1 :
考える名無しさん:
2 :
考える名無しさん:2008/03/30(日) 23:12:50 0
3 :
考える名無しさん:2008/03/31(月) 01:00:45 0
4 :
考える名無しさん:2008/04/01(火) 01:29:16 0
5 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 14:08:16 0
6 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 20:54:45 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/ これではっきりした。以下、上記HPより転載。
私達が夜空を見上げる時、幾光年もの星々の光が満天に見える。
実感として極めて近く感じる。
星々を見るとき極めて近くに見えてしまう。
これは近くに見ているのではなく、文字通り近く見える。
その近い距離こそ、意識が天然に持つ空間の距離である。
私と呼ばれているものからの距離である。
その向こうに物理としての脳が存在している。
そしてそのむこうに物理としての頭蓋骨が存在している。
そのむこうに物理としての自然の景色が存在している。
7 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 20:58:12 0
牟田氏は、私(意識)が脳のどこかに鎮座ましましており、
その周りの<空間>に、自分自身の進退も含めて外界を
表象して見ている、としている。
この<空間>とはバーチャル空間ではなく、
脳内の意識の周りに存在する<空間>のことだ。
そんなことが、どのようにして言えるのだろうか。
8 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 21:20:04 0
今はなくなってしまったが、牟田氏の友人がHPを作っていて、
2004年頃、紹介していた。
【転載】
私の師であり、古き友人である、牟田俊彦が処女作を近々、出版することになりました。
彼に電話で聞いた断片ですが、本の内容(と思えるもの)を紹介します
------------------------------------------------------------------------------------------
私なりに牟田俊彦が語ってくれた断片を整理してみました。
私自身は、彼の原稿を読んだことはないので、10何年前に彼が語って
いたことと、今回の2回の電話の内容から、そして、私自身の体験等を
通して、私なりに考えて書いたものです。(断言表現でも、?付きと解
釈して下さい)
※「→」の後が、私のコメントです。
9 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 21:22:36 0
【転載】
●人間は、いや我々はどこから来てどこへ行くのか、解いてしまった。
→ 我々の意識の由来を明らかにしてしまったということか。
→ 感性、意味、視覚、言語のそれぞれの構造と関係を明らかにしたのか。
→ 彼が10何年前に語っていた、そして探求中だった「人間の構造」理論
のなかにきちんと位置づけた。
10 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 21:23:19 0
●意識・感性・意味の発生と構造
・脳内の一点で視ている。
→ 意識の所在?
・感性の発生
→ 外界の刺激により、感性が発生する?
・脳内の感性空間の仕組み。
→ 視覚の空間と関係ありか?
・意味を解明した。
・意味の構造を解明した。
・意味
→ 感性−意味−言語の関係
→ 我々が「意味がある」とか「意味がない」とか言うときの意味の解明も含むのだろう。
11 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 21:24:10 0
●視覚の構造・外界の実在性の証明
・G.M.ストラットン
→ 逆さ眼鏡の研究で有名な学者。彼が解けず、その後も謎だった問題を解いた?
・視覚の構造
・幾何学模様
→ 脳内の一点で見ている。その視覚の仕組み。図解しないと表現しきれない。
美しい幾何学模様になっている。感性や言語や意味との関係もあきらかに
なるのか。
・脳内に空間が形成される仕組み
・物理空間の実在性の証明
→ 視覚の構造、脳内に空間を形成してそのなかに外界の事物を投影して
脳内の一点で視ているのだろうか。
→ 観念論からの脱却。それにしても、外界の実在をどのような論理で証明したのか。
12 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 21:25:02 0
●自己の存在感・存在観の崩壊
・脳と言語のリンク
・否定辞
・自分自身に向かって「意味はない」と宣言することにより始まる。
・脳の機能の停止
・視覚、感性への影響
・感性の停止。人格の変容。
→ 脳と言語がリンクし、言語・意味の影響が視覚・感性に影響を与える
とする。それ故「否定辞」というキーワードにより、視覚・感性が崩壊
実は一時的機能停止)していくという風になるのか。
13 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 21:26:10 0
●絶対ではなかった、あの世界
・キーワードによる再プログラム
→ 「否定辞」というキーワードにより引き起こされた脳の状態なら
別のキーワードか何かによるプログラミングにより、再プログラム
を施し、元に戻すこともできる、という可能性もある。
・絶対的ではなかったあの世界
・単なる脳の一部の機能停止
→ あの世界、あの状態を一時的にでも体験したものには、「神」「真理」
「大いなる恐れ」「不可知」「神秘」等、絶対的とも思えた、世界は
否定辞によるプログラムの結果生じた脳の機能の一部停止に過ぎなかっ
た。
・完全に元に戻すことができる。
→ 再プログラムにより完全に元に戻せるかどうかは、出版される本を
待たねばならぬ。(私個人は、昨年暮れに短時間電話で話を聞いた
だけで、戻った。まだ完全でない部分はあるようだが)
・現代人のうち多くが陥っている精神状態からの解放。
→ 現代人の多くがその程度の差はあれ「否定辞」による影響は受けている。
存在の希薄さ、意味の喪失、価値観の崩壊、虚無感、感情の制御能力の喪失等
・更に、2つの世界を行き来することができる。
→ 2つの状態をキーワードにより、誰でも再生・追体験することができる。
14 :
考える名無しさん:2008/04/03(木) 17:07:46 0
・2000年余の歴史を持つ実存哲学の終焉
→ 実存哲学の土台となっているのも、「あの世界」だったのだろう。
その土台が、否定辞による脳の一部機能停止だった。
・宗教の終わり
→ 「あの世界」は、宗教の発生や人間が宗教を求める原因にもなっているのだろう。
・犯罪の減少
→ 近年増えた残虐事件の背景には、「あの世界」「あの精神状態」が関わっていた?
・ある意味、人類の新しい歴史が始まる。
・人類の新しい時代が始まる。
→ 長年、人類を苦しめて来た、否定辞(言語)を原因とする
脳の機能の一部・一時停止状態から回復する方法が見つか
った、それによる良い影響。
→ 上記の問題を解決しようとする過程で明らかになった「人
間の構造」理論の様々な分野への影響。
→ 人類の多くが、諦めていた心理状態から脱却し、可能性へ
と目を見開き始める。
15 :
考える名無しさん:2008/04/04(金) 03:27:47 0
脳の中に意識が存在し、その意識の周りに空間があるのか。
その空間の限界は、脳であり、脳の外側に頭蓋がある。
夜空に輝く満天の星までの距離はどのくらいだろう。
意識の大きさに比すると何倍くらいだろう。
脳内に空間(隙間)があると言っても、そんなには広くない。
ということは、意識の大きさは、かなり小さいことになる。
この話が本当ならば。
16 :
考える名無しさん:2008/04/04(金) 23:13:37 0
おい、2chねるの哲学板の諸君、どう応える?
牟田俊彦という無名の同時代人からの、挑戦状みたいなもんではないか!?
統一論 って題がうさんくさい。
ふと一歩引いてみればこの板も半分以上宗教やオタクで埋め尽くされてるね
学問として哲学を確立していこうって動きがないなあ
イデオロギーの宣伝 対 それに反射する人たち ああ無惨
18 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 01:00:42 0
確かにタイトル、うさんくさい。
「統一論」、何と何を統一したのか。
それはそれとして、具体的に中身を検討してみるか。
純一統一理論への挑戦のつもりですか?
20 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 01:06:34 0
では、「自己紹介」を検討してみよう。
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/mutapf.html 筆者は、三十年前に、意味を問うた!
三十年前の彼の結論がこれだろう。
「意味とは何か? 意味のある人生というから、意義も含んだ意味だろう。
なにか在り、また、なにか在り、また、なにか在り、 --- なにかとなにか、相関
し、ただ、なにかは在り、他のなにかに相関し在るのみなのか、ただ、在り、ただ、
相関し、ただ、在るのみ、だろう -- なら、意味など、貴さなど、在ろう筈がな
い、もともと意味など無かったのだ、夢を見るかのよう幻視していただけなのだ、
意味など幻影なのだ、意味など無かったのだ、意味の無い世界なのだ、この世は!」
21 :
剛田 武 :2008/04/05(土) 01:07:15 0
もう無いじゃん。
あ、宇宙人同士で対話しちった。
22 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 01:08:57 0
「その通りだ」と私もかつて思ったことがある。
一切のものには、関係がある。だからどうしたっていうんだ!?
すべてには、関係がある。しかし、単にそれだけさ。
とね。
こいつ馬鹿だろ?
悔しかったら本人が出て来い
遊んでやる
24 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 01:27:51 0
ストラットンの名が出ているので、まずストラットンの実験について。
http://piza.2ch.net/log/psycho/kako/964/964332314.html には、
>2 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/23(日) 15:36
>
>有名なストラットンの実験.
>日本でも金沢大の吉村さんなんかが詳しい.
>心理学科だったらたいてい基礎実験で体験する.
>
>実際は気が狂うどころか,
>しばらくかけているうちに順応してきて
>日常生活にまったく支障無くなり
>もっと続けると逆さ眼鏡かけていても風景が
>正立して見えるようになる.
>
>知覚内容が網膜像だけではなく身体感覚との
>相互作用で構成されていることの証拠.
>(他の解釈もあると思うので詳しい人はレスを)
やはり、逆さ眼鏡をかけた場合にも、倒立していた像が正立して見える
ようになるのか。
この逆さ眼鏡と同様の実験を、牟田氏は『統一論』序章にて、眼を指で
圧すことによって行っているようだ。
そして、上記の引用とは異なる解釈を行っている、と序文の最後の問い
から推測される。
25 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 01:36:50 0
26 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 01:45:15 0
>20
人生の意義、存在するものの意義を考えた。
存在するものに目を向けると、存在するものは、一切が関係しつつ
単に存在するだけで、そこには、それ以上の意味も意義もありはしない
という風に考えるに至ったということなのだろう。
問題は次だ。
27 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 02:05:57 0
>26
>意味など無いのだ !
