946 :
754:2008/04/23(水) 21:12:59 0
>>917 まず“歴史的”という言葉が曖昧だが、それはさておき「人類の共有した文化」
として具体的に何が挙げられますか。
私はノラネコ10数匹とつきあってきましたが、連中には好み、もしこれを主観と
いうのなら、彼らにもそれはありますね。だから狼少女も主観は持ちえたと思う。
947 :
754:2008/04/23(水) 21:38:33 0
>>944 「宇宙があり物質があらわれたから…」という認識は観測主体のそれでしょう?
換言すれば“宇宙”も“物質”も私・観測主体に見出された(意味づけされた)
何かであり、私ふうに言えば、事象(レベル0?)は私を必要としないだろうが、
世界(宇宙や物質)は観測主体【私】に依拠している。
948 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 21:42:56 0
>>947 観測主体がなくても現れるものは現れる。
観測しなければ現象が無いという論理はおかしい。
949 :
754:2008/04/23(水) 21:48:12 0
950 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 21:50:13 0
>>949 宇宙に決まってるだろ。
宇宙とは時間空間のことだ。
>>949 また、地球の裏側と愛猫の死の話かよwww
952 :
754:2008/04/23(水) 21:57:59 0
>>950 では、その宇宙なるものが「俺は宇宙(時空間)だ」と咆哮しているわけですか。w
【私】は哲学の対象たり得ない
954 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2008/04/23(水) 22:08:10 0
<<Wikipediaより抜粋>>
チャーマーズは、情報を中心に置いた中立一元論のような立場から精神物理
法則を模索すべきでないかとしている。つまりビット列のようなもので構成
された抽象的な情報空間がまずあり、そこから物理的状態および現象的状態
が、それぞれ実現されているのではないか、という形而上学である。
逆に言うと、「物理的な情報処理が実現されているところには、現象的意識も
また実現されているだろう」という考えである。この考え方の利点に一つは、
情報空間が共通項として存在するため、物理状態と現象的状態の間で辻褄が
あっていても、現象報告のパラドックスが現れないことである。
そしてこの考えを推し進める事によって汎経験説(Panexperientialism)が
得られる(単に汎心論と表現されることも多い)。汎経験説とは物理的な情報
処理の実現がある所には、現象的な意識もまたある、という主張で、チャーマ
ーズはサーモスタットや岩にも、人間のもつそれより遥かに単純であるにせよ
現象的意識がある、と主張する。これは一見かなり突飛な主張だが、精神物理
法則を上のようなものとして考え、かつ「自然界の中で人間の脳は、取り立て
て特別な何かではない」または「自然を統べる法則はすべての時・場所で共通
である」という自然の斉一性を前提しさえすれば、当然の帰結として導かれる。
しかし日常的な常識からの隔たりが大きいため、「その結果はあまりに常識に
反する」といった形で批判される事が多い。
955 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 22:12:14 0
>>953 なら、するな。だれも対象にしてくれと君に頼んではいない。
956 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/04/23(水) 22:15:12 0
>>944 :考える名無しさん:
>全く順番が違うね。宇宙があり物質が現れたから人類が現れたということだね。
そう、順番はビッグバン〜アメーバ〜恐竜〜ホモサピエンス
しかし・・良く考えてください・・「順番」って?
順番の観念を持ち、気にするのは人間だけじゃあないですか?
