資本とネーションと、時々、国家 10

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328伏蔵 ◆yckW855o/k
■動物化論の限界  動物化と享楽の表裏 その1

@欲求、欲望、享楽の違い

まず欲求、欲望、享楽の違いについて、わかりやすく「食」を例に説明しましょう。

欲求・・・「動物」。空腹だ、食べた、満腹だ。

欲望・・・「人間」。みんなが望むものがほしい。彼が食べてるラーメンうまそうだ。いやテレ
ビでやってた寿司がうまそうだ。いやおしゃれなレストランで食べると味が違うよね。たくさ
ん頼んでちょっとずつ食べるか。・・・と食に終わりがない。60億人で地球の資源の枯渇が
言われているのは欲望のためです。人も動物のように欲求するだけなら、たかだが60億
人程度なら、余裕で地球資源はまかなう事ができるでしょう。

享楽・・・「狂人」。欲望の先にあります。すべてのものは食べ飽きた。残るのは人肉だ。こ
れはある意味、究極の享楽です。より日常的にいえば、拒食症、過食症などでしょうか。
329伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 11:14:08 0
A社会学的な動物化論

「動物化」とは、豊かな社会では容易に食料が手にはいるために、もうあれを食べたい、こ
れを食べたいという、食への欲望がわかない。そのまえにすでに食が満たされてみたされ
てしまう。もはや動物が欲求をみたすようだ、ということです。ヘーゲルの解読からコジェー
ブが考えた概念です。

だから動物化と「環境」は密接な関係にあります。動物化は欲望する前に速やかに満たさ
れる「環境」によってうまれます。たとえばマクドナルドでは、規格化されたものを安価で速
やかに提供する。人々はまるで家畜のように腹を満たしている、と表現されます。だから動
物化とマクドナルド化は密接な関係になると言われます。

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なぜ、市場原理主義が貧しい形式的合理主義・マクドナルド的な再帰性に陥るのか・・・マ
クドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性において
は、質より量を重視する。

マクドナルド化は、形式的合理性の内部に留まり、実質的合理性を欠く事態を指す。ここか
ら形式合理性の内部で反射的に振る舞う「マクドナルド的主体」という概念が導き出され
る。哲学者の東浩紀は、この「主体のマクドナルド化」と「動物化」という概念で記述してい
る。「動物化」とは、・・・通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動する
「マクドナルド的主体」を指すものと考えられる。

「ネオリベラリズムの精神分析」 樫村愛子 (ISBN:4334034152)
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あるいは東浩紀が、オタクが動物化しているというのは、大量の快楽情報に満たされて、
欲望ではなく、欲求によって満足している、ということです。豊かな社会、「環境管理」が発
達した社会では人々が動物化します。このような意味での動物化論に反論する人は少な
いと思います。これを「社会学的な動物化論」と呼びましょう。
330伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 11:15:22 0
B政治的な動物化論

動物化論のもう一つ面は、人は動物化して家畜のように満足して生きていけるだろう。とい
うことです。これを「政治的な動物化論」と呼びましょう。

たとえば豊かな社会では容易に食料が手にはいるために、食への欲望が希薄化し、欲求
によって充足するされるそのときに、享楽に近接しているということです。家畜のように生き
ることに耐えられなくなるとき、その孤独から強く他者を求める。しかし他者への通路として
の欲望が希薄しているために、過剰に「食」を求めてします。それが拒食症や過食症など
の自傷的な過剰として現れる。
331伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 11:16:32 0
C「不可能性の時代」

大澤は、戦後日本を、「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」と分類しました。

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「理想の時代」・・・1945年から1970年まで。モダン、大きな物語、欲望

「虚構の時代」・・・1970年からオウム事件が起きた1995年まで。ポストモダン、大きな物
語の凋落、欲望の流動化、シミュラークル

「不可能性の時代」・・・1995年から。動物化、享楽

「なぜリストをカットするのか? 大澤真幸「現実の向こう」  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050318#p1
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欲望とは他者の欲望を欲望することといわれるように、社会性と深く結びついています。み
んなが望むものがほしい、ということです。「理想の時代」→「虚構の時代」で大きな物語が
凋落するとは、共通基盤としての社会性が希薄化することです。すると欲望するみんなが
見えなくなり、小さな物語化へと分散します。

それとともにシミュラークル(虚構)化します。なぜなら欲望はリアリティに関係するからで
す。リアリティという「正しさ」は社会性によって支えています。みんなが正しいということが
正しいという構造を持ちます。さらに正しさへ人々を引きつけるのは、みんなが望むもの
(対象a)がほしいという欲望なのです。だから欲望の希薄化はそれぞれの人の間で、ある
いはそれぞれの場によって、多様なリアリティと形成するというシミュラークル(虚構)化します。
332伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 11:17:14 0
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<対象a>は、「快感原則」に支配された心的装置の閉回路の裂け目として、つまりその閉回
路を「狂わせ」、無理やり「世界に眼を向けさせ」、世界を考慮に入れさせる裂け目として、
実際に機能する。<対象a>は現実を支える役割をするというラカンのテーゼは、そのような
意味に理解しなければならない。われわれが「現実(リアリティ)」と呼ぶものへと至る道は、
「快感原則」の閉回路の中の裂け目、その中心にいる邪魔な侵入者をかならず通過するの
である。心的経済において「現実」の占める位置は、「過剰」の位置、つまり心的装置の自
己満足的な均等の自足の内側から妨害・阻止する剰余の位置である。

