【私】を記述してください【私の存在性】22

このエントリーをはてなブックマークに追加
33素人
前スレ721
> 私がこれまで述べてきた「真理」を希求する誠実性とは、
> 「‘分かっている’というフィーリング」から隔たっている感覚、すなわち、
> 「‘分かっていない’というフィーリング」にあるように思われます。
そうですね。その違いは重要だと思います。

≪‘わかっている’と‘わかっていない’との間に何があるのか?二つを峻別せしめているのは何か?≫ とw
或る事柄(内容)が、主観の中にどう位置付けられている時‘わかっている’のか?
或る事柄(内容)が、主観の中にどう位置付けられている時‘わかっていない’のか?

(ちなみに「真理を求めること、とは‘わかっている’状態になること」でしょうし、
 「誠実性、とは、‘わかっている’状態でなければならない、という義務感」なのでしょうが
 今はどうでもいいですw)

いみじくも、前スレ683に於いて
> そこで、「真理」という用語は文化的に異なる使い方をされるので置いといて
> 「希求する」という語に着目したいと思います
> この語はどういう使い方をされるでしょうか?
> 一般に「持ってない人」から「持っている人」になる変化を表現する時に使われます
> このことは、「真理」が所有されてない状態、「真理」が所有されている状態、
> に明確な区別がつくことを前提にしていませんか?
> この区別は、「主観」「客観」の区別で表現されるものと同じではないでしょうか?
> あなたの「誠実さ」の定義は客観的な理念の存在を前提にしていませんか?

≪このことは、「真理」が所有されてない状態、「真理」が所有されている状態、
 に明確な区別がつくことを前提にしていませんか?≫

という指摘があるように、分別されること(分別されていること)が大前提となります。
果たして、≪どのような時が「真理が所有されている状態」で、
 どのような時が「真理が所有されていない状態」なのでしょう?≫
341/2 素人:2008/09/06(土) 13:59:50 0
さてここで、ティーブレイクをするかの如く、少し目先を変えてみよう。

“一目惚れ”という言葉があるように、「惚れるのに理由はいらない」「一目惚れに理由なんてない」、
などと言われますが、私はそうは思いません。日常(会話)レベルであればそれで構いませんが、
それは、多くの要素、多くの理由を捨象している(≒視野に入っていない)時に初めて成立する言辞です。
たとえその捨象に本人が気付いていなくとも・・・。
「理由なんていらないんだよ」というのは、(最高位氏風に言えばw)日常ではそれでいいが“厳密に見ると”違う。
理由が無いわけはない。彼が(彼女が)相手に魅かれた時というのは、
相手の何かが、自分の内の(主観の内の)何かに引っかかるからだ。
「直観」などと言われる時も、理由無き(承認・受け入れ)(→この例では惚れること)はありえない(と思う)。
「直観」などと言われる時のように理由が無いと思われる時も、或いは「ピンと来る」と言われるような時も、
相手が外に発している(相手から外に溢れている或いは相手を取り巻いている)情報の一つ或いは幾つかが、
主観の(うちの)何かと合致したから、或いは主観の(うちの)何かを刺激したから生じた事態(心的状態)と見るべきではないか。
この時、入力のあった情報の合致先である何か、刺激された何か、は何であろうか・・・、どういうものであろうか・・・?
(しかし、この辺りは数学関係者から大きな異論がでそうだ・・・w)
352/2 素人:2008/09/06(土) 14:00:43 0
この時の≪合致する≫ということが、
≪前スレ683の>「真理」が所有されている状態≫と
≪前スレ721の>「‘分かっている’というフィーリング」(‘分かっている’という感覚)≫とシンクロするのだろうと思う。

そして、≪前スレ721>「真理」は主体とどのように関わるでしょうか?≫ という問いは、
≪『或る事象(或る意味内容)が、主体の中に安置される』時、
  『なぜ、それは安置可能なのか』≫という問いへ変換可能であり、
≪主体(主観)の中の「何か」との合致が、“真理として”受け入れられること≫ とするならば、
このことにより、「真理とは何か?」という定義をすることなく(少なくとも“内容の吟味をすることなく”)考察が可能となりそうだ。



余談:琴線に触れる、反射的に好きになる、という繋がりで余談を述べるなら、
    身体に於ける不随意反射的なことが、意識内でも起こっているだろう、と・・・。