資本とネーションと、時々、国家 11

このエントリーをはてなブックマークに追加
248伏蔵 ◆p1AdJ397o.
■<環境-調和図式>はじめました。

<疎外>−<規律訓練権力>−<生権力>−<物象化>

かつてから環境と人の関係を考慮したわかりやすい図式が必要だと考
えていました。それで、環境ー調和図式を考案ししてみました。横軸は環
境で人間が重視されているか、縦軸は環境が人間と調和しているか、を
表します。4つの領域をマルクスの用語から<疎外>と<物象化>、フー
コーの用語から<規律訓練権力>と<生権力>と呼びます。わかりやすく、
人が交通する環境を例に考えみましょう。

f:id:pikarrr:20080808002651j:image

@<疎外>領域
交通環境でいえば道がない状況です。そこでは人は歩けるところをさが
して歩いて行かなければなりません。環境から<疎外>されている状況と
いえます。

<疎外>の領域は、先に環境があり、強制的に人がはめ込まれていく状
況です。そこには環境と人間の調和はありません。すなわち強制的な場です。

A<規律訓練権力>領域
交通環境でいえば道がある状況です。道を使用するにはルールがあり
ます。どの部分が通行するべきで、右側通行などどのように通行すべき
か。人はそれを学び、その後習慣化によって当たり前のようになります。

<規律訓練権力>の領域もまた先に環境があり、人がはめ込まれるわけ
ですが、人は訓練することによって習慣化し、環境と人は調和します。
ただ習慣化するためには多くの反復が必要であり、時間がかかります。
その極限に生物界の自然淘汰があります。生物は環境とアフォーダン
スとして調和します。このような調和は、人においてはマルクスの言った
類的存在としての充足にあると言えます。
249伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/08(金) 16:35:15 0
B<生権力>領域
交通環境でいえば高速道路や電車などの高度に管理された状況です。
規律が省略され、訓練なく、速やかに交通できるように環境管理が進め
られています。

<生権力>の領域では、環境は人に合わせて作られます。そのために人
が環境と調和するための訓練が最小限ですみます。これによって習慣
化するための時間が短縮され、速やかに充足します。これは高度な「環
境管理技術」によって達成されます。これは、動物化的な充足と言えます。

C<物象化>領域
交通環境でいえばレース場やジェットコースターなど。効率的に交通す
ることが目的とされません。あえて交通を困難にすることを楽しむような
状況です。

<物象化>の領域でも、環境は人に合わせて作られますが、環境と人の
調和が目指されません。その不調和に人は感染(欲望)します。感染は
習慣のように時間をかけて環境に調和するのではなく、一瞬で欲望して
しまうのです。その場になれていくのではなく、一瞬で気に入ってしまうと
いうことです。このような一瞬の感染はまた他に感染することが起きや
すい、すなわち短期間で次々と環境をかえ、感染を繰り返す。たとえば
消費社会で次々に商品を買い換えることに特徴的です。破れたり汚れ
たりという洋服そのものの機能が損なわれたわけではないが、次々と買
い換える。むしろ環境に充足して(馴染んで)しまうことで飽きてしまう。
たえず不調和を求めるのです。これはあえて不調和を求めるということ
でスノビズム的な充足と言えるかもしれません。
250伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/08(金) 16:35:53 0
高速化する資本主義社会

f:id:pikarrr:20080808002651j:image

<疎外>→<規律訓練権力>→<生権力>→<物象化>において、人が環境
と調和するための時間の短縮=高速化を見ることができます。<疎外>
では人と環境は調和しませんが、<規律訓練権力>によって時間をかけ
て習慣化するで環境と調和します。さらに<生権力>では高度な環境管
理技術によって前もって環境を配置することで、短期間で習慣化しま
す。さらに<物象化>ではもはや習慣化は目指されず、一瞬で感染しま
す。この図式は近代化における環境の変遷であり、資本主義システム
の発展に対応しています。

資本主義の発展の初期では、生産環境は人への配慮なく導入され、人
は<疎外>された。生産性を向上させるためには、<規律訓練権力>に
よって環境と調和した質の良い労働力が求められた。

資本主義が高度化する中で、環境管理技術が発展し、環境は人に配慮
され設計される。このような<生権力>によって労力は増幅されて大きな
生産性を生み出す。また生産の効率化とともに、多様な商品が生み出
されることで環境との充足は絶えず乱され、欲望が活性化されることで
消費が促進される。ここで<生権力>と<物象化>は相補的に消費型資本
主義を活性化する。
251伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/08(金) 16:37:07 0
<環境−調和図式は合理論と経験論の共通の地平を用意する>

なぜこの環境−調和図式が必要なのか。思想史を貫く合理論と経験論
の対立は環境という基盤により同じ地平に立てるのではないか。

環境−調和図式でいえば、経験論は<規律訓練>の位置にあり、合理論
=観念論は<物象化>の位置にある。経験論が<規律訓練>の位置にあ
るのは分かりやすいだろう。環境と人(認識)の距離は反復(訓練)によ
り近接する。

合理論=観念論が<物象化>の位置にあるというのは、一見はわかりに
くいかもしれない。環境(世界)を合理的に理解しようとするとき、必ず不
可能性としての皺寄せが生じる。それを形而上学的に一点に集めること
で合理論は成立する。これをカントは「物自体」と呼んだ。それは一つの
不調和である。

これをより明らかにしたのが構造主義である。レヴィ=ストロースは合理
的な世界をつり上げる不可能性の点をゼロ記号と呼んだ。ラカンはそれ
を象徴界の穴=現実界と呼び、この裂け目が欲望を想起することを示
した。これはマルクスでいえば、商品への物神性(フェティシム)である。

経験論とは環境を受け入れ順応しようという姿勢であるのに対して、合
理論は環境を支配しょうとする姿勢であると言える。しかし支配するが
不可能である故に、そこに支配欲という過剰性が生まれる。環境に順応
しようとする経験論は、<規律訓練>から<生権力>へ向かう。しかしそれ
が合理論的な支配を目指したとき、<生権力>から<物象化>への形而上
学(否定神学)的な転倒が起こる。

技術とは経験論であり、<規律訓練>であるが、構築的な科学理論として
<生権力>を向かうとき、過剰は支配欲は形而上学的な<物象化>へ転倒する。