《マルティン・ハイデガー Martin Heidegger 3》
952 :
考える名無しさん:2009/10/17(土) 21:53:08 0
少なくとも『存在と時間』を読む限り、民族と現存在をイコールで結ぶような発想とは無縁だと言
える。というのは現存在の運命と共同体の運命は別ではないにせよ、イコールでもないからである。
共同体ー個人の位相、という問題は一応視野に入っている、というのはあの本を注意深く読めば分
かる。少し引用してみよう。
《諸々の個々の<現有の>運命は、同じ世界の内に共に相互に有ることと一定の諸可能性へ向かって
覚悟を決めて開かれて有ることとに於て、初めから既に導かれているのである。その<すなわち、
個々の運命と運命との相互の>伝達と闘争との内で、歴運(共同体の経歴)の威力は初めて自由に
解き放たれるのである。》
これを言い直すと、共同体の経歴、民族の経歴として現有の経歴は規定されるが、しかし、それは
いたずらに或いは無理矢理に合一しうるものではなく、むしろ、個々の運命がそれぞれの有の開けに
立つことで、その《伝達と闘争との内で》《自由に解き放たれる》のが共同体や民族の歴運だ、ということ
になる。この論理は、単純な全体主義ではない。つまり、民族の歴運と現存在とは、互いに対象的でない
限りに於て関係する。これが『存在と時間』で描かれる民族の歴運の意味である。問題は、そのように、
単数の人間を主題にするその論理が、ある時期、そうでなくなってきたことにある。その段階では
彼の論理は普遍的とは私にも思えないですね。ただ、それにしても、その部分を省いても、読めるのが
ハイデガーの思索なので、私の場合は勝手に、もしかするとハイデガーの意図とは違って読んでいる、
ということです。
「存在と時間」では現存在の個別性からのみ存在の問いが有意味になるってことだったけど、
それ以降は存在がむしろ現存在を可能にするという逆転が起こる。
そこから存在の歴史の崇拝と同時に、民族の歴史なるものも支配的な意味をもつようになる。
日本民族の歴史や日本の大地なんてものを持ち出さずに、
西洋やドイツといった具体的な問題に目をつぶったままハイデガーの伝道者になれるという意味で、
日本人にとって「存在と時間」は現存在モデルが普遍的に見えるから都合が良い。
954 :
考える名無しさん:2009/10/18(日) 15:58:34 0
一人の思想家の丸ごとを肯定すべき、というのは余程の崇拝者なら別ですが。例えばハイデガー
と並ぶ、同時代の、こちらは実存主義を自ら認めていたサルトルにしても、私からみると、初期の
対自存在の責任・選択・自由・状況の無化がセットの哲学は息苦しく、ついてゆけない、という感じ
がある。しかし、個体は様々に条件付けを受けながら、それを無化まではいかなくとも、その自由を
条件付ける状況を検討することは可能、とした後期の思索は、未だに参考になる。たとえば後期の
著作で問題にされた、今日、一人の人間を理解するこはどこまで可能なのか、という問題設定、その
フローベールを素材にした思考実験はいまだに検討に値すると思える。ハイデガーにしても、『有と
時』で提示した、時間と存在論が、一人の人間存在にアプローチするのにこれ以上ないような方法
ろ提示しているのは疑い無い。特にサルトルの後期の分析方法は優れている。たしかにマルクス主義
から抜けないという特徴はありながら、それだけで全否定するのは、読み方を知らないシンプルな
人間のやり方だと思いますね。ハイデガーにしても同様です。民族主義というだけで、全否定する、
それは読み方が浅いと思います。
で、存在の意味って何だったの?w
勇者よ、森の開けたところで声を聞くのじゃ。
おぬしは存在の運命に導かれており、自分ではどうすることもできぬ。従うのじゃ。
・・・何?声が聞こえないじゃと?さてはおぬしは東洋の猿じゃな?
