1 :
考える名無しさん :
2008/02/23(土) 23:33:58 0
r、__ ト、,'⌒/7ヽ┘'<i\/L-、,___ /| /:/ヽ!::|_」ヽ-ァ'_,,..,__ `´ ロ└、_ /i __ / | 〈::::! r「>''" `ヽ、.,__ ロ i>、/::::__i/:::| `'ー-‐''" ヽ、_ i .ノヽ|/ / / / `ヽ.  ̄|/:::/」//i| / ト^Y/ / /i i ; ヽ、/::/´ `ヽ./ か っ | | 〈! ,' /ヽ!、_ハ /! / i Yi', ヽ. i ァ て も. | .! ノヘ.! /,ゝ='、,/ | / | _ハ_ | ! l ', i | 約 . う ヽ ,. --,rく`"'ー'<ニ|o/〈 i'´ r! レ'`ァ;=!ニ__ i ,' ハ | i | 束 糞 > i'二'/ i| ノ. |/,,, ひ'ー' i r'; Yレ'i 〈 Y', ハ | .し. ス / .{‐-:!_,ハ.| _/ ,ヘi7 ' ヽ- '_ノ o 。_,.ゝ/i /',..i | た. レ | `"'T´:::| ! ./ニヘ. i7´ ̄`ヽ. U "/|/ ,イ ,ハ ,' i. | じ .は |, '、_/_,.-'"レ'レ' ! !へ. !' | _,.ィ / イ .ノ' , '! ハ/ヽ! ッ .ゃ. 立 | ヽ、Yレ'7> 、.,___,,.' r'´/ `ヽ./ / レ' ,i ! ! な. て .', r-、!:::}_レ'´i\,、!イ/ Y ,. '. い. な ヽ、 __,,.. -‐ノ ハ::::/`7i::::ヽ、_r _ハ、_,,.. < _____ 彡 で い / \,_____`;rく rく / ハ::::::::ト、 _,r' '" ̄7'´ 〉ー、_ゝ, す / _r-‐='ト、 ヽサ二7」ー-<フ>r、 i /i__/ / /'〉| 〈 __,.r-''":r´く `''ァー- :: 、.,___,.イ::::ヽく `ヽ、 ト、,_>-'、-'´i | ,.:'⌒ヽ rン::::__;;;::::!-''"`''ァ^ー--r-、__ハ、____/::ハヽ、_Yi ト、:::::::::::::::7/
3 :
基本事項 :2008/02/24(日) 03:40:01 0
1. クオリアは茂木が考え出した概念ではありません。 2. クオリアは魂のことではありません。 3. 議論する前にウィキペディアの項目ぐらいは軽く目を通しましょう。
4 :
基本事項 :2008/02/24(日) 03:48:15 0
4. クオリアとは何か、現在の科学では全く解明されていません。 5. 今わかっている事は、未来永劫解決される事はないだろう、という事だけです。 6. もし解決できたらノーベル賞とれるかもしれません。
>>5 いや、5も正しい。現在までの人間が行ってきた「何が正しいのか」を探る方法ではクオリアのなんたるかを探る事が出来ない。
つまり現状では「どうやって探ったらいいのか」すらわかってない。ゆえに未来永劫解決される可能性が無い、としかいえない。
>>6 いや、それはそう考える人もいる、というだけであって、まとめに前提として組み入れるべき項目じゃない。
ちなみに厳しくは4もおかしい。解決されてない問題なんて何もない、って人もいるんだからな。
自説の範囲からだけ見たまとめを作るのはやめれ。
>>7 では「解決された答え」「このような手段で解決できる」というものを提示してください。
提示が無い以上、
>>4 の4〜6のように扱わざるをえません。
またあのバカか。マッギンの主張は心の哲学の世界でも有名だが、よくある反応は次の通りだ。 「まだ問題の解決に対して匙を投げるほど私達は意識について理解していない。だから悲観論に陥るのはまだ早い」というものだ。
10 :
考える名無しさん :2008/02/24(日) 04:16:16 0
>>9 要するに現状じゃまだ何もわかってない、って事だよ。
それを悲観する必要も無い、という事。
クオリアは記述及び言語化出来ない。
13 :
考える名無しさん :2008/02/24(日) 04:22:13 0
>>12 「クオリアについては何もわかっていないし、今まで人間がやってきた分析手法ではわかるアテすらない」
これを否定できるだけでもノーベル賞モノだぞ。
出来るなら是非やってみせてくれ。煽りじゃなく、本当に見てみたい。
>>13 あげんな基地外。そういう否定はもう何度も何度も論文や書籍の形で発表されてるわ、ヴォケが。
>>その2の996 >どいつもこいつも嘘つきだったとしたら? おそらく、同じリンゴに対する発言にばらつきがでるでしょう。
>>3 2が否定神学みたいになってるんだが、どうにかならんのかいな。
不可知論の亜種みたいだ。
形式とは違うことを言いたいなら、本質的な書き方をしないと
結局は形式の延長線の上に居座ることになるよ。
>>3-4 みたいな適当な「基本事項」を作るくらいだったら、
もうちょっとちゃんとしたリファレンスを何か挙げられないかな。
18 :
考える名無しさん :2008/02/24(日) 21:34:01 0
こういう荒らしを排除できないのが2chの限界だな。
>>18 俺はクオリアについてはまだよく分からない立場だから、
ここで一生懸命議論してる人達が何に依拠してるのか教えてくれたら、
まずそれを勉強するところから入るわ。
ウィキペディアでも「心の哲学」のリファレンスなんかは結構充実してるよね。
ウィキペディアを例に上げる神経ってのが、ちょっと首を傾げるんだが・・・。 あんなもん恥ずかしくて引用に使えないよ。誰が執筆したのかも不明確な幽霊記事だもの。
22 :
考える名無しさん :2008/02/25(月) 12:22:28 0
>>21 >誰が執筆したのかも不明確な幽霊記事だもの。
そうかな?だったらなぜ匿名でこんなレスしてるの?
誰が言ったかの問題ではなく何を言ってるかの内容次第だろ。
ウィキの間違った記事は結構淘汰されてる。
>>21 ウィキペディアの本文じゃなくて、末尾の参考文献・リンク集が分かりやすかった。
24 :
考える名無しさん :2008/02/25(月) 15:55:13 0
>>21 ウィキペディアは信用に足らないというのは構わないけど、
それならそれで「〜くらい読め、話はそれからだ」というものを示してほしい。
前スレではそれがないせいでgdgdになっているように見えた。
心なんて一般的なものは見たこともないのに、なぜそんなものが一般的に―私にもあなたにも 彼にも彼女にも―あると信じられてしまっているのか、それがまずは、問題じゃないですか。なんと いってもそこがまず不思議じゃないですか。なぜそこに問題を感じないのでしょうか。そして次に、 物とか物質って、そもそも何ですか?脳だって結局は誰かに知覚されて脳だとわかるわけ でしょ?脳とそれが作り出す意識との関係が論じられる以前に、知覚される脳と物体としての 脳の関係がまずは論じられなければならないのではないでしょうか。そういう問題がすっ飛ば されて、そのうえで心と脳(という物体)の関係はどうなっているか、なんて論じられたって、 砂上の楼閣、空中戦、私には問いの意味そのものがわかりません。問いの意味そのものに 到達することができません。 何となく面白がって引用してみた。意味はあるつもり。
もちろん、ウィキペディアには正しい事は書いてあるよ、そして間違った事も書いてある。
自分の知っている分野なら「あってるな」「ここは違うみたいだ」と、余裕を持ちながら
閲覧できるのだが、知らない分野だと「これ、本当に合ってるの?」
と、いった具合に不安になりながら読んでる。
2chは掲示板だから、最初から鵜呑みにすることはないけどね。
>>23 同意。リンク先を読んだ方が安心できる。
>>26 永井の『なぜ意識は実在しないのか』だね。
本当の意味でクオリアという概念が要請されるのは
そういった局面なんだろうね。
29 :
考える名無しさん :2008/02/26(火) 20:38:04 O
ある脳科学者の本は、(まだ全然読み進んでないんだけど)問題提起からして意味不明だった。 「脳の中に、様々な感覚を一つにまとめ上げる組織や機能があるはずだ、という神秘主義的な 主張がある。そのような神秘的なものは存在しないことを示す。」みたいな書き出しになっていた。 いや、そもそも、誰かそんなことを主張してるのか?と思った。詳しくは知らないけど。 個人的に疑問なのが、現場の脳科学者(あるいは哲学者も)たちは、自分たちの研究対象を何だと 理解してるんだろうか、ということ。割り切って、脳などの観測可能な物体と、人の発言や行動 などの同様に観測可能なこととの関係のみを、研究してるんだろうか。それとも、みんな素朴に、 自分と同じような心が人間全員にあると思って、疑いを持たずに研究してるんだろうか。(それに したって、何をどう観測・研究してることになるのか?)あるいは他に何か理解のしようがあるだろうか。 いや、自分も入門書みたいなのをいくつか見てみただけなんだけど、こういうことは本当に 何も書いてなかったので。
30 :
考える名無しさん :2008/02/26(火) 20:56:21 0
それは機械であると、工学ですね。 ちなみに、海外では脳とケーブルを使って実験が行われているが、情報伝達の精度が悪くて 役に立たないので、やめてしまったそうです。 脳に情報を伝達するのはあんまり珍しいものでないようです。 クオリアといいますので、宗教画を送りつけて信仰心を生じさせるというものですかね。 それがもっと彼の深い部分に影響を与えようとすると、洗脳技術ですね。 洗脳はやめましょう。洗脳したいとしても、精神を作り替えようとするのですから、何を植え つけるつもりなのでしょう。 そういう仕事は教育が各人にしてますね。 工学でも、あまりメリットがないんじゃないですかね。視覚的・聴覚的な感覚を喚起させた り、記憶を想起させるに過ぎないのでしょ。
>>29 そりゃそうだよ。
脳科学者なんてべつに哲学的に考えているわけじゃなく、
非常に素朴に考えているんだろう。
>>31 脳科学者はそんなもんなんですかね。ある本には、「私と他人の神経組織は類似しているのだから、
他人が私と類似した意識を持っていると推測してよいだろう」くらいのことだけ書いてあった。
ついでに、「コウモリは神経組織がかなり違うので、意識の推測も難しいだろう」みたいな
ことも書いてあったけど、では例えば類人猿だったら、なんぼか推測できるのかねえ?あるいは、
犬やライオンだったらどうなるんだろうか。
>>32 障害などで身体器官の一部が機能しないと、それによって脳の中の使われ方も変わるらしい。
逆に、動かなかった指を手術で動くようにすると、その指を動かすための部署が脳の中にできるそうだ。
人工的に6本目の指をくっつけられるとしたら、きっと同じことが起こるだろう。
人間が大体同じような意識を持っているのも、みんな大体同じような
身体のデザインを持っているからだ、と言えそうな気がする。
34 :
考える名無しさん :2008/02/27(水) 09:26:15 0
>障害などで身体器官の一部が機能しないと、それによって脳の中の使われ方も変わるらしい。 いわゆる大脳皮質の神経細胞間の接続の可塑性だね。神経細胞はどれも似たような構造だから どれでも機能を代替可能になっている。つなぎ方次第ということだね。 外部からの感覚刺激に対応して自分で組織構造を変えられる可塑性が有るということ。
35 :
32 :2008/02/27(水) 14:39:47 O
>>33 いや、そもそも、神経組織(それ以外の身体も含めて構わないと思う)が類似しているからって、
同じような心を持っていると言っていいのか、と言いたかったので。
科学者S1、S2、S3、…がいて、被験者A、B、C、…の意識だの心だのを研究するとする。
A、B、C、…の脳状態や言動・振る舞いについては、研究が進んで、もちろん類似性や法則も
認められるんだろう。
しかし、もし、Aの意識そのものとか、感じている赤さそのものとかいうもの(B、C、…も同様)
を研究しようとしたり、それが物質(脳)から生じるのかどうかとか議論しようとしたら、それは、
そもそも、何をどう研究し、議論しようということなんだろうか。
S1は「私はこのような意識を持っている。そして他の誰も、同じようなものを持っているはずだ」
と言い、S2以下も「そうだ、まさに私も同じようにこのような意識を持っている」と言い(?)、
被験者Aたちも「もちろん、私もまさに同じような(ry」と言って(?)、それだけを根拠に
研究が進められるんだろうか。
>>35 複数の人間が同じように言葉を使える、同じような慣習的振舞いをとる限りで
「同じ意識を持っている」とみなすことに、何か不都合はあるのか?
ある、とはっきり言えるところからクオリア問題が始まるのではないのか?
>>35 が言わんとしているのは私的言語論とかに類する問題であって、クオリアの問題ではないだろう。
38 :
32 :2008/02/27(水) 17:00:42 O
いや、別に私的言語とか難しい話を言いたかったわけじゃなくて、たんに、脳とか言動のような 観測できるものではなく、意識そのもの(?)とかクオリア(?)とかを研究するというのは、いったい 何をどう研究することなのか、ということ。 一つには、S1が「私にはこのような意識がある。そして他の誰も…」と言い出した時、 S2がひねくれ者だったら、「何それ。あなたの意識なんて、私には観測できず、何のことか わからないんだが」と言うんじゃないだろうか。脳科学者(哲学者も?)は、そういう疑問は 持たないんだろうか。 逆の方向を考えてみると、もし、神経組織・身体組織が類似しているというだけで、同じような 意識を持っていると言ってよいなら、例えば何らかの超音波感知装置などを開発して脳につなげば、 コウモリの意識状態だって確認できるんじゃないだろうか。コウモリは無理とか、類人猿なら 可能とか、何かそのような区別があるんだろうか。(そう言えば、魚眼レンズを通した映像を見せて、 「魚はこんなふうに見ています!」とか言ってたテレビ番組があった)
> 一つには、S1が「私にはこのような意識がある。そして他の誰も…」と言い出した時、 > S2がひねくれ者だったら、「何それ。あなたの意識なんて、私には観測できず、何のことか > わからないんだが」と言うんじゃないだろうか。脳科学者(哲学者も?)は、そういう疑問は > 持たないんだろうか。 日常生活で「あなたの見ているというものが私には見えません」なんて いちいち言ってたら、あっさり破綻するでしょ? 我々の活動は常識によって支えられています。 そしてそこには無数の慣習的な一致がある。 そのことを無視して部分的にひねくれたって意味ないの。 > 逆の方向を考えてみると、もし、神経組織・身体組織が類似しているというだけで、同じような > 意識を持っていると言ってよいなら、例えば何らかの超音波感知装置などを開発して脳につなげば、 > コウモリの意識状態だって確認できるんじゃないだろうか。 思考実験的にはそうだと思うよ。 これからサイバネティクスが発達すれば面白いことになりそうだ。 ただし、単にコウモリの感覚器官を持つというだけではだめだろう。 社会的にもコウモリと同じように振舞わないと、コウモリの意識を持ったとは言えない。
で、もしコウモリと同一の身体を持って、生まれた時からコウモリと同じ環境で生活したら、 きっとコウモリと同じ意識を持つことができるだろう。 でもそれって「コウモリそのもの」以外の何物でもないよな? だから超音波感知装置を脳に接続した時に生まれるのは 人間でもコウモリでもない「コウモリ‐人間」と呼ぶべきかもしれない。
41 :
32 :2008/02/27(水) 19:11:20 O
>>39 ?脳科学者は、日常生活的な場面を研究してるわけでも、常識や慣習を研究してるわけでもないでしょう。
中には、「全ては脳内の物理現象であって、それ以外の意識そのものなどというのは幻想だ」という
趣旨を主張している人もいるらしく、むしろ、ある意味そのほうが一貫性はあると思う。
それとも、脳科学者の研究といえども、常識や慣習から離れることはできない、という趣旨だろうか。
>>41 そうじゃなくて、あなたが例示したような疑問は、今までの哲学が扱ってきた
議論の範疇を超えてないんじゃないの? と言いたかっただけ。
別にクオリアについて考えるのは構わないけど、何故クオリアか?
というところははっきりしてもらわないと。
44 :
考える名無しさん :2008/02/27(水) 20:10:56 0
>S2がひねくれ者だったら そいつがひねくれて言ってるだけなら何ら問題ないw
45 :
32 :2008/02/27(水) 20:25:26 O
>>43 ますます何を指摘されているのか、というより、なぜそのような指摘をされるのか、わからないんだけど。
要は「脳科学者が、脳状態や言動などでなく、意識そのものを研究しているのだとして、それは、
何をどうやって研究するということなんだろうか(あるいは、脳状態などのみを研究してるんだろうか)」
という疑問だけど、そんなに変な疑問?また、なぜそこに、今までの哲学の範疇とかが出てくるの?
あるいは、このような疑問は、哲学的には当然解決(少なくとも十分な検討)済みということ?
もしそうなら教えてほしいけど。
46 :
考える名無しさん :2008/02/27(水) 20:36:06 0
>>45 いや、あなたが根本的な問いを抱えていることは分かるよ。
でも、問いの解き方にはいろいろあるし、問いのあり方によっては
別の側面から答えた方が上手くいく場合だってある。
クオリアみたいに学問横断的な問題だったらなおさらそうでしょ?
あなたが
>>35 や
>>38 で出した例は、哲学では比較的古典的な問いだから、
そういう疑問を解消したいのならそっちを勉強すれば? と思ったまで。
科学としてどうなの? と問うのはそれからでも遅くはないよ。
「脳科学者が、脳状態や言動などでなく、意識そのものを研究しているのだとして、それは、 何をどうやって研究するということなんだろうか(あるいは、脳状態などのみを研究してるんだろうか)」 本気で知りたいならチャーマーズをはじめ関連書を読みまくるしかないのでは
農家学者っぽい実験で判りやすいのはリベットの実験とかかな、 けっこう面白いからグクってみそ。
脳科学者はべつに意識を研究なんてできないよ。 いくら研究している気になっているとしても。 それがクオリア問題の深刻なところ。
>>47 それ多分間違えだと思うんだ。
いくら読んでも混乱して行くばかりで身に付かないんじゃないかな。
むしろ基礎をしっかり押さえておいた方がいいと思う。
前スレでも言ってた様に、古典物理を学んだり、ギリシャ哲学学んだり
モナドや集合論を学んだり、仏教調べたりして来た方が、いいでしょう。
どうもインターな印象が強くて学際的だから、
個別の分野をきっちり身に付けていないと、
自分がどこら辺を漂っているのか認識できないのだと思う。
>自分がどこら辺を漂っているのか認識できないのだと思う。 32のひとはそんな感じするね。 とりあえずサール『心の哲学』を読んでみるのはどうかね。 最近のやつで、一冊で手っ取り早く見渡すには一番よい。 それで分からないなら、そこで言及されている人名やキーワードをもとに 入門的なものをあさってみればいい。 クオリアについてはあまり触れられていないが、これ一冊読んで それでも納得いかないところから浮上するのがクオリア問題だからね。
>>35 >それだけを根拠に 研究が進められるんだろうか。
理屈としては進められないんだけど、実際は進めてる。
これはなぜかと言うと理由は簡単で、そんな問題考えても解けっこないし(こういう問題は哲学者に任せとけ、と)
そしてそういった問題について考えなくても当座の研究はうまく進めていけるから。
もうこれ以上できる実験がなくなったって頃に初めて、科学者達もそういった問題に真剣に取り組みはじめるだろうと思う。
クリストフ・コッホが意識を研究する科学者のいい例だと思う。
コッホは学生時代に認識論(哲学の一分野、
>>35 みたいな話もこの分野の対象)も専攻していたが、
現在は結局哲学は完全に脇に置いてる。
コッホは科学者の中ではかなり哲学者たちの本を読んでるほうだが、
でもそれはそれ、科学の研究の方はそうした議論とは別にドンドン進めてる。
そしてこうした無視は自覚的にやってる。理由は議論だけからでは何も生まれないからとのこと。
54 :
32 :2008/02/29(金) 01:13:52 O
自分でもさらに調べてみると、52氏、53氏の指摘(特にコッホ)のように、当面の研究以外の議論を 意図的に無視する脳科学者も多いようで、それはそれで科学者の対応としては納得できると思った (研究がさらに進んでいった段階では問題になるんじゃないかと思われるけど)。 あとの疑問は、むしろ哲学者の本のほうで、心的因果とか物理主義とか何とかの話ばかり出てきて、 他人にも心があることなどは前提になってしまっているようにも見えるものがあること。 しかし、これはまさに勉強してみないといけないと思われるので、勉強してみます。 いろんなレスに感謝します。
>>54 >他人にも心があることなどは前提になってしまっているようにも見えるものがあること
心と言うか他者の意識、それは完全にみんな前提して議論してる。
で、これへの懐疑は他我問題(problem of other minds)と呼ばれてる。
こうした問題はおおよそ全部ひっくるめて認識論や科学哲学に丸投げされてるから、
心の哲学内部ではあまり細かく論じられてないと思う。
56 :
考える名無しさん :2008/03/01(土) 02:25:45 0
もっと続けてほしいなりage
クオリアって簡単に言えば「〜さ」ってやつ?
wikiを見て思い付いたくらいの疑問を書くのもよくないかもしれないけど。 「クオリアは感じられる質感で、クオリア自体を言葉で表現するのは困難」というようなことが 書いてあるけど、本当だろうか?というか、言葉で表現できないのは、クオリアに限らないんじゃ ないだろうか(あるいは、より具体的にどういう理由で表現できないんだろうか)。 一つには、普通、どんなものであろうと、自分の見たもの・聞いたもの・感じたもの等を言葉で 表現しようとするのだから、クオリアを言葉で表現するのが困難なら、同じ理由は、普通はあらゆる 物事に当てはまってしまうのでは。 また、(一つめと結局重なるかもしれないけど)色とかの質感ではなく、形のような客観的といえ そうなことでも、例えば目の前にある携帯の形を詳細・正確に言葉で表現するのは、やっぱり 困難じゃないだろうか(図を書くのは可能だろうけど、それはまた別の問題になりそうな気が)。 そうすると、むしろ、言葉で正確に表現できるのは、(よく知らないけど)例えば数学・論理学の ようなものだけになってしまうのでは。
>>58 クオリアの定義からすると自分の見たもの・聞いたもの・感じたものは勿論、見えている形もクオリアに内包される。
(形は視覚関連のクオリアによって自らに感じられるもの)
だから全ての物事を完全に言葉で伝えるのは困難(あるいは不可能)というのは正しい。
それはクオリアが言葉で表現できないのと全く同じ理由からだから。
>具体的にどういう理由で表現できないんだろう
俺は、言葉は表現方法のひとつに過ぎないからだと思ってる。他者に何かを伝える方法は他にもいっぱいある。
音楽、スポーツ、そして数学もそのひとつ。
あ、形は別に視覚に限らないね。
>>59 しかし、自分で言い出しておいて何だけどw、本当だろうか?
クオリアも他の物事も同様に言語で表現できないとすれば、下手をすると、よく言われる
「クオリアの逆転」の可能性は、そのまま「物事の逆転(?)」の可能性になってしまうのでは…。
>>58-61 クオリアを通常の意味での知覚対象の一種として考えるから混乱してるんじゃない?
クオリアが関わるのは、色合いなら色合い、肌触りなら肌触りという、
まさに「そのようなもの」として感じられる意識のメカニズムの部分。
それを言語化できるかどうかというのは、また別の問題だろう。
例えば一般人は微妙な色合いやテクスチャーを上手く言葉で言い表せないが、
カラーコーディネートの専門家ならそれができるかもしれない。
言語以外の記号を用いる場合も同じこと。それは文化の問題。
63 :
考える名無しさん :2008/03/03(月) 20:50:46 0
クオリアは今の物理で捨象されてる現象そのものだろうね。 色形味匂音色などなど。この世の意味がクオリアだろうね。 物理には味も素っ気も無い。
物理は数学に育てられて来た側面があるから もし数学を放棄して、別の手法で物理的なアプローチが可能なら面白い。
65 :
考える名無しさん :2008/03/03(月) 21:17:57 0
もともと物理とは「物語」の世界であったはず。 物を忘れた物理では何も語れない。
別に、物理にこだわる必要はないんじゃないの。
現状物事を説明する時は物理使うからねえ。
>>65 でも量子力学の粒子性と波動性の共存についてはもうどんな「モノ」なんだか想像できないんだぜ...
68 :
考える名無しさん :2008/03/04(火) 11:44:12 0
>>67 >でも量子力学の粒子性と波動性の共存についてはもうどんな「モノ」なんだか想像できないんだぜ...
量子は既に「モノ」ではないだろ。物体の質量が物体の性質であっても「モノ」では
無いように、「量子」はもはや「物」とはいえないだろう。同様にエネルギー
も「物」ではない。物理学は物を物として扱わない学問だろ。
>>67 >現状物事を説明する時は物理使うからねえ。
そうだろうか。
物理学で説明できないものなんて沢山あるんじゃないの?
>>69 文系?
この流れでは、説明、ではなくて、物理学に基礎付けられないもの、といった方がいいだろうね。
>>70 その物理学に基礎付けられていないものを、よりによって物理学で説明しようとする理由は何なの?
>>68 量子がモノだなんていっとらんよ。
物体を構成する基本粒子(?)が粒子と波動の二重性をもってると。
でもその二重性をもつ粒子(?)ってのがどういう物なのか人間の感覚だといまいち理解できない。
つまり物理学ってか数学的に記述はできるが、実態がなんだかわからないモノ。
>>65 は物理的描像について語っていると俺は読んだので、二重性に関してはそれがないよと言った。
>物理学は物を物として扱わない学問
ちょっと意味がわからない。物理学って物と物との間にある関係を説明していく学問じゃないの?
ここまでくると「物」の定義が難しくなるな...
>>71 物理学ほど多くの現象を説明できている手法はないと思うからね。
ってか少なくとも俺は今日の物理学的手法以外に未知現象を合理的に説明できそうなやり方知らない。
でとりあえず「今の」物理学で考えてみたら、「説明無理じゃね?」ってなってるのがクオリアの現状じゃないのか。
物理学ってのは思いっきし学際だからな。物理学そのものはないよ。
ことばで説明できないもの って喩えはじめると収拾つかなくなんねーか? クオリアって要するに「我思うゆえに」って言う 前近代的な心身二元論の亡霊。
>>72 「物」の定義なんて物理学ではしないと思う。
光子は物か?電子は物か?なんてやらないもん。
固体は永遠に固体のままでそれを物と呼ぶのだ、
なんてのは常識物理学の考えにすぎないんだし、そんなのに引きずられても仕方がない。
>>75 よく分からないけど論理を構成することは可能という意味かな。
でも、だとしたら徹底的な物理主義なら認識論に対抗できないだろうか。
文字を一切使わない物理主義とか。
>>72 >物理学ほど多くの現象を説明できている手法はないと思うからね。
でも、観測できていない現象は説明できないよ。
>ってか少なくとも俺は今日の物理学的手法以外に未知現象を合理的に説明できそうなやり方知らない。
「未知現象」(観測されたことのない現象)を物理は合理的に説明することはできないと思うよ。
物理学が説明できるのは、既知現象(観測されている現象)だけ。
もちろん、既知現象と、仮説から予測を行うことはできるけれども。
>でとりあえず「今の」物理学で考えてみたら、「説明無理じゃね?」ってなってるのがクオリアの現状じゃないのか。
物理学で扱いたいなら、まず、「物理学で基礎付ける」ことが先じゃないの?
つまり、「クオリア(とやら)という現象(?)」を(「〜な感じ」とかいうあいまいな言葉ではなく)物理学の言葉で記述すること。
そうして初めて「「今の」物理学で説明可能かどうか」という問題を考えること自体の「合理性」が成り立つ。
>>78 その物理学の言葉ってのがないでしょう。
記述は数学でしょ。数学や論理を流用してるだけだもん。
でも、質感の場合は、修辞や虚構の言葉も使うからね。
背筋が凍ると言っても本当に凍るわけではない。
80 :
72 :2008/03/06(木) 03:29:42 0
>>76 そうだよ。
だから>物と物との間にある関係を説明していく学問 といった。
物理学は物そのものは扱っていなくて、故に(物理学の中では)物そのものに対する説明も必要としていない。
そこに
>>68 が>物を物として扱わない学問 なんて言うからさ...
物の定義って言い出したのは俺と
>>68 の間での「モノ」の認識が同じか怪しいなと思っただけだよ
>>78 俺の言った未知現象というのは「存在は知られているけどその機構が『未知』な現象」ね。
観測されたことのない現象って...そもそもそんなもん説明しようする事すら思いつかんだろ。
俺にとって「クオリア」と名付けられた現象(最早この言い方すら妥当なんだか...)は確かにあると感じられるわけよ。
>まず、「物理学で基礎付ける」ことが先じゃないの?
先の>「今の」物理学で考えてみた はそれを含んだ発言のつもり。
今の物理学の言葉で記述できなさそうで、だから今の物理学では扱えなさそう、って考え方になんかおかしなとこある?
>>73 俺の使ってる「物理学」は便宜的な言い方だよ。「今の科学的手法」って言った方がもっと正しいかも。
>>79 >その物理学の言葉ってのがないでしょう。
>記述は数学でしょ。数学や論理を流用してるだけだもん。
何か勘違いしてるな、新しい文学表現の創造とか、そういう話じゃないので、
「物理学の言葉」というのは、物理学独自である必要はないんだよ。
私の言いたいののは、物理学で扱いたければ、
物理学であつかえるように形式を整えろ、という話。
「背筋が凍るような気がするのは何故?」という質問を物理学は扱わない。
>でも、質感の場合は、修辞や虚構の言葉も使うからね。
>背筋が凍ると言っても本当に凍るわけではない。
そう、だから、そういう問題は物理学は、「扱わない」。
>>80 >俺の言った未知現象というのは「存在は知られているけどその機構が『未知』な現象」ね。
>観測されたことのない現象って...そもそもそんなもん説明しようする事すら思いつかんだろ。
>俺にとって「クオリア」と名付けられた現象(最早この言い方すら妥当なんだか...)は確かにあると感じられるわけよ。
でも、「物理学では」、そういうことを「観測」とは呼ばない。
物理学で扱いたいなら、物理学のルールに従うべきだ。
君が君の感覚を物理学より優先したいなら、物理学を捨てるのが合理的な考えというものだろう。
>先の>「今の」物理学で考えてみた はそれを含んだ発言のつもり。
>今の物理学の言葉で記述できなさそうで、だから今の物理学では扱えなさそう、って考え方になんかおかしなとこある?
それはまず、「観測された現象」があってこその話。
現象があるのかないのかわからないのに、扱えるかどうかを考えるというのは不合理だ。
>>82 そうか...結局はそういう問題に帰結しちゃうのか。
前スレを埋め尽くした「クオリアなんてないでしょ?」と「いやあるってば」の論争に立ち戻ってしまった。
で、今貴方のコテハンに気付いて前スレを読み返してみた。
...ああ、なんだか俺までクオリアが幽霊とかと同等なもののような気が...
えっーとね。
幽霊もクオリアも、「今の科学的手法では相手にされない理由」ってのが似ているだけなんじゃないか。
幽霊はそもそも科学的に「観測」された事例がないから議論のしようがない。これはOK。
でもクオリアについてはちょっと違くて、そもそもの貴方のいう「観測された現象」というのは
黒体放射の例でいくと「温度を高くすると放射光の色が変わる」みたいなやつだよね?
こういった現象を「観測」するには、まずクオリアを感じなければならないと思う。
物理学は全てを客観的に扱っているが、その種となる「観測事実」は主観的な感覚(ほぼクオリアの意味)に頼っていると思うわけよ。
その上で「クオリアを観測する」と言ったって、己に感じられる全てがクオリアと呼べるのだから、観測にならない。
結果としては幽霊と同じなんだけどね...幽霊は「無いから観測できない」クオリアは「どうやっても観測にならない」
こういってみるとクオリアという存在を設定すること自体間違いと言われても不思議じゃないな。
しかし俺は幽霊と呼ばれるものは見た事ないと思うけど、クオリアと呼ばれるものは今も感じられていると思うわけですよ。
結論:「説明無理じゃね?」
よくわかんねーけど、主観的に「あのときのあの色」と「この色」が一緒だなあとか 同一性を感じたら、それをa qualeだとかいうんだよね。 その同一性自体がまあ主観のたまものじゃんという気はするけどw クオリアのクオリアらしさ?
>>83 何か妙な誤解があるようだけど、
私は、「クオリアなんてないでしょ?」なんて言ってないよ?
「物理学で扱えない」=「存在しない」じゃないでしょ。
あなたにとってはそうであるなら、あなたがどうしてそこまで物理学を絶対視するのか理解できない。
>結果としては幽霊と同じなんだけどね...幽霊は「無いから観測できない」クオリアは「どうやっても観測にならない」
わたしは、幽霊が「無い」なんて断言できないと思う。
あなたは、何を根拠にそう断言できるの?
私が言っているのは、「十分(検証された)観測事実が無い」ということだけ。
これはイコール「存在しない」という意味じゃない、単に「観測事実を起点とする学問≒科学」では「扱えない」というだけのこと。
>結論:「説明無理じゃね?」
結論としては私も同意見だけど、わざわざとりたてて言わなきゃならないことは思えない。
もともと物理学の問題でない問題を物理学が説明できないのは当たり前、「扱わない」んだから。
物理学で扱わないもしくはクオリアのように扱えない問題があって そのために物理学は世界を記述するうえで不完全であることはわかった。 だからこそ哲学でクオリアに関しての議論が継続しているわけなので ここで物理学を話題にすること自体見当違いってことでいいじゃないか。
>>86 同意。質感を記述する方程式なり言葉が形式として作られ、
それが科学になったとしても、
そこで物理学が関わってくる必要性がすでに無くなっている。
88 :
83 :2008/03/07(金) 17:49:12 0
>>85 >私は、「クオリアなんてないでしょ?」なんて言ってないよ?
言ってない。貴方がそうだと俺が言った覚えもない。俺はただ、結局問題が
「クオリアというのは観測事実として示せる現象なのか」に移ったなと思っただけ。
貴方はそれがないと(少なくとも)現状の物理学上ではまともな議論にならないと言ったし、俺もそうだと思った。
幽霊についてはちょっと俺の個人的感情が入って「無い」といってしまったが、少なくとも
>「物理学で扱えない」=「存在しない」
などとは思っていない。「無いから扱えない」んだろうなと思っただけ。「扱えないから無い」ではない。
現に俺はクオリアに対し「扱えないけどある気がするなあ」っていう考え方だからね。
そんで「十分(検証された)観測事実があればクオリアも物理学で扱えるようになる」というまあ当たり前の考えに至った。
で、この当たり前の事が何故クオリアではいつまでたってもできないのかの理由を
>>83 で述べたつもり。
>わざわざとりたてて言わなきゃならないことは思えない。
貴方たちのようにずっと考えてきただろう人達にとってはそうなのか...
>>86 今の物理学を持ち出すのが見当違いって結論には
>>83 でやっと到達したんよ。
>>87 クオリアを説明するにはもう完全に別次元の理論体系を構築しなきゃいかんということか。
(古典物理学と量子力学との間には大きなパラダイムシフトがあったが、両者は一応未だ繋がってる)
いままでになんども書いているけれど、 いまの物理学をもちだすのが見当違いってのはクオリアを語る上での前提だよ。 それからまったく別の理論体系もしくは拡張された物理学が必要だっていうのもね。 いいかげんそういった背景知識を前提とした議論にならんもんかね。
物理でも哲学でも どっちでも良いけど 論理的にクオリアを説明するのは不可能でしょ。 意識自体を客観視することは意識自身には不可能。 有る事を実証実証できないし、当然、無いことも実証できない。
>>90 「有る事を実証実証できない」というのはなにについていってるの?
