1 :
考える名無しさん:
●儒家ーーー孔子・荀子・孟子など
四書六経(『大学』『中庸』『論語』『孟子』『詩経』『書経』『礼経』『楽経』『易経』『春秋経』)
仁義礼智信
●法家ーーー韓非・商鞅・李斯・管仲など
『韓非子』『管子』
法による統治
●道家ーーー老子・荘子
『老子道徳経』『荘子』
「道」
●墨家ーーー墨子など
『墨子』
兼愛交利
●陰陽家ーーー騶衍など
木・火・土・金・水、陰陽五行説
●名家ーーー公孫龍・恵施など
「白馬非馬説」
詭弁と論理学
●平家ーーー孫武・孫臏・呉起・尉繚など
『孫子』『孫臏兵法』『呉子』『尉繚子』
兵法書
●縦横家ーーー蘇秦・張儀
連衡策、外交の策士家。
●雑家ーーー劉安・呂不韋
『淮南子』『呂氏春秋』
儒家、道家、法家、墨家など諸家の説を取捨、総合、参酌
●農家ーーー許行
重農主義
2 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 10:46:28 0
少なくとも孔孟老荘はおさえておきたいね。
大道廢、有仁義。
智慧出、有大僞。
六親不和、有孝慈。
國家昏亂、有貞臣。
4 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 11:05:05 0
仁義がなくなったから大道がすたれた。そして仁義がまた現れた。
貞臣がいないから国家が混乱した。そして貞臣がまたあらわれた。
5 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 12:11:18 O
韓非が一番良い。
良い入門書ってある?
7 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 12:55:17 0
良スレ廃れて良レスあり。
という糞レス
9 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 13:42:38 0
文武両道って
文王と武王から来てたらしいがホントかよ?
10 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 14:48:41 0
人の己を知らざるを患えず、
人を知らざるを患えよ。
孔子
11 :
考える名無しさん:2008/08/07(木) 18:29:20 0
保守
12 :
考える名無しさん:2008/08/25(月) 10:15:34 0
北京五輪はry
14 :
考える名無しさん:2008/08/29(金) 04:59:20 O
朱子の思弁性、陽明の実践性は
例えるなら東洋のヘーゲル、マルクスといったところか。
™
16 :
考える名無しさん:2008/12/18(木) 12:45:28 0
貝原益軒の『養生訓』が素晴らしすぎる。
何この伸びなさ?
やっばりもっぱら社会的関心が強い中国思想は、
哲学としては弱いと感じられるのかね?
荘子スレが以前あったよね
いい入門書ってないの?
徳間文庫から中国の思想シリーズのいくつかが1000円で焼き直されてる
21 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 18:46:01 0
クンニ臭きに近寄らず
あげ
荘子と老子がすごくおもしろかったです
パスカルとかニーチェとか、荘周の前ではザコだったんですね
好きだぁぁぁあ
韓非子読んだ 戦国策読んだ
孫子読んだ 呉子読んだ
六韜読んだ 三略読んだ
論語読んだ 孟子読んだ
けど墨子は読む気にならない
東洋文庫版「墨子」と、ドストエフスキーの「白痴」あたりを読み比べて
博愛と隣人愛とは具体的にどう違うかのレポよろ。
ちなみに、仁愛と博愛の違いは「孟子」に書いてありましたな。
自分の家族こそを思いやるのが仁愛、そうでないのが博愛だってな。
万物を思いやりつつも、身分のわきまえも仁者ならば欠かさないとな。
27 :
考える名無しさん:2009/08/30(日) 21:06:15 0
長文失礼します。スレ違いでしたらすみません。
日ごろ疑問に思っていたことを質問させてください。
『中国において「調和」とはどんな意味を持つ言葉なのでしょうか』
中国における「調和」の思想的な意義について学びたいです。
どのような資料や学び方があるのでしょうか。
以下質問した背景です。
中国の首脳や学術研究者は「調和」という言葉をよく用いると思います。
次のような例があります。
・2007年に北京で「中国の平和的発展と調和世界」という国際シンポジウムが開催された。
・北京オリンピックの聖火リレーが「和諧之旅(調和の旅)」と位置付けられていた。
日本ですと「調和」はそれほどまでには強調されないキーワードだと思います。
しかし上記のような例をみると「調和」という思想は中国人の考え方に大きな影響を与えているように感じるのです。
日本語にも存在するこの言葉がなぜ中国で特別に大きな意味を持っているのか疑問に思った次第です。
28 :
考える名無しさん:2009/08/31(月) 11:21:35 0
>>27 中国は昔から中国だったわけじゃないからでは?
紀元前の昔から小国が分立しては統一され、また分断されてバラバラになって統一されてまた分断・・・
だから「調和」が強調されるんじゃないか。日本でも「和」は大切にされるからね。
29 :
グイッ:2009/08/31(月) 16:32:05 O
よーめーがく
それって、「東西文明の融和」みたいな題目を唱えると文科省の予算がもらいやすい、日本の事情と一緒では?
紫禁城の正殿も「太和殿」っていうんだぜ。点を抜くだけで「大和殿」だぜ。
天安門事件の惨たらしさとは偉い違い。
やっぱり今の中国人がダメなだけで、偉い人間も昔はいたんだろうて。
朱に交われば赤となるように、悪いものに交わらされて悪くなった。
早く共産主義の看板も下ろしてもらいたいもんだ。
共産主義性悪説もなんか飽きたよな
共産党にとって調和は「現体制を批判せず風になびけ」というくらいでしかない
もっとも最近は調和社会を標榜した胡錦濤があまり目立ってない
「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」
(論語・子路第十三・二三)
共産主義こそは、雷同して調和しない小人の所業の最たるものだろうて。
批林批孔運動で、子供が孔子の人形をおもちゃの銃で撃ってたって、
司馬遼太郎がレポートしてたな。往年の栄華への回帰の道はまだ遠い。
荀子は儒教と見なすべきか?
道教の教科書にもなってるね
管子は戦争にも触れてる
基本的なことをさらっと述べてるだけだが考え方はバランス重視で孫子に近い
儒教が出来た頃の御用学者どもの目には、孟子こそ異端の儒家に見えただろう
だからって荀子や陽明学が正統の儒学とはならず、やっぱり孟子や朱子学が儒学の正統となった。
王道主体の権力機構の御用学とまでなるにはそれなりの存在意義がある。
孟子は徳治主義を唱えただけでない
論敵相手に詭弁も辞さなかった激烈な戦国思想家
宋代にやっと光が当たったが、理気二元論などという
わけのわからんものを貼り付けられたことは孟子の本意ではない
儒家はあくまで軍政を避け、文治を目的とする。
「論語」や「左伝」にも、孔子が兵法を全く学んでいないことを告白するくだりがある。
孟子の易姓革命論もそれと同じように、君主が自ら不義を恥じて他者に王位を譲る「禅譲」が、
不義のままにいつまでも王位を譲ろうとしない暴君を実力で討ち滅ぼす「放伐」よりも優位とする。
武もあるが、あくまで文のほうが上であるべきだとする考えが孟子にも一貫していて、
だから未だ王位の奪い合いが横行していた戦国時代に、孟子の願いは叶わなかった。
孔子もそれほど政治家として雄飛したわけではなく、単一の思想としての温厚さが
兵法や武士道などによって援護された時にこそ、その本領を発揮してきた歴史がある。
理気二元論は、「理」を「道」と置き換え、「気」を「器」と置き換えると分かりやすい。
形而上の存在である道、形而下の存在である器、「易経」繋辞上伝にすでにそのような下りがある。
孟子だけでなく、古典的儒学を総合的かつ比較文化学的に捉え直したのが宋学であるのみ。
43 :
考える名無しさん:2009/11/02(月) 00:59:54 0
中国思想の発展の遅さは天下一品。
孔孟が旧儒学を大成させて、程朱が新儒学を生むまでに、ゆうに1500年。
次の本格的な発展が期待されるのは、西暦2700年ごろ。
>>43 「厚黒であれば成功し、不厚不黒の者は失敗する」って、
そりゃそうだけどよ
そういう現状に対して、何とかしようとして頭をひねってきたのが儒教だろうな
逆に考えれば、儒教が解決しようとした問題をすべて現状追認すれば厚黒学を読まずとも、
成功者になれそうだなというわけで、儒教の経典や、史書は読まれるべきかもな
宦官の気持ち悪さは異常。割礼のユダヤも真っ青。
>>45 実際はむしろ逆で、現状追認に終始する儒者がもたらす停滞に
痺れを切らして何とか中国を救おうとして考えたことみたいだよ。
日本では儒者が自然科学を学びアメリカでは詩人が論語を読む同時代に
本家本元の中国がどうにもならないんじゃなりふり構わなくもなるわな。
儒学が儒学だけで成功したことなんて、ほとんどないわけだ。
日本の朝廷や幕府も、仏教や武道、あるいは「六韜」に書いてあるような策謀などと共に、
平和な文治を司る純粋思想としての儒学を重んじて、それでやっと統治を成功させた。
戦乱状態での勝ち負けではなく、泰平期の堅実な統治のあり方こそを主体的に論じている。
文武両道の「文」であって、「武」はまた別にある。それなのに文の担当としての
儒学までもが厚かましく腹黒くなったのでは、もはや泰平を望むべくもない。
儒学だけでは殺伐とした現実に対応しきれないのも確かな一方で、
「異端を攻むるは斯れ害のみ(論語・為政第二・一六)」というのもまた正しい。
自他を害する諸刃の剣としての武とはまた別物の真っ当な文。それが儒学に与えられた本分。