>意味などないのだ! と本気に思い、そう信じた、そう、本気に思
>い、本心より受けいれた正にその時、一切のきずなが幻だったかの
>よう消えさり、わたしは奈落に舞うかのよう落ちつづける、記憶は
>とぎれた、--- いち年がすぎ、自分に帰った、-- ここから記憶
>が続きだす。
「意味など無いのだ!」と確信に至ると、なぜ、記憶が途切れるのか。
一年も。
記憶とは、経験の記録だろう。記録装置が停止したのか?
停止したのだとしたら、どうしてだ?
28 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 09:18:34 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/mutapf.html >見たことのない景色が広がっていた、世のなかから感じる世界が消え
>て、ただ、色が広がり、ただ、色づいた人びと、ただ、色づいた
>木々が、漂うよう見えていた、人に感じるものなく、木々に感じる
>ものなく、なにも感じるものが消えさった世界があった。
>人格と言う仕組みさえ自分に消えさり、ただ色の世界があった。
>わたしが居る、色の世界は在る、ただ、見ていた --
これだな、牟田の友人の書いたものの中にある、存在感、感性等については。
世界の存在感を感じ取るのが感性で、感性が停止したので存在感が消えた
という状態に陥ったと解釈しているのだろう。
29 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 09:22:33 0
意味とは何かという問い。
すべての存在物には関係はあるが、意味は無い。
「意味は無い」という結論を受け容れる。
何かが起こる。
感性の停止。
存在感の消失。
仏教の考え方とも通じるような、
しかし、微妙に違う。
30 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 17:25:49 0
生きがいを失い、生きる意味を喪失した人が、
世界が生気を失ったように感じる、というのはよくあることだ。
友達に裏切られたり、失恋したときには多くの人が経験するだろう。
これらは、意味と連動して情感が変化し、クオリアが変化したということなのだろう。
クオリア、質感は、視覚に、もしくは視覚に伴って現われ、感じ取られる。
この具体的な仕組みを解いたのか。
31 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 17:44:20 0
>25
俺の場合は、眼の少し上側から押す。
右眼を右斜め上から押すと、視界が右下に傾く。
その後は、手前のものを意識すると、手前のものが
眼を押さないときの水平な視界のときと同じ位置に戻る。
そういうことではないかと思う。
その後、手前の物に引き寄せられるように他のものも全部元に戻る、
と牟田は言っているようだが、そこはまだ確認できない。
再現しない。
32 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 17:48:18 0
じゃあ、ストラットンの逆さ眼鏡の場合はどうやって倒立した像が
正立像に戻るの?
やっぱり、手前の物の倒立像が反転して正立し、
周りの事物がぐるっと回転するかして戻るの?
33 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 23:45:18 0
序文を引用しつつ検討する。
>鏡の前に座る、右の眼を閉じ、左の眼に横に指を置き、指を横に押し眼を横に圧す、
これは、右眼を閉じて、開いている左眼の左側から左の指で鼻側に向けて押すということだろう。私は左手の人差し指で押している。実際に押す際には、右の目の眼球に直接指は触れず、まぶたの上からになるが。
>眼が横に移動した、脳裡に傾きの景色に見える、見える、のである、
指で横に押すから、横に少しではあるが、移動するだろう。移動しているのは、指の感覚と眼等の感覚でわかる。
そして視界は傾く。
>傾きの景色に見える、傾きの景色にある事物をワタシは見る、見る、のである、
眼球の真横よりやや上方から押すと視界全体が左斜め下に傾く。眼球のほぼ真横、あるいはやや下から押すと、視界全体は右斜め下に傾く。
>傾きの景色にある事物をワタシは見る、
問題はここだ。傾いた視界のなかに「ある事物をワタシは見る」。視線を変えずに、意識だけそちらに向けるということだろうか。それとも、視線を向けるということだろうか。
>事物は通常(指に眼を圧しない)の位置に帰り始め、
今日の時点での観察では、視線はそのまま固定し、意識だけ向けても、手前の事物は、水平に戻るし、視線を向けても同様に戻った。
>事物の周りは事物に引き寄せながら移動し始め、恰も事物の引力に導かれるかの様に、事物が通常の位置に帰る、事物を追尾したワタシも止まり事物を凝っと見る、
ここは、未確認。手前の自分が水平に戻る際にも、安定しているとは限らない。ぴょこんぴょこん動いて、傾いたり戻ったりする。
34 :
考える名無しさん:2008/04/06(日) 08:26:04 0
ストラットンの実験については
「脳と視覚 グレゴリーの視覚心理学」ブレーン出版、第5版
179ページ、8章:知覚学習、変換像への順応の項目。
35 :
考える名無しさん:2008/04/06(日) 08:36:54 0
>33
どうもわからんのだけど、序文の実験で傾いた像が元に戻るのは、
本当に元に戻っているのか、それとも気のせいのようなものか。
それが、右眼だけを開けて、右手の人差し指で右側から押すと
像は右下に傾く。だが、直ぐにその像はすっと戻るのだが、
「戻った」と思うと、また傾きの像に戻り、また、直ぐに水平
な像へ戻り、と繰り返すからだ。
どうも、眼から入って直接通常の処理を経た視覚像と、それを
修正した像を二重に見ているのではないか、という感じもして
くる。
水平な像と傾いた像を同時に見ているような感じがして来てい
るからだ。
36 :
考える名無しさん:2008/04/06(日) 16:15:24 0
37 :
考える名無しさん:2008/04/06(日) 17:21:49 0
>36
この体験記を読むと、像を自分の意思(気持ち?)で倒立←→正立の
変換をできるようになったみたいだ。
しかも、倒立した像を正立させると、頭部だけがひっくり返った感じ
になるという。
どういうことなんだろう?
38 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 14:27:13 0
「序文」の1行目から2行目
>鏡の前に座る、右の眼を閉じ、左の眼に横に指を置き、指を横に押し眼を横に圧す、眼が横に移動した、脳裡に傾きの景色に見える、見える、のである、傾きの
>景色に見える、傾きの景色にある事物をワタシは見る、見る、のである、傾きの景色にある事物をワタシは見る、
ここに「見る」と「見える」という2種類の表現がある。
これは、 5) の【経験の記述】
>営む情態の見るを受動にしたら「 見えながら 」、営む情態の見るを能動にしたら「 見ながら 」と語るのでしょう。
から
見える=受動・・・英語のseeに相当
見る =能動・・・英語のlookに相当
と解釈できる。
従って、「序文」の実験では、記述にあわせて「見る」「見える」を再現する必要がある。
39 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 15:32:31 0
本文の5付近からは、急激に難しくなって、わからくなる。
普通に言われるところでは、「見える」は、意識しないで見ている状態、
「見る」は、意識して見ている状態、のことだろう。
だが、そこから一歩踏み込んで、そのメカニズムは? と問われると
応えに窮する。
40 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 15:41:06 0
序文の実験は続けるとして、では、本文に入る。まず、1)の【 経験の記述 】
>人に営みがある、想う、わかり、識り、怒り、泣き、等々がある、
牟田は、人の営みの例として「想う、わかり、識り、怒り、泣き」等々を挙げる。
>各々を別にしえ、各々を判別する人が居る、なぜかしら別にしえ、なぜかしら判別しえ、る人が居る、
人の各営みを、自ら別々に行い、他者の行いを判別する人がいる。
>なぜ自分が各々を別にしえ判別しえるか説明しえないのに、この事実が語る「 人の営む情態を各々を別にし、各々を判別した、人の営む情態を識る 」と。
ここに例として挙げたものを一括りにして牟田は「情態」と読んでいるようだ。
ここまでは、問題ない。単に事実、誰もが経験する事実に過ぎないだろう。
41 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 15:43:49 0
>この経験の記述から、営む情態、を論理の用語に導き、次になり、営む情態を各々に別にしえる営みが人にある、営む情態を各々に判別しえる営みが人にある、を論理に導きだす。
続く部分も、特に問題は無い。
ところで、HP作成者がここを見ていたら、各項目の目次を作成してリンクし、一発で飛べるようにしてくらないか、本文をだらだらと続けて一辺に載せているので、参るわ。
42 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 19:35:34 0
序文の実験が再現した人は、ここに書いて下さい。
本文の解釈ができた人も。
43 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 19:47:35 0
自己紹介の続き、行くよ。
>見たことのない景色が広がっていた、世のなかから感じる世界が消え
世界から生気が消えたのだろう。存在感も。
>て、ただ、色が広がり、ただ、色づいた人びと、ただ、色づいた木々が、漂うよう見えていた、人に感じるものなく、木々に感じるものなく、なにも感じるものが消えさった世界があった。
多くの人が経験することだが、生きがいをなくし、意味を感じられなくなるとき、人は、世界から生き生きとした感じが消える。存在している感じも希薄になる。世界だけでなく、自分自身に対しても。
ここまではわかる。
だが、色だけの世界とはどういうことだろう。
生気を失えば、色は消えないか、色は消え、光は消え、暗い世界と化すのではないのか。闇の世界と。
>人格と言う仕組みさえ自分に消えさり、ただ色の世界があった。
人格と言う仕組み? 人格は仕組みなのか それが消える。
感情、感性といったものが死ぬのはわかる。これも多くの人が経験することだ。
>わたしが居る、色の世界は在る、ただ、見ていた --
色の世界、どういう世界なのだろう --
44 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 20:21:02 0
大切な人を失う。亡くしたり失恋したり。あるいは、人でなくても生きがいをなくす。
そうしたとき、世界は暗くなる。
生気を失い、存在感がなくなる。雰囲気も感じられなくなる。
光は単なる光となり、色は暗い色となる。立体的な感じもなくなる。
質感も、暗い光となる。金属の光沢はわかるが、何かが欠けている状態になる。
色と形と質感、と誰かが言っていたが、この3つのうち、形と質感が感じられなくなる。
もしくは、ほとんど感じなくなる。
感情面では、感情の起伏が激しくなる。ある種、凶暴とも言える状態になる。
これを人格が消えるということだろうか。
45 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 22:24:37 0
それを言うなら、
世界は、影と化す。
実体があるという感じがなくなる。
平板な感じ。
外的世界が変化したわけではあるまい。
変化したのは、私の認識の方だ。
その原因が何か、彼は解明したのだろう。
46 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 22:30:58 0
「序文」の実験、再現して確認できた人いる?
