【ラルクと】東浩紀スレッド107【仏進出成功】

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499考える名無しさん
ゼロ年代の想像力(第11回)A

>●滝本竜彦はなぜ「引きこもった」のか
>これまでの復習からはじめよう。社会の流動性が高まると、「何が正しいのか・価値があるのか」わからなくなる。
>国内では、1995年前後の社会像の変化がこの流れを大きく後押ししたために、九〇年代後半には「世の中がわかり
>にくいので、何もしない(引きこもる)」という社会的自己実現への信頼低下が支配的になった。その結果出現した
>のが(…)滝本竜彦の小説や、いわゆる「セカイ系」の作品群である。

>(…)この歪んだ(セカイ系的)マッチョイズムの背景に存在するのは、ある種の責任転嫁的なナルシシズムである。
>滝本竜彦の描く主人公たちは世の中がロマンを与えてくれないことにいじけ、そのため自分より弱い少女を所有する
>ことに超越性を見出すことになる。

>(…)滝本竜彦の描く主人公たちが絶望するのは、ある種の「モノはあっても物語のない」郊外的な空間である。
>だが、この「郊外的な」空間はほんとうに絶望的なものなのだろうか? 「郊外的な」現代社会は自由と引き換えに
>「おもしろさ」や「生きる意味」や「承認欲求」、つまりロマンや物語を自前で調達しなければならない。国家も
>歴史も社会も与えてはくれないからだ。(…)確かに世界は「冷たく」なったかもしれないが、そのかわり「自由に」
>なっている。(…)「与えられたロマンを全うする」古いタイプの人間には生きづらい世の中かもしれないが、逆に
>「自分で立ち上げる」新しいタイプの人間には非常に生きやすい世の中である。

>矢口史靖作品はなぜ、青春映画の新しいスタンダードになり得たのか。そして、滝本竜彦作品の主人公たちはなぜ
>引きこもり、歪んだマッチョイズムにまみれたレイプ・ファンタジーを夢想するのか。答えはすでに明らかだろう。
>矢口作品は滝本作品には完全に抜け落ちている、この郊外的な空間で繰り広げられる日常の「中」からロマンを
>汲み取るという態度を前提として成立しているからだ。そのため、矢口的「青春」像には特別な「意味」が求められ
>ない。ただ、つながり、楽しむだけでいい――そんな端的な祝福が世界を彩るのだ。