374 :
素人:2008/10/09(木) 22:46:32 0
>>370 > 仏教では「生」を・・・・・・
> ・・・・・・反するものではないのでしょうか?
(「どこが“死”か」という境目に関してはそういう見方もありでしょうが一先ず措きます。)
>>371が指摘するように、その考え方は寧ろ脳死・臓器移植推進の為の大きな後ろ盾として利用できる。
大海の一部の波でしかないこの命、この体、この臓器。
脳が活動を停止し、人工呼吸器で酸素が供給されるだけで、細胞の老化が進むだけであるなら、
“この波”が、大海の別の所に、新たな波として生じると見るなら、
同じように大海の一部にまた生を受ける!新たな生を生きる!或いは役に立つなら、
大いなる“いのち”遍く満ちる“いのち”の生かし方として、こんなに素晴らしいことはない!w
そうは思いませんか?
(私個人は、この理屈を(極一部しか)採用しませんが・・・www)
>>371 > 仏教というのはそういうニヒリズムにつながる潜在的傾向を
> 持っているのか。
持っていますね。それは否定しませんw
現に一神教系(特にキリスト教系)の人達は、多くがそのような見方をしているでしょう。
亡くなられたパウロ二世の著「希望の扉を開く」の中には、露骨にそのように述べられていますw
もし彼が、多大な尊敬を集めていて、多くの人々にその著が読まれているとしたら、
多くの西洋人が、或いはキリスト者が、仏教を悲観的宗教だと断じているでしょう。
(これは、ゆゆしき事態の筈なんだが、2ch内ですら、気にする仏教関係者はいないんだよなぁ・・・w)
>>374 仏教はキリスト教よりまだ自由だからなぁ。
376 :
ネオマトリクス:2008/10/09(木) 23:07:09 0
そこで俺の論
『意識は検証も証明もできないので
科学的には存在せず、万人は哲学的ゾンビである』
これで人類の様々な謎は全て終わりだ。
万人に意識はなく、あるのは時空と物質。これだけ。
実際、意識なんて俺にねーし検証できねーし
悪魔や霊と同じ。証明できねえから存在しねえんだよ。
分かるか?存在しない。
変な思考に洗脳された自称常識人だらけだよなw
ゲーム的マトリクスこそが世界の正体なんだよなあ。
で、俺はマトリクス外では神レベルだが
マトリクス内では未開惑星の辺境の一般市民以下レベル。
これはやばすぎるバグだ
377 :
355:2008/10/09(木) 23:08:39 0
日曜の概念を創造できるか。仏教徒め。
378 :
355:2008/10/09(木) 23:29:13 0
355「このように、日本人の平均寿命が延びた原因はなんなのでしょう?」
先生「日曜です」
379 :
天才君:2008/10/09(木) 23:31:01 0
仏教では、業(カルマ)が在る。
天才君は神とも相性がいいが、カルマとも相性がいい。
何故ならば、行為が在るだけ。これが仏教的世界観である。
世界観というのは、ものの見方、視点である。
世界がそうなっているのではなく、世界をそのように観るという事です。
行為がカルマで、全体(背景)が神です。
また行為も全体である。つまり全てが因縁である。
これは神が因縁であろうと、私が因縁であろうとどうでもいい。
つまり全体がカルマである。
行為に主体は存在せず、行為が主体を生んでいるのですから、
瞬間瞬間という時間を区切れば、過去の私が今の私を生んでいる。
もうイヤだといっても生まれてしまう。だから苦です。
我々は生まれてしまったのですから、生まれなくてはならぬ行為が在った。
苦を享受しなくてはならぬ行為が在った。だから行為を無くせばいいのですが、
生んでしまう。これは生んでしまうのではなく生む行為が在る。生む為に
生まれた何かの行為が在るわけです。
だから殺意は在るのです、行為を無に帰したいという事を
本当は知っているのです。でもできない。だから「私」を知るしか無いわけです。
一気には無理です。
天才君談
380 :
355:2008/10/09(木) 23:34:06 0
企業。仏教め。
381 :
天才君:2008/10/09(木) 23:36:17 0
我々は知っている事があります。
帰りたいのです。何処に帰りたいかは知らない。
そして殺したいのです。そして楽になりたいのです。
なぜそうかは知らない。
つまり衝動の究極には、楽に帰りたいと、知っているのです。
変える、帰る、カエル、還る、返る、換える、代える、替える。
まあ、何を?ですがね。
382 :
天才君:2008/10/09(木) 23:40:44 0
例えば、結論から言えば、哲学の究極は、無知です。
ここがカエル場所です。知識の果ては無知です。
無限なる知があるとして、人の知など無知に等しい。
無限と=になるにはどうすればいいか?