実験してみて、どこまで再現できた?
本文を読んでみて、どこまで、自分の経験にもあると検証できた?
経験からの仮説の抽出に、どこまで納得できた?
47 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 23:29:22 0
>>46 序文の2つめの実験なら、ほぼ再現できたよ。
序文の2段落眼の3行目、「移動する事物をワタシが追尾し」
のところは、意味がわからないので再現できたかどうか
わからないけどね。
48 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 23:42:53 0
49 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 23:55:21 0
>>48 牟田氏の一連の図は、実際に人間の頭部を測定して、
眼によって見える物体の見え方から測定して、
第三の眼なり、意識の座なりを頭部のどの位置に
存在しているのかを明らかにできるほどになって
いるのだろうか。
脳科学者や眼科、視覚などの専門家がこれを見て
正確に測定すれば、位置は特定できるのか。
PETなどの装置で観測することにより、
その活動状態と照らし合わせることにより、
確かに意識の座はここだということに
なるのだろうか。
50 :
考える名無しさん:2008/04/08(火) 00:08:08 0
51 :
考える名無しさん:2008/04/08(火) 00:19:18 0
医学系の人が、第三の目に興味があるかって言うと・・・w
それより他のことに気が行ってるようだな。
自分でPET買うしかないんじゃね?
52 :
考える名無しさん:2008/04/08(火) 00:21:08 0
>>51 意識のありかには興味はないの?
視覚のメカニズムには?
53 :
考える名無しさん:2008/04/08(火) 01:13:00 0
意識のありかって漠然としすぎてないか?
意識のありようなら、ほんの一部解明されつつあるけど。
第三の目って、要するに幻覚を認知してる時
脳のどこが動いてるかって?
それは分かってるよ
視覚のメカニズムは今やってると思う
54 :
考える名無しさん:2008/04/08(火) 12:48:08 0
55 :
考える名無しさん:2008/04/08(火) 12:54:30 0
般若心経とポエムが相関した新しいアニメーションですかね?
56 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 00:19:15 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan3 3)の図。
>図の説明 像を彩る光、周りの光、境から周りに薄めながら混じる光、
図の中心は、どうやら人のようだ。人の周りの最も濃い部分が「像に彩る光」、その外側が「周りの光」、
「境から周りに薄めながら混じる光」とは、「像を彩る光」と「周りの光」との「境」から次第に周辺に
向かって薄くなっていく光のことか。この3番目の光と「周りの光」の区別がよくわからない。
>像を見たら、像が見えたら - - この通りに見えたろうか ( 経験の事実を語るのだが )
まだ、見えない。
どうやら、哀しいときに、世界が、眼に映るもの何もかにもが“哀しみに”満ちている
と感じることがある。世界全体、個々の事物をとっても、“哀しみ”に満ち、泣いている
とも捉えられることがある。
世界そのもの、個々の事物が変わってそのように感じられるのではなく、
自分自身の方が変わったから、そう感じられるはずなのだが。
その際に、世界全体を透して見えてくる“光”があるのだろうか。
個々の事物の周りの“光”は、牟田氏の記述の通りになっているのだろうか。
まだ、自分には確認できない。
誰か、牟田氏の言うとおりに見えるという人がいたら、具体的な例を挙げて
書いてくれないだろうか。
57 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 01:03:31 0
58 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 01:13:04 0
59 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 01:20:20 0
『統一論』第二部の方な。
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta002.htm 最初の図。頭部の中心に位置する十字が、右眼に移動しているように見える。
これは、何を意味するのか?
左目を閉じて、右眼で見ると頭部の中心付近にあった(あると感じていた)意識が
右眼に移動して、右眼付近にあると感じる、ということを表わしているのだろうか。
右眼を閉じて、左目を開くと、確かにそちらに移動する。
では、両眼を開いているときには、意識はどこにあるような感じがする?
両眼の間の眉間の奥にあるような感じがするよ。
60 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 07:46:51 0
>>59 そいつは、困ったな。
ショーペンハウエルの<表象>という表現を借りていえば、
身体も意識の位置感覚も表象だろう。
だったら、片目のときと両眼のときとで、移動しているのは
意識なのか。
それとも、意識の周りの世界の方なのか。
61 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 07:50:22 0
おいおい、そんなことを言うのなら、
道を歩くとき、移動するのは自分なのか、世界の方なのか、
どっちなんだい!?
いつも世界の中心にいるキルケゴールさんよ。
62 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 08:33:42 0
63 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 22:40:50 0
64 :
考える名無しさん:2008/04/10(木) 20:05:03 0
統一論を編集中の本人、牟田俊彦です。私の意見 ( 統一論 ) を検討してくださり、ありがとう。
統一論の記述を続けたいのですが、一身上の都合により遅延の可能性を生じました。後日に記述を続けたく思います。
では、ごきげんよう
65 :
考える名無しさん:2008/04/11(金) 01:06:49 0
7)の続きを読んでいるんだけど
>なにかを ( 色か、種別か、輪郭 -かたち- か、意味か、構造か ) 識りたくなり、適宜になり像を選ぶなら。
「見る-look-能動」ということか?
>像になにを ( 色か、種別か、輪郭 かたち- か、意味か、構造か ) 識りたく思うかに、規定になり、
>像になにか ( 自覚しえなく、思考になり、像を判別になり、像を考慮になり ) 見えながら、に続きになり、規定の位置になり、規定の寸法になり、
>像を見る、に続きになり、規定の位置になり、規定の寸法になり、
これって、序文の傾きの像が、元の水平な像に戻っていくメカニズムを書いているのかな。
つい、この前までは、視覚のデータは、光を元にした色だけであり、それに外形と立体構造などの
形を投影し、質感などを投影して視ているのだと思っていたのだが...
66 :
考える名無しさん:2008/04/11(金) 01:08:02 0
67 :
やばすぎwww:2008/04/11(金) 07:38:02 0
量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。
以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る
『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。
↑wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
68 :
考える名無しさん:2008/04/11(金) 07:49:09 0
>>34 『脳と視覚 グレゴリーの視覚心理学』リチャード・グレゴリー、ブレーン出版、第5版
8章:知覚学習、変換像への順応
179ページ
「知覚学習のメカニズムを知るために、光学系を使って網膜像にさまざま
な修正をほどこした動物や人間の実験を見ていこう。そして、眼と脳は変
換された入力を補償するのか、あるいはそれに順応していくのかを見てみ
よう。こうした研究を最初に行ったのは、19世紀末のアメリカの心理学
者G.M.ストラットン(G.M.stratton)であり、彼自身が被験者となっ
た有名な実験がある。」
これが、逆さメガネの実験。
69 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 01:14:01 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm 序文の3段落目。
>人は語る「 片目を閉じ、一眼に景色を見る、眼の横に指を置き、指で眼を横に圧し、景色は傾きに見え、この理由は、眼球を動かす信号が脳から送りだしになり
>眼球の位置を脳は認め、この位置から光情報を得たと認め、この位置からの光の情報とし処理を経て景色の像を脳裡に描きだし自然を見る、から、指で眼を移動させ
>るなら、眼が移動したのを脳が気づかず、眼の在る筈の位置からの光の情報とし処理するから自然の景色は傾き、脳裡に映る 」と述べる。
このように解釈して述べるのは、一般人か、それとも専門家か?
専門家だとしたら、眼科の専門医? どの分野かの視覚の研究者?
序文に載っている実験は、牟田氏のオリジナル?
それとも、専門家の間では、基礎実験か何かになっているの?
70 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 09:25:31 0
>>8 〜 14
のことを掴んだにしても、あまりにも、発表されてなさ過ぎ、文章が難し過ぎ、
時代を変える、人類の歴史を一変させ得るほどのものなら、
もっとさー、
すーっと砂に水が染み込んでしまうくらいに、自然で浸透性の高い文章で提示しなきゃ。
71 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 09:48:21 0
look と see の違い、能動、受動とか、見る、見えるとか言ってるけどよ。
何がどう違うのさ。
視線を向けて、目の玉を動かして見るのが、look?
ぼんやりと見るともなしに見るのが、see?
じゃあ、あれは? 視線を向けて特定の対象を見ている(lookしている)が、
その対象の周りも視界には現われているでしょう。
これは、see?
