【私】を記述してください。【私の存在性】 12

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9373時で1時:2008/03/24(月) 18:29:47 0
「無いものは無い」というのは、「無い袖は振れぬ」という意味にもなるし
「そもそも存在しないのだから、無いということなのだ」と相手に判断を迫る意味にもなる。
「在るような、無いような」とか「在るともいえるし、無いともいえる」とかだったら
単に「私には、断定しえない。分からないから、判断を先送りする」という意味にもなり、
「そもそもがこのようなものだと記述しえないものなのだ」という断定にもなるだろう。
さらにまた、「絶対的存在性は無い」「その程度のもの」というところをみると、
「存在してはいるが、変わりつつ存在するだけの存在」との意味にもなり、
「〈本来の私〉といったものは、否定しうる」と言っているようにも推測される。

「〈本来の・もともとの私〉といったものは無い」ということなら、俺も同感なのだが。
938考える名無しさん:2008/03/24(月) 18:38:46 0
私の存在は、現にそうあるので、疑えない。
私の存在は、物のように、あったりなかったりするということが考えられない。

そういう意味での私は、物のように、時間的・空間的に存在するとはいえない。

939考える名無しさん:2008/03/24(月) 20:41:46 0
>>938
私には身体はないの?
私の身体は物体では無いの?
私の身体は時間的・空間的に限定された存在では無いの?
940考える名無しさん:2008/03/24(月) 21:05:19 0
>>939
>>938は、 >そういう意味での  と限定をつけているだろ?

このスレの住人の一部を除いては、殆どが
≪『私』は、身体や諸条件に依存して、“そこに(→ここに)”顕れている≫
というスタンスだよ。
ごく一部を除いてはねw

また、そうした概念的(中核的)『私』を認めず、
総体的存在(身体や経験・記憶、周囲との関係から導かれるポジション等あらゆる要素を包括したもの)として
『私』を捉える人もいる。

結局問われるのは、「あなたはどう考えるんですか?」ということさw
941考える名無しさん:2008/03/24(月) 21:26:53 0
どのような意味でも時間・空間を離れて存在する物事は無いだろ。
限定をつける以前の事だね。
942考える名無しさん:2008/03/24(月) 21:35:08 0
>>941
『私』や「自我」が、≪自覚されて初めて存在しうるものならば≫
(自覚されている間は)、時間・空間問わず、問答無用で「ここに感じられる(存在する)」
と言える。 時間的にこの時はとか、空間的にここにはとか問う意味はない。
『ここに居る』し『居続ける』のだからw
943考える名無しさん:2008/03/24(月) 21:39:36 0
>>942
「いま・ここ」は時間・空間の原点だろ。
944考える名無しさん:2008/03/24(月) 21:50:17 0
>>943
主観的時間は停止することがある。

主観的空間は身体を媒介したときのみ生じるもの。
945考える名無しさん:2008/03/24(月) 22:09:57 0
「そのとき」私の思考は停止したw
946Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/03/24(月) 22:25:28 0
>>944
主観的時間の停止を客観に当てはめれば、排主観こそ時間の停止といえるのでは
ないか。
947唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/24(月) 23:46:24 0
>>885じいさんさん
縁起が絶対的でしょうか?
>>887最高位さん
何を特定しなければならないのでしょうか?
私が存在しなければ云々とありますが
唯識では「区別、差別するこころ」の働きに
それらを(私に限らず)五感と意のこころで認識し
それら総てを支えるこころにより成る
ということです。
「唯識(こころのみ)」ですから
総てはこころのみということです。
別の言い方をすれば「私」はこころの作用の一環です。
948哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 00:18:35 0
>>947
>何を特定しなければならないのでしょうか?

言うまでもなく
誰の心なのか という問題があるでしょう


>「唯識(こころのみ)」ですから
>総てはこころのみということです。

物質は無いの?(苦笑
949Wittgenstein教:2008/03/25(火) 00:57:36 0
>>947
横から失礼。
「心」が普遍的なものかどうかという議論はC.G.Jungの無意識に関する考え方などを思い起こさせます。

ユングによれば、我々には人類として普遍的で根源的な無意識が存在する(普遍的無意識)とのことです。
それに比べれば、フロイトの無意識は比較的浅いそれ(個人的無意識)にすぎないと。

なるほど。ユングは「心」という言葉を多く用いますが、こういった理論を心理学的に例えば臨床に応用することで、ある種の成功を収めているわけです。
つまり、「心」という皆よく分からないものを認めるものの、それには目的乃至は理論的な結果が付随していたということです。

