1 :
考える名無しさん:
かたれ
2 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 02:07:17 0
いい加減翻訳は卒業しようぜ?
何時までもママンの乳房吸ってるようじゃだめだぜ
3 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 02:10:00 0
翻訳は翻訳者のオナニー、または同人
4 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 02:17:01 0
例えば、果たしてプラトンのあの詩的な美しさを翻訳で
表現できるだろうか?ぜったいに出来ない。まだプラトンを読んでいない人は
絶対に翻訳は止めなさい。其れより古典ギリシアごを身につけるほうがよいです。
そしたらいったい何ヶ国語をマスターしないといけないのよ。
原書フェチはそろそろ卒業しろよ
翻訳が原文を100パーセント伝えられるわけじゃないけど、
でも取り残された部分がどのくらい重要かは、読む目的次第
だろ。プラトンの詩的な美しさとやらまで伝えられればいい
だろうが、それ抜きのプラトンの価値はゼロなのか? そんな
わけはない。
だいたい多くの人が自分の母語ですらまともに読めないのは
2ちゃんねる見てればわかること。おまえがギリシャ語読む
よりは、翻訳で読んだほうが伝わるものは多いと思うがね。
8 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 02:52:25 0
浅田彰の講義を受講するには
英語、ドイツ語、フランス語が完璧に出来なければいけないらしい
9 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 02:58:19 0
プラトンは文学でもあるから翻訳はカス
プラトンは文学
CLANNADは人生
11 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 09:27:16 O
研究者以外で古代ギリシア語ラテン語できるやつって、なんか逆にかわいそう。
ああ研究者になりたかったけどなれなかったのねって。
/ ,,-‐―、ヽヽヽヽ
〔/ ))))ヾヽヽ
/.,,,,、、 。,ヽξ\Ξ/
/ ==/ .,==- レi!
〔、 ,(_,、ノ( "",,ノ:: 6) ぁー忙し忙し
λ:" ‐へ‐^ン ...::::: |/ 寝る暇無し! プ(@粗
λ:::::. .::.. ::...::::::/
\::::::::::::::/
! ! i -<__ JAIAN _,`ゝ
! .l/ 〈. -=・=- -=・=-}-、
l !{ } ,ハ !f/
l !ヽ._ ノ ,‘,,-,,', .!ノ 研究者
! .! i.ヽ. ,'"-===-'; | そんなに儲かるんだ。
.l. ! /\ \;; `''';;;'''´;/ へぇ〜
.| |,/ヽ、`ヽ、`ー''ー'i´
,. -! !,'ニ二.`ヽ 、` ー ' {` ー- 、__
,. ´ ,l |/ニ二`、 `ヽ、、| ヽヽ { ` ー、
原書までさかのぼって読むほどの価値が見出せない。
少なくともプラトンの場合。日本語でも十分わかりやすい。
14 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 21:43:28 0
原書読めても馬鹿は馬鹿だけどなww
15 :
考える名無しさん:2008/03/17(月) 23:03:33 0
まあ、自分の苦労を価値あるものにしたいんだろ
そんなの誰でも当然だろ
18 :
考える名無しさん:2008/03/18(火) 10:48:42 O
安部コウボウは翻訳で充分、原書購読は不要と再三発言してたな。
自分の小説が外国語に翻訳されても何もかわらないともいってた。彼は文体に興味がなかったから。
19 :
考える名無しさん:2008/03/18(火) 10:52:49 O
古代ギリシャ語読んでる奴が人に本棚を見せる回数が多そうで嫌。
電車とかでも読んでそうで嫌。
原書厨って定期的に湧くね
ポモは文学であるから翻訳はカス
>>17 それが価値あるものだから苦労してでも獲得したのではなく、
苦労したから価値あるものなのか?欺瞞的だな。
己の労苦を基準に価値評価をするなら、そんな価値観に普遍性などない。
苦労して得るものが実際上の価値を持つものなのか
事前に十分に吟味できる人間なんてほんの一握り。
それらの一握りの人間しか評価されるのを許されず、
あとの人間はどんなに苦労しても評価されない、
そういったギスギスした「普遍性絶対主義社会」だからこそ
かえって創価やオウムのような価値評価の奇形を生み出す温床となる。
苦労したんだったらとりあえず評価しておこう、
それぐらいのことがなんでできないのか?