言葉を持たぬ民族に英雄は生まれないのじゃよ、あきらめなされい。
むしろハイデガーを詳しく読めば読むほど、異様な自意識というか民族主義の強烈さが際立ってくるように思う。
「存在と時間」あたりを軽く読むと簡単に日本人でもわかったような気にさせてくれるけど、
以後の著作を深く読めば読むほど、歴史や民族の問題こそが核心で避けられないことがわかる。
全否定せずに今日的な意義だけを取り出そう、ってのはやっぱり虫が良すぎる話で、
トータルで引き受けないと意味がないだろうし、
そこではハイデガーあるいは西洋思想を受け入れる日本人という問題にも向き合わざるを得ないと思う。
京都学派にあった自分たちはよそ者だという自覚は最近の若い人には全くないですね。
その問題に無自覚なまま存在だの開けだの呪文を唱えている。
958 :
考える名無しさん:2009/10/18(日) 20:59:44 0
957氏の意見には同意できません。“ハイデガーを読めば読むほど、歴史や民族の問題が核心で
避けられないことが分かる”とありますが、私の読むかぎり、歴史の問題については『有と時』刊行
部分でも大部を割いて考えられていますが、民族云々については僅かしかない。で、歴史というのも
、いわゆる実存史こそがあらゆる歴史の根底に捉えられるべき、歴史家は、歴史上の人間に可能性を
とらえ、そこに己の本来性を選択する、そういう論理があるが、なにより単独の有をめぐって本来性
も捉えられる。そうして、ハイデガーでいまだに読めるのはその部分である。尤も、例の民族主義と
連結すべき、という意見ならばそう読めばいい。私はそこには可能性はみない。私は私の読んだ限り、
ハイデガーを今日的に読むことは可能だと断言します。あくまで私の読書体験にかけて、ですが。
そう読める、それがハイデガーだと。でなければハイデガーの思索が、ここまで世界で無数の思想家
をとらえ、考えさせた理由がないことになるでしょう。フーコーなども80年代のインタビューで
、学生時代に夢中でハイデガーを読んだことを告白してます。で、ご存じのようにフーコーは民族
主義ではない。ハイデガーを全肯定せずに読む、何かを取り出すことは可能である。20世紀の思想
はそのようにして自らを作り出してきたといっても過言ではない。
東浩紀みたいに、歴史性のすっぽり抜け落ちた現存在の循環モデルを図式的に利用する可能性かな。
その場合前期と後期を分けるという考え方は都合が良い。
960 :
考える名無しさん:2009/10/19(月) 00:02:56 0
フーコーがハイデガーを熟読していた、というのは意外な気もしたが、考えてみればフーコーの
初期の大著である『狂気の歴史』というのは副題が「理性と非理性」で、理性に回収され、奪われて行
く人間存在が主題。そこでの精神医学の役回りや疫学、収容施設のもつ意味が歴史的に書かれる本
だった。理性に回収される人間存在、というのはまさにハイデガー的な問題圏で、その歴史的考察
というのは、ハイデガー有論がポジだとすればネガにあたる。この問題は今の精神医療現場でも
続いている。
東某という人はよく知らないので何とも言えない。何度も言うように、歴史か否かというくらいに
歴史というのは鍵となっている。しかし、必要でない人には猫に小判みたいなもので、どこがいいのか
ちんぷんかんぷんの代物でもあるだろう。無理して首を突っ込まない方がいい。
ハイデッガーと民族主義とかどうとか批判的に取り出す人って
たいがいがナチ荷担程度しか念頭にないから論が浅い
民族主義は哲学的には瑣末だと言って切り捨てるのも同じくらい浅い
ハイデガーのギリシア理解がドッズ以前、あるいは『黒いアテナ』以前の古き良きギリシアであることは否定できないでしょう。