クオリア?それとも意識?
92 :
90 :2008/03/07(金) 19:19:03 0
う〜ん 両方。
>>90 前者は可能じゃないかな。「赤と青を混ぜると紫」みたいな
質感の方程式が作れるかもしれない。
94 :
考える名無しさん :2008/03/07(金) 20:20:41 0
>>90 >意識自体を客観視することは意識自身には不可能。
どうしてそのように考えるのかな?
自意識と言うのは知ってる?
自分が自分とは何かと意識することだろ。
意識自体を意識することは簡単にできることじゃないか。
自己言及、すなわち意識のフィードバックがあればいいだけ。
フィードバックは何重にも可能だね。
並行した鏡に映る無限の自像を見たこと無いか?
95 :
考える名無しさん :2008/03/07(金) 20:23:23 0
>>92 ご冗談でしょう。
意識がない人が「意識が無い」なんていえるはずが無い。
96 :
考える名無しさん :2008/03/07(金) 20:27:08 0
>>89 >いまの物理学をもちだすのが見当違いってのはクオリアを語る上での前提だよ。
クオリア問題でなぜ物理学を尾mんだいにするか全然理解できていないね。
クオリアは物理に何の関係も無いというのが物理学だからだよ。
クオリアは物理的因果関係が有る。
>>96 >クオリアは物理に何の関係も無いというのが物理学だからだよ。
それは哲学が指摘してはじめて自然科学のなかで問題になったものなんだけど。
もともと
>>86 の
>物理学で扱わないもしくはクオリアのように扱えない問題があって
>そのために物理学は世界を記述するうえで不完全であること
は哲学では常識だろう。物理学内部でクオリアを論議するのは勝手だけれど
認識論的に洗練された哲学者は笑って見てるんじゃないだろうか。
>>88 >「クオリアというのは観測事実として示せる現象なのか」に移ったなと思っただけ。
でも、そういう議論もあんまりないね。
「クオリアというのは観測事実として示せる現象ではない」という結論に異論を唱える人はいないでしょ?
>貴方たちのようにずっと考えてきただろう人達にとってはそうなのか...
いや、別に考えてない。
観測事実を飛ばして仮説を論じていたら、おかしい、なんてことは、
特に考えなくてもすぐ気づくこと。
それに気づかず、無為な仮説に付き合ってずっと議論をやっちゃう人たちのほうが異常。
そんな訳ない。科学は観測事実だけで進歩して来た訳じゃないよ。 理論や仮説を、実験により証明して来たことでもある。
100 :
考える名無しさん :2008/03/07(金) 21:17:21 0
確かに観測事実にできる世界なんてマンガくらいしかないけど、 手塚の世界観が現実になりつつある事を思えば、あるいは って思ってる人が多いんだろうけど、 脳に作用してクオリアを変容させれば病気の改善に役立つとか、 そういうことが目的なら、やらなくてもいい事かも知んないね 他に方法がありそう
この勘違いしてる人多いな。 その理論や仮説は、観測事実を説明するために作られたものでしょう。 何の観測事実も無しに、いきなり理論や仮説だけがある、ということはないはず。
102 :
90 :2008/03/07(金) 21:28:28 0
>>94 自分の意識自体を客観視は出来ないって。
この瞬間に、一瞬前の自分の姿、過去の記憶を、他人として見ることは出来るけど。
>>95 意識がない人が「意識が無い」なんていえるはずが無い。
そうだよね〜。ぱっと反論できない。
話ずれてるかもしれないけど、
蜃気楼は実態じゃないけど、蜃気楼が有るって言えるよね。
でも蜃気楼で見える水溜りは存在しない物。
蜃気楼という現象は存在するってことか。
じゃあ、「意識という現象は存在する。」 か?
なんか哲学みたいな言い方でやだな。
で、蜃気楼の水溜りみたいなものである、クオリアは、存在しないってことで異論はないよな。
何か話を見てると論理実証主義の凋落とダブるものがあるな。 特に検証できないものは科学ではない、という検証主義が破綻したあたりと。 つまり当時においてセンス・データという名で現れた認識論上のアポリア、 これ現代でのクオリアの科学の話とほぼ同相の問題だ。
>>101 そりゃ違う。例えば、天動説も地動説もできた当初は「観測事実」と言っても
まだ推論に過ぎない。理論と実験は別物だよ。逆に理論にない結果が
実験して出てくる事もある。その場合は理論の方が修正される。
105 :
考える名無しさん :2008/03/07(金) 22:00:21 0
ああでもないこうでもない言ったって データ取れない の一言ですべて終わる
>>104 まず、その時代はまだ「科学」という学問が確立していない、
(ので、そのころの仮説を、現代の科学における仮説と完全に同様に扱っていいかどうかについては、
慎重になる必要がある)が、とりあえず、この問題は保留するとして、
>天動説も地動説もできた当初は「観測事実」と言っても まだ推論に過ぎない。
その当時でも、天体の観測は相当な精度で行われていたはずだよ。
月や太陽だけでなく、惑星の軌道も観測されており、惑星の運動を説明するために、
天動説では相当無理な仮説を立てる必要があった。
観測事実という言葉はおかしい。共有情報、あたりの方が正確でしょう。 無人島のロビンソン・クルーソーはキレイに意識の科学を作りえるだろう、みたいなことをチャーマーズも言ってるが 問題は「情報の共有如何」にある。
>>107 >観測事実という言葉はおかしい。
でも、日本語で科学について話す際には観測事実という言葉が使われていますよ。
それが嫌ならば、「あなたは」使わなければいいでしょう。
別に、無理に「科学」という既存の学問に合わせる必要はないのですから、
「共有情報」をベースにした「あなたの」学問を作ればいい。
>>102 >自分の意識自体を客観視は出来ないって。
冷蔵庫の話だな。
冷蔵庫はドアを開けると内部照明が自動で点灯する。
そしてドアを閉じてると照明は消える。しかし冷蔵庫の使用者はいつも照明のついた状態しか見ない、と。
>>108 科学の方法論自体が問題になってるんだから、その切り替えしは何かおかしいでしょう。
>>107 ラトゥールなんかが論じてることだな。
「観測」というものがインタラクションを通じていかに作り上げられていくか。
>>109 それはあれだ、ドアを開けたままで端っこについてるスイッチを手で押せばいいんだよ。
天邪鬼スマソ
112 :
考える名無しさん :2008/03/07(金) 22:28:47 0
>>109 いや、自分で無意識に気がつくことは有る。
気がつかなければ無意識などという言葉も生まれない。
>>110 科学の方法論自体が(あなたの問題にとって)問題なのなら、
(あなたは)別の方法を使えばいいでしょう。
別に科学は完全無欠な方法とされているわけでもないし、
そうでなければならない理由もない。
科学は様々な妥協で成り立っている方法論の一つでしかありません。
あと観測・観測と気軽にいうけど、それは「今の技術レベル」での話だということは気をつけなきゃいけないと思う。 ほんの100年ほど前まで、「原子が実在するかどうかなんて分らない(検証できない)」なんて話を 一流の物理学者たちが真剣に議論してた。 でも電子顕微鏡や、原子間力顕微鏡が普及して、結晶構造や物質表面の原子状態を簡単に確認できるようになるったら もう誰もそんな話はしなくなった。 こういう技術上の変化は観測の範囲というのを大きく変えていくから、そういう点も踏まえて議論するともっといいと思う。
>>114 技術の進歩等の要員によって問題が解決されるだろうという予測には賛成。
ただし、逆に科学の表舞台から無かったことにされる可能性も同じくらいあると思う。
>>114 もちろん、踏まえてますよ。
だから、もともな科学者で、クオリアを扱いたいと思っている人は、
地道に観測方法の研究をしているはずだ、ということを何度か申し上げています。
>ほんの100年ほど前まで、「原子が実在するかどうかなんて分らない(検証できない)」なんて話を
>一流の物理学者たちが真剣に議論してた。
「今は観測できない」というのと、「観測できるようになんかなりっこない」とうのは別の話ですよ。
原子を観測する技術がなかった時代に、「いまは観測できないから分からない」というのは、
至極まっとうな考えでしょう。
そして、その時代でも、まともな科学者は、観測方法を工夫して、より、多くの観測事実を集め、
原子の正体に迫っていったわけです。
>>106 当時は予測は出来なかったんですよ。
ニュートンが地上の物体の法則を、神の世界と信じられていた天体にも
当てはめた事で、ニュートン力学ができて星の動きの予測が向上しました。
>>113 そうじゃないでしょう。科学が観測事実を基にしていると言うのは
誤りだと言ってるんです。科学は観測事実が必要条件ではありますが
十分条件ではありません。それだけでなく理論屋は、理論を組み立てる
ことで観測されてない事実を探そうともします。
118 :
90 :2008/03/07(金) 22:46:24 0
>>114 ニュートンの時代には光の速度を測るなんて想像もできなかっただろうしね。
ニュートンの方程式に綻びが出たのは200年後の電磁方程式でだっけ。
でも、それって量子力学のナントカ解釈にも言えることなのかな。
>>117 >当時は予測は出来なかったんですよ。
>ニュートンが地上の物体の法則を、神の世界と信じられていた天体にも
>当てはめた事で、ニュートン力学ができて星の動きの予測が向上しました。
予測ができない、というのは、現在の理論による予測が観測事実と食い違う、ということでしょう?
つまり、そういう(既存の理論と食い違う)観測事実があったから、
ニュートン力学を天体予測にあてはめようとしたわけでしょう?
>>115 ,116
うん、結局のところ観測ができないものなのかもしれない。
自分は今のところ、いちおう態度保留だけど、観測できない可能性の方が大きいような気がする。
でもこれは実のところクオリアを科学の世界に持ち込むのに究極的な問題にはならないと思う。
というのも、人間が対象にリアリティを感じるのに必要なのは、「観測」よりもむしろ「操作」だから。
だからクオリアを簡単に操作できるような技術基盤が整ったあたりで初めて、
やっと科学者の間でこうした問題に対する研究活動が戸惑いなく行われるようになっていくと思う。
>>119 それは、歴史の解釈を恣意的に行っているだけでしょう。
「観測事実と違うから、ニュートン力学を天体の動きに当てはめて理論を作った」
と、読み取れる部分を切り取っているだけです。
ニュートン力学ができた事で、理論が実際の動きを言い当てていったんだから、
「理論が予測に繋がって行った」と考える事もできます。
そもそも哲学や数学では、事実から論じはじめる必要性はまったくありません。
同様に科学も出発点が事実である必要もないです。
必要もないと言うか、実際の研究も仮説から入ることは多いです。
>>121 >それは、歴史の解釈を恣意的に行っているだけでしょう。
>「観測事実と違うから、ニュートン力学を天体の動きに当てはめて理論を作った」
>と、読み取れる部分を切り取っているだけです。
「予測できなかった」とおっしゃったのはあなただと思いますが?
>ニュートン力学ができた事で、理論が実際の動きを言い当てていったんだから、
>「理論が予測に繋がって行った」と考える事もできます。
理論が予測に繋がるのは当然のことですね。その点についてなにか御不審がおありなんですか?
>そもそも哲学や数学では、事実から論じはじめる必要性はまったくありません。
哲学や数学ではないんでしょうね。
>同様に科学も出発点が事実である必要もないです。
なぜですか?
>必要もないと言うか、実際の研究も仮説から入ることは多いです。
「あなたは」、「仮説」を、どう定義してますか?
うざ
>>122 あなたの言い分だと「仮説は科学になる事はあり得ない」
と言ってる事になっちゃうわけよ、何より科学の文化からして違う。
科学はそんな原理的じゃないし、理論屋と実験屋で対立もある。
理論は山のように出来るけど、ほとんどはゴミ箱行き
その一部が理論として認められるだけです。
仮説の定義なんてこんな所で出すより、今まで科学が築いて来た
文化的な、仮説の流儀のほうがよっぽど価値があります。
>>122 既存の理論だと予測できなかったのでニュートン力学が出来た、とは言ってません。
>>124 >あなたの言い分だと「仮説は科学になる事はあり得ない」
>と言ってる事になっちゃうわけよ、
どういう理屈でそうなるのですか?
というか、仮説は科学の1プロセスですよ?
>理論屋と実験屋で対立もある。
>理論は山のように出来るけど、ほとんどはゴミ箱行き
>その一部が理論として認められるだけです。
よくわからんです。私も全くそのとおりだと思っているのですが。
私の言っていることが、そういうこととどのように対立しますか?
>仮説の定義なんてこんな所で出すより、今まで科学が築いて来た
>文化的な、仮説の流儀のほうがよっぽど価値があります。
その二つは(仮説の定義と、「科学が築いて来た 文化的な、仮説の流儀」)どのように対立するのですか?
あなたの言う、そのような「科学の文化や流儀」とは具体的にどのようなことですか?
私の理解では「仮説」というのは(従来の仮説では説明できない)観測事実を説明するために立てるものです、
「科学の文化や流儀」をもって、この定義が否定されたり無視されたりすることは無いと思いますが。
>既存の理論だと予測できなかったのでニュートン力学が出来た、とは言ってません。
そうですね、
既存の理論だと予測できなかったのでニュートン力学を「適用した」のでしょう?
そして、ニュートン力学は、別の観測事実(地上の物理現象)を説明するために考えられたわけですよね?
このスレ、のぞくたびにクオリアそっちのけになっとる。
128 :
83 :2008/03/08(土) 01:33:36 0
>>98 >そういう議論もあんまりないね。
前スレであったクオリアがあるだのないだのって議論が起きる原因が「観測事実と呼べるものがないから」だと思ったんだ。
量子力学の粒子波動二重性だって、二重スリット実験がなきゃ誰も信じないし理解できないだろうし。
>観測事実を飛ばして仮説を論じていたら、おかしい
論点がややずれてる。俺が考えないと気付けなかったのは「クオリアは観測事実として示せないっぽい」こと。
で、するとなんかクオリアは少なくとも「従来の科学的手法では無理っぽい」となる。
じゃあもうあれやこれや好き勝手に仮説をたてるのを咎める必要もないよね?
もう探求方法の根本から変えないと無理そうなのだから...
自分で言っててなんだが一体そりゃなんなんだよ...「神の視点から眺めよ」っていってるようなもんだな...
観測話で盛り上がってるけど、 観測ではなく操作、自分としてはやはりここに糸口があるかと。 近い将来、脳を直接刺激するタイプの情報機器が日常的に使われるようになるだろうけど(50〜100年程度かな?) そうなるとクオリアは大分と扱いやすい対象になるよね。 BMIを動かすプログラムをフリーで手に入れて、自分の視覚を反転させる逆転クオリアのソフトとかで遊べたりすれば、 ま、大分と話は早くなってくれるから。
ボディマス指数かと思ったわw えーでもその機械自体どうやってつくんのよ。試行錯誤で頑張ればつくれるんかな。
131 :
129 :2008/03/08(土) 03:07:51 0
(続き)
つまり「クオリアをコントロールするための共通のアルゴリズム」これがあれば人々は共通の土台の上で議論していける。
例えば視覚野の右半分を消滅したような知覚を生むBMIからの刺激コードとか、視覚野の右上から左下に光点が移動するような知覚を生む刺激コードとか、
こういった脳に対する刺激コード(もしくはそうした刺激コードを算出するのに用いられるアルゴリズム)
これを基盤にする。そして、そうしたコード(または刺激コードの算出アルゴリズム)と整合性を持ったシンプルな理論を作れたら、
それで科学としては十分なものとなるだろう。
>>130 >えーでもその機械自体どうやってつくんのよ。試行錯誤で頑張ればつくれるんかな。
うん、まあ試行錯誤だね。たとえばだけど失聴者に埋め込む人工内耳がもう実用化されて一部で利用されてる。
これはマイクで拾った音を多チャンネルの電気信号に変換してから、蝸牛神経に直接入力することで、失聴者に対して音の知覚を生み出してるんだけど、
こういった技術が進んでいった先にあるシステムこそが、クオリアに関して人々が議論していく際に依存する共通の基盤になっていくんだと思う。
そもそも、感覚器官や脳内電位などの物質では取り扱う事ができない領域を、クオリアって言うんでしょ。 客観的な物としては取り扱うことのできない領域をクオリアと呼ぶって決めておいて。 それを客観的に議論しようとしているのが、このスレ。
>>128 >前スレであったクオリアがあるだのないだのって議論が起きる原因が「観測事実と呼べるものがないから」だと思ったんだ。
>論点がややずれてる。俺が考えないと気付けなかったのは「クオリアは観測事実として示せないっぽい」こと。
>で、するとなんかクオリアは少なくとも「従来の科学的手法では無理っぽい」となる。
いくつかのズレがあるようですが、「観測事実が無いから科学では扱えない」という点で、
大筋あなたと私の意見に相違はないようです。
そこにいたる細部のズレをここで議論してすり合わせることにあまり意味があるとも思えないので、
この点の話はこれぐらいにしませんか?
>じゃあもうあれやこれや好き勝手に仮説をたてるのを咎める必要もないよね?
誰にでも、非合理な行動をとる自由はありますよ。
ただ、開かれた議論の場で、それを述べるなら、その非合理性を指摘されることは、
受け入れるべきですよね?
>もう探求方法の根本から変えないと無理そうなのだから...
それは、「あなたの」判断ですよね、あなたがそう判断したのなら、
「科学」以外の探求方法を、あなたが探せばいいのではないでしょうか?
科学以外の方法でクオリアについて考えることについて、私はなんら批判するつもりはありません。
宗教家が神や魂について語るのを批判しないのと同様です。
>>132 クオリアは感覚器官や脳内電位には還元できないが、
それらに変化が生じる際の効果としてなら扱えるかもしれない。
個人的にはあまり賛成しないが。
135 :
132 :2008/03/08(土) 19:30:02 0
>>134 >変化が生じる際の効果としてなら扱える
そこが、よく理解できんのよ、俺には。
脳のある部分に刺激を与えると、物質的に直接繋がっていないはずの
無関係な部分にも反応が現れるかも知れないってこと?
未来のニュースに流れる内容は、
人間の脳内には常識的には説明不可能な反応の連鎖が発見されました。って感じかな。
かくして、量子力学以外にも実証不可能な領域が人間の脳内だけに存在しました。 と
「常識的には説明不可能」とか言ってる時点で現在視点やん
137 :
135 :2008/03/08(土) 20:42:08 0
>>136 そこは論点じゃないから、具合が悪ければセリフを置き換えて考えてくれ。
138 :
83 :2008/03/08(土) 23:04:00 0
>大筋あなたと私の意見に相違はないようです
俺もそう思う。貴方の言う事それ自体には特に反論がない。
>この点の話はこれぐらいに
うん、そうしよう。
>受け入れるべきですよね?
クオリアという概念が今の科学的手法上でどうしても非合理になってしまうことは受け入れた。
でもその時点でもう貴方と俺は折り合わないんだろうね。
>それは、「あなたの」判断ですよね
いや、まあその通りだし自分なりに色々考えるけど...そんな突き放さなくとも。
しかし
>>87 とか
>>89 とか
>>120 とかあるし、この考え方は今更なものなんだな〜。
ちなみに新しい探求方法など俺にはヒントすら浮かんでこん。
今のとこ
>>129 のやり方に賛成かな。前なんかでやってた脳に埋め込む人工視覚デバイスの話だが、被験者の
イエンス・ナウマン氏に100個の光点が見えるようにしたらしいって奴。これすげえと思ったよ。
輪郭がわかるらしいから、ほぼ視野(?)上に均等に光の点のクオリアを与えたってことだろ?
100個ってのは多分本人の自己申告だろうから数えられる程はっきりしたものを。
ちなみに
>>134 が言ってるのはこのような事だと思うんだけど。
>>138 クオリアが「効果」としてしか位置付けられない、というのは、
いずれにせよ今のパラダイムでは限界となるように思われる。
例えば、人間が生得的に持たない感覚器官(赤外線センサーとか)を
神経回路に接続する実験に成功したとする。
そうしたら恐らく、被験者は未知のクオリアを経験するだろう。
しかし、そのクオリアが人間にとって未知であるというのは、
被験者の主観によってしか説明できないのではないだろうか。
つまり、脳内に起こった状態変化をいくら観察しても、それが
「未知」であることは説明できない気がするのだが、どうだろうか。
早く実際に試してみてもらいたいもんだ。
人工内耳や人工視覚は、手術を必要とする侵襲式のデバイスだけど、これはやはり一部の人にしか普及しないと思う。手術が面倒だから。 だから非侵襲式の脳への入力デバイスで解像度の高いもの(技術的にまだ壁が多いが)、そういうものが低価格で普及すれば、話は随分進むと思う。 原理的にはMMORPGをリアルに体験するぐらいのデバイスは作れる。 だから例えば、自分が本当にゲームの中にいて、360度周りをキョロキョロ見渡せて、モンスターが近づいてくると腐臭がして、殴られると本当に痛い ぐらいのものが出来てくるとおもしろい。 マトリックスという映画や水槽の脳という思考実験を彷彿とさせるようなこういう技術が広く普及する過程で クオリアに関する理論が、実際的なものとして研究されていくようになるだろうと思う。 たとえば全てのユーザにちゃんとモンスターの腐臭を与えないといけないのに、一部のユーザから「臭いがしないぞ!」とかいうクレームが出てくる。 そうするとハードウェアののベンダーはユーザから情報を回収した上で臭いを発生させる刺激コードを見直さないといけない。 そうこうしてる内に、やがてユーザ全員に「モンスターの腐臭」というのを感じさせるのに必要な刺激コードの算出方法というのが手探り的に確定されていく。 で、こういうノウハウが蓄積された先で、そうしたノウハウ全てと共通する何らかのモデルが作れたら、それがいわゆる科学理論と呼ばれるようなものとなると思う。
>>141 そんなこといくらやってもクオリアとは関係ないよ。
どう思うかはイマジネーションの問題だと思う。 今の科学がどういうものなのか、そしてクオリアの操作を通じて構築される未来の理論がどういうモノになりそうか、 そういった辺りがイメージできると、クオリアを科学の中に持ち込むのにそれほど大きい原理的問題はないのが分ると思う。 問題はテクニカルなものがメインなんだというのが分ると思う。 これは実際になにか科学的な実験したことある人間にとっては常識的な話になってしまうけど、 現在の科学がナノスケールの対象を観測する方法ってのは、非常に間接的になってる。 物質の化学組成を調べるのに使われる様々なクロマトグラフィにしろ 原子の状態を見るのに使われる電子顕微鏡やAFMにしろ、 素粒子の挙動を見るのに使われる霧箱や泡箱にしろ、 どれも非常に多段階のロジックを経た上で「対象を観測した」ということを主張してる。 だから「そんな対象が本当にあるのか?」という懐疑が入り込む余地は常にある。 でも科学者たちはもはやそんなことは考えない(哲学者たちでさえ議論はしても、本気では疑わない) なぜか? それは「対象の振る舞いを記述する理論」とキレイに整合性を持つ形で、「対象の制御を行える」からなんだと思う。
自然科学の扱う「真理」はそういうレベルでいいんだろうが 哲学はそれほどいいかげんじゃないんだよ。
うん、真理ね。 俺は宗教がかってないなら、反実在論的な考えが一番普通だと思うんだけど、 あなたが言うところの哲学で扱われてるいいかげんでない真理てなに?
(追記) あと数理哲学や計算複雑性理論なんかの方面からの議論(いわゆるゲーデルにつらなる議論)でも 「思索の果てに獲得される世界の真理」なんてイメージは、一種のファンタジーとして、背理法を用いた演繹的証明で棄却されてる。 (もちろん無矛盾な形式体系の中で、という前提つきの話だけど)
整合説では満足できないってことだよ。
「満足できない」ってのは、言い方は悪いが「宗教的」動機だろう?まあ気持ちはわかるんだけどね。 もちろん具体的に整合性以上の何かを提示できるなら別だけど、 それはクオリア単独の話よりも難しい、認識論の問題だよね。 「理屈としては整合性以上の何かは出せない。それ以外の何かを信じるかどうか、これは信仰に近い問題になってしまう」 これが21世紀現在としては普通の考え方でしょう。
ぜんぜんちがうよ。 だいたいにおいて >クオリアを科学の中に持ち込むのにそれほど大きい原理的問題はないのが分ると思う。 >問題はテクニカルなものがメインなんだというのが分ると思う。 なんてのは、クオリアがなぜ自然科学上で問題になっているのかについての基本的な理解が欠けている。 それに >それはクオリア単独の話よりも難しい、認識論の問題だよね。 なんてのもそう、クオリアが認識論の問題でなくていったいなんなの? クオリアとその中心概念がこの数百年どのように議論されてきたかまったく知らないらしい。
これは大切な点だと思うから描いとくけど、文科の人だよね。 原子論がデモクリトス以来2000年にわたって哲学でどう論じられてきたか知ってる? 色々あったんだろうけど、前世紀に結局それらは全部まるっと消えちゃった。 言語もギリシャ以来ずっと哲学のテーマとして語られてきたけど、 そろそろそれも終わりつつある時代に入ってるよね。 クオリアもそれと同じような話になる、ということだよ。
あまりにもおおざっぱすぎてついていけない…
(追記) ここらへんはコッホと同じような考えだけど、 どんな科学分野もおおよそ、始まりにはまず哲学の分野での議論があるよね。 そしてやがてそれが問題として定式化されて、研究の方法論が定まりだすと 科学とよばれるような感じになっていって、哲学の方での議論はもっと根源的な部分へとシフトしていく。 宇宙論とか良い例だと思うけど、始まりは完全に哲学(または宗教)だよね。 でも観測技術が進み、解析のツール(数学とかね)が進歩するにつれ、科学的に取り扱われる範囲が拡大していって 哲学が担当する領野というのは、もっと本質的な部分へとシフトしていってる。 クオリアの問題も同じだと思う。BMIを通してクオリアを制御する技術が日常化する時代がやがて来る。 しかしもちろん認識論と呼ばれるような問題はまだ残ると思う。でもそれは非常に深いレベルの議論としてしか残らないと思う。 つまりそういう問題は普通の科学者や技術者からするともうどうでもいいレベルの問題になっていると思う。 現代のエンジニアが、時間や空間に関する哲学的議論を知らないでもスペースシャトルを設計できてしまうのと同じような感じで。
あぁ、ぜんぜんわかってない…
んなことないよ。 宇宙に始まりがあるかどうかなんて論じても時間の無駄だ、 昔、超有名な哲学者がそういったよね。カント。 これ哲学の分野での議論ね。 でも光のスペクトルを高い解像度で分解できるようになって、赤方偏移が観測された。 そしてそれをドップラー効果とみなして、科学者たちはハッブル定数なんてものを作った。 そしてハッブル定数の速度で今 宇宙が膨張してるなら、昔は宇宙は点だったはずだ、とかいってビッグバン仮説をこしらえた。 で、宇宙の寿命は150億年ぐらいです、と。これ今やどこでも伝えられる話になってしまった。 さぁ、ここでカントの上の主張はどういう位置づけになると思う? 実際のところ今でもカントの話は生きてるんだけど、科学者たちはあまり真剣には相手にしてないよね。 僕がいいたいのはこういうこと。 つまり今の哲学者たちの議論はやがてカントの議論と同じようなものになる、といいたいんだ。
どうしても自然科学的な思考のクセが抜けないみたいだね。
そうだね。哲学だけで何か具体的な理論を出せたことは一度もないからね。 萌芽としては最強でも、完成品は作り出せない。これは哲学の宿命だろうね。 というか形になると科学と呼ばれて、哲学の世界から出て行ってしまう。で、後に残されるのはまたもや曖昧模糊とした問題ばかりw まあ俺は哲学のそういうカオティックな所が好きなんだけど。
だからその理解がぜんぜんわかっていないっていうんだけどな。
まあ分ってないは簡単に言えるね。 哲学分野での議論はまだ有効だ、というのはいつでも言える。 「世界は夢かもしれない」この懐疑はまだ有効だね。 でも「ハイハイ、分った分ったw」のレベルになるね。 REMだとかノンREMだとか、夢というのが何かが大分分ってくると、必然そうなっていく。 あと大事なことだけど、認識論自体が脳科学の発展で、当然だけど、強烈に変わる。 自然化された認識論、それの先にあるものだけど、自然科学的思考とか哲学的思考とか、 そういう違いも結局の脳の神経細胞の接続状態の違いとして理解されていくと思うよ。 あなたの回路状態と私の回路状態をお互いに比べっこし合って、理解を共有していく、みたいな。 例えば 「あぁ、あんたの回路はこうなってんのか。そりゃこういう事を言うわなw 俺の回路とここが違うわwww」 みたいなね。
はっきりいうけど基本的に間違ってるよ。 哲学の初歩から勉強しなさいな。
間違ってるって、どこが? おそらくあなたは自然科学をほとんど知らないだろうけど、時代はドンドン変わってる。 それを把握せずに古い哲学者の議論を丸呑みしてるなら、そのほうが危ないよ。
(追記) あとあなたが言ってる哲学ってもしかして大陸系のこと? それなら俺、基本的に議論の対象に入れてないよ。
どこって…全部かな。
そう来るw まあ哲学さえよく知らないのか。何はともあれ間違ってるとか、言ってるけど、実際のところ僕が何言ってるかよく分からんでしょ? 自然科学(特に物理、生物関係)と工学(特に電子、情報系)を知らないなら、きっと僕の言ってることは意味フだと思うよ。
苦虫を噛み潰した顔で 「分かってない……君は分かってないよ」 と呟くのは哲学のお家芸です。
きっと勉強しないんだろうなぁ。
これは僕の見解だけど、クオリアは認識なんてコンピュータにでも出来るようなこと言ってるんじゃないと思うです。 人間の神経に直接情報を流し込んでクオリアを体験させたつもりになることは出来るのかもしれないけど、 実際やっているのは脳の物理的状態の操作であって、クオリアというものを体験しているというのは分からないと思います。 他者の主観を客観的に観測できないなら、科学的手法のうちにクオリアというものを扱うことは妥当でないはずです。 ゆえにブレインインタフェースについての議論で、クオリアという統一的見解の無いキーワードを使わないほうがいいと思います。 それに脳の物理的状態を突き詰めても、クオリアに到達できるかは怪しいもんです。 自然科学者は自分のフィールドで活躍してほしいと思うのです。
うん、いい答え。それはあってるんだけど、間違ってるのは科学というもののの方の理解。 簡単な例。 天文学者は空を見上げて星を捉える。 でも本当は彼らは星を見ているわけではない。 彼らが見てるのは、ただ飛び込んでくる光だけ。 その光がどこから来たのかなんて、本当はわかりっこない。
(追記) もうちょっと具体例を並べると、 相対性理論は時空の理論、でも誰ひとり時間や空間それ自体を観測した人はいない。 量子力学は状態の重ね合わせとその収縮に関する理論、でも誰一人重ね合わせそれ自体や収縮それ自体を観測した人はいない。
>>154 >>158 それは分かる気がする。大衆と専門性との距離みたいなものだろう。
広く一般に採用される解説は、深い専門性はひとまず留保されて
表面的な部分だけでも十分説明がつけられる。
宇宙の広さを考える上で銀河系の範囲だけでも、一般から見れば
十分ですからね。ビックバンとか考える必要性がないでしょう。
質感が技術転用されるなら、あとは政治・経済のマターに移行して
適正な技術の使い方論に主軸がシフトして、認識論の活気は下がるだろう。
>>167 科学はそれでいいと思います。有用なんですから。
でもそれをクオリアといってしまっていいのかなと考えた次第です。哲学的に。
>>158 のような感じでいいんなら、ゾンビの仕組みが分れば
質感なんて分らなくても問題ないね。
科学というものを演繹的に考え過ぎているのでは。 科学は経験的で歴史的なものでしょう。 フォーマットも科学の発展過程の内と外で同時に育って行くのであり、 カテゴリや定義で厳格化するのは絶対的なものである必要ないでしょう。 もっと相対的な科学観でもよいと思います。
現代の宗教は科学といっていい。 俗流科学主義者は科学原理主義者だね。
175 :
THE グル :2008/03/14(金) 03:15:26 0
いいですか、 チンチンシュッシュッ チンシュッシュッ これが断言できます。 定説なんです。
というか、科学に固執しなければならない理由がわからない。 科学を相対的にとらえていて、原理主義に陥っていないのであれば、 不都合があれば、捨てればいいだけのこと。
>>176 科学に固執しているのは
哲学板までやってきて神経細胞がどうとか
見当違いの科学談義をしているやつらのことだろ?
>>177 科学を論じるべき話題では科学を論じ、
そうでない話題では、そうでないことを論じるというのが、合理的な態度なんじゃないの?
その必要があるのなら、哲学板で、「神経細胞がどうとか」を論じても、別に「見当違いの科学談義」だとは
私は思わない。
扱う話題によりけりでしょう。
>>176 >科学に固執しなければならない理由
科学的なモノの見方っていうのは、人類があれやこれやの現象を共通の認識で理解し、その知識と恩恵を皆で共有できるようにする為に長い長い間培われ洗練され続けてきたツール。
勿論万能なモノではないが、その実績とそれによって得られてきた恩恵は計り知れない。
だからクオリアに対しとりあえずそのツールで挑もうとするのは極自然な事。
思索の果てに今の科学じゃ通用しないかもって思ったところで、根本から異なったやり方をイチからつくるなんて一朝一夕にできるわけもなく、やはり基本の思考回路は従来の科学的手法に従ったものになってしまう。
>不都合があれば、捨てればいいだけのこと
科学を捨てるとなると「ニュートン力学じゃ無理だから、相対性理論で」とか「古典電磁気学じゃ無理だから、量子力学で」
とかそういうレベルのパラダイムシフトじゃなくなるからなあ...なんていうか、足場が全く無くなる。
こんなんでどうよ。
>>178 そう、話題によりけりなんだよ。
そしてクオリアについては哲学板で「神経細胞がどうとか」論じることは
見当違いなんだな。
>>179 >勿論万能なモノではないが、その実績とそれによって得られてきた恩恵は計り知れない。
〜
>だからクオリアに対しとりあえずそのツールで挑もうとするのは極自然な事。
あくまでも、そのツールが適合すればね。
ある手法から恩恵を受けられたから、その手法を別の事にも使いたいというのは
もちろん自然なこと、でも、そのために、手法それ自体を変えてしまっては、
本来得られたはずの恩恵さえ失うことになる。
>思索の果てに今の科学じゃ通用しないかもって思ったところで、根本から異なったやり方をイチからつくるなんて一朝一夕にできるわけもなく、やはり基本の思考回路は従来の科学的手法に従ったものになってしまう。
であれば、技術の向上を図るのが正しい考えかたじゃないの?
>科学を捨てるとなると「ニュートン力学じゃ無理だから、相対性理論で」とか「古典電磁気学じゃ無理だから、量子力学で」
>とかそういうレベルのパラダイムシフトじゃなくなるからなあ...なんていうか、足場が全く無くなる。
足場がなくなると何かまずいの?
例えば、宗教は現代社会でも消滅していないよね?
ブログのコメント欄とか見てると、あの茂木のファン層にはそういう感じの人が多そうだけど あなたはクオリアをもとに宗教的な方向にいきたいの?
