伝統とは現代に生きる私達の理性を上回るものであります。


ハイエクはこうした観点から、秩序を進化させてきたものとして歴史を“自生的な”秩序の正統性として認めようとします。

しかしこの時、現行の秩序の問題を発見する理性が私達に働かない場合、淘汰がうまく働かない場合、そういった正統性は崩壊する。

宗教の秩序にその中心となる信仰への疑惑ときつねの権力を

資本主義の秩序にその中心となる信念への疑惑と巨大資本の権力を

これらを《邪魔されず》歴史の中で発見できることが秩序の正統性を保持しうる。
601考える名無しさん:2009/03/11(水) 09:44:01 0
理性を最上位の規範とする限り、個人主義化は避けられない。
理性は何より自由を求める。自由のないところでは理性は窒息する。
したがって、個人の自由を志向する個人主義化は不可避になる。

そして、個人主義化することで、コミュニティは形骸化することも避けられない。
少なくとも、コミュニティは主役の座から引きずり下ろされ(驚くべきことに、つい最近まで日本では主役は個人じゃなくて
コミュニティだった)、脇役的存在になる。つまり個人の便宜を図るためにのみ存在することになる。

それに伴って、社会の性質は新自由主義的なものに変化する。ただし、それでは社会の不安定さが増すために、
社会保障は今よりも手厚くなる。
つまり、一握りのエリートと、社会保障によりかかるしかない層に分裂することになる。
これらはすべて、個人主義化の必然であり、その根本の原因は理性を最上位の規範することにある。
602考える名無しさん:2009/03/11(水) 10:24:00 0
神とは、自然そのものである。自然の厳しさ、理不尽さ、豊穣さ、すべてを包有し
それを象徴するのが「神」である。仏教の「諸行無常」とは、これを哲学的に表現したものである。
したがって、神=仏=自然=諸行無常となる。

それに対して理性が求めるのは、イデア・理想である。これは、自然(神)と本質的に敵対するものになる。
自然とは諸行無常であり、理性の求める理想・イデアとは本質的に相容れない。

この両者の対立が現代イデオロギーの対立の根本に対応している。
つまり、イデア・理想を求め、神・自然(諸行無常)を征服すべきとする進歩派と、
神・自然(諸行無常)に従うべきとする保守派である。

そして、この対立は結局、神・自然(諸行無常)が常に勝つ。
その理由は、仏教が哲学的に明らかにしている。
603考える名無しさん:2009/03/11(水) 10:54:22 0
さらに、自然(諸行無常)に従うとは、「死」を受け入れるということである。
そして、個人の自我の無制限の拡大を抑制し、自身の自我にまさる他の価値を認めることである。

自身の自我に勝る他の価値を認めるとは、結局「自身の自我を抑制する」と同義なのだが、
自身の自我はあまりにも強いために、単純に抑制することはできない。
そこで仮に、自身の自我よりも強い他の価値を立て、その価値を自身の自我よりも上位に置く。
これによって、自身の自我を抑制することがかろうじて可能になる。

そしてその価値こそが、「神」ということになる。
604考える名無しさん:2009/03/11(水) 11:01:28 0
そこで、自身の自我に勝る価値として「神」ではなく、「理想・イデア」を置いた場合はどうなるか。

「神」とは自然(諸行無常)を表し、自身には絶対に吸収されないのに対して、
「理想・イデア」とは理性が描き出す(自身に)予定調和的な価値であり
それは結局、自身そのものに吸収されることになる。つまり、自身の自我の上に「理想・イデア」を置いたと
自分では考えていても、その「理想・イデア」は結局自分自身を表すものであり、自分の自我の上に自身を置くだけになる。
これでは結局、自身の自我を抑制することは出来ない。

605wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/11(水) 12:46:06 0
>>601
<理性は何より自由を求める。自由のないところでは理性は窒息する。>

「本当の自由(free from everything/everyone」の中では、悟性も理性も生起しない。
所与の事実を何も引き受けない(本当に自由な)悟性や理性などありえない。

>>604
<「理想・イデア」とは理性が描き出す(自身に)予定調和的な価値であり
それは結局、自身そのものに吸収されることになる。>

この逆立は不可能。
可能であれば、「自我」=「理想・イデア」となり、そこからは、何のコギトも生起しない。
606wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/11(水) 12:52:53 0
もちろん、「何のコギトも生起しない」ということは、それは、即ち、「理想・イデア」ということにはなります。
607考える名無しさん:2009/03/11(水) 13:09:46 O
>>601
一般的に資本主義経済における功利主義と独我論的利己主義は別ものとされます。

また、強引な利己主義は集団的な合理性を否定する反ー合理的なものです。

あと、理性を正しいとするから、利己主義になるとか、自分が神になるとか言うのはおかしくて

何かについて推論する手段として理性があります。理性の正当性を問う時、「理性は間違える」といった推論も理性の働きになり、矛盾に陥りますね。


例えば、仏教思想的な不可知論による世界観では、「知覚できないものを埋めようとする理性の働きは間違える」と推論する立場にありますが、これは同時に推論した理性を信仰しています。
608考える名無しさん:2009/03/11(水) 13:36:42 0
>>607
危険なのは、理性を最上位の規範とする場合ね。

下位の規範として理性を活用するのは、キリスト教神学の場合でも仏教の場合でも
重視されている。
609考える名無しさん:2009/03/11(水) 16:03:58 0
>>605

>「自我」=「理想・イデア」

この部分は確かに飛躍がある。「真の自我」=「本当の自分」=「将来達成すべき自我」=「理想・イデア」
とすべきかもしれない。もちろん、これで厳密な議論は無理かもしれないが、大まかなアウトラインとして。

このアウトラインには、現代の新興宗教が陥ってると思われる罠がある。
そして、現代の新興宗教は、「神」ではなく「イデア」を信仰していると思えるふしが多分にある。
610考える名無しさん:2009/03/11(水) 17:38:46 O
>>608
例えば、因果を見出し第一原因として神を想定し、正しいとすることは、まず推論した理性が正しいとされなければいけません。

上位か下位かの言及は極めて相対的なためできませんが、理性への信仰はあらゆる超越を想定し、信仰するための前提にならざるを得ない。


私が言及したのは、「理性」という言葉への解釈です。

利己主義者は集団の調和を推論しない。或いは「推論する理性は間違える」と推論する。(懐疑主義的独我論)

理性を正しいとする信仰が(最上位の)規範となると利己主義になる、というのはおかしい。続きます。
611考える名無しさん:2009/03/11(水) 17:44:07 O
利己主義者は集団の調和に対して、むしろ理性を働かせていない。

懐疑主義的独我論者は「理性が間違えだ」と推論する理性を正しいとする。

これは、むしろ反ー理性が懐疑主義に至り、独我論的利己主義を生むということです。

そして、現存の宗教の聖職者の権力や資本主義の資本の権力からの逃避として、こうした、超越を推論する理性(信仰)に対する拒絶が、社会的な現象として現れた。

という仮説が私の考えです。
612wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/03/11(水) 18:20:53 0
>611
<現存の宗教の聖職者の権力や資本主義の資本の権力からの逃避として、こうした、超越を推論する理性(信仰)に対する拒絶が、社会的な現象として現れた。>

ヒトの理性では超越的存在を推論できない(肯定も否定もできてしまう)、というのがカントのアンチノミー。
それを、「現存の宗教の聖職者の権力や資本主義の資本の権力からの逃避」としてみると、ある意味、イデオロギーになります。
では、純理は、イデオロギー的側面から全く自由でありえたのか?
私は、カントが純理を書いた意識的/無意識的要因はひとまず看過しておき、そうではなかったのではないか、というように考えます。
キルケゴールの「死に至る病」の弁証論も、また然り、と考えます。
明確な問題意識によって超越的存在の否定を指向/志向するのはフォイエルバッハまで待つ必要があるとは思いますが。
613考える名無しさん:2009/03/11(水) 18:41:34 0
>>610
神の存在を想定することが正しいかどうかはあまり問題じゃない。

理性を超越する何かが存在することが必要ってこと。

だから、本質としていえば、主題は「神」ではなくて「理性」なんだけどね。
つまり、「神」の部分は「仏」でも「因習」でも「伝統」でも何でもいい。置き換え可能。でも、「理性」の部分は
他に置き換えることができない。
614考える名無しさん:2009/03/11(水) 21:32:32 O
>>612
「推論が間違い得る」のを前提とします。超越を推論できるとは、例えば、神がいるとも、いないとも言うことができることを言っています。

また、それが間違えであり得ることができるということを条件とし、それを行為の前提とするものを信仰と言っています。

イデオロギーと分離できる言説は無いと考える同時に

実在が無い、或いは観念と実在の間に一切関与が無い、といった仮説は間違いであり得ると考えます。
615考える名無しさん:2009/03/11(水) 21:51:03 O
>>613
「理性を超越する存在」とは「想定できないもの」としてしか想定できないはずです。神や自然や物自体といった想定できるものを理性を超越している存在とは言えない。

おそらく「理性」を「直観」や「知覚」とかと言葉を履き違えているように推論します。そうすれば独我論との関与が繋がるからです。
616考える名無しさん:2009/03/12(木) 06:24:09 0
>>615
「信仰は理性を超越する」というのは、普通に言われてることだろ。
言葉のあげつらいは不毛だし、つまらないからいいよ。
神は直感や知覚を超越してるんじゃなくて、理性を超越してるんだよ。
617考える名無しさん:2009/03/12(木) 06:39:27 0
というか、神は直感や知覚はもちろん、理性をも超越してるというべきか。
とりあえずここでは、「理性」を主題としたいので。「神は理性を超越してる」という言い方でいいでしょ。

618考える名無しさん:2009/03/12(木) 15:41:14 0
神の定義として「神とは、人間の力が絶対的に及ばない人知を超えた善なる存在。」
としたけど(まあ「善なる」には異議が入ったけど)、この「人間の力が及ばない」って部分が
重要なんだよ。つまり「超越性」ね。論理・理性とかイデオロギーとかは、個人個人が
その有益性とか存在意義を自身でゼロからトレースできるよね。つまり、それを信奉する
うえで「強制」されてる部分はまったくない。それを信奉する理由はすべて自発的で本人は
自身の知性でそれを納得してる。

ところが神を信仰する場合は、自身の知性を超えて、無条件・強制的に神を信じるわけ。
この違いがとんでもなく大きい。そして、そのことが規範としての宗教と理性の働きが大きく異なる
理由そのものなんだよ。
619考える名無しさん:2009/03/12(木) 15:45:58 O
理性は過程だから結局終着点には神がいるはず
620考える名無しさん:2009/03/12(木) 16:00:16 0
理性で到達できる神は、偽神だよ。あるいはイデアとも言う。新興宗教系はこれが多い。
人間が真のあるべき姿に到達したときに、人間はその神の一部になるって感じのストーリーで。

神は人間から超越してるからこそ意味がある。人間と一体化するなら、それは内的規範になってしまう。
621考える名無しさん:2009/03/12(木) 16:29:02 O
因果を遡っていくとこれ以上疑えないって地点があって、そこは神なんじゃないの?
自然科学が信心から生じたような。
622考える名無しさん:2009/03/12(木) 16:35:57 0
仏ならあり得るかもね。

仏とは空。神とは絶対的存在。神と仏はある意味真逆の存在。そして、人間は神とは断絶してるけど
仏とは断絶しておらず、いずれ仏になる。

つまり、人間は絶対的な存在(神)からは断絶している。
そして、人間はいずれ空(仏)になる。

これは、ある意味同じことを視点を変えて説明してるだけとも言える。
623考える名無しさん:2009/03/12(木) 21:35:29 0
結局、神とは人間の力が絶対に及ばない超越した存在なのに対して、
仏は、人間がいずれいたる境遇を表している。そして、イデアもまた、人間がいたるべき状態を表している。

つまり、真に相対すべきなのは神とイデアではなく、仏とイデアなのかもしれない。
仏は空であるのに対して、イデアは本源的な理想状態を表す。
そして、仏教によれば、イデアを目指しても、最終的に空に至ることは避けられない。
さらに、イデアを目指すことは苦を招くだけということになる。

624考える名無しさん:2009/03/12(木) 21:47:34 O
>>614の続き

カントは超越が理性の僭越だ、と否定的に言うのですが、彼自身は「物自体」を想定しています。

しかし、私はこれが僭越と呼ぶような、制限するべきものとは思わず、健全で、チャレンジングなものとして評価します。

全く話しは変わりますが、共産主義思想もまた、健全でチャレンジングな超越への信仰であったと考えます。

しかし共産主義の失敗は、今日、信仰が拒否される大きな原因の一つと考えます。

それでもチャレンジングと言うのは失敗可能性と修正可能性を孕んでいる上で快楽にポジティブであるからです。
625考える名無しさん:2009/03/12(木) 22:15:31 O
>>616
定義しておかないと議論が不毛です。

理性は推論する手段であり、超越は理性により推論される。そして、それは間違い得る。

「理性で推論できないもの」を「神」と呼んでも、その「理性で推論できないもの」は理性が推論したものになってしまう。

また、理性そのものは自我を特権化しない、懐疑主義的な推論(反ー理性)が直観や感覚を特権化し得る。

以上があなたの言葉と相容れない部分の私の考えです。


「神は理性を超越する」とググってみますと、何人かの神学者が詐欺的なレトリックとして使っているくらいです。こういった言説をこの場でするべきではありません。

626考える名無しさん:2009/03/12(木) 22:18:19 0
理性で神の存在を証明するのは無理だろ。キリスト教にしても神道にしてもさ。
自明なことにからんでもしょうがない。揚げ足とりにしかならないよ。
627考える名無しさん:2009/03/12(木) 22:27:27 O
>>626
「理性が間違い得る」仮説を前提とします。証明できるのでは無く、推論できると言っています。

また、この話しは、あなたの使う「理性」という言葉の解釈を明確にしないと先に進まないと考えます。
628考える名無しさん:2009/03/12(木) 22:35:38 O
理性自身では証明できる命題は私の知る限り有りません。

証明という言葉を適用できるのは現象学で言う直観くらいと考えます。

理性で語れるのは妥当性です。
629考える名無しさん:2009/03/12(木) 22:36:21 0
神=超越的存在
これが定義。wikipediaでもこうしてる。もう、揚げ足取りはやめてくれ。
納得できないならこのスレに書き込まなくてもいいから。
630考える名無しさん:2009/03/12(木) 22:45:30 0
創価学会に睨まれた芸能人
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1191943464/l50x