時間と言う概念も人間独自のものでしょう。
因果関係とかアルゴリズムとかも人間の発明品なんです。
ビッグバンの歴史が逆行しても構わないでしょう、其れに見合った物理法則を適合させればいいのだから。
宇宙は法則どおりに動くのではなく、宇宙の動きにあわせて法則が出来たのだから。
人類が発生したから今の宇宙観が成立したわけです。
人間が居なければ物質にとって順番はどうでもいいことなんでしょう。
ではミミズやカエルにとっては時間はどうかのかと言うと、人間同様重大な意味があるようにも思えます。
おそらく「生命」にとって時間や順序は非常に重要なんでしょう。
この辺は今後の研究の成果を期待したいです。
>全ては自然だ。
観念は自然たり得ない「人工」です。
957 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/04/23(水) 22:15:32 0
>>946 :754:
>それはさておき「人類の共有した文化」として具体的に何が挙げられますか。
言語、道徳・・・・・・・・・その他多数。
>彼らにもそれはありますね。
先の人間の文化である道徳、倫理観によれば人には共感の感情がある。
ですから「つきあって」猫が好きな人は猫に共感を持ち感情移入をする。
猫に主観を認め、認識する。
繰り返しその認識を強める事により、猫の主観性の実在性が相対的に強くなり、猫を人格化する。
猫が死ねば葬式も出すし墓も立てるだろう。
狼少女は人目に触れないので死んでも葬式を出す人は居ない。
主観を持たない少女は死の意識も持ち得ないだろう。
958 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/04/23(水) 23:50:55 0
>>952さん
仏教でも似たようなものがあるのですよ。
:: _, ,_ このスレの住人の皆さん博学だから
:(゙( ^ё^)'): 高尚なお話ばかりだけどさぁ・・・
:ノ⌒', −、'^',
:(,,人,_,,ω,_人,,)
_, ,_
( ^ё^) 哲学も良いけどたまには・・・
(つ/ )
|`(..イ 彡
しし'
_, ,_
(^ё^ ) ケツ学についてかたりません?
(⊃⌒*⌒⊂)
/__ノωヽ__)
960 :
考える名無しさん:2008/04/24(木) 08:50:32 0
>>956 >宇宙は法則どおりに動くのではなく、宇宙の動きにあわせて法則が出来たのだから。
そうだね。だから宇宙の動きに合わない法則は間違いになるだけ。
物理法則で自然を逆行させることは出来ない。
時間の進行は自然の履歴が決めることだね。宇宙が膨張しているかぎり時間の
流れは変わらない。
>観念は自然たり得ない「人工」です。
観念を作り出すヒトが自然物である。自然物が作り出したものも自然物である
のは当然だ。
961 :
考える名無しさん:2008/04/24(木) 09:02:31 0
゚ | ・ | .+o o+ |!*。* ゚ |o。 | *。 |o。! |!
゚ | ・ | .+o ____ o。 | *。 |
゚ | ・ | .+ /:::::::::::::::::■\ o。 | *。 | o
*o ゚ | ・゚ /::: ■ヽ * +・ o |* 。
o○+ | * | ┃| ゚| o 。+ ・
・+ | *.。 | − ー ┃ | + |*゚ + | 。
゚ |i | + (| <●> <●>┃|) |! o |o *
o。! * |! 。 | 。。 ┃ | ヘ * ゚ | 。
*o゚ |! ○。 \ ◇ ┃/ いちいち騒ぎなさんなって
。 | ・ o ゚l \___/ o ゚。・ ゚ +
>>938 >「現れている」でもないのに「ある」とか言ってしまったら、
>そういう飛躍したことを言える立ち位置はどこにあるの、って話になるでしょう。w
すいませんが、「現れている」と「ある」と何が違うのかよくわかりません。
立ち位置は、もちろんすでに鳥瞰的客観的視線を確立した私であります。
(そうでなければこんなことを論じられるはずがありませんw)
そこから見れば、それは未だ私ではない生物としての人間の一個体に
「現れている」ので、何も問題はないと思われますが。
>(※「私」‘に’)世界内の自己イメージとしての「ワタシ」が「現れる」。
>で、この「現れる」がレベル0です。
いやまさに、ここがわからないわけです。「私」が世界内にいない
(どこにもいないことにおいている、というのは確かに意味不明ですがw)とすると、
なぜその「自己イメージとしてのワタシ」が「世界に含まれる一視点」に
成り得るのか、これがどうもさっぱりわかりません。
(逆に、世界内の一視点に過ぎない「ワタシ」の観念として「どこにもいないことに
おいているような私」が現れる、というのなら、わかるのですが。)
まさか、最高位氏のごとく「いい加減でテキトーな価値観によって」という
わけではないのでしょうw
誤解されると困りますが、ちゃかしているわけではなく、あなたは私などより
ずっとよくこの問題をお考えのようなので(最高位氏と違ってw)、まじめに
お尋ねしているのです。
あなたのようなことを言われる方や「わかる」という方は多いのですが、私には
何が何だかさっぱりなので、困っているわけです。
963 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/04/24(木) 09:48:33 0
>>906 キミは、電車で来た事を否定できるのかね?