手段はなんでもいい。兵力でも仏教でも、それこそ厚黒学でもいいから、
その手段によって実現させんとする目的が、儒学に基づく泰平統治であるわけ。
理想とはいえ、現実化が可能なレベルの理想。
少なくとも「人類総家畜化計画」などよりはよっぽどマシなもの。
手段はともかく、目的までもが陰惨でしかないものに将来はない。
李宗吾が主張しているのも要は手段を選んでいる場合じゃない、
ということで目的は弱小民族の団結や世界平和だよ。
私益ではなく公益のために厚かましく腹黒くなるのでなければ
どうしようもないとしているし、聖賢の理想をけなしたりはしていない。
科挙に通るくらい四書五経を読み込んで教育者をやってたくらいだから
よく読むと実はあまりおそろしいことは言ってないっていう。
表現がどぎついのはまず印象を強めたかったんじゃないかなあ。
そのせいでだいぶ誤読を招いていると思うけど。
儒教の最大の欠点は、実効性があるのかということだろうな
教えの内容がよくても(異論はあるだろうが)、
その方法論が決定的に間違っているんだろうな
結果的に、正直者が馬鹿を見る社会が出来上がる
社会的地位の高い人に対して、自らを省み、
その気持ちを目下のものに及ぼせといわれても、
ライオンに草食動物になれというようなものだからな
羊を愛することはできても、食用としてしか愛しようがない
とにかくなんでもいいから勝てればいい、
ズルでも大人の事情でもなんでも動員した総力戦であれば、
厚黒は上から二番目の強さにあたる。
ABC兵器や最新の諜報戦術にも勝てる一方、
総力戦においてはあくまで上から二番目の強さにとどまる。
一番強いのはハンスト。ガンジーお得意の。
何もしていない相手を責め立てることは、
責め立ててる側が自らの害為によって自業自得で負けていくから、
毒を以って毒を制す厚黒以上にも最強であるといえる。
ただ、厚黒やハンストにまで手を出して勝つことに意味があるのかといえば、
それは全く場合による。人類家畜化計画が目的であるんなら、
厚黒やハンストにまで手を出して勝つことにはもはや何の意味もないが、
儒学や仏教の提示するような、現実的理想に根ざした世の中の実現のためであれば、
たとえ厚黒やハンストが手段であろうとも意味を成すといえる。
史実上では、李宗吾やガンジーが提唱した厚黒学やハンストは、
共産国やカースト国の実現にとどまり、決して手段を選ばなかったに相応の
目的の実現であるとはいえない。漢代や唐代における儒学に根ざした中国の仁政や、
仏教文化花開いた約2000年前のインドなどが取り返されたのならともかく、
決して最後の手段にまで手を付けた割りの結果として十分であったとはいえない。
中国も明代における専制や、元代や清代での異民族からの征服などによって
儒学の最盛期における華々しさからは遠くかけ離れているし、
インドからも仏教が消滅してもはや久しい。中国人やインド人自身、
自分たちが生み出した最高の文化文明を忘れ去ってしまって長い時間が経っている。
平安期や鎌倉期まで仏教文化を発達させ続け、江戸期まで幕府による
儒家統治を実現させていた日本のほうがまだ、儒学や仏教を身近に感じられるだろう。
儒学を現実に実効させるためにも、それなりの工夫を必要とする。
支配層には常時よく斬れる刀を二本携帯させて、不手際でもあろうものなら
自他に関わらずそれで斬り殺すぐらいの、道徳堅持への覚悟が必要となる。
支配者と被支配者の関係が緊密となり、食う者と食われる物なんていう
緩慢さが全廃される。そのせいで余計に統治者としての緊張感を強いられる。
常時君子としての重圧に耐え続ける、強い精神力の持ち主のみが支配者で
い続けられる。家系から武士が純粋培養されていたのも飾りではない。
そこまでして儒家統治に臨もうとする理由があるとすれば、
それが真の正義であるが故に心地よいからということがいえる。
被支配者を家畜や奴隷としてしか扱わない悪に染まった社会と比べて、
誰しもが人間らしさを謳歌する、浩然の気に満ちた優良な社会となるから。
なぁ〜にがライオンなんだか。
実際は、いつ自分たちの罪状が露呈するかと怯え切ってる小ウサギなくせして。
そういう小人故のうしろめたさやせせこましさが心底嫌だからこそ、
儒学や仏教に司られた高潔な世の中を取り戻そうとも考えるわけだが。
「君子は下流に居ることを悪む。天下の悪皆な焉れに帰す」
(「論語」子張第十九・二〇より)
もちろん資本的な上流下流の話ではなく、道義的な上流下流の話。
酒池肉林の生活を続けた挙句に焼身自殺した殷紂を評しての言。
57 :
考える名無しさん:2009/11/07(土) 18:22:25 O
結局、儒教は政治家か教育者になるのでもなければあまり意味のない教えのような気もしなくもない
修身斉家治国平天下って言うから案外個人向けだと思う
その通り。
上流でも下流でも、君子でも小人でも救われる道の敷設は
浄土教を含む仏教まで持ち越される。それ以前の、
仏教が十分に流布できる下ごしらえとしてあるのが儒学。
上流の君子であるような、支配者であるにはあるなりに誠実である支配者があって、
初めて支配者と被治者の差を埋め合わせる仏教の本領も発揮されてくる。
人間は支配したりされたりがないとやっていけない動物であることを見越した上で、
それを超克した向こう側にある完全平等の境地を目指す。
んならば支配関係が陰惨であるのは、わざわざ完全平等の境地から遠ざかる行為であり、
支配関係であるなりには温厚であるのが、完全平等の境地に至るための善後策であるといえる。
支配被支配があるんなら、その限りにおいて最善を尽くすべきで、
その後に支配被支配を超えた絶対平等の境地がある。
手順を省いてまでできることなど、たかが知れてる。
なんか熱いな。仏教関係者の人?
仏教自体は面白いんだからやる気のある坊さんが増えるといいな
中国思想との関係で特に重要なのは慧能なんかか
陽明学なんて禅にそっくりだし
何もしないで厚黒でいる無敵さ
何かをし続けてピューリタンでいる敵の多さ
>>59 空海の『三教指帰』みたいな?
禅の悟った人も何もしない聖人君子みたいなもんだよな
仏教も儒教も知らなくてもずるもしながら普通に働いている人のが
よほど世の中のためになっているという皮肉
荘子の木鶏が面白いね
破滅に向かう世の中のためになるぐらいなら、ならないほうがいいね。
「無為にして尊き者は天道なり。有為にして塁わしき者は人道なり」
「何もしないでいて尊い働きをするのが天道であり、何をしたって
ただ煩わしい煩雑さだけを招くのが、人間の営みの全てである」
(「荘子」外篇・在宥より)
老荘はものぐさには都合のいい考え方だよな。
本当にそう思うんなら半端に自己主張なんてしてないで
とっとと山奥にでもこもって黙って静かに死んどけよとも思うが、
何となく魅かれてついつい読んでしまうな。
中国の役人も仕事では儒教に、私生活では道教に親しんでたっていうしな。
人間の積極的な営みが完全に無駄だとする道家の考えは、儒家にとっては極論に過ぎる。
社会上の営みであっても、善行なら積極的になすべきだとするのが儒家の考え。
悪いことをするぐらいなら何もしないが、善いことをするに越したことはない。
半分隠遁的で、半分社会的。ただ東洋においては最も社会的な部類の思想。
悪いことでも善悪みそくそでもやりまくる洋学と比べれば、消極的だといえる。
山岡荘八の「徳川家康」が中国でも翻訳されベストセラーだって。
日本の大厚黒柱は、厚黒の本場でも通用しましたようで。
>>68 当時の人にとっては、律義者で通っていたようだから、劉備みたいな所もあるし、
まさしく狸親父だから、曹操の腹黒さも備えているわけだな
劉備の厚顔、曹操の腹黒を併せ持った厚黒教最強のカミだな
まさしく神君と呼ばれるにふさわしい
厚黒であって、しかも悪なんじゃもはやどうしようもないわけだ。
手段として最低なのが厚黒で、しかも目的も悪であるんじゃ、まさに最低最悪となる。
手段が厚黒であっても、本当は善である時に、手段も厚黒で目的も悪であるものに対する必勝策となり、
しかも虚構による飾り気のない純善ともなり、以て最高最良となる。朱子のいう「陰極まって陽と成す」ってやつ。
厚黒を手段として標榜できる、厚黒が堂に入っているような人間ってのは、もはや善人でしかあり得ない。
たとえ本当の所は厚黒であろうとも、悪人である以上は厚黒であることを隠さざるを得ない。
表向きだけでも善人ぶっておかないことには、手段も目的も最低最悪なゴミと化してしまう。
だから見え見えの偽善であっても、表向きのリップサービスとして適当に愛想を振り撒いておく。
そんな人間が、堂々と厚黒である善人なんかと対峙したりしたなら、一発でぶち壊れる。
見た感じは善い人っぽいのに内面は悪である者が、見た感じ悪であるのに内面は善である者に
完膚なきまで叩き伏せられ、二度と立ち直れなくなり、後はもう病院暮らしでもするしかなくなってしまう。
だから何とかして偽善者たちは、堂々と厚黒である者を遠ざけようとするし、やもすれば殺そうともする。
内面に致命的な罪悪を抱えた偽善の王国が、本物の善人に打ち滅ぼされるのを恐れて逃げまくる。
とはいえ厚黒家は今の地球上に15億人以上いる、中国人などとして。偽善者全員よりも多いぐらい。
いつ堰を切って破綻するとも知れない、危うい状態にずっと置かれている今の世の中。
順序的には偽善者が先で厚黒家が後。責任があるのはあくまで偽善者。責任逃れも厚黒の内。
ただの善人は偽善者に負けやすいが、厚黒家でもある善人ともなれば偽善者に勝ててしまう。
善悪陰陽の調和を重んずる、中国に特有の叡知。完全善であるままに勝ってしまうインドもまた凄いが。
別に論争などの形で戦わなくたって、厚黒家である善人と偽善者である悪人が交われば、
自然と表面上の厚黒が悪人のほうにも伝染って、内外共に最低最悪と化して自滅してまうわけだ。
人間ってのは、外面は取り繕いやすくても、内面はなかなか変えられない生き物だから。
厚黒家である善人のほうは、内面が劣悪化させられずに済む一方で、外面はすぐにでもよくなれる。