怖いよ
631考える名無しさん:2009/03/12(木) 23:09:00 O
>>629
理性の解釈について言及しました。


明確な意図で議論をはぐらかせていると判断します。
632考える名無しさん:2009/03/13(金) 05:06:14 0
>>629
誰から見ても、君が揚げ足とりだろう笑

神=超越的存在なら、神の意志にすれば、なんでも許されるのが宗教で、それが原始社会の統治形態。
実際、そういう教祖絶対の暴力的な原始社会を形作ってんのがカルト。
そういう思考停止に陥らないように他者理解に務めるのが理性だって話。

宗教なんて、必要ないんだが、まだまだ、教養が足りない奴がいるから、神が必要な奴がいるだけだろう。
まともな奴は、神とか宗教とか他人に押し付けたりはしないものだ。
633考える名無しさん:2009/03/13(金) 05:19:18 0
>>631

神を「発見」した人が、誤った「理性」に導かれたとしても、つまりその人が「狂人」だったとしても
宗教が受け継がれるときに、各人の「理性」ではなく、親や聖職者から無条件にその教えを受け継ぐんだよ。

もう一度貼ると

>論理・理性とかイデオロギーとかは、個人個人が
>その有益性とか存在意義を自身でゼロからトレースできるよね。つまり、それを信奉する
>うえで「強制」されてる部分はまったくない。それを信奉する理由はすべて自発的で本人は
>自身の知性でそれを納得してる。

>ところが神を信仰する場合は、自身の知性を超えて、無条件・強制的に神を信じるわけ。
>この違いがとんでもなく大きい。そして、そのことが規範としての宗教と理性の働きが大きく異なる
>理由そのものなんだよ。

>>632
宗教が不要とか、話をねじ曲げすぎ




634考える名無しさん:2009/03/13(金) 05:26:58 0
さらに、伝統や因習の場合には、誰か一人が「誤った」理性で作り出したものではない。

それは、先人の理性や経験の断片の積み重ねだが、伝統や因習を受け入れるときに

各人はその理性でその意義をゼロからトレースするわけじゃない。無条件に伝統や因習に従う。

つまり、
伝統や因習にも、各人の理性に対する超越性がある。

いずれにしても、各人の理性を「超越する」規範が必要というのがこのスレの趣旨。
635考える名無しさん:2009/03/13(金) 06:16:38 0
神を絶対者のままで、「神即自然」とした汎神論には誤りがあった。

「神即自然」とするなら、神は絶対者ではいられない。「神即自然」なら神は空、つまり神は
絶対者ではなく、諸行無常を体現する仏にならないといけない。

神を絶対者とするなら、神は超越者でないといけない。このことが、汎神論の混乱の原因になったと思う。
636考える名無しさん:2009/03/13(金) 06:41:58 0
つまり、神の存在意義が「イデア」の無制限の暴走を防ぐものだったとしたら、
神は超越的絶対者として君臨することで、人間の「イデア」の暴走を抑えることができる。

それに対して、絶対者・超越者ではない仏は、人間と同じ地平に立ちながら、自身を「空」とすることで
イデアの暴走を抑えているのでは?

イデアの暴走を防ぐという点で、神は超越者・絶対者として、仏は人間と同じ地平に立って
同じ機能を有している。
637考える名無しさん:2009/03/13(金) 07:21:50 0
>>633
> 宗教が不要とか、話をねじ曲げすぎ

不要だよ。
まあ、文化の継承としては必要だが、国家の運営においては、民族宗教は紛争の種以外にはない。
638考える名無しさん:2009/03/13(金) 07:29:05 0
そもそも、みんな勘違いしているが、神が絶対かどうかなんて、どうでもいい話。
問題は、神と称する人間が自分は絶対だと称して絶対的な権力を揮うことが人間社会で問題なだけのこと。
639考える名無しさん:2009/03/13(金) 07:36:18 0
いまどき神のいる人間社会がどこにあるのかな?
神はとっくの昔に死んだ。
640考える名無しさん:2009/03/13(金) 07:39:06 0
国家宗教すなわち国教は不要だが個人の宗教はあったほうがいいだろ。
宗教を持たない人は理解しにくいし信用できない。
641考える名無しさん:2009/03/13(金) 07:41:06 0
>>639
だから、いまどき宗教で神とか仏なんて信じてる奴は、ゾンビ。

>>640
だから、文化。
642考える名無しさん:2009/03/13(金) 08:04:11 0
宗教の是非はほどほどにしてくれ。
理性に依らない規範の重要性をここでは論じたいので。
643考える名無しさん:2009/03/13(金) 08:24:35 0
理性の依らない規範とは、単なる暴力だろう。
是認される暴力とはなんだ?
644考える名無しさん:2009/03/13(金) 08:26:06 0
そもそもここで、論じている宗教の定義が曖昧。

理性で解決できることがないから、宗教絶対という、病人しかここにいないだろう。
645考える名無しさん:2009/03/13(金) 08:27:34 0
違うよ。数十世代を重ねることで精錬された先人の知恵、経験の
集まり。伝統宗教も結局それ。
646考える名無しさん:2009/03/13(金) 08:40:47 0
まあ、そのレスだけで、宗教信者の知能が低いことがわかるな。
どうせ聖書なんて読んでもいないだろうし。
647考える名無しさん:2009/03/13(金) 08:52:42 0
人々の自我を抑えるには様々な方法があるんだよ。地域性、人種性にも左右される。
ある方法をとったときに、その方法がこうした様々な要因に合わせて調整されるまで長い年月がかかる。
部分部分を取り出してもダメで、伝統規範の総体として、そうした要因に合わせて微妙なバランスの上で調整されてる。

だから、西欧の風土で調整されたキリスト教を日本に突然持ってきてもうまくいかなかったりする。逆もしかり。
キリスト教の場合は、絶対的・超越的存在を打ち出すことで、人々の自我を抑える方法論を採った。
聖書だけを取り出して、あれこれ指摘してもしょうがいない。全体のバランスの中で調整されてるわけで。


648考える名無しさん:2009/03/13(金) 09:19:55 0
あっさり終了したな。

その調整を果すのがまさしく理性だからな。
まあ、宗教は、管理のための手段方法論ってことで、終了。

649考える名無しさん:2009/03/13(金) 09:29:20 0
理性でもこの調整は行われるが、いずれにしろ試行錯誤する。
そして、「奇跡」などの理性を超越する教えも、超越性が必要という理由だけで排除されることなく維持される。
これは、その教えの総体的なバランスとして、「超越性」が必要とされているから。

そして重要なのは、その教えを受け継ぐ方は、理性でその教えの意義をゼロから納得して
取り入れるのではなく、理性による検証を経ずに、その教えを総体としてそのまま受け入れるってこと。


650考える名無しさん:2009/03/13(金) 09:39:02 0
>>649
> 「超越性」が必要とされているから。

その超越性を維持するのが人間である限り、理性が宗教を手飼にするという話だ。
宗教は、理性をうまく使いこなせない人間の餌として管理の道具として機能していればそれでいいんだよ。
実際、選挙運動に利用されたりしてるのでみてればわかるだろう。
定額給付なんて餌で、貧民のルサンチマンを押さえ込むのにうまく利用してる。

宗教なんて、その程度のものでしかないというだけのことで、終了。
651考える名無しさん:2009/03/13(金) 12:20:40 0
>>643
>是認される暴力とはなんだ?
情報操作だろ。言論表現の自由がある。
652考える名無しさん:2009/03/13(金) 12:25:55 0
>>644
>理性で解決できることがないから、
理性がだめなら感性を働かせればよい。
653考える名無しさん:2009/03/13(金) 13:27:12 0
神の存在は、合理的(理性的)には説明できない。

つまり、神は理性から超越してるわけ。合理的も理性的も英語ではともにrationalだ。


654考える名無しさん:2009/03/14(土) 15:55:31 0
だから、そんなもので、共有した気になってたむろできる奴はキチガイだって、話だろう笑

実際、キチガイだから殺し合いしてるわけだしな♪
655考える名無しさん:2009/03/14(土) 15:59:37 0
まあ、宗教なんて、フロイトの時代から神経症の一つと認識されてる病だしな。
神を信じることで社会参加が可能になるならそれはそれでいいんだよ。
まあ、ここの宗教患者も、卑屈にならずに自分の神を信じていればいい。
ただし、他人に強要せずにちまちまと秋刀魚の頭とか拝めということだ。

平和が一番だな。

衛星なんて打ち上げなくていいんだぞ

656NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/03/14(土) 19:33:31 0
ウェスカーみたいに薬でウロボロスを安定させているのが神の資格ですよ
657考える名無しさん:2009/03/14(土) 21:52:52 0
内的な規範にのみ従う合理主義者は、内的な命令にのみ従う。
内的な命令は、内側からのみ調達されるわけだけど、その調達先となるのは、感情と欲望しかない。

そして、感情も欲望も結局自身の利益に直結してる。そのために、内的な規範にのみ従う人は
結局自身の利益を基準に置く以外に、命令の調達元と調和する方法がない。

つまり、欲望と感情からもたらされる純粋で直接的な命令を、計算により
自身の全体的な利益を損なわないように、他者や社会全体と調和する行動に昇華する。
これは実際には
「規範」とすら呼べない単なる「規制・制御」なのかもしれない。でも、「規範」に相当する働きであるとは
言えると思う。

ただ、能力が低い人がこれをまねしようとした場合は、結局計算による社会との調和が
うまくいかず、社会不適合になる可能性が高いんだと思う。
658考える名無しさん:2009/03/15(日) 07:20:03 0
そこで、自身の自我に勝る価値として「神」ではなく、「理想・イデア」を置いた場合はどうなるか。

「神」とは自然の諸行無常性に対比する超越した絶対的存在を表し、
自身には絶対に吸収されないのに対して、
「理想・イデア」とは理性が描き出す(自身に)予定調和的な価値であり
それは結局、自身そのものに吸収されることになる。つまり、自身の自我の上に「理想・イデア」を置いたと
自分では考えていても、その「理想・イデア」は結局自分自身を表すものであり
(「真の自我」=「本当の自分」=「将来達成すべき自我」=「理想・イデア」)
自分の自我の上に自身を置くだけになる。
これでは結局、自身の自我を抑制することは出来ない。

さらに、この「理想・イデア」は絶対的存在であるにもかかわらず、超越したものではない。
つまり、この現世に絶対的な存在(しかもそれは自分だ!)を求めることになり、
諸行無常のこの世にあっては、多大な苦しみを招くことにしかならない。
659考える名無しさん:2009/03/15(日) 14:30:31 0
合理的(理性的、rational)に物事の本質を追究していくと、仏教哲学の「空」
に行き当たる。おそらくこれが、理性が間違えずに物事の本質を追究した最終解だと思う。

ところが、この「空」というのはあまりにも厳しい真実である。
どうしても厭世的になるという欠点がある。

そこで、代替的な方法として、超越的絶対者を仮に置くという方法がある。
この場合、超越者は絶対的存在であり、それに比してこの世のものは相対的存在とすることができる。
そしてなにより、超越的・絶対的存在が君臨する限り、その下位のこの世のレベルで相対的な「イデア」を設定しても
そのイデアが暴走することはないという大きな利点がある。つまり、超越的・絶対的存在を認める限り
相対的な「イデア」を安全に追求できる。

それに対して、仏教的な「空」を直接認める方法だと、この世のレベルで「イデア」を設定することはできない。
このことは、厭世的になる原因になってしまう。
ただし、超越的・絶対的存在を認める場合は、その硬直性が欠点になる。
660考える名無しさん:2009/03/15(日) 21:42:49 0
理性を最上位の規範とする限り、個人主義化は避けられない。
理性は何より自由を求める。自由のないところでは理性は窒息する。
したがって、個人の自由を志向する個人主義化は不可避になる。

そして、個人主義化することで、コミュニティは形骸化することも避けられない。
少なくとも、コミュニティは主役の座から引きずり下ろされ(驚くべきことに、つい最近まで日本では主役は個人じゃなくて
コミュニティだった)、脇役的存在になる。つまり個人の便宜を図るためにのみ存在することになる。

それに伴って、社会の性質は新自由主義的なものに変化する。ただし、それでは社会の不安定さが増すために、
社会保障は今よりも手厚くなる。
つまり、一握りのエリートと、社会保障によりかかるしかない層に分裂することになる。
これらはすべて、個人主義化の必然であり、その根本の原因は理性を最上位の規範とすることにある。
661考える名無しさん:2009/03/17(火) 12:28:55 O
ウィトゲンシュタインの言う言語=命令を考える時


言葉は「こうするとこうなる」或いは「こうしないとこうなる」といった基本的な「予言」の形式に還元される。


行為、思考の動機を探る時に「予言」は必ずそこにある。

「祈ると幸せになる 」「祈らないと不幸になる」といった予言を今、信じる人はほとんどいないのでしょうけど

予言(言説)→信仰(規範ー命令)→祈り(行為、思考)といったプロセスに関して、歴史が語る昔から今まで同じ構造を人間が持つと考えます。

予言→信仰のプロセスは、経験と歴史(代弁)を取り入れ推論した経験則に、強度を依存させる。

また、>>600で話したように経験則は修正可能で有る限りで、正当性を持ち得る。

「予言」「信仰」「祈り」といった言葉を使いましたが、これは合理主義者や、懐疑主義者も同じ構造があることを想定していることを強調します。
662考える名無しさん:2009/03/17(火) 12:52:38 0
A「どうして人を殺してはいけないのですか?」
B「法律で決まっているからだ。」
A「なぜ法律で決まっているといけないのですか?」
B「法律を守らないと社会の秩序が維持できないからだ。」
A「なぜ、社会の秩序が維持できないといけないのですか?」
B「人間は社会に依存して生きているから、
  社会の秩序が維持されないと生きていくのに不便だからだ。」
A「なぜ、生きていくのに不便だといけないのですか?」
B「誰でも死にたくは無いだろ?」
A「自分が死にたかったら人を殺してもいいのですか?」

・・・

理性だけで答えようとすると、このあたりで限界なような気がする。
663考える名無しさん:2009/03/17(火) 12:55:26 0
違うか、

>B「誰でも死にたくは無いだろ?」

ここで既に理性からは離れてるから、

>A「なぜ、生きていくのに不便だといけないのですか?」

この段階でもう限界だ。

664考える名無しさん:2009/03/17(火) 14:24:49 0
理性で考えると、生きている意味すら答えるのが危ういからね。

結局、生きているほうが楽しいでしょとか気持ちいいでしょとか、そのレベルになってしまう。

内的命令にのみ頼ると、感情か欲望を動機とするしかなくなるよ。だから、「楽しい」とか「気持ちいい」を動機にするしかない。
665考える名無しさん:2009/03/17(火) 17:10:10 0
>>662
> 理性だけで答えようとすると、このあたりで限界なような気がする。

なるほど。
宗教だと

「オレは神だ。おまえを殺すのは神の意志」

確かに、これで、終わりだ。

ホント、いまだに宗教信じてる奴って、脳味噌足りないアホばっかりだとつくづく思うわ。

666考える名無しさん:2009/03/17(火) 17:11:51 0
>>664
> 理性で考えると、生きている意味すら答えるのが危ういからね。

その理性って、どういう意味?
意味不明だが?