72 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 15:05:21 0
73 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 15:45:03 0
>>71 それなら、牟田氏は、どこだったか忘れたが、
「景色を見えながら、事物を見る」というような表現をしていたはず。
ところで、「自覚なき思考の場所」という表現も出てくるが、
人が考えているとき、視線が移動し、特定の空間(上の位置)に
固定されていることがあるように思うが、その場所のことか。
思考は見えないけれども、心眼のようなものによって、
空間上に展開した思考を見ているか何かしているということかな。
74 :
考える名無しさん:2008/04/13(日) 09:00:23 0
>>69 序文の実験は、グレゴリーの「脳と視覚」(ブレーン出版)P.132、l.14 ではないのか。
>片方の眼を覆ったまま、もう一方の眼を指でそっと押してみよう。
この実験で起こること、それに対する解釈については、これから読んでみる。
75 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 00:47:15 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm 序文に戻って第3段落、lookとseeを追加してみる。
>人は語る「 片目を閉じ、一眼に景色を見る(look)、眼の横に指を置き、指で眼を横に圧し、景色は傾きに見え(see)、この理由は、眼球を動かす信号が脳から送りだしになり
>眼球の位置を脳は認め、この位置から光情報を得たと認め、この位置からの光の情報とし処理を経て景色の像を脳裡に描きだし自然を見る(look)、から、指で眼を移動させ
>るなら、眼が移動したのを脳が気づかず、眼の在る筈の位置からの光の情報とし処理するから自然の景色は傾き、脳裡に映る 」と述べる。
76 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 00:53:45 0
>>75 片眼を閉じ、開いた方の一眼を指で圧して通常の位置から移動させる。
このとき、通常、自分の意志で眼を動かすのではなく、
外的な指の力で位置を動かしているのがポイントか。
視界が傾いて見える理由
1.眼を脳からの指令で動かしたのではなく
2.外的な指の力で動かした(移動した)
3.そのため、脳は、眼の位置を通常の位置と判断している。
4.通常の位置にある眼に光情報が入ってきたと判断して像を描き出している。
5.そのため、像が傾いて見える。
というのが、牟田氏が行なった実験の通常の解釈となるということか。
77 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 00:57:58 0
>>76 序文、第3段落の残り
>なら訊きたい「 片眼を閉じ、一眼に横に指を置き圧し、傾きの眼から脳裡に傾きの景色が見える(see)、このとき、傾きの景色のなかの事物を見る(look)営みを失い、直後に、
>傾きの景色のなかに事物を見る(look)営みを復活し、ワタシが傾きの景色のなかに事物を見る(look)、のなら、この事物が通常の位置(指で眼を圧しないでの、この事物の位置)に
>帰る移動を始め、帰り、通常の位置にこの事物をワタシは見る(look)のはなぜなのであろう、脳は識る筈のない位置を、この事物の通常の位置を(同上)認め、位置を修正し
>通常の位置に戻し(通常の位置に帰らせ、この帰る移動をワタシが追尾しながら)ワタシに見せるのである、脳は識る筈のない位置を認めた、傾きの眼を位置を識る
>のか、直に事物の位置を識るのか、識る器官を有するのだろう 」と語るのでしょう。
78 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 01:16:37 0
>>77 片眼を閉じ、一眼を指で横から圧す、眼が横にずれ、視界も傾く。
このときは、受動的に「見える」(see)の状態。
次の箇所は、まだよくわからない。
この状態になったときには、能動的に「見る」(look)の機能が一時的に失なわれてしまうが、
しばらくすると、能動的に「見る」(look)機能が復活する、ということだろうか。
やってみると、強く押し続けていると、視界が暗くなって「見る」「見える」に関係なく
両方の「見る」機能が一時的に失われ、しばらくすると復活することがある。
別の場合には、視界全体が傾いた状態になっているときには、「見る」ことはしていない。
ここで、「見える」(see)から、意識して自分で「見る」(look)に切り替えると、が
「ワタシが傾きの景色のなかに事物を見る(look)」の部分なのだろう。
79 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 01:17:35 0
要点をまとめてみる。
指で圧して、視界が傾いた状態を維持したまま。
1.「見える」(see)の状態から
2.「見る」(look)の状態に切り替える。
3.すると傾いていた視界が、指で眼を圧した状態を維持しているにも
関わらず、指で眼を圧していない通常の状態で見ている状態の視界に
戻るという現象が起こる。
4.通常の状態に戻るには、移動した眼の位置を脳が認識し、入力され
た光情報を補正するなり何なりする必要がある。
5.ところが、脳は、自らの指令によって眼を移動させたのではなく
外的な指の力によって移動させたため、移動した眼の位置を認識する
すべはない、ということになる。
これらのことを辿っていくと、人は
・眼に拠らず、直接、事物の位置を認識するのか
・眼によらず、直接、事物の位置を認識する器官があるのか
と言わざるを得なくなる。
牟田氏が言いたいことは、このようなことだろうか。
80 :
考える名無しさん:2008/04/15(火) 14:00:57 0
眼を移動させたことが脳がどのようにして認識するか、という問題。
身体と一緒じゃないのかな。
リラックスして立っていて、誰かが見えない位置から、体側の腕を押して動かす。
腕を押された方は、腕の位置が変わっていることは、わかると思うけど。
眼の場合も同じじゃないのかな。
素人考えで、具体的にどうなっているのかはわからないけど。
81 :
考える名無しさん:2008/04/16(水) 02:05:52 0
おい、その腕の位置は、どうやって認識しているかが問題だろう?
牟田氏の説を採るのか、別の説を採るのか。
82 :
考える名無しさん:2008/04/16(水) 18:39:57 0
普通、具体例を添えて見解を述べれば、解りやすくなるはず。
経験という具体例を記述しても、肝腎の具体例が何を指して言っているのか
わからなければ、問題外だろう。
序文以外は、わかりにく過ぎ!
83 :
考える名無しさん:2008/04/16(水) 21:43:17 0
わかりにくいのは、日本語表現の問題もあると思うよ。
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan5 5の【経験の記述】の1行目
>なぜ<に>なら「 営む情態の見る、この情態<を>消えたから、彩る光から、周りに混じる光から 」と語るなら、
<に>は削除し、<を>を<が>に変えて
なぜなら「営む情態の見る、この情態<が>消えたから」
の方が適切ではないか。
また、倒置法もやめて、文章全体を書き直して
なぜなら「営む情態の一種である「見る」が、彩る光と周りに混じる光から消えたから
とした方がよいのではないだろうか。この書き直した文意が合っている場合に限定しての話だが。
84 :
考える名無しさん:2008/04/17(木) 00:00:51 0
では、2行目はおいらが、やってみよう。
>問うだろう「 営む情態を、像に彩る光に結べなき、像の周りに混じる光に結べなき、情態を営む見る、をいか様に語るのだろうか 」
カギカッコの中のみ。それにしても、意味がわからない。
リライトしにくいので、おいらなりに解釈してみる。
「人の、今、営む情態が「見る」であるとき、それなのに、その「見る」という状態を
像に彩る光にも像の周りの光にも結ぶことができない場合、
その場合の「見る」を人はどのように語るのであろうか。」
こんな感じかな。
85 :
考える名無しさん:2008/04/17(木) 00:10:08 0
3〜4行目
>「 見え、見えた、見える 」と語るのだろう。
「見る」は、「見る」「見える」の両方を合わせた「見る」だったのか。
「見える=see」とは、「見る」情態のうち、像を彩る光にも周りの光にもその情態を結べない光のこと。
>「 営む情態を、像に彩る光に結び、像の周りに混じる光に結び、いか様に語るのだろう 」
>返答「 見、見る、見た、見ながら 」と語るのだろう。
やはりそうだ。次の行は【論理】と同じなので飛ばす。
>【論理】営む情態の見るを受動にしたら「 見えながら 」、営む情態の見るを能動にしたら「 見ながら 」と語る
営む情態の一種である「見る」を受動にする:像を彩る光にも像の周りの光にも結べないとき:「見える=see」
営む情態の一種である「見る」を能動にする:像を彩る光にも像の周りの光にも結べるとき:「見る=look」
86 :
考える名無しさん:2008/04/17(木) 00:18:55 0
新しい「受動能動論」よのう
87 :
考える名無しさん:2008/04/17(木) 09:02:12 0
要するに、牟田は「光」を3種類に分けているのだろうか?
1.観測者の情態によって視覚に現われる光
2.対象の情態を感知して現われる光
3.通常、言われている、物理的な光
第一部の最初の方では、1を扱っているが7からは、
3の話が混じってきているような感じがする。
7の1行目の
>色か、種別か、輪郭 -かたち- か、意味か、構造か
の「色、種別、輪郭−かたち−、構造」は、それだろう。
少なくとも「色」はそうだろう。
HP作成者へ、目次の6のリンクが間違っているよ。
88 :
考える名無しさん:2008/04/19(土) 02:58:06 0
おい! 読解の続きはどうした!?
89 :
考える名無しさん:2008/04/19(土) 10:20:31 0
続きと言われてもだな、
繰り返し読んで、自然に脳が働いて、文意の理解が進むのと
書かれている経験が再現するのを待っているところ。
90 :
考える名無しさん:2008/04/20(日) 18:24:39 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan10 第三段落に「直棒」「自分を指す」という表現が初めて出てくる。
直棒? まっすぐな棒のことか。
自分を指す? 何のことだろう? 何かが自分を指し示す? 指差す?みたいな感じ?
この2つが結びついた。
まっすぐな棒状のもの、ペンを持って自分の前で向きを変えてみる。
すると、ペン先を、ある方向へ向けると自分の方を向いていると感じる。
右前方から、左前方から、正面から、上方から下方から、自分の方を向いている
と感じる方向をチェックする。
ペン先は、いつも同じところを指している。
様々な場所から自分を指しているペン先を延長すれば、一点で交わる感じがする。
そこが、自分(意識)の所在ということになるのだろうか。
牟田氏は、どう判断している?
91 :
考える名無しさん:2008/04/20(日) 19:10:03 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan7 なにか=(色か、種別か、輪郭 -かたち- か、意味か、構造か)
の部分をカットして引用してみる。必要なら代入して読む。
>なにかを識りたくなり、適宜になり像を選ぶなら。
識りたくなるのが先で、像を選ぶのは後なのか。実際はどうだろう?
>像になにを識りたく思うかに、規定になり、
次の行は「像になにを識りたく思う」という表現になっているが。
何を認識したいかによって、規定されるのだろう。
>像になにか ( 自覚しえなく、思考になり、像を判別になり、像を考慮になり )
>見えながら、に続きになり、規定の位置になり、規定の寸法になり、
像が何であるかを認識するには、自覚できない思考が働き、像を判別し、考察をし、
「見える(see)」の状態で、像の位置と寸法を規定する。
像が何であるかを認識するには、自覚できない・無意識の思考が働き、像を判別し、位置と寸法を規定する。
ということなんだろうか。
92 :
考える名無しさん:2008/04/20(日) 19:10:42 0
>像を見る、に続きになり、規定の位置になり、規定の寸法になり、
続いて、像を「見る(look)」の状態になり、位置と寸法が規定される。
>像になにか - 見つつ - わかり、
>像になにか - 見つつ - 識り、に続きになり、規定の位置になり、規定の寸法になり、
>像になにを識りたく思うかに、規定になり、続きに規定になり、規定の位置になり、規定の寸法になり、
>像になにを識りたく思うかに、規定になり、位置を変えた、寸法を変えた、像に気づくのだろう、像に規則を
>気づくのだろう。
「見える」状態から「見る」状態へと切り替わるのは、経験と一致する。
「見える」の状態での認識と「見る」の状態の認識があるのか。
確かに、この2つがなければならぬだろう。
93 :
考える名無しさん:2008/04/20(日) 19:31:08 0
最期の段落。
>像になにかを ( 色を、種別を、輪郭 -かたち- を、意味を、構造を ) 適宜に重なり一堂に、適宜に交互に、識りたくなり、適宜になり像を選ぶなら。
適宜に重なり? 一堂に? 交互に?