でも偽善者である悪人は、内面もなかなか改善されにくくて、外面もすぐに劣化してしまう。
どちらかといえば、偽善者である悪人のほうが遥かに儚く脆い。面の皮も薄く、腹も白いから。
外面の取り繕いによって生きてきたからこそ悪人でもいられた。悪はそれだけだと実はとても弱い。
善であるということは本質的に強く、悪であるということは本質的に弱いということだから。
外面での競い合いを捨てて厚黒となっている善人に、本質の部分だけでの勝負を挑まれれば
あっという間にご臨終。どんなに外面だけでの強大さを装っても、もはや善人の側はその部分で
勝負してないから。外面はもう完全に厚黒でよしとしまってるから。さもなくば万年ストライキか。
72 :
考える名無しさん:2009/11/11(水) 01:02:58 0
「聖賢は厚黒“でも”ある」という事実の提示ではあったろう。
聖賢なんだから厚黒であるはずがない、イノセントでピュアピュアに違いないというような
先入観に基づいた固定観念が定着してしまっていたのを、
あたかも「厚黒で“こそ”あった」というような、暴露的な触れ回りによって刷新した。
本当はそこまではいかない。
聖賢は厚黒でもあった。ただ出処進退自由自在な中で、
一つの選択肢として厚黒であることもあったというのが本当の所。
「厚黒であることこそは聖賢への近道だ」とでも言わん限りの
近現代の中国の風潮は、明らかに中庸を欠いた行き過ぎの有り様だといえる。
それじゃあ金だけ持ってる小人行き止まり。「小人は中庸に反する(大学・二)」
思いて学ばざれば則ち殆うし。
>>73 儒教というものが、それが目指しているものは別として、
小人が出世しやすく、君子にとって嫌気がさす社会しか作れないんだから、
みんな厚黒になって、平等な条件でスタートした方が、
少しでも、まともな人間が上に立つ時代が来るかもしれん
儒教というのは一種の麻薬だよな
破滅に至るとわかっていても、忠仁孝慈をやりたがる奴が出てくる
で、結果は、身の破滅と、小人が栄えるという構図のパターンなんだな
小人が天下を取るために、うわべだけは立派な道徳で人々を縛り付けることで、
立派な人間を破滅に追いやるというのが隠れた意図だったのではないかとも思える
なに言ってんだ?
まるで「空気を吸ってると病気になる」「水には致死作用がある」とでも言わんばかりの主張。
毛沢東あたりを儒者だとでも勘違いしてるんだろうか? 意味が分からん。
77 :
考える名無しさん:2009/11/14(土) 11:37:07 0
>>75 >儒教というのは一種の麻薬だよな
>破滅に至るとわかっていても、忠仁孝慈をやりたがる奴が出てくる
>で、結果は、身の破滅と、小人が栄えるという構図のパターンなんだな
>小人が天下を取るために、うわべだけは立派な道徳で人々を縛り付けることで、
>立派な人間を破滅に追いやるというのが隠れた意図だったのではないかとも思える
まるでニーチェとマルクスを混ぜたような考えだな。
マルクスの宗教はアヘンである、というのと
ニーチェのキリスト教に対する批判的考えをそのまま儒教に適用したな?
中国共産党の方ですか?
だいたいあってるじゃん
日本みたいに「万世一系」じゃないんだから
儒教道徳からかけ離れたり、相反したりした場合の事例だが?
>>75の言ってることは。
忠仁孝慈をたしなんだ時にではなく、かなぐり捨てた時にこそ破滅してるわけだが。
福音書やヨハネ黙示録に書いてあるような、親子兄弟同士でまでの殺し合いが勃発している時にこそ、
ありのままに破滅の様相を呈しているわけだが。最悪の「不孝」でもある。
>67
簡単にできる作業を無駄に複雑化し
いかにも重労働しましたと見せびらかす連中が多い
人に特有の現象だって書いてあるんだろ?
労働が貢献でなく苦労で量られる限り、この現象は続くだろうな
天道に従った社会活動が、結局は善行にもなるんだと思う。
逆に天道に反してまで自分勝手に振る舞うことが悪行にも。
人間の間接には曲がる方向と曲がらない方向があり、
無理のない正しい動きだけを洗練さすのが礼儀になったりする。
でも、CAD上の人物像などであればおかしな方向に動かしたりすることもできる。
そのような理論的拡張の行き過ぎによって現実の礼儀を失うんなら、しないほうがよい。
だから、礼儀を守っていくことが善行になり、礼儀に反することが悪行にもなる。
一つ一つの間接の動きから、人間は天道に従ったり反したりすることができるわけで。
×間接
○関節
孔孟系は、軽々しく天を名乗る事が多いな
手の届かぬ高さにあればこそ、天は貴いのだろう?
自分と同じ高さまで引きずり下ろされた天を見上げるという行為が
どれだけ不自然な姿勢を要求すると思う?
自然な動きであるはずの礼を、身体を歪めねば習得できぬ現状
人間の身体に関する致命的な設計ミス
人間は、自然に、天に見捨てられたらしい
たとえば、今の自動車のカーシートってのは、わざわざ腰痛になりやすいような形状に設計されている。
そのほうが乗り心地がよくて売れるから、わざわざ人間の骨格を歪めるような形へと持っていっている。
決して天が人を見捨てたのではなく、人のほうが私利私欲のために天道に背いてしまっているだけだ。
人の側が天道に沿おうと努めたならば、些細な所からでも天はその努力に応えてくれるものだ。
努めようとせず、さらに反しようとすらする場合に限って、阿弥陀様でもない限りは救えない破滅へと進む。
しかも五逆や誹謗正法にまで手を出して、その阿弥陀様の救いすらもかなぐり捨てようとする、
徹頭徹尾救済から逃げ続けてるのが現代人。必要もなくわざわざあえて好き好んで、救われずにいる。
礼というものは昔は様々な儀式の手順に過ぎなかったが
卑しい葬儀屋が私利私欲のために日常生活にまで押し付けたもの
「身分の差を示すのに役立つよ」と説く事で
異なる身分が出会うあらゆる場面に礼が顔を出す
その度に作業は停滞し、葬儀屋は仕事が増える
だが、その葬儀屋も、礼を知っていたとは言い難く
インテリ大工に何度となく誤りを指摘されていたな
礼に適った起居動作をしていると、健康に長生きできる。
最初はかなりの矯正が必要でも、正しい礼法の通りに動けるようになると、
身体全体の負担が軽くなるので、80歳を過ぎても颯爽と動けたりする。
座り心地ばかりよくて骨格を歪める椅子やカーシートばかりに座ってると、
背骨も曲がって足腰も弱り、高齢になって一気にガタが出始めるようになる。
礼にも正しい礼と間違った礼があり、正しい礼は人間の厚生を助け、
誤った礼はかえって無理を来たす。プロシア流軍紀が元の胸張った直立などは
かえって関節のクッションを蔑ろにした無理のある姿勢であり、宮本武蔵の
肖像画のような、中腰で前屈み気味の姿勢のほうが、より人間の動きに
適った姿勢であると甲野善紀氏も言っていた。
武道などにも応用されている本物の礼法は、今の世の中では相当に
誤解されている所もあり、規矩準縄(孟子)まで遡れる礼儀の存在意義が
人口に膾炙しているとは到底言い難い。インテリ大工あたりが隠蔽してるから。
今から十五年ぐらい前、巷で他人の膝裏をこっそり突いて腰をガクッと落とさせる、いわゆる「膝カックン」が流行って、
ビートたけしか何かのテレビ番組で、色んな相手に膝カックンを試みる企画があった。
日本人だと、カックンされると「しまった!」と、慌てふためいて照れ笑いするんだが、
白人の外人にやると本気で怒り始めんだ。
>>86で書いてる通り、胸張った直立ではなく、若干中腰の前屈みで予め腰を落としておくのが、正しい礼法に基づく立ち方であり、
この立ち方でいれば膝カックンをされてもガクッと腰が落ちることはない。
日本人だと習ってなくても何となくそうであることを覚えているから、
正しい礼法の薄れた現代に染まってしまってることを恥じらう本能が働く。
でも、外人だとそんな正しい礼法は始めから知らず、胸張って直立してるのが当たり前だと思い込んでるから、
膝カックンをやられるのは全くの心外だと、ただやった奴にだけ落ち度があるという判断しかできないわけだ。
日本に非礼を持ち込んだのが誰だか、自ずと判明したものだった。
今の世の中ってのは、非礼や無礼によってこそ肥大化してしまってるんだ。
正しい立ち方も座り方も歩き方もやめさせて、骨格が歪む代わりに座り心地のいい
シートを取り付けた車を買わせる。正しい姿勢も何もできてない人間を
濃密な人間関係から隔離してあげるために、高層ビルなどの巨大建造物も作る。
そうやってインテリヤクザ大工あたりも儲かっていく。礼儀の切り崩しによって
物質的金銭的に肥大化していってしまっている今の世の中。
諸葛孔明のような真の上士を待遇するだけの礼儀も何もありゃしないから、
面会することも付き合うこともできず、ただ小人同士で群がることしかできない。
自分たちのほうが車やビルの中に逃げ込んで、君子との礼儀をわきまえた
付き合いを拒絶している。せいぜいネット上で匿名で話し合うぐらいのことしかできず。
金銭的物質的に肥大化したからって、人間自身はちっともよくなっておらず、
むしろ正しい起居動作を捨て去ったせいで不健全な生活すら送らされるようになった。
もちろん見た感じ話した感じの卑しさってのも問題だ。礼儀を欠いた言動ほど
卑しいものはない。偉大さ貴さは当然のこととして礼儀に合流する。
虚飾のための修辞などではなく、本物の正しい礼儀にこそ帰結し、
礼に非ざるものを見ることから忌む、品性の上等さが育まれることとなる。
89 :
考える名無しさん:2009/11/23(月) 13:26:53 0
例えば、俺は現在脚を負傷しており
膝が安定していない上に、無理に曲げると悪化する恐れもある
ヒザカックンなどされれば、一生の問題だ
礼が天ならば例外など有り得ない、礼を行い得ぬ俺は淘汰されるのだろうな
天に誤りがあれば、この世界は既に存在してはいないのだから
だが、俺は誤りの無い人間を見た事が無い
人の行為は失敗のない正確さよりも、失敗を受け入れる謙虚さを心がけた方がいい
礼儀を守っていくことが善行ならば、俺の脚にもそれを執行するかい?