理性を定義してくれ。
667考える名無しさん:2009/03/17(火) 17:33:40 0
>>666
理性とは、合理的(rational)に物事を考える能力。

>>665
そうだよ。だから、宗教は危険なんだよ。最低数百年は熟成させないと、とても使えない。
668考える名無しさん:2009/03/17(火) 18:20:25 0
>A「どうして人を殺してはいけないのですか?」
>B「法律で決まっているからだ。」

ここからしてすでに変。普通に考えれば、
殺人に関しては「法律で禁じられているから悪い」ではなく、
「悪いから法律で禁じられている」だろ。
669考える名無しさん:2009/03/17(火) 18:21:54 0
>>66
それで、脳みそ足りててアホで無い奴は、どう答えるの?
670考える名無しさん:2009/03/17(火) 18:22:10 0
「理性で考えると、生きている意味すら答えるのが危ういからね」
というときの「理性」は、主に目的を達するための最良の手段を考え、
工夫する能力のことじゃね。
671考える名無しさん:2009/03/17(火) 19:25:18 0
>>668
修正してみました。

A「どうして人を殺してはいけないのですか?」
B「人を殺すと社会の秩序が損なわれるからだ。」
A「なぜ、社会の秩序が損なわれるといけないのですか?」
B「人間は社会に依存して生きているから、
  社会の秩序が維持されないと生きていくのに不便だからだ。」
A「なぜ、生きていくのに不便だといけないのですか?」

・・・

やっぱり、このあたりが限界なような・・・。
限界点はあんまり変わらないかんじです。
672考える名無しさん:2009/03/17(火) 20:44:19 0
自分は別にして他の人に関しては、
大部分の人が殺人を禁止するルールに従っているということは、
自分にとって都合がいいことだろ?
さもなければ、自分もいつ殺されるかわからんし。
673考える名無しさん:2009/03/17(火) 22:54:50 0
A「どうして人を殺してはいけないのですか?」
B「大半の人にとって都合がいいからだ。」
A「どうして都合がいいんですか?」
B「殺してはいけなくないとしたら、自分がいつ殺されるかわからないからだ。」
A「どうして自分がいつ殺されるかわからないといけないのですか?」

・・・

674考える名無しさん:2009/03/17(火) 23:52:29 0
信者「どうして殺してはいけないのですか?」
教祖「神は許してないからだ」
信者「神はどこにいるのですか?」
教祖「私だ」
信者「では、神を見せ下さい」
教祖「神にもの申すとは、なんて、生意気だ。死ね」
信者「ギャー!!」
教祖「神だけが、人を殺すことができるのだ!!わかったか」
信者「まさに神様だ!!」

これが、今の宗教信者笑
675考える名無しさん:2009/03/18(水) 05:03:36 0
>>669
A「どうして人を殺してはいけないのですか?」
B「法律で決まっているからだ。」
A「なぜ法律で決まっているといけないのですか?」
B「法律を守らないと社会の秩序が維持できないからだ。」

通常の理屈を解する人間は、ここで終了する。
つまり、理性が正常に働いていれば、これ以上の質問は無意味だと自覚できるということだ。

> A「自分が死にたかったら人を殺してもいいのですか?」

理性があればこの自己矛盾に耐えられないだろう。
676考える名無しさん:2009/03/18(水) 08:29:02 0
理性による「規範」もどきの機能

>つまり、欲望と感情からもたらされる純粋で直接的な命令を、計算により
>自身の全体的な利益を損なわないように、他者や社会全体と調和する行動に昇華する。
>これは実際には
>「規範」とすら呼べない単なる「規制・制御」なのかもしれない。でも、「規範」に相当する働きであるとは
>言えると思う。

>ただ、能力が低い人がこれをまねしようとした場合は、結局計算による社会との調和が
>うまくいかず、社会不適合になる可能性が高いんだと思う。
677考える名無しさん:2009/03/18(水) 09:28:29 0
> A「自分が死にたかったら人を殺してもいいのですか?」
宅間なんかそれを実行したんじゃないか?
それもあるだろ。
678考える名無しさん:2009/03/18(水) 12:03:39 0
>>675
>通常の理屈を解する人間は、ここで終了する。

その場合「法律」を「戒律」に「通常の理屈」を「宗教」に置き換えても、同じことがいえるんじゃね?

>理性があればこの自己矛盾に耐えられないだろう。

理性によって判断できることなら、
論理的に説明することが可能ではないかと思うのですが、
そうではないのでしょうか?



679考える名無しさん:2009/03/18(水) 13:13:05 0
>>678
> その場合「法律」を「戒律」に「通常の理屈」を「宗教」に置き換えても、同じことがいえるんじゃね?

法律は具体性はあるが、宗教には具体性はない。
【ブラジル】強姦された9歳少女が妊娠、中絶手術→カトリック大司教「強姦は大罪だが中絶はそれ以上の大罪」と医師らを破門★4
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1237120125/l50
1 :出世ウホφ ★:2009/03/15(日) 21:28:45 ID:???0
【リオデジャネイロ=小寺以作】世界最大のカトリック人口を抱えるブラジルの北東部ペルナンブコ州で、
義父に強姦(ごうかん)され妊娠した少女(9)が今月初旬、中絶手術を受けたところ、カトリックの大司教が、
中絶に同意した少女の母親と担当医らを破門した。

医師側は「少女の命を守るため」と反論、大統領も巻き込んだ大論争となっている。
地元紙によると、少女は同居する義父(23)に繰り返し性的暴行を受けていた。
2月下旬に腹痛を訴えて母親と病院に行くと、妊娠4か月と判明。医師は、少女の骨盤が小さく、
妊娠を続けると生命にかかわると判断し、今月4日に母親の同意を得て中絶手術を行った。

ブラジルでは、強姦による妊娠と、母体に危険がある場合、中絶は合法だが、
ジョゼ・カルドーゾ・ソブリーニョ大司教は「強姦は大罪だが、中絶はそれ以上の大罪」と述べ、
教会法に基づいて医師らを破門。これに対し、ルラ大統領は「医学の方が正しい判断をした。
信者の一人としてこのように保守的な判断は残念」と大司教を批判した。

大司教は「大統領は神学者と相談してから意見を述べるべきだ」としていたが、
高まる世論の反発を受け、司教協議会は12日、「大司教は破門の可能性について言及しただけ」との見解を発表した。
今後は、破門の有効性が論議を呼びそうだ。

カトリック信者の多い中南米では、過去にも、強姦で妊娠した少女の中絶の是非を巡り、激しい論争が起きている。

(2009年3月15日02時44分 読売新聞)9歳少女に中絶、医師「破門」に…ブラジルで大論争
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090315-OYT1T00155.htm
前スレ:★1の時刻: 2009/03/15(日) 03:11:30
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1237098052/l50
680考える名無しさん:2009/03/18(水) 13:15:32 0
こんな脳味噌の足りないことをやってるのが、宗教だ。
日本が無宗教でよかったとつくづく思うわ。

宗教を社会的におしつけるのは単なる暴力だよ。
それがわからんのだから、ホントアホだな。
681考える名無しさん:2009/03/18(水) 13:18:01 0
>>679
>法律は具体性はあるが、宗教には具体性はない。

例えば、「汝殺すなかれ」には具体性がないんでしょうか?



682考える名無しさん:2009/03/18(水) 14:15:39 0
理性はほっておくと、可能な限り、最大限の自由を求めてしまうんだよ。
それが理性の本質。

だから、殺すなと言われても「何で?」となる。自分が不利になるよって言われても、それでもかまわない
と思ってれば、もうそこで説得力がなくなる。

理性が求める自由に無条件の制限を課すことが必要なんだよ。「自分が不利になる」とかそういう間接的な条件
じゃなくて、絶対的な無条件の制限が必要。
683考える名無しさん:2009/03/18(水) 14:58:31 O
C.S.パースの言う「規範学」では、私達が予言を求めるのを、動揺によって生じる懐疑からより強い信念へと到る「過程」としてみなそうとします。

「ある命題を信じる」とは、ある場合に特定の方法で行為、思考するであろうということを意味するとします。


合理主義とは推論を排除し、純粋な理性から生まれた前提からの演繹的論証だけが正しいとします。

しかし、合理主義の失敗とは、「前提となる命題が推論からしか生まれない」ということでした。


推論を排除し続けることで、演繹的論証の対象となる前提は失われます。


パースは、カントによって帰納的推論と演繹的論証が総合された理性による「当為」を探る科学の優位を主張しています。

このスレで使われる「理性」という言葉のほとんどが合理主義の誤謬を孕んだ「推論を排除し、演繹的論証のみによる理性」であることを指摘します。
684考える名無しさん:2009/03/18(水) 15:09:24 O
法律は当為としてあります。「人を殺してはいけない」というルールとは当為としての前提としてあるものです。

従って、「何故人を殺してはいけないのか」は問われ、修正されうるもので無くてはならない。何故かを問うのは推論であり、間違い得るから。

問われなければ当為そのものが正当性を失うと考えます。
685考える名無しさん:2009/03/18(水) 15:22:43 0
>>682
>絶対的な無条件の制限が必要。
宗教はその条件にあてはまりますね。
686考える名無しさん:2009/03/18(水) 15:27:06 0
>>683
帰納的推論と演繹的論証が総合された理性で何かの「真実」を得ても、何も変わらないんだよ。
その「真実」がそれだけで何かの力を持つわけじゃない。

人間に動機を供給してくれる何かが必要なんだよ。動機の供給元が感情と欲望だけだとしたら、その「真実」が何であろうが
何の力も持たないよ。
687考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:02:02 0
>>686
感情や欲望は、それ自身社会的規範の影響下にあるということを見過ごしていないか?
688考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:13:18 0
>>687
社会的規範は、外的規範だよね。

理性は、その社会的規範が合理的なものかどうかの検証を始めて、無意味だと判断したら
あるいは特定の条件で意味がないと判断したら、それを無視する。
その理性の動機となるのが、感情と欲望なんだよ。

確かに社会的規範は感情と欲望を制限してるけど、理性はその社会的規範を解体する能力がある。

外的規範が理性から超越しない場合、このように理性によって検証され、(自身にとっての)合理性に基づいて
解体されることになる。
689考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:14:55 0
>>684
問われても、その問いに対して説得力がある答えが得られなかった場合も、
正当性を失うだろ?
690考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:17:42 0
>>688
「合理的なものかどうかの検証」ってのも、
社会の慣習の影響下にあると思わないのかい?
完全に普遍的な「理性」の存在を信じてる人?
691考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:23:00 0
>>690
完全に普遍的じゃなくてもいいでしょ。自分にとって合理的と判断されれば。
また、解体されるといってもすべて一度に解体されるわけじゃなくて、徐々になわけで。
692考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:30:37 0
>>691
各人が何を合理的と判断するかは、
その人が属している社会の慣習や規範を反映しているわけでしょ?
そもそも「合理的に考えて正しくない慣習規範は排除すべきだ」
という考え方自体も近代化の影響下で生じている態度に過ぎないし。
だから、理性対社会的規範と言う二元対立で考えるのではなく、
理性もまた社会的規範の内部調整の機構の一つと見るべきなのでは?
693考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:33:08 0
>691
自分の経験、体験で言うと、解体は一挙的だよ。
且つ、合理性に基づくものではなく、合理性自体が解体される。
694考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:36:57 0
>>693
何か青臭いハッタリを感じるな。w
一挙に解体されたのは、
「合理性」ではなく「合理性に対する信仰」だけではないかい?
695考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:41:47 0
おかしいのは、慣習や経験と言っても、12歳の子供と50歳の大人とは違うってのを無視してること。
さらに、同じ大人でも一つの職場しか経験していないのと様々な人生経験をしているのとは違う。
696考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:49:16 0
「合理性に対する信仰」って、それは神の代わりにイデアを信仰してるだけだよ。
それは最終的に、自分を信仰してることになるわけだから、規範としてはあまり意味がない。

理性が実質的に提供できる規範(もどき)は、計算による他者との利害の調整だけだよ。
697考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:51:52 0
>>681
例えば、その律法を掲げていて、それを実行している宗教は?

まさかキリスト教とかイスラム教とかいわねぇ〜よな(笑


698考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:52:41 0
人間は大きな病気になったり子供が死んだりすると頭がおかしくなる。
神秘的な力で病気を治そうとしたり、亡くなった子供の霊が住む天国などを想像する。
このように、現代人でも頭がおかしくなって、理性的に考えられなくなる人は大勢いるものだ。
そのような狂人をどうするかという問題はいつまでも残る。
日本は無宗教者が多い割に、神社に霊が帰ってくるなど意味不明な事を信仰している人間は多い。
オカルト的な狂った考え方をする人が多いため、理性のみでは社会は動かないのだ。
699考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:56:57 0
>>698
その狂った人間の囲い込みが宗教だよ。
だから、残念ながら、狂った人間のためには宗教は、必要なんだ。
その狂った人間を信者として囲い込み、教祖が「私が神」と称して変なことをしないようにコントロールすればよい。
しかし、中には、教祖も狂っている宗教があるから問題。
要は、教祖が理性を失った宗教には近寄らないことが必要なんだよ。

その監視が問題なんだな。
700考える名無しさん:2009/03/18(水) 16:57:39 O
>>696
神とイデア(観念)を区別、比較してるみたいだけど、神って観念だよね?
701考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:03:28 0
>>700
神は人間から超越してる。客観的には人間が作ったものだけど、人間から超越しているものとして置かれている。
イデアは人間が考える理想であり、もちろん人間からは超越していない。
702考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:15:37 O
>>700
主観という制限の中にあるものを観念て言うんだよ?


