さらに、
>>476ではフーコーとその権力観を意識したわけではないのです。
ただ、フーコーにはご存じの通り「汚名に塗れた人々の生活」があり、
非情に厄介な、その独自の主体観が提示されています。
ドゥルーズを引用してみます(「記号と事件」)。
フーコーにおいては人称的な意味での主体はない。
ただ、誰かが語り、見る行為の密度の中で微粒子として放出され、
そこで消えてゆくものが主体と呼ばれます。
そこではありふれた名もなき人々が、出頭命令、訴訟沙汰等々により
権力に呼び出され公開で尋問される時、「汚名に塗れた人」になるというアイデアです。
つまり、権力との対決を強いられ、何かを語り、みずからの姿を人目にさらすことを
強いられた人間がそれです。(...)汚名に塗れた人とは、光の束と音響の流動にとらえ
られた微粒子のことなのです。と、ドゥルーズは説明し、これは何も汚名には
限らない、名声についても同様に言えるといいます。あれこれについてコメントを
するよう強いられる、と。以上のところ、権力とは、ある人間を呼び出し尋問する力
のことであり、汚名や名声のことではないし、ましてやそれらに関わる人間でもない。
であるので、私としては、
>>476においてフーコーを逆手に取ったなどといわれても
ピンとこなかった、というのが本当のところなのです。