挙句の果ては苦労の存在そのものすらもみ消しにしようとする始末。
たぶん、みんなあまりにも苦労しすぎてるんだな。
それで人の苦労を労わることまで配慮が行き届かないんだな。南無。
どんなに苦労しても、その苦労によって得たものが
無価値なものだと思えば他人は評価しない。
たとえば小説を読むとき、いくら作者が頑張って書いたからって
面白くなかったら誰も読まないし買わないでしょ。
本人が苦労したことに満足するのは自由だけどね。
それだけのごく当たり前のことだ。
実際に価値あるものに対する評価と、苦労に対する評価とは分けて考えるべきだと思うんだ。
ただ苦労しただけでも評価して、そこに実際の価値があればなおのこと評価する。評価の段階わけ。
それらはひとえに人々の他者評価に対する余裕があってこそ叶えられるが、いまはない。
だからこそ
>>24みたいな言い分が当たり前のこととして受け入れられる。ただそれだけのことだ。
>>23 普遍性や理性的な賛同を求めなければいいだけだよ。
優しさを求めるだけなら別に構わないけどね。
というか論点ずれすぎ。
>>26 それもちがう。
普遍性や理性こそが人々の恒常的な苦労に目を向けることを期待する。
「人間はもともと評価されて然るべきなんだ」という判断が
あくまでも理性に基づいて為されるべきであると考える。
さもあらば、逆に口先だけの評価なんてものは必要ない。
普遍評価の通奏低音こそは、人々を真に満足させる肝心の要。
28 :
考える名無しさん:2008/03/18(火) 22:13:49 O
外国語の原書を読む苦労の価値? 十分にあると思います。
仮にその本に原書で読むほどの価値がなかったとしても、
読む価値がなかったということを学んだことに価値がある。
そのときは正直に「原書で読んだけど大したことなかったよ」と教えてくれればいい。
それと「原書を読んだけどすごかったよ」と教えるのとにいかほどの差があろうか?
王様の衣装を褒め称えるのも、王様は裸だと指摘するのも
王様の真価を見定める苦労が伴うことには変わりないのだから。
本人に原書の価値を見定めるほどの能力があるか否かについては
本人の「〜だから大したことなかった」とか「〜だからすごかった」とかいう
説明によって明らかになる。仮にそれらの説明が全くの的外れであり、
本人に価値判断の能力が欠けていたことが明らかになったとしても、
「君の苦労は認めるが、どうも君はちゃんとその本を評価できてない」と
冷静な判断の前に評価の一言を付け加える。それだけで判断を下された
本人のほうも相手に無益な反感を抱くことなくじっくりと考え直すことができる。
ただ「ダメだ」と判断を下すのと、「よく頑張ったね。でもダメだ」とちゃんと
前置きした上で判断を下すのとでは、そう変わらないようでいて雲泥の差がある。
後者には相手の一層の努力を促す思いやりがあるが、前者にはない。
思いやりがあるからこそ努力できる。
そんな当たり前のことをいまの日本人は忘れてしまっている。
仮に実際上の評価がどんなに酷いものであったとしても、
「よく頑張ったね」の一言で救われる人間がどれだけいることか。
そんな簡単なことも忘れてしまった今の日本人に明日はない。
頑張ったかどうか、わざわざ他人に認めさせる必要など無い
そいつが頑張った事は事実だし、それを本人以上に解る奴などいない
無論、俺は自分の努力を捨てたりしない
だが、努力の結果を潔く捨て去る勇気が求められていると思う
その勇気こそが、認められるべきなんだ
32 :
考える名無しさん:2008/03/19(水) 01:37:34 0
文学ならともかく学術書哲学書なら、原書で読むのは当然のような…。
ダメットやエーコなんかも最近の若い奴は語学が出来ないと嘆いているぞ。
というか、頑張った、苦労して読んだ、
という労力への評価以外に原書で読む価値は無いのか?w
それだけしかないんだったらついでに逆立ちしながら読むと
もっと苦労できて満足できるぞw
本を逆さにして読むのも良いかも。
そんなこと言ったら、西哲やるならギリシャ語・ラテン語読めて当然、
英仏独語は当然ってことになるぞ。
そこまでやり始めたら、哲学というよりは語学の領域
翻訳が本当にすばらしいのならなあ…。
哲学書の翻訳ってほとんど地雷だと思うんだが。
>>30 努力の結果を捨て去る勇気を育むためにこそ、日々日ごろの思いやりが大切だ。
「君は今までも頑張ってこれたんだ。だからこそこれからも頑張れる」
そのように言ってやれてこそ、相手もまた今までの努力を捨てて心機一転する気分になれる。
勇気は他者からの脅迫によってではなく、他者からの激励によってこそ初めて育まれる。
たとえ相手の努力の程が十分に把握できなかったとしても、それらの不明な努力に対する
激励が相手の勇気を育む糧となるならば、激励しないでいてそれでなんとしよう?