簡単な事です。無知になればいい。なにもしらない事は
全てを知っているという事です。但し、知るという事を知ってからの
再発見の無知ならばという条件付きですが…。
>>377 弥勒降臨や浄土信仰はさておきw、
お釈迦さんは、苦悩を逃れようと訪れた者に、「来なさい、比丘よ」と言った。
解脱・涅槃を求める者に、「来て、見よ」と言った。
いつ来るか判らない神の国なんかじゃない。
一切を打ち捨てて行じてみろと言った。
そうすれば必ず苦の滅がある、と。
生きているこの今生のうちに、(輪廻を抜け)苦を滅し、安楽に住する(生きる)ことの可能性を
自身の身を以て示した。
神さんが全能なら、一言わせてもらおう。
日曜日なんか作ってないで、さっさと神の国を作りやがれw
知恵の木の実なんて余計なもん作るなw と・・・www
384 :
355:2008/10/09(木) 23:44:46 0
神は死んだ。
日曜を作ってから。さすがだ。
385 :
天才君:2008/10/09(木) 23:50:05 0
無限を常に想定しているならば、無知を表しています。
無知はそれ自体では何も生みませんが、有があれば、
無知から有を語るから有の全容を語る事ができます。
こういう理屈なんです。だから無知はそれ自体では無知ですが、
あるものが顕れた場合、それが顕れた事を知ることができます。
だから在るものは確実に知ることができます。
在るものが立ち現れた成り立ちを知る事が知るという事ですから、
在るものが出来た原因自体を知ることができるから無知は
完全なる知であるという事であり、観点は、無と無限・永遠です。
だから結論はないけれども、立ち現れた経緯は解るという事です。
理屈はそうであるが、生まれているものは既に、無知ではないから、
完全なる無知にはなりえない。だから無知になるように知ろうとする。
知り方は、つまり生き方は人それぞれの行為によるわけです。
今でこそ土曜休みも一般的だが、
昔は日曜だけだったんだよな・・・。
パパさん達には貴重な休日。
神様ありがとう〜♪ 僕に、日曜をくれ〜て♪
日曜に会わせてくれて 日曜に会わせてくれて
ありがとう、僕の休日 日曜日に 会わせて く〜れ〜ぇて〜♪
387 :
天才君:2008/10/10(金) 00:02:34 0
神は神であり、仏は仏であるわけですね。
「私」とすり替えてはいけませんね。
神も仏も主体はありません。
我々は自分をなんだと思っているのでしょう。
言葉で表現できるものはすべて神でも仏でもないです。
しかしながら、確かに、神や仏が決めています。
よって感謝その行為自体はまったくの無害ですが、偽善は、カルマ的にはかなり重傷です。
388 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 00:21:04 0
>>387 あんた前に、「私は神です」とかいってたよ。
どうしてそんなにバカなの?
天才君の思想は複層的だから、私とか神とかの意味にもレベルがあるらしいよ。
390 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 00:31:24 0
う〜〜〜〜〜む。
天才君のスレと化しているなw
反応するレスがある故に、更にその色合いは濃度を増すwww
「天才君がレスをする」という因に、「そこにレスが付く」という縁が加わり、
「天才君絡みの話題でスレが埋まる」という果が生じる、と・・・w
てか、
>>30が洒落にならない発言に思えてくるのだが、
最高位はどうしたんだ?