どのルートで来たのかを答えなければ、電車で来た事まで否定されるのかね?
的外れな質問してないで、「電車で来た」という一つの結論を否定してみなさい
>>910 ごちゃごちゃ言ってないで
早く、空と海の境界線を説明してよ(爆笑
>>914 「見る」という行為そのものが、すでに間接的行為なんですよ
>>962 >あなたのようなことを言われる方や「わかる」という方は多いのですが、私には
>何が何だかさっぱりなので、困っているわけです。
誰に説明してもらっても理解できないんなら、もう諦めたほうがいいよ…
965 :
考える名無しさん:2008/04/24(木) 10:08:14 0
>>960 では、クルマもコンピュータも…自然物なのですね。ダヴィンチやマチス、
モーツァルト…などの芸術作品も?
それじゃ、そろそろ、私を記述して終わらせようぜ。
967 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/04/24(木) 10:34:07 0
私とは悪魔が天使に見えますようにと祈る信仰体である
968 :
472:2008/04/24(木) 12:54:57 0
>>962 >すいませんが、「現れている」と「ある」と何が違うのかよくわかりません。
「現れ」、これはもう私秘性の領域に片足を突っ込んだぎりぎり境目の話ですよね。
(いや、両足かもしれないw)
「あ〜あれはこれだよ」と言った瞬間に、「現れたもの」として世界の一視点に位置づけられている。
「現れ」を「現れたもの」として理解するのは避けがたい。w
というわけで、ちょっと気分を変えてw、別の言葉に置き換えてみます。
「現れ」〜「目撃」〜「遭遇」〜「出会い」〜「接触」〜「不意打ち」〜
「ある」との違いはピンと来ましたでしょうか…
>「私」が世界内にいない (どこにもいないことにおいている、というのは確かに意味>不明ですがw)とすると、
>なぜその「自己イメージとしてのワタシ」が「世界に含まれる一視点」に 成り得るのか、これがどうもさっぱりわかりません。
「自己イメージとしてのワタシ」は、心理的な「ワタシ」です。
自我の成長・発展過程で形成され、自己同一化した心理的主体です。
自己同一化というのは、ずーと「同じ」というわけではなく「同じになる」のです。
つまり、「ワタシ」は〜である、「ワタシ」〜である、という際限のない自己確認によって成り立っているのですね。
「〜である」が何かの拍子で覚束なくなると、途端に自己同一性が脅かされて、途方に暮れるわけです。
こういう場合、別の「〜である」に飛びつくことで、自己同一性をキープしようとします。
969 :
472:2008/04/24(木) 12:56:23 0
(
>>968続き)
「ワタシ」の中身(「〜である」)は無論のこと、このような自己同一化の維持・発展プロセス全体は、「現れたもの」です。
「現れたもの」であるが故、例えば心理学の対象ともなりえます。私秘性はありません。
さて、ここからが要点ですが、
何というか、この苦々しい自己同一化プロセスに巻き込まれていると思いませんか?
「現れ」〜「巻き込まれ」〜「とらわれ」〜
この自己同一化プロセスを味わっていませんか?
「現れ」〜「味わい」〜
「巻き込まれ」「とらわれ」「味わい」は、こうした心理的なメカニズムとは何か異なっており、
それがすなわち本当の「現実」とは言えませんか?
「現れ」〜「現実」〜
この意味での「現実」は、明らかに私秘的です。
レベル0の課題は、これらが誰に「現れ」ているか?という問いにつながるのですが、
「誰に」とは言えないので、「私はどこにもいないことにおいてある」などという言い方になるのです。
>>963 相変わらずアホぶり全開だなw
> キミは、電車で来た事を否定できるのかね?