もちろん、並大抵の努力に対して必要以上の激励を送ることは“助長”になる。
だからこそ人々は互いを評価し、適当な激励を送る能力を身に付けることを一つの本分とする
のであって、他人を激励することを放棄することは即ち己の“不具”を自白することにも直結する。
あなたはそこまでも他人を認める能力に欠けているのか?
評価する能力があるにも関わらず、認める能力はない、そんなことがあるのだろうか?
あるいは人類がどこまでも努力し続けたとしても認められるに値しない悪相の塊ででもあるというのだろうか?
そうとは思えない。
人類は人類並みに努力している。それは人類の“狩る”とか“食べる”とか“犯す”とかいった
ある種の人々によって「原罪」と見なされている所業を埋め合わせるに十分なものである。
努力と幸福の差し引きを十二分に繰り返したなら、人類には余計なものも足りないものもなにもない。
余計なものを省くにはあまりにも不幸だし、足りないものを埋め合わせるにはあまりにも幸福だ。
だからこそ、他人の(原書を読む読まない等の)あり方にある程度は満足しろと言っている。
彼らは彼らなりに誠実なんだ。あなた自身が誠実であるのと同じように。
ただ誠実であるというだけでも十分に評価に値することなんだ。
>>33 冷静な評価は、あくまでも冷静な評価なんです。
労力への評価はそれとはまた別物です。
逆立ちしたり、本を逆さにしたりして読む労力が評価されると思うなら
すればよいでしょう。たぶんギネスブックあたりが評価してくれるはず。
世の中はどこまでもよくできているようです。
原書に手をだすかどうか、それを決めるために翻訳を読むってのもアリだろう
マジで気に入った本があれば、嫌でものめり込んでいくものさ
翻訳→原書→ヴァージョン違い→生原稿→著者本人の情報→遺品蒐集ってね
訳者の能力にも限界がある訳だし、翻訳時のエラーを防ぐには、原書を読んだ方がいいよね
だが、印刷時のエラーからは逃れられない!つまり、原書だって生原稿には敵わない
更に、著者の下らないこだわりのせいで記されなかったネタもあっただろう
それを調べるには、著者の生活の断片に接する必要が出て来るんだ
つまり、印刷の哲学書を読む馬鹿馬鹿しさ をこそ語れ
訳者の能力の限界を軽く突破できる語学力の持ち主が翻訳で何かを読むとしたらそれは馬鹿馬鹿しいよな
たしかに。
40 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 00:24:11 0
んm
41 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 00:38:04 0
翻訳で読むやつは頭のできが知れるよね
安っぽい ル・サンチマン を刺激されて 発狂 してしまった真性 白痴 が一匹おりますね。
キモッ。
43 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 01:23:21 0
プラトンの文は絶対に翻訳できないぽ^^
原書最高^^
翻訳で読む人はギリシアご出来ないんですね^^;
44 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 01:34:02 0
夜に原書でカントの純粋理性批判と実践理性批判を読むのが
私の楽しみです^^;
知的だと思いませんか?原書でカント全集を読んでいたら
間違いなくもてますよ^^;
わーすごいね(棒読み)
やるならサンスクリット語だな。それ以前に漢文だな。
ギリシャ語やドイツ語はもっと後。
英語も学術的にはあんまり使い道がない。
海外で異性を引っ掛けるためなら別として。
47 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 09:06:46 O
>>2 他人が考えて書いたものを読むという依存をするのなら、さらに他人に翻訳してもらったところで依存度はあまり変わらない。
48 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 11:16:23 0
原書読めても馬鹿は馬鹿だけどなww
こんなスレたててまで自分の優位を示したがる奴とか
49 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 14:04:55 0
原書ってなんか独特の良さがある。製本とか
50 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 14:13:26 0
翻訳って翻訳者のオナニーじゃないんですか?
