348 :
伏蔵 ◆yckW855o/k :
F「合法的享楽」装置としてのネット、オタク文化
動物化と言われるところには、「合法的享楽」装置としての一面があるのでしょう。たとえば
オタクは動物化していわれるときも同様です。斉藤環はオタクが戦闘美少女へ萌えるとき
に「享楽」へ近接していることを指摘しています。
動物化の特徴は、人間くさいものは嫌われ、無機質なものが好まれるという他者回避に特
徴があります。たとえばオタクの萌える対象である二次元ロリキャラは、基本的に「人形
(フィギュア)」でしょう。だから容易に機械や戦闘と結びつきます。
機械は本質的に身体の拡張として発達すると言われます。機械が生み出す周期的なリズ
ムと力の増幅は全能感とともに陶酔(トランス)を呼び起こします。たとえば車を運転して飛
ばしたときの爽快感は享楽的な面を持ちます。機械化された戦闘美少女が世界を痛みなく
世界を破壊することにある種のエクスタシーを感じるのだと言えます。
また2ちゃんねるは掲示板と言われますが、多くにおいてはチャットです。さらにVIPでは
チャットも超えて、コミュニケーションのるつぼである。どこまでコミュニケーションする内容
が交換されているわからない中で、リアルタイムでレスが交換されてつづける、そのリズム
に陶酔的な快感がうまれます。それはまさに「祭り」です。炎上も確信的な「祭り」といえる
でしょう。
あと最近のクラブミュージックでは、テクノ、トランスなど、歌詞は排除され、終わりないリズ
ムの繰り返しが陶酔を生み出します。原始音楽への回帰のような傾向があります。このよ
うに考えると、ニコニコ動画は、オタク系ロリキャラ、機械声、ダンスミュージック、疑似共時
的な大量のレスと、まさに「合法的享楽」装置の要素がそろっているのは驚きです。
349 :
伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 15:24:42 0
Gなぜ「加藤」はオタクへ突入したのか
「政治的な動物化論」、人々は動物化によって充足するというのが、東浩紀の意見です。そ
して宮台真司は充足しきれずにオチこぼれる人々がでてくるので、再度、社会性(象徴界)
のようなもの(サイファ)を再生する努力が必要であるということです。
その中で「秋葉原事件」が起こりました。この事件を東はテロだといいましたが、あれがテロ
とすれば、オタクへのテロではないでしょうか。「オタクになれば動物化して充足するといっ
たじゃないか!」と、秋葉へ突入した。そこには逆切れであるとしても復讐があった。
これは、オタクになれなかった「加藤」だけの問題でしょうか。この事件で重要であるのは、
「加藤」が有望な動物化装置であるはずの、オタクとネットからこぼれ落ちたということで
す。そして「加藤」が暴露したのは、オタク、ネットの「合法的な享楽」装置の脆さでしょう。
それは、「享楽装置」もまた欲望の支えがなければ、成立しないということです。たとえば同
様にオタクとネットをキーワードにした「電車男」を例にいえば、あの物語で重要なことは、
オタクはキモいということです。そこにあるのはオタクではない「一般人(普通)」との差異で
す。この卑下こそが逆説的にオタクのアイデンティティになり、オタクコミュニティの団結を生
んでいる。すなわちオタクはオタクを欲望する。
これは2ちゃねらーにもいえるでしょう。モラルのある「一般人(普通)」に対して、モラルのない
キモい人々としての2ちゃんねるが、マスメディアに取りあげられ、社会的な影響を与える。
そこにアイデンティティとコミュニティが生まれました。
350 :
伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 15:25:21 0
このような欲望、すなわち社会性を担保にして、はじめて「合法的な享楽」装置として作動
することができます。だから「電車男」以降、みながオタクに、アキバにそして2ちゃんねる
に殺到し、「一般人(普通)」との差異が解体され、オタクが欲望の対象でなくなり、アイデン
ティティもコミュニティを維持できなくなったとき、「合法的な享楽」装置としての機能も消失し
ました。そして加藤のように管理不可能な享楽へと捕らえられたものが現れた。
そのために彼らはたえず「一般人(普通)」差異化、新たなニッチ、タブーへとむかい、欲望
を生み出し続けなければならない。しかし、人は簡単に次に移れるものでしょうか。そこに