その後の情報次第だろw
> どのルートで来たのかを答えなければ、電車で来た事まで否定されるのかね?
いいえ。答えなければ、『否定も肯定もできない』だけのことですw
> 的外れな質問してないで、
とんでもない!ど真ん中とは言わないまでも、内角高めスライダーくらいのストライクゾーンだと思いますよwww
> 「電車で来た」という一つの結論を否定してみなさい
それに、「電車で来た」ことを否定しているのではなく、
「どうやって来たのか」(―「何で来たのか?」ではありませんよ。お間違いなくw―)と訊ねているだけです。
上の方の「区分」についても、少なくとも
>>906内に於いては【主観が区分する(或いはさせられる)】ことを否定するものではありません。
寧ろ、それを受け入れた上での質問なのです。(ネコ氏は珍しく誠実に答えてくれましたが・・・w)
(私自身が全面的に同意しているわけではありませんが、「流れの上で一旦受け入れた上での」レスということです。)
さて、喩えを解り易くする為、上の例を「電車→車」へと変更しておきましょう。
A「今日は、どうやってここまで来たの?」
B「車で来たよ」
A「どうやって?」
B「いや、だから車で来たって言ってるじゃんw」
A「そうじゃなくて、どのルートで来たの?」
B「だからw 車で来たんだと言ってるじゃないか(笑」
A「だからぁ・・・」
B「いいかい。道は全部繋がってるんだよ。どのルートを通っても車で来ていることには変わりないだろw」
A「・・・・。」
この時、道順・ルートは脇へ於いて、もう一つ面白い設定を加えてみましょう。
Bさんは確かに車に乗っていたが、その車は貨物車の荷台に載せられて運ばれていた場合、
(ありえないことではありますがw、フェリーの電車版をイメージして下さい。輸送ヘリでも構いませんが・・・w)
それは寧ろ「電車で来た」(或いは「ヘリで来た」)と言った方が適切ではないでしょうか。
運ばれる前後に多少の走行があったとしても、それがほんの少しであれば、
「電車で来た」(或いは「ヘリで来た」)と言った方が適切ではないでしょうか。
それが雑すぎると言うならば、「車と電車(或いはヘリ)で来た」と言明されるべきでしょう。
(この時点で既に「車で来た」が不正確である(真に真実ではない)事になります。)
更にもし、運ばれる前後に車の走行が無かった場合、「車で来た」というのは強引に過ぎなくなりませんか?
それは、「どうやって来たの?」に対して「靴で来たよ」と答えるようなものです。
この喩えで言いたいのは、(『私』を巡る議論でもそうですが)、
「車で来た」という言明が、その途中の状況によっては不適切になり得るということです。
仏教が「無我(非我)」を旗印とする背景には、「我(アートマン)」に関して多角的な分析をすることにより、
「“我(アートマン)”は無い。(或いは“我(アートマン)”でない)」という地点へ行き着いているということです。
私は、再三再四『「どのようにあるのか」が重要ではないですか?』と述べてきた。
上での喩えのように、「どのようにあるか」によって変わってくる命題・定義(或いはラベリング)がある、ということです。
『私』についても(或いは「存在性」についても)、同様のことが言いうると思うのです。
3時1時さんは、まさにそのような分析の後、最高位氏に異を唱えているのです。
「(種々の説明があったとして)そのようなものとして『私がある』とは【見做せない】」と・・・。
上の例で言えば、「電車で来た」「車で来た」の肯定否定の前に、
その経過の詳細を答えることに何ら不都合は無い筈です。
それを、 > 「電車で来た」という一つの結論を否定してみなさい と返すのは変じゃありませんか?w
> 「電車で来た」という一つの結論を 肯定するにも否定するにも、その途中経過は必須なのです。
肯定否定の判断を下すのは、その後でいいじゃないですか。
>>963 おお、最高位氏、こちらの質問には一向に返答されないまま、
私が言ってもいないことにこだわられても困るのですがw、
一言で言うなら「対象の物理的状態と観念の間には対応関係あがるが、
