構造主義・ポスト構造主義を超えて3存在論的、郵便的
「存在論的、郵便的」について軽くまとめておこうかね。
いうまでもなく東浩紀のデビュー作かつ主著であり、唯一の「哲学」本w
当時、ほとんど支配的・確定的であったデリダの評価<第一期-いわゆる脱構築
の理論的展開期→第二期-戯れの実践期→第三期・晩年-現実への対応期>という
通念に楔を打ち込んだ名著。同時に、柄谷行人および「批評空間」的なデリダ
理解である<第一期-冷戦期→第二期-コミュニズムの崩壊過程期→第三期-歴史の
再開過程>という世界情勢がデリダの哲学スタイルの変遷に最も影響を与えた
という通年にも根本的な異議を唱え、それが当の「批評空間」に連載されることに
よりセンセーショナルな議論を呼んだ。東と柄谷のその後の関係は周知の通り。
簡単にいうと、この本の中で東は脱構築を三つにわけるわけですね。
第一の脱構築はゲーデル的脱構築、二つ目に存在論的脱構築、三つ目に郵便的
脱構築と。それに対応するものとして、
第一-ゲーデルの不完全性定理を比喩としたゲーデル的脱構築
(第一期デリダ、転回前の柄谷、ド・マンなど)
第二-存在論的、否定神学的脱構築
(ハイデガーの存在論、ラカンによるフロイト理論の精緻化)
第三-郵便的脱構築
(第二期デリダ哲学、デリダによるフロイトの再読)
わたしがこの本を読んで最もスリリングだったのは、「シニフィアンの物質性・
分割可能性」「人間の情報処理経路の複数性」およびそこから帰結される
「思考不可能なもの」の複数性ということでしたね。
「物表象/語表象の差異」やら「クラインの管の分岐」やらいろいろとかっこいい
言葉が連発されますが、つまるところ、この本は人間のどうしようもない有限性と
物質性を暴露したことで、ポストモダニズムが陥ったロマン主義的「差異と戯れへの
耽溺」すら切って捨てているところがまったくもってかっこいいですね。
>>1 あーあーやっちゃったよ 超えル気ないのにまた超えてって、、
7 :
パレルゴン二世:2008/03/18(火) 09:31:06 0
発行 1998年10月30日
著者 東浩紀
「存在論的、郵便的」
ジャック・デリダについて
この本の帯に「構造と力」の著者浅田彰のコメントがある。
「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・・)その驚きとともに
私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことをみとめた
のである」
当然批評空間で一緒だった,顔見知りであるので、多少のリップ・サービス
ともとれるが、やはり、かなりの衝撃があったのだろう。
以後、少しづつ、同書を読んでみようと思うが、この二人の天才の位置関係が
実は、ゲーデル・クリプキ脱構築 対 デリダ「郵便的」脱構築の関係に
パラレルではないかと言う事気がしてならない。
浅田は1983年に「構造と力」を書いた、だから、15年の歳月を経て
東の郵便的が出版されたことになる。
8 :
パレルゴン二世:2008/03/18(火) 09:44:10 0
ゲーデル対郵便的と言う予感は浅田の「構造と力」の目次で十分に
確認されるだろう。
T構造主義/ポスト構造主義のパースペクティヴ
第一章 構造と外部
U構造主義のリミットを超える
第三章 ラカン
ここまでのタイトルからしても明らかに余剰=ズレを基調にしたもので、
誤配と言う、伝達ルート的なものではない様である。
しかし、即断は許されない。第四章でドゥルーズに言及してから
この断定には疑問符が付くだろう。
つまり、脱コードと言う運動が、郵便的なコード化されない幽霊の
存在に対応したものではないかと考えられるからだ。
詳細に再読の必要があるが、2ちゃんと言う事もあり、個人的な印象
と言う事で、了解願いたい。
9 :
パレルゴン二世:2008/03/18(火) 10:14:56 0
そこで、本文を読む前に、「存在論的」ってどういう事?
と疑問に思う方もおおいと想像される。
私も幾度となく調べてはよく分からない経験がある。
そこで、竹田青嗣の「ハイデガー入門」講談社選書メチエ
を参照すると、「『いかにあるか』を実証的に、客観主義的に答えようとする
伝統的な存在論を否定し、つまり、物事の理由、原因、根拠を問うのに、
事実的な因果を追い求めるのではなく、(近代科学の探究方法)
意味の関連として問う事だ」としている。
つまり、ハイデガー的に意味として現れる世界を問う事だと言う事である。
10 :
パレルゴン二世:2008/03/18(火) 10:34:04 0
それでも分かりにくいが、あえて、間違いを恐れずに私見を加えて
言えば、意味関連である以上、それぞれ異なる意味の関連として
世界は開かれていても良いことになる。
以前にもこの辺の事について、確か竹田を引用したことがあるが、
あるオリの中に2人の人間が入れられているとしよう。
そのオリには、鉄格子があり、ある幅で鉄の棒が設置されている。
仮にこの幅を40cmとする。その時、この二人のうちの一人の
最小の体の幅が39cmだとする。一方の人は、45cmだとしよう
そうすると、このオリを通り抜けることがでる人は39cmの身体幅
の人で、もう一人の人は出られない。勿論鍵を入手し、開ければ
脱出可能であるがこのケースでは考慮しない。このとき前者の人には、
このオリは、つまりオリとしては何の意味もなさない。
つまり、このように、意味とはその人にとって何なのかとして現れる
事を指す。
11 :
パレルゴン二世:2008/03/18(火) 10:48:31 0
そして、太っている人には、自由を拘束される鉄格子としての意味と
なる。
この様に、世界は個々人の意味関連として開かれていく、あるいは(いる)。
もっと例をくれと言う人には、たとえば、昼食をたらふく食った人
と飢えて死にそうな人(極端すぎるなと思う人もいるだろうね。)
が、あるとき土の上に落ちているおむすびを見つけたとしよう。
A=たらふく は 「誰だこんなところにおむすびを落としたやつは、
ばかだな。(笑)踏まないようにしないと靴が汚くなる。」と言う、
彼にとっての意味を表現した。
一方B=飢えた人は「おお、神様、あなたはやはり私に慈愛を与えたもうた
のですね。わたしは、幸せ者です。」いやいや創作ですが、このように
全く違う意味で解せるわけです。勿論全く同じように飢えた人が同じように
おむすびを見つけたからと言って、必ず同じ神への感謝にはなりません。
その人のそれまで歩いてきた道のり・意味関連連鎖による価値観の違いが
おむすびに対する意味を大きくかえるでしょうね。
12 :
パレルゴン二世:2008/03/18(火) 10:59:56 0
そこで「存在論的」の意味を要約すると、世界は超越論な
唯一無二に、客観的にはできてはいない。だから、科学的な探索
では、われわれがなぜ存在するのか?や 我々を取り巻く物の
意味さえわからない、つまり、世界とは各々の意味としてしか
開かれないのだから、各自の位置からの眺めによるしかないのだと言う
事ではないだろうか。
そこから、私は、全体を見つめる視点ではなく(科学=形而上学的視点)
局所からの視点(分裂的な視点=ゲーデル・郵便的誤配視点)の可能性が
既に、「存在論的」と言うタームに宿っているのだと考えてます。
13 :
考える名無しさん:2008/03/18(火) 12:53:40 0
┌─── 始めてきた方への注意 ───────┐
|このスレッドは天才チンパンジー「アイちゃん」が .|
|言語訓練のために立てたものです。 |
| .|
|アイと研究員とのやり取りに利用するスレッドなので|
|関係者以外は書きこまないで下さい。 |
| .|
| 霊長類研究所 |
└─────────────────────┘
14 :
ドラドリの弟子@東大生:2008/03/18(火) 17:36:10 0
>>13 議論についていけない凡人哀れwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>13 天才チンパンジーアイちゃんに愛想をつかされAAに挑戦中の低脳チンパンジーシンちゃん自演乙
>>13 てゆーか、おいたをするなら、前スレが埋まっているかどうか確認してからにしてくださいw
「858」 冒頭加筆します。ここのうしろに「722」番の中から、「合理 (ratio ラチオ)と
「理性(reason リーズン)」について、再掲載します。お読みください。2007.6.18
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200706.html#1101 アホダラ経の有り難い、お経を読むように難解な日本語翻訳文で、何か分かった振りをして、
それで、偉そうに、「自分は高学歴で、知識階級に所属する」と、勝手にうぬぼれてきた。
私、副島隆彦は、そういう人間全員を許さない。もし、上記の私の「真実読み破り訳」に
ケチを付け、異議を唱える者がいたら、その者は、どうどうと名前を名乗った上で、私に
問答を提起してきなさい。私が、10時間ぐらいかけて、懇切丁寧に説明します。
分かったふりは、一切、無しだ。どこからでも、どんなコトバを使ってでも、すべて解明
されなければならない。
自分が分かったふりをして、私、副島隆彦をせせら笑うようだと、その自分自身の、脳天が
逆襲を受けて、激しくもんどり打つから、覚悟しなさい。私には、いい加減な日本土人(どじん)
の分かった振りは、一切ないのです。
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
19 :
パレルゴン二世:2008/03/19(水) 09:19:24 0
一日経って、朝起きたら京都大学霊長類センターのチンパンジー「アイ」
と固有名がつけられていました。はたして、「アイ」の確定記述は可能でしょうか?
ただの余剰に過ぎないとすれば、人間ではない「アイ」も確定記述は不可能
と言う、東の否定神学におちいってしまいますね。
記憶が正しければ、確か、アイはある日自分の入れられているオリの鍵を
盗み、鍵をあけて脱走したのでしたよね。そしてこの事は世界的なニュース
(世界にいる霊長類の研究者以外の人にも驚異として映ったはずですね。)
になったのでしたね。
その事が本当ならば、ロジカルな思考力がこのチンパンジーにはあった事
の証明になると言う事でしょうかね。つまり、鍵はいつもあそこにしまってある
事、また、鍵は鍵穴に刺して、右側にひねって開ける事、あるいは、外には
自由がある事など、犯行(いや、行動ですね。隔離したのは類人猿ホモ・サピエンス
でしたから、そこからの解放ですね。)以前に周到な知識・情報が必要だったはずですね。
20 :
パレルゴン二世:2008/03/19(水) 09:35:36 0
訂正:19の「ただの余剰に過ぎない・・・」は「余剰があるとすれば・・」です。
ところで、もっと重要な事が、このサルの行為には含まれている気がするのです。
本当にアイは言語が理解できるのかと言う問題点がそれです。
例えば、アフリカでしたか、石を使って木の実を割って食べるサル
がテレビで放映された事がありましたよね。若いサルは簡単に石を使って
木の実を割る、年功者の横でじっと観察しているように見えます。
そして、年功者が去った後、その上下二枚の石をぶつけています。
間に木の実はありませんので、割ると言う行為をまねているだけです。
つまり、この事が示しているのは、欲望(食べたい)と木の実がある(食糧)
と、直接食えない事と、割る必要がある事と、そのためには道具が必要で
ある事と、どの石をどのように使えば良いのかの関連性が正確に理解されて
いないことでしようね。
21 :
パレルゴン二世:2008/03/19(水) 09:54:05 0
それでも、サルにも学習ができると言う事は、明らかに、学習する
サル自身が、象徴界にいると言う証明になるのでしょうか?
例えばフロイト=ラカンの精神分析学によると、象徴世界に入るには
鏡像段階と原抑圧を経てからになります。つまり、鏡像段階とは
乳幼児期の赤ちゃんが、肉体的に統一できない自分を、鏡に映し出す
事で、自分をその鏡の像として同一化することで、自分を自分で
対象化する段階を示していると言われます。そして、原抑圧とは
ちょっとエロイ話ですが、授乳期に自分の母の胸から乳をもらう為に
興味を持っています。この時期は、ラカンでは想像界と言います。
母と子は感情的なシーソーゲームの様に、相手を他者として認識
する事がない気がします。居なくなったら激しく泣き、まさに自分の分身か、
一部の様になっているわけでしょうね。
そこで、乳幼児は母と呼ばれる授乳機械が、どうも自分に本当に向かって愛情を
注いでいるばかりではなく、他者に興味があるのではないかと疑いを持つようになります。
22 :
パレルゴン二世:2008/03/19(水) 10:08:16 0
つまり、母の性的なパートナーである父の存在に気づくのです。
それでも、母の欲望の対象になろうと必死にすがるのですが、
決定的な一撃(贈与の一撃の様でもありますね。最もケースが
違っていますので、全く関連はあり得ませんが)が持っています。
つまりこれが「父親のノン」と言う原抑圧です。
原抑圧によって、乳幼児は、持続する(連続的に流れる)欲望を
切断する事を強制的に覚えさせられるのです。
この事を経験することによって、欲望は持続から分節化される言語
の取得に向かえる様になるのでしょうね。
欲望は隠し持って、迂回することで、行為に備給される様になるのでしょうか。
23 :
パレルゴン二世:2008/03/19(水) 10:29:35 0
つまり、私の理解では、フロイト・ラカンの精神分析学では、この抑圧によって
乳幼児の心に大きな無の様なものが生じ、そこにシニフィアン連鎖が
発生すると言う事です。この最初の抑圧が第一番目のシニフィアンを
つくり、消し去られた主体の無を代表する特権的なシニフィアン
だと言えます。
しかし、私見ですが、この原抑圧=根源的第一シニフィアンと考える方が
より分かりやすい気がします。「父のノン」によって、直接的な欲望は
ストップさせられ、この事による開いた傷口にその後のシニフィアン
が連続的に発生し、そのシニフィアンごとに、欲望の切り売りが供給される
と言うのが、間違っているかもしれませんが私の意見です。
24 :
パレルゴン二世:2008/03/19(水) 10:48:06 0
だいぶ遠回りしましたが、再度アイに戻ると、アイは言語を理解できる
のでしょうか?アイはコンピュータースクリーンに向かって、表示された
数字の少ない方から、多い方に向って順番に指でタッチし、正解の褒美を
狙っています。また、瞬時に消えるスクリーンに表示される
数字を人間よりも短い時間で記憶します。
この行為が、パブロフの条件反射ではない保証はあるのでしょうか?
ただ、タッチパネルに正解を打つ事が出来るだけで、はたして人間の様な
象徴界=言語界 をもって認識しているのでしょうか?
証明は出来そうもありません。
しかし、アメリカにはタッチパネルが言語表現になっていて、
飼育員とコミュニケーションするサルもいるようです。
そこで、安易な結論に入りまでょう。
これは、全くの私見ですが、象徴界への参入とは、口頭で話す事
だけを意味しているのではなく、原抑圧によって他者を意識する
事だとしたらどうでしょう。自分の欲望を直接にださない事であるとしたら
赤ちゃんは大人になるにつれて、他者を意識します。礼儀作法を覚える
、挨拶をするこう言う行為自体が原抑圧によって他者への意識を作るとしたら
集団化する動物はすべて形は違っても象徴界と言われるような世界を
共有しているといえないでしょうか。これが、私の結論ですね。
25 :
パレルゴン二世:2008/03/19(水) 11:01:29 0
つぎは、「存在論的、郵便的」に入っちゃおっかな?
皆さんの協力で最後まで行きましょう。
亀井さんって学生ですか?
ぜひ
27 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 13:35:17 0
男買うなはすみ
28 :
パレルゴン二世:2008/03/20(木) 08:41:52 0
おはようございます。
きょうは雨です。空には雲が張り詰めています。この雲は
何処で生まれたのでしょう。南の海が熱せられて前線を作り
その前線が北上したと言うような予測ができます。
天気予報士の仕事はより正確な予測を求められています。
そして、宇宙からの俯瞰図も導入され、期待(奇態)に違わぬ
予測が出されるようになりました。
それでも、一つ一つの雲の発生から消滅に至るすべての雲の運命については
不明です。いつどこから再来し、僕らを悩ますかもしれません。
つまり、非世界的存在としての個々の水滴可能態(雲)はいつの間にか
こ固有名的な余剰を含み、かつ、その情報伝達は、完全ではありえない
のです。
29 :
パレルゴン二世:2008/03/20(木) 09:07:00 0
それでは、イヨイヨ「存在論的、郵便的」に入りますか。
東は通常の常識的な解説本の様に、著者の経歴の説明から始めています。
1930年アルジェで生まれる。脱構築=デコンストラクシオンと言う
概念を紡ぎだす。フッサール・フランス語・哲学を逸脱。英語圏にも
受容されるようになる。詩・絵画・建築・ヴィデオアートにいたる
幅広い分野に興味を持ち、80年代初めまでに、ポストモダンを
先導する(扇動する)哲学者の一人として認められる。
ざっと見ると、このような書き方で、静かに幽霊船は始まるようです。
そこで、以前にも述べましたが、ポストモダンの特徴の一つである
政治的な要素への無関心さへデリダは反発して行くことになるとあります。
この点にいては、ある程度分かると思いますが、あえて言うと
つまり、政治への運動は、体制への要求、あるいは他者に対する
反論と言う意味になりますね。そこでは、解り易く言えばAに対し
Bという立場を正当化する状況になります。よって、何が正しいのか
と言う現前=認識、声=聞と言う形而上学になると言う事です。
ですから、ポストモダンの哲学者は政治を無視していると言う
批判にさらされている、この事をデリダは避けたいと思っている
んですが、ポストモダンの立つ位置を考えればそう簡単ではない
気がします。
30 :
パレルゴン二世:2008/03/20(木) 09:32:18 0
そして、社会主義のチェコ・獄中のネルソン・マンデラ支持・アルジェの政治弾圧
に抗議・・・・。そしてこの彼の書いたテクストと彼の行った行為
つまり、前者はコンスタティヴな読解・後者をパフォーマティヴに読解する
事で、ここに宿る余剰・差異を際限なくウイルスの様に伝染させるようにすること
こそ、デリダをデリダ化させる事であると考える。誤読するとは、それぞれの
余剰がそれぞれのコンテクスト、ネットワークでの位置によって誤配される事により
ますが、その誤配をさらに誤配させる事こそが、豊穣な世界をもたらすのだと言う事
でしょうね。この二つの読みはどちらも有益な解説書を作成できるだろうが、
東の興味は、このコンスタティヴな読みと、パフォーマティヴな相互の捻じれ
を解いてみたいと言う事のようですね。
31 :
パレルゴン二世:2008/03/20(木) 09:54:29 0
この場合の「解く」とは、捻じれを解くのではありません。
ねじれの状況を体験する、あるいは、「私」もさらに捻じって
みてやろうかなと考えるほうが良いと思います。
次にデリダの著書を年代順に参照していますね。
そこで詳細な本の名前は8Pを参照すればわかりますので、省きますが
東はデリダの作品集を出版の時期で前期と後期に二分します。
前期は62年〜70年までのもので、各本それぞれが一つの作品として
独立して読めるもの、つまり、コンスタティヴに読解できるものになっている
とし、後期は70年〜のもので、テクストが他のテクストへの暗黙の参照・
引用、論述の意図的中断や迂回によって、断片化・重層化されている
との分析をしています。つまり、後期になって、間テクスト性の探求とその
重要性をデリダが求めて、この様な作品となったと言う事でしょう。
勿論前期をゲーデル的脱構築期、後期は郵便的=ネットワーク的脱構築期と言えますね。
32 :
パレルゴン二世:2008/03/20(木) 10:17:36 0
以後の説明については、再読していませんので明日にしますが、その前に、
ポストモダンの分析について欠かすことのできない、
もうひとつ重要な要素と思われることを伝えておきます。
それは、もう既に何度も述べていますので、お分かりになっている
と思いますが、それではクイズ形式でヒントを与えますので、明日までに
考えておいてください。
ヒント:アルチュセール・ハンナアレント・イヴァンイリイチ・シモーンヌベイユ・
サイモン・ガーファンクル・カミユ・カントール・キスリング
ジュリアクリステヴァ・サミュエルソン・ジャンポールサルトル
シャガール・ショーレム・ジンメル・スピノザ・スピルバーグ・
スーザンソンダク・フランツカフカ・チョムスキー・トリスタンツァラ・
ドラッカー・トロッキー・ハイネ・カミユピサロ・エドムントフッサール
イリヤブリゴジン・フリードマン・マルセルプルースト・フロイト
エルンストブロッホ・フロム・アンリベルクソン・ワルターベンヤミン・
ニールスボーア・マイケルポランニー・カールマルクス・
メルロポンティ・メンデルスゾーン・モディリアニ・モンテーニュ・
ヨハネ・ジャックラカン・デーヴィッドリカード・レヴィストロース
エマニエルレヴィナス・ウラジミールレーニン・ジャックデリダ
そして、これで分かったと思いますが、アンネフランク以上
ポストモダニズムとユダヤ人/ユダヤ性の関係については今度お伺いするとして、
>>29-
>>31での郵便本のまとめについてですが、ちょっと間違ってるところがある。
簡単にかつ乱暴に言います。まず、東は第一期デリダ、第二期デリダ、第三期デリダ
と三つに分けています。そして第三期デリダはとりあえず蚊帳の外におきます。
なぜなら>3でも書いたように東は、デリダは前期に理論的に展開したものを
後期には実践した、という世間一般で確定されようとしていたデリダ理解
(それは左翼系、リベラル系はもとより法理論、フェミニズムなどに通奏低音
のように響いていて、そのような理解では第二期がただの過渡期として処理
されてしまっている)を覆し、第二期の理論的独立性を提示しようとしている
からです。この点において「存在論的、郵便的」は他のどのようなデリダ関連本
と「違う」のです。
わたしにとって、というよりおそらく「存在論的、郵便的」にとって最も重要な
部分は「デリダによるフロイト」に他ならないでしょう。第四章にほとんどすべてがある。
私見ですが、処女作ということもあってあの本は「詰め込みすぎ」なところがあり、
サービスも過剰に思えます。次回は「存在論的、郵便的」にしかないと思われる
切り口、視点を抜き書きして、それらについてコメントしたいと思います。
忙しいのでいつになるかわかりませんが。
35 :
考える名無しさん:2008/03/20(木) 23:27:25 O
駄目だ、こりゃ
ブレヒト、クリステヴァ、ポパー、フッサール、ヴィトゲンシュタイン、ジンメル、ブーバー
誤読って言い始めたのはどの辺りの人なのかな?
誤読の系譜?
38 :
パレルゴン二世:2008/03/21(金) 08:08:56 0
おはです。
亀井絵里さんへ
書き込みありがとうございます。
研究の方が忙しいようですね。
頑張ってください。
デリダの著書についての前期後期の識別は、あくまで、東の郵便的
の書物からのものですので、亀井さんの意見への反論ではありません。
私のスレッドでの目的は、あくまで、東の書いていることを、
コンスタティヴに読むことですので、そのようにご理解いただければ
と思います。また、もちろん、いろんな意見の書き込みをしていただければ
皆の理解の助けになります。こちらは勝手に書いているだけですので
気にしないでください。
39 :
パレルゴン二世:2008/03/21(金) 08:25:09 0
それでは、昨日の続きですが、もう亀井さんが述べられておりますので
言う事はありませんが、そう、ユダヤ人が正解です。
そして、ここに挙げられたユダヤ著名人たちが異常に多いことが分かります。
ユダヤと言えば、イスラエルですが、そのほかにも、離散した人たちが
大勢いますが、世界の人口、特に先進国と言われる欧米日本を加えた人口比から
考えても、異常に多いと思われます。これは、おそらく、その理由として
ユダヤ人の歩いてきた道や考えが大きなファクターになっているのでは
と考えられます。このように書くときに、私は、通常言われているような
「まったき他者」思想としてのユダヤを指しているのではありません。
つまり、「他者」の呼びかけに対する全面的な「ウイ」と言う返答と
「正義」について述べてはいません。そのような高度な理論から、
ユダヤを西洋形而上学から識別することを、ここでは、言ってはいません。
40 :
パレルゴン二世:2008/03/21(金) 08:35:14 0
それでも、自分で想像すると、この西洋世界からの他者としての自分が
常に他者にいかに鏡像されるかと言う意識が、他民族に比較して異常に
高いのか察しはつきます。私が他者に映しだされる鏡像は確定記述の
不可能性を見出し、さらに、その他者が無限に存在し、かつ時間的にも
映し出されるものが複数化すとすれば、いったい「私」は幾つの分身
を持つのでしょう。そこには常に脱構築された「私」と言う不可能なもの
が、浮遊している事になります。
そのような、論理は東に任せることにして、簡単な分析でここは乗り切ろう
と考えています。
41 :
パレルゴン二世:2008/03/21(金) 08:53:54 0
ユダヤの歴史は4000年とネットで検索されます。
メソポタミア→パレスチナ→エジプト(奴隷)→モーセによりカナンの地(パレスチナへ戻る)→
→紀元63年にローマとの戦いに敗れてパレスチナの地から離散する。→
1948年イスラエルを現在の地に建国する。
詳細は各自で参照ねがいます。
つまり、私が言いたかったのはこの離散です。(ディアスポラ)
この離散によって、ヨーロッパ各国に離散したユダヤ人たちは、
各地の習慣に従おうとした。ところが心の奥にはユダヤとしての
考え(ユダヤ教=タルムードへの従順さもあったでしょう。)もあったでしょう。
しかし、最低でも表面的にはその国の人の振る舞いを習う必要があった。
そこで、そのように表面上擬態化する事がカフカの「変身」に見る事を
指摘することもできるでしょう。
42 :
パレルゴン二世:2008/03/21(金) 09:07:20 0
つまり、ユダヤ人の歩いてきた複雑な道のり、環境の変化、
他者として、外部からのまなざし、この事が、変身を要請し、
「城」へ向かう道の複雑さ、身分の不確定さをえぐるカフカの
文学の基礎であると言っても問題はなさそですね。
もちろん、ドゥルーズの「なる事」ともこの事を指している気がします。
そこで、もう一度、別の切り口である、なぜ、ユダヤ人には著名人が多いのか
と言う設問に答えてみると、やはり、ユダヤ教の具像崇拝禁止が根底にある
のではないかと言う気がします。つまり、神の偶像が描けない事で
幾度となく、色々な角度から神について語る事で何かを考え・それを
書き記す事に長けていると言う事でしょう。つまり、空転する再帰的ロジック
が、思考力を高め、見ることの禁止が、エクリチュールの技を高める事
で著名な書き手を多くしている。これでどうでしょう。
43 :
パレルゴン二世:2008/03/21(金) 09:25:21 0
この様に分析する時、デリダのエクリチュールが見ると言う現前を離れ
る事に起因し、ディアスポラが脱構築(自分の無限なる分身)を引き出した
とも言える気がします。
だからこそ、ユダヤ人には絵描きが少ないことも納得できる気がします。
これ以上、ユダヤ人からの切り口は他の著書に任せて、東の郵便的へ戻りましょう。
ここで一度中断しますので、続きは本日PM〜か明日になるかもしれません。
それから、無視はいけませんね。
37さん。「誤読」の系譜は、私も良く知りませんが、たしか、ベンヤミン
がボードレールだったか記憶は定かではありませんが、その翻訳を自分自身で
行った事について、誤訳も意味の多様性にとって重要であるってなことを
こいていました。間違って記憶しているかも・・・・
脱線多いですね
45 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 08:24:36 0
こうして、後期と言われる郵便的脱構築は、暗号読解の様な本となるわけですが、
東は、この様なスタイルを選択したデリダの動機を問うが、結局、自説ではなく
通説の様な、前期=理論化・コンスタティヴ、後期=実践・パフォーマティヴと言う
とらえ方をここでは明確には否定しない。そして、80年代の政治的・社会的コミットメント
へとつながる流れとして考えているようである。ただし、このように明確に時代区分
をする事には、多少の抵抗があり、60年代の理論化時代にすでに「エクリチュールの
戯れ」(エクリチュールと差異?)と言って、一部の著書で実践=パフォーマテイヴ
を試みていたが、後期の「弔鐘」「葉書」の様な実践重視のテクストのようではなかった
としている。この様な後期を代表する作品は理論的な読みが不可能であるために、
英語圏ではあまり触れられていないとの事。
この様に述べて、東は、この評価されない、あるいは、評価の分かれる後期
パフォーマティヴの世界へなぜ進んだのか?そして、どこにたどり着いたのか?
と問う。そして、この変化をデリダを理解する読者の躓きと同時にデリダ自身
の躓きとして見る事になる。
46 :
尻の穴をほじくった手でツッパリ(笑):2008/03/22(土) 08:25:51 0
マ゙ウル
47 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 08:52:23 0
12Pで脱構築とは何か?の確認がなされる。
そこで、[he war]と言う英語ともドイツ語ともとれる文章の検討がなされ、
仮に一方の言語での無限の翻訳行為がなされても、もう一方の言語による
意味が残されており、この2つの言語共通の[he war]は多様性の喪失に
なる。この複数性の効果をどのように翻訳するべきか、同時に複数の言語で
翻訳したら、これは何なのか?と問う。
ここには、既に、東が指摘した後期パフォーマティヴの読みが隠されていると思われる。
つまり、すべてのページが左右二つの欄に区切られて、左がヘーゲル
右がジュネと言う「弔鐘」もこのスタイルなってるからだ。
そして、この[war]と言うエクリチュールに注目し、英語とドイツ語の
発音の違い=音声の違いが、この複数性を抹殺すること、つまり、
パロール=話し言葉がエクリチュールの息の根を止めにやってくる
のだ。そして、この二重所属の効果を一カ語による「無限の翻訳行為」
と対比している。あくまで私見だが、この一カ国による無限の翻訳行為
とは、もしかしたら、ゲーデル的脱構築の萌芽であり、二カ国語による
翻訳不可能性とは郵便的なネットワークの誤差を指していると考えるのは
勇み足なのであろうか?
48 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 09:20:00 0
そして、この問題を解こうと、ジョイス論で、最も強力な翻訳機で
ジョイスのプログラムを解こうとするが、[war]の多数性を翻訳する
事が出来ない。この多数を「ダブルバインド」の中にあると考える。
ダブルバインドとは二つの矛盾した命令(翻訳しろ!)を受け取った
者が、その矛盾を指摘する事が出来ず、しかも、応答義務を負うような
状況をさす。
そして、先ほど言ったように、デリダは、還元可能な多数性(1言語による
翻訳の多数性)と還元不可能な多数性(2カ国後以上による翻訳の多数性)
を区別し、耳=パロール、目=エクリチュールの多様性を、それぞれ
「多義性」と「散種」と名づけたとする。
49 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 09:44:37 0
パロールとは(声)であり、声は常に現前的な主体(今ここ)につながっており
自分のコンテクストの前に広がっているのであり、西洋形而上学の絶対位置なのであり、
一方のエクリチュール(文字)は時間今ここには決してつながってはいない
浮遊するもの、誰もが時間空間的に超越して、読めるものであると言う事だ。
だから、自由に引用され、解釈される=メタレヴェルなのだ。
つまり、この事を「散種」と言う。
次に、オースチンの言語行為論との比較をし、コンスタティヴ(事実確認的
言明・報告)とパフォーマティヴ(真理を問う事が出来ない行為遂行的)
のとらえ方について述べている。そしてオースチンが特にパフォーマティヴ
に宿る真偽決定のできないものについて、引用の有無を基準に乗り越えようと
しているが、デリダは、すべての記号は引用されるとして、パフォーマティヴに宿る
散種の働きを捉える。
50 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 10:03:37 0
このオースチンのへの批判については、「ジャックデリダ有限会社」
に詳細に書かれているが、speech act theory については、
1)発話行為 2)発話内行為 3)発話媒体行為 に三つに分けて
考えるのが通常の様である。1)発話を行う事そのもの 2)発話を行う事
で行われる行為(命令・依頼・質問など) 3)発話を行った結果生じた
影響・結果(脅迫・説得など)参考になればと思います。
もちろん、この内の、勿論、2)と3)については、理論的・報告的な
読みは決してできない。つまり、私見ですが、東が問題にしている
引用可能性の問題のほかに、ここにあげる、発話内行為・発話媒体行為についても
何か重要な問題点が隠されている気もしますね?
ちょっと出ますので、また。
51 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 13:34:54 0
再度今日書き込んだところを読み直したが、分かりにくいね。
東の本の通りに読み込むと文字が増えて、結局本を読んだ方がいいし、
かといって大きく端折ると、東の論理の流れが見えてこなくなると言う
ダブルバインド状態に陥ると言う事になるね。
しかし、全体を分かりやすくするには、多少の間違いを恐れずに強引に
東を翻訳するしかないね。
こう言う前提で行くと、オースチンへの批判は、あくまでパロールに対してであり
すでに、エクリチュールについては、その多様性を認めているのだと言う事、
そして、コンスタティヴなスピーチ(論理的・事実確認的・報告)についても
つまり、語る現前性としての同一性を何とか多様性の方へ、引き込もうとている
のだと言う事だ。そのためにはすべてのパロール(話し言葉)も引用されたもの
でしかないと言う事を証明しようとしているんだね。
52 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 14:23:44 0
つまり、どの様な、発話も、引用可能性としてしか生まれないと言う事
になるが、この場合の引用性とは、どこかで聞いた文章からの引用を
指すと同時に、その述べられた文章内でのそれ自身のそれ自身による
証明=確立が出来うるかどうかと言うと言う問題ではないだろうか。
だから、18Pに示されたように、「あらゆる言説は同時に二つの
コンテクストに、例えばコンスタティヴとパフォーマテイヴと言う
二つの読解レヴェルに所属しうることになる。」と言う説明になるのだ。
53 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 14:37:24 0
「この牛は危険である。」と言う文章はコンスタティヴな、ただ単なる
牛の性質描写として取れるし、かつ、危険だから近づくなと言いう
パフォーマティヴにも取れる。つまり、この例の様に、すべての言説が
コンスタティヴとパフォーマティヴの両方か解釈できると言う事の
様である。でも、東の論旨がいつの間にか、スピーチ・アクト論が、
エクリチュール論にすり替わったのか?甚だ疑問ではある。
それはそうと、この文章「今の牛は危険である。」を見て、思い出す事がある。
それは、確かフーコーだったかが、確かルネマグリットの絵を引用したした
「これはパイプではない。」があったよね。こちらの方は、絵に表されている
見ている物はパイプなのにそれを表わす文字はパイプではないと書かれている
わけだ。常識的には、絵と文字の齟齬を示していることになるが、
この辺の類似性・異質性については時間があれば調べたいね。
54 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 21:49:48 0
焦って書くと、文章のミスが多いですが、想像できる範囲ですので、了解下さい。
これで一様の東の言う「脱構築」の準備は出来たと考えて、次にデリダ派の巨匠
ポール・ドマンの「脱構築」の解説を引用する。(あくまで引用ですその意味は?)
その中で「何の違いがある?」と言う文章について、1)違いが何なのかを知りたがっている。
2)違いなんてないじゃんと言っている。 と言う二つの解釈があり、どちらの意味か判断
できないのだとし、
1)の解釈を「文法」2)を「修辞」とドマンが呼び、これを東はコンスタティヴ
パフォーマティヴの区分と同じであるとする。
そして、この結果生じる二律背反(ダブルバインド)こそが、脱構築なのだ
と考えているのだね。つまり、エクリチュールは絶えずあるコンテクストから
切断され、漂流する、そして、別のコンテクストに接木される、だから、常に
複数のコンテクスト、複数の解釈レヴェルに属している。
二重所属性(散種)が最も先鋭化するのは、先ほどの様にコンスタティヴと
パフォーマティヴが全く反対の意味になる場合で、ある言明が同時にその言明を
裏切っている場合であと考えているのですね。
55 :
パレルゴン二世:2008/03/22(土) 22:00:10 0
ここで小休止ですが、現在この様に本の初めのページから順番に説明していますが、
実は同時に第二章から先を再読中です。現在182p辺りにいます。
説明は勉強にもなりますが、読む方が楽で、楽しいですね。
ですので、多少説明の方は遅れ気味になるかもしれません。
とにかく、まともに解説すると、恐らく100日ほどは必要でしょうね。
現在はこう言う状況にあります。
こちらも読み直しています。ゆっくりお願いしますw
57 :
パレルゴン二世:2008/03/23(日) 09:21:07 0
はい・はい(ウィ・ウィ)おはようです。(もちろんデリダの言葉ですよ。)
今日は晴れ。勿論、花粉も飛んでいますが、一粒一粒の花粉はどこで生れ
どこから来たのでしょう。これら一粒ずつの飛来ルートを次々とファイルして見ましょう。
恐らく、これは、何時まで経っても、完了しない未完のファイル=ゲーデル的ファイル
になるでしょうね。しかし問題はリズムにあります。この飛来する速度の差が
誤差を生じさせる、つまり、デリダ的な非ファイルとして幽霊化するのです。
同時に同じ枝の同じ蕾から離散した花粉の1粒子が、風の影響で、異なる速度で
私の目に付着しました。この時間の誤差で、私への影響が変わります。
この一粒の花粉が付着した時の体調・および私の居た環境(外・家の中)・
着ている服(附着しやすいかどうか)・飛来の量など、ここには、予測不可能な
ものが、速度の差によって生まれると言ってよいでしょう。
それでは、行くか?
58 :
パレルゴン二世:2008/03/23(日) 09:42:21 0
ダブルバインド(二重所属)=散種は目=エクリチュールと耳=パロール
の間で起こる。エクリチュールはコンテクストを超えて、いろいろな所に
接木され、再利用されうる。一方のパロールは話し手(現前)が話していることで
再利用不可能(表面的には)であり、この二つの要素が齟齬をきたし
ダブルバインドの経験となるわけだ。
次に、このようなエクリチュールとパロールを対比すること避けるために
ルソーのテクストを用いて、その中で、ルソーが、パロール的に同一性理論
によっていると同時に、エクリチュールの技法にも依っていると考えるのだ。
つまり、パロール・エクリチュールそのものは存在せず、ある記号を
パロールとして捉えるかエクリチュールとして捉えるか、その視点の差異
だけがあると言っていいとの事。
しかし、それが本当なら、どうして今まで、ごたごたと、この二項の差異について
説明してきたのか分からないでしょう?
59 :
パレルゴン二世:2008/03/23(日) 09:59:44 0
恐らく、二項的対立的にパロールとエクリチュールとを理解されては
不味いからなのでしょう。なぜなら、二項対立的に知識を構築する事が
現前性の哲学なのですからね。
ところが東はこの問題を、エクリチュール重視にすると、絶対的還元不可能性
がテクストの根底に実体的に想定する可能性があるようになるからだとしています。
要は、否定神学の様に、何かがあってそれが、あれこれを否定的にとらえるような、
つまり、そういう否定するものが「在る」ことを否定できなくなるからでしょう。
ポストモダンとはそう言う実体的なものの否定にありますが、否定をする事
だと言えば、それも実体的な響きを持ちますよね。これが否定神学的だと言う事
でしょうね。だから、エクリチュールとパロールの二分法を否定ではなく
無視=すり抜け=無効にする戦略があったのでしょうね。
60 :
パレルゴン二世:2008/03/23(日) 10:12:28 0
そして、このパロールとエクリチュールとの差である、目と耳との間
の空間移動の可能性を述べている、つまり、あるときには多義性
またある時には散種を発見する。
いや参ったね。今まで、すべてはコンスタティヴ(理論的に正確に読む)
はパフォーマティヴ(引用性)になると言って、エクリチュール重視だったのに
ここへきて、今度はどちらでもないとぬかすとは、なにが言いたいんだ!!!
と言う怒りと、どうでもいい事に時間を費やしは「俺・私・君」は
どうすれば納得できるんだ!!!
と言う感情的な発言は止めましょうね。これも、意味のあることですから。
きっと、後になって、僕らの血となり、成長させるはずです。
61 :
パレルゴン二世:2008/03/24(月) 13:44:35 0
そこで、ユルゲ・ハバーマス(コミュニケーション論で有名)の言う
デリダと「ユダヤ神秘主義」の親近性について、ババーマスの言う
「引用可能性」とは、いわばコンテクストから離れた「自律性」を記号に
与える概念で、散種とはテクストに宿る絶対的な根源への接近を意味する
とハバーマスは言っていると東は指摘する。この場合の、「根源」と言う
タームについては、当時の哲学界では、非常に多く使われているもので、
ハイデガーの場合には
「歴史的に形成されてきた意味や解釈が作用して我々の態度や意識
も歴史的に形成されている。そのような全体の中の歴史的な私が
個別の歴史的な私を越えて、より包括的な歴史生命との一体性を
自覚する自分の中に沈殿した様々な意味の層を掘り起こし、その
根源へと遡行して行く作業が根源学である。」と言っている。
要は、つまりより大きな歴史の中の中心的なコアこそが、根源であり
それに同化することと言う、超形而上学的=不動の神として、この散種的な
テクストの読み方を捉えていると言う、東のハバーマス批判なのでしょうかね。
ちなみに、ベンヤミンではイディーの様なものとして「根源」を捉えている
様でもある。この辺は各自参照の事ですね。
62 :
パレルゴン二世:2008/03/24(月) 13:53:37 0
ベンヤミンは破壊・収集・記憶の哲学で、どうも、当時は、ヘーゲルの
影響が色濃くあり、かつ、その歴史的必然をいかに扱うかと言うのが
問題の争点でもあったのかも知れませんね。暴力による破壊とその再構築
が弁証法的な歴史によって、もたらされるのか?あるいは個人によって
なされるのか?サルトルには歴史的必然性(資本主義から共産主義へ)に
参画する個人の論理としてのとらえ方もありますが、ハイデガーなどは
この場合、歴史への遡及と言う視点があり、また、フーコーには系譜学
と言われている通時的根源学的スタイルがありますね。
63 :
パレルゴン二世:2008/03/24(月) 14:18:15 0
この辺の問題については、再度調べる必要がありますね。
そこで、東は、散種の言う「引用可能性」がコンテクストを超えた
記号の同一性を保証するものではなく、同一性を脅かすものだと言ってる。
次に、マイケル・ライアンがマルクス的な論理の中で、エクリチュールの
場を社会的交通の場とみなしていると批判する。
また、「脱構築」を物象化論へと吸収してしまう事になると批判する。
そして、散種とは、記号の多義性をその背後あるいは深層から考えると
イメージしやすいが、そうではないとし、先ほど言ったように、散種は
コンテクストの切断可能性=引用可能性から与えられ、「目」=エクリチュール
と「耳」=パロールの間の空間からやってくるとする。
この辺については、マルクス理論とデリダの脱構築を理論的に接合しながら自説
を述べるマイケル・ライアンへの東の批判的視点については、今一
分かりづらいが、「デリダとマルクス」今村仁司著を参照すれば解明される
であろう。ただ、ハバーマスとライアンについてともに何かの実体的な
ものを「散種」に持ち込もうとすることを批判しているのだとの理解でも
良いような気がします。
64 :
パレルゴン二世:2008/03/24(月) 14:37:44 0
ハバーマスやライアンなどについては、どうも、交通・コミュニケーション
の問題が横たわっており、コミュニケーションや交通(関係性)は可能か?と言う
争点があるのではないかと言う気がしますね。勿論デリダは不可能と考える
のではないでしょうか。
そこで、戻りますが、散種は事前にあるのではなく、複数のコンテクスト
の間を移動することで、つねに事後的に見出されるとする。
だから、広松渉の言う疎外論・物象化論のように、線形的順序による
反転ではなく、(まず最初に散種の舞台=空間があり、それが転倒されて、
記号の単数性が生じるのではなく)エクリチュルの単数性が記号の散種的
複数性に対して、論理的に先行していると東は述べている。
つまり、こう言う事でしょうか?先に複雑に解される状況=舞台があり、そのうちの
ひとつが唯一解釈される状況になるのでは全くなく、逆に単一のエクリチュール
が散種的な複数性へと開かれると言う事でしょうかね。
65 :
パレルゴン二世:2008/03/24(月) 14:53:09 0
この解釈の違いは、おそらくかなりのものでしょうね。
先に、散種の舞台=複数のセリー(ルート)があるととらえると、エットワーク
が先に整備されていて、その意味が複数化するのは、このネットワーク
に依存するわけです。だから、複合化を止めるようなネットワークがあれば
郵便は届くようになる。実際そのうちに唯一の記号の単一性が生じると
東は言っています。一方エクリチュールの単一性が先にあり、かつ、後で
散種的な複数性が生じるとするならば、ネットワークは整備されてはいない
そのつど、細菌の様に増殖しては消える、ちょうど脳内のニューロンと
シナプスの様に、接合と切断を繰り返しているようなネットワーク発生
消滅を考える必要がありますね。
また明日です。
66 :
パレルゴン二世:2008/03/25(火) 22:09:40 0
松坂の勝利投手の可能性は消えたね。
残念でした。きょうは晴れ。もうすぐ桜が満開!!
デリダは重層な非決定に、巻き込んでいます。
それでも、能天気であることが重要です。
この陰鬱な、論理の混乱・錯乱に滅入ってはいけません。
あくまで、世の中が論理的に判明するなど、デカルトの症状を
脱することが重要だと言う事でしょうか。
いよいよ、デリダ・東のジャーゴンにジャーゴン的に応える局面になりました。
明快さの裏側のもの、それが郵便的?なのでしょう?
ここからは、少し強引に私なりの訳し方になります。
と言うのも、東の理解の角度(セリー)と私の理解の角度が
重ならないと言う理由からです。また、興味の部分が微妙にずれていて、
彼の文章をコンスタティヴに了解するのは十分な時間をかける
必要があるからです。
と言う事で、ご理解いたて、強引に行きます。
67 :
パレルゴン二世:2008/03/25(火) 22:26:51 0
「エクリチュールの単数性が散種的複数性に対し理論的に先行している。」
と言う点は、単数性=単独性の類似が異常に気になります。
一体「単数性」ってなんだろう?なぜ、東は単数性と言ったのか?
不親切にもその理由については、述べていないようです。
そこで、これって、もしかしたら、カントの言う「物自体」のように
エクリチュールを表現する為に使ったんではないかと考えるわけです。
つまり、「物自体」とは人間の感性形式と悟性の範疇には捉えられない
ものなのですが、このようにエクリチュールも各人が捉えるものは
エクリチュールそのものではなく、その幻影な訳です。そして、
その幻影は、それぞれのコンテクストによって、つまり、私の意見では
局所=モナド的に映し出されると言う気がします。(ライプニッツ)
モナドには窓がない、モナドは世界を写し出す。モナドには交通がない?
でしたっけね。各人参照。この局所性と非交通性こそが、ドゥルーズが興味を
覚えたのではないかとわたしは思いますね。
68 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 22:31:27 0
>>67 >なぜ、東は単数性と言ったのか?
ただ「複数性」との対なだけじゃね?
69 :
パレルゴン二世:2008/03/25(火) 22:43:41 0
勿論皆も分かっている通り、このエクリチュールが物自体として散種に
先行してあるとすると、この単一のエクリチュルにアクセスする人は
多数いる訳で、その多数の人間が、多数のコンテクストに在れば、その数だけの
散種が発生する。こう言う解釈でどうでしょうか?
次に、24P5行目ですが、71年のデリダのインタヴューで「多義性そのものは[・・・]
ある弁証法の暗黙の地平のなかに組織される」と述べていることを取り上げています。
この場合の多義性とは、パロールの多様性を指しているのでしょうが、
(エクリチュールの多様性は散種と言っていましたよね。)
そこで、この弁証法は、といきなり切り出した「弁証法」と言う言葉は
如何解するのか?説明が不十分ですね〜????
今まではコンスタティヴ・パフォーマティヴと言う切り口では比較的丁寧に
説明を加えていましたが、この辺からは、一気にまくし立てます。
いや、ついて行きたくないっすが、想像力を働かせなければなりません。
70 :
パレルゴン二世:2008/03/25(火) 23:12:23 0
68さんちょっと待ってけろ。
弁証法は差異の吸収を指している。つまり、定立→反定立→統合 と言う
一連の運動を内部において行う事ですので、「たとえその時点がいくら遠かろうとも
、一つのテクストの全体性をその意味の真理へと再結集させることを可能にする」と言う
表現もうなずけるのだが、ここで言いたいことは、これがあくまで、パロールの
多様性であり、考えられる事は、これがコンスタティヴなゲーデル・クリプキ的
共時的な脱構築を指していることでしょうかね。
そして、このように確定記述的な余剰は最終的に全体に吸収されるとでも
言うのでしょうか?だから、幽霊的=郵便的な脱構築にはなっていないと言う
事でしょうか?先を読めば分かるでしょうね。あまり先読みしないようにしましょう。
71 :
パレルゴン二世:2008/03/25(火) 23:23:35 0
68さん。単純にはそうですね。
エクリチュールの単数性が散種の複数性に対応しているのは事実ですが、
単数と言わずに単数性と言った理由は何かと考えた場合、
つまり、単数=ある一つのエクリチュールを指しますが、
単数性と言ったら、その単数的な性質を指しますよね。
だから、この違いがどこから来たのかと考えるとき、エクリチュールは
それ自体がたった一つの独立した=モナド=単子ではないかと考えたわけです。
もう少し先を読めばさらに判明するかもしれませんね。
私は、いまこのページのこの行を読むことしか考えていません。
こう言う読みの方が、多様な読みにつながり、理解が深まると考えます。
また、明日です。よろしくね。
72 :
パレルゴン二世:2008/03/26(水) 21:42:04 0
そろそろ飽きてましたかね?
私も独り芝居の様に、誰に話しているのか不明のまま、
ネットと言う送り先不明の不確定な相手に向かって、郵便を
送っているわけですが、このリズムの差(受け取り手の時間的差)
あるいは受け手による認識の差(コンテクストの差)によって、
まさにデリィダッテ(デリダの実践)いますが、多少飽きてきましたよ。
誰か、一緒にやる人はいませんか?
とりあえず、多少気になるところを書いて見ましょうかね。
今後は一ページごとに1センテンス毎に読むのはやめます。
自分で気がついた箇所、重要と思われる箇所のカキコとさせていただきます。
それでは、とりあえず、昨日の弁証法についてのところですが、
東は、この弁証法を、先に自分が述べた「無限の翻訳可能性」と同じではないか
と言っているわけですが、理由は、パロールの多義性はどれ程豊かであろうとも
最終的には理念的にはcountableと言っているのですね。
73 :
パレルゴン二世:2008/03/26(水) 22:04:13 0
そして、このことは、最初に複数のコンテクストがあり、(構造の事)
その構造が記号(エクリチュール)の多義性を重層的に(構造ネットの
絡み合い)規定していると言っている?
ウーン変でしょう。
第一に、彼はエクリチュールの多様性は「散種」と呼ばれ、
構造にとらわれない、郵便的=幽霊的だったでしょう?
第二に、パロール的な多様性を多義性と呼び、私の読み方では、
それを、ゲーデル・クリプキ的脱構築とイクオールと考えていたのではなかった
でしょうかね。
しかも、確定記述や不完全性定理がcountableと言う事になったら、
ゲーデル・クリプキの脱構築(否定神学)と言われたものは、
弁証法によって消滅すると言う事でしょうか?
そして、こう述べるのであるが、「この多義性が完全に明らかになる未来の時点が
想定される。」そして、広松の疎外論の様に、過去−現在−未来は多義性の思考
において、一直線に配置され、円環となる。これをデリダは「弁証法」と言う
とする。ここで、やはり、東は、ゲーデル・クリプキ的脱構築は最終的には
構造の中で、完結してしまうのだと言っているのです。そしてこれこそが
構造主義であり、否定神学の限界であると言いたいのでしょうか?
74 :
パレルゴン二世:2008/03/26(水) 22:37:40 0
次に、散種の思考の時間制いついて述べていますね。
散種は初めにはなく、エクリチュールの移動後に遡行的に見出される。
だから、弁証法ではエクリチュールの構造(痕跡)を適切には記述できない
と考える。「現前したことのない過去」。
いよいよ、デリダのジャーゴンの世界に突入ですね。
そこで、とりあえず「痕跡」についてですが、これは、エクリチュール=マーク
と考えて、線を引く・書き込む・刻印する・根源的な書き込み・ひっかく・
傷つける・痕跡と言う語源学的な解釈があると高橋哲哉が書いていますね。
かえって良く分からないですが、ユダヤ人の割礼・スティグマ・原エクリチュール
(原暴力)などでしょうか。こう言う感じが、エクリチュール=散種の構造に
あると言う事でしょうね。痕跡の構造=散種の時間、決して現前したことのない、
今後も決して現前する事のない過去・・・・」どうでしょうか?
つまり、原暴力によって、開いた傷に過去が再帰的に意味を付与するが、それ自身
(過去の傷)は永遠に現れないって事かな。
75 :
パレルゴン二世:2008/03/26(水) 22:45:39 0
間違いを恐れずに言えば、(自己解釈です)これは、フロイト・ラカンの
原抑圧(デリダの名付けの原暴力)によって開いた、過去の空無に、
次々と現れる、シニフィアン連鎖の事でしょうね。
つまり、何度となく現れる幽霊としてのエクリチュール=散種でしょうか。
でもそう考えるとき、否定神学としてのラカン批判が水泡に帰す事になりますね。
もう少し先を読む事で解決するでしょうかね?
76 :
第五の波平 ◆rTnJeRmLss :2008/03/27(木) 00:16:11 0
混乱していますね。郵便本自体に混乱が見られますからね。
別のデリダも参照しないと、郵便本だけではむずかしいかもしれません。
まず、「エクリチュールの単数性が散種的複数性に対し理論的に先行している。」 ですが、
エクリチュールとは書かれたものです。
パロールは現前に話されて、その場で消えてしまいます。しかし文字は、
引用可能性、すなわちコピーできるような物質性を持っています。
しかしもちろんデリダがエクリチュールで言いたいのは、このような単純なことではありません。
パロールにもエクリチュール性があるわけです。反復されるなにかがあるわけです。
「こんにちは」というパロールにも、すでに共有される同一性があるから、聞く人にも
意味が伝わるわけです。
エクリチュール(痕跡)とは、それがなければ意味が伝わらないような言語が持つ
同一性=単数性です。
しかしもちろんデリダがエクリチュールで言いたいのは、このような単純なことではありません。
郵便本で好きな例が、署名の例ですね。
クレジットカードを使ったときなど、毎回署名(サイン)を毎回求められますが、
しかしなぜ私という同一性を保証するのでしょうか。
むしろコピーのように同じものではなく、毎回違う、1回しか書かれないことが
現前性を保証しています。
先の例に対比すると、この現前性はパロールであり、同一性を保証する「同じもの」性が
エクリチュールです。
77 :
考える名無しさん:2008/03/27(木) 00:31:10 O
名無しで純一スレ荒らすのは良くないぞ
>波平
78 :
第五の波平 ◆rTnJeRmLss :2008/03/27(木) 00:40:25 0
まとめてみましょう。
@(エクリチュールの動き(同じもの)→)散種→多義性(同一性)
A多義性(同一性)→散種
エクリチュールという同じものが動いて、散種という無限の可能性が生まれますが、
無限を認識することはできませんので、人はそれを多義性という同一性に縮減し、認識します。
それを、人はすでに多義性があるように錯覚するのです。これが散種の多義性化です。
しかしここでいうエクリチュールとは、実際にありません。散種を説明するために
想定されたものです。だから「現前化しなかった過去」、「現前化しない未来」、幽霊なのです。
真理の複数性に着目するなら、つまり統合による真理の単一性が否定される
のであれば、パロールの多義性は弁証法によっては収束されない。
「多義的であるならば真理ではない」という記述は、手を抜きたいが
故に生み出された方便であるかもしれない。
countableな構造を想定するなら、countableな構造を想定する構造と
それ以外の構造も想定され、そられは、やはり、uncountableに散種される。
それが神の上にあるのであれば、更にその先も狙うことが出来る。
80 :
第五の波平 ◆rTnJeRmLss :2008/03/27(木) 01:02:46 0
あと、郵便本の結論ですが、否定神学的単数性を、郵便的な複数性へというのは、
東の間違いです。否定神学的単数性は超越的なものなので分割できません。
これは多くの人が指摘しているところです。さらにデリダは複数性などとは言っていません。
東はなにを間違っているのかというと、超越論を実在論化しようとしているのです。
たとえばラカンが対象aという超越論的な単数をいいますが、これは実在論的には、
お金であったり、好きなゲームだったり、彼女だったり、どんどんかわって複数存在します。
最後にフロイトを上げるのは、ラカンはフロイトの無意識を超越論的に理解するのに対して、
フロイトの実在論的な理解を図解しようとし、結局失敗しています。
なぜこんな単純な間違いをしているのかというのは、超越論的な大陸哲学と、
実在論的な英米哲学の対立があると思います。英米哲学では超越論に
落とし込む事を徹底的に嫌います。認知科学へと持つ込むほどに、
実在論にこだわるわけです。東はこのような実在論への展開を「あえて」試みたのです。
81 :
パレルゴン二世:2008/03/27(木) 09:13:24 0
79さん。
書き込みありがとうございます。
私も結論から言うと、同じことを考えていました。
パロールは発話内行為・発話媒体行為によって、話者が現前していようとも
意味の確定不可能な面があるわけです。東もデリダのオースチン批判で、「引用」
の可能性を引き合いに出して、パロールについても引用性があるとしていますね。
そこで、今度は弁証法によって、強引に最終的にこの意味の多様性は一つの意味に
収束されるとするのは、やはりまずいとしか言いようがない気がしますね。
一貫性に欠けるのですね。
そこで、東の狙いですが、おそらく、パロール=否定神学=ゲーデル・クリプキ的
共時的脱構築と考えて、意味の余剰は無限にあるが、最終的にはcountable(理論的には)
とし、デリダ的=郵便的=セリー的な脱構築だけが形而上学をすり抜けられる(uncountable)
としたいのだと言う思惑があるのではないでしょうか。
82 :
パレルゴン二世:2008/03/27(木) 09:26:48 0
そこで、私の考えですが、東の様に、ゲーデル的な余剰(無限の組み合わせ)
やクリプキの確定記述(Aさんの生まれてきてからのすべての事は書き込めるか)
の問題と、デリダの言う郵便的なリズムの差(ある情報の到達時間の差によるもの)
は、西洋形而上学から見れば、同じ反対運動に位置付けて見た方が良いよ様な気がします。
と言うのも、デリダ自身彼が否定神学に落ち入っているのではないかと言う不安を
常に持っていた訳で、何かを述べる・何かを否定する事はすでに形而上学に当たる
と言う事を最も用心したのがデリダだと思うんですね。
そこで、東の言う後期のデリダ(脱構築の実戦)と言う、ジャーゴン時代を築いた訳ですね。
つまり、これ以上書くと、たとえエクリチュールであろうとも、散種と言う
伝達のルートの多様性=多義性によって、何とか単一の意味から逃れえるとしても
書く自分自身の単一性が暴露されるのではないかと言う不安から、後期の様な
テクストになった訳です。
83 :
パレルゴン二世:2008/03/27(木) 09:47:24 0
つまり、前期の様にロジカルに書くことの限界が、エクリチュールに
あらわれた。それが否定神学的に。そこで、後期のよりコンテクストを
はみ出した、二つのテクストを同じページに書いたりした訳ですね。
しかし、本当にロジカルに書いたり否定神学的にノンの連続で何かを
示そうとすること以外で、書くことは存在意味を持つのでしょうか?
どうにも解釈できる、あるいは、何か分からない事を書き記すとは
つまリ、痕跡なわけです。ただ痕跡を記したいと言う欲望だけが、
意味の取れない文章になる。比喩と隠喩の連続として、意味のまとまりを
欠いたものの実践ですね。こう言う点から見れば、ドゥルーズの実践的な
あり方の方が、ロジカルに詰めることの、不可能性を自ら体験する様な
デリダよりましの様な気がしますが。最初っから無意識の行為・精神分析
を豊富に取り入れており、多様性をリゾームや「なる事」スキゾフレニー
と言う表現で示しているわけです。
デリダには、ロジカルの限界にロジカルで突き当り、後期の様な
比喩隠喩の世界へ入ったような気もします。
これは、個人の読み方の差もあるでしょうが。
84 :
パレルゴン二世:2008/03/27(木) 10:38:48 0
今度は、ぴかぁ〜の言う「痕跡」「原エクリチュール」「反復可能性」
等については、高橋哲哉の書によると、やはり、コーラと言われる
「すべてのものの刻印が刻まれる地の台」の様なものがあると言っているね。
そして、高橋は「イディア的なものの現前であれ。感覚的なものの現前であれ
すべての存在者の現前は「根源的な書き込み」の運動を、つまり、原エクリチュール
の運動を前提にしている。」と言っている。この事が正しければ、やはり、
「痕跡」とは、このコーラと言われるもの(おそらくキャンバスのようなもの)
に最初に傷をつけた痕のようなものであり、その傷を繰り返し参照する事で
エクリチュールの反復性が保障されると言う事だろうね。
そうすると、私が言ったように、原抑圧によって開いた「穴=空無」との
類似性が考えられると言っても良いようだね。そこにシニフィアン連鎖。
この事を分かりやすい例で言うと、フロッピーディスクは初期化しないと使用できないよな。
この初期化が痕跡と言う事だ。そしてこの初期化によって、記号が反復性を持ち
色々な情報の伝達性(記憶=記録=エクリチュール・パロール=全ての伝達記号)
が保証されていると言う事だろう。
ぴかぁ〜も人を馬鹿にしないで、今回の様にまじめにかけよな。
そしたら、まじめに答えてやるから。それから、極度の引用は丸のみはやめよう
自分の文字を綴るようにな。
85 :
第五の波平 ◆rTnJeRmLss :2008/03/27(木) 11:24:40 0
高橋哲哉本も今ひとつですね。
「痕跡」は、ハイデガーの「存在」から来ています。
「存在」とはまず最初に「〜がある」ということが最初にあるわけです。
しかしデリダは起源を問う事から、「痕跡」と呼びます。「すでにある存在」です。
原抑圧によって開いた「穴=空無」=現実界は、本質的に認識論です。
認識(独我論)に開いた穴=他者への通路=否定神学
それに対して、エクリチュール(痕跡)は存在論的です。
現実界のように集約されるようなものではなく、どこにでもある「痕跡」です。
存在論的だから郵便的というように時間性へと展開します。
現実界は無時間性ですね。
確かにここが曖昧なところがある。デリダの脱構築も否定神学へ
向かうというのもそのあたりがあります。
ちなみに東のいうデリダ的脱構築というのは眉唾です。
大きなお世話、プライドを傷つけたようですね。以後、レスは控えましょう。
がんばってください。
86 :
パレルゴン二世:2008/03/27(木) 18:21:03 0
ぴかぁ〜君へ
私はハイデガーはあくまで「根源」学であり、「痕跡」を中心に据えた
訳ではないと思いますよ。君の説明は常にスローガン的でよく分からないのですが、
だから何時も君には質問をするんです。哲学では同じ字タームが違う概念を表す
事があるんですよ。だから言い切りをする君の文章は不親切かよく分かっていないのに
背伸びをしている気がするんですね。
哲学のスタイルの問題はそれくらいにして、ハイデガーの哲学が痕跡ではなく
根源学である理由は、語源学的にアレーテアはギリシャ語で真理・真実を
現わすのですが、このアレーテアを探求するためにアリストテレスの研究
を通じて、古代ギリシャの真理・真実の根源的な様相、とその変容の解明を
行った訳です。そしてこのような真理が、腹蔵なく意味関連の中で出会われていること
を求めたのです。そこで、この根源への旅と痕跡への参照はどのように異なるのかと言う事
ですが、あくまで私見ですが、痕跡とは参照先が不定です。よって、より
実体的ではないのです。つまり、痕跡とは無意識であり、それが何か不明な訳ですね。
一方根源とは位置が確定した源であり、それは、ニーチェと同じくギリシャ
なのです。ギリシャの真理基準への参照。勿論隠蔽と暴露と高田は言っています。
87 :
パレルゴン二世:2008/03/27(木) 18:36:18 0
それと、君のレスを再読して気づいたのですが、高田哲哉を今一
と切り捨てるには、彼の持論を詳細に説明することが先ではないでしょうか?