神も理想も観念でしょう。「神が観念でない」って言うのは「客観的に見て、神はいる」って言ってることになるから、修正したほうがいいんじゃない?
703考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:19:44 O
ミスった
>>702
>>701へのレス
704考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:27:44 0
>>702
問題なのは理性、つまり論理的思考からの超越性ね。

変な話だけど、幽霊とかUFOも観念だけど理性から超越してる。もちろん、こうしたものには
規範としての機能はないけど。
705考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:32:08 O
>>704うん。神は観念てことでいいんだよね?
706考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:32:16 0
>>697
おっしゃりたいことはわかりますが、
ここまでの話と何か関係があるのですか?
707考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:33:51 0
>>701
>イデアは人間が考える理想であり、もちろん人間からは超越していない

エェーッ!?
それは誰が言ったイデア?
708考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:34:12 0
>>705
それでOK。
709考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:42:44 0
イデアは、辞書によると「感覚を超えた理性だけが認識できる、時空を超えた永遠不滅の実在」

つまり、人間の理性によってのみ「この世」と接している、この世に存在しない実在と言い換えてもいい。

これは結局、理性からは超越してないどころか、理性のみに依存する実在ってこと。
710考える名無しさん:2009/03/18(水) 17:45:39 0
>>674
あんまりフェアな比較とはいえないのでは?
「そういう」教祖と対比させるのであれば、

国民「どうして殺してはいけないのですか?」
将軍「法律がは許してないからだ」
国民「法律はだれが決めるのですか?」
将軍「私だ」
国民「あなたが決めると、なぜいけないのですか?」
将軍「偉大なる将軍にもの申すとは、なんて、生意気だ。死ね」
国民「ギャー!!」

こうなるんじゃね?
あんまり変わらない。
711考える名無しさん:2009/03/18(水) 18:09:26 0
>>706
規範とする以上は、矛盾している宗教は規範にはならない。
殺すなといいながら、一方で、人殺しを命令するのは、明らかに間違いだからね。

宗教は、絶対に規範にはならないという典型では?
712考える名無しさん:2009/03/18(水) 18:14:07 0
>>709
プラトンのイデアは、この世ではないが別の世に実在するのもであり、
理性による認識はこのイデアの過去生における認識の想起なのだから、
イデアは「理性のみに依存する実在」ではないと思いますが。
713考える名無しさん:2009/03/18(水) 18:23:07 0
>>712
この世では理性のみに依存してるでしょう。
714考える名無しさん:2009/03/18(水) 18:24:50 O
「プラトンの言うイデア」は理性によりたどりついたイデア。
と、言えるような意味にデカルト以降は 「イデア(観念)」は更新されている。
715考える名無しさん:2009/03/18(水) 19:17:26 0
>>711
>規範とする以上は、矛盾している宗教は規範にはならない。
つまり、このスレの趣旨に同意できないわけですね。
716考える名無しさん:2009/03/18(水) 19:24:01 0
>>711
うーん。規範て何だろうなあ。
先生は廊下を走るなと言いながら、緊急の時は急げと命令する。
親はみんな仲良くしろと言いながら、悪い人とは付き合うなと言う。
717考える名無しさん:2009/03/18(水) 19:31:56 0
守られているかどうか、とうことが基準になるのなら、
イスラムの戒律と日本の軽犯罪法や道交法なんかを比べると、
軽犯罪法や道交法は規範ではない、という結論もありそうだ。
718考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:02:52 0
理性による利害の調整のための規範ももちろん必要だけど、それが最上位に
あるとよくないってことね。たとえば、最高法規である憲法は理性によって導かれたものだけど
これを最上位の規範とすることはよくない。



最上位の(理性を超越する)規範があって、その下に理性に基づく利害調整のための

規範が
置かれるのが健全ってこと。
719考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:03:31 0
改行がくずれたけど、意味はないからね。
720考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:05:25 0
>>711
矛盾があれば規範にならないなんてことはないだろ。
数学の公理じゃないんだから。
規範の典型である道徳や法律にしても、
あるルールに従えば別のルールに違反せざるをえないような
状況なんていくらでもある。
721考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:09:08 0
>>718
「よくない」とか「健全」とか安易に断定しているが、
それって「被支配者同士の相互契約としてのルールの上に
支配者の命令が置かれるのが当然だ」という奴隷の感覚じゃね?
722考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:18:05 O
723考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:19:04 0
>>721
支配者とかそういうのではなくて、理性の暴走を止めるために
最上位に理性の届かない規範が必要なんだよ。

理性が暴走すると、イデア(つまり理性だけが認識できる、時空を超えた永遠不滅の実在)を
求め出しちゃうから。それは諸行無常のこの世では苦を招くだけの存在。
724考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:19:33 O
山川
725考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:21:41 0
>>723
「理性の暴走を止めるために・・・が必要だ」とか考えている
お前は何なのさ?

 
726考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:22:03 O
>>686
当為と言いました。真実とは違います。
>>689
>問われても、その問いに対して説得力がある答えが得られなかった場合も、
正当性を失うだろ?

問われた命題に関して正当性を失うことがあっても、当為そのものの正当性は失なわれる契機にはなりません。

法律は当為であるが故に、「条文は絶対だ」と言うと、法律そのものの正当性を追い込むような自己言及性を持つ。


「人を殺すべきでない」が正しいか?よりも当為の正当性の問題だと考えます。

また、ここに法律と市民のギャップが有ることも無視はできません。


当為を肯定するためにはまず推論を肯定しなければいけない。

そのために「予言→信仰→祈り(→修正)→予言→…」のプロセスを歴史と現在から発見していく必要が有るのではないか、と考えています。
727考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:34:48 0
当為が「神」に基づくか、「イデア」に基づくかってことでしょ。


728考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:40:01 O
>>727
違います。
729考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:41:15 0
じゃあ、なんでそのプロセスが必要なの?
730考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:51:02 O
>>729
推論(予言)と「進歩」の関係を発見することで、推論(予言)がチャレンジングなものとして、正当性を持つ可能性を持ち得ると考えます。
731考える名無しさん:2009/03/18(水) 20:51:59 0
理性はいいんだが、何を決めるにも双方の理性的主張がぶつかりあって、
長時間の議論や裁判をしてたら物事は進まない。
そういうときは圧力団体として宗教教団の役割は大事だ。
732考える名無しさん:2009/03/18(水) 22:00:02 O
理性が規範を産み、規範が政治性を帯びると宗教になる。
今必要な宗教は、
科学的思考を持つ人々の理性から派生した規範を持つ宗教だと思う。
733考える名無しさん:2009/03/18(水) 22:30:06 0
それが宗教である必要ないよ。
学生は寮生活で軍隊式訓練で規律を精神注入すれば事件を起こさない。
会社でも休日に社員教育施設で精神訓練する。
734考える名無しさん:2009/03/19(木) 01:14:03 O
>>733
ごもっともです‥
735考える名無しさん:2009/03/19(木) 06:34:43 0
軍隊はイデアの暴走が起こりにくいね。
最上位に超越性は存在しないけど、常に死を意識する場所だから。

死を意識することは、この世界の本質、つまり諸行無常性を本当に
理解するには最も効果的。

イデア(理性だけが認識できる、時空を超えた永遠不滅の実在)の
はかなさを軍隊では理解しやすい。

それから、肉体を重視することもイデアの暴走を防ぐ効果がある。
精神にとって、肉体は現実世界の窓口。精神における肉体の比率を高めることで
現実世界への意識の比率を高めることができる。

だから、スポーツ選手なんかもイデアの暴走が起こりにくい。
736考える名無しさん:2009/03/19(木) 06:54:52 0
引きこもりとかニートっていうのは結局、イデアと現実のギャップが大きすぎて
社会に適合できないんだと思う。

こうした状態への処方箋として最も容易で直接的で効果的なのは、スポーツをすること。

肉体への意識を高めることで、現実世界への意識を高め、イデアよりも現実を
重視しやすくなる。
737考える名無しさん:2009/03/19(木) 07:48:57 0
イデアは現実と対立する概念なんか。
もう 180度意味が変わってるな。
738考える名無しさん:2009/03/19(木) 07:54:42 0
確かに、文武両道と言うね。
精神と肉体を統一する事が可能になる。
でも俺が部活やってた頃は毎日フラフラになるまで練習してたから、
学業成績はガタ落ちしてたな。
739考える名無しさん:2009/03/19(木) 08:00:00 0
>>737
イデアは現実には存在しないからね。理性にのみ依存する存在。
740考える名無しさん:2009/03/19(木) 08:11:13 0
>>739
「形而上」で事足りるんじゃね?
なんで元々全く違う意味の言葉を意味を変えてまで使う必要があるの?
741考える名無しさん:2009/03/19(木) 08:36:38 0
イデアとは、「理性だけが認識できる、時空を超えた永遠不滅の実在」だよ。
この意味で使ってる。
742考える名無しさん:2009/03/19(木) 08:51:15 0
>>741
なんでイデアの「定義」に「理性」が必要なのかが理解できない。
743考える名無しさん:2009/03/19(木) 08:55:15 0
>>742
辞書の意味(明鏡国語辞典)。
744考える名無しさん:2009/03/19(木) 08:55:29 0
イデアは、「○○の本質は何か、真の○○は何か」と考える時に考えられるからじゃね?
745考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:04:45 0
プラトンの使い方では、芸術家か家具職人が、本質を理解できて「いない」ことを示すために、
「写し」である実際の椅子や「写しの写し」としての椅子の絵に対する対概念としてイデアが示される。
これに対して、哲学者は、写しではないそのものの本質、イデアを認識している、ということになる。

・・・

確かに人間においてイデアは理性によって認識されるのだが、
理性がイデアを規定しているわけではない。
746考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:05:22 0
イデアを理想と書けばなぜイデアに理性が必要かは
一目瞭然だろ。これが漢字の造語力だね。
理性が想うこと、それが理想=イデアだね。
747考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:14:58 0
神もイデアも形而上の概念だけど、

神は「信仰」によって、「イデア」は理性によって人間と繋がる。
748考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:18:54 0
>>746
それは、もうプラトンの使った意味と全然違うのだが。
749考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:21:53 0
理性による神の「理神論」というのもある。
神は信仰だけではない。
750考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:23:43 0
>>745
自分の過ちを認めるのも一つの哲学的事実でしょう。
751考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:24:53 0
とりあえず、イデアの定義は「理性だけが認識できる、時空を超えた永遠不滅の実在」
でいいよ。形而上のことはあるだろうけどね。
その部分での神との比較も面白そうだが、難しい上に議論もその段階に達してない。

>>749
そうだね。理神論とギリシャ哲学は歴史的に関係があるよ。
752考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:29:54 O
塚越「どうしてそういうこと言うの?あんた何様なの?」松山「あなたのことでしょ?そうすればよかったでしょ」「じゃあやれば」
753考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:38:10 0
「理性だけが認識できる、時空を超えた永遠不滅の実在」
としても、
「イデアの暴走」ってのは何を言ってるのかさっぱりわからん。
というか、「理性の暴走」の段階でもうわからん。

それは具体的にどういう状態なんだ?
754考える名無しさん:2009/03/19(木) 09:46:35 0
この世に存在し得ないイデアを、この世で顕在化させようとすること。
755考える名無しさん:2009/03/19(木) 13:25:08 0
プラトンのイデア思想

【現実世界】 ------|-- 【イデア界】
(不完全)---------|--- (完全・理想)
・感覚でとらえる世界|-- ・理性でのみとらえられる
・絶えず変化する---|--- ・永遠不変
756考える名無しさん:2009/03/19(木) 14:43:02 0
ニート、引きこもり対策としてスポーツをすることで、現実世界への意識を高め、
イデアよりも現実を重視しやすくするという話があったが、これは現実世界が感覚で、
イデア界が理性でとらえるからだと思う。

スポーツで体を使うことで、感覚に意識が向きやすくなる。
感覚に意識を向けることで、イデア界よりも現実世界に
意識が向きやすくなる。こういうことだと思う。
757考える名無しさん:2009/03/19(木) 18:47:50 0
>>756
>イデアよりも現実を重視しやすくするという

全く理解し難い論理なんだけど。
もともとが、イデアは「理性の足りない人間がいかに物事の本質を正しくとらえられないか」を説明するために
持ち出された概念なのに、正しい認識の対概念としてイデアを持ち出すのは、
気が狂ってるとしか思えない。
758考える名無しさん:2009/03/19(木) 18:56:04 0
>>757
物事の本質って何なの?
現実世界では物事の本質は、「空」だよ。

イデア世界は人間の頭の中の話だからどうでもいいんじゃない?
759考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:18:30 O
お前の頭の中もどうでもいいのかよ

ちょっとは考えろよ。

観念論の話しになるからこれ以上突っ込まないけど、矛盾だらけじゃんか。
760考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:21:23 0
いつのまにか糞スレ
761考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:25:19 0
別に矛盾はないでしょ。この世でイデアを追い求めると、それは諸行無常のこの世にあって永遠不変のものを
追い求めることになる。つまり、それは「苦」を招くだけ。

762考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:28:54 O
神も空も理想もお前の頭の中だしどうでもいいんだろ。

763考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:32:02 0
イデアにこだわる頭がどうでもいいって言っただけだよ。
764考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:39:39 O
イデア世界は人間の頭の中の話し。

神様は人間の頭の中の話し。

空は人間の頭の中の話し。

世界は人間の頭の中の話し。

ここでは観念論終わりにしようぜ。
765考える名無しさん:2009/03/19(木) 19:45:13 0
>>758
>物事の本質って何なの?
つうか、知りたきゃプラトン読めばいいじゃん。
プラトン読むのが面倒なら、イデアなんて言葉使わなきゃいいじゃん。
766考える名無しさん:2009/03/19(木) 21:01:07 0
イデアと空ってまったく対立しちゃうね。
767考える名無しさん:2009/03/20(金) 07:12:54 0
イデアっていうのは結局、神みたいなもんだよ。
ただ、その神に理性で到達できるっていうのがギリシャ独特というか。
そしてそれが、壮大に間違ってて、後世をも壮大に巻き込んでしまって大変なことになってる。
768考える名無しさん:2009/03/20(金) 11:49:28 O
>>767
いい加減なことペラペラ言ってるけど、それ虚言癖だよ。
769考える名無しさん:2009/03/20(金) 14:12:30 0
神は存在すると考える人にとって、神は人間の頭の中に存在するものではない。
神の観念は人間の頭の中にあるものだが、神と神の観念は別物だ。
770考える名無しさん:2009/03/20(金) 15:20:36 0
そろそろ規範に話をもどそうか。

宗教への批判として、実際の宗教団体が教義を守っていないという点が指摘されるが、
この点について論じるのは、このスレの論点からはずれていると思う。
規範からの逸脱は、人間一般の性質であって、宗教固有の問題ではないからだ。