何がいいたいかというと、(得体の知れない)「心」という言葉を用いるときはあなたがそれをどのような意味で用い、
べつの理論なり応用なりとどのように結びついているかがおのずと分かるように提示してもらえませんか?ということです。

いきなり「こころ」といわれても、ちょっと…
950唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/25(火) 01:28:52 0
>>948最高位さん
誰の心とありますが
根本的自我という意味で、区別、差別する働きがあるから
誰かれがあるのではないでしょうか?
認識における(表層意識)区別とはまた違うレベルです。
(もちろん関わっていますが)
物質(仏教でいう器世間)は阿頼耶識です。
>>949さん
最高位さんへの答えと被る部分もありますね。

唯識論を他に応用ですか・・・
とりあえず、といっては失礼ですが
理科の教科書にあるスケール図などどうでしょうか?
大は宇宙まで、小は素粒子まで繋がっている
という感じでしょうか。
951考える名無しさん:2008/03/25(火) 01:46:49 0
>>950
>誰の心とありますが
>根本的自我という意味で、区別、差別する働きがあるから
>誰かれがあるのではないでしょうか?

そういう考え方もあるけど、それだと、自分が現に生きている実感にそぐわないところがある。
自分が生きているという実感、かけがえのなさ、というものが薄められてしまう難点がある感じがする。
952哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 02:21:20 0
>>950
>根本的自我という意味で、区別、差別する働きがあるから
>誰かれがあるのではないでしょうか?

他と他が区別しあっていても、私が生じる事とは関係ないんですよ
まだ理解できませんか??

>物質(仏教でいう器世間)は阿頼耶識です。

物質は観念だ という事ですか?
客観ではないと
953唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/25(火) 02:53:16 0
>>951さん
仰る意味、理解できます。
>>952最高位さん
意味がお分かりになりませんか?
他を区別、差別する根本的自我に因って
認識、そして言葉によって「私」を仮に生じさせているのです。

物質が観念という問いですが
それは先にも言いました(他の方の言を借りて恐縮ですが)
「現実(外界はそれを見る心(内界)の鏡」 です。
954考える名無しさん:2008/03/25(火) 03:02:06 0
>>953
>他を区別、差別する根本的自我に因って
>認識、そして言葉によって「私」を仮に生じさせているのです。

「根本的自我」の意味がよくわからない。
唯識で「根本的自我」なんて言うの?
955哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 03:18:40 0
>>953
>意味がお分かりになりませんか?
>他を区別、差別する根本的自我に因って
>認識、そして言葉によって「私」を仮に生じさせているのです。

意味がわかってないのは、そっちですよ
私は唯識くんの勘違いを理解しています

>他を区別、差別する根本的自我

これは通常、他人の自我であって、私ではありません
何故に、唯識くんは存在したのか という問題です

本当に理解できないんですか??

>物質が観念という問いですが
>それは先にも言いました(他の方の言を借りて恐縮ですが)
>「現実(外界はそれを見る心(内界)の鏡」 です。

答えになってません

物質は客体として有るんですか?
それとも主観にすぎないのですか?
956考える名無しさん:2008/03/25(火) 03:43:17 0
>>955
>これは通常、他人の自我であって、私ではありません
>何故に、唯識くんは存在したのか という問題です

>本当に理解できないんですか??

そうだね。
阿頼耶識なんて言ってみても、それはしょせん、考えられたものにすぎない。
それを考えているのは?ということだろう・・・
957唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/25(火) 03:57:23 0
>>954さん
第七末那識です。
>>955最高位さん
>これは通常、他人の自我であって、私ではありません
意味不明です。最高位さんはただ単に私を主体にしたいだけでは?

>物質は客体として有るんですか?
>それとも主観にすぎないのですか?

これはなかなか面白い問いですね。
主観に過ぎませんが、その主観自体が縁起に因り無自性。
これを観念と呼べるかどうか疑問ですね。
有るか無いかではなく「空」ですね。
958考える名無しさん:2008/03/25(火) 04:01:46 0
「存在」という言葉を「物」と「私」とでごっちゃ混ぜに使用しているために、混乱が生じているように見える。

「私」については、「物」のように存在するとかしないとか論じるのは無理があるのではないか。

「私」は疑いようがない。現にそのようにあるのだから、それを、現にそのようにない、ということが考えられない。
「私」は、例えば調査によって時間的・空間的に「あったり」「なかったり」する物体のような在り方をしていない。
つまり、そのへんに転がっている石ころのように「存在」するものじゃない。
959考える名無しさん:2008/03/25(火) 04:10:00 0
>>957
>>これは通常、他人の自我であって、私ではありません
>意味不明です。最高位さんはただ単に私を主体にしたいだけでは?