51 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 14:18:57 0
逆じゃん。難解なセンズリファンターを
図解する。フランス人翻訳者(笑)
背に腹はかえられませんよ。仕事はゲームじゃないもの。(笑)
52 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 16:05:37 0
日本語で哲学する馬鹿馬鹿しさ
53 :
男根の象徴(笑):2008/03/22(土) 16:22:00 0
若干あるかもね。日本の法律用語は酷いもんね。
世紀を跨いだ訳がそのまんまだしね。
じゃ、フランス行けばいいじゃん
フランスで
センズリ(笑)
54 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 17:06:53 0
意外と翻訳養護派が多いな
55 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 20:45:56 O
研究者以外の人が原書読んでると不気味じゃないですか?
翻訳と解説書研究書よんでれば大きな誤読なんかしないはずなのに。
外国語能力というのはまだ翻訳されてない文献を読むために身につけるんだから。
>研究者以外の人が原書読んでると不気味じゃないですか?
んなこたーない
>外国語能力というのはまだ翻訳されてない文献を読むために身につけるんだから。
んなこたーない
57 :
考える名無しさん:2008/03/22(土) 21:33:27 0
56たんに同意
58 :
考える名無しさん:2008/03/23(日) 00:13:18 0
原書読めても馬鹿は馬鹿だけどなww
59 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 07:36:14 0
原書読めないとただそれだけで馬鹿と判定されるけどなhh
60 :
考える名無しさん:2008/03/25(火) 15:24:33 0
原書読めても馬鹿は馬鹿だけどなww
じゃあ原書読めて馬鹿のほうが恥ずかしいですね。
翻訳であれ原書であれ、哲学書を読むってのは馬鹿馬鹿しい事さ
>2
おっぱいを笑う者はおっぱいに泣くぞ!
>36
俺の努力も苦労も、俺だけのものだ!他人にくれてやる気はない
そして、
「お前の頑張りを私も知っているよ」
などと吐く事で他人の苦労を奪ってしまう事を恐れる
翻訳されれば意味を失う哲学、そこまで言語に依存した哲学
それは哲学ではなく、ただの言葉遊びであり
翻訳はもちろん、原書で読む価値さえ無いだろう
65 :
考える名無しさん:2008/04/01(火) 15:24:16 0
>>64 翻訳でも意味がないハイデガーの胡散臭さは
原書で読むとなおさらよくわかるね。
ヘーゲルはドイツ人にとってはそれほど難しくない、
というのは本当なのですか。
到底信じられないのですが。
>>63 努力や苦労を労りによって奪い合うだなんて考えがすでに人間不信の塊なのですよ。
他者への労りってのはそういうものじゃない。仮にその労りが他者の努力や苦労を
そぎ落とすような結果を招くとすれば、その労り自体が不完全である証拠なんだ。
「ぜんぜんだめだ」の一点張りが他者への労りに値しないのはもちろんとして、
「よくがんばった」の一点張りもまた他者への労りと呼ぶには値しない。
前者はただ相手を頭ごなしに叩き潰すだけであるし、後者はむしろ甘やかしといえる。
相手の努力や苦労に対して、適度な「よくがんばった」と適度な「でもだめだ」の
組み合わせにより完全に適当な評価を行った時、相手の努力や苦労は
叩き潰されることも助長されることもない最も適当な立場を得ることができ、
そのような他者への評価を「労り」と呼ぶ。
労りは、確かに難しい。一歩間違えば相手を甘やかし、あなたの言うとおり
かえって相手の努力や評価をそぎ落とす結果を招きかねない。しかしだからといって
他者への評価を疎かにし、ただ己の殻に引きこもると共に相手をも殻に引きこもらせる
結果となるならそれこそ現代における最も重大な病理の象徴といえるのではないか?