それは一対一対応ではない」というだけのことです。
これは当たり前であって、観念の大元は「視覚(その他の感覚)像」なのですが、
対象の粒子レベルの変化など、見えるはずがないからですw
それどころか「島」の岩の塊が削れようが、遠くから見る視覚像に変化がない
(厳密に言うと、あっても人間が認知できないのかもしれませんが)場合すら
あります。同じ「島」という観念の対象であっても、その元になる視覚像、
物理状態が同一でないのは当然で、ある共通性を持つ多数の視覚像群の元になる
多数の客観的物理状態群を総称して「島」という観念でくくっているに過ぎない
わけです。逆に、同じ物理状態を対象に、別個の観念を当てることも当然
できます。これは「唯名論」の、当然の帰結であります。
ですから、ある個物をめぐって、それが島なのか島でないのか、論争になる場合もあります。
日本の経済水域をめぐる「沖の鳥島は島なのかどうか」など、その典型であります。
しかし、「沖の鳥島」が何を指すかと、その物理状態が(刻々変化しながら)
客観的に決まっている、という点で共通理解があるからこそ、初めて「論争」が
可能になるわけです。
(続き)
人間でも同じで、厳密には全く別の物理状態であっても、ある共通性を
持つ多数の物理状態群を総称して「人間」という観念を作成するわけです。
「哲学者最高位」でも同じで、絶えず物理状態が変化する一個物を「哲学者最高位」と
称しております。しかし、どんな物理状態であっても人間という観念が
適用できるわけではなく、どんな個物でも哲学者最高位という観念が適用できるわけ
ではもちろんありません。でないと、「哲学者最高位は人間である」
「哲学者最高位はコピー最高位ではない」等々の判断が不能になります。
そして、以上は「私」という観念についても、全く同様に言えることです。
これに対し、あなたは
>>903で、いきなり「対象から反射された光」うんぬんと
言っておりますが、あなたによれば「対象」は「切れ目なく一つながり」なのです
から、そもそも、その「対象」が何を指すのか全くわかりません。
「対象」の側に客観的な「差異」がないと、「視覚像」にも差異がありようが
なく、結果として「島」を見たり「空」を見たり「海」を見たり「人間」を見たり‥
ということは不可能だと思われますが、いかがw?
>>968 >「現れ」〜「目撃」〜「遭遇」〜「出会い」〜「接触」〜「不意打ち」〜
>「ある」との違いはピンと来ましたでしょうか…
いや、申し訳ありませんが一向に。ある意味「ある」のは現在だけで、現在は
つねに「不意打ち」であるのは当たり前だと思いますが。世界たった今創造仮説とか
何とかはその表現であると理解しております。
>自己同一化というのは、ずーと「同じ」というわけではなく「同じになる」のです。
>つまり、「ワタシ」は〜である、「ワタシ」〜である、という際限のない自己確認に
>よって成り立っているのですね。
この辺は一向に問題なく同意です。
>>969 >「ワタシ」の中身(「〜である」)は無論のこと、このような自己同一化の維持・
>発展プロセス全体は、「現れたもの」です。「現れたもの」であるが故、例えば
>心理学の対象ともなりえます。私秘性はありません。
いや、この「私秘性」はよくわかりません。単にブラックボックスであるという
意味での私秘性なら、心理学の対象にもあると思いますが。実際、心理学者の精神鑑定
だの何だのに一体何の根拠があって、それが本当なのかどうなのか、誰にもわかりません。
しかし、唯一ブラックボックスの中にある自分の心を元に、それを言語的に拡張した
ものを他者の見える部分から推定する、という意味での推測ならいくらでもできますし
(できないと心理学者の仕事は成り立ちませんが)、少なくとも私は「わからなくても、
言語化不能でも、実際には心は何らかの客観的状態である(またはない)のだろう」
というソボクな実在論に立っているわけです。
(続き)
>何というか、この苦々しい自己同一化プロセスに巻き込まれていると思いませんか?
