◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない119◆

このエントリーをはてなブックマークに追加
819考える名無しさん
俺が書いたもの>>2を、新スレが立つたびにコピペするのはもう止めてほしい。
俺としては学問的な話がしたかったのだけど、ここには人生論しか関心がない者が多いことが判ったし、
雑談したいだけの人が集まってきて、哲学的議論をしない板だと判って失望している。
このような知的好奇心もなく、知愛の精神もない人達が、チャット感覚で書き込むので、
よい問題提起があっても流されて、議論できる状態とはなっていないのだ。
もうここには来ないようにしようと思っているので、俺の書いた2をコピペするのは止めてほしい。
そして、去る前に、俺が述べた決定論について誤解があるようなので、改めて補足説明しておきたい。

決定論的な思想の源流は古代ギリシャの「動者」説に遡及できると思うが、
本来の意味での、決定論という語が注目されるようになったのは、近代になってニュートン力学が確立してからだ。
ラグランジュやハミルトンが力学の体系を整え、ヘルムホルツがエネルギーを力学へ等価に置換できるとして、
エネルギー保存の法則を立て、万物を力学に還元して表す、力学還元主義という科学思想を生んだのだが、
これが近代の決定論の端緒となっているので、キリスト教の予定説と混同して非難するのは間違いなのだ。

その後、科学哲学の研究が発展するに伴って、全体系を決定論的に論じることはなくなったが、
科学批判の受けて反省し、現代で決定論という語を論文中に使う場合は、閉鎖系に対してや
範囲を厳しく決めて、「一年後の惑星の公転位置は、決定している」などと、
因果関係を強調する比喩的表現として、「決定論、または決定論的」と使うにとどまっている。
820考える名無しさん:2008/03/08(土) 20:07:13 0
いずれにせよ、この語を使う場合は、物理学上の理論であって、範囲を決めて使うのが正しく、
一般社会に対して日常生活に対して、決定論というのは避けるのが無難である。
日常生活に無理に援用しようとしても、「人間は死ぬ」と言明するのが精一杯であるし、
今、危篤状態に陥っている人も、今日死ぬか明日死ぬかは本人でさえ確認できないのであるから、不可知となってしまい、
「人は死ぬことが決定しているが、死亡時期は本人でさえ不可知である」としかいえず、この言明は
あまりにも当然のことであるので、意味のある言明とも思えないのだ。
こように、宇宙論や全体系に対してや、日常生活に決定論と述べようとすると、
不可知とセットにして論じなければならなくなり、不可知の乱用は意味のある言明とはいえなくなってしまうだろう。

仏教の縁起論と決定論の類似性についても誤解があるようだ。俺が述べたのは「どちらかといえば縁起論に『近い』」
(閉鎖系や局所的などの場合)ということであって、縁起と決定論が完全に一致するとは述べていない。
因果性を全否定すれば、龍樹の縁起論の因果性も否定されるのであるけども、因果だけが縁起論の全てではない。
あくまでも類似点があると述べているのである。

ここに来たのは一年ぐらい前からだが、俺は科学主義的立場に立っているので、機械君と意見が一致することもあり、
彼が失言したときのフォローや、彼にとって参考になりそうな意見を書き込んでいた。
ロックやバークリーなどの認識論を挙げて、最高位に対する反論もかなりしてきた。
しかしながら、機械君はあいかわらず科学理論を誤解しており、あまりにも失言が多すぎて、庇いきれなくなってしまった。
擁護レスなどしているうちに、自演といわれるようになってしまったが、俺と機械は別人であることを明言しておきたい。
そして、何でも自演と決めつける人には閉口している。いままでの俺の投稿は長文ばかりであるし、文体も一定なので判りやすいと思うが、
俺と機械は別人であることを表明して、このスレから去っていこう。