>>1 は、理性に対象するものとして、宗教を示し、
その相違点を、

>宗教・神を信じる人は、自分のすべてが論理・理性によって支配されていない。
>自分の中心に非論理的部分があって、それが絶対的な規範・道徳を強制している。

と述べている。
つまりここでは、論理による規範=理性、非論理的なものに支配される規範=宗教という対立軸に
着目すべきであって、その意味で、実施に伴う逸脱の問題と切り離して、
それぞれが「こうあるべき」と想定している理念について、比較検討すべきだろう。
771考える名無しさん:2009/03/20(金) 16:02:34 0
論理による規範=理性っていうのは、利害調整か、それかプラトンがいう「善のイデア」を目指すか
そのどちらかでしょ。

利害調整はこのスレでもほぼ認められてるわけだけど、「善のイデア」を目指す行為が本当に可能なのかっていうのが疑問。
772考える名無しさん:2009/03/20(金) 16:24:57 0
例えば、以下の3つに分類できるとして、

 ・利害調整
 ・宗教的な非論理的規範
 ・「「善のイデア」を目指す」

これらに本質的な違いがあるとは思えないんだよね。
利害調整とはいっても、「何を利とするか」「それがなぜ利なのか」という問題を突き詰めると、
論理的には説明できなくなって、非論理的な欲求に到達せざるを得ないし、
宗教の非論理的規範といっても、結局は、宗教への帰依ないしご利益という価値を追求するものでしかないともいえる。
「善のイデア」といっても、「善のイデア」自体が、非論理的規範なのではないかという見方もできる。
773考える名無しさん:2009/03/20(金) 16:41:06 0
究極的な動機で見れば差異がないっていうのはそうかもしれないけど、
その方法が実現不可能であれば、それはまた違うといえるでしょ。

つまり、「利害調整」と「宗教的な非論理的規範」はともに可能であり、現に一般的に広まってるのに対して
「「善のイデア」を目指す」ことが本当に可能なのかってこと。
774考える名無しさん:2009/03/20(金) 16:45:12 0
>「「善のイデア」を目指す」ことが本当に可能なのかってこと。

不可能とすれば、考察の対象から外せばいい。

というjか、元々 >>1 はそんなものは考慮に入れてないし、
イデアイデア言ってるのは一部の人間だけみたいだから、
イデアについて論じたい人は、まず、その実現可能なことを証明すべきで、
それがなされるまでは、イデアに興味ない人は無視していいんじゃね?
775考える名無しさん:2009/03/20(金) 16:50:24 0
>>774
でも、社会は「善のイデアを目指す」ことを前提として作られてないか?
一般の人もそれが可能と考えてない?

「善のイデアを目指す」ことが不可能だとすると、
宗教がなくなった場合、規範は「理性による利害調整」のみになる。
それから、次第に弱くなってる伝統的・社会的規範。これは不合理なものは理性によって解体されて
利害調整の規範に吸収されるでしょ。

理性による利害調整だけで社会が維持されるとは思わないんだけど。
776考える名無しさん:2009/03/20(金) 17:52:47 0
>>775
なんでイデアの話をしたくないかというと、おそらく、
「善のイデアとはなんなのか、それは存在するのか」
というレベルで、結論どころか、大筋の合意さえ、
それをイデアイデア言ってる連中の間に限っても、存在しないということ。

だから、

>でも、社会は「善のイデアを目指す」ことを前提として作られてないか?

なんていわれても、それが具体的にどういうことなのかわからない。
あなたは「これこれこういうことだ」と言うかもしれないけど、
別の人間がイデアとはそういうもんじゃないくてこれこれこうだ
と言い出すことが目に見えてる。

結果として、規範の問題を離れて、「イデア論」が延々と続くというのが、
>>769
までの流れなわけで、今、それを一生懸命本来の議論に戻そうとしている最中なんよ。

>理性による利害調整だけで社会が維持されるとは思わないんだけど。
その問題は、本当に、「善のイデア」なんて、定義をめぐって議論が横道にそれることが明白な言葉を
使わないと表現できないの?
777祈り海苔 ◆XZ57V.gVFg :2009/03/20(金) 19:27:25 O
>>600>>683で述べた、ハイエクやパースの考えは「進歩史観」と呼ばれるものに近いです。


マルクスの唯物史観は進歩史観の一つであり、現代に非常に強い影響を与えています。


しかし、こうした進歩史観はしばしば、自然主義的誤謬(「目標」や「善」を強引に決めている)を孕んでいるとする批判を受けます。


一方で、『そうした批判(推論)がいかに妥当性を持ち得ているか』という問題さえも、還元されるような部分がハイエクやパースの規範論理の中にあると考えます。


自然主義的誤謬とは、「善」や「目標」を強引に決めた過去が有り、それが失敗(成功(目標)に対するものとして)しており、その修正として妥当性を持ち得ているのではないか?と。


【私にとって規範とは妥当な推論である】とする時に、『推論がいかに妥当性を持ち得るか』という巨大なブラックホールがあります。


憲法も宗教もポストモダン思想も資本主義もこのブラックホールの中にあると思うのです。
778考える名無しさん:2009/03/20(金) 19:53:34 0
「利害調整」は典型的には功利主義ということでいいだろうが、
「善のイデア」じゃわけからん。理性による道徳の例としてなら、
カントの実践理性だろ。
779考える名無しさん:2009/03/20(金) 20:08:48 0
>【私にとって規範とは妥当な推論である】とする時に、『推論がいかに妥当性を持ち得るか』という巨大なブラックホールがあります。

単純に言えば、妥当性検証するものは経験則でしかないような。

このとき、二つの問題があって、

 ・経験則によって「うまくいった」と判断するための基準(到達目標)が必要であり、
  その設定はやはり非論理的規範(欲求)によるしかない。
 ・経験則自体の妥当性は論理的には証明できない。

ただし、後者の問題は、このスレの議論から外れるので、あえて無視したほうが
(経験則の妥当性は問わないという前提で、規範の論理性のみに焦点を絞ったほうが)
よいかもしれません。
780考える名無しさん:2009/03/28(土) 07:17:36 0
こういうのは昔から哲学者が考え続けたことで結論は出ない。
真理には到達せず、真理の周辺をグルグルと似たような論理で循環することしか出来ない。
でも、それがいい。
781考える名無しさん:2009/03/30(月) 14:46:53 0
規範とは、秩序を作るために必要なもの。
「神」が必要かどうかっていうのは、言い換えれば、秩序を維持するために「神」が必要かどうかってこと。
人間の意志は知性ですべてを解決できるなら、「神」はいらない。でもそうじゃない。

たとえば、日本人が頭がよいのは魚をよく食べDHAを良く摂取するからと言われたりする。
この言説には、人間の知性や意志ですべての問題を解決したいっていう「望み」が背後に隠れてる。
でも、実際はそうじゃない。日本人の頭がよいのは、その「遺伝子」のためだ。

でも、これを認めると、そうした優秀な「遺伝子」持たない人々はどう考えるか、どう感じるか。
自分たちの意志や力ではこの問題は解決できない。こうした状況は「秩序」を維持する上で大変にまずい。
不満のはけ口がなくなる。こういう状況下で「神」の存在が求められる。

つまり、人間がどうしようない事実、現実。それを受け入れるために歴史的に「神」が必要とされてきた。
それは今でも変わらない。人間があらかじめ定められた制限の中で生きることを余儀なくされる以上
「神」は、人間社会の秩序を維持する上で必ず求められる。
782考える名無しさん:2009/03/30(月) 17:44:02 0
現代の規範は、人間が基本的に平等であることを前提として作られてる。
でも、これはとんでもない間違い。たとえ身分が平等だとしても、生まれながらの能力や親から引き継ぐ財産など
平等であることはあり得ない。

人間が不平等であることを前提とした規範が必要。そうしないと、社会の秩序維持に失敗して
弱肉強食社会になるだけ。

たとえば、孔子の教えだと、「君主はこうすべき」、「民はこうすべき」と、人間が不平等であることを前提とした
規範を説いてる。それは考え抜かれたもので、表面的なものじゃない。

今は、身分による不平等はないけど、生まれながらの能力による不平等、そして財産による不平等が存在する。
そうした不平等を考慮した考え抜かれた規範が必要だと思う。薄っぺらいものじゃなくて。
783考える名無しさん:2009/04/04(土) 19:06:41 0
とりあえず、現代の平等というのは、「機会の平等」であって、
「なんでもかんでも平等」という意味ではないよ。
そうでなければ、入試や採用試験は違法ということになってしまう。
784考える名無しさん:2009/04/05(日) 07:52:53 0
それはそうだけど、現代の規範はすべての人が平等であることを前提としてるでしょう。
これはたぶん、能力の高い人でも、大きな責任を背負ってる人でも、ニートでも
一人の人間としての価値は同じって言う思想があると思うんだけど。

でも、実際は違うよね。人間の価値に大小があるのは当たり前で、それを認めないと
ちゃんと現実に対応できる規範ができない。そうすると、ちゃんとした秩序を維持できないわけで
弱肉強食社会になるだけ。

ニートや無職が最下層になるのはしょうがないでしょ。そういう人たちを低く
重い責任を持つ人を高くして、その中で孔子が示したような平等を前提としない、
それでいてすべての人が幸福になれるような規範を作らないといけないと思う。
785考える名無しさん:2009/04/05(日) 08:22:18 0
だからさ、(社会的な)価値によって(のみ)区別する、という平等じゃないの。
平等じゃない、というのは、そういう価値とは関係ないもので区別しちゃうことでしょう。
786考える名無しさん:2009/04/05(日) 09:20:36 0
いや、だから平等じゃないことを前提とした規範が必要と言ってるんだよ。
というか、人間の価値に高低があることを前提とした規範というべきか。
787考える名無しさん:2009/04/05(日) 09:20:49 0
人の価値は平等でも人間の価値には差別があるということだろ。
788考える名無しさん:2009/04/05(日) 09:27:05 0
違うよ。人の価値は平等じゃない。そして現状で、人の価値に差別もある。
それは置いておいて、そういう現状に即した規範が必要ってこと。

人の価値に応じて差別するにしても、そういう規範に従って差別しないといけない。
金銭の多少とか、そういう経済原理のみで差別するのは、価値の低い人にとっても不幸を招くだけ。

789考える名無しさん:2009/04/05(日) 09:29:41 0
とするとニートは一番上でいいのか?
790考える名無しさん:2009/04/05(日) 09:31:36 0
もちろん、一番下。
791考える名無しさん:2009/04/05(日) 09:49:41 0
なんだ。
じゃ>>788も一番下だなw
792考える名無しさん:2009/04/05(日) 09:51:43 0
>>786
そうしないと、具体的にどういう不都合があるの?
793考える名無しさん:2009/04/05(日) 09:57:01 0
>>792
秩序を維持できない。
あるいは、経済原理に基づく優秀劣敗の秩序しか維持できない。
794考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:01:12 0
>>793
秩序が乱れるような、どういったトラブルが起きるの?
具体的な例を挙げることはできる?
795考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:05:47 0
秩序が乱れるとは、何でもあり状態ってこと。
成功するためなら何やっても良い。勝つためなら何をやっても良い。生きるためなら何をやっても良い。
それが秩序が乱れた状態ね。そういう状態がまずいのは明らかでしょ。


796考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:14:20 0
さらに言うと、ニートなんかは努力しだいで脱出できるから、まあ下に置いてもそれほど抵抗感
ないかもしれないけど、さらに遺伝子の質で決定される人間の価値さえも規範で考慮しないといけない。

そうしないと、現実に即した規範を作れず、経済原理の優勝劣敗に任せるしかなくなる。
だから、先天的に知能の高い人間は上、先天的に知能の低い人間は下ってことになる。
この高低は人間の努力では解消できない。こういう部分では、その絶望的な決定性のために
規範の背後に「神」の存在が求められるように思う。
797考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:14:35 0
いや「秩序が乱れるとどういったトラブルが起きるか」じゃなくて、
「秩序が乱れるような結果に至る、どういったトラブルが起きると予想してるのか」
を聞いているんだけど。

「平等じゃないことを前提とした規範が必要」というのは、
「平等じゃないことを前提とした規範がないと秩序が乱れる」という予測の元に言っているわけでしょう?
その予測の妥当性を示して欲しいわけ。
「平等じゃないことを前提とした規範がない」場合に、どういったことが起きて、結果として「秩序が乱れる」のか、
その具体的な過程を納得のいく形で示してほしい。
798考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:26:01 0
優秀な人間はそれなりの待遇を求めるでしょう。
力のある人間もそう。

そして、今はそうした人たちの動機になってるのが「経済的利益」のみなわけ。
その動機の中に、「規範的な正しさによる誘導」も含めたいってこと。

そして、劣っている人間や努力しない人間に対する罰則も「経済的不利益」のみ。
これも規範による誘導を付加したい。
799考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:28:48 0
ようわからん。
現状でも建前上はほぼそうなってるじゃん。
「機会の平等」を「能力の不平等」と無理に言い換えてるだけのようにしか見えない。
800考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:31:49 0
たぶん遺伝子の質が悪いからでしょうw
801考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:37:31 0
この鼻くそ君の論理は、ニートはいつでも脱出できるという「機会の平等」を前提としているわけで、
その前提である「機会の平等」を否定しているから矛盾してしまい、よって自身の鼻くそ論理も否定することになっている。
ま、この程度ですし2行で論破ですか。
遺伝子云々もそのあたりに気がつく知能が鼻くそ君には足りてないってことでしょ。
802考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:42:28 0
機会の平等なんて、実際には無理でしょ。

必要なのは経済原理以外に基づく秩序。
803考える名無しさん:2009/04/05(日) 10:42:30 0
ところで鼻糞って食えるのか?
804考える名無しさん:2009/04/06(月) 12:50:53 0
論破されちゃったから今ごろ涙目なんだろwww
805考える名無しさん:2009/04/07(火) 10:08:41 0
経済原理以外に基づく秩序を築くには、
経済原理以外のペナルティが必要だと思う。

たとえば、今はニートなどに対するペナルティは経済的・金銭的な
不利益のみだけど、文化的・社会的な規範に基づくペナルティが必要だと思う。
つまり、ニートなどには文化的・社会的なペナルティ、つまり文化的・社会的な「差別」をすることで
ペナルティを課す。ニートなどに対しては、地域内で差別的、つまり昔で言えば村八分的な待遇をする。

