ゼロ年代の想像力(第11回)C-1
>●「脱セカイ系」としてのハルヒ
>ところが、『涼宮ハルヒの憂鬱』はこれだけで済ませられる作品ではない。(…)その魅力の半分しか伝えていないだろう。
>(…)残り半分の魅力とは「脱セカイ系」としての可能性である。
>(…)本作でハルヒが満たしているものは、そして消費者たちの願望を擬似的に充足するものは、むしろ部活仲間との
>草野球や夏合宿などのありふれた青春であり、矢口史靖的な「日常の中のロマン」としての「青春像」である。
>イソップ童話の「酸っぱい葡萄」を引用すればわかりやすいだろう。高所になる熟れた葡萄に憧れる狐が、自分の実力では
>その実に手が届かないと悟った瞬間「あの葡萄は酸っぱいに決まっている」「だから自分は欲しくもなんともない」のだと
>主張をはじめる――。この寓話は『涼宮ハルヒの憂鬱』の本質をほぼ完璧に表している。
>ハルヒが求めているのは実のところ、日常に内在するロマンである。草野球や夏合宿で気持ちよく汗をかくことであり、
>同級生への少女じみた関心である。にもかかわらず、ハルヒは(おそらくは肥大したプライドのために)それを認めることが
>できず、自分の求めるものは日常の中にはないのだと自分に言い聞かせるように主張しているのだ。
>>503 >消去法
それが宇野さんが常に向かおうとしてる先だね、何だかんだで「消去」へ
向かっているニュアンスを今号の第11回から感じる。逆説的に「消去」された
空間からピュアな何かを引き出そうという、否定神学ごっこ遊び。
宇野さんがこの方向で進むとしろうとさんに完敗しちゃいます(笑)