色・種別・輪郭・意味・構造のうち、複数あるいは全部を認識したいと思い像を選ぶということか。
>規定の位置に留まり、位置を変えなくなり、
ということは、前段落までの段階では位置が変わる?
>像になにか ( 自覚しえなく、思考になり、像を判別になり、像を考慮になり ) 見えながら、位置を留まり、
>像を見る、位置を留まり、
>像になにか ( 色を、種別を、輪郭 -かたち- を、意味を、構造を ) 適宜に重なり一堂に、適宜に交互に、わかり、識り、位置を留まり、実寸の比に変え、
>像を位置に規定した規則があろう。
「見える」状態で位置が規定され、「見る」状態へ移行すると位置と寸法が規定される?
94 :
考える名無しさん:2008/04/20(日) 23:24:57 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan8 >識りたく思うなにか ( 色か、種別か、輪郭 -かたち - か、意味か、構造か ) に規定し、
続きに規定した、像の寸法になり、像の位置になり、規則を識るだろう。
日本語表現が変だと感じるが、通常の表現ではなく、この言葉遣いが表わそうとしている
何かを表現しようとしてのものなのだろうか。
「識りたく思うなにか(中略)に規定し」とある。規定するの主語は、脳だろうか。
脳が認識したいと思う何か、例えば色を規定するのか。色を原文にあてはめると
「識りたく思う色に規定し」となる。
普通なら、「脳が識りたいと思う色を規定し」という表現になりそうだが。
脳が、色・種類・輪郭・意味・構造をまず規定し、次に位置と大きさを規定する。
ということなのだろうか。
プラトンの形相を想い起こす。事物は形相を分有して存在する・現われる。
95 :
考える名無しさん:2008/04/20(日) 23:28:58 0
一旦、牟田の文章から離れて、現実の経験に戻ろう。
くつろいで見ている。見るともなしに見ている。
そうしていると、何かに引っかかるような感じで、見てしまう。
視線を向け、視野の中心で捉える。
すると、色や形や構造がはっきり・くっきりとして「見える」。
96 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 00:32:35 0
>>95 おいおい、最後の「見える」は see ではなく、lookじゃないのか。
97 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 00:42:47 0
8の二行目
>識りたく思うなにか ( 色か、種別か、輪郭 -かたち - か、意味か、構造か ) を、幾度に亘り頭を同じ位置に置き、幾度に亘り識りたく、
「識りたく思うなにかを」は、どこにかかるのかい?
「幾度に亘り識りたく」かな。
「幾度に亘り頭を」は「同じ位置に置き」にかかるのだろう?
何という悪文だ! 小中学校で、文の書き方を習わなかったのか!?
誰か、普通の日本語にしてくれ〜〜
意味わかんねぇ
98 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 00:54:42 0
おれもわからんよ。
「宗教か?」というような反応をネット上でいくつか見たが、
それは、この独特の用語法、通常とは違う日本語表現をしているからというのもあるだろう。
経験を記述するなら、起こった順番に箇条書きにでもした方がわかりやすい。
この「幾度に亘り頭を同じ位置に置き」というのは何なんだ。
何かな、と考えるときに頭を傾けるが、それのことか。
まさか頭を手で持ってどこかにおくわけではあるまいし、
単に同じ位置から対象を見ることを言っているのか。
移動しては、また同じ位置に戻るということを繰り返しながら
見ることを言っているのか。
99 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 01:06:46 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan9 牟田は、観測者の情動が光として対象に現われるが、
それが、視覚に色・形・構造・意味・質感などの把握に関わっている
と考えているのだろうか。
視覚を3分類して
1.物理的な光、2.対象からの光(一般に言う雰囲気)、3.観測者の情動の状態の視覚への影響
としているようだが、序文は1の話、第一部の本文は3の話から始まったが
1の物理的な光による視覚の話も絡んできているような感じがする。
それだけでなく、4に分類でもすべき「意味」も絡んできているが。
「構造」は、3とすべきなのか、4に分類すべきなのか、わからないが。
100 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 01:30:01 0
101 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 02:11:39 0
ゾウさん、100ゲットおめでとう!
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan13 わかんないところばっかりなので、ちょっと飛ぶが
>情態を能動になり頭部に営む‘注意’、営む‘寛ぎ’、営む‘情念’、営む‘本気’、営む‘真剣’を起動したなら、
情動を頭部に営む? 情態を能動になり?
わけわかめだな。注意などなどの情動を頭部に営むってことか。
これらは、能動で営むことしかできないのか、受動と両方の場合があるが
今回は能動バージョンってことなのか。
全体像を示しつつ、語って欲しいものだ。
間2行飛ばして、
>従えた彩り( 注意の光、寛ぎの光、情念の光、本気の光、真剣の光 )を頭部に彩り、
こいつは何の話?
>頭部の境から周りに混じる( 注意の光、寛ぎの光、情念の光、本気の光、真剣の光 )光に景色に彩り。
え!? 頭部って観測者の頭部?
観測者の頭部の情態に応じた光が、観測者の頭部から拡がっていくっていう話なの?
102 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 08:41:39 0
宗教っぽく、科学にしても、疑似科学的に感じる理由。
例えば、序文の1行目の独特の記述。
>鏡の前に座る、右の眼を閉じ、左の眼に横に指を置き、指を横に押し眼を横に圧す、眼が横に移動した、脳裡に傾きの景色に見える、見える、のである、傾きの
普通は次のような表記になるのではないか。
鏡の前に座り、右の眼を閉じ、左の眼<の>横に指を置き、指<で>横に押し眼を横に圧す、眼が横に移動した、
それから、
「傾きの景色」は、普通は、「傾いた景色」となるのではないか。
「傾きの景色に見える」は、「傾いた景色が見える」あるいは「景色が傾いて見える」となるだろう。
このように書き直すと微妙に意味が変わってしまうのかもしれないが。
古文が混ざっているのか、擬古文が混ざっているのか、表現が変だ。
この辺りが、古臭い感じ、何となく変な印象を読むものに与えるのだろう。
103 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 08:59:49 0
104 :
考える名無しさん:2008/04/22(火) 02:18:14 0
突然だが、ワープして 18
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan18 >夜に煌めき輝きを満天に星たちは踊る、
詩的、文学的だね。
>恰も天の球に位置したワタシが芯に居て天の球に映り輝き放つ星らを仰ぎ見るかに様になり、
という実感は、私にはない。
>なぜと言うなら天の空が巨きな曲がりになり球の面を描きだしたかになり見え、
という実感は、もっと私にはない。
>幾光年の遥かな輝きの遠き星たちから放つ様々の遠い近いに位置した、遠き位置、近き位置、に見える筈なのに
この点は、そうならねばならぬのか、わからぬ。
>満天に曲がり描きだした星々になり、見える星たちを見るワタシが居るのだろう。
「満天に<曲がり>」の<曲がり>という実感はない。
105 :
考える名無しさん:2008/04/22(火) 11:44:27 0
>>104 >>幾光年の遥かな輝きの遠き星たちから放つ様々の遠い近いに位置した、遠き位置、近き位置、に見える筈なのに
>この点は、そうならねばならぬのか、わからぬ。
この点は同意。
前後の距離がわかるのは、比較的近くのもの。一定以上の距離にあるものは
背景と化してしまい、遠近の区別は消失する。
夜空の星たちもそうではないか。
この経験の裏づけるものとして、視覚における遠近の判断のつく限界の距離
が明らかになっていたはず。
106 :
考える名無しさん:2008/04/22(火) 12:03:46 0
>>105 思うだけど、牟田は遠近が消失するのは、脳の中の物理的な空間、
限界のある空間スクリーンのようなものに再配置して視ていて、
幾光年の遥か遠くの星たちは、そのスクリーンの壁(内壁)に投
影しているから、というようなことを考えているのではないか。
空間スクリーンと表現したのは、球状の部屋の真ん中に意識があっ
て、その球の内壁にマッピングしているのではなく、球の内側の
空間の各点にも再配置していると牟田が考えているのではないか、
と思ってのことだ。
星の場合は、その球の内部の空間上の点では対応できる位置がな
いので、球の内壁に再配置して、遠近感が消えて視ていることに
なるのだろう。
そして、それは牟田の実感と一致するということではないか。
107 :
考える名無しさん:2008/04/22(火) 21:01:06 0
その通りに考えます。
牟田です、一言のコメントを述べる余裕しかなく残念ですが。
球状の部屋の真ん中に < ワタシ >が生じ消える部位のあり、この位置を一点になり、この点から距離の目盛を縮まりながら部屋
の内壁になり、無限遠の距離の目盛になり、この球状の部屋に諸々が ( 諸感、色、音、匂い、等々 ) 再配置になり、配置した諸々に地平になり、
< わたし >に見えつつ 。。 こんな様子かな
108 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 00:19:59 0
>>106 今日、気づいたのだが、see の状態で見ると、背景と化し、
look の状態で見ると、立体化して見えてくる。
その際、see から look へと切り替わると、同じ対象なのに
ピクンと像が動くような感じがする。
位置だけでなく、大きさももしかしたら変わっているかもし
れない。当然のこと、立体構造も与えられているが。
このような現象が起こるのは、
背景として見えている see のときには、平面的でもしかしたら、
視空間の内壁に映っている状態なのだが、
look に切り替えた瞬間、内壁から立体空間スクリーン上のつまり
空間内部の各点へのマッピングに切り替わっているからではない
のか。
109 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 00:37:13 0
>>107 するってぇと、それは
意識は、see の状態では、文字通り平面的な絵画を見ている状態だが、
look の状態に切り替えると、文字通り、空間的な映像を見ている
ということになるってことなんでしょうか。
平面的なものを見ているから平面視をしていて、立体的なものを
見ているから、立体視しているだけ?
