>>323 >例えば、常識的には世界は原子等からできている訳ですよね。
>で、原子が集まって有機分子となり、それが組織的に作用して人間になると。
>神経組織内にも情報伝達物質とか、電気の流れとかがあるのでしょう。
>しかし果たして、その作用のどこに「自分自身」などが発現する妥当性(便利な言葉ですね)があるのか?
>自分自身が自分自身を失いたくないと思う、その“自分自身”とは、唯物的にはいったい何??
仏教を唯物論と親しくさせることに抵抗を持つ者は多いし、
(輪廻や、鬼霊・神々・魔或いは神通力等)抵触する部分は多々あるが、それでも、
無我(非我)を成立させる『考察の構造』は、こういうこと(上記引用文)と相似した形式だ。
尤も、
上記は『「原子」という最小単位を儲け、その「集積」と、それにより「現れる種々の機能」』に、
仏教は、『最小単位を云々せず、そこをも含む在り様として
「縁により諸々の事象(存在・機能(働き)含)」が生じ、その連関の上』に、
それぞれ、『かりそめに《自己》が現れている』とするので、
別の側面で考えれば『縁起(連鎖・連関)か、原子(個物的還元)か』の違いは大きいが・・。
いずれにしろ、両者に共通するのは
【或る集積があり、そこに機能(働き)が生じ、その働きを《自己》《自己意識》とする】点だろう。
そしてそれは、究極には【(無限ループの如く)自己フィードバックし】
【
>>292や
>>302の図、及び「その“働き(→考察)”は“働いていることそれ自体を考察し始める”」】ことに由来する。
これが、『自己、自己保身、自己所有』という執着の原点だし、最強最後の砦だ。
メタな視線でもって、【自身が、そうした働きとしての事象に過ぎない】と観察し、受け止め、
その上で社会と接していくことを仏教では推奨している。
その意味で、唯執着論は「世俗を評する言い方としてとして『無明』」がその根っこにある」ことを言い当てているし、
「我見(“自己がある、これこそが自己だ、これが自己の所有だ”という思い)」や
「常見(“その自己は〈変わらず〉永遠に継続してゆく)」が、拘り・捉われであり、
心を縛るものであることを端的に表しているように見える・・・。