>>180 まさかw
脳や神経細胞という単語使わずにクオリアについて論じてる哲学者なんておらんよ。
>>181 >手法それ自体を変えてしまっては
一応俺は貴方の意見に賛同しているから、従来の手法を変えようとかは思っていないよ。俺はね。
例えるなら、全く仕組みのわからない機械に対し、手持ちの道具でなんとかしようとしてた。
でも(ここまで言い切るのもどうかと思うが)貴方の言う通りだから何も生まれなかった、と。
>技術の向上を図るのが正しい考えかた
電子顕微鏡の発明とかそういうのでどうにかなるものとは思えないんだよね...
>足場がなくなると何かまずいの?
まずいというか、観察→仮説→確認→評価という科学的手法を捨てると、何をしていいかわからなくなって困る。
>宗教は現代社会でも消滅していない
宗教は各々の聖書から足場を得ているんじゃないかなー。聖書に書いてある事を基本疑わないわけだし、神学とかは
聖書の内容をどう解釈するかの学問に思える。ただ、そもそも宗教をここで例として挙げるのはちょっとどうだろ...
科学とその根本に似たところがあるとは思うけど、道具としての役割が全然違うんじゃないだろうか。
しかし依然クオリアなんてどうしようもないという思いが拭えないな...俺何のために議論してるんだろ。
>>185 >まずいというか、観察→仮説→確認→評価という科学的手法を捨てると、何をしていいかわからなくなって困る。
そういう問題は、他にもたくさんあるんじゃないの?
>宗教は各々の聖書から足場を得ているんじゃないかなー。聖書に書いてある事を基本疑わないわけだし、神学とかは
>聖書の内容をどう解釈するかの学問に思える。
クオリア論は、例えば、「自分が赤と感じていること」といったような
「独立した現象の存在」を疑ってないという点で、それを足場にしたいのなら、できるんじゃないの?
現に疑ってないようだし。
>ただ、そもそも宗教をここで例として挙げるのはちょっとどうだろ...
>科学とその根本に似たところがあるとは思うけど、道具としての役割が全然違うんじゃないだろうか。
宗教は、科学とは別の「手段」として示したのではなくて、
「科学を手段としなくても成り立つものの一例」としてしめしただけだよ。
>しかし依然クオリアなんてどうしようもないという思いが拭えないな...俺何のために議論してるんだろ。
どうしようもないものをどうすべきか、という点についての認識に違いがあるんじゃないだろうか。
私は、どうしようもないなら、どうもしなければいい、といっているだけだけど、
君はそれで済ましたくない何かがあるんじゃないの?
>>184 そう?じゃあ名前書いてみ。
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話は変わって
てか本当、科学と技術、これ知らないで観測は語れない。
つまり何らかの機器で対象を観測したときに、そこで何を見ているのか、これは実験を行う人間にとっては日常的な問題。
例えばこんな例。
電子顕微鏡で花粉を撮影した。画像を表示させると、花粉の表面に今まで全く見たこともないよう不思議な幾何学模様がボンヤリと写っていました!
さあ、ここでどういう思考が展開されるか?
様々な可能性が考慮される。
*新しい現象を撮影したかもしれない。
*いや、装置の真空が抜ききれてないだけかもしれない。だから変なホコリが陽極についているのかもしれない
*いや、装置がどこか壊れているのかもしれない
*いや、画像を表示させるモニターがおかしいのかもしれない
*いや、装置のどこかが磁気を帯びてしまったのかもしれない
*いや、強烈な磁気嵐が来たのかもしれない。
*いや、画像を処理するソフトがバグッたのかもしれない
*いや、俺の目がおかしいのかもしれない
現在の科学で行われている観測というのは、実際つねにこういうもの。
「はい実験しました、観測されたのはコレコレです」なんて単純なものじゃない。
様々な可能性を考慮して、多くの試行を積み重ね、そして最もありそうに思える選択肢を選び取っていくという、そういう作業。
まあこういうのは実際 簡単なものでもいいから、観測装置を作ろうとしたような経験がないと分らんかもしれない。
まあこういうのは議論しても無駄なのかもしれない。 特に実際の科学や工学を知らないで観測や理論について考るなら、 議論だけで状況を理解するというのはやっぱ難しい部分がある。 結局は、BMIの精度を高め、そしてそれを実際に使用してみる、これが全てなんだと思う。 そうすれば一体どういう様になっているのか、というのがみんなすぐ分ると思う。 BMIを用いて、「理論に基づいて」、意識体験を「再現性」をもって完全に「操作」する、 これが出来ることを実際にみなが体験したら、意識は取り扱い不能、なんてまず誰も言わなくなると思う。 「は?たかが意識の話だろ、なんで哲学が出てくんだ?哲学なんて関係ねーだろ」とかきっとみんな言い出す。
ハードプロブレムを論ずることに意味はないという主張と解釈しましたがそれで良いですか?
ノン、今のクオリアに関する議論が哲学に偏りすぎている、これに対する不満がBMIだとか何だとかごちゃごちゃ書いてる基本的な理由。 だから逆に「は?たかが意識の話だろ、なんで哲学が出てくんだ?哲学なんて関係ねーだろ」とか皆が言い出す時代になったら、 「いや、君は哲学で語られている論点を理解していないからそう言うんだ、例えばチャーマーズの有名な議論にこういうのがあって…」 なんて言ってる。
はず
主張は理解できるんですけど、ひねくれ者ですね。 クオリアが科学で取り扱えないのは自明と主張する人もいるようですし、 まず哲学をもってするのはしょうがないんじゃないですかね。
少しはひねくれてるかも。 でも自分としては、結構ど真ん中の直球ですよ。 どういう事かというと 「哲学なんてクダラン」とか言ってる哲学オンチの科学なんて駄目駄目だし、 かといって逆に「科学なんぞクダラン」と言ってる科学オンチの哲学も駄目駄目。 つまり科学と哲学はクオリアの問題に関して「車の両輪」になってるんだから、 どっちの視点が欠けても良くないぞ、と。
わりと古典になるんだろうけど、カント的な認識論は どうやって克服するのだろうか。 ●を見ると → ●に見える構成部位が刺激され → ●に見える ◆を見ると → ◆に見える構成部位が刺激され → ◆に見える では、●に見える構成と、◆に見える構成の両方を同時に刺激したら どうなるのか? 4つの可能性がある。 a.●が見える b.◆が見える c.何も見えなくなる d-1.★など、まったく別のものが見える d-2.○や■など類似した形が見える すなわち、認知と構成と物体は、一対一対応ができない。 なので、主体は物自体を理解することができない。
>>195 「●に見える」「◆に見える」っつっても視野上での座標が違うだろうし、同じだった場合単純に合成した形状になるように思える。
そもそも「形」っていう概念は視覚のクオリアによって得られる副次的なものだと考えるけど。
形状は周囲との色や明暗の差によって浮かび上がってくるもので、色みたいにそれ単独では感じられない。
形のクオリアってか、「●に見える構成部位(脳のどっかってことだよね?)」はちょっと考えにくい。
「●を見ると」って言い方はイデア論みたいな印象を受ける。
ここまで書いてこれ↑は論点ではなさそうだと思った。
そのカント的な認識論てのはつまり、人間は常に間接的且つ不確実にしかモノを感じられないということだよね。
これはクオリア問題を論じる上でどういう障害になって、克服する必要がでてくるの?
感覚器官とかから脳に来た刺激とクオリアとの間に大きな隔たりがあるってのが焦点で、刺激を与える「モノ」については特に不問なのでは。
音だとこんな例がある。 機器を開発する際に、音域をどこまでにするか調べていたらしい。 そして高い音になると聞こえなくなる事が分かった。 ところが高い音も低い音と合わせてならすと、聞こえることが 後の実験で分かった。開発している人々は困った。 高い音も聞こえる様にすると、機器のコストが高くつくのだ。 で、問題は、●と◆の構成を同時に刺激したときに「●」か「◆」が 見えた時である。 ●も刺激されているのに、「◆」が見えるのは何故か。 ◆も刺激さてれいるのに、「●」が見えるのは何故か。 ・一方の●や◆が、何らかの理由があって見えなくなるのだとすれば、 哲学的には、構成に付随してクオリアが発生する説への疑問。 ・ある構成が発生していても認知できない仕組みがあるのならば、 技術的には、まだ工学に過ぎないのではないかと言う問題提起。 言い換えると構成主義に対する限界。構成と効果の一元論が どこまで通用するのか。
ある意味、
>>189 のような装置なり操作なりができた後のほうが、議論としても面白くなりそうじゃない?
例えば、(クオリアそのものとは離れるかもしれないけど)装置が本当に完璧にできたとする。そして、
ある人にこっそりと装置をつけて、完璧にリアルな意識を作りながら、「ところで、今のあなたの
意識は本物?」とか聞いてみる(に当たる操作をする)。そうしたら、多分「当たり前だ、何言ってんの?」
とでもいう返事がくるだろう。しかし、操作しているほうから見れば、その返事は間違っている。はず。
しかし、例えば、ある人が「今、赤い色を見ている」と言ったら、普通、そのとおり赤い色を見ていると
されるだろう。それなのに、上の例で、ある人が「今の意識は現実だ」と言ったら、本人がそう言って
いるのに、容赦なく間違いだとされるんだろうか?本人の報告は、どんな場合にはそのとおり正しいと
され、どんな場合には容赦なく間違いとされるんだろうか?(あるいは、こういう疑問の立てかた
自体、大幅に的外れ?そうだったら失礼)
(付け足し) さらには、本当に完璧な装置・操作ができたとして、ある日、映画『マトリックス』みたいに全員に 装置が取り付けられて、さらに装置の不備もなく、装置を外してくれる人もいなかったとしたら、誰も、 今の意識は装置・操作によるものだと気付かなくなってしまうだろう。しかし、もしそうだとしたら、 今のわれわれがそういう状態ではないという保証は、何かあるんだろうか。 もちろん、こういう懐疑はいろいろ論じられていると思うけど、装置・操作ができるようになった時の ほうが、よりリアリティがあって、細かい検討もできるんじゃないかと。 きちんと勉強したわけでもないのに勢いで書いてしまったので、阿呆な疑問だったら失礼。
>>198-199 でも、それだと社会学的な疑問が残ったままだな。
内外差異がないまま、矛盾ない大系を作るのは意識的に不可能だと思うのだが。
>>197 人間の可聴域が数十Hzから20kHz程度なのは知ってるけど(知ってるというか昔、自分のパソコンと耳で実験した)、その話はしらなかった。
その問題は具体的なメカニズムを知らないから何も言えないけど(うなりとかが絡んでくるのかな)、
結局のところ、「外部世界の構成」が一対一対応で「脳の構成」を生み出してるわけではない、という単純な話に帰着するかと。
両義図形なんか有名だけど(錯覚の本によくある「壷と顔」とか「魔女と若い女」とか違った見え方のある図形のこと)
これなんか「外部世界の構成」がひとつ、しかし脳の状態はゲシュタルト・スイッチを境に、異なる状態の間を移動してるということかと。
ネット文化だと
でつ
(デツというひらがな、または右向きのスヌーピーの顔)とか
にしこり
(ニシコリというひらがな、または正面から見た松井の顔)とかが有名。
(追記) 本当に問題になるのは、脳の物理的状態とクオリアの状態が一対一(または多対一)のつながりになっていた場合だけ。 (ここで多対一はクオリアの実現に関して多重実現可能性が成り立ってる場合に相当する) つまり「脳の状態が全く同じなのに、感じてるクオリアが全然違うぞ」ともしなったら、新しいアプローチが必要になる。 今の所そういう事は確認されてないけど(というかそういう問題が確認できるほど、脳を時間的にも空間的にも高解像度で観測できる技術がまだない)
203 :
202 :2008/03/16(日) 21:54:15 0
修正 (誤)のつながりになって◆いた◆場合だけ。 ↓ (正)のつながりになって◆いなかった◆場合だけ。
>>198-199 「外部世界の実在」への懐疑だね。
で、
>上の例で、ある人が「今の意識は現実だ」と言ったら、本人がそう言って
>いるのに、容赦なく間違いだとされるんだろうか?本人の報告は、どんな場合にはそのとおり正しいと
>され、どんな場合には容赦なく間違いとされるんだろうか?
間違い、というのはこの場合ない。
例えば痛みに関して言うと、
腕に針が刺されたせいであろうと、背骨に電極さされて刺激されたせいであろうと、脳に電極刺されて刺激されたせいであろうと
実際痛いのは痛い。体験されてる痛みはどれもホンモノの痛み。
だから、痛みに対応した何かが、どこまであるのか、というのが問題になってくる。
これは真理の対応説なんかの文脈で論じられる問題に近いけど、基本的に論理を使って懐疑の網から出る方法というのはないかと思う。
>>202 しかし構成は要素ではないから、そう単純にはいかない。
仮に●が、[1.2.3.4]の構成が刺激された時に見えたとする。
そして各要素は、他の構成でも発生している。
例えば◆は、[1.2.5.6]の構成が刺激された時に見えたとする。
すると、[1.2]は●と◆のどちらの構成にも出現している。
では、●のクオリアは[1.2]に在るのか、それとも[3.4]に在るのか。
もしも、[1.2]に●や◆が内在されているのだとしたら
[3.4]や[5.6]は鍵に相当し、[1.2]だけでも質感は起きているが
それを認知することが出来ない事になる。
[3.4]や[5.6]に、●や◆の質感が在ったとすれば
[1.2]が鍵の機能となって、刺激に応じていずれのか質感を発生させる。
>>205 つづき
ここからが問題になるのだけど、今まで「構成と効果」の対応関係で
説明を付けていたのに、これだと「内在と機能」の説明になっている。
まったく同じ構成で別の質感、という対応関係に限らなくとも、
ある共通の部位が刺激されているのに、なぜ別々の質感が発生するのか。
共通に刺激される部位は質感の発生に於いて、どんな機能を果たして
いるのかが問題になる。
>>205-206 おもしろい。
その[1.2.3.4]とかの表記を、とりあえず「同時発火しているニューロンの集合」を表すものと単純解釈しちゃうと、
そういう議論こそコッホみたいな研究者が追いかけてる方向の先に待ってる問題。
ぶっちゃけそこまでの詳細な観測技術が得られるようになってきたらと、理論物理学者や数学者たちが大挙してこの分野(クオリアに関する理論の探索)に参入してくると思う。
とりあえずこれに関してもっとも単純なアイデアは
「同時発火しているニューロンの集合」と「クオリア」が一対一対応しているという考えだけど、
多分これはないだろう。
で、どうなるか。
こうした段階からは基本的に数学に長けた理論家たちの出番になってくる。
例えば大事なのは発火しているニューロンでなくて、発火しだしたニューロン(時間微分 d/dt)なのかもしれないし、
発火の空間的差異なのかもしれない(空間微分 d/dr)。
こうした注目すべきデータの切り分け方、それが一番大事で、
そしてそれがクオリアについての新しい科学理論になる。
まあ技術が進歩して、定量的データが蓄積されていくにつれ、こういう方向性の研究もドンドンされていくと思う。
こうした方向性の研究は現状だとトノーニの情報統合理論ぐらいしかない。
(追加) 注目すべきデータの切り分け方については 他に簡単な例として、茂木の相互作用同時性というアイデアがある。 これは時間軸を斜めに曲げて同時を定義する、という相対論みたいなアイデアだけど、 「一続きで発火したニューロンは、同時に発火してると見なす」というアイデア。 つまりニューロンが1→2→3と繋がってて、1が発火すると2、3と順番にポン、ポン、ポン、と発火した場合に、 この三つの発火は同時だよ、というアイデア。この一続きの発火したニューロン群を茂木はクラスタと呼んでる。 まあこんな風に色々なアイデア、切り口があるから、どれかがうまく当たるだろう。
自分の見てる赤のクオリアと 他人が見ているであろう赤のクオリアをどうやって比較するの? 装置がどうだとかいう以前に不可能だと思うんだけど。
>>209 比較可能性についてはいくつかおもしろい議論ができる。
右耳で聞いた音と、左耳で聴いた音、これは比較できるているか?
過去にみた赤と、今見ている赤、これは比較できるか?
>>210 できないんじゃない?
だからクオリアについてのデータというものは存在しえない。
>>211 ふむ、じゃあ右目だけを開いてモニターを見つめる。
そのとき見える視野のど真ん中にある青と、そこからほんとうに少しだけ横にある青、これも比べられない?
(例えばデフォルトのWindows使ってるなら、ウィンドウの上のバーの色とか)
>>212 Windows使ってないからわからないけど
青のグラデーションになっているなら
グラデーションのクオリアを感じているんじゃないの?
そうではなくて違う位置の色を比べようとすると厳密にいえば
>>210 でいう過去の色と現在の色の比較という要素も加わってくるから
「比較できない」ということになるかもね。
>>213 まあ常識からはずれることは何も問題じゃないけど、
そこまでいくと今度は、人間に比較できるものってあるかな?
>>214 厳密さを犠牲にすればあるんじゃないの?
自然的立場に立って「とりあえずさっき見た赤と今見た赤を同一としよう」という考え方でとおせば。
自然科学はそういう立場でしょ。
横レスごめんなさい、素朴な疑問が発生したので。 青さの違いを比較することなしに「青のグラデーションのクオリア」の把握ができるのかな?
>>216 青のグラデーションのクオリアは
青のグラデーションのクオリア以外どうにも把握できないでしょ。
そこから注意をグラデーションの一部分に向けて、「この色」として
違う部分に注意を向けて「この色」としてはじめて比較ができるんじゃないの?
そしてその際には
>>213 のような問題が待っているわけだ。
>>217 じゃあ色の変わるTVの映像と、色の変わらない写真の区別は、
僕達にはできないのだろうか?
まあ日常的な意味で言えばそれは「できる」んだけど、どうかな?
>>218 ごめん意味がよくわからない。
どういうことかな。
>>217 それはおかしいんじゃないの?
「青のグラデーションのクオリア以外どうにも把握できない」ということは
「青の微妙な色調の違いとしてしか把握できない」ということでしょ?
比較することなしに違いが把握できるのかな?
過去の色と現在に色の場合も「比較できない」ではなくて「比較しかできない」、だよね?
だって色として別々の個体なんだから。
そもそも「比較できる」こととしてなにが想定されてるんだろうか?
なんにしたって「過去の○○」と「今の○○」になっちゃうよね?
時間を解した比較ができないなら、変化してるかしてないかを判定できない、ということかな、 と思って聞いた。 けど聞いてからちょっと違うことを言いたがってるような気もした。 「グラデーションのクオリア」という発想だけど、これは差異に対応してクオリアが発生する、ということかな。 で、赤とか青とかはそこから出てきた一種の虚像、みたいな。 しかしこれはこれで、数学的に考えると、そうした差異に対応して生まれるクオリアがいくつかのルールが満たしさえすれば、 そうした差異の集まりは群になる。
そもそも
>>213 のような問題はクオリアに限った話じゃないでしょ。
科学だけが「自然的立場(
>>215 )」なわけじゃない。
哲学だってそう。
哲学的主張の比較ってどうやればできるのかな?
>>220-221 青のグラデーションが全視野を支配している状況を想像してみなよ。
そこから感じ取れるのは青のグラデーションのクオリアだから。
きみが言っているのは「グラデーション」という概念には「色の違い」が含まれていて
それには比較が必要じゃないか、ってことかな。
だとしたらそれはクオリアとは関係ないよ。
「青のグラデーション」という言葉はここで君に伝えるために便宜的に
使っているだけだからね。
>過去の色と現在に色の場合も「比較できない」ではなくて「比較しかできない」、だよね?
>だって色として別々の個体なんだから。
色として別々の個体という意味がわからんけど
比較できないというのは比較したところで同じなのか違うのかわからないということだよ。
>なんにしたって「過去の○○」と「今の○○」になっちゃうよね?
そうだね。原理的に比較不能であるわけだから
なにかと何かを比較するにはさまざまな前提が必要だということだね。
>>222 >そもそも
>>213 のような問題はクオリアに限った話じゃないでしょ。
そうだよ。認識論の話をしているんだよ。ここは哲学板だろ。
>科学だけが「自然的立場(
>>215 )」なわけじゃない。
>哲学だってそう。
おいおい、でたらめなこというなよ。
自然的立場の哲学者なんて数える程しかいないだろ。
ということで今日は終了するね。
224 :
221 :2008/03/18(火) 06:17:42 0
>>223 >自然的立場の哲学者なんて数える程しかいないだろ。
そう?
少なくとも科学者にしろ哲学者にしろ僕らの思考は脳の物理的な過程だ、という前提は共有されてると思うけど。
>青のグラデーションが全視野を支配している状況を想像してみなよ。
>そこから感じ取れるのは青のグラデーションのクオリアだから。
>>220 と
>>221 は別の人間のレス。わかりにくいね。
とりあえず、その発想はおもしろいと思う。
差がまず先にある、ってのは結構いいかも。
差というのはそれはそれで構造を持ちうるから、そこを考えるとおもしろいかもしれない。
差が構造を持つ、というのは AもBもCも何なのかは分らないが *AよりBの方が音が高い、 *BよりCの方が音が高い、 という事だけはわかる場合に *AよりCの方が音が高い という事(推移律)が言えたりするなら、そこにはちゃんと何がしかの構造があるぞ、という事。
>>224 > 少なくとも科学者にしろ哲学者にしろ僕らの思考は脳の物理的な過程だ、という前提は共有されてると思うけど。
科学者はそうだろうね。哲学者はもっといろいろな可能性を考えているよ。
>差がまず先にある、ってのは結構いいかも。
差がさきにあるというとちょっとちがうかもね。
その「差」を「差」として認識するのはクオリアを感じて以後の話。
クオリアは概念化されていないものを指すから。
>>209 そんなのリンゴを一個用意して、別々の人に同じリンゴを見せれば
"見ている赤"は同じになるでしょ。
228 :
考える名無しさん :2008/03/18(火) 21:44:17 0
>>227 >"見ている赤"は同じになるでしょ。
各自の"見ている赤"(クオリア)が同じかどうか判断できないというのが問題なんだろ。
各自に「見られているリンゴの赤」は同じだとしても。
ただ、各自の赤のクオリアに多少のばらつきがあってもクオリア問題としては
どうでもいいことだけどね。クオリアが物理的にどのような作用を及ぼすかが
クオリア問題だから。
>>223 概念というか「グラデーション」の意味はさ、色なら色が段々と変化してってる様子のことでしょ?
で、グラデーションのクオリアが把握可能ならそれを比較に利用すればいい。
「この青」と「あの青」で
>>213 のような問題が発生するなら2つの青をくっつけちゃえばいい。
くっつけた2つの青が全視野を支配している状況を作り出せばいい。
その状況で一面べたな青のクオリアなら2つのクオリアは同じだということだろうし、
グラデーションのクオリアだったりしたら2つの青は違うといえるんじゃない?
他人のクオリアと自分のクオリアが比較できない、ということは普通は
「比較したところで同じなのか違うのかわからない」という意味ではなく、
そもそもクオリアなんて主観的な現象だから比較しようにも他人のクオリアなんて把握できないんじゃないの?ということだと思う。
「他人のクオリアがわかる?意味わかんない。他人のクオリアがわかった時点でそれは自分のクオリアだろ?」みたいな。
>自然的立場の哲学者なんて数える程しかいないだろ。
俺が何か誤解してるかな?
自然的立場ってのは、例えば目の前のりんごを5秒間見つめたときずっと同じりんごだと考えるような態度のことでしょ?
勿論こういったことをあらためて反省的に考えるような議論も哲学にはあるだろうけど、
そうじゃない議論のときは哲学者もこういう立場を自然にとるよね?
>>228 そんな話はしてない。
自分の見ている赤と、他人が見ている赤を比較するなら
自分が"見ている赤い物体"を持って来て、他の人と比較するだけの話だ。
ここでは質感としての赤の話はしていない。
質問です。 クオリアっていくつあるんですか?
クオリア、クオリアについてのクオリア、クオリアのクオリアのクオリア・・・ 以下略
クオリアについてのクオリアとは何だ。 クオリアを再帰的に体験するなんてありうるのか?
>>228 >ただ、各自の赤のクオリアに多少のばらつきがあってもクオリア問題としては
>どうでもいいことだけどね。クオリアが物理的にどのような作用を及ぼすかがクオリア問題だから
極端な例として、逆転クオリアの可能性があるけれど
君の感じているクオリアは実は他人の感じているクオリアとまったく違う色を感じている
かもしれない。ただそれは自然科学的アプローチではまったくわからないままなんだ。
いくら脳の観測装置が発達してもね。多少のばらつきどころではなく
赤が緑に見えているとしても他人には気付かない。
それがクオリアは自然科学では記述できないということの意味だよ。
>>229 違う色が隣り合ったクオリアを感じることは当然あるだろうね。
でもそれがさっき見たグラデーションから取り出した2つの色と
同じかどうかというと、また
>>213 の問題が生じる。
>そもそもクオリアなんて主観的な現象だから比較しようにも他人のクオリアなんて把握できないんじゃないの?ということだと思う。
>「他人のクオリアがわかる?意味わかんない。他人のクオリアがわかった時点でそれは自分のクオリアだろ?」みたいな。
そうそう。まったくそうなんだよ。
原理的にクオリアは私秘的で、それについての知識を共有したり
蓄積したりすることはできない。
>勿論こういったことをあらためて反省的に考えるような議論も哲学にはあるだろうけど、
>そうじゃない議論のときは哲学者もこういう立場を自然にとるよね?
おれは哲学者がどういった主張をしているかという主張の内容について言っているんだ。
あのヒュームでさえ「机を離れるときは自分の懐疑論からも離れる」というようなことを
言っているけど、だからといってその主張がただちに「偽」となるわけではないからね。
>>230 みんなそんな話をしているんじゃないの?
ここはクオリアについて話をするところでしょ。
>>234 >そんな話をしているんじゃないの?
違う。流れを読んでからレスする様に。
「私の感じている色と、あなたの感じている色は違うかも」に固執し過ぎてる。
物体と名称は同じなんだから、質感が違おうともこの場合は差異がある。
>>235 >違う。流れを読んでからレスする様に。
ちがわないよ。おれが
>>209 を書いてからはそういう流れだよ。
君だけが違うはなしをしているようだが。
>「私の感じている色と、あなたの感じている色は違うかも」に固執し過ぎてる。
だってそれクオリアの問題のなかでも重要な点じゃん。
その点で「クオリアは自然科学では記述できない」って指摘されたんだからね。
それを無視して「きっとみんなだいたい同じようなクオリアを感じているに決まってるよ」
なんてのを前提にしてしまうのなら自然的態度と変わらないじゃん。
> 物体と名称は同じなんだから、質感が違おうともこの場合は差異がある。
わるいけど意味がわからない。
>>234 > そうそう。まったくそうなんだよ。
> 原理的にクオリアは私秘的で、それについての知識を共有したり
> 蓄積したりすることはできない。
その通りで、いわゆるクオリアの問題は私秘性にあってそれは主観的に閉じてて主観をまたがって共有することはできないという意味だよね。
一方であなたが言ってることは同じ主観においても共有することができないようないわば今秘性とでも呼べるようなことじゃない?
で、後者の問題はあなたも言ってるようにクオリア固有の問題ではないよね。
> おれは哲学者がどういった主張をしているかという主張の内容について言っているんだ。
> あのヒュームでさえ「机を離れるときは自分の懐疑論からも離れる」というようなことを
> 言っているけど、だからといってその主張がただちに「偽」となるわけではないからね。
クオリア問題を論じている哲学者は一つのりんごを前にしてりんごの色のクオリアが私とあなたで違うかもと考えてる。
でも彼ら哲学者も私とあなたが目にしているりんごは同じ一つのりんごだと考えてると思うな。
>>234 >極端な例として、逆転クオリアの可能性があるけれど
>君の感じているクオリアは実は他人の感じているクオリアとまったく違う色を感じている
>かもしれない。ただそれは自然科学的アプローチではまったくわからないままなんだ。
>いくら脳の観測装置が発達してもね。多少のばらつきどころではなく
>赤が緑に見えているとしても他人には気付かない。
うん、それはよく言われる話だね。でも俺は明らかに違うと思う。
個人が自分の右目と左目から得た色を比べられる程度の意味では、確実に異なる人間同士のクオリアも比べられる。
物理的にある個人の脳で実現されている事(比較)が、それ以外の領域(間主観)では物理的に実現できない、なんて考える方が難しい。
239 :
238 :2008/03/19(水) 23:09:31 0
(補足) もちろんそのための具体的方法論はまだ未知だけど、おそらく脳と脳の間を 物理的に、または情報的に結合させるような何らかの仕組みによって間主観のクオリア比較が実現できると思うよ。 つまり、科学の歴史において、有機物がたどった歴史的経緯と似たようなことになると思う。 かつては有機物は生体内でしか発見されないから、これは生物的な何かがないと合成できない物質なんだ、 なんて考えられてた。けど、それは間違ってた。別にビーカーの中でも有機物を合成することは実際にできる。 ただその合成のしかたが一般に複雑なメカニズム(酵素のような複雑な構造の分子を介して行われる反応)のもとで進むために、 合成法がわからない、からいつのまにか、合成できない、という考えが生まれていた。 クオリアの私秘性の話もおそらく同じ。 比較法がわからない、が、比較できない、という考えに転じてるだけかと。
>>236 根本的な部分が誤解しているようだが、
「私の見ているりんごの赤と、他人が見てるりんごの赤の、質感の同一性の不確かさ」
というのは
「りんご」と「赤」の同一性を維持しているにも拘わらず、「質感」が違うであろうから
記述が不可能なのであり、またある共通の質感そのものを存在論的に在るだろうと
推定して、私と他者の同一の質感を推測するのが不可能かもしれないのである。
「りんご」や「赤」など客体的な記号があるのなら、
りんごの赤を見た私と、りんごの赤を見ている他者を、比べればよろしい。
「赤」と言われて「青」を指差す人はいないし、
「赤」と言えば「りんご」や「夕日」を言葉にするんだから
質感が違おうと行動は同じ。だったら行動や言語の同一性を固定してから
質感や脳や神経の方も同一なのかと調べればいい。
難しく考えすぎた時はシンプルな考えに戻りましょう。
241 :
考える名無しさん :2008/03/20(木) 01:14:34 O
>>237 >で、後者の問題はあなたも言ってるようにクオリア固有の問題ではないよね。
そうだね。認識一般の問題だからより広い問題だね。その問題を提起したのは
>>212 だよ。
>でも彼ら哲学者も私とあなたが目にしているりんごは同じ一つのりんごだと考えてると思うな。
それは哲学者によってさまざまでしょ。
>>238 >個人が自分の右目と左目から得た色を比べられる程度の意味では、確実に異なる人間同士のクオリアも比べられる。
ところが比べられないんだな。比べようがないと言ったほうがいいかな。
>おそらく脳と脳の間を
>物理的に、または情報的に結合させるような何らかの仕組みによって間主観のクオリア比較が実現できると思うよ。
なぜ比較できないのかというと、どうしても比較する主体のクオリアを通した比較にしかならないから。
君の脳とおれの脳を接続して、おれが感じているだろうクオリアを君が感じることができるとされる装置が開発されたとして、
「君が感じたクオリア」が「おれが感じているだろうクオリア」と同じかどうかはわからない。
なぜならそれは「君が感じたクオリア」でしかないから。
「比較法がわからない」のではなくてどのような方法をもってしても「比較できない」ということ。
>>240 >「赤」と言えば「りんご」や「夕日」を言葉にするんだから
>質感が違おうと行動は同じ。
だから問題なんだよ。
あるひとは「りんご」や「夕日」や「火」や「血」の色を「赤」といっているけど
じつはおれのいう「青」を感じていているかもしれない。
そしてそれはいくら彼の脳を調べてもわからないわけだ。
243 :
238 :2008/03/21(金) 13:51:30 0
>>242 >なぜ比較できないのかというと、どうしても比較する主体のクオリアを通した比較にしかならないから。
あなたの立場はどうもデカルト的な前提があるように思う。
というのも、主体っていったい何のことを指してる?
それは脳細胞をバラバラにしてもまだ残る?
>>243 デカルト的な前提がこちらにあるのではなくて
> それは脳細胞をバラバラにしてもまだ残る?
というような思考にある種の前提があるんだよ。
自然的態度という前提がね。
>>244 自然的態度というのが具体的に何を指してるのかは分らないけど、もちろん僕が前提にしてるものは沢山あるよ。
何の前提もなしで思考の展開なんてできないから。
でも、「この世は全て蝶々の見てる夢かもしれない」なんて前提に基づいて話を始めようとは思ってない。
ごくごく素朴な前提、たとえば「頭蓋骨を開けると脳がある、この脳をつぶすとそのヒトは死ぬ」とかまあそういう類の話を前提に話を進めるよ。
まあ僕の立場はこんな感じ。
で、あなたが使った主体という概念、
おそらくデカルトのコギトやホムンクルスと呼ばれる概念と似た類のものなんだと思うけど、具体的にどういうもの(こと)になる?
246 :
238 :2008/03/21(金) 14:31:35 0
(補足) 補足というか、比較に関してのまた別の話だけど 長さの比較に関する思考実験をひとつ書いておくね。 「夜すべての人々が寝静まったころに、なぜか知らないが、世界のすべてのものの大きさが突如二倍になった。 翌朝、目覚めた人々の身長は二倍になっており、服の長さも、ベッドの高さも、天井の高さもすべて二倍になっていた。 さあ人々はこの変化に気が付くことが出来るか?」 これそれなりに有名なお話だけど、クオリアの話に対しても何がしか参考になるところがあるかも。
>>245 自然的態度っていうのは日常的意識の水準における非反省的な態度のことだよ。
つまり、日常生活者は日常のさまざまのできごとが
現に目の前にあらわれている姿以外のものであるかもしれないという疑念をあらかじめ封じてしまい、
あたりまえのことと感じてしまう。
「ふだんのこと」に関しては、とくに関心を払わず「そんなものだ」と信じてしまっていて、
「ひょっとすると別の可能性もあるな」とは考えない。
そのような状態が「自然的態度」。
>で、あなたが使った主体という概念、
>おそらくデカルトのコギトやホムンクルスと呼ばれる概念と似た類のものなんだと思うけど、具体的にどういうもの(こと)になる?
哲学で一般的に言われるところの主観のことだよ。
>>246 気がつかないんじゃない?
だって昨日の夜全ての長さが3倍になったけど
だれも気がついてないじゃん。
それはさておきそれってクオリアの話とどうつながるの?
248 :
238 :2008/03/21(金) 14:57:00 0
>>247 >自然的態度っていうのは日常的意識の水準における非反省的な態度のことだよ。
自然科学的の意味かと思ったけど、「素朴」の意味ね。了解。
>「ひょっとすると別の可能性もあるな」とは考えない。
いや懐疑は懐疑でいいいんだけど、
可能性なんて無限に列挙できるんだから、実際のところは思考の栄養剤以上の役には立たないでしょう。
例えば、あなたはどの懐疑をいつ引っ張り出すかについての基準をどうやって設けてる?
>哲学で一般的に言われるところの主観
時代によっても話者によっても文脈によっても、この言葉の使われ方はかなり広い。
誰が言うところの、ぐらいまでは限定してくれないと、ちょっとそれでは曖昧すぎるな。
>気がつかないんじゃない?
そう?これ実は哲学畑で出た問題だけど、物理学者がこのテーマで論文書いてたりする。
そういうのは無理だ、とか、いや出来るとか。
>>247 >それはさておきそれってクオリアの話とどうつながるの?
