やっぱ、太郎はごまかしが多いですね。
ところで、私が木田元が復元したハイデガー像を
説明してあげましょう。
太郎が木田元の説明を気に入らないのは、
要するに保守的なハイデガー像にしたいからなんですよ。
まず、太郎の言うハイデガー像は、
分析哲学者、つまり英米系に広く普及しているハイデガー像で、
基本線は、
前期=実存主義的=存在と時間既刊
後期=構造主義的=転回(ケーレ)存在と時間未刊
というのが大ざっぱな見方です。
だから、太郎は、純一は前期の実存主義的なハイデガーしか知らない、
と言うのですが、実際これは違います。
つまり、
>>131をベースにした太郎の言う、
保守的なハイデガー像というのは、
『前期は実存主義的だが、転回以後の後期では、
構造主義的(つまりは分析哲学向き)になった』
という訳ですが、これは違いますね。
木田元の説明によれば、通常、英米系の太郎なんかが
考えている様に、転回以後の主張の変更というのは、
『実は無い』のです。
木田によれば、転回というのは『言い方』が変わってるだけで
内容は同じなのです。私も後期っぽい著作を読んでも、
存在と時間のここを読め!とハイデガーが注釈を入れていて、
なるほど、存在と時間で言っていた事をここで言い変えていたのかー
と、思う箇所がいくつもあります。
んで、太郎の言ってるのは、
『純一や木田のハイデガー像は、
実存主義的だが、研究者は後期の構造主義的なのが常識だ』
と言いたいのですが、
これもおかしいと思いませんか?
実は太郎の言ってるのは、まんまウィトの事です。
つまり、ウィトは確かに前期は実存主義的だが、
後半実存主義的じゃなくなったみたいな説明が好きなのですね。
つまり、ウィトとか要するに英米系言語哲学の
哲学の見方を、そのまま大陸哲学のハイデガーに
強引に当てはめると、
『前期は実存主義的だが、転回以後の後期では、
構造主義的(つまりは分析哲学向き)になった』
という具合になる訳です。
しかし、これは木田の復元したハイデガー像ではない。
木田の復元したハイデガー像を私純一なりにまとめてみましょう。
木田に拠ると、ハイデガーはソクラテス以前の哲学者に注目して、
昔の哲学がどんなんだったかを復元してみます。
まあ、詳細は端折ってですね、
要するに何を言ったかという事が重要なんですが、
つまりは、昔と今では「自然」に対する考え方が違う、
という事です。
んで、それだけでは何を言ったのかよく分かりませんよね?
つまり、ハイデガーが言うのは、
太郎みたいな人間に対する批判なのです。
つまり、フッサールを支持するような人間に対する
批判、それをハイデガーは著作の中で何回もやるのです。
>>84を見て下さい。
@ プログラムとかがオタクの太郎は好きだった
A 論理学とか数学がプログラム言語っぽくて太郎は好きになった
B 太郎が頭良い事を証明する為にフッサールで論理学の基礎付け
実はハイデガーはこんな太郎の様な人間が一番嫌いでした。
無論、それは現実社会ではフッサールに対する嫌悪になります。
では、ハイデガーは本当はどんな主張をしたのでしょうか?
ハイデガー『太郎やフッサールというのは、基本的に自分が
世界で一番頭が良いと思い込んでいるが、
それは基本的に誤った思い上がりである』
と言いたいのです。
太郎やフッサールの様な人間は、
基本的に自然を『支配』するものとして捉える。
その道具やその思考の最たるものが数学や論理学であります。
それは基本的に考え方の背後に、世界で一番頭のよい人間、
という前提が潜んでいる。と、こうハイデガーは指摘する。
ところが、これはソクラテス以前の、つまり大昔の哲学には
出てこない、むしろ、哲学が始まったのは人間がこういう
太郎やフッサールの様な思い上がりを得てからだ、と説明するのです。
ですから、木田の復元した正しいハイデガー像に
従えば、そもそも分析哲学を支持する太郎ってのは、
ハイデガーの主張をそもそも理解しちゃいない。
ハイデガーはそれを現象学的破壊、要するに、
デリダの脱構築の元ネタともなった、
『破壊』
これに求める訳です。
とは言え、それは太郎やフッサールのような思い上がりを
破壊する運動である訳です。
つまり、分析ってのはハイデガーが破壊すべき対象ではあっても、
それを共存させるものではない訳です。
もはや、その時点で太郎がハイデガーを理解していない事は良く分かります。