俺の脚を潰す覚悟があるなら(迷惑な奴だなw)、感心な事だ
お前の様なブレーキの壊れた若者が、世の中を動かす大事件を起こす
だが、後に続く者がいなければ、それは動きでなくただの事件
人々の共感を得たいなら、誰もがお前の様に強い訳ではない事を憶えておけ
俺の脚を潰す覚悟が無いなら(助かった)、勝手に天を名乗った傲慢を恥じよ
そういう融通の利かない杓子定規こそが、何よりの非礼の原因なのにねえ。
「礼記」王制第五には、九十歳を超えた老人は、相手が天子といえども自分の家で訪問を待ち、
服喪なども免ぜられるとしている。天皇皇后両陛下が老人ホームを表敬訪問したりするのも礼に適っている。
どんなことにでも例外はあり、そのあたりへの機微を存分に働かせることこそは一番の礼儀でもある。
多少は曲げることはできても、今の日本人や外国人は足首を鍛えてないから、
あまり膝を折り曲げて立つこともできず、どうしたってかかとが浮いてしまうし、
無理にそのまま座り込もうとすれば不良のウンコ座りみたいにもなってしまう。
武経七書「司馬法」の厳位第四に、上官の命令を賜る時の進行方法で「膝行」ってのが出てくる。
合気道でも取り入れられてる移動法で、こういう風に歩く
ttp://www.youtube.com/watch?v=C3b1u9rwne0 今の人間は、まず即座にはできない。足首が凝り固まりすぎててちっともまともに動かないから。
ハイカットブーツでわざと足首を固めてたりもするから、できなくなるのも仕方がないわけで。
結局、天を侵した事への釈明は無しか
人々は天など気にも留めていないらしい
礼を天と言った直後に正しい礼と間違った礼があると言う
正しい天と間違った天もあるのだろう
天を侵した?
オバマが天だってか?w
天道は「女」だ。
陰門も閉じている代わり、陰茎もない、あらゆる欲求と無縁な女(「老子」などを参照)。
別に必ずしも処女である必要はなく、主婦や母親でもあった上でそうであればなおよい。
欲求を捨て去って無為自然の状態にあることが、道徳の根源となる。
真理ではなく道徳。人として当然の道徳こそは女であり、
その道徳を「徳を好むこと色を好むが如く(論語)」信奉するのが男。
まさに道徳の源流である天道が女であり、その道徳を乞い求める人道が男だ。
真理に合致する仏道とまではいかない、もう少し程度の低い素朴な思想の領域にある。
道徳といえば「孔子」となって、巷に出回っている孔子の肖像などからおっさんをイメージしやすいが、
孔子は「道徳者」であるだけ、道徳の求道者であるだけで、「道徳そのもの」ではない。
道徳そのものであるのはむしろ、その名の通り老翁のイメージが定着している老子や、
あるいは主婦の神であるアマテラスなど。本当に社会からは一歩身を引いている婦人や老人。
高天原にも「オモイカネ」という長老格の爺さんがいて、岩戸隠れしたアマテラスを誘い出す主導者の役割を果たした。
主婦や長老といった家中が高天原に仮託されていて、社会のほうは出雲国に仮託されているのが日本神話。
高天原の使者が出雲国を平定するあたり、やはり天道の人道に対する優位を示したものであるといえる。
97 :
考える名無しさん:2009/11/28(土) 12:28:48 0
仏道が高級な真理ねえ。
朱子がいうように仏教も道教も
何ら世の中に貢献しないからなあ。
よくわからない高尚な屁理屈で
煙に巻いて偉そうにしてるだけで
衆生なんて全然救済してないだろと。
ところがどっこい、救済してんだなあ。
わざわざあえて災禍に陥れてるキリスト教やユダヤ教などよりよっぽど。
高度な文化だの文明だの何もないままに、平穏に暮らしてきた歴史のほうが
人類は遥かに長い。結局いろいろと自分たちで自己流の作為を試み始めてから
致命的な災禍をも引き起こし始めた。天災以上にも人間自身を不幸に陥れる
自業自得の人災。そのような人災を最小限に抑えるために、何もしないままに
足りるを知り、欲せざるを欲する、安楽無尽の状態に人々を導くことを仏教や
道教が担ってきた。その効果はあくまで「何もせずに済ませる」なので、目で
見ようと思っても見えず、耳で聞こうと思っても聞こえず、舌で味わおうと思っても
味わえない、不可思議摩訶不思議な効能に尽きている。効能から高尚なもの。
平安時代や江戸時代に起こった飢饉も、全て数年程度で収まってたわけだよ。
しかし、欧米からの資源の強奪や戦乱の強要によるアフリカの飢餓はもう百年以上も続いている。
天のなせる災いはなお避くべきも、自らのなせる災いは逃るべからず(「書経」より。難読字改め)。
試みたほうが余計に災いを招くような作為は、大蔵経や道書の精読にでも転じたほうがマシだ。
100 :
考える名無しさん:2009/11/28(土) 13:39:17 0
そりゃみんなが信じるなら理想としてはいいかもしれないけど、
その欧米に対抗する力がなきゃどうしようもないじゃん。
安楽に導いてきたっていっても中国でも日本でも戦乱はあったわけだし、
そこまで仏教が世の中を良くしてたようにはとても思えないんだけど。
だって今考えられている仏教や中国思想って、
欧米との接触の後で改めて見直されたものだから、
どうしても対欧米という力みが宿るのさ
近代をなかったことにはできないし、市場経済は事実として強大だ
不必要な災禍のもたらしによって苦しんでるのは、何も被害者であるアフリカ人だけじゃない。
むしろ加害者である欧米人のほうが、罪悪の積み重ねによる良心の呵責で苦しんでいる。
奪う側と奪われる側とに関わらず、罪悪は何もしない以上の辛苦をもたらすばかり。
物量的な強大さを不当に溜め込むのに応じて、
不可避に福徳の享受という面における敗北者に己が身を堕している。
いかなる強大さも、それが勝利に結び付かないのでは意味がない。
「亡は守る所なきに在り(敗亡は守るべき福徳を失う所から生ずる)」(「尉繚子」十二陵第七より)
災禍をもたらしつつの強大さは、福徳を保ちつつの弱小さにも負ける。
もちろん福徳を保ちつつ強大であるほうがより上で、
福徳+強大>福徳+弱小>災禍+強大>災禍+弱小
となるが、強大であってしかも福徳を保ててるなんてことはほとんどない。
金融強盗なんて、頂点の親分でも自殺するぐらいに苦しんでいる。
世の中を泰平に導きつつ、莫大な遺産も残した家康公などとは天と地ほどもの差がある。
禍福を単純な強弱よりも優先できたか否かが、最終的な勝敗をより分けた。
104 :
考える名無しさん:2009/11/28(土) 17:06:21 0
何なのその最終的な勝敗って。
具体的にいつどこの誰が誰に勝ったの。
強盗はともかく欧米人が本当にそんなに苦しんでるの?