「比較」や「計測」の概念の掘り下げに使えるかと。
というのも計測科学とか勉強すればわかるけど、ものを測るって結局は「基準となるものと比べる」という行為でしかない。
二倍世界の実験からも分るだろうけど「絶対長さ」というのは分らなくても実は何の問題もない。
それぞれの世界のメートル原器と同じ長さのものが1メートルだ、とこれで十分だと。
>>248 >可能性なんて無限に列挙できるんだから、実際のところは思考の栄養剤以上の役には立たないでしょう。
方法的懐疑の哲学的意義は知ってるかな。
非常に単純だけれど確実にそう言えることとそうでないことを峻別することだよ。
>例えば、あなたはどの懐疑をいつ引っ張り出すかについての基準をどうやって設けてる?
世界がどういうものであるかを考える際にはいつでも全体的に懐疑のフィルターをかけるけど
それは哲学というものの性質上みんなやってることじゃないのかな?
>時代によっても話者によっても文脈によっても、この言葉の使われ方はかなり広い。
>誰が言うところの、ぐらいまでは限定してくれないと、ちょっとそれでは曖昧すぎるな。
きみに主観があるとしたらそのことを指していると考えてくれていいよ。
厳密にいうとね、現時点ではおれがいうところの主観はおれがいう意味しか意味しないんだよ。
それとは別に「主観」というのは「これが主観です」なんて共有できないからね。
それこそクオリアと同様に相手にも同様なものがあるだろうと想定するしかない。
そしてもし自分に主観があるとしたら「主観ってなに」という質問はナンセンス以外のなにものでもないんだな。
>物理学者がこのテーマで論文書いてたりする。
>そういうのは無理だ、とか、いや出来るとか。
まぁ、物理学者だからね。こういう問題を考えることに不慣れなんでしょう。
> 「比較」や「計測」の概念の掘り下げに使えるかと。
クオリアには使えないだろうね。私秘性を考慮にいれていないんじゃないか?
251 :
238 :2008/03/21(金) 15:26:27 0
フランス哲学とかの方の人?なにか話がはぐらかしばかりのような気がするよ。 まあそれは置いといて、意味ある方向に話を進めるためにも とりあえずまずあなたが言う意味での 「可能なこと」と「確実にいえる事」 これをまず書いてみてほしい。俺はあなたの議論を聞いてる限りそんなことは何一つないように思える。
>>251 困ったね。
クオリアとはどういうものかの誤解を解こうとしているだけだったんだけど
話がどんどん関係ない方向に進んでいる…
意味ある方向に話を進めるために必要なのは、哲学で議論されているクオリアとは
どのような概念なのか、正しい理解のもとに議論するというのが前提だと思ったんだ。
このスレは初歩的な誤解を放置したままの議論が続いていたからどうにかならないものかと思ったんだけど、
これではらちがあきそうにないね。
もういちどクオリアについて書くと
クオリアの本来の定義から、クオリアを脳科学を含む科学一般で扱えないのは自明である。
これがクオリアであると外側から言うことはできないのだから、ある脳状態とクオリアとに関連があることを知ることは不可能である。
だから話題を脳科学に限定させても、
「結びつき問題はクオリアとは関係がない」(色や形の結びつけであってクオリアの結びつけではない)とか
「神経ネットワークの同期をクオリアに関連付けるのは無理がある」
(これがクオリアだと外から分からないのだから関連付けできない。意識ならば意識的とされる行動を通して可能)。
クオリアは初めから哲学的問題であって、どうやっても科学で扱えないのは定義上から自明
(クオリアを科学で扱おうするのは挑戦的だとか、そういうレベルの問題ではない)。
ということで、哲学板なんだからこれを前提にして議論しようよ、ってことなんだけどね。
それからフランス哲学は関係ないです。
どうでもいいけど、2倍になったら気付くんじゃ…。 目をつぶっている間に、目の前のリンゴの大きさが2倍になってたら、いくら皿やテーブルや定規 (目盛は同じとしても)も一緒に2倍になってたって、何かおかしくない? 人の感覚とか記憶とかとは全く関係なく、例えばメートル原器とかによる計測結果のみによって、 大きさが判断されるの?
>>253 そうかなぁ10倍になっていても気がつかないと思うね。
だっておかしいと思う理由がないじゃん。
>>252 測定によりクオリアとみなしていいレベルを実現するのが不可能なわけですか。
クオリアの定義からして自然化は絶対無理だという主張と解釈しました。
>>253 同じくおかしいと感じる理由が無いとおもうですけどね。
良く写真とかで大きさを比較する物が置かれるけど、それが無かったら大きいか小さいかわかんなくない?
256 :
238 :2008/03/21(金) 17:08:57 0
>>252 そうか、了解。
誤解はしてない。
えーとまず、そもそも真理なんて知りえない、というのが前提にある。
で、道具主義的なクオリアについての理論が出来たらそれでクオリアの話は終わり、それが僕の考え。
もちろん他にも色々議論はできるんだけど、そういう話は色々な懐疑と一緒で全部決定不全。
だからこれらは原理的に決定不可能な問題だということを示せればそれで終わり。
で、これらの証明は哲学的に議論され、最終的には数学的に証明されて議論が終わる。
そんな風になると僕は思ってる。
257 :
考える名無しさん :2008/03/21(金) 17:15:44 0
>>249 >それぞれの世界のメートル原器と同じ長さのものが1メートルだ、とこれで十分だと。
現在ではメートル原器など存在しないね。長さの基準は定義された光速と時間基準から規定されている。
だから現在では計測基準を変えるのは物理的な変化がなければ人為的に長さや時間の
基準を変えることは出来ない。だからすべての長さが2倍になった世界など哲学者の
妄想でしかない。
>>256 >誤解はしてない。
そう?それなら観測装置の如何にかかわらず他者のクオリアを感じることなど
できないし、したがって科学で記述できないということも理解できるよね。
それならいいんだけど。
259 :
238 :2008/03/21(金) 17:30:26 0
>>252 >クオリアは初めから哲学的問題であって、どうやっても科学で扱えないのは定義上から自明
だからそこなんだね。科学で扱えないってどういう事?
実際の科学が如何にいい加減で泥臭いものか、そこは踏まえてるかな。
>>257 そら思考実験なんだから、妄想に決まってる。
あとトレーサビリティのより上位に位置してるのが光の波長というだけで、原器自体はまだあるでしょ。
てか光の波長とかいってもほとんど皆わからんだろうから原器て書いた。
まあ世界が倍てのは空間がビヨッと引き伸ばされる、とかそういうことね。
で、整合的に物理法則も変わる。つまり同じエネルギに対する光の波長が倍になる、みたいなね。
まあこれが整合的にできるかどうか、てのが物理学者の議論の中身なんだ。
260 :
238 :2008/03/21(金) 17:39:39 0
>>258 何かというとね、何を見てるか、ていうあなたの議論があまりに素朴にすぎるんだ。
例えば電子顕微鏡の原理とかわかる?電顕で取ってる値は電流だけ。物の形なんて全く見てない。
MRIなんかも何見てるか知ってる?ただの電波。脳の形なんて全くみてない。
>>258 >他者のクオリアを感じることなどできない
分離脳の実験はどう思う?
あれは脳梁の切断によって擬似的とはいえ一つの脳が二つの脳になった、みたいな実験(というか治療)だね。
で、これを時間的に逆回しにすると、二つの脳がひとつになった、みたいになってるよね。
>>259 >科学で扱えないってどういう事?
もういいですごめんなさい…
どうもクオリアの概念を理解するにはある程度の哲学の素養が必要みたいだね。
それがないと自然科学的アプローチから抜け出せないみたいだ。
>>260 でも観測装置に表示される数値を「見ている」わけでしょ。
それ認識論とは関係ない水準の話だよ。
263 :
考える名無しさん :2008/03/21(金) 17:53:03 0
>>246 >「夜すべての人々が寝静まったころに、なぜか知らないが、世界のすべてのものの大きさが突如二倍になった。
そのとき、質量は何倍になるの?時間は変化しないの?
長さだけ変わったなら感覚は変わるだろからすぐ気がつくだろう。
264 :
238 :2008/03/21(金) 17:56:07 0
補足だけど、電子顕微鏡やMRIなんかで用いられるアルゴリズムを見つける問題ってのは、 応用数学の世界では総称して逆問題(inverse problem)なんて名前で呼ばれてる。 つまり周辺情報から、一定の法則を仮定した上で、内部情報を数学的に再構築する問題のことね。
265 :
238 :2008/03/21(金) 18:02:29 0
>>262 >でも観測装置に表示される数値を「見ている」わけでしょ。
そう、数字を見てるんだね。誰一人電子なんて見てない。
じゃあなぜ電子についての理論が大学で教えられて、電機メーカーの工場でそうした理論が日常的に使われてるのか?
なぜショックレーや江崎玲於奈がノーベル賞をもらったのか?
誰一人電子なんて見てないのに。
266 :
考える名無しさん :2008/03/21(金) 18:22:21 0
>>259 >まあ世界が倍てのは空間がビヨッと引き伸ばされる、とかそういうことね。
ビッグバン宇宙論では宇宙全体が膨張してることは観測的事実なんだろ。
宇宙空間が膨張してるなら物の寸法も一斉に膨張するのかな?
違うだろ。せいぜい銀河系間の距離が変わるくらいだろ。
267 :
238 :2008/03/21(金) 18:44:25 0
>>266 んにゃんにゃ、頭を柔らかく。
例えば(色々な物理定数がうまいこと変更されて)水素原子のまわりを回る電子の第一準位の半径が倍になる、
とかそういう可能性のことを言ってるんだ。
こういうのは時間とか空間の性質に関わる議論として、物理学者としても結構興味をもつんだよ。
>>265 どうも話が哲学からそれていくね。
それは自然的態度が前提にあっての話だよ。
クオリアの問題を含んだ認識論で議論されているのは
もっと根源的な問題。
クオリアはどう扱われればいいのか。
>>269 いいもわるいも哲学で扱われていますが。
272 :
238 :2008/03/21(金) 21:15:52 0
>>268 で、もっと根源的な問題て?
それを書いてよ。さっきからそんなんばっかでしょ。
具体的な認識論のテーマあげてみてよ。
で、とりあえず自分の主張は哲学的な範囲で言えば次の点だけね。
反証可能性も経験的十全性も持つのようなクオリアについての理論を作り得る、
これだけ。
どうも認識論が出来てないから基本的なことをおさらいしておく。
>>253 認識論やクオリアに立てば、大きさが2倍になれば気付くことが可能だよ。
人間が認識できる世界は、量や幅を使ってしか捉えることができない。
しかし世界のすべてが2倍になった時、ある特別な感じを受けることも
可能だと考えられる。しかし人間はその感じを認識できないので
世界の大きさが変わっても認識ができない。
>>242 >それはいくら彼の脳を調べてもわからないわけだ。
どうも分かってないな。
Aさんが「●」を見て、「◎」に感じて、「赤」と言ったとする。
Bさんが「●」を見て、「▼」に感じて、「赤」と言ったとする。
「赤」という共通の言葉の先にある「◎」や「▼」を調べれば
それで済む話なんだよ。さっきから難しく考えすぎ。
別の人が見た時点で、他の人の主観に回収されるなんて
考えなくてもよろしい、主観にも共通性があるのだから。
問題は他者の感じている「赤」が、「◎」か「▼」なのかだ。
より問題を掘り下げるなら、「 」に感じる人や生き物の場合は
観測者はまったく認識不能なので厄介になるが、「◎」か「▼」
程度の水準ならどうってことはない。
>>242 > >でも彼ら哲学者も私とあなたが目にしているりんごは同じ一つのりんごだと考えてると思うな。
> それは哲学者によってさまざまでしょ。
例えば誰?クオリアを論じてる哲学者のほとんどがそういう前提を取ってると思うけど。
君と僕とでクオリアが違うかもなんて話は見てる何かが同じであって初めて意味を持つような話じゃない?
276 :
238 :2008/03/21(金) 21:30:30 0
(補足)
>>268 で、あとのあなたのいう根源的な、という部分。
まあ実のところ、おおよそ何をいいたいのかはわかるんだけど、そこはまさに議論しても無駄な話、だよ。
で加えて、それがなぜ無駄かもいくつかの前提の上で証明できるようになるだろうと思う。
というのも「懐疑」や「考え」というのも、これから全て神経ネットワークの状態として説明されていくだろうから。
つまり、
ここにAという神経ネットワークがあります、
この神経ネットは約1000億のニューロンから構成されています。
この神経ネットの各ニューロンの特性は〜〜〜です。
さて、この神経ネットワークはどのように時間発展するでしょう?
このアプローチで認識論の多くの部分は基本的に終わる。
例えば、『どういった懐疑がありうるか』という問題なら、ある特定の境界条件を満たす解(ネットワークの接続状態)の集合の性質を調べる問題に帰着されていく。
>>272 まいったね、なんども書いてるんだけどね。
自然科学上の観察には自然的態度が前提とされる。
自然的態度についてはすでに
>>247 で述べている。
観察装置の数値を見るにもそのような前提があってのこと。
そこにみんなに共有できる赤いリンゴがあるじゃん。というのと哲学的には同水準の真理性しか持たない。
こんなことは認識論の初歩の初歩。
認識論のテーマは認識一般だよ。
>で、とりあえず自分の主張は哲学的な範囲で言えば次の点だけね。
>反証可能性も経験的十全性も持つのようなクオリアについての理論を作り得る、
>これだけ。
それなら何度も言うようだけど原理的に不可能だね。
そしてそれは少なくともクオリアの概念を理解しているものは否定しないだろう。
ならばなぜ自然化などと言い出す奴が現れるのか。
>>273 追記
逆に考えることだって出来る。
例えば、ある日に自分の大きさが半分になったとする。体の動きや質量は変わらない。
ぴょんぴょん動き回って、同じくらいのエネルギーを放出しているからだ。
しかし、周囲の人はあなたが小さくなった事に気付けない。
どう考えても小さくなっているんだけど、認識する事が出来ないのである。
測定すると数値は小さくなっているのだけど、目で見たり触るだけだと
小さく感じられない。首も下に向けているのだけど向けている自覚ができない。
>>274 >「赤」という共通の言葉の先にある「◎」や「▼」を調べれば
>それで済む話なんだよ。
まぁ、科学ならそれでいいんじゃない?
>>275 ラッセル、フッサール、グッドマン、デネット、パトナム…
>>276 なるほど、君は認識論というものが分かっていないんだね。
そこに書かれているものは単なる科学の手続きだよ。
認識論はそういった手続きが可能となる条件について考察するんだけどな。
それがもっと根源的の意味。
>>252 は理解できているのかな?
>>278 科学者たちは自覚していないかもしれないけど
哲学的にはたったひとつの立場に集約される。
しかし哲学者はもちろんそうではない。
なかにはなんでも自然化しようなんていう乱暴な連中もいるだろう。
乱暴というより不徹底なんだけどね。
281 :
238 :2008/03/21(金) 21:52:26 0
>>278 おk。わかった。あなたは完全な科学オンチだ。
テクニカルなレスは完全にスルーしてるけど、そこに理由付けがすべてかいてあるんだ。
残念なことに今のあなたはまだそれが理解できないようだけど。
282 :
238 :2008/03/21(金) 21:56:38 0
>>280 >そこに書かれているものは単なる科学の手続きだよ。
>認識論はそういった手続きが可能となる条件について考察するんだけどな。
『「うん。その思考すべてが脳の所産なんだ。」という思考が可能になるための条件についての思考』という思考が可能になるための条件についての思考(以下略)
まあこんな感じで後退するだけでしょ。こういう話はいくらでも思考はできるけど、そんな認識論に意味あるものだせないんだよ。
284 :
238 :2008/03/21(金) 22:03:29 0
>>280 >
>>252 は理解できているのかな?
バリバリ。というか上で書いたBMIの話をちょっと遡って読んでほしい。
観測でなく各自が共通のアルゴリズムに基づいてBMI経由でクオリアの操作を行う、まずはこの点がキモなんだね。
で、この共通のアルゴリズムが科学理論、という流れ。
他人のクオリアなんて観測する必要ない。(技術的には体験できるだろうとは思うけど)
クオリア=ニューロン発火の集合群ですか?
286 :
238 :2008/03/21(金) 22:06:30 0
>>283 じゃああなたが言う認識論の論点について語っている書籍か著者か、もしいれば書いてって。読みたいから。
(茂木の本とかナシね)
>>284 観測できたらそれは他人のクオリアじゃない気がするけど
定義上観測しようのないものだろ
288 :
考える名無しさん :2008/03/22(土) 00:12:35 O
>>286 チャーマーズの『意識する心』がいいとおもうよ。
289 :
考える名無しさん :2008/03/22(土) 00:25:36 O
クオリアってのはおもしろそーな音の響きがあるが正直大昔から言われてきたこととなんら変わることもなく、唯心論を否定するちからもない
290 :
238 :2008/03/22(土) 07:14:35 0
>>287 クオリアは数学上の概念じゃないんだから、定義では決まらない。調べないと。
>>288 ありがとう。でもチャーマーズはもう呼んでる。チャーマーズはクオリアに関する科学理論を作れると考えてるんだよね。
>>289 唯心論は形而上がだからね。つmりもともと否定できる類のものじゃないんだよ。
>>282 横レスだけど。無限退行に回収するのはチープすぎるでしょう。
サブジェクトとメタ視点を繰り返すだけと言うのが、
本当に成り立つのかも、脱構築的にも疑問があって
客体をメタから見て、それメタから見て、メタのメタのメタのメタの…
メタのメタのメタのメタのメタのメタのメタのメタのメタのメタの
まだ終わらない…、メタ、メタ、メタ、メタ、メタ、メタ、メタ、メタ、
そのまた…、メタメタメタメタメタメタメタメタメタメタメタメタ………
これだけメタ視点を続ければ、最初のオブジェクトなんてどうなってるのか
分かったもんじゃない。そしてメタ視点と、サブジェクトがごちゃ混ぜになっていく。
>>282 それと認識論では、ある客体をある主体が認識する際に
どこまでを認識可能とするのかが問題になる。
有名な例で、カエルは動いている物体しか認識できないと言うのがある。
つまり、ヒトもそこに存在や現象が起きても、認識ができない可能性がある。
唯物論的には、物質的な変化を主体が認識していることになるのだが、
認識論的には、物質的な変化を主体が認識できるのは一部であり
その一部の認識を主体が物体に反映させて、私たちは物体を把握している事になる。
293 :
238 :2008/03/22(土) 11:07:35 0
>>291 うん、それは終わらないだ。
東洋哲学でいえば、それは仏教系の「空」や「一即一切・一切即一」、「重々無尽」なんて呼ばれる概念と似たもの。
西洋哲学でいえば、数理哲学系の自己言及の話になってくる。ゲーデルみたいな。
で、なぜ終わらないか?
これは簡単にいえば神経ネットワークの構造がそうなってるから、と思うよ。
だから「メタ化という行為の神経対応物」それが分れば、なぜある種のネットワークでメタ化という営みを収束させられないのか、
この問題は幾何学的な問題に還元できると思う。
>>292 そうだね、それぞれの生物がどういった情報を処理できるか、というのは感覚器官と脳の持つ「仕様」によるよね。
うーんと、僕が言いたいのは
「世界、そしてその世界から情報を受け取る主体」みたいな二元論的な枠組みを前提してるのはおかしい、ということ。
というのも物理世界から情報を受け取って判断を返していく非物理的な指令本部や参謀本部みたいなものなんてないから。
脳も物理世界の一部として、物理法則にしたがって時間発展しているひとつの系なんだよ。
294 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2008/03/22(土) 12:59:29 0
表象を受け取る主体と客観的実在の対立という概念があって初めて二元論 的な枠組みとなる。ただ無制約な知的特異点を前提するという意味が懐疑 の対象となるということであればそれは一元論でも同じことなのであり、 結局のところ一元論も二元論も共に形而上の実在を前提していることに 変わりはないという点では五十歩百歩なのである。 「このあり方で知覚する私」という複合的機能のスペックで情報を統合処理 することの困難な表象になればなるほどクオリアは次第にぼやけていく。 そしてその先の、もはや意識的な知覚の性能によっては見渡しの利かなくなる 微小表象の領域のことを我々は普通「無意識」と呼んでいる。 地平線の先にも地面が延長しているのを我々は知識によって知ることが出来る が、このことは直接的な肉眼では感覚されない。我々の視覚によっては空と 地平線が何時でも分離しているように写る。この状態はちょうど幾何学の 公理やら数学基礎論の空集合やらそれ以上分割不可能な最小の単位やら 素粒子やらクオリアする主体やら・・といった概念がそれ自体背理である にも関わらず人間の認識機能の上で必要不可欠なツールであるということ をわきまえるという状態のことなのである。 主体と客体の区別が実在しているなどということは本来的にはありえない。 「クオリアするこの私」という大雑把な感覚的先入見をこの良識に従って 微分してゆくとついには微小表象(無意識)を要請する何らかの汎心論的な 解釈となり、その際「純粋な能動因としての"この私"」は単なる局所慣性系 のようなものあるいは集光器のようなものとして相対化されてしまう。
>>293 場当たり的に返信してない?
話が切り貼りだらけのコラージュ状態になっている印象が強い。
これは二元論的な枠組みじゃないよ。
非物理的とか言ってる事がチンプンカンプンで話がかみ合ってない。
例えると、リモコンから赤外線が出ているけど、受信器が違えば
機器は赤外線を感知できません。ってそれだけの話。
形而上の実存とかそんな水準ではなく、日常的にも起こりえることです。
紙は水を吸収するけど鉄は吸わない、とかそんなレベルの話だ。
それから脱線ついでに答えると、非物理的な領域は観念としてある。
観念は個人の脳やらに限定されない。
>それは終わらないだ。
それも直観に反しているから言ってる。自己言及だとか言っても
1000回自己言及するなんて発想は、まだ聞いた事がない。
ミームではなく、レイヤーを何階層も重ねるなんてのは聞かない。
ポモお断り。
297 :
238 :2008/03/22(土) 15:05:01 0
>>295 >場当たり的に返信してない?
>話が切り貼りだらけのコラージュ状態になっている印象が強い。
うん、レスだからやっぱ場当たりてき。でも芯はあるよ。
えぇと、自分の立場は
1.真理は知りえない。
2.道具主義的な意味でのクオリアの科学理論を作れる(BMIでクオリアをアルゴリズムに基づいてコントロールする流れの中で)。
3.残る哲学的問題の多くは神経ネットワークの持つ位相的性質、またはその神経ネットワークが埋め込まれている時空の性質として理解されていく
4.それ以上何か、何か哲学の範囲だけで議論しても意義があるような認識論的問題、が残るということは考えにくい。
こんな感じ。
>例えると、リモコンから赤外線が出ているけど、受信器が違えば
>機器は赤外線を感知できません。ってそれだけの話。
>形而上の実存とかそんな水準ではなく、日常的にも起こりえることです。
>紙は水を吸収するけど鉄は吸わない、とかそんなレベルの話だ。
うん、それはわかるよ。でもクオリアの問題にからめて特に問題になる?
だってそれぞれの生物がどういった情報を処理できるか、というのは感覚器官と脳の持つ「仕様」によるでしょ。
たとえば人工網膜とか今作ってるけど、半導体素子でつくった受光素子は人間の網膜とは波長特性が変わる。
(一例としてデジカメにリモコン向けてボタン押すと、ピカッ、ピカッって赤外線が光ってるのが見れるよ)
だから多分人工網膜つけてる人は赤外線も少し見えてると思う。
まあこんな風に感覚器官というのは物理的に拡張できる。
298 :
238 :2008/03/22(土) 15:05:41 0
(続き)
>>295 >観念は個人の脳やらに限定されない。
うーんと、これはどういう意味かな?イデア論?
とりあえず携帯カメラで取った画像のデータは携帯のメモリー上にビットの配列として記録されてるでしょ。
人間の観念も一緒。そこにしかないではない?
>それも直観に反しているから言ってる。自己言及だとか言っても
>1000回自己言及するなんて発想は、まだ聞いた事がない。
>ミームではなく、レイヤーを何階層も重ねるなんてのは聞かない。
うーんと何をいってるのかよく分からない。すまん。
えと、計算が終わる終わらない、てのは計算複雑性理論で議論される話なんかを想定して書いてる。
例えば神経ネットワークがチューリングマシンと同じだ、とかなれば、
そういう分野の理論的成果を全部人間の思考を対象に拡張して捉えていくことが出来る、みたいな。
299 :
238 :2008/03/22(土) 15:18:41 0
>>295 >ミームではなく、レイヤーを何階層も重ねるなんてのは聞かない。
あぁ、もしかしてメタ数学は「上に」重ねて言ってる、という意味でレイヤーを重ねると書いたのかな?
数学についての思索だろうと、メタ数学についての思索だろうと、神経ネットワークの活動として見ればそれは
コノ場所でなされてる思考、ソノなされてる思考、みたいな話にしかならない。
パソコンだって「OSの上でアプリが動く」みたいな言い方するけど、これは人間が理解できるように、そういう仕組みで捉えていってるだけで、
回路レベルの振る舞いには、別に上も下もない。
なんだか、話があっち行ったりこっち行ったり、飛び飛びだから どこに向かってるのか分からない
どうやら認識論を分かってないみたいだ
302 :
考える名無しさん :2008/03/23(日) 09:16:52 0
クオリア問題は認識論の問題じゃなく自然科学としての問題だね。
303 :
238 :2008/03/23(日) 10:00:11 0
>>300 これらは全部関連してることだよ。
心の哲学は哲学の一分野でもあるけど、同時に認知科学という枠組みの中の一領域。
クオリアもBMIも計算複雑性理論も、認知科学という枠組みの中の一トピックだよ。
304 :
238 :2008/03/23(日) 10:01:24 0
>>297 とりあえず、立場と言うほどの強力なものではないと思う。
その意見にはコンピタンスはあるでしょう。主流にもなり得る。
認識論を知りながら書いているようにも見える。
しかし、ケチが付くのは必至だろう、最初から断念している訳だから。
将来的には、認識の外部性も、認識の内側に持ち込める様になるかも
しれないが(と言うか現在でも可能だが)、今はやれる事をやろうと
言うスタンスだろう。
>>302 認識論と自然科学は対立概念じゃない。
認識論は神秘主義みたいな、あやふやなものではなく
もっと合理的で科学と共有する領域も大きい。科学とは光と影みたいな関係だ。
>>303 しかし汚い
306 :
238 :2008/03/23(日) 12:51:31 0
>>305 >しかし、ケチが付くのは必至だろう、最初から断念している訳だから。
>将来的には、認識の外部性も、認識の内側に持ち込める様になるかも
>しれないが(と言うか現在でも可能だが)、今はやれる事をやろうと
>言うスタンスだろう。
うん、知りえない、というのは別に最初からというわけではなくて
この不可能性の証明が行われる時点が、古くから続く認識論の重要な転回点のひとつになるだろうと思ってる。
今のところゲーデルの不完全性定理をそのまま脳の議論に持ち込むことはできないけど、
「形式体系内部では自己の無矛盾性を証明できない」みたいな証明、
こういう類の証明が脳の構造を数学的に取り扱えるようになればできる。
そこで哲学分野の認識論はひとつの転換点を迎えると思ってる。
>しかし汚い
汚いのはコアとなる概念がまだないから。
例えば、生物に関する研究なんてのは、昔はてんでバラバラの知識の寄せ集めみたいなもんだったけど
「進化」と「ゲノム」という概念が軸としてできたことで、様々な知識間の相互関係が定まって、連結されていった。
分類学も解剖学も、そして医学や心理学も「進化とゲノム」という軸にそって、つなげて理解することができるようになっていってる。
でもこういう軸となる概念が認知科学にはまだない。だからゴチャゴチャに見える。
僕は今のところ、この領域で軸になりそうな概念は、コネクトームと情報理論の二つじゃないかなと考えてる。
この二つを軸に全領域を繋げていけるかもしれない、と。
>>280 >ラッセル、フッサール、グッドマン、デネット、パトナム…
いや、君と僕とで目の前のりんごが同一だという前提をおかずにクオリアの逆転を意味のある話として論じているような哲学者って誰?と聞いているのだけれど。
>なるほど、君は認識論というものが分かっていないんだね。
>そこに書かれているものは単なる科学の手続きだよ。
>認識論はそういった手続きが可能となる条件について考察するんだけどな。
>それがもっと根源的の意味。
>
>>252 は理解できているのかな?
早い話脳や電子にしてもクオリア同様に認識論一般の根源的な問題とやらはあるわけでしょ。
でも脳やら電子やらについてはいくつかの手続きを経ることでそれらの振る舞いを科学という形にまとめることができる。
脳や電子でできてクオリアでできないという理由は(私秘性も含めて)ない。
とまあ
>>238 さんの言ってる事を俺なりに乱暴にまとめるとこうなる。
これってまさに哲学わけても認識論の問題じゃないのかなあ?
こういうことは、それこそ科学的な研究が進むのを待つべきなんだろうけど。 ある一群の人々に、赤い色を見せながら、脳の働きを観察したら、Rという状態がみられ、青い色を 見せたら、Bという状態がみられたとする。ところが、別の一群では、赤い色のときにBがみられ、 青い色のときにRがみられた…なんてことがもし起こったら、面白いだろうなあ。もしそのような ことが起こったら、どう考えればいいんだろうか? いや、「その程度の研究はとっくに終わっている。そんなことは起こらず、脳状態は同じだ」という ことだったら、自分が無知なだけで申し訳ないけど。しかし、これに類似するようなことが決して 起こらないという保証は、何かあるんだろうか。あるいは、そんな保証はなくても、別に困らないだろうか。
>>308 その程度なら因果関係はあるのだから「起こりました」で済む話でしょう。
問題は「 」を見た時にBやRの反応を示した時、
赤や青を見ているのに反応を示さない時、
BやRの反応を示しているのに色が知覚できない時、でしょう。
観測者も含めて認識がなされないので、未知の因果系あり
科学的なアプローチが難しくなる。
310 :
308 :2008/03/24(月) 08:42:10 O
>>309 何か考え方にずれがあるような…?
それはともかく、
>>308 に書き忘れたことがあった。どちらの一群も、赤を見せたら「赤い色が
見えた」、青が見せたら「青い色が見えた」と言っている、という前提です。
>>290 「無脊椎動物は脊椎側湾症にならない」のが真なのは
まさに「無脊椎動物」の定義によるんだよ。
いくら無脊椎動物を調べたところでそれは「原理的に」変わらない。
特定の無脊椎動物と言われていたものがじつは脊椎動物だったということはあっても
それは単に分類上のミスであって「無脊椎動物」の定義が間違っていたことにはならない。
>でもチャーマーズはもう呼んでる。
あの本は「クオリアは科学では記述できない」ということにほとんど費やしていたと思うんだけど。
>チャーマーズはクオリアに関する科学理論を作れると考えてるんだよね。
いないよ。
>>307 >いや、君と僕とで目の前のりんごが同一だという前提をおかずに
>クオリアの逆転を意味のある話として論じているような哲学者って誰?
>と聞いているのだけれど。
「りんご」や「逆転クオリア」という要素を含めて
厳密に同じ話題を論じている人なんてここしかいないんじゃないの?
そうじゃなくて形而上学的な存在論に与せず、認識論でクオリアのようなものを
話題にしている哲学者なんてのは他にもたくさんいるよ。
>これってまさに哲学わけても認識論の問題じゃないのかなあ?
そうだよ。
つまるところ科学ということはこういうこと。 Aさんに赤いボードをみせたところ脳がRの状態になりました。 Bさん、Cさんの脳を人為的にRの状態にしたところ、 Bさん、Cさんとも「赤を感じた」といいました。 赤とは脳がRという状態になることです。めでたしめでたし。 でもここにはAさんの感じた「赤」のクオリアはどこにも記述されていない。 Bさんの感じた「赤」もCさんの感じた「赤」も記述されていない。 それが「波長 630-760 nm の光が網膜に入射すると現れる色」だとしても Aさんはそのときおれのいう「青」を感じているのかもしれないし、 Bさんは「黄色」を感じているのかもしれない。 でも自然科学という方法はそれにはいつまでたっても気がつくことは出来ない。 いくら観測装置の精度が上がろうがクオリアには一歩も近づけない。 これは技術の問題ではなく、自然科学という方法そのものがもつ限界。 誤解のないよう言っておくけど、 これは色を認識する機能の個体差のような問題ではないよ。
313 :
238 :2008/03/24(月) 16:38:21 0
>>313 えと…反論になってないんだけど。
>現在の物理化学理論では扱えない、新しい根本特性を導入する必要がある、これがチャーマーズの本の主張だよ。
そうだね。BMIを使用して脳を観察したり、神経ネットワークの性質を解明しようとするのは
すべて「現在の物理・化学理論」だよ。それがどうにかなるだろうなんてチャーマーズは未来の自然科学に関して楽観的すぎるね。
と思ってその論文を読んでみたけど…
結局のところ肝心なところは未解決だね。
つまり最終的な障害とされるもののひとつ
「一人称形式のデータを言い表すことができる一般的な形式の欠如」
これがクオリアの私秘性の問題だよ。
>>312 で書いた根本的な問題がここにある。ここが「肝心な点」なんだよ。
315 :
238 :2008/03/24(月) 17:47:32 0
>>314 もしBMIでクオリアを制御できるようになったら、その制御アルゴリズムの中に
必ず「一人称形式のデータを言い表すことができる一般的な形式」が現れなきゃならない。これはわかる?
あとあなたは、非常にシンプルで同一説的な脳とクオリアの関係を考えてるみたいだけど、おそらくそのパターンはない。
もっと違う「うお、そうなってたのかよ」といった感じの関係になってるはず。
316 :
238 :2008/03/24(月) 18:01:59 0
(補足) BMIに対してPCのインターフェース上から、たとえば「俺の視野の右上の方で、赤い点を三秒間光らせろ」という指令を与えたとする。 この指令を元にPC上で『変換アルゴリズムA』に従って実現すべき脳状態と、そのために必要な与えるべき信号が計算されて、 実際に電気信号がBMI経由で脳に入力され、「お、赤い点キタw」みたいになる。 こういう技術が達成されたとき構造は次のようになってる。 与えるクオリアの内容についての指令C、BMI装着者の脳状態Bnow、その他の要素Fetc ↓(投入) アルゴリズムA ↓(計算) 実現すべき脳状態Btarget、その為にあたえるべき信号のパターンS これ書き直すと A(C, Bnow, Fetc) = (Btarget, S) これをCに付いて解けば(要はC=の形に直せば) C = X(Bnow, Fetc, Btarget, S, A) 自動的に一人称形式のデータを言い表すための数学的表現になる。 まあすげえ単純な話だけどね。
>>312 だけど、その程度なら問題ないんだよ。
構成で説明が付けられるという前提に立つのなら何とかなる。
赤を見せて → Rの反応を示して → 赤が見える → 赤が見えたと報告する
と言う一連の流れがあるのなら、このプロセスを道具的・人為的に操作して
赤を見せると青が見える様に、赤を見るとBの反応を示す様に、
脳の反応を切り替えちゃえば済む話なんだな。
318 :
238 :2008/03/24(月) 18:11:27 0
>>316 の補足
ここでアルゴリズムA、Cを表現するための関数の形式X(両者は基本的に等価だけど)、
これが現在の物理の中に入ってない新しい理論、つまりクオリアについての科学理論になってるということね。
>>315 >もしBMIでクオリアを制御できるようになったら、その制御アルゴリズムの中に
>必ず「一人称形式のデータを言い表すことができる一般的な形式」が現れなきゃならない。これはわかる?