柄谷の批判はそうした言説に対して、ギリシア哲学は言説を売る側に立っていたひとたち、つまり共同体からずれたひ
とたちから出て来たという当たり前の事実を指摘したものにすぎない。
むろん、ハイデガーのヘルダーリン経由のギリシア理解はある種の開き直りとしてまったく評価出来ない訳ではない。
事実、柄谷はそこに自己言及のシステムを見ているし、これは最大級の評価でもある。
しかも柄谷はNAMへの参加をハイデガーのナチへのコミットと同じ種類のものとして言及している
(「新潮」2008.8福田和也との対談)。
先駆的決意性とかほとんど特攻隊のメンタリティーだ
特攻隊の国なら存在と時間を正しく訳すだろう、とハイデガーが言ってたという風説もあったな。
果たして特攻隊の隊員は本来の意味での自己の死に
向き合ったんだろうか
967 :
考える名無しさん:2009/10/19(月) 22:18:29 0
柄谷氏の愛読者の方がまた色々書いてくれて、私の知らないことも沢山入ってるので、どう反応
すればいいやら考えさせられるわけですが。ただ率直言って、“柄谷さんから最大級の評価”を受けるそ
のこと自体にたいし、評価の基準には私はできない。柄谷さんからの評価を当てにはしてないという
ことで。彼の理論は著書から或程度は把握してますが、その感想はこのスレの前の方に書いた通り
で、私は彼の理論というのは軽業師の理論だとみなしている。軽業師であり、移動という名で
どっちつかずの話をして煙にまく。で、退屈でないことが話の基準であり、嘘でも
本当でも面白ければ問わない。何より面白いことを重要視する。そして、どう考えてもおかしいと
思える、存在論の無化。ニーチェの理論との瓜二つな近接がそこにある。ニーチェはこう書いてい
る。まるで柄谷のように。
《事物の固有性とは他の「事物」に働きかける作用のことである。すなわち、この、他の「事物」をなき
ものと考えれば、事物はいかなる固有性ももたなくなる。言い換えれば、他の事物なき事物はない。
言い換えれば、「物自体」はない。》(『権力への意志 下』ちくま学芸文庫94頁)
このニーチェの本を読んだとき、柄谷のことが実に、柄谷自身が書いたものより分かって、その事実
に呆れたわけです。どういう理由か知らないが、この『権力への意志』は柄谷の実体を射当ててしまって
いる。それくらいに柄谷を思わせる言説に満ちている。
《「いったい解釈するのは誰か?」と問うてはならない。そうではなくて、解釈する働き自身が、権力
への意志の一形式として、現存在を(しかし「存在」としてではなく、過程、生成としての)一つの
欲情としてもっているのである。》(同94頁)
ここでのニーチェはハイデガーとすれすれのところでかすっている。かすっているが、やはり違う。
現存在が遠近法的視点というところまでは共通する。しかし、その遠近法的実存とは、たやすく
変更は困難だというのがハイデガーで、だから彼の描く実存は身軽ではない。ニーチェ的な思想は、
権力量の上昇めがけて、どこまでも解釈を変更することが可能。それが同時に柄谷の理論の特徴でも
ある。そこにはとてつもない欠陥がある。
>>963 「中上健次と坂口安吾」での「本来性は共同存在」という断言は
どう思われますか?
「柄谷はハイデガーを評価してるよ」といっても、
誤読や単純化したままの評価やハイデゲリアンを自称している福田との対談からの言葉では
967さんが書かれたように「評価」自体がどうでもいいものとなるのではないかと。
>>968 >誤読や単純化
強調したいのは東浩紀のハイデガー解釈も柄谷経由だということです。
それが誤読であるとしても、どこかにそれ以上の生産的なハイデガー解釈がありますか?ここ20年で。
一般的に言って、研究者はハイデガー=ナチ説を社会学的に消化するのに浪費したのではないでしょうか?