そいつがほんとだとしたら、面白い。
110 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 00:57:21 0
あれ、何だっけ。
ほら、遠く、視力の限界、見えるか見えないかギリギリのところを
見ていると、
白い影のようなものが見えて、それを何だろうとよく見ようとした
瞬間、
白いワンピースをした女性の姿になって、こちらに手を振っている。
「誰だろう!?」と思った瞬間、
それは、アパートのベランダに干してあった白い服だと気づく。
幽霊見たり枯れ尾花、この現象も、see から look へと切り替わる
機能を用いたものなのだろうか。
そういや、文字を読む際には、字が紙から浮き出て、立体的に見え
るが、こいつも同じメカニズムを使っているのだろうか。
111 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 01:25:19 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan19 ワープついでに 19 にも寄り道。
>道路を走り、ふと遠くに道路を見る自分が居る、遠くの道路を見る、なに一つ、わかりさえしない自分が居る、
えっ!? どういうこと〜?
>遠くに道路を彩る光を生じ、わかる、道路を遠くにわかる、色が輪郭が構造が質感が重量感が、わかる、なにを
>わかるのか語りえないが、次に再び、道路を彩る光が変化し、わかる事柄を語りえる自分が居る。
とりあえず、
「わかるけど語ることができない状態」と「わかり、かつ語ることができる状態」というのは、
誰もが経験することだろう。
1行目はようわからん。わからんなりに
『心と脳の正体に迫る』天外伺朗・瀬名秀明、PHP研究所
の記述を想い出した箇所があったので、明日にでも書くよ。
112 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 01:31:05 0
see から look に切り替え、look から see に切り替える。
このメカニズムが、人にはある。
なんちゃって。^^ヤッホー
ただの幻想です。
つまり、言いっ放し。
114 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 01:40:06 0
おおーい、111よ。
>道路を走り、ふと遠くに道路を見る自分が居る
この部分、読み間違えてな〜い?
「道路を走り、ふと、道路を見る自分が<遠くに>居る」
と読んでない?
いや、それとも、そういう意味かしら...
幽体離脱でもして、見てるってこと?
115 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 07:49:04 0
>>111 牟田氏の記述は、いわゆる「目撃の体験」のことを記しているのかと思った
のね。
『心と脳の正体に迫る』天外伺朗・瀬名秀明、PHP研究所 163〜164ぺーじの記述。
アイソレーション・タンクに入った際、の記述があって、ここから先が引用。
瀬名 身体から自分の本体が抜け出ていくような、不思議な感じがするっていいますよね。
そういった感覚を瞑想で体験する人もいるんでしょうか。
天外 それは一般的に「対外離脱」といわれてるけど、魂が外に出ていくんじゃなくて、
要するに「視点が移動する」わけだよね。そういう体験はたくさんあるよ。
よく知られているものとしては「目撃の体験」がある。これは、自分の姿を客観的に見
てしまうというもので、ランナーズ・ハイなどでは結構あるよ。
116 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 07:49:48 0
>>115 瀬名 前方に自分の後ろ姿が見えたりするというような……
天外 斜め後方から、走ってる自分が見えるんだ。そして、手を挙げると、
見えてる自分も手を挙げる。これは臨死体験でも起こるよね。天井近くか
らベッドに寝てる自分が見えるとかね。でも実際には走ってるわけだから、
ランニング中に魂が抜け出すということはありえない。人間の眼の構造と
して、眼球の水晶体や網膜があって視覚情報処理をしてるんだけど、それ
とは全然違うメカニズムでビジョンを見るメカニズムが存在していること
を単に証明してるんだけだよね。そうした例はハクスレーの本にもたくさ
ん出てて、例えば建物の外に誰がきたのが見えたって例がある。
瀬名 そうなんですか。
天外 要するに、眼球がないと物が見えないっていうのは嘘で、それとは
違う視覚のメカニズムが確かに存在するんだ。それは非局所的な視覚であ
って、場合によっては、それが遠くまで飛んでいって物を見るということ
もありえるんだね。
117 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 09:45:05 0
118 :
考える名無しさん:2008/04/24(木) 23:58:23 0
>>115 『心と脳の正体に迫る』天外伺朗・瀬名秀明、PHP研究所 163〜164ぺーじの記述。
牟田氏の今回の記述は、上記部分とは関係ないみたい。
ただし、天外・瀬名両氏の話題は、それはそれで興味深い。
牟田氏の記述が進んでいくと交わる部分があるのかもしれない。
119 :
考える名無しさん:2008/04/26(土) 00:47:42 0
牟田氏のは、序文に始まる、誰もが簡単にできる実験の提示、
第一部本文の【経験の記述】からの【論理】の導出という手順を踏み、
一つずつ積み上げて統一した理論を提出するというやり方をしている。
読者に実験検証と経験の検討と、経験から論理を導出する過程の検討
もするように要求している。いわゆるトンデモとは別物。
第二部は、本格的な視覚の構造の記述になるようなので、それを楽し
みに待つよ。
120 :
考える名無しさん:2008/04/26(土) 11:28:09 0
121 :
考える名無しさん:2008/04/26(土) 11:45:31 0
そこなんだけど、その頭のなか、眉間の奥に自分はいるという感じがするから
そこにペンなり指先を向けられると自分を指していると感じるのか、と思って
いたが、牟田の記述(23の【論理】から引用ね)
>多々の直棒が直線に像になり、像の直線を同距離にし同角にし同寸にし全部の像が直線に自分に指したら、
>自分の位置をこの地点に移動を終えた。
を読むと、わからなくなる。
122 :
考える名無しさん:2008/04/26(土) 12:03:27 0
123 :
考える名無しさん:2008/04/26(土) 12:52:12 0
そのままでは内的感覚、内観、本人の主観だからダメだみたいに言われかね
ないよ。
環境が整ったら、PETだか何だかの装置で、脳の状態をモニターしながら
実験をして確かめる必要があるだろう。
このことを弁えた上で、今は、その内的感覚等の経験で、牟田の記述が再現
するかどうかを辿っていけば、トンデモになるおそれはあるまいて。
124 :
考える名無しさん:2008/04/26(土) 13:02:18 0
125 :
考える名無しさん:2008/04/28(月) 00:55:16 0
経験に照らして検討することは、重要だと思う。
だが、科学的な知識や「常識」が先入観となっている場合は、
その影響が出ることがある。
そこで、思うんだが、牟田氏が
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan18 で記述している経験は、中学校の理科で習った、確か透明半球のイメージが
先入観となって経験したものではないのかな。
おれには、半球の中心にいるような感じはないのだけど。
しっかし、牟田という男は、これほど経験に拘っているほどの人だから、
科学知識や常識等の自分が影響を受けている先入観の影響も検討している
だろうし、『統一論』の記述が影響を与えて生じる経験をする人が出てく
ることも、考慮しているだろう。
『統一論』の記述により、同一と思われる経験が生じても結論を急がず、
また、期間を置いてその経験が続くかどうかも見ていく必要があるだろう。
一番いいのは、一旦、すべての先入観を吹っ飛ばした上で、生の経験を
することだろうが、今の時点では不可能だ。
126 :
考える名無しさん:2008/04/29(火) 22:07:36 0
>>110 錯覚と言われている現象が、幻想として片付けられないのは、
視覚の構造に関わる機能を使っている可能性があるからだろう。
このスレを支配するある種の異様さに突っ込む人はいないのか・・・
さすが哲板、心が広い・・・
128 :
考える名無しさん:2008/05/01(木) 07:58:03 0
129 :
考える名無しさん:2008/05/03(土) 17:55:03 0
耳?
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan27 >澄む瞳に頭に真正面になり遠くに像を見たなら、像に注意をしたら、像の位置に留まり、景色を左右に広がり、像に寛ぎに移り、景色をさらに左右に広がり。
>この広がりに、耳をひとつ塞いだら- 指で塞いだら -彩る像の光を消し、彩る景色の光になり、なにか見るのをしえなくなり、自分に景色が見えている様子になり、
>耳を塞いでない方へ右にか左にか、景色になり、景色の移動し、移動の方角へ湾曲に傾き曲がり。
耳を塞ぐと何かが変わる? 確かに聴覚は、空間認識に関わっているだろう...けど。
まだ、その前の部分で止まっているので、ここまでたどり着いてはいないが、
記述を読んでいて驚いたので。
130 :
考える名無しさん:2008/05/03(土) 18:30:42 0
それいうのなら、こっちはもっと問題だろうぜ!
