ゼロ年代の想像力(第11回)C-2
>(…)素直に「クラブのみんなと草野球」「学園祭のステージで熱唱」をすることへの憧れを受け入れられないヒロイン、
>そしてヒガミと劣等感が邪魔して素直になれない消費者たちのために、過剰防衛にすら見える言い訳を重ねてくれている
>作品なのだ。実際問題、「日常の中にロマンなんかない」と言いたがる人たちは、ロマンティストでもなんでもない。
>ただの幼児的な全能感を維持するために、レイプ・ファンタジーをメタ的に再強化しているだけのつまらないパフォーマー
>たちである。いったいいつの間に、ロマンティストとは責任転嫁的ナルシシストと同義になったのだろうか、と、嫌味の
>ひとつも言いたくなる。
>涼宮ハルヒの抱える「憂鬱」の正体とは何か。(…)未来人も宇宙人も超能力者もいる(ロマンがたしかに存在する)この
>日常の豊かさに、肥大した自意識とプライドが邪魔して気づくことができないハルヒ自身の不器用さがもたらした「憂鬱」
>なのだ。
>(…)ここで私が主張したいのは、おそらくは消費者を気持ちよくさせるための周到な仕掛けだったであろう一連のメタ
>セカイ系的、「酸っぱい葡萄」的な過剰防衛が、逆説的に日常の中のロマンという、ハルヒの(そして想定される消費者
>たちの)内なる真の欲望の存在を結果的に浮き彫りにしているということなのだ。
>>509 蛸壺(小さな成熟)に嵌りつつ、尚且つ複数の蛸壺を横断する、というアクロバットな
スタンスを宇野さんは提唱してるんだな、と思わせつつ、その話はもうどこかへ消えて
しまいました、残念ながら、はい。
>>510 宇野さんは社会を語らないほうがいいと思う。
>>512 「元の東スレ」は存在しない。