同様に、社会的に好ましい人には、文化的・社会的な報酬、つまり文化的・社会的な名誉を与える。
その分、経済的利益については、優秀な人間に過度に集中しないようにする。

これによって、経済原理のみに基づく秩序ではなく、社会的・文化的な規範に基づく秩序を再構築でき
拝金主義的な社会の修正が可能になると思う。

806考える名無しさん:2009/04/07(火) 10:26:45 0
それは、社会主義というよりも共産主義に近い思想ですね。
どうせあなたは中学生なんでしょうけど、共産党の思想をちゃんと理解し、中国が社会主義ではない理由を考えるとあなたの探している答えが出るんじゃないでしょうか?
807考える名無しさん:2009/04/07(火) 10:34:20 0
共産主義じゃないよ。人間の平等などは保証しないし。むしろ、昔ながらの伝統的な社会に近い。

優秀な人間には、経済的利益だけじゃなく、社会的・文化的利益を与え
劣った人間には、経済的不利益だけじゃなく、社会的・文化的罰則を与える。

ただし、その分、経済的利益と経済的不利益の格差は少なくする。
808考える名無しさん:2009/04/07(火) 10:54:09 0
>>807
というよりも>>806を何度も読み直したほうがいいよ。
809考える名無しさん:2009/04/07(火) 10:57:03 0
中国共産党は、伝統・文化を否定してきたわけだろ。
関係ない話で荒らすなよ。

伝統・文化に基づく規範を強化するって話なんだよ。
810考える名無しさん:2009/04/07(火) 12:10:38 0
そういう態度じゃ誰も相手してもらえないでしょうね
精神科に行くなら早いほうがいいですよ
811考える名無しさん:2009/04/07(火) 12:14:01 0
>>809
君が言う能力主義のほうが、今までの日本の伝統を否定しているように聞こえるが・・・
どうでもいいが宗教なにか関係あるのか?
812考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:03:51 0
ニートの生存権を尊重する伝統は日本にないよ。

社会的・文化的規範を逸脱するニートには、社会的・文化的規範により罰する。
経済的なペナルティに任せるだけではなく
ニートには村八分的、社会的な制裁を加える。

経済的な利害のみに社会を任せると、社会が拝金主義的になる。

813考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:08:25 0
日本の伝統ねえ。
落語に良く出てくる、放蕩ものの若旦那とか宿六亭主ってのが近い存在だと思うんだが、
大体は年長者が諭して働くように仕向けるってのが定番だよねぇ。
814考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:14:42 0
経済的ペナルティの方が無慈悲だろ。生きていくことすら物理的に無理になるしな。

社会的・文化的な制裁なら、その屈辱を跳ね返す糧とすれば、本人にとって良い方向になるかもしれない。
まあ、だめかもしれないが。
815考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:18:00 0
はいはい。糞スレ
816考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:27:14 0
自由主義国では、個人的な事柄については本人の自己決定が尊重され、
他者や「社会」による強制は排除される。
ここでの「強制」には、世論による制裁(社会的制裁)も含まれるから、
社会的制裁の対象や効果は当然弱められることになる。
817考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:34:41 0
まあ、資本主義と伝統的規範は相反することが多いんだけどね。

そこに、共産主義の話を持ってくるのは、筋違い。
資本主義に相反するのはすべて共産主義ではないからね。
818考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:43:54 0
むしろ現代の考え方は、ペナルティーよりもインセンティブ重視だろう。
ペナルティーのみでは人は能動的に動かない、言われたことを最低限やるだけになってしまう。
819考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:50:50 0
経済的にはペナルティとインセンティブは裏表でしょ。
単純というか、便利だから多用されるけど、それのみに頼るとまさに拝金主義社会になってしまう。

文化的・社会的な報酬と罰則は、経済的な報酬と罰則ほど単純ではないから
使うことを敬遠されてる感じがある。でも、この部分も積極的に使っていかないと、拝金主義社会になるだけだからね。
それから、アメとムチはやはり両方必要だと思う。
820考える名無しさん:2009/04/07(火) 13:57:00 0
言いたいことはわかるけど、
とりあえず、現代の状態が経済に偏重しているという具体的な証拠を示さないと、
印象を出発点にしたのでは空論になってしまうな。
821考える名無しさん:2009/04/07(火) 14:54:18 0
>>819
どうやって育てられるとそんなに頭がバカになっちゃうんですか?
822考える名無しさん:2009/04/07(火) 15:51:03 0
バカだってことに気が付いてないのが痛いよな
中学・高校でいじめられながら育つとこうなっちゃうんだろう・・・
823考える名無しさん:2009/04/07(火) 18:44:17 0
日本の宗教は創価学会だけしかないってわけじゃないからねぇ
824考える名無しさん:2009/04/07(火) 18:48:23 0
>>819
文化的・社会的な報酬や罰則も、
結局それぞれの人が未来の自分の利益を考えて行動することを前提にして、
初めて人の行動に影響を与えることができるわけで、
円やドルがでてくる意味での経済ではないとしても、
利益と不利益の計算という意味では経済的なものだと思うんだが。
825考える名無しさん:2009/04/07(火) 19:21:44 0
>>824
それは違うぞ。人間は経済的欲求だけじゃなくて、社会的欲求を持つ生き物だからな。
社会的に認められれば、経済的にはある程度不遇でも我慢できる。

1.生理的欲求
2. 安全の欲求
3. 所属と愛の欲求
4. 承認の欲求
5. 自己実現の欲求

このうちの1と2ぐらいだ、経済的利益のみでかなうのは。

826考える名無しさん:2009/04/07(火) 19:27:23 0
つまんね
827考える名無しさん:2009/04/07(火) 19:34:34 0
>>825
どこが違うの。認められたいという欲求を持つ人にとっては、
認められることが利益であり、認められないことが不利益なんだよ。
あなたが「利益」という言葉の意味を狭く解釈しているだけだよ。
828考える名無しさん:2009/04/07(火) 20:03:47 0
>>827

社会のありようになっては、>>825の5まで、経済的利益のみでかなうこともあるかもね。
そういう社会を拝金主義社会っていう。

社会のありようによって、人の幸福感や欲求の方向は変わるものだから。
829考える名無しさん:2009/04/07(火) 20:08:01 O
下 サニョル
830考える名無しさん:2009/04/07(火) 20:26:14 0
>>828
どうしてここまで話が通じないのかまったく理解できない。
例えば、ある犯罪に関して懲役刑が科されることでその犯罪が抑止できるのは、
懲役刑が科されることが不利益(自分が持つ欲求が充足できなくなる)だからでしょ?
また、社会の非難という形の制裁で、ある種の行動が抑止できるのは、
認められたいという欲求をもつ人間にとって、社会の非難が不利益だからでしょ?
この意味での利益/不利益と言うのは、
「拝金主義」とか何とかの問題ではないんだけど。
831考える名無しさん:2009/04/07(火) 20:33:38 0
[850] 自画像を描くチェンマイの象の映像です。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2008/04/20(Sun) 06:18:47

副島隆彦から

私も、このチェンマイの象が描く絵に感動しました。
仕付けたらこれぐらいは出来る、ということなのか、それとも、高等動物はこれぐらいの正確な外界認識をもともと
しているものなのか、と自問します。動物行動学(本当は、社会生物学、ソシオ・バイオロジー)の研究者たちが、
実験観察用に飼い慣らしているチンパンジーやゴリラでもこれほどの描写能力は無いでしょう。

私は、人間は、犬猫などの動物よりも劣る愚かな生物である、という、山本夏彦(やまもとなつひこ)翁の思想に
影響されて、ずっと30年ぐらい、そのように考えてきた人間ですから、さらにこの考えを深くします。 
人間は、狂った猿である、と本当に思います。動物には、芸能人も、スポーツ選手も、政治家も、王様も、税金
取りも、官僚もいません。
 動物は無益な争いはしません。餌を取る為にしか他の動物を殺しません。生活環境の改善と「生命の再生産」
( reproduction of life リプロダクション・オブ・ライフ、子育て、種の繁栄)以外のことには熱中しません。

スタジアムに集まって数万人で観戦や芸能に酔いしれるというような馬鹿なこともしません。
人間が持つ愚か極まりない、共同幻想(=集合的な無意識、イデオロギーや宗教などもこれ ) がありません。 
西欧人は、近代(モダン Modern )が、はじまった今から丁度500年前から、「狂気としての人類の近代」を
生きざるを得なくなったのだと、私は判定しています。やめておけばいいのに自己の存在の理由を問いただしはじめた。
832考える名無しさん:2009/04/07(火) 20:37:58 0
副島ってやっぱり阿呆だな。馬鹿なことの例として
「スタジアムに集まって・・・酔いしれる」を挙げておいて、
同じ段落で「丁度500年前から」と言って変だとは
少しも思わなかったのかな。
833考える名無しさん:2009/04/08(水) 09:25:59 0
拝金主義社会を回避するには、経済的原理・優勝劣敗にただ任せるのではなく
共同体の規範を強めるしかない。

そのためには、共同体の模範となる人間に対する社会的報酬、
共同体の規範から逸脱する人間に対する社会的懲罰を強める必要がある。


834考える名無しさん:2009/04/08(水) 09:37:55 0
いや、「拝金主義=絶対悪」ってわけでもないっしょ。
何事も程度問題だ。
そもそも貨幣もある種の社会規範といえなくもないわけだし。
基本的にはお金は大事にすべきもの。

もちろん、限度を超えれば問題なわけだが、
拝金主義を掣肘せよというのなら、それが現状、限度を超えているということを
だれもが納得できる具体的な事実で示すところからはじめないと。
835考える名無しさん:2009/04/08(水) 09:48:14 0
つまり、経済的原理、マネーそのものに規範に似た働きがあるわけだ。
経済的原理に外れる行動をとれば、それに応じて罰せられ、経済的原理に沿った行動をとれば
それに応じて報酬が与えられる。

それとは別に共同体の伝統的な規範が存在する。
そして、共同体の規範と経済的原理に基づく「規範」は一致するものもあるが、相反するものもかなり多い。
そのいずれを優先するかで、社会の性質は大きく変わってくる。

いずれにしても、社会の秩序を維持するには、規範が不可欠なわけで、現状では拝金主義的規範を選択するか
伝統的な共同体の規範を選択するかが現実的な選択肢になる。

そして現状では、社会の拝金主義化が行きすぎていると見られているわけだから
伝統的な共同体の規範を強めなければならない。

836考える名無しさん:2009/04/08(水) 10:02:17 0
だから、

>社会の拝金主義化が行きすぎていると見られているわけだから

のソースきぼんぬ。

837考える名無しさん:2009/04/08(水) 10:08:40 0
ソースとかって特に必要はないでしょ。

いろいろな人が、社会の拝金主義化について指摘している。
その同じ口で、社会のリベラル化を求めたりする。

でも、この2つは矛盾するんだよ。社会がリベラルになるほど、社会は拝金主義的になる。
なぜなら、リベラル化とは、共同体の規範の弱体化だから。

社会には必ず規範が必要なわけだから、共同体の規範がなくなれば、残るマネーの規範の比重が
高くなるだけ。そのことに気づかない人があまりにも多すぎるってこと。
838考える名無しさん:2009/04/08(水) 10:17:01 0
>ソースとかって特に必要はないでしょ。

まあ、あなたの言うことを実際に実施する必要がないというなら。
839考える名無しさん:2009/04/08(水) 10:59:47 0
まあ、確かにマネーも大事だけどね。それがなきゃ、結局生きていけないし。

そういうマネーの規範と伝統的規範の対立構造があって、臨機応変にどちらを重視すべき
かを変えていくことも大事なんだと思う。

一部知識人のように、リベラル化を求めながら拝金主義を批判するような無知は
百害あって一利なしだけどね。
840考える名無しさん:2009/04/08(水) 15:05:07 0
社会が自由になるほど、社会の拝金主義化が進む。
でも、それで困るのは結局弱者なんだよな。
切り捨てられて、生存不可能な状態においやられる。

特にニートなんかには、優勝劣敗の論理に任せるんじゃなくて
社会的規範に基づいて、その人間性を叩き直すことが、結局本人のために
なるんだと思う。戸塚ヨットスクールみたいな感じでね。

一見厳しいようだけど優勝劣敗の資本主義・自由主義の論理に
任せてたらニートは死ぬしかないんだから。
841考える名無しさん:2009/04/08(水) 15:26:15 0
>>840
>特にニートなんかには、優勝劣敗の論理に任せるんじゃなくて
>社会的規範に基づいて、その人間性を叩き直すことが、結局本人のために
>なるんだと思う。戸塚ヨットスクールみたいな感じでね。

その場合、ニートの判定は誰がどういう資格でやるのかな?
そして、「人間性を叩き直す」ことが正当化されるような「社会規範」って、
誰がどういう資格で決めるの?
842考える名無しさん:2009/05/09(土) 20:48:52 0
神とは、自然そのものである。自然の厳しさ、理不尽さ、豊穣さ、すべてを包有し
それを象徴するのが「神」である。仏教の「諸行無常」とは、これを哲学的に表現したものである。
したがって、神=仏=自然=諸行無常となる。

それに対して理性が求めるのは、イデア・理想である。これは、自然(神)と本質的に敵対するものになる。
自然とは諸行無常であり、理性の求める理想・イデアとは本質的に相容れない。

この両者の対立が現代イデオロギーの対立の根本に対応している。
つまり、イデア・理想を求め、神・自然(諸行無常)を征服すべきとする進歩派と、
神・自然(諸行無常)に従うべきとする保守派である。

そして、この対立は結局、神・自然(諸行無常)が常に勝つ。
その理由は、仏教が哲学的に明らかにしている。
843考える名無しさん:2009/05/09(土) 20:50:01 0
さらに、自然(諸行無常)に従うとは、「死」を受け入れるということである。
そして、個人の自我の無制限の拡大を抑制し、自身の自我にまさる他の価値を認めることである。

自身の自我に勝る他の価値を認めるとは、結局「自身の自我を抑制する」と同義なのだが、
自身の自我はあまりにも強いために、単純に抑制することはできない。
そこで仮に、自身の自我よりも強い他の価値を立て、その価値を自身の自我よりも上位に置く。
これによって、自身の自我を抑制することがかろうじて可能になる。

そしてその価値こそが、「神」ということになる。
844考える名無しさん:2009/05/09(土) 20:54:17 0
そこで、自身の自我に勝る価値として「神」ではなく、「理想・イデア」を置いた場合はどうなるか。

「神」とは自然(諸行無常)を表し、自身には絶対に吸収されないのに対して、
「理想・イデア」とは理性が描き出す(自身に)予定調和的な価値であり
それは結局、自身そのものに吸収されることになる。つまり、自身の自我の上に「理想・イデア」を置いたと
自分では考えていても、その「理想・イデア」は結局自分自身を表すものであり、自分の自我の上に自身を置くだけになる。
これでは結局、自身の自我を抑制することは出来ない。

845考える名無しさん:2009/05/09(土) 21:54:43 O
自我と神を分離して何が得られるのか?