そして、どういう点が今一なのか説明が必要でしょうね。
そうしないと、君が高田をどの様に理解しているか分からないからね。
以前から言っているように、君が好きな「ルーマン」をスローガンの様に
纏めて煙にまくのではなく、皆に分かるように説明をしてみてはどうでしょうか?
君はルーマン・ルーマンと言ってはいるが、そのルーマンと君の立っている
ポストモダンがどのように関連しているか、詳細な説明を書いてくれないでしょうか。
と言ったら君は逃げるだろうね。
ハバーマスとルーマンは長い間激論を戦わした訳ですが、内容は良く知りませんが
彼らはシステムによるコミュニケーションの可能性を肯定しているのですが、
思想としてのポストモダンとの類似性はない気がします。
よって、あえて、この断絶をどう乗り越えたのか、君に聞きたいのですが。
お互いに哲学が好きな訳ですので、真摯に答えてほしいものですが?
>高田哲哉
高橋哲哉
ぴかぁ〜は相手にしない方がいいぞ
90 :
パレルゴン二世:2008/03/27(木) 21:31:48 0
88さん
高橋哲哉が正解ですね。訂正です。
ぴかぁ〜への質問
1)なんで原抑圧によって開いた穴=空無が認識論なのでしょう。
ちなみにハイデガーの場合には、存在の「開け」でしょうが
この二つの違いは?
2)現実界はどうして集約されるのでしょう?
君の解釈する「現実界」とはどういうものを指すのでしょう?
3)どうしてどのようにして「痕跡」はどこにでもあると言いうるのでしょう?
4)認識へ開いた穴がどうして他者への通路なのでしょう?またそれがどうして
否定神学なのでしょう?
5)デリダのどこがどう言うところが、否定神学的なのでしょう。?
とりあえず以上の点が君の文章からは不明か説明が不十分なのですよ。
哲学とは、そのように安易に書くものではないと言うのが私の根底に
あります。また、どのような哲学書も詳細にかつ慎重に
意味を紡いでいるのですよ。言葉を慎重に選択して、説明するわけですよ。
君の場合にはパロールの様に書いている。これは、哲学を軽く見過ぎているのでは・・・。
君も承知の様に、有名な哲学者はほとんど、大書を書いている。
何で君の様に、簡単なスローガンで済まなかったのか?
わかりますよね。
91 :
考える名無しさん:2008/03/27(木) 21:57:01 0
ぴかぁ〜は「スローガン的逃走的」
パレルゴンは「熟読的粘着的」
言い換えると
空に散ってる前者。
地を這ってる後者。
93 :
第五の波平 ◆rTnJeRmLss :2008/03/27(木) 23:30:30 0
>>90 ほんとに最後のレスです。
これらの質問の答えが、郵便本に書かれているのではないですか。
郵便本は、デリダのラカン(否定神学)の乗り越えを、補完する、でしょ。
まずラカンを学ばないと先に進めないのかも知れませんね。
しかし裏題は、「柄谷を超える」です。
柄谷の「探究」は読みましたか?
郵便本は探究の続編なのですから、必読ですよ。
「構造と力」はいりません。
検討を祈ります。
>彼が否定神学に落ち入っているのではないかと言う不安
>自分自身の単一性が暴露されるのではないかと言う不安
この二種の不安に駆動されていた、あるいは、この二種の不安を抱えている心の内
を暴露されることを恐れていた、としても、はたしてどのような批判の言語によっ
てこれらの「デリダの不安」を明確に暴露せしめることができるでしょうか。
私には、その足がかりすら、ついに思い浮かべることが出来ませんでした。脱構築
自体が脱構築されうるという性質を包摂した上で彼のシッポをつかむような言語行為
を私は知りません。
否定神学は、今や「落ち入るfall into」ものではなく、「発明されるinventive」
ものへとその遺伝子を組み換えられてしまった感さえあります。
前スレで名無しさん(と2世さん)から、映像認識関係で紹介してもらった本(学者)、
探してた内容も含まれててよかったです。
ども。
二次資料にはまっていってます^^。
パレはぴかぁ〜と関わらない方がいい。
通常、議論は、主張をぶつけ合うことにより、
「互い」の自説の向上をはかるために行うが、
ぴかぁ〜の場合、現実では満たされない自尊心を満たすためだけに、
ネット上を徘徊して、議論を吹っかけてくる。
だから、正当な手段で勝てないとなると、「2ちゃんテク」を使ってでも、
勝とうとする。それゆえ、みんなから嫌われる。
ぴかぁ〜に「議論」は不可能。
彼は、2ちゃんには向いてない。
ブログで一方的に自説を押し付ける方が性に合っている。
97 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 11:00:03 0
94さんへ
仰るとおりでしょうね。
仮に、デリダを否定神学と呼ぼうとすると、呼ぶ方のその呼んでいる位置が
問題になります。その位置こそが、形而上学ではなかったのかと言う点です。
つまり、形而上学を乗り越えようとしてあがく脱構築的なエクリチュールへの批判が
自分の足場を露わにする事になると言う循環的な矛盾を孕んでいるからです。
この矛盾をデリダはかわそうとしたのですが、その方法がパフォーマティヴ
と言われる後期のデリダだと思います。その文章が、多重なセリーの錯乱と
言うあるいは、比喩・隠喩と言う手法だったと言う事でしょうね。
それから、ぴかぁ〜へ。了解しました。君も頑張って下さい。
2ちゃんは皆の広場ですので、仲良く、難解な哲学の理解を進めましょう。
今後についての方針。
時間の関係もあり、全読は不可能かもしれませんが、当面は前のページから
順番に読んでいこうと思います。特に、個人的に興味のある個所や重要な術語
については、コメントして行こうと考えています。このスタイルは途中で変更
する場合もありますので、よろしく。
98 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 15:21:59 0
ぴかぁ〜って誰のこと?
つーか、所詮人間は意識の外には立てないのだから、いくらデリダやラカンを弄くってみても何ーにも出てきませんよ。w
99 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 16:52:09 0
98
人間は意識以外=無意識の中にもあるのですよ(笑)
もっとも、「立つ」と言う意味が今一不明ですが?
基本的なところが分かっていませんね。
また、意識の部分でも、どのような意識にいるのかは
個人の自由ですから、哲学をするかどうかは、個人の自由です。
それで、何かできるかどうかは、個人が判断することです。
哲学をする事がすでに何かをしている事ですよ。
それよりも、そのように哲学(デリダ・ラカン)に興味がないならば
このようなレスをしないで、自分がやりたい事をやれば良いでしょう。
ただし、犯罪はいけませんよ。(笑)
それと、98はぴかぁ〜の横やりではないかと言う気もしますね。
この様レスはそのほかの人はしないでしょう。
もう自分のスレッドに戻りましょうね。
良い子だから。
100 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 23:03:54 0
途中、ぴかぁ〜との、話で、中断しましたが、焦らずにゆっくりと続けましょう。
そこで、前回説明の途中で中断した「痕跡」の解釈についてですが、フロッピーディスクの初期化
がそれであると言う説明は我ながら非常に的を得ている気がしています。
最初に、記録する文字(深層では機械語の様なものが初期化として書かれるおでしょう?)
を認識するように原書き込みをする事は原エクリチュールの暴力にも当たります。
この書き込み=原抑圧(傷の痕跡)によって、われわれ人間も、言葉の世界に
入れるようになりなります。そして、少し発展的に考えると、この初期化
とは、フレーミングとの関連もあるのではと思われます。
例えば、初期化されていないフロッピーは機能不全ですね。
一方、人間が、原抑圧を受けない場合には、エスが方向性を失い、
局所的な自我の無政府状態になるとドゥルーズが述べている通り
フレーミングがない状態になるのですね。つまり、深層の状況です。
ここではセリー組織されない状況です。
つまり、なにが地であり、なにが図であるのかと言う事が不明になるのです。
こう言う状況は、まさに、初期化の有無との類似性があるのではないか
と言うのが私の考えです。
また、デリダの言う「反復可能性」とは、コンテクストを離れて
同じエクリチュールが接木される事を指しています。
101 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 23:16:29 0
99
>人間は意識以外=無意識の中にもあるのですよ(笑)
無意識の中を誰が見たの?w
>この様レスはそのほかの人はしないでしょう。
ずいぶん思い込みの激しい人のようですね。
人間の推論能力(思考システム)なんてせいぜいこんなものですよ。
102 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 23:29:08 0
そこで25Pですが、ここで、散種の時間性について、「決して現前したことのない、
そして今後も決して現前することのない『過去』」と70年代までのデリダは表現している
と東は引用する。そしてデリダはこの特殊な過去を「痕跡」とも名指していたとする。
このフレーズによって、私のフロッピーの初期化を使った比喩がほぼ正しいのではないか
と判断できますね。つまり、傷をつけられた過去は「記憶=象徴界」以前の時期であり
記憶にない過去であり、決して現前したり記憶にさえ残りえない記憶であり、
スティグマなのでしょうね。そしてこの様な過去は「現在・過去・未来」と言う
概念では記述することはできないと言う事です。
そして、70年代半ばから、この「痕跡」と同じ効果を「幽霊」「郵便」と言う
術語に託すようになるとの事ですね。
103 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 23:38:40 0
101
それでは、君は意識する事以外にないのであれば、君は今日何回息をしたか
覚えていますか。今日何歩歩いたか言えますか。
それは、意識に上らないが、事実として行為しているのではないでしょうか?
もっとも、哲学的な絡みは全然ありませんので、答える必要もなさそうですけどね。
ところで、君はどのような哲学を研究しているのでしょうか?
それとも、社会に不満でも・・・・?
「人間の推論能力がこんなもの?」ってどんなものか明記できますか?
君の文章には哲学を見下すほどの論理展開は無理のようですね。
フロイトの無意識でも勉強てはどうでしょうか?(夢判断)
104 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 23:48:40 0
もしそれでも、君が論理的な展開に不信を持つのであれば、
自分のスレッドを立てて、持論を展開すべきでしょうね。
私との絡みもないでしょう。
それではお幸せにね?
と言う事で、今日は、雑談で中断となりました。
再度:101君へ 君も本を読んで持論を論理的に展開できるようにして下さい。
人間の推論能力云々するには、人間が推論したものの多くに接し、考察し
どこが、どの様に足りないのかを自分で考え、そして、君の意見を
建設的に述べるのでない限り、それは愚痴か虚勢に過ぎないと思われますが。
少し手厳しかったかな。まあ、がんばって生きることだね。
よい週末をね!!!!????
105 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 05:53:03 O
愚痴でも虚勢でもなく憐れみです 笑
なんという思慮の無さ 笑
106 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 08:28:52 0
そこで再度読み直しをしましょう。
つまり、多義性は弁証法によって、唯一の真理へと結集すると述べる。
無限の翻訳行為も、理念的にはいつか数えあ上げられるとする。(完了する)
次にこの多義性は複数のコンテクストを持つ、「構造」によって、重層的に決定されている
とする。この構造の下では、過去への回帰になる。そして、ある未来の時点で、この参照先
が確定されると言う事で、最終的には、意味が唯一の元に置かれる。そしてこの事は、
過去−現在−未来と言う流れが一直線になり、さらに過去と未来がつながれると言う
「弁証法」になるとする。
ここに、多義性と言う散種以外の構造はすべて弁証法へ回収される事になる。
25P:そして、既に説明の通り、「痕跡」・「幽霊」・「郵便」と言うタームで
散種を表現した。
107 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 09:05:00 0
26P:そこから、問題にするべきは、多様性の抑圧ではなく、もともと
なかった多様性を事後的にあったかのように見なされてしまう現象、
つまり、散種の多義性であると言う。(形而上学的転倒)
この辺は十分注意して読む必要があるでしょうね。
と言うのも、24Pでは「エクリチュールの単数性が、散種的複数性に対して
理論的に先行している。」と言っている訳で、この文章と今回の
「多様性が事後的にあったかのように見なされる・・」と言う
視点が非常に類似しているからです。
そしてこの後に、東は形而上学的転倒は多様性を抑圧するのではなく、
捏造すると言い、この認識は共同体の生成原理、コミュニケーションの
問題との関連を指摘する。この辺が微妙ですね。一つ間違えば
エクリチュールの単数性と事後的に見出せる散種的複数性と同じではないだろうか?
と考えられるからですが。
そして、ここが散種の批判ではとの誤解を招くきらいもある。
しかし、その先で、解釈学的循環論によって、テクストの多様な読みも
実は、多様な読解の実行者自身が、すでに、社会の一員としての、ある多様な読み方に
先験的に毒されており、それを表現している、つまり、前もって予告されている
読みに過ぎず、自らの鏡像(社会を自分が照らしていると同時に、自分が
社会に照らされていることかな?)をテクストに投射したものに過ぎない
と考えているのだ。
108 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 09:17:11 0
「解釈学的循環」ガダマーを参照しているが、この辺の解釈については
各自参照願いますが、この部分を読むと、おそらく、個人は全く他者としての
視点を持ちえず、生まれてきた社会・歴史的背景によって、視点の幅が
決まっており、解釈とは共同体の視点の範囲内であり、つまり、先ほど言ったように
解釈の多様性とは、自分の鏡像を社会=共同体に見出すしかない、つまり、
その行為であり、社会=共同体の一員である事の確認に過ぎないとしている。
また、だから、コミュニケーションの可能性が見出せるとするのでしょう。
この様な事が、形而上学的転倒が多様性を捏造すると言う意味でしょうね。
そして、こうして、見せかけの多様性は、デリダによって批判される。
「他者」の視点がないという点で批判されると言う事ですね。
109 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 12:07:38 0
類似してはいるが、1)先行するエクリチュールの単数性と事後的に記号に宿る散種的複数性
と言う事と2)もともとなかったが事後的に多様性があったかのように見なされる現象(散種の多義性化)
とは全く違うパースペクティヴにあると言う事です。2)は解釈学的循環によって説明される。
自己の社会歴史的背景によって、なされる間主観的、ある程度選択されたコンテクストに裏打ちされたものであり、
一方の散種は任意のコンテクストからの切断である以上、他者性を帯びている
と言う事でしょう。
そこで、27Pにジャン=リュック・ナンシーは、この解釈学的共同体の閉鎖性
(解釈が一定の歴史・間主観的な参照によってなされること)を批判し
彼は、分有(何ものかが分割されつつ共有される状態)を解釈共同体に当てて批判する。
また、一つの声が、誰にも唯一の物として奪われないで、また、理解もされないまま、
伝達する連鎖を解釈学的共同体として批判的にとらえているのだと言う事だ。
そして、これが、東の言うエクリチュールの引用性と同じだと言っているのだ。
つまり、エクリチュールの引用性は、ここで、批判的に、解釈学的共同体の
要素となると言う事だ。
ずいぶん読みにくい文章ですな
推敲してますか?
111 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 12:25:45 0
批判的に「ジョイス研究者」と言われる集団がエクリチュール=表層だけを
分有し、背後に多義性を見出そうとした時、(転倒)解釈学的循環によって
意味深層を共有する解釈学的共同体へと組織されると言う事である。
他者は消え、解釈はコミュニケーションについての思考を終わらせると言っている。
コミュニケーションについては、26P真ん中あたりに、「主体があらかじめテクストに
読みを投入する循環構造(解釈学的循環)を通じてこそ、その特定のテクストを介した
主体間コミュニケーションが可能になり、最終的には「共同体」が生成する・・」
とあるので、ここについては、他者性が消えて、コミュニケーションが
保証される事で、これ以上コミュニケーションの可能性の是非と言う問題は
終息させられると言う意味だろう思いますね。
112 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 12:35:30 0
110さんへ。
私はあくまで東の郵便的の本の文章を極力そのまま使用していますので、
誤解の余地がないようにしていますが?
勿論この様な2ちゃんねるでは論文の発表ではありませんから、
推敲などしてはいませんが、この本を最初から読めば、理解できるように
書いていますよ。
また、深く理解するには、郵便的だけ読んでも分からんでしょうね。
事前にある程度の知識が必要かも知れません。
私も勿論この本一冊だけで理解し、纏めようとはしてはいませんよ。
少なくともざっと100冊くらい読まないと、ポストモダンの思想は
分からないでしょうね。
114 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 12:39:44 0
それから、ちょっと出ます。
110さんへ、分からない点は、質問をして下さい。
分かる範囲で答えますよ。解らない場合には、一緒に調べましょう。
よろしく。おれではまた。
115 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 14:14:19 0
>>112 原典読めよ。それからポモ以前の古典も読めw
あとラノベも読め、ギャルゲをやれ
117 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 19:02:50 0
そこで、28Pに入る前に、27Pの注意書き(34)で、ナンシーにつての
「分有」の概念を、共同性の欠如を否定的共同性へと反転させる装置として
使っていることを批判的にとらえている点は、もちろん否定神学的共同性
を批判していることですね。
それと、27Pの「一つの同じ声が、誰にも固有のものとして奪われないまま、
また理解もされないまま、伝達だけされてく連鎖の状況・・」と言ってナンシーの
「分有」を説明しているが、東の「動物化するポストモダン」講談社現代新書
の101Pに書いてある、コジェーヴ・ジジェクの言うスノビズムとシニシズムの
形式主義についての説と酷似している気がします。参考まで。
後はPM9:00以降にカキコです。
118 :
考える名無しさん:2008/03/29(土) 23:36:58 0
いや、テレビを見ていて遅くなったかな?
そこで、本日最後のレスですが、「動物化するポストモダン」で、
コジェーヴは、ヘーゲル的な歴史が終焉した後、二つの様式しか残され
ていないとして、一つはアメリカ的な豊穣な消費社会(動物的)と
もう一つが日本的なスノビズムと東は述べている。
そして、スノビズムをジジェクはシニシズムと呼び変えて、スターリニズム
のイデオロギーを誰も信じていないにもかかわらず、いかなる代償を
払ってでも、見かけを維持すると言う(大文字のAとしての)在り方を示している。
この東の論点と、郵便的での解釈学的共同体批判のところのナンシーの引用部分が
酷似していると言う事です。一方は内容が理解されないまま、また他方は
だれも信用しないまま、伝播するものが共同体を作る要素となる事の背景に
なにがあるのか再考する必要があるだろう。いったいどうして、信じないもの
や解らないものが中心にあって、組織化と言う作業を行いうるのか?
新たな問題点でもあるだろう。
119 :
パレルゴン二世:2008/03/29(土) 23:51:53 0
HNが消失中です。
そこで、回復しましたので、28Pの2の前のパラグラフで締めましょうか。
つまり、解釈学的循環を通じ構築された意味=深層を共有する共同体は
他者性の抹消によって、創られている。
一方、散種=痕跡としての思考は、絶対的な他者を共同体から救い出すと言う
ものであり、絶対に相容れるものではない事が判明する。
そしてこの他者の在り方を基礎にして、80年代に入ると、政治的な発言を
進めるようになるとしている。
明日は28Pの2からの考察です。
明日も休みですね。桜も咲いたし、がんばりましょうね。
120 :
考える名無しさん:2008/03/30(日) 01:02:55 0
スノッブはポモしか読まないからな。
121 :
パレルゴン二世:2008/03/30(日) 10:27:30 0
おはです。
それにしても、ヘーゲル的な歴史の終焉が到来したのは何によって証明されたのでしょうか?
例えば、消費社会が到来し、医療技術医療制度が充実し、食うために働くと言う
視点が消滅し、好きな人生を各人が探して、好きなように生きれる社会の到来?
あるいは、商品が以前の様な技術の発展によって、その使用価値によって評価される
時代から、他者の欲望への欲望やアドリブによって、従来の物に対する優越的差異によって
到来したと言えるのだろうか?いやはや不明である。本当に歴史が終焉したのであるならば
従来の歴史と言われるものは、無意味な差異と言われるしかない様でもある。
しかし、あまりにも有名な「開かれ」においてジョルジョ・アガンベンは
ヘーゲルの歴史の終焉に関して、コジェーヴとバタイユの意見を明記している。
その中で前者が、歴史の終焉で否定のなくなった人間が「動物化」すると言い
後者がそれでも「用途なき否定性」が残るとしたと言っている。
この用途なき否定性が(無意味な差異)としての現代消費社会のあり方に符合する
と言う事も出来そうである。そして、バタイユは歴史の終焉後についてこう述べる。
「・・・私の生―あるいはむしろ、その流産、私の生である開いた傷口―はそれ自体で、
閉じたヘーゲル体系への反駁となっているのです。」開かれ17P参照。
つまり、歴史の終焉後にあるとする「用途なき否定性」は彼の師であるコジェヴ
の言う「動物として生きる人間」ではなく、無限の差異として、生きて行く事
を表明したと言う事になる。
122 :
パレルゴン二世:2008/03/30(日) 10:52:17 0
しかしである。そのあとアガンベが述べる歴史後の人間の在り方についての
バタイユの見解は「歴史の終焉はエロティシズム、哄笑、死を前にしての歓喜
といった形式のなかでの「残余」として人間の否定性が保存される・・・」とある。
しかし、この事があまりにも、動物的であることを言い表していること
は否定できだろう。そして、アガンベンはコジェーヴの側に立つ。
それから、東もフーコーの生政治を踏まえ「動物化」する世界を表現したのである。
しかし、バタイユの言う「開いた傷口」が実は原抑圧で開いた「空無」と
類似概念であることは否定できないであろう。この空無から痕跡へ参照
するデリダ、また、現存在が根源への参照を繰り返すハイデガーはともに
ヘーゲル後の世界にいることになる。
だとすれは、この「開かれた無」とは、現実世界がそれを認識する人間の側の決定に
委ねられたと言う事の証であり、よって、過去への参照(根源学的・系譜学的に辿る事)が
求められたのであり、それも再帰的に求められ、脱構築(デリダ)存在論的差異(ハイデガー)
の術語に結集したのであろう。
123 :
パレルゴン二世:2008/03/30(日) 11:00:20 0
歴史の終焉はヘーゲルの言う弁証法的否定(発展)の終焉
であると同時に、原抑圧によって否定された人間の終焉でもあると言う事。
この事がファロス中心主義の崩壊(現前の哲学の崩壊)とその反動としての
主体の多様化・意味の多様化をもたらし、商品の無意味な差異化をもたらした
とも言えるだろう。
あほか。初期資本主義とデモクラシーの勃興の理屈(後付け)がヘーゲル哲学で、
高度資本主義と大衆社会化の理屈(後付け)がポストモダニズムだっつーの。
原因と結果が逆なんだよ。
125 :
パレルゴン二世:2008/03/30(日) 12:57:37 0
124(あほかさんへ)論理を吐くまえに、言葉を練習しましようね。
この様にいきなり、「あほ」と言う前に、論理的に応答する事や態度
を学ぶ必要があるでしょうね。
そのような感情論はさて置き、鮮明ではありませんが文脈からして、
初期資本主義・デモクラシーの勃興の説明が、ヘーゲルの哲学の背景にあり
高度資本主義・大衆文化がポストモダンとなって現れたと言う事が言いたいのだろか?
不明ですね?この「理屈(後付け)」の意味がよく分かりませんね。
もし私の解釈したとおりならば、私が121から123で述べた事とは視点が
大きく異なりますので、反論とは言えないでしょうね。
私の論旨はあくまでヘーゲルの歴史の終焉とはどの時点をあるいはどの事を
指しているのか、そのメルクマールはあるのかとの問いから展開して
歴史の終焉後の動物化と用途なき否定と言うとらえ方を比較しているだけですよ。
最もそれだけの読みが出来ないから、的外れな短い文章での感情的な文章になっている
のでしょうね。
126 :
パレルゴン二世:2008/03/30(日) 13:12:25 0
勿論、一般論として、フクヤマの言うような、リベラルな民主主義と資本主義
が世界を席巻し、それ以上の社会制度の発展を期すべくもなく、平和と自由
と安全が無限に続く事を、「歴史の終焉」と言っているのだが、
現状(イラクやアフリカ諸国の内戦)を見ればわかるとおり、暴力による内乱や
侵略は終焉してはいないし、否定性としての歴史が消滅したとは言えないだろう
ことは明白であり、よって、私は、再度、歴史は何時終焉したのかと問題意識を投げかけて
いるのだと言う事ですよ。再度ヘーゲルの絶対知の地点を推し量る必要性
を述べたのです。
以後、くだらぬと思われる反論や誹謗・中傷は無視して先を進めますので
ご理解下さい。もっとも、
それでは、本文へ戻りますね。
127 :
パレルゴン二世:2008/03/30(日) 14:15:21 0
28pの最初のパラグラフで脱構築は常に「転倒」を暴露する。このモチーフは
ニーチェの系譜学から継承されたものだと言う言葉で 2 に引き継がれる事になる。
そこで、2で後期のデリダの問題意識へ近づくために、デリダの最初の著書
フッサールの著した「幾何学の起源」の序説を考察する。
デリダが何故この論文に注目したか、それは、フッサールが幾何学の発見者の
歴史的な事実を述べているのではなく、権利の問題(非歴史的・現実的対象
としての定理そのもの)として研究しているからだと言っている。つまり、
特定の時期に特定の数学者が発見したものとしての定理ではなく、
理念としての定理を考察していること。したがって、ピタゴラス以前にも
その定理は存在していたし、他の誰でも発見しえたとしている。
しかし、「幾何学の起源」でのフッサールは、この歴史的視点と非歴史的な事実のみ
を捉える視点(事実問題と権利問題)との区別を無効にするように、理念的対象の
「起源」「原創設」について論じる。そして何時誰によって発見されても良かった
「三平方の定理」の理念性」はいつか誰かに発見されなければならないと考える様になる。
つまり、理念(ある定理)は非歴史的事実であるが(何時でも誰に発見されても問題はない
事実性であると言う事でしょう。)しかし、その発見の歴史的背景も無視しない
と言う相矛盾視点を含んだ問題設定をフッサールはあえてしていると言う事。
そしてこの事が、事実と権利、現実と理念、経験的なものと超越論的なものの間を
問うているのだとしている様です。
私見ですが、分かりやすく一言で言えば、定理その物のの検証とその発見者を含む歴史
とその背景と言う相矛盾する2つの分析方法を、共に両立させている点で、西洋哲学の
根本的な問題を問うているのだと言う事だ。あるいは飛躍すれば、現前するものの科学的な
考察か、考察する基準がどのようにして出来上がったのかを歴史的にトレースする事の様な
違いがあるでしょうね。後者は定理のメタの位置です。
128 :
パレルゴン二世:2008/03/30(日) 14:57:41 0
127の説明で再度確認しますが、
権利の視点:
1)定理そのものを考える。
2)非歴史的
3)理念的対象
4)非事実性(歴史的事実とは関係がない)
事実の視点:
1)歴史的
2)事実・現実
3)経験的
少し分かりにくい表現でありましたので、再度語彙をまとめました。
参考まで。(特に事実と言う概念の使用が、歴史性の特徴として使用される
べきですが、一部権利の表現に使われているところを訂正して理解ください。)
今日はこれまでにします。後は閲覧閲覧です。ぴあぁ〜がんばってるね。
純一もスレッド立てたらどうですか。
ところで、私も、しろうととポールが気になっているんですが?
どこ行ったのだろうな?
129 :
パレルゴン二世:2008/03/31(月) 09:13:42 0
フッサールは非歴史的(理念)なものの歴史的産出について、第一発見者の中に宿り
それが「文書」の形で蓄積され、伝承されるので、受け取った者がこの理念を明証的に
再生・蘇生する事が出来ると考えているのである。解りやすく言えば、記録されたもの
の中にある、理念的なものを再生する事で、蘇生させ、この記録を通じて
発見者が発見した瞬間へ、ワープする事で、追体験(再びその誕生を生きる)
する事だと言っているようですね。だから、非歴史性(理念)は歴史的
遡行によって根拠ずけられると東は説明する。
このトレースによって、「三平方の定理」は誤配を免れ、ピタゴラスが歴史的な
事実として、この定理を発見した事が保証される事になる。
常に、たえず歴史的事実に遡行する事によって、理念対象の非歴史性が保証されるって事ですね。
130 :
パレルゴン二世:2008/03/31(月) 09:38:59 0
この様な、歴史が支えるその非歴史性を「歴史的アプリオリ」と
フッサールは名付けているとの事です。
つまり、先験的(検討の余地のない事実として)歴史的に理念性を支えていると言う事でしょう。
そこで、このフッサールの見方に対して、デリダの反論があるわけですが、
つまり、「一切の事実的認識とは無関係に」、1)「三平方の定理」が発見された
事の必然性と2)ピタゴラスによって発見されたことの必然性を区別する。
この区別が出来ないのは、フッサールが「この幾何学が私の手に渡るよりも
前には、私は幾何学の起源の必然的意味や必然性を定義する事ができない」と
定められるからとしている。そのあとで東は「三平方の定理」の非歴史的
理念性を得たのはピタゴラスの発見の後であり、よって、ピタゴラスが発見しなかった
かも知れないと仮定する事は意味がない事になってしまうとの事である。
131 :
パレルゴン二世:2008/03/31(月) 10:00:06 0
このフッサールの視点に対して、デリダはどのように反論したがが、
以降に書かれているわけです。
つまり、31Pに『「三平方の定理」の非歴史性=理念性を得たのは、まさに
ピタゴラスが発見した後であり、・・・・』と言う文章がありますが、この
文章の中の「〜後で」に着目し、これをデリダは条件法の排除(〜でなければならない。)
と名付け、この事が歴史の単一性(唯一性)になっている。つまり、唯一性が要請される
原因であると考えられるのでしょうね。
だから歴史が一つの唯一の歴史だとすれば、「歴史性とは目的へと向かう
一つの言葉の伝達、一つの起源的ロゴス(論理)の純粋な伝承でしかありえない」事になるのです。
そして、この考え方が常識的であり、「歴史の単一性と理念の事後性」を論破するのは
困難に見える。だが、東がこの本を後期デリダを読み込むための布石に
据えた理由は既に東が説明した「パロール・エクリチュール」の隠喩対立を
一般的理解から離れて読むヒントがあるからだと言っているのですね。
132 :
考える名無しさん:2008/03/31(月) 10:07:59 0
でも、この後の説明について、読んでいないので何とも言えませんが、
この様な説明を、散々多様性や多義性やら散種やらの説明をした時点で、
この説明は余りにも初歩的な気もするね。むしろ、最初にやるべきでしょう。
133 :
パレルゴン二世:2008/03/31(月) 10:47:05 0
132私も多少はそう思う面もありますが、後期デリダを読むヒントがある
と言う事でしょうから、この辺は了解の範囲で良いのではないでしょうか?
そこで、フッサールの超越論的歴史(その外部には何もない歴史)の
観念は、歴史の一本道の連鎖を前提にしている(多様性・多義性・誤配のない)
のであり、ピタゴラスの明証性を歴史を遡及して確認できるのは、
遡行の糸が途切れないかからだと東は説明しているのですね。
一本道の絶対に崩壊や寄り道迷い道のない過去との繋がりが前提になっている
と言う事です。
ここまで来ればデリダの反論の道筋は明確です。
つまり、エクリチュール(文献・文章)は発信者=書き手の手を離れたとたんに
現前主体の統御を離れると東が言うように、ここまで読んできたわれわれは既に
十分な知識を学んでいます。
だから、ピタゴラスへの問い返しは伝承のもつれ合いの中で、行方不明=誤配される
誤配される可能性があると言う事です。
デリダはこの点をフッサールが考えなかった事を批判すると言う事でしょうね。
このデリダのフッサールの「幾何学の起源」の「序説」を読む事で
前期デリダのエクリチュールとコミュニケーションの失敗の可能性(引用可能性)
のモチーフを、フッサールの超越論的歴史の単数性を批判的に捉えると為の
布石とし、超越論的歴史の複数性を思考するために導入されたものとして捉えないおす
事が出来ると東は考えているのでしょうね。(34P第一パラグラフまで
本日の説明はここまでにします。)
後は、今私が読んでいるでいるところの確認をしたいと思います。
よろしく。
134 :
剛田 武 :2008/03/31(月) 12:01:04 0
人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。
しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。
・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。
人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から
分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。
勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。
分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。
「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は
全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に
すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。
『意識』は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です。
「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により
決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。
量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。
以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る
『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。
135 :
パレルゴン二世:2008/03/31(月) 21:57:21 0
剛田さんへ
カキコありがとう。
「決定論:脳は物質に過ぎない・・・・」からの出張ですかね。
以前僕も、そちらのスレッドにお邪魔して、レスしましたが、
その時の私の唯物論への反論は、すべてが物質で出来ていて、すべてが予測可能
とするという意見は結局脳と言う物質が判断しているのですね。(物質が物質の意見を述べていること。)
つまり、『俺は偉い』と言う場合、『俺』の言う事の真偽は確定不能ではないかと言う事でした。
これと同じ例で「クレタ人はうそつきだとクレタ人が言った。」この文章も
同じく証明不可能です。また「この文章は偽りだ。」も真偽決定不能ですね。
これらは全てが自己言及性の罠と言っても良いでしょうね。
つまり、メタレヴェルでの証明が必要なのに、同レヴェルでメタを証明しようとしている
から、不可能なのですね。
その時、誰からも、納得のいく答えを得られませんでしたので、私は「決定論・・・・」
のスレッドにお別れしたのです。
それでも、すべての哲板参加者はそれぞれの分野でガンバてほしいです。
136 :
パレルゴン二世:2008/03/31(月) 22:32:14 0
34Pで、デリダが「記号の恣意性の観念そのものが『・・・』エクリチュール
の可能性の前で、また、その地平の外では思考できない」と述べていること
で、ソシュール批判をしているとの事である。
この視点については、あまり検討を加えた事がないので、詳細な検討は
控えますが、シニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(その概念)について
通常、ポストモダンを理解する場合に、その恣意性の(例えば犬と言う発音や
画像が犬の概念につながる事の恣意性)ソシュールによる証明で十分だと考えるが、
東はさらに、デリダのソシュールへの批判の立場からこの恣意性の証明不可能性
を示そうしている。
簡単に言えば、この恣意性は一カ国語の世界では証明できない。つまり、犬に対っする
各国の言葉があるが、それぞれ異なる発音をする。
この事が分かって初めて証明できるのだと言う。
概念(シニフィエ)は同じ(?)かも知れないが、それぞれの国語に属する者には、同じ意味の
他国の言葉がある事すら分からない。だから、証明は不可能と言う事の様である。
だから、この異なるシニフィアン「犬」が同じシニフィエである事が証明不可能であるので
今度は異なる言葉がある事も証明できないようになると言う事だろうかね?
137 :
パレルゴン二世:2008/03/31(月) 22:49:42 0
いや、ここまで来ると、何とかA=Bの呪縛(現前性の呪縛)から
いかに逃れようかと、異常にあがいてるデリダがいる気もしてくるでしょう。
例えば、先ほどの言語の恣意性について、あくまで私見ですが、
一カ国語だけしか理解出来ない場合でも、犬と言う概念がどうして
「いぬ」と発音されるのかと考える時、語源学的に過去にトレース
すれば、「なあんだそうだったのか。それでは異なる発音になることだってあったな」
と思えるのではないでしょうかね?
でも、とりあえずは東の見るデリダを追跡しましょう。
ただし、理解しずらい箇所は逆に簡単に纏めようと思いますので、
詳しい方は是非協力下さい。
それでは、また明日
次に述べるテーマ「同じ」と「同一性」については、説明が不十分なのか、
かなり難解な気もしますので、簡単に纏めて行きましょうかね。
この部分を飛ばしてもそれほどデリダの理解に問題はなさそうですね。
それでは、またあした。
138 :
考える名無しさん:2008/03/31(月) 23:46:30 0
ずいぶんヒマそうですね♪
139 :
考える名無しさん:2008/04/01(火) 01:37:35 0
54
>つまり、エクリチュールは絶えずあるコンテクストから
>切断され、漂流する、そして、別のコンテクストに接木される、だから、常に
>複数のコンテクスト、複数の解釈レヴェルに属している。
つーか、コンテクストといってもテクスト(orエクリチュール)内コンテクストかテクスト(orエクリチュール)外コンテクストか解りませんね。
また自演か・・・
どこが?
142 :
パレルゴン二世:2008/04/02(水) 10:12:29 0
139さんへ
まずエクリチュール(記述言語)があり、この言語表現が色々な
場所で使われる、この背景をコンテクストと言う表現で表しているわけです。
そして、この新たな状況(背景)で使われる同じ書き言葉(同じもの)は
異なる意味を表現する事になると言う事ですので、あるテクストないであるか
他のテクスト内であるかは問題にはならないと思います。
すべてのエクリチュールは反復可能性として、異なるコンテクストに
接木され、複数化する(散種)のでしょうね。
143 :
パレルゴン二世:2008/04/02(水) 10:30:37 0
ニュアンスとしては、反復可能性が、エクリチュールの特徴ですね。
つまり、分かりやすく言えば「犬」はある固有の犬だけを指し示すのではなく、
あらゆる犬を指しています。だからこの「犬」と言う言葉は、いろんなところで
色んな時に使われますね。これが反復可能性の事で、しかし、同じ犬を
指していないことが、コンテクストの差ですね。ここ点を、デリダは
「単数の同じもの(言葉)が、複数の同一性(コンテクスト)をもたらす。」
と言っている様ですね。この事を、24Pの4行目にあるように「エクリチュールの
単数性こそが、記号に宿る散種の複数性に対し理論的に先行している。」
と表現していますね。つまり、ある一つのエクリチュールが先にあり
そのあとにコンテクストによる複数性が生じると言う事が散種だとするのでしょう。
144 :
パレルゴン二世:2008/04/02(水) 10:49:23 0
つまり、1)「同一性」は同じコンテクストにある事を示している。
2)「同じもの性」(同じものとも言っている)はエクリチュール
の反復可能性を示している。
以上から、
1)単数の同じものが、複数の「同一性」にあることを散種と言う。
2)複数の「同一性」の集まりとして与えられるのが多義性と言う。
多義性は直線的な時間であり、コンテクストの存在を記号の単数性(エクリチュール)
より前の時間に想定しているのだそうであります。
つまり、端折ると、散種はエクリチュールがあり、のちに、複数のコンテクストが
見出されるが、多義性は逆で、複数のコンテクストの存在を先に設定しているのだと言う事でしょね。
そこで、強引な私見的結論ですが、散種ではコンテクストが時間的に後に
見出せるので、時間的に先にあるエクリチュールの運動がコンテクストを増幅している
と言う風にとられるが、多義性では、逆に、複数のコンテクストが
多義性を位置づけるのであるから、これは既にあるコンテクスト
が、多義性を静態的に決めると言う構造主義的なものとなる。
もちろん散種は差延の運動になりうる。(構造の脱構築と言う
ポスト構造主義的となる。)こんな感じでしょうかね。
145 :
パレルゴン二世:2008/04/02(水) 20:06:05 0
ただ今、第四章を読んでいます。
ここまで来て、自分の学習を優先しようかなと思っていますが、
確かに、亀井さんの言うように、盛りだくさんで、切り口が変わり過ぎる
気がしますね。でも、いろんな方向からの検討は、最高に脳を刺激しますよ。
適当に、柄谷なんかもレスしてみたいですね。たとえば「探究T」とか。
この辺は以前ざっと目を通していますが、逆に東を読んだあとの方が
面白い気がします。東は柄谷のどの部分を引き継いだのか分かるかも
知れません。
146 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 22:12:46 0
142
コンテクストといっても、エクリチュール内やエクリチュール間のコンテクストだけではなく、発話行為(パロール)そのものにコンテクストが必要なのだから、エクリチュールを強調する意味が、腑に落ちないのです。
『言語的思考へ--脱構築と現象学』(竹田青嗣)読みましたか?
「存在論的、郵便的」がとりあげられていて面白いですよ。
147 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 23:38:47 0
146さんへ
仰るとおり、「発話行為」の辺のところについて、東も書いています。
発話者の現前があっても、パロールのコンテクストによる意味の複数性の可能性は
彼も否定してはいない様ですよ。
私も、このスレッドにその辺について書いています。
読書のアドヴァイスありがとうございます。
当面、東の「存在論的、郵便的」を熟読してから、次に何を読むか
決めようと思っています。柄谷なんかも面白そうですね。
大澤の「ナショナリズムの由来」あるいはアガンベンの「開かれ」
再読も面白い気がしています。特に東の動物的へのシフトが分析できそうですので。
148 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 23:43:58 0
>>143 あほらし、「犬」は個別の犬を指していないよ。
個別の犬は「シロ」とか「あの犬」(指さし的に)とかだろ。
149 :
考える名無しさん:2008/04/02(水) 23:54:23 0
「犬」は普通「犬一般」を指している。
the dog と a dog
151 :
パレルゴン二世:2008/04/04(金) 23:23:17 0
第四章を読んでいますが、さすが東ですね。
今までの3章とは、切れが違う気がします。
ここを十分に理解すれば、ポストモダンに対する東の考えが
全てわかる気がしますね。
読破したら、第4章については、感想をのべます。
今考えれば、全ての章が、批評空間に掲載され、それも、かなりの時間間隔が
ありますね。
第1章1994年、第二章1995年、第三章1996年、第四章1997年・1998年(二回に分載)
てことは、この間4年間をほぼ存在論と郵便論の研究に費やしたことになりますね。
そして、東にとってこの本が唯一の哲学書と言われるものだとしたら、
東哲学は、この本を理解できたら、すべて分かった事になると言う事ですね。
それでも、その後のポストモダニズム的な動物化論への視点の類似性は残っている
でしょうが?
152 :
パレルゴン二世:2008/04/04(金) 23:34:02 0
いずれにしても、目から鱗的に、第四章はハイデガー・フロイトを
分析しながら進んで行くのでしょうが、すごい気がします。
再読ですが、最初に読んだときには、この凄さが分からなかったようです。
今回は感動をもって熟読して行きたいと思います。
それぞれの章でその時点での自分の力量・興味にそって、書いてあり、
最終章で、彼は一気にグレードアップした知識で、難解な問題点を
明快に分析している。これはすごいな〜と言う感動です。
だたし、途中経過です。(244Pまでの)
>最終章で、彼は一気にグレードアップした知識で、難解な問題点を
明快に分析している。これはすごいな〜と言う感動です。
よく理解できない感動ですが、その後に書かれているのが『言語的思考へ』なんですよ。
デリダの批判対象となっているフッサール派の現象学学者の著者としては、柄谷などの現象学理解の俗流性の示唆とともに、東についても一家言あるようで。w
154 :
パレルゴン二世:2008/04/05(土) 22:09:58 0
153さんへ
竹田青嗣ですか?
彼は純粋なフッサール現象学から出ていますので、恐らく
批評空間派には不満でしょうね。
彼は、小坂・西などと交流していて、説明が非常に分かりやすいし、
現象学的に、構造主義・ポスト構造主義を説明出来るので、
あえて、ポストモダン思想には絡まないんだろうな。
でも、あの真摯な取り組み姿勢は感動ものですよ。
155 :
パレルゴン二世:2008/04/05(土) 22:22:14 0
竹田の「ハイデガー入門」も分かりやすいし、初心者には哲学とは何か
よく分かる気がするね。例えば「哲学入門」なんて解り易く最高でしょ!
とりあえず、竹田から入って、フサール→ハイデガー→フロイト
あとは、分析系(英米系)ウィドゲンシュタインか構造主義かの
選択でしうね。このスレッドではポストモダン系ですので、フロイト
からフーコー・ドゥルーズ・デリダあたりでしょう。
国内では、柄谷・浅田・東の系列に入るのでしょう。
156 :
パレルゴン二世:2008/04/05(土) 22:30:39 0
竹田の「郵便的」に対する反論はどういう点なのでしょうか。
私は竹田のその本を読んでませんが、分かる範囲で教えてくれませんか?
ある意味で、面白いかもしれません。
哲学を始めた頃には、竹田・中沢・浅田を追っかけていましたが、
いまは、竹田・柄谷すら追っていませんので、今後はもう少し
国内を固めようかと思っています。
よかったら知らせください。
157 :
パレルゴン二世:2008/04/05(土) 22:49:24 0
どうかな?
竹田もそうだけど、柄谷にしても、東にしても、日本の哲学者は
往々にして、西洋の学術文書の翻訳・理解に専念しすぎて、
自分の哲学を創り出す事が下手だね。
竹田は着実に自分の哲学を築こうとしているかも知れないし、
柄谷だって、東だって、西洋を見ながら、ある意味自分の見方を
創ろうとはしていると思うが、結局西洋のテクストの解釈の仕方の研究
と言う臭いが強すぎるよね。もっと、世界に通用する哲学者が生まれないものかね?
そう言う意味では東もフッサール・ハイデガー・デリダから何を学んだのか?
ただ、自分なりに関連性を纏めたに過ぎないと言われれば、否定できないだろうな。
おいおいデリダなんてもろに西洋の伝統的な哲学や文学に依ってるじゃないかよ
そうでもないと思うけどな。東洋の哲学を継承しようとする流れはあると思うよ。
でも垣根が高すぎて、それらが同一視されず、まったく別物として扱われてしまうから、
もういいや、ここで送信
160 :
パレルゴン二世:2008/04/05(土) 23:22:15 0
確かに、デリダはハイデガー・フッサール・フロイトなどの西洋的な
哲学者を解釈して、自分の脱構築・差延など考えを創ったけども、
それと比較すると日本の哲学者はほとんどが、その解釈に近い。
つまり、プラスした自分のオリジナリティに欠けるのではないか
と言っているのだよ。何か時代を切り開くような斬新な考えが
出ない。これは、まさに西洋の思想を纏める=紹介する事が
仕事になっていると言う背景があるのではないか?と考える訳だ。
161 :
パレルゴン二世:2008/04/05(土) 23:30:31 0
159さん
いや、東洋思想には哲学は存在しないと考えるべきでしょう。
時には、混同されて同じ意味に使われているが、「思想」と「哲学」
根本的に違う。思想は正しいかどうかを討議できない。
頭ごなしの教えと言うニュアンスが強いし、一方の哲学は本質的には
ロジックなので、反証可能性がありますよね。って言うか、極端に言えば
真理とは何かについてのロジックゲームの様なものでしょう。
公開討論会対寺子屋っていう比較。
そういう認識から本気で脱しようともがいたところに脱構築があるんじゃないの?
正しさってまだ必要?意味ある?
ロジックゲームや反証可能性って、なんのためのゲーデル?
163 :
パレルゴン二世:2008/04/06(日) 10:00:43 0
162
たしかに、真理に行きつけない事が、分かったのが、構造主義やポスト構造主義
だったわけですよ。しかし、それでも、西洋の思考パターンと
東洋の教えには雲泥の差がある気がする。どちらが良いと言う問題ではないけど、
本質的に違う。これは真理が必要かどうか、あるかどうかの問題じゃなくて
求めようとするかどうかの差だと思うな。東洋は、真理とは心眼に個々人に悟りとして
見出そうとする。物の世界は空しくはかなく、悟りとは関係がないと言う風に
考えるとすると、古典ロジックの西洋は、外=物質の探究が真理へもたらされる
と考えているようですね。だから、逆に、東洋的な、人間の個体側が世界を見出す
と言う、逆ロジックがニーチェから始まって、複眼的な立場を求めてきたとも言えるね。
古くはカントのアプリオリな哲学ですら、東洋の文献をあさったと言う噂を聞いたことがある。
164 :
パレルゴン二世:2008/04/06(日) 10:15:32 0
つまり、ギリシャからドイツ観念論、特にカントをへてニーチェ・フロイトと言う
流れでみると、「物質世界の成り立ち」の探究から人間の側の認識は
どのように生まれるのかと言う、哲学の立つ位置が変わってきた歴史とも
言えるよね。人間の意識が問題をどう捉えるか。フッサールの現象学だって
ハイデガーの存在論だってほぼこの線ですよ。
ただし、論理実証主義・言語学系(英米系)は、この道ではなく、あくまで
言語の無矛盾性を求めていたり、ポパーの様に反証可能による、あくなき
認識の前進を求めていることになるね。そこで、私のコンテクストからすれば、
言語の無矛盾性に挫折したのがウィトゲンシュタインの「探究」によるゲーム論
なわけです。
165 :
162:2008/04/06(日) 15:10:41 0
>東洋思想には哲学は存在しない
は、明治時代に書かれた教科書的な理解として了承済みおk。
確かに、ニュートン的な世界観と荘子的自然観を比べると、
西洋と東洋の違いというのは言い得る気もするおk。
>真理に行きつけない事が、分かった
真理が実在しようと仮定であろうと、それは東洋にも西洋にも見られるもので、
結局の違いは何?構造?フレームワーク?フォーマット?方法論?
それは比較できないもの?
ウィトゲンシュタインだって、語れるものと語れないものを対峙させた上でのことでしょ?
レヴィ・ストロースは西洋だと思って森林浴に出かけたの?
ロラン・バルトは日本に何を食べに来たの?
そういえば、jewは西洋?東洋?インドって西洋?東洋?
サイードっておいしい?
166 :
162:2008/04/06(日) 15:11:37 0
>>164 は相変わらず美しい整理のされ方ですが、
ギリシャ以前って何?ハイデガーは何を読んでいたの?ニーチェは?フロイトは?フッサールは?
>>163 のカントの件は知らなかったけど、考えられなくもないですね。
ライプニッツはどちらの流れか考えがありませんが中国学ってあるでしょ?
リゾームってイタリア料理?
>竹田もそうだけど、柄谷にしても、東にしても、日本の哲学者は往々にして、西洋の学術文書の翻訳・理解に専念しすぎて
このスレの人達は常に大人で明晰であると思うけど、
西洋と東洋とをわけながら、結局、東洋に立脚して西洋を眺めているに過ぎないのは皮肉?
やはり聞いた話なのですが、ソシュールもデリダも晩年には
表意文字に関心を持ってその生涯を終えたのでは?
何故、続きを考えてみようと思わないの?
バラって漢字で書ける?
百一歩譲って、西洋と東洋が違うものであるとして、
西洋人と東洋人、または、あなたやと頻出の哲学者の間にも
物事を考える時代や環境や地理的な乖離もあるかもしれない。
ただ、そこに乖離があることを認識する、または乖離を想像し埋めるために
エピステーメーって言葉があるわけで、その辺を踏まえてコペルニクス的転回しないの?
共約不可能性ってのもあるけど、集合的無意識とか生成文法って何のため?
167 :
162:2008/04/06(日) 15:12:42 0
それでも、上記が生理的に受け付けないもであるなら、
>西洋の学術文書の翻訳・理解に専念
するならするで、徹底しては?
西洋的な世界観に限定をしても
仮定的な真理を巡って、ニュートンもライプニッツもリーマンも態度が違う。
アインシュタインはニュートン的世界観を脱構築した?
アインシュタインを押し出したのは何?
アインシュタイン/ボーア/ハイゼンベルグ的世界観とニュートン的世界観の差分は?
何がそれを埋めたわけ?もしくは跳躍を許したの?
デリダ/脱構築=デコンストラクシオン >>> ハイデガー/解体=デコンストラクチオン
ですが、
>「歴史的に形成されてきた意味や解釈が作用して我々の態度や意識
>も歴史的に形成されている。そのような全体の中の歴史的な私が
>個別の歴史的な私を越えて、より包括的な歴史生命との一体性を
>自覚する自分の中に沈殿した様々な意味の層を掘り起こし、その
>根源へと遡行して行く作業が根源学である。」
根源学しないの?
>「『いかにあるか』を実証的に、客観主義的に答えようとする
>伝統的な存在論を否定し、つまり、物事の理由、原因、根拠を問うのに、
>事実的な因果を追い求めるのではなく、(近代科学の探究方法)
>意味の関連として問う事だ」
客観主義的に答えることを否定する際には、どういう態度がとられるべきだと思う?
168 :
162:2008/04/06(日) 15:13:37 0
これまでの恣意性や脱構築に関するご説明は
全く刺激的で参考にさせていただきましたが、
それらは、どういう人がどういう時に、どうして、何のために求めたものなの?
フーコーは西洋の外部をどう捉えようとしたの?
脱中心化っていうけど、その中心に中心はあるの?ないの?
西洋において海の向こうに見えるのはエンゲルハンス島?
欧米か!?って欧米でもウケる?
クリステヴァはどこに目をやって、ゲーデルは何を食っていたの?
今日日早くも21世紀なわけですが、
皆さんの時代の曲も結構ナウイ感じですね。^^v
http://jp.youtube.com/watch?v=Ylww2dOW7fg ダイナソーって、ディオニソス?
ジョン・ケージって、ディオニソス的?アポロン的?
ねぇねぇ?うぃうぃ?
156
「多義性や決定不可能性の議論による形而上学解体という動機のうちに
「否定神学」的性格がはらまれているとする東の指摘は注目すべきものだが、
こういったデリダ擁護が妥当かどうかについては後に検討し直すことにしたい。(「言語的思考へ」p,180)」」
「散種はどこからきたか。それは、語そのもののうちにあらかじめ多義性が潜んでいる
というのではない。『散種の効果は、ひとつの同じエクリチュールが複数の異なったコンテクスト
のあいだを移動することにより、つねに事後的に見出される。(略)エクリチュールの単数性こそ
が、記号に宿る散種的複数性に対し論理的に先行しているからだ。(「存在論的 郵便的」p.23-24)』 (「言語的思考へ」p,181-182)」
差し当たり目に付くのは、東のこの記述に対しての反論でしょうか。
(いい線を突いているにしても)デリダの散種(≒意味の還元不可能な多様性)をこのように解釈
するということは、「東の文脈では、デリダにおいてこのコンテクストの多様性=解釈の多様性は、
形而上学における歴史の「捏造」や「共同体」の生成の原理につながり、だからこそエクリチュール
の多義性の秘密を暴くことが重要である、というニュアンスを含んでいる。だが、わたしの考えを
言えば、パロール中心主義もエクリチュールの謎も、ヨーロッパ形而上学や共同体の生成の秘密
といったこととは本質的に無関係である。」
ということのようです。
そういう解釈はフロイディックな物語りだ、と。
竹田の指摘は私には自然で納得のいくものなんですけど。
170 :
パレルゴン二世:2008/04/06(日) 21:57:57 0
詳細な意見です。
169の竹田の意見ですが、どう答えるべきでしょうか。
とりあえず、再度形而上学とは何だと言う点を押さえることが必要でしょうね。
私は、
1)何か一つの真理になる基準を見出し、そこから、ピラミッド式に
全体が体系化される事。よって、デカルトのコギトにしろ、カントの
アプリオリな哲学にしろ、絶対基準があると言う事ですね。
その絶対基準を基礎にして、彼らの全体的な体系が築かれている。
もちろん、宗教もそうでしょう。神の存在を信じ、その基準から
人間の在り方を決定する。(ピラミッド的)つまり、言い換えると
これが、個々人の構造(社会)への共同体的回収と言う事ですね。
2)何かを唯一の意味として語れると考えるか、語る事によって、
言語の多様性を窒息させる事で、排他性が現れる事。
つまり、ある肯定はある否定を必ず隠し持っていると言う事で、これも、
ある一定の方向にのみ、真理を構築しようとしている可能性が認められる。
3)ロジカルに語る事。一つの真理に道を開く。
雑ですが、いま思いついた事を書きました。
この様な私の見方からすると、貴方の見る竹田の東への反論は
有効ではない気がしますが。
私も、その内、竹田の「言語的思考」?を読んでみます。
171 :
パレルゴン二世:2008/04/06(日) 22:15:18 0
つまり、パロールが現前性=顔面性(自分がそこにいる事)として、他者に語りかける
以上、意味の強制が発生しますので、この事が、組織化の道につながる
と考えるのは一般的ではないかと思いますね。
それから、いろんな視点からの意見なので、どれから答えようかな。
西洋と東洋の真理の違いについては、前者が外に求めたのに対し
後者は内に求めたと言う気がします。内とは個々の内であり、決して間主観的に共有される
様なものではないものですね。だから、マニュアルの様なものでは推測できないもの。
つまり、個々人の悟りのようなものでしょうね。
西洋は外物質の世界に真理を求めた、つまり、公理のようなものになるわけです。
そして、この探究はもちろんロジックになり、すべての世界を体系的に解明する
と言う動機になります。
172 :
パレルゴン二世:2008/04/06(日) 22:39:12 0
この東洋と西洋の思考の差は、何に起因しているんでしょうかね?
勿論、構造(コンステラシオン=布置)の違い、言葉の違い、習慣の
違いなどなど、全ての要素の布置の違い=構造の違いでしょうね。
尤もらしい説明としては、気候の違いからくる食生活習慣からも見出せるらしいです。
つまり、西洋の気候は日本の様に温暖ではなくて、大変厳しいかった。
何にもまして、雨が少ないので、農作に不向きだったので、野生の動物を取らなければ
ならなかったので、常に、一人で、殺戮する武器を持って歩き回っていた。だから、その習慣の
名残として、食事のときにも、ナイフとフォークを使うのは、何時でも他者を殺せるようになっているんだ
と言う実しやかな説がありますが、つまり、肉食動物では、自分で取ったもの
は自分で食べると言う習慣になったと言うのです。ここに個人主義の萌芽が認められ、
一方の日本では、温暖な気候が幸いして、集団で農耕する事が自然に始まった。
よって、集団主義が発生したと言うのですが、これは、あくまで日本には
適用出来ても、あなたの言うようにアジアは広い。
だから、この論理を持ってすべてに適用するのは不可能でしょうね。
そこで、日本には真理が物としてではなく、集団的な「和」を基礎にしている
と言う事になるのでしょうね。そして、この「和」が自然との一体感=「和」を追求する
事となり、「悟り」となったってのはどうでしょう?
後半は自作です。(笑)
173 :
パレルゴン二世:2008/04/06(日) 22:59:17 0
171に言う「間主観性」と172に言う集団主義に矛盾ありですね。
どちらが本当なんだ???
共同作業を西洋の哲学用語で言う「間主観」ではないと言う事ですりぬけます。(笑)
答えるべく項目がたくさんありますので、今日中には終わりません。
宜しく。
次にウィットゲンシュタインですが、「論考」では、語りつくそうとして、
語れないものを発見したので、語ってはいけないと言う言葉になったと私は解しています。
つまり、発話行為の問題点と一緒のはずです。よって、コンテクストの多様性を
認める意味から、「探究」の言語ゲーム論になったのでしょう。
だから、対峙ではなく、仕方なくと言う事です。この辺については
彼が師事したラッセルを読めば判明すると思います。
ラッセルはこの辺をクラス理論で何とか解こうとしていますね。
つまり、この辺の問題を東の言葉で言えばオブジェクトレヴェルと
メタレヴェルの混同を解こうしてると言う事です。
174 :
考える名無しさん:2008/04/06(日) 23:02:35 0
170
>つまり、ある肯定はある否定を必ず隠し持っていると言う事で、これも、
>ある一定の方向にのみ、真理を構築しようとしている可能性が認められる。
つまり、ある否定はある否定を必ず隠し持っていると言う事で、これも、
ある一定の方向にのみ、真理を構築しようとしている可能性が認められる。
肯定も否定も論理構造的には対等な関係ではないかという気がします。
>ロジカルに語る事。一つの真理に道を開く。
デリダも反批判は限りなくロジカルだったという噂がありますね。
175 :
パレルゴン二世:2008/04/06(日) 23:09:12 0
そこで、本日最後のレスにさせてもらいます。
つまり、詩的言語革命?ラップ?言語の浮遊?
コンテクストの散乱?
そう、あなたの詩的言語は、読む者を魅了します。
つまり、散種・脱構築の実践でしょう。
そしてその先に、ジュリア・クリステヴァが見えます。
イヤ、バルトでしょうか?テクストの快楽?零度のエクリチュール?
バフチンの「カーニバル」やはり「ジェノテキスト」
記号論からのポストモダンに対する振る舞いに感謝しつつ
今後ともよろしく。
後まだたくさんのカキコが必要になる気もしますので、
後は明日以降です。
176 :
パレルゴン二世:2008/04/06(日) 23:20:57 0
170様HNだけでよいのですが付けてはもらえませんか?
内容的に全く同感です。
デリダについてですが、
勿論反論を含めて、何かを伝えようとすれば、ロジカルになりますよ。
しかし、あえて、コンテクストの多様性を実践する意味では、
詩的言語(誰が言っているのか、何を言っているのか煙にまく)
手法でしょう?ただ、詩的言語批判ってのもありましたよね?
今日はもう寝ますね。(むにゃむにゃ)
177 :
162:2008/04/07(月) 22:41:33 0
>>175 大変失礼いたしました。ラッパーでございますw
20レスぐらいになりそうなところを4レスにまとめようと圧縮すると、
ご覧のような形になります。
私の発言などにお時間をとられないようにお気をつけください。
先に投げかけた問題などについては、全て自分で答えを持ち合わせています。
求められれば、責任を持ってお答えします。
今のスレの大きな流れは、郵便本でしたね。
私も一緒に読ませていただいています。
他の仕事も含む東(または柄谷-東)については、
西研に近い問題意識を持ち合わせていますが、
GLOCOM以降現在の活動は別途注目しています。
ということで、スレの流れを尊重します。
と同時に、思いついた時に思いついたことを書くのも良さそうですね。
今後、改めてスレ汚しをさせていただくかもしれません。
178 :
パレルゴン二世:2008/04/08(火) 21:45:28 0
別に、あなたの乱入によって、レスを中断したのではありませんよ。(笑)
全く気にしないでください。
ただ、一方的に書く事に疲れたと言うだけです。
それと、反論の応酬にもいささか、疲れたとでも言いましょうか。
とりあえずマイペースで、読んでいます。
もう少しで終わるので、東の郵便的を最後まで読もうと思っています。
冗談ではなく、私はクリステヴァ・バルトの方をデリダ・ドゥルーズより
先に読みましたので、ああ言うレスは好きですね〜。アブジェクシオン
なんか最高ですよ。
やはり人間存在に開いた空無から、その底にあるリビドーの様な流れ
東なら欲動の無意識な流れの場所に、死の欲望へ舞い降りることへの
恐怖の旅なのでしょう。私は彼女の様な表現が本当は好きですね。
とはいっても、セメイオチケは読んでません。中沢あたりも翻訳に参画
しているでしょう。
いずれにしても、私の希望はともに同レヴェルの人と、意見交換をする事
です。東の郵便的の解釈は、そう言う仲間を探すためのものであり、
けっして、人助けをしようとしてはいませんよ。(笑)
悪しからず。マイペースでしか書きませんので、よろしく。
良かったら、東だけでではなく、貴方の興味のある分野の事、疑問点
など、出しあいませんか?強制ではありませんので、自由にレスしていただいても
結構です。
179 :
パレルゴン二世:2008/04/08(火) 22:19:13 0
再度、貴方のレスを読んでみましたが、さすがに詩的ラップにどう答えるか、
やはりラップで答えるしかないでしょうね?なにが聞きたいか?何が知りたいか?
そして、ロジカルな答えを求めているのか?からかっているのか?不明?