> 「現れ」〜「巻き込まれ」〜「とらわれ」〜
>この自己同一化プロセスを味わっていませんか?
うーん、どうも、私(任意の自我)の立場から見れば、巻き込まれ、とらわれ、投げ込まれて
いるように感じられるのは当然だろう、としか思えないのですが。
>「巻き込まれ」「とらわれ」「味わい」は、こうした心理的なメカニズムとは何か異なっており、
>それがすなわち本当の「現実」とは言えませんか?
> 「現れ」〜「現実」〜
>この意味での「現実」は、明らかに私秘的です。
いや、私は特に異なっているとも思えないし、その真の意味の「私秘的」とは
何のことだか、よくわかりません。永井氏などは「私秘性はブラックボックスだという
こととは全く違う」とか「私秘性は言語で語りえない」とか言われますが、私にはどうも
実感できません。結局これは最終的には「感性」の問題ではないかと思うのですが。
これが「わかる」人は「最終的に世界は私(ここ)に現れているのであって、これだけが
本当の現実だ。私がなければ世界もない」と感じる人で、私などはどうしても「私は世界の
中の単なる一個物に過ぎない。私に現れている世界の外部に広がるものこそが現実だ。」
としか感じられないので、その差ではないか、と思うのですが、違いますでしょうか。
秘密なんです。
分かりますよね?
秘密ですよ。
なんで分かってくれないの?
秘密なんですってば。
分かるだろ〜。
秘密なんだから。
978 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/04/24(木) 17:03:30 0
>>960 :考える名無しさん
>時間の進行は自然の履歴が決めることだね。
>宇宙が膨張しているかぎり時間の流れは変わらない。
だからその履歴と言う観念が人間の作った法則ではないの?
人間の歴史(進化)から見ると「宇宙が膨張している」と言えるんじゃあないの?
物理法則に時間が不可欠なのは生命にとって時間は不可欠だからじゃあないの?
いわば時間は物質現象を人が認識するための観測問題。
>自然物が作り出したものも自然物であるのは当然だ。
そこを捻じ曲げるのが「観念」の横暴です。
「人工」の概念は 自然に属する癖にその反対概念を意味します。
この様な横暴は心、意識、観念の最も得意とするところです。
反対概念が好きなのは脳の構造が相対的思考をし易いようになっているからだと想像します。
979 :
考える名無しさん:2008/04/24(木) 17:12:02 0
>>978 人間を作ったのは何ですか?
人間が自然から独立したものと考えられるなら、
同様に人間が作ったコンピュータも人間から独立した存在になりますね。
つまり、コンピュータの観念は人間の観念から独立することになります。
980 :
養老武:2008/04/24(木) 17:14:58 0
(おわり)
981 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/04/24(木) 17:32:01 0
>>969 :472:
>それがすなわち本当の「現実」とは言えませんか?
そういうものは存在しないと考えます。
貴方の「レベル0」とかは不可解です。
前にも出ましたが「人は悲しいから泣くのではなく、涙が出るから悲しい」のです。
ですから認識の後に自我同一化をするわけです。
それ以前はレベルも何もありません。
前もって在るのは過去の記憶、個性と言ったその人の意識構造だけです。
ですから認識に先立つものがあれば主観の潜在意識の側です。
>私秘的です
>「私はどこにもいないことにおいてある」
これなら明らかに「現れ」が客観側に無い事を示しているでしょう。
982 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/04/24(木) 17:55:51 0
「私秘性」と言うのはやっぱり可笑しいなあ。
他人との意志伝達の意味があるだろう、そこが可笑しい。
哲学とか言うのは意思疎通を扱う分野なのかな?