そういう世の中に通用しない基準で優劣を決めるのは
いわゆるルサンチマンってやつなんじゃないかと思うけど。
福徳を保ち強大を目指すってことでいいじゃん。
福徳を保つ弱小が次に強いってのは嘘でしょ。
105 :
あめのみやつこ:2009/11/28(土) 17:11:51 0
日比野ハレルヤが主人公のアニメは短編ながらおもしろい。
赤いなべを作るのなりに面白いが飴屋横町はシュークリームを売ると
よく売れることがわかったそうだが「ハレルヤ」は佐竹まさあきや内藤大輔
などの格闘家を思い出す。やつらに言わせれば糞だというだろうさ。
徳川家康が、具体的にどれぐらい強かったのかといえば、
「ナポレオン以上」ってのが本当の所。
戦国時代の勝敗を決した関ヶ原の戦いが、
ナポレオン戦争において最大の戦役だったアウステルリッツの戦いとほぼ同等。
関ヶ原と比べて「決戦」ではないものの、赤子の手をひねるように
徳川方が豊臣方をひねり潰した大坂の役が関ヶ原の二倍程度の規模。
確実に18世紀の覇者であるナポレオンの戦力規模を16世紀に上回っていた。
これが「人力戦争」における人類史上最大規模の戦力。
火縄銃や大砲も多少はあったものの、まだまだ槍や馬などの人力による
戦力が活躍していた時代。人間自身の力によって勝敗が決することにより、
勝者である人君の統治がそのまま被治者の福徳に直結していた時代。
ナポレオンの死後まもなく、19世紀中盤に、織田信長が長篠の戦いで
実践した連射戦法を機械的に汎用化した「機関銃」が実用化され、
機械的な構造を持つ兵器の破壊力が人間自身の戦闘力を大幅に上回り、
さらには乖離して独り歩きする時代が始まった。アメリカの南北戦争に
端を発し、第一次第二次両世界大戦へと発展した機械構造による自動戦争は、
奴隷的使役までをも動員した産業による機械発展を促す一方で、
それを扱う兵士自身に対しては、人間的な戦闘能力以上にも
機械的な戦術兵器をうまく扱う素養のほうが要求されるようになり始めた。
関羽や張飛や徳川四天王のように勇猛果敢である必要もなく、
ただただ戦闘機や戦車や潜水艦の内側でちぢこまって、機械の上手な操作に
務めていることが優等とされるようになり、戦場における武勇の価値は消え去った。
その上そのような戦争を強いる兵器の製造のために、莫大な供給労働が
必要となり始める。機械化によって農産や漁業が簡便化された一方で、
新たに機械兵器を製造するための奴隷的使役が強いられるようになり始め、
その機械を使って旺盛な戦闘に励めば励むほど、民衆の側は重労働を強いられる、
勝 と う が 負 け よ う が 災 禍 し か も た ら さ な い 軍事偏重の時代に至った。
尉繚子の「亡は守る所なきに在り」という格言の通り、いくさ即ち自他を害する災禍と
なってしまった現代においては、もはやどこにも戦争による勝者が存在しえない。
戦うことは即ち負けに相当する、守るものの存在しない戦乱社会は、
あらゆる戦闘が敗北であるが故に、人力によって勝敗が決していた近代以前と比べて
その全てが敗北でしかない。戦うことで勝っていたかつての武将などと比べて、
いまの軍隊を率いる軍人はどこまでいっても敗者でしかない。普遍的な意味において。
人力からかけ離れた機械的戦闘力を行使しようとしている時点で、
多くの民間労働者を奴隷的使役に隷従させ、守るべきものを失った敗軍と化してしまっている。
勝つことがそのまま民衆の保護にも直結していた、有益でも有害でもありえた
人力戦争と比べて、機械戦争はただただ有害でしかない、劣等な敗者にしかなりえない。
近代以降の、機械的戦闘能力による勝利者は必ず自他を害していて、
守るべきものを持っていた人力戦争の勝利者と比べればその全てが敗者にあたる。
ナポレオン以降の、西洋主導による機械戦争の勝敗はすべてなかったことになってしまい、
ナポレオンよりも人力戦争において上位であった家康公こそは、全地球人類の勝者にあたる。
同等の人力戦力を今の軍人が統率しようたって、徳性が足らな過ぎて確実に自滅する。
自他を害する機械構造に頼らない人間自身の強さは、福徳と共にのみ育まれるものだから。
戦闘能力が「自力」であったから、戦国武将はそのまま天下泰平時の
統治者になることができた。あたかも亭主が家族の長であることを誇るように。
しかし、近代戦争の場合は戦力が「他力」の機械産業だったりするから、
その使用者であるだけの軍人が勝とうが負けようが、世の中全体の統治者に
なることなどはできない。仮になったとすれば、それは親に食わせてもらってる
ニートが一家の長であることまでをも宣言するようなもの。食わせてあげている
親はまた別にいて、それが産業界だったりする。軍人や政治家が産業に依存
することでやっと成立する機械戦力、武人や文人であるがままに産業を含む
世の中全体の非依存的な統治者となる人力戦力と比べて、根本的に無意味。
それはただ、統治者が被治者に対して媚びへつらっている証拠であるだけで、
統治者が統治者であるままに偉大であることと比べれば、みすぼらしいだけ。
統治者になり得ない産業のほうが威張り腐って、統治者であるはずの人間は
それにへつらうばかり。カカア天下を見せ付けつつの勝利は、勝敗を吟味する
のがあくまで男でしかないからこそ、意味が無い。男はそれを欲しないから。
「機械有る者は、必ず機事有り。機事有る者は、必ず機心有り。機心、胸中に存せば、則ち純白備わらず。
純白備わざらば、則ち神性定まらず。神性定まらざる者は、道の載せざる所なり」(「荘子」天地篇より)
チャップリンが「モダンタイムス」なんかを撮ったより2300年も前に、機械文明の危うさに警鐘を鳴らしてた。
しかも「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」のような「機械の魔性」に囚われていた西洋とは違って、
機械は精神性や道徳性こそを失わせかねないものであるという真実を見抜いていた。だから日本人などの
東洋人は、かえって人型ロボットの生産などを憚らなかった。機械が人間や神を超えることなどあるはずが
ないのだという事実を、道家などを通じてよくわきまえていたから、機械の扱いも制御されたものになった。
とはいえやはり機械は人間性や精神性を貶めかねないもの。精神や道徳以上にも機械を優先したりすれば、
ただただ人間のほうは不幸になるばかり、機事や機心よりも精神や道徳とこそ不可分であるのが人間だから。
中国思想における個人と社会の関係について論じた文献何かありますか?
112 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 22:21:20 0
113 :
考える名無しさん:2010/01/07(木) 08:56:11 0
中国の個人主義は2300年前の楊朱の段階で終わっている。
個我をなげうってでも役目を果たす「義」のほうが重要なものだから。
墨子の博愛主義が、分をわきまえた熱愛である「仁」に反するのと同じく、
孟子らによって排撃され、発展の芽は途絶えた。
そして管仲や韓非らが提唱した法治主義も、儒家の徳治主義に取って代わられた。
儒家という王道的主人公的な存在が現れたせいで、
個人主義や博愛主義や法治主義といった稚拙な存在は脇に追いやられた。
むしろその脇役のほうを熱心に研究してきたのが欧米だったりもするが、
それも偏に儒家が存在しなかったことによる。
儒家のような大倫主義が生成され得なかったことが、
逆に些末なイデオロギーの乱立をもたらした。
どこもかしこもメスだらけな獣の群れ、
優秀なオスが一匹でも現れれば、当然それがボスになる。
やっぱ中国人には自由で民主的な社会は一生無理ってことですか
「自由」は元々「臨済録」などに出てくる禅語だし、
「民主」の語源も「左伝」の「民は神の主なり(桓公六年より)」だ。
老婆を棒でしばき倒して自由、民を神よりも上に置いて民主。
原意を辿ればさして魅力的でもなく、シュールなものですらある。
そこに無理矢理虚構の飾り立てを加えてるのが洋学なだけ。
結局洋学でいう自由や民主も、上記以上の意味は持ってない。
自由を突き詰めた先にあるものなど、老婆を棒でしばき倒す程度のこと。
民主を突き詰めた先にあるのも、民を神様以上扱いすらする謙りきった君主。
羊学者ごときには決して辿りつけなかった、自由や民主の
核心にまで、強大な精神力によって到達していた東洋の先人たち。
そこまでいけなかった軟弱者ばかりが、自由だの民主だのに過剰な期待を
抱き、外界を最悪の荒廃に陥らせつつの大迷惑帝国をも作り上げた。
自由や民主は確かに達成できる。虚飾の伴わない真の自由や民主。
上記のような本当の自由や民主の姿を知った上で、それでも実現を目指すなら
決してできないことはない。本質を知った途端遠ざけ始めるのかもしれないが。
「臨済録」では、人間が享受しうる限りでの究極の自由が突き詰められていて、
臨済和尚も平気で「父を殺す(殺父)」だの「母を犯す(害母)」だのという。
まるでオイディプス王のようだが、これですらまだ究極の自由には程遠い。
老若男女の中でも最も貧弱な部類である老婆を、しかも棒でしばき倒すんだ。
ほっといたって近いうちに死ぬし、犯すともなればかえって不自由を感じる老婆を、
棒でしばき倒すことで究極の自由に至る絶妙さ。もちろんそこには深遠な禅問答の
含意が含まれているわけだが、別にそこまで汲み取らずとも、見るからに明らかな
行動現象の部分だけでも、人類にとっての究極の自由が体現されていると分かる。
自ら為政者となるわけでもない下民ならば、当然神様仏様を頼りにしたりするし、
それなりに高い地位にある君子や王君であっても、ある程度は神仏を敬う。
神>王君>下民という序列があるはずなのに、王君がなんと自分より下のはずの
下民を、自分より上であるはずの神の主人とすらしてしまう。民が自分のような
為政者と平等な存在であると言ったり、あるいは主権在民といったりするのなら
まだしも、王君ですらもが頼りにしている神こそは、民を主人としているのだという。
これこそはまさに究極の民主。現今の民主主義をも超えた、神をも従える民主。
究極の自由、究極の民主であるからこそ、峻厳に過ぎてあまり支持を集めない。
臨済禅も武士などのつわものばかりを信者としたし、神の主人にまでされることを
恐れ畏まって、下民も結局は王君に従順であることのほうを選んだ。不完全な
夢想中の自由や民主ではなく、究極まで突き詰められた真なる自由や民主で
あるから、信奉する人間すらをも選ぶ。偽者自由民主などのようにゆるくはない。
リアル中国の漢以降は法治主義が作り上げた役人天国な訳だが
その役人こそは、四書五経などの暗記を主題とする科挙試験で選ばれていたわけだが。
「礼記」にも「法を犯すものを許すな」とあるし、儒家もまたある種の「法」を尊ぶ思想であるには
違いないんだが、その法が「○○の罪を犯せば、××の罰を科す」などというような成文化された
実定法ではなく、「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」という道徳律に基づいた自然法
である点が違う。中国でも特に実定法の法律万能主義を説いたのが法家で、自然法を貴ぶ儒家
とは相反し、焚書坑儒のようないさかいも生んだわけだが、そういう意味での法律万能主義は
やっぱり近代までの中国にはなかったし、近代以降も「法が人を裁くのではなく、人が法を裁く」
の悪政を象徴する体制としての実定法治主義がのさばっている。立憲主義などに何らの価値も
見出さず、単なる悪用の対象としか見ない現実主義。法律万能主義の本性を曝してるのが法家。
今の日本の大学試験や公務員試験(高級官僚含む)、司法試験なども、
明治になってから科挙試験を参考に設けられたわけだが。
もちろん、その試験内容は四書五経の暗記などではなく、法律や経済、
英語や世界史や数学といった、洋学由来の学科が主なわけだが。
漢文や古文もただ、読み方を覚えてるかどうかが試されるだけで、
文献の内容にまで遡るとなると、「洋食を食べる時はフォークの背に
ライスを載せて食べるかどうか」みたいな、アホみたいな内容の
現代文の場合に限るわけだが。
科挙試験の、悪名高い「方式」の部分だけを取り入れて、
肝心の試験内容のほうは全く取り入れなかった。
むしろ試験制のほうは取り入れずに、世襲で武家が四書五経などの
素養を蓄えていた江戸時代までのほうが、本場中国以上にもよかった。
欧米の大学なんか、卒業するのは難しくても入学するのは簡単だろ?