本当は、あまり分からないので、いろんな角度から意見とも質問とも、
あるいは、「こんな事も知ってるの?、私は知っている。」と言っている様でもあり、
また、知っているけど教えないと言っているようでもあり、不思議な散文です。
この中のどれかは当っているでしょうね。でも、デリダを読んでいる僕らは
この様な詩的散文が、コンテテクストの多様を醸成すること位は、分かっているはずです。
だから、わざと、こう言うテクストの豊穣を求めて、貴方は書いたと言う事
だとも取れます。
いずれにしても、私はおそらく貴方が思っている以上に、本を沢山読んでいます。
ただし、斜めに読んでいる。(笑)
建設的な討議をしましょう。ラップでも良いですよ。(笑)
GLOCOMってのは、コミュニケーション論の方ですよね?
であれば、ハバーマス ルーマンの線で攻めてはどうでしょう?
大変恐縮です。
このスレに寄せる私の興味関心はこのスレのタイトルだけです。
もう少し馴染んでから申し上げようと思っていたのですが、
私もパレルゴンさんを助けに来たわけではありませんよw
パレルゴンさんが命題に解を持つことができたら
私が見つけた恐怖の淵をお目に入れたいところですが、
現在、パレルゴンさんの目前にあるのは、パレルゴンさんの哲学のみです。
181 :
162:2008/04/09(水) 03:11:36 0
>煙にまく
火と煙は、古くから言葉のメタファとして用いられますね。
シニフィエとシニフィアンの関係です。
一般に、火のない所に・・なわけですが、
テクストという言葉以降は、火ここになくとも灰ですか。
快楽と言えば豊穣ですし、零度と言えば無常です。
182 :
パレルゴン二世:2008/04/09(水) 08:25:36 0
もう少し、真面目に、意見を述べてはどうでしょう。
別に、私も貴方の理解を助けるために、郵便的の解釈をしているわけでは
ありません。とはいっても、私は今まで解釈を書いてきましたが、
貴方は、何も書いていませんので、「助けに来ていない。」と言う発言事態
横柄な気がしますね。
どうぞ、「私は知っている」のようなパターンではなく、
意見を具体的に言いましょう。意見の違いや間違って解釈していたこと
の発見は恥ずべきことでは全くありませんよ。
タイトルだけに興味があるのなら、自分で大きくタイトルを書いて
部屋に張ったらどうでしょう。PCの画面より見やすいでしょう。
別に「煙」の語源など、聞いても、郵便的の哲学には何も参考になりませんよ。
語源学や言語の恣意的分節やエピステーメーの事ならば、フーコーの「言葉と物」
を読んだ方が良いかとアドヴァイスしましょう。
つまり、貴方の視点は余りにも個人趣味的で、言ってる事は的外れではありませんが、
言っていることと、貴方の哲学全体との相関関係が見えてこないような気がします。
煙の分析から、何を言いたいのでしょうか?不明。
いろんな疑問を投げかけてそれでどうしたのでしょうか?
結局貴方自身がよく分かっていない気がしますね。
だから、疑問符で終わらせたってことでしょうか。
それとも、肯定や否定を逃れる、詩的言語として疑問符をつけた?
ならば、ハイゼンベルクの不確定原理とは何でしょうか?
そして、その理論はポスト・モダンにどの様な影響を与えたのでしょうか?
アンサー・プリーズ。
>>182 人々を断絶させ、競争させたがる社会に於いては、知っているけど教えてあげないと
いう態度が有効なこともあるでしょう。単に相手を混乱させるために言語を使うとい
う邪悪な態度もあるでしょう。
しかしそれもコンテテクストの多様を醸成する体系の一部。
ならば全ては歓待されます。動機は固定されません。批判は人を強くします。
ノーアンサーというアンサーがあります。
184 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 11:13:05 0
分かるけど、2チャンの哲板と言う、哲学を解明するところで、知ってるけど
教えないと言う態度はどうかなぁ〜。
ノーアンサーならば、ここにきて書き込む意味もないでしょう。無視するべきです。
でも、パレルゴンの解釈を頼りに、理解しようとしている。他力本願でしょう。
やはり、こんな所で、処世術や話術の練習をする方が異常でしょう。
社会へ出て、会社組織でもまれながらやるとよいでしょうにね。
もっとも、そう言う事ではなく、単純に知識の足りないところを、
誤魔化しているんでしょうね。
言ったこっとを質問すると判明する事ですよ。
とりあえずは、ハイゼンベルクについて、どうでしょう?(笑)
きたいしてますよ。名無しさん。HNつけたら?どうしてつけないの?
質問に自信がないからでしょ(笑)
185 :
パレルゴン二世:2008/04/09(水) 22:54:51 0
こんなところでしょうかね?
実力は先に確認すべしってのが、今回の教訓でしょうね。
もう少しまともなレヴェルの人はいないのでしょうかね。
今後は、レヴェル確認の為に、失礼でしょうが、最初に、レス内容を質問します。
独り相撲はこりごりですので、読解サーヴィスはこれまでにします。
今後は、自分の意見を自分の言葉で言った人にのみ、可能な範囲でレスしますよ。
ただし、言葉を羅列し、「質問されれば答えられます」の様な表現は、理解度を測るために質問を
先にさせてもらいます。それでは、がんばって、理解をした上で、意見を述べるようにね。
数冊以上の哲学書を読んでからでないと、質問には答えられないかも知れませんよ。
ただし、天才は別ですが・・・・・・
186 :
パレルゴン二世:2008/04/09(水) 23:06:16 0
と言う事で、仕切り直しです。
ところで、亀井絵里さんも同類項でしょうかね?
スローガンの様に、焦って纏めるのは、逆に細かいところが
解っていないので、そこを強引に切り捨てているとも推測できます。
そう、他にも大御所がいらっしゃったでしょう。
スローガンの大家は誰とは言いませんよ。
用心用心ですよ。
堂々と、疑問点を、自分がどうして分からないかを説明しながら
訴えると言う真摯な姿勢がないとすぐにぼろが出るものですよ。
皆さん気をつけましょうね。
ほんじゃま、がんばって自分の力で理解するように努力してください。
187 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 23:13:14 0
よく考えれば、このスレッドを立ち上げたのは、パレルゴンではなかったよな。
つまり、パレルゴンもあまい。乗せられたんだよ。
説明をタダ乗り〜ってやつだよ。だれが、立てたのか、そいつが
責任を持って、やるべきで、パレルゴンには続ける責任はないと思うよ。
誰だ。しろうとか亀井絵里かまたは名無しか?
その辺の陰謀だろうな。
188 :
パレルゴン二世:2008/04/09(水) 23:17:17 0
それは良いだろう。
自分で乗ったんだからな。
とにかく、今後は要注意だな。
どういう意味で書き込んでいるのか、十分注意が必要。
適当にあしらって、情報だけパクリってのもあるからな。
その手はもう乗らないけどね。(笑)
用心用心。
そうですね。大切なのは排除ではなく歓待です。大抵のことは、
「文体」に現れます。相手の動機をさぐることは、現実社会を
生き抜く処世術を身につけることでもあります。自身に向けら
れた批判の中にヒューリスティックなお宝を見つける可能性だ
ってあります。
そういう意味では、情報をパクるのは、お互い様とも言えます。
善悪の彼岸
191 :
パレルゴン二世:2008/04/11(金) 21:17:59 0
どうやら、残念ながら、高度な議論を可能にする人ではなかったと言う事が
判明した訳ですので、HNをつけた亀井君も駄目ですかね。
そう言う意味では、ラッパー君も、恐怖の淵を見せて欲しいんですが、これも
答えられないようです。私の前にあるのは「パレルゴンの哲学」と言うのは、
逆に貴方の前にある哲学(前でなく中でしょうか)もあなたの哲学で、
このエクリチュールはどの哲学をする人間にも当てはまるので、この言葉は
「この言葉は言葉である」と言うトーロロジーになるでしょうね。
この事から、「Aの哲学はAの哲学である」意味は、「私の哲学はあなたの
哲学ではありません」と言う意味であり、「私の哲学はあなたの哲学とは違います」
の意味を表明しているのでしょう。だから、私はコメントしませんと言うコメント。
にもかかわらず、ここにレスする意味は何なのかと言う問題が残る気がしますが、
第四章纏めを亀井さんにやってほしいものです。
私ももう少しで第四章を読み終えますが、私の印象としては不作の第四章と言う気がします。
過度に重層錯綜混迷した論点、再帰的なテーマが比喩としてのクライアンの壺の多様なヴァリエーション
を使って複雑に説明されているだけです。
192 :
パレルゴン二世:2008/04/11(金) 21:35:50 0
つまり、前章において説明された、クリプキ・ゲーデル・それにハイデガー
を一括りにして、否定神学として、フロイトを援用した精神分析的転移に
郵便的なものを見出しているにすぎません。
こんない単純な結論にもかかわらず、過度の切り口で嫌になるくらい
複雑にせ説明する東は何かに追われている気がしてしまいます。
この東の追い詰められた恐怖とは何か?これを精神分析的に語事に興味は
ありませんが、恐らく、哲学者として、プライド・学界からの反論への恐怖
自分の無知への恐怖が、過度に難解に書く事を要請したとも言えないでしょうか?
つまり、これこそが彼のエスの「備給した掛け金であり欲望や幻想」であるとしたら?
失礼でしょうかね。(笑)
先ほど言った様に、第四章は単純にフロイト的に読むことで、エクリチュールの
散種性=郵便的性質=幽霊的性質を 精神分析から見つめたに過ぎないと言う事
でしょう。そう言う意味では、ラッパー君の実践も意味のある事です。
被分析者の「古名」を使って返答すると言う姿勢をラッパー君が取っていたとしたら
私は、サールの位置になると言う屈辱を受ける事になるのでしょうかね。
そして、私のエスを分析するのは貴方だった・・・?
193 :
パレルゴン二世:2008/04/11(金) 21:45:29 0
って事だとすれば、貴方は恐ろしく高度の知識を持ち合わせた、一流の
学者なのかも知れない?このようにいろんな切り口からあなたを分析する
私は、いつの間にか、東の恐怖によるエスからの過剰な分析要請を求める
備給に翻弄されている。これこそ転移なのだと、そしてこの過度の実践
の反復こそが、郵便的なエクリチールの二重性の経験だとしたら、
それは異常な思考の連続的な滑りに過ぎない。
194 :
パレルゴン二世:2008/04/11(金) 22:01:45 0
と言う様に単純にまとめるのはどうだろう?
とはいっても、東の否定神学とクライン(に訂正)への異常な愛着
は何に起因しているのでしょう。否定神学と言われる対象が
あまりにも多すぎる気がしてしようがありません。
郵便的なもの以外が全て否定神学になると言うこの捉え方=分節
むしろ、現前の哲学・否定神学・郵便的脱構築と言う風に説明を
した方が良かったのではないかと言う気もします。
それと、クラインへの異常なこだわりが、説明を強引にさせている
ので、より不鮮明な説明になっている気もしますが、
皆さんの感想はいかがでしょうか。
ちなみに、東はこの唯一野哲学本を書いたあと、この様な重労働の
仕事はいやだと言うようなこと言っていたと聞きます。
この後、東は、おたく文化へ興味を移しながら、管理型社会の情報
の重要性を説き、管理側のメンバーになっているのですが、
この事とデリダ読み本との間にどのような関連があるのか、私には
全く理解不可能です。
頭悪いね
>>>>パレルゴン
あなたは今、あなたが思っているようにあなたを理解してくれる人を求めているだけなのです。
そのツールとして哲学と2chを使っているだけなのです。
そういう人が2chで行き着く先は関係妄想の地獄しかありませんよ。
197 :
ぱれるごん二世:2008/04/12(土) 10:38:49 0
196
くだらぬ反論にならないような事を言ってもしょうがないでしょう。
哲学と言う学問自体が、同意=承認を求めているのですが
デリダを学習したものは、単純に同意されるものでないことぐらい解っている
でしょうね。それよりも、人間が生きていること自体が他者の承認を求めて、
そこからのずらしを経験する事なのだとしたら、承認・同意を哲学だけに限定する事
は出来ないでしょう。対自と対他存在の、他者との相克は、ヘーゲル・サルトル
によって分析されています。
まあ、貴方は、少ない言葉で他者(私)のメタ(客観的な位置)にいる事を
何回も述べている、形而上学的性癖をもった人間の様にも見えますよ。
ラッパーの振る舞いでも、本当のラッパーならば、相手のスタイルに合わせて、
私のコンスタティヴな展開に合わせるでしょうが、貴方は、ラッパーの表現で
通している。つまり、他者を無視しながら、今度は、語彙の詳細な説明もなく
関係妄想と言う表現で人を見下すのです。
もう少し詳細に相手に合わせた表現スタイルでレスしてはどうでしょうか?
そう言う、貴方も、ここにおせっかいなレスをする事が、貴方の言っていること
を理解してほしいのではないでしょうか?
つまり、「パレルゴンが他者の理解を求めているだけ・・・・」
という内容に同意する者を求めているのも貴方でしょう。違うかい(笑)
そんな覇権争いの様な事よりも哲学上の話をしませんか?
私は、何度も言っているように、同レヴェルの同士を求めているだけです。
そのために、東の郵便的のレスをしているのです。
すげえ必死w
>>197 同レヴェルの同士ならぴかぁがいるじゃんw
200 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 17:24:00 0
パレルゴンって童貞かい?
201 :
パレルゴン二世:2008/04/12(土) 21:31:30 0
198
必死ではなく熱心・真剣と言う。
199
ぴかぁ〜と俺のスタイルが異なるので、同士ではないと思う。
彼はスタイルがない。この場合のスタイルとは、哲学に取り組む
姿勢の事ではなく、研究=興味の方向性が決まっていない段階の事を指し、
「あれもこれも」と言う知識吸収の時期かな。だから、焦って吸収している様だ。
もう少し時間が必要でな気がするね。また、彼は「はてな」に纏めることが主目的
であり、その事が哲学の研究に足かせになっているきがする。
また、何時も言っているように、彼は認識が不十分なテクニカルターム
を適当に繋いで、自分を大きく見せることに異常に固執しているので、
同士とは言えないだろうな。俺のレヴェルでは彼の無知な面が一目で見える
んだね。
200:そうかもね。(笑)
202 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 23:19:53 0
でも、ちょっと言いすぎじゃん。
ぴかぁ〜も熱心じゃん。
二人で切磋琢磨して、2ちゃん哲板を盛り上げたらどう?
理解することも大切だけど、
論文を書くことも大切だよW。
純一ってどうなのよ。
203 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 23:24:58 0
そうだよ。
でも、ぴかぁ〜はマルクス重視だしな。
ルーマンはパレルゴンは興味なし。
マルクスを知ってはいても、これにも未来を託してはいない。
今後パレはどちらの方向へ行くのかい脳?不明。
ぴかぁ〜は東のあとは柄谷柄谷かのう?
同じポストモダン系でも、今は大きく別れる方向へ向かっているなW。
204 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 23:32:35 0
純一ね。ちょっと違う道を模索すればおもろいだろな。
パレ・ぴかぁ〜哲学路線から少し方向を変えて、社会学的小説的
な線を進めば成功するだろうね。むしろ、パレ・ぴかよりも
成功の可能性はあるな。だって哲学には多くの学者がるからね。
残念だけど、在野から一流にはなれんな。その点、純一は小説も書ける。
そう言えば、純一って、しろうとかも知れんな。
あいつ、小説を書いていただろう。違ったっけ???????
205 :
考える名無しさん:2008/04/13(日) 07:00:51 0
「郵便的」って始めて聞きました。
どういう意味ですか?
206 :
考える名無しさん:2008/04/13(日) 22:17:39 0
おい おい、今更そんな初歩的な質問んもないよ。
まず、自分で調べてから具体的に疑問点を書かないと答えないでしょう。
パレは先生ではないのだから。探究者です。同士を求めているのですよ。
>>205 意味というより、落語的なニュアンスっぽさの演出。
郵便 → ポスト
ポストモダン → 郵便的
つまり郵便は翻訳ができない言葉です。
・郵便物は、きちんと配達されることもあるが、誤配されることもある。
・ポストモダンでは、文化が細分化されており、ある文化の言葉が
別の文化の言葉へと、きちんと届くこともあるが、誤解もされる。
とする二つの意味を、翻訳の二重性に重ねて、メタファーとして
言い表しています。
>>207 Thanks.
哲学者にとって最も重要な資質は「コピーライター」なんですね。
>>207の4行目までで言われてることは、特に著者の意図したものではないと思うけどね。
デリダの語彙を、コミュニケーション理論に近づけていく上で
論理を抽出したときに言われた造語的な概念、というぐらいが穏当。
内容としては、まあ
>郵便物は、きちんと配達されることもあるが、誤配されることもある。
でいいと思うが(少なくとも東の論旨の理解としては)、
作者の死 + 自律的に勝手に読まれるコンテンツの運動 みたいな構図。
>>205 まず、ラカンがポーの小説「盗まれた手紙」を比喩にして自己の精神分析理論を
説明した論文「盗まれた手紙についてのセミネール」というのがあります。
ポーの小説に登場する、敵対する大臣(だっけか?)に盗まれ、隠された手紙が複数の
人たちの手を経ても、結局デュパンの知恵で無傷で戻ってくるストーリーを比喩に
ラカンは超越論的シニフィアンの単一性、分割不可能性、非物質性を説明しよう
とした。それに対し、「郵便はがき」という本でデリダは抵抗=ディコンストラクト
しようとしたというのが東の主張です。
ただし、その際の脱構築の仕方は第一期デリダ、第三期デリダのそれとは
異なり、郵便的脱構築と呼ぶべきであると。だがデリダによる明確な整理も他の論者に
よる解説書も世界に皆無なので東がやってやろうというのが「存在論的、郵便的」
という本です。
>>4に書いたように、論理的脱構築、存在論的脱構築と区別されまして、
(少なくともデリダの読むフロイトによる)無意識においては、超越論的シニフィアン(手紙)
は語表象/物表象の区別を抹消され、一括して語表象として処理される。
これは、我々の出した手紙も郵便局ではただの物質として扱われ、紛失、破損、配達ミス、
などを排除できないという比喩で言い表されます。
つまり、「郵便的」とは、超越論的シニフィアンの複数性、分割可能性、物質性を
導入することによって、否定神学的システムをディコンストラクトする立場といっても
いいでしょう。
間違えたw
× 語表象/物表象の区別を抹消され、一括して語表象として処理される。
○ 語表象/物表象の区別を抹消され、一括して物表象として処理される。
213 :
パレルゴン二世:2008/04/14(月) 21:06:46 0
亀井さんですね。回帰ありがとうございます。
私も以前ポオの「盗まれた手紙」を読みましたが、あれって、やはり
ラカンの「対象A」を表現しているのではないかと言う気がしてました。
つまり、私の勝手な解釈ですが、不明の手紙の位置との関係が本当の「私」
(知りえない無意識の事)であり、その位置の違い(コンテクストの差)
によって、それぞれの登場人物の無意識が読者の位置から俯瞰されている
のですが、結局個々人には全体からの自分の位置(手紙からの位置)が不明であると言う、
いわば、無意識は不明の手紙によって構造化されていて、全体の構造によって、
個々は強制的に囚われていると言う、そう言う風に捉えていました。
もっとも、ラカンが構造主義者と言われているので、強引に構造=無意識
を繋いで解釈しています。
214 :
パレルゴン二世:2008/04/14(月) 21:31:50 0
そこで、亀井さんの指摘の様に、この中心にある超越論的シニフィアン
つまり、原抑圧に開いた穴(Da)の単一性を批判したと言う事のようですね。
これは、同時にハイデガーや柄谷やクリプキやゲーデルなんかの批判にも該当する
点ですね。つまり、多様性を最終的に回収すると言うのが否定神学だと言う事ですね。
だから、フロイトの二つの表象のとらえ方:
1)物表象(視覚)+語表象(聴覚)=意識的表象 (知覚同一性・思考同一性の二つの同一性を含む)
2)物表象=無意識的表象 (夢) (知覚同一性のみ)
によって1)うつつの世界表象が2)を通ることによって、再び1)に戻る
過程で、思考の同一性が失われる事になる。この事が、郵便的な超越論的シニフィアン
の単一性の批判にもなっていると言う事。
つまり、うつつから夢に向かう過程、うつつの思考同一性が齟齬を来たし、
機能不全になる事で、思考する同一的「私」はうつつに回帰する時点で、
非同一的「私」を生む事になる。
215 :
パレルゴン二世:2008/04/14(月) 22:18:11 0
ラカン派の理論の核心は「手紙の分割不可能性」であり、
手紙はその位置を巡りながら常にひとつであると言う点が
否定神学的側面であると言う事でしょうかね。
そこで、夢では知覚同一性のみであり、よって、論理形式の名詞化が生じるとしますよね。
つまり、論理的思考のない世界では、論理自体が論理過程を持ちえない
と言う事で、名詞化される。これが、私の理解ですが、亀井さんの言う「物質」化
の過程ではないかと思います。
そこで、バラバラで、論旨は定まらないのですが、ハイデガーの「存在」と言う
言葉についても、カルナップの指摘するように「名詞化」していると
批判的に捉えていますよね。この二つの名詞化の違い反なのでしょうかね。
つまり、「存在」とは構文論的形式であり、文の内容ではないとしている
わけです。私の解釈で簡単に言うと、「存在」と言う言葉は表現形式(動詞?)
であり、表現内容(名詞・形容詞)ではない。それを固有名の様に
考えて、その内容を問うている事が問題であるみたいに言っていますよね。
この夢の働きによる「名詞化」とハイデガーの「名詞化」への言及をどう捉えるか?
216 :
パレルゴン二世:2008/04/14(月) 22:36:55 0
ここは、大きく端折って、郵便的とは、要は、オブジェクトレヴェルとメタレヴェル
の混乱が常に、メタから強引に降りてくる事で、オブジェクトレヴェルの
定立=安定化が不可能になる。この繰り返しが「私」の定立を不可能にしている。
つまりメタレヴェルと言う論理形式がオブジェクトレヴェル(事象・思考・世界)
の決定に参与しているのですが、この論理形式への思考を禁止したのが
ウィットゲンシュタイン(語れぬもものの語りの禁止)であり、これに
クレームをつけたのが、ハイデガーの「存在」論で「存在」と言う
論理形式を名詞化(オブジェクト化)したと言う事でしょう。
この点では、ハイデガーの存在論も郵便的な過程を共有していると思われますが、
このあと、このメタレヴェルのオブジェクトレヴェルへの回帰が
唯一の視点で回収される事(超越論的シニフィアン)が問題なのでしょうか?
つまり、先にコンテクストがある事になる。
デリダのロゴス中心主義への批判は、世の森羅万象は言語によって語りうる
という態度に盲従し、それを自明視した上で展開される議論に対して向けられました。
これはあらゆるシニフィアンが幽霊に取り憑かれた状態(超越論的シニフィアン)
であることを補強します。
レベルが低くすぎてついていけない
レベルが低いことが低いのか。低いことは分かりやすさへと近付いていき
却って高度なのではないか。レベルが高いことは本当に高いのか。レベルを
高めすぎて自己満足になる危険性は無いだろうか
220 :
パレルゴン二世:2008/04/15(火) 21:33:21 0
と言う事で、これ以上のデリダ=東的な世界への沈潜を去る事にしよう。
それは、いみじくも、東自身があるいはデリダが問うていたように、郵便的分析で最も
重要なツールである転移にさえも、それに拘ること自体が、転移の絶対性に落ちる事になるからだ。
また、転移からの切断を認めたにしても、それ自身が、ラカン派の精神分析学派がラカンを超越論的シニフィアン(父)
とした崇めた様に、同じ位置にデリダ=東を置くことになるからである。
つまり、散種=脱構築とは、分析されるものではない。分析は
認識論的な確定をもたらすのみである。そして、その後にデリダ=東がもっとも
警戒する、信奉が待っていることになる。
よって、これより先は、再帰的非決定として、あるいは、間テクストとして、
あるいは、エクリチュール的に郵便的に神出鬼没に姿をくらます事を
進めなければならない。その為にも、脱デリダ=東を実行すべきである。
つまり、今後の当スレッド、「構造主義・ポスト構造主義を超えて」は
強引に、このテーマに関連すると考えられる、大澤・柄谷・アガンベンへと
重心をシフトしていく。勿論その他の著名な哲学者もこのスレッドのテーマを
進める上では参照して行く予定である。
と言うことで、デリダ=東のパースペクティヴについて、一応の理解は得られたものと
考えるものである。
221 :
パレルゴン二世:2008/04/15(火) 21:55:21 0
そのためのは、強引な橋渡しが必要になる。
それは、この様なデリダ的な散種が、どのように、ネグリ=ハートの
「帝国」に繋がるのか。あるいは、なぜ、逃走・はぐらかし・脱構築が
社会・組織にとって不能なのかを問わなければならないだろう。
つまり、構造主義・ポスト構造主義とは何だったのか?そして我らがデリダ=東は何を
求めていたのかが先に簡単に問われなければならない。
そうでなければ、われわれが向かう道は判明しない事になるからだ。
簡単に言おう。それは、われわれ主体がどのようにして生れ、強制されていたか?
そして、真理は西洋においての真理基準に過ぎなかった事が暴かれた事、
だから、その差別化された主体の体制への反発素振りこそが構造主義
ポスト・構造主義の意義であったと言う事だ。
だからこそ、我らがデリダ=東は脱構築で、反発し、その反発が逆に
構造を強化することを知り、複数の逃走線を引いたのだ。
そして今は、逃走による戦略が、解放にはならない事を再度認識した時点に
「帝国」を位置付けなければならない。
すり抜け・脱構築・逃走は構造への警句にはなりえても、何も生まれない。
この事が、政治活動を無視するポスト構造主義に対する批判である。
デリダの絶対正義や他者への全面的責任は、決して、政治を動かさない。
この時点でこそ、「帝国」」は読まれるのでなければならないだろう。
222 :
パレルゴン二世:2008/04/15(火) 22:08:19 0
つまり、差別・貧困は脱構築よりも前面にある。
そして、アウシュビッツ・パーリアは差延よりも先にあるのだと言う事だ。
だから、マルクスは消滅しない。そして、労働者は世界を構成する異種混交的な
群集であるマルチチュードと呼ばれ、資本は<帝国>と呼ばれる様に
姿を変えている。(ナショナリズムの由来・大澤真幸著より引用)
実は、私も今この本を開いたばかりであり、どのように読むか不明です。
だから、「帝国」の読みに限らず興味の赴くまま、あちらこちらと
ノマドいたします。このスタイルこそポスト・モダンでしょうから・・・?
ほんじゃまたね。
223 :
考える名無しさん:2008/04/16(水) 13:32:42 O
全然理解してないな
224 :
パレルゴン二世:2008/04/17(木) 21:37:03 0
ついてこれない見たいね????
ちょっと高度かな?????
思い切って発言してはどう???
それにしても、ぴかぁ〜=メタPはすっかり元気をなくした様だね。
反対に純一がぴかぁ〜のスレッドを乗っ取ったようだね。(笑)
元気な事は良いことである。
今日は雨。夜は長い。大澤は厚い本を書いた。
哲学はどこへ向かうのか??? 誰にも分からない。
あるのは、未読の本である。どのように読もうと勝手である。
どこかの本の、どこかのページとどこかの本の、どこかのページとが
関連性を強めるとき、新たな突破口が開かれ、エピステーメーの
新段階が生まれる。セリーの多様性によって、語源学的な過去へのトレース
と同時に、共時的なニューロンとシナプスの連結が新時代を開く。
この様なたわごとは、たわごとではない。
また同一別コテの独壇場か。
カキコ中毒化。もう道はない。
>哲学はどこへ向かうのか??? 誰にも分からない。
そんなことが分からないようでは、哲学をやっているうちにははいらんだろう?
ま、このままの流れで「帝国」の勉強会は勘弁なw
227 :
考える名無しさん:2008/04/18(金) 09:43:07 O
みんなパレルゴンってどう思う?
俺はあんまり評価してないんだけど
228 :
考える名無しさん:2008/04/18(金) 12:10:49 O
勉強家はどこまでいっても勉強家
勉強家の先に自分の意見があるというのは典型的な主知主義の誤謬
哲学好きに多い。
しろうとも哲学ではつまらなかったかオタクに特化してなんとか形になった。
バレはこれから。若くなさそうなので勉強家で終わりそうだが。
229 :
考える名無しさん:2008/04/18(金) 13:49:55 O
オタクはまだ現実に対して接点持ってるように見えるしな
パレルゴンさんお久しぶりです。
私はもう2ちゃんを卒業します。
長文の議論には加われませんが……。
ブログやサイトでも書くのがオススメです。
2ちゃんはダイレクトに反応がありますが、
かわりに考えを蓄積するのが難しいです。
あと、パレさんはジャーゴンの比率が高いけど、
わりと吟味せずに使っている場合もありますね。
たとえば
>>213の「対象A」は「対象a」ですね。
大文字の他者Aと小文字の他者aですから。
>>213で言わんとしていることは、
欠如した主体が対象aに直面することで、
全体性の幻想を得る、という図式ですね。
もっと単純な例だと、外敵がいると団結する、
というのも、同じような構造だと考えています。
ジャーゴンの組み合わせで際限なく書けますが、
単純化する方向でも考えてみてください。それでは。
231 :
パレルゴン二世:2008/04/18(金) 22:56:00 0
230=しろうとさんへ
ちょっと書き急いだかな。「大文字の他者A」が正解です。
その後の指摘については、ちょっと私の言いたいこととは異なっています。
それから、ジャーゴン(複雑で両義的表現)を繋いだ連続的な文章については、しろうとさん
も御承知の通り、ポスト構造主義の最終的な到達点が、このような表現方法
になったと言う事で、この地点は絶対に踏まえなければ、先に進めないと言うのが
私の考え方にあったからです。アンビバレントさ(たとえばパルマコンは薬と毒の両方の意味があります。)
を表現する事で、エクリチュールは物質性を帯びてきます。
つまり、シチュエーション=コンテクストによって、意味が散種されます。
この意味を理解するのではなく、実践することで、われわれはポスト構造主義を
経験する(認識するのではなく)ができます。こう言う意味で、ジャーゴンに
浸ったのです。デリダ=東から立ち去る説明文の最後に、私はポスト構造主義の
無能さについて書きましたが、それは、貴方が指摘するように、このジャーゴン的に
煙にまくと言う戦略が現在意味をなしていない状況にあるからです。
232 :
パレルゴン二世:2008/04/18(金) 23:18:42 0
とにかく、このデリダの他者に対する絶対的な応答責任(ウイ・ウイ)
や正義と言う概念が、私には納得できないのです。確かに主体と言うもの
あるいは現前としての対象としての他者は、被支配者と言うニュアンスが強すぎます。
だからといって、絶対的に他者対する応答責任が先(絶対的な先)であるとするには
世界の出来事に対してあまりにも無責任でしょう。つまり、構造主義は恣意的な
構造にとらわれて全てが決定することを暴いたとすれば、ポスト・構造主義は
その囚われの構造からの逃走を目指しているのですが、その事がはたして
現存する構造に対してどう言うインパクトを与え得るのかと言う点が不十分
ですね。だから、ポリティクスなのでしょう。
でも、個人としてはポリティクスは好きではありません。
それでも、多少なりとも、哲学と政治の界面の様な場所にいたいと思っています。
最近やっと時間が持ててジョルジョ・アガンベンの「アウシュビッツの残りもの」
をざっと目を通しました。彼の様な政治(抑圧された人の解放)と哲学(ポスト構造主義を
超えた部分の発見)の界面にいたい、そう思っています。
貴方も頑張って下さい。私も、できればですが、何かを書いて見たいと思います。
私は、本来熟読よりも、多読であり、重要と思う本は再読する方法で進めています。
とにかく、自分のオリジナルなものを書いて投稿するのが私の夢です。
233 :
糞小便:2008/04/18(金) 23:44:36 0
>>230 君のプログを観たけど
なにあれ?2ちゃんねるの名無し書き込み
そのまんまのプログだったじゃん。駄目だよ君
ぴかぁうざいよ
構造を恣意的と言いつつも、自身の力が及ばない固定的な構造を想定していますね。
絵に描いたような近代的形而上学的哲学の完成おめでとう。これから構造主義でつか?
237 :
パレルゴン二世:2008/04/19(土) 21:39:22 0
236:
HNを付けようね。
でないと、例えばぴかぁ〜だったり、純一君だったりするでしょう。
とりあえず、HNを宜しく。
まあ、「近代的な形而上学」って言う君はこのスレッドに、何を読んでいたのでしょう。
しろうとさんのようにHNを付けてから、質問願います。
235:
恣意性と固定性とは必然的に反対の意味になる事はありませんよ。
レヴィ=ストロースの人類学を見れば明らかです。
恣意的とは偶然にと言う意味でもありますが、だからと言って流動的を
指しません。それが証拠に習慣・因習は恣意的であっても、強固です。
それから、君もHNを付けてくださいね。
238 :
パレルゴン二世:2008/04/19(土) 21:57:37 0
しろうとさんへ
貴方の意見の中の次の二つのラカンの術語について、私の理解する所を若干追加説明しますね。
1)大文字の他者A:原抑圧で開いた主体(空)とは何者かを告げているもの。
つまり、ポーの「盗まれた手紙」そのものを指してる。すべての関連者はこの
(無=空)の手紙をめぐって、実際は手紙との位置関係から自分とは何かを探している。
2)対象a:
原抑圧によって失われたもの。つまり、開かれた無=主体、によって
喪失した痕跡を指している。
あくまで、参考文献を見ながら、私見としてまとめたものです。
以上の様に解すると、大文字のAは失ったものの象徴であり、
対象aは失ったものそのものか、その一部、あるいは、それを連想させる
ものではないか?と考えられますよね。あくまで私見です。
参考になれば幸い。
239 :
HN:2008/04/19(土) 22:14:08 0
いいえ、習慣・因習が強固であると捉えることも恣意的(=思い付き)だと言えます。
流動性は失われていません。つまりそこを指摘しているわけです。
構造の持つ性質が流動的で、それを捉える主体の側も恣意的であるのにもかかわらず、
あなたは、構造が固定的だとおっしゃるわけです。これは明らかな矛盾です。
ポスト構造主義とは、数十ページの論文や、数冊の本を執筆することによって「構造」の全容を
記述しうるという構造主義者たちの態度に対して向けられた批判を中心とする思想です。
構造を固定的に捉えていた構造主義者たちを批判、解体したから「ポスト」なのです。
なので「ポスト・構造主義はその囚われの構造からの逃走を目指している」などという発想は
ナンセンスと言うべきでしょう。
分かりやすく書くならば、なぜ相手の弱点を知っているのに逃走しなければならないのか?ということです。
240 :
パレルゴン二世:2008/04/19(土) 22:36:17 0
239さんへ。意見ありがとうございます。
私のコンテクストと貴方のコンテクストが、おそらく読み進んできた
道が違うのかもしれませんね。
私は、68年のフランス5月革命の意味合いから、構造の硬直化が
問題だったと捉えています。そこから、構造からの解放・逃走が
ポスト構造主義だったと位置づけています。
つまり、実際の運動から、論理を見ています。
この見方は既に一般的な見方ですね。
たしかに、貴方の言うように、構造が強固かどうかは、ロジカルには見れば全く恣意的です。
しかし、この68年の5月はこの構造が硬直的である事の証明ですね。
事実は人間の反応によるのですから。
241 :
パレルゴン二世:2008/04/19(土) 22:49:51 0
それから、構造主義についての見方ですが、、貴方は構造は(これが恣意的か
どうかは別にして)常に流動的であり、ただ、構造は全容を解明できるとする
構造主義者に対する構造の見方を批判し、その流動性を再認識させたことで、
「解体した」からポスト構造主義と言うと言う事のようですね。
それでは浅田はどうして「逃走論」を書いたのでしょうか?
また、どうしてはぐらかし・脱臼・ウイだったのか不明でしょうね。
242 :
うあああ:2008/04/19(土) 22:55:50 0
構造主義の「構造」という文字に限界性が内包されている。
構造はグラフの特殊な、固定的な形である。
つまり、グラフ主義こそがナウいのではないか。(疑似三段論法)
243 :
パレルゴン二世:2008/04/19(土) 22:59:24 0
つまり、構造の中にいる事しかできない我々は、その構造の中で
反発しても、所詮その構造の強化にしかなりません。
この事が見えていないから、貴方は構造主義の構造分析を批判しうる
言説があると言えるのでしょうね。象徴世界にいるかぎり、われわれは
そこにいる中でしか、トートロジーにしか、語れないのだと言う事です。
だから、ある分析の反論は、その分析方法を踏襲しているのであり、
だから、ウイによって、その言説を滑らせるのです。
これが、構造からの慎重な逃走だと言えるのではないでしょうか。
反論は反論するものの存在(考える事の方法)をある意味で強化している。
だから、すり抜ける方法としてのジャーゴンだったのでしょう。
だめだこりゃ
話が食い違っていますね
>>239も
>>243もそういう意味で正しくもあり、間違っていると思います。
どういうことか。まず、
>>239擁護。
構造一般と構造主義のいう「構造」とが混同されていて、さらに研究主体
(人類学者、経済学者etc.)と研究対象(未開社会、資本主義経済etc.)
が何かが明確になっていないため、話が抽象的だからです。
人類学でいえば、文明社会(婚姻体系におけるインセストタブーを法規などで
意識的に自らに課している社会)の研究者が未開社会を研究するわけですね。
「未開社会では、無意識的ではあるが、婚姻体系におけるインセストタブーが
安定的な社会の再生産のための財産相続法則として機能している」
ということを研究者が見いだすわけです。これは、
・文明社会では安定的な社会の再生産のための財産相続法則が意識され、その不断の
刷新がなされている
・文明社会では婚姻体系におけるインセストタブー以外にも安定的な社会の再生産のため
の財産相続の方法として、他の選択肢も多く持つ
からこそ見いだせるわけです。逆説的ですが、無意識的・構造主義的なある特定の「構造」X
は、そのある特定の「構造」Xの視界にしか存在しない。構造主義的なものの見方それ自体が
構造に縛られていない証拠ではないか。
>>239はそんなことをいっているのだと思います。
>>243はペシミズムが過ぎると。違うかなw
さて、対象(構造)を概念把握(無意識から意識に上らせることとでもいおうか)できるならば、
それを改変することができるというこのような考え方でありますが、マルクス主義については
どうでしょうか。マルクス主義も明らかにそうですね。貨幣の謎、剰余価値の謎、資本の謎が
解ければ、それらを改変できるという考え方。しかしながら現代においては、特に資本主義の
乗り越えということについては完全に袋小路に陥ってしまっていると思います。それはなぜか
というと、やはり、資本主義は、未開社会における婚姻体系におけるインセストタブーのような、
無意識的で静的な体系ではなく、まるでヘーゲルの絶対精神のように実体的かつ主体的で、
あらゆる矛盾・対立を飲み込み成長する化け物のようなものだからなのではないでしょうか。
パレルゴン二世さんの「構造の中にいる事しかできない我々は、その構造の中で反発しても、
所詮その構造の強化にしかなりません」というペシミスティックなレスは、「構造」を「資本
主義」に変えればほとんど同意です。
あと、ネグリなどによるマルチチュードの思想もかなり弱々しいものに感じるのですが、
どうでしょうか。革命ロマン主義的ロマン主義wなのでは。
248 :
パレルゴン二世:2008/04/20(日) 10:16:58 0
松井さんコメントありがとうございます。
HNさんのレスに対しては、私の意見はすでに述べていますので、
これで十分と思っていますが、松井さんの言うように、未開社会の婚姻制度
あるいは、インセストタブー(近親相姦の禁止)による構造は機能している。そして、それを捉える西洋のまなざしが
そしてその構造の外にある視線である西洋は、構造からの外のへの可能性を
見出す事であり、あるいは構造は他の構造の視点により
外部へ向かう可能性を秘めている。つまり、こう言う事が松井さんの意見ですね。
この辺については、エドワード・サイードの「オリエンタリズム」の参照も可能でしょう。
つまり、東洋に対する外部の観察・分析は、西洋のエピステーメー(構造の布置による見方)
を一方的に客観化している、つまり、非西洋を異常なもの、遅れたものとして
見る、いわゆる色眼鏡でしか見る事が出来ないとしています。
なぜなら、すべての、研究者も、その身につけた分析ツールでしか、他者を発見できない
と言う制約があるからです。だから、スピヴァクは「サバルタンは語る事が出来るか?」
と言ったと思われますね。
提供 ル・サンチマン™
>>248 >構造は他の構造の視点により外部へ向かう可能性を秘めている。
いや、可能性を秘めているどころか、未開社会にその構造とそのオルタナ
ティブのための条件を与えれば、構造など一発で崩壊します。
そして、構造の崩壊と改編から剰余価値を得るのがプリミティブな帝国主義、
資本主義だとすると、高度な帝国主義、資本主義とは、剰余価値の生産の
ために構造の崩壊と改編が要請されるといえるのではないでしょうか。
「WASPもサバルタンも同じように語ることができる、しかしどこにもいきつくことがない」
251 :
パレルゴン二世:2008/04/20(日) 10:35:03 0
もっと分かりやすく言えば、西洋だけが意識的にと考える事は不可能であり、
構造は無意識に刷り込まれてあると言う考えが、構造主義―ポスト・構造主義
の流れの中にあります。だから、この無意識を分析しようとして
フロイトを多用したのも、ポスト構造主義だったのでしょう?
そして、散種は、この無意識の構造に、分解・めまいを対比させ
逆に意識するものがこのエスの欲望的なものを抑圧することによって
なされている事を暴いたと言う事です。
つまり、どのような分析も、客観的な分析視点は存在しないし、
相対化されている。だから、この事は、認識が、すべて支配的な
欲望に裏打ちされていると言う事の証明になります。
転移とは、まさに思考構造=無意識への感染であり、客観的な視点の
不在を証明している気がしますね。「うつる」とはうつされる側の選択不可能ですから。
以上はあくまで、私のコンテクストからの見方です。
247の書き方が乱暴なのは、再読してレスしていないからです。
許して下さい。
間違い
>>250 ×未開社会にその構造と・・・
○未開社会にその構造の分析と・・・
253 :
パレルゴン二世:2008/04/20(日) 10:48:35 0
構造を壊すとは、ただ壊すと言う意味であれば、被支配的に飲み込む
事も正当化されると言う事ですか?被支配的な植民地を崩壊する事も
崩壊なのでしょうか?そうではなく、それぞれの民族の人々が自分を
語れるのかとはどういう意味か分かっています?
西洋的な思考構造に席巻されながらその構造にそって語らされる事
がどうして、認められるのでしょうか?それでも黙認ですか?
だから、デリダは絶対的な他者性を重視したのでしょう?
他者性とは、この支配的な構造に染められないものを存立させる事でしょう。
貴方の場合は、だれも語れる?なにを語るのです?
語る事によって、西洋の思考=構造を強化するのですよ。
だから、構造から逃れにくいとは、ある構造の思考に合わせ
(この場合いは従属国の民が西洋の構造に合わせる事)は
構造の脱構築ではなく、侵略に手を貸し、西洋的なものの見方
を敷衍させる行為以外の何物でもない。この事が分かっていない気がします。
>>251 構造という言葉で何を言わんとしているのかがちょっと不明です。構造一般というものは存在
しないのですよ。精神分析ならば心理、経済学ならば経済システムetc.
個別の研究対象がまずありきで、それを研究して構造を取り出すのです。
255 :
パレルゴン二世:2008/04/20(日) 11:01:51 0
あまりにも批判的な態度で申し訳ありません。
今井さんの実力を垣間見させてもらいありがとうございます。
決して貴方の見解を見下したりしてはいません。
こう言う態度こそ、私が構造主義・ポスト構造主義に見出したものですから。
そして、私も、この構造からの脱出はどうあるべきかをずっと考えています。
そして、客観的な視点がない中で、非従属者は(これは貧しく権力のない者
のみを指しているのではない。構造にいる全ての者を指している。)
どのように、構造の従属から逃れられるのかを私は考えています。
その一つの選択が、ポリティクスであろうと考えてますね。
我らが東は、ノヴェル・PC・おたくにその可能性を見ている気がしますね。
それにしても、今井さんの様な高度な見識を持った方と話せる幸せを
感じますね。
>>253 西洋の思考というのはリジッドなものではないと言ってるのにな・・・
うーん。なんと言っていいか。こう書くとたぶん誤解されると思いますが、
未開社会よりも文明社会のほうが、東洋よりも西洋のほうが「上」です。
これは単純に軍事、経済、文化などを含めたハードな権力、ソフトな権力
の事実の問題です。
WASPと同列に認められたいという夢を見てる私のようなジャップはどうすりゃいいの?
257 :
パレルゴン二世:2008/04/20(日) 11:04:46 0
256:
それは、西洋の見方の強化になり、貴方の振る舞いが、日本を被支配者にしようとしている
行為になるでしょうね。(笑)
258 :
パレルゴン二世:2008/04/20(日) 11:13:02 0
私の言う「構造」とは、言語・社会などすべてにおいて機能している
構造を指しています。ですから、慣習もそうです。
だから、貴方の言うように、構造を研究して取り出すと言う行為も
既に、メタの構造によって先立たれていると言う事です。
そして、このメタ構造を研究する事も、その研究する姿勢=視点=パターン
もある構造(スタイル)に先立たれている。つまり、これを無限遠点に後退すると言いますよね。
メタは常に高次のメタを隠し持っているという事ですかね。
>>257 なるほどw
わたしはやっぱり日本が嫌いなのかもしれませんね。最も嫌いな言葉が
「空気読め」ですから。西洋、特にアメリカは暴力的で弾圧的で動物的
であるかもしれないが同時にロジカルです。常に普遍的であろうとする
意志がある。日本は・・・まあティピカルな批判を当てはめてください。
260 :
パレルゴン二世:2008/04/20(日) 11:19:37 0
今まで、話した人の多くが、構造を言語分析できると思っていますね。
恐らくは難解なラカン・デリダ・ドゥルーズの研究を避けているからだと
思いますよ。実は、彼らこそが、本当の構造の意味を知っていると思います。
この分析可能な「私」とは、デリダが重視して批判している「現前」の哲学
です。これは、デカルトのコギトに行き着くわけです。それを
批判したかったのが、構造主義的相対主義であり、ポスト構造主義だと
思いますね。あくまで、私見です。
>>258 構造主義のいう「構造」と日常言語の「構造」を区別してないということですか?
その割にはいつも構造主義のいう「構造」の概念をもってして様々な意見に
反論していますよね。
そのメタはどこで止まるんですか?ただの悪無限のような。不毛な懐疑主義では?
262 :
パレルゴン二世:2008/04/20(日) 11:29:37 0
259
私も、日本的な思考パターンではありませんよ。
フランス的脱構築に興味があります。
と言う事は、分析哲学ですか?
ロジカルですか?
私は安易なロジックは絶対的な証明を信じ、抑圧的に支配的なもの
だと言う気がします。なぜかって?それは、ロジック自体の証明を
ロジックで行う必要があるからです。ここにもメタが無限後退する局面がありますから。
つまり、常に証明できない点を無限遠点に後退させている事を隠蔽しているからですね。
本日は今井さんとの会話で大変楽しかったですね。
また、よろしくお願いします。
次回は、今井さんの研究分野について、少し語っていただきたいね。
別に分析哲学が専門じゃないですけど、というか研究なんか何もしてません。
ただ哲学系の本を読むのが好きなだけです。
安易なロジックについては知りませんが、少なくとも分析哲学や論理実証主義
と呼ばれる思考においては、
「安易なロジックは絶対的な証明を信じ、抑圧的に支配的なものだ」という
反駁可能性、テスト可能性のない命題は命題ですらないということだけは確か
です。
また、「ロジック自体の証明をロジックで行う」のはいわゆる形而上学の
主張であり、それを放棄することからポジティビズムは始まります。
あと、今後わたしにレスするときは「亀井」宛にしてもらえませんか?
他の変な名前ならレスいらないです。
大変濃い内容の対話でした
265 :
考える名無しさん:2008/04/20(日) 23:20:43 O
全くそう思わない
一般人の直感に響かない言葉を羅列ししかも政治の重要性を説いてる時点で
下らないギャグ以下でしかない
下らないギャグを見た時、意味深に浸る瞬間がある。
つまり未熟だから
政治が重要でないという人間は犬以下
>本当の構造の意味
を追っている点で試合終了です
パレみたいな奴って学食の隅にいるよね。
在学7年目ぐらいで平気な顔で2世だとか言い始めて
在学9年目(学士)とかで「永遠の学食」とか謳ってる
40で自分の哲学の頂点に登ると感ずるも
50を過ぎる頃に自分の哲学を「疑う我」に気づく
定年退職とともに、ゼミのメーリングリストに向かって
純粋理性批判の再読会を提案・・・・・
271 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 06:06:02 O
>>268 同意
政治は重要
パレがダメなのは政治言語を持ってないこと
【中国の五輪参加状況】
1956年 メルボルン五輪 選手団が現地に到着後にボイコット(理由は台湾問題)
1960年 ローマ五輪 ボイコット(理由は台湾問題)
1964年 東京五輪 ボイコット(理由は台湾問題)■■開催期間中に核実験強行■■
1968年 メキシコ五輪 ボイコット(理由は台湾問題)
1972年 ミュンヘン五輪 ボイコット(理由は台湾問題)
1976年 モントリオール五輪 ボイコット(理由は台湾問題)
1980年 モスクワ五輪 ボイコット(理由はアフガン問題)
2008年 北京五輪 「オリンピックと政治を結び付けるな」
___
/⌒ ⌒\ ━━┓┃┃
/(  ̄) (_)\ ┃ ━━━━━━━━
/::::::⌒(__人__)⌒:::: \ ┃ ┃┃┃
| ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚ ┛
\ 。≧ 三 ==-
-ァ, ≧=- 。
イレ,、 >三 。゚ ・ ゚
≦`Vヾ ヾ ≧
。゚ /。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・
茶々入れ部隊も議論に参戦しろや
274 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 17:12:50 0
◆構造主義時代の構造 : レヴィ・ストロースによる未開社会の婚姻体系
を一例とするとき、
◆ポスト構造主義時代の構造 : x
の一例について
具体的な事例または用語をあててxを答えよ
275 :
考える名無しさん:2008/04/21(月) 17:27:12 0
>>274 答えよじゃなくて教えてくださいだろカス
答えよ
↓
>>276 Σ(゚∀´(┗┐ヽ(゚д゚ )ノ
イイシツモンデスガ シツレイイタシマシタ
>>274 だから資本主義経済システムだっつってんだろ、ボケ
修正主義的構造主義の父ということですね
282 :
パルメザン二世:2008/04/25(金) 00:29:01 0
父に、ありがとう
母に、さようなら
そして、全てのチルドレンに
厂 r‐、 ___|丁| 冂_
匚 く\ く\ノ 〈 |__└|┘ ! _|
_] 匚_ヽノ / o _`ヽ // | |
/ o r‐-、ヽ { 〈〉 | } } ( (___  ̄ 口Π
ヽ_ノ 〈_丿 ヽ_ノ く_ノ ヽ_丿 匚ノ
283 :
パレルゴン二世:2008/04/25(金) 22:28:25 0
ただ今、大澤の「ナショナリズムの由来」を読書中につき、当面は濃厚なレスはしません。
悪しからず。
何か面白い切り口があったら知らせてください。
それ新刊ですか?
286 :
パレルゴン二世:2008/04/27(日) 22:45:12 0
2007年6月28日発行です。
あとがきを加えると877ページの本です。
結構厚い本ですが、例のネグリ・ハートの「帝国」を批判的に読んでいる
ところが面白そうなので選んでみました。
大著なので時間はかかるかもしれませんが、東との近しい絡みから見ても
政治的視点からポストモダンを捉える力が養えるかも知れませんね。
そう言う意味でも、大澤のこの大著は必読かも知れません。
勿論、ハートは「ドゥルーズの哲学」と言う本を書いていますし、
ネグリも政治的にドゥルーズを消化しているところもあるでしょう。
だから、この辺が狙い目かなと言う事でもあります。
ネグリは確か、赤い旅団だったかのメンバーで、イタリアの首相を
誘拐しようとした事で、投獄されていましたよね?不確か(笑)
私も読んで感じたのですが、大著のわりには、「帝国」は論点の不鮮明なところがあり
そこを、明確にする点で、大澤必読でしょう!
なんでこの馬鹿は、二次文献、つまり批評本を得意げに批評してんだ?
一時文献を読んで、自分で批評をしろよ、馬鹿。
288 :
パレルゴン二世:2008/04/27(日) 23:00:27 0
なんとなく、グローバル化する資本が、一国の支配を乗り越えて、
国際化する運動が、国の規律を超えて進む異種混交的群集=マルチチュード
の運動に呼応するように現れるが、
最終的には、帝国はマルチチュードに敗れると言うストーリーには
不鮮明な点が多いと言うのが、大澤の見解の背景にあるようである。
詳細は読んでからってところかな。
289 :
パレルゴン二世:2008/04/27(日) 23:05:43 0
「帝国」はすでに読んでいますよ。
そうでないと、大澤を読んでも良く分からないでしょうね。
そう言う批判的な君も既に「帝国」は読んだのでしょうね?
それから「アントニオ・ネグリ講演集」上下は読んだかな?
恐らく読んでない?(笑)
290 :
パレルゴン二世:2008/04/27(日) 23:12:15 0
それと、いきなり「馬鹿」と言う前に、君が賢いと言う証明をしてからにしましょうね。(笑)
論議して、相手の力量を確認してはどう。(笑)
もっとも、本は読んでなさそうな言葉使い。
そっくりこの言葉を返して見ましょうかね。(笑)
何と答えるか楽しみです。
そんなことは良いから早く『ナショナリズムの由来』読んで!
『存在論的、郵便的』本読了後
↓
パレ「エヴァンゲリオンがただのカッコイイロボットアニメではないことが分かりました。」
↓
「ではアニメ的ポストモダン・・・」の流れマダー?
292 :
パレルゴン二世:2008/04/27(日) 23:27:49 0
287のような、異常にキレやすく、よく分からないくせに、批判的な態度は
きっと、不満があるのでしょね。自分の身の上にある不安。この不安を
忘れるか、あるいは不満を解消するために人を食ったようにカキコする
と言う、人に迷惑をかける事すらも知らずに、荒れる態度は、どう言うものでしょうかね。
もっと、人の話をよく聞かないと、哲学はできませんよ。
哲学とは多大な読書と持続的に理解をすると言う努力によっているのです。
まず、君の場合はこの忍耐・努力・持続があるのか心配ですね。
だから、いきなり、なにも議論をせずに「馬鹿」と言う言葉が出るのでしょう。
君の場合は哲学論議の以前に訓練が必要でしょうね。
その態度では、哲学の学習・論議はできませんよ。
おそらく、絡む事はなさそうですがね。(笑)
293 :
考える名無しさん:2008/04/27(日) 23:34:33 O
似非哲学者
294 :
パレルゴン二世:2008/04/27(日) 23:35:42 0
君に言われる筋ではないな。
それとも、君が書いて見たら。
私が批評してあげようか。(笑)
哲学書読破300冊の実力で見てあげよう。
無料で良いよ(笑)
それでは、アニメ的ポストモダン論どうぞ(笑)
勿論、俺は東コレクション「文学環境論集」はざっと読んでおるぞ。
これって、ぴかぁ〜ぽいな。
元気か????
相変わらず煽りに弱いやつだ
296 :
パレルゴン二世:2008/04/27(日) 23:44:14 0
293へ
それでは質問
1)君にっとって、哲学とはなんでしょう?
2)君が最も影響を受けた哲学者はだれでしょう?
また、その理由は?
3)2ちゃんねるは君にとって何なのでしょう?
4)君が好きな哲学を簡単にまとめてみてください。
以上の質問に一定の答えが書けた場合にのみ論議を始めてあげましょう。
アンサープリーズ。
ただし、返答は明日以降。(笑)
まともに書けるか心配だろうな。相手が300冊読破(怖いよう母ちゃん)(笑)
295じゃないが、煽りにすぐ乗せられるから、馬鹿とか言われるんじゃね?
298 :
考える名無しさん:2008/04/27(日) 23:46:56 0
295
相変わらず偉そうなことを事を「名無し」で書いておる。
299 :
パレルゴン二世:2008/04/28(月) 07:31:20 0
おいおい。
偉そうな事を言っておきながら、誰も自分の信奉する哲学の
内容をレス出来ないのか???
287・291・293・295????どうした?
まともな本も読んでなく、自分の言葉で言えないのなら、
煽るような、くだらん事を書く事はやめるように。
それとも、287「帝国」の解説をしてみてはどうだ?
291アニメ的ポストモダン論を分析しないのか? どうした?
質問してあげるから。
と言うと、静かにさみしく去っていくって事か?
もっと本を読んで、そして謙虚に発言する事が必要だな。(笑)
300 :
パレルゴン二世:2008/04/28(月) 07:37:09 0
今後は哲学的な論議以外のカキコはレスしませんよ。
他力ではなく、自分んで哲学書を読んで、レスするように。
もっとも、知識がないのに人を煽るような者は、哲学より
先に、努力をする事、謙虚であることを学ぶ必要あると思うよ。
それでは、がんばって下さいね、煽り屋諸君!!(笑)
301 :
考える名無しさん:2008/04/28(月) 08:01:37 0
自分の信奉する哲学って何だよ、気持ち悪いやつだな。
何かにすがり付くために哲学やってんのか。宗教板いけよ。
>>294 三百冊ってすごいですね。
ちなみに全哲学史を通しての書籍ベスト10はなんだと思いますか?
303 :
考える名無しさん:2008/04/28(月) 10:33:32 O
読書至上主義ってなんでバカばかりなんだろう。
基本、何人の女とやったというたぐいと同じだからだろ。愛がないんだよ。
305 :
養老武:2008/04/28(月) 10:50:47 0
306 :
考える名無しさん:2008/04/28(月) 13:20:26 O
パレは哲学解説書20冊程度がほんとのところだろ。
307 :
考える名無しさん:2008/04/28(月) 18:20:17 0
ジャック・デリダの指し示す構造とはxである。
「存在論的、郵便的」本から一語または一節を抜き出してxを答えよ
>パレは哲学解説書20冊程度がほんとのところだろ
俺もそう思うが、2ちゃんてそういうとこだろ。
誰でも書ける知ったかぶり天国。だからここまで人が多い。
最初は俺も真面目な議論してた。
で、知ったかする奴にはちゃんと突っ込み入れてたが、きりがないよ。
だから板の使い方を変えた。パレみたいな奴をモルモットとして扱う。
知ったかぶりの行動様式を観察するためのモルモット。
これがけっこう自分の利益になる。
309 :
考える名無しさん:2008/04/29(火) 05:33:30 O
「哲学書」三百冊読んで、取りあげるのが、東や大沢かよw
数自慢はいいから、少しはまともな「哲学書」を読めや、馬鹿
竹田読んでフッサール、ハイデガー読んだことにして
柄谷読んでカント、マルクス、ヴィト読んだことにして
浅田でフーコー、ドゥルーズ、デリダ・・・
彼らが対談で「言及した」だけの本も読んだことにしておこう
おっと、「図解雑学哲学」「あなたにもわかる現代思想」はマストよね
あっという間に300冊読破だ
パレやん、メタメタですやん
コテ叩きかっこわるい
313 :
考える名無しさん:2008/04/29(火) 15:40:40 0
構造主義かどうかは分からんが、
私は、暴力団とは、人のためには力を発揮し、自分の権力を誇示したりしないので、あう言う風に姿をあらわさないのではと思った。
つまり、人には尽くし、自分の姿を消す、と…
思った。
確かに、言葉は荒っぽいかもしれないが、自分の知人などを見ると、そういう風な人の集まりなのかなと思う。
それでは…
315 :
考える名無しさん:2008/04/29(火) 17:56:37 0
316 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 06:52:23 0
ちょっと見ない間に、また、煽り・中傷の皆様の集合ですね。(笑)
そんな時間があるなら、もっとまともな哲学的レスをしてはどうでしょうか??
310はまず君のあげた哲学(柄谷・浅田・竹田)の論点を自身で説明して
から、哲学論議を始めましょうね。
なんでも、哲学者の名前を挙げたら、その哲学者の哲学を理解したかの様に
自分で錯覚しているのかも知れませんよ。おそらくそうでしょう。
つまり、ある固有名の表記が、その固有名者の考えをすべて分かったかのような
錯覚をしているのではと、思えるからです。
いや、そうではなく、まったく理解せずに、固有名を並べているだでしょうかね。
その事で、自分はこの哲学者の哲学を分からないまま、分かっているような
ふりをして、他人の事を確認もせずに人を誹謗すると言う態度は、何時も指摘するように
哲学以前です。恐らく、まともに論議するだけの、哲学的な知識は持ち合わせていない
と言う気がします。間違っていたらごめんね。(笑)
317 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 07:11:38 0
308君はもっと哲学を真面目に読みましょうね。
今まで読んだ中で、君が影響を受けた哲学者は誰でしょう?
そして、その哲学はどのようなものでしょう。
固有名だけではなく、具体的にまとめて書いてください。
こう言う質問が誹謗・中傷・煽りを防ぐ方法でもありますが。
もっとも、ひとをモルモット的に見ると言う姿勢は、自分の哲学的な
思考力の限界を自分で作った、つまり、哲学をする事をあきらめた
態度であり、誹謗・中傷・煽りの輩に、敗北したと言う事で、自身が
彼らと同じ行為に陥ったと言う事でもありますね。
もう一度、一から哲学をはじめてはどうでしょうか?
自分の頭で考える為に本を読む。この努力が出来ないと哲学は無理では。
309(馬鹿?)君の言う「まともな哲学」とは何でしょうか?
具体的に書け!!!この「馬鹿」・・・・と言う感情的に
君と同じ様に述べて見ましょう。君はどう感じますか。
嬉しい?楽しい?(笑)
つまり、まずは、先ほどの質問、つまり、君が述べた不鮮明な・抽象的
文章を明確化するための質問にまずは答えていただきましょう。
また、東・大沢がどうしてだめなのか、彼らの哲学・思想
を論じてから、そのダメを証明してくださいませんか?
318 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 07:27:02 0
以前と比較して、2ちゃんねるの誹謗・中傷・煽りの度合が上がった
気がしますね。これは、2チャンネルに書き込む人の態度が
私がいつも指摘するように、哲学以前化した言う事でしょうね。
つまり、人を批判することが中心であり、哲学的な論議をするレヴェル
にない人のレスが増えた事からも明らかです。つまり、自分の哲学を持っていて
それを展開しつつ、知識を高めようとするのではなく、間違いを
指摘されたくない(傷つきたくない)自分が先にあり、
自己防衛の為に、中傷・誹謗へと先走りする。
こう言う状況が加速しているのではないでしょうか。
こう言う2ちゃんねる分析は、ある意味で、日本社会が今直面する構造的な
問題点をさらけ出しているのではないかと言う事で、逆に面白い
気もします。当面この辺の問題について語りたい気もしますね。(笑)
319 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 07:33:45 0
ほんじゃ、がんばってね。
まともに哲学をしましょうね。
今後も、誹謗・煽り・中傷は徹底的な哲学的質問で対応しますので、
答えられないような事を書く暇があったら、本を読みなさいね。
人を馬鹿にするのではなく、皆で日本を良くしようね。
ほんじゃまた!!!!????
>>319 で、全哲学史を通しての書籍ベスト10はなんだと思いますか?