安否くらい知らせてほしいものだ・・・。
391 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 00:42:37 0
最高位は自分が勤めてる店が消防法に引っかかったんじゃないの。
大阪南で放火事件があったけど、似たような24時間サービスの店に勤めてると言ってたから。
392 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/10/10(金) 00:42:56 0
>>288>>302さんを読んでいますと
「鏡合わせ」(或いはフィードバック)から抜け出る手段としての
「私」という感がありますね。
しかし重要ではないかと。
393 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/10/10(金) 00:45:29 0
失礼しました。
>>305素人さんですね。
>>391さん
以前ネットカフェ経営と聞きましたが。
真偽は到底わかりませんが。
394 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 00:45:34 0
>>392 オーナーや防火管理者でなければ
おとがめないんじゃない?
って、防火管理者だったとか?
心配だなぁ・・・。
395 :
ネオマトリクス:2008/10/10(金) 00:51:05 0
>>383 お釈迦様は少し苦痛への対応が完全ではなかったのでは?と思う。
それは
『解脱できたという記憶は、どうやって証明するのか』
『心・意識に関する根源的な法則が変わってしまうのではないか』
『原因が無くても存在してしまう物事があるのではないか』
といった事です。
仏教の大きな弱点は
『理屈・原因と結果の信仰』です。
もしかしたら理屈はないかもしれない。
因果もないかもしれない。
そこで俺は別の方法を見つけた。
唯一、自分自身に依存し自分自身を由来とし自分自身を原因とする
『自由意思』です。自由意思で右手を上げるとか選択するとか。
自由意思で自由意思を増やす行動をとれば、
生物から脱出できる位に自由意思が増え、苦が消える
ネオマトリクス氏は自由意志のパワーでどこまで強い超人になれるか期待できますね。
397 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/10/10(金) 01:25:51 0
>>395さん
> 『解脱できたという記憶は、どうやって証明するのか』
それは所謂、五部法身ではないでしょうか。
398 :
355:2008/10/10(金) 01:43:45 0
難しい事を難しく言うのは簡単なことですよ。
少しは考えましょう。
◆結局、自我が如何に不安定で不確実なものかを認識するだけ。そして宇宙と自我を重ねて安定させるのがすべての宗教と哲学の結論。
表現の仕方の違いだけです!
「私」の中にはアキラと鉄雄が同居しています。
>>344 :素人さん
>仏教は素朴実在論(的)ですが何か?
なぜ仏教が素朴実在論的だと思いますか?
説明お願いします。
>>346 :素人さん
>「リンゴ」「箱」のない所には「“リンゴを箱に詰める”者」も存在しないのです。
>このように見る時、
>「リンゴを箱に詰める作業」でなく、『(○○を)思考する』という行為であった場合、
>さて、どのような構図が見えてくるでしょうか・・・。
リンゴがリンゴとして存在するためには、既にリンゴとして本質規定されていなければならない。
そして「〜である」と本質規定することは、『思考する』ことの一種である。
だから“リンゴを箱に詰める”と『(○○を)思考する』とを比較しようとするのは、かなりズレてると思います。
>>374 :素人さん
>“この波”が、大海の別の所に、新たな波として生じると見るなら、
>同じように大海の一部にまた生を受ける!新たな生を生きる!或いは役に立つなら、
>大いなる“いのち”遍く満ちる“いのち”の生かし方として、こんなに素晴らしいことはない!