常に人間は一人で宇宙と対峙している。
意志の伝達は不要である。
心の通じ合いを論じるのは「出会い系」だろう。
例えば「語りえぬもの」と言う文章を他人と語り合うなどと誤解するから「伝達不可能性」などと言う陳腐な発想になる。
テレビの伝達ゲームじゃああるまいし。
この「語る」と言うのは「表現する」と言う事だろう。
語ったり表現したりする対象は自分自身に決まっている。
「私秘性」と言う言葉は自省する事(私の存在性を思考する事)と単なる思考の伝達問題を取り違えている。
983 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/04/24(木) 18:01:13 0
>>976 :考える名無しさん:
横レスですが一言・・・・・
>私がなければ世界もない
>私は世界の中の単なる一個物に過ぎない。
この両方を同時に採用したら如何ですか?
じいさんはそうしています。
984 :
472:2008/04/24(木) 18:39:29 0
>>975 >ある意味「ある」のは現在だけで、現在はつねに「不意打ち」であるのは当たり前だと思いますが。
>>976 >うーん、どうも、私(任意の自我)の立場から見れば、巻き込まれ、とらわれ、投げ込まれて
>いるように感じられるのは当然だろう、としか思えないのですが。
「当たり前」とか「当然」とかいう、まさにその‘足場’を問題にしているわけです。
当たり前でいられるそのことが、なぜ問題にならないんでしょう?
「不意打ち」ですよ? 当たり前じゃぁ「不意打ち」になりませんよねw
「不意打ち」は、経験上、たまにしかやってきませんよね。
例えば、昔の思い出に耽っているとき、不意に後ろから背中をたたかれて、我に返るとしましょう。
我に返るとき、「いまここ」がちらっと現れます。でもそれは一瞬のことで、「いまここ」なんて普段は殆どない。
そういう‘普段さ’に留まっているかぎり、「不意打ち」は単なる言葉であり、単なる「不意打ち一般」の一つに過ぎないんです。
「この現実」こそが全くもって不思議なんですよ。なんで、こう、現れるのかが。
しかし普段「なんで、こう、現れるのか」の不思議さは、殆ど現れないw
「ワタシは〜である。」という機械的自己同一化システムが順調に作動している間は。
永井的な
「『この私』は、なんでAでもBでもなく‘この’こいつなんだ?」とか
「『この今』が、なんでA年でもB年もなく‘この’今なんだ?」といった問いは、
私風にアレンジすれば「なんで、こう、現れるのか」という不思議を表明していると思うのです。
これを、因果的な問いに読んでしまったら、さっぱり通じないと思いますよ。
985 :
472:2008/04/24(木) 18:42:03 0
>>981 >前にも出ましたが「人は悲しいから泣くのではなく、涙が出るから悲しい」のです。
涙が出なくても、悲しいことはありますよねw
原因はいろいろでしょう。恋人に振られたから「悲しい」、脳の特定部位が興奮したから「悲しい」etc
さぁ、そういう「悲しさ一般」の発生原因さえ分かれば、「悲しい」は当たり前ですか?w
そういう‘普段さ’に留まっているかぎり、「悲しい」は単なる言葉であり、単なる「悲しさ一般」の一つに過ぎないんです。
>ですから認識に先立つものがあれば主観の潜在意識の側です。
「潜在意識」って、なにに対して「潜在」しているんでしょう?
「現れ」ないから「潜在」って云うんでしょうね。じゃぁ、その「現れ」ってなんでしょう?w
987 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/04/24(木) 20:11:07 0
>>985 :472:
前半意味不明?