321 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 10:26:56 0
そうだね。
真面目な質問のようですね。
こう言う質問をする前に、貴方のベスト10は何なのかを
先に述べてから聞くのがマナーでしょうかね。
それでも、貴方が紳士的に質問していると善意に解釈して答えてあげましょうね。
私にとって、哲学書をランク付けすると言う事はありません。
語源学的・系譜学的に哲学をトレースすると言う、構造主義・ポスト構造主義的スタイル
で学習すると、この本だけは必読だと言う事にはならないのですよ。
たとえば、ポスト構造主義であれば、ドゥルーズ・デリダであり、
その関連で、ラカン・ソシュール・レヴィ=ストロース・ハイデガー
だったりしますが、彼らの決まったある本を必ず読む必要はなく、自分に興味のある
知りたい部分を熟読することが、私のスタイルです。
この様な研究方法をドゥルーズもやっているようですし、
ある意味では、強引にある哲学者のある書物を自分なりに解釈しすぎているとの
批判がありますが、このスタイルこそが、ポスト構造主義的な多様なセリー
の実践なのですね。
それでも、私にとって重要な本は、ドゥルーズの「ミルプラトー」「アンチ・オイディプス」「記号と事件」
フーコー「言葉と物」、デリダ「エクリチュールと差異」、クリステヴァ「恐怖の権力」
レヴィナス「全体と無限」、ハイデガー「存在と時間」、それにフッサールやカントを
理解するための本でしょうかね。これらの本の詳細な内容については、
説明はしませんよ。各自で自分のコンテクストにそって読むように。
322 :
考える名無しさん:2008/04/30(水) 10:46:44 O
ベタ過ぎる選択に藁たw
323 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 10:46:44 0
それと、もうひとつ重要な事を教えてあげましょう。
つまり、どの本が重要だから必読だと言う前に、
なんでも読むことが知識向上にはとても重要です。
例えば、私の場合、現代思想の冒険者たちシリーズは知識向上に
重要でした。このシリーズは16冊ざっと読みました。
また、ちくま学芸文庫30〜40冊は読んでいます。
この様に多読が私の学習方法です。
特に現代思想の冒険者達シリーズは、忘れたときわざわざ原本を参照しなくても
重要なタームが整理されて分かりやすく説明されていますので、利用価値
があります。特に、自分が興味のある部分の周縁に位置する哲学者には
最適でしょうね。こう言う多読こそが、哲学(書)間の関連である
間テクスト性を見出す知識にもなるのですよ。
最後に、君らにレスについて、アドヴァイスします。
短い数行のレスではなく、このように詳細に説明する力を付けてください。
そして、まじめに、一生懸命レスをすると、短文で感情的な表現には
決してならないはずです。つまり、中傷・誹謗・煽りにはならないはずです。
書きたくても、知識も、書く能力もないので、感情的なレスになるのです。
長文とは言いませんが、まじめにレスしない輩には質問の嵐が待っていること
を肝に銘じてレスするように、分かったかね。(笑)
典型的な入門者だな。
325 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 10:51:56 0
322
私が言ったように、この例が短い文章と独断的な判断になります。
これも煽りに一種です。
君の言う「ベタ」ってどういう基準ですか。
詳細に答えなさい。つまり、深い考察もなく独断で言っていることであり、
哲学的コメントでは全くありません。
答えられないなら引き下がるように。(笑)
326 :
考える名無しさん:2008/04/30(水) 10:52:24 O
ああ、現代思想の冒険者ねw
通りでw
327 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 10:54:33 0
324
「入門者」とはどう言う事でしょう。
君は入門者以前でしょうね。一行クン。君らの事を今後一行
荒しクンと呼びましょう。長文はかけませんから(笑)
328 :
考える名無しさん:2008/04/30(水) 11:07:28 O
落ち着け、パレルゴン
またキーボードクラッシャーになってるぞ
>>321 「ミルプラトー」「アンチ・オイディプス」「言葉と物」
「エクリチュールと差異」「全体と無限」「存在と時間」
これらの本なら「現代思想の冒険者たち」に書いてあること以上のことが
わかり、それ以外の本は「現代思想の冒険者たち」に書いてある以上の
ことはわからないということでよろしいですか。
貴方のレス読むとそうとしか感じられないんだが。
煽りじゃないですよ。話を明確にしたいだけなんだ。
バレの元ネタは「構造と力」だろう。
それ以上でも以下でもない感じだな。
>>329の本はその参照で目を通した程度だろう。
332 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 21:36:00 0
誤解しているな。
位置付けとしては、「現代思想の冒険者たち」は、シリーズ名の通り
現代思想の全体の知の配置を多面的に知る意味で読んだものであり、個々の翻訳本は
私自身自身が興味のある哲学を探求するために読んだものだ。
先にも述べたように、現代思想(この場合構造主義とポスト構造主義を指す。)
は、ある特定の本を読んでも理解しにくい、そこで基礎知識として、幅広く
見渡せるように、現代思想の冒険たちを乱読し、同時に、興味のある
哲学書を紐解いたと言う位置づけである。
だから、私の読まなかった翻訳本は、現代思想の冒険者たちシリーズを
読めば十分であると言う事ではなく、興味のある範囲ではないので
読まなかったと言う事だ。これは、私の興味の問題である。
よって、諸君が違う哲学に興味があれば、その方向に学習するべきだ
と言う事だね。
勿論、ある哲学者の「冒険者シリーズ」と翻訳本の著者が一致する場合は、
貴方の言うように、翻訳本の理解を高める為の補助として使用したと言う事だ。
333 :
キタニキョク:2008/04/30(水) 21:53:54 0
構造は、最後のところに力を加えるとモーメントが掛かる。
学びの館で勉強しなおしなさい。
334 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 21:55:58 0
何度も言っているように、構造主義やポスト構造主義哲学は
デカルト・カントなどの古典と言われる哲学の様に、ある哲学者やその哲学者のある本
を熟読すればそれで事足りると言うものではないと思う。
つまり、存在論・記号論・精神分析・文学・物理学・数学・系譜学(ニーチェ)
文化人類学など(あるいは映画論)幅広く俯瞰できる知識がなければ
ならないのだ。だから、冒険者シリーズのような分かりやすい本を
先に乱読すべきと言うのが私のアドヴァイスだ。
そして、このような多面的な知識が不十分なために、ソーカルのような
誤解が生じると言う事でもある。
とにかく、乱読乱読だよ。最初は分かろうと思わない事だ。
熟読しても分からない。それで良い。ただ読み考える。
そして他の著書を読んだとき、その先に読んでわからなかった所が
解る様になる。つまり、閃きだよ。
こう言う意味で私の哲学姿勢はぴかぁ〜のとは180度異なると言う事だ。
彼は、理解よりも書く事に重点を置いている。
立派な論文を書くために、彼は術語を中心に据えて、そこから個人の
アレンジを加えて書こうとする。私は理解するために読む。
書くのは二の次と言う事だね。この差は大きいと思う。
どちらが良いかは、個人の判断だろうね。
今までスレッドの中心として書き込んできたが、構造主義・ポスト構造主義
の範疇では、ぴかぁ〜・松井さん?が良い書き手だろうと思う。
彼らの意見も聞いた方がいいだろうね。
335 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 21:59:53 0
333ボケニ極
ニ行荒し君、ボケた事言う前に、長文のレスをしろ。
意味不明だね。全く哲学の素人が!!(笑)
文章が書けないのだろう。(笑)
もう一度10行くらい書いてみろ。書けるか。(笑)
336 :
パレルゴン二世:2008/04/30(水) 22:07:59 0
松井さんではなく、亀井さんでした。お詫びして訂正いたします。
一行・ニ行荒しは、感情的な短い言葉で、相手を否定しますが、
知識がないので、この様な書き方しかできませんので、皆さんは
無視するか、馬鹿にして下さい。そうすれば引きこもります。
自信がないのです。否定される事を異常に怖がっていますので、
以上の対策で十分です。そのうち、私が、彼らの生態を分析して見ようと
思っています。簡単ですよ無知ですから。(笑)
ほんじゃ今日はこれまで。(笑)
一行荒しはマンガを読みなさい。(はっはっは・・・)
300冊のうち、翻訳原典と整理のための本(「現代思想の冒険者たち」とか)の内訳は?
まさか20:280とかじゃないよね。
パレルゴンは本なんか読まなくていいから、人間を磨け。
あまりにも器が小さすぎる。
339 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 19:14:20 0
8段で2メートル幅の本棚が哲学書と絵の本でいっぱいだ。
これが私の書斎。
ジジェクの本が7冊見えます。その横にバタイユ6冊、ラカン7冊。
上段にはドゥルーズ25冊、その下にフーコー7冊、レヴィナス6冊、
デリダ8冊、東7冊、ガタリ3冊、ボードリヤール2冊、
小坂修平2冊、カルチュラルスタディーズ系4冊、スピバク4冊、ネグリ帝国1冊
構造主義の歴史上下
アゲインストポストモダン一冊、浅田:構造と力、逃走論他、鏡の背面、モノー偶然と必然
ハイデガー6冊、アガンベン3冊、大澤「ナショナリズム・・」、
サルトル5冊、古典:デカルト・カント・ライプニッツ・ベルグソン・ヘーゲル
ウィトゲンシュタインとラッセル、哲学の歴史11(論理・数学・言語)
ハバーマス、ハンナアレント、中沢新一5冊、竹田4冊、柄谷5冊
モラン、アーサーケストラー、F.カプラ、丸山のソシュール、バトラー
Mポンティ「知覚の現象学」、
文庫本ではフーコーのちくまコレクション6冊、今村、
サイード、ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源」上下、ハイデガー形而上学入門
フルキエ「哲学講義1」カント「純理」柄谷探究T・U他、ハイゼンベルク
渡辺二郎「英米哲学入門」「芸術の哲学」、「西洋哲学物語」、「西洋近代思想史」
ジャンジュネなどかな。これでもすべてではない。ユリイカ・現代思想もあるし、
文庫本にももっとたくさんある。さっと見て哲学書だけで、400冊くらい
蔵書があると言う事だ。
たいしたことないな。むしろポモ初心者にありがちな蔵書。
341 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 19:27:31 0
338
器が小さいのならば、どうして、東の郵便的や浅田の構造と力の解説
をするのだ。本質的に懐が大きいからできる事だ。
確かに、純一が求めるポール程丁寧で親切ではないことはあるだろう。
それは、丁寧であれば、学習意欲のあるものを引き込めると考える
かどうかだろうな。私はそこまで丁寧であっても意味はないと考える。
要はやる気だ。やる気のない者は強く出るとひっこむ。これでは、
哲学は学べない。どんなに虐げられても、這い上がってくる奴だけが
一流になれると言う事だよ。
ポールとは俺も絡んだ記憶があるが、ああ言うやつは是非戻って来てほしい
が、おそらく、良い子過ぎて、自分のイメージに負けたのだろうなぁ〜。
残念だね純一。今度は君が引っ張る番でしょう。
亀井さんも思いっきり自分を出すべきでしょう。
間違い・誹謗・中傷で傷つく事を恐れない勇気が進歩させるのでは?
是非戻ってきて欲しいものです。
342 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 19:32:22 0
340
ボケ一行煽りクン。
まだくだらぬ事をやっているのか(笑)
どう言う本を読んでいるやつが上級者と言うのか言ってみ。
また、お前の読んだ本を書いてみろ。
内容を質問してやるからするぞ。さあ逃げて漫画でも読んでろボケが。
客観的に見てこんな感じかな
チンポ太郎>Theグル>しろうと>(批評と感想の壁)>亀井>パレ=ぴか
344 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 19:42:53 0
340
馬鹿ですから上級者とはどう言う者かを定義できません。
長文が書けません。
独断的な一言しか言えません。
論理的に説明ができません。
分析能力がないので理由を書けません。
すべて能力の欠如です。それは、努力が出来ないからです。
一刻も早く哲板を去って、芸能欄へ行きまでょう。(笑)
345 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 19:50:31 0
343
君の言う客観的とは、どう言う基準でしょうか。
君に上下の順位を決定できるほどの知識があるとは
到底思えませんね。君も一行煽りクンでしょうね。
とても、このような判断をニ行ほどで出来るとは思えません。
君が挙げた人の知識レヴェルを君が証明し、その比較から順位付けるのは
君の自由だが、おそらくそれほどの知識レヴェルではないだろうな。
だから、断定的にいっただけで、やはり、低レヴェル一行煽りだね。
勉強して出直してこい。
346 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 19:57:38 0
くだらぬ1〜2行の独断的断定君らは、勉強不足ですから
説明が全く出来ません。だから、感情的な発言になるのです。
また、極端に説明することを恐れています。
なぜなら、自分がしているような、煽り・否定を受けるのではないかと
おじけずいているからです。
そうでなければ、論理的に丁寧に理由を書くはずです。
つまり、書きこむたびに、君らは、君らの弱い心と、知識のなさ
を露呈しているのです。(笑)
ぼけが(笑)
チンポ太郎>Theグル>しろうと>(批評と感想の壁)>亀井>パレ=ぴか
これは妥当じゃないか。
文献の読み込み度、理解度、知識の広さ、文章力などなど。
しろうとは東に関することだとたちまち冷静さを欠くけどねw
パレはスレの煽りに乗らずに、ぴかぁの図太さを見習おう
亀井が最大の煽り屋だとなぜ気付かない?
>>347 これだとバレをからかっているのが誰かまるわかりだな。
>>339 本当にこれだけ読んでいて、その程度しか語れないとしたら、
哲学やめた方がよい。
352 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 22:11:15 0
チンボ太郎はヘーゲルだけ。グル知らん。しろうとは非常に頭が良い
纏めるのがうまいが、俺の判断では読書量が足りない。素質は十分だ。
亀井は知識量は多そうだが、ポストモダン的な思考を実践的に見る事
が出来ていないし、基本的にカキコが少なく、スレッドの最初に
刺激的なレスをしたまでは良いが、要領がよすぎる。
もっと、本当の実力を出してほしい。間違っても良い。
ただし、君らと違い、かなり勉強している事は、最後のレスで「悪無限」を指摘した点で
十分にわかる。よって、再帰を求める。
347のコメントについては、「文献の読み度・理解度・知識の広さ・
文章力など」を判断材料としているのは良いが、具体的に比較した内容が
皆無であり、説得に欠ける。
チンボ太郎とは一回だけレスしあったが、彼はヘーゲルしか分からなかった。
ポールはこのチンボのレスを吸収して、フーサールへいったのだろうな。
いずれにしても、君らも、真面目に哲学をやれ。この様な個人批評する力量はない
と判断する。
348
学問に図太さはマイナスにしか作用しない。
なぜなら、哲学とは「どうしてか?」と無限に問い返す作業であり、
ある意味、神経質な作業なのだ。
図太さとはどうでもよいと無視する事だからだ。
それと、俺には煽り野郎がこの哲板を食い物にしている事が許せない。
力量不足は哲学書を最低10位読んでからいらっしゃいと言う事だ。
ようは、雑魚で邪魔なのだよ。
漫画でも読んでらっしゃいって事だね。(笑)
353 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 22:17:30 0
351
まだニ行煽りをやっているのか。
いいかよく聞けよ「その程度・・」の意味を具体的に書いてみろ。
代名詞はその指し示す内容が先にあって、それを指しているんだよ。
解ったか。「その程度」の「その」は何を指しているのだ。
そして、「その程度」以上をお前が説明出来て「その程度」の意味が
初めて分かるんだ。
解ったかぼけが(笑)
354 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 22:24:32 0
ほんとにお前らは寂しい人生を送っているなぁ〜。
これじゃあ、哲学も頭には入らないな。
レヴェルが低いくせに、人を批判する。
100年いや1000年早いな。
哲学的なレスはゼロで、人を馬鹿にするだけだ。
人を馬鹿にするだけ、お前らが馬鹿であることを示している
と言う事だ。
今までの、お前らのニ行煽りに対する俺の質問にまともに答えられたやつはいない。
つまり、それくらいの低レヴェルなのよね君らは。(笑)
哲学板に来るの早くない。(笑)
読んだと理解しては違うからな。
一生懸命勉強するのに点数が低い奴っていたよな。
>チンボ太郎はヘーゲルだけ
チンコの専門は現象学だぞ。
大学の講義を盗み聞きしてまで勉強した。
ヘーゲルも勉強しただろうが。
チンポはハイデガーでしょ?
誰かと勘違いしてる?
いままでの優秀コテはだれもが研究者並の専門分野があった。
バレは広く浅くが駄目なのではないか。
一つをもっと掘り下げてそこから広げていく方が良いだろう。
東を読んでもしようがない。デリダを極めるならデリダを極めろ。
359 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 22:53:32 0
ニ行クン。(笑)
おやすみ。
このスレッドに書いた俺の文章を読んでみたら、読んだだけか理解して書いたか
解るかもよ????(笑)
書けると言う事は、理解してしないと出来ないのよ。
あくまで、原則ね。
解らずに出鱈目書く人もいるよ。
誰とは言いません。(笑)
確かに君の言うように、勉強時間は長いが、一向に理解していない
やつがいたよ。あれは、まじめすぎるのよね。
例えば「勉強しろ!」と言われるから、机についているが、
記憶する、理解する事が勉強だと解っていない。だから、机についている
だけなのだよ。君もそうじゃないか?(笑)
いずれにしても、君もニ行クンね。
それじゃ、がんばれよ。
今日は終わりです。
ああ〜、くだらぬ時間をつぶしてしまった。(笑)
OFW マルクス
チンポ太郎 現象学
しろうと 東
ぴか ラカン
361 :
パレルゴン二世:2008/05/01(木) 23:03:24 0
358
俺がだめだと決める権利は君にはない。
また、人を判断する程の実力も君にはないだろう。
人の実力を判断するには、判断する対象者以上の知識がないと出来ない
と言う事を分かっていないね。
だから、先ほどから言っているように、哲学を語れと言う事だ。
君らニ行君は全く哲学を語っていない。
つまり、無知だから、人の批判と未熟な論旨で、人の(哲学批評ではなく)批評することしか
出来ない。
何度も書いているので、前のレスを読んで、哲学書を読んでから
出直せ。いいな。
ほんじゃ がんばれよ。
362 :
考える名無しさん:2008/05/01(木) 23:37:24 0
‥‥そんなワケで、やっぱり、テレビブロスと言えば、「好きな男」よりも、「嫌いな男」だろう。
そして、今年の「嫌いな男」のワーストワンに輝いたのは、堀江貴文だった。
続いて、「嫌いな男」の2位は、毎度オナジミのキムタクだ。
今回の理由は、「(嫌いな男がキムタクだなんて)当たり前で申し訳ないのですが、
顔はデカいわ、喋り方に知性のかけらも感じないわ、性格も実際に悪いわで、一体何がイイのか理解不能。
あの足の短さで、ジーンズのCMなんてよく引き受けたな、と。そのうぬぼれがまた!(怒)」
「性格の悪さが年とともに顔に表れてきてるよね、彼は」「若者の言葉づかいが汚くなった元凶」
「立ち小便を写真誌に撮られる品のなさ」「おまえのドラマ、全部コスプレ?」と言う、
これもまた、当然の理由ばかりだった。もちろん、これらは、実際にキムタクとお仕事をしたり、
インタビューをしたりして、顔を合わせた女性たちの声だ。
キムタクの性格の悪さやテングっぷりは、タレントや業界人なら誰でも知ってるから、
「an・an」とは正反対の結果、つまり、真実の結果になっちゃうけど、とにかく、
あんなに性格の悪い人間は、性格の悪い人間だらけの芸能界の中でも珍しい。そして、
この結果が、それを証明してるのだ。とにかく、あたし的には、去年のマリファナ事件の時は、
キムタクは事務所ぐるみの必死の証拠隠滅で何とか逃げ切ったけど、今年こそは捕まって欲しいと思う。
それにしても、1位のイノシシ社長もワキガ、2位のキムタクもワキガって言うのは、
やっぱり、匂いの分からないテレビで見てるだけの人たちと違って、
同じ現場で働いてる女性たちならではの結果だろう。
363 :
パレルゴン二世:2008/05/02(金) 00:08:57 0
358
広く勉強するのはポスト構造主義の関係性を重視した哲学のスタイルだ
と何度も言っているだろう。解っていないなぁ〜。私のレスをよく読むように。
私のレスにはよく読めばかなり深い内容を習得できるのだよ。
これは、君ら低レヴェル人への出血大サーヴィスなのである。
362
誹謗・中傷・煽りでは効果がないので、今度は、嫌がらせか(笑)
人に好かれるために哲学なんかやる人はいないだろう。(笑)
君って本当に哲学を学習する為に、哲板に来ているの???(笑)
だからさ、先ほどから言っているように、芸能板へ行きなさいね。
良い子だから・・・・(呆れて物が言えない・・・????)
ほんじゃ、がんばれよ。煽りクン。(笑)
パレルゴンの駄目なのはなにをしたいのかがないからだろう。
このスレもなにがしたいか見えない。
なにかをしたいから哲学を学び、本を読む。
なにかがないから漫然と読み、右から左に流れてしまう。
哲学本は目的なく読むと、すぐに抜けていくよ。
>哲学本は目的なく読むと、すぐに抜けていくよ。
と、積むことができない。深めることができない。拡げることもできない。
名書は読み方によって深まるよな。
冊数を自慢するやつにろくな奴がいたためしはない。
>読み方
が全てだ。
文字列にスローガンを読み取ることしかできないのか、
または哲学を読み取ることができるのか、
それは読む者の能力に拠る。
またやってんのかw
パレは素人にしては知識はあるが、もともとの頭のベースが良くない。まだぴかぁ〜の方がまし。
これじゃあいくらやっても、駄目だ。
ムチャクチャになってるなw
東スレが郵便本知らずの輩ばっかになっちゃって、こっち見てたんだが。
最初のほうは面白かったのに。
もう郵便本読まないなら、他の本について語れば。
どっちにしろ、テーマを狭めてくれたほうが参加しやすい。
370 :
パレルゴン二世:2008/05/02(金) 10:05:34 0
相変わらずだね。
哲学の討議が出来ないやつが、人物評価できると思うのが、
傲慢なのだと言う事がまだ分かっていない。俺の言った事をよく読め。
俺が今、哲学をレスしない理由は、
無知な君らにタダで教えてもしょうがないからだ。
364は「ダメ」と言うが、君は何か書いたか??書けないくせに。
哲学的な事を何も書けない輩は煽りに過ぎないのだ。
あわよくば、俺のレスを未熟な自分の理解の助けにしようとしているくらいだろ(笑)
まあ、くだらぬ人物評価をしている間は、哲学は教えないな。
早く、君の哲学論を語ってくれ。
そうしたら、少し教えてやろうか(笑)無理だろうな。
365〜368の雑魚。
君の哲学論を書いてくれ。評価してあげるから。
勿論、人物評価ではなく、君らの哲学の評価だよ(笑)
書くだけの自信と勇気があればだが??
無理だろうな。ろくに哲学書を読んでいないようだからな。(笑)
哲学を論じろ。君らの様なレヴェルで人の評価を論理的には出来ない。
人のレヴェルはその人の哲学的な論理に対して、未熟さを指摘して
初めてできると言う事が解っていない。
早く、君の哲学を書きな。それから論議しよう。
それが出来ない様では、芸能版行きだ。(笑)
俺はそれぐらいのレヴェルのやつを求めているのではない。申し訳ないが
君らの様な中傷・煽り連中を対象にはしていない。
よって、このような中傷が続く以上、哲学的なレスはない。
残念ながら、崇高な討議を2ちゃんねる求めた事が間違いだった
この様なくだらない事に時間を使うより、独自の研究に時間割きたい。
ほんじゃ、がんばれよ。一行煽り諸君。煽る暇があったら、本を読んだら(笑)
で?
お前はソープでも行ってスッキリしてこい、まじで
373 :
考える名無しさん:2008/05/02(金) 10:27:24 0
お前らの様な奴がいるから、パレの哲学が聞けなくなったんだよ。
良い書き手は、去っていく。2チャンネルは荒れて行く。
トホホ・・・・
>>373 わかったから、くだらないレスしないで早くバレが望むレスしてやれ。
375 :
考える名無しさん:2008/05/02(金) 10:32:25 0
彼の師匠じゃないの?
気持ち悪いな
パレルゴン二世という人をよく知らないけど、
>>370を見ただけでお里が知れます…
ぴかぁ〜が名無しで荒らしてるのがまだわからんのか、パレは。
相手になったら奴の思うつぼだろうが。
ぴかぁ〜でも純一でもいいから少し黙ってろ!
パレルゴンさんてほんとうにすごいですよね。多読博識なだけでなく
難解といわれる現代思想をすっきりとまとめて我々の前に提示してくれます。
また高潔で孤立を恐れない議論姿勢にも頭が下がります。
一方でユーモア感覚も抜群で、余裕ともとれる戯れなどもみせてくれます。
パレルゴンさんの影響でドゥルーズを少し読み始めました。
存在の一義性?超越論的経験論?襞? えっ、何それ、て感じで読んでいます。
またすごいレス書いてくださいね。お待ちしていまーす。
馬鹿っぽい
ぴかぁ=日大卒の警備員
パレルゴン=武蔵野美術大学中退のコンビニ店員
といったところか
ぴかぁと呼ぶ人ってw
100レスに渡って、痴話げんか…w
ま、たまにはいいんじゃない
384 :
のぶお:2008/05/04(日) 21:34:54 0
わたしも郵便本を読み始めたものなのですが、なかなか難解で
論旨がつかみにくいというのが正直な感想です。
[規則や固有名の超越論性は端的に存在しない。それはコミュニケーションの
失敗(誤配)から遡行的に捏造されたものにすぎない。より正確に言えば、
私たちが「超越論性」と呼ぶものは、郵便空間の亡霊的効果の実体化にすぎない。]
p132
[「不可能なもの」は複数ある、私たちは述べてきた。だがより正確には、「不可能
なもの」非世界的存在そのものはどこにもないと言うべきである。ただし非世界的
な効果は存在し、それは個々の情報がもつ速度のずれにより、つねに複数的に引き
起されている。]p180
「不可能なもの」=「超越論性」なるものは端的に存在しない。それらが
存在するかのような効果が存在し、それはコミュニケーションの失敗によって
引き起こされる。
これが郵便本における「超越論的なるもの」にたいするとりあえずの結論と
いうことでいいのでしょうか?
よいよ!
でも間違っているけどね。
だって郵便空間の亡霊的効果だって実在的なものではなくて、
一つの超越論的なものなんだからね。
386 :
のぶお:2008/05/04(日) 23:39:46 0
細かいところで、郵便本の論旨とは直接関係ないところなのですが、
いくつか気になるところがあるので、ここでぶつけてみたいと思います。
p225
[自然言語文「Nothing is outside.」は実際には、Ou(nothing)という
命題関数、つまり「外に無がある」へ変換されてはならない。それは正確
には〜∃xOu(x)、つまり「『外にある』という性質を満たすxは存在しな
い」という形式に変換されねばならない]
ここではカルナップによる有名なハイデガー批判が解説されているのですが、
このカルナップの説明はちょっと変だと思うのです。
というのも、「存在する」は「性質」ではなく「構文論的形式」であって、
思考の対象=「性質」ではないにもかかわらずハイデガーは存在を性質と
して扱っているのが間違いであるというのがここでのカルナップの趣旨
なのですが、その批判を展開するさいに「外にある」という性質という表現がそこで
使われてしまうのは納得できません。「存在」=「ある」が性質ではない
というのならば同様に「外にある」もまた性質として扱ってはならない
のではないでしょうか?
まあ標準の一階の論理が副詞句をうまくあつかえないということからくる問題
なのでしょうが。
パレルゴン先生、出番ですよー
>>386 『郵便的 存在論的』は読んでないけど、その論点に関しては『論理的観点から』のクワイン理説を参考にして何か言いたいんだけど、読み返すのがしんどいのでやめとく。
389 :
のぶお:2008/05/06(火) 16:52:48 0
もう一点郵便本の論旨とは直接関係のないところで疑問におもったところがあります。
カルナップによるハイデガー批判について
郵便本によると、カルナップのハイデガー批判は2つに分けられる。
@思考可能なもの(オブジェクトレヴェル)と思考を規定する論理形式=思考不可能なもの(メタレヴェル)
との峻別(をハイデガーが無視している=非論理的)
A命題関数の変数化 :「存在」は名詞ではない(にもかかわらずハイデガーは
命題関数「存在」を名詞化している=非論理的)
この批判について郵便本では、
@の批判に対して前期ハイデガー哲学が
Aの批判に対しては後期ハイデガー哲学が
それぞれ回答を与えているとされる。
390 :
のぶお:2008/05/06(火) 16:58:49 0
@の批判に対する前期ハイデガー哲学の回答
思考可能なもの=思考対象の中に、思考対象(オブジェクト)とそれを規定する
思考形式(メタ)が「折り重ねられる」特別な存在者を見出す。
メタとオブジェクトを媒介するその対象について思考することで、思考不可能
なものに対する思考が開かれるとされる。
[論理形式は人間により産出される。にもかかわらず同時に人間は、一事物として論理形式に
従う。それゆえ世界=思考の限界についての問い(Frage)は、世界=思考そのものを産出する人間
という存在者の「実存論的構造」に問いかけることで探求]可能とされる。p233
この独特の二重構造を「二重襞」とよび、それが見出される存在者を
「現存在」という。
この発見によりハイデガーの哲学は、
[はじめて、メタレヴェルをメタレヴェルのまま、すなわち対象化
することなしに考察することが可能になった]p233
思考対象と思考を規定するもの(論理形式)というオブジェクトとメタの
峻別は現存在という二重襞構造をもつ存在者において破られる。
郵便本によれば、この前期ハイデガー哲学の分析によって、カルナップの
@の批判は内在的に乗り越えられたとされる。
391 :
のぶお:2008/05/06(火) 17:05:42 0
[しかし私たちはいまだ、論理形式が名詞化される理由は検討していない。それゆえ「不可能なもの」
がある特定の単語(この場合は「存在」)により名指され、実体化されて論述主題とさっるメカニズム
はまだ正当化されていない。]p237
このカルナップのAの批判に対しては後期ハイデガーが回答を与えているとされる。
ところが後期ハイデガーについて郵便本では
[後期ハイデガーは「存在」と存在了解、つまり限界=基礎(クラインの壷構造)とその産出過程との
関係を逆転させてしまう。彼はもはや、人間存在が「存在」の意味を産出するとは考えない。
人間存在はむしろ「存在」そのものの力により産出される]p238という。
だとするならば、後期ハイデガー哲学がカルナップのAの批判に回答できるのだと
しても、今度は再びカルナップの@の問いに回答することが求められてしまうので
はないでしょうか。
@の批判には、現存在の二重襞構造の発見によって内在的に乗り越えられた
それは、人間が、一方では論理形式を産出し。同時に一事物として論理形式に
従うという特別のあり方をしているという前提に依拠している。
これが前期ハイデガー哲学であった。
一方Aの批判に答える後期ハイデガーは、前期ハイデガーの二重襞構造を宿した
現存在という前提をとらないとされる。
[人間存在はむしろ「存在」そのものの力により産出される]
この態度変更が、Aの批判に対する回答にとって必要条件であるならば、
後期ハイデガーはAの批判に回答できるが、@の批判には回答できず
前期ハイデガーは@の批判に回答できるが、Aの批判には回答できないという
ことになりはしないでしょうか。
とりあえず郵便本を読みながら感じた疑問点を書いてみました。
スレも若干停滞ぎみのようなのでこういう書き込みもたまにはいいのではないかと
392 :
のぶお:2008/05/06(火) 17:53:51 0
ところで、郵便本をよみはじめたころ、私はある期待を
ひそかに抱いていました。
それはこの本が否定神学的思考を脱構築するものとしての郵便的脱構築
なるものをあつかっているからでした。
この本によれば否定神学とは
[肯定的=実証的な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的な
表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在がある、すくなくとも
その存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般を
広く指している]p94〜p95
この説明を読んだときに、頭に浮かんだのは永井均の独我論でした。
それは簡単に表現すれば、
<わたし>について語ることはできない。<わたし>とは
その語れなさについて語ることでかろうじて否定的にしめされるなにかで
ある。といったあきらかに否定神学的思考を示すものです。
なので、否定神学をずらすとされる郵便的脱構築を理解することによって
永井の独我論を脱構築できるのではとひそかに期待していたのですが、
郵便本を読みすすめていくにしたがってどうやら期待うすらしいという
気がしています。
誹謗中傷に反応する限り誹謗中傷の枠から抜け出しきれていない
395 :
のぶお:2008/05/06(火) 18:54:22 0
>>394 ひとつには郵便的脱構築というものがはっきりしないんですね。
まだ読んでる途中ではありますが、
なんだが、それ自体否定神学的なものなのではとさえ思えてくるほどでして。
それとなにより、永井の文体=ロジック(思考)と、郵便本の文体=ロジック
(思考)の違いから、二つをどう接続すればいいのか読んでいてまったく見えてこないの
です。
たとえば東は
[思考の切断は隠喩の切断と切り離せない]p159
と書きます。
こういった思考は永井にはおそらく存在していないでしょう。
まあ、まだ読んでる途中ですし、一回読んだだけではちゃんと理解
できている自信もありませんしね。
>>395 永井は知らないが、いまどき隠喩を語らないってヴィト前期以前?
ヴィト前期→後期
398 :
のぶお:2008/05/06(火) 21:13:55 0
>いまどき隠喩を語らないってヴィト前期以前?
隠喩を語らないという意味じゃないんだ。
永井に論理実証主義者みたいなイメージをもったのかもしれないけど
そういうことじゃ全然ないよ。
自分が使っている哲学的用語=概念=隠喩によって思考の潜在的可能性
が規定されてしまうという発想が、永井にはないってこと。
たとえば永井は、<わたし>の独在が一般化されることを頽落という
おそらくはハイデガーの用語(隠喩)を使っているけれど、
永井自身はおそらく、そのような言葉をあえてえらんで使っていることに
特別の意味を見出してはいない。
一方東は、概念=隠喩の力をたかく見積もっているがゆえに
たとえば、
[ハイデガーの「呼び声」は声-意識の中心性を脱構築する概念装置であり
、その限りで評価できる。しかし(中略)まさにその隠喩を採用したこと
によって、ハイデガーは形而上学的思考に再びとらわれる。思考の切断は
隠喩の切断と切り離せない。]p159
と書く。
まあ、こういうのは表面的なことといえるかもしれないけどね。
>>398 郵便本は隠喩論。基礎知識がなさすぎる。
柄谷から読め。
永井−柄谷−東
401 :
のぶお:2008/05/06(火) 22:52:04 0
柄谷は読んでますよ。
永井の柄谷批判論文(『魂に対する態度』)も。
永井-柄谷という路線で読む限り、単独性-独在性という永井の土俵で
思考するしかなくなると思います。
柄谷読んでもわからない?
単独性-独在性は単なる言葉遊び(レトリック)、ってこと。
脱構築はレトリック(隠喩)論
403 :
のぶお:2008/05/06(火) 23:30:56 0
>柄谷読んでもわからない?
>単独性-独在性は単なる言葉遊び(レトリック)、ってこと。
うん、わかんない。
柄谷のどこをどう読むとそういう結論がでてくるの?
そもそも柄谷は独在性について論じていないし。
というか単なる言葉遊びという批判は、どんな哲学にもいえちゃうんじゃないかな。
確かに、柄谷読んでもわからん。
柄谷は自らとデリダと重ねるが、実はぜんぜん違う→郵便本
>というか単なる言葉遊びという批判は、どんな哲学にもいえちゃうんじゃないかな。
レトリックな。
論理学から修辞(レトリック)学へ
柄谷永井ゲームは、「単独性(独在性)」がある(orないことである)ことをすでに前提にする。
だからデリダは「単独性(独在性)」を抹消の下におく。
まじめな永井ヲタにはルール無用のレトリックの底なしに耐えられないだろう。
引き返した方がよい。
のぶおさんは、「何が正しいのか」を探している気がしますね。
デリダ学派はそういったものを横すべりさせるのが得意な人種なので、
あまりオススメできないかも・・・。
>>408 転倒させてはいけない。
最初にあるのは、日常言語。論理学は、ルールによって範囲限定しゲームとして
成り立たせようとする。デリダはただ当たり前のことを言っているだけ。
哲学ヲタは日常から逃避してきた人たちなのでデリダが見せる現実に耐えられない。
>>409 「何が正しいのか」を探す態度は転倒ではない、とおっしゃるわけですね。
つまり自分が「当たり前」だと思い込んでいるものや、「日常」だと思い込んでいる
ものを信仰するのが、あなたにとっての「現実」なのですね。
>>410 意味不明。
「何が正しいのか」を探す態度が転倒。
413 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 16:20:03 0
>>408 そういう適当な理解をする人が多いので困る。
>>409 ぐらいのことは当然限踏まえて欲しい。
414 :
のぶお:2008/05/07(水) 20:51:04 0
>柄谷永井ゲームは、「単独性(独在性)」がある(orないことである)ことをすでに前提にする。
>だからデリダは「単独性(独在性)」を抹消の下におく。
いや、そもそも永井の独在性の<私>自体が抹消記号なんですよ。
>最初にあるのは、日常言語。論理学は、ルールによって範囲限定しゲームとして
>成り立たせようとする。デリダはただ当たり前のことを言っているだけ。
>哲学ヲタは日常から逃避してきた人たちなのでデリダが見せる現実に耐えられない。
発想が素朴すぎますよ。ルールによって範囲限定しゲームとして成り立たせよう
というのはあらゆる哲学に当てはまることであってデリダもその例外では
ありえませんよ。
415 :
のぶお:2008/05/07(水) 21:03:27 0
>のぶおさんは、「何が正しいのか」を探している気がしますね。
>デリダ学派はそういったものを横すべりさせるのが得意な人種なので、
>あまりオススメできないかも・・・。
「何が正しいのか」を探している人も、それを転倒と批判する人も
「何かが正しい」ということを前提にしている点では同じなんですよ。
>>414 それは単なる相対主義。デリダと全然違う。
ヒントは論理学は無時間性。いかに時間を導入するかだ。
転倒して終わりではない。それが始まりだ。
ヒント2
デリダの差延とは、差異と遅延。問題は時間だ。
419 :
のぶお:2008/05/07(水) 21:13:06 0
>それは単なる相対主義。
主義以前のたんなる事実ですよ。
>ヒントは論理学は無時間性。
時制論理学というのがありますよ。
なにか論理学という一つのものがあると錯覚していませんか?
ヒント3
古典物理学に「時間」は存在しない。
修辞(レトリック)学は「時間」を生み出す。
421 :
のぶお:2008/05/07(水) 21:20:17 0
>古典物理学に「時間」は存在しない。
ヒント1
古典物理学にも「時間」は存在する。
>修辞(レトリック)学は「時間」を生み出す。
ヒント2
修辞学もまた「時間」から産まれた。
ラストヒント チャンスカード
デリダとウィトは似ていると言われる。
「言語ゲーム」はいかに成立しているか?
423 :
のぶお:2008/05/07(水) 21:33:11 0
>「言語ゲーム」はいかに成立しているか?
ラストヒント チャンスカード
「言語ゲーム」はいかに成立しているか?
という問いが前提にしている「言語ゲーム」をこそ抹消の下におけ。
>>423 正解!
では答え合わせ。
「言語ゲーム」は疑似問題。日常会話とは運動であり、当事者はただ行うだけ。
成立しているもしないもない。成立している、していないは外部からの観察(言語による描写)でしかない。
意味(概念)とは隠喩の運動の連続(時間)を、外部から観察し、
事後的に平面へ投射する(無時間性)ときに現れる輪郭のようなもの。
「私」の意味も同様。運動では変化のみがあり「私」というような同一性は存在しない。
運動は差異と遅延。→デリダ的脱構築
(物理学は外部からの観察(描写)であり、運動も時間もない。→ゼノンのパラドクス)
柄谷はマルクスにおいて、以下のようにこのことを指摘するのに、トラクリでカントの物自体を
繋ぐ事で、否定神学(柄谷的脱構築)に逆戻りしてしまう。東はこの柄谷の退避を非難するために
郵便本を書いた。
>>
マルクスは、この概念をうちこわそうとするとき、概念そのものの成立の現場に立ちあっていたのである。
ニーチェはこういっている。「なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。
・・・すべての概念は、等しからざるものを等値することによって、発生するのである」
哲学的真理が「すりきれたメタフォア」であるならば、逆にメタフォアに思考することこそ思考することなのだ。
歴史的に累積されてきて「厳密さ」を笑うような場において、哲学が根こそぎ揺さぶられるのである。
柄谷 マルクスの可能性の中心P20-21
<<
425 :
のぶお:2008/05/07(水) 22:38:21 0
>意味(概念)とは隠喩の運動の連続(時間)を、外部から観察し、
>事後的に平面へ投射する(無時間性)ときに現れる輪郭のようなもの。
こういうことで何かを言ったつもりになれる人がうらやましい。
>「私」の意味も同様。運動では変化のみがあり「私」というような同一性は存在しない。
>運動は差異と遅延。→デリダ的脱構築
この程度の認識でなにかを批判したつもりになれる人がうらやましい。
>(物理学は外部からの観察(描写)であり、運動も時間もない。→ゼノンのパラドクス)
ゼノンのパラドクスから運動も時間もないと断言できる能天気さがうらやましい。
実にあなたはうらやましい人ですなあ。
のぶお壊れた・・・
427 :
のぶお:2008/05/07(水) 23:08:46 0
>のぶお壊れた・・・
のぶお壊れない。
のぶお壊れるという認識=のぶおの同一性依存しているある。
でも壊れるはひとつの運動ある。
でも運動は変化のみがありあるよ、
だから「のぶお」の同一性存在しない。
同一性存在しないもの壊せない。
よってのぶお壊れないある。
のぶおには、刺激が強すぎたようだ。
本来、論理学と修辞学が並列であったが、近代に修辞学は抑圧され、
論理学が重視されたというような教育も知らないんだろう。
<私>とはなに?という問い自体が、すでに資本主義的であるとは夢にも思わない。
429 :
のぶお:2008/05/07(水) 23:32:53 0
>のぶおには、刺激が強すぎたようだ。
>本来、論理学と修辞学が並列であったが、近代に修辞学は抑圧され、
>論理学が重視されたというような教育も知らないんだろう。
論理学が重視された!あっは!!
しかし、その論理学とは一体なにか?
論理学という言葉がいくたびも彼の口から零れ落ち、それに対する呪詛の
言葉が吐き出されるが、しかしその論理学の中身があかされることはない。
それはまさに抹消Xの下におかれたまま沈黙の時間がすぎるままなのであった。
あっは!!
><私>とはなに?という問い自体が、すでに資本主義的であるとは夢にも思わない。
あっは!!
資本主義社会において、資本主義的でない問いというのものがはたして存在しうるもの
なのかという疑問を彼は夢にも思ったことがないのであろう。
あっは!!
言葉遊び乙
431 :
のぶお:2008/05/07(水) 23:38:21 0
まじめなデリダヲタにはルール無用のレトリックの底なしに耐えられないだろう。
引き返すがよい。
純一ガチ負けw
何やってんだここは?いつもいつも
大人はいないのか?大人は?
434 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 10:16:53 0
純一がマジキャラでぴかに負けててワラタ
目糞鼻糞だけどな
否定神学って方法論でしょ。
細かなスタイルは諸々あるとしても、
基本は否定的に語るか肯定的に語るかなわけで
周期的なトレンドを形作っているものでもある。
例えば、ニューアカの時代を前後して、現代思想の副読本として
かつては老荘が好んで読まれていたが、最近は老荘が読まれなくなって
(というか、当然読んでいるものとした上でだろうが)
孔子が読まれるようになってきたという話がある。
それらの背景にどういったパラダイムの変化が起きているのか、
それが察知できないようであれば、周回遅れということ。
ざっと目を通したがバカばっかりだな
パロールエクリチュールって言葉だけ知ってても
まるで用語の意味を理解していない
特に「煽るならコテハンになってよ」ってレスしてるコテハンは
ポスト構造主義を一文字も理解してないだろw
構造主義のスレで「名札をつけてよ」っておねだりするのが
バカの証明になってるんだが
何を言われてるのかも解らないだろうな
構造主義のスレで
>>439レスがバカの証明になってることも追記。
そして、
>>440もバカになっている証明も付け足す。
さらに、この自らのレスである
>>441もバカになっている事にして
しまうことで、構造主義からポスト構造主義へと移行させる。
構造は意味ないけど、強度あるよね
そうだね
だから、地震に強いんだな
445 :
考える名無しさん:2008/06/08(日) 01:08:13 0
真鍮の屋根材使うのやめてくれませんか
446 :
のぶお:2008/06/08(日) 12:16:48 0
「超越論的」とはなにか。
これをきちんとやらなければいけないと思うようになりました。
まあ、「構造主義・ポスト構造主義そのもの」の価値は
ほぼゼロに等しいからな。
>>447 じゃぁ、あなたが十分に価値があると思えるものを挙げてみて?
>ほぼ
? わずかにでも価値があると思える部分を具体的に挙げてみて?
上二つの質問がおかしいのならば、
>>447の発言の意味をもう少しkwsk
>>447 難しく考えなくてもいい。
「構造主義・ポスト構造主義そのもの」は、それら単独では存在し得ないだろ。
わずかな価値は、単独ではなくとも存在し得るからだ。
構造主義・ポスト構造主義は役に立たない。
これは決定的な欠陥だな。
>>449 何を言おうとしているのかは分かるが・・・。
構造主義・ポスト構造主義関連の訳者って
哲学科卒じゃなくて、仏文科卒が多いよね。
そうじゃないだろうw
構造主義者・ポスト構造主義者と呼ばれる人達がそれぞれ何国人なのかリストを作ってみろ。
つまり、構造主義・ポスト構造主義問題ってのは
仏文科の哲学科への殴り込み問題ってことですね。
458 :
考える名無しさん:2008/06/11(水) 10:17:48 0
>>453 > 構造主義・ポスト構造主義関連の訳者って
> 哲学科卒じゃなくて、仏文科卒が多いよね。
数学では起こりえない現象だな。
難しさが
数学>>>>>仏文>>>>>>哲学
だからだろう。
459 :
考える名無しさん:2008/06/11(水) 10:37:05 0
そうじゃなく、記号論(バルト・クリステヴァ)や文学(カフカ・プルースト)
からの、アプローチが先にあったからだね。
日本の哲学者(カチカチ頭)連中は、相変わらず、カント・ヘーゲル・
フッサール・ハイデガーで、がちがちに身を固めて、形而上学を守っていたからさ。
馬鹿な野郎が多かった。そこへ、あの浅田先生が登場するんだね。
それは、日本哲学界の驚きだったと言われているけどな。
要するに、
構造主義・ポスト構造主義
は哲学でないのだよ。
>>459 浅田って確かに聡明だけど、寄せ集めの文章しか書けないよね。
要するとか以前に、
構造主義・ポスト構造主義
は具体の哲学。
糸冬
----------------
制作・著作 哲板
具体の哲学=言葉遊び
>>463 そんなこと言っていると笑われるぞ。
「具体の哲学」も「言葉遊び」もそれぞれ何を示しているのか知らないだろ?
どんな本を読んでいるレベルの人なんだ?
ソフィーの世界とか?
具体の哲学=言語学
なんだ不思議の国のアリス読者か。
467 :
考える名無しさん:2008/06/11(水) 21:50:12 0
東に言わせると、浅田は纏めるのがうまい人って事だね。
たしかに「構造と力」はすごく上手く纏めてある。
あの時代にあのように構造主義→ポスト構造主義をまとめた者は日本では
皆無だな。
また、東はこの様に浅田を褒めているように聞こえるが、実は、
「俺の郵便的程の独創性・創造性がない。」と考えている節が見られる。
しかし、それにしても、浅田の纏める力は侮れないぞ。
すごい!
468 :
考える名無しさん:2008/06/11(水) 21:54:56 0
構造主義・ポスト構造主義は哲学ではないと言っている輩がいるが。
哲学がどのような運命にあるのかを全く理解していないようだね。
ヘーゲル・カントで遊んでなさい。なぜ、これらの哲学が成立不能に
陥ったか、調べるべし。ポスト構造主義哲学者の多くはニーチェの
系譜なのだ。解るねこの意味。
文芸ってこと?
470 :
考える名無しさん:2008/06/11(水) 23:40:00 0
>>468 「ね、解るでしょ?」てのは浅田が最も嫌う言い方の一つだぞ。
近代形而上学の体系の完全性が崩れたのは常識としていいだろうけど、
それを全否定と混同しちゃいけない。
>>467 難解な哲学や思想を理解する能力は、日本でも指折りだろうな。
それほど有能な人間であっても、哲学・思想界を震撼されるような、独自の主著が無い。
日本人の哲学者って、欧米ではちやほやされてるみたいだな。
「黒人の寿司職人」みたいに。
473 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 10:01:26 0
浅田は強烈な能力で、知識を吸収し、纏めたが、それ(構造と力)以降
これと言った著書がない。「逃走論」は、ポスト構造主義の戯れの実践の様な
気がするし、むしろ、「ヘルメスの音楽」の様な、音楽家の評価や絵画・文学論
を中心に、対談形式を好んで用いているね。
これは、もう彼の頭の中には、哲学としてやる仕事が終了したって事かも知れないな。
彼にとって「構造と力」で纏めた事以上のものが未だ現れていないと考えるべきだろうね。
依然として、ドゥルーズなんでしょう。
浅田はドゥルーズよりもゴダールという人なんだよ。
つまるところ、ゴダールを観よ!で終わっちゃう。
そのへんは単につまんないよ。
475 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 10:15:54 0
まあ、いずれにしても、ポスト構造主義=ドゥルーズ中心から
離れていない気がするね。僕らの希望は、新たな局面での、構築
をどうするのか、是非書いてほしい。この天才がどう考えるのか?
知りたいね。哲学系の新書出版を期待します。
一方東も良く似た道をたどっているとも言えるような気もするね。
「存在論的郵便的」=デリダ論から、「動物化」→情報管理→????
なにが言いたいのか?? 日本のポストモダン・サブカルの主論客
を目指し、ノヴェル・ゲーム・お宅の側に立っているかと思へば、
不当な情報の管理側に座って、私は、一部のオタクの不法な行為
には、加担していませんと言う態度のようにも見える、曖昧な
ところにいる気もするね。次に東は何をするのか、この天才にも
期待しようね。
476 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 10:28:48 0
映画論ね。ジャン・リュックゴダール。「勝手にしやがれ」か?
本来浅田は哲学を好きではないのかも知れんな。
所詮ロゴス(論理)で何も出来んと言う、ポスト構造主義に惹かれたのも
芸術(絵・音楽・映画)の方がリアリティがあると考えからだろうね。
だから、哲学書と言われるものを、もう書かないのかも知れないね。
まあ、この辺んも、ドゥルーズの影響かもしれない。
ドゥルーズも映画論・文学論の人だからね。まあ、今後注目注目だね。
それと、ポストモダン論とは程遠いが、フッサール派の竹田は見逃せないよ。
彼の強力な咀嚼力。難解な哲学を見事に噛み砕き解り易く説明する能力は
是非利用するべきでしょう。いろんな本を出しているので、面白いよ。
ただし、フッサールの現象学を手放さない頑固さはあるでしょうね。
ポスト・モダンには同調しない視線が、逆にポストモダンを照らし出す
ってこったろうな。
竹田は俗っぽすぎてだめだよ。発想がドメスティックなんだよなあ。
迷える若者を啓蒙してやろう的なとこが鼻につく。
もっと世界に向けて書くようでないと、日本の批評界は終わる気がする。
478 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 11:35:36 0
そうだね。
むしろ、日本の学術全体が独創性がないとも言えない。
すべて、西欧の輸入の様な、翻訳から一歩も踏み出せない。
一方極端に吉本や西田の様に東洋を見つめると、今度は「仏教か?」って事で、
教えの様な様相になる。
元来東洋には哲学が生まれる土壌がないんだよね。
479 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 11:43:38 0
論議がなくなるってこったね。教えには上下関係が付きまとうからね。
だから、日本の大学・学界では、若い論客が現れない、現れそうになると
つぶされるんだよね。いい加減、個々人の実力が出せる風潮=システム
がいるんだよね。いつまで経っても、他人の顔をみて、教授のご機嫌を
うかがって、偉くなるってのは、有能な能力が埋もれてしまうんだよね。
もっと、世界の大学で一流の哲学者になって帰って来てほしいね。
480 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 11:54:22 0
柄谷にしても、日本では、英語で書く数少ない哲学者と言うレッテル
があるけど、古い「現代思想」の柄谷特集だったかで、外国の女性の
哲学者(モネ?記憶不確実)との対談で、答弁に四苦八苦していたぜ。
元来、言語音痴・白人コンプレックスで、上手く馴染めないんだよね。
だから、国内にいて、英語で哲学をやっても、外国で哲学を外国語で
学ぶ事とは違うんだな。どうしても、あがっちゃう。
もっと、日本は、いろんな経歴を持つやつらがいて、それぞれに活躍する
様なシステムが必要なんだよ。
ニューヨークやシドニーの大型書店の哲学コーナーにトラクリが一冊ある、
という程度だけどね。それと、柄谷は英語で書いてないよ。翻訳だよ。
Haruki MurakamiのようにKojin KarataniやHiroki Azumaが流通すれば
面白いと思うけどね。
482 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 12:42:13 O
構造主義のためには二つが必要だ。一つは運動の排除、二つ目は超越論的なつりあげ点
つりあげ点は簡単には論理的な積み上げからくる点で思弁的なつじつまあわせだが
このつじつまあわせが人間の無意識で起こっている。人間は言語機械になる場面がある。それが運動性が抑圧されるときにおこる。
浅田も東も、「天才」と呼ぶには、全くもの足りないように思える。
尤も、浅田の方は、「天才」と呼ばれることを嫌がるのだが。
484 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 14:22:44 0
柄谷は英語で書けないって事か。その割に、外国・国際的な哲学を
標榜したがっているな。東は「存在論的郵便的」ではなく、オタク
分析で、フランスに招待されたらしいが、この辺、つまり、外国の
大学へ独自の理論を紹介してくれと頼まれる奴が偉いって事かな?
それって、受け身だよな???
自分んで自ら機会をつくるように、やるべきだよな。
いずれにしても、日本はダセーな。
やりたい事をツルマズニやることだな。
グループでしかできない。すぐれた能力は埋没するか???
485 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 14:33:50 0
トランスクリテックって、英語版?誰が翻訳したんだ??
構造主義は運動の排除か。そうだな。
構造に捉える事、捉えられている事を強調したい訳だ。
そして、その構造に捉えるには象徴界への参入が、強制される
それが、原暴力と言われるんだろう。
その構造からの脱出を実践するのが、ポスト・構造主義って言う
事かな。
そう。浅田は天才と呼ばれたくないんだ。
ふ〜ん。
でも、その才能も今では錆びている。
もっとも、彼は経済学部だろう。
マルクスでも講義しているのか?
どうしたんだパレルゴン
なにかあったのか
487 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 14:45:43 0
どうもしないよ。
ぼちぼち俺も天才になろうかと思って。(笑)
冗談だよ。
いや、むしろ、会話風の哲学談義も良いだろう。
小難しい事をコクだけが哲学ではないな。(笑)
そう言うお前はぴかぁ〜か。
もう消滅したんんではなかったか?。
今後は、こう言う書き方もええもんだろう。
488 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 14:52:15 0
ところで、どうして、村上春樹は世界的なのだ?
誰か答えろ。どうして日本のオタクは世界に注目されるのか?
どうして、コスプレは世界的なのか?
どうして、原宿ファッションは注目されるのか?
どうして、ルーズソックスにヨ―ロッパの若い女性は惹かれるのか?
どうして、「かわいい!!」は世界共通語になりうるのか?
これらの要因に共通項があると思わないか?
489 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 15:12:46 0
浅田は、京都造形芸術大学大学院総長に就任したのだよ。
京都大学経済学部準教授なんて、ひどすぎる扱いだったのでしょう。
カチンときて、飛び出したて事だろうね。
>>488 共通項は人畜無害ということじゃないか。
非政治的というか歴史の終わりの表現というか。
柄谷も言ってるが、そういうのは流通するんだね。
そこに俺は洗練されたオリエンタリズムを感じるな。
491 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 15:24:30 O
バレルゴンのセンスのなさは先天的だな
ぴかぁさん、うざいよ
493 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 15:58:42 O
精神分析的去勢とは一元化された価値を受け入れることである。これにより運動性は排除される。
去勢の効果は一元化への閉じ込めにある。運動性が排除されれば出口はつりあげ点しかない。
495 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 17:58:07 0
>>489 ぷっ
能無し業績なしで追い出されただけ
496 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 18:35:38 0
そうね。整流器てのが、虚勢の意味になる。
去勢されないと、キチガイのように、あっちこっちと走り回り、
社会の秩序が壊れる。だから、ポストモダンの様な今、あっちこっちで
犯罪が生まれるんだね。
その中心がアキバであり、あの犯罪は、極端なポストモダンの
表現とも言えるだ。だから、その予感を感じた東は情報管理の方へ向
かったともいえる。
いずれにしろ、無差別犯罪はいけない。
想像を求めるポストモダンが極端な隘路にはまったって事かな。
うざいよ!ぴかぁ〜。出るなら出ろ。ひっこむなら引っ込め。
497 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 18:42:56 0
それと、ポストモダンが虚勢の否定(虚弱)に起因しているので、
この事が性的欲望の放任をうみだし、性犯罪が増加する要因にもなっている。
コスプレ女がホコテンで、スカートめくって聴衆にTバックを平気で見せたり
するのも、欲望の奔放さを抑圧しないと言う、ポストモダンの表れなのだ。
勿論親殺し、友人殺し、などすぐに殺す、無差別殺戮も同様の原因だろうね。
498 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 18:50:27 0
うるさいおやじや先生の指導が必要になるのか?
どうする。そうでないと、次は君がやられる番かも。
もっとも、管理がきつくなっても、ポストモダンの良さを根こそぎには
しないだろうね。
村上春樹論をもっと書いてみては。
浅田は村上を評価していないが、賞は取るだろうと予測しているらしい!!!
日本のポストモダンはどうして、西洋で評価されるのか???
世界で唯一ポストモダンを経験出来る社会が「かわいい!」と言う
標語によって成立しているようだから????
499 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 22:05:27 0
「かわいい」って英語でもprettyやcuteなどあるけど、
それと、日本の流行りの「かわいい」違うのか。
500 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 22:07:03 0
それよりも、
村上春樹はなぜ世界的なビックネームなの?
>>500 ポール・オースターあたりと同じような受け入れられかたなんじゃないの。
502 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 22:17:49 0
それって誰?
どう言う人?
503 :
考える名無しさん:2008/06/13(金) 14:59:17 0
日本の「かわいい」と外国語、英語の「pretty/cute」はどう違うの?
日本の「かわいい」と外国語、英語の「pretty/cute」はニュアンスが全く違う。
日本人の特徴で、有名なものは日本人の商品梱包の過剰さ。
3重、4重は当たり前。海外だと1重、あるいは剥き出しは普通。
日本人が、新しさ、純粋、処女性に重きを置くのは、伝統文化だ。
歴史的にも高い文化水準を保ってきたのも、このような潔癖、生真面目さによる。
最近のオタク、ロリ文化もこの流れを組む。
外国では無修正エロが氾濫しまくってるのは普通だが、
ロリに対しては厳しい規制がある。ロリは正当な性ではないから。
海外からロリ文化の規制圧力があるが、文化が違うから。
ドレスのフリルなんていうのは贅沢な演出にはかかせません。
表現や価格に見合った包装を心がけます。
むき出しの製品にスタイルは期待できない。
それなので、それはディスカウントストアや素朴な庶民向け商品でしょ。
506 :
考える名無しさん:2008/06/13(金) 22:31:05 0
って言うか、日本の社会で言う場合の「かわいい!」てのは、女の子が
言うわけでしょう。男は言わない。女の子がぬいぐるみやお花や家や、
飾り付け方や異性(男)に対して言う訳です。
一方外国では、男も女も目下ものに対して評価すると言う立場で、この言葉を
使うのではないだろうか?
西洋では、女が成人男性に対して絶対に使わない。
この言葉を使うのは上位者が支配的に使用するんだな。
この事から、西洋には男性中心主義=ロゴス中心主義が残っていると考えてもよさそう。
一方、日本では、女性の言う「かわいい!」は反ロゴス中心主義であり、
母性原理的に、男性原理を打破している。この事が、ポストモダンが
世界で唯一実現した社会=日本と言われる理由ではないかと言う事だが?
507 :
考える名無しさん:2008/06/13(金) 22:37:24 0
つまり、日本での女の子の言う「かわいい!」は支配的な発言ではなく
空間的に広がる雰囲気を醸し出す言葉であり、かわいい対象を指し示す
事で、なぜかわいいかと言う定義ではなく、かわいい空間を出現させる、
いわゆる、アンチ・去勢=アンチ・エディプス的な、欲望の空間を創造
するのではないかと言うのが私の考えなのです。
そんなところじゃないかな。
「かわいい」はどちらかと言えば「cute」。
「pretty」はgraceな印象をも含んでいる。本場のバービー人形はスーパーモデルのような容姿をしている。
「cute」はベビーフェイス。
洗練と繊細さを備えることを良しとする文化において、
「pretty/cute」で指し示される物はさして重要視されてこなかった。
「かわいい」の特徴は「キモかわいい」という用法に顕著。
美的感覚の聖と俗のどちらをも孕む場合がある。
どこで読んだのだか、村上については
>>501と同じ。
村上は英米文学との親和性が高い。
ペーパーバックを読み漁って書かれた文体は、
日本語版と各国語翻訳版で大きな印象の違いを生まないのだと思う。
村上もオースターも68年を大学で過ごしていた世代。そしてその代表。
日本語にモーダルな言葉が多いのには両義的な意味があると思うよ。
簡単に言うとプレモダン的側面とポストモダン的側面。
もちろんプレモダンの代表は2chや女子高生の言語。
だけど実はそれらはそのままでは世界には流通しないんだな。
三島でも村上でも西洋的ロジックのフィルターを一度通してる。
三島は究極まで論理でいってギリギリのところで論理を放棄する。
村上は「風の歌を聴け」は最初に英語で書いたそうだ。
あと、このスレでの「ポストモダン」という言葉の使われ方には異論がある。
ひとまず、構造主義・ポスト構造主義の重要性についてはおk。
ただ、日本では、特に、構造主義・ポスト構造主義というくくりに比重を置かれ過ぎている
というアプリオリを差し引いて考えることも時には必要。
洋書の哲学・思想のコーナーを見て回ると、
StructuralismやPost-structuralismという語が背表紙に入った書籍よりも
ModernismやPostmodernismという語が入った書籍の方が多い。
欧米では、構造主義・ポスト構造主義よりもモダニズム・ポストモダニズム
を軸に考えることの方が多くても当然だろうと思っている。
それぐらい、ポストモダニズムの定義は重たい。
この語の定義によって、どういった哲学的視野を持っているのか、それ自体が問われることになる。
511 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 17:09:59 0
モダン=構造主義ではない気がしますね。
モダンとは、既成道徳・伝統主義・自由平等・市民社会・機械文明の信奉
などの特徴があるでしょう。つまり、哲学で言うと、デカルトからヘーゲル
までの、いわゆる認識主体の肯定である気がするけどね。
一方、構造主義は,恣意的構造にいる「被主体」という捉え方であり、
認識主体と言うイメージは全くない。むしろその否定ですよね。
よって、モダン=構造主義とは言えないだろうね。
一方、ポストモダンとポスト構造主義の比較になると、これは、かなり類似している。
しかし、全く同じかと言えば、違う気もする。よく知らないが、リオタール
なんかは、ポストモダンを使うし、東もポストモダンでしょう。
つまり、ボードリヤールも含めて、消費社会の多様性やPCによる情報化社会
の個々人の多様性に対してはポストモダンと呼ばれるのでしょう。
一方ポスト構造主義は構造主義に対する呼び名で、あくまで、哲学・文化人類学・
記号論での呼称ではないかと言う気がするね。
512 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 17:31:36 0
アキバってのが、ポストモダンの聖地だとすると、突っ込んだやつ
はアキバを潰そうとしてのだろうか?それとも、アキバをアキバとして
表現したのだろうかと言う問題が残るよね。
恐らく、後者が正しいでしょう。
高度経済成長から空白の10年=バブル崩壊以降、就職氷河期の若者
は、フリーター → オタク と言う選択が 必然であった気がするね。
そこから、日本のポストモダンが開花するんだけど、つまり、マンガ・アニメ
ゲーム・ライトノヴェル、そして今日のギャルゲーと言う事で、
エロチックの解放になっているわけですよ。ポストモダンはエロチックの
解放でもあった訳ですよ。
そこで、あの事件は、空白の10年の環境が、引きこもりの様な若者を
大量生産する一方、彼らが30歳を超え、老後を考る次期になった時に、
年金問題や後期高齢者医療問題が、出てくる事に気づくわけです。
一方、政治家の出鱈目さや帰属している会社での、人間関係が
オタクの性格では上手くいく筈もなく、自分の世界で善し悪しを判断する
彼(これはオタクの特徴です。)には、自分の無力さばかりが現れて、
苛立ってくる訳です。
513 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 17:36:54 0
つまり、不況→引きこもり(フリーター=自由の謳歌)→日本のポストモダン隆盛
→老年期への不安(政治家の私利私欲の暴露)→社会生活の順応性の欠如
→苛立ち(暴力=殺人)と言う流れでどうだ???
