ソクラテスは偉大な賢者だといわれます。
勇猛果敢なフィロゾーフだと感じる人もいます。
その人たちがそう感じるのはソクラテスが処刑されたからで、
「知が血を呼ぶ」と思ったからではないでしょうか?
株価没落! しかも世界規模!
なるほど世界の60億人のみなさんもサバイバルモードなんですね。
私一人の不幸に同情していただき共有していただけるとはまさか思いもよらないことで、誠に恐縮の念にたえません。
こうして血で結ばれた私たち人類はいまアウシュビッツ行きの列車に乗っていたりするんでしょうか?
ここは寝て待つとしますか?
復活でも死でも。
それにしても、歴史的動きに巻き込まれるというのは一興でしょう。
私は一人寂しく野垂れ死にするかと思ってましたよ。
私には恐慌なんて効かない!
すでに一人で滑稽にも恐慌に陥っていた!
江頭なめんなよ。
申し訳ありません。取り乱してしまいまして、お恥ずかしい限りですm(u_u)m
恋は創造なのか?
そうなら誰の創造なのか?
人間の生理によるものではないのか?
生理とは一種の法則ではないのか?
メカニズムではないのか?
恋における法則はないのか?
一般的に不細工は恋の対象になりにくいという法則はあるのか?
では恋を創るとするならば、不細工は直したほうがいいのか? ハゲは直したほうがいいのか? 余った脂肪は落としたほうがいいのか?
清潔にしてたほうがいいのか? 話が上手であるほうがいいのか?
五体満足であるほうがいいのか?
健康であるほうがいいのか?
定職があったほうがいいのか?
おお、先験的形式主義者たちよ !!
男は中身だ!
なんだってんだ。
馬鹿といえば怒るような形式的で機械的な人間の感性はメカニズムである。
創造的なもの、芸術的なものは、人間が生理的に先験的形式主義者であるから、 どうしても、ある「生理的尺度」によって認識され、判断され、それと評価されるのである。
黄金比というのもあるが、多少個人差はあるにしろ何が芸術的なのかということは形式的に決まってくるのである。
なぜなら嗜好なんてのは生理的に決まるからだ。
生理はメカニズムであり、形式的なものだからだ。
ぶっちゃけ排泄物だって創造物なんであるが、なかなか排泄は創造、芸術という肯定的な評価を与えていただけないだけである。
頭きた。
創造と排泄を差別する尺度はまず「生理」にすぎない。
あるいはまた「習慣」であり、そして「利害関係」などにすぎない。
本来このレスだって創造とえるはずだ!
どこのコピぺだってんだ! 創造じゃねえか。今までなかったんだ、宇宙の初めから今の今までなかったんだ! 創造じゃねえか。
ただおまいらがこれは駄文だというだけなんだ。
馬鹿らしい。
「創作」というのは人間の生理的メカニズムに合う生成物、あるいは排泄物さ。 人間は先験的形式主義者であり、その好みの形式に合う生成物が芸術であり創作と呼ばれるにすぎないのだ。
私がどれだけ生成してきたことか。
しかし排泄物といわれ創造物とはいわれない。
要するに創作、芸術かいなかというのは生理的感想にすぎんのだよ!
創造者というのはその生成物が、人間の生理の好みによく合っているひと、
あるいはよく合わせることができる人である。
また、芸術は、人間の生理の好みを反映しているといえる。
創造者であり続けるということは不自由なことであり、人類に隷属することである。
で、人類の性というのは変わらないものであるから創作は反復的になる。
しかし敢えて反復を望み、隷属を望むることが自由だというのである。
なんてことだろう。くだらない。シーシュポスじゃないか。
創造者なんて最高のようで最低なんじゃないか?