自我の中に神性を見出ださないのか?

自我の中に神性を創りだそうとしないのか?

…中央集権的社会にとって支配中枢より民が尊大になると成り立たなくなる。
似たものに かつてのローマの皇帝がコロセウムの催しに財政を食いつぶしたように。

しかし自我にスポットを当てた場合、神に権威を与えず、神を自分自信と捕らえたらどうなるだろう?
846考える名無しさん:2009/05/10(日) 21:35:50 0
仏とは空。神とは絶対的存在。神と仏はある意味真逆の存在。そして、人間は神とは断絶してるけど
仏とは断絶しておらず、いずれ仏になる。

つまり、人間は絶対的な存在(神)からは断絶している。
そして、人間はいずれ空(仏)になる。

これは、ある意味同じことを視点を変えて説明してるだけとも言える。

つまり、神の存在意義が「イデア」の無制限の暴走を防ぐものだったとしたら、
神は超越的絶対者として君臨することで、人間の「イデア」の暴走を抑えることができる。

それに対して、絶対者・超越者ではない仏は、人間と同じ地平に立ちながら、自身を「空」とすることで
イデアの暴走を抑えているのでは?

イデアの暴走を防ぐという点で、神は超越者・絶対者として、仏は人間と同じ地平に立って
同じ機能を有している。
847考える名無しさん:2009/05/10(日) 21:38:28 P
>しかし、論理・理性では、自分の利害・私益を基準とした他者との調整的な
>規範・道徳が得られるだけなのではないか?

これが、間違い。
848考える名無しさん:2009/05/10(日) 21:40:06 P
神仏が存在しなくても、ユートピアは人間の力で作ることができる。
これは、真である。
849考える名無しさん:2009/05/10(日) 21:41:28 0
合理的(理性的、rational)に物事の本質を追究していくと、仏教哲学の「空」
に行き当たる。おそらくこれが、理性が間違えずに物事の本質を追究した最終解だと思う。

ところが、この「空」というのはあまりにも厳しい真実である。
どうしても厭世的になるという欠点がある。

そこで、代替的な方法として、超越的絶対者を仮に置くという方法がある。
この場合、超越者は絶対的存在であり、それに比してこの世のものは相対的存在とすることができる。
そしてなにより、超越的・絶対的存在が君臨する限り、その下位のこの世のレベルで相対的な「イデア」を設定しても
そのイデアが暴走することはないという大きな利点がある。つまり、超越的・絶対的存在を認める限り
相対的な「イデア」を安全に追求できる。

それに対して、仏教的な「空」を直接認める方法だと、この世のレベルで「イデア」を設定することはできない。
このことは、厭世的になる原因になってしまう。
ただし、超越的・絶対的存在を認める場合は、その硬直性が欠点になる。
850考える名無しさん:2009/05/11(月) 00:17:11 0
851考える名無しさん:2009/05/11(月) 06:26:44 0
神を絶対者のままで、「神即自然」とした汎神論には誤りがあった。

「神即自然」とするなら、神は絶対者ではいられない。「神即自然」なら神は空、つまり神は
絶対者ではなく、諸行無常を体現する仏にならないといけない。

神を絶対者とするなら、神は超越者でないといけない。このことが、汎神論の混乱の原因になったと思う。
852考える名無しさん:2009/05/13(水) 07:11:54 0
つまり、>844は言い換えると

「神」とは超越者を表し、理性では絶対に捉えることのできない絶対者である。これは自身には絶対に吸収されない。
「仏」とは自然(諸行無常)を表し、自身が最終的に行き着く状態を指し示し、これは自身に吸収されることになる。
「理想・イデア」とは理性が描き出す(自身に)予定調和的な絶対者であり、これは自身に吸収されることになる。

つまり、自身の自我の上に「理想・イデア」を置いたと
自分では考えていても、その「理想・イデア」は結局自分自身を表すものであり、自分の自我の上に自身を置くだけになる。
これでは結局、自身の自我を抑制することは出来ない。
さらにいえば、この場合、自身=絶対的存在となってしまい、これは現世ではまったくありえない状態である。

神は超越的存在として、絶対者の地位を奪うことで、人間自身が絶対者になることを防いでくれる。
仏は自然(諸行無常)を表す存在として、人間自身が最終的に行き着く状態を指し示し、これもまた人間自身が絶対者になることを防いでくれる。

正しい宗教の機能とは、まさにこれ、つまり、人間自身が絶対者になることを防ぐことである。
853考える名無しさん:2009/05/14(木) 21:24:38 0
現在の知的エリートは、自分のことを完全に「神」と思ってると思う。
昔なら、エリートであってもその上に欧米ならキリストの神、日本なら天皇がいたわけで
それが重しになっていた。今はその重しがない。

まさに、理性のみを信じる人間はエゴイストになるってことだと思う。
854考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:58:45 0
最終的、究極的な意味で言えば、つまり物事を最後まで突き詰めると
人間にとって、不合理な現象は「神」、合理的な現象は「悪魔」につらなるものだと思う。

不合理性の背後には「神」、合理性の背後には「悪魔」が潜んでる。
つまり、不合理でありながら存在しえるものは「神」につらなり
合理性を唯一の存在意義とするものは悪魔につらなる。
855考える名無しさん:2009/05/25(月) 19:13:05 0
なぜかというと、不合理なものは、人間が理解もできないし、制御できない。
合理的なものは、人間が理解し、制御できる。

また、理性至上主義、つまり人間至上主義が悪魔の正体であると考えられる。
(知恵の実を食べるようにそそのかした悪魔の使いのヘビ。
そして、知恵の実を食べたこと自体が人間の原罪とされてることなどから)

合理的なものが増えれば増えるほど、人間が理解できること、人間が制御出来ることが増える。
それに伴って、人間の
万能感は高まり、人間が自身を神とみなす可能性が高まる。

そして、人間が自身を神と見なす行為そのものが、聖書の言う「悪魔」的行為であると思われるためだ。
856考える名無しさん:2009/05/25(月) 19:20:01 0
たわごと言ってないで、もっと合理的に考えて見ろよ。w
857考える名無しさん:2009/05/27(水) 09:26:46 0
聖書が人間至上主義を悪魔の正体としているもう一つの例として、
悪魔の数字666がある。この数字を示すとき、聖書では6を人間を表す数字としている。

つまり、数字666は人間至上主義を表すものと考えられる。
858考える名無しさん:2009/05/27(水) 14:50:12 0
>>857
客観的な論理で全てを計ろうとする科学万能主義だよ。

いまは宗教ですら、その力で汚染されている。哲学も例外じゃない。
859考える名無しさん:2009/05/27(水) 19:29:16 0
科学や合理的思想も必要だけどね。
でも、それだけだとダメなんだよな。

たとえば、ハイテク兵器で武装した人間が幽霊を見たとき、
ハイテク兵器で幽霊を圧倒しようとするか、それともそこで手を合わせるか。

不合理なものに神性があると気づけば、理性で不合理なものを圧倒しようとせず
そこで手を合わせることを選択することもありだと気づく。

860救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :2009/05/27(水) 19:47:50 0
真に不合理なものは対処不能である。
861考える名無しさん:2009/05/27(水) 19:59:55 O
やまねいるみ
862考える名無しさん:2009/05/27(水) 20:58:46 0
逆に言えば、究極の合理的なシステム、
一切の無駄を持たない「経済的な」企業体、社会、
究極の効率性を持つ社会などは、究極の「悪魔性」を持つと言えると思う。
863考える名無しさん:2009/05/27(水) 21:51:53 0
つまり、制御できないものこそ、神の存在意義そのものに直接結びついてる。
そうしたものがなくなったときに、あるいは人間の前から消えたときに、
神はその存在意義を失う。

そして、そうした状態は、まさに「悪魔」が支配する状態であると言えると思う。

制御できないものを前にして、人間は祈るしかない。この気持ちこそ、
人間の最も神性な部分だと思う。そして、祈ることをしなくなった人間は、
限りなく悪魔に近づいていく。
864考える名無しさん:2009/05/29(金) 07:40:39 0
つまり、何らかの信仰心を持っている人間は、少なくとも自分を神だとは思っていない。
それに対して、無信仰の人間は、おそらく十中八九、自分を神だと思ってる。

この差は、人間の精神において、ものすごく大きいと思う。
自分を神だと思うことは、仏教的に言えば、「苦」を招くことであり
平穏には生きられない。諸行無常のこの世にあっては、それだけでかなりの苦しみを産む。
また、分をわきまえて生きることが非常に難しくなる。

何らかの信仰心を持つ人間は、自分を神だとは思っていない。
それによって、諸行無常のこの世にあっても、自分の運命を受け入れやすくなる。
すべてを自分が管理しているわけではないと心底納得しているので、そうした運命を
心の底から受け入れることができる。
また、分をわきまえて生きることが容易になる。


865考える名無しさん:2009/05/29(金) 08:49:52 O
ねい
866考える名無しさん:2009/05/31(日) 22:14:57 0
宗教と美の関係について何か論じている学者を教えてください。

今考えていることとして、宗教と美の間に因果関係はあるか、ということがあります。
特に宗教体験の要素として何らかの感情の動きが欠かせないのだとしたら、
宗教は美を前提としていると言える。
本当にそうか? 美において生じる感情と宗教体験の感情は全体-部分関係か?
それとも重なるけど(あるいは重ならず)別の領域なのか?
この手の議論を何か学者は論じてないかなあ。ということに興味があります。
867考える名無しさん:2009/06/01(月) 08:44:43 0
折衷だと思うよ。
まあ、知の場合と同じで、超越した絶対者が存在するからこそ、
安心して美を追究することもできる。

超越した絶対者の下から外れて、単独で(つまり自由に)美を追究した場合には
その結果は悲惨になると思う。

宗教は美を前提としているというより、宗教の管理下に置かれてるからこそ
美を追究しても安全なんだよ。美の追究の衝動は人間にもともとあると思う。
868考える名無しさん:2009/06/02(火) 18:22:16 0
美っていうのも、善のイデアの一つだからね。
これを最後まで追求すると、世の中の神がいなくなって、最終的に自分が神になるよ。
だから、非常に危険。

869NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/06/02(火) 19:16:51 0
真善美=ボランティア
870考える名無しさん:2009/06/06(土) 19:24:02 0
一人の人格の中に神様というもう一つの仮想のものをつくると主の人格を監視できるからね。
誰も見てない悪事の規制にもかなり効果ある。

現代日本の場合いわゆる神様に雷落とされて殺されるみたいなイメージじゃないんだよな。
常識の徹底が宗教並だし、実際的な警察力もあるし、それこそ美意識あるんだろう。

手前味噌だが、日本人がいわゆる無宗教でなんでここまで規範意識があるんだろうか。
恥の文化とか武士道みたいな安易な結論になるのか?

871考える名無しさん:2009/06/06(土) 20:10:19 0
日本人の規範意識の高さは遺伝子のせいだよ。
卑弥呼の時代から変わってない。つまり、神に与えられた属性。

日本人に宗教意識がないとは思わないよ。漠然とした超越者に対する恐れ
はあるでしょ。強い形で形式化されてないだけで。

その漠然とした宗教意識が完全になくなると、いくら元から規範意識の高い
日本人でも、相当の影響はあると思う。
872考える名無しさん:2009/06/06(土) 21:05:13 0
>>871
手前味噌だがっていう謙遜を入れるのが日本人。
あなたの頭2行に遺伝子を感じないよ。怖い。
873考える名無しさん:2009/06/06(土) 21:22:44 0
>>872
日本人の規範意識が高いのは、後天的なものじゃなくて先天的なものなんだよ。
世の中には先天的に決まるものが多数存在する。
それを認めないといけない。それをごまかしてはいけない。

人間至上主義では、先天的な属性を認めるのは非常につらいけどね。
先天的な属性は、人間の努力や知恵や工夫ではどうにもできない。
神が与えた属性をそのまま受け入れるしかない。人間至上主義ではこれがどうしても許せない。
でも、それをうけいれないといけない。
874考える名無しさん:2009/06/06(土) 21:49:11 0
>>873
生まれながらにして平等という思想が一種の幻想ともいえる概念に過ぎなくてでそれこそ宗教だと言うことは認める。

遺伝的な形質は確かに肌の色、骨格、目の色、血液型、障害等で現れる。
そのことこそ真っ平らな平等がこの世に無いことを証明している。

しかしこの宗教の一番の魅力は人種、民族間の争いを避ける事ができること。
そして遺伝的差異が社会的な価値に与える影響は微小でほぼ後天的なもので決まることもこの思想の有効性を裏付ける。
日本で生まれ、日本人として育った黒人だって日本人的な規範を身に付けるのだ。

875考える名無しさん:2009/06/06(土) 21:56:48 0
>>874
規範を重視したいなら、自由を廃止すればいい。
自由を重視する人間至上主義の元では、いくら規範意識の高い日本人でも
規範意識はかなり低下するでしょう。

規範を重視するなら、宗教意識は必ず必要だと思う。
理性によらない超越者への恐れ、それがあればたとえ黒人でも規範は守られると思う。
そして、自由を至上価値とする人間至上主義では、たとえ日本人でも規範は守れないと思うよ。
876考える名無しさん:2009/06/06(土) 22:09:50 0
>>875
規範と自由の背反性は別にいいんだ。(ある程度の規範が実は自由の幅を広げるが。)

それよりもまだあなたの文章の「日本人」に遺伝的優位があるように感じるのだが、気のせいですか?
877考える名無しさん:2009/06/06(土) 22:14:03 0
>>876
日本人に遺伝的優位はあるよ。神が決めたことだからしょうがない。
それをあわあわと認めればいい。でも、神は超越した絶対者であり、それに比して
この世は諸行無常だよ。それを考えれば、この世で遺伝子的な優位があるからといって
特に騒ぐ必要もない。
878考える名無しさん:2009/06/06(土) 22:20:10 0
>>877
私の考える神とあなたの神がかなり違うことは分かった。