汝の症状を楽しめ スラヴォイ・ジジェク  ISBN:4480847081
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大澤が「不可能性の時代」というのは、より確かなリアリティをもとめて、欲望(象徴界)の向
こうの享楽(現実界)=「暴力的な現実」を求めてしまうということです。その例として、オウ
ムの虚構(ハルマゲドン)と暴力的現実や、リストカットのような自傷行為(トラウマになりか
ねないような暴力的な現実へあえていく逃げていく例。痛み以上に直接的な現実はない。)
などをあげています。

そもそも欲望は享楽を回避する装置として作動しています。たとえば人々はお金を欲望し
ますが、なぜお金がほしいのか。それは単に衣食住を満たすためではありません。その先
にある「充実したなにか」を求めてです。しかし「充実したなにか」とはなにかはわかりませ
ん。お金という欲望は、みながお金を求めているのだからその先に「充実したなにか」があ
るのだろうと、延滞し続けることで、人々を社会的な活動に向かわせています。これが欲望
の機能です。

しかしこのような欲望の機能が希薄化すると、直接的に「充実したなにか」を求めてしまい
ます。それは決して到達しない「不可能性」であり、独我的に社会性を逸脱、破壊して進み
ます。それが享楽です。
333伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 11:17:50 0
D暴力化する社会

たとえば90年以降に「暴力化している」というのは、実際に若者の犯罪率は上がっていな
いこととは関係がありません。「理想の時代」の方が犯罪率は高いです。それらは社会的な
理由が明確です。犯罪をおこす人には貧しい、社会的な疎外などの境遇から犯罪にいた
る、とみんなが犯罪には理由があると信じられました。

しかし「不可能性の時代」の犯罪は、そのような社会的な理由が見えない。最近の少年の
狂気的な犯罪、たとえば最近の秋葉原事件など親が厳しい、派遣がつらい、そりゃわかる
けど、いきなりあんな凶行することの意味が不明です。

昔はヤクザや不良など、危ない格好をしている人を避ければ良かった。しかしいまはむしろ
危ない格好をしている人は、あえて怖くみせているのだから、自覚があるから大丈夫です。
むしろ普通の格好をしている人こそがなにをするかわからず危ない。電車で隣のおとなし
そうなサラリーマンリーマンがいきなり暴れ出すことがありえる。するとなにを信じていいの
か、人々は日常の狂気に疑心暗鬼になる。

たとえば、近年、人々は「怒る」のではなく、「キレる」と言われる。怒るのは感情的になりな
がらもそこに正しさがあり、そこから逸脱していうことへの反論としての意味があります。
「おまえそれが違う(正しくない)だろう!」と他者への正しさについてのコミュニケーションが
成立していることが前提とされている。しかしそのような「正しさ」が希薄化すれば、人々は
「おまえそれが違う(正しくない)だろう!」「怒る」ことがむずかしくなる。コミュニケーション
(交渉)の欠落は、ディスコミュニケーションから突現の暴力表現に短絡する。それが「キレ
る」です。
334考える名無しさん:2008/07/22(火) 11:28:53 O
死ね
335伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 11:37:58 0
B日常化する「合法的享楽」装置

だから「政治的な動物化論」を成立させるためには、欲望を満たすとともに、「合法的な享
楽装置」を用意する必要があります。

「合法的な享楽装置」として、一般的なものが、「祭り」でしょう。「祭り」そのものは社会に埋
め込まれたものであり、神への祈りを通して、共同体の秩序を確認し、結束を強めるもので
すが、その中で生み出される興奮によって享楽へ近接するという「合法的な享楽装置」とし
ての機能があります。

多くの祭りにおいて重要であるのが、リズムです。太鼓などの反復するリズムと踊りの中で
人々は陶酔(トランス)状態にいたる。祭りの興奮は集団的な効果によって生まれるもので
あるが、そに生まれる陶酔(トランス)状態は言語(制度、儀礼)を超えた身体的な興奮で
す。そしてその先に日常では禁止された性的なものの開放があります。

祭りは、年に一度、享楽を開放することを許すことで、日常の閉塞を発散する役割をしてい
ます。特にこのような祭りの享楽性は、「制度化した宗教およびその儀礼」以前の原的な祭
りにその傾向は強く現れます。
336伏蔵 ◆yckW855o/k :2008/07/22(火) 11:38:38 0
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バタイユの考えでは、原始社会の「交換」は、功利的な意味合いを持たず、有用性と結ば
れていない。・・・原初の人々は・・・生存を維持し、再び労働できるために自分たちで消費し
た。だがその前にまず<初物を捧げる>という仕方で、精霊たちや神々に奉納する祭りを
行った。

富を消費することが、再び生産活動が円滑に運ぶためにという目的を考慮して実行される
のではなく、非生産的なやり方で消費されることになる。・・・それゆえバタイユは・・・<消尽>
と呼ぶ。

しかし<神々に捧げる物を贈る>祭りは、次の飼育や収穫でも豊饒であるよう祈願している
のではないか。再生産がうまく運ぶように気づかっているのではないか。・・・だが<豊饒の
祈願>という観念は、もっと後代の<制度化した宗教およびその儀礼>から逆向きに推論して
抽出した観念である。P105-106

「バタイユ」 湯浅博雄 (ISBN:4061597620)
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現代は、日常が劇場化、祝祭化している言われます。街は舞台であり、毎日が祭りのよう
であると。これも「不可能性の時代」に関係すると思われます。大きな物語の凋落、欲望の
希薄化によって享楽に近接する。その場のノリ、興奮によって、享楽に近接することでし
か、リアリティを感じることができない社会ということです。