わかるよ。
そこには二つの仮定が含まれていて、そのうちひとつは原理的に不可能だっていうのはわかる?
>>317 >赤を見せて → Rの反応を示して → 赤が見える → 赤が見えたと報告する
>と言う一連の流れがあるのなら、このプロセスを道具的・人為的に操作して
>赤を見せると青が見える様に、赤を見るとBの反応を示す様に、
>脳の反応を切り替えちゃえば済む話なんだな。
で、結局「赤が見えた」「こんどは青が見えた」と報告する人が、実際どの色を感じているかはわからないわけだね。
さぁ、どうしよう?
>>318 >これが現在の物理の中に入ってない新しい理論
わからないかな。それは現状の物理の延長線上にあるものに過ぎないんだよ。
>>319 脳がRやBの反応を示していて、反応と報告との一致がある以上は、
赤や青を見ている看做せる。理論としてはそれで十分だ。
>>316 アルゴリズムとか読めん
321 :
238 :2008/03/24(月) 18:58:21 0
>>319 >そこには二つの仮定が含まれていて、そのうちひとつは原理的に不可能だっていうのはわかる?
仮定なんざ数限りなく含まれてるよ(それまでに世界が終わらない、とか)。
でもこれは聞いて見たい。重要な二つの仮定と、原理的に不可能な何かとやら。
とらえず何度も言ってるけど、僕が考えてるのは道具主義的なクオリアについての科学理論だけであって、
実在とか真理とかは完全に視野の外だよ。
>>318 延長ってどういう意味で?
ニュートン力学、電磁気学、量子力学、相対性理論、これが全部同じものだという意味ならそうだろうね。
単純に既存の理論の範囲内では、予測・説明・制御が不可能だったことを、新たに可能としてくれる理論ができたら、
ふつう物理学者はそれを別の理論、新しい理論が生まれた、みたいに形容する、そういう意味で新しい理論だよ。
>>320 わかったよ。
きみはあくまでも自然科学の理論としてかたちになっていれば事足れりというわけだね。
道具主義しかり、 実在とか真理とかは完全に視野の外しかり。
それはそれでいいんだよ。
なんども言うようだけど、自然科学なんだからそういった水準で充分だと思うよ。
でも哲学はそうもいかないんだよ。困ったことにね。
>脳がRやBの反応を示していて、反応と報告との一致がある以上は、
>赤や青を見ている看做せる。理論としてはそれで十分だ。
十分なんでしょう。科学では。
>ニュートン力学、電磁気学、量子力学、相対性理論、これが全部同じものだという意味ならそうだろうね。
そういった意味だよ。
それらはさっきのチャーマーズの論文でいうなら「三人称形式のデータを言い表すことができる(と思われる)一般的な形式」でしか
記述されていない。
で、チャーマーズが可能だと考える「一人称形式のデータを言い表すことができる一般的な形式」を伴った自然科学を、
おれは不可能だと考えているわけ。
そしてその理由はクオリアは私秘的なものだから。
323 :
238 :2008/03/24(月) 19:27:43 0
>>322 >きみはあくまでも自然科学の理論としてかたちになっていれば事足れりというわけだね。
>道具主義しかり、 実在とか真理とかは完全に視野の外しかり。
そうだね。それ以上は絶対いけない、僕はそう思ってる。
実在とか真理とか、これら哲学の古典的テーマ自体が一種の擬似問題なんだと僕は思ってる。デフレーションとかいう立場に近いのかな。
だって有限の情報処理能力と記憶容量しかないシステム(脳)で扱える内容に限りがあるなんてのは、自明すぎるほどに自明なことでしょ。
なのにまだ一部の人々は脳ミソなんてチンケな代物で何かが把握できると思ってる。でも、そんなの絶対無理だ。
もちろんこういうのはただ言ってるだけじゃなくて、近いうちにちゃんと証明されるなきゃいけないと思ってる。
>「三人称形式のデータを言い表すことができる(と思われる)一般的な形式」
Hψ=Eψ
これが世界を記述してる、っていうのが物理学の分野における記述という言葉の使い方。
Hやψのどこが、原子やタンパク質のようなんだ!どこが山や大地のようなんだ!こんなのただの文字じゃないか!
何も言い表せてないよ!
この主張もそれと同じ話でしょう。
>「一人称形式のデータを言い表すことができる一般的な形式」を伴った自然科学を、 おれは不可能だと考えているわけ。
もし物理学における世界記述(例えば Hψ=Eψ)を記述として認めるなら、この主張はおかしいと思うよ。
>>323 >そうだね。それ以上は絶対いけない、僕はそう思ってる。
信仰について、なにか言うつもりはないよ。
>これが世界を記述してる、っていうのが物理学の分野における記述という言葉の使い方。
>Hやψのどこが、原子やタンパク質のようなんだ!どこが山や大地のようなんだ!こんなのただの文字じゃないか!
>何も言い表せてないよ!
逆だよ、山や大地とクオリアを比べなきゃ意味ないじゃん。(クオリアと水素電子でもいいけど)
>>306 >コアとなる概念がまだないから。
概念ではなく、むしろ言語がないような気がする。
>>324 >信仰について、なにか言うつもりはないよ。
うん、何もかもが基礎付け得ないという意味では、信仰だね。あなたの思ってることもね。
で、このことは僕の思ってることと整合的だよ。
>逆だよ、山や大地とクオリアを比べなきゃ意味ないじゃん。(クオリアと水素電子でもいいけど)
ん?これはちょっとわからない。
やっぱ二元論(世界と主体という構図)が元にあるのかな?
とまあ、今日はここまで、またレスするね。
>>322 哲学的に考えたいなら、科学に意見するよりも、
哲学的な領域を広げて考えたほうがいい。
哲学ならば、質感の私秘性に限定する必要はない。
文字が伝わる原理さえも厳密には分からないのだから
文字がなぜ他者に伝わるのか、報告の仕組みに着目してもいい。
ある物を、ある物に置き換えることで、マークに意味を付与する訳だが
そのマークと意味の関連性でも、質感は関わってくるのだから
哲学的には、そちらの方面を考えてみるのも意義はあるでしょう。
科学の水準で、質感という特定の哲学に固執して
存在論的な絶対性を固辞するのは、神秘主義の一種になっていると思う。
>>327 >哲学的に考えたいなら、科学に意見するよりも、
>哲学的な領域を広げて考えたほうがいい。
大賛成だよ。
ここにはなかなか科学の領域から広げて考える人がいなくてね。
>哲学ならば、質感の私秘性に限定する必要はない。
そうだね。
ただ私秘性を限定する必要はないのは
質感だけでなく認識一般についてもいえるからなんだけどね。
>文字が伝わる原理さえも厳密には分からないのだから
>文字がなぜ他者に伝わるのか、報告の仕組みに着目してもいい。
おれはその点に関してはデイヴィドソン的な考え方がしっくりくるな。
ただしもっとすすめて「伝わっているかはわからない」と思う。
「伝わっていると信じてコミュニケーションを続けている」だね。
>科学の水準で、質感という特定の哲学に固執して
>存在論的な絶対性を固辞するのは、神秘主義の一種になっていると思う。
どういうことだろう?
ちょっとわからないんだけど。
>>326 >うん、何もかもが基礎付け得ないという意味では、信仰だね。あなたの思ってることもね。
>で、このことは僕の思ってることと整合的だよ。
ところがこっちは基本的に信仰じゃないんだな。
整合性だけでいいならカトリックにもあるよ。
なんたって1000年かけて論理的整合性に磨きをかけてきているからね。
自然科学も似たようなもんだね。でもそろそろ限界かな?
>やっぱ二元論(世界と主体という構図)が元にあるのかな?
ちょっとちがうよ。
主体から出発するんだよ。だからもっともシンプルな理論なんだよ。
自然科学のようによけいな存在者を仮定せずに済む。
自然科学にとって、論理的整合性は、 目的でなくて、手段だからね。
特に
>>317 あたり、何が書いてあるのかわからないんだけど…。
317のような議論は、ある人に赤い色が見えているというのはどういうことだという前提なの?
また、そのことは、その人が「赤い色が見えている」と言うこと以外に、どうやって確かめるの?
例えば1.ある人の目の前に赤いボードを置く→視覚に関する脳状態がRになる という時、
2.赤いボードを置くのは同じ→脳状態をいじってBにする という時、それぞれ、その人は
「赤い色が見えている」と「青い色が見えている」のどちらを発言しているの?また、その人は、
(もし発言と別の基準があるのなら)赤い色と青い色のどちらを見ていることになるの?
さらに、コントロールが完璧なら、発言に関する脳状態もコントロールできるだろうから、例えば、
3.赤いボードを置く→視覚に関する脳状態をBにする→発言に関する脳状態をいじって「赤い色が
見えている」と言わせる、なんてことを想定してみると、自分で書いていても何のことやら…。
332 :
238 :2008/03/25(火) 09:24:34 0
>>329 いいかげんもったいぶらずに中身話しなよ。人の話にイチャモンつけてるだけじゃなくてさ。
自分は信仰でないというなら、やってごらん。
333 :
238 :2008/03/25(火) 09:38:03 0
>>329 >主体から出発するんだよ。だからもっともシンプルな理論なんだよ。
>自然科学のようによけいな存在者を仮定せずに済む。
てことは唯心論的な傾向のものでしょ。
唯識かバークリーかはたまた独我論なのか、それは知らないけど、
まずはその考えがどういったものか、それをドンドン話してよ。
>>332 イチャモンつけてるわけじゃないよ。
クオリアが理解できていないことを指摘して
それがなぜ自然科学で扱えないかをなんども説明しているつもりなんだけどね。
>>321 でわかるでしょ。
>>333 話がそれていくだけだからやめたほうがいいだろう。
ここはクオリアについてのスレだからね。
336 :
238 :2008/03/25(火) 14:11:51 0
>>324 >話がそれていくだけだからやめたほうがいいだろう。
いや、まったくそれないよ。
「あなたがクオリアを何であると考えるのか」は、あなたが仮定している形而上学にそのまま依存してる。
だからまさにこの点こそが肝だよ。
>Aさんはそのときおれのいう「青」を感じているのかもしれないし、
>Bさんは「黄色」を感じているのかもしれない。
>でも自然科学という方法はそれにはいつまでたっても気がつくことは出来ない。
>いくら観測装置の精度が上がろうがクオリアには一歩も近づけない。
うん、逆転スペクトルと他我問題、そして私秘性の話だね。
とりあえずあなたの考える上の主張を「他者クオリアの確認不可能性テーゼ」と呼ぶことにするね。
ここからすぐに問題が二つ出てくる。それをちょっと書くね。
一つ目は、まずこのテーゼが無前提で天下り的に導入されてること。
この部分は「これは定義です」なんて本末転倒な方法で逃げてもしかたない。信仰ではないんだ、とするならちゃんと実際に不可能なことを示さないと。
でもその説明は同時に「現象判断のパラドックス」への何らかの回答にもなっていないといけない。
このシバリは結構きついと思う。
あと二つ目は、「他者クオリアの確認不可能性テーゼ」が成り立つ場合に、「クオリアには一歩も近づけない」という結論が出てくるのはなぜなのか、という点。
一歩も近づけない、というのは多分に比喩的な表現だからアレだけど、「具体的に<何が>できないのか」、そこをちゃんと書かないとあまり意味がない。
そして同時にその<出来ない何か>が、<うまく出来てる>ような別の例というのはあるか、そこが大事。
つまり「クオリアに関して○○は出来ない、しかしクオリア以外の××に対しては○○できる」という主張なのか
「クオリアに関して○○は出来ない、そしてクオリア以外の全ての物事に対しても○○はできない」という主張なのか
この区別が問題の性質を決めるから。
>>336 きみはそう言った問題がなぜ起るのかを理解できていないようだね。
「現象報告のパラドックス(現象判断のパラドックス)」は物理主義・唯物論などを
前提にした際におこるものなんだから君が解決すべき問題だよw
別に共産主義者じゃないおれに共産主義革命が成功するプログラムを考えろって言ってるようなもんだよ。
>「具体的に<何が>できないのか」、そこをちゃんと書かないとあまり意味がない。
クオリアは自然科学では記述できない。ってなんど言わせるんだろう。
338 :
238 :2008/03/25(火) 14:55:43 0
>>337 だからいい加減自分の立場をはっきりさせたら?
口先ばかりでは困るんだけど。
魂の不滅か何かを信じてるけど、それを言うとバカにされそうで怖いからそうやって逃げてんの?
とりあえず何でも良いから主張して擁護しなよ。
>クオリアは自然科学では記述できない。
で、この世に自然科学に記述できるものはあるのか?
あるなら具体例をどうぞ。
>>338 なんだい最後は逆ギレかい?
きみはクオリアを語るにはまだ早かったようだね。
もう少し勉強してからくるといい。
用語を憶えるだけでなく、ちゃんと理解してからね。
340 :
238 :2008/03/25(火) 15:14:44 0
結局あなたの主張を総合すると 「クオリアは科学のメスが入らない最後の聖域なんだ、だから死守するんだ!科学なんて全然わからない・・・わからない。。けど!それでも死守するんだ!」 中身なし。
341 :
166 :2008/03/25(火) 15:26:47 P
前提として脳状態とクオリアは同一ではないといわせていただきますです。
クオリア問題を論じる意味はここにあると思うからです。
クオリアという言葉が何なのか分かっているのなら理解できるはずです。
238が「クオリアをコントロールする」と言い切ってしまうのには
僕はとてつもない気持ち悪さを覚えるんですよ。
だって前提より脳状態とクオリアは違うんです。
それでやってるのは脳状態の操作なんですよ。
ゆえにクオリアの操作じゃないんです。
>>166 で言いましたが理解してはいただけなかったでしょうか。
哲学における クオリア というものは私秘性を持っているんです。
その仮定のもとにパラドックスがあったら、擬似問題だとか、
仮定が妥当でない理由とかあると思うんです。
科学はそれを指摘するための一ツールだと思います。
現状哲学の場で私秘性の妥当性について科学的見地から
批判するには、科学による何らかの成果を示してもらわないと、
文面だけでは 僕は 素直には受け入れがたいです。
まぁ、示した時点でクオリア本来からは離れると思うので、
クオリアというキーワードにこだわらないようにしたらいいんじゃないでしょうか?
僕はクオリア問題は擬似問題になってほしいです。
>>340 ぜんぜんちがうけど
それは君の理解のレベルがよく反映されていておもしろいね。
343 :
238 :2008/03/25(火) 16:17:43 0
>私秘性
私秘性は範囲に関して問題が出てくる。どこまでが「私」か、て。
脳を真ん中で左右二つに分けたら、きっと意識は二つに割れるだろうね(んなことない、と思うなら、あなたがそれで話を展開してみて頂戴)。
左脳には右脳の感じてることは分らない、逆もまたしかり。つまりふたつの私が出来上がる。
でもコレもう一回手術したら、元通りになる。私はまた一つになる。
>文面だけでは 僕は 素直には受け入れがたいです。
うん、まあ無理だろうね。
ひとつはちゃんと自分の頭で学ぶこと、科学も、哲学も。
もうひとつは実際に自分で実験すること、特に自己実験、お酒でも薬でもキノコでもなんでもいいけど色々自分に実際に試して見るといいよ。
ちゃんと理解するにはそういう実際の体験が必要。
>>342 知ったかぶりだけは一人前なんだよね、あんた。
とりあえず、あなたのいうようにクオリアを定義してる文献(もしそんな文献があるなら)
ひとつでもいいから上げてごらん。
344 :
166 :2008/03/25(火) 16:27:34 P
そこに私が存在すると思えば、私は存在しますよ。 でも、僕はクオリア云々が議論されるところにしか 私は無いと思います。 脳は私自身じゃないです。 いえ、あなたは実験していないのでしょう。 あなたはずっとそうなるはずだという言及しかしてないと思うんですが。 僕はあなたの考えは分からないので、あなたが実験し、 周囲に認められ、理解されるに足る説明を実験的データをもとに 論理的に展開していただければ、僕は理解できます。
>>343 >知ったかぶりだけは一人前なんだよね、あんた。
ありがとう。きみは知ったかぶりされ半人前だね。
>とりあえず、あなたのいうようにクオリアを定義してる文献(もしそんな文献があるなら)
>ひとつでもいいから上げてごらん。
おいおい、君がやらなければならないのはちゃんと自分の頭で学ぶことだよw
ひとに説教してる場合じゃないぞw
>>345 あなたがどういう人でも構わないけど、
こういう場で「全然違うよ」とだけ言うのは作法としてイケてないよ、
と一傍観者として思う。
>>346 ご忠告ありがとう。
それは
>>342 のことかな。
だとしたら
>>340 に対するレスとしては
せいいっぱい行儀をよくしたつもりなんだけどなw
バカを相手にするつもりがあるなら愚直な啓蒙に徹する覚悟を持て、って事だろ
>>348 んー。なるほど。
たしかにそうだ。
その点おれはまだまだだね。
>>340 援護するけど、それを
>>327 で、
「科学の水準で、特定の哲学に固執して、絶対性を固辞するのは神秘主義だ」
と、言ったんだな。哲学の領域には自然科学では対応できない領域が
あるのは当然のこと。そこを強調すれば神秘性が際立ってくる。
351 :
238 :2008/03/26(水) 09:53:42 0
>>350 うん、その考え方はよく分る。そして一般的な考え方だとも思うけど、でもここはすごいトリッキーな構造を持ってる。
ここに妥当な演繹をひとつ示すけど、これは僕の中で大きい前提のひとつになってる。
前提1.人間の脳の神経活動は自然科学で扱える
前提2.思考は、それが自然科学的内容であれ哲学的内容であれ、人間の脳の神経活動である
-----------------
結論.哲学的内容の思考も自然科学で扱える
だから、今までみたいに哲学が単純にメタなポジションをとってるとか、より開かれた視点を持ってる、
という一般的な見方に単純には賛成できない。
352 :
238 :2008/03/26(水) 11:21:28 0
(補足)
>>351 のレスは
>哲学の領域には自然科学では対応できない領域が あるのは当然のこと。
という部分についてのものです。
哲学でもなんでも「これが正しいのではないか」という選択と排除をしている。 結果「正しいと思われるもの」だけが残っている。 その選択の根拠を脳の神経ネットワーク構造に求めたらいいだけ。 究極的にはシナプスの結合強度、利用されたネットワークの回数と他のニューロンへの結合の数で決まっている。 身体の神経網と基本的に同じ。使われたら強化する。
「もじゃもじゃな水」がクオリアとして存在しないのは そのような神経回路が現在のあなたや私の脳内にネットワークとして存在しないから。 経験のなかで「いかにもこれこそがもじゃもじゃの水だ」というものに出会えば そのような神経ネットワークがシナプスの電気信号強化と共にできあがるってわけ。
355 :
考える名無しさん :2008/03/26(水) 13:44:16 0
物理学では「物」がなぜ存在するのか答えられていない。 生物学では生命とは何かに答えが無いし、生物を無生物から作ること もできていない。 脳科学ではクオリアの物理的作用が何であるか説明できていない。
>>351 今までの議論内容とは全然関係ないけど、その演繹は、どうなんだろう?
前提2が正しいかどうかがまさに問題…とかいうのはつまらんので、変なことを言ってみると、
前提2の「〜的内容」という部分を、非科学的・非論理的な内容に置き換えても、思考の内容である
限り、全体の論旨は変わらないと思われる。つまり「クオリアは決して科学で解明できない」くらい
ならともかく、「神が人間を作った、進化などない」とか「ポア」とか、あるいは「全ての人間が
蒸発し、動物たちは木々に変化する(?)」とか、その他どんな内容であっても、思考の内容である
限りは、全て科学で取り扱えることになる。
しかし、そんなものが科学で取り扱えると言ってみても、それはそれで問題なのでは?
別に問題ではないかもしれないけど、少なくとも、思考を科学で取り扱えるということと、思考の
内容が全て科学と整合性があるということとは、別の問題なのでは。
いや、本当にただの変な話なので、議論内容と関係なくてすみません。
スレをざっと読みなおしてみたんだけど200番台から続いてるやり取りは
>>129 からの流れの蒸し返しだね。
>>129 と
>>238 はおそらく同じ人なんだろうけど俺は彼の言ってることに基本的に賛成。
脳を刺激してクオリアを操作するような技術と理論ができればクオリアについての議論は本当に変わるだろうね。
まあ、それも随分と先の話なんだろうけど少なくとも「クオリアは科学では扱えない」なんて話は当然消えてることと思う。
誰かこの辺の話と哲学でされてるようなクオリアの議論の両方を踏まえた解説書を現状報告みたいな感じで書いてくれないかな?
茂木も斎藤環との例の往復書簡の話が今更見たいに週刊誌ネタになってたけど、
自分の理論が停滞してるなら変なところに首突っ込んだり芸能人みたいなことやったりせずに上の話でも考えてみて欲しいもんだわ。
358 :
考える名無しさん :2008/03/26(水) 20:31:15 0
脳科学でBMIを課題とするのは計算主義だろうね。 クオリア問題とは違うと思うね。 まぁ、脳は徹底した分散コンピュータだからBMI自体が成り立たないね。
成り立たない? BMIは部分的になら現に実用化されてるが・・・・。
360 :
考える名無しさん :2008/03/26(水) 22:19:12 0
>>359 そうです、BMIは成り立たない。
脳のニューラルネットワークはインターネットとは違う
構造だから。
>>360 まあ、だけど、BMIってのはそんな観念的なものじゃなくて、単なる技術だから、
ニューラルネットやインタネットがどうであろうと、
それを使う人の役に立てば、それで十分成立してると思うけど。
例えば、全盲の人間が、外界をおぼろげにでも知覚できて、
障害物を避けて歩けるようになったのなら、その人にとっては、もうそれで十分成立してるんじゃないの?
362 :
☆中国の正体っ!!!☆ :2008/03/26(水) 23:13:14 0
363 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2008/03/26(水) 23:33:02 0
「非局所的な並列分散処理を可能にする物理的構造を実現することで 意識を発生させる」という錬金術としての人工ニューラルネットワーク 開発の野心。 或いは「非局所的な並列分散処理を可能にする物理的構造を実現する ことで我々と似通った意識のあり方を発生させる」という金細工として の人工ニューラルネットワーク開発の野心。
>>361 確かにamazonのお勧め機能ひとつとってもニューラルネットワークのような構成
は成功してるよね。でも便利機能として実用化したとたんとてつもなくおもしろくないものになってしまう。
人工知能はこの先それほどおもしろい話にはなっていかないと思う。
365 :
238 :2008/03/27(木) 10:55:27 0
>>356 >その他どんな内容であっても、思考の内容である 限りは、全て科学で取り扱えることになる。
そう、それであってる。
これはまたこんがらがるかもしれないけど、
「思考という自然現象」に「間違った」とか「正しい」とかはないんだ。
思考それ自体はただの神経の発火だから。
「雨という自然現象」に対して、「間違った雨」とか「正しい雨」とかないよね。それと同じこと。
ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非
ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非
ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非
非マナー非マナー非マナー非マナー非マナー非マナー
非マナー非マナー非マナー非マナー非マナー非マナー
非マナー非マナー非マナー非マナー非マナー非マナー
ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非
ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非
ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非ーナマ非
この図は傾いてないけど、傾いて見える。この「文字が傾いてる」という認識は誤ってる。
けどこれも脳の神経活動のひとつとして自然科学が扱っていく問題。こういうのと同じ。
幻覚も、妄想も、宗教も、科学も、哲学も、全部扱う。
>>364 そのことと、BMIの成立に何か関係があるの?
367 :
356 :2008/03/28(金) 00:28:05 O
>>365 個人的には、思考や感覚を科学では扱えないと思っているわけではないので、変な思い付きばかり
書いてどうすると自分でも思うんですが…。
もはや全くスレ違いになるけど、道徳的な問題について考えてみると、道徳的な思考も非道徳的な
思考も、同じように科学で扱える。すると、道徳的な問題について、科学でもって解決することは
できないことになりそうですな。まあ当たり前といえば当たり前だし、他の方法なら解決できる
というわけでもないけれど。
368 :
238 :2008/03/28(金) 18:17:22 0
>>367 >もはや全くスレ違いになるけど、道徳的な問題について考えてみると
スレ違いということはないよ。
「心を科学的に説明すること」に不安を抱く人々の基本的な背景として、その問題は大きい部分を占めてるからね。
つまり善悪や倫理、道徳や規範、そして価値や目的や人生の意味、そういった諸々のことが
「心を科学的に説明すること」によって否定されてしまうんではないか、何もかもなくなってしまうんではないか、という不安を多くの人が持っている。
結論から先にいうと道徳も人生の意味も当然科学で説明されていく。
そしていくつかの考えはこの過程で否定されていくことになる。その筆頭のひとつがおそらく自然法的な考え方。
つまり自然法則のようなものとして、唯一的な善悪の基準、唯一的な規範というのがあるんだ、という考え方。
こうした考えは否定されていく。
ただ人生の意味も善悪も、それは科学によって説明されるけど、否定はされないし、擁護もされない。
これは大事な点だけど、人は実際に行為に意味を求めるし、行動に対して善悪の判断を下す生き物でしょ?
だからその状況を科学は説明する。科学がやることはそれだけなんだ。
そして実際に個人として今、ここ、で使える人生の意味や規範を求める問題、つまり実存的問題を解こうとするなら
それは科学とは別の問題、一人一人の決定に関する問題になると思う。
>>368 それは文系音痴が陥りがちな単純なリベラリズムだと思うな。
実存の哲学で解消する問題にしてしまうのも安易だと思う。
科学によって人生や心を説明すると、
説明することで対象に何らかの影響を与えてしまうので、
純粋な形での〈説明〉を行うのは、限りなく難しいと思うね。
唯一的な善悪の基準や唯一的な規範があるんだ、という考え方が、
閉鎖系であったとしても、ある場合において成り立ち得るのならば
それは事実として成り立つ考え方でもあり、時として有効でもある。
にも拘わらず何らかの事情(この場合は科学)により、ある系の
考え方を否定するのは、その何らかの事情にこそ注目すべきである。
なぜならば、ある系において信じられている考え方を否定に導く、
外部的な考え方であるからだ。
370 :
238 :2008/03/28(金) 20:08:35 0
>>369 >単純なリベラリズムだと思うな。
リベラリズムではないよ(まあリベラリズムという立場を細かく知らないんで何ともいえないけど)。
系統としてはニヒリズムや相対主義と言われる流れに入るんではないかな。
>実存の哲学で解消する問題にしてしまうのも安易だと思う。
実存哲学で解消するんでなくて、実存哲学で論じられているような問題が残るね、ということ。
>説明することで対象に何らかの影響を与えてしまうので、
>純粋な形での〈説明〉を行うのは、限りなく難しいと思うね。
不確定性原理みたいな説明だ。
それは言い換えれば、こうした思考の中に無限ループが出てくる所、そういうところに最終的な問題があるということだと思うよ。
「地球は丸いと僕は思っている」
『「地球は丸いと僕は思っている」」というのは僕の脳の神経細胞の活動にすぎない、と僕は思っている』
【『「地球は丸いと僕は思っている」」というのは僕の脳の神経細胞の活動にすぎない、と僕は思っている』というのは僕の脳の神経細胞の活動にすぎない、と僕は思っている】
:
:
みたいな。
>唯一的な善悪の基準や唯一的な規範があるんだ、という考え方が、
>閉鎖系であったとしても、ある場合において成り立ち得るのならば
うん、でもどんな系でもそれは成り立ち得ないでしょ。
古典的にis-ought problemと呼ばれるてきたように、「である」から「べきである」は導けないから。
単に「人間が使う「べきである」という言葉はコレコレこうして発生する」みたいな説明だけが残る。
>>370 >こうした思考の中に無限ループが出てくる所、…「地球は丸いと僕は思っている」…
ちゃうちゃう。情報に精通するとそっちに持って行くクセみたいな物があるな。
この場合は逆向きなんだよ。いくら思考を増やしていっても、最初にあった
「地球は丸いよね」という考え方は、別に消えたりはしないし、消す必要もない
と言うことです。
つまり「地球は丸い」を「地球は丸いと僕は思っている」では否定しきれないし
「地球は丸いと僕は思っている」を
『「地球は丸いと僕は思っている」というのは僕の脳の神経細胞の活動にすぎない』で
否定しきることも出来ない。メタ的な視点を設けても、サブジェクト的な階層が
消えることはないんだな。
372 :
238 :2008/03/28(金) 20:55:07 0
>>371 うん、消えない。
問題は『終わらない』所にある。
「終わらない思考」というのをどう扱っていくか、そこがひとつ大きな問題かと思う。
>>372 それは僕は逆だな。終わらないのではなく
干渉のない純粋な形での感情と説明を、どうやって抽出するのかが問題だと思う。
374 :
238 :2008/03/28(金) 21:39:03 0
>>373 そっか、確かに。
思考は元々は切れ目のない一続きの物理現象、ひとつの流れ。
それがどうやって離散化されるのか(または離散的なものとして捉えられているのか)、の方が問題というわけか。
「地球は丸い」を純粋に思おうとしたら宇宙に出るしかないんじゃないの。 それか、洗練されたバーチャンルマシンとか。
376 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 08:21:50 0
ニューロンの発火にしろ神経伝達物質による情報伝達にしろ脳の 働きはもともと離散的だろう。時空間を連続と考えるほうに 無理が有るのではないか? 刹那、刹那に現象は完結していると考える唯識思想にも理がある。
>>376 その場合で言うと、「時空間を連続として考えるのに無理があって、
情報にせよ脳にせよもともと離散的だ」と言ったとしても
「時空間を連続で考えること」の否定にはならないのがポイント。
中世的な発想:ここに空き缶が在る。空き缶が在るのは神の意志だ。 近代的な発想:ここに空き缶が在る。と僕が思っている。 現代的な発想:ここに空き缶が在る。僕が空き缶が在ると思うって事は、 僕と類似した存在も、ここに空き缶が在ると認識するだろう。 今日的な発想:ここに空き缶が在る。さて、神の意志か、僕が思っているのか、 他の人も空き缶が在ると思うのか、どれにしよう…。
379 :
238 :2008/03/29(土) 21:55:24 0
「否定することができない」 この話は結構重要だと思うけど、 哲学的切り口なら決定不全性(underdetermination)の問題、 数学的切り口なら不完全性(incompleteness)の問題になる。 違った二つの切り口だけど、根にあるものは一緒かと思う。
>>379 なんか微妙に意見が違う気がするな。
真理を追求して行く上で、正しいのか、誤っているのかを、
調べて行き探究しても、なにが真理なのかを決定するのは根源的に
不可能である。と言う、否定の不可能性という意味ではなく、
虚構の存在論的な意味での確かさは、永遠であると言いたいんだ。
「否定」という言葉が弱いなら、「消滅」と言った方が適しているだろう。
例えば、ある基準においては天動説は今でも健在だ。
天動説や創造論が真理なのかが問題なのではなく、
天動説なる考え方が在るという理論の存在性について言及している。
哲学でいう「真理」ってことばは 素人さんが過剰反応するから 気をつけたほうがいいね。
>>381 文脈を無視して書いてない? 話が繋がってない気がする。
383 :
238 :2008/03/31(月) 21:50:59 0
>>380 >天動説なる考え方が在る
それは自明なことでは?
理論に矛盾があるなら、それは「矛盾のある」理論というだけだし、
役に立たない理論なら、それは「役に立たない」理論なんであって、
別に消えやしないでしょ。
つまり「バグった」プログラムとか「面白くない」マンガとかがあるのと同じことかと。
385 :
238 :2008/04/01(火) 08:06:37 0
うん、違う内容書いてるけど。 「間違っていても宗教に意味はある」という話?もしくは可能世界実在論?
386 :
238 :2008/04/01(火) 22:33:59 0
あ、把握。
別の言い方をすると、知性(インテリジェンス)とは、 世界に属するのか、人間に属するのか、という問いである。 数学的な問題でもある。数学は人間知性が構成したものなのか、 人間とは無関係に存在する真理なのかだ。
>>387 (あなたが言うところの)「真理」って何なの?
(あなたが言うところの)「真理」である場合とない場合では何が違うの?
場合によっては省略してもいい。 「数学とは人間とは無関係に存在する」と、 「数学は人間知性が構成したに過ぎない」でもよい。 この場合の真理は、真理そのものに対する意味としての真理ではなく、 ある究極的な目的の到達点として、あるべきであろう可能性としての 真理であり、真理の内実にはここでは言及しない。 真理があるのか、真理がないのか、ではなく 真理は人が作り出しているに過ぎないのか、真理は人と無関係にあるのかが ここでは問題としている。
なぜ、《真理》という言葉にするのかと言えば 見方によっては《偽物》も真理と等価なる存在感があるから。 真理が真理として在ることが真理ならば、 偽物が在ることは、在るという事実をもって真理になり得ないのか。 その際には真理と偽物は同等である。 偽物は偽物に過ぎず、真理は真理として存在しているものとしてある、 偽物を作り出すのは人間の思考の産物にすぎない。 しかし、偽物が思考の産物であるのならば、 真理も人が作り出したに過ぎないのではないか。
真理を目的としなければならない理由がわからない。 例えば、こういう理屈ならわかる。 砲弾を的に当てたい、という「目的」があって、 古典力学で軌道計算したら、的に当たった、 ここで、砲兵は古典力学に従えば当たるという確信を持つ、 (砲撃という行動を、古典力学に従って行う用意ができる) この場合、砲兵にとって古典力学は真理であるといえる。 ここでの、古典力学という「真理」の成り立ちは、 「的への命中」という目的に対する経験則だ。 逆に、「人工衛星の時刻と地上の時刻の同期をとる」という目的においては、 古典力学では十分な精度が得られず、相対論が必要となる、 ここで、「古典力学」は「真理」ではなくなり(つまり、偽物?になり)、「相対論」が「真理」となる。 しかし、だからといって、「古典力学」が砲兵にとっての真理でなくなるわけではない。 つまり、真理であるかどうかは、目的によって変わってくるものであって、 真理自体を目的においてしまうと、何のために真理が必要なのかわからなくなる。
それは道具的な真理観でしょう。 ここでは、古典力学や相対論が真理として機能しているから 真理だと言う発想は切り捨てます。目的に応じた真理があると言うのではない。 人が相対論を発見する前の、古典力学しか知らない時代でも 相対論は宇宙の法則として在ったのであり、相対論を人が発見したに過ぎない。 と考えるのが、世界の側に知性があるとする見方です。 が、まあ、しかし、真理の方はひとまず置いておきます。 むしろ問題となるのは偽の方なのです。 >391の例では、古典力学も相対論も真理として成り立ちます。 成り立たせているのは、機能としての効果があるからです。 その機能は目的に応じて使われています。
よーするに偽でなければならないのです。 例えば「猫があくびをすると、砲弾は的に当たる」とします。 これは真理です。なので、「猫にあくびをさせる装置の開発」が 勝敗を握る鍵となります。これも真理です。 そして「猫があくびをする状況を再現」します。 そうして開発されていったのが、あくび砲丸テクノロジーです。 なぜ、あくびをすると砲丸が的中するのかは、謎のままですが 法則は理論となっているので、この「あくび砲丸テクノロジー」は立派な科学です。 さて、もちろんそれはまったくの偽です。真理ではありません。 もっともその法則が働くゲームを作れば、それは真理になるかもしれません。 が、しかし、力学と比べればあまりにも現実離れしています。 それでは問題です。では真理足り得た、古典力学や相対論と まったくの偽である、あくび砲丸テクノロジーは、どこが違うのでしょうか? フィクションはフィクションでしかないのだから、真理ではないとするのなら 真理は世界の中にあるものであり、フィクションは人が作った想像の産物に すぎません。しかし、想像の産物であるフィクションと、現実を体系化した理論は どちらも人間が作り出したはずなのに、一方は世界の法則、一方は人間の想像で まったく分離されてしまっています。 あるいは人間が想像したものも、世界では実現が可能であり あくびテクノロジーがある世界が、どこかに在るのかもしれません。 あるいは真理は人間が作り上げたに過ぎないのなら、偽を作り出すのも人間です。 なぜ真理も偽も人間は作り出せるのか、偽と真理の違いがどこにあるのか 曖昧です。
よーするにこれは、脳や認識の問題だから出てくるのです。 いわゆる物理学ならば、そんな観測事実はないのだから切り捨てれば済みます。 物語だと割り切れば、フィクションとして体系化すれば済みます。 しかし、どちらも人間が思考して、脳の中で行われているのだとすれば 現実に起こっている経験則と、現実にない完結した虚構の理論との 境界線はまったく消えているのです。
>>392 >目的に応じた真理があると言うのではない。
>>391 でいう「真理」は、
>例えば、こういう理屈ならわかる。
一つの例として示しただけですよ。
そうではない、というのであれば、その
>目的に応じた真理があると言うのではない。
ところの、
>(あなたが言うところの)「真理」って何なの?