。
>>938 >柄谷行人はハイデガーの存在論を「ハイデガーが究極的に見出すのは、自己言及的な形式体系、あるいは自己差
>異的な差異体系である」としてある程度評価しています(定本第2集p.133)。
>ちなみに、存在=メタレベル、存在者=オブジェクトレベルという柄谷の解釈を東浩紀は受け継いで図解
>(『存在論的、郵便的』より)↓しています。
>
http://pds.exblog.jp/pds/1/200804/28/41/a0024841_4162993.jpg
970 :
969:2009/10/20(火) 19:26:13 0
(リンクだとクリックしたいと思うので作成した)
以下のAAの原図は東浩紀作成のものですが、浅田彰経由でクラインの管をつかったところなども
ふくめて、ハイデガー解釈として的確だと思います。
最近ではケア=介護の問題として論じている人がいてこれは例外的に魅力的ですが、それは
あくまで哲学的言説としてではなく経験談として魅力的です。
_______ ____メタレベル(存在)
|| \ /
||規定 \ /
|| \ /二重襞
\/ )
__○__○__○__○__○__○__ オブジェクトレベル
(存在者の集合=世界)
↓メタレベル(存在)
_____
( __ )↑論理形式の産出
)( )|
/↓ \//___実存論的構造(2レベルの媒介)
/規定 //
/ _| |\ ↑
/ _/ | \
/_/______\_\オブジェクトレベル(存在者)
// ☆現存在 \_\
(○ (メタレベルへの入り口) )
\○__○____○_____/
○=客体的存在者
971 :
追記:2009/10/20(火) 19:35:11 0
ハイデガーはギリシア語で思考していたと言う説がありますが、どなたか実証できる方はいませんか?
972 :
考える名無しさん:2009/10/20(火) 20:32:26 0
東以前デリダの「Le Differance」
邦題「差延」とかいったと思いますが。その中のデリダによる話を読んで、何度も2ch.に書いたこと
ですが、痕跡とか差延とか、面白いには面白いんだけど、ハイデガーと関係ないと思った。デリダによ
れば、ハイデガーの有概念はどこまで行ってもメタ、隠れてしまうもの、とすべきだったのかもしれ
ない。それによって、有概念の政治的利用を避ける意図があったのかもしれない。デリダはハイデガ
ーのナチス加担を重たく受け取った。それで、有をどこまでも隠れて行く、その意味でメタである
ことにしたかったのかもしれない。しかし、それもまた私に言わせれば誤りなので、ハイデガーのい
うSeinをどこまで行っても隠れてしまう、<掴まえられなさ>として表すのは違う。ハイデガーの
言いたいのはそんな神秘でなく、というのも、『有と時』冒頭にあるように、主題は何かが有る、また、
何かで有ること、それだけのことにある。何を言いたいのか分からない。いや、もう分かっている。
あなたは今、「ハイデガーってよく分からない」という有ではないですか。で、「ハイデガーが分かる」
へ向けて、その有に引き付けられている、でもそれが自分にとって何を意味するかは分からないまま
。それがハイデガーのいうSorgeですよ。気にかかる、ですよ。有の方向性だよ。何が言いたいかと
いうと、かように日常の、または非日常の、有が主題なわけで、決してどこまでも超経験的、超絶的
な<覆蔵>ではない。たしかに<隠れ><覆蔵性>は有の契機ではあるが、どこまでいってもメタでよく
分からないもの、とかではない。デリダはそういった神秘にハイデガーを落とし込んで、それでまあ
政治的利用から守ったつもりかもしれないが、また別の弊害を生んだ。たとえば、よく例えるのが
恋愛で、何で好きになったか分からない、でも気になる、忘れられない、という経験てあるでしょう
。あれは私はハイデガー的な経験であり領野だと思う。<有ること>は今この時既に到来しており、その
意味で何ら神秘でもない。また、しかし、同時に、恋愛にもあるように、また、引きこもりなど
の経験にもあるように、自己が制御しがたい局面に引きずり込むものでもある。私はそのように
捉えており、私の場合そこに疑惑はない。
973 :
考える名無しさん:2009/10/20(火) 20:54:42 0
東某という人のハイデガー解釈が貴方にとって衝撃で、魅力的だったということはよく
分かりました。それはそれで良いのではないでしょうか。
あと、ハイデガーの民族主義について。民族を強調しながら、しかし、その時期でも、単独者
の実存史、いわゆる問いとしての「有と時」が棄てられていたわけではない。しかしまた、その
