●○● Aquirax: 浅田彰 part49●○●

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468S.S.
斉藤スレにあげようかと思ったけど、なんか場違いな感じなんでこっちにあげてみる。

浅田彰が主催の講演会に斎藤環が出演したよ。テーマは「身体とまなざし」。

1.東浩紀「動ポモ2」の話。
あのなかで自然主義リアリズムとゲーム的リアリズムって話がされてるけど、それって昔からの対立。
プラトンのミメーシス論とアリストテレスのミュトス論。
虚構自体の論理があり、イメージで表せないものがある。

2.ラカン理論の説明。まなざしの話。
マトリックスが想像界、人間を栄養にしてる世界が現実界、ネオが見たソースコードが象徴界。
認識できるのは想像界、言い間違いとかで認識できるのが象徴界、認識できないのが現実界。
唯幻論(岸田)はすべて想像界、唯脳論(茂木、早く返事返せ)はすべて現実界で説明。そのあいだに精神分析。
鏡像理論の説明。虚像のほうがよりリアル、それを介してでないと現実にたどり着けない(ラカンの光学装置)。
ホルバインの骸骨。主体とは欠如(去勢)された存在。
主体として絵に向き合う時は欠如としてしか捉えられない部分が、「斜めから見」れば、骸骨に見える。
あとデューラー、ブルネレスキ、ベラスケスによる視覚分析。

3.身体性の話。精神分析では身体とは女性の身体(拒食、抜毛)。
ベルメール、ピカソ、キャロル、ポニョ、吾妻、村上(とその系列)、エロ漫画その他の例。
これらはすべて少女の身体の変形をテーマにする。
なぜ少女がテーマになるか?
それは少女が身体(客体)とまなざし(主体)の統一(女と自己の自己愛的一体化)した存在だから。
469S.S.:2008/11/12(水) 07:16:53 0
浅田との討論。
浅田:ラカン右派的に言うと、これは退行では?
斎藤:エルオーというロリコンマンガ雑誌がある。断念に満ちている。
これは一つの去勢、成熟といえるのではないか。
浅田:ポストモダン的歴史の宙づりが終わり、現実がむき出しに現われてきたといわれる。
芸術にはどこかで現実界に触れるといえるような体験が必要では?
斎藤:大澤「不可能性の時代」。面白いけどいろいろ疑問。
リストカットの例があったが、あれは現実への逃避ではない。
リストカッターという物語性の高いキャラクターに同一化すろことで緊張を解放する。
そもそも現実とは刺激が強いというより、もっとのっぺりとしたもの。
芸術の可能性としては、「ダークナイト」。ジョーカーには根拠がない。これはハリウッドのトラウマ語りのパロディ。
浅田:しかし村上的戦略は自虐すぎ。またラカン的にはアートとは現実界のまわりにできるものでは?
斎藤:確かに。しかし二次加工からさらっとうまれる無意味さというものがある。
470S.S.:2008/11/12(水) 07:17:29 0
会場からの質問。
質問者1:少年は身体変形の対象とならないのか?それは何故か?
斎藤:精神分析上はならないと答えるしかない。それはペニスがあるから。
質問者2:ダーガー見てきた。他のアウトサイダーアートと比べて突出。なぜ?浅田はダーガー好き?
斎藤:浅田はダーガー嫌いだよ。アウトサイダーアートとか持ち上げるのは反対。搾取。
浅田:精神分析家は精神障害者のアート扱いがち。それでいうと斎藤の新刊は「普通の」アーティストに向き合ってて評価できる。土着的なオタクとか障害者を搾取するのはよくない。
質問者3:オタク的アートは普遍性持つか?
斎藤:持たないんじゃないかな。

あと浅田が熱くやおいを擁護。それらは退行かもしれない、しかしそれが何か?とのこと。