514 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 17:39:39 0
それは良いんだけど、村上はどうして、世界的に受け入れられたのか
の分析がないね。理由は??
フリーターというのはもともと自発的非正規雇用者で、これはどの時代にも
いるんだな。一定の割合でアウトサイダーはいる。こういう生き方をするには
ある程度の才能と根性がいるわけだ。浅田のスキゾ・キッズもこっちの部類。
彼らは社会に期待したり救われようなんて思ってない。いい意味ですれてるんだな。
問題は非自発的非正規雇用者の増大のほうで、こっちは才能も根性もないのに
根なし草的生活を強いられている。こっちはなんだかんだいって甘ったれ。
内心では高福祉とか終身雇用とかをまだ望んでる。
>>513のように直線的な流れなんかじゃないよ。
それと、日本のポストモダンが隆盛したのは70年代末から80年代前半までと
俺はみてる。それ以降は俗化というか大衆化というか、とにかくバブルを
背景とした、いわば広告資本主義によってポストモダン理論が消費された時代。
これが90年代いっぱい続く。もちろん消費されなかった理論もあって、デリダ
やドゥルーズは今でも読む価値あるけどね。
517 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 19:53:55 O
世界的に村上を受けいられているのは富裕層だ。中国でも富裕層があらわれてブームがきた。
富裕層が物質的に満たされたあとの精神的喪失感を描いている。でもそのような作家は他にもいるだろう。
むしろ村上作品の特徴は喪失からの生還にある。主人公の友人が喪失感から落ちていく中で生き残っていく。
それは決して勝つことではなく、生き残っても、生き残るほうが、つらい。それでも生き残る決意をする。
518 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 22:15:07 0
経済的な多様消費=ポストモダンとの考えもあるけど、経済=消費問題ではなく、
人間の価値観の多様化として見る場合、
例えば、日本場合、色々解釈はあるだろうけど、既存の価値体系(
一生懸命勉強して一流の会社に入って、老後は安定 と言う流れ)の拒否
から、自分の個人の世界へと言う筋道が考えられるよね。
そこで、このドロップ・アウトが自主的かどうかと言う問題で、二つに
分れると言う説ね。その年代区分がいつかは別にして、強制的な非正規雇用者
層が増大する。彼らは、自主的逃走論実践者ではないと言う事だね。
しかし、非正規だけに、会社での責任・生甲斐はなく、生活のために
労働していると言う意識が強い事で、個々人の趣味に生きがいを求めている事は想定できる
よね。その世界がポストモダン的に、多様化する欲望の肯定と、既成権力
からの逃走になっているのではないかと考えられる気もするね。
いずれにしろ、スキゾ時代の自主的逃走派と就職氷河期の強制離脱者との差は
生い立ちの差でしかなく、むしろ、既成権力側に立てない人間の数が増えた
今の方が、よりポストモダン的な世界ではないかと考えられないかな。
この場合のポストモダンとは、消費の多様化の事いではなく、生きざまの
多様化を指しているんだけどね。消費の多様をポストモダンと言うんならば
君の分析の方が良いかも知れないけど、日本のオタク文化をポストモダンの
象徴と考えるとき、反社会的=既存価値の否定 と考えると、
今こそ日本だけがポストモダンを最後までやり遂げたって言える気がするね。
519 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 22:36:08 0
ポストモダンとは、東に言わせれば大きな物語の終焉な訳で、
消費も価値感も多様化し、共通項の消失なわけで、あくまでも経済的な問題では
ないわけでしょう。そして、つまり、管理からの逃走である以上、
今こそ、スキゾ全盛期って事でしょう。
そして、日本型ポストモダンの到達点が、オタク・アキバ(ゲーム・ライトノヴェル
・アニメ・フギュア・まんがなど)・コスプレ(喫茶)なのですよ。
この最後のコスプレ喫茶によって、アキバはヴァーチャル・リアリティ(仮想空間)
を脱し、既存価値=現実社会がメルティング(解け出す)する地点になり、
現実と仮想が反転する。つまり、現実も仮想の分節がなくなり、価値の違いといし
しか意味を持たなくなる。この様な見方だと、あの事件は、引きこもりとして
就職氷河期を経験して来た者たちは、アキバがリアルであり、就職していた職場が
非現実な訳で、だから、かれは、彼らにとってアキバと言う現実を非現実な既存価値側に示したかった。
その表現は、彼が引きこもった自室で快感を得たゲーム、殺人ゲームだった。
つまり、ヴァーチャルでは、殺人は、無罪であり、ストレスの解消であったからだ。
だから、彼にとって、既存の価値への鬱積が彼にとっての現実=ヴァーチャル
への表現と言う異常な手段になった。
520 :
ラプラスの悪夢:2008/06/14(土) 22:38:45 0
長いよw。
三行以内にまとめろ。
521 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 22:48:15 0
でも、あまりのも残酷すぎる手段でしかない。
たしかに、この犯罪は、アキバと言うポストモダンと官僚を中心にした既存価値
との戦いであるわけだが、ゲームの様に、リセット出来るわけではない。
殺害する事がゲーム化する世界は、何か足りないのだろうね。
何かが足りない。救う者がいない。愛する者がいない。愛される者もいない。
どのような既成概念=強制力からも自由であるが孤独であり、孤独が
人の痛みを理解できない。自分の痛みだけがリアリティとして見出される。
この様な社会はどの様に変わっていくのか。
村上春樹はこの様に人の繋がりが消えて行く中でなおも、淡々と自分を
癒していく事ですべてが解決するとでも言うのだろうか?
不思議です???
522 :
考える名無しさん:2008/06/14(土) 23:01:51 0
ごめん。長すぎるね。
でも、今回はこうしか書けないんだ。
「アキバ対霞が関」「ヴァーチャル対リアル」「ゲーム対現実」
「抑圧対個々の欲望の自由」「年金医療費の負担対官僚の無駄遣い」
そして、われわれは、殺りくによってしか表現できない
社会を変えていく必要に迫られてる。
>>518 >いずれにしろ、スキゾ時代の自主的逃走派と就職氷河期の強制離脱者との差は
>生い立ちの差でしかなく、むしろ、既成権力側に立てない人間の数が増えた
>今の方が、よりポストモダン的な世界ではないかと考えられないかな。
これはぜんぜん違う。自主的逃走派は近代国家に期待していないし、
近代国家に救われるとも思っていない。
反対に、強制離脱者はまさに一生懸命勉強して一流の会社に入って、
老後は安定というライフを欲しがってるわけ。生きざまの多様化というけどね、
凡人がOne and onlyな価値観を持つなんて無理に決まってる。
J-POPとお笑いに代表されるように、せこい差異化を楽しんでるだけ。
君がなぜそこまで彼らを過大評価してるかぜんぜんわからないね。
オタクだとか派遣労働だとかに生きざまの多様化をみるくらいなら、
俺はいっそニーチェの政治学を選ぶな。
ブルジョワジーが奴隷をしっかり支配しないから、つけあがった勘違い奴隷
が幅をきかせる。今こそ卑近なブルジョワを打倒し、貴族道徳の支配する
美しい世界をつくりあげようではないか!!
何人かの天才と英雄を作りあげるためだけに数十億が奉仕する世界。
そして、もう頭の足りない読者に向けて書くこともない。
もう大衆への媚にまみれた旋律をかなでる必要もない。
もう奴隷の犬死にに意味を求めることなどしなくともよい。
文学は文学に、音楽は音楽に、哲学は哲学に回帰する。
それぞれがもとの高貴さを取り戻すのだ。
526 :
考える名無しさん:2008/06/15(日) 10:53:50 0
日本型ポストモダンが、明らかにアメリカ型と異なるのは、
例えば、アメリカではディズニーランドやラスベガスの様な、現実世界から、
かけ離れた世界が明らかに気晴らしとして位置付けられているのに対し
アキバは、ヴァーチャルが現実化する空間を開いている点である。
メード喫茶は、ヴァーチャルの現実化であり、決して娯楽として、
一時的な気晴らしとして位置付けにはならない。
若者にとって、それが現実なのだ。
ここに、日本のポストモダン=世界で唯一のポストモダン社会が表現されている。
例えば、気・けがれ・ハレ と言う表現がある。
気は日常の生活であり、一生懸命仕事をする事を指す。次にけがれとは気が涸れる事
から来てる。つまり、気力の消滅であり、やる気が出ない疲れた状態を指す。
そして、ハレとはこのケガレを払拭するための、カーニヴァル(お祭り)のなである。
例えば日本では、正月、夏祭り、花火大会であり、外国でも闘牛祭り
リオのカーニヴァルなど、どこにでもあるいわゆるパスタイムである。
ところが、ポストモダン期には何時でもこのハレを経験する事が出来る様になる。
つまり、アミューズメント・パーーク、インターネットなど、ハレへの招待
でいっぱいなのだ。
ところが、日本ではさらに先を実現した唯一の国なのだ。だから、ポストモダンを
ホントに実現した唯一国と言われるのだ。
それは、このハレをパスタイムとするのではなく、ハレの世界が常に開かれている
と言う状況を指している。つまり、アキバはアニメの世界が、現実の世界として
広がっている異次元空間の入り口の様な所なのだ。ハレはケガレの解消にあるのではなく
ハレは常にハレとして、開かれる空間こそアキバなのだ。
そこには、デズニーランドの様なヴァーチャル空間の切り売りではない。
永遠にヴァーチャルが開かれているのだろう。
ディズニーランドやラスベガスに行ったことあるの?
想像でしゃべってないか?
モダンと構造主義はそれぞれ由来も出てくると思う。それぞれに別。
耳障りが良くないのはポストモダン。
リオタールが死去した98年前後からではないかな?
ポストモダンという語がより一層激しく一人歩き始めたのは。
ポストモダンとは
「19世紀末に端を発する、科学、文学、芸術の活動規則に影響をあたえたさまざまな変化以後の文化の状態」
〜リオタール『ポスト・モダンの条件』(1979)
書かれた79年、死去した98年、現在。ポストモダンの時代状況は常に変化している。
それでも尚、ポストモダン他彼の言葉が繰り返されるのは、
いかに近代の行詰りを克服するのか…に立脚した歴史の反省が未だに有効(=未解消)であるということ。
histoirは仏語で=歴史、物語。
529 :
528:2008/06/15(日) 15:41:10 0
×:histoir → ○:histoire
530 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 10:43:31 0
そこで、この様な日本型ポストモダンのもう一つの卑近な例が、OLたちの
ブランド志向に見受けられる。ブランド商品の本場フランスにあっては
セレブがルイヴィトンのカバンやシャネルの服を身につけるのであるが、
日本では、一般の女性が求めているのが実情である。これを見越して
銀座・原宿には色々な外国の高級ブランド直営専門店が立ち並んでいる。
つまり、日本では高級ブランドへのあこがれが世界一強い国であり、
この事の意味は、これらを身にまとう事で、優越感=快感を楽しむと言う
ポストモダンが蔓延しているのだ。モダンが自由であることの意識の世界
を表すとすれば、ポストモダンは動物であることの無意識を表している。
つまり、高級ブランドによる快感は使用価値を超えて欲望する。
この様に、所得に関係なく、欲望する日本人は、所得に関係なく、引きこもる
人間をも産出する。その事が、老後の厚生年金の問題の背景にあるのだろう。
そこで、このヴァーチャル世界に居座るオタクと、霞ヶ関を代表する
既存価値信奉者の間にどのような懸け橋が求められるのか検証しなければならないだろう。
実際、既存価値を認める者は、現状の社会にいる「私」を前提に、生活の為に働き、納税し、
結婚・子供・老後を考えて、今を生きている。
一方、オタクは親のすねをかじるか、パート(非正規雇用者)で、多くが
既存価値には取り込まれていない、拘束されない個人の世界(快感の)自由を謳歌している。
場違いですが失礼します
亀井絵里 ◆W8WSOykcxAさんとおっしゃる哲学にお詳しそうな方がいらっしゃったのでびっくりして書き込みさせていただきました
わたしは亀井絵里ちゃん(モーニング娘。)の大ファンでアドルノと蓮實重彦のファンでもあります
亀井絵里 ◆W8WSOykcxAさんはデリダにお詳しそうですがアドルノはいかがでしょうか?
532 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 10:55:13 0
オタクと言えども、非正規雇用であれ、多くの者は生きる為には働く
必要がある。しかし、彼らは長い間非就労状況―自室への引きこもり
の状況があり、他人とのコミュニケーションには障害がある場合が多い。
つまり、自分のしたい事をしたい時に勝手にできると言うパターンが
しみついている。その彼が、会社と言うもっとも上下関係が明確なところで
平穏に過ごせる訳がない。命令などされた事もないものにとって、社会は
差別する組織にしか見えないだろう。
ところで、視点を変えてみよう。このような干渉されないような人間は
いかにして生れたのであろうか。以前述べたように、就職氷河期が非就労
の若者を自室に閉じ込め、この事で、人間関係を閉ざしたのも一因だろう。
533 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 11:12:41 0
531さんへ。
名無し君の私は、亀井絵里さんではありません。
私もあの方の再来を待っていますが、ぜひ出て来て欲しいですね。
二人でまってましょうね。
ちょっと出掛けますので、532の続きはまたあとで。
534 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 14:59:08 0
>>この様に、所得に関係なく、欲望する日本人は、所得に関係なく、引きこもる
人間をも産出する。
論理的展開じゃないな。強引。
>>霞ヶ関を代表する 既存価値信奉者
なぜ霞が関がでてくる?
バイト収入/家族収入/貯金きり崩しなどで今を謳歌している人はオタクにかぎらず特に若者にはたくさんいるし、結婚や子供よりも仕事の継続を優先している人は社会人にもたくさんいる。
535 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 22:21:15 0
しかし、原因と思われるものはもっと以前からあったのである。
もっとも、どのような、現象もその以前の原因があり、その原因もその前に
原因があり、このような原因の連鎖は永遠に続くのであうから、これを歴史と
読んでも良いだろう。しかし、反形而上学的な視点に立てば、理由は客観的な
ものではありえない。すべては、複雑な関係や恣意的思考体系や恣意的構造に
起因するからである。しかしここでは話を簡略化する意味で、あえて、原因→
結果が一定の説明を可能にする事を前提とする。
そこで、何がドロップアウト=引きこもり を誘発したのかを歴史的に
振り返ってみると、年代区分を別にすると、最初に、大家族制が支配的であった。
祖父母・父母・兄弟が一つ屋根の下に同居していた。近所にも親類がたくさん住んでいた。
勿論、食事は全員で一緒に取っていたのだ。大きくなったら何をするかなど
決まっていた。後を継ぐことだ。悩み相談は、何時でもできた。
不自然に見えたら、食事時に祖父母・両親が「どうかしたのか?」と聞いてきた。
だから、「私」が何者かが明確に分かっていた。
ところが、この大家族=家父長主義は崩壊を早める。
それは、高度経済成長期に入った日本経済が大量の労働者を必要としたからである。
小作農や町の商店主は挙って、サラリーマンに変身する。
勿論小作農や商店主の稼ぎより、高い安定した収入が保証され、つぶれる事もない
大手企業が次々と人材を求めたのである。特に高学歴の者は一流企業に入社する事が
ステイタスとなる。
536 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 22:36:33 0
そして、この大企業を中心にサラリーマン化する人々は、全国展開する
企業の戦略によって、故郷を去る。この事を核家族化と呼んだ。
つまり、相談する祖父母・両親が、現前から消え去る事を意味する。
これを、「第一次孤立化と読んでも良いだろう。
次に、第二次の波が来る。それは、若者男性のサラリーマン化が常態化すると
次に、女性就労者を求める企業戦略によって、進められた。
つまり、「キャリアウーマン」と言う呼び名によって、さっそうと登場する。
彼女らも、親元を離れるケースも増えるが、その事よりも、自分で自立する
女性は、もう既に、祖父母や両親のアドヴァイスに耳を貸す事はなく、
仕事・恋愛と家父長時代の祖父母・両親の絶対決定権を無視し、独立した
個体として、独自で人生のすべてを決定する主体となる。
だから、家から外に出て、ひとり生活を始める。
そして、第三の波(第三の波平ではないですよ。)は、母を家庭から奪う
目論が、もちろん、企業戦力となる。つまり、パート女性の誕生である。
この様にして、大家族・核家庭は崩壊し、父・母・子供は個々の人間として
共有価値を喪失して行く。
この様な境遇に生まれたのが、オタクである。
537 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 22:50:24 0
オタクは幼い頃に、両親のいない家に一人いた事になる。
すべて、ひとりで決める事を強いられたのだ。
だから、人と交わることが苦手なのであり、この事は決して、個々人の責任ではありえない。
一人で解決できない悩みも、誰にも話せない。頼りになるのは自室での、
マンガ・アニメ・PC・メル友ぐらいのものである。
一番大事な思春期の乗り越えに必要な、先輩のアドヴァイスが聞けない状況
を、乗り越えるのは不可能な場合が多くあるだろう。
家父長時代は祖父母・両親悩みに応えてくれた。それが、いなくなった
と言う事は人間としての成長に大きなハンディをもたらしたのである。
この様な事を今の教育政治は見落としている気がする。
どうするのか、日本、みんなが相手を傷つけずに、安らかに生活する
にはどうすべきかを考える必要がるのではないだろうか?
538 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 23:03:01 0
ニートやオタクってそんなに特殊な問題かなぁ?
ニートは「Not in Education, Employment or Training」
1999年にイギリスの内閣府社会的排除防止局(Social Exclusion Unit)が作成した調査報告書に由来する言葉。
カール・マルクスは、プロレタリアートとは生産手段を持たない人、
つまり、収入を得る唯一の手段は自らの労働である人々と定義した。
プロレタリアートの語源だって、古代ローマ時代の住民統計(ケンス)にまで遡り、
「自分の子供」しか財産として持っていない人を指していた。Prolesには「所産」という意味もあった。
ニートの前は、('91年)のジェネレーションXだろうか?
アキバに突っ込んだ加藤は『理由なき反抗('55年)』でしょ?
「子供っぽい行動をする大人」アダルトチルドレンは70年代に作られた言葉。
いついかなる時代においても、その時代の若者、
特にはNot in Education, Employment or Trainingな若者像というのが観察され記録される(ことになっている)。
しかし、NEETって、よく観察された上に定義された言葉だね。
540 :
考える名無しさん:2008/06/17(火) 11:04:49 0
でも、日本ではニートの事を、就労・訓練は別にして、教育のない者を
指していない気もするね。むしろ、大卒であり、親のすねをかじって、
生きている、オタクを指している気がするね。
働かなくても生活は出来る?(貧困かどうかは別にして生活している。)
やはり、言葉とは、国によって、あるいは、言葉の違いによって、翻訳は微妙な
ニュアンスの変化が含まれるのでしょう。
内閣府の「青少年の就労に関する研究会」の中間報告によると、
「若年無業者」を「学校に通学せず、独身で、収入を伴う仕事をしていない15〜34歳の個人」と定義している。
また、「ニート」とは若年無業者のうち「非求職型および非希望型」、
つまり「就職したいが就職活動していない」または「就職したくない」者としており、
日本で「ニート」というと大抵はこの意味で用いられるのが一般的。
いずれにしても、今の日本や日本の若者が特殊なのではなく、
これは世界的な問題でもあるのだということ。
本来労働力としての大きなポテンシャルを持ちながらも
生産活動に従事していない若者が分析される(発見される)のはいつの時代にもある。
また、村上が読まれているぐらいの文明国であれば、
現代社会と若者の行く末を不安視する空気はどこにでもある。
そのような認識なしのオタクマンセーでは自文化中心主義(ethnocentrism)過ぎるだろう。
オタクの特色=オタク文化が世界で受けていることには
オリエンタリズムの一面もあることを差し引いて考えなければいけない。
542 :
考える名無しさん:2008/06/17(火) 21:56:00 0
特殊性がないのであれば、共通性だけが世界を支配すると言う、
旧来の哲学に舞い戻りって事ですね。
すべて、特殊性、単独性がない、辺境がない。
すべてが中心的なものに回収される。
言葉の定義にしても、刻々と変化する。官庁の定義も変えられていく。
これが、ずらしであり、郵便的であり、作者の死なのでしょう。
定義を振り回しても所詮言葉を使う人を説得出来ないでしょう。
例えば、貴方がどうしても、ニート・オタク・ポストモダン(価値観としての多様性)
が、日本のケースと世界とで全く同じと言うのならば、もう少し詳細に各国の
実体を私の書いた日本の状況と比較して書いてくれますか。
私の考えは、いかなる類似もすべて異なると言う事。絶対に同じはない。
貴方が、同じと言うのならば、それは、強引に、力によって一つの考えに回収したのです。
(アンチ・ニーチェですね。)
つまり、ポスト・構造主義の考えを全く否定したという事になりますよ。
ところで、一週間ほど仕事がありますので、2ちゃんねるへは、書き込めませんので、
了解ください。私は回収ではなく特殊性を求めて、書いているのです。
お互いの意見が同じである筈はなく、また、一致させようとする必要もないのです。
「そう言う考えもあるんだなぁ」と言う交流で十分なのです。
たった一つの正解など必要ないのです。
それよりも、亀井絵里さんまだですか・・・・。
それでは、よろしく。
歴史の終焉、大きな物語の終焉については、
非常に大きな命題なので、ここではいちいち定義しない。
注意を持って再度読まれれば良い。
リオタールがソビエト崩壊・ベルリン統一前夜で
東は9.11な時代、現在は更にその先にあることを以下の軸とする。
歴史用語の「近代」は、西洋と日本とにおいて、それぞれ別の年代を差す。
柄谷は、日本には西洋が経験したような19世紀はなかったと言っている。
フランスやアメリカで…同じように日本もということでは済まされない。
二次大戦の反省と復興という意味ではドイツの'85年は一つのメルクマール。
ヤスパース、ハイデガー、アドルノらも自国の言語と責任について辛辣だった。
それに比べて日本の場合はどうか?
最近の日本では小泉→安倍→福田と変わったが、
初の戦後生まれの総理大臣安倍が任期半ばに失脚し、
戦前生まれに引き戻されたということは興味深い。
現在も、日本の戦後の反省は世界に認められるまでには至っていない。
つまり、哲学者、批評家、政治家、文学者らによって築かれた戦後の日本語は、
自身を客観視することにおいて、世界に通用するメタ次元を獲得し得ないでいる。
その批評言語的性格は発展途上にあると言える。
世界経済第一位の座を中国に譲ろうとしているアメリカでは、
黒人、女性といったマイノリティーが始めて大統領候補になった。
アメリカ発のサブプライムが資本主義の限界を突きつけ、
ロシア、中国、ブラジルが国家主導の経済で好調を見せる中、
マルクス主義者達は、今こそが本当にマルクス主義的な時代の到来、と言い始めている。
とりわけ、中国が提示しようとしている国家像を巡っては、
暴動、鎮圧、ボイコットが世界各地に飛び火し、政治言語の早急な刷新が求めらている。
世界のヘゲモニーが未曾有の変化を遂げようとしている現在の状況を言語化するには
これまでの構造主義・ポスト構造主義だけでは足りない
(構造主義・ポスト構造主義に不足や問題があるわけではない)。
構造主義・ポスト構造主義時代に到達し得なかった視点、
想像されなかった問題が目に見える形で現れ始めている。
読む人、使う人の態度の変容が迫られているということ。
構造は世界、トップライト、躯体の順だね。
一気に落下しないような強度や落下防止柵があると良いね。
その後、News23で平野啓一郎のインタビューがあった。
'06年より平野が新潮に連載の『決壊』のテーマが、
加藤智大の秋葉原無差別殺傷事件と重なっているということだった。
平野は冷静に時代を分析しており、
事件現場に集まる一般市民が携帯で写真や動画を撮影してブログで配信をする。
大きなビルを破壊する必要もなく、無名の個人が無名の個人を攻撃することがテロになり得る。
ことを指摘していた。
547 :
考える名無しさん:2008/06/23(月) 19:25:27 0
■「政治ゲーム」としての「経済的ナショナリズム」
「政治ゲーム」という実践
サヨはマルクスしかり(資本主義)システムから生まれる搾取の構造を考える。資本主義では
合法であることが搾取を生み出している。それはネグリもかわらない。だからシステムを変える
こと、「革命」がめざされる。しかしボクがいっている搾取はもっと卑近なことだ。人はだまくらか
す、嘘をつく、そんななんでもありが「政治ゲーム」である。
ネオリベだろうが世界はいまも政治的な駆け引きの場である。いかに仲間を増やし、敵をだま
くらかし、優位に進めるか。ここにはルールはない。自由競争は「思想」上の一つの理念であ
るが、いまも力あるものが断然優位な「政治ゲーム」である。
「政治ゲーム」を闘争的に語ったが、いかに相手をだまくらかしうまくやるか、という単純なゲー
ムではない。このゲームにおいては、むしろ闘争よりも、共生が重要だろう。そして共生とは
利害の一致という単純なものではなく、もっと利害を超えた信頼関係を作ることが重要とな
る。なんでもありとはほんとうになんでもありであり、なにが正解かマニュアル化できない。あえ
ていえば実践的な帝王学が必要とされる。このような意味で、宮台のいうようなエリートプラグ
ラムは有用であるかもしれない。
格差は、自由競争によって経済学的に生み出されるのではなく、このような「政治ゲーム」の中
で生まれている。金持ちはなんとしても金持ちであり続けたいと考え、様々な策を弄するだろ
う。それは必ずしも法律に違反する非合法なものということではない。金持ちは金持ち同士で
協力しあうなど、策はいくらでもある。さらにいえば、自らに優位な法律を作ることは勝ち組が
勝ち続けるためのもっとも有用な方法だろう。このように「帝国」という自由と平等の裏で、「搾
取」は進められている。
「帝国」化すれば国家はいらないのではないか、というのは幻想である。しかしいまもかわらず
国家が重要であるのは、国家が「政治ゲーム」のプレイヤーであるからだ。それが、グローバ
ル化とは「帝国」ではなく、国家間の「政治ゲーム」という闘争の場であることを示している。
548 :
考える名無しさん:2008/06/23(月) 19:26:00 0
「経済的ナショナリズム」というグローバリズム
高度成長期からバブル前後において、日本は世界1の経済大国になった。それは必ずしも日
本の努力だけではなく、アメリカ経済の低迷を背景にした世界的な経済の流れで生まれた一
時的な「幸運」である。極端にいえば、世界史でみても世界1は次々に移り変わっており、日本
にも回ってきたということだろう。
それによって、日本人はポストモダン的な浮かれて状況におかれた。物質的な豊かさの中で
精神的な喪失感を満たすことを求めた。ここでは、日本の豊かさが世界の多くの貧しい国々か
らの搾取の上になりたっていることが忘れられている。そして忘れられていることの問題は貧し
い人々を搾取していることに気づいていないことではなく、簡単に転倒する「砂の城」であること
だ。気を抜けばすぐに立場は逆転する。
自国の大臣が「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれる状況ではなくなった」と言われるような
状況の中で、国民が総中流社会幻想を見続けることができないのは、当然だろう。格差問題
はグローバル化という「政治ゲーム」の中の1つの現象であるととらえる必要がある。だから日
本全体の経済力を向上させ、他国との「政治ゲーム」に勝ちつづけるしかない。このような考え
は、「経済的ナショナリズム」に近いのかも知れないが、グローバリズムとナショナリズムは同
時に生まれた裏表である。
戦いはさらに厳しいものになりそうだ。資源という限られたパイをめぐる争奪戦だからだ。資源
の乏しい日本は苦戦を強いられるだろう。特に資源争奪はグローバルな大企業といえども苦
戦する例外状態=「政治ゲーム」であり、国力がものをいう。日本は懸命に省エネ技術を売り
にするが、環境問題こそ、まさに「政治ゲーム」であり、グローバルな戦略において欧州に差を
開けられている。
549 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 10:54:22 0
「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。
その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて下降し、ハンブルク空港
に着陸しようとしているところだった。十一月のひややかな雨が大地を
暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に
立った旗や、BMWの広告版やそんな何もかもをフランドル派の陰うつ
な絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから
小さな音でBGMが流れはじめた。
それは、どこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイ
の森』だった。そして、そのメロディーはいつものように僕を混乱させた。
いや、いつもと比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。」
村上春樹著 ノルウェイの森
そして、人々との関連を切断した青春の暗い影は、今は、深く心にしまわれ
何もなかったかのように、中堅サラリーマンとして生きている自分を
否定しはしない。その経験は遠い過去のどうする事も出来なかった事
への罪悪感として、去来するだけである。
こうして、彼は今の上に肯定するしかない自分を見出している。
550 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 11:14:00 0
東はポストモダン以前を規律訓練型(フーコーの概念)の時代と呼び、
それに対して、大きな物語の崩壊後の、つまり、ポストモダン
=多様化時代を環境管理=監視型の時代と考えている。
この分類はすでに一般的な合意を得たものである。
つまり、分かりやすく言うと、前者が教育によって、社会的な通念
や常識、あるいは価値観と言ったっものが共有される社会である。
各人はこの教育によって、共通の価値基盤を内面化させ、
十全な一般市民として、超自我によって、自由に行動できるようになる。
一方後者では、このような共通基盤が消失し、各人が色々な判断基準
を持つ事になり、社会の安定にとっては大きな脅威となる者が現れる。
そこで、管理=監視体制が強く求めらる事になる。
アキバでのホコテンの廃止は、この事の象徴的なケースの一つでもあろう。
551 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 11:34:26 0
つまり、規律なき人間時代の到来が、監視を強める体制を強要したのである。
たしかに、イギリスのイスラムテロ事件での犯人逮捕では、監視カメラ
が有効であった事は、事実である。
特にイギリスでは、テロ現場の映像から、犯人とおぼしき映像を
逆追跡し、自宅を出る犯人に迫ったのである。
この事は、監視型時代では、われわれの全ての行動が監視カメラで
追跡されると言う事である。
ある日の貴方が喫茶店でデートをし、質屋へ行き、サラリーロンで
金を借り、ラブホへ行った事すべてが映像として残される。
この事が、多様化=自由への代償なのだ。
で、大きな物語って何のこと?
553 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 15:59:05 0
アキバのホコテンの禁止は、何を意味するのか?
一体ホコテンとは何だったのか?
整然と走る車、生産性の向上、所得の向上によって、人は豊かさを求め
給与の上昇とともに、マイカーが増加する。CO2への関心が低く、
貧しさからの脱却を求め、生産性の向上の事しか考えられなかった時代
人々は、規律型社会にいた。人と人地域と地域との分断をなくす意味で、教育が重要な
ファクターであった。特に、日本型の規律社会は、密着度が高く、
個人の間の差を極力消去しようとしていた。
この規律訓練型とも言える組織は、強力な国家の力を背景に、あらゆる面で
厳格な指導教育が施される。たとえば、学校教育には文部省の教科書認定が
あった。全国の同じ学年の生徒は、ほぼ共通の教科書から知識を学んだのである。
この事は、ディスコミュニケーションの可能性を極力抑え、国家中心=トップダウン
的な組織の強化を目指すものである。勿論言語は東京を中心にした、標準語が採用され
地方の方言は劣言語として、差別的に扱われる。
この様な、上下関係的な中央集権こそ、規律社会の根底にあるんだろう。
大きな物語=文部省の教科書認定?
今は「ほぼ共通の教科書から知識を学」ぶことがなくなって、
人々は「多様化」と「自由」を手にしたが、その「代償」として
「アキバのホコテンの禁止」という「監視」を強いられるのである?
555 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 16:26:36 0
そして、このスレッドで言う、ポストモダン社会への変化は、豊かさを
背景に、あらゆる面で中心主義のタガが緩んできた事にも起因する。
豊かさはある意味、懸命に生きる事への否定であり、ゆっくりと
今流行りの言葉で言うと「スローライフ」への人々の願望でもある。
生きる為に働くから、楽しむために生きる、この違いこそ、モダンと
ポストモダンの違いなのだ。
そこで、ホコテンの説明い戻ると、排他的に自動車が占める
走行空間=車道を人間=歩行空間に一時的に切り替える事で、
生産=中央集権中心の在り方を緩めようとしたのが、ホコテンの
意味である。この事はまた、人間の欲望の抑圧=生産性=規律型
から、個人解放=ゆとり=欲望の若干の一時的な解放をも意味する。
つまり、ホコテンはポストモダンの小さな象徴でもある。
この象徴が今回のアキバ事件で、封鎖されたのだ。
アキバとはポストモダンの聖地であると言い、それは、世界に類を見ない
ヴァーチャル=現実を実現した地だとも言った。
しかし今、この聖地は、封鎖される。これは、東が「環境管理型」社会
への日本社会の移行強化を意味しているのだろうか?
しかし、管理型社会への移行であれば、国家権力による、ホコテン一斉禁止
と言う行動にはならないだろう。この一斉・強制とは、むしろ、旧型の
規律訓練型に含まれる要素の方が多いはずである。
つまり、管理社会とは個々人の自由が前提にあり、個々人の匿名性によって
何をするか分からない連中を監視すると言う意味が強いはずであるからだ。
ところが、今回の場合は、時代とは明らかに逆行している。
国家権力の強制力で、自由謳歌する欲望型ポストモダンは、アキバの
ヴァーチャル=現実がヴァーチャル=夢物語へと後退する可能性を
示している。
556 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 16:43:52 0
「僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことが
いっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に
君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを
君と二人で最初から始めたい、と言った。」
「『あなた、今どこにいるの?』と彼女は静かな声で言った。僕は今
どこにいるのだ? 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックス
のまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?
でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。
いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩き
すぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から
緑を呼びつづけていた。」
村上春樹著 ノルウェイの森より。
40年前の言葉で30年前の世界を語っていたのが、
30年前の言葉で20年前の世界を語るようにはなった。
例えば、”ウヨ”とか”サヨ”という言葉は今現在
どのような文脈の上においてどの程度有効なのか。
右翼左翼という言葉ができてから随分と時間が経過している。
その言葉ができた国の事情と日本の事情も違う。
左翼→サヨクとなったのは80年代初頭。
英・米における”リベラル”の語の違いなどは頻出なので避けるが、
その様な言葉が好んで使われる時代もあった。
その後ネオリベからネオコンへのシフト、
日本では、最大の保守政党が改革をスローガンに圧勝する時代。
言葉が刻々と変化し続けるということはそういうことで。
時代に対して、文学は哲学よりもずっと早い。
558 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 21:28:22 0
557さんへ。
絡まないコラボレーションが良いね。
この二つの論点が全く絡むことなく並行的に進む、これはどちらが正しいか
の交流=視点がなく、まったくもって併存=併記。
これこそ、間テクスト的でもある気がしますね。
ポストモダン的、多言語主義と共通するかも知れません。
559 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 21:54:16 0
電話を掛けて、どうしても話がしたいと言う主人公は、
主体時代=信憑性=確信=コミュニケーションの可能性を信じている。
何もかも、たくさん話して、理解して欲しいとせまる。
そして、最初っから、二人で始めたいと願う。
会っていなかった時間、彼はきっと、コミュニケーションの不可能性
に呑まれていたのだろう。この多様で確信の持てない時代にお呑まれていた。
そして、「貴方はどこにいるの?」と言う問いかけに、答えられない
のは、自分が何者なのか分からない、匿名の「私」を表している。
そして、他者はいずこともなく、無目的に、いや、構造主義的に作られた
「私」として、構造内の関係の網の中で、機械的に動かされている
無表情な人形模様に、歩いていた。
そして、「どこでもない場所のまん中から緑を呼び続けていた。」
とは、原抑圧によって開かれた空無の中で、自己言及的に自分を
定立しようとしたが、その自問が無意味にこだまするだけだったと言う意味
だろう。
つまり、緑に会って話そうとする自分に残るモダン=主体は、
すでに、ポストモダンかする「被主体」によって、不可能になる。
話す主体は喪失し、主体は自問するしかない。
つまり、過去の人間同士が深く繋がって生きていた思い出は、
主体的な人間への疑問の中で、構造=組織にかすめ取られ、
回想する事が、無意味に響く、この様な中で、村上は、なおも
過去への郷愁を忘れない。しかし、過去の様な密着した関係が
回復する事がありえないことを知り、過去を忘却の中に捨て去ること
しか出来ないのだ。私は失われた、匿名性としてしか存在しない。
私が何かをなすことなど出来ない。あるのは、関係の中で、欲望が
繁殖するポストモダンだけなのだ。
560 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 22:02:05 0
ようは、村上は、モダンからポストモダンに向かう時代に、
個々人が親身に考えた、実存的な悩みをポストモダンが消去する
時代を表現したものだろう。
私もあなたも君もいない。あるのは、欲望と差異であり、その時代が
否応なしに到来する。この哀れさを嘆きながらも、肯定せざるを得ない。
つまり、ある意味、構造に対して全く黙認する無力な人間の賛歌では
ないだろうか。だから、われわれは村上よりも一歩前進する必要がある。
つまり、行動する主体を再構築する必要があるんだ。
561 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 22:15:34 O
村上春樹には最後に帰るべき場所があったのに僕にはない、僕は今どこにいるのだろう
562 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 22:18:01 0
ホコテン禁止によって、アキバヴァーチャル空間は、監視下におかれた。
アキバはそのヴァーチャル=現実を引っさげて、ポストモダン空間を
開いた。アニメ=マンガのフィギュアーが、空想から現実空間に到来した。
つまり、パスタイムではない、常態としてあったのだ。
この様に仮想空間が現実化するには、例えばメイド喫茶のコスプレ嬢が、仕事を終えて
「では帰ります。」といって、帰宅についたとき、規範的な考えが支配する
人間に戻る事がないことが重要なファクターである。
つまり、仕事を終えても、コスプレメイドとしての実在を知っている
必要がある。仕事と自分との判別があってはならないのだ。
例えば、ルイヴィトンを持つ「私」は仕事をしていようと、自宅に
いようと同じくルイヴィトンを持つ「私」に成っているのだ。
この概念こそドゥルーズの「成る事」なのだ。
なる事とは、全身にその霊を帯びているので、その霊を脱ぐことがない。
いつもコスプレ嬢であり続ける自分なのである。
だからこそ、一時的なパスタイムではありえないのだ。
563 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/06/26(木) 22:22:39 0
にしても長い。
564 :
考える名無しさん:2008/06/26(木) 22:23:20 0
しかし、今、ホコテン禁止によって、アキバのヴァーチャル=現実空間
はヴァーチャル=仮想空間へシフトダウンする。
そして、アキバもパスタイムとかするだろう。
なぜか?この分析はまた。
キャッチーなキーワードが飛び交ってるだけの馬鹿スレだな
なんでこんなにはずかしい事ができるんだろ?
感性が悲しいぐらいにオジサンなんだね。
567 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/06/26(木) 22:47:23 0
キッチュでギークな哲学を展開しようよ。w
って言う言葉が俺は大好きだ。
もっとシュールにリアルに語ろうぜ。
もっと生暖かい世界に生息したかったが、人生の概ねは
過剰なまでに現実・・・苦痛しかないよなぁ。
568 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/06/26(木) 23:01:24 0
テロ朝、”風の彫刻”ザ・ウェイブか・・・・
今日も脳内麻薬悦か、それともシーター波悦なのか。
今日も最高だぜほろ酔い気分。
おたく→オタクとなったのは90年代。
その所産が芸術として数十億で取引されるようになると現代美術館でアニメ展が催され、
オタク文化のクリエイティブな一面を持ち上げる紋切りな批評が跋扈した。
秋葉原の地政学的な意味合いも変わった。
かつては「世界有数の電気街」と呼ばれたハードウェアを売る街に
産学連携プロジェクトオフィスが設置され、
今や、行政の手によって世界に向けられた
IT産業・コンテンツ産業の一大拠点となったのである。
アメリカにおいても、日本製アニメに関するネットの検索件数は
ハリウッド関連のそれを上回るという。
その間、文部省→文科省に。
570 :
考える名無しさん:2008/07/04(金) 18:46:32 0
すっかりご無沙汰でした。
またやるか。
ホコテン禁止は規律訓練型社会への回帰と言っておいた。
恐らくこの予測は正しいものとなるだろう。
犯罪の取り締まりが、監視型(管理型)であるならば、カメラの設置数を
増やせばいいことだが、今回の禁止には、善良な人間も凶暴な=殺人者も
国民全員がホコテンでの自由散策を禁止すると言う、道徳的な要素が含ま
れているからだ。
この規律訓練型への回帰現象のもう一つの例が、最近文部省より発表された
ゆとり教育の終了である。授業時間は延長され、学校教育の重要性が
再認識される。また、現在20歳の成人年齢を引き下げて、未成年犯罪者
に対する懲罰を強化しようとしているようである。
この様な新たな展開によって、ヴァーチャル=現実世界は一度に終焉に向かう
可能性がある。
この事は、違う局面からも検証可能である。
つまり、年金問題に端を発した、非正規雇用者や貧しいオタクの今後の在り方から
も証明可能であろう。
ほんじゃまた。
一子相伝の芸人とか職人が一番偉いって世の中になると跡継ぎを残さなきゃ技が途絶えて申し訳ないってい
うので、子孫を残すのも仕事ってなるよ
世の中がガキはいなくなれ、って方向に向かってんだろ
多分、老人が増えすぎたんだよ
老人を大事にし過ぎる為には子供作んないようにしなきゃね
なんというゆとり。
人口ピラミッドとか見て考えようぜ。
573 :
考える名無しさん:2008/07/04(金) 21:34:32 0
ヴァーチャル=現実の出現の前提にあるのは、アニメ・マンガ・ゲーム・ノヴェルティ・
が空想空間にある事を超えて、現実化する点である。
その代表的な例が、アキバのメイド喫茶にある。この空間は、一時的な空想の空間
の出現ではなく。空想=現実空間であることを示している。この空間にいるもの
は全て実在する。つまり、稼ぎのために演出されるディズニーランドの様なもの
とは全く異なる背景を備えている。それは、企業が利益を得ようとする空間
資本主義空間とは、似てはいるとしても、またく異なる空間である。
空想された者=キャラが実在し、そこに集まるポスモダ群集は、
その実在空間に浸る。それは、アキバ散策を終えてJR秋葉原駅で電車に乗って、
帰宅しても、実在する。
ところが、オタクと言われるポスモダをリードする群集は、
年金問題で大きく不安を感じている。老年期の自分の生活を考えた場合、
正社員として採用され、働く必要がある事が判明したのだ。
ここに、仕事=食べる為と言うポスモダのシナリオが崩れ去り、欲望を規制して今を
見つめると言う、モダン期までの精神状態=価値観が再来する。
このとき、彼らは、アキバのヴァーチャル空間がパスタイムと化する経験に
出会うのだ。
574 :
考える名無しさん:2008/07/04(金) 21:55:23 0
同時に、あまりにも過激になった利己主義がもたらす、若年層の犯罪の多発
によって、倫理教育や懲罰の強化が求められ、この事でも、ポストモダンの
終焉への道筋が見えてきているのだ。
今度は精神分析から見てみよう。
ポストモダン群集=オタクは高度経済成長期のピーク時に、両親の豊かな所得に
によって、物に不自由なく幼少期を送っている。ただし、多くの両親は共働きで
あり、一人ぼっちで自室に閉じこもっていたのだ。
そこで、両親は子供にかまう事が出来ない事の償いとして、金品を与え、
同時に、今でも見受けられるように、犬猫を大事に育てるように、
子供の要求をすべて受け入れた。ただし、昼間は両親が外で働く事を除いてだ。
そこで、結論は、おそらくもうわかったと思われるが、最近犬猫、特に犬
が、家庭内で飼い主をかんだり、最悪の場合噛み殺したりする事件が多発している。
この事件の真相は、親=飼い主が、犬に対し、強力な原抑圧を行っていないがために、
気に食わぬ事をすべて、他者のせいにすると言う、精神の問題が露呈した結果なのだ。
つまり、最初に親=優位を認識させ、そこから、子を指導する事で、
努力をし、人を愛し、自分を戒めると言う精神が醸成されるのある。
凶暴な犬は自分=自我=努力=我慢が備わっていない。
犬は集団で生活する動物である。人間も同じであり、集団=社会生活には、
虚勢が基本である。この事を忘れ、ただ何でも要求を満たしてやること
を行った、高度経済成長期の親たちは、反省を迫られることになる。
勿論この様な生活環境を齎した政治も然りである。
575 :
考える名無しさん:2008/07/04(金) 22:02:55 0
つまり、虚勢=自分の社会(家庭)での序列順位=社会的適応性の醸成
と言う重要な点がポストモダン時には崩壊しており、
この事で、序列のない例外的な自分は、確定した自分=主体が壊れており
喜ぶ=他者との共有相互承認が不全であり、苛立ちと分裂とが
凶暴さをもたらすと言う事である。
576 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/04(金) 22:08:24 0
すんごい、国語力。
付いて行けんねwww。
これだから哲オタってwwww。
577 :
考える名無しさん:2008/07/04(金) 22:18:03 0
>現代美術館でアニメ展が催され
たかがアニメごときが芸術になるはずもなく
美術館に独立採算制が導入され
浮世離れした企画ばかりが通らなくなったため
578 :
考える名無しさん:2008/07/04(金) 22:19:01 0
虚勢は去勢に訂正ね。
今日の分析はどうでしょう。
全くオリジナルです。
ぴかぁ〜のスレッド再開で熱気が上がっていることで、
良かったと思っています。
今後はこのスレッドで誰か言っていた、竹田のデリダへの反論「言語論的思考へ・・」
を今少しづつ読んでいるので、感想でも書こうとは思っているが、
フッサール現象学をやるやつって、頑固なやつが多いね。
一度信じたら変えない。超形而上学の勧めって奴が多い。
竹田もそうだ。ポスト構造主義と言えば、現象学で説明ができるとする。
まあ、フッサールでデリダを崩すのは無理だと言う気がするけどね。
今は、二冊を併読中で、もう一つは、「海辺のカフカ」村上春樹著。
ゆっくり行こう。村上は多読だったことが解るな。
579 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/04(金) 22:24:08 0
「海辺のカフカ」村上春樹は、このスレに関係があるのか?w。
580 :
考える名無しさん:2008/07/04(金) 22:32:12 0
分らない。とりあえずノーベル賞候補の本を読んでいる。
現代をいかにえぐっているのか知りたいだけだけど、
強引に関連ずける事も出来る。
でも、そうはしないつもり。とりあえず彼の深層に迫りたい。
581 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/04(金) 22:50:34 0
ノルウェーの森を書いたのはなんでしたっけ?。
どっちかちゅうたら春ちゃんのほうが好きだけど、
一冊読んで飽きたなぁ。やっぱ哲学書がええな。
582 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 09:44:45 0
「ノルウェイの森」も村上春樹著です。
たしかに哲学書の方が言いたい事が解りやすい。
でも、形而上学崩壊後、哲学が置かれている立場を考えると、芸術や科学へ眼を向ける
必要がある。なぜ、ドゥルーズは映画だったのか。あるいは文学だったのか
と言う事だね。
583 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 10:55:30 0
■日本は「知的労働力資源」を活性化させ国際競争を駆け抜けろ!
<b>「環境問題」の思惑</b>
原油不足による世界インフレ。今さらかも知れませんが、ほんとに世界は小さくなったなと
思ってしまいます。
地球環境はいつも時代も変化しています。ほんの1万年前は地球は氷河期であり、その後
いままで安定した気候であることは人類にとって幸運なことです。たとえばある島が海に沈
むことが数百年、千年単位でおこれば、生物のもつ新陳代謝、すなわち世代交代で対応で
きる。しかしそれが早すぎると対処できず、大量の難民を生むことになる。最近の環境問題
で問題なっているのは、あまり急激に環境変化が起こるために対応しきれないということで
しょう。
温暖化が進んだ場合には、被害場所には当たりはずれがあり、はずれは被害が発生して
みないとわからない。さらにいえば、温暖化による熱帯化は自然を豊かにする可能性さえある。
<b>もっといえば、そもそも現在の世界は一部の富裕層が多くの貧困層から搾取する構造
の上にある。このような事実の上で環境変化でハズレクジを引くかもしれない人のために
いまの生活力の一部を奉仕するのか、という本音がある。</b>このように「人類の未来の
ために」という美しいスローガンの裏には様々な思惑がうごめいている。
584 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 10:56:34 0
<b>「資源問題」の混沌</b>
それよりも差し迫っているのは資源問題でしょう。資源問題は単純な資源枯渇の問題では
なく、世界で余った投機マネーが流入し相場を釣り上げていると言われます。しかしこれら
の根底にあるのは将来的な資源枯渇への危機感でしょう。
BRICsなどの経済の急成長によって、将来の資源枯渇の不安を生んでいる。現に中国など
は世界の資源の確保に走っています。またアメリカが原油にかわるバイオ燃料施策を進め
ることで、世界的な穀物不足であり、原油供給の保守化が起こる。その他、ロシアは豊か
な資源を担保を世界戦略を考える・・・このような不安定さに短期的な投機マネーが乗っ
かっている。<b>資源枯渇そのものは長期的には解消される可能性はあるが、このような
資源をめぐる各国の駆け引きは慢性化するでしょう。</b>
しかし逆に言えば、これで環境問題がリアリティある問題となる、という考えがあります。資
源問題がインフレという形で世界の人々に「生きる」生活に直接に関係している。これに
よって、国は差し迫った問題としてエネルギー政策を考え、そして生活者は省エネを進め
る。結局、このように現前しなければ、環境問題対策は進まないのでしょう。
585 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 10:57:17 0
<b>日本は「知的労働力資源」を活性化させ国際競争を生き抜く</b>
グローバル化してもマルクス主義的な「世界共和国」を考えるのは意味がない。むしろそれ
は地理的、民族的な差異が抑圧し、帝国主義化を意味する。あるとすれば、さらなる大国
の分割だろう。国家間の軍事、経済競争における優位性を考えて、さらなる分割はあるだ
ろう。そのうえでの協力関係である。EUは決して国家ではなし、共和国ではない。
経済は貨幣等価交換を基本とした平等な競争と考えられがちであるが、価格が大きいほ
ど一回かぎりの駆け引きになります。それが競買のような「自由競争ゲーム」ならばまだ良
いが、実際はなんでもありの「政治ゲーム」にです。この場合には力のあるものが断然有利
です。「政治ゲーム」はその一回だけ切り離せず、強者は場そのものを支配する。それは例
外状態において、強者がルールさえも作り出すことを意味する。政治とは、ゲームのルー
ルを作る事、国際社会でのゲームのプレイヤーが国家ということです。
ネオリベラルなグローバル化の潮流は今後のかわらないでしょう。その中で世界各国には
資源が豊かな国、労働力が豊かな国など、それぞれに特徴があり、有用な方法を模索す
べきである。<b>今後の資源時代にあわせて呼べば、物質的資源の乏しい日本にとって、
豊かな「知的労働力資源」を活性化させて国際競争を生き抜く、ということが重要になると
思います。</b>プロフェッショナル(職業)=ナショナリズムは、日本に適応した形態だと思
います。
>>585 そんなことは何十年も前から言われてて
現にそうしてきたが、今更何?
>>583-585 現在の世界と経済を概観するのに、
バランスの良い目配せがされていると思う。
原油や原材料の高騰、金融市場の混乱などといった問題が注目されるが、
その背景にあるのは単純なものではないような気がしている。
これまで搾取される一方だった第三世界の代表が、
第一、第二世界の人が作り上げた経済システムの乗りこなし方に気づき始めたんじゃないかとか。
歴史は浅いが、今はAUが注目されつつある。
EUやAUがあって、アジアはどうするのか?
当然、BRICsなどの発想は、第一二三世界といったイデオロギーの距離や、
物理的距離によって結ばれる地域的共同体を越える枠組みだ。
588 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 12:41:29 0
>>586 人間の尊厳の根源は仕事にある
ボクは、現代の日本において、誰もがプライドをもった職業につくこと、そのような機会が与
えられる社会を作ることが重要だと思います。人間の尊厳の根源は仕事にあると思うので
す。とくに職業倫理(プロフェッショナル)を重視すべきです。
ここでボクがいう仕事は広義な意味を持ちます。趣味も労力を投入するという意味で「仕
事」に近い。しかし仕事と趣味との違いは、それによって対価をえることと、社会的な貢献を
前提とした倫理が伴うことです。社会へコミットし、充足(やりがい)をえる有用な方法であ
り、現代の唯一、共有可能な倫理だと思うのです。
仕事は疎外された行為ではないし、ネオリベラルな物質的な豊かさにしか繋がらない作業
でもありません。仕事は社会へコミットすることであり、社会資源を有用に活用することで、
一人ではできないような社会を変革させることです。たとえばネジを作る仕事でも、有用な
ネジは世界を変革させることができます。このような仕事による社会へのコミットこそが人
に生きる意欲を与えるのではないでしょうか。
そのためにプロフェッショナル(職業倫理)=ナショナリズムを検討する。資本主義社会に適
応した倫理形態としての「職業倫理」ネットワークをもとに、誰もがプライドをもった職業につ
くこと、そのような機会が与えられる社会をめざす。そして日本の豊かな国力を維持する。
589 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 12:42:07 0
「ノンワーキング・リッチ」問題
たとえば若者が殺到するネットやオタク文化において、彼らはそれらにそのものに関わるこ
とを望んでいるのでしょうか。重要なポイントはそこに創造性を発揮できる場所があるか、
だと思います。創造性を発揮できる場所とは自分たちが作り上げる場所ということです。
だから対象は必ずしもネットやオタク文化である必要はないでしょう。創造性が発揮できる
場所が与えられれば、彼らは十分能力を発揮することができると思います。それは大金が
儲かる、社会的な注目を浴びるということではなく、実働的な場として社会生活と関わり続
けることができる場所です。これは、職業倫理(プロフェッショナル)を育てる上で決定的に
重要なこととともに、若者にかかわらず人間が尊厳を持ち充実して生きることに重要です。
しかし現代はそのような場を作り出せていない。その理由の一つが職業上の既得権益の
問題です。既得権益として中高年が年功序列に固執するのは、日本社会ではリストラされ
ると復活することが難しいという再チャレンジに不寛容であるためです。
このような閉塞は、若者の職業の機会を奪うとともに、中高年にとっても生きる充実を奪い
ます。そして日本社会全般の経済力の低下に繋がっています。
.,, -''"´ ̄ ̄ ̄`"''-.、
./ \
./ ___ _ __ _ ヽ
,' .i´ ` ` )ノ シi.',
| | |.|
| / ,, ノ ヽ,、 |'
i⌒ッ リ ..::===''" ."''===|
|ノ`ミ、| ―・ニュ .| r・ニ―|
(( i|  ̄ ヽ  ̄ |
ヽ_,ィ イ ) /
. ゙| '、 ,.く__`⌒ir''´>、 /
|ヽ\ `ヾヨヨヨヺ ./
_,, -< \\.  ̄ /,
\ \`''- ,,____/ノ "''- ,,_
>>589 それは35歳ぐらいを給料のピークにするってことか?
年功序列が無くなったからといって人生のギャンブル性が
増すとしても
>>588のようなことになるとは思えない
592 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 13:58:29 0
ぴかぁ〜君
書き込みありがとう!!
ともに頑張ろう!!
人間の為に!
世界の為に!
ネイションの為に!
不鮮明な対象を指すマルチチュードの為に!
でも俺は、政治に多くを求めない!
文学・芸術にこそ求めたい!
どっちでも良いけどね。
なんでもいいんだ!
長い人生退屈なので、何かをやっていたいだけなのさ!
それがたまたま、哲学・絵画であったって事。
それ以上でもそれ以下でもない。
適当に頑張ろうね。
なんというゆとり。
594 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 15:19:23 0
>>591 >>
池田信夫 blog ノンワーキング・リッチ
問題はワーキング・プアではなく、その裏側にいる中高年のノンワーキング・リッチである。
私のNHKの同期は、今年あたり地方局の局長になったが、話を聞くと「死ぬほど退屈」だそ
うだ。末端の地方局なんて編成権はないから、ライオンズクラブの会合に出たり、地元企業
とのゴルフコンペに参加したりするのが主な仕事で、「あと5年は消化試合だよ」という彼の
年収は2000万円近い。
日本経済の生産性を引き下げて労働需要を減退させ、若年労働者をcrowd outしているの
は、こういう年代だ。彼らは世間的には、それなりの地位について高給を取っているが、本
人は「生ける屍」である。年功序列などという愚かな雇用慣行がなければ、まだ現場で働け
るのに、こうして「座敷牢」で50代を過ごす。官僚の場合は、特殊法人に天下って税金を浪
費する。
経済の生産性を決めるのは、人口の5%ぐらいの意思決定を行なう人材の質である。かつ
ては優秀な人材が製造業に集まって世界進出を果たし、日本経済を牽引した。しかし産業
の軸が製造業から外れたあとも、彼らは衰退する製造業に残り、それにぶら下がる非生産
的な銀行や官僚機構でも、優秀な人材が大量に社内失業している。こんな状況は日本経
済にとっても迷惑だし、彼らも幸せではない。こうしたノンワーキング・リッチを強制的に早
期退職させ、その退職金を増額して起業させる政策というのはとれないものか。
<<
595 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 15:31:23 0
ちちち、ちんーこ、たーろうーは、しゅっ、しゅっ、しゅっ!
はい!ちんーこ、たーろうーは、しゅっ、しゅっ、しゅっ!
もういっちょちんーこ、たーろうーは、しゅっ、しゅっ、しゅっ!
ひゃーーーいちんーこ、いちんーこ、いちんーこ、いちんーこ、いちんーこ
ぶうううぶぶぶぶげりちゅううううううううううううぴどれんこさっつさっつ
596 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 18:19:09 0
分からんでもないな。
たしかに年功序列賃金や終身雇用制の欠点はある。
有能な若者への能力発揮機会の拡大など、官僚的な既得権の排除など
日本にはやることはたくさんあるね。
特に、政治家=官僚連中の税金・年金の無駄遣い・着服は許せない。
また、高給を取る国会議員の数が多すぎる。
中継をTVで見ていると、寝ているか、ボーットしていて、
「俺には関係ない。」って奴が多い。
これは、自分の守備範囲でないところは「シラネーナ」って事を
示しているのだ。
この様な問題点は個々人の問題ではなく、日本古来からの集団主義
に根ざしているんだと思うな。
「赤信号みんなで渡れば怖くない。」って言う漫才が昔あったが、
「政治献金みんなで貰えば怖くない。」って事になる。
つまり、同じグループと思しき人間が、悪い事をやっても
そのグループの多くが同じことやってりゃ、犯罪を指摘できない
と言う事なんだね。これが、日本型グループ主義末路なんだね。
大学でもしかりだ。筒井康隆著「文学部唯野教授」を読んでみな。
大学の内部昇格審査の暴露本としても読める。若く才能のある
講師は何時まで経っても、助教授どまり、それで、外に出たのが
浅田先生ですよ。日本はほんまに腐っている。
だれが、明治維新の様な有能な政治家を生んだ土壌を腐らせたんだ。
この答えは私は分かっているよ。個人と言うよりも、
日本的集団主義構造が世界の構造にマッチしていないからだね。
597 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 18:35:32 0
そう言えば、東北大学の理工系のある教授も上下関係に無頓着に
学内で真理を述べたので、干されたよね。(理工系=真理探究の学部で
顔色見て話してては、探究がおろそかになることくらい分らないのかね。)
そして、構内に別棟を建てて、そこで研究をさせたわけだけど、
すごく頭が良いので、すごい発明をした。そしてその特許をとって
日本の電機メーカーに売り込みに行ったら断られたらしい。
そこで、アメリカのメーカーに話をしたら、即座に契約となった。
そうしたら、馬鹿な日本メーカーも挙って、この教授のところに
契約の話をしに来たと言う実話がある。アメリカで認められれば
優れていると言う馬鹿な舶来主義が日本の知的集団や一流電機メーカー
の中にもあったと言う事だろう。
その後この教授は東北大学の学長にまでなった。アメリカで認められたから
研究内容=人望まで変わると言う、集団主義のなれの果てですね・・とほほ。
呆れてものが言えないね。個々人が自分で判断すると言う個人主義が不完全なのよね。
>>594 実現性が低い、必ず良い方向にいくとは言えない
収入の見通しがつかないとなれば少子化に
拍車をかけお金を使わず貯金に走るだけかもしれない
そもそも
>>588はは、国際競争に落ちこぼれたくなければ
働けと言ってるだけでその先が無い。それでは誰も変革に
向けて動くものはいない
599 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 21:57:12 0
>そもそも
>>588はは、国際競争に落ちこぼれたくなければ
>働けと言ってるだけでその先が無い。それでは誰も変革に
>向けて動くものはいない
国際競争に落ちこぼれたくなければ働くしかないが、
問題はいかに働くか。
その先?やり甲斐ある仕事、それ以外になにを望む?