>(あなたが言うところの)「真理」である場合とない場合では何が違うの?
と聞いているわけです。
いまのところ、(あなたが言うところの)「真理」も「クオリア」と同様、
明確な定義も、問題とすべき必然性も示されないまま、
問題だけが示されている。
でも、言葉を並べれば、どんな無意味な問題でも、提示することは可能なんですよ。
>>395 それは、あなたが過剰に「真理」に食い付いてるだけでしょう。
私からすれば、真理も偽も遊びも大差ない、と言っているにも関わらず、
そしてそれを言及しているにも関わらず、真理を定義せよと訴えている。
定義がないと、真理とはなにかを「あなた」という、パーソナルな物へと
依拠させようとしている。そもそも真理は「あなた」には起因しません。
普遍性が要求されますから。
問題はすでに掲示しています。あなたは少し現実の物理現象に注目し過ぎだと
思われます。もしも思考をテーマとするのなら、虚構も同列に扱わなければ
ならないのです。そして、これは「クオリア」とは決定的に違うのは
質感は言葉として発せられるだけで、本当に感じているのかどうかが
主観の中に閉じ込められており調べる事ができませんが、
聖書や神話などのフィクションは、文字列として確かに在るのです。
相対論や力学も文字列として確かに在ります。
ここでは問題設定をしていると言うよりも、むしろ
>>379 は間違った
問題設定ではないかという点に言及しているのです。
なぜ「真理」の部分だけに注目するのかが不明です。繰り返しますが
思考や認識についてテーマにするなら「偽」を切り捨てることはできません。
強いていうのなら、「理論と現実とが、一致することが真理である」 と曖昧な表現になります。その場合は理論だけでは真理ではないし、 現実の因果法則も真理ではありません。 でも、こんな定義はやはりおかしいでしょう。 では、理論が現実と一致すると真理なら、現実と一致しなかった理論は なんなのでしょうか。それは偽と言うことになるのですが、 しかし、偽だと切り捨てるのは物理学の作法です。問題は思考ですから、 間違った理論と、合っている理論との、違いが脳のレベルで説明できなければならない。 現実の因果法則があっても、それが理論になってなければ真理ではない とするのも、直観に反しているでしょう。人が形成しなくとも、現実の因果法則は 真理足りえると思うのが直観には合っていると思います。
>>396 >それは、あなたが過剰に「真理」に食い付いてるだけでしょう。
私は、普通の議論を段階を踏んで行おうとしているだけです。
それを過剰とあなたが感じるのは、暴走族が追いかけてくる警察官を
「しつこい」と思うようなものです。
>思考や認識についてテーマにするなら「偽」を切り捨てることはできません。
定義が無いものの真偽なんて、議論のしようがないですね。
>強いていうのなら、「理論と現実とが、一致することが真理である」
であれば、
>>395 の真理と大差ないように思いますが。
>でも、こんな定義はやはりおかしいでしょう。
どこがおかしいのですか?
>では、理論が現実と一致すると真理なら、現実と一致しなかった理論は
>なんなのでしょうか。それは偽と言うことになるのですが、
まったくそのとおりですね。
>しかし、偽だと切り捨てるのは物理学の作法です。
でも、切り捨てても別段困りませんが。
>問題は思考ですから、 間違った理論と、合っている理論との、違いが脳のレベルで説明できなければならない。
そんなことをして何の役に立つのですか
>現実の因果法則があっても、それが理論になってなければ真理ではない
>とするのも、直観に反しているでしょう。
理論になっていなければ、人間には扱えませんから、それを真理かどうか判断する意味がありません。
>人が形成しなくとも、現実の因果法則は
>真理足りえると思うのが直観には合っていると思います。
足りえますけど、扱えない法則は扱えるようになるまで、人間にとっては何の価値もありません。
そもそもからしておかしいのは、定義を示すべきなのは私ではなく>379ですよ?
真理性を求めているのは、>379から始まったことです。
逐条的に《真理》という単語に意味を求めているわけではないでしょう。
概念としては>379から出発しています。それを私は切り捨てているだけです。
ですから、真理の定義の要求は>379に返すのが筋でしょう。
「否定することができない」のは、哲学的な決定不全性の問題と
数学的な不完全性の問題であるに限定する、根拠を示せということです。
>>398 は要素に分解されているので、もはや全体として文章のまとまりを
欠いています。一か所致命的なのは、偽だと切り捨てても別段困らないという
部分です。困ります。あなたは偽の部分が記憶から消去でもされる特異な体質なのですか?
聖書を読むと別人格が出てきて、そこの部分がごっそり認識から外されるのですか?
人間の認識を扱っているのであり、数学や物理ではないのですから、そんな
切り捨ては通用しないでしょう。切り捨て方がお祖末すぎます。
聖書は質感と違って、事実として在るのですから。
>>399 > そもそもからしておかしいのは、定義を示すべきなのは私ではなく>379ですよ?
じゃあ、それを待てば?
>真理性を求めているのは、>379から始まったことです。
でも、そのレスには「真理」なんて書いてないよね?
(あなたが言うところの)「真理」におけるあなたの何らかの要件に、
>379 の何らかの内容が適合したから、あなたは、「真理」という言葉を新たに持ち出したわけでしょう?
でも、そこで、あなたが適合していると判断した、
(あなたが言うところの)「真理」におけるあなたの何らかの要件
は、あなたしか知らないんだから、あなたに説明してもらわないと私には分からない。
>>399 >ですから、真理の定義の要求は>379に返すのが筋でしょう。
だとすれば、>379 が明確な定義を示す前に、議論を先に進めようとするあなたのやり方はおかしい。
402 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 12:06:58 0
茂木の「すべては音楽から生まれる」を読むと、 クオリアの定義が大きく変化してるね。もちろん真っ当な方向で。 先験的にクオリアは決定されている・・・式の機械的唯物論みたいな決定論とは 全然違うものになりつつあるね。ま、よかったといういことかな。
403 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 12:53:53 0
法則の真、偽、それぞれの価値を お互い示せば、話もつれないんじゃね? どうして真が必要で偽がいらないのか または 真が必要で偽も必要なのはどうしてか
>>400-401 と言うよりも、私は、あなたは心ここに在らずで話をしている印象がとても強い。
おそらく何か別の分野で「真理」という単語や歴史に、ひどい嫌悪感があって
それで反応していると思っているんだな
これが議論と限定されてはいないわけですよ。それをあなたが勝手に議論だと
言ってるわけです。
そして、私が言ってるのは、「ある到達点へと向かった先に在るであろう
可能性としての地平にある」のです。申し訳ないが、これで
分からないのだとしたら、逐条的な反応をしている可能性が極めて高い。
つまり、言語的な要求は最初からしておらず、その単語自体には最初から
拘束されていないので、新たな言葉を持ち出したとする認識は、間違いです。
そこでは《存在》と《虚無》の《因果性》と《相関性》、に言い換えても、
《認識》された《痕跡》が《現前》となる、に言い換えても、
さして差はなく、《嘘》と《誠》であっても、構わないのである。
ここでの要求は、反照としてありえたが可能性から切り捨てられた、
模写されなかった方のこぼれ落ちた、知性の中にありえる
もう一つの姿を像として描こうとしているのであり、言葉の定義は
ここでは意味をなさない。
たから定義要求をするのは、明らかに間違っていて、過度に固執するのは
なにか個人的な執念があるとしか思えない。と、その単語を使わずに
説明してみたが、いかがか。
ただ、もっとも妥当なのは「真理」という単語だと思われるし
何よりも、いわゆる一般的な使用をしており、
逸脱的な「真理」の使い方はしていないのに、
殊更こだわるのは、ハッキリ言って異常です。
それは、真偽という言葉の使い方を知らないから
教えてくれと言ってるに近い行為だ。
辞書読めば十分でしょう
http://dictionary.www.infoseek.co.jp/
>>404 >と言うよりも、私は、あなたは心ここに在らずで話をしている印象がとても強い。
まあ、(あなたが言うところの)「真理」がどのようなもなのかわかりませんから。
それを前提にした、あなたの発言の大半は、私には、唐人の寝言にしか見えません。
>そして、私が言ってるのは、「ある到達点へと向かった先に在るであろう
〜
>説明してみたが、いかがか。
「議論や言語を超越した独創性の高い前衛的な文学を記述しているんだから、整合性や論理性を求めるな」
という意味にしか読めないんだけれど。
時々湧いて出てくる前衛な人達の相手してたらきりがないっス。
408 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 14:25:17 0
それよりお前らの恥ずかしいクオリアを晒そうぜ
どうぞ ∧__∧ (´∀` ) (⊃⌒*⌒⊂) /__ノωヽ__)
410 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 15:02:12 0
クオリアなんて存在しない、と仮定したとき何か困る事はあるの? クオリアという概念を用いないと説明がつかない事って何かあるの?
こればっか
>>410 をパクって…
自由意志という概念がないと、何か困ることがあるの?
自由意志という概念がないと説明がつかないことが、何かあるの?
だって、人間の脳も筋肉も骨も、全て物質だから、全て物理的に説明がつくじゃないか。
まあ、基本的には困らない。 特定の問題領域、例えば人権とか、社会を成立させるためのルールを作る場合には、仮定しないとやりにくい。 大根の味噌汁を作る場合には多分必要ない。
それなりに困るような気もするけど…
>>410 のパクリを続けて、
1.犯罪という概念がないと、何か困ることがあるの?
だって、ある出来事(例えば殺人)には別の出来事(例えば殺人者が縛り首にされる)が続き、
別の出来事(特に犯罪に当たらない行為)にはまた別の出来事が続く(というか特に何も起こらない)
というような、一定の出来事に関する法則がみられるだけで、そのようなことは全て
物理的に説明がつくじゃないか。
2.足し算という概念がないと、何か困ることがあるの?
だって、2足す2は4、さらに2を足していくと6、8、10、12…というように、みんな続けていき、
100になったら突然104、108、112…というように続けていく人は普通いない、という法則がみられる
だけで、そのようなことは全て物理的に説明がつくじゃないか。
もし104、108、112…という人がいたら、その人の特殊な脳状態等をまた研究すればいいだけだし。
外界なんて存在しない、と仮定したとき何か困る事はあるの? 外界という概念を用いないと説明がつかない事って何かあるの? 他我なんて存在しない、と仮定したとき何か困る事はあるの? 他我という概念を用いないと説明がつかない事って何かあるの? 意味なんて存在しない、と仮定したとき何か困る事はあるの? 意味という概念を用いないと説明がつかない事って何かあるの? 論理的必然性なんて存在しない、と仮定したとき何か困る事はあるの? 論理的必然性という概念を用いないと説明がつかない事って何かあるの? 規範なんて存在しない、と仮定したとき何か困る事はあるの? 規範という概念を用いないと説明がつかない事って何かあるの? 倫理的価値なんて存在しない、と仮定したとき何か困る事はあるの? 倫理的価値という概念を用いないと説明がつかない事って何かあるの? いくらでもできるなw
だから、順番が逆なんだよ。 自由意志も犯罪も、足し算も、なんらかの必要のために作り出した概念。 だから、その目的以外のためには普通(たまたま有用ということはあるかもしれないけれど)必要ないのはあたりまえ。 クオリアの問題は、そういった「目的」が無いということ。
>>406 だから、真理は関係ないと言ってるし
その単語を使わずに説明もしてるんだけどね。
私からすると「あなたは"真理"を主張しなければならないので、
"真理"を定義しなければならないのであり、
"真理"を定義できないあなたは、寝言を言ってるように見える」と言う
形式的な作法しか、そこには残ってないように見えますね。
そこの部分は、"存在"でも"偽"でも、同じでしょう。
しかし過剰に真理の部分に食い付いてくる。
また論理性もキチンとある。正直にあなたの理解力がないか
あなた自身が理解したくない精神的な何かがあるとしか、思えない。
だって、かなり分かりやすい論理だと思うよ。つまり、 ある物理理論を構築しました → その理論は合っていました。 また別の物理理論が構築されました → その理論は間違っていました。 間違っていた理論は、物理理論としては使えないので切り捨てられます。 しかし、間違った理論も、合っている理論も、どちらも人間の思考の産物だよね。 そしてどちらも、私たちは読むことができます。 合っている理論を読めば、合っている事が理解できるし 間違っている理論を読めば、間違っている事が理解できる。 思考や人間の認識をテーマとして扱っている以上は、間違った理論を 生み出したプロセスも無視はできない。 ↑こんな簡単なことが、どうして分からないのか、むしろ逆に 私には分からない。ただ逐語的に「○○」の単語の意味を定義せよと 要求しているだけになってないでしょう。 よーするに、あなたの作法が形体そのものに普遍性があるので 原理的になってしまい、原理があてはまるのだから、きっとこの人は こう言う人だとう、レッテルを貼付けてるだけでしょう。そこには ・過剰なる単語の定義要求、と ・自分が想定したものからの、逸脱行動に対する普遍性のラベルの貼付け行為 の二つが行われているだけで、中世の神の普遍性を拝むような さらに言うと、スコラ哲学的な行動作法しか残っていない。
>>417 「私に関する君の推測」にいくら因縁をつけられても、私にはレスのしようがない。
「君の推測のなかの私」は、君の中にしかいなくて、本当の私とは違う存在なんだから。
420 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 22:54:09 0
>>414 犯罪という概念を「作らない」と仮定したところで、現実の社会には「犯罪」が起こる。
だから、それには何か名前がつくし、分類もされるし、対策も立てられる。
クオリアは?
>>418 だからさ、その「合っている」「間違っている」の判断がをどのような基準で下すのか、ということを問題にしてる。
私が一例として出した考え方では、古典力学が有用な分野では、古典力学は「間違っている」とはならないんだけど、
あなたの」考えでは、
>目的に応じた真理があると言うのではない。
わけでしょう?
特定の目的を置かないのなら、
「あなたは」どのようにして「合っていました」「間違っていました」という判定を下すのか?
つまり、フォーマット的に、あなたの批判形式を反復するのなら
>>418 に対しては「理論」とは何かを定義せよ。と言わなければならない。
あるいは
>>379 的には「肯定」とは何かを定義せよ。になる
さらに言うと(あなたが言うところの)←の部分は、真理や理論とは
根本的に相反するものであり、普遍性とは逆の、固有性を規定する行為だ。
この相反する「あなたが言う」と「普遍性」を、同時に行っているので、
その矛盾する隙間に空白が生まれて、その空白地帯が、ループを起こしているのだろう。
もっとハッキリ言うと、
そう易々と、パーソナルな問題に回収してしまうのは、安直すぎると思います。
「あなたが言うところ」と言ったり「寝言」と言うくらいで、問題を個人に
押し付けて、閉じ込めようとするのはできないません。普遍的な理解がそこにある
場合において、普遍性を個人の願望へと転嫁させて、願望を述べないからと言って、
普遍性そのものが個人的な問題に回収される事は、あり得ない。
どうしても、個人の問題にして、事を済ますつもりなら、それは魔女狩りみたいなものだ。
>>421 申し訳ないが、認識論が理解できてない様に思えるんだけどな。
認識論的な立場に立てば、判断可能以前なのですよ。
認識がなされない虚構にもなっていない世界が在っても、
人間は全てを認識するのは不可能だ。とするのが認識論。
そこで、目的や、道具的や、機能や、判定を要求しても
すでに認識の範囲なのだから、もう議論の対象に入ってしまっている。
そうなってしまった以上は、いくら否定しても、それは意識上で
行われていることであり、意識の中に入ってすら来ない
本当の認識外を扱ったことにならない。
認識外を扱う必要性は置いておくが、
認識内であるにも関わらず区分けをするのは、テーマからすると奇妙な行為だ。
思案する内容に是非も無いですねー。 ある領域と観点などが与えられればそれが妥当か妥当じゃないか位はいえますね。
425 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 23:49:20 0
>>415 外界が存在しないと仮定すると我と彼をわける事が出来なくなる。
現在ある様々な「考え方」を根底から変えなくては世の中を理解するという事が出来なくなる。
何故そんな事に労力を使わなければいけないの?
なにその論点先取w
難しいのではなくて 「そんなこと考えてみたことなかった」 だろ
>>416 もともと言いたかったのは、
>>410 に関して、なくても困らないとか説明がつくなどということ
だけで判断したら、なくてもいいものなんて多数あるから(
>>415 で追加してもらったように)、
判断基準として不適切だ、ということ。なので、クオリアをそのような基準でなくてもいいもの
にしてしまうことは疑問だ、という点に583氏が同意していただけるなら、あえて変なことを
追加するのも変なのだけど。
犯罪や刑罰はともかく、自由意志や足し算が、ある目的のための概念で、別の観点からはなくても
いいようなものなの?(特に、自由意志という大仰な表現はともかく、人間が普通は自由に行動できること)
そのように言っていいなら、クオリアだって、心身問題とか意識の問題を議論するために
作り出された概念であって、別の観点からはなくてもいいことに変わりはない、と言われて
しまいそうに思われるけど。
>>420 言いたかったことは
>>429 のとおり。「客観的事実として確認できる」とか「社会的に対応が必要」
という基準を立てる趣旨なら、それはそれで別論だと思う。
しかし、「客観的事実として確認できる」という基準を立てるとすると、クオリアも自由意志も
同じように、いらないことになりそうに思われる。足し算も、それは変わらないか?
すると、最も確実に存在するのは、犯罪と刑罰かw
>>429 というか、クオリアが「存在するかどうか」はいまのところ私は問題にしていないので。
「クオリアを前提にしないと説明がつかない観測事実があるのか?」というのは、
私がずっと質問しつづけてきたことだけど、それはあくまでも
「科学的問題としての成立要件」として求めていただけであって、
「科学の対象にならない=存在しない」と考えるほど、私は科学を絶対視していないことについては
繰り返し述べてきたはず。
>>431 ?
583氏の今までの主張内容は確かにそのとおりで、それに関しては私の不注意で申し訳ないけど、
そうすると、
>>416 で取り立ててクオリアを別扱いしているのは、どういう趣旨だったの?
こんなことばかり言っているとスレ違いでよくないかもしれないけど。
>>432 現状、私の質問に答える形では、誰も示していないと思うけれど?
私の議論してきた範囲では、みなさん、私が驚くほど科学を物凄く絶対視していて、
「クオリアを前提にしないと説明がつかない観測事実が存在するように科学のほうを変えろ」と言い出すばかりで、
「そもそもこれは科学ではなくて、
これこれこういう目的のためにクオリアという言葉を使っているだけだから、
前提にしないと説明がつかない観測事実なんてのはいらないんだよ。」
という説明をする人はいなかった。
>>433 いや、個人的には、別に物理学を絶対視していないので。そういう人に特に反対するつもりもないけど。
むしろ、物理学を重視するような人が、なおかつ、あえてクオリアまでを説明しようとするのが、
本当に意味がわからない。物理学にこだわらずに考えるのならともかく、物理学を重視しようと
思うのなら、クオリアなんて怪しげなもの(?)は置いておけばいいのに、と。
個人的には、物理学にこだわらずに、クオリアに勝手に興味を持っているんだけど、もし物理学に
こだわるのなら、むしろ存在しないような扱いになるほうが当然じゃないかと。
>>434 だからさ、
>私は科学を絶対視していないことについては
>繰り返し述べてきたはず。
>>434 「物理学を重視するような人」
はどうでもいいこと。
重要なのは
「物理学の実力がある人」
だよ。
「クオリア」の存在目的は宗教的体験及び主張の科学的な否定だよ。 オウムと911を体験した我々世代の使命さ。 科学vs宗教の最前線だ。だから人気があるの。
クオリアを否定する人は、 宗教にやられちゃってる人であるという疑念を私なんかは持っているね。 自分の確かな霊的体験がクオリアという脳内のニューロネットワークから生み出された 幻想だとは認めたくないものなんだよ。 認めちまえば楽なのにね。
439 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 10:03:55 0
なぜ、わざわざ「クオリア」という言葉や概念を作り出すのかに 疑問はあっても、「クオリア」があることは誰も否定できない。 存在の否定の証明など誰にも出来ない。 それが存在するなら何か矛盾することを示さなければならないから。 矛盾する物事が現実化するわけは無い。
440 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 11:19:00 0
> 存在の否定の証明など誰にも出来ない。 > それが存在するなら何か矛盾することを示さなければならないから。 > 矛盾する物事が現実化するわけは無い。 これは単的な間違いだね。xの非存在を証明するために必要なことは、 xが存在すると仮定すると矛盾が導かれることを示すことだけで十分であり、 「矛盾する物事が現実化」する必要などないんだから。
ようするに矛盾を導きようがない、ってこったろ。 どんなズレだろうとクオリアに吸収されてしまう。 否定や沈黙や無であろうと。
442 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 11:40:45 0
そもそもクオリアが何なのか定義できないから、 その非存在の証明もできない、というのなら分かる。
443 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 11:46:46 0
>>440 クオリアは論理的存在ではなく経験的事実だから
背理法では証明できない。
444 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 13:03:48 0
クオリアって質感や雰囲気のこと? 金属に感じる金属質、他者に感じる雰囲気?
445 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 13:19:44 0
446 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 13:30:09 0
447 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 13:42:52 0
クオリアってセンスデータと一緒じゃん 単なる形而上学
448 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 13:42:54 0
クオリアというのは、直接、視空間に現われているもののうち、 色と形以外のもののことでしょう。
>>447 そのセンスデータが認識に不可欠だっていうんだから
形而上学だなんていったところでしょうがない。
450 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 14:03:06 0
センスデータは、たとえば、我々の目の前にある机、その机についての直接知をもたらす、色や感触のことで、 感覚与件とやくされるように、我々以外の何かが存在し、それにあたえられたものだ 一方、クオリア、すなわち質感とはいわば我々自身による再帰的構成にほかならず、センスデータをより仮構したものにほかならない
451 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 14:11:44 0
>>450 ちがうよ。そこでいう
センスデータの説明とクオリアは同じだよ。
だから
>>448 もまちがい。
453 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 14:23:38 0
感覚経験をよりユニークにするのが内観としてのクオリアだから、 ラッセルやカルナップらによるのセンスデータ論や基本経験からはまさに質的に異なるんじゃないか?
日本語でおk
感覚与件も手続きとしては内観によってしか得られない。 そこから対象が実在するかどうかはここでは関係ない。 ロックのいう印象もセンスデータも現象学の内在もクオリアと同じことを指している。
456 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 14:31:29 0
>>429-430 足し算の概念を捨てて新たに0から全部考え直そうとすれば出来るかもしれないが
そんな事をする理由がわからない。
クオリアという考え方が無くても何も困らないのに、
何故そんなものについて「もしあるとしたら」という仮定で思考を進めるの?
クオリアという概念を用いないと説明がつかない現象って何かあるの?
457 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 14:34:47 0
感覚与件(「センスデータ)と質感(クオリア)は ほぼ同じ概念じゃないかな。 意識的に感じられることがクオリアだろ。
>>457 クオリアと言われるようになる以前はセンスデータと言っていた。
ま、脳科学含め、経験・感覚論が発達するにつれて概念も洗練化されたってことでfa? ヒュームらの印象→センスデータ・メモリーデータ→・・・・と
Wikipediaくらい読んでおけ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2 ○○に似てる、○○と同じ、という議論はとっくに終わってる。
科学が進むにつれて言葉も変わる。「本能」なんてもう言わないだろ。
以下、引用----------------------------------
現在こうした議論は心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に展開されており、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、クオリアの問題が議論されている。
また科学の側では、脳科学、認知科学といった人間の心を扱う学術分野を中心にクオリアという語が頻繁に使用される。
内観や唯識は仏教から来てる言葉だからあまり使わないほうがいいだろうね。 ややこしくなる。
462 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 14:51:45 0
>>460 そう、とっくにおわってることを延々やってるから
ここで終わりにしたかったんだよ。
だってここにはいまだに
>>448 とか
>>451 とか、
ひどいのになると
>>456 とか
>>463 みたいなのがいるわけじゃん。
そういうやつにWikiくらい読んどけっていっても駄目なんだよ。
きっと読んでるんだから。
Wikiって訳すな
訳してないじゃん。
Wikiって略すな
たとえばいわゆる騙し絵を見て、「島」に見えるときと「アヒルの顔」 に見えるときでは、クオリア自体が変わっているのか、それとも 同じクオリアに違う判断を下しているのか。 「センス・データ」だと、それ自体が変わっているとはみなさないような 気がするが、違うのか。
それでいうと クオリアもセンスデータも変わっていない。
いや、クオリアが変わってるんだよ。 同じものを観ていても 脳科学的には記憶、心理学的には無意識によって、 クオリアが変化している。
471 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 15:39:41 0
>>470 脳科学的な記憶や心理学的な無意識は
クオリアとはまったく関係ない。
>>468 でいうところのクオリアは変化していない。
473 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 16:39:18 0
>>464 >そう、とっくにおわってることを
で、クオリアって何?
>>472 それでは数字に色を感じるという共感覚を説明できない。
クオリアと記憶、もしくはニューロネットワークは関係あるはず。
>>474 Wikiって略すな。
>>468 の例では
今まで観測不可能だったからクオリアに変化がないという哲学的な答えになるが
fMRIなどで厳密に観測すればニューロネットワークの回路が違うはず。
尤も記憶や無意識という概念さえ野暮ったいが。
477 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 17:47:17 0
>>476 島から顔にクオリアが変化した途端
脳のあちこち活動し出すんだろうな。
んで汁もいっぱい出て。
「島」とか「顔」とかいった観念を 排除したところにあるのがクオリアなんだけど。
>>456 そのように言うなら、振る舞いや脳状態など自体とは別に、その人が感じているものがある
(と信じられている)ということを説明するのに、クオリアという概念がなくても全然困らないとは、
全く思えないんだけど(他にもっとよい説明があるかどうかはともかく)。
他のものとは異なり、クオリアだけが全く必要性がない、なんて言える理由が、何かあるの?
例えば、「国家」「大統領」「軍隊」等々の概念を使わずに、ブッシュなる人物の行動や
関連する出来事を説明するのは、(全くできないことはないだろうが)かなり大変だと思われ、
少なくとも私には、そんなことをしなければならない理由は考えにくいけど、そうすると、
国家等々は、クオリアよりも確実に存在するとか、あるいは必要性の高い概念だとかいうことになるの?
480 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 23:28:54 0
>>479 感じているから「感じている」わけでしょ?
そのどこに「クオリア」を持ちいる必要があるの?
>例えば、「国家」「大統領」「軍隊」等々の概念を使わずに、
国家も大統領も軍隊も、概念を使う云々以前に実際にあるものだよ。
クオリアの場合は「もしあるとしたら」でしょ。
そこがわからないんだよね。
何故「ある」としたほうが世の中の現象を説明しにくくなるものを、あえて「ある」と仮定するの?
482 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 23:55:39 0
と、いうことはだな、目の前にある机は、センスデータによって、知覚され、さらに脳内によってクオリア化もされている論理的仮構なわけだ そして、質感となぜそれが発生するのかという脳内状態に一定の牽連関係を見出し、記述し、世界の秘密を解き明かすってのが味噌なんですね
>>480 > 国家も大統領も軍隊も、概念を使う云々以前に実際にあるものだよ。
> クオリアの場合は「もしあるとしたら」でしょ。
は?
>>478 島とか顔とかを排除しようとしまいとそのものに対するクオリアは同じものではない。
顔に見えるときの『顔』は観念ではないよ。
意見がわかれましたな。
>>480 実際に存在するかどうかにつき、自由意志や足し算と対比したら、足し算は必要だがクオリアは
必要ないと言われる。必要な概念かどうかにつき、国家、大統領等と対比したら、国家等は
実際に存在するがクオリアは存在しないと言われる。
クオリアいじめですかw
それはともかく、脳状態や振る舞い等とは別に、その人が感じているものがある、という
ことは、いいの?そうだとしたら、あとはせいぜい、用語の違いくらいのような気がするけど。
無や沈黙や透明感など「感じてない」クオリアもあるから、いいんだよ。 クオリアなんて認めないクオリアとか クオリアなんて必要ないクオリアとかね。
488 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 12:21:15 0
>>486 クオリアという概念を用いないと説明が出来ない現象って何?
脳波をクオリアで説明できるんですか?
491 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 12:52:23 0
>>490 クオリアとは何?
クオリアという概念を用いないと説明が出来ない現象は何?
こういうシンプルな問いに対する答えは載ってないよ。
もう3つもスレ消費してるのに、一向に答えが出てこない。
このスではいったい何について話してるの?
>>489 それが心脳問題。脳波とクオリアの関連がまだわかっていない。
自分の脳波を増大させて他の人の脳に送り込んでみてもクオリアが同じになるということはない。
>>490 Wikiって略すな。いい加減にしろ。
494 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 13:10:23 0
>>492 載っているというなら説明してみればいいのに。
>>494 Wikipediaにまとまった記述がありそのリンク先でも
多くの情報に触れることができるわけだから
知りたければいくらでも自分の関心に即して調べることが出来る。
普通はそうやって自分なりに理解してから来るんじゃないの?
>>491 「無」に感じる質感はクオリアという概念を理解してないと説明できないよ。
クオリアなんて無意味だ!の「無」のことね。
>>491 だからあなた、スレ3回ぶんも「?」のクオリアに支配されてんのよ。
疑問のクオリアは勉強のモチベーションになるよね。がんばれ!
498 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 18:09:48 0
500 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 18:45:13 0
てか、自分に理解できないことには口を挟まなくていいと思う。 これは「クオリア」に限らず。
そして誰もいなくなった
クオリアって、イデアとなにが違うんですか?
503 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 23:00:24 0
この挙げは荒らしスルーで。
505 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 23:34:34 0
>>502 強いて違いを言うならば、
クオリアとは、個人が各々自分の中にもっているイデア
と言える。
つうことは、「夕日の赤のクオリア」は、夕日という外界の現象に先立って存在すると。
507 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 00:40:15 0
まあある程度わかりつつあえて質問を繰り返してるんだろうが。 本当にわからなかったら質問の記述すらできない。 質問そのものがクオリアの記述になっていることに気がついてないありがちなパターン。
511 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 14:51:27 O
何となくだが、クオリアって 俺が見てる赤と誰かが見てる赤が 果たして同じ色なのかってことであってる? だとしたらクオリアを解決するのは、 生まれつき目の見えない子に、 空の青さを教える事よりも難しい気がする。
>>511 >俺が見てる赤と誰かが見てる赤が
>果たして同じ色なのかってことであってる?
その感じている赤のことであってるよ。
>だとしたらクオリアを解決するのは、
>生まれつき目の見えない子に、
>空の青さを教える事よりも難しい気がする。
そこでいう「解決」が何を意味するのかわからないけど
クオリアを共有したり他者のクオリアを感じたりすることは
不可能だというのは一般的な見解だよ。
クオリアとは哲学の終焉
>>427-428 だからさ、それって、あなたじゃなくて私が指摘した要点でしょ。
なんで、さもあなたが発見したかの如く、振舞ってるわけ?
私が、「合ってるか・間違っているか ではなく、
合否の判断をしている主体がいるだろう」と掲示したんだよ。
>>460 jawpをソースにあげるって、どんなもんだろうね。
英語版ならまだしも、日本語版なんて読めば読むほど混乱しかねない、
引用には耐えられないと思うよ。議題としても現在のテーマと言うほど
新しいとも思えない、5年くらい前に騒がれた。今はむしろ下火でしょう。
「頻繁」といっても、キチンとしたデータもないみたい。
真っ当に読めば分かると思うが、jawpのクオリアの項目はゴミだよ。
たぶん、知らない人が興味本位で書いたんだろう。それが修正されずに
そのまま放置してある。だから、感覚的な文体になっているんだろう。
読めとか言ってる人は、知ったかぶりしてるだけだろうね。
>>516 そうだね、君みたいに
悔しいとか嬉しいかと、そんな発想でしか記事を見てないんだもんね。
記事の内容が正しいか誤っているかではなく、悔しいか嬉しいかだもんね。
つまり内容を理解してはいないんだよね。
英語版を読めば分かるが、 ちゃんと哲学や形而上学に置かれている。日本語版だと科学なのだ。 どうみても、記述内容は科学ではないのだが・・・ しかも心理学です、科学と心理学ってなんなのか・・・ 経験と知識の二本柱も日本語版だとないし、認識論のカントが出てこない。 随伴現象説も別項目になっているみたいだ。 これじゃ読むと混乱するよ。
で、「jawpは編集できるのだから修正すればいい」だろ? 直せといったり、読めといったり どうにも当てにならない情報源だなぁ、って思うぞ。
>>515 なるほど、
あなたはよく理解しているようだから
「クオリアってなに?」という質問にたいして
答えてあげたらいいんじゃないか。
きっとWikipediaよりましな解説ができるのだろうから。
>>520 クオリアについては知らんよ。説明なんてできる程の見識はない。
しかし、記事の中に基礎的な教養がエッセンスとして入ってないのは
分かるから、読んでて混乱してくるのは分かる。
ウィキペディアは教養自慢のエッセイではないから、だらだらした議論は不要なの。 単刀直入、内容説明だけで終わりということ。 歴史なんて書き出したらキリないからね。
第一カントなんてクオリアの議論で直接触れられること自体ほとんどないのに、何言ってんだろうか。
で、結局クオリアってなんなの? 何故クオリアについて話しているスレで 「クオリアって何?」という質問にちゃんと答えようとする人がいないの?
>>522-523 俺様主観で単刀直入書かれたら訳分からんよ
第一カントがない認識論って、それギャグだろ。
日本語圏でのクオリア論が変なのも、それが理由の一つだろう。
528 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 20:32:58 0
530 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 20:38:42 0
>>529 引用してるURLにあるよ。手間惜しまず見てみろ。
質問がその上でまたね。
ゆとり教育は自分で考える力をつけるというコンセプトだったはずだが。 基本的な情報収集すらせずに 「わからないのはわかるように教えないほうが悪い」 と開き直るような人間を創り出した文部行政の罪は重いな。
>>526 哲学者の間で「カントが常識」になってるから出てこないの。
嘘だと思うなら心のの哲学の文献何でも良いから読んでみ。物自体とかいった単語が出てくる文献は稀だよ。
特に短い論文やエッセイだとカントの名前なんてまず出てこない。
>>524 のブログではウィキペディアは信用できないといってるな
>>530 「クオリアとは何か?」と問われたときに
>>460 のURLを貼り付けるのは答えになっていないだろ。
自分で何を言っているのか理解しているのか?