逆に日本の大学は、卒業するのは簡単でも入学するのは難しい。
とにかく試験にうかってなんぼなのは、やっぱり科挙を参考にしてるから。
教養に一定の垣根を設けて、それ以上かそれ以下かで徹底的に差別する。
そうでもしないと、四書五経みたいに誰でもある程度は理解できるような
当たり前の道徳を書いてある文献では、誰でも彼でも採用せざるを
得なくなるから。一定の暗記力や読みの深さが備わっている所からのみ
採用の対象にしないと、本当に無差別の無秩序状態になってしまうから。
試験の内容からしてなぞなぞや暗号みたいなものばかりだったりする、
洋学由来の学科である試験が、さらに徹底的な選抜の名目ともなる。
分かってさえいれば無試験合格も飛び級もなんでもありな洋学の本来の
存在性には基づいておらず、そんな学科が試験内容であるにも関わらず
過酷な試験勉強を科される側も辟易する。悪い所取りばかりになっている。
厳しい試験に合格した選抜意識が、
四書五経のような道徳学の体得に基づいていたんなら正当なものとなるが、
法律や経済みたいなマッチポンプの功利学に基づいてたんじゃ不当となる。
本当に正しい学問の体得者であるから気高いのと、実は泥棒講座でしかない
異学異見の修得者でしかないくせに、試験に受かったからって気高いつもりでいるのと。
本当の偉大さに照らし合わせても認められるものと、儚くも崩れ落ちるものとに分かれる。
123 :
考える名無しさん:2010/01/18(月) 02:46:56 0
けど現在出版されている本を眺めている限り、
漢学者とか禅学者ってロクなのを見かけないけど。
うんちくに詳しくて偉そうなだけで何の能力もないっていう。
科挙やってた中国の役人だって賄賂で腐ってたのばっかだったんでしょ。
趣味で東西の古典を読みつつ官僚なり法曹なり何なりになって
志をもって実務に携わるってのが一番まともな線なのかなあ。
そういえば政治家や経営者は東洋の古典が好きだね。
科挙が評価されているのはむしろ純粋に能力で選抜するという方式の方であって、
悪名高いのは詩だの易だの何ら経世済民に貢献しない内容の方だと思うんだが。
125 :
考える名無しさん:2010/01/18(月) 09:59:19 0
>>123 今の世に実践的な儒者など一人もいない。
「礼記」の儒行第四十一の内容をそのまま実践しているものなど。
ただ読み下し方主体の漢文テストなどに受かって、
引きこもり用の研究室をあてがわれてるだけ。
有閑階級として一日中思索に耽ってりゃそれでいい
洋学の側の学者の伝統に則ってな。
政治家が東洋古典好きだったりするのは、
漢籍のほとんどが帝王学を念頭に置いているから
当たり前のこと。経営者に関しては、資本主義社会において
資産家である自分たちが為政者でまでもあるかのような
思い違いによっている。「論語」にも支配階級が
産業に携わらないことを推奨する記述はあるのに、
自分たちにとって都合のいい部分だけをチョイスして
自己正当化の材料にする。超短編の「老子」まで
抄訳にするPHPあたりがご用達だったりな。
126 :
考える名無しさん:2010/01/18(月) 10:00:58 0
百姓出身の詩書嫌いで有名だった劉邦こと高祖も、
儒学者陸賈に「馬上で天下を取ったのは確かでしょうが、
馬上で天下を治めることができましょうや」と言われ(史記)、
詩書礼楽による統治を認め、以て文化的統治を成功させて、
四百年以上にわたる漢王朝の始祖となった。
他にも、詩文化花開いた唐代における長期の隆盛などもある。
中国史は詩書礼楽の支援があった時にこそ質でも量でも最高潮となり、
法治主義でガチガチの統一秦王朝や、蛮族蒙古人の武威統治で
書生が差別を受けていた元朝においてこそ短命や暗黒時代と化した。
127 :
考える名無しさん:2010/01/18(月) 10:15:34 0
「詩書礼楽」ともいうし、「礼楽刑政」ともいう。
つまり、「詩書礼楽刑政」でもある。
それらだけを独立して偏重したんじゃ殺伐になり過ぎる刑事や政治を、
詩書や礼楽といった文化事業よりも劣後することで、
経世済民の殺伐さをも緩和し、政治機構を滞りなく機能させる効果を持つ。
法務大臣が死刑執行を躊躇したりするのも、
今の政治機構に詩書や礼楽といった緩衝材が一切ないからで、
執行した途端にマスコミなどを通じてそればかりに衆目が行ってしまう。
刑政や経済は事務処理でしかないが故に、本当は政治機構の暗部なのであり、
世の中全体の模範となるような文化人となるための詩書や礼楽のほうが存在
していたなら、そちらが明るさになる。悪事の処理以上にも積極的な善事となり。
128 :
考える名無しさん:2010/01/18(月) 10:23:38 0
易占も、多くの人々の運命を左右するような重大な決断においてこそ
用いられることで、政治家自身の私心を抑制する働きがあった。
多くの人々を生かすことも殺すことも為政者には自由自在であり、
権力の魔性に囚われて専制を振るう中毒者とも化してしまったなら、
凡人がその場で思いつくよりも劣悪な暴政をも行ないかねなくなる。
そうなるよりはむしろ、さほど的中率は高くないにしても、大幅に誤り
きったような誤判にだけはならない庸徳性を持つ易占によったほうが
マシな政治になるということもある。陰謀よりはまだマシになる占い。
129 :
考える名無しさん:2010/01/18(月) 11:47:46 0
「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」
(「論語」泰伯第八・八)
人間の教養は詩で興隆し、礼によって確立され、音楽によって完成する。
今でこそ軽んじられている詩歌や礼儀、音楽や占いなど、
人としての余裕があってこそ嗜める文化が、刑政や経済以上にも優先される。
それぐらいにも人間性の「矯正」が働くことで、世の中もよく治まる。
単純に考えれば「士商工農」でありそうな所も、あえて「士農工商」に矯正する。
夫婦が生まれ、父子が生まれ、最後に君臣が生まれて礼儀も生まれたから、
礼儀上の序列としては「君臣父子夫婦」の順番が正しい三綱にもなる。
自然のままとはひっくり返った優先順位をあえてあてがうことで、
世の中を人工的に正していく積極さが儒家には備わっている。
明治天皇も、本当は儒学を主体とした学校教育を望んでおられたのに、
森有礼らのごり押しによって、科挙試験を参考にした選抜制でありながらも、
近代以降の学校教育は洋学を主体としたもの(特に戦後は英語が)となった。
つまり、今の洋学主体の学校教育制度は 逆 命 でもある。
始めから勅命に背くことでこそ成り立ってきた科挙方式・洋学主体の教育制度。
案の定、第二次世界大戦での大敗を呼び込み、GHQによる好き勝手な洗脳教育
をも後押しすることとなってしまった。やはり失敗の始まりは文明開化だった。
逆命利君どころか、完全に逆命害君ともなって、
いまや皇室も衰亡の危機に立たされている。
教育立国としての威厳も、藩校や寺子屋を通じて
識字率もずば抜けて当時世界一となっていた
江戸時代までに確立されたものであって、
それ以降は学力をただひたすら消費してきただけ。
八犬伝による長文読解力を、シェイクスピアの
耽読に転用してきただけ。本当の成長もまた
明治以降ではなく慶応以前までにこそあった。
132 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 01:17:03 0
そもそも慶応以前には皇室なんてほとんど尊重されてなかったというし
明治になっても儒学に固執してたら日本も中国と一緒にあっという間に
植民地化されてたとしか思えないんだけど。
明治維新や経済成長の成果も評価しないでなぜそんなに江戸ばかり懐かしむのか。
江戸以前に注目することで現代の個人や社会に何かしらの現実的な導きの糸が得られるのか。
俺もこういうスレにいるくらいだから漢籍は好きだがどうしてそこまで後ろ向きな発想になるのか、
その発想をもって実際に何をすべきなのかいまいちよくわからないというのが正直な感想。
133 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 09:29:53 0
あまり権力の責任を負わされすぎず、最高権威だけを付与されることで
細く長い歴史を辿ってきた日本の皇室。大日本帝国で全ての権力が集中され、
その割りには臣下の専横を許すなど、実質性の伴った権威としての綻びが見え始め、
敗戦後は権力も剥奪された上、臣下に好き勝手やらせてしまったが故に
権威も台無しとなり(いまの街宣右翼などもひどく皇室の権威を貶めている)、
公家諸法度で領分がわきまえられていた江戸以前以上にも陰惨な状況に陥った。
江戸時代のガチガチの封建主義社会が文明開化で部分的に自由となり、
戦後には臣民としての束縛からも解放されて自由な上に民主ともなったという、
GHQに植えつけられた自虐史観で以て、「だんだんよくなってきた」かのような
誤解が蔓延している。事実は全くの真逆で、時を重ねるほどに段々悪くなってきた。
大政奉還の廃仏毀釈でまず儒学と仏教が脱落し、大日本帝国の終焉で神道も
引き摺り下ろされた。昔からの伝統文化を廃絶して、代わりに大量生産大量消費の
物量投入文明の積重に耽溺してきた。その方向性は明らかに優良化ではなく
劣悪化だったのであり、「良くなってきている」という思い込みに依ったままで