600 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 22:00:19 0
「職業倫理」による助け合いのネットワーク
人々が「職業倫理」ドラマに感動するのは、まだ現代に生き残って倫理だからです。貨幣依
存社会においては、倫理は儀礼的無関心や消極的な自由など、「他者への不干渉」をベー
スにしています。助けあいの関係は過剰な干渉として嫌われ、あるいは「暴力」とさえ言わ
れる可能性があります。
職業倫理は貨幣関係が基本にした仕事による社会的なつながりを基本にするとともに、貨
幣等価交換に還元されないプロフェッショナルとしての責任があります。そしてプロフェッ
ショナルはその分野において素人より「知っていると想定された主体」であり、素人からの
尊敬されことで「他者への不干渉」を飛び越えることが許されます。
また「助けあいの関係」とは異なり、職業倫理からの与えられた贈与に対して、消費者は返
礼をする必要はありません。だからといってそれは単なるサービスではありません。プロ
フェッショナルとしての社会的な貢献です。だから返礼はみずからもまたプロフェッショナル
という立場から社会に返礼するのです。
すなわち「職業倫理」は「他者への不干渉」という弱い倫理と「助けあいの関係」という強い
倫理の中間に位置します。そして貨幣交換ネットワークを利用した「社会的な貢献」という
贈与関係のネットワークを形成することで、資本主義社会に適応した倫理形態と言えます。
しかしこのような期待故に逆に最近、過剰に期待されてる面があります。それが、教育現
場のモンスターペアレント、医療のモンスターペイシェント、あるいはクレーマーなど、消費
者のモンスター化として問題になっています。それによって、多くのプロフェッショナルが疲
弊しています。そして教育や医療さえも、貨幣重視のマクドナルド化するしかないのではな
いか、と議論されています。
601 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 22:05:18 0
>>588 >ボクは、現代の日本において、誰もがプライドをもった職業につくこと、そのような機会が与
>えられる社会を作ることが重要だと思います。人間の尊厳の根源は仕事にあると思うので
>す。とくに職業倫理(プロフェッショナル)を重視すべきです。
行動力が何かの悪影響を受けて阻害されている人間が、
そのような思想を持つと死にます。
>>599 そんな言い仕事なんてどんだけあるんだよ
そうじ、警備、土木作業、倉庫内作業、配達、工場のライン、介護、
農業、漁業も無くてはならない仕事こそ汚くてキツイ仕事ばかりだぞ
職業倫理というスローガンかかげたらみんなが冷房がきいた部屋で
絵かいてるよな仕事につけるのか?
603 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 22:24:29 0
>>602 キツくない仕事などない。
プロフェッショナルとは日常の中にしか生まれない。
604 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 22:33:22 0
↓以降、サド&マゾの提供でお送りします。
>>600 こんなもの資本家や投資家にとって
ただの都合の良い労働者じゃないか
だいたい倫理や道徳で人間は動くわけない
もっと単純な欲望に従って動いてる
話が理性的すぎる
606 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 22:38:07 0
エロぴか理論を散種してるラブゾンビの浩紀です。
仕事しないほうがキツい。
したがってぴかぁは偉大である。
608 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 22:48:06 0
>>605 倫理とはセイフティーネット。
倫理が緩い社会では、力のあるものが継続的に勝つ。
それがいまのネオリベラル。
609 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 22:50:00 0
確かに、喜んでもらえる仕事をこなせたら、非常な悦を感じられるの
は俺も認めるが、大抵は幾ら完璧な仕事をこなしても、その仕事への
反応は非常に些細なのが常識w。
他人からの働きかけで自分の仕事をしてると行き詰まるよ。
仕事なんて、己の脳内妄想の中で楽しけりゃいいじゃないか。
にしてももなぁ、「これすげぇ」とか「使いやすい」、「簡単」とか
言われたとにゃ確かに悦だが、最終的には己の脳内で
自己完結する悦なのかと思う。
>>607 ああ。仕事がない、出来ない、表現する手段がもがれた状況は
確かに辛いよな。結局、罪悪感にほんろうされるのが人だからね。
610 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 22:51:22 0
欲望は十分、理性的だ。
人がただ利己的になることはできない。
611 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 22:52:54 0
>仕事なんて、己の脳内妄想の中で楽しけりゃいいじゃないか。
脳の中には他者しか住んでいない。
612 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 22:57:21 0
継続的に失禁する力があるしーちゃんは子供の王国の勝ち組であるゼロアカ帝国
アダルトモドキの美少女
しろうと縛乳生娘アニマル放尿クレポン倫理タンポンリベラル萬股の妖精
花びら満開にしておっぱいマッサージしちゃうあずまん子潮吹きパイパンのしおねエロぴか理論の内親王です。
613 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 22:59:11 0
>>608 >倫理が緩い社会では、力のあるものが継続的に勝つ。
>それがいまのネオリベラル。
結果論だね。結果的に、最終的にそんな風に見えてる
だけだと俺は思うことに決めたんだ。
確かに、尻の穴の緩んだ「金だ金だ」言う組みは居るの
だろうけど、誰も見ていない暗がりの道端に札束が転がって
いるなら俺も欲しい。
ダバダ君の心情が垣間見れるスレに俺は酔うばかり。w
>>611 独我論に従えよ。脳内には己しか存在してない。w
まぁ、ダバちゃんのいう他者も俺が言う自己も同じものだろうけどね。
>>610 確かに、その言葉は酔える。
614 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 23:05:55 0
結果的にエロぴか理論に熱狂する浩紀です。
615 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 23:09:12 0
>>610 >人がただ利己的になることはできない。
結局、他者の言葉(位置)を知ることで己の位置(社会的地位とか)を明確にして
社会から愛されてる実感を味わって悦に浸るんだろうね。
・・・・・俺を泣かす気かよ貴様はwww。なんか泣けてきたなぁ。
風呂行って来るr。
616 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 23:10:26 0
>>613 簡単なことだ。
いま、財力、暴力をもつ勝ち組集団がいる。
もう一方に、多くを持たない負け組集団がいる。
誰も管理しない自由であることが、勝ち組にいかに
都合がよいか。いつまでの支配できる。
倫理などといって、負け組が集団化したり、
政府が負け組にも機会を与える政策などと
わけの訳のわからないことを言わないのだし。
独我論などと高等なことを考えられるのは、
他者に教えられたから。
617 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 23:44:58 0
お風呂出ますた。
>>616 >誰も管理しない自由であることが、勝ち組にいかに
>都合がよいか。いつまでの支配できる。
それ以上語らないようにね。いまなら、まだ俺の中で
ダバダ君が美化され神格化されてる。w
君がこれからヘタな発言を書き込めば、
俺は悦に浸れなくなるだろw。
>独我論などと高等なことを考えられるのは、
>他者に教えられたから。
他者無き世界。ありえんな。高度とかじゃなくて、
知ってるか知ってないかだけ。理屈は極めて単純だが、
独我論に共感しそれを理解しようとしない奴も結構いる。
てか、ほかの香具師も書き込むようにね。
てか、自宅の酒が100%切れました、めずらしw。
618 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/05(土) 23:49:43 0
■プロフェッショナル(職業)=ナショナリズムについてのQ&A
Q:
実現性が低い、必ず良い方向にいくとは言えない。収入の見通しがつかないとなれば少子
化に拍車をかけお金を使わず貯金に走るだけかもしれない。そもそも、国際競争に落ちこ
ぼれたくなければ、働けと言ってるだけでその先が無い。それでは誰も変革に向けて動くも
のはいない。
A:
国際競争に落ちこぼれたくなければ働くしかないが、問題はいかに働くか。その先?やり
甲斐ある仕事、それ以外になにを望むのか?
Q:
そんないい仕事なんてどんだけあるんだよ。そうじ、警備、土木作業、倉庫内作業、配達、
工場のライン、介護、農業、漁業も無くてはならない仕事こそ汚くてキツイ仕事ばかりだぞ。
職業倫理というスローガンかかげたらみんなが冷房がきいた部屋で絵かいてるよな仕事に
つけるのか?
A:
キツくない仕事などない。プロフェッショナルとは日常の中にしか生まれない。
Q:
こんなもの資本家や投資家にとってただの都合の良い労働者じゃないか。だいたい倫理や
道徳で人間は動くわけない。もっと単純な欲望に従って動いてる。話が理性的すぎる。
A:
倫理とはセイフティーネット。倫理が緩い社会では、力のあるものが継続的に勝つ。簡単な
ことだ。いま、財力、暴力をもつ勝ち組集団がいる。もう一方に、多くを持たない負け組集団
がいる。誰も管理しない自由であることが、勝ち組にいかに都合がよいか。いつまでも支配
できる。倫理などといって、負け組が集団化したり、政府が負け組にも機会を与える政策な
どとわけの訳のわからないことを言わないのだし。それがいまのネオリベラル。
欲望は十分、理性的だ。人がただ利己的になることはできない。
619 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/06(日) 00:15:45 0
目の前のコンビニでお酒かってくるねw。
↑と茶化してみる。
>>618 一言で括れる。基本はオナニーだw。
オナニーが出来ない奴は、他者を傷つけることに集中する。
君がそうかは知らないが。
話がかみ合ってないかもしれないが。
620 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/06(日) 00:29:30 0
むしろ問題は、貧困を国外へ排除しようとしていることだ。
資本主義において、誰かが低賃金の単純労働をしなければならないとすれば、
それを貧しい国へ任せようということだ。
先進国/途上国の格差、搾取は、ずっと機能してきた。
そして日本は勝ち組だった。この格差の上に、日本の豊かさは
成り立ってきた。日本で貧困と言って、途上国の貧困とは、格差がある。
しかし最近、どうもそう簡単ではいかなくなってきた。
BRICsなどの経済成長によって、明らかに日本の優位が揺らいでいる。
日本の下流レベルの落ち込みは、このような途上国の発展と関係する。
日本の国力の低下と関係する。
このようなナショナリズムは、日本を優位にすることを重視することで、
世界の民主主義の理想、人類みな平等を、格下げにする。
621 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/06(日) 00:34:02 0
貧困を地方に追いやるのもどうにかしてくれ。
結局、東京の賃金の高さは、地方が低賃金で
労働してるだけに過ぎないのだからね。
622 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/06(日) 00:37:06 0
あそうだ、ただいまーっていうの忘れてた。w
カロリーを考えて発泡酒と缶チュウハイを買ってきたよ。たらいまぁーっ。
623 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/06(日) 00:39:27 0
地方に生産工場作るな。銀座の一等地に生産工場つくれよなw。
さもなきゃ、俺なら500%課税したるでまったくwwww。
加藤容疑者投稿記録
6月3日21:00「オナニーしても気持ちよくない。年だな」
ダライラマ
「私にも欲望はありますよ。瞑想でそれを最小限に抑えようとしてますけどね
充足させたと思ってもいっそう強くぶり返してくるのが欲望お本質です
この罠にかかる人は海水を飲む渇いた人に似ています。」
625 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/06(日) 00:42:48 0
>>624 >この罠にかかる人は海水を飲む渇いた人に似ています。」
見事にそんな罠に嵌る人も極めて珍しいw。
626 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/07/06(日) 01:26:43 0
Q:国家間の競争を重視すれば、途上国は救われないのでは。
たしかに問題は、貧困を国外へ排除しようとしていることだ。資本主義において、誰か
が低賃金の単純労働をしなければならないとすれば、それを貧しい国へ任せようということ
だ。先進国/途上国の格差、搾取は、ずっと機能してきた。そして日本は勝ち組だった。こ
の格差の上に、日本の豊かさは成り立ってきた。日本で貧困と言って、途上国の貧困と
は、格差がある。
しかし最近、どうもそう簡単ではいかなくなってきた。BRICsなどの経済成長によって、明ら
かに日本の優位が揺らいでいる。日本の下流レベルの落ち込みは、このような途上国の
発展と関係する。日本の国力の低下と関係する。
このようなナショナリズムは、日本を優位にすることを重視することで、世界の民主主義の
理想、人類みな平等を、格下げにする。しかし国際間においても格差そのものが問題では
ない。資本主義は競争原理である以上、格差があることが重要である。しかしそこに機会
の平等、代替可能性がなければならない。しかし国家間は国家の国家がない以上、勝ち
組と負け組が固定ししやすい。そこに共産主義的な夢を語るのか。自らは勝つ組になるよ
うに努力するしかないのではないか。
627 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/06(日) 01:34:25 0
>>626 君は少しは現代に日本に感謝して寄付をするようにね。
628 :
考える名無しさん:2008/07/06(日) 05:01:50 0
現代のエロぴか理論に感謝して
子供の王国を守る浩紀です。
629 :
考える名無しさん:2008/07/06(日) 10:32:10 0
ここまで日本の集団主義を批判してきたが、たしかに欠点も多い。
しかし、この集団主義が同じく世界一のポストモダン社会を開花させた
と言う事も言えるわけだ。つまり、個々人の思考・行為を認めないで、
全体の雰囲気に合わせて流されると言う同根から派生しているわけだ。
ただ、この集団主義が政治の世界では、ある政治家の立派な考えや行動が
全体の雰囲気に違和感を与えると言う事で、その人間が排除される=シカトされる
事になる。いわゆる村八分ってわけだ。日本の学校でのいじめもこの一種で
いじめる相手を決めていじめる事で、いじめられていない奴全員が同じ
正規軍に参加している事を証明する。このためにいじめは永遠におさまらない。
何かを変えろと言うのではなく。集団の健全な機能の為の生贄なのだね。
ようは、日本の社会は雰囲気社会であり、理性的な思考による判断=意見
の良し悪しでは決まらない。「あいつもやってるので、俺もやる。どこが悪い。」
式なのよね。このような雰囲気が社会全体の判断・行動を決める社会は、
ヴァーチャルが現実化すると言う、理性では考えられない世界も作れるのだね。
そこで、いま一つ別の切り口から見てみると、日本の電化製品って異常に
細やかに作られているよね。アメリカのGE社の冷蔵庫は異常にデカク、電気の効率
も良くないよね。ただ、大きく、大量生産する氷って気がするよね。つまり、効率主義なんだね。
一方日本のメーカーのものは、タマゴトレイや冷凍棚・冷蔵棚・急冷蔵機能
など細やかですね。つまり、不必要かも知れないが飾りててた多機能=雰囲気主義な訳だ。
車にしてもレクサスなんてのは、キーをポケットに入れているだけで、車のノブに手を掛けると
開くし、エンジンのスターターもキーをポケットに持っていれば、指したりしないでエンジンが
かかるわけだ。
本当に細やかで、むしろ、理性的な因果関係で開発する欧米系とはちょっと違う
訳です。つまり、集団主義=雰囲気思考ってのかな、ここが面白いわけです。
630 :
考える名無しさん:2008/07/06(日) 10:51:51 0
同じく、大学にしても、東大に入っていると、何かと周りから評価される
から、東大って事になるので、大学で何かを研究するぞと言う熱い情熱
によって、入学する奴は異常に少ない。つまり、入学後にそこの環境=雰囲気
によって、自分の考えが作られていく訳で、それを知ってか知らずか
受け入れているわけです。つまり、集団主義な訳です。
空白の十年と村上龍が言った時代、学校教育は空洞化し、オタク
ニートと真剣に生きる事が「うざい!」と言われる時代が来たわけです。
つまり、四角四面に生きる事に飽きた時代=ヴァーチャル時代が生まれた
訳です。
しかし、日本の技術は捨てたものではないのです。
特に中小企業の社長は、日本の雰囲気的技術革新を忘れずに、欧米機能中心主義
では、不可能な発明を進めているような気がします。
細やかな意識=技術は日本の町工場へのNASAスペースシャトルの空調への受注になったり
して、現れ始めています。機能的にはアメリカが発明したコピー機も
印刷速度やカラー機の性能を含めて、細やかな進歩は日本のメーカーが
一歩進んでいます。そして、京大の万能細胞の発見。
このところ、集団=雰囲気主義技術立国日本の時代が到来しそうです。
勿論、CO2や公害問題の対する技術も世界一と自負しているようです。
631 :
考える名無しさん:2008/07/06(日) 11:15:41 0
欧米効率主義っ言った方が良いので630は訂正。ただし効率とは
燃費志向ではなく、不必要と思われるような飾り機能を開発しない思考
の事だね。
そこで、なぜ大企業にはこのような中小企業が出来る開発が出来ないのか?
それは、集団主義の短所が出るからだね。
日本の会社組織とは皆に認められる事を基礎に据えている。
だから、社長だろうが会長だろうが、自分を支持する人脈がないと
立派な事言っても受け入れられない。
ましてや、一社員がどれほどすぐれた技術開発が必要だ「これを開発すれば
売れます。」と力説しても、それを認める人=人脈がないと、
むしろ干されるだろうね。左遷だよね。ここが、欧米とは全く違く訳だ。
欧米企業では、有能な人材や有効な意見は因果関係によって判断する。
よって、この開発によって将来どれくらいの売上・利益が見込めるか
開発費用との比較でトップ即断される訳だ。ところが日本の大企業では
人脈(尻尾の振り方や部署間の力関係など)の複雑化関連によって決定される。
早い話が、バックアップされないと企業にとって良い話も逆に左遷される
って事だね。この点がないのが日本の中小企業なわけだ。
社長の一声でGOサインが出る。社長は企業の利益が=自分の所得なので必死なのだね。
この点も、技術開発にいい方向に向かわせる要素なんだね。
逆に言えば、日本の大企業は理性的に新技術を開発し、利益を上げなくても、
既得権=既存マーケットシェアさえあれば十分だと考えていて、
今更、この集団主義を変えると言う組織的な危険を侵す必要はないと言うだろうね。
632 :
考える名無しさん:2008/07/06(日) 11:26:59 0
中小企業では日本の雰囲気主義=集団主義がうまく機能して、
大企業では機能していない。
その卑近な例が、日本航空の凋落だね。
あれだけ一世風靡した、空のキングが、派閥抗争によって、凋落だもんね。
自社にとって必要な政策も派閥によって潰される。特に社内が二大派閥によって
分割される場合、企業は最悪となるね。そして、やっと倒産の淵に達したとき
メイン・バンクの指導のもと、強制的に社外より、取締役や監査役が
派遣されることになり、やっと、派閥は解消はしないが休戦となるわけだ。
この様な馬鹿げたやつらが、日本の大企業と政治の中枢にいると思うと
寒気がするな。やはり、政治は特に真面目で熱心な素人がやるべきでしょうね。
ヒガシコクバル君のようにね。
633 :
考える名無しさん:2008/07/06(日) 12:58:34 0
632で具体的な企業名を出したが、これは不適切かも知れないね。
あくまで一般論として出したまでだ、おおくの大企業には多かれ少なかれ
派閥ごときものは機能しているし、政治では赤坂接待・根回し政治も
顕在なのですよ。
634 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/07(月) 21:58:25 0
大企業は図体がデカイから安全で確実な儲け主義に走ってるだけだね。
冒険的で些細な儲けを追求するのは、中小や零細企業の役目だろう。
635 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/07(月) 22:04:20 0
売れると分かれば大企業が金と力に物をいわせて瞬時に
大量生産をするから、中小は常に新しいことを考えないと
いけない訳だよね。
基本、体の小さい中小は、予算も試算も資産もないから、
革新的なことを求めるのが常。もしくはニッチを目指す。
636 :
考える名無しさん:2008/07/08(火) 08:33:37 0
企業が好きな浩紀はタイアップしてる東です。
637 :
考える名無しさん:2008/07/08(火) 23:22:16 0
今日は一言だけ。
つまり、そう言う日本大手企業の社風をいかに切り崩すかが、今後の重要な
課題だろうね。いっそ、世代間に断絶があれば良いとも思ったりしたが、
これは、不可能だろうね。毎年新人が入社してきて、彼らが年を経て
中堅になり、また年を経て取締役や社長になって行く、そして、その社歴の中で
達振る舞いを先輩から教わって、無自覚に、日本的集団主義を身につけるわけだ。
そこで、そのような事なかれ主義的・派閥談合体制を弱体化する事が
必要になるんだね。いかに、会社でベストな選択が出来うるか。
そのためには、社内で、理性的な判断をいかに普遍化するが重要であるが、
このためには当面、そのような企業利益に立つ理性的な判断の出来る
上職者への接触を増やす事だろうね。その事によって、その上職者が
会社での発言権が増す事になり、しいては、そのような発想が企業内で
主流となりうるだろうね。現在のところは、こう言う方法しかない
気がするね。あまり、無茶すると、左遷になるか、進級が遅れるだろうね。
今日はここまでです。
638 :
考える名無しさん:2008/07/09(水) 14:31:25 0
いわゆる、開発方法には二種類あるわけで、1)西洋的な方法で、新たな
ものを開発する為に、個々人の理性的探究を重視し能力を客観的に認める方法。
2)アレンジメントとも言える方法で、ある発見=発明が、どのように
利用出来うるかと言う視点に立った方法である。
1)では日本型集団主義では許容しにくい。個々人の評価を個々人の業績に
よって、評価しにくい体質があるからだ。(集団主義的評価基準)
日本では、2)の方向については世界に特出した才能を持っている。
協調調和と言う集団主義は、発明においても、まさに、基礎技術の応用に
ずば抜けた才能を示しうるのだ。電気冷蔵庫・コピー機の指摘を思い出せば
良い。そして、もちろん、この2)の才能こそ、ポストモダン=ヴァーチャル=
現実を実現出来た理由である。
この2つの発明ファクターを実現でき得れば、日本は新たに世界の技術立国に
生まれ変われるだろう。そのためには1)の個々人の能力の承認がスムーズに
行われる組織や精神面の構築が急がれる。
639 :
考える名無しさん:2008/07/09(水) 14:48:04 0
アレンジとは、ある要素を全体の中に組み込む場合の要素の位置を思考する事を指している。
つまり、西洋の思考では、客体があり、それを主体=人間が把握する事で
発見=発明が進んで行く。これに対して、アレンジメント的見方では、人間の胚種
の各部分が全体の分化の中での位置関連として、最終的にある部分にになるのである。
この様な思考はライプニッツのモナドロジーに見られるが、あくまで
部分の思考であり、西洋形而上学の全体思考とは異なると言う気がする。
だから、アレンジとは、部分の在り方を変更する事によって、全体の
発明を微妙にシフトチェンジする。ある発見とある発見との繋ぎ
こそ、日本型思考回路なのだ。そして、ポストモダン思想に見られるもの
はこの部分の思考であり、局所の思考であることは明白であるのだ。
部分欲動は性的欲望を代表するのであるが、このような見方もまた、
動物的と言われる理由だろう。局所=主体の喪失=欲望回路=動物
となる。
641 :
考える名無しさん:2008/07/10(木) 22:34:54 0
「私たちは完全な円の中に生きてきました。すべてはその円の内側で完結していました。
しかし、もちろんそんなことはいつまでも続きません。私たちは大人になり、
時代は移ろうとしていました。円はあちらこちらでほころびて、外のものが
楽園の内側に入り込み、内側のものが外へ出て行こうとしていました。
・・・侵入や流失を防ぐために入り口の石を開きました。・・」
「海辺のカフカ」村上春樹著
そして、外に向かって、生=現実から死の世界の中間にある世界へと旅立ち
円環の内側に旅立ったのだが、諭されて戻ってきた主人公は、
明らかに、「ノルウエィの森」で無防備に黙認した自己喪失の世界への反動として
円環する世界=匿名の世界から固有名の余剰の世界に戻り、何かやることがある
事を否定しない。失われた恋=円環を見捨てても、不穏な円環の崩壊の中で
固有名として生きること、未決定の社会で生きる事を決心する。
ここでやっと、ポストモダンの余剰、大きな物語からの離脱を認め、
受け入れて生きようとする世界を表す事になるのだろう。
それにしても、彼は、細やかすぎる情景描写は、小説家として十分としても、哲学的な視点には
不十分さが付きまとう。あまりにも情景描写が多いことで、逆にストーリーの
流れに中断が生まれる。それと、テーマが多すぎる気がする。
カラスと言う少年(超自我)、母の亡霊、姉の亡霊、父の亡霊(ジョニーウォーカー)
、カーネル・サンダースなど、彼らや自然が示すメタファー(暗示)、
世界のすべてがメタファーとなる。つまり、ポストモダン的セリーの多様化
であり、コンテクストの複数性が、世界の存在をメタファーにするのだ。
642 :
考える名無しさん:2008/07/10(木) 22:57:16 0
石は閉じられる。全ては円環への帰還の可能性を失う事を表している。
ただし、「海辺のカフカ」の絵を除いて。
そして、「貴方が寂しくなったらこの絵を見て。」と言われる。
つまり、それでも、村上は大きな物語の時代、たった一つの世界しか
存在しなかった時代を回顧している。
忘れない理想の円環として、何時までも心に留めようとするかのように。
音楽・絵・自然を通して、彼はメタファーを綴る。その意味をつかもうと
あがく。そしてそのメタファーが多様な解釈ではなく、唯一の解釈を
なしうるかのように・・・。唯一性を望むのだ。今となっては不可能な唯一性を。
やはり、村上には唯一の確定的な解釈の時代を郷愁しているのだ。
多様な解釈時代に出よう、過去の円環を捨てようとするが、空しさが
付きまとっている。そう言う気がするのだ。
性描写があまりにも簡潔すぎるが、これは、彼が、自分に自由にならない欲望を
処理する必要性に迫られているだけとの捉え方がそうさせてる気がしてならない。
円環を乱す性欲を処理し、急ぎ、円環に戻る。そして、メタファーによって
唯一のメタファーを読み込むことに従事する。その事が言いたかったのだろう。
それでも、多様な読みの可能性は、主人公の能力を飲み込む。ここに、読者のこの葛藤へ
の賛辞と同情と感動があるのだろう。
一般的に言われるように、村上は多様化する経済社会に生きる孤独な
個々人への憂いと同情とを表す事になる。
そう思う・・・・
643 :
考える名無しさん:2008/07/10(木) 23:06:51 0
追加:
メタファーとは、元来唯一性としては存在しない。
しかし、彼は、唯一を求めている。言語=意味の同一性。
実在世界がそれを喪失するにつれ、他の世界にそれを求める。
しかしそれでは逃避でしかない。そこで、もう一度実在世界に
帰ってくる。何かをなすために・・・・。
ここではじめて、確実性がない多様な時代に生きようとする。
やはり、モダンからポストモダンへの時代の変遷を表現したもの
であるのだ。
644 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/10(木) 23:21:17 0
>言語=意味の同一性。
言語には、多種多様な意味と、その意味の範囲があるのが
645 :
考える名無しさん:2008/07/10(木) 23:26:19 0
_,. ' 7'ヽ、
/ / i \
/ ! i \ //
\ __ / ,. '´ ゝヽ_ノ、 \ __,..........、 /
_,. - ' ´  ̄ニニヽニ´-' ´ /入ヽ、、 /=-、 ` ヽ
r'´ ', / ,イrヽヽヽ、 i ヽ、 \
/ ', ! //! i ` ',ヽヽヽ、 | > \ くぱぁ・・・♪
__/ ', i f'´ i | i ヽ、ヽヽ ! / \
', / !', | , i | } |`` \ / \
' , y_,.. '´ ヽ ヽ ! i i!., | !// _,. - '´ヽ、/
' , ,.くk、 \ ', レJ.| / / 入 ,'
', / `ヽ 、 \ヽヽ ノ //_,. / ヽ ,'
', / ` ー- _ ヽ``'ノ´' ´ / \ ノ
/  ̄''''''''´ ヽ
LOVE & PEACE☆
646 :
考える名無しさん:2008/07/11(金) 19:03:58 0
しかし、「名無し」を円環が閉じられた世界を表すのはどうだろうか
と言う疑問は残るね。むしろ、ヴァーチャル=ポスモダ時代の方が
人は匿名性として捉えられるような気がするよね。
この「匿名」と「名無し」がイクオール(同じ意味)として考えた場合
はたして、匿名とは何だろうか?
あくまで、固有名が東=デリダの言うように、クリプキの否定神学的
回収不可能性を表すのであれば、これはポストモダン的であるが、
そう言う意味では、現在に戻った主人公、田村カフカは多様性=確定不可能
の世界に戻ったと言える。しかし、円環完結の世界では人は無名であると言えるのだろうか。
例えばこの円環時代が古典主義的な主体と客体の、ものと認識の一致の
時代を示しているのならば、個々人が匿名性として捉えられる必要はなく
むしろ、固有名とその定立。余剰の不可能性として捉えるべきではないか
と言う気がしてならない。ループが閉じた世界では不必要なものが一切なく
すべてが、機械の様に表すわすものは現わされる者を的確に余すところなく
指し示す。このような世界では、匿名=無名ではなく、固有名の完結として
表されなければならないだろう。
また、違う切り口で言えば、原抑圧の肯定=オディプスコンプレックスこそが
主体=固有名を構築するのである。そう言う意味から見て、村上の哲学的読みの
浅さが見え隠れする。こう言う点を見越して、柄谷は批判的なのだと言う気がする。
それでは、匿名性とはなにかと言う問題が残る。確かに、匿名には固有名
のような、余剰がない。それは、匿名がだれを指し示してはいないからだ。
だから、余剰は確定した誰かのあまりにはなれないのだ。
あくまで、ポストモダンと言う、確定記述の不可能性の中での、集計処理の
便宜としてしか、価値は見いだせないのである。
いわゆる、名無し=匿名とは、ポストモダンの中に生まれた、仮の呼称であり
ループ円環時代のものではありえないのだ。
考えがまとまってから書け
648 :
考える名無しさん:2008/07/11(金) 21:58:56 0
解り易く書こうかね。
古典的主体は言葉=ものを正確に表す。主体は原抑圧によって完全に作られる。
村上春樹の「海辺のカフカ」ではこの世界は現実と死の中間地帯として表されている。
ここでは、物事が正確に反復される。
一方、現実では、このループはこじれ、正確に周回しない。
それは、今の世界、ポストモダンを言い表している。
ここでは、メタファーの読みで、判断が進められる。
こう言う世界構造になっていると言う事だね。
少しは解ったでしょうか?????
考えがまとまっていないんじゃなくて
単に誤解の積み重ねなんであろうことは解った
650 :
考える名無しさん:2008/07/11(金) 22:38:07 0
どう言う風に?
間違いを指摘して、君の村上文学に対する意見を詳細に述べてみては
どう?
文学分析とはたった一つの正解はなく、それぞれの分析が可能である
と言う意味からは、すでに君の指摘は無効であるよね。
651 :
考える名無しさん:2008/07/11(金) 22:41:21 0
それよりも、亀井絵里ちゃんまだ???
なんでもいいからカキコ願います。
652 :
考える名無しさん:2008/07/11(金) 22:46:38 0
651さん。
その通りです。亀井さんの切れ味さわやかな論旨を再度堪能したい
ものです。暇ならぜひご参加ください。御待ちしています。
それから、ラッパーさんも、ぜひ、「言語論的思考へ・・・・脱構築
と現象学」竹田青嗣著 の論議が始まりますので、ご参加ください
ます様に、お願い申し上げます。from parerugon
653 :
考える名無しさん:2008/07/11(金) 23:04:37 0
263の言葉に従い、亀井さん宛てとします。
亀井さんへ
以前のレスでおっしゃった悪無限=可能無限とは無意味な混乱だと思いますか?
僕も「亀井絵里」さん、ずっと待ってますー
655 :
亀井絵里 ◆3txzoBvyEU :2008/07/12(土) 00:08:21 O
こんにちは。ちょっと前にNYからかえって来ました。
でもホスト規制のせいでパソコンから書けません。
当分ROMってます。
ではみなさんごきげんよう。
アート!!!
656 :
考える名無しさん:2008/07/12(土) 08:48:31 0
あ!
亀井さんだ!
NY帰りでお疲れでしょうが、なるべく早く復帰待ってます。
竹田青嗣の現象学的デリダ=東批判をやろうと思っています。
是非、参加ください。
NYか!良いな〜。仕事ですね。ポップアートですか?
キースヘリング?アンディ・オーフォル?
そこからの切り口もまた面白いかも!
忙しくなければまたご参加ください。
待っています。
657 :
考える名無しさん:2008/07/12(土) 15:10:59 0
私はこのスレッドで、どのような哲学書を読んでいるか書きましたが、
亀井さんは、どのような本を主に読んでいらっしゃるのでしょうか?
良かったらレス下さい。
アケビ、赤貝、アワビ、ブルーチーズ、くっさー
659 :
ぶりこらーじゅさん:2008/07/12(土) 20:58:35 0
ト-、___
_,,-‐‐‐‐‐‐t-:、_ `‐、、_
__,,,-‐'´ .:. ,,:.:``‐、;:;:;ヽ_
,,,_____,,..、_,,,,,-‐‐‐-、、_,,-'´ ............:.:/: .:. ````ヽ、_
〈=__,,,,__,,,,,,,,,,,,..::::::::::... ;.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:,;ノ::. `‐、、
/ .._____.. .. . `````ヽ- '--‐‐'''''~~~'`::::ヽ:.:.:..... 、 ヽ、 好きに使ってください
ヒ;-'´ ````:‐:‐:-:-.:__,,、、、、、 ....:.:.:.:.:.:.`:.:.:.:,;,;,;,;.:.:.;,;...........ヽ、ヽT ◎ ヽ、
````‐--:-:‐:':´:`:`´:: :::``:..、_:.:.:.:.:.:.:.ヽ、__ ,-==,
````‐‐:-:-:-:-:‐"
>>646 ごまかしても無駄だよw
今日ぜったい貴乃花に肛門をいじられてたっちゃったでしょ、ル・サンチマン™ 。
いいかげんに白状しちゃいなよ。
661 :
考える名無しさん:2008/07/13(日) 22:29:24 0
初夏とは言えない暑さ。
10年前とは全く違う気候。
それは、平均温度が2〜3度上昇したと言うメモリ(量)の変化だけでは
説明がつかない。
恐らく、無知な人間の知識では解明できない様な質的変化の前触れの様だ。
そして、この質的変化がくっきりと現れる時に、やっと、人間はその前触れが
何であったかを悟るのである。
その時には、既に手遅れであり、もうどうしようもなく現状に甘んじるしかないのだ。
何かが違うと言う感じは知識による分析能力に依るのではない。
ずっと以前に染みついた人間の「アカ」の様なものが反応し、それを、闇の方から
伝えてくるもんなのだ。
おそらく、「アカ」とは人間の本能の事である。この本能は、自己の保存(存在)に
重大な意味のある物事を、そっと知らせるものなのだ。
この動物としての本能のようなものが人間の危機を知らせているのだから、
我々はこの自然のつぶやきを無視してはならない。
このつぶやきこそが、我々のセンサーなのであり、残念ながら産業革命以来
あるはルネッサンス以来文明を発展させてきた科学にはこのセンサーはないのだ。
蝉の声がし、風が吹き林の木々の音を奏で、太陽の光や夕立ち、山の端のシルエット、
耳を澄ませば聞こえてくる夜の闇の静けさの音、これらすべての自然と言われるものの音が、私たちの
センサーにこだまする。このこだまの意味を私たちは深みによってキャッチする。
この能力こそが我々を判断に導くのだ。
地球温暖化って言うけど、こんなに暑かったら極点の氷が溶けてしまうんじゃないのかね
test
NYでは、街と美術館とメジャーリーグを観てきた。
モネもゴッホもイチローもアンチブッシュも盛り上がってますねー。
偶然立ち寄った美術館でかなり大規模な村上隆の展覧会が開かれてました。
観なかったけどw
村上隆は商業主義的とかいう理由で批判されている向きもあるようだけれど、
他者の中(外国=コンテクスト、クリシェなどによってスポイルされない場所)
において何かを表現するためには金も含めてものすごいパワーを必要とする
わけで、内容よりも、そのこと自体に新鮮な感動を覚えましたね。
観なかったけどw
他言語空間にいるのはそれだけで疲れるけど、同時にパワーももらえます。
そこらじゅうパララックスだらけで、芸術家気どりになったりもする。
ドメスティックな視点だけで些細な差異化に明け暮れる日本文化に対しての
軽蔑すら感じちゃったりしてw
いずれにしろ、定期的に外国に行くのは重要なことだと感じました。
Haruki Murakamiも相変わらず山積みだったなwわたしは龍のほうがぜんぜん
好きなんですけどね。
ところで東浩紀について少し書いておきたいのですが、わたしは「存在論的、郵便的」
以外の東の著作についてほとんど何の興味もないんですね。
郵便本以降に示されたオタク文化分析とか情報社会分析とかは単につまらないんです。
それどころか不快感を感じます。これはおそらく趣味の問題ではないと思います。
浅田彰と比較してみたいのですが、浅田の場合も現代思想と「浅田趣味」とを戦略的
かつ連続的に語っていました。主に現代音楽、現代美術、映画などですが、不思議と
こちらの連続性には不快感を感じない。両者の違いはなんでしょうか。
何が言いたいかというと、東には(さらに言えば宮台真司、宮崎哲弥にも)「2ちゃんね
る」的なもの、が欠けているのなのではないかということです。
いうまでもなく、「2ちゃんねる」の面白さは素人が一点突破的、最大瞬間風速的に
社会通念を破壊し、裏側をディスクローズするところにある。それは多ジャンル横断
的な視点ではなく、むしろ共訳不能なほどのタコツボ化によってなされる。「ドゥルー
ズ、ゴダール、管理社会」を横断するより、「数学基礎論」「レッド・ツェッペリンの
ブートレグ」「池袋の風俗店」それぞれに特化した情報のほうがだんぜん面白いわけです。
東、宮台、宮崎に感じた不快感というのはそのへんのことで、浅田の時代はともかく、
なぜ「2ちゃんねる」があるのに、いまさらジャンル横断などする必要があるのかと
いうことです。なんか長すぎて疲れた。みなさんどう思いますか?
亀井絵里さんキター! 千秋一日の思いで待ってましたっ (いいすぎ?)
>郵便本以降に示されたオタク文化分析とか情報社会分析とかは単につまらないんです。
あまり読んでないのでうかつなことは言えないですが、『動物化するポストモダン』を読んだ限りでは、
オタク文化を扱っているからダメなんじゃなく、扱い方がダメって印象があります。
「何年にモダンは終焉し、ポストモダン社会になった」なんてことを哲学者が真顔で言うのか? という疑問があります。
大塚英志の「物語消費論」などという、マンガ編集者のマーケティング戦略論にすぎない話を、すっかり真に受けて、
物語消費→データベース消費、なんて短絡的な歴史を描いて大丈夫なのか? とか。
ノノ*^ー^) <ま、東も宮台もどうでもいいですよ? 絵里さえ可愛ければ!
667 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 09:54:34 0
私の興味の時間的流れによる読書履歴から見れば、最初のころは、一つの
ある学問分野の一人の専門家に密着して、その人の代表作を、行間を読む様に、熟読した訳です。
例えば、カントだけ読むだとか、その中の「純理」に特化するとか。こう言う過程が専門家を作った訳です。
次に、捉え方自体が複眼的になってくる。私の読書歴からすると、学問上最初にこの複眼的な捉え方をしたのは、
生態学に当たります。
生態学とは、旧来のアプローチが、ある害虫が増えれば、その虫を絶滅すると言う、古典的=単眼的アプローチ
であった訳で、これが、いわゆるデカルト的=旧来の西洋科学的な把握の仕方ですね。
ところが、複眼的な捉え方は、デカルト的な特化した意識によって、その害虫だけを
撲滅すると言うアプローチでは、その害虫が実は他の害虫を捕食していたことに気づかない訳です。
そこで、関係性=複眼性と言う見方が重視されるようになるわけです。
この様な視点はすでに、ライプニッツのモナドロジーに見出される訳で、
この見方は局所によって、その位置によって世界はそれぞれに=複数的に
映し出すと言う事になり、だから、ドゥルーズはライプニッツに興味があり
「襞」と言う本の副題に「ライプニッツとバロック」と書き込んだのではないでしょうかね。
そう言う意味から、ドゥルーズでは、哲学・物理学・生物学・文学・シネマなど横断的な
知識が、全体の関係性の中で、その意味が再考されたのではと思いますね。
668 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 10:21:36 0
亀井絵里さんの参加でヒート・アップしそうで、皆カキコして下さい。
楽しくやりましょう。
浅田彰と東浩紀の違いですかね。時代背景が違うね。
浅田のころは古典的な捉え方が中心でしたが、そこから、
フランスのポスト構造主義を紹介すると言う事が浅田の狙いだったわけで、
浅田には、東の様な強いポストモダンの影響がないのだとも言える。
つまり、横断的なアプローチを説明する「私」は健在なわけです。
一方、東は、デリダ化=PC化した脳で、見ているわけです。
ようは、浅田は哲学的な分析を基礎にして、音楽・映画論を展開している
だから、亀井さんにとっては、一つの分野を連続的に掘り起こしている
気がする、一方、情報社会論の東は、確かに郵便的から全くの断絶を
して、情報社会分析に入っているような風に見えますね。(変身時代のひと)
彼はデリダで哲学への興味は終わったのでしょう?
それから、情報機器による人間の動物的な発露の代表2ちゃんねる
や、おたく文化への興味へと進み、今は、凶暴な事件をきっかけに
ある意味情報の管理の方へ立つ位置を変えている。
立つ位置を順次変えられると言うのが、デリダ的非主体的なのかなぁ〜。
669 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 10:26:10 0
村上龍がNYで?
よく分からん。
昔無名時代、龍と春樹は友達だったと聞いてますが、
龍はJMMで経済とかいじめとか、学問空白の10年とか、
社会的な問題点をノンフィクションとしてやってましたよね。
龍については、興味がないんであまり読んでないですが、
どんな感じかな?
670 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 10:35:23 0
間違いです。村上隆ですよね。(笑う)
スーパーフラットね。
東が大絶賛!!!
本当にあれだけの意味があるのでしょうか。「どこまでも深く」シリーズ
薄っぺらな世界がポストモダン=オタク世界で、それで評価って事?
私の絵の方が良いと思うね???
ジャンル横断か…。 浅田彰はわかりますが、東浩紀は本当にジャンル横断
なのでしょうか。紋切型ですが、東は現代思想+おたくで、それ以外は
すべて中途半端な印象を受けますが。それにしても、2ちゃんねるの時代に
ジャンル横断は不要というのは、そこまで言い切ってしまうのはなかなか
むずかしいですね。確かに、2ちゃんねるで濃密な蛸壺を覗いていくのは
楽しいですが、結局それだけで終ってしまう気もする。それでも良し、
というのなら、それはそれで文句はないですが。
672 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 10:49:05 0
オブジェクション!
東は、横断的な視点で書いているが、「郵便的」と「動物化」後の
著作からみて、断絶しているとは言えないのではないか。
前者後の著書も、決して哲学的な一極集中方法を逃れたわけではなく、
デリダで真理探究は終了し、真理のない中での人間の行為=動物
分析として、情報に興味の中心がシフトした。
だから、彼にとっては決して、シフトダウンしていないし、
今の時代の社会現象の先端が、「オタク」とPCの人間行動論の最先端
である、2チャンネルに現れていると見ているのですよ。
それが証拠に、郵便的以降の彼の著作に、カントにも似た、
世界の現象をつかもうとしている情熱を感じますよ。
673 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 10:52:35 0
671
東の方がジャンル横断的では?
郵便的と動物的移行では全く違う分野でしょう?
674 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 10:59:06 0
いずれにしても、浅田にしろ、東にしろ、時代は複眼的になっているのですよ。
セリー・コンテクスト・形而上学批判のスタイルはその事を物語っている。
ただ、専門家でない素人が、2チャンネルで・・・・・横断的な
事をしても意味はない、一つの事をねちねちやった方が良いと言うのと
上記の討論とは論点がちょっと、いや、大きく違っているね。
この辺の違いは趣味の違いであり、成否はないよね。
675 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 14:41:11 0
二人の違いは、何を書いても基本的な考え方が変わらない浅田さん
と、時間的に全く変身する東の違いでしょう。
1983年「構造と力」と1998年「存在論的郵便的」と言う名作を書いて、一気に論壇に
のし上がり、注目を浴びた瞬間、前者は逃走論84年、後者は「郵便的不安たち」99年を出版する。
つまり、第二作で、浅田は対談集や既に投稿しいた文集を纏めて出版し、同じように東も
既出版作品を編集して出しているわけで、恐ろしく似通っている。
これは、出版社側の意図した戦略なのか?あるいは東が浅田を意識しての事なのか
不明だが、全く同じ道を歩いた訳だ。少なくとも読者にはそう思えるんだね。
その後は余り目立った本を書かない点も非常に似ているね。
ただ東は動物的、大澤との対談集「自由を考える」があるけど、浅田も
「エルメスの音楽」とか?「映画の世紀末」「20世紀の文化の臨界」
などあるよね。ただ直観だけど、東は本当にカントやヘーゲルのような
一大体系を構築しようとしている気がするけどね。
ポスモダ、PC、オタクの文化、で先進する?日本を分析して、
いわゆるサブカル的なものの一大体系を構築する思想を考えている気もします。
そんな今日この頃です。
それにしても、暑い。こんな日は、ぐだぐだしている事です。
676 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 18:20:03 0
フラットと言えば、ピラミッド型命令系統=樹状型から
リゾーム型と言うドゥルーズの言い方を変えただけなんだけど、
本当に現在がフラット=平滑空間と言えるのかというと、
そうでもない。この辺はぴかぁ〜の「帝国」の読みに期待しているん
だけど、フラット化は収束しつつあるね。これは、限界ある地球号
のCO2問題で明るみに出ている。つまり、フラットとは指導する組織の不在
多様化、自分勝手、命令規則の不在であるわけだね。
そうすると、勝手にすると言う事は無限と言う概念が必要になるんだね。
ところが、有限な地球号は、各国が経済活動を拡大すればするほど、拡大した
国家のみではなく、地球規模で、人間の存在を脅かすわけで、この視点
はガイア思想と同じなんだけど、超国家機関が必要不可欠になる。
この意識=唯一無二のこの地球意識は人類を再度超越組織の必要性へ引き込む
事は明白だと言う事です。
677 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 18:38:17 0
例えば、ユーロについても、昨日NHKで、リスボン条約?だったか
の承認をアイルランドは否決している訳だ。
この辺の背景は、超国家組織の必要性とそれに反するナショナリズム
が同時に存在すると言う、アンヴィバレントさが共存する。
この辺については、たとえば、ポストモダンの運動が=ボーダーレス
運動に重なっているんだが、同時に各国家=民族は同時に存在を
アピールするんだね。そう言う意味からは、ネグリの「帝国」論は
正当性を欠いている。この辺のネグリ批判については、大澤真幸の大書
「ナショナリズムの由来」が参考になると思うが、厚い本なので、
根性がいる。その上、表現が複雑ときているね。
とりあえず、ぴかぁ〜・メタPに任せよう。
ただし、「帝国主義」と「帝国」は別物であることを最初に定義しえほしいね。
これは、全く違うものなのだよね。
また、今更マルチチュードと呼ばれる、ボダーレス労働者軍団が生まれるのか
と言う予測も出来ない。むしろ、ナショナリズムなのではと言う可能性もある。
と言う事で、私は、前にも言ったように、政治には期待していないし、
もう少し哲学系に寄り添っていたい気がするね。
時々は良いけど、やはり、マルクスではない。
ただしデリダの「マルクスの亡霊」?は読もうかね。(笑)
678 :
考える名無しさん:2008/07/15(火) 23:24:11 0
ユーロではなくEUに訂正ですね。
それでは、また明日でしょうね。
679 :
考える名無しさん:2008/07/16(水) 22:03:54 0
もう少し、亀井絵里さんの言った事を考えるとね、
やはり村上龍の方が良いってことでしょうかね。俺はほとんど彼には
ノータッチなんですね。だれか読んだ人カキコ頼みますね。
「限りなく透明に近いブルー」や「希望の国のエクソダス」とか言う本があったよね。
この辺のインパクトがどうなんだって事だね。
次に、亀井さんの使った洒落た言葉について、諸君に伝えようね。
まず、クリシェ=決まり文句、パララック=ズレ を意味するで良い??
両方とも哲学のタームではなさそうですが、ポストモダン的な響きがあり
すぐれた表現だと思うね。パララックの方はカメラの焦点のずれの事?
であるようだね。
以上から亀井さんはすごく洒落た、ソフィスティケートされた人で、
スマートな30代の人って感じかな?
仕事はフリーライターか?ファッション企画か?女性雑誌ライター?
あるいは女子高の先生(美術)、クラシックダンサー?
休みには、紅茶でも飲みながら、クラシックを聴き、欧米の街並みを想像する。
趣味はファッションと海外旅行と西洋の教養を身につける為の思想。
軽やかでエレガトでスマートさをモットーにしている。
こんな感じでどうでしょう???(笑)
680 :
考える名無しさん:2008/07/16(水) 22:05:12 0
パララックスでしょうね。それって。
681 :
考える名無しさん:2008/07/16(水) 22:10:35 0
決まり文句で多義性を葬る事。
パララックスでズラス事。(脱構築的意味)
こう言う事なのよね?彼女って頭良いね。
682 :
考える名無しさん:2008/07/16(水) 22:25:01 0
竹田青嗣著「言語的思考へ・・・脱構築と現象学」を読む(暴く)!!
ヨーロッパ思想の自己克服・・・・形而上学批判
形而上学=真理主義・客観主義・形而上学的思考への批判
19世紀末ニーチェがキリスト教・近代哲学批判
同様にポストモダン思想は哲学批判をする。(ニーチェの批判と同根)
この場合の批判対象は教条的マルクス主義と現行資本制システム?と彼は言う???
ほんとにそう?ここは簡単に言えないね??
むしろ、差異化や脱構築と商品の多様化=一巻き商品(ライフサイクルの短縮化
による消費のむやみな拡大化と言う、資本主義的生産は極めてズラシを実践した
システムなのだ?ボードリャール参照。
この点で竹田先生には第一のオブジェクションです。
683 :
考える名無しさん:2008/07/16(水) 22:30:42 0
題:不名誉 作者:バルガリマンダさん
合理的になりなよ
革命するなよ
脱構築だから
事前の構造が解けたんだね いいご趣味ね
現象学は自由だから 自分をみせてよ
歴史の流れは無いけど 私自身でいいよね
形式的なだけだけど 群論なのさ
現実だけじゃやりきれないって気付くまで
理性的でいてあげるよ
弁証法 弁証法 弁証法
歴史を作る参加者の一人
デア クリティカル ファーヌンフト 魔法をかけるよ
アウヘーベン アウヘーベン アウヘーベン
理性と歴史が
離れ合って 混ざり合って
だから、もう機械なんて言うな 生命だよ〜
684 :
考える名無しさん:2008/07/16(水) 22:47:47 0
亀井さんカキコよろしく。
.─┼― o __
, | 、.
/ | \ ─── ヨ.
ト-、___
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ヒ;-'´ ````:‐:‐:-:-.:__,,、、、、、 ....:.:.:.:.:.:.`:.:.:.:,;,;,;,;.:.:.;,;...........ヽ、ヽT ◎ ヽ、
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686 :
考える名無しさん:2008/07/16(水) 23:23:53 0
2番
物を使い回すなんて 原始的かな
一つの目的の為より 便利でいいよ
物が利益になるなんて 功利主義だよ
昔からそうだというならば、それまでだから
利益に なるまで 待っている
物から すれば ほんの一瞬てわかるよ〜
弁証法 弁証法 弁証法 マルクス主義の西北端
デア クリティカル ファーヌンフト 魔法をかけるよ
アウヘーベン アウヘーベン アウヘーベン 物が構造に
少し変換しただろう だから もう機械なんて言うな 生命だよ〜
687 :
考える名無しさん:2008/07/16(水) 23:48:09 0
サビ
世界を 一つ切り 二つ切り
二つと 二つで これが四つだとわかるね〜
三つじゃない 三つじゃない 三つじゃない これが歴史の一ページ
デア クリティカル ファーヌンフト
重ねるな 絵を描くな 図に乗るな ほら心の図式が
少し変換しただろう だから もう構造なんて言うな 脱構築だよ〜
アウヘーベン アウヘーベン アウヘーベン
アウヘーベン アウヘーベン アウヘーベン
アウヘーベン アウヘーベン アウヘーベン
ほら新しい命が すぐ 目の前にあるよ
だから もう機械油を嫌いだっていうな 約束だよ
688 :
考える名無しさん:2008/07/17(木) 11:10:49 0
純一っぽいな。「止揚」と言いなさ、ヘーゲル君。
アウフヘーヴェン、アウフヘーヴェン。
持ち上げるUPと言いなさい、アウフヘーヴェン。
詩ではなく、論理的に定義づけなさい。
アウフヘーヴェン、アウフヘーヴェン???
689 :
考える名無しさん:2008/07/17(木) 21:39:51 0
純一の言うのは
「ものぐさ精神分析」の岸田秀さんね。
私も以前、続編も読んだけどな。
専門家の精神分析の書ではないけど、まあ裏から見ている様で面白いかな。
でも、あまり彼の説を鵜呑みにしない方が良いね。
あくまで、シニシズム的だしね。
それが彼の一風変わった見方なわけだよ。正統派ではない斜めから見る精神分析ってところかな。
それと、日本には西洋の様にエディプス・コンプレクスと言うものがない
と言う説については、全面的には賛成ではない。
君も読んでいるとは思うが、原抑圧がないと、象徴界へは参入は出来ない
と言う事だ。日本人だって日本語を喋るだろう。これは、原抑圧がある
事の証拠なのだよ。ただし、この抑圧が西洋に比べて弱いと言う事ならば
賛成もできる。だからこそ、日本にはアンチ・オディプス的だった。
だから、ポストモダンを究極まで進め得たわけだね。
こんな所でどうだね。
690 :
考える名無しさん:2008/07/19(土) 17:13:15 0
竹田青嗣フッサール的言語論第四章まで読み終えたようです。
いやはや、大変なデカルト=フッサールパラダイムの復活の様ですね。(笑)
それでは、自分が立っているとする反形而上学と言う根拠だけでも証明できそうにないと言うのに・・(笑)
やはり、フッサール主義者の頭は、現象学=エポケー=厳密な哲学って事だろうね。
信憑性=了解可能性=意味と言う流れが、余りにも個人の内面に起因している為に、独我論的と批判されても、
否定できないだろうね??
つまりだね、確信性を正確な意味の掌握の根拠にするとはね・・・・。
ポストモダンの流れからは時代遅れの形而上学にしか見えないねぇ〜。
読み終えたら少し書こうかね。
でも、君たちって本当に哲学やってんの???
やる気なし???
なんでも極めるには、努力・根性が必要なのよね。
オタクにも根性のあるやつと、ないやつがいるよね。
根性がないと、哲学なんて無理でしょう。
692 :
考える名無しさん:2008/07/20(日) 16:42:47 0
ヘーゲルの「ミネルヴァの梟は黄昏を待って飛び立つ」というのは、
『結局哲学なんてのは後解釈なんでたいした意味はねーんだよ』という意味
こんにちは、亀井絵里でーっす! 今日のハロモニ@観ましたかー?
ドゥルーズのいうようにこれからは何かを批判するためでなく何かを賞賛する
ためだけに書いていきたいと思いまーっす!
よろしくお願いしまーっす。
>>665のようなレスしてもつまんないですからね。
いちおう「存在論的郵便的」にひとまずのケリをつけたいのでちょっとチャッチャッと
書かせていただきます。引用については、長い省略は(略)マークをつけます。
意味を変えないであろう短い省略は勝手にしちゃいます。epは郵便本を意味し、
数字はページ数です。一週間くらいで終わらせるつもりです。でも予定は未定でーっす。
引用
1
散種はどこから来たか。私たちがその効果を知るのは、「目と耳のあいだの空間」、一方に「war」という
ひとつの同じエクリチュールがあり、他方でそれが複数の異なったパロールで発音される、そのずれからで
ある。つまり散種の効果は、ひとつのエクリチュールが複数の異なったコンテクストのあいだを移動すること
により、つねに事後的に見出される。(ep23)
2
問題にすべきはかつてあった多様性の抑圧ではなく、もともとなかった多様性が事後的にあったかのように
見なされてしまう現象、つまり散種の多義性化である。形而上学転倒は多様性を抑圧するのではなく、捏造
する。(ep26)
3
「幾何学の起源」のフッサールは一方で事実問題と権利問題との区別を断固として維持しながら、他方でその
区別を無効化してしまう問題、理念的対象の「起源」「原創設」について論じようと試みている。(略)フッサー
ルによれば、ある定理の明証性を理解するとは、その誕生の瞬間へと文書を通じてたえず問い返し、再びその
誕生を生きることにほかならない。(略)この理論的パースペクティブにおいては、(略)「三平方の定理」はピタ
ゴラスが発見しないかもしれなかった、と私たちはもはや言うことができない。(ep30)
4
注目すべきは、単独性の現実性は可能世界から遡行してこそ見出されるという柄谷の主張である。(略)単独性
(散種)を捉えるためには、私たちはまず可能世界を導入せねばならない。そしてこの順序関係は柄谷によれば
「実は『現実世界』がすでに可能世界から考えられているということ」を示している。(略)同様に、おなじもの
(エクリチュール)の散種を捉えるためには奇妙な過去が必要とされる。(略)つまり、条件法過去の時制(ep42)
まとめ
まず第一章からですが、これは説明いらないでしょう。散種をめぐる思考は、疎外論的、物象化論的ではない
と言っています。フロイト、マルクスなどの通俗的理解、教条的理解に対してのポストモダン的批判に慣れて
いるわれわれには解りやすい。精神分析でいえば、潜在的な病因が特定の契機で発症するという考えは否定され
ます。逆に、発症したのなら病因(過去)が存在した(ということであったであろう)、と考える。病因は条件法
過去(過去完了)から到来する。そしてその場合、特定の契機さえも特定できない。マルクス経済学においても
アナロジカルにこう言える。たがいの商品に同価値があったから交換された、は否定され、交換されたから
価値が存在した(ということであっただろう)、となる。
一般化すると、複数の情報処理の差異によって起こる散種効果は、直線的な時間、円環的な時間(ヘーゲル的)
双方を破棄し、われわれに、常に「奇妙な過去」に取りつかれている新しい時間概念の思考を要請する。
あとはサイードによるデリダの批判とそれへの応答(文化相対主義では民族中心主義は超克できない)、や
アウシュビッツの記憶・思考の不可能性を例証としてあげたり、間違えてソクラテスとプラトンが逆に描かれ
た絵をネタにデリダが展開した議論を参照したりしてます。最後に脚注(99)において東はデリダの後期テクスト
実践は結局「袋小路」「失敗」であったとしつつも、一方で後期デリダが敗北主義的ヒロイズムとして読まれて
しまうことを牽制し、より形式的な読みを目指す第二章に移行します。
697 :
考える名無しさん:2008/07/20(日) 21:52:34 0
亀井さんですね。
亀井さんの郵便的の読み楽しみにしています。
あえて、批評はしませんね。
デリダを学ぶ者にとって、理解の正否を問う事は野暮なことになりますからね。
第一そんなものはない(笑)それぞれのコンテクスト(専門分野の背景によって
強調して捉える部分の相違)が異なりますからね。
亀井さんの重厚な分析を参考にさせてもらいたいと思います。
私は亀井さんのカキコに並行して、今読んでる最中の竹田青嗣著「言語的思考へ・・・
脱構築と現象学」の批評を適当に書こうと思っています。
自分にとっても、哲学の会話ができる人がいると言う事は励みになりますよ。
時々、哲学全般について、ディベートではなく軽い会話をしたいと思いますが、
いかがでしょうか。
698 :
考える名無しさん:2008/07/21(月) 10:12:09 0
第一章現代の反形而上学の▲1で、竹田は「ヨーロッパ思想の自己超克・・・形而上学批判について」
とサブタイトルを付けている。勿論ポストモダンの思想、なかでも
僕らの趣味の中心にあるポスト構造主義哲学の運動・表現・位置付けを
ヨーロッパ思想の超克と言っているのだ。
僕らは既に、ポスト構造主義の運動(あえて運動としたい、なぜならば
理解する事ではないからだ。理解は他者の掌握=はく奪に繋がるからだ。)
が、ヨーロッパ形而上学の相対化=無効化である事を知っている。
だから、ここに既に違和感を感じるのは、「超克」と言う意味が表すものが何かを乗り越えて、
新たな真理に到達する様なイメージを含んでいるからなのだ。
それは、彼の立つ位置である、フッサール現象学がポスト構造主義者たちの
無意味さと錯乱に対し新たな確固たる地盤を与えうると言う過信がすでに現れている
と言っての良いだろうね。
699 :
考える名無しさん:2008/07/21(月) 13:42:40 0
この様な「超克」と言う表現が、なにやらへーげるめいた弁証法を
イメージしているとは言わないとしても、そのような絶対者に到達しうる
と言う確信が隠されていると推測できるだろう。
かりに、紆余曲折を経て、最後に絶対視点=無限遠点に到達する事が出来る
と言うのであれば、それは、再度アドルノの「否定の弁証法」へ回帰し
読み直すべきでしょう。その中で、アドルノは「弁証法を伝来の肯定的な
性質から解き放ち、・・・否定の否定をつうじて総合に至るのではなく、
矛盾の段階に固執して、そこで生じる事態にできるかぎりの省察むける・・」
*講談社:現代思想の冒険者たち「アドルノ」細見和之著引用
としている。この事はいわゆる超越点の不在を示しているのであり、
さらに、超克でもない事は、以後のフランス系哲学者を一瞥すれば
明らかである。そして、ここは、松井さんの郵便的の読みとコラボ=間テクスト的
であるのですが、アドルノは既に、この「「否定の弁証法」と言う本で、
初期マルクス・ルカーチの「物象化」「疎外」概念を一切の自己のもとに
包摂せんとする支配的な欲望がなお存在しているからだ」(同じく上書引用)と
批判しているのですね。
この様に術語をトレースして行くと、アドルノやベンヤミンのよなフランクフルト学派
への興味が一層湧いてきます。それは、未だ全ぼうが見えない他者や脱構築の萌芽が
手に取るように見えるからですね。
700 :
考える名無しさん:2008/07/21(月) 14:01:38 0
つまり、ヘーゲルでは、疎外が自己を否定して自己によそよそしい他者
になることの意味であり、マルクスでは人間が作り出した生産物・制度
などが逆に人間を支配し、人間関係が利害関係と化する事であり
物象化とは同じく、人間関係が商品や貨幣の姿をとると言う事であり、
この二点を批判する事がマルクスにはあった訳です。
つまり、「疎外」「物象化」批判=解消こそ、いっさいを自己のもと
に包摂せんとする支配欲が残存すると言ってアドルノは批判しているのですね。
いわゆる、デリダでは「他者」へのウイ・ウイと言う事に発展していく
術語になりますね。絶対に支配しない他者として、位置づけられます。
701 :
考える名無しさん:2008/07/21(月) 14:06:52 0
ハロニモ@見たか?だれか答えろ。
見ていない
「存在論的、郵便的」第二章からの引用
1 柄谷行人の転回について
1-1 デリダは態度の変更に向かうのではなく、「自己への現前」に先立つ痕跡ないし差延の根源性に遡行する。
(略)直ちに抹消されるものだとしても、この根源的な差異は、われわれを再び「神秘主義」に追いやることに
なる。デリダは「超越論的なのは差異である」というが、このとき、差異が超越化されるのだ、といってもよい。
(ep77柄谷行人「内省と遡行」からの引用)
1-2 この結論は明らかに否定神学的である。そしてこの地点から脱する。あるいはそこに抵抗するためにこそ、
柄谷は85年に「探究シリーズ」を始めた。(ep130)
1-3 規則は失敗からしか語れない。これは「否定的にしか語れない」という主張とは異なる。『探究T』は
コミュニケーションの様態を「話す-聞く」関係と「教える-学ぶ」関係とに区別している。これは私たちの
言葉でいえば、誤配のない郵便と誤配に満ちた郵便の区別に等しい。(ep133)
2 デリダの転回について
2-1 すでに60年代からデリダはたとえば「差延」がきわめて否定神学的に見えることを十分自覚していた。
(略)ゲーデル的脱構築の残余物を神学化すること。デリダはこの誘惑に抵抗せねばならない。(ep94-95)
2-2 形式化の諸問題が柄谷に「転回」を強いたのだとすれば、ではデリダには何を強いたのか。(ep79)
後記デリダのテクストとは、いったいどのようなものだろうか。(ep80)
2-3 (以下デリダの著作『割礼告白』について」) 告白および割礼の制度は「家族」的であり「真実」を保証
するとデリダは述べる。(略)それは確定記述の変化に依存しない単独性があることを意味する。しかしデリダが
「割礼告白」をはじめるのは、その単独性を撹乱する「渦巻き」、いわゆる幽霊の声があるがゆえにである。
(ep82)
まとめ
かなり明確になってきましたね。「内省と遡行」までの柄谷行人の仕事と前期デリダの仕事は(彼らの仕事に
は他にもいろいろな可能性があることを留意しつつも)一括して「論理的脱構築」とまとめられました。
論理的脱構築によって差異は示され、肯定的な(ナイーブな)神学はディコンストラクトされる。しかし理論上、
否定的にしか語れない「差異」はゼロ記号となり、より高度な形態で、ある構造を形作る。これが否定神学的
構造と呼ばれます。柄谷もデリダも、このミイラとりがミイラになるかのようなこの事態に抵抗します。転回
後の二人は共に、構造の自壊を導く徹底した内省の立場、から、不完全かつ頼りないコミュニケーションネッ
トワークの中へと立ち位置を変えます。そこではもはや「システムの全体」」を想定することができないゆえ、
論理的脱構築を語ることはできない。
では「規則は失敗からしか語れない」「単独性を撹乱する幽霊の声がある」空間において何が起こっているのか。
まとめ2
クリプキ、ジジェクの固有名論については簡単なので軽くまとめるだけにしときます。
クリプキは可能世界を導入することで、フレーゲ/ラッセルの記述理論による固有名論「固有名は確定記述
の束である」に対し「固有名は確定記述の束に還元されない」と批判します。固有名はある剰余Xを持つ。
クリプキはこの剰余Xは「命名行為」という言語外出来事のさいに固有名に宿り、後世に伝達されるという
仮説を提出します。しかしあくまでクリプキにとって重要だったのは、フレーゲ/ラッセルの記述理論による
固有名論批判であり理論や仮説の提出ではなかった。それにも関らず彼は剰余Xを観念論的、非現実的に語る
ことしかできない(否定神学的指し示し)。
ジジェクの固有名論はそのこと(固有名の持つ剰余Xは否定神学的にしか語れないこと)をさらに明確にすると
東は言います。彼は固有名とは象徴界に一点だけ空いた穴、現実界のシニフィアン、対象aであると言います。
これには対応するシニフィエ(確定記述)がありません。ジジェク(ラカン派)はクリプキのような純粋伝達の仮説
をとる必要はないわけです。
引用 2
1
ジジェクはそこ(固有名においてはシニフィアンの送付がもはや機能しない)にこそ「現実界」が、つまり
言語体系(象徴界)全体の不完全性が顕れていると考えた。さて、ここで注目すべきなのは、その「現実界」
の観念が、言語体系をひとたび全体として捉えたあと、あらためてその全体性を脱構築する(ゲーデル的決定
不可能性に導く)ことで得られていたことである。(ep116)
2
ラカンにとって(略)盗まれた手紙は自分自身の位置を持たず、王から王妃へ、大臣へ、デュパンへ、そして
警視総監へとたえず移動する。しかしまさにそのことで問題の手紙=ファルスには「自分自身の位置を持た
ない」位置という逆説的位置が保証される。(略)それはオブジェクトレベルではどこにも届かない。しかし
メタレベルにおいては「どこにも届かない」という場所に届く。(略)ラカンの議論では「届かない手紙」は
一つしかない。したがって届かないことが「ありうる」という確率的位相はすっぽり抜け落ちてしまう。
そしてこれはまたデリダによれば、フロイトが1919年の有名な論文「不気味なもの」で提示した問題系
の排除でもある。(略)デリダが「不気味なもの」に見た問題とは、むしろ去勢が最初から「去勢の代理」と
してのみ存在し、それゆえ去勢の分身が無数に作られうる、その反復の不可避性にあった。ラカン的思考
はその位相を取り逃がす。(ep117-118)
まとめ3 と第三章への助走
さて、ここで東はクリプキ、ジジェクの固有名論を再考します。まず固有名が剰余Xを持つという考え方が
すでに転倒(散種の多義性化)していると言います。「名「アリストテレス」が流通する社会的空間こそが、まず
その訂正可能性を規定する。その訂正可能性から複数の可能世界が構成され、そこから逆に諸可能世界に共通
する名「アリストテレス」の実体を探し求めようとしたときにはじめて、ひとは固有名に「剰余」があるよう
に錯覚するクリプキもまた、その錯覚に引っかかってしまった」(ep124)
しかしすぐに東はクリプキとジジェクを比較し、クリプキがはからずも固有名の剰余はコミュニケーションの
実際の連鎖から生まれるものであると語っていることに着目。これが言語世界が象徴界によって纏め上げら
れる以前のものであると解釈し、ジジェクのラカン主義的洗練のほうがより批判されている。
ここで第三章の議論の枠組みが提示されます。つまり「固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界
論と伝達経路の脆弱さについて語るデリダのエクリチュール論とを接合する理論的可能性」(ep128)
バーバラ・ジョンソン、メシア的なもの、イデオロギー、「否定神学的アイデンティティ」などについても
書かれているのですが、つまらないのでカット。今日はここまでです。
708 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 10:14:10 0
竹田によれば、ポストモダン思想の中心的理念は「真理主義」「客観主義」
「形而上学的思考」への徹底的批判と言う事になる。
確かに、同意できるものである。ポストモダン運動の根底にあるものは、何らかの絶対者
絶対的なもの、存在を否定できないものを構築した西洋思想へのレジスタンスであると言えるだろう。
それは、ロジックであり、神であり、理性であり、視覚の優位=現前であり、
数学であり、科学的アプローチであり、声であったりするだろう。
この様な西洋思考のあり方がその真理としてのヴェールをはがされる行為
こそ、ポスト構造主義のレジスタンスなのだと言う事だろう。
真理は真理構造に先行されているのであり、真理は真理としての証明が出来ない
事を暴露したのが、フーコーの「言葉と物」であり、彼の術語である「エピステーメー」
なのだと言う事だ。理性は存在に先を越されている。だから、根源=痕跡への照合を
繰り返し反復し、ズラシを経験する事になる。これが、脱構築だと言う事だ。
709 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 10:38:53 0
また、竹田はポストモダンの中心的課題の一つが「近代哲学によって作り上げられた
『近代市民社会理念』の乗り超えと言う点にある。」としている。
市民社会理念とは、フランス・イギリスの市民革命などを通じて、市民が政治の主導権
を掌握し、それによって、対等な市民の結合や個人の自由が保障され、政治・主張・
宗教・商業活動・財産保持の自由が保障される社会理念を指している。
つまり、一言で言うと、一定の社会的ルールを守ると言う前提で、自由な個人=主体の誕生を指している。
この様な自由に見える主体に何が隠されていたのか?