人間関係の最も理想とする姿は他者を頭ごなしに否定することでも、ただひたすら
肯定し続けることでもなく、相手の努力や苦労に対する適度な肯定と否定の
組み合わせとしての労りであるからには、それを恐れるほどに難しいと考えるのは
当然のことであるけれども、にも関わらず相手を労われるだけの勇気が
今の人々に求められているのではないだろうか?
68 :
考える名無しさん:2008/04/06(日) 23:02:39 0
「労り」って何と読むの?
いたわり
哲学書なんか原著だろうが訳本だろうが無意味だろw
71 :
考える名無しさん:2008/04/06(日) 23:57:01 0
>>66 難しくないよ。
おれ、ドイツ人だけどさ、あたりまえのことを
そのままの言葉で書いている感じだよ。
日本人は大変だろうさ。アウウヘーベンだの揚棄だの
止揚だの、日ごろ見たこともない言葉で読まされるんだから。
>71
翻訳で哲学書を読むのと、ドイツ語を習得するのと
どっちのが難しいんだろうな?
73 :
考える名無しさん:2008/04/09(水) 04:10:39 0
おれ、ドイツ人だけどさ、ドイツ語を習得するのも
翻訳で哲学書を読むのもどっちも難しいよ。
簡単なのはドイツ語の原書を読むことかな。
これならドイツ語を「習得」しなくても
訳本を脇に置いて一定の量をこなすだけで
なんとか読めるようになるし。
翻訳は解釈である。
新訳は翻訳の解釈でもある。
といっても辞典だって解釈の歴史みたいなものであるから翻訳が解釈だからといって翻訳を避け、辞典を贔屓にするのも仕方のないことよ。
つ独独辞典
いきなり独独を使いこなせるわけがない。
独和、独英、英和などに慣れ親しんで初めて使いこなせるようになる。
和を以て貴しとなすとはこのことだ。
気に入らないから、馬鹿馬鹿しいからといって和を退けること、これ即ち文盲を貴しとなすことである。
『なんどひとに騙されようとも、なんど痛い目をみようとも、結局は人間を信用しなければなにもできないではないか。
まったく人間を信用しないでなにかやるとすれば、山の中の洞窟にでも住んで眠るときにも片目をあけていなければならなくなる。
いずれにしろ、絶対安全な方法などというものはないのだ。
ただ生きていることそのこと自体、生命の危険につねにさらされていることではないか。
そして最後には、例外ない死が待っているのだ。』(夏への扉 ハインライン 福島正実訳)
西洋の学術書、文芸書には総じて常識というものが欠けている。
また常識を飛び越えて極端な一般論に飛躍していればいるほどもてはやされる傾向がある。
あたかも自分が神の視点に立てたかのごとく振舞えることが何よりも偉いことであると。
人間にそこまで一般的な視点など――世界征服でも目指さない限りは――必要のないものなのに。
まあね夏への扉は喜劇だな。 ふざけやがってるw
>>83 若禿が天才発明家なのはいいが、
シンデレラの王子様訳でもあるのがいただけないな。
翻訳語で西洋哲学まがいをやろうとする馬鹿馬鹿しさ
>>85 馬鹿が。
哲学が古代ギリシアから出て以来、哲学の言語は
皆、翻訳語だ。
88 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 05:44:07 0
言語で哲学する馬鹿馬鹿しさ
言語論的転回以後の哲学者なら
言語以外で哲学が出来ると思う馬鹿馬鹿しさ、と言うかなw
フィルターが自分の脳か他人の脳かってだけで
誤読可能性は両方とも同じ
そんなことはない。
他人の頭を経由して、さらに自分の頭に入るのか、
原文のコピーが直に自分の頭に入るのかではノイズの大きさが違う。
伝言ゲームでスタート近くの人は遠くの人より正確な文を知っているのと同様。
いや脳のスペックによってはそうとも言い切れないよ
伝言ゲームで様々なルートを通って来た答えを並べて
原文を推測する作業が今でも続けられている
既に自筆原稿は失われた
誤字、誤読、意図的な改竄、誤記と思われる箇所に対する善意の訂正を経て
今、我々の前にその本がある
原書は伝言ゲームの56人目、訳本は57人目
94 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 20:40:27 0
>原書は伝言ゲームの56人目、訳本は57人目
ええこというわー。
>93
何その半端な数字っ!
誰も、いなくなったな