一方で民族に覚醒することを訴えてもいた。そこはハイデガーのナイーブさで、そこの
ナイーブさは私は買わないし、不徹底だったと思いますね。しかし、その時期でも単独者の理
論は放棄されてはいないので、民族もまた歴史の堆積、地層を表すという意味では完全に誤り
ではないでしょう。現に『有と時』ではそうである。あと、故郷としての民族、というと、
まだいくらか分かりやすくはなる。戦後の語り口はそうなるでしょう。柄谷さんのような
まとめ方は、ハイデガーが最も熱烈にナチス党と歩もうとしていた時期にのみ有効だとは
思うけども、それ以外は無効だと思いますし、無理があると思いますね。何度も言うように
『有と時』や多くの作品や講義とはかけ離れてますしね。
>>969 誤読、誤配からくる生産性がありえるとして、
東の引いた図解は、959さんの書かれているように
「歴史性のすっぽりと抜け落ちた現存在の循環モデル」に見えるのですが、
歴史性を持ち込むとしたらどういう変動が図解に起こるでしょうか?
歴史性を持ち込んだ時に東の図解はその形を維持し続けれるものでしょうか?
975 :
考える名無しさん:2009/10/20(火) 23:34:06 0
実存って暗いよね。今の時代にいらない哲学でしょ
ある意味、今の時代にあった哲学だよ、依然として
ハイデガー読むには国際金融団の世界支配みたいな陰謀論が不可欠だよね
それじゃ、ニーチェにするかなぁ
御大層なこと語ってても、第一次世界大戦後のハイバーインフレで
国民の富が消滅した恨みを一生持ち続けただけのおっさんでしょ?
ある特殊な土地と時代に生まれた思想ってことを念頭に置かないとね。
何も考えずにこの日本でハイデガーをただコピペしてもキチガイ扱いされるのは当然
981 :
考える名無しさん:2009/10/22(木) 23:51:20 0
スレ主です。スレッドも終わりに近づき、新スレッドも立ったので、埋め立てのため、私の昔のノ
ートから写してみたいと思います。
ハイデガーの「ヒューマニズムに関する書簡」の中で頻繁に使われている表現として、企投の被投
性ということがある。これは、現ー有からみれば、企投することを差し向けられる、ということであ
ろう。有の内へ摂取されるということが、同時に、現ー有が己れの有を企投するということでもある
。別の言い方をすれば、現ー有の企投が、能動的であることによって、受動的なのである、というこ
とである。よって、企投とは被投である。投げることは、一方、投げるよう仕向けられることである。
被投性について、ハイデガーの言を借りれば、これは脱ー存することだと考えられる。すなわち、
「性起としての有の内に於ける」(『道標』全集版433頁)ことである。逆に企投とは、「有の投げ返し」
(同432頁)になる。
現ー有の企投とは、「有それ自身を<歴運として>遣わす」(同426頁)ことを絶対的受動性として
主体化するその限りにおいて現ー有はハイデガーによれば「有の牧人」たりうるのである。
982 :
し:2009/10/22(木) 23:57:27 0
こたえはねーんだよ
牧人(笑)
守護者(笑)
見守り(笑)
開け(笑)
984 :
考える名無しさん:2009/10/23(金) 07:06:21 0
「有の牧人」だとか「有の番人」という表現の中でハイデガーは、有と人間との関係とは実際、如何
なるものであるのか、一層端的に、明らかに指示している。其処で云われているハイデガーの思索
の中では、これが書かれた1946年の時点でも、また今日では一層顕著になっている世界観の構図
の、重要な転倒が為されている。
ハイデガーの行っている転倒については、「ヒューマニズムに関する書簡」の中でも繰り返し説明
されている箇所がある。たとえば創文社版全集『道標』432頁でいえば、ハイデガーはこう云っている
。「人間は有るものの主人ではない。人間は有るものの牧人である。」彼にやや遅れて登場してきた
サルトルやカミュの思想に比べてみれば、ハイデガーの有論の卓越性は一層くっきりと浮かび上が
るに違いない。たとえばカミュは『シーシュポスの神話』の中で、存在の不条理を訴え、人の生が
果たして生きるに価するものであるのかとしきりに問おうとしている。しかし、ここでカミュが
拠り所としている思考というのは、やはり(人間の)近代的理性に留まっている。そこから「生きる
に価する生」の模索を彼は問うのである。(決めるのは主体性としての人間である。それはやはり
主体主義のバリエーションではないか。という問い)
985 :
考える名無しさん:2009/10/23(金) 11:27:23 0
>それが誤読であるとしても、どこかにそれ以上の生産的なハイデガー解釈がありますか?