つまり、ポストモダン思想の根底に、近代主体には潜在的な構造規定要因によって
主体そのものやその判断、および、その可能な選択肢等が少なくとも制約されているのであり、
主体はその前提として、自立的なものとしてはありえないとの考えがあるのだ。
710 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 13:01:01 0
人の名前ばかり出して自分の思想のない構造主義に取り付かれたくとも自分でも意味が分かってない、
ただおしゃべりがしたいだけのコーゾーちゃん。
711 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 16:44:36 0
つまり、近代的な主体にはその自由の前提として、構造的な規定要因があり、
その構造によって、人は主体として自由な選択を進めうるのだと言う事を暴きだしたのが
構造主義であり、そこからの離脱を目指したのが、ポスト構造主義であったのだ。
さらに、この「市民社会」に対する痛烈な批判をアドルノに見る事が出来るだろう。
例えば、前述の本にそって、細見の展開を見てみよう。そこで、アドルノの「否定弁証法」の最終章の
「形而上学についての省察」の第一節は「アウシュビッツのあとで」と題されている。
その中で、『アウシュビッツのあとでは、もはや永遠に思いをいたすような形而上学的思考は
麻痺せざるをえない。』と書いてる。
この意味は、疑うべくもなく、われわれが信奉する形而上学的永遠の真理と言うものが、
あるいは、永遠の真理・平等・崇高を歌うはずのものが、無残にもアウシュビッツの後では
意味をなさないのだと言う事。いや、人間の知=形而上学こそが、
「アウシュビッツ」を創りだしたのだと述べているのだ。
アウシュビッツのあとで形而上学を語ることはできない。アウシュビッツのあとで
もはや詩を書くことはできない。あるいは、アウシュビッツのあとで生きてゆくことは
できるのかと言う呟きが聞こえてくる。(アドルノ アウシュビッツのあとでからの
引用と多少の自作アレンジ)
そして、アウシュビッツが破壊したものは形而上学思想が経験と調和するための
基盤だとの述べている。現実の殺戮に対し無能さをさらけ出した形而上学。
いや、殺戮をもたらしたものとして、その姿表現されるのだ。
「ガス室と言う死者生産工場は形而上学が最後の拠り所としていた、固有の死
と言う経験すら破壊し、死体はサンプルとなる。この事が、永遠の価値を求める
形而上学に嘲笑を浴びせる」と細見は書いている。
712 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 16:59:29 0
科学的な大量殺戮によって、いっさいの個人的な生存と死を均一化した
ホロコーストは個性などの存在を無効にし、この事こそが、
市民社会の平等の原理に隠されていたものと同じものだと細見は解説する。
確かに、ホロコーストは人間の個を無視する事で、大量生産のベルトコンベヤーの様に
大量殺戮を可能にした。このような個の抹殺こそがはみ出し者を断じて許さないと言う
市民社会理(個々人の自由平等思想)に隠されているという事だろう。
だからこそ、主体という特異性の抹殺に反旗を翻したのが、
ポストモダンの思想家たちであった事をいま明確に感じとることができるのだ。
713 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 18:59:43 0
つまりだね。
市民社会と言う自由平等主義は、個々の人間の存在を共通の基盤に
強制的に引き込んでおり、この事が実は、ホロコーストによる
個々人の特性を無視する大量殺戮=大量遺体生産と同根であると言っている
のだね。
同様に、ジョルジョ・アガンベンも「アウシュビッツの残りもの」と言う本を
書いているが、これは、栄養失調になった、監禁者がナチの監視人の命令に
何の疑いもなく従順に従う精神状態を、ハイデガー存在論的な被投的企投と言う
現存在の在り方へのアンチテーゼとして表している。いわゆる企投など
アウシュビッツの監禁者には出来ないのだという、批判である。
もちろん、この批判には、ハイデガーがナチに加担していたことと、
彼の哲学である存在論がユダヤ批判としてナチ加担と通底していた事を明るみに出しているのだ。
そして、この夢遊病的な栄養失調の監禁者は、命令に従うだけで、全くの無気力さを
さらけ出し、回教徒の祈りの時の姿勢の様に、地べたに這いつくばっている
その様が回教徒に似ている事で「回教徒」と呼ばれるのだ。
そして、ガス室へ誘導は、この回教徒から始められたという事だね。
714 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 21:25:00 0
いずれにしても、西洋形而上学と言う、絶対真理からピラミッド状に
すべてを構築すると言うやり方は決めつけに他ならないという事。
そして、この様な方法がアウシュビッツの殺戮にも影響を与えている
と言う事だね。どうでしょう、驚いたでしょう。
僕らが、個人の自由の謳歌だと考えていた市民社会が、差別の体制であったり、
他者の排除(抹殺)だったりする。そう言う市民社会の在り方を覆すものこそが、
他者=外部=周縁というタームであり、この様なタームはポストモダンの哲学者が
導き出したと言う事です。
それにしても、暑いでしょう。
私は、高原にいます。初夏だと言うのに、最高気温25℃って、うらやましいでしょう。
冷房知らず。日暮蝉の声が涼しさを運んでいるみたいです。
それにしても、亀井絵里さんの郵便的分析は濃厚ですね。
また、私パレルゴンの分析とは一味異なって最高ですね。
皆参考にしましょうね。
715 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 21:34:36 0
716 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 21:38:09 0
>>714 >そして、この様な方法がアウシュビッツの殺戮にも影響を与えている
>と言う事だね。どうでしょう、驚いたでしょう。
驚きようがありませんねw。
717 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 21:42:57 0
アウシュビッツといえば、恐怖心から行われた愚考です。
アウシュビッツをネタにするなんて…
なんでもありと思っているのか?
こんにちは。
第三章にいきますが、二章の「まとめ3」で書いた「固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界
論と伝達経路の脆弱さについて語るデリダのエクリチュール論とを接合する理論的可能性」は三章では出て
来ませんね。すみません。
三章は、終章である第四章のために、『郵便はがき』その他デリダの著作で使われている概念=隠喩系の理論
的含意を明らかにすることが中心です。具体的にはハイデガー(「存在と時間」)、フロイト(「不気味なもの」
「科学的心理学草稿」)、ドゥルーズ(「差異と反復」「意味の論理学」)、ガタリ(「分裂分析的地図作製法」)
彼ら四者の概念=隠喩系と突き合わせることでそれらの明確化を試みます。三章はある程度機械的にいけるかな。
第三章からの引用
ハイデガー 1
1-0 私たちは前章で「真理の配達人」におけるラカン批判に注目し、二つの脱構築を区別した。それを受け、
この章であらためて注目したいのは、その論文がまた間接的なハイデガー批判としても読解できることである。
(ep150)
1-1 「送付」の疑似書簡で、デリダは頻繁に電話をかける。では「電話」、つまり「遠いtele」「声phone」
の隠喩は何を意味するのだろうか。(ep156)
1-2 (『グラマトロジー』によると)ハイデガーの「存在の呼び声Ruf」はフッサールの「声phone」とは異な
る。『存在と時間』に従えばそれはむしろ、日常的かつ内世界的な主体、つまり「人das Man」の同一性を内
部から蝕むものだ。(略)しかし結局はそのハイデガー的戦略を支持することができない。(略)ハイデガーの
Rufはphoneの中心性を脱構築する概念装置であり、そのかぎりで評価できる。しかしそれが声の隠喩で行わ
れたことに問題がある。(略)思考の切断は隠喩の切断と切り離せない。彼(ハイデガー)はまず端的に隠喩を変える
べきだった。(ep158-159)
1-3 (『ユリシーズ・グラモフォン』によると)『ユリシーズ』の主人公ブルームが頻繁に電話をかけることに
着目し(「彼の現存在は対電話存在だ」)、(略)ハイデガー的な「現Da」の観念を、電話に面すること、ネット
ワーク空間に接続されることへと読み換える。そしてその着想に導かれ次に彼はRufの仏訳appel(「呼びかけ」)
のニュアンスを利用し、ハイデガー的Rufを電話のappelとして再解釈することを提案する。(ep160)
まとめとそれから・・・
三種の声の隠喩、phone、Ruf、appel が区別され、次のように規定されます。
1 phone 超越論的シニフィエ-形而上学システムを支える。そこでは非世界的存在は認められない。
2 Ruf 超越論的シニフィアン-否定神学システムを開く。そこでは非世界的存在がただ一つだけ、「世界」
全体の循環構造の対応物として認められる。
3 appel 形而上学システム、否定神学システムを共に脱臼する郵便-誤配システムを形作る(形作るという
言い方は微妙か?)。そこでは非世界的存在は複数ある。
続いて『マルクスの亡霊たち』が参照され、「幽霊」(複数の非世界的存在)について三つのことが留意されます。
「幽霊は能動的なこと」、「幽霊は奇妙な時間性をもつこと」、「幽霊への応答は様相性=確率の位相で開かれる
ということ」。ここまでは一、二章をふまえればかなり明確にイメージできます。
次に「送付」に現れる「響き=切手timbre」という掛詞、が「電話=郵便網を通して現れる幽霊を意味する」(ep174)
と定義されます。さらに東は「速度=リズム」の視点を導入し、より洗練された郵便空間モデルの提示に進み
ます。以下、引用ハイデガー2に続きます。
引用 ハイデガー 2と、「速度=リズム」の導入
2-0 ハイデガーは『存在と時間』において、「世界」のなかにある事物、つまりphoneの統御下にある存在者
を「手許存在Zuhandensein」と「手前存在Vorhandensein」という二つのカテゴリーで処理することを提案
した。つまりハイデガーは「手」への近さと遠さの組み合わせで、内世界存在者の総体をとらえようとした。
(略)現存在の手には、世界のすべての存在者からの無数のセリーが集中する。遠方にあっていまだ手許にない
Vorhandenseinは、それぞれのセリーを通過したのち現存在に隣接するZuhandenseinへと変わる。さて私たち
がここで注目すべきなのは、ハイデガーがまた、テレコミュニケーションの発達がその隣接性を強化すると考え
ていたことである。例えば彼はラジオを「遠隔性の除去」の例として挙げている。(ep181)
2-1 しかし私たちのパースペクティブにおいてはDaは複数の回路とリズムを通過したハイブリッドの情報の
束で構成されている。(略)とすれば私たちはVorhandenseinとZuhandenseinとの間に広がる郵便空間をこそ
考慮せねばならないだろう。(略)テレコミュニケーションの発達は確かに遠隔性を取り除く。しかし問題はその
取り除くリズム、Vorhandenseinが現存在の近くまでやってくる速度なのであり、またそこで必然的に起こる
異なる速度感の衝突、ずれなのだ。(ep182)
2-2 私たちの考えではVorhandenseinの総体を一度に把握することがすでに転倒している。
(略)zuがvorへと転落しうる、亡霊化の効果が無視されている。Rufは現存在に空いた穴から到来した。対して
appelは、郵便空間に満ちたリズムの差異から生じる。(ep182)
引用 ハイデガー 2と、「速度=リズム」の導入 その2
2-3 実際は私たちに与えられているのはZuhandenseinとその中を走るリズム感の差異だけ(だ)。(ep183)
2-4 ハイデガーは「今ここ」を決定する近接性の場を「手」に、フッサールは「耳」に局在化させている。
しかし「送付」の書簡群は、局在化作用そのものを失効させている。ではいったいどこでそれらリズムは衝突
するのか?(略)機械の隠喩は、このリズムの衝突の場を考える上で重要だと思われる。機械が「生」の内側に
侵入させるものは、死そのものではなくむしろfort:daのリズム、反復だと考えたらどうか。(ep185)
2-5 phoneの中心化装置(耳)が起動する以前に、それよりも内部に、つねにすでに郵便空間(内耳)は侵入
している。複数のセリーとリズムはそこで衝突する。(ep186)
2-6 私たちはエクリチュールの観念を、さまざまなリズムをたがいの差異を維持しつつphone=意識の中へと
導き入れる、ある種のゲートの隠喩として考えることができるだろう。情報のセリーがphone=意識の内と外
とを貫くこの条件においては、両者の境界はもはや失効する。(ep186)
ハイデガーのまとめ
有名なハイデガーの述語「手許存在Zuhandensein」と「手前存在Vorhandensein」が出てきました。
おそらくこの辺でハイデゲリアンから「ハイデガーを不当に単純化している」というクレームが出ると思い
ますが、ハイデガーの読みはまたいつかやりたいと思っています。
ここまでで東は、神秘性(否定神学性)を持っていた「不可能なものの経験」=「脱構築」をより非神秘的に
理解することが出来るようになった、と自負しています。特に重要なのは、三種の「声」の区別、「現Da」が
ネットワーク空間に接続されていることと読み替えること、Vorhandenseinの総体を一度に把握することが
すでに転倒しているということ、そしてエクリチュールを「リズムの差異をそのままに意識の中に導き入れる
ゲート」の隠喩としてとらえること。
フロイトについて
東はさらにこのいわゆる「思弁」をフロイトに接続します。まず「不気味なもの」の経験。これは不愉快な友人
の情報が処理速度の違う複数の回路で処理されるために起こる「効果」である。
次に再び機械の隠喩。機械はリズム、反復を意識に侵入させる。これはわれわれの安定した意識=phoneに共鳴
を、チューニングを強いる。そのため、われわれは「書くこと」が「遠く隔たった」ものに感じる。これは四章
においてフロイトの「転移」から再検討される。
最後に「夢判断」以前のフロイト、「科学的心理学草稿」のフロイトに触れ、「φニューロン」(情報の通過で状態
が変化しない)と「ψニューロン」(情報の通過で状態が変化する)を区別し、意識と記憶の排他性をベースにした
フロイトのモデルが、区別の撤廃によりどう変わるのかと問題提起する(これははたして四章で答えてくれるの
でしょうか)。
ドゥルーズについて
東はガタリと共同執筆する以前のドゥルーズにもまた否定神学的なテクストと否定神学に抵抗するテクスト
があるといい、樫村晴香の議論を援用してドゥルーズの否定神学性を指摘します。しかしまた、アルトーと
キャロルを明確に対立させなかったために曖昧さを残してしまったが、「意味の論理学」には、否定神学に
抵抗するドゥルーズが見られるともいいます。重要なのはアルトーです。「分裂病的な言語がシニフィアンの
セリーがシニフィエのセリーへとたえまなく狂ったようにずれることとして定義される、というのではまったく
不十分だと思われる。実際にはセリーはまったく存在しない。二つのセリーは消滅してしまっている」(『意味
の論理学』)。アルトーにおいては語は「断片になり、音節、文字、とりわけ子音へと分解する」「発音できない」
キャロル的なカバン語に宿る語の逆説は、アルトー的な「語の破壊」「分子的運動」に対する「声」の抑圧の
結果成立するにすぎない。東はもちろん、アルトー的な、語が物質まで破砕されうる場所を郵便空間ととらえて
います。
ガタリについて
東は実践家としてのガタリではなく、彼の理論的重要性に着目します。彼は『分裂分析的地図作製法』において、
「現実的」対「可能的」の軸と「実在的」対「可能的」(東はここでは「経験的」対「超越論的」と言い直します)
の軸の組み合わせで、いわゆる「存立平面」を四つに区分けします。つまり「現実的な経験的世界」「可能的な
経験的世界」「現実的な超越論的世界」「可能的な超越論的世界」の四つです。超越論的な区域を「二つに」分け
ているというのが重要です。「現実的な超越論的世界」がラカン的な主体の成立する場、そしてもう一方の
「可能的な超越論的世界」こそが複数的な超越論性の領野、また、ガタリが「機械状の主体性」の思考が可能
と考えていた場です。さらに、可能的(確率的な)超越論性(不可能なもの)は「存在論的、郵便的」が追いかけて
きた隠喩群にマッチします。ただ東はガタリについてはここでは素描にとどめるだけにしています。
今日はここまでアップします。疲れたので四章はちょっと休んでからやります。
727 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 10:00:43 0
そこで、竹田の「言語論的思考」についてですが、あくまで、竹田は
デリダ・ドゥルーズ・フーコーを中心にしたポストモダン思想が、
この「近代市民社会理念」を越えうる思想原理であるとの考えによって
います。そして、この市民社会理念を母体として、資本主義も発生・発展してきている
と言う捉え方をしています。まずこの点については、先ほども述べた様に
ポストモダンはある決まった理念=制度を越えようとするものではない
と言う事です。すべての理念や制度や構造を相対化しようとするものであり、
決して、乗り越えて新たな制度や理念や構造の構築を模索しているのでは
ないという事です。第二に、資本主義がもたらした、マルクスが指摘する
矛盾である疎外や物象化や搾取と言ったものは、確かに近代市民社会理念の
基本である自由・平等と言う意味では、十分ではなかったとしても、
修正を加えられた現在の資本の運動は、必ずしも、差別的な制度ではない
と言う事です。現在の多くの資本家は株式所有者であり、マルクスに時代に
存在したいわゆる特定個人による、資本の占有と言うシステムではないのです。
この点について、竹田は、市民社会理念が絶対的同一性に基づくものであり、
社会では個々人の能力の差において、不平等が発生するのは当然であるとする
ジンメルの説を注釈に引用している。
この様に考えると、竹田はむしろ、市民社会理念に個々人の平等を考えているのであり
マルクス的な共同生産=均等分配のシステムしかありえない平等性(地位・身分・所得)
を市民社会理念に考えているのだと言う事だ。
728 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 10:24:18 0
それでは、どうしてマルクス主義が、竹田の言う市民社会理念に
マッチしなくなったのか?竹田はその理由を「現在の資本主義の矛盾
を克服する原理をマルクス主義はもはや持ちえない。」と述べています。
ちょっと不鮮明な言い方ですが、そのあとで、ソ連のハンガリー・チェコ
の侵攻や東欧の民主化の波、東西両ドイツの統合、ソ連の解体をその理由に
あげてます。でも、この切り口では、本当のポストモダン思想の発生の
意味が薄れています。デリダやドゥルーズやフーコーが見たものは
構造による抑圧であり、この抑圧が、自由な経済活動を代表する個人の自由
と言う市民社会の理念にも隠されているという事を暴いたのです。
ですから、逆に、社会主義の運営=管理こそが、資本主義の個人の監視(規則)
と比較するとき、異常に抑圧的なのだと言う事です。この様なポストモダン本来
の視点である、管理=抑圧への反動と言う視点が、竹田にはほとんどないと言えるのです。
だから、彼には、資本主義の矛盾=不平等を超える思想として、
ポストモダンを位置付けているという事になります。
この辺につぃては、ネグリの「帝国」の影響があるのかも知れません。
729 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 10:50:01 0
つぎに、かれは、デリダの「脱構築」思想の説明に入ります。
「脱構築とはある思想家のテクストからその中心思想とそれと対立する
ような思想の可能性(相矛盾する要素)を同時に取り出し、後者によって
前者を、あるいはその思想総体そのものを相対化する方法、といわれる。」
と述べています。そして、この方法で、ソシュールやレヴィ=ストロースと言う
いわゆる、構造主義者を批判したとしています。
脱構築の定義については、同時並行的に亀井さんが東の郵便的を纏めて
いらっしゃるので、そちらを参照されれば、こんなに単純にまとめられない事
は明白ですね。それから、デリダの構造主義者批判については、
たしかに、ポストモダン的視点たてば、ドゥルーズにしても、フーコー
にしても、同様の批判をするだろうと思います。
しかし、私のコンテテクストから見たら、構造主義とは、構造の恣意性と
この構造が二項対立的に構築されている事を露わにしたものであり、
古典主義的な絶対視点に立った社会・言語構造を批判的に捉えたものであると言う風に
考えられます。よって、強引に私の見解を述べますと、構造主義はそれほど
間違っているとは言えない。(笑)
ポストモダンが全ての構造の崩壊を目指しているとするならば、その前提には
この構造(社会システム・言語構造を含む)の存在の絶対真理を相対化する
と言う、構造主義はある意味で重要な哲学的アプローチであったと言わざるを得ない
のですね。
730 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 16:31:36 0
余談ですが、加速器は粒子を高エネルギーにして発射します。
荷電粒子は目標に向かって照射するフィクスドターゲットと、
荷電粒子をぶつけ合うコライダーがあります。
フィクスドターゲットは癌などの治療に向かいます。
コライダーは湾曲照射が高エネルギー光を出します。
将来、早期の癌で死亡する人はいなくなるでしょうね。
高エネルギーの無限の可能性に期待されています。
奇跡とか、創作の現場では言葉で表現するものを作ってしまいますね。
物を規定するとか差があるというのでなくて、その通りのものが出てきますね。
ですから、言葉に従って物が作られます。
さていよいよ第四章です。
まず、話をクリアにするために、クラインの円錐モデル(浅田彰『構造と力』)が導入されます。簡単にいうと、
円錐の底面は「世界Da」、頂点が「超越meta」です。加えて、ハイデガーの前期(実存思想)と後期(存在思想)を
分け、整理することにより、四つの脱構築のスタイル、が得られると東はいいます。
すなわち、1 論理的脱構築、2 存在論的脱構築、3 精神分析的脱構築、4 郵便的脱構築、です。四章は、これら
四つの脱構築がクラインの円錐モデルをどのように変形・修正するか?という書き方で進められます。
1 論理的脱構築について まとめ
カントによって開始された哲学の限界確定は、論理実証主義に至り、さらに洗練されます。思考対象は存在者
(現象)に限られ、クラインの円錐の外もしくは根拠を思考することはナンセンスであり、それは芸術、宗教など
によってただ示されるのみだと主張されます(「宇宙の中に神秘があるのではない、宇宙があることが神秘だ」
ウィトゲンシュタイン)。
ハイデガーはこれに異を唱え、現存在の二重襞性(世界を構成しかつ世界に従う)の分析を通じて「神秘」を思考
対象とすることができると考えました。ハイデガーはこれにより、カルナップから批判された「論理形式の名詞
化」の正当性(厳密性)を得る。東によるとこれは論理的脱構築と呼ばれるべきだという。そしてこれはゲーデル
の不完全性定理、転回前の柄谷、前期デリダの思考手続きと共通する。
2 その1 存在論的脱構築について 引用 1
1-1 後期ハイデガーは「存在」と存在了解、つまり限界=基礎(クラインの壺構造)とその産出過程との関係を
逆転させてしまう。彼はもはや、人間存在が「存在」の意味を産出するとは考えない。人間存在はむしろ「存在」
そのものの力により産出される。ではその分析はいかにして可能か。ここで注目されるのは、ハイデガーが
言葉に特権的価値を与えたことである。(ep238)
1-2 (『存在と時間』では)Rufが実存論的構造を可能にする。Rufは(クラインの壺の)管と円錐部分を循環し、
底面=世界のゲーデル的亀裂をより高次で「縫合する」。(略)現存在の統一性は、底面に空いた穴とその縫合作
用、すなわち「現Da」の開放性とそれを閉じるRufの循環運動で維持されるのだ。(ep242)
1-3 (だが、ハイデガーのテクストによると)人間が現存在としてひとつの統一体であるかぎり、Daの穴はつね
に円錐の回路閉鎖に、「開示性」は「覚悟性」に先行されねばならない。実際ハイデガーはこの順序関係を
「先駆的覚悟性」つまり「先行する閉鎖性」という語ではっきりと名指している。Rufの循環運動が現存在に
先行する。(略)ではその声はどこから来たのか。(略)それは外部から侵入したとしか考えるほかない。(ep244-245)
1-4 転回後のハイデガーは超越論的シニィフィアンの循環運動ではなく、その到来の局面を問題とする。隠喩
的には、超越論的シニィフィアンを指示する語がRufから「存在の声Stimme」へ移動したことに確認できる。
(ep245)
2 その2 存在論的脱構築について 引用 2
2-1 後期ハイデガーは言語のみに、それも希語と独語を中心とする特定の語彙の解釈のみに依存して思考を
進める。(ep238)
2-2 存在への問いは多くの場合、Seinおよびそれと呼応する特定の語の解釈を通じてのみ遂行される。(略)
彼の解釈はそれぞれ多様な対象を扱いつつも、最終的にはつねに「同じもの」、すなわち「存在」の問いに行き
つく。(略)そこで私たちの注意を引くのは(略)命名と伝承の隠喩である。(略)最初に「存在」は、つまりStimme
の発信源はなんらかの語で命名されなければならない。そしてその語は命名の力を痕跡として保持する。哲学は
その痕跡を手がかりにしてはじめて、存在者の領域を超え、「存在」そのものへと遡行できるだろう。この規定
は具体的にはハイデガーが各々の哲学用語を一種の固有名として読解していることを意味する。(略)ではこの
奇妙な発想、哲学素の固有名化は何を意味するだろうか。(ep246-248)
2-3 (ハイデガーにおいては)哲学的諸概念においては概念対象とその定義はオブジェクト/メタ関係にあるのではなく、ともに「同じもの」に由来する。言い換えれば概念の名はその「同じもの」を通し、対象と確定記述
とを同時に名指している。(略)これはハイデガーの考える哲学的諸概念が、クリプキの固有名と正確に同じ特徴
をもつことを意味する。(略)「存在」は一方でplus、すなわち超越論性を与え、他方で純粋な伝承に支えられる。
哲学の隠語化はここに必然となる。(ep252-253)
2-4 (ハイデガーにおいては)世界の地平に回収不能な超越論的シニフィアンについての考察は、言語体系に回収
不可能な固有名についての考察と、まったく同じ隠喩=概念系を利用して進められることになるだろう。(略)
ならばその道を回避しつつ、超越論的シニフィアンについての思考を別のかたちで前進、あるいは逸脱させる
にはどうすればよいだろうか。(ep255)
2 その3 存在論的脱構築についてのまとめ
東はまず、後記ハイデガーを説明するために『存在と時間』のハイデガーに遡ります。前述のように、彼の哲学
は、クラインの円錐の根拠を思考する。そして、Rufの循環がその構造(クラインの壺構造)を安定させるという
モデルが描かれる(ちなみに東はクラインの壺を資本主義システム、Rufを貨幣とするアナロジーを提示)。
しかしこれだと理論上、Daの穴、Rufの循環運動がクラインの壺構造(現存在)に先行することになります(資本
主義の内部から貨幣の来歴は問えない)。よってハイデガーは超越論的シニフィアンの隠喩をRufからStimme
に変え、その、外部からの来歴を問う思索に進みます。
これがハイデガーの転回(Kehre)であり、よく知られるように以後のハイデガー哲学は一見秘教めいたものに
なっていきます。しかし二章で見たクリプキの固有名論(反記述主義)を接続してみると、ハイデガーの意図は
明らかになると東はいいます。クリプキの仮説によると、命名により固有名に宿る剰余(固定指示詞)は言語外
出来事の力の痕跡であり、またそのことによって命名儀式への遡行が可能になるとされていました。ここで東は、
クリプキの固有名論(反記述主義)とジジェクによる固有名論(ラカン化された反記述主義)との差異(「現実」と「現
実界」の差異)を改めて強調します。つまり「クリプキ-反記述主義的固有名論-言語外(現実の)出来事からの伝承」
と「ジジェク-ラカン化された反記述主義的固有名論-現実界のシニフィアン」。固有名が現実から到来するハイデ
ガーはクリプキに、固有名が現実界から到来するジジェクは当たり前ですがラカンに対応します。不可能なもの
はどこから来るか? により、存在論的脱構築システムと否定神学システムは区別されます。
ここまでで、「私たちが第三章まで、論理的-存在論的脱構築を柄谷の主張する「ゲーデル問題」とほぼ同一視
してきた。しかしそれはいささか修正される必要がある。ゲーデル問題にはその脱構築の第一段階(論理的)のみ
が対応する。そのあとには、否定神学システムより前の位相に到達するための別の手続き(存在論的)が続く」
(ep244)という東の企図は明確に果たされました。
今日はここまで。あとは後日です。
738 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 14:24:50 0
高原の最高気温も30℃ですが、森の中の気温は26℃までしか上がりませんので、快適です。湿度も今日は60%、べたつかない皮膚感覚がいいですね。
ところで、亀井さんの素晴らしい東の郵便的の読みが進められていますね。私も後でゆっくり熟読しようと思います。
ところで、同時並行的に進めています、竹田青嗣の「言語的思考へ」について若干述べてみたいと思います。
そこで、先にもの述べた通り、竹田は、ポストモダンのモチーフは形而上学批判にあり、それは、主に、真理の形而上学・主体の形而上学・現前の形而上学の批判である
と述べています。この点についての説明は不要だと思いますが、簡単に述べると、真理の証明は永遠のメタレヴェルを要請されると言う事で不可能であり、現前の実在についても、そのフレーミング(地と図あるいは意識構造)に
依存して現れるのであり、主体についても、いわゆるエディプスコンプレックスによって創造されたものであり、この様な形而上学=絶対真理の証明は不可能であるという事です。
次に、竹田はこの様な形而上学批判がポストモダンの特権ではなく、すでに19世紀後半〜20世紀にかけてヨーロッパに登場した実証主義哲学に見出せると
しています。実証主義哲学はコントに始まるとされています。コントは哲学=思想の歴史の流れとして、まず神話時代があり、次に形而上学の時代へと進み、最後に?実証主義時代が来るとみているようです。
739 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 14:56:05 0
長文を書くと、書き込み不能になりました。(笑)
そこで、続きを再度書きますね。
また、存在の根本原理を問う「存在論」も形而上学と見ているのでしょう。
この辺については、亀井さんの東によるハイデガー的定神学によっても
郵便的になりえないもの=亜形而上学(形而上学に次ぐもの・形而上学を
否定しようにも否定できないもの)と言う位置づけに符合すると言えます。
そこで、竹田はクロポトキンの唯物論による帰納法の優位出し、観念論=形而上学
の批判として、位置づける。
帰納法とは経験を前提に、世界を分析解明する方法で、イギリス経験主義を
経て、論理実証主義にいたり、英米の科学主義(分析哲学)へと進んで行く
思想=思考方法です。実証主義(positivism)は、自然科学の帰納法を哲学的に敷衍した
ものであり、思想内容は、経験的な事実の背後に何らかの超経験的な実在を認めず、
全ての知識の対象は、経験的所与=経験的事実に限るとし、近代自然科学の
方法成果に基づき、物理的、精神的、現象世界の統一的な説明を目指すものであります。
(以上実証主義の定義については、平凡社の哲学辞典をアレンジし引用しています。)
740 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 15:20:10 0
私のコンテテクストからは、イギリス経験論と言えば、ヒュームが第一に
思い浮かびますが、これは、大いに、ドゥルーズの影響だと思います。
ヒュームは「人間とは、思いもよらない速さでつぎつぎと継起し、絶えず
変化し、動き続けるさまざまな知覚の束ないし、集合にほかならない、ということである。
・・・・・心とは一種の劇場である。そこではいくつもの知覚がつぎつぎに
出現する。それらは通り過ぎ、舞い戻り、すべり去り、さらに混じり合って
無数の多様な状況をつくりだす。」と述べています。
ようは、すべての感官にもたらされる刺激=情報は次々に現れては去っていくものであり
この様な刺激を繰り返し経験する事で、内部に観念連合が起こり、
そこから、因果が説明されると言う事だろうかと思われます。
それにしても、ヒュームの引用文がドゥルーズの哲学ではと思われるほどに
似通っています。これは、おそらくドゥルーズがイギリス経験論から多大な影響を
受けた証明になるのではないでしょうか。特にモル的に対する「分子的」と言う
タームはまさにこのヒュームからの影響でしょうね。
741 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 15:33:59 0
はたして、帰納法で良いのかと思いつつも、竹田・クロポトキンの
帰納法の優位説に端を発して、形而上学批判を展開してきましたが、
その前に、松井さんも言及しておられた、アルト―について、
まさに、彼も、先述のヒュームの引用文さながらの生き様であった
気がします。ここから、分裂症分析=スキゾフレニー分析へは間近
と言う気がします。ようは、理性への脱構築はコンテクストの多様性
を超えて、脳の脱構築であり、ドゥルーズ・ガタリにおいて
分裂症的表層=皮膚感覚へ・襞へ・無為の意味の生成と消滅へと展開していく
ということでしょう。
742 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 16:00:24 0
ここまで持論を展開するとき、はたして帰納法=科学主義で良いのか
と言う問題に、私がノンを突きつけている事は明白ですね。
それはヒュームの言うように、決して確実な感覚与件はないのであり、
それは、永遠に確実足りえない、無限の訂正スパイラルにはまったと言う
人間の姿しか見いだせないようです。
アメリカに渡った実証主義はプラグマティズム=実用主義に影響を与え
コントの定義では、実証とは「事実的で有用な」と言う意味を持っているのです。
つまり、実証主義哲学は帰納法的経験的であり、そう言う意味では、
形而上学的=演繹的ではなかったが、それゆえに、有用性や経験によっている事で
科学主義的な経験的な外部の掌握がどのような人の側の内的問題意識(フレーム)
によってなされているかが問われなかったと言う事でしょう。
それが証拠に、実証主義の流れをくむ、クーンから、パラダイム論が
展開される。パラダイムとは科学主義の考えるように帰納法的に現前=もの
を把握し、日進月歩的に認識が前進するのではなく、断続的=断絶的に
前後して認識の在り方(パラダイム)は変化し、その前後の認識方法は
通訳不可能のものだと言っているのです。これが、彼の言う科学革命でありますが、
この中に、思考はその思考方法に先を越されている。人間の主体は主体構造に
先を越されていると言う、ポストモダン思想への類似性を感じられるのでは
ないでしょうか。
もちろん、クーンはパラダイムの転換が恣意的な構造組み換えによるなどとは
言っていないでしょうがね。
743 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 16:12:29 0
書き続ける事も疲れますね。
おそらく亀井さんもそうかも?
それでも、知識ではなく思考力・認識力の向上には欠かせませんよ。(笑)
高原の風が吹いて木々を揺らしています。
空が曇ってきました。
また、哲学書を購入しに、八重洲ブックセンターにでも行きましょうかね。
東京は暑いでしょうね。
皆さんに暑中お見舞い申し上げます。
きょうはこれまでです。(ふー・・・・・)
744 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 16:20:22 0
PS
それにしても、分析哲学って、言語のコンスタティヴ的な表現の
確実性=整合性や論理学的な形式論理の無矛盾性ばかり証明しようと
しているのではないだろうか?
「市民社会」なんて「万国のプロレタリアート」と大差ないな。
3 その1 精神分析的脱構築 フロイトについて 引用 1
1-1 (『夢判断』1900によると)夢には論理的関係がなく、事項的内容だけがある。(略)つまり夢には名詞だけ
がある。(略)「[夢作業の働きは]あたかも、ある代数方程式に数学のほかに+や−、冪記号や平方根記号が存在し、
この方程式を転写するひとがそれらの記号を理解せず、転写にあたり演算記号を数字と同じように受け取り、
双方を混同して投げ入れてしまうようなものである(フロイト『夢判断』)」(略)ここで、論理形式とは、思考対象
間の関係を規定するあらゆる操作=判断の次元を名指していると理解されたい。夢において判断は消され、「判断
した」という事項だけが残る。(ep262-263)
1-2 (「否定」1925によると)無意識には否定がない。何故なら「否定」とはそもそも、欲動の無意識的戯れ
(一次過程)を抑圧し成立した意識的思考(二次過程)の一機能だからだ。(しかし)その語は肯定/否定の一項である
論理的否定を意味すると同時に、肯定/否定という二項対立そのものの起源(抑圧)を覗かせる否認行為をも指示
する。(略)「否定」を介して二つのレベル(objectとmeta)はつねに短絡されており、だからこそ意識的会話を
通じて無意識を暴くことができる。したがってその機能は私たちの図では、「クラインの管」に相当すると考え
られる。(略)以上の整理はクラインの壺構造の確認にすぎない。(略)フロイトのテクストの多くは否定神学的論理
で十分読解できる。(ep264-267)
1-3 だが郵便的脱構築の明確化を志向する本論は(略)別の方向に進まねばならない。フロイトの中に、クライン
の壺の安定性を逸脱し撹乱する隠喩=概念を見出し、そちらをこそ理論化していかなければならない。(ep267)
1-4 (『自我とエス』1923によると)自我は何故生じるのか。それはエスと外界との接触により生じる。(略)なぜ
エスと外界は接触するのか。フロイトはその条件を、世界(外的知覚の圏域)の内部に現れつつ、しかも同時に世
界外(内的知覚)に止まる身体の知覚的二重性から導き出している。(略)自我は世界内と世界外との界面、世界に対
する二重襞的存在として生成する。(略)フロイトの術語(第一局所論)に言い換えればそれは、円錐が前意識-意識
体系(Vbw-Bw)に、またクラインの管が無意識体系(Ubw)に相当することを意味する。(略)ならばこのパースペク
ティヴにおいて、精神分析のいかなる理論要素がクラインの壺構造を剰余しているのか。(ep269-270)
3 その2 精神分析的脱構築 フロイトについて 引用 2
2-0 私たちはここで、二つの精神分析的知見に注目したいと思う。
2-1 第一にフロイトが行った二種の「表象」の区別、すなわち物表象と語表象の区別。(略)ここで注意すべきは、
石澤誠一が指摘するように、物表象/語表象の区別がシニィフィエ/シニフィアンのそれに重ならないことである。
(略)人の心は、二種の表象=シニィフィアン、二種の同一性論理を用いて情報を処理している。(ep271)
2-2 ここからデリダとの関係で二つの帰結を引き出すことができるだろう。(α)無意識におけるシニフィアンの
分割可能性。(略)シニィフィアンの単一性は無意識(クラインの管)では保持されない。そこでは超越論的シニフィ
アンは、声=超越論性を剥奪され、視覚的で物質的な物表象、つまり書かれたもの(エクリチュール)としてのみ処
理されるからだ。そして「エクリチュール」とは発音不可能な綴り字の集合体でしかない以上、超越論的シニ
フィアンはつねに破砕の可能性に曝される。(ep274) (β)精神的分析的読解=暗号(crypte)的読解。(デリダ『Fors』
においては)この語(crypte)は三つの意味を担っている。第一に「惑わすためになされた複数の場の組織」。これ
は、無意識(クラインの管)が郵便空間=ネットワークとして組織されていることを示す。(略)第二に「生ける死者
を守るための場所」。ラカンの術語でいう「ファルス」の場所を指示している。第三にcrypterという動詞形で
「暗号化すること」。そこでは、crypteは排除された表象を「物語」つまり物表象と語表象との中間的存在とし
て扱う無意識的情報処理の特性を示している。(略)デリダ的精神分析はクリプト名=記憶を扱う。(ep276-277)
3 その 3 精神分析的脱構築 フロイトについて 引用 3
2-3 第二に、初期フロイトの理論的中心を占めた心の神経学的-経済論的モデル、とりわけそこで提出された
「経路」「経路付け=疎通」の概念(である)。(略)(『科学的心理学草稿』においては)「心」は、知覚表象を保持
するψニューロンとそのあいだを張りめぐらされた経路のネットワークで構成されるものとして捉えられ、その
情報処理過程はすべて心的エネルギーの移動から説明された。そして諸表象の結合の強度、つまり連想の傾向や
記憶の強度は、それらを繋ぐ経路の抵抗に依存するものだと考えられた。心的エネルギーは、なるべく抵抗の低
いほうへと流れるはずだからである。
2-4 ここからもまた同様に、デリダと関連深い二つの方向を取り出すことができる。(α)クラインの管の複数化。
(略)一次過程の心的エネルギーは、二次過程のそれに較べ流動性が高い。それゆえ前者は、その経路の途中に障
害がある場合や別により抵抗の低い経路がある場合、たやすくその通り道を変える。つまり無意識ではしばしば、
意識的情報処理の経路から外れたψニューロンに心的エネルギーが備給される。その結果、夢における不条理な
知覚表象や、ヒステリーにおける強迫観念的な思考表象が生じる。(ep278) (β)主体の哲学に抵抗する経路の
隠喩。フロイトは『科学的心理学草稿』の中断後も、潜在的には経路の隠喩を保持し続けた。(略)だが実際には
1895年以降、「経路」という語は彼のテクストから長い間消えてしまった。(略)「経路」という語が再びフロイ
トのテクストに現れるのは(略)1920年『快感原則の彼岸』においてである。
3 その 4 精神分析的脱構築 フロイトについて まとめ
まず『夢判断』に触れます。それによると、夢の作業は判断することを知らない。すべての判断(meta)は「判断
する(した)」という名詞(object)に絶えず送り返されます。論理形式は事項と共に名詞として処理される。
次に東は「否定」という語の二重性に注目します。つまり肯定/否定の二項対立そのものを産む抑圧(第一の否定)
と意識的思考における肯定/否定の二項の一方としての否定(第二の否定)です。これにより患者の「否定」に関す
る意識的言説分析から、医師は患者の無意識を分析することができる。これは形式的にはハイデガー『存在と時
間』でなされた現存在(二重襞)分析と同形です。東はフロイト理論の多くはこの論理で解けると言います。しか
し東は、フロイトにはまた、デリタが読んだフロイト、フロイトが自分で抑圧し、後期(『快感原則の彼岸』1920
年以降)に回帰した初期フロイトがあり、そこにフロイト理論の別の側面を見ます。
まず『自我とエス』1923年において提示された、身体の知覚的二重性(内的及び外的知覚)にふれ、人間の身体に
二重襞性を見ます。そしてこれもクラインの壺モデルとして図式化される。(268ページの図3-2)
ここまででモデル構築は一旦留保され、フロイトの初期と後期の考察の中に、クラインの壺モデルの剰余(つまり
ラカン的=否定神学的思考に回収されないもの)に関するヒントがデリダと共に探索されます。
すなわち、1 語表象/物表象の考察により得られた(α)無意識におけるシニフィアンの分割可能性。アブラハム
=トロック『狼男の言語標本』への序文「Fors」(デリダ)により示された(β) 暗号(crypte)的読解の導入。
2 初期フロイトの心の神経学的-経済論的モデルで提出された(α)クラインの管の複数化。(β)主体の哲学に抵抗
する経路の隠喩。これらの知見をもとに、最終節において郵便的脱構築のモデルが提示されることになります。
それは、エディプスコンプレックスの理論と原理的に折り合わないためにフロイトが抑圧し、のちに回帰した、
「心的過程の「量的」かつ「機械論的」説明を試みる1895年のパースペクティブ」(いわゆるラカン主義が思考
しないもの)を読むデリダを読むことにほかならない。
今日はここまでです。次回が最後です。
752 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 15:01:37 0
そこで、竹田は19世紀半ば以降「形而上学」と言う言葉は、イギリス経験論
・大陸合理論・ドイツ観念論の流れをもつ、近代哲学の特質的な思考を指す言葉
であると述べていますが、私的には多少の違和感がります。
まず、この流れですが、大陸合理論がデカルト・スピノザ・ライプニッツと言う
理性による超越的な原理の発見によって、世界の全ての規則を説明できると言う
考えを共有する理論です。次には、歴史的に見て、イギリス経験論がきます。
ロック・バークレー・ヒュームがそれで、何度も言っているように、人間の知識は
経験に由来すると言う思想です。これは、超越的な原理を重視する大陸合理論
へのアンチテーゼであることは明白です。ロックは人間は生まれた時にタブラサラ
(白紙)でのちに経験から知識を得るとしているのですが、つまり、大陸合理論
の様な演繹的な認識ではなく、帰納法的なアプローチをしているのです。
そしてそれは、大陸合理論者のような、自然の真理の究明ではなく、人間の知性の
探究にあったと言えます。つまり、どの様に認識はされるのか。
つまり、フレーミング=認識する側(人間)の認識の方法を示していると言えるでしょうね。
753 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 15:25:05 0
解りやすく言えば、大陸合理論は人間理性による世界の論理的掌握
が目的で、イギリス経験論は呼び名の通り、経験により知識が蓄積される
のだと言う、人間の認識能力の後天的な面を強調しているのですが、
前述のとおり、ヒュームにいたって、すべては観念連合と言う、
人間の勝手な構想=妄想?によって、知識は確固たる基盤を喪失する
様に見えてくるのです。そこで、次に登場するのがドイツ観念論
です。特にカントはこのイギリス経験論者の不確実性を一気に解消
する。つまり、自然=物自体は人間にはわからないが、先天的
感性形式と悟性範疇によって、人間としては正確に認識されるとしたのだ。
ここにいたって、イギリス経験論は克服されたと言われる。
そこで、竹田への異議は、第一に哲学の流れの違い、つまり、
大陸合理論→イギリス経験論→ドイツ観念論と言う流れ
(これについては竹田氏も認識されていると思います。)
第二に最終的にヒュームに行き着く、イギリス経験論を
形而上学と言いうるかと言う疑問点です。
754 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 09:36:26 0
そして、実在論的唯物論や科学主義的実証主義がヨーロッパ哲学の形而上学
性を強く批判するとしている。でも、実際科学主義が形而上学批判を出来う
るのかと言う点は、ポスト構造主義を経て疑問視されるべき問題点として
残りうるだろ。例えば、形而上学を経験を無視した、観念論と捉えるなら
、唯物論や実証主義はそれに当たらないと言いうるかも知れない。
しかし、ポスト構造主義の批判する形而上学とは、コンテクストによる
多義性=絶対真理の不可能性であり、この点については、経験による科学
的な認識も批判の対象外とは言えないだろうと言う事である。
逆に、科学と言いう呼称が、真理の証明と言うニュアンスを強く含む以上
多義性と言う、多様なる視点の共存と言う意味から、ますます対極にある
と言う意味を露わにするものである。
こう言う点を見透かしてか、カール・ポパーは反証可能性と言う科学哲学論
を提唱している。
755 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 10:18:14 0
ポパーは帰納法が成立しないのは「単称明言の連言から
全称言明を引き出す妥当な論理的手段は存在しない・・」と考えている
からだ。(現代思想の冒険者たち 「ポパー」小河原誠著 参照)
また、「ヒュームは、個別の観察から一般法則への移行(帰納)
を行うためにには、そのような移行を許す原理が必要になる。
・・・・これは、帰納の原理を正当化するにあたって帰納原理そのもの
を持ち込む事に等しく、証明すべきことを先取りしてしまっている。」
とも述べている。
そこで、ポパーはこの矛盾を避けるべくカントの先天的感性・悟性
形式による「悟性は、その法則を自然から汲み取るのではなく、自然
に対して法則を課す・・」と言うプロレゴーメナからの引用を用いて
この帰納法の不備を補おうとする。しかし、人間の側から押し付ける
事による知識は本当に妥当かどうかわからない。
そこで、「反証の可能性」に行き着くのだ。
この様に、見るとき、竹田の言う唯物論的・科学主義的なアプロー
チ=帰納法が、絶対真理の証明を求めていた事が、判明する。
そして、ポパーによって、帰納法による証明は常に反証されざるを
得ない仮説として位置付けられる事になる。
られる
756 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 10:29:01 0
勿論、この様な証明をしなくても、科学が齎そうとするのは、
客観的な真理であり、真理批判をするポストモダンには、形而上学
としか映らないのだ。よって、ポストモダンの批判する形而上学
とは、多様性・多義性の否定であり、何が正しいのかを探求する
全てのもの、あるいは抑圧的な組織構造等、すべての画一的と言われる
ものに対する批判・逃走であるのであり、科学主義的な真理(一時的な
ものであれ、永久的な真理と言われるものであれ)は、この
批判から逃れえるものではない事は明白なのだ。
このスレはなぜこんなにももの悲しいのだろうか。
涙が止まらない。
758 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 14:29:03 0
それは恐らく、哲学の基盤が人間と言う悲しい存在であるからだろうね。
名無しレスは、その悲しみを身にまとっているからだろう。
安易な楽観主義には交わらない、孤高さ、つまり単独性があるのだよ。
言葉は人に伝える道具としてではなく、孤独に空に向かって吐きかける
存在の悲しさの表現になっている。
哲学を深めた者は、神秘主義か、悲観主義にしかならない。
それは、哲学を深めれば深めるだけ、人間が中心地には至らない、
存在であることしか教えないからだ。
証明しないからだ。
> 哲学を深めた者は、神秘主義か、悲観主義にしかならない。
> それは、哲学を深めれば深めるだけ、人間が中心地には至らない、
> 存在であることしか教えないからだ。
お客さん
まだ三合目です
4 郵便的脱構築 はじめに
最終節です。三種の脱構築とその差異が端的に295ページに示されています。
・論理的脱構築。ゲーデル的手続きによる「表象作用の円錐構造の不完全性の提示」「外部=不可能なものの提示」
・存在論的脱構築。哲学素の固有名化による「(単数で観念的な)「不可能なもの」の循環による円錐の安定化
運動の提示」
・郵便論的脱構築。哲学素の転移化による「(複数で物質的な)「不可能なもの」の幽霊的到来可能性に曝された
円錐モデルの提示」
第一章から前節までの考察において、これら三種の脱構築はかなり明確になりました。残っているのは「哲学素
の転移化」とはいったい何か?ということです。考察はまずフロイトの転移論からはじまり、デリダによる疑似
精神分析ともいえるデリダ-サール論争(「署名、出来事、コンテクスト」と「有限会社abc」)を経て、デリダの
行った「古名の戦略」=哲学素の転移化の説明がなされます。
4 郵便的脱構築 引用 1 転移とは何か?
1 (フロイト『終わりある分析と終わりなき分析』1937によると)一方で、分析治療の終了を決定するか否か
は「実践上の事柄」にすぎない。(略)他方で、分析は「終わりなき課題でもある」。(略)フロイトは「自我分析」
と「エス分析」とを区別している。(自我分析は、患者の)エスに対する自我の「支配」が十分に強化されれば
終わりを迎える。しかし、エスから自我への働きかけ自体はその後も残存する。したがって精神分析は(略)つね
に症状の再来に悩まされる。それゆえ分析者は、被分析者のエスにもまた踏み込まなければならない。
(ep284-285)
2 (エス分析は)フロイトは被分析者のエスが、分析者が自分自身のエスを対話に介入させることではじめて操作
可能になるということを幾度も強調していた。(略)「いかなる精神分析医も、自分自身のコンプレックスや内的
抵抗が許容するかぎりでのみ分析を進める」ことができる。分析者と被分析者とのあいだで欲望が転移しあう
(転移/逆転移)このレベルにおいては、分析は決して終わることがない。(略)後続の議論のため、二つのことを確
認しておこう。(ep285)
3 第一に、転移の概念は精神分析技法の歴史においては「知ることwissen」の、すなわち「意識」の無力さの
発見と深く結び付いている。分析者は症状の解釈を通じ、患者の抑圧された欲動や幼少時外傷を再構成する。
当初フロイトは、その解釈を患者に直接知らせることで症状の改善を図った。しかしいくつかの失敗ののち彼は
方法を変える。患者はそもそも症状の意味を欲しない。(略)患者の意識に向けた解釈投与はそれだけではなんの
治療効果ももたない。分析技能における転移の導入は、wissen以前のこの位相を操作するため行われている。
転移=無意識的条件の整備が、知=意識に先行する。(ep286)
4 第二に、wissenを規定するwollen(意志=意欲)というこのパースペクティヴはニーチェおよびハイデガーの
洞察と深く呼応している。(略)「『意志』-ひとつの命令作用。(略)命令の言葉が作用を及ぼすのは、言葉としてで
はなく、音声としてではなく、音声の背後に隠れているところのものとしてである」(『権力への意志』ニーチェ)
(略)「意志Wille<wollen」はある無意識的作用に支えられる。(略)他方でハイデガーにおいては、wollenの位相
についての議論は「関心Sorge」論として展開されていたと考えられる。「意志と願望は、存在論的には必然的
に関心としての現存在に根ざす」(『存在と時間』第41節)(ep286-287)
4 郵便的脱構築 引用2 デリダ-サール論争
1 デリダは1971年に、オースティンの言語行為論を扱った論文「署名 出来事 コンテクスト」(以下Sec)で、
(略)言語行為論が依拠する概念枠、つまり発話分析におけるコンスタティヴ/パフォーマティヴの区別が厳密には
維持不可能と主張。(略)1976年に英訳され、言語行為論の遺産継承者を自認するサールからの強い反論を即座に
呼びよせた。「有限責任会社abc」はその反論の再反論として再び即座に書かれ、サールの「差異再び-デリダへ
の反論」とともに同誌に同時に掲載された。(ep288)
2 「有限責任会社abc」の錯綜した論述展開をあえて直線的に整理してみよう。デリダはまずこのテクストで
サールが「Secの単なる論証をもってSecへの異議とする」さまを追跡している。(略)サールによる「反論」の
多くは実は、デリダ自身の主張に異なった「感情的評価」を与え、それを異なった仕方で使用することで構成
されている(その[デリダの]主張自体が妥当か否かはとりあえず問題ではない)。(ep289-290)
3 デリダはつぎに、サールのその「意志」、つまり知以前の位相を規定する「メカニズム」について思考をすす
める。そこでの論述は、主に「ca rapplique」という暗号的表現のまわりをめぐっている。(略)caは「それ」を
意味する代名詞であると同時に、精神分析の術語としては「エス」を表す。rappliqueは「再来する」を意味す
る動詞であると同時に、語源的には「複製するrepliquer」「再応用するre-appliquer」と連結しつつ英語のreply
に対応する。(略)サールの反論では「それ(secの議論)が再来rappliqueする」。しかしその再来を強いたのは、
彼の「意識的自我」ではない。そこでは「エスがSecを複製し再応用する」ことで「エスが反論している」。
したがってデリダはもはや、「反論」がサール個人に属すテクストとは考えない。(ep290)
4 「Sec」と「有限責任会社abc」のスタイル上の差異は、内容的には自我分析とエス分析、wissenとwollen
の審級の差異に対応している。(略)それら二テクストはそれぞれ論理的脱構築と郵便的脱構築とを代表するスタ
イルで書かれている。(ep292)
4 郵便的脱構築 引用3 デリダによる哲学素の転移化=「古名」の戦略
1 脱構築の思考は第一に、(二項対立の)位階秩序を「転倒」し、第二に位階秩序の場そのものの「位置ずらし」
を行うという、二段階の作業を経ねばならない。(略)(だが)二者闘争対立の位階秩序はつねに再構成される。(略)
終わりなき脱構築=エス分析はそこから要請される。(略)(デリダは)転倒の「終わりなさ」が要請する転移的技法
を「古名」の戦略と名付けている。(略)デリダは、二項対立の外部を示すため、まさにその二項対立の内部に位
置する古い名を維持し続けている。(ep296-298)
2 注目すべきは『ポジシオン』が古名の操作を二段階に分けたことである。第一に、ある概念の確定記述が
抜き取られ、つぎに第二に、残ったその概念の「名」を利用して確定記述の接木や拡張が図られる。(略)この
二段階操作は、ある概念に与えられた「名」が、その概念と等置可能な確定記述の束に還元不可能なある剰余=
plusをもつことを前提としている。(略)(デリダ『葉書』のラッセル論によると)引用符には、ある句、ないしは
語をその等置可能性から引き離す機能がある。(略)(それは)確定記述の束への還元不可能性=plusが、潜在的に
あらゆる句/語に宿っていることを意味している。古名の戦略はそのplusを利用して、ある概念の「接木」「拡張」
を図る。(ep298-300)
4 郵便的脱構築 まとめ 1
まず、フロイトの転移についての考察です。ここは周知のごとくです。患者が病因を意識化すること、による治
療の限界を感じた精神分析は、患者の無意識を操作することの必要性を説く。そしてデリダはサールとの論争に
おいて、疑似精神分析(サールの意識wissenを故意に無視し、無意識wollenを操作する)ともいえる行為を実践
します。サールによる「Sec」への反論がただ「Sec」の内容反復にとどまっていることに着目し、そこにサール
のオースティンに対するエディプスコンプレックスを発見する。いわばサールの無意識の力がサールに反復を強
いている(「ca rapplique」)。ここで注意しなくてはならないのは、後の311ページから312ページで言われて
いるように、エス分析=転移関係には終わりがなく、その過程では、語っているのがサールの意識か無意識か、
あるいはデリダの意識か無意識かは決定不能だということです。ここではとりあえずサールの無意識が語って
いるということになるだろう、というほどの意味です。
次に東はデリダの「古名」の戦略について書いています。あるテクストで使用されている語、句から引用符に
よってその語、句の確定記述を引き離し、残った「名」を利用し確定記述の接木・拡張がなされる。重要なのは、
潜在的に全ての語、句に剰余が宿る可能性がある、ということです。デリダの「哲学素の転移化」とハイデガー
の「哲学素の固有名化」は明確に区別されました。
4 郵便的脱構築 引用 4 郵便的脱構築とは何か 1
1 (丸山圭三郎の比喩を援用すると)デリダはこの「差異の体系」に、それぞれの風船に刻印された「名」、ある
いはエクリチュールの次元を導入する。そこでは名は風船に対してだけでなく、いわばそれらが占める場所(コー
ラ)に対しても贈与される。(略)風船のコーラ=名は同じものとして残りつづける。この「残余」と風船自体のず
れ、つまり名と確定記述のずれがそれぞれの語にplusを与えるだろう。(ep301)
2 (ハイデガーは)コーラを現存在の二重襞性のうえに基礎づける。語のplusはそこでは、クラインの管の畳み
込みあるいは投射によって説明される。したがってplusの起源、現存在のOrt(根源的な場所)は必然的に一つし
かない。(デリダは)コーラをそれぞれの語に宿る二重性から捉える。あらゆるシニフィアンにはエクリチュール
が分身として取り付く。(略)語のplusは語表象と物表象との間のずれに滑り込む差延から生じる。plusの起源
はそれぞれの語で異なり拡散し、クラインの管へと集中化されることがない。(ep303)
3 ハイデガーの世界=Daはシニフィアンのみによって構成されている。(略)しかし以上の議論は、デリダのDa
が、いわばシニフィアンとエクリチュールとの二枚重ねで構成されていることを示唆している。それゆえ私たち
はここで、前掲図3-2(268ページ)を大幅に修せねばならない。私たちがいま問題にしているのは、表象作用の
円錐底面がたえず二重化され、かつその一層がたえず剥離しUbw系へと崩落しているようなモデルである。
(略)phoneの平面、Da、形式体系、あるいはソシュール的記号体系、何と呼ばれてもいいが、それらはすべて各
シニフィアンを裏打ち=二重化するエクリチュールとその亡霊的彷徨、無意識的郵便空間への物表象への崩落を
消去してはじめて成立するものだ。(ep304)
4 郵便的脱構築 引用 5 郵便的脱構築とは何か 2
1 第二期デリダは後期ハイデガーより読みにくい。その理由は、それが洗練された隠語=キーワード操作に基づ
いているからではなく、単にそこにキーワードがないからである。(略)あるテクストで読解上の「てこ」、plus
が宿る語=場所と見なされ重要視されたターム(つまり古名)が、また別のテクストで同様な役割を果たす保証は
一切ない。(ep307)
2 デリダはplusを言葉自体が持つ裏打ち構造、シニフィアンとエクリチュールとの二枚重ね性から説明する。
この構造により彼は、分析者と被分析者とのあいだで「分有」されるひとつひとつの記号に宿るplus、エクリチ
ュールを発見することができる。エクリチュールはそこでは両者のあいだでコーラとして機能し、双方がそれぞ
れ異なった同一性を流し込むにも関らず、その彼方で同じplus、同じ物表象としてとどまり続ける。裏返せば
エクリチュールは、分析者と被分析者とが同一性を交換するための中継地点、運び屋として機能するだろう。
(ep308)
3 ハイデガーの思考は固有名を扱い、そこでは「思考」という哲学素もまた固有名化される。対してデリダの
思考はコーラに曝され、そこでは「思考」という語は常にブランクのまま放置される。その語はvouloirの位相
で相手と転移を起こすためのひとつの戦略拠点にすぎず、それゆえ自らは「何もvouloirしない」。以上がハイ
デガーとデリダ、存在論的脱構築と郵便的脱構築とのあいだの理論的差異であり、またスタイル的差異である。
(ep309-310)
4 郵便的脱構築 引用 6 フロイトの、ある夫婦の症例
1 ある女性が夫の性的能力をめぐり不安神経症になった。無論、彼らの意識はともにその原因を知らない。
しかし夫は「その妻の不安の意味を告白も説明もなしに理解し」、「彼のほうでもまた神経症的に反応した。すな
わち彼は夫婦交渉を-最初から-拒絶したのである」。(ep316)
2 無意識が連結するとはどういうことか。(略)転移においては、意識と無意識、シニフィアンとエクリチュー
ルの二位相で同時にコミュニケーションが行われる。(略)デリダの古名の戦略では、一方で二つの無意識が同じ
エクリチュールを、他方で二つの意識が異なったシニフィアンを処理する位相のズレが利用されている。この位
相の区別に従えば、一方が発したエクリチュールがそのまま、つまりどちらの意識によってもシニフィアンとし
て同定(同一化)されず、直接に他方のエクリチュールと呼応し合う可能性について考えることができる。無意識
はここで繋がる。(先述の夫婦例では)症状はシニフィアンでなく、エクリチュールとして機能し、意識的知によ
る同定(病状の解釈)を迂回しつつ互いの無意識を往復している。(ep318)
3 転移は無意識を繋げる。それは具体的には、一方のphoneからUbwへと崩落したエクリチュールが、シニ
フィアンとして固有化されないまま、他方のUbwに受信され処理される可能性を意味する。そこではエクリチ
ュールの郵便空間がphoneの外部に開ける。裏返せばそのような郵便空間が開けることではじめて、「転移」と
呼ばれる現象、すなわち無意識の連結が生じる。(ep319)
4 郵便的脱構築 まとめ 2 そして最終節へ
以上のように「潜在的に全ての語、句に剰余が宿る可能性」は言葉が「シニフィアンとエクリチュールとの二枚
重ねで構成されていること」から由来し、また、ハイデガーのDa、およびその種の「世界」はそのことを消去
して初めて成立するものだと東はいいます。ここで、ハイデガーとテリダのスタイルの差異も必然的に明らかに
なります。そして、フロイトの夫婦症例と、デリダの思弁により「転移」とは何かが示されます。
ここまでくれば、あとは、二重化されたDa平面を持ち、無意識が他者の無意識と連結された、クラインの壺モ
デル、を提示して完結ということになりそうです。
が、そのあとでこの本はある疑問を唐突に提出し、そして唐突に終わってしまいます。
とりあえずこれからどうする?