ここで「意味不明です。最高位さんはただ単に私を主体にしたいだけでは?」と思っているのは、
紛れもなく【唯識 ◆Vidya0E1.s】さんであって、読む人それぞれが、違った風に思っている。
そこに人それぞれのかけがえのなさがあるわけですよね。

「私」は仮のものであって本当はないんだ、と主張しているのは誰なのか?
なぜ【唯識 ◆Vidya0E1.s】さんはそう思うのか?そう思いたいのか?
ということでしょうね・・・


唯識との関連で、「私」というものを基点として見ると、
阿頼耶識みたいなものが「私」を生み出していると考えれば、
「私」は、阿頼耶識に対して受動的なものとなり、そこからは、
何かを考え主張している「私」の能動性が出てこない。

仏教でも、「生かされて生きる」みたいな表現をよくするでしょう。
「生かされて」の部分で受動性を、「生きる」の部分で能動性を表現してるわけですよね。

「根本的自我」みたいに、「根本」を一つに決めつけることに問題があるように思います。
能動的な側面と受動的な側面の、二つの極があって、
その二つの極が交錯するところに「私」があるんだろうと思います。

960考える名無しさん:2008/03/25(火) 05:09:57 0
上で書いた能動性と受動性との二重性は、例えば、西田幾多郎の「我は、我ならずして、我なり」
という「矛盾的自己同一」にも現れています。
「我々の身体というものは歴史的に作られたものである、何処までも決定せられたものである。
しかしまた作るものである。作られたものと作るものとの矛盾的自己同一である。そこに我々の
自己というものがあるのである」(西田幾多郎『行為的直観』)。

このように「我ならずして」という否定的(受動的)契機と「我なり」という肯定的(能動的)契機がある。
禅で言えば、「自己」を否定的契機から見れば「自己をわするる」(道元)とか「無心」などの表現になり、
それを肯定的にいえば、「随所に主となれば立所皆真なり」(臨済録)のような表現になる。

961哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 05:30:00 0
>>957
>>これは通常、他人の自我であって、私ではありません
>意味不明です。最高位さんはただ単に私を主体にしたいだけでは?

どう意味がわかりませんか?
自我、心というのは、圧倒的に他人のものの方が多いでしょう
その中で、なぜ私なんてものが、いるのか という問題ですよ


>>物質は客体として有るんですか?
>>それとも主観にすぎないのですか?

>これはなかなか面白い問いですね。

はぁ??
大昔からある一般的な問いですが?
大丈夫ですか???


>主観に過ぎませんが、その主観自体が縁起に因り無自性。
>これを観念と呼べるかどうか疑問ですね。
>有るか無いかではなく「空」ですね。

物質は、>有るか無いかではなく「空」 ???
意味がわかりませんが・・・
「空」とは何ですか?
962じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:35:56 0
>>947 :唯識 ◆Vidya0E1.s :
>縁起が絶対的でしょうか?

貴方は絶対的存在だと言うかもしれないが、縁起は空性であります。
事象や自我の存在性は絶対的自生は無く、縁起による依存的存在や相対的存在と言う空性があると言う事です。
963じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:41:15 0
>>961 :哲学者最高位 ◆
>物質は、>有るか無いかではなく「空」 ???

横レスですが・・・・・・・・
貴方は物質の絶対的存在性を示す事は出来ますか?
現代物理学でも究極は素粒子どまりでしょう。
その存在証明の段階で「不確定性」と言うストップが掛かっているのではないですか?
例の機械さんは将来究極の存在真理が見つかると信じていますがね・・・・。

物質の絶対的(他に依存しない自立した)存在性を証明できない事・・・これが物質存在の空性です。

此処までは特に問題は無いんです。
この後の観念の問題なんです。
物質には実体は無い・・・それは判った。
しかし観念的な実体は在りうる・・・か否か・・是が問題なんです。

あなたは「「私」には絶対的存在性がある」と言うことなんでしょう?