波と海の比喩は、個体的生命への執着の愚かしさを示しているのだから
それは全く見当はずれな理屈だと思います。
402 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 17:08:04 0
>>374 仏教がニヒリズム的傾向で、悲観的宗教だ見れている原因は、
無常感の過度な強調や、極端な禁欲主義を求める主張にある。
仏教は過度の厭世主義、極端な禁欲主義だよ。
「他者を悟らせる」などという、他者への強要が含まれるため抑圧的になり、
他者への精神的自由、世界観、人生観、を排除する努力が払われてきた。
仏教は、他者への自由権の侵害が是認される特徴がある。
403 :
天才君:2008/10/10(金) 19:17:04 0
仏教の話題およびブッダ自身についての解釈がなされていますね。
仏教はブッダではありません。
ブッダ自身は誰かの解釈ではありません。
我々は苦&無常を我々の知りうる観念に置き換えて、解釈しますが、
それはブッダの境地ではありませんね。単なる解釈です。
ブッダは人間に向かって語った。人間は、苦であり無常である。
そして人間は業であるが仏である。そして天上天下唯我独尊。
つまりそれしか無い。というよりそれが在る。
業が仏になるわけです。これが成仏でしょう。
業があるから生まれている。業が無くなれば生まれない。
生きる即苦です。生きることは業が在るという事ですからね。
解脱というのはもう生まれない状態です。仏ですね。
状態自体も無常ですから、解脱を体験しただけでは業によってまた生まれる。
仏陀は仏ですから、解脱を知ったのでも体験したのでもなく、
解脱の先から解脱に至る業をもつ者に対する道をつくっただけです。
仏陀だけが作った道ですね。別の人は別の道を造っていますけど…。
天才君談
404 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 19:58:12 0
ブッダを固有名詞のように言ってるところからして仏教を
理解していないことが丸見えですね。
後は読むまでもない。
キリスト= 香油を注がれたもの の総称
ブッダ = 目覚めた人 の総称
406 :
天才君:2008/10/10(金) 20:37:57 0
仏教は行うものであって、理解するものではないです。
「私」が行い、「私」を知るものです。
だから仏教を読むというのは、自分の立場・位置を確認するという事だけです。
407 :
天才君:2008/10/10(金) 20:42:32 0
>>404 そうです。読むまでも無いことなのです。
理解などするものでもない。
また言葉でもない。
実践ですからね。
408 :
天才君:2008/10/10(金) 20:52:22 0
仏教から観れば、哲学などは妄想です。
哲学に向き合うその個の態度そのものが、カルマです。
作用反作用を言語で繰り返し延々と懐疑するならば、
それはカルマです。
しかし歴史に名を残す哲学者はそんな懐疑の手法を用いていない。
哲学は何を生むのか?考えるという手法に新しさは在るのか?
単なる哲学史のトレースならば、それはまた基本を学んでいる最中である。
哲学をやっているとは言い難い。
基本的に哲学者なら哲学家なら自分なりの宇宙論なくしてどうやって
哲学するのか?論理の立脚点すら解っていないものがどうやって哲学をするのか?
起点を「私」にすらおけない論理は取りあえず、近体哲学とも言い難い。
お喋り茶番雑談である。しかし私はそれの是非は問わない。
ただそういう見方があるのだと提示しているに過ぎないのである。
天才君談。
409 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 20:55:39 0
>>404>>405 ホームラン王と言ったら誰だい?
ライダーと言ったら何を一番に思い浮かべる?
「明日来てくれる?」「いいとも」、これでアノ番組を思い浮かべたりはしないかい?
真逆の事例でも、
セメダイン、セロテープ、ウォークマン、等々色々ある。
そんな堅い頭は豆腐にぶつけて来いw
410 :
天才君:2008/10/10(金) 21:24:57 0
天才君は思う。体で考える。人間は全身で考えられるのである。
無意識というものがあるならば、それは、身体感覚もその一つであると
天才君なんかは思うんだ。
411 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 21:58:19 0
412 :
天才君:2008/10/10(金) 22:24:32 0
そうなのです。病院に行けばいいのです。
病院に行けば、解るのです。
体を診察してくれるからです。
体を診察すれば、解る事があります。
それは、カルマ、すなわち業は体に病理として現れるからです。
癌、それは「固定」です。
循環系の病理は、気持ちです。
全ては、一つであり、気持ちは体であり、体は気持ち。
思考も体に現れる。
座禅は鎮める。
体を意識するならば、病院が一番いいのです。
413 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/10/10(金) 22:47:30 0
>>30 >あの人は個室ビデオ屋の受付で夜勤やってると言っていたけど。
誰が、そんな事を言ってたんだ??