なにもかもが難しすぎるよ
原始時代は?
バカもアホも忘れちゃ駄目だよ?
わかったかな?
771 :
考える名無しさん:2008/07/30(水) 14:47:15 0
松井さんご苦労さまでした。
参考にさせてもらいますね。
短い時間にレスするには、おそらく、コンピューター知識が必要ですね。
私は知りませんが、その技術があれば、より良い文章が書きこめそうですね。
恐らく「保存」「コピー」の技術が必要ですね?
難解な東の「存在論的、郵便的」の引用とまとめ、
再読しながら、松井さんの書き込みを読みましょうね。
ところで、このような松井さんのレスを見て行くにつれて、
貴方の、哲学履歴の様なものを聞きたい気がしますね。
恐らく、哲学科卒は想像できますよね。
そして今でも、院生として在学中か、何らかの形で学問の分野で活躍中?
いや、そのような詮索は失礼かも知れませんね。
私は、自称哲学フリークですので、暇をもてあそんでいるいる時は
哲学書を斜めに読んで過ごしています。(笑)
特に、ポスト・構造主義を理解する事を中心に哲学を極めるべく
哲学書を一冊でも多く読むよう心がけています。
今後も、宜しく。
4 郵便的脱構築 引用 7
1 「科学的心理学草稿」に見られる郵便的隠喩については、私たちはすでに前節で検討した。では「マジック
・メモについてのノート」はどうか。(略)(フロイトはマジック・メモの)カバー下層を知覚-意識系(W-Bw)に、ボ
ードを無意識にそれぞれ比較していた。外界からの刺激=情報はカバー上層を通ることで弱められ、受容可能な
ものに変化させられW-Bwに届く。そして記憶はさらにその下、無意識(ボード)に記載される。(略)私たちはこ
こで、Daの二重構造を整理するためのフロイトのモデルを援用してよい。(ep323)
2 重要なのはその記載が二重に行われることである。カバーが剥がされ語表象の位相が抹消されたとしても、
物表象はエクリチュールとして残りつづける。Daの二枚重ね性は否定神学システムを維持不能にする。(ep324)
3 しかしそれだけではない。(略)シニフィアンのUbwへの崩落=物表象化は、カバー下層とボードとの剥離に
より生じている。そしてその剥離がなければ、知覚平面は受容能力を持つことができない。したがってマジック・
メモの隠喩はDaの二枚重ね性をモデル化するのみでなく、その二枚重ね性自体の産出、シニフィアンとエクリ
チュールという層が「周期的に」接触/剥離を繰り返すことでDaが産出されるさまをもまた示すことになる。
(ep324)
4 デリダはそのさらなる展開を図る。(略)「フロイトとエクリチュールの舞台」においてデリダはすでに、「エ
クリチュールの根源的時間性」に注意を促していた。(略)シニフィアンの平面(知覚-意識系)はエクリチュールの
ボードから剥がされることで、周期的に初期化される。つまり人は「不連続」にしかDa=世界を構成することが
できず、そこから時間が生まれる。(ep325-326)
終わりに
あとは、「思弁の可能性そのものが転移=郵便によって開かれる」という問題が提起され、唐突にラカン派がどう
の、デリダ派がこうのという話になるわけです。デリダ『葉書』第四部がそうなっているので、しょうがないで
すが、わたしはこれはかなり唐突な感じがします。ここはカットします。
わたしはここから、貨幣論や、脳-神経-身体の科学に具体的に繋げていく『存在論的、郵便的パート2』を期待
してしまいます。それは理論的にありえると思います。
でも、とにもかくにもこの本を読みかえすのは刺激的でした。
というわけで、質問・批判・誹謗・中傷などなど、どんどん書いていただくと幸いです。
『存在論的、郵便的』に関するものに限り、(アクセス規制が)全部レスしたいと思います。
よろしくお願いします。
おわり
>>773の訂正
× (アクセス規制が)
○ (アクセス規制がなければですが)
775 :
考える名無しさん:2008/07/30(水) 18:21:36 0
細部への質問は省きますが、実際「郵便的」と言うタームによって、
東は何を表現しようとしたのでしょう。
勿論、真の脱構築や形而上学的な現前=声の批判だったのでしょうが、
どうも、最終的に行き着くところは、転移によるものだったと言う事
でしょうか?そうであるならば、結局分裂症的なありかたによってしか
最終的に、真の西洋形而上学批判は出来ないと言う事でしょうか?
私は、少なくとも、東の言う「否定神学」である、固有名の確定記述
の批判にしても、ゲーデル的不完全性定理にしても、超越的理論による
世界の理解=掌握については、否定している気がするんですね。
ところが、東は、最終的に確定記述は記述されうるとしていますよね。
本当にできるのか、この辺についてどう思われますか?
>>775 パレルゴンさんですか?質問の意味がよくわからないんですが。まずタームの整理をしたほうがいいと思います。
「形而上学」とはハイデガーの語使用によるとプラトンからフッサールまで続く存在忘却の上に建てられた哲学
という意味です。ハイデガーはそれをディストラクトするわけですね。Rufの導入により、phoneで纏められた
世界Daの外部を思考する(もしくはphoneで纏められる以前の世界Daの根拠を思考する)。
「形而上学」の批判はここでいちおう終わり。ハイデゲリアンのデリダも当然これは支持する。しかし、第二期
デリダは、今度はハイデガーのディストラクト後に残る否定神学性をディコンストラクトします。なぜか。ハイ
デガーが形而上学の「存在忘却」を指摘したように、デリダはいわばハイデガーの「エクリチュール忘却」を指
摘するわけです(もしくは否定神学システム以前の位相にエクリチュールを導入する)。
ところで『存在論的、郵便的』の第一の目的は単に第二期デリダの著書の隠喩解読です。
>勿論、真の脱構築や形而上学的な現前=声の批判だったのでしょうが
というのは間違いです。東はそんなことは企図していません。この思い込みから、「真の脱構築」という奇妙な
表現が出てきてしまうのだと思います。
>東の言う「否定神学」である、固有名の確定記述の批判にしても、ゲーデル的不完全性定理にしても、超越的
>理論による世界の理解=掌握については、否定している気がするんですね。
いや、だから、それらの「否定の仕方」をデリダ/東は問題にしているわけです。
777 :
パレルゴン:2008/07/30(水) 22:08:34 0
名前を出さずに書きこんでいました。
ちょっと、私のコンテクストからは形而上学の意味合いが
異なっています。あくまで貴方のおっしゃるような東の読みの
形而上学限定ではなく、一般的に言われる形而上学とは、
ハイデガー的な「存在の忘却」のみによっているのではない気がします。
例えば竹田は「真理の形而上学」「主体の形而上学」「現前の形而上学」
と言う風に形而上学を位置づけている訳です。
亀井さんの解釈はあくまで、東デリダ論の視点での形而上学解釈ですよね。
私は、先ほどの質問でも述べましたが、東デリダ論ではなく、形而上学批判
がなぜ必要だったのかを見て行く時、現前=声の否定は重要だと言う事です。
また、東の言う確定記述不可能性やハイデガーやゲーデルを一括りに否定神学と
決めつけて、無視する論調の意味が分からないのです。
形而上学の打倒を進める上で、否定神学も重要ですし、勿論、
否定をしつつ肯定するものを隠していることは、肯定と同じです。
よって、宗教的な否定による神の幻影を象徴化するバインド力
(組織力)は形而上学であり、暴かねばならないのですが、
クリプキの固有名の確定記述批判である多様なコンテクストから
生まれる記述や可能世界を考えた場合に、はたして、全ての
事は固有名に確定記述されると言えるでしょうか。
それを最終的には、すべて記されると言う風に考えているこの点について
どう思われますか?
>>777 >私のコンテクストからは形而上学の意味合いが>異なっています。
ではまず、パレルゴンさんの「形而上学」の定義の詳述が必要ですね。
>東の言う確定記述不可能性やハイデガーやゲーデルを一括りに否定神学と
>決めつけて、無視する論調の意味が分からない
この批判はちょっとw 東もある思想家の思想をひと括りにしたりしてないですよ。
柄谷やドゥルーズが否定神学的思考に陥る場合も指摘してるじゃないですか。
>全ての事は固有名に確定記述されると言えるでしょうか。
>それを最終的には、すべて記されると言う風に考えているこの点について
>どう思われますか?
意味がわかりません。ごめんなさい。詳述お願いします。
779 :
パレルゴン:2008/07/30(水) 22:25:59 0
それと、形而上学をハイデガーで終わりと考え、否定神学的な
問題の乗り越えを別に考えるのはどうでしょう?
形而上学があくまで、絶対的な視点を肯定し、そこから、
全体を組み立てる、いわゆる公理からすべてを解釈すると言うあり方
ですよね。ですから、否定神学についても、何かの真理を
否定の中に隠し持っていると言う意味で、形而上学と言うのでは
ないでしょうか。ですから、私の解釈では、デリダは前期後期を
問わず、あくまで、語る私の絶対真理性を暴き避ける方法を模索した
と言えるのではないでしょうか。そして初期に理論的な脱構築を
後期には実践的なパフォーマティヴな脱構築へと進んでいた。
つまり、理論的な脱構築は論理をいくら脱構築しても、最大
何かを否定すると言う方法を取ったとしても、それは、否定神学
までであり、よって、後期に進んだ。私のコンテクストからは
こんな感じですね。ただ、最終的に、フロイトの転移によって、
終わる気がするんですが、どちらの無意識なのか不明と言う。
ようはそれだけかって気がしますよね。
780 :
パレルゴン:2008/07/30(水) 22:42:51 0
形而上学とは絶対的なもの・視点を確信し、その絶対視点から
ピラミッド状に組織化する事、あるいはその行為を指していると思います。
例えば、宗教はそれぞれの神を絶対者=真として位置づけて、そこから
否定しえない規範を作りますよね。また、デカルトは「コギト」によって
自分の思考=存在を絶対視し、そこから、世界を明確に知りうるとしま
すよね。また、フロイトは、人間の無意識を判明に分析できるセッション
を確認しますよね。そこから、患者の社会復帰を支える。
この点は私が精神分析学を批判しているのではなく、ポスト構造主義
初期には、この精神分析(社会復帰論)を批判的に捉えていた訳です。
つまり、形而上学とは疑いえないものから肯定・否定を通じて
論理をあるいは「私」=現前の唯一性を押し付ける事でしょうね。
ですから、否定神学にしても、それは否定する事で肯定する何かがある
と言う批判です。ですから、おそらく、亀井さんには不可解と思えるかも
知れませんが、最終的に東が転移に落ち着くのは、転移は語る者
が語ってはいないからです。だから、逃れえると言う事でしょう。
語る=現前=声からの逃走としての身振りだと言う事でしょう。
781 :
パレルゴン:2008/07/30(水) 22:53:57 0
それから、質問はクリプキの確定記述批判についてですよね。
つまり、東はクリプキも否定神学とします。その点は納得です。
ただしその理由に、最終的には確定記述出来るのだと言う風に
書いていませんでしたか?
私はそのように解釈して、出来ないのではないかと思った訳です。
むしろ、不可能性を述べる事が、否定神学的に隠された肯定と言う
意味では了解できますね。
782 :
考える名無しさん:2008/07/30(水) 23:07:54 0
「不立文字」って昔から言われてるだろう。
>>779-
>>781 大丈夫ですか?
失礼ながら、『存在論的、郵便的』とわたしの読書レスをちゃんと読んでから
書いていただけますか?東はクリプキの固有名論をジジェクの固有名論と差異化
して、否定進学システム成立以前の位相のものと書いています。つまり、現実と現実界
の差異です。東はクリプキの固有名論を否定神学としていない。
これはパレルゴンさんの読みがなってないだけです。
>ただしその理由に、最終的には確定記述出来るのだと言う風に
>書いていませんでしたか?
どこで?ページ指定してちゃんと書いてください。
784 :
パレルゴン:2008/07/31(木) 14:16:12 0
きつい言葉ですね。
1)クリプキの確定記述の不可能性については、24Pの多義性のところで
弁証法について「ひとつのテクストの全体性をその意味の真理へと再結集
させることを可能にする」と言うデリダの言明と、無限の解釈行為について
述べられていますよね。この辺を敷衍して、それでは、確定記述の不可能性
についても、完全に明らかになるある未来の時点が想定されると言う
解釈は出来ないのかと言ったまでです。(解釈行為と可能世界の類似点)
それでは、質問しますが、固有名の確定記述の不可能性と無限の解釈行為の
回収性(最終的な解釈数の終息)違いは何でしょう。
2)形而上学と否定神学の違いについて。
恐らく貴方は、136Pの要約から、「デリダは形而上学と否定神学、
超越論的シニフィエの体制と超越論的シニフィエ体制への二重の抵抗を
図っていた。」と言う文章から、ハイデガーで形而上学は終わったと
仰ったのですね。しかし、780で書いたように否定神学も形而上学的な
のです。東は二つの形而上学を区別する為に、便宜的に分けたのでしょう。
それが証拠に、116P4行目に、「その二重はしばしばデリダ自身によって、
形而上学から脱出した途端にまた形而上学に陥る閉域と表現されている。」
と言っていますよね。
いずれにしても、私は、相手を打倒するために哲学論議をしていません。
理解を共有する為であり、疑問点を教え合うように勧めようと思っていました。
ポスト構造主義が求めたもの、デリダが求めたものも、多義性・ですよね。
批判される前に先に言っておきますが、この場合の「多義性」は貴方の
信奉する東の「郵便的」に対する意味ではありません。
同時に多様な意味に開かれていると言う意味です。
ですから、成否を排他的に問いつめる行為こそ、形而上学的であることだと
思います。
785 :
パレルゴン:2008/07/31(木) 14:27:10 0
追加説明。
1)については、そのページを読んでいただければ解りますが、
「多義性はどれだけ豊かであろうとも、理念的にはいつか数え上げ
る事が出来る。」としています。この説明と、確定記述の不可能性
について、相違はどこだと言う事です。確定記述にしても
それは、多義性をコンテクスとラングの差によって与えられる
としていますね。このコンテクスト・ラングの違いが、確定記述
にも作用するのではないかと言う点が疑問点ですね。
恐らく東ファンのあなたなら、異なると一言で言うでしょうね。
固有名の確定記述にしても、新たな発見や記述内容の間違いは
複数の発見者によるコンテクストの差としても捉えられるでしょう。
786 :
パレルゴン:2008/07/31(木) 14:32:56 0
文章の訂正。
「多義性をコンテクストとラングの差・・・」の前の
「確定記述の不可能性にしても それは、」の文章は省いてください。
ここは、あくまで、多義性の説明です。
787 :
パレルゴン:2008/07/31(木) 14:41:29 0
それと、私は東の「存在論的郵便」の文章を一語一句間違いなく
理解し読もうとしているわけではありません。
多様なテクストがあり、そのような複数のテクストが術語を
創って、哲学の世界を開いているわけです。(間テクスト的に読む)
ですから、東のタームによる解釈をもって、東の郵便的を読んでは
いませんので、悪しからず。
788 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 16:55:12 0
784の「超越論的シニフィエの体制と超越論的シニフィアンの体制」
ですね。訂正です。
789 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 17:27:41 0
114P最後から4行目を見たら・・・・・?
「クリプキの議論が宿していた否定神学性は、ジジェクが加えた
この洗練によって、完成される。」
この文章で述べている事は、クリプキも否定神学であると言っていいのでは???
もっとしっかり読めよ!!!
断定せずに。
分った。
790 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 21:49:02 0
要するに郵便の時代は終わり宅配の時代になったということだ
まず、名前を統一していただきたいのですが。次に文章(と語句)を正確に。
>>784 1)いまだに質問意図と質問意義が不明瞭。質問という形ではなく、パレルゴンさんの
意見を直截的に書いてもらったほうが早いと思います。
2)これは単に表現の問題。東は「形而上学から脱出した途端にまた新たな形而上学的なもの
に陥る閉域と表現されている。」とでも言ったほうがベターだった。形而上学的なものとは
もちろん、クラインの壺を閉じてしまう思考方法。いずれにせよ、「超越論的シニフィエの
体制」と「超越論的シニフィアンの体制」を区別すればそれでよい。
>理解を共有する為であり、疑問点を教え合うように勧めようと思っていました。
なれ合いはやめておきましょう。パレルゴンさんとでは面白いとは思えない。
>>789 下品な書き方ですね。
>>707、
>>736あたりを再読してください。
792 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 22:30:29 0
私も亀井さんの哲学の姿勢や、レスのタイミングや対応については
納得できない気がしますね。私もこのスレッドでは多くの事を
書いてきましたが、貴方は私のレスを読んでいますか?
私には私の哲学のスタイルがありますので、別に貴方の読解を
追って行こうとは、全く思いませんよ。
突然、最初に、東「郵便的」をレスするように催促し、
それから、書き込まず無視し、突然、アメリカから帰国し、
面白かったと言い、そして、これも突然私が纏めると言い、
今度は反論意見をなんでも書いて、答えると言い、
質問・誤読を指摘されると、反対に質問の不備を指摘し、
「読みがなっていない」と言う。
789の書き込みについて、貴方はどのように思うのですか。
ミス・リーディングでしょう。私はそう思いますよ。
間違いを取り繕うばかり。
形而上学の定義についても、貴方は最初は全く解っていなかった。
形而上学はハイデガーの存在論で終わと言ったでしょう。
貴方は間違いの指摘、理解不足を、理由を付けてのがれる。(笑)
貴方こそ自分の言葉で書いてみたらどうでしょう。
きっと、理解していない面が多く見つかるでしょうね。
引用文が多く、まとめ(自分の文章)が極端に少ないのは、なぜでしょう。
過度に間違いを恐れるからでしょう。間違いを恐れない事こそが
哲学の理解には重要ですよ。いや、生きていく上で重要です。
まあ、私も、貴方と組んでもしょうがないと思いますよ。
私は今後とも、しろうとさんが私の為にたてたこのスレッドに
私の哲学を書いていこうと思います。
なるべく、関係のない様にしましょうね。
それでは、失礼!
バレルゴン壊れてる・・・
794 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 22:32:09 0
私も亀井さんの哲学の姿勢や、レスのタイミングや対応については
納得できない気がしますね。私もこのスレッドでは多くの事を
書いてきましたが、貴方は私のレスを読んでいますか?
私には私の哲学のスタイルがありますので、別に貴方の読解を
追って行こうとは、全く思いませんよ。
突然、最初に、東「郵便的」をレスするように催促し、
それから、書き込まず無視し、突然、アメリカから帰国し、
面白かったと言い、そして、これも突然私が纏めると言い、
今度は反論意見をなんでも書いて、答えると言い、
質問・誤読を指摘されると、反対に質問の不備を指摘し、
「読みがなっていない」と言う。
789の書き込みについて、貴方はどのように思うのですか。
ミス・リーディングでしょう。私はそう思いますよ。
間違いを取り繕うばかり。
形而上学の定義についても、貴方は最初は全く解っていなかった。
形而上学はハイデガーの存在論で終わと言ったでしょう。
貴方は間違いの指摘、理解不足を、理由を付けてのがれる。(笑)
貴方こそ自分の言葉で書いてみたらどうでしょう。
きっと、理解していない面が多く見つかるでしょうね。
引用文が多く、まとめ(自分の文章)が極端に少ないのは、なぜでしょう。
過度に間違いを恐れるからでしょう。間違いを恐れない事こそが
哲学の理解には重要ですよ。いや、生きていく上で重要です。
まあ、私も、貴方と組んでもしょうがないと思いますよ。
私は今後とも、しろうとさんが私の為にたてたこのスレッドに
私の哲学を書いていこうと思います。
なるべく、関係のない様にしましょうね。
それでは、失礼!
795 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 22:47:37 0
書き込みがダブってしまいました。PCの誤作動です。他意はありません。
そこで、亀井さんは
自分勝手な人間で、間違いを一切認めない、強引さが感じられますね。
パレルゴンの質問意見に対し、違う・書き方が悪い
と言い、それでは、と言う事で、東の「郵便的」からの引用による
「否定神学も形而上学である」や「クリプキは否定神学である」
との指摘にたいし、「そうですね」と言わずに、逆に自分の文章を
読め!とごねる。いやはや、貴方は人への批判は多いが、自分の行為
も全く失礼ですよ。もっと素直に認めるべきでしょうね。
自己中心的傲慢さが貴方のあり方でしょうね。
哲学以前の問題がありますよ。もっと優しく見つめてはどうでしょう。
失礼ですが、私もかれこれ300冊近くの哲学書は速読してますよ。
貴方に馬鹿にされるようなレヴェルではありませんよ。
たまにはひとのレスを読んでみては????(笑)
796 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 23:03:47 0
読書量が少ないので、東の郵便本でしか、術語を理解していないのでは?
だから、哲学タームにしても、全て東読みになっている。
だから、同じ術語でも、ニュアンスが異なる点がある事が、見えてこないんだろうね。
まあ、纏めるには纏めたが、逆に不安が増加するので、虚勢張ってる
って感じでしょう。
パレルゴンさん、サール化してますね。落ち着いてください。
わたしは取り繕ってないですよ。過度に間違いを恐れているわけでもないです。
『存在論的、郵便的』におけるクリプキの固有名論についての叙述は、最も
錯綜しているものの一つですから、ざっと読んだだけでは把握するのはなかなか
難しい。わたしも難しかった。クリプキの固有名論を否定神学と単純化してジジ
ェクと同じとしてしまうと、引用もまとめも楽にはなる。しかしそれだと、のち
の第四章において決定的な矛盾が出てきてしまうのです。
>>707→
>>736→
>>707という読み方をもう一度してみてください。
それと、前にも言ったように『存在論的、郵便的』はデリダの使用した隠喩を
追跡していく本ですから、ある意味退屈かもしれませんが、東のタームによる
解釈に徹底的に付き合うこと、著作を総体的に読むことが必要だと思います。
それが逆に東の思考圏の外部を逆照射することになることにもなる。
798 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 23:15:33 0
それは、貴方の考えでしょうね。
私はそうは思いませんよ。
わたしにとっては、クリプキが否定神学であると言う捉え方の方が
次の精神分析学への言及にとって解りやすいのですよ。
東もそう言ってるでしょう。それを貴方は私のレスに対しはっきりと
否定しているでしょう?それを今度は言いわけですか?
そう言うレトリックは別でやって下さい。哲学には不要ですよ。
だから、何度も言っているように、哲学のアプローチは一つではない。
わかりますか。ですから、読み方の多様性もあるわけです。
私は、東の一語一句を読もうとはしていない。多様なるセリーから
見つめる
これこそデリダ的でしょう。唯一の読解=排他性以外の何でもない。
それとも、形而上学批判を形而上学的に貴方はやるのですね。(笑)
>>798 >わたしにとっては、クリプキが否定神学であると言う捉え方の方が
>次の精神分析学への言及にとって解りやすいのですよ。
本気で言ってるんですか。それじゃなんでもありじゃないですか。
>東もそう言ってるでしょう。それを貴方は私のレスに対しはっきりと
>否定しているでしょう?それを今度は言いわけですか?
そもそも東はそう言ってない。これはちゃんと読まないとわからない。
>これこそデリダ的でしょう。唯一の読解=排他性以外の何でもない。
>それとも、形而上学批判を形而上学的に貴方はやるのですね。(笑)
論外ですね。
論外です
801 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 13:59:56 0
114Pの「クリプキの論議の宿していた否定神学」と言う東の記述
との比較で、783で貴方が「クリプキの固有名論が否定神学ではない。」
と言った事は間違いです。まず、それを認めましょうね。
それを、貴方は799で論外と言っているのでしょうか。(笑)
東が言っている事を否定して、それを論外と言うのなら、貴方の否定神学ではない
クリプキ論をレスしたらどうでしょう?
もっとも、貴方は「東は」と言う固有名をもって、クリプキは否定神学ではないと言っている
ので、貴方がここで否定神学ではないと言う説を述べても、それは既に
ミスリーディングであることをレトリックではのがれえないでしょう。
よって、まず、ミスを認めた方が良いでしょうね。
それと、否定神学についても形而上学を脱していない事を認めましょう。
哲学は言い逃れゲームではありません。
それと、この様な貴方の態度を見ていると、レス内容について、
引用文が多く、理解不十分ではないかと思えます。
それだけ言い張るならば、貴方が書いたところの理解度チェックしましょうか。
すでに、上述の二点については貴方がどう言おうと理解していなかった点です。
それは、認めますか?
認めなければ、貴方はレスしない方が良い。話をしても無意味ですし、
虚勢を張って自分の書いた事を守っているだけのヘ理屈屋さんに過ぎないでしょう。
どうでしょうか?まともに答えるように。
実際、形而上学・否定神学の術語を定義理解出来ています。
そこが不完全だから、全体の理解にほころびが生じるのでしょう。
それでは、さようなら・・・・・
802 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 14:00:55 0
114Pの「クリプキの論議の宿していた否定神学」と言う東の記述
との比較で、783で貴方が「クリプキの固有名論が否定神学ではない。」
と言った事は間違いです。まず、それを認めましょうね。
それを、貴方は799で論外と言っているのでしょうか。(笑)
東が言っている事を否定して、それを論外と言うのなら、貴方の否定神学ではない
クリプキ論をレスしたらどうでしょう?
もっとも、貴方は「東は」と言う固有名をもって、クリプキは否定神学ではないと言っている
ので、貴方がここで否定神学ではないと言う説を述べても、それは既に
ミスリーディングであることをレトリックではのがれえないでしょう。
よって、まず、ミスを認めた方が良いでしょうね。
それと、否定神学についても形而上学を脱していない事を認めましょう。
哲学は言い逃れゲームではありません。
それと、この様な貴方の態度を見ていると、レス内容について、
引用文が多く、理解不十分ではないかと思えます。
それだけ言い張るならば、貴方が書いたところの理解度チェックしましょうか。
すでに、上述の二点については貴方がどう言おうと理解していなかった点です。
それは、認めますか?
認めなければ、貴方はレスしない方が良い。話をしても無意味ですし、
虚勢を張って自分の書いた事を守っているだけのヘ理屈屋さんに過ぎないでしょう。
どうでしょうか?まともに答えるように。
実際、形而上学・否定神学の術語を定義理解出来ています。
そこが不完全だから、全体の理解にほころびが生じるのでしょう。
それでは、さようなら・・・・・
803 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 16:54:19 0
否定神学の意味が解っていないのでそう仰るのですよ。
まず、形而上学と呼ばれる哲学があり、それは、真理探究によって
真実は解明されると考えたり、コミュニケーションは発話内容を
そのまま伝達=受け手の理解可能と捉えている事で、余剰は皆無である。
それに対して、否定神学は余剰を認め、コミュニケーションは
発話内容の通り成立しないと考える。あるいは存在論的な空無=超越論的
シニフィアンがあり、そこに、象徴界では確定されないものがあるとも言える。
ところが、否定神学にはそのように確定しえないものがあると言う事を
確定して述べている。つまり、「しえない」否定的に何かを確定すると言う
コミュニケ―ションの成立、つまり、余剰の回収が隠されている。
だから、クリプキの固有名論についても、確定記述は出来ないと言う
確定をしていると言う意味で、否定神学なのだと言う事ですね。
解りましたか先生。
804 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 17:07:05 0
そこで、貴方の読みであるように、この不気味なものは複数あらねば
否定神学化する、あるいは、絶対に回収=確定されないためには
転移による無意識の交換、複数交換によって、それは、語る者=
意味の確定者を喪失させる事、ドゥルーズで言えば、「なること」
と言うタームにつながります。なることとは、「狼になる」であり
風になるであり、(これはノマドのタームでもあると思います。)
このなることは主体性を喪失しているのです。
ここに、ポスト構造主義の「主体性の批判」があるのですよ。
ですから、分裂症・皮膚・表皮・プリと言うタームは主体から
欲動へと言う、形而上学批判としての流と見てとることができるでしょう。
ですから、東のみの読みからは、この様な多様な間テクスト性としては
読めないでしょう。だから、細かな箇所の理解ばかりに固執し
ややもすると、排他的になってしまうのですよ。
相変わらずパレはしょうがないなぁ
806 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 17:24:17 0
その口調・・ぴかぁ〜だろう。
人の事はそれくらいにして、君のスレッドも混乱していそうじゃない?
強力な書き手現るでしょう。
でもさ、あいつを俺は某哲学HPで知ってるよ。
やつは、一般的な教養については書けるが、哲学は皆無だね。
だから、哲学を語れば沈黙でしたね。
もう一度だけ書きますね。そこは細かな箇所の理解どころではなく、決定的なものなので。
『存在論的、郵便的』114Pには、「クリプキの論議の宿していた否定神学」ではなく、「クリプキの論議の宿し
ていた否定神学性」とあります。まずここに注意してください。この記述の差異は、クリプキ固有名論が、ジジ
ェクによって完全に否定神学化される以前の位相にあることを言っています。クリプキが素朴な言語外的現実
を措定することと、ジジェクが現実界を措定することを区別しています。いわば、クリプキの場合、クラインの
管は壺の外を通る。超越論的シニフィアンは現実から到来する。ジジェクの場合、超越論的シニフィアンは現実
界から到来する。クラインの管は壺の中を通る。
キルケゴールを導入するとわかりやすい。キルケゴールにとってキリストは過去に現実に存在したありふれた
他者であり、だからこそ絶対に代替不可能な固有名であるわけです。キリストという固有名に宿る剰余Xによっ
て、キリスト教徒はいつでもキリストの前に立てる。だから、哲学によるキリスト教の包摂を企図したヘーゲル
体系に抵抗したわけですね。ジジェクの場合、象徴界の穴を塞ぐ蓋の機能を果たせば、キリストでもスターリン
でもモーニング娘でもなんでもいいわけです。ヘーゲルとラカン主義の親和性はいわずもがなですね。
このことをふまえて『存在論的、郵便的』244Pを読んでみてください。言い逃れをしているどころか、わたし
の意見が首尾一貫していることがわかっていただけると思います。
否定神学も形而上学のうち、というのは本気で理解できないです。おそらく、パレルゴンさんが「克服すべきも
の」(敵)をいっしょくたに「形而上学」と呼んでしまっているから起こる誤解だと思います。でもこの考え方は
遠近法的転倒(ニーチェ)をおこしています。形而上学批判も否定神学批判も原因ではなく、結果です。
感情的なレスはお互い忘れましょう。こちらもすみませんでした。このスレの書きこみは全部読んでいますよ。
他の人も何か書いていただけると幸いです。
808 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 22:10:42 0
私は、否定神学は形而上学の残存物を有しているのであり、あくまで
私の哲学的なコンテクストからは、形而上学の一種と考えます。
おそらく多くの哲学者もそう考えているでしょうね。
それよりも、貴方の言う「現実界」と「現実」の意味の差について
定義できますか?実は、貴方の説明には引用が多く、タームの説明がないんですね。
実際疑うわけではありませんが、実力を確認するために説明してはどうでしょう?
今後逐次説明を願いたいと思いますが?
809 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 22:11:31 0
神様 「就職するぞ!」
810 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 22:29:44 0
私のコンテクストからして、
超克すべき点が形而上学だから「形而上学」と述べたのでしょう。
竹田も「言語的思考へ・・・脱構築と現象学」の012Pに
「そもそも形而上学批判はポストモダン思想においてその基調を
なすモチーフであり、それはたとえば『真理の形而上学』『主体の
形而上学』『現前の形而上学』等々の批判・・・・」
と言っているのですよ。ですから、私の誤解ではなく、コンテクストの
差でしょうかね。
貴方が否定神を形而上学から分けて使う事は、それは貴方の哲学的なコンテクスト
である、東の郵便的読む時に分けて考えるべきだと東転移が起こったためで
しょうね。この問題はおそらく後世が答えを出すでしょう。
例えば惑星の問題である惑星と呼ばれていたものが突然取り消しなりましたよね。
この様に、新たな分節を加えるべきだと言う必要性によって、
否定神学は形而上学の亜流なのか、それとも、全然違うものなのかが
後世に決められるでしょう。だから、デリダも現状では形而上学のあとに新たな形而上学
と言う言い方になったのでしょう。
どうでしょうか。
811 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 22:48:05 0
244Pについては、ハイデガーの
「存在と時間」のターム「開示性」と「覚悟性」の関係を
「開く」と「閉じる」と説明し、現存在は開く事で閉じるとする。
つまり、人間の認識する世界の真っただ中に開いた穴が逆に
人間存在を閉じるかなめとなるとしていますね。
これは、精神分析学では原抑圧によって開いたキズであり、
象徴界参入する主体を表しています。いわゆる、エディプスコンプレックス
でしょう。すなわち、東はこの覚悟性=閉じるが開示性(開く)に
先行して言う事で、この開き、Daの穴はつねに管−円錐の閉鎖回路
になると言う事でしょう。
だから、開かれは回収され、否定神学的だと言う事でしょう。
それがどうかしました。
812 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 22:53:32 0
だから、このエディプスコンプレックスを多面的批判的に書いたのが
ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」だった。
つまり、ドゥルーズも否定神学を知っていて、この人間の空無=閉じた開かれ
を逃走しようとしたのでしょうね。
「現実界」とはラカンの用語です。想像界によってイメージ化、象徴界によって
分節化される以前の「世界」のこと。しかし現実界の上に想像界と象徴界
が層をなしているのではなく、ボロメオの輪のように相互補完的なものです。
カントの物自体のようなものと考えてもいいでしょう。観念論ですね。
「現実」とは、ここでは唯物論的な、もしくは経験論的な「日常世界」のこと
です。ラカンの考えにも他者がありますが、それは内在化されてしまいます。
対して唯物論においては他者は内在化不可能です。異物として外部に残り続ける。
東の「不可能なものの複数性」は当然ラカニアンから全否定されました。ラカニ
アンにとって「単一であること」と「思考不可能であること」は切り離せないわけ
です。これは観念論の思考パターンです。対して「不可能なものの複数性」は、
そもそもゲーデル的な世界事象の数え上げからしてすでに観念論的転倒をしている
と考え、唯物論的、経験論的立場から思考します。
814 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 22:56:40 0
就職しようね。
815 :
伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/01(金) 22:57:24 0
>>810 東に転移なんかしてませんよ。スレッドのタイトルが、存在論的、郵便的、だからです。
形而上学はなぜ超克すべきなんですか?ただアプリオリに言うんじゃなくて、理由を
書いてください。アウシュビッツを導いたとか、風が吹いたら桶屋みたいなのは無しですよ。
>>811 そこじゃなくて、244ページのはじめの五行。
817 :
伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/01(金) 23:08:45 0
そうなんだよな。
唯物論的、経験論的立場からの「複数性」は、超越論の単数性
(そもそも数えられないので単数でもないが)の批判になっていない。
同じことを言い換えているにすぎない。
すでによく言われてる郵便本批判だが。
818 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 23:12:42 0
なるほどね。
多少は分かった気がしますね。
ラカンは、現実界=物自体であり、決して解り得ないものであるが
そこに、開いた穴にシニフィアン連鎖が起こり、逆にその事によって
この空にすべてのシニフィアンの起源が固定される。
その事が超越論的な不可能なものの複数性を消失させている。
そして、あくまで内面的な説明であるので、観念論だと言う事。
一方クリプキは固有名の問題で、現実の世界での確定記述の
不可能性を指しているんで、観念論とは言わない、よって、
否定神学ではないと言う考え??
>>817 もちろん、ゼロ記号ですからね。でもゼロ記号の措定にしろ、構造主義の方法論にしろ、
世界Da全体を一気に把握することからすでに転倒している(エクリチュールを忘却している)
という観点から書かれた本なので、その類の郵便本批判はあまり意味ないですね。
820 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 23:22:40 0
想像界=自我、象徴界=超自我、現実界=エスとすると言う説は
現代思想の冒険者たちラカン福原泰平著参照でしょう。
想像界は鏡像段階、象徴界は去勢による言語習得、現実界はエスね。
ここは皆学ぼうね。
821 :
伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/01(金) 23:26:39 0
>>819 ん?逆でしょ。転倒を唯物論的、経験論的立場からの「複数性」に批判しても
意味がない。そもそもデリダ自身が唯物論的、経験論的立場でも、
複数性などと言っていない。
822 :
伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/01(金) 23:27:38 0
→そもそもデリダ自身が唯物論的、経験論的立場でもないし、
複数性などと言っていない。
>>818 正確には、「現実の世界」(脆弱なネットワークの中)においての確定記述の
(完全な羅列の)不可能性、ですね。たとえ理念的であっても不可能。
>>821 ちょっと意味がわからないんですけど。デリダは徹底的に唯物論的ですよ。
エクリチュールが物質的なものなら複数的、分割可能に決まってます。
だからラカンが形式化できなかったフロイトのテクストに着目するわけです。
824 :
伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/01(金) 23:34:39 0
そもそも東は、「不可能なものの複数性」を唯物論的、経験論的とは言って
いなかったような・・・しかし明らかにそのように思考しているというのが
郵便本の批判ポイントでは?
825 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 23:36:41 0
ぴかぁ〜。
もっと詳細に書きな。
短すぎるよ。
826 :
伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/01(金) 23:39:26 0
>>823 デリダは徹底的に唯物論的?
え!?なわけがない。
デリダ読んだことないな。自分でも形而上学と言ってるぞ。
郵便本の中でも引用されてるだろう、
「決してなかった過去」、「決して到来しない未来」
827 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 23:47:47 0
でも、ぴかぁ〜の意見にもあるように、ラカン的な内面的観念的なもの
への多様なものの回収とクリプキ的な不可能性である、現実の多様性・
無限性を固有名に回収できると考える点では同じでしょうとも言える気もするね。
ただし、クリプキを現実・物質性=物自体と考える時、その差は生まれるでしょうかね。
ものが何かは不明ですが、常に他者性として多様性にいつまでも開かれる訳でしょう。
828 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 00:00:53 0
クリプキ=固有名への確定記述は完全には出来ないに訂正だが、
固有名に含まれるとする出来事は現実であり、
物質性を有する。よって、固有名への回収の完了は
極端に不可能に近い。と言うのはカントの物自体の様に
永遠に知りつくせない・語りつくせないものであり、
かつ、永遠にあるからだ。
ラカン=人間の内部にいた原シニフィアンによる穴(超越論的シニフィアン)
は確定不可能だが、内在=観念論であり、観念である以上
不可能なものとして、了解されるので、否定神学的濃度が
クリプキの現実論よりも濃い。
このまとめでどうでしょう。
哲学はいろんなタームがあり、それも、哲学者によって意味が
多少異なるので、定義をしていかないと、砂上の空論と化しますよ。
こう言う作業こそが重要でしょうね。
こう書けばわかるでしょうか。クリプキは固有名に宿る剰余を命名儀式からの伝達と
とらえた。しかし彼は「命名儀式-伝達仮説」を現実的には示せず、否定神学的に
示せるのみとした。ジジェクはここにクリプキによる現実的な経路の抹消の不徹底さを見、
さらに洗練させ、固有名の剰余は現実からではなく現実界から来たのだから、神話的
説明は不要とした。
しかし、東は、クリプキの経路の抹消の不徹底さを洗練不足とは考えず、クリプキが、
「いまだ確定記述の完全な数え上げの理念的可能性を信じていたが故に、経路を末梢
出来ないことを自身の理論的曖昧さと考えてしまった」ことが誤りだったと指摘した。
830 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 00:17:01 0
そこで、前に質問した点ですが、この固有名の物質性=現実性による
回収不可能性と、郵便本の24Pの多義性の回収可能性について
述べてありますが、「多義性はどれだけそれが豊かであろうとも、理念的
にはいつか数え上げられる・・」と書いています。
このテクストの最終的な真理掌握と言う事が、固有名の確定記述についても
言いうるのかどうかと言う点ですね。これが、疑問点なわけです。
>>828 カントの物自体は唯物論的な「物質」ではないですよ。抽象的なものです。「現実界」に近い。
現実は、経験論的な、もっといえば素朴実在論的なものといってよいでしょう。
あと、ここではシニフィエなきシニフィアンのほうがいいでしょう。
というところで、おやすみなさい。
>>830 ヘーゲルならば、理念的にも現実的にも可能と答えるでしょう。
ラカン、ジジェクならば、理念的には可能と答えるでしょう。というか、理念的に可能
でなければ、ラカン体系そのものが成立しないですから。
833 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 00:27:06 0
ようは、伝達経路の多様性が現実世界にあり、だから、経路の末梢
から内面の現実界=空に問題点をすり替える事は、否定的な回収
になると言う事ね。セリー=経路の重層的なところが、否定神学を
回避できるヒントな訳でしょうかね。
>>833 多様性というより、脆弱性、非信頼性ですね。否定神学的回収は、教える-学ぶ関係を
消去転倒した話す-聞く関係、クワス理論を消去転倒したゲーデル的不完全性、を前提に
してしか成立しないということです。
本当に眠ります。おやすみなさい。
835 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 05:08:46 0
836 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 09:30:36 0
カントの物自体については、それは現実の物質性をもてない、
観念であると言う事でしようね。なるほど。
カントはこの概念によって
外の世界の現れを内的な先天的=超越論的感性・悟性形式に変えてしまっている。
勿論余剰は皆無であり、形而上学ですよね。
そこで、実践理性批判では、自由が窒息してしまう因果律(決定論)を超える
為に人間の側にも物自体性を持ち出してくる。
しかし物自体は自由を保証する事で自己言及的な空無を開くので、
ここに定言命法(汝〜すべし)と言うことで、この回収不可能性
を回収可能性にする。つまり、残余はなく。
形而上学として残留せざるを得ない。
こう言う事で、物自体は物質性ではない事ですね。
837 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 09:59:35 0
そこで、再度同じ点ですが、24Pの多義性についての説明に
「多義性は弁証法の地平のなかに組織され・・」とのデリダの
インタヴューを引用し、構造主義もこのように、最初に構造があり
それが記号(エクリチュール)の多義性を重層的に規定している。
つまり、最終的に回収されると言う事ですね。
この多義性の説明が、クリプキの固有名論=反確定記述主義
についても、最終的には可能である言えないのはなぜか?
と言う点についてはどうでしょう?
固有名も可能世界(訂正可能と新たなる事実の発見)によって、
書き加えや削除がありますが、この場合この変更が構造に
依存して行われると言う解釈にはならないのかと言う疑問です。
838 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 10:19:38 0
次に、ぴかぁ〜の質問にありました、
観念論的否定神学=ラカンの現実界=シニフィエなき超越論的シニフィアン
と、現実・物質性の亜流否定神学=クリプキの現実・物質性をもつ、固有名論
の比較で、それほどの違いが認められるのか、つまり、人間の認識は
どのような感覚も意識に最終的には内在性であり、意識は脳にあると言う意味では、
同じではないか?デリダは現前性=視覚=パロールをエクリチュール
の側から批判的にと言うか脱構築して、二項対立の解体を図ります。
その場合むしろ現前性=視覚の方が現実性・物質性を持っている気がします。
つまり、現実と言われる信憑性の形而上学への批判がデリダにあった
のではないかと言う気がしますよね。
むしろ、脱構築は現実も含めて、人間の作った言葉・概念・構造を問題にしている。
こんな気がしますが。そう考えるとき、ぴかぁ〜の言う、デリダは
唯物論者と言い切れるのかと言う疑問もわいてきますね。
839 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 10:22:46 0
最終的には、現実・物質性に依存する事になる??
おはようございます。
>>837 >>829と
>>834を再読してださい。
>>838 もうちょっと明確に書いてください。パースペクティブを広げて話をするのはぜんぜん
構わないんですが、その場合、言いだしっぺが論点を明確に説明することにしましょう。
質問には答えますが、さらに交通整理までこちらにやらせるのはちょっと不公平。
841 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 11:56:42 0
おはようございます。
朝から晩までレスの確認と書き込みではお互い疲れますので、
PC上での書き込み対話を夜9時から約2時間にしませんか。
あくまで提案です。
それから、折角ですので、ぴかぁ〜も参加ください。
838についての詳細はその時間帯にと言う事で了承ねがいたく。
842 :
伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/02(土) 16:26:47 0
>こんな気がしますが。そう考えるとき、ぴかぁ〜の言う、デリダは
>唯物論者と言い切れるのかと言う疑問もわいてきますね。
話にならん。「声と現象」ぐらい読んでこい。
843 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 16:43:16 0
A「他の連中の話に合わせて長文書くのがめんどいから逃げたとしか・・・」
B「ええ、そうです、きっとそうなんです。」
A「コミュニケーションが下手なんだよきっと」
B「そうですね。。。彼に求め過ぎてはいけないのかも。」
A「社会に出れずに一方通行、書きっ放しな掲示板に住み着くのも分かる気がするね」
B「そうです。まったくその通りなんです。困った事に。」
<戯れ>
845 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 21:41:56 0
823の亀井さんの言葉を受けて
826のぴかぁ〜の言った「デリダは唯物論的?」
という疑問に対して、838で、デリダを「唯物論的ではないのかも
知れませんね。」と言うい意味で838に書いたのですが、
簡単に言うと、ラカンが内的=観念論的に余剰を超越論的シニフィアン
に纏めたと言う事で現実・唯物的ではありえない。ここまでは良いですよね。
次に、クリプキについては、外・現実であるので事実・唯物的と言えるので
余剰を纏められない、無限の伝達ルートがありうる。
よって、これは、観念論ではない。
そして、この二つの差を敷衍して、私の想像ですが、亀井さんが言った
「デリダは唯物的」との発言が、より、クリプキ的な延長線上に
脱構築の在り方を説いていると言う事。
しかし、一方、デリダは周知の通り、純粋現前を批判していた。
つまり、現前とは目の前であり、世界を見出す物世界ではなかったか
と言う事です。ですから、脱構築は、現前=現実=物質と言えるとすれば
唯物的ではないのではないかと言うのが私の疑問なのですね。
ただし、現前が現実ではなく物質の事ではなければこの推論は間違いですね。
846 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 21:59:55 0
干からびたミミズに「無常」や「あはれ」、「はかなさ」が「現前」しうるのだが
それは、見る者に「心」があるかないかにもよる。
847 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 22:01:12 0
それと、第二の疑問として、
クリプキの外的な余剰について、確かに、確定記述は無限の加筆と
訂正にさらされ、エンドレスですが、この外の世界=物質世界を
認識するのも「私」と言う内部(観念)ではないか?
よって、エンドレスな余剰の認識はこの内部の「私」であり、
そうすると、ラカン(ジジェク)とクリプキともに、観念的である、
そのことから、むしろ、内・外(観念・現実(唯物))と言う二項
でデリダの思想を分節出来ないのではと思った訳です。
デリダの思想には形而上学の根底にある二項対立的なものを脱構築する
狙いがあったと言われていると言う事ですよね。
それと、言語=観念とすれば、言語は構造を構成し、その構造を脱構築する
と言う事は観念の脱構築こそが、デリダの狙いであった。
その脱構築は観念論ではないかと言う気もするのですがね。
逆に、観念を脱構築するために現実・唯物的と言う観念を超えたもの
を必要としたとも言えるんですね。
848 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/02(土) 22:04:04 0
それでも、実生活において構造主義を応用できない奴は
>>1-846な常識。
849 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 22:10:39 0
自問自答のようになりましたが、恐らく、亀井さんの仰った
「唯物的・現実」と言う見方の方が、説得力はありますね。
この物質性と言うタームの方が、回収不能のイメージには
マッチしますね。このイメージで捉えたから、実は、「物自体」と
間違ったのですが、この辺は、物質に他者性を感じますね。
物質は回収不能な経験と言う気もしますね。
良い説明ですね。そう思います。
850 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/02(土) 22:12:34 0
>物質は回収不能な経験と言う気もしますね。
国語力を超越した比喩だ。すげぇーーーーーーーーーっ。
干からびたミミズの場合、ミミズはもう一人の、「ありうべき私」でもあるが、
ここには主客の分裂ではなく、「未分」が感得されるのである。
852 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/02(土) 22:17:55 0
国語力を超越したスレだな。
>>851 それは何語だよ、バカか。wwww
853 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/02(土) 22:19:49 0
キチガイスレ、ばんざぁーーーーーーーい。
854 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 22:20:21 0
亀井さんの頭の回転の良さや理解力や纏める力の方が上ですよ。
私は斜め読みですから・・・
努力不足です・・・・
842のぴかぁ〜何を勘違いしているのだろう????
なぜ怒るのか???不思議だなお前???
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA
↑
馬鹿コテうぜえよ
>>845 現前が現実ではなく物質の事ではないので、その推論は間違いです。
第三章を再読していただくとよくわかるとおもうのですが、郵便、電話などの具体的
ネットワーク(物)は、「私が話すのを聞く」の自明性(現前の形而上学)が成立する
以前の位相においてすでにDaに接続されています。つまり「いま-ここ」の純粋性は
つねにすでに汚染されている。こんなとこでいいですか?
857 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/02(土) 22:27:01 0
>>855 ごめんね、マジレスしちゃってw。
適当馬鹿風味でに酔っといてねw。
ラプラス的天才はこれ以上レスしないからさw。
人間が認識する「世界」は結局「人間的」であって、「物質」といっても
それは「人間の認識」においての「物質」たらざるを得ない。
カントは「物自体」で「人間的認識」という「眼鏡」の届かぬ外部・原的な
ものを言おうとしたが、ヘーゲルは「全的な認識」において「物自体」は
明らかにされ、その神秘性を失うとした。
これはマルクス以降にも受け継がれたが、カントの真意とはズレがある。
859 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 22:37:04 0
でも、おそらくは、言語は物質性を有すると言う、ランボーの詩
に重要なヒントがあると言う事だろうね。
「物質性」こそが、ベンヤミンの「破壊」にも含まれるターム
かも知れない。おびただしい破壊による被造物を収集し、その
断片を新たに配置(コンステラシオン)、無限の配置=組み合わせに
よる、新たな無限の構造への組み合わせは、破壊されない被造物が
唯一の意味、全体の中の唯一の位置付けに安定していたとすれば、
破壊された部分=瓦礫は、物質と言う、回収不可能性を体現している。
だから、ベンヤミンに反して、瓦解によるアウラの喪失こそが、
物質性をもたらしていることになる。
よって、物質性こそが、回収不能と言う、可能世界を開く扉だった。
ちょっと、抽象的分析ですが、やはり、
「現実・唯物」というタームで回収不能な余剰を説明出来ると思います。
860 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 22:40:56 0
856了解しました。
書きながらそう思ってはいました。
>>858 >人間が認識する「世界」は結局「人間的」であって、「物質」といっても
>それは「人間の認識」においての「物質」たらざるを得ない。
そう! そこがまさにデリダが異議申し立てをする部分。「人間の認識においての物質」
という見方がすでに転倒しているということ。しかし、ヘーゲルが物自体を抽象の残り滓
として「全的な認識」においては消失するという道をマルクスは取らずに、あくまで物は
意識の外、意識の前にあり続けることを強調する。デリダの基本スタンスもそうです。
ただしデリダのマルクスへの態度は二重的です。デリダもマルクスにある弁証法の残滓
には否定的です。
862 :
パレルゴン:2008/08/02(土) 22:45:16 0
858
だから、カントもヘーゲルもドイツ観念論と言われるのですよ。
全て内部に位置付ける事で、外をなくした。
へーゲルは内部に外と内を置き、その弁証法的なスパイラルが
最終的に絶対知に到達するとしたんだね。
断片は、既に失われた環界にあって、どのように組み合わされても
かつてのアウラを取り戻すことが無いのは、復元された蒸気機関車に
レール無きがごときである。
>>859 詩的ですけど、それは非常によくわかりますよ。ダダによる言語の破壊とか、ビデオアート
は意識を迂回して無意識に直接接続されるとか。美術館などにおいてはとくに。
>>862 ヘーゲルは客観的精神と絶対精神を区別しているが、この意味は
絶対精神・絶対知は無限遠にある理念としての理念であって、
実は客観精神と絶対精神の間には、実は無限の隔たりがあるので
あるのである。
カントを簡単に観念論というのは「物自体」の解釈に依存する。
>>865 つまり、ヘーゲルにおける絶対精神は構成的なものではなく、統制的なものである
ということでしょうか?
867 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/02(土) 23:26:49 0
身内語は貧相だねw。
868 :
865:2008/08/02(土) 23:35:43 0
>>866 わかりませんが「統制的なものではないはずだ」というような気もします。
869 :
伏蔵 ◆p1AdJ397o. :2008/08/02(土) 23:41:00 0
>>854 >デリダは唯物論者と言い切れるのかと言う疑問もわいてきますね。
デリダが唯物論なわけがない。
というか、こんなことを改めて否定すること自分が恥ずかしいw
好きにやってください。では。
>>868 わかりました。面白いテーマだと思いますし、もっと敷衍してくだされば、おそらく
わたしもいろいろ聞きたいことが出てくると思いますが、スレのテーマとかなり違う
ほうにいってしまいそうなので、とりあえずこのへんで。
ではお休みなさい。
ぴかぁ〜って、毎度毎度、恥かくために出てきとるんかな?
みてて、可哀想になってくる。
872 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/03(日) 00:02:04 0
なんという、糞スレかw。
各々の脳内妄想で完結してるw。
873 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/03(日) 00:02:37 0
なんら、語らうことなく。w
874 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 00:19:31 0
ラプラスは中傷だけの無意味な発言を慎しみなさい。
>>869 の八つ当たりか?
(なぜ、いきなりラプラスに振ってきたんだ?)
>>874 ま、どうでもいいか・・・
876 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 01:06:41 0
バカが何を言っておるのか ?
>慎しみなさい。
ニートさんはそういうセリフ使わない方がよろしいのでは?(笑)
878 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 01:15:44 0
>>876 ふーん。
真理のほどはともかく、超自我やるんだったらハンドル位付けたらどうなのかね?
879 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 01:16:51 0
つ伏蔵 ◆p1AdJ397o
東方は燃えているかっ><
>>874 ↑
しかし、名無しのままで「牧師」にでもなったつもりなのかね。
このマヌケは
>>874 おーい。
出て来いよ
俺は誰にもバカ呼ばわりされる筋合いないんだからよ
詫び入れろや
場合によっちゃ許してやらんでもないから。
ちゃんとやっとけよマジで
確かに…
デリダは唯物論だ
徹底して
確定記述の余剰というのが、ちょっと?
確定記述って、固有名をつかわずに唯一の対象を指示することでしょう。
Q「大きな物語はなぜなくなったのですか?」
「大きな物語が今後復活しないのはなぜですか?」
「大きな物語の失調は証明できますか?」
「大きな物語の失調はどのようにして計測されますか?
またそれは科学的・統計学的に正しいですか?」
A「宮台と東と彼らが引用する外人が言ってたから」
886 :
パレルゴン:2008/08/03(日) 10:03:44 0
亀井さんの参画で、より高度な議論が進められています。
皆さんも、どんどん、疑問点・質問・意見を書いてくださいね。
そこで、矢張り、デリダの脱構築を理解するのは、物性と言いますか
唯物的と言いますか、そう言った「もの」の捉え方が重要である事が
解りました。つまり、この辺は強引に私見とて述べますと、
「もの」とは、デカルト的な外的物質世界ではない、むしろ語弊がある
かもしれませんが、ある意味でカントの「物自体」のような、捉えられない
「もの」であり、それを現実=経験するという事で、絶対に回収されない
余剰が生まれます。これはデリダの永遠のモチーフのひとつ、「他者性」へ
と繋がる発想だろうと言う事です。
「他者」とは永遠に回収されず、絶対他者の肯定「ウィ」、これを
デリダは私が他者に対して言う事への「ウィ」があり、
しかし、この「ウィ」は他者によって呼びかけられている「ウィ」
だと言っている。つまり、絶対他者は現前として掌握できない
余剰があるのだ。
デリダ論はこのくらいにして、既に884カウントですね。1000カウントで
倉入りとなりますので、重要な点は保存かコピーをして下さいね。
なんだか、総合司会か幹事か纏め役になってきましたが、そう言う人間も
必要でしょう。(笑)
887 :
パレルゴン:2008/08/03(日) 10:20:46 0
そこで、今後の展開ですが、もちろん、デリダ系への質問・応答
を進めつつですが、新たなポスト構造主義的アプローチを考えねば
なりません。つまり、ある哲学(ここではポストモダン)を理解
するには、ある著名な哲学者の考えを緻密に理解する事も重要ですが、
より多面的に探りを入れる必要があります。その事で、たとえば
コップを横から見るだけではなく、上・下から見つめる様に、
より重層的な知識が得られるのです。
つまり、ここのスレッドでは、デリダ(東)を除いてベンヤミン・
アドルノ・カフカ・ヘーゲル・柄谷・竹田などがそれに当たります。
こう言う意味から、次に、ある哲学者に絞ったレスをした方が良い
のではと言う気がします。または、誰とは決めず、ポストモダン的な
哲学書の適当な部分から、自分の理解を提案し、意見・追加説明・
疑問点を出し合って、理解を深めると言う方法もありますね。
とりあえず、1000カウントになるまで、適当に探って行きましょう。
誰でも好きなレスをしていただきたいと思います。
888 :
パレルゴン:2008/08/03(日) 10:26:09 0
他者へ言う事の「ウィ」は、他者の呼びかけへの「ウィ」に
先立たれてると言う事です。つまり、他者へのしもべなのです。
889 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 12:43:44 0
人間はシステムと環境の差異を乗り越えられない。
郵便本やデリダ思想から何が得られたのか、とりあえずそこから初めて欲しいですね。
おそらく何も無いでしょうね。
890 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 12:45:56 0
人の観察に対する観察、またその観察……これが延々と続くだけ。w
891 :
パレルゴン:
そうですね。
確かに、難解なデリダですが、それを読んで、理解し、
それがどうした?と言う事にならないようにしないといけませんね。
デリダとは構造の脱構築であり、その分析であったではいけな。
それで、現代社会にどのような意味を与えたのかと言う点を検証しないと
いけませんね。
現代におけるデリダの意味については例えば:
第一に構造による画一的な人間からの解放(郵便的な多義性による脱構築)
第二に他者への視線(帰属構造外存在者への温かいまなざし)
第三に西洋科学主義への警告
第四に西洋形而上学批判
こんな事を考えてみましたが、いかがでしょうか。
勿論書くだけでなく、実践が必要です。
どのような実践なのか??考えてみてください。