唯識さんも多分同じなんですよ、意識の実体が基本なんでしょう。

観念「私」(意識)も空だというのが中観の思想で、所謂般若心経の思想です。
私(じいさん)は信心は無いのですが好きなんです。
964じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:41:43 0
>>961 :哲学者最高位 ◆
>物質は、>有るか無いかではなく「空」 ???

横レスですが・・・・・・・・
貴方は物質の絶対的存在性を示す事は出来ますか?
現代物理学でも究極は素粒子どまりでしょう。
その存在証明の段階で「不確定性」と言うストップが掛かっているのではないですか?
例の機械さんは将来究極の存在真理が見つかると信じていますがね・・・・。

物質の絶対的(他に依存しない自立した)存在性を証明できない事・・・これが物質存在の空性です。

此処までは特に問題は無いんです。
この後の観念の問題なんです。
物質には実体は無い・・・それは判った。
しかし観念的な実体は在りうる・・・か否か・・是が問題なんです。

あなたは「「私」には絶対的存在性がある」と言うことなんでしょう?

唯識さんも多分同じなんですよ、意識の実体が基本なんでしょう。

観念「私」(意識)も空だというのが中観の思想で、所謂般若心経の思想です。
私(じいさん)は信心は無いのですが好きなんです。
965じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:42:23 0
すいませんダブりました。
966考える名無しさん:2008/03/25(火) 16:43:42 0
>>964
またまた、トンデモ病が発症しちゃったよ・・・ じいさん、議論するなら
自論を前進させてくれるような相手を見極めろよぉw
967じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/03/25(火) 16:54:05 0
>>966 :考える名無しさん:
>自論を前進させてくれるような相手を見極めろよぉw

だって他は「名無し」ばかりなんだもん。
968考える名無しさん:2008/03/25(火) 16:59:53 0
>>961
>どう意味がわかりませんか?
>自我、心というのは、圧倒的に他人のものの方が多いでしょう
>その中で、なぜ私なんてものが、いるのか という問題ですよ

誰の問題なの?
969考える名無しさん:2008/03/25(火) 17:05:51 0
>>958
「私」がそういった意味である場合、
「他人」は「物」のように「存在」するのでしょうか?
970NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/25(火) 17:13:19 0
風船ですよそれか泡
VOID宇宙って言うでしょ
バブル経済とかね
人魚姫みたいに泡に過ぎないんですよ
971考える名無しさん:2008/03/25(火) 17:26:06 0
「私」が「私」を疑いようがなかったとしてもだ、
「私」以外にも「誰か」がいるのならば、
その『「私」ではない「誰か」』に「私」は疑われ得るのではないだろうか?

「私」が「私」を疑いようがない事は、
「誰も」が「私」を疑いようがないという事では断じてないだろう。
972考える名無しさん:2008/03/25(火) 17:46:39 0
>>958
「私」は、個人という存在だから
調査によって時間的・空間的に「あったり」「なかったり」する物体のような在り方もする場合がある。
雪山で遭難した人(私)とかは、そのへんに転がっている石ころのようにでもいいから
とにかく私の「存在」を発見して欲しいものじゃないかな?

雑踏の中では
そのへんに転がっている石ころのように無視される場合もあるしw


973考える名無しさん:2008/03/25(火) 18:21:57 0
>>969
>「他人」は「物」のように「存在」するのでしょうか?

「他人」は、あったりなかったりするという意味では、「物」のように扱い得る。


>>971
>その『「私」ではない「誰か」』に「私」は疑われ得るのではないだろうか?

誰かに存在を疑われている私と、ここでいう「私」とは異なる。
誰かに存在を疑われている私は、その疑いが成立しているということからして、
「現にこのようにある」という疑いようのなさが脱落している。
逆に、「現にこのようにある」という疑いようのなさがあるなら、それはもう「他人」とは言えない。

誰かに疑われている私は、現にこのようにある「私」ではなく、「他人」として扱われている私だ。


>>972
>「私」は、個人という存在だから
>調査によって時間的・空間的に「あったり」「なかったり」する物体のような在り方もする場合がある。

誰かの調査対象になっている私は、現にこのようにある「私」ではなく、「他人」として扱われている私だ。
974考える名無しさん:2008/03/25(火) 19:24:37 0
>>973
>「現にこのようにある」
>「他人」として扱われている私だ。