>「悲しい」は単なる言葉であり、単なる「悲しさ一般」の一つに過ぎないんです。
「悲しさ一般」は‘普段さ’ですねもちろん。
で言葉だけではなく「悲しい〜」のクオリアであることも一般的ですが。
>脳の特定部位が興奮したから「悲しい」
そのとおりだといっている、其れが涙(身体の特定部位)が出るから・・・悲しいと言う事。
「現れ」のようなものの入り込む余地は無いと言っている。
>「現れ」ないから「潜在」って云うんでしょうね。じゃぁ、その「現れ」ってなんでしょう?w
潜在と言うのは顕在意識に対する言葉。
だから「現れ」なる物が考えられるのは主観(意識)の側でしょう。
客観側には在り得ないと言っている。
988 :
私:2008/04/24(木) 20:21:59 0
/( ;゚;ё;゚;))
〔ノ二二,___ ・ | ・ __,二二ヽ〕
|:::::::::::::::::::::::::::ヽ /::::::::::::::::::::::::::/
〉::::::::: :::::::::::::〉 ・ 〈:::::::::::::: ::::::::〈
|:::::::::::::::::::::::::/ (u) ヽ::::::::::::::::::::::/
〔:::::::::::::::::::::/ ノ~ヽ ヽ::::::::::::::::::|
ヽ:::::::::::::::::/ /::::::::::::\ ):::::::::::::::::::ゝ
ノ:::::::::::::::::::| |_〜─〜-| |〜〜〜/
時間の流れは不可逆である
たしかに、人間の意識としてはそうだ
でも、いたずらウォッチングで街行く人がみな後ろ向きに歩いたら?
ついでに時計の針も逆回転させよう
そしたらまるで時間が逆転したかのように感じるだろう
いつも見慣れた風景が二倍の運動スピードで運動していたら
時間の流れが早くなったように感じる
何も運動しない絶対零度の世界、時間がとまっている(そう感じることもできない)
時間は運動と切り離せない
990 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/04/24(木) 21:24:37 0
>>989 果たしてそうかな?
死ぬときにゲロ吐くように逆行するかもしれませんよ
>>976 永井が私秘性について文字通りそのように書いているのは、あまり記憶にないんだけど、
いずれにしても、新刊『なぜ意識は実在しないのか』は、以前の著作とは、意識とか私秘性に
関する議論がかなり違うように思われるので、もし興味があって、かつ未読であれば、そちらをどうぞ。
(まあ余計なお世話かもしれませんが。他のレスからも推測するに、「同意できない」とかなら
ともかく、「さっぱりわからない」というのは冗談だよなあw)
スレ違い失礼。
992 :
考える名無しさん:2008/04/24(木) 22:53:11 0
993 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/04/24(木) 23:41:07 0
>>970-971-972
長いなぁ
キミも、ごちゃごちゃ言ってないでさ
その雄弁さで、私の言っている事を否定すりゃいいじゃんかよ(爆笑
論理的に、どこが間違えてるのか説明してよ
>>973 ごちゃごちゃ言ってないで
個物の「絶対的な基準」を、早く示しなさいよ
価値観によらないんだろ?
>これは当たり前であって、観念の大元は「視覚(その他の感覚)像」なのですが、
>対象の粒子レベルの変化など、見えるはずがないからですw
だから私は、観念で判断してるんだろ って言ってるんだよ
キミは、観念でない絶対的基準があるのだ と主張してるんだから
それを示してくれればいいんだよ
粒子レベルでも何でもいいから
見えなくても何でもいいから、説明してよ早く
994 :
素人:2008/04/25(金) 00:38:58 0
>>993 > 長いなぁ
> キミも、ごちゃごちゃ言ってないでさ
> その雄弁さで、私の言っている事を否定すりゃいいじゃんかよ(爆笑
> 論理的に、どこが間違えてるのか説明してよ
小学校の国語からやり直せよw タコ助がwww
> ごちゃごちゃ言ってないで
> 個物の「絶対的な基準」を、早く示しなさいよ
> 価値観によらないんだろ?
ネコの方がずっと誠実だなw
もし次スレが立ったら、もう少しマシなレスを返してくれよなw
ノシ
995 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :
>>994 >小学校の国語からやり直せよw タコ助がwww
いやいや
例え話と同じ論法で、本論について切り返してくれればいいんじゃないの?
という事だよ
なんで、それは出来ないの?
と言うか
なんで
>小学校の国語からやり直せよw タコ助がwww
なん??
>> ごちゃごちゃ言ってないで
>> 個物の「絶対的な基準」を、早く示しなさいよ
>> 価値観によらないんだろ?
>
>ネコの方がずっと誠実だなw
あれれ?
せれは感嘆詞くんに書いたんだけど
感嘆詞くんて、キミの自演だったってワケ?
あと
ネコくんて、最近来てるの??