やっぱりオマエらの頭の中には、虫でも湧いてるんかね
キタ━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━ ッ ! ! !
2chは、色んな憶測が飛び交うからなw
けど、マジで心配したんだぞ!ヽ(`Д´*)ノ
>>413
哲学から観れば、仏教などは堕落です。
仏教に向き合うその個の態度そのものが哀れです。
作用反作用を念仏で繰り返し延々と時間潰すのならば、
それは怠惰です。
しかし歴史に名を残す哲学者はそんな無力の日々を過ごしていない。
哲学は何をもたらしたか?考えるという以外に進化は実在するのか?
単なる仏法の素読を行うのならば、それはまだ現実を学んでない証拠である。
日常を生きているとは言い難い。
基本的に仏教徒なら坊主なら自分なりの生産的貢献等皆無に等しいのにどうして
社会に寄生するのか?納税の義務すら放棄している宗教がどうして人を救う等と言い出すのか?
起点を「闘争」にすらおけない論理は取りあえず、弱者の精神的救済とも言い難い。
気休めにもならない茶番である。しかし私はそれの害悪については述べない。
ただそういう程度でしかないのだと啓示しているに過ぎないのである。
無理矢理改変ノ巻。
>>413 夜勤なら心配しないのだけど、経営者だとうかがっていたので…
417 :
考える名無しさん:2008/10/10(金) 23:05:33 0
>>416 だな。
これからしばらくは、消防のチェックが厳しくなりそうだw
418 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/10/11(土) 00:22:02 0
>>414 ありがとう
消防署と市役所が来たけど、うちは特に問題ないよ〜
419 :
考える名無しさん:2008/10/11(土) 02:27:39 0
消防署と役所はこれから検査しに行くと電話連絡が入ってから来たの?
それとも突然の抜き打ち検査?
420 :
天才君:2008/10/11(土) 07:03:12 0
>>415 途中までは凄く良かったと思う。
仏教を「宗教」にしてしまったところが残念だ。
天才君談。
哲学は偉くて素晴らしくて、仏教は全然駄目という根拠はどこにあるのかな。
哲学は人間にとって至高の価値を持っているという証拠はあるのかな。
422 :
天才君:2008/10/11(土) 08:04:36 0
天才君は哲学宗教あるいは、その全てが道具でおしまいです。
言葉も人生も、それを執り行う肉体でさえ道具である。
なんの道具か?だれの道具か?という主体探求も愚かです。
但し、全てが無いのだという所まで考え抜けば、そこから
生まれてくるものを在るとみなし。それを有益に活用すれば
よいだけの事だという事で、つまるところ、個々の人間すなわち我々が
どう生きるか?どう考えるか?というものを模索する材料の一つであると
いう結論に帰着すると思います。
ここは何処?私は誰?というものを知って行動しなければ
ならない「な考える」というものを発見発明した人間は、
納得して生きたいのである。
考えなければただ、生きればいいわけで、その自覚さえ芽生えない。
考えるならば、考える起点を押さえて置かなければ、ただ考えているだけの
奴隷である。
天才君談。
423 :
天才君:
全てにはルーツがある。事の成り立ちがある。
ものごとの成長過程を観察せずに、現状こうであるから、
こうであろう…。などという功利主義や順応主義は
社会生活を営む人間の下心としては良しとしても。
それを哲学だなどというならば、それは人生哲学どころか人生規範ではないか。
人生哲学であるその人生を考えれば哲学たりえるが、規範を考えれば、
それは社会評論や批評というものに収まる。批評社会評論のそのルーツは
批評者の人生が絡んでくる。
物事は、ルーツがあり、それが原理原則として機能している。
それを見つけるのが哲学である。いや哲学的思考術である。
つまるところ、哲学と呼んでいるものは、西洋式思考術だと
天才君なんかは思っている。
我々日本人は西洋式思考術一辺倒でもなく、様々な思考術の一つとして傍観できる
立場である。このように日本人の置かれた哲学的環境を思う天才君も在る。