「私」は、客体視の結果。よく考えた方がよい。




975考える名無しさん:2008/03/25(火) 19:49:20 0
>>973
>誰かに存在を疑われている私と、ここでいう「私」とは異なる。

異なるのかどうかは「私」には判別し得ません。
「誰か」が「何か」を疑っているのかいないのか、
「私」には確かではないからです。
異なるかもしれないし、異ならないかもしれない。

>誰かに疑われている私は、現にこのようにある「私」ではなく、「他人」として扱われている私だ

それは「私」には確かではありません。
唯一確かなのはそう思っている「私」がいる事だけであって、
思っている内容はいくらでも疑えます。
976考える名無しさん:2008/03/25(火) 20:56:58 0
神秘 ...ハーモニー(八光玄律)  鈴木俊輔

一切の現象を作りあげているのは自分達の意識なのです。
本来宇宙に無であってもよいはずの自己は超奇跡の存在です。
我は両親から生まれ出でたというが、その誕生もまた確率的にゼロに近く
両親もまた……(略)……大宇宙に存在している自己とは正に超奇跡の存在なのです。
世界60億の人類はこの大宇宙に絶対的価値をもって出現したのです。
なんぴとたりとも地球進化の偉大なる役割を持って出現しているのです。
いま、私たちは現象を外に見るという物質史観の枠を越えて自らが神であり、
神としての意識が……(略)……に要求されているのであります。
深層の自己、それを良心ともいいまた「純正自己」ともいい
魂の内部に鎮座する大宇宙と一体となったハイヤーセルフであり「神我」であります。
神我は「意識と時間が物質を空間に創出する」ことを知り、
そこに確信という心の作用が現象誕生化の加速エネルギーであることを知る。
物質を外から眺め物質を積み重ね変容させる唯物の思想は、
偉大なる創造能力を持つ神としての自己の否定に近い。

ちょwwこれw ……
偶然こんなの発見したけどさ、
最高位さん。どうよ、これ。


977哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 22:35:14 0
>>976
どうよって、、宗教じゃんか(苦笑
そんなのも見分けがつかんのか?キミは

というか
そんなのを偶然に発見するのがスゴイな
しかし、あるていど読まないと発見できんだろ
偶然になんて、発見しようがないと思うが(爆笑

そういうのに興味あるんだねキミ
978考える名無しさん:2008/03/25(火) 22:41:57 0
>>977
魂の内部に鎮座する大宇宙・・・というのが気に入ったぞーーーw

鎮座だってさw
979考える名無しさん:2008/03/25(火) 22:49:16 0
宗教というより、神秘主義だろ、これ。
980哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/03/25(火) 23:23:40 0
>>978
信じれるものができて、よかったね(笑

>>979
どーして?
981考える名無しさん:2008/03/26(水) 00:11:47 0
精神の内部に鎮座する「神我」は聖なるものだから崇めよ?
982唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/03/26(水) 00:17:18 0
どうも最高位さんは理解していて
理解してない振りをされているように思えます。
要するに「私」が存在するためには「他」が必要という
強引な言い方でもよろしいでしょう。
>>959さん
仰りたいことはわかりますよ。
しかし能動的と言われるものが
果たして受動的なものから離れることが出来るでしょうか?
(これは決定論にも関係しそうですが)

「生かされてい生きる」
当にその通りです。

唯識ではそのように「生かされて」、「他に依って」成り立っている
独立して存在はしない。独立して有ると観るのは迷妄ということです。

かけがえのないもの(仏性)を自らに認めるならば
他にも同等に認める。これが大乗仏教だと思います。

>>976は金剛乗仏教そのままですね。
983考える名無しさん:2008/03/26(水) 00:23:57 0
最高位の主張と見分けがつかんw
どちらも宗教に見える
984考える名無しさん:2008/03/26(水) 00:24:43 0
ふーん そうか 金剛乗仏教というのは
偉大なる創造能力を持つ神としての自己というのを信じるわけだ。
唯識さん ども
985考える名無しさん:2008/03/26(水) 00:29:16 0
偉大なる創造能力を持つ奇跡の大宇宙…の一部としての自己を信じまつ。
986唯識 ◆Vidya0E1.s
>>983さん
最高位さんご自身はお気づきでなくとも
参照されたり読まれた書籍の著者がそれに近い思想
或いは、実際にこういう哲学(インド哲学、東洋思想等)を学ばれたのでは?
>>984さん
一歩誤れば某テロ教団と同じです。
くれぐれも人の身で凡夫であることをお忘れなく。