ゼロ年代の想像力(第11回)B
>●涼宮ハルヒの憂鬱――「セカイ系」の臨界点
>谷川流のライトノベルシリーズ『涼宮ハルヒの憂鬱』は(…)ロマンの在り処と青春をめぐる問題を考える上で、
>おそらくはもっとも重要な作品である。なぜならば本作は、まさに「古い<青春>観」と「新しい<青春>観」の間の
>橋渡し的な内容をもつ作品に他ならないからだ。
>(…)本作は狭義のセカイ系(レイプ・ファンタジー系)の一種の最終形態と言っていい。弱めの肉食恐竜たちの
>マチズモ=「自分より弱い女の子への所有欲」を、彼らの肥大したプライドを傷つけないように満たすため極めて
>周到な構造が提供されているのだ。(…)たとえば『NHKにようこそ!』や『AIR』での「障害や精神的外傷をもつ
>女の子」=「直接的に<弱さ>の記号にまみれた少女」は、ハルヒという「強がっているが実は孤独で寂しい不思議
>ちゃん」に変換されることで、表面上の隠蔽が図られている。
>(…)シリーズ第四作『涼宮ハルヒの消失』で語り手のキョン自身が自ら告白するように、「その不思議ちゃんの心の
>拠り所として必要とされている」ことで、マッチョな所有欲を満たすことなしには生きられないのはむしろキョン(読者)
>のほうに他ならない。つまり、本作は「セカイ系的な世界観に生きる少女を所有するセカイ系(メタセカイ系)」という
>形式を取ることにより、『NHKにようこそ!』や『AIR』では露骨に出現していたマチズモが迂回路を取って消費者に
>補給されているのだ。島宇宙化の時代、ローカルなナルシシズムは安全に痛い自己反省(ごっこ)を経ることで
>再強化される性質を持つことは前回指摘したとおりだが、そういった意味で本作は何重にも迂回することで強化され
>つくしたセカイ系の臨界点だと言える。
>>501 買って読んでみるといいよ。
すごいから(笑)