ゴミを作るのも生産だからなあ。
しかし何がごみであるか自体が解釈の問題だから生産的解釈一般なんてないな。
どう解釈してみても結局たいしたものは出てこないというのが本当のところではないかな?
>>933 あれは原書と合わせて読むならある種の解説的な訳として悪くないよ
ただ日本語だけで読むと確実に誤解を避けられない日本語になっているところ多数だけど・・・
987 :
考える名無しさん:2009/10/23(金) 12:55:19 0
>>985 >どう解釈してみても結局たいしたものは出てこないというのが本当のところではないかな?
という点については賛成。もちろんハイデガーに関してだけだが。
「生産性」とそれに繋がるような「たいしたものが『出てくる』かも」
という期待でハイデガーを思考すること自体、
まぁ違うんだろうね。
風を感じて「これは風力発電に利用できる」と即考えるような思考の在り方とは
ハイデガーは無縁だから。
ハイデガーなら俺の横で寝てるよ
990 :
sage:2009/10/23(金) 20:27:44 0
『シーシュポスの神話』の中でカミュは、不条理な世界に対する二つの態度を提示している。一つ
は不条理を認め、無為を決めること、負けを認めること、すなわち自殺。今一つは不条理を直視し、
対決し、その暗黒に対し、絶えざる照明を当て、それによる透明性を確保すること。後者について
カミュは反抗と名付けている。この概念がのちにカミュのもう一つの大きな哲学的エッセイ『反
抗的人間』に結実したことは疑いない。
反抗概念を『シーシュポスの神話』に辿って気付かされることがある。それは、反抗概念の、サル
トルとの近接性である。カミュが上記のように書くとき、それはサルトルの姿勢をも射当てている
かに思われる。1960-1970年代にかけてのサルトルは、初期の対自存在の哲学に徐々に変更を加え
、人間を規定する様々な桎梏に照明を当て、文字通りその状況の暗さに透明性を確保せむとした。
このサルトルの姿勢はまさにカミュの言った反抗と呼んでよいものだろう。
1970年代のサルトルのインタビューがある。それによると、ハイデガー的な有 Sein
の超越性は、自分にとっては疎外である。よって、自分はハイデガーの唱えるような有の
を、その包括されてゆくことを、偉大なこととは考えない…。このサルトルの言葉は彼
の立場のハイデガーとの差異を明確に表して興味深い。絶えず、己れと己れを取り巻く状
況に対し可知性を要求した、それによる透明性の確保を求め、膨大な言説を遺したサルト
ルの立場ーやはりそれをカミュに倣って反抗と呼びたいーがよく表れている。
恐らく、サルトル的に疎外と呼ぶか、それとも有の開けと呼ぶか、それは二つの立場が共
に可能である以上、どちらとは決められないだろう。ただ、絶えざる可知性、知解を要求す
るサルトルの哲学は、時によって息苦しさをももたらすだろう。
なお、参考のため、『シチュアシオン\』に収録のインタビューを一部抜粋する。
サルトルー「存在」へと逆行するどんな関係も、あるいは「存在」へ開かれたもの(ouverture
a l'Etre)、前にも後にも己れを条件付けるものとしての「存在」を想定しているところ
の、「存在」に向かって開かれているどんなものも、わたしには一つの疎外だと思われます。
わたしが言いたいのは、「存在」に向かって開かれているものを「存在」自体が条件付けている
限りにおいて、わたしは「存在」を拒否するということです。(『シチュアシオン\』42頁人文
書院)
992 :
考える名無しさん:2009/10/24(土) 00:27:53 0
「存在と時間」のテキストは、何が良い?