>>875の理由から遺伝的優位性などと言うものを認めたくないんだよね。
戦争がこれからもあってもいいが、人種とかそう言うくだらないことでは争いたくないんで。
879考える名無しさん:2009/06/06(土) 22:24:10 0
>>878
ごめん875じゃなくて>>874
880考える名無しさん:2009/06/07(日) 01:13:29 0
遺伝遺伝っていうけど、昔の日本人も随分えぐいが?
881考える名無しさん:2009/06/07(日) 06:44:02 0
>>878
神は超越した絶対者であり、神の意志を推し量ることは人間にはできないよ。
人間にできるのは、神が作り、神が決めたこの世のさまざまな属性のもとで、
知性を含めて人間のすべての能力を使って良い世の中を作っていくことでしょう。

現実を見ないふりをしても、無意味だよ。その見ないふりの理由が人間至上主義にある
ならなおさらね。日本人は昔から先天的に知能と規範意識が高い。これは
歴史の文献の記述などでも明らか。それを見ないふりをしてもしょうがない。

なぜ神が日本人にこうした性質を与えたのかはわからない。神の意志は人間には推し量れない。
でも、それを見ないふりをするのは、神を無視しようとする傲慢さがあるから。
神を無視して、人間の知恵と工夫だけで、世界を作り替えていけるという傲慢さがあるから。
882考える名無しさん:2009/06/07(日) 09:16:47 0
>>881
あなた自身の宗教の観念を前提にした理論を組み立てられても議論できない。
哲学板だし。
あなたがいかにも前提みたいな感じで書いていて一般的に認められない事が多すぎると思います。
正直宗教くさい。

一人格の理性に宗教が与える影響を自分は高く評価するが宗教の規範性がとんでもない暴走をすることをあなたの文で再認識した。

反論してくれる場合「神の意志」とかを前提にしないでね。
あくまで哲学板なので。
883考える名無しさん:2009/06/07(日) 10:26:23 0
>>882
宗教くさいと言われても、人間は何かしらの宗教を持ってるんだよ。理性教も含めればね。
理性の力ですべてを解決できると思ってるから、良い意味で言えば大胆で積極的になれる。
でも、それはやはり良くないってことを言いたいだけ。

そして、理性教が他の宗教と違うのは、理性教では最終的に「自身が神」となること。
この欠点を念頭に置かないと行けない。

884考える名無しさん:2009/06/07(日) 10:48:21 0
>>883
いい反論。
大抵挑発に乗って感情的な反論がくるかと思ったが。
挑発に乗らないあたりなかなかの宗教者だ。

私の結論としては縦横軸に宗教と理性をとって最大効果の得られる妥協点をとればいいと言うイメージ。
そしてどちらも0はありえない。
885考える名無しさん:2009/06/07(日) 11:53:32 0
>>884
宗教者って、まだ別にどこかの宗教に属してるわけじゃないよ。

それから、どちらもゼロはあり得ないというより、理性の上に非理性的な信仰を置く必要がある
んだよ。両方を同じ水平位置に立たせるのは結局無理だと思う。ただ、もちろん理性をゼロにするわけじゃない。
理性も思う存分、最大限に発揮すべき。そうしないと、生ききれないと思うしね。
ただ、その理性の上に非理性的な信仰が必要。
どっちにしろ、中途半端では、今の世の中を生ききるのは無理だと思うし。

そして、非理性的な信仰を理性の上に置くことは、自分が神になることを諦めることでもあるよ。
886考える名無しさん:2009/06/10(水) 00:48:59 i
人間は神を創造した

887考える名無しさん:2009/07/08(水) 17:02:50 0
神=アーリマン
イデア=ルシファー

こんな感じか。
888考える名無しさん:2009/07/24(金) 10:54:27 0
西欧なら
キリスト教=アーリマン
ギリシャ哲学=ルシファー

日本なら
神道=アーリマン
仏教=ルシファー

かもな。
889考える名無しさん:2009/07/24(金) 11:05:12 0
それは違うな。
仏教はルシファー側からのアプローチだけど、
それを超越してる。
890考える名無しさん:2009/08/03(月) 22:05:57 0
超越した絶対者が存在するからこそ、
安心して「美」を追究することもできる。

超越した絶対者の下から外れて、単独で(つまり自由に)「美」を追究した場合には
その結果は悲惨になると思う。

宗教は「美」を前提としているというより、宗教の管理下に置かれてるからこそ
「美」を追究しても安全なんだよ。「美」の追究の衝動は人間にもともとあると思う。

「美」っていうのも、善のイデアの一つだからね。
これを最後まで追求すると、世の中の神がいなくなって、最終的に自分が神になるよ。
だから、非常に危険。
891考える名無しさん:2009/08/11(火) 11:46:15 0
最終的、究極的な意味で言えば、つまり物事を最後まで突き詰めると
人間にとって、不合理な現象は「神」、合理的な現象は「悪魔」につらなるものだと思う。

不合理性の背後には「神」、合理性の背後には「悪魔」が潜んでる。
つまり、不合理でありながら存在しえるものは「神」につらなり
合理性を唯一の存在意義とするものは悪魔につらなる。

なぜかというと、不合理なものは、人間が理解もできないし、制御できない。
合理的なものは、人間が理解し、制御できる。

合理的なものが増えれば増えるほど、人間が理解できること、人間が制御出来ることが増える。
それに伴って、人間の万能感は高まり、人間が自身を神とみなす可能性が高まる。

そして、人間が自身を神と見なす行為そのものが、聖書の言う「悪魔」的行為であると思われるためだ。
892考える名無しさん:2009/08/11(火) 15:28:45 0
人間は純粋な意味で、単独では自由になることはできないだよ。
そんな状態になったら発狂する。あるいは、発狂した方がまだ幸せ。
それは、水槽の中に脳だけを収めて、栄養物を供給することで生かされているような状態。

健康な肉体を持つ人間は、せいぜい神の下で自由を享受できるだけ。
893考える名無しさん:2009/08/23(日) 15:07:28 0
やくざ
894考える名無しさん:2009/09/07(月) 17:20:21 0
a
895考える名無しさん:2009/09/07(月) 18:14:40 0
>人間は純粋な意味で、単独では自由になることはできないだよ。
そうかね?

>そんな状態になったら発狂する。あるいは、発狂した方がまだ幸せ。
どうかね?

896考える名無しさん:2009/09/29(火) 11:31:56 0
無神論者は拝金主義者になるしかない
897考える名無しさん:2009/10/19(月) 09:54:04 0
人にとって、「神」となる存在は必ず必要。
それは、自分自身が神にならないためでもある。

そして、現代の神は「理性」である。
ところが、この「理性」を神としているといつのまにか、自分自身が神になってしまう。
ここに、現代文化、現代思想の最も危険な罠がある。

898考える名無しさん:2009/10/19(月) 19:03:42 0
理性は神になり得ない。
899考える名無しさん:2009/10/19(月) 19:49:15 0
>>898
そうだよ。でも、従来の神と同じように「理性」を捉えてるのが現代人なんだよ。
理性は全知万能の力を持つと過信してね。
900考える名無しさん:2009/10/21(水) 00:37:16 0
エリートやくざ
901考える名無しさん:2009/10/30(金) 07:03:26 i
哲学とは、自分を神とする宗教。
902考える名無しさん:2009/10/30(金) 16:56:34 0
        >===ー―-- 、
      ///; ;;'´     ̄ ヽ\
     r'///`ー '        ヾヽ
     |//              三ハ
     彳|: : : : : : : : : : : :       ミミヘ
     彡|: : : : : : : : : : :       ミミミ∧
     川 __. . . . . : : : : __    ト、ミミ分.、
    |州似三ニ=t:::こ=ニ三三ト、 乂 !ミ仆リ
     !ミミ托rリヌ::::}::  `ハrリr'` リ  川巡ー1
     斗!::::::::::::::イ!  :ヾ´     ,〃 }ぅソノ
     ハ:::::::::::::〃   ヽ. \   /i,ビ /´
     乂ト、;;;;;;込_-'_う ' \    ,/分イ
     彡公=彳州川公ト、ヽ\,.彳!乂 ト、
     从彡彡仏===≧ル爪州 |川 |从
     乂仁三彡'彡州チ八川川川 | ト、`
     彡,.ィ彡彡州川川公州州 | |人 乂ト、
_-=≦三彡'彡州州州川州 | | | !i!V 从三j ≧-
三三三三行彡公州州川川 | | | 乂| 从三=ヽ 三
三三三三三州〃个州州川 | | ! |ヽ`ヾ 三三 | 三
三三三三三j!彳公州州州川 ! ! ! ヾミY三三| 三
三三三三 从川彳川爻州州必入乂Vミ 三三| 三
三三三三州从从州从乂心从从乂介\\三! 三

     ── 神が存在しないなら私が神である。 

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
(1821- 1881)
903考える名無しさん:2009/11/05(木) 07:36:29 P
人間にとって、世の中に神がいないというのは許されない。
世の中に神がいないなら、「必然的」に自分が神になる。
904考える名無しさん:2009/11/05(木) 10:06:51 0
   ── もし神が存在しないなら、神を発明しなければならない。

ヴォルテール
905考える名無しさん:2009/11/05(木) 20:16:13 P
その必要はないw
906考える名無しさん:2009/11/06(金) 06:11:28 0
まあ、生きる厳しさから逃避し続けてるニートには必要ないな
907考える名無しさん:2009/11/07(土) 00:45:08 O
宗教の有・無が道徳教育の可・不可に繋がるものなのでしょうか?
908考える名無しさん:2009/11/07(土) 02:48:23 0
>>907
「道徳」も宗教と同じぐらい厄介な言葉だな。
「道徳教育の可・不可」にはどういう意味があるんだろうか。
つまり、可であった場合と、不可であった場合の実質的な違いは何?
909考える名無しさん:2009/11/07(土) 22:01:37 O
純粋に可能なのか不可能なのかって事です。

宗教があるから道徳教育が可能なのか、また宗教が無かった場合はそれは不可能なのか、宗教が無かったとしても道徳教育は可能なのか、宗教が有ったとしても道徳教育が不可能な場合はあるのかが気になるのです。

訳分からない事聞いてすいません。
910考える名無しさん:2009/11/07(土) 22:23:28 0
可能か不可能かということだけを純粋に考察することに
意味があるとは思えないな。

というか、可能な場合と不可能な場合の違いがないのであれば、
宗教の有無に限らず、どのような要因がどう変わろうと、
同じであるとしか言いようがない。
違わないものを「可能」「不可能」と気分でよび分けてるだけで、
あなた以外の人にはその違いを判別できないわけだから。
911考える名無しさん:2009/11/08(日) 00:28:18 O
>>910
レスありがとうございます。
それじゃあ例えば、道徳教育可能な場合=善いとされる社会的態度を育めるとします。不可能な場合はその逆だとします。これを可能と不可能の違いだとしてみた時はどうでしょうか?


また、「宗教が無いのにどうやって道徳教育を行うんだ?」という疑問は問いとして正しいのでしょうか?
質問ばかりで本当にすいません。
912考える名無しさん:2009/11/08(日) 05:52:29 0
>>911
>善いとされる社会的態度を育めるとします

(その場合は、育める場合と育めない場合の「実質的違い」が問題になるのだが、
 同じことを繰り返すのも芸が無いので言い方を変えてみると)
そう設定した場合、「善いと」「する」のは何なのか?という問題が出てくる。
それを「宗教」とするならば、設問自体無意味だし、
それ以外のものであるのならば、「それ」と宗教の関係によるとしかいいようがない。
# ぶっちゃけ、「それ」(「善いと」「する」もの)を「宗教」と規定してしまえば、
# (事実、そう考えている人が大勢いるわけだからその人たちにとっては)
# その設問は「新郎新婦抜きで結婚式ができるか」というような無意味な質問になる。

「私が」善いとする社会的態度を育めるかどうか、という問題ならば、
私の宗教観によって決まるし、「あなた」ならあなたの宗教観によって決まる。
「どこのだれだかわからない誰か」であれば、調べようがないよね?
913考える名無しさん:2009/11/08(日) 11:43:12 P
道徳教育の基準が必要でしょ。宗教が存在するなら宗教を基準にすれば良いけど
宗教が存在しないなら、結局は理性を道徳教育の基準とするしかないと思う。
914考える名無しさん:2009/11/09(月) 16:19:20 0
道徳教育というものが基準を必要とするものだと仮定するとしても、
その基準たる資格を判断する基準はどうなるの?
それが宗教や理性でなくてはならない理由は何?
915考える名無しさん:2009/11/10(火) 07:19:33 P
>>914
理性的道徳と非理性的道徳と言っても良いかもね。
それなら、いずれにしろそのどちらかに該当するから悩む必要はないでしょ。

非理性的道徳と理性的道徳で一番食い違うのは
合理性の有無で是非を判断する場合。

女性は家事や育児、男性は仕事という役割分担とかは、
理性的道徳では否、非理性的道徳では是というふうにわかれたりするね。
916考える名無しさん:2009/11/10(火) 09:37:35 0
>>915
いや、それだと、道徳の必要性がよくわからない。
道徳という言葉を排除してしまって、「理性的」「非理性的」とだけ言えば事足りるのでは?
917考える名無しさん:2009/11/11(水) 11:11:57 P
理性的道徳は、人を殺してはいけないとか、人を差別してはいけないとかだな
非理性的道徳は、年長を敬うとか、男は男らしく、女は女らしくとか、愛国心とかもこっちか。
918考える名無しさん:2010/02/16(火) 19:40:27 0
919考える名無しさん:2010/06/20(日) 21:48:59 0
じゃぁ宗教の話は哲学板へどうぞ
920考える名無しさん:2010/06/20(日) 21:49:29 0
誤爆しますた
921考える名無しさん:2010/07/25(日) 16:34:00 0
なんだかんだいって日本人は神道の価値観にならって生きていることになるね
922考える名無しさん:2010/08/02(月) 00:46:56 0
その超越した絶対者っていう諸行無常の存在を神と表現して恐れ信じるのではなく
なんというか、それは森羅万象の動力で世界を成立させている機構?と同じ事って
捉えるのは合理性なの?それとも不合理性?
923考える名無しさん:2010/08/02(月) 00:49:27 0
同じ事 ×
同じような事 ○
924考える名無しさん
変に偶像化した神を信仰する宗教には派閥があって、絶対性が揺らぐし、
各派の絶対的な存在という偶像を崇めるから、他の神を受け入れがたい。
宗教がなくても、人知を超えた運命・世界そのものが脅威的な絶対性を持ち、
それを受け入れ、より良く脅威を克服する姿勢を教育(道徳)をすることで、
合理性と非合理性に調和のとれた中庸な規範となると思う。