◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない131◆

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789伏蔵 ◆p1AdJ397o.
■機械論とアフォーダンスと「配置(disposition)」

疎外と調和の間

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世界は配置(disposition)であり、人間は自らを取りまく配置によってたえず態勢づけられている(disposed)。 

「ディスポジション―配置としての世界」 (ISBN:4773808063)
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「配置(disposition)」を考える場合に、二つの極限がある。一つは疎外論である。機械の発
達によって人の身体が機械の部品として組み込まれている、ということ。もう一つがア
フォーダンスである。野生生物は環境と調和的な関係の中で自らのあり方を規定する。環
境に対する疎外と調和の間に「配置(disposition)」がある。

たとえば人間工学は「物や環境を人が自然な動きや状態で使えるように設計する工学」と
言われる。たとえば機械制御板では非常停止はわかりやすく大きく赤いボダンで配置され
ている。もしこれを他のボタンと同じ色で同じ大きさで、適当なところにおいていては、緊急
時にすみやかに押すことができない。もしそのようにしてボタン操作ミスが起これば、それ
を人為的ミスと考えずに、設計ミスを考える。

これは一見、便利な社会であるが、ここにはすでに「人の自然な状態」が想定されている。
それは人に共通の基盤としての生物学的なものが求められる。すなわち科学的に探究さ
れる「自然状態としての人」へと人が教育されていく。そこにあるのは、資本主義的な効率
性をめざす経済的な主体が正しいというイデオロギーである。
790伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/07/28(月) 16:12:01 0
物象化と「配置(disposition)」

マルクスは人間が自然と調和し生きる自然状態=「類的存在」に対して、資本主義の分業
とそのための労働に人間を組み込まれる疎外を指摘した。しかし「類的存在」は一つの抽
象であって、実働的な運動において意味を持たないという反論から、その後に物象化論へ
と移行する。

物象化論は人間と環境は生産活動を通して相互に影響しあい変化する関係にある。資本
主義社会では人の関係が商品の関係に代替されることで、新たな疎外を生んでいると考
えた。物象化論は、単純な疎外でも、調和でもなく、その間で変化し続ける関係であり、「配
置(disposition)」の本質がある。

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かつてマルクスは、「精神と自然との統一」=人間、という範式で観じ、かの二元的な対立
性の統一を「人間」に求める構図を採っていたが、『ドイツ・イデオロギー』とそれ以降では、
「人間と自然との統一性」の過程的現場が「産業」に看る。今や、主観性と客観性・・・等々
の二元的対立性を実践的に止揚・統一する場が「産業」に定置される。

人間と自然との産業の場における統一という言い方をすると、さながら、人間というものと
自然というものとがまずあって、事後的に両者が結合されるのであるかのように響くが、生
態系的な関係の第一次性こそが真諦である。自然は産業の場で人間と媒介されてはじめ
て現前的自然として現存するのであり、人間は産業の場で歴史的・現実的・実践的に自然
と媒介されてはじめて現に在る人間として存在しているのが実態である。P43-46

「物象化論の構図」 廣松渉 (ISBN:4006000391)
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791伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/07/28(月) 16:12:54 0
「配置(disposition)」の固さ

それでもボクが考えているのは「配置(disposition)」の固さである。ディスポジションは冷た
く、固い。それは労力にかかわっているだろう。主体と「配置(disposition)」には物象化した
相互関係はあるが、労力の点であまりに大きな差がある。労力をかけて作られた「城壁」は
そう簡単に崩せない。まさにその意味で固いのだ。

この簡単に崩せない固さはハイデガーのいう道具の「信頼性」に繋がるだろう。道具はそれ
が当たり前すぎて気づかないほどにただあることに本質がある。だれが道路は便利だと考
えて歩くだろうか。まさに道路は「城壁」=固い「配置(disposition)」である。

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畑にいる農婦は靴を履いている。ここではじめて、靴は靴にほかならないものである。農婦
が労働にさいして靴のことを考えなければ考えないほど、あるいはそれどころか靴を注視
しなければしないほど、あるいはただ感じさえしなければしないほど、それだけ靴はますま
す真正に靴がそれであるところのものとなる。

道具の道具存在はその有用性にある。しかし、有用性そのものは道具の本質的な存在の
充実の内に安らっている。われわれは道具のこの本質的な存在を信頼性と名づける。この
信頼性の力によって農婦はこの道具によって大地の寡黙な呼びかけの内に放ち入れられ
ており、この道具の信頼性の力によって彼女は自分の世界を確信するのである。世界と大
地とは、この農婦にとって、そして彼女とともに彼らなりの仕方で居る人々にとって、ただそ
のように、すなわち道具において、そこにある。・・・個々の道具は使い古され、使い減らさ
れる。しかし同時に、それとともに使用することそれ自体さえも使い減らされ、すりへり、習
慣的なものになる。P40-44

「芸術作品の根源」 マルティン・ハイデッガー (ISBN:4582766455)
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792伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/07/28(月) 16:13:30 0
僕達は「城壁」に囲まれ暮らしている。そして「城壁」によって訓練されることで同一性が保
たれている。だからこの固さがなければ解体されてしまう。すなわち「配置(disposition)」の
道具有用性のもつ権力によって人は規定される。しかしこのような権力の作動は物象化論
のような超越論的(物神性)、すなわち言語によって行われるのではない。

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マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商品)それ自体がおのれの場所を信じてい
る、という点である。つまり、信仰や迷信や形而上学による神秘化は、合理的で功利的な
人格によって克服されたかのように見えるが、じつはすべて「物どうしの社会的関係」の中
に具現化されているのである。人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体が人間
のために祈っているのだ。・・・むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用
的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。P55

「イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイ ジジェク (ISBN:4309242332)
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793伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/07/28(月) 16:14:10 0
「配置(disposition)」によって「規則に従う」ことを訓練する

固い「配置(disposition)」の権力はもっと実践的に働く。「城壁」の向こうに行ってはいけな
いという規則を教えるのではなく、そこに「城壁」があるからそれ以上行けないことを教え
る。「城壁」の前を通り過ぎることを繰り返すことで、「城壁」があるからそれ以上行けないこ
とが当たり前すぎて気づかないような仕方で日常の中で訓練され、慣習化される。人に「規
則」を教えるのではなく、「規則に従う」ことを訓練する。

この「配置(disposition)」の固さそのものは問題であるとは言えない。「配置(disposition)」
という基盤を元にした訓練によって、人は社会的な成員となる。しかしまたそれは「当たり前
さ」は自然状態などではない。舗装された道路には効率的に交通する目的があり、効率性
をめざす経済的な主体が正しいというイデオロギーがある。再度言えば、その思想の受容
は超越論的(物神性)、すなわち言語による教育のその前に「配置(disposition)」による訓
練によって始まっているのだ。(つづく)