は世代論が生まれる。一度アイデンティティとコミュニティオタクと獲得したオタク第三世代
が、自らを場から引っぺがして、ニコニコ動画などの第四世代へ向かうことはそう簡単なこ
とではないでしょう。
「加藤」の例は極端な例であったとしても、オタク第三世代は難民化しつつあるのではない
でしょうか。「萌え」自体が消費され死語になりつつあり、合法的な享楽装置としての機能を
果たさなくなりつつあります。
351 :
伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 15:25:58 0
Hオタク第三世代の難民化
たとえばオタクは趣味に労力を割くのだから、生産的な労働そのものは重視されず、下流
になる可能性のが高い。それでもオタクが「動物化」するとは、きつい労働も、退屈な日常
も、オタクという満足によって充足するという楽観論があったように思います。
現在、格差社会を生み出しているネオリベラリズム(新自由主義)でさえも動物化の「環境」
でした。多少貧しくても、好き勝手にやらしてもらえる「消極的な自由」によって動物化して
充足するはずだと。しかし「萌え」による合法的な享楽装置としての機能が衰え、また経済
的に下流としても取り残されてしまった。
このために、最近になって「金がなくてセカイに閉じこもれねーよ!」「動物になれねー
よ!」、「政治に興味持たないでいたらすごい若者に損な政策ばっかやりはじめたよ!」と
いうクレームをあげられはじめています。あるいは最近の新たな思想誌ブームは、難民化
したオタク第三世代がなだれ込んでいるという現象ではないでしょうか。だから彼らの言説
にはどこか「セカイ系」の香りがする。
動物化が合法的な享楽装置として機能するためには、その基盤として新たなニッチ、タ
ブーとして欲望を生み出し続けなければならない。そしてその差異化される運動の中でそ
のときに絶えず難民が生まれるでしょう。それは従来ならば「大人になる」ということかもし
れません。しかし大人になるための「去勢」するほどの大きな物語は存在しない。また経済
的に救われないとすれば、もはや「政治する」ことから逃れられないでしょう。そして動物は
政治をしないのだから、「政治的な動物化論」は破綻してしまっているといえるでしょう。
352 :
伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 15:26:47 0
I<帝国>という脱構築and合法的享楽装置
ネオリベラルリズム(新自由主義)−ポストモダン−動物化は、ネグリ−ハートの<帝国>論
に繋がるグローバルな世界観でしょう。これは「社会学的な動物化論」に繋がります。
>>
ポストモダニズムは、じっさいのところ、それによってグローバルな資本が作動する論理な
のである。マーケティングは、おそらくポストモダニズム理論ともっても明快な関係をもって
おり、資本主義のマーケティング戦略は、その用語ができる前からずっとポストモダン的な
ものであった、と言うことさえできるだろう。他方では、マーケティングの実践と消費者による
消費は、ポストモダニズムの思考を発展させるための最上の土壌である。P198-200
資本主義市場が、内部と外部を分割しようとするあらゆる企てにつねに逆らいつづけたきた
ひとつの機械であるということをここで思い起こしておくのが有益であろう。・・・そして資本
主義市場のこうした傾向の到達点は、世界市場の実現によって画されることだろう。・・・
私たちは世界市場の形態を、<帝国>の主権の形態を完全なかたちで理解するためのモデ
ルとして使用してもさしつかえないだろう。P246
<帝国> アントニオ・ネグリ マイケル・ハート (ISBN:4753102246)
<<
ネグリ−ハートは<帝国>に対する抵抗として、マルチチュードをみいだすそうとしている。し
かしマルチチュードはだれなのか。オタク、2ちゃねらーはマルチチュードなのか。
マルチチュードが必ずしも<帝国>に対する「政治的な」対抗として見いだせるのか疑問があ
ります。マルチチュードが<帝国>という閉塞に対する合法的な享楽装置としての機能すると
き、それは<帝国>を維持するための必要条件でさえありえます。この場合に、ボクたちはど
こに<帝国>に対抗する言説を見出すことができるのでしょうか。
動物化を単に怠け者の行為として片づけることができないのは、このような脱構築and合法
的享楽装置は、経済的な格差とともに構造化されつつあるということです。