突き進めば、環境破壊の面などからも、お先真っ暗であることが分かりきっている。
134 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 09:32:25 0
中国も近代に至って急に外国からの侵略を受け始めたのではなく、
モンゴル帝国に征服を受けての元代、女真族に支配された金や清など、
ここ八百年程度の特に劣悪な風潮の一つとして、外界民族からの侵略というのがある。
太古の夏・殷・周といった伝説的な王朝や、時代が下ってより現実的な文化を
花開かせた漢代や唐代と比べて、主導権を失っているという点だけを見ても、
中国にとっては明らかに劣悪な時代、栄光の失われた暗黒の時代となっている。
(だからこそ毛沢東のような乱暴な為政者でも、自国の尊厳を取り戻すきっかけとして
大いに信奉され、文革や天安門事件の陰惨さが露呈しつつある今でも支持を受けている)
歴史を積み重ねるほどに明らかに悪くなっていっている、特に日本や中国にとっては
優良化するどころか劣悪化していってるという歴史上の事実をわきまえた上で
すべきことやすべきでないことがある。それは、進歩主義的な歴史観に基づいて
ことを行なったり行なわなかったりする場合と比べて、まったく言動の位相が替わる。
すべきだったことがすべきでないことになり、すべきでないことがすべきことになる。
右翼だろうが左翼だろうが、洋学に植え付けられた進歩主義史観しか受け入れず、
進歩して行ってる中でさらに推進すべきか、それとも保守的であるかというような
大前提となっている認識の凝り固まりから捨てて、歴史を重ねるに連れて悪くなって
行ってる中で何を推進すべきであり、何を保守すべきかを考える発想転換が促される。
デシメーションによる集団自殺、テロリスト同然の十字軍遠征に、魔女裁判・・・
キリスト教専制による暗黒時代を経験した西洋にとっては、
ルネッサンス以降の文明的発展はまだ進歩的なものに思えたのかも知れないが、
(それすら本当はアフリカやアラブ、インドなどを荒廃させつつの迷惑沙汰だったが)
キリスト教誕生以前から豊潤な文化文明を育み続けてきた
極東社会からすれば、全体の風潮としては明らかに劣悪化していっている。
機械産業に携わらされ過ぎた結果として、環境も景観も破壊され、
街並みもゴチャゴチャと汚らしいものと化している。そして何よりも精神面での荒廃。
君臣や父子や夫婦といった序列関係をただ重視するだけでなく、
そこにこそ文化的に高度な人間性の綾をも読み取っていた。父子でも夫婦でも
友達みたいにざっくばらんと付き合う以上にも、繊細で和気藹々とした
関係性があったのに、わざわざ全てを友愛によって横の繋がりへと堕してしまった。
物質面でも劣悪化し、精神面でも劣悪化した。全てにおいて極東社会にとっては
劣悪化となってしまっている近代以降の歴史。あたかも人類史の始まりは
西洋におけるキリスト教の誕生だったかのように思い込み、誕生原初における
陰惨さから徐々に改善されていってるかのように思うのがすでに大間違い。
西洋史なんてのは人類史全体からすればほんの一部でしかなく、しかも全般的に、
既存の優良な人類文化文明を破壊して劣悪化する、ガン細胞とでも呼ぶべき
不必要かつ悪性な歴史の塊でしかない。それを人類史の中心だなんて思い込む
迷妄から廃して、西洋が発展することで却って劣悪化していってしまった人類全体
の歴史を、劣悪化しているなりにどうやって改善するかを考えなければならない。
136 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 10:25:44 0
近代化にそれなりに問題があるのはわかるけど、
だからって遠い過去を見てきたように理想化するのもなあ。
9割方が農民として学もなく生きる世の中なんて今更いやだし。
人類史の中心なんて大げさな話じゃなくて、
プラス面はプラス面で評価した方が健全だと思うけど。
こうしてネットで人類だなんだ言ってられるのも
近代化による機械産業なり教育なりの結果でしょ。
137 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 10:40:46 O
俺は墨家に興味がある。墨攻という小説で知ったんだが。出は罪人の集団で、秦を立国する立役者となったらしいが。その思想はどうだかの本があったら教えてちょうだい
>>134 そりゃちがうな。中国は太古の歴史の始まり以来、異民族の侵入と抗争の歴史なんだよ
そこが日本とは異なるところ。たとえば、周は西からの異民族の侵入によって都を移したし、
秦の政王は北方からの異民族の侵入を防ぐために万里の長城を築いた。
中国は大陸で陸つづきだから絶えず北や西や東から異民族が流入して、
各時代に各民族が政権を打ち立てて統治するインターナショナルな国だった。
文化もローマやらイスラムやら北方騎馬民族やらさまざまなものが流入して渾然一体となり、またそれらが漢化していった。
たまたま漢民族が数の上で人数が多いだけで、中国は誰のものでもない。
しかしそれらの民族・文化の流入と、19世紀半ばからはじまる帝国主義列強による、
インド中国をはじめとする南アジア、東・東南アジアの分割と植民地化とは話がちがう
清王朝がそれによって動揺し弱体化していったのは確かだが、それによって
中国の文化・社会じたいが劣悪化した、というのは変な理屈。
また第二次大戦後、毛沢東が儒教や孔子を否定し、過去の古典文明の価値評価をひっくり返そうとしたのも事実だしね。
いまは漢民族が力を持って周囲の異民族を圧迫しているご時勢。
漢民族のナショナリズムが燃える時代にロクなことは起こらない。
139 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 11:04:00 O
政権を立てるのが近代的か?近所のおっさんが公民館に集まってるだけだぜ
140 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 11:08:17 O
思想による国家統治はなく国家による思想統治ならある。自由思想が百家としてあるんじゃないかな
141 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 11:17:34 0
>>136 心配しなくても、1億人以上もの人間が耕せる農地など日本にはないから。
農家や漁師の員数は昔から横ばいのままで、工業者やサービス業者だけが
勝手に膨れ上がって行ったのが近代以降の日本社会の実情。
江戸時代までこいつらいなかったわけだから。今さら後付けで農家に
転職させたりするのは実情に沿わず、これ以上環境や外界民族を荒廃に
陥れさせない穏健な工業やサービス業に特化させるのが現実的な解決策となる。
>>138 昔から東夷・北狄・西戎・南蛮と、異民族との抗争を続けてきたのは当然知っている。
始皇帝の異民族への警戒感が万里の長城をも作らせた。とはいえ宋代までの
中国は、とりあえずは漢民族自身が主導権を執って全ての王朝をも運営していた。
西はチベット高原やヒマラヤに阻まれ、東はもはや絶海の太平洋が間近、
三蔵法師やシルクロード等の形で部分的な交流はあったにしても、大勢力が
全力をかけて侵略し、王朝の元首にまでもなったのは女真族や蒙古族が初めて。
儒家では決して認められない弁髪のような髪形も、全漢民族にまで強要した。
中華民族の過剰なプライドの高さは、あの頃からの尊厳の踏みにじられに基づき、
たとえ儒家を否定しながらでも、一応は漢民族として主導権を取り戻した中共や
その指導者だった毛沢東が、みそくそギリギリの清濁併せ呑みとして称賛を受けた。
142 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 11:24:36 0
中国・・・13億
インド・・・12億
アラブ・・・13億
アフリカ・・・8億
欧米・・・12億
全体の5分の1程度の部落社会(欧米)の歴史だけが偏重されて、
中国やインドやアラブといった、人類の大多数の歴史は軽視される。
「世界史」の名の下に教育される西洋主体の人類史より、
「東洋史」の名の下で教示されている中国やインドやアラブの歴史のほうが、
遥かに人類の多数派の歴史を包含しており、しかもその品質も「西洋史」より高い。
西洋史の中には、いまキリスト教圏化されているブラックアフリカも含み、
ブラックアフリカの生活水準は、カースト制下のインドをも抜いて世界最悪。
世界最悪の荒廃社会をもたらしつつ発展してきたのが欧米だから、
欧米とアフリカを併せた西洋史は、中国とインドとアラブを併せた東洋史
よりも品質の面でも明らかに劣悪。世界一の大富豪と大貧民のいる超格差社会、
それが西洋の正体。質でも量でも古さでも人類史の中心として扱うに値しない。
143 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 11:38:38 0
江戸時代ではなく、今の世の中こそは、儒学のような
人としての当たり前の勉学を欠いた、異学異見ばかりで成り立つ無学社会でもある。
江戸時代の成人男性の識字率(約70%)が、同時期のイギリス(20%)やフランス(10%)と