>>524 日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。
このスレの馬鹿ども死亡
537 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2008/04/12(土) 00:45:38 0
いわゆる"物理法則"は我々の感覚論的起源から派生した文脈の一帰結である。 "物理法則"とは「人間が高さ300メートルの崖から落ちれば身体の物理的強度 と地球の重力云々との兼ね合い等から死ぬ等・・」という蓋然的命題が文字 通り"蓋然的に真"であることを我々の感覚論的起源に基づく流儀に従って解釈 するための認識上の道具であるということ。 例えばアフォーダンスという着想が秘かに意図している奥義にも等しい真髄の 部分が"物質性"という固定観念に囚われ勝ちな現代人である多くの者にとって なかなか理解しがたいのは、むしろ他ならぬ我々自身の感覚論的起源に基づく 文脈を我々があまりにも「実在そのものとして」信じ切ってしまっているため なのである。 「我々の感覚論的起源」とはそれ自体すでに諸可能世界の集合としての情報 空間内部における複合的な要因の連鎖の内にある、単に局所的な慣性系の ようなもののことなのである。これは従来の唯物論及び従来の観念論の対立 という図式を根こそぎに掘り覆す類の"観念論が観念論自体を相対化する観念 論的手法"である。 尤もこれらのことは、ともすればとんでもない誤解を招きかねないことであり しかも容易には説明し難いことなのであるが・・・
おそらく、文章と論理は正しいのだろうが、 内容としてはポエムの域を出ていないような。
jawpを批判や擁護する上での悪いくせ(?)だと思うのだが
○○が問題なのではない、問題なのは××だ。
××が問題なのではない、問題なのは△△だ。
△△が問題なのではない、問題なのは※※だ。……
と言った具合に、堂々回りして結局どこにも収着しないことがある。
いわゆるタライ回しみたいなものだ。
しかし本来は、どれも問題だろう、○○も、××も、△△も、※※も……。
だったら、すべてに対処すれば良いのに
放置してるから悪い循環が形成されてしまっている。
今回の例で言えば
・記事が悪いのではない、修正すれば済む
・修正が必要な、記事を読むことを推奨するのはおかしい
・記事は悪くない修正も必要ない、内容さえ書いてあれば十分なので歴史とかいらない
・常識だからカントの記述はいらない
一体、なにを言いたいのか、何をやりたいのか。
そもそも擁護になってるのか、擁護だとしたら何を擁護してるのか。
jawpは、宗教的な作法に近いのではないか?
>>532 そんな訳で、ちょっと気が狂ってるとしか評価できない。
>>536 それ単に言葉の定義の問題だよ。
主観的現象=クオリアという用法で書かれてる論文はたくさんある。
まあネット上で意味不明な誤用が多いというのは実際確かだけど。
たとえば斉藤環の「価値のクオリア」という使い方とかね。
542 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 07:10:21 0
>>536 「主観的現象とクオリアは同じである」とはチャーマーズも言っている。
別に間違った記述とは思えない。ただ、主観的現象は日本語としては
あいまいな表現だ。主観的に解釈した現象という意味で解釈される。
現象を主観的に解釈することそのものがクオリアだろう。
544 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 15:59:52 0
グラマろかログラしょーだろw にわにわプーだろw グラマーだラしょーだーペローロラマーだろw かラしょーだわにわプーだろw ラマだろだろペーフーンスコローだよ。 ブラーってる団塊がうざいだろw ラマグラマラーってる団塊がうざいだなw ラマーだろw
545 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 20:50:00 0
>>543 「動詞」という言葉は動詞なの?
きちんと文脈を解釈すれ。
>>545 答えられないならレスしなければいいのに。
>>542 それは機能主義で解釈できない究極の主観性なのか?
悪足掻きはよくないぞ
>>540 英語版はよく出来てるみたいだなぁ〜
翻訳して読んでも、まだ日本語版より質が上だよ。
英語版には「カント」があったぞ
ニーチェと一緒にね。
ああ、蒼龍さんのブログはずっとRSSリーダーで読んでるけど、脳科学については あまり詳しくないみたいだ。 認知革命でずっと世の中が止まってるみたいなのな。 クオリアと言うなら認知革命を認めろ、みたいなスタンスなんだと思う。
つーか、なんで英語のWikipediaや英語のスタンフォード辞典まで出してるのか意味がわからない。 で、「クオリアってなに?」という人はそれで満足したわけ? 英語読めないんで是非日本語に短くまとめて説明してみせてほしい。 英語のサイトを参照しようが結果は予想つくけどね。
クオリア、それは桜の花びらの落ちる速度。 クオリア、それは哲学の道の終着点。 クオリア、それは頬にあたる春風。
不思議なスレだよな。 「クオリアって何?」という質問に上手く答えられないなんて。
>>552 少し別の問題が君にはあると思った。
あなたは、内容よりも立場を過剰に意識しているだろう?
それは姿勢としてよくない事だと思うぞ。
クオリアに限らず、哲学はステータスではない。
>>554 それは不思議とは思えん。フォーマットに移行させれば
「神様って何?」「愛って何?」ってな具合に、同様の言葉はある。
でも、ここ、クオリアのスレで、神様のスレでも愛のスレでもないもん。 神様のスレなら、「神様って何?」って質問は当然ありだろう。
558 :
考える名無しさん :2008/04/13(日) 19:11:31 0
クオリア=質感 精神に浮かぶ種種の像 これで満足か? もう少し詳しく書くと 物的対象にも、神経生理学的脳内過程にも完全に同一視不可能なもの (空間・物理的ギャップがあるという点で)。
「クオリアってなに?」という質問は
「愛ってなに?」や「2ちゃんねるってなに?」とは全く異なった意味を持つ。
そもそも質問者は「「?」ってなに?」ということにまず答えなければいけないからだ。
>>559 蒼龍さん乙
そんな難しいことじゃなくてさ 「クオリアってなに?」って質問に 答えてあげてもわからないだけなんだよ。 そしてわからないのを自分の責任だとは思わない。 だからまたしつこく聞いてくる。 多少哲学をかじってればさ、日本のwikipedia読めば分かるじゃん。 それがわからないってことは、哲学の基礎知識がないってことなんだから 自分である程度勉強するしかないんだよ。あたりまえだけど。 そんなことはどの分野でも同じことだよね。
>>551 脳科学に詳しいあなたがちゃんとしたら反論を書いてみたらいかがでしょうか
>クオリアと言うなら認知革命を認めろ、みたいなスタンスなんだと思う。
ブログの中をクオリアで検索してみたがそんなことは書いていかったな
妄想乙
>>562 反論?いや蒼龍さんは認知科学全般で脳科学は一部だと考えてるんでしょ。
コンピューターなどによる意識のモデル化に成功したことが認知革命だと思ってる。
でも、ニューロネットワークの観測ができている事実に無関心すぎる。
クオリアを否定しつつアフォーダンス理論を持ち出すようなそれまでの意識のモデル化なんてほとんど必要なくなった。
だからといってカオス理論のようにシュミレートでしか得られないこともある。
要するに別に対立する主張でもないんだよ。頭が古いだけ。
>>563 あのブログは俺も読んでる。
で、あれは古いとかいうんでなく、物理学が分らないから近年のクオリア周辺の議論に戸惑ってるだけだと思う。
たとえば「クオリアが相互作用する、というのは意味不明だ」みたいなエントリーがあったけど、
物理かじってれば、「相互作用」というのは「物理系の時間変化を記述する方程式の中に、クオリアに対応する項が出てくること」という意味なのがすぐ分るはず。
まぁもちろん現在知られている物理法則の中にはそういう項がひとつもないから、チャーマーズの「現象判断のパラドックス」が出てくるんだけど。
ここらへんの一般知識がないから最近のクオリア関連の議論が意味不明になってるんだと思う。
チャーマーズはちゃんと踏まえてるみたいだがな。
>>560 そんな事言い始めたら会話なんて成り立たないよ。
もしクオリアというものが、「クオリアとは何かを尋ねるのなら、まず尋ねるとは何か、に答えなくてはいけない」
なんていう性質を持っているのだとしたら、そんなものについて考える事はこの世を理解する上でなんの役にも立たない。
>>567 自分の意識にある「?」を言葉で説明することと同じだ。
>>568 クオリアとは自分の意識にある「?」を言葉で説明すること
でいいの?
570 :
考える名無しさん :2008/04/15(火) 19:57:42 0
>>569 いいんじゃないかな。
クオリアという言葉で呼ばれてるんだから。
>>570 それって思いっきり、神秘主義と言うか、ロマン主義と言うか、な訳だが
そんなものとして解釈してしまっていいのか?
まだやってるのかよw クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale)とは、 心的生活のうち、内観によって知られうる意識の現象的側面(現象的意識)のこと、 またはそれを構成する個々の質感のこと。 これでわからなかったら個々の単語がどういった意味で使われているのか 自分で哲学書をあたって調べるんだよ。 先生がいないときはこうやって勉強するんだよ。わかった?
>>572 そんな事やってたら、ソーカルさんに怒られるぞ。
自分で翻訳的に解説ができないなら詐欺と同じだ。
読め読め詐欺。読めば分かると言っておきながら
実は何もなかったって話。
>>573 なんで詐欺なの?
読んでもわからなかったから?
そりゃわからない自分が悪いんだよw
本読んでわからないから著者を詐欺で訴えるなんて
聞いたことないな。
ちょっとした実験をしてみよう。 質問 神とは何か? 回答 心的生活のうち、内観によって知られうる意識の現象的側面(現象的意識)のこと、 またはそれを構成する個々の質感のこと。 以上。 さて、矛盾する部分はあるだろうか?
>>576 レベル低すぎるな。ほとんど狂気のレベルだw
簡単な質問だけど、今いくつ?大学は出てる?出てたら理系か文系?
あなたの知識レベルに応じて説明の仕方も変わるし、そもそもあなたにまだ理解できない可能性もある。
>>573 ソーカルの批判対象わかってないでしょ。
>>577 27歳。大学を出ている。文系。
では回答をお願いします。
>>580 専攻は政治学です。
専攻とは関係なく、自由に選択できるものとして哲学に関する単位はいくつか取りました。
これ以上こちらから答えるつもりはありませんので、回答をお願いします。
>>581 政治か。おk、政治哲学あたりで哲学とのリンクが若干ある。
でも理系知識とはほぼ断絶してる領域だから、前提知識としては結構難しい。
とりあえずやってみよう
功利とか効用と呼ばれる概念があるよね。
あと最大多数の最大幸福とかもあるね。
ここで功利とか効用とか幸福とかってどう定義できると思う?
583 :
考える名無しさん :2008/04/15(火) 22:51:09 0
他はともかく、
>>572 はさほど問題ないだろ。
報告によってい知りうる意識に現れる現象的質のことだよ。
>>576 「神は土を捏ね息を吹き込んで人を作った」という文と「報告によって知りうる意識の現象的質は土を捏ね息を吹き込んで人を作った」派別の意味だろ。
585 :
582 :2008/04/15(火) 22:56:35 0
>>583 おぉ、アンケート。
そうだね。「あなた幸せですか?」と聞いて何パーセントYesの反応が返ってくるか?
これひとついい定めかただね。
でもコレ北朝鮮でやったら意味あるだろうか?
ちょっと前にイラクでフセイン支持の似たようなアンケートがあったけど、
例えば「あなたはジョンイル様の政権で幸せですか?」と北朝鮮でアンケート取ったらYesが100%になるだろう。
>>583 >>585 アホか?
「あなたは幸せですか」と答えを聞いて回って、「幸せ」とは何かが定義できるわけないだろ。
「幸せを他の言葉で置き換えてください」ってアンケートならわかるが。
それがありならクオリアも研究者にアンケートすりゃ済む話だな。
587 :
考える名無しさん :2008/04/15(火) 23:02:20 0
いや、クオリアに内観を持ち出す必要はないだろ。
内観を伴わない現象的事実も存在するし。
で、
>>576 は神とクオリアの違いが知りたいの?
>>584 報告によって知りうるということは、我々は「クオリア」を生まれながらに持っているわけではない、という事だね。
589 :
582 :2008/04/15(火) 23:04:02 0
あと全ての幸せは同じものだろうか? 例えば次のようなイベントが起きた直後に「最近何か幸せなことがありましたか?」というアンケートが来たら、おおよそYesという回答になるだろうが これらはどれも同じ「幸せ」だろうか? 1.念願かなって大学に合格、やっと受験勉強から開放されたぜ!いぇーい 2.もてない俺にやっと彼女ができた。奇跡だ。 3.同僚と付き合いで買った宝くじ、意外にも20万当たった。キレイなオネーちゃんのいる店ではしゃいできたぜ! 4.ケンカしてた友達と仲直りできた。良かった・・・
コーパス作ったり、定義してもらったりして、一般的な使用法を調査して、そこから定義するのはありだろうが
「あなた幸せですか?」はありえねえよ。
>>588 「報告によって知りうる」と「報告されないものは存在しない」は別なので単純にそうは言えない。
成長の過程でそう振舞うように学習するという説もあるにはあるが。
591 :
考える名無しさん :2008/04/15(火) 23:12:05 0
>>590 「報告されなくても存在しうる」と「報告によって知りうる」の関係は?
592 :
582 :2008/04/15(火) 23:12:57 0
>>586 ,
>>590 >、「幸せ」とは何かが定義できるわけないだろ。
定義なんて元々できないんだよ。無定義語を使うか、循環定義するかしかないから。
まあこれはもともと理解のための対話だから、そういう話どうでもいいんだけど。
>>587 >内観を伴わない現象的事実も存在するし。
これは変な文。
内観という言葉の使い方がおかしいか、または現象的という言葉の使い方がおかしい。
>>591 質問の意味がわからない。
椅子の下の猫が「報告されなくても存在しうる」と「報告によって知りうる」の関係は何か?みたいなことが聞きたいのか?
>>592 >定義なんて元々できないんだよ。無定義語を使うか、循環定義するかしかないから。
それは究極的には正しいが、実用的にいって幸せですか?ってアンケートはない。
595 :
582 :2008/04/15(火) 23:22:05 0
>>594 幸福度調査みたいなのあるでしょ。
あなたは今自分が幸せだと思いますか、の国別比較みたいなの。
>>590 ではクオリアとは報告される前から脳内にあり、報告される事によりその存在を自覚できるもの、でいいのかな?
>>596 さあ?
クオリアの定義としては、後半部分だけで十分だと思われ。
前半部分は、その定義されたクオリアの正体は何かまで踏み込んでいると思う。
>>597 定義が定まってなかったら正体に踏み込めないよ?
>>598 定義に前半部分はいらないといっているんだが。
>>600 >報告される事によりその存在を自覚できるもの
むしろこれに当てはまらないものがあったら教えて欲しいのだが。
>>582 これ以上質問は受け付けない、という主旨のレスを先ほどしたつもりです。
もういちど質問を繰り返します。
>>576 には矛盾する部分がありますか?
あるならそれを教えてください。
603 :
582 :2008/04/16(水) 00:28:06 0
>>602 コミュニケーションが取れないのね?それは知識レベル以前の問題。
まあとりあえず普通の神の定義とは全然違うよね。
例えば、全知全能で遍在する存在とかいう定義で考えて見れば、全然違うよね。
代入して途中はぶけば分るでしょ。
「全知全能の存在とは質感のこと」
意味不明でしょ。
>>603 いいえ。
神とは心的生活のうち、内観によって知られうる意識の現象的側面(現象的意識)のこと、
またはそれを構成する個々の質感のこと、という定義ですよ。
こうしたとき、どのような場合に意味不明になりますか?
605 :
582 :2008/04/16(水) 00:36:46 0
>>604 禅はある宗教(または思想・哲学・教え)のこと、またはそれを伝えている宗派なんかのことを指すのに使う言葉でしょ。
「禅は質感である」
で意味あると思う?
あなた27才で大卒とか嘘でしょ。中学生ぐらいじゃないの?
>>605 質問に答えていただけませんか?
こちらは貴方の出す質問に出来る限りの誠意を持って答えさせていただいたつもりです。
>>576 に矛盾する部分がありますか?
あるならそれを教えてください。
607 :
582 :2008/04/16(水) 00:47:29 0
>>606 頭おかしい?
禅は質感である、が意味ある文章だと思うの?
>>607 質問に答えてください。貴方が答える番です。
答える前に私に質問をするのはやめてください。
>>576 に矛盾する部分がありますか?
あるならそれを教えてください。
「神とはあの残尿感である」 うん、いい感じだ。矛盾はしてないよw
610 :
582 :2008/04/16(水) 01:07:13 0
>>608 あら禅に変わったと思ってたら、神だったか。
画面が汚いから見間違えたw
まあどちらにしろ意味不明だが、
いちいちソクラテスレベルの議論をしなきゃいけないのか?
質感というのは、何かについて知識を持つ存在、といったものではない。
神は何かについて知識を持つ存在である。
よって神は質感ではない。
>>610 >神は何かについて知識を持つ存在である。
その定義はどこから来たのですか?
神を
心的生活のうち、内観によって知られうる意識の現象的側面(現象的意識)のこと、
またはそれを構成する個々の質感のこと
と定義した時、世の中の現象を説明するにおいて何か不都合はありますか?
という質問です。
612 :
582 :2008/04/16(水) 01:30:42 0
>>611 どう考えても27才大卒というのは嘘だよな。
まあ試しにWikipediaの「神」の項目をその定義で書き換えてきてごらん。
不都合があるのかどうかすぐ分るから。
>>612 私には不都合が見つかりませんので、是非お答えをください。
614 :
582 :2008/04/16(水) 01:38:37 0
>>613 やっぱ頭がアレな人だったのね。
じゃあ、あなたはこれから神という言葉をそう定義して生活していくといいかもしれないな。
本当にありがとうございました。
俺的には、27才大卒の勝ちだとジャッジしたくなるな。 よーするに、質感も、神も、幸福も、形而上での議論になるのだが 形而上での議論になるとすると、それらを区分け分類するのが とても困難になる。だから、形而上学は、形而上学を定義するのが難しい。 簡単であり、限定的な言葉を使うためには、形而の下に落とし込まなければ ならない。しかし、結局のところ《クオリア》はそれに失敗している。 共同主観や世間的な立場に立てば、神と質感が違うのは認めるが、 それではあまりにも観念的すぎて哲学の解説としては不十分だ。
616 :
582 :2008/04/16(水) 03:00:44 0
>>615 幸福が形而上学の問題として語られてるのなんて聞いたことがないけど。一体どこの議論?
>>615 失敗しているのは
「自然科学の方法」なんだけど。
あのね、自分が感じている赤い色が科学で説明できないからといって
赤い色が間違ってるなんてのは本末転倒だよ。
>>616 しかし、幸福を形而の下にしてよいのか微妙。観念的なものでしょう。
>>617 まー そうでしょうね。たぶん赤い色はあるよ。
もし新しいアプローチ方法が考案されたとしたら、
言語化されていない多くの未知の質感も、発見されてしまうかもしれない。
>>601 >>596 ではなぜか省略されているけど、”現象的質”ってずっと書かれてるやん。
>>597 では、そこの部分までいちいち指摘する必要がないと思ったから言わなかったけど
>>601 みたいに揚げ足を取るために
>>596 で省略したのなら、すげえ不毛な議論の仕方だね。
意識への現われから志向的機能的側面を除いた残りの質的部分が現象的質。
そんなものがあるのかって?自分にはあると「報告」する人は多いね。
あんたにあるかは知らない。
>>602 >>582 じゃないが、犬って単語を「報告によって知りうる現象的質」と定義した場合でも、矛盾はない。
ただ世間の用法とずれるだけ。定義というものはそういうもの。
>>615 哲学の解説として不十分というけど、哲学の解説で何を想定しているのかがまるで伝わってこない。
形而上や形而下もそうだが、脳内で完結しないで、他人にわかるように語らないと。
というか自作自演乙。
>>619 ,615
そりゃ、最初から想定されてない物で、想定されてない物を、
合理的にいかにもそれらしく語ることで、他人にも分かる場合もあれば
他人にも分からない場合もある様な、伝え方を最初からしているのだから
延長線上にあるのも、何が何だか分からなくなるのは当然であり
どこを切っても、同じ様な発言のオンパレードにはなるわな
「他人にわかるように語らないと」ってのは「クオリアってなに?」を
言ってた側の主張でしょ。
どうも、このスレは他人が投げかけている疑問を、いつのまにやら逆手に取って、
さも自分が投げかけているかの様な、捩じれ論法を平然と使ってくる
不道徳な輩が多いな。あるいは自覚が無いだけなのかもしれないが、、
>>617 残酷なこと言っちゃうと
「赤い色が間違ってるなんてのは本末転倒だよ」は
「神はサイコロを振らない」と同レベルだろう。
共感はできるけどそれだけです。
>>620 >「他人にわかるように語らないと」ってのは「クオリアってなに?」を
>言ってた側の主張でしょ。
ずっと一人の人間が相手してると思ってるのか?
それに、
>>615 の意味不明さと、それ以前の不明瞭な答えとの間に関係はないな。
>「他人にわかるように語らないと」ってのは「クオリアってなに?」を >言ってた側の主張でしょ。 何かを主張するなら、まず自分がそれを実践しないといけない。
>>617 「科学の方法」ではクオリアは「扱えない」だから、失敗のしようがない。
>>624 > 「科学の方法」ではクオリアは「扱えない」
まさにそのとおり。
だからその扱えないクオリアを科学で扱おうとする科学の企てそのものが
方法論上の失敗なんだよ。
懲りないなあ。
>>625 >クオリアを科学で扱おうとする科学の企てそのものが
科学というのは一つの道具であって、それ自体が主体的な意思をもって何かをするわけじゃない。
プラスドライバーでマイナスねじを扱えないのは、
プラスドライバーを使おうとした人の失敗であって、プラスドライバーが失敗したわけではない。
同じように、クオリアを科学で扱おうとするのは、「科学を使おうとした人」の失敗。
>>609 > 「神とはあの残尿感である」
これ確か出典があるよね?なんだったっけ?
629 :
考える名無しさん :2008/04/16(水) 20:30:03 0
クオリアとは経験そのものだから経験科学で扱えないはずが無い。 自然科学や社会科学のような経験科学の基本に位置するのがクオリア だろう。クオリアがなければ観測は成り立たない。
またかよ。
631 :
考える名無しさん :2008/04/16(水) 20:35:08 0
>>631 あ、どうも・・・て何か違うような。
でも有難う。
>>622 意味不明じゃないよ。形而上やら、観念論やら、抽象的な思考に
馴染んでいる人なら基本中の基本だ。分からないのはあなたが不勉強だけ。
↑
これを《クオリア》でもやってるでしょ? つまりそう言う事なんだよ。
他人にわかるように語ってないのはお互い様。そして最初に主張を始めてるのは
クオリアを唱えている側。だったらクオリアを唱える側が、まず説明するべきだろう。
>>623 だとしたら「クオリアって何?」に答えられてないんだから
それは、クオリアと言う能記を声高に主張する人が先にするべきだろうね。
あなた、順序の整理が頭の中で出来てますか?
変な論法だもん。 ・「アリオク」とは心の中のある。 ↓ 「アリオク」なんて知りません。 それでは、「アイロク」を「心霊」に置き換えてみます。 ・「心霊」とは心の中にある。 これで矛盾がありますか? ↓ 馬鹿げてる。お前は本当に大卒か? ↓ それで、「アリオク」を「心霊」に置き換えて矛盾するの? ↓ お前とはコミュニケーションがとれない 何を言ってるんだか、さっぱりだろ。これじゃフォーマットの方に 主体があると言われても仕方ない。言葉かえても通用するんだから。
>>633 意味不明だよ。抽象的な思考になじんでるというより、抽象的な言葉を意味もわからず振り回しているように見える。
不勉強いってるのは俺じゃないから、俺に言ってもしょうがないだろ。
匿名掲示板で先に言ったのはとかいっても仕方ないじゃん。
>それは、クオリアと言う能記を声高に主張する人が先にするべきだろうね。
>あなた、順序の整理が頭の中で出来てますか?
意味不明。「明晰に語るべき」と唱える人間に明晰に語る義務はあるが、
クオリアという言葉を語っていること自体から、「明晰に語ろうとする努力」を求められるという結論は出てこない。
個人的には、可能な限りわかりやすく語る努力は求められると思うけど、それは一般論であって、順序とかは関係ないな。
問題を明晰にする努力をしていると主張している人間が意味不明に引っ掻き回したらしょうがない。
>>625 >>627 科学でクオリア問題とされている問題が解消不能かどうかはしらないが、
「科学というひとつの道具」を仮定している時点で疑問。
科学は一つの固定した手法というより、いろいろな知的探求の組み合わせで、常に新しい方法論を探している。
さらにどこからどこまでを科学とみなすかの合意も曖昧。社会科学のみならず哲学を含む立場もある。
機械論的な手法とかならともかく、科学の限界とか大雑把なくくりに意味があるとは思えない。
636 :
考える名無しさん :2008/04/16(水) 21:57:38 0
たとえば著名な哲学会、いやある程度名の知れた大学の哲学サークルでも良いとしよう。 そこへ小学生が来て、神とクオリアってどう違うの?と尋ねれば誰かが親切に解説をするかもしれない。 しかしそこへ27歳の大卒が来て同じことを言っても、そういうことは自分で調べて、 ある程度の見解を持ってから来てくれ。うちらはソクラテスのような問答がしたい訳じゃないから、となるだろう。
>>629 >クオリアとは経験そのものだから
じゃあ、「経験」でいいじゃん。
>クオリアがなければ観測は成り立たない。
仮にそうだとしても、クオリアが科学の対象になるという理由にはなりません。
簡単に言うと、「科学それ自体」も科学の対象にはならないのですよ。
科学の妥当性は科学的には証明できません。
クオリアについての理論や技術が確立されて科学の分野で扱えるようになることと、
クオリアのハードプロブレムと呼ばれる問題が解決できることとは別のことだと思う。
いわゆる科学的なクオリア理論ができてもハードプロブレムが解決できるとは限らないし、
逆にハードプロブレムが解決できなくてもその理論を科学理論と呼ぶことに必ずしも支障があるわけでもないと思う。
>>634 それは論法ではなく単に呆れているだけなのでは?
639 :
考える名無しさん :2008/04/16(水) 22:29:21 0
クオリアはイデア論の焼き直しに過ぎないだろ。 見え見えじゃん。
イデアとどこが似てるんだ? アイデアidea(観念)ならまだわかる気がするんだが。
641 :
考える名無しさん :2008/04/16(水) 22:48:57 0
そんなこともわからんのか?! 話にならぬわ!
>>637 「クオリアとは質感のことだ」って話もあったよね。
その場合、「じゃあ質感でいいじゃん」となるよな。
しかし質感と経験って違うものだよね?クオリアってなんなんだろう?
クオリアとは質感でもあり経験でもある。
質感の経験、って事かな?
質感ってクオリアの日本語訳じゃないの?
ついに結論が出た。
>>635 んな事は無いね。きみ、記号論やイデア論を学んでないだろ?
意味が分からないのは、それは無知が原因だろうな。
「カレーライスは本当に栄養があるのだろうか。
実はカレーライスには栄養がなくて、カレーライスを食べたと思うことで
心に変化が起きて、心の変化が空気を栄養源変えているのではないか」
と言った時、肝心の「カレーライス」を知らなかったってレベルなんだよ。
>>622 、
>>635 のリアクションは。
すまんが使ってる単語はかなり基礎的なものだから、これで分からないなら
間違いなく基礎的な知識が欠落してる。断言しても良いよ。
かなり楽に書いてあるはずなんだから。
順序も関係あるね。仮に意味不明なことを発言されて
発言された側が「なぜ意味不明なのか説明せよ」と問われても困る。
その場合は意味不明な発言をしてる側に、説明する責任がまず発生するべきだ。
「意味が不明なものの解説自体」を目的とするのなら、最初に意味があったであろう
思わせた対象は、すでにその時点で意味を失っていることになる。
>>635 それに、クリティカルな力があると勘違いして
「意味不明」というワードを連発されても、
人文社会的には特定の解釈に落ち着くだけだぞ。
よーするに意味が不明なのは、文化的な違いがあるから
意味が伝わらないだけで、そこには形式的な作法が残っているだろう。
つまり、形式的な作法に主体があると言ってるに過ぎない。
意味が不明だとバカの一つ覚えみたいに通用するのは中学生までだ。
>>643-645 そのレベルでの説明でいいのならすぐ終わるはずだよね。
言語の置き換えで納得するものではなく、質感それ自体が
問われているのだから。
>>629 じゃあ、その経験を支えている認識主体はなんなんだろう?
合理的な志向性があるみたいだが
>>643 とりあえず、「私は」、「クオリアを論じようとするあなたがた」の個々の間での、
クオリアの解釈や定義の違いには興味ありません。
あなたと、
>>292 そして、
>「クオリアとは質感のことだ」って話
をした人、
それぞれに、それぞれの考えがあるのでしょう。
しかし、それらの違いとか、それらのうちどれをクオリアの正しい定義なり解釈なりとして取り上げるかとか、
そういう「あなたたち」の問題には、「私は」全然関心がありません。
>>637 に至る議論で私にとって重要なのは、
クオリアと呼ばれる概念を、科学で扱いうる問題として、
形式を整えて提示した人が一人もいない
(体験と言おうが、質感と言おうが、もっと複雑な長たらしい抽象的な修辞で言おうが)
ということだけです。
>じゃあ、「経験」でいいじゃん。
というのは、そういう意味で、(あなたがどう定義しようが、私の議論には関係ないから)
「じゃあ、「経験」(でも他のなんでも)でいいじゃん。 」という意味であって、
「経験」を採用しようという意味ではありません。
>質感の経験、って事かな?
については、「どうでもいいです「あなたがたで」ご勝手に議論してください」。
としか答えようが無いです。
650 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 03:14:08 O
くぉりぃあーエラいこった
>>635 「科学をひとつの道具」とすることと、「科学の中での方法論の探求」がどう対立するのですか?
科学という基本的な方法論は、具体的な問題を扱う際の、具体的な方法論を選択する基準となります。
現在科学で用いられている方法論は、そのようにして選択されてきたものでなのです。
ですから、温度の測定に温度計を使い、タロット占いは使わないのです。
あなたの「科学」において、探した「方法論」の取捨する基準は何ですか?
どのような理由で、物体の温度を測定するのに、「タロット占い」を排除できますか?
もしくは、「温度の測定にはタロット占いも使うべき」と主張されますか?
>>642 明確に蒼龍の勝ち。批判の方が体を成してない
あれ、後半まで見ていくとそんなことないな。 前半が異様に唐突だからただのおかしい人かと思ったw
>>646 カレーライスなら問題は起きない。
しかしクオリアだと問題が起きる。
それはクオリアの存在を確認する事が出来ないから。
何故存在を確認できないものに関して「ある」事を前提に話を進めるの?
もしかしたら「ない」かもしれない、という考え方もありえるだろう。
どうも主観性という言葉の使い方が二人の間で違うようだ。 蒼龍さんのほうは、主観性という言葉を、クオリアから命題的態度といったものまでを含む広い意味で使ってるように見える。 それに対し、dickheadさんの方はいわゆるクオリアの議論で使われる狭い意味で主観性という言葉を考えてるように見える。 ここにひとつ行き違いがあるかと。 だから蒼龍的には >A’(Aから).「機能主義でも主観性を説明できる」 ではなく >A’(Aから).「機能主義でも主観性の'''一部を'''説明できる」 になると思う。
>>654 クオリアがないということはありえない。
生物同士がコミュニケーションするなかで
一方が「命なんてないかもしれない」と主張するのと同様のナンセンス。
それでも「存在を確認できない命なんてないかもしれない」というのならば
それは「命」という言葉を理解していないかそれこそゾンビであるかのどちらかだろう。
>>656 >一方が「命なんてないかもしれない」と主張するのと同様のナンセンス。
何故存在が確認できないものを「命が命であるための必須条件」にするの?
>>658 なら
>>658 は成り立たないね。
クオリアがないということはありえない、とする理由を提示しないと。
>>659 >クオリアがないということはありえない、とする理由を提示しないと。
それがナンセンスだっていってるんだけど。
クオリアは存在するのかしないのか考える事自体が難しいから問題なんだよ。 存在すると決めるのもしないと決めるのも、どちらもナンセンス。
>>661 つまりあなたは「クオリア」というものがなにを指す言葉なのか
わかっていないということをここで表明したいのですね?
>>662 クオリアは確認が出来ない、だから大変
この認識がないのにクオリアについて語ってる人がいるってことなのか?
酷いスレだな。
確認という意味でつかっています
>>665 だれがだれのクオリアを確認できないの?
自分が自分のクオリアを確認できないというのなら
あなたはクオリアの意味をわかっていません。
自分が他人のクオリアを確認できないというのなら
そんなことは当然です。
つまり
>>661 の「存在する」が他人に存在するという意味であれば
そのとおりだし自分に存在するという意味であればナンセンスです。
>>666 お互いに確認する事が出来ない、だよ。
自分で「自分は感じている!」と思う事は出来るが、本当に思っているのか、
感じているのか、それを第三者が確認する事が出来ない。
だから確認、と書いたんだよ。
自分で「俺は感じているんだ!クオリアは存在するんだ!」といくら訴えたところで
他人にはそれを確認できない。確認できないものを「ある」と決めるのも変だし、「ない」と決めるのも変。
クオリアは確認できない、だから難しい問題。ということだね。
>>667 他人に自分のクオリアが確認できないから
自分がクオリアを感じているとはいえないというのか。
そいつはすごいな。新しい見解だw
>>668 他人に自分の、自分に他人のクオリアが確認できない
これは初歩的な共通認識じゃなかったのか。
何故こんなところで突っかかる?
お互いに確認できないんだから、クオリアがあるともいえないし、無いともいえない。
>>669 > 他人に自分の、自分に他人のクオリアが確認できない
>これは初歩的な共通認識じゃなかったのか。
いやまったくそのとおりだよ。
>>666 でもそういっている。
>お互いに確認できないんだから、クオリアがあるともいえないし、無いともいえない。
それは違うと思うね。お互いが確認できないという事実から言えることは
単に、「自分が感じているこのクオリアというものを他人が感じているかどうかわからない」であって
自分がクオリアを感じるのであればクオリアはあるし、
自分がクオリアを感じるのであればクオリアが無いなどとは到底言えないんだよ。
671 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 13:39:41 0
>>654 >それはクオリアの存在を確認する事が出来ないから。
あなたはカレーライスの存在をどうやって確認しますか?
カレーライスを見たりそのにおいをかいだり食べて味を見たり
いわゆる自分の五感を総動員して「カレーライス」と知覚するのでは
ありませんか?その五感を感じることそのものがクオリアだね。
だからクオリアが存在しないならカレーライスも存在しないだろ。
携帯から書きます。
>>670 自分が感じているものと他人が感じているものが違うかもしれないということは
自分が感じているのはヘオリアだが他人が感じているものはクオリアだった!!!
という可能性を否定出来ないという事になるんだよ。
馬鹿馬鹿しい話ではあるんだが。
>>672 よくわからんから質問させてくれ。
おれが赤い色を感じている。これはクオリアだ。
これがヘオリアだとしたらどうなるということ?