>澄む瞳に頭に真正面になり遠くに像を見たなら、像に注意をしたら、像の位置に留まり、景色を左右に広がり、像に寛ぎに移り、景色をさらに左右に広がり。
この寛ぎになり、頭の額に片側を鏡の裏側で塞いだら、像に彩る光を消し、景色に彩る光になり、なにか見るのをしえなくなり、自分に景色が見えている様子になり、
鏡で塞いでない方へ右にか左にか、景色になり、景色の移動し、移動の方角へ湾曲に傾き曲がり。
鏡の裏側で額の片側を塞ぐと、って奴だ。
額の片側に当たっている光を鏡で反射させて届かないようにするのだろう。
131 :
考える名無しさん:2008/05/03(土) 19:01:23 0
>>130 鏡で反射する光の種類は? 少なくとも可視光は反射して通さないだろう。
可視光の反射率が一定以上なければ、鏡とは言えまい。
額の片側半分を鏡でカバーすると、視覚に影響が出るのだとしたら、
眼ではなく額もしくは額の奥にある何らかの器官が関与している視覚が
あるということになるのだろう。
132 :
考える名無しさん:2008/05/03(土) 19:28:07 0
>>131 鏡にも反射率、透過率がある。人間の額にも反射する光、透過する光があるだろう。
被験者の主観的視覚の状態、脳の活動状態をモニターしつつ、鏡やその他の遮蔽物
で各種光(=電磁波)を遮蔽しつつ、実験してみたらよいのではないかニャ。
133 :
考える名無しさん:2008/05/03(土) 22:49:50 0
『統一論』の記述を見ていると、どうも、何というか
意識の動きと身体の動きを分けて記述している感じがある。
日本語表現のおかしさは、まだ書けない意識が主語である場合が
あるからかな。
134 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 01:03:15 0
追試をしてみた。
鏡の実験は、再現せず、変化なし。耳をふさぐ実験は、右耳をふさぐと
視覚全体が右に少しズレ、左耳をふさぐと視覚全体が左に少しズレる、
ような感じがする。牟田氏の記述と逆だ。
空間認識というか、視覚認識は3種類と牟田は考えているのだろうか。
1.視覚(眼)による空間認識
2.聴覚(耳)による空間認識
3.未知の感覚器官による空間認識
実験が再現しないので、納得はできないがね。
135 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 01:10:57 0
>>134 その3種類の認識が、全部同時になされたり、1つだけなされたり、2つなされたりするとしたら、
それは、実験にも影響があるんじゃないの?
この影響も考えて、追試をする必要があるのかも。
136 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 09:52:38 0
137 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 23:38:22 0
『統一論』一言感想。
認識論の基礎付けってぇのは、こういう風にやっていくのか。
138 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 23:57:51 0
経験の記述がなければ、何らかの前提から出発し思考によって展開しただけの、
ある意味、空理空論となる。
それが「哲学」だとほざく奴もいるけどさ。
思考現象について調べるんならともかく、認識論の基礎付けをやんのなら、
経験に法ってやらなくってどうするよ。
牟田氏の記述を読んでると、その困難さはわかるが。
もち、彼の導き出していっているものが正しいか間違っているかは、
別問題だがネ。
139 :
考える名無しさん:2008/05/05(月) 23:28:13 0
高層ビルにエレベーターで昇る。
エレベーターはガラス張りだ。
下を見ながら上がっていくと、恐怖を抱く。
恐怖は増す。
ところが、高くなり過ぎると怖くなくなる。
下方の映像が景色と化す、背景と化すからだ。
140 :
考える名無しさん:2008/05/06(火) 00:06:00 0
その背景と化すキョリが、牟田のいう意識の周りの空間だニャ。
満天の星が背景として映っているのも、この空間の壁だニャン。
141 :
考える名無しさん:2008/05/06(火) 10:59:54 0
142 :
考える名無しさん:2008/05/06(火) 23:39:34 0
立体視できる限界をネットで検索してみたけど見つからないネ
立体視できる限界距離がわかれば、それが意識の周りの物理空間の半径と
なるのだろうから、それの5兆分の1が意識の大きさということになるの
だろ
143 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 01:01:08 0
144 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 01:11:07 0
145 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 07:40:37 0
>>141 脳が音速を知っているとしたら、それは進化によって適用したか、
設計者がいるとしたら、知っていてそのような情報処理方式を
採用したかだな。
146 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 11:51:02 0
像を彩る光、像の周りの光だっけ、見える人?
見えるようになった人いる?
147 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 13:14:08 0
延延と1が自演しているスレってここですか?
148 :
フランスピラニア:2008/05/07(水) 13:23:10 O
どした?また人の生活を荒らしにきたか?心の引っ掛かりははっきりいって邪魔なのだよ。どうして悪いことするよ
それならほっといてくださいと1にかくとよろし。」
150 :
蓼:2008/05/07(水) 14:50:23 O
難しいな
151 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 00:31:12 0
152 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 00:33:05 0
>>151 それが読者に再体験させられへんのやったらおわってるやん。
153 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 10:54:40 0
具体的内容について突っ込めるんやったら突っ込まんかい!
根性なしども
154 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 11:53:33 0
言うとるやんか。何とかの光は見えんって。
155 :
考える名無しさん:2008/05/11(日) 08:48:34 0
おいらもその光は見えない。見えないけんど、視線を向けて見ているものと
その周辺のものとの見え方の違いならあるよ。
直接見ているものは、くっきりと鮮やかに立体的に見える。
でも、周辺のものはそうではない。
光とまではいかないが、中心に見ているものと周りとの明るさの違い
のようなものなら、微妙にあるような感じがするよ。
156 :
考える名無しさん:2008/05/17(土) 13:40:42 0
現代の哲学愛好者の皆さんは、具体的な経験を通して探求していくのは
苦手なようですな。
157 :
考える名無しさん:2008/05/17(土) 13:44:05 O
おうしだ君か
158 :
考える名無しさん:2008/05/17(土) 14:29:57 0
おうしだ君ってだれ?
159 :
考える名無しさん:2008/05/17(土) 14:54:45 0
誰でもいいやん。
ちゃんと『統一論』を読んで経験に照らして検討できる人でありゃ
160 :
考える名無しさん:2008/05/26(月) 09:03:53 0
哲学徒の皆さん
本の読解はある程度できても、現実と照合して考察し探求するのは苦手?
161 :
考える名無しさん:2008/05/27(火) 01:00:14 0
普段、お偉い哲学者の本を読んでいますが、何について語っているのか、
わかってて読んでいます?
162 :
考える名無しさん:2008/05/28(水) 16:06:57 0
>>161 そんなもん、わかっているのがいるとしたら、
そいつは、それこそ認識論の基礎付けができた奴だろうぜ。
163 :
考える名無しさん:2008/06/18(水) 01:54:45 0
164 :
考える名無しさん:2008/06/21(土) 01:16:52 0
アクセス数、がた減りじゃん。
もっとわかりやすい記述しないと、誰も読んでくれないのとちがうん?
165 :
考える名無しさん:2008/06/21(土) 23:47:48 0
指を指される。
どうして、それが自分を指したとわかるのか。
166 :
考える名無しさん:2008/06/23(月) 13:26:50 0
世界の謎、この世界が何であるのか、
人間の謎、自分とは何者であるか、
これらの謎を解くのに、経験へと目を向けず
本を読んでばかりいるのか。
哲学者、これらの謎をしりたいと思う者が
対象とすべきは、経験だろうよ。
167 :
考える名無しさん:2008/06/23(月) 13:37:40 0
168 :
考える名無しさん:2008/06/23(月) 13:41:31 0
いや、違う。おまいがデムパだってことを示唆しているのさ。
169 :
考える名無しさん:2008/06/23(月) 13:42:54 0
同じ27章? だかにある「鏡」
>この寛ぎになり、頭の額に片側を鏡の裏側で塞いだら、像に彩る光を消し、景色に彩る光になり、なにか見るのをしえなくなり、自分に景色が見えている様子になり、
>鏡で塞いでない方へ右にか左にか、景色になり、景色の移動し、移動の方角へ湾曲に傾き曲がり。
この「鏡」の役割は何だ?
鏡の裏で塞ぐ? というのがわからないが、
鏡面を自分の額とは反対の方向へ向け、鏡面の裏を額につけるということだろう。
鏡なら、光を反射する。額に光が当たるかどうかによって、視覚に影響が出る。
そのことを言いたいのだろう。
170 :
考える名無しさん:2008/06/23(月) 13:59:13 0
>>169 光も電磁波の一種だから、電磁波を遮断するのが、鏡の実験の目的だろう。
>>167 硬貨? 牟田は指で塞ぐ実験をしている。指で電磁波が完全に遮断はされ
ないだろうから、音情報の視覚への影響の実験じゃないのか。
171 :
考える名無しさん:2008/06/24(火) 01:19:59 0
>>168 の言うとおりだね。
>>167 よ。
牟田氏は、詳細に己の経験を仔細に観察して切り分けて『統一論』を
執筆している。
あなたは『統一論』の真似をして、デムパになっているだけだ。
違いのわかる男になれ!
172 :
考える名無しさん:2008/06/27(金) 10:05:37 0
絵画では人物像等の周りを明るく描いたものがあるが、
像を彩る光なんてものは、見えない。
『統一論』を読み始めても、まず、文章の読み難さでストップ、
次に、書かれている像を彩る光が再現せずストップ。
大見得をきっているが、経験をもとに考察をするのなら
経験自体を読者に再体験させきれなければ、駄目だ。
173 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 03:29:12 0
>>172 本ばっかり読んでっから、ネットばっかりやってっから
見えねぇじゃねぇんえすか? 旦那方
再体験できねぇっていうかよ。既に経験してねぇのが
おかしいじゃねぇの
174 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 03:46:23 0
見えないけど、自分自身の気分が、対象の感じ方に影響がある
というのなら、それはわかる。
見る側、主体の情動、感情、気分が対象の感じ方に影響があるし
対象・客体の情動、感情、気分を感じ取ることもある。
それらを通常区別していないけど、牟田氏は区別したんじゃないのかな。
ただ、自分には「雰囲気」ならわかるけど「光」としてはわからないけどね。
175 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 08:01:38 0
>>174 雰囲気ならわからんでもないが、それじゃ視覚はわからんだろう。
牟田氏のいう“光”は、「共感覚」みたいなものじゃないのかな。
176 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 09:12:06 0
雰囲気だとか気配だとかにしても、空間上に展開されていることは
視覚と同じだろうぜ。
それが光として見えるか、見えないかっていう違いだろう。
おれもいつも見えるわけではないが、恋人同士を見るとその周りに何か
色のようなものを見えるような感じがしたり、結婚式間近の女性や結婚
式当日の新婦が輝いて見えたりするのは、牟田って奴のいう光と関係あ
るんじゃないのかな。
177 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 09:33:32 0
ウィキペディアには、雰囲気の項に「光」の記述があるよ。
>雰囲気(ふんいき、英:ambience)とは、ある特定の場所や事物、
人物を取り巻いて、感じられる光や音、匂い、気配などを総体と
して捉えて語ったもの。
178 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 10:25:43 0
その「光」って、直接、見ているときに見える光ではないんでは?