比べてずば抜けていたのは(ちなみに成人女性の識字率も20%で、当時のイギリス成人男性並み)、
金勘定のような実学のためだったという意見が多いが、もちろんそれだけではなく、四書五経や
大蔵経といった人類文化の究極形態への熱心な勉学までもがあってこそのもの。
百姓出身の二宮尊徳の報徳思想も、儒学や仏教や神道への細密な勉学に基づいていて、
決して勉学が武家などの一部の人間だけに寡占されていたわけでもないことが分かる。
一流大学出身者などの、一部の人間だけにある種の知識(我田引水のための暗号など)が
寡占されて、下層階級には創価タレントの馬鹿芸しか見せない今にこそ、勉学の専有もある。
>>141 ああ、あんたはいわゆる“征服王朝”のことを言ってるんだろうな
が、宋代に遼(契丹族)が華北に侵入する遥か以前の、
五胡十六国時代にはすでにその地域は一時期北方異民族によって支配されていた。
“征服王朝”という考え方は西洋の中国史家が考え出したことだよ。
また、唐代に節度使として長安を離れた河北の地域を実質支配していたのは
イラン系ソグド人の安禄山だった。彼は有名な安史の乱を起こして洛陽で皇帝に即位するが、
ウイグル人が唐に加勢して攻めたために乱は平定された。
もうその頃には唐も外部民族の援助がなければ国策の運営すらままならない状態だったんだよ
中国の歴史が異民族との交渉の歴史である、とはそういうことだ
どの民族が侵略して支配したか以前に、
十三経や現二十五史(もちろん昔はもっと少なかった)、
諸子百家や全唐詩や朱子語類などの中国特有の文化が
尊重されていたかいなかったかを見直してみればいい。
異民族であっても、中国文化に染まって漢化した上で受け入れられた場合も
あれば、まったく中国文化を認めずに書生を乞食同然に扱った蒙古族や、
部分的に漢化を受け入れつつも弁髪などの特有文化を通した女真族もある。
そういう意味で、致命的な侵略征服を中国が受け始めたのが宋代以降。
今も共産主義という形で洋学による文化的征服を受けており、漢民族による
独立統治を取り戻した毛沢東の政策も、やはり片手落ちに終わっている。
146 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 12:25:40 0
よく勉強してるなあ。
政治家にでもなればいいのに
詩書礼楽のうちの「詩書」ってのは、孔子の生きた
春秋時代にはまだ「詩経」や「書経」どまりだったわけだ。
でも、今となっては漢詩集や二十五史のように、
後代の膨大な詩書が参考資料としても使えるわけだ。
詩はともかく、書については今ここで語ってるようなことが
そのままもはや「書」の一貫にもなってるわけ。
「詩書礼楽刑政」のうちの「書」に。儒学上では
刑事や政治以上にも重要となる「書」になっている。
かりに刑事や政治にまで踏み込んだところで、
詩書礼楽のうちの「書」にもある程度はなっている
今ここでの議論のほうが、儒学に基づけば貴いことになる。
実務以上にも優位な道徳文化を持つことが、
結果として実務面での滞りなさにまで及ぶとする。
書生を乞食扱いする蒙古族のほうにむしろ近い今の
人間には、なかなか計り知り難い考えではあるんだろうが。
148 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 17:53:10 0
漢文のかわりに、別に漢文も学んでもいいのだが、ギリシャ語やラテン語や
サンスクリットを学校の教育でもまなばしたらいいのに。
必修ではなく選択科目として。
現代語より遥かにすぐれている古代のより高度な言語をまなんで言葉を大切にしよう
日本語の勉強をそっちのけにしてまで
勉強すべき言語なんて、極めて限られている。
漢語やサンスクリットの古来からの語法を
現代中国語やヒンディー語以上にも止めている
日本語の勉強を蔑ろにしてまで勉強すべき古語など、
正直漢語とサンスクリットしかない。漢語は今もやってるが。
150 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 20:02:54 0
もちろん自国語も大切だが・・
必修にするといってるわけではないので。
選択科目として 、いまでもまなぶ機会が非常にすくないギリシャ語ラテン語サンスクリット
を機会としてあたえる
せめてその順列をやめなさい。
152 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 21:22:03 0
順列とは?
「仁義礼智信」と書けば、
仁>義礼智信
「仁義礼智信」と書けば、
仁>義>礼>智>信
という優先順位であることになる。
「君臣父子夫婦」と書けば、
君臣>父子>夫婦
という優先順位であることになる。
上下優劣が吉凶によって厳格化されている中国思想では、
書き留める順番も必ず優先順位に基づいている。
155 :
考える名無しさん:2010/01/19(火) 21:37:13 0
じゃあ ギリシア語ラテン語サンスクリットっていう順番に変わりはないねw
「善も積まざれば以て名を成すに足らず。悪も積まざれば以て身を滅ぼすに足らず。
小人は小善を以て益なしと為して為さざるなり。小悪を以て傷うなしと為して去らざるなり。
故に悪積みておおうべからず、罪大にして解くべからず。易に曰く、校を何いて耳を滅る、凶なりと」
「善も積極的にやるぐらいでないと名声を博すに足らないし、悪も積極的にやるぐらいでないと自滅するに足らない。
つまらない人間はちょっと善をやってみただけで益がないとみてやめてしまい、
ちょっと悪をやったてみたからとてさして問題はないとみてさらに悪事を積み重ねる。
そのせいで悪だけが積重していって隠し立てのしようがなくなり、罪が大きくなり過ぎて
厳罰からの逃れようがなくなる。易本文にも『首かせをはめられて耳まで傷つく、おしまいだ』とある」
(「易経」繋辞下伝より)
インドにも「ヴァーストゥ・シャーストラ(インド風水)」という形で、
易と同等の実相判断を突き詰める学問が4500年以上昔からある。
現時点におけるヴァーストゥ・シャーストラの原典となっている
ヴェーダが3200年前に編纂されたのも、遅すぎるぐらいのこと。
ホメロスよりも聖書よりも遥か昔に文章化されたものでいて、
しかもその起源はさらに1000年以上昔までさかのぼる。
モヘンジョダロのような、実物の準拠証拠もある。
人類が実相の判別によって易やヴェーダ級の研究成果にまで
たどり着いたのが4、5000年前であるのは、残念ながら史実だ。
荘子の内篇でFA
日本では、神道を通じて
隠遁思想を全面的に主婦が肩代わりしてるので、
男のクセしてイジイジ縮こまる道家はナシ。
みそくそスレスレの清濁併せ呑みである易まで。
王君からの推挙も断り、些細な穀物の贈与も拒絶し、
妻の葬儀では歌を唄い、自らの死体を鳥獣についばませるよう遺言を残す。
そして何より「何もしない」。奴隷を働かせまくって自らは悠々と暮らす、
特権的な有閑階級として何もしないのもなく、支配や征服も含めて何もしない。
ニートやホームレスのごとく、本当に何もしない。それが道家。
決してギリシャやローマの特権階級が、自分たちの我田引水のために
構築した哲学や法典などを支持するはずもなく、むしろ王権を放棄して
乞食行に入った、釈迦の興した仏教などのほうを支持するもの。
実際、道教は密教などとも仲がよく、大蔵経を模して「道蔵」も拵えている。
儒学的な積極的善行を否定するからといって、逆に積極的悪行を
肯定するわけでもなく、孔子と盗跖を一緒くたに廃絶して何もしない。
味方でもないが敵でもない、中立的な存在に助けを求めても無駄だ。
混沌(カオス)に、眼と耳と鼻と口の、七つの穴を付けてやったら、死んでしまった
むしろ4000も5000もの穴(特に口)が付いてしまって、
相反することを同時に発する数々の減らず口のうち、
どれを閉じるかを躊躇しているといった所ではないか。
「其の兌(あな)を塞ぎ、其の門を閉ざさば、身を終うるまで勤(つか)れず。
其の兌を開き、其の事を済(な)さば、身を終うるまで救われず」
(「老子」第五十二章)
7つのラッパの3番目が小麦一マス一デナリ、今その手前ではないか。
3000も7000もの、ラッパ。
額・・・乾
頤・・・坤
頬・・・震
眉・・・巽
耳・・・坎
眼・・・離
鼻・・・艮
口・・・兌
穴は七つでも、他にも付けられるものは多い。
167 :
考える名無しさん:2010/04/11(日) 12:26:56 0
中国本土では文化大革命ですべて滅びたと記憶してる
中国思想(主に儒学)の廃絶という点では、明治維新も文化大革命と似たようなもの。
さながら坂本龍馬が、日本版毛沢東とでも言った所。
なぜ中国人が、未だに毛沢東なんかを崇めてるのか不可解なら、
まずは人の振り見て我が振りなおさねばな。
福山龍馬なんかにやられてないで。
家庭の一つも治められない世の中に明日はない。
170 :
考える名無しさん:2010/04/26(月) 11:54:21 0
171 :
考える名無しさん:2010/05/09(日) 17:32:30 0
172 :
考える名無しさん:2010/06/25(金) 18:58:03 0
>>169 人類が滅んでも明日はある。
ただ昨日今日明日と認識する主体がいないだろうというだけだ・・・・・・。
そんなことは生きている人間のいうことではない。