まさか同じものを見て青い色を感じているなんてことじゃないよね。
>>673 俺が感じているのはクオリアじゃない、ヘオリアなんだ!!!
おまえが感じているのはヘオリアじゃない、クオリアなんだ!!!
と馬鹿馬鹿しい主張をされたときに誰もそれを否定できない、という事。
>>674 「ヘオリア」がなにを指す語なのかがわかれば
かならずしも否定できないとはいえない。
676 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 14:38:34 0
>>674 クオリアは個別の質感を示す言葉じゃないから問題ない。
ヘオリアなど私語を使っても通じないだけ。
これが語用論の立場だろ。クオリア問題ではなく
たんなる言葉の問題だね。
>>675 ヘオリアが何を表していようが、クオリアに「お互いに確認できない」という性質がある以上
存在を確かめることは出来ない、という話だよ。
>>676 まず最初に、例えば目の前に赤い林檎があったとする。
クオリアを感じられないとそこに赤い林檎がある事を認識できないのか?という事が確認できない。
678 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 15:25:00 0
>>677 >クオリアを感じられないとそこに赤い林檎がある事を認識できないのか?という事が確認できない。
クオリアがなければ「赤い」は感じられないだろうね。それが「赤い」という感じのクオリアだから。
>>646 >んな事は無いね。きみ、記号論やイデア論を学んでないだろ?
イデア論を学ぶw
記号論と同じようにイデア論という学問分野があるとは知らなかった。勉強になります。
>すまんが使ってる単語はかなり基礎的なものだから、これで分からないなら
形而上と形而下を英語に訳してください。metaphysicalとphysicalとか言うなよ。
形而の下なんて哲学用語の用法として意味不明だよ。
ちなみに形而上学には物的存在の存在論も当然含まれるよ。
幸福が形而上学の対象で犬(個体であれ、種であれ)が違うというわけではない。
定義をとり変えても矛盾が出ないのは定義の性質上当たり前。
形而上だからとかそういう問題ではない。
最後の二行なんて問題外だな。共同主観や世間的なものが哲学と無関係でなければならないなんてことはないし
観念的って哲学用語の観念とは関係ないな。
>>651 プラスのドライバーは固定的な用法のある一つの実体であって、例えに出すのは不適当。
>科学という基本的な方法論は、具体的な問題を扱う際の、具体的な方法論を選択する基準となります。
じゃあそのメタ方法論を一つの道具として示してください。
合理性とかそう言った曖昧な答えはなしで。
なおかつ、科学の範囲に関するさまざまな意見を踏まえた上で。
>あなたの「科学」において、探した「方法論」の取捨する基準は何ですか?
自分は一つの「もの」としてのそういう基準は現状として存在しないと言っているので
そんな基準を示せと言われても困ります。
それはそちらでお願いします。
なお、タロット占いを排除する基準を示したとしても、その基準が公理的集合論を採用する基準や、あるいは経済学で数学を使用する理由となる基準などと同一のものであり、
その基準を外れれば決して科学とみなされることがないような
(その範囲については議論のある)科学一般をプラスドライバーのような「一つの道具」として結びつける基準である必要がありますので気をつけてください。
>>678 順を追って話しましょう。
まずは「感じる」ではなくて、赤い林檎を「認識」できるか?ですよ。
追記 本当は合理性とか共同合意とか幅広い答えでも別にかまわないんだけど、それを採用すると科学と言う道具の限界じゃなくて 単なる人間の合理性の限界みたいな話になるのであまり意味がない。
682 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 15:45:12 0
>>680 「赤い」と感じるのと「赤い」と認識するのはどう違うの?
>>682 認識は機械にも出来るが
だからといって機械が「感じている」と言っていいのだろうか?
ということは、色のクオリアを持っていなくても、赤と緑と青と紫を 認識して区別することはできる、ということか? 「赤い」と感じることはすなわち「赤い」と認識することだが、 「赤い」と認識することはただちに「赤い」と感じることではない、 ということでよいのか。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
ttp://d.hatena.ne.jp/menika/20080403/p1#c by deepbluedoragon
>>684 >ということは、色のクオリアを持っていなくても、赤と緑と青と紫を
>認識して区別することはできる、ということか?
「クオリアとは何か?」という話の続きなので、「クオリアを持っていなくても」という部分には答えられないが
機械にも赤と緑と青と紫を認識して区別することは出来る。それほど難しい事ではない。
もし(あくまで仮定ね)「クオリアが無いと色を認識して区別することはできない」のであれば
機械はクオリアをもっている事になる。
機械はクオリアを持たない、という前提ならば、クオリアがなくても色を認識して区別する事ができる、となる。
>>685 なるほど報告できるクオリアは定義上クオリアではないんだ。
このスレの連中涙目
>>684 たとえば、「赤い物は四角で、緑は丸で、青は棒で」とかいうように、
色と形に規則的な対応関係があるのなら、全盲の人でも触感を使って
赤と緑と青と紫を認識して区別することはできる可能性がある。
しかし、もちろん全盲の人は色のクオリアなど持っていない。
機械が色を認識して区別するというのは、おそらく光の波長とか、
色と規則的な対応関係があるがそれ自体は色でない何かを検知して
対象を区別しているのだろうから、色が区別ができても色のクオリアを
持っていることにはなるまい。
>>688 人間も「光の波長とか」を検知して対象を区別しているよ?
690 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 16:48:02 0
>>685 クオリアが報告できない概念ならクオリアなどという言葉は
生まれていないね。報告できることはクオリアでは無いとは
間違った定義だね。
>>685 >あなたの語る報告の源としてのクオリアがあると分かったら、それは機能主義で説明できるのでクオリアではない。
でいったいゾンビ論法にどう答えるのか、そこを書かないとこのブログの主張は意味ないんだな。
>>690 いや、
>>685 の主張自体は妥当だよ。
報告できる、つまり物理世界の中で因果作用をもつならそれは物理的な何かである、機能的に説明できる、
ということだからね。
693 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 17:22:55 0
>>692 報告と言うのは言語を使っての情報の報告だろう。
情報は物理媒体で表現されてもその表現内容である
「情報」とその物理媒体の状態との因果関係は無いね。
色センサーと言う機械があって物体や光が何色かを
音声応答してくれるけどコンピュータでの情報処理
を介しての入出力関係だから直接の物理的因果関係はない。
人間のクオリアと感覚入力刺激との関係も同じような
ものだろう。クオリアは情報そのものだね。
物理的実体ではない。クオリアの物理的実体は脳の動作状態
だろう。
>>677 >クオリアに「お互いに確認できない」という性質がある以上
>存在を確かめることは出来ない、という話だよ。
何でそんな話になるのかわからない。
おれは今日寒気を感じたけど君にはそれを確認できないだろう。
でもおれは寒気を感じたんだから寒気は確かめるまでもなく存在する。
どこがおかしい?
>>694 おれは今日神を感じたけど君にはそれを確認できないだろう。
でもおれは神を感じたんだから神は確かめるまでもなく存在する。
おかしくね?
>>695 ああ、例がおかしいね。
だれもリンゴのクオリアを持ったからといって
リンゴが実在するなんて主張していないけど。
リンゴのクオリアを持てばクオリアが無いなどとは言えないっていってるだけ。
大卒27歳=dickheadじゃないのか?
>>693 コンピューターを魔法の箱か何かと勘違いしてないか?
コンピュータというのは早くて小さいソロバンみたいなものでしかないんだよ。
配線の中を電子が右に左に行ったり来たりしながら計算が行われていく。
それは完全にメカニカル、機械的なものだ。
>>696 >リンゴのクオリアを持てばクオリアが無いなどとは言えないっていってるだけ。
林檎のクオリアを持てば、という前提はどこから来てるんだ?
それが持てるのかどうか、クオリアはあるのかないのか、という話をしているのに。
>>699 >林檎のクオリアを持てば、という前提はどこから来てるんだ?
おれが感じればそんな前提はいらないんだけど。
きみはリンゴ見たことないの?
盲人でなければなんか見たことあるだろ。
ということはそのなにかのクオリアを感じているということだよ。
>それが持てるのかどうか、クオリアはあるのかないのか、という話をしているのに。
おれは持てるかどうかなんて話はしてないよ。
>>700 >おれは持てるかどうかなんて話はしてないよ。
じゃあいいや。
俺はクオリアはあるとか無いとか、決める事が何故できるんだ?確かめる事もできないのに・・・
というところに疑問をもっているだけだから。
どうやらおれはロボットと対話していたようだ…
都合の悪いレスはスルーすればいいんだから、楽だよね。
704 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 19:25:42 0
>>695 >でもおれは神を感じたんだから神は確かめるまでもなく存在する。
「存在する」の定義次第だね。主観で意識されたことは「存在する」
という立場なら「神を感じたら神は存在する」で論理的には正しい。
「存在」とは主観とは独立に客観で確認されるものことという立場
なら「神の存在は判らない」だろう。
私秘的世界と公共的世界、この二分法を前提した上で 公共的世界の方にに閉じこもろうとするのが、蒼龍戦法かな。 私秘的世界の方に閉じこもって公共的世界の側を否定してしまうとかなり強めの唯心論的独我論になるね。
>>704 >「存在」とは主観とは独立に客観で確認されるものことという立場
>なら「神の存在は判らない」だろう。
こちらの意味で「クオリアは存在するのか?」という話だね。
707 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 20:11:48 0
>>706 なるほど。では、「客観で確認される」ための条件は何かな?
客観だけで確認されるものなんかあるかな?
主観が客観を確認するのではないかな。
客観というのは主観と主観があって初めて成り立つのだから 客観だけで確認、という事はそもそもありえないよ。 しかし主観だけで確認、というのはありえる。 クオリアがこのどちらの場合にどのように確認できるのか、またはできないのか、はたまたわからないのか、 という話だね。
709 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 23:16:56 0
>>708 主観で感じたクオリアの具体的内容を「赤いリンゴが見える」などと
言語で報告できるならクオリアはもはや主観的存在だけでなく
間主観的存在となるだろ。
言語化できるのは複数の主観の間で情報交換が出来るからだろ。
だから報告できるならクオリアでは無いなどと言うへんてこな理由で
クオリアを否定する論が出てくる。
>>709 で、どうやって確認するの?クオリアがあったのかどうかを。
クオリアでぇっすぅっ! オサムちゃんでぇっすぅっ!
クオリアがあったかどうかなんて確認する必要はない。
713 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 23:42:03 0
>>710 それだけレスできてるならクオリアがあることは確認済みだね。
>>713 いや、確認できてないよ。
是非確認をお願いします。
715 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 23:52:55 0
>>714 私はクオリアがあることを確認できたよ。
クオリアがなんなのかわからないからあるのか無いのか確認も出来ない。
>>715-717 クオリアって何?
俺にも確認させてくれ。
クオリアを感じてないと言うやつは引っ込んでたらいいんじゃないのかな?
720 :
考える名無しさん :2008/04/18(金) 08:54:03 0
クオリアは意識された感覚だね。痛いという痛覚とピーという音が聞こえるという 聴覚とか赤い色に見えるという視覚など感覚の種類によって感じ方が違うことを クオリアというんだから意識があって感覚を感じられればクオリアがあるとなる。 無意識ではクオリアはない。感覚器官が機能しなければその感覚に関する クオリアはない。 クオリアのあることが問題ではなくどうしてそのクオリアが生じるかの説明が 完全にできないことと、クオリアとはどいう現象であるのかを解明することが クオリア問題だろう。クオリアと認知を区別して認知はクオリアがなくても 出来るとしている論もあるが外界の認知が感覚もクオリアもなくて出来るとは 信じられない。
>外界の認知が感覚もクオリアもなくて出来るとは信じられない。 ロボットは?
722 :
考える名無しさん :2008/04/18(金) 10:45:24 0
>>721 ロボットであろうと外界の状態識別が出来るならその状態に
ついてはそのロボットに感覚があるということだろう。
色センサーが色を識別できるのは色の感覚があるからだ。
ただし固定プログラムに従った判断では「意識」があるとまでは
いえない。機械が自分自身をモニタしてプログラムを変えられるように
なればその機械は「意識」があるように見えるだろう。
>>722 それはロボットもクオリアを持ちえる、って事?
724 :
考える名無しさん :2008/04/18(金) 12:17:26 0
>>723 そうだね。ロボットも意識を持つならクオリアも持ちえるね。
意識された感覚がクオリアだから。
なるほど。 以前「機械はクオリアをもってない」って言われて違和感を感じたんだが 機械も持ちえる、というのなら理解しやすいな。
こども電話相談室かよ
727 :
考える名無しさん :2008/04/18(金) 13:15:25 0
>>725 いや、まだクオリアを持った機械は実現していないだろう。
感覚を持った機械なら実現している。
機械がクオリアをもったかどうかを確認することはできないよ。 他人のクオリアでさえ確認できないんだから。 AIBOやASIMOますでにクオリアをもっているのかもしれない。 だけどそれはだれにもわからない。
729 :
考える名無しさん :2008/04/18(金) 13:28:42 0
>>728 現在実現されていないからといってそれが不可能だ
という証明にはならない。
731 :
考える名無しさん :2008/04/18(金) 19:28:46 0
733 :
考える名無しさん :2008/04/18(金) 22:21:39 0
>>732 どうして?
不可能性を証明するならそれが論理的に不可能であることを証明しなければ
ならない。それが、今出来ていないからといって不可能であるわけではない。
言ってることがめちゃくちゃだな。
735 :
考える名無しさん :2008/04/20(日) 07:41:14 0
こんにゃく問答の例だろう。
736 :
し :2008/04/20(日) 08:34:13 O
今放送大学で集合と写像、関数(構造)の講義やってる。興味深い。基礎数学だけど人間の関係性と構造主義にも対応する
3日ぶりにきたが、話題が流れてたから止めとく。 このスレ流れ早いな
738 :
考える名無しさん :2008/04/20(日) 09:19:49 0
>>737 >このスレ流れ早いな
そうでも無いだろう。未だに「クオリアとは何か?」
とか「クオリアはあるか?」などというバカのひとつ
覚えのような質問を繰り返してるやつがいる。
クオリアをどのようにして科学的に解明するかが
問題なんだけど、一向にその方向に進まないね。
俺は「意識」を持ったように見えるロボットを作って
みるのが一番早道だと思う。要は工学的方法で試行錯誤
を繰り返すことだろ。
>>738 そりゃ、答えられない方が悪い。
答えではなく、問いに主体があるなら、それを認めれば終わる。
すでに「クオリアとは何か?」を反復し過ぎて形として成り立ってるけどな。
"あなた"の実存を理由にしようとする癖も、どうかと思うしな。
っていうか、クオリア論って 記号論、認識論、イデア論の3つは必修として知らなければならないんじゃないの? 知らずに書き込んでる人のレスだと一発で分かるんだよな。
>>741 だから、実存に逃げるなよ。どうして実存で済まそうとするのかな。
"君"は
>>679 まー、くるとは思ったけど、それは逐語に逃げとるだけだな。
要素主義というべきか、最後の悪あがきだ。見苦しい。
そんな細かい、過去の単語の使い方を翻訳して言い換えて
反論しても虚しいだけだろ。
大体ね、「形而の下」と言った時に、伝わらないと思うか?
君がネイティブでないのなら仕方ないが、日本人なら通じる範囲の
言葉の使い方なんだぜ、それ。
論は学ではないから、学んではないと? それ本気で言ってるとしたら
小学生だぞ。「言ってはいません、書いているんです」ですかい。。。
提供 ル・サンチマン™
>>671 >>671 違うよ。ここではそう言うレベルの議論じゃない。
《カレーライス》は存在してるんだよ。《寿司》も在る。
《猫》も、《ロウソクの炎》も、在るでしょう。
しかし《クオリア》なんて、言葉以上のものがないんだよ。
だから、《神》と単語を入れ替えても、それほど大きな違和を感じないし
矛盾だって起きない。
>>576-630 辺りでも、《幸福》を定義できない云々となった。
幸福や質感も、言葉としてはコテコテに観念的な言葉で実在はしない。
厳密には《カレーライス》も、頭の中に思い浮かべたイメージを参照として
語っているから、突き詰めれば観念的な対象です。
本当に《カレーライス》は実在しているのかどうかは疑わしい。
746 :
考える名無しさん :2008/04/20(日) 11:33:20 0
>>745 >本当に《カレーライス》は実在しているのかどうかは疑わしい。
だから、そこにカレーライスが実在するかをあなたはどのようにして
確認しますか?
自分の視覚・味覚・臭覚などの感覚とカレーライスに対する過去の
経験を総動員して確認するしか無いでしょう。その意識された感覚が
カレーライスに対するクオリアだといってるだけだが理解できませんか?
意識された感覚の識別がクオリアだから。
>>746 ○○がクオリアだから、といっているレスはけっこうあるけど
どれもニュアンスが微妙に違うんだよね。
前は「質感がクオリア」って話になってなかったっけ?
748 :
考える名無しさん :2008/04/20(日) 15:42:41 0
>>747 質感と言うのは意識された感覚の識別とおなじ意味だろう。
あの感覚とこの感覚は感じ方が違うと意識することが質感だから。
クオリアを感覚質と日本語翻訳している例もある。
でもそんな細かいことより先ずはクオリアとは「なんか感じてるなぁ」
という事に「気づいて」いればいいのではないか?
だから先ずは自分には意識があると覚醒していることがクオリアを
感じる必要条件だろう。
>>748 いや、違うだろ。
たとえばカレーライスはカレーライスとしての質感を持っている、といえる。
が、「カレーライスはカレーライスとしての意識された感覚の選別を持っている」、なんていえる?
「○○は△△だ」とか考え方や説明の違いが人によって微妙にニュアンスが違うことなんてよくあることだけど。 違うからどうだというのだろう?
イデア論wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
↑こいつ笑ってはいるが知らないんだぜ。 「幸福」ってのは完全にイデアの産物だろうが、ボケ。 幸福が有形物だと言うのなら、持ってこいよ。
イデアの意味が違うような?
意味が違う上に、「論」とつけた表現に嗤ってるわけでwwwwwwwww
>>746 物自体があって、その物自体は人間は認識できなくて、
あくまで認識した物がカレーライスにすぎない。
だったら、認識の方をいじってやれば、カレーライスが実在しなくても
カレーライスは意識されることになる。もっと言うと
カレーライスの経験がなくても、認識をいじればカレーライスを
感じる事ができる。つまり合理的な計算を突き詰めれば経験するのと等しい結果を
仕組みの中で作ることは可能である。
>>754 お前が笑っているのは、誤魔化しの笑いなのか、嘲笑なのか微妙すぎてな
>>743 意味不明だという突込みに対して、君が学術的背景がわからないからだと言い訳するから突っ込んであげただけだよ。
>論は学ではないから、学んではないと? それ本気で言ってるとしたら
誰がそんなこといったんだ?
というか、「記号論」と「イデア論」と「認識論」とレベルがまるで違うものを同列に三つ並べるなよw
腹いてえ。
>>757 無理して貶そうとするなよ。同列にはしてないが
クオリアの議論は、記号論を押さえておかないと把握するのが難しいのは
話して分かった感触だ。
それと、「レベルがまるで違う」ってのが、ワーとらんと言う感じがするな。
その3つは、観念的なものを対象としている点では、どれも類似だぞ。
「レベルは同じ」と言い切っても差し支えない。
機械や現象的な思考なら話はまた少し違ってくるだろうが、その3つは
そんな大きな違いはないよ。
で、これらの内、どれも知らない人は唯物論的な思考へと行きがちだ。
dickhead乙
馬脚を現すとかいう次元じゃない馬鹿っぷりに笑った
だから、無理してバカにしなくていいよ。 お前の方がバカだから。お前知らないくせに言ってて 収集がつかなくなってるだろ? 「シニフィアンが分かっとらん」と言ってるんだよ、すっとこどっこい。
だれがなにを言ってるのか知らないが
>>740 の書き込みが恥ずかしいほど低レベルだってことには異論はない。
763 :
考える名無しさん :2008/04/21(月) 21:15:47 0
>>762 >
>>740 の書き込みが恥ずかしいほど低レベルだってことには異論はない。
その根拠は何かな?
クオリアと記号論とは結構、密接な関係があると思えるけどね。
認識論は現在では科学哲学とほとんど同じ意味でしょう。
クオリアは観念そのものというのは素朴な概念だろう。
>>763 こういうのを
「恥の上塗り」というのだよ。
>>763 そういう突っ張り方しても意味ないだろ。
知識がないくせに、でも自分の発言は正しいんだ、なんて突っ張り方だけはしないほうがいいんでは?
知識がないならないなりに議論の仕方は幾らでもあるだろ。
まあそれは置いといて、
観念てのは現代的には大きく二つの方向に分かれてて、ひとつはイデア、つまり抽象的な実在を指す少し神秘的な意味合いを含んでいる。
イデア的な考え方は数学分野では歴史的にずっと強い考えだが、それ以外の分野では今では一部の人々の間でしか相手にされないものになってる。
そしてもうひとつは単に概念だ。非常に単純な近似を用いても神経ネットワークの自己組織化によって、簡単にプロトタイプが出現する。
766 :
考える名無しさん :2008/04/21(月) 22:47:46 0
>>765 「クオリアは観念そのものというのは素朴な概念だろう。」
という記述の注釈をしたつもりか?
「クオリアは観念そのものというのは素朴な誤解だろう。」
イデア論=プラトンの思想の一つ。または概念が個物を離れて実在するという考え方。 つまり、特定のパターンの立場。ちなみに「犬のイデア」も別におかしな表現じゃない。 記号論=パースに起源を持つ記号研究の流れ、ソシュール系統を指すことも。 つまり、学問的な系統。 認識論=知識についての考察をする哲学分野。 特定の系統ではなく、主題による分類。 この三つを同列に並べられる頭の悪さは素晴らしい。
なんでろくに知らない分野に首をつっこみたがるんだろう?
771 :
考える名無しさん :2008/04/22(火) 19:43:04 0
>>750 >微妙にニュアンスが違うこと
・・・ことをクオリアというんだろう。
クオリアが何の役に立っているか知りたいということか?
774 :
考える名無しさん :2008/04/22(火) 20:07:05 0
イデア論の長所を正確・確実な自然科学の段階まで昇華させようとすることだったのかー。 べらぼうに難しい理想ですね。 イエス・キリストとマルクスが親友になるくらい難しいですね。
775 :
その2の583 :2008/04/23(水) 00:27:34 0
>>679 >プラスのドライバーは固定的な用法のある一つの実体であって、例えに出すのは不適当。
なぜですか?
科学のどのような要件が、「固定的な用法のある一つの実体」を例に出すことを
不適当にするのでしょう?
どんな要件を満たせば科学であるかの境界がはっきりしないという性質。 たとえば、もしクオリアが合理的客観的に探求される手法が生み出されれば、それは科学とみなされる可能性が大きい。 ダーウィンの進化論も、物理学等の実験科学等との異質さから、「科学」ではないと言われている、 現在では科学という概念自体が拡張されて進化論も科学と認識されている。
777 :
修正 :2008/04/23(水) 16:37:52 0
「科学」ではないと言われている、→当時は「科学」ではないと言われている、
とにかくデータを大量に集めてシコシコ分析する。 そっから何か見込みがありそうな仮説を立てて検証する。 んで、又そこでデータを集めて・・・の繰り返しは科学的な方法の特徴の一つだっていってもいいですか? 例えば脳を刺激してクオリアがどう変化するか調べてデータを集めるみたいなことは今すぐでも出来そうだし実際やられてるような気がします。 こういうのは「科学でクオリア扱ってます」って言えそうに思うんですけどどうですか?
>>768 同列には語ってないよ。
言いたい事は、クオリアがさも実在するかの様な発言が時々あるから、
なにか一つでも観念論を押さえておくべきだろう、という意味で言った。
電子や、光子や、物体の動き、などは実在するわけですよ。だから
天使の羽根に質量が在るのか?とか、精神が重力に影響を与える、とか
そんな問いは、そもそも観測もされてない空想なのだから最初から相手にされない。
しかし、クオリアってのは、どう考えても実在はしない。
これでは、「視覚は神の言語である」と言ってるのとほとんど同じ。
観念から脱しきれていない。だから、何か一つでもそれ系統の論を
知っておいた方が良いのでは無いかと言いたい。
>>778 めんどうくさいので説明はしませんが
そういうことではクオリアを扱っているとは言えません。
>>779 哲学者たちがクオリアという言葉でなにを指しているのか
あなたはわかっていないようです。
初歩から勉強してください。
>>780 >
>>778 > めんどうくさいので説明はしませんが
> そういうことではクオリアを扱っているとは言えません。
そうですか・・・。
でも集めるデータの対象はクオリアですよ?
>>781 ではあなたがこれがクオリアのデータだと思われるものを
挙げてみてください。
>>782 ある音を聞かせておいて脳に刺激を与えると聞かせている音の周波数はいじってないのに違う周波数の音に聞こえるとか。
>>783 その実験の被験者が自分自身でない場合、
被験者の報告に依存することになります。
被験者がどのような音を感じているのか(クオリア)は
報告を介して間接的にもたらさせることとなります。
データとして得られるのはこの間接的な報告のみであり
けっして被験者のクオリアそのものではないのです。
この実験だけでなくあらゆる「実験」はこの域を出ることはないでしょう。
自分自身が被験者であっても
それを他人に伝達する際には間接的な報告となりますので同じことです。
このように自然科学的方法ではクオリアを扱うということは
クオリアの私秘的性格により、不可能だということがわかります。
785 :
考える名無しさん :2008/04/23(水) 20:22:17 0
>>784 >このように自然科学的方法ではクオリアを扱うということは
>クオリアの私秘的性格により、不可能だということがわかります。
だったら、自然科学の観測は不可能ということだろ。クオリアの
言語による報告が自然科学の観測データとなるものだから。
>>785 そうはなりません。
単に自然科学で扱っているもの、扱えるものは
クオリアではないということだけです。
787 :
考える名無しさん :2008/04/23(水) 20:31:52 0
>>786 クオリアと言う意識された感覚がなければ自然科学など
成り立たなかったね。これは現在でも同じことだ。
>>787 当然そうでしょうね。
こういったあたりまえすぎることは
哲学以外の分野ではなかなか意識されないんです。
>>784 確かにデータの収集が間接的な報告に頼っている以上、「自然科学」と呼ぶにはちょっと頼りないですね。
でも科学の範囲を広く取るならばどうですか?
よく知らないんで間違ってたらすみませんが医学・心理学程度にはどうでしょう?
んで、間接的な報告によるものであってもそのデータの対象がクオリアであるということは言えますよね?
>>789 心理学の実験もクオリアを対象にしたものとはいえないでしょう。
>>790 ああ、ごめんなさい。書き方が悪かったですね・・・。
医学・心理学の対象がクオリアという意味ではないです。
792 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2008/04/23(水) 22:08:54 0
<<Wikipediaより抜粋>> チャーマーズは、情報を中心に置いた中立一元論のような立場から精神物理 法則を模索すべきでないかとしている。つまりビット列のようなもので構成 された抽象的な情報空間がまずあり、そこから物理的状態および現象的状態 が、それぞれ実現されているのではないか、という形而上学である。 逆に言うと、「物理的な情報処理が実現されているところには、現象的意識も また実現されているだろう」という考えである。この考え方の利点に一つは、 情報空間が共通項として存在するため、物理状態と現象的状態の間で辻褄が あっていても、現象報告のパラドックスが現れないことである。 そしてこの考えを推し進める事によって汎経験説(Panexperientialism)が 得られる(単に汎心論と表現されることも多い)。汎経験説とは物理的な情報 処理の実現がある所には、現象的な意識もまたある、という主張で、チャーマ ーズはサーモスタットや岩にも、人間のもつそれより遥かに単純であるにせよ 現象的意識がある、と主張する。これは一見かなり突飛な主張だが、精神物理 法則を上のようなものとして考え、かつ「自然界の中で人間の脳は、取り立て て特別な何かではない」または「自然を統べる法則はすべての時・場所で共通 である」という自然の斉一性を前提しさえすれば、当然の帰結として導かれる。 しかし日常的な常識からの隔たりが大きいため、「その結果はあまりに常識に 反する」といった形で批判される事が多い。
>>787 あなたがクオリアと名指しているものは、本当にクオリアなのか?
クオリアってあるとも無いともいえないからやっかいなものなんだよね。 にも関わらずこのスレにはたまに「クオリアはある!」って断言する人が現れるんだよな。
795 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 07:23:59 0
>>793 クオリアは感覚質という定義が違うというならあなたの定義を書けば
済むことだね。
796 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 07:29:29 0
>>794 これも単なる「ある」の定義の問題だね。
「ある」を「自分の外界に実在する」という意味で捉えるなら
クオリアは「ない」。自分が意識してたとえば「このリンゴは
赤い」などと「感じた経験」が「ある」ならクオリアは「ある」。
それだけのことだ。
それよりクオリアがどのような機能を果たすかの議論に進もう。
クオリアは唯物論を否定するなどと言うトンデモの意見がどうして
出てくるかのほうが問題だね。
>>796 それは唯物論の定義の問題ではないかとw
>>796 クオリアが「感じた経験」なら「感じる」と「それを記憶する」を組み合わせたものでしょ?
その機能って、どういうこと?
感じたものを記憶できない、または感じる事が出来ない、となると
生きていくのが難しくなる、というだけじゃないのか?
イデア界=物自体 だから、カントまで勉強しなければならないのか?
800 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 14:51:29 0
統失患者では質感がない人もいるらしいよ。 そういうのはクオリアもないと判断するのかね?
801 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 17:03:05 0
赤い光→錐体細胞が吸収→脳に信号を送る→赤い光を意識する どこからクオリア?
>>801 赤い光を赤として意識に投影する部分がクオリア、だろう。
何故赤は赤に見えるのか?というところ。
別に赤が緑に見えて緑が赤に見えても不都合は無いはずなのに。
クオリア=無 だよ。
804 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 20:33:53 0
>>801 いうまでもなく「赤い光を意識する」ことがクオリアだね。
だから、なに?
>>804 一度も赤を見た事が無い人は、赤を意識する事が可能?
806 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 20:51:41 0
>>805 色盲でないかぎり「これが赤だ」といわれれば意識できるだろ。
>>806 いや、一度も見ずに、だよ。
赤を見せて「これは赤だ」っていうんじゃなく、赤を見せずに赤を意識させる(思い浮かばせる)という事は可能?
>>780 それが毎度お馴染みでバカバカしいんだよね。
言っとくけど人は変わってるよ?
誰かが「言葉入れ替えても通用するじゃん」という、
すると他の誰かが「そんなはずはない、お前は分かってないんだ」と
ヒステリックに怒る。その怒った反応を見て、俺みたいな人は
「実在論的に扱う方がどう考えてもおかしくて、現時点では観念的に
考えた方が妥当なのだから、"言葉を入れ替えても通用する"と言ってる方が
正しいと思う、なのでどれでもいいから観念論を知っておいた方がいい」と言う。
すると、「あなたは分かってません。勉強して下さい」と意地になる。
それで知れば知るほど、ますます実在的ではなく観念である事を知っていく…。
つまり、この程度だろ? 何をいつまでもムキになってるのさ。
現象学を観念に入れて良いのかどうかは微妙だけどさ。
現象はプロセスを重視するから、心と物の両方扱えなくもないので
精神と物質をつなぐ、新しい記述法ができるかもしれないけどさ。
809 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 21:01:19 0
「赤」と言う言葉を知らないだけで赤いものを見た「経験」があるなら そのものの名前を示すだけでその色と示せるね。
810 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 21:07:21 0
「赤い光を意識する」ことがクオリアだとすると、、、 「赤い光」は他のものに代替できるから捨象して、 「意識する」がクオリアとして対象化できる、よね。 すると、クオリアって意識のことか?
>>809 いやいや、だから「赤を見た事がない」って言ってるんだよ。
赤いものを見た事がない場合、「赤」を思い浮かべる事は可能?
>>808 その認識自体、著しく間違っているので
あらためて哲学の初歩からの学習をお勧めします。
>>812 うん、だから、詐欺は言わなくていいよ。君のは読め読め詐欺だから。
もう底は分かったから。ぶっちゃけ、君のやってるのは神秘主義なんだよね。
やたらと隠したがっている割には薄っぺらい。神秘性に酔ってるだけ。
神秘主義か、なるほどね。 ちょっと納得した。 前からこのスレに漂う読め読め詐欺のキモさはどこかで見た事があると思っていたのだが 神秘主義って言葉で何かわかったような気がした。
なんでろくに知らない分野に首をつっこみたがるんだろう?
その知ってるはずの分野の説明を、中高生に出来ないのならば 当事者たちも本当に知ってるとは言い難いだろう。 そういう場合は自分が何をやってるのか分からないが、 確かな手応えだけは感じる、いい意味での迷走状態だ。
817 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 21:32:05 0
>>811 赤いものを見た経験がなくても赤いものを見れば赤のクオリアは
意識できるだろ。そうでなければ何事も経験できない。
>>817 何故質問をわざわざ変えてから答えるの?もういい加減にしてくれ。
「赤を見た事がない」時点で「赤」を思い浮かべる事は可能なのか?って聞いてるんだよ。
見たあとの話など聞いていない。
819 :
考える名無しさん :2008/04/24(木) 21:38:20 0
クオリアと言うのは経験であり想像ではないからね。
これはおもしろい。 キモイ書き込みが全部神秘主義に見えてきた。 文体からしてそっくりなところがまたおもしろいな。
>誰かが「言葉入れ替えても通用するじゃん」という、 こんな馬鹿なことをいう奴が何人もいてたまるか。 哲学以前の問題。
生来からの全盲の人に電極指して赤のクオリアが起こるように電気流せば、 その人は赤いクオリアを感じたといえるわけだね。
>>822 それおもしろいね。
電流を流したときになにかを感じたとして
それが「赤いクオリア」であるかないかの確認はできないのに
どうやったら実験に成功したといえるのだろうか。
>>822 だからね、それが起こるのかどうかを聞いているんだよ。
失礼を承知で尋ねるが、貴方は生まれながらに全盲でその後視力を回復したという経験があるの?
全盲者が視力を持つと、しばらくの間は何が何かわからないらしい。 何かしらは見えてらしいが、けっきょく手で触って確認してみないと形ひとつ言い当てられないらしい。
クオリアって記憶の事なのか。
828 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 01:32:36 0
自演大杉、キモ
829 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 06:43:21 0
クオリアも体験として学習され、記憶される。
たとえば痛みは測定できない
831 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 08:31:36 0
クオリアは感覚のことじゃないの。 感覚に伴う応答(ふるまい)は観測できても、感覚それ自体は絶対に観測できない。 だから感覚に伴う応答(ふるまい)についての理論は作れても、感覚それ自体についての理論は絶対に作れない。 この「絶対に」を問題として捉えるかどうかが論点なのでしょう、たぶん。
832 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 08:31:42 0
痛みの測定できるよ。 実用化がまだなだけ。
833 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 08:34:52 0
>感覚それ自体についての理論は絶対に作れない。 神経生理学だと感覚できる最低刺激量の測定などからはじまって 感覚と理論はすすんでるよ。
834 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 08:37:55 0
>>833 だからそれは、感覚に伴う応答(ふるまい)についての理論、でしょ?
科学としては、それで全然問題ないと思う。
>>831 振る舞いは観測できるけど感覚は観測できないというのなら
感覚というものはそもそも存在しない、という結論になるでしょ。