印象じゃないのかな。
パッと見て、その瞬間に感じるもの。その直後に感じるもの。
例えば、この絵
http://oekyo.org/05/ix/-/All/14254/ 人物の周りに光を描いてはいないが、周りに光のようなものを感じるでしょう?
ただし、この場合は、相手から出ている雰囲気の光だけど。
179 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 10:31:58 0
光って「印象」みたいなもんでしょ。
リアルタイムで感じるというより若干ズレがある。
会社にいて、ドアから誰かが入ってくる。
その姿を視界の隅に捉えて、瞬間と言ってもいい、
ほんのわずか後に「印象」が見える。
印象が自分の中に入ってくる。
180 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 10:36:13 0
おいおい、それらは相手が発している、相手から感じられる
雰囲気、光じゃねぇか。
牟田が言ってんのは、自分の状態が反映した光だろう?
確かに、その日の気分が見え方、感じ方に反映するが、
対象の周りの光として現われているかどうか、
牟田のいうような構造になってるかどうか。
それが問題だろう?
181 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 10:58:31 0
心象風景のことだろ。
心象風景の中に現われている、個々の事物に目を向けるとそこだけ
少し明るくは見えるわな。何色かはわからないし、牟田のいう3層
構造をしているかどうかは、わからんがね。
182 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 11:12:56 0
小説なら、登場人物の視覚を中心とした諸感覚世界を通して心象、
登場人物の情態を読者に感じ取らせようとするのだろう。
牟田氏の場合は、自分自身の心象風景と自分の情動の情態との対
応関係を見極めようとしたのだろう。それが、観察と思考を進め
ていくうちに、視覚や意識の所在にも関わって来たっていう話だ
ろう?
183 :
考える名無しさん:2008/07/01(火) 02:43:54 0
牟田氏は、様々なことを豪語している。例えば
>>14 >・犯罪の減少
> → 近年増えた残虐事件の背景には、「あの世界」「あの精神状態」が関わっていた?
犯罪を減少させることが可能な「理論」を掴んでいるのなら、
一日も早く公開して欲しいもんだ。
犠牲者がこれ以上、増えないうちに。
184 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 01:23:33 0
>「あの世界」「あの精神状態」
察するに、己の情動の変化に応じて視覚世界を中心とした感覚世界が
変容したのだろう。自己の情態に応じて世界全体及び個々の事物に現
われる「光」「雰囲気」、つまり世界の質感が変化した世界のことを
一つは言ってるんだろうな。
185 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 05:24:49 0
第一部は自分の情態の変化に伴う対象の光のことを扱ってんだろう。
耳を塞いだり、額を鏡で覆う実験な。
あれは外部の情報の一部を遮断する実験じゃないか。
どういう関係があんの?
186 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 23:04:48 0
>>184 「感性の停止」とは、自分の情態の変化に対応した光の現われ方が変わる、
ということと、感受性の変容と思考・感情の変容を言うのだろう。
これらの関係を明らかにしたんじゃ
187 :
考える名無しさん:2008/07/07(月) 01:13:26 0
観測者の情動を反映した光と対象の情動由来の光との区別はどうやってするの?
188 :
考える名無しさん:2008/07/07(月) 01:58:10 0
観測者の情動を反映した光は、個々の事物間で変わりはしないはずだ。
個々の対象に現われる光のうち、事物によって変わらない光が、
観測者由来の光で、事物によって変わる光が、対象由来の光と
判断できるだろう。
189 :
考える名無しさん:2008/07/07(月) 02:32:00 0
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/muta001.htm#nigan4 >像を過り、像になにか ( 色か、輪郭- かたち -か、種別か、構造か、意味か ) 識る要請に従いながら、像に過ぎ、像を指すを待ち、
>識る要請に従えた彩る光になり、像に過り、彩る光に像を見えながら。
像を光が過ぎる。その像が何であるかを認識しようとする。
すると光は像を過ぎり、像を指す。
>識る要請に従えた彩る光に、像を、見えながら。
認識しようとする情態、それに応じた光、その光が像を彩る光となる。
このとき、見えながら、seeの状態である。
>像を彩る光をなにの光と言うのだろう、と後に記憶を見ながら思う ・・ やがて後になり思う、
直接、見つつではなく、記憶のなかの像を見ながら思う。
>この彩る光は二種の光になる分る光と識る-識別の-光を混じり変容した二種の光であろう。
像を彩る光=分る光+識る(識別の)光
190 :
考える名無しさん:2008/07/30(水) 13:50:28 0
>>183 牟田氏が『統一論』を全部発表し終えていたら、
秋葉原の事件もそれ以降続いている事件も発生しなかったってこと?
191 :
考える名無しさん:2008/08/06(水) 11:04:32 0
>>190 そいつはこれさ
http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/mutapf.html この自己紹介に書いてある、
>意味などないのだ! と本気に思い、そう信じた、そう、本気に思
>い、本心より受けいれた正にその時、一切のきずなが幻だったかの
>よう消えさり、わたしは奈落に舞うかのよう落ちつづける、記憶は
>とぎれた、--- いち年がすぎ、自分に帰った、-- ここから記憶
>が続きだす。
この部分が、「意味などない」と自分自身に対して断言した箇所。
>見たことのない景色が広がっていた、世のなかから感じる世界が消え
>て、ただ、色が広がり、ただ、色づいた人びと、ただ、色づいた
>木々が、漂うよう見えていた、人に感じるものなく、木々に感じる
>ものなく、なにも感じるものが消えさった世界があった。
>人格と言う仕組みさえ自分に消えさり、ただ色の世界があった。
>わたしが居る、色の世界は在る、ただ、見ていた --
この部分が、「意味はない」と自分自身に断言・宣言することによって、
牟田氏に起こった感性の停止、視覚の変容、存在感の変容した世界の記述。
この世界が、現代人が多かれ少なかれ感じ取っている世界であり、
あるタイプの犯罪者が共有している世界であり、
宗教の発生とも関係している、と牟田氏は考えているのでしょう。
この世界から帰還する方法を見つけ、それを誰もが回復する方法を
提示することができれば、犯罪の現象に繋がり、宗教も要らない部分
が出てくるだろうことは、考えられます。
192 :
考える名無しさん:2008/08/09(土) 10:03:31 0
たしかに、意味、意義と物質感のようなものは関係している。
存在感と表現した方がよいのかもしれないが。
意味や意義がないと思うと、物質の存在感が薄れ消えていく。
この存在感が消えてしまった極限の世界を、色の世界と牟田氏は表現したのか。
彼の理論からすれば、この存在感は、「光」のことだろうか。
対象からの「光」ではなく、こちらの情態に応じて現われる「光」
意味がないという思考回路から出力された結論が、情態を変化させ、
その情態に応じて現われた「光」あるいは、
「光」が現われなくなったことによって生じた現象が、
彼がかつて生き、多くの現代人が感じ取っている「世界」だったのか。
193 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 01:48:22 0
>>192 意味がないという観測者の判断によって、生じた世界が
情態に応じて現われる「光」にのみよるとするのは、早計だろう。
対象からの何らかのデータによって存在感なるものが生じていると
したら、この受動的感性のようなものも停止したのかもしれない。
思考判断が、情態に影響し、それが視覚・感覚世界に影響を与える。
詳細はわからぬが、それだけは確かだ。
194 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 01:26:15 0
未だに見えんぞ。何とかの光は。
読んだすべての者に再現し切れんというのは、どうしようもなかろう?
読んだすべての者に再現し、再現した者の影響が周囲のものに伝わり
周囲の者に伝染し、世界中の人間に再現せんかったら、駄目やろもん。
195 :
考える名無しさん:2008/08/29(金) 17:11:02 0
kobe city ご案内〜 雪の花 中島美嘉 月の繭 炎と海
あす ( 30日 ) 長野駅に到着 午後2時半
196 :
考える名無しさん:2008/09/18(木) 01:20:18 0
>194
この「光」ちゅうのは、直接見える光ではなく、
一瞥した後にフッと再現して<見る>。
そのときに、見える印象のようなものではないのかな。
例えば、喫茶店で座っていて、誰かが入ってきたのに気づいて
ふと入り口の方に目をやる。一瞬、目をやって戻す。
戻した瞬間に、今、一瞬見たものが瞬間的に甦ってくるだろう。
そのときに、<印象>のようなものを感じるが、それのことではないのかな。
このとき、見えているものを観察してみると、
人の周りに光のようなものが見える。
これのことじゃろう。
こうしたことを繰り返していると、普段、見ているときにリアルタイムで
<印象>のような、光のようなものが見えるようになるのではないか。
こちらの方は、まだ未確認だけどな。
197 :
考える名無しさん:2008/09/22(月) 02:30:30 0
光っていうか、多少、明るいくらいじゃ?
それだったら、リアルタイムで見ているもののうち
意識して見ているものは、他のものよりも立体的に見えるじゃない?
色が何色とか構造が三層になっているとかまでは言えんけど
t
199 :
考える名無しさん:2009/03/05(木) 00:35:55 0
>>195 神戸から長野へ到着して、その後、牟田俊彦は、どこへ行った?
続きは、まだ公開されないの?
をっ、おもしろそうだね。
たったいま、[天外伺朗 2ch.net] で、検索して
>>1 と
>>48 は、さらっと見た。
>>1 は、俺だと想定半球というところかな。
岡野玲子の陰陽師スレ、漫画板かどっかに書き込んだら、
ひとり、わかるってカキコしてくれた人、いたな。
それよりやべー、−−−
>意識が天然に持つ空間の距離である。
わかってんじゃん。
4年振りに、哲学板復帰の zion-ad です。
いまはちょっと干渉しそうなんで、
ローレンツ変換の再解釈。
わかりやすいように記述できたら、お邪魔しマース。