994 :
考える名無しさん:2009/10/24(土) 00:48:00 0
王道ですね
995 :
考える名無しさん:2009/10/24(土) 17:58:30 0
マルティンなんてただ長いだけだろう。
存在と時間、最初の60ページ読んでみてゲップがでるよ。
リュデイガー・ザフランスキーの『ハイデガー』のなかで彼は、ハイデガーの最初期の講
義「哲学の理念と世界観の問題」の中から、近代的思考の始まりのなかで、何が起こったの
かをハイデガーが解説するくだりを簡潔に定式化している。この部分は、後の講義「形而上
学の根本諸概念」のなかの予備考察第14節「フランシスコ・ケアレスの形而上学概念と近代
形而上学の根本性格」のなかでも指摘された、近代的思考形式における<この自我>の排除
を既にハイデガーが発見していたことを如実に表している。ザフランスキーの筆を追って
みよう。
《彼(ハイデガー)は、われわれが世界に対する理論的な立場、つまり通常「学問的」と呼ばれ
ている立場に立つときに、そこで何が起こっているのかを目も眩むような光の中に置こうと
する。いわゆる「客観化する学問的な立場」にあっては、われわれは本源的な意識、周囲世界と
いったもの、体験的なものを視界から消してしまって、その何ものかのまとっている衣装を
脱がせて「裸の」対象性にまでしてしまうからである。これがうまくゆくのは、われわれが
体験する自我さえも引き抜いて、作為的な新しい自我、二次的な自我を作り上げるときだけ
である。そこではこの二次的な自我が、「主体」という名がつけられて、「客体」という名を
つけられた同じように中立的な「対象」としかるべき中立性の中で向かい合って立っている。
》(『ハイデガー』ザフランスキー144-145頁 法政大学出版局)
ザフランスキーが著書『ハイデガー』で取り出した、‘主観ー客観’図式の敷衍化の問題は、『形而
上学の根本諸概念』(全集29/30巻)でも述べられており、そこでのハイデガーによる主張とは、
近代形而上学の根本性格として、問う者の自我や意識が共に問いの内に付されるということがある
が、実際のところ、それは或特殊なやり方でそうであるに過ぎない。どのようなやり方かといえば、
それら、自我や意識とは、確実で自明な基礎という形で入ってきているにすぎないのだから、問う
者が共に問われているとはいっても、それは、問われないという形で入ってきているにすぎない。
ハイデガーのこの指摘は、学の端緒において為される基礎づけがいかなるものであるかを射当てて
いる。つまり、共同主観的ならざる自己性がこのとき問題になるのであり、それを逸するその限り、
自己性は共同主観性に取り込まれている、ということが言えるのである。(この指摘は柄谷行人の
『探究U』にも似ている。が、柄谷はハイデガーにそれがあることに盲目である。)
ハイデガーはそこでこう謂っている。
《(…)近代哲学において、問うている自我が共に問いの中へと置かれるという事態が表現に達している
かどうか尋ねるとしたら、われわれは、たしかにそのとおりなのだが、しかしそれは、或独特の仕方で
においてそうなのだ、と答えざるを得ないのである。というのも、じつは、自我、意識、人は形而上学
の内へと取り込まれてはいるけれども、それはまさにこの自我が問いへと置かれないという仕方にお
いてそうなのである。これは要するに問いへと置くことを怠ったのだ、などということではない。
(続き)そうではなくて、自我と意識とははっきりと最も確実で疑問の余地なき基礎としてこの
形而上学の根底に据えられてはいる。しかし、それは、近代形而上学じにおいてはまことに特別な
