【私】を記述してください【私の存在性】16

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354考える名無しさん
>>351

この時、その「一般化を拒む「私」」の解体を許すかどうか(許容するかどうか)が、
最終的な立場の分かれ目となるのだろう。(それは感嘆子が言うように“唯物論云々”とは無関係だ)
別の言い方をすれば、
≪ヒトという生物の認識に於いて『メタな視点・超越的視点・第三者的視点』を許すかどうか(許容するかどうか)≫が、
最終的な立場の分かれ目となるのだろう。
また、同じ許容する立場の中でも、
≪(>>329が言うような)、「一般化を拒む「私」」からも“完全に”離れた視点を採り得る≫
とするか、
≪完全な離脱ではないが、考察上の処理として“第三者的視点から見られた対象として”「一般化を拒む「私」」を扱う≫
 (→「一般化を拒む「私」」を解体した第三者的視点は(その解体作業が妥当であるという前提の上で)、解体される必要はない」とする。
   →なぜなら、同じ作業が繰り返されるのみだから、一度の解体で十分。)
とするか、分岐するだろう。

各論に入ればもっと分岐してゆくだろうが、
概ね、この3つが主要な立場の違いに思えるがどうだろうか?



と、変換したところで実は何も変わらない。
これは何を意味するか。なぜ変わらないのか。