滑稽ながら頭きた。メカニズムだからね。感情は。
こういうと怒る人が心のクスリを使ってたりするようだ。感情を大切にしてるからね。
だがクスリが心に効くということは、心がメカニズムってことじゃねえの。
しかし馬鹿といわれるだけで怒ってしまうというのは、実におかしなことだ。
どんだけセットされてんだろ。
人間の尊厳といっても滑稽じゃないか。
どうしてそんな自分を誇れるんだろう? あほといわれるだけで、自動的に怒ってしまい不愉快になるというのに。
哀れな。
こりゃおかしいぜ。
わかった。きっと笑うためにこそ誇りとか尊厳とかレベルとか価値とか捏造したのだろう。
対照性とか不一致とかズレとか、そういうのが笑いを誘うからね。
笑われるとまた自動的に怒ってしまいがちなわけだ。
人間ほど滑稽な生き物もいないだろな。
恐らく人間は敢えて人間を滑稽な生き物にしたのさ。
きっと芸人なんだよね。
実態とのギャップを作っていくんだよね。夢を見るんだよね。
大体、人間以外の動物は夢を見るんだろうか? 人間特有かもな。
昨日夢では30万円もらったんだが、現実としては…
ギャップがあれば面白いというわけではないのだろう。
ニーチェの病気なのに自称健康というのはなんだろ。
そうゆう絶望的な実態を捏造により希望に転倒させてしまう私は高尚だし、
そんな自分に哄笑しちゃうんだよねってことかな。
馬鹿といわれて顔をひきつらせねがらも怒りの発現を我慢してる姿もまた面白い。
馬鹿といわれたら反射で怒ればいいのさ。怒ってんだから。
反射だよね感情って。
それを我慢する平常心…。ワロタ。
偽短 おまえ馬鹿じゃん
携帯 おまえが馬鹿じゃん
偽短 馬鹿だな。おまえが馬鹿なんだよ。携帯 いやおまえだって
偽短 (プルプル)どう言われても別に気にしないけど
偽短 おまえ馬鹿だよな
携帯 いやおまえほんと阿呆だな
偽短 腐ってる
携帯 君臭うよ
偽短 何いってんの馬鹿じゃない
携帯 はっ? 馬鹿らしい奴だな
偽短 気にしないって(プルプル シネ
偽短 ほんと駄目人間だな
馬鹿なことさせんなよ! ボケが
大人らしい対話だ。
良い子のみんなは真似しちゃ駄目だよ。
基本的に悪口と定義される言葉に反射して、悪口文例集の中からランダムに選択してレスするようにする。
また類語辞典をインストールしておき、
ある文を入力すれば自動的に語と語を置き換えていき、一見違うようで同じような意味の文を生成するようにする。
日本語がおかしいなど、 日本語《悪口》という形式が登場したら、《開き直り発言》をレスする。
そんな人工荒らし君を作ったら売れそう。すでに稼動中みたいだけど。
くそ、ぴかぁが気合いを入れてきてるな。生意気じゃないか?
なるほどフーコーは重要みたいだ。フランス語…
まあ俺の説ではフーコー用語の「規律訓練」とは「カイオウ拳」を意味するんだがね。
しかも文明の発達とその発達のスピードにカイオウ拳X倍のXは比例する。
この両刃の刃によって自らの体を壊す人間がでてくる。
これがいわゆる「不良」「落ちこぼれ」である。
「不良」という言葉は権力を連想させる。
つまり「規律訓練」は強化でありながら格付けでもあるわけだ。 当たり前だが。
「私」は「落ちこぼれ」である。
この落ちこぼれという象徴表現は適切である。
「規律訓練」により篩い落とされたもの、追放されたもの…
それが自意識である。「私」である。
これは自分の中にギャップ、分裂があることを示している。コギトやらキルケゴールの自己の定義は自己分裂を表現している。
ところで「規律訓練」やら「カイオウ拳」というと肉体的なものを連想しがちだが知的なものである。
知によって篩い分けられ、自己は分裂し、「私」は奈落の底へと沈殿していく。
ぴかぁによると、 自意識はメタ言語の主体、主語であるらしい。
メタ言語というと、「自己超克」を連想するが、これはむしろまずもって「没落」であり、
苦悩の海に浸かる中で、起死回生の変化、捏造が起こり、「没落」が「自己超克」へと転倒するのだ。
ここでニーチェの中では「すべての価値の転倒」 が起こったようだ。
これは、ズッコケであり哄笑すべきものなのである。
キルケゴール的にも、自己の分裂は絶望であり、転倒して希望でもあったと思うが、しかしこれは「死にいたる病」である…
ニーチェ…「死にいたる病」である…w なぜなら死を生へと逆転させ生き生きしたふりをしてるからだ。
これは第一に自分を騙そうとするトリックである。詐欺である。お笑いである。
おかしい!
なぜ俺が売れないのにぴかぁが売れるんだろうか!
私はレベルスリーなんだぞ。信じられん。
まさかぴかぁはレベルフォーだとでも? まさかフォー! かよ。 なるほどフォー!といえねば一発屋としても売れないのかもしれない…
フォー!!
さあ、買ってくれ…
このスレに偽短さんが来た理由とは?・・・ふふ♥
遠吠えに
怒りの反吐を飲み戻す
苦渋によだれる犬ここにあり
大体さ、売れる本、文章を書くというのもまた「規律訓練」であり、合わせることになるじゃねえか。
笑わせんな。偉ぶりやがってよ。おまいとかたまたま合ってるだけじゃね…?
SMAPを見習うがいい。合わせてるだろ。
お客様は神様だからな。
しかし売れないということは「落ちこぼれ」じゃないかorz
くそっ、神は死んだ! 神は死んだんだ!!
私の没落はこうして始まった…
ついに私はニーチェ36歳の境地に達してしまった…
糞の味噌への転倒を果たしてしまった! いままで何よりも自分自身が苦その源泉だと思っていた…。
しかし、いまやそれこそが私の生き甲斐となった。
それは生の糧となるお味噌汁となったのだ!
私はむしろ売れないことに価値があると思っている!
ただほど高いものはないと!
私が始めて読んだ哲学書はそう、かの「方法序説」であった!
そこで私を発見した!
おお、15の夏の甘美なる邂逅よ…
それを病気だと? 分裂病だと?
許す! 私は君を許すぞぴかぁ…なぜなら私は…
この運命を愛するに至ったからだ!
私は一層重症になって気合いで復活したからだ! 要は気合いだ! メタメタ言語だ!
こうして私の没落は続いていくのであった…
上手い。まるで芸人のようだ。
流石だ、流石に江頭の弟子だけのことはある。
>>884 こちとらさん、世界は「私」しかいないというのを感じたことはあるかい?
極端な話、「私」だけの世界ということを・・・
ぴかあによれば、「私」とは他者との"差異"によってしかありえない。
デカルト的にそうだろうけれど、私が言う「私」だけの世界というのは、
ある日突然、ある都会の雑踏の中でも良い、自然に浸っている時でもよい、
仕事中のオフィスという空間でもよい、世界にぽ・つ・んといる「私」に奇妙な幸福感というか、
奇妙な感覚のような、音で言えばサティ?いや違うな、そんな言葉で表現できない感覚に襲われる。
すると、世界は私だけになるのよ。
これは「孤独感」とか「"世界は私の表象"」とか「梵我一如」でもない、感覚!
ぴきゃあ!
ついでに、
>>856〜
>>860氏は私ではないぞよ。
こちとらさんは私だと思って怒り爆発らしいみたいだが・・・
だが、その内容の君への批判には総じて同意でちゅw
日本語を勉強してください。
では、寝るぞ世。
ぴかぁによるフーコーによると「規律訓練」とは人工的な環境が身体に叩き込むものらしいな。
では近頃の世界恐慌騒ぎも権力による環境の捏造なんだろうか?
だとしたらそれは何の訓練なのか?
どこまで人工的な環境なのかわからん。
あるいはそれは権力に敵対する勢力の発現なのか?
人間には反射的に反抗する性があるのでみんなが仲良しではいられない。
死んでも反抗するほど根強い性がある。
人間の権力には常に逆らう者が続出する。
常に闘争がある。だから安定というのは権力者が連勝してるということだろう。
とすると近頃は現体制の権力に対抗勢力の力が匹敵するようになってきたということなのかもしれないな。
動的な安定が平和なんではないか。
相敵対する勢力の一つが、敵対勢力をぶちのめし身柄を拘束、監禁できている状態。
「規律訓練」というのは自衛のための先制攻撃ともいえるだろう。
我々をそれを喰らい続けねば飯を食えないのだ。
だからひきこもりやニートは問題なのである。
「規律訓練」を受けない人間が生存できるということは、監獄に亀裂や抜け穴ができてしまい脆くなっているということであり、
体制の崩壊の兆しかもしれないからだ。
ぴかぁ氏のように出世しようとする意志を持つことは大切ですね。
死に至る病にかかってズッコケてしまったニーチェは危険ですが、
ドイツ語の教材およびゲームとしては割と面白いとも思います。
哲学は何か危なっかしいからといって日本文学の一流どころを勧めるのはまた死につながる危険な面も多々ありそうですので、
情報が反乱するなかで子供を逞しいよい子に育てるにはどうすればいいのかというのは難問ですね。
そこで「規律訓練」といいたいところですが情報化というのがおそらく、
「アンチ規律訓練」なるものなんではないでしょうか?
「規制緩和」が取り立てられていたかと思えば「規制強化」が主張されたりしています。
「IT」、「情報化」、「国際化」、「情報公開」とうたわれていたかと思えば、やはり「閲覧規制」などが主張されてきます。
現代は秩序と混沌の闘争の時代なのでしょうか。
多くの人がズッコケ始めるとどうなるのでしょうか?
えらいことになりませんか?
まず「落ちこぼれること」は死に至る病に至る病といえるでしょう。
というのもキルケゴールやニーチェは身体的に落ちこぼれてたわけですけど、
身体的な「規律訓練」によって「落ちこぼれる」ということは、身体的に落ちこぼれることでしょう。
ですから秩序と平和を守るためには「落ちこぼれ」を出さないということが大切です。
しかし「格差が何が悪い」、勝ち組負け組等々、落ちこぼれて何が悪いという風潮になってきております。
どうも自然に還れといわれてるようで「規律訓練」型の権力というのはすでに虫の息なんではないかとも思えてしまう時もあります。
それとも規律訓練の形態も情報化したんでしょうか?
システムによって規律訓練されてるとも思いますね。
例えばここにも8レス制限というのがあります。
困りますね、ダウが8500ぐらいにダウンしてますね。
ちょっと見たことないような低さであります。
追いかけるようにして日経平均も8500を切るんでしょうか。
これは混沌としてきましたね。稼ぐ人はこうゆう時かせぐんでしょう。
凄まじい力が荒れ狂っているかのようです。
どうなってしまうのでしょうか地球は…
「バッハのすべての作品はどうにもふみ外しようのない徹底した節操をもって、
あらかじめ規定されている軌道をばく進し、追求します。
この点において、彼は何か或る機械に、或る時計仕掛けに、もちろん自然という手によって造られた「生命のある」時計仕掛けに似たところがあります…」 (フルトベングラー 音と言葉 新潮文庫)
忘れてましたが何年か前に間違いなく読んでましたね。
堂々とパクッてました。
私の無意識的な記憶力はなかなかですね。
私の考えというのはほぼパクリかもしれない。
すなわち、みなさんは私を馬鹿にしないほうがよろしいということでしょう。
みなさんより立派な人の意見を馬鹿にすることになるのかもしれませんからね。
病気と健康の関係…
実は病気といわれるものの中には健康への意志の現れであるものもありますね。
体を治そうとして体が頑張ってる状態でも苦しくなるわけです。
ニーチェのかかっていたのはその種の健康への意志としての良性の強烈な病気だったという可能性もあります。
「ニーチェは音楽家としては、晩年の日においても、その端初の日と少しも変わったところはありません。
いつもワグネリアーナーだったのです。そうであってならぬわけはどこにもありません。
芸術に対する根本的な関係においては、―それは我々の性格の意識下に属する何ものかであって―
たとえその他のものがどう発展してゆこうが、こればかりは全生涯の行程に沿って変わるものではありません。」(フルトベングラー 音と言葉 新潮文庫)
ところで学者とか評論家とか公の場で語る人は、
どこかで見聞きしたことをあたかも自分の発想、考えであるかのように思ってしまうような記憶があやふやな人間では、
駄目だしされますよね。
パクリやら馬鹿やらと。
ちゃんと引用したりしとけば、同じ意味の話でも無教養な人から易々と馬鹿だと退けられることもないだろうし、
識者としての信用を落とさずにすむわけです。
整理された正確な記憶力というのは公の場で語るための基本ですね。
果たしてぴかぁにそんな正確な記憶力があるのでしょうか?
嫉妬はしてないです。ただ心配なんです。
あまり調子に乗ってしまうと基本がおろそかになるかなと。
もしかしたら記憶容量に関しては個人差はあまりないのかもしれませんね。
人は見聞きしたことは大体記憶するに足る記憶容量は備えている、
いわばHDの容量は変わらないといえる気がするわけです。
ただOS、データベースなどのソフトウェアの差があるんですね。
ちなみに「君が心配だ」とかいいますけど、
大抵これは「君が(私に迷惑をかけるのではないかと)心配だ」
という意味で使われます。
しかし私はそんなトリックを使うような人間ではないのです。
正直すぎる哲学徒ですから。
>>896 >大抵これは「君が(私に迷惑をかけるのではないかと)心配だ」
そうだ。大抵は、まあ世間やらなんらやの丸めようとする折に発する言い草だ。
でも必ずしもそうではない。それは打算的人間の打算を隠蔽する小細工なんだよ。
私は最近、生理学を勉強している。
文学は短歌を時折したしむのみ。
こちとらさんはピアノ弾けるでしょ?
カルメンの編曲サイトあったから楽譜もDLできたはずだ。
ぜひ弾いて、UPしてくれよ!
なんだかわかりませんが、ぴかぁ氏のブログを見て思うのですが、
「デカルトの病気」が徐々に感染していったのであり、19世紀あたりからヨーロッパのインテリたちを席巻する重大な問題に発展したといえるでしょう。
そしてそれは現代に至り、通俗的な問題にまで発展したということですね。
精神の近・現代病といえます。
その名は…「自意識」
ドストエフスキーやブログ・日記などが巷で流行りだしたのもその症状ともいえますね。
果たしてニーチェは自意識病患者を健康へと導く灯台なのでしょうか?
私は多少快癒してきたとも思ってますが、まだ発作がおこりますね。
私の治療を妨げようとする人がいるもので。
それも逆に治療に貢献しているのかもしれませんね。
ぴかぁが出世してきましたので、私もつられて出世について考えるようになりました。
出世を狙うということは快癒の兆候ではないでしょうか?
それはおいときまして、論文でもエッセイでも小説でも詩集でも音楽でもです、
自分の作品を売るには営業が必要ですね。
まず営業販売を人にお願いしてやってもらい、自分は作品づくりに集中するというスタイルがあります。
また昨今ではネット経由で宣伝直販というスタイルを取ることも可能ですね。
これは前者のスタイルをとる人に比べて不利でしょうが。
前者のスタイルを取る場合の心構えを考え出したいと思います。
Aさんに営業販売を委託され承諾した企業は、AとAの作品に投資をすることを決めるわけですね。
ビジネスですから、社長などの理想に合う作品でないかぎり、
少なくとも初期投資を回収できる見込みがなければいけません。
ですからAさんが無名で人気がないならはデビューはなかなか難しいでしょう。
しかし出版社などの企業は出版しないわけにはいかないです。
しかし新人は投資リスクが高く敬遠せね
ばならない。しかし誰もが初めは新人であり、新人も起用していかねばならない。
ですから新人登用のリスクをいかに下げるかということが問題です。
つまりAさんは非常な才能に恵まれてないかぎりは、
自分に対する投資のリスクを下げる努力をするべきなんですね。
たとえばぴかぁ氏は人生の秋になったら自費出版でもしますとかいってますが、
哲学書の場合はそうなってしまうのかもしれませんが、
彼はブログ歴がながく、知名度、人気ともに着実に上がってきているはずで、
すでに彼は自分に対する投資リスクをけっこう下げてるんです。
いずれ出版社のほうから
いずれ出版社のほうからオファーがあるかもしれないですね。電子出版もありますし。
ともかく、自分に対する投資のリスクを下げるという営業面の努力も大切ですね。
ショーペンハウアーやニーチェでも自費出版してたと思いますが、今は出版は容易になってきてますので、
それで出版物のレベルが下がるというのはありますけど、
凡人でも積極的になってもいいんです。
私はまだレベルスリーですが、
レベルフォーにでもなったと思ったらエゴイスティックに営業させていただきます。
この経済危機を乗り越えることができたらの話ですが。
おぃおぃw
一体誰だよ!
あんなイロモノうんこ引き合いにだしてこのスレ汚物化してんのは!!!
おまえか、おまえか!
それとも俺が汚物か?
そうだ、俺が汚物だ!
おし。そこのおまえ。
俺の名を言ってみろ!
↓
まあ作品の投稿サイトは新人登用のリスクを下げるために開発されたシステムといえるでしょうね。
いやはや審査員が消費者なんですから、画期的です。
ブログでもランキングがありますけど。
どうも新人発掘という面倒な作業を自動化してくれ、もううんざりだというような需要があったんでしょう、
新人発掘作業の自動化が進められてるんですね。
ぴかぁ氏は今、デビューの候補者なのかもしれないですね。
なるほど、ぴかぁ氏は、著名ブロガーに選ばれて、まなざしを意識したわけですね。
今まではまさに趣味という感じで、ともかく自分がわかればいい、わかる人はわかりますね? という態度を示していた気がします。
それなりに面白いことをいってるなとは思ってましたが、わかりにくかったと思います。
多くのまなざしを意識することで、彼は自分の思考に説明をつけ加えるようにしたんですね。
それで自分と同様の教養をもっていなくてもわかるようにして、彼の意識の中で対象となる読者層を広げたんですね。
今までなら彼の頭の中で前提として飛ばされてきたような事柄まで記述する手前をかけるようになったようなんですよ。
理解を助けるために記述を詳細化するだけでなく丁寧に注意深く記述するようになったんですね。
多少先生としても振る舞うようになったわけです。先生といっても丁重ですが。
これによって読者からしたら何か飛躍した感が出てきたと思うんですが、彼としては面倒になったというだけかもしれないですね。
そんな仕事のような労力を払うのは厄介なんですが、ボクの文章を読みたいという人が増えるなら多少はボランティアする気にもなってしまうんですよという感じでしょうか。
しかしデカルトのコギトが自意識というのは、ちょっとしたコロンブスの卵ですね。
いわれてみればなるほどという感じですが思い付かなかったですよ。
色々つながった気がしますねこれは。
どうなんでしょうか、ニーチェの人生の冬、36歳あたりで、拷問のような苦しみの中で、彼は転倒したというか、
なぜか快癒したといいます。
それ以前と以後のニーチェの自意識にどんな変化があったのかというのが気になります。
ソクラテス主義に反発してたのもあり、ニーチェは自意識を嫌っていたのではないかと思います。
「この人を見よ」でも彼は自分について語ることを習慣と本能的な誇りに反逆することだと始めに言ってますが。
ニーチェというのはまず自意識に挑み、ぶったおしたのだともいえそうなんですよね。
彼のいう「健康」…というのがですね、肉体的「拷問」のなかで目覚めたとすれば、それは肉体的なものとはいえないと思います。
その後、ツァラトゥストラに理性とはなんだろう、惨めな安逸ではないかと言わせています。
ならばこの「理性」というのは、デカルトのコギト〓自意識を意味するんではないでしょうか?
ソクラテスは相手に「汝自身を知れ」と裏でニタリとしながら迫り、そして「産婆術」とかいって、
自分の思想を相手に編み出させたというようなイメージもありますが、
一体どうなんでしょうか、「汝自身を知ること」と「自意識」の関係は?
ソクラテスが処刑されたのも人に「自意識」という病を押し付けたからだといえるのでしょうか?
ぴかぁ氏の認識では、たしか自意識とは動的な環境の圧力から逃れるための言語的な構造、装置、シェルターみたいな話でしたか。
病気とはいえ、治療であり自己保存のためのものみたいです。
恐らくニーチェの認識では、それは「惨めな安逸」であり、生の減退やらデカダンスです。
彼はそれから抜け出した。拷問のなか抜け出さねばならなかったのかもしれないですね。
自意識という保護装置が生命力を低下させるという認識があったのかもしれないですね。
ソクラテスを中傷したのだし。
また彼はドストエフスキーを評価してますが、「地下室の手記」で「自意識は病である」という認識を持つ男がやたらはりっきっていますので、
その男にニーチェは自意識からの「快癒」を認めたのではないでしょうか?
自意識が新環境の圧力からのシェルターならば、
地下室のような閉じた空間では、
自意識はいらないわけです。
そこで地下室でその男は自意識の砦から抜け出して快癒し、自意識を病だと認識して、生き生きしてる…というわけなのではないでしょうか。
すると、笑ってはいけませんが、地下室は「ひきこもり」の部屋を、その男は「ひきこもり」を象徴してるともいえます。
(フフ
いけませんね、また発作が… フフフフ
耐えました。括弧に入れておきました。フフ)
私がいいたいのは、何故に「ひきこもり」は「ひきこもり」なのか、ひきこもるのかということです。
それはすなわち、「自意識」という病の治療のためなんではないかということです。
「ひきこもり」とは「閉じられた部屋」≒「地下室」に籠もることで、「自意識」という砦を無用の長物となし、
地下室の住人のようにやたら生き生きとしたいという本能による社会的な問題行動および問題のある人のことなんではないかと思うわけであります。
「ひきこもり」とは「閉じられた部屋」≒「地下室」に籠もることで、「自意識」という砦を無用の長物となし、
地下室の住人のようにやたら生き生きとしたいという本能によって喚起される社会的な問題行動、
またそのような問題行動をしでかす人のことなんではないかと思うわけであります。
ちょっと訂正しました。まだ変ですかね。
念のため言っておきますが、これは自己紹介ではないです。
それにまた別にぴかぁ氏のことを暗示してるわけでもないです。
あくまでひきこもり一般の定義の試みなんです。
パンツw
実態の割にはやたら生き生きしてたみたいですね彼は。
そして自己軽蔑がありました。
いけませんね犯罪予告は。
ドストエフスキーは犯罪者を健康だというような問題発言をしてましたが。
いけない! 発作だ!
偉大なる8レス制限よ、私の親指を封じてくれ!
私の出世に手を貸してくれ!
>>908 >すると、笑ってはいけませんが、地下室は「ひきこもり」の部屋を、その男は「ひきこもり」を象徴してるともいえます。
どう考えてもそれしかないっしょ。
そもそも、あの住人が「地下」という象徴、例えを用いているのは、自意識苛まれている精神状態やら、
そこから見る社会と自己の乖離のことも掛けている自虐なわけですよ。
彼自身が、ペテルブルクのアパートを借りて、その物理的な空間という地下室に住んでいるわけではないと思うよ。
太陽も見るし、雪(ぼた雪!)も見てるはずだろうけど、彼が自意識に苛まれて他人との交流を絶っていることが地下なんだから。
(シーモノフとその仲間とダニのような使用人とリーザあたりだろう。関係は。)
>「ひきこもり」とは「閉じられた部屋」≒「地下室」に籠もることで、「自意識」という砦を無用の長物となし、
>地下室の住人のようにやたら生き生きとしたいという本能による社会的な問題行動および問題のある人のことなんではないかと思うわけであります。
同意。さすが地下にすんでいなくても、世間を絶っているだけある。こちとらさん。
ただし、それを解っても、ここに来ることで自意識病が悪化されては・・・とは思う。
>ドストエフスキーは犯罪者を健康だというような問題発言をしてましたが。
一度「死の家の記録」を読んでみたらいい。健康というのは、犯罪を犯すことを健康と賞賛しているわけではないよ。
「自意識」やら、漠然とした「恐怖」やら「羞恥」やらを、住人のような
自意識過剰でなくとも、一般の人でもよく垣間見る。
例えば、私らの世代で子供あたりと接する時に、漠然と苦手を覚える人いる。
たぶん、何か自分の底を見据えられる恐怖なのか?
あるいは、純真なものと、原始性や子供心や純真さを彷彿とさせられて、
大人として自分を蹂躙してきたことを相対的に感じてしまうからでは?
と思う。だから、幼児のまま育った人間はそれを感じない。
または、自意識が少ない大人はうまく子供を手懐ける。
こういうどうでもよい部分を、どうでもよくないと考えてみることで、色々くみ出せる。
913 :
考える名無しさん:
文章構成としては、イロモノうんことそっくりだ。
いや、読んだ事ないけど、多分同じ。
「読まずに解るか!」いや、解るね。
っつか。
なんだかイキナリ暇になっちまったな、精神的に。
じゃ。