、すべてを含み込む問うことが、出現するという仕方においてなのであり、つまり、問う者を共に
含み込むとはいっても否定的な意味でそうなっている、というような仕方においてなのであり(…
)(『形而上学の根本諸概念』創文社全集版92頁)
問う行為の中でこぼれ落ちて行く主体の問題をこのように爼上にのせたことは、ハイデガーの
功績の一つだろう。この問題は上記のように柄谷行人によって1980年代に取り上げられたが、柄
谷の断定ーハイデガーに単独性の問題はない、「この私」の問題はない、とするーに反して、問題意
識として念頭におかれていたというのは確認できることである。そもそもハイデガーにおける世
界性の問題からして既に、通約し得ない領域を指しているわけだから、講義の中で問う主体の問題
が出てくるのも当然な話だと言える。
新しいスレッドで釣りのような疑問が書かれており、ハイデガー有論と吉本隆明幻想論のどこが
関係するのか、と書かれている。釣りっぽい感もあったが、他にも同様に感じている方があるかも
しれぬので、この問題に関連した箇所もノートから抜き出してみたい。
§生の必然性と真性
ハイデガーの真理論は、吉本隆明の幻想論と非常に似通っており、何よりも、それが人間の生を
根底的に拘束し、所謂、<絶対的仮象>という形態で、人間に対して、<世界(ハイデガー的な)>を
裂開する所がそうなのである。両者とも、人間の生に対して、必然性、吉本の言葉でいえば不可避
性という力を以て迫ってくる。ぼくはこういった所謂不可避性という形で人間の生を捉え、真理と
の関わりで論じたことのある思想家は、ハイデガーと吉本隆明、その前梯としてのニーチェだけで
はないかと思う。その鍵は、生の必然性を真性との関わりで捉えきれるか、という所にある。改めて
言うまでもなく、ここでの真理とは<絶対的仮象>としてである。すなわち、吉本のタームを用いる
なら、人をして引きずる真性としての幻想である。それは以下のように語られている。
《このように思惟するなら、我々は軽率であり、誤謬としての真理が一つの必然的価値であること、
そして芸術的変容という意味での仮象が真理に比べてより高い価値であることを忘れている。ここ
で必然性とは、生の本質の存立と本質の実行とに帰属していることを、意味する限りは、そしてそ
のような帰属性が「価値」という概念の内実をなしているなら或る一つの価値は、それがより高い
位階のものであればあるほど、それだけ一層深い必然性を呈示するのである。》(『ニーチェT』真
理と「真なる世界と見かけの世界」という区別 創文社全集版542頁)
1000 :
考える名無しさん:2009/10/25(日) 19:29:58 0
ようやく1000まで辿り着けました。2008年7月に立てられ、1年以上に渡り、色んな人が書いて
くれたと思います。釣りや落書き的なものが続くときもあり、中にはひどく生真面目な人や、俺が
皆に教えてやるという感じの方、色んな人がいて、さすが2ch.と感じました。
新しいスレッドも恐らく遅々として進まないスレッドとなることを勝手に予想しています。そう
いう感じのスレッドがあってもいいと思っています。毎年夏にハイデガー・フォーラムが関東や
関西の大学で開催され、私も一回行きましたが、盛況してました。老若いらっしゃって、質疑応答で
も面白かった。ハイデガーの読者の幅広さを目の当たりにしました。
とにかく、ずっとこのスレッドを見ていた方、お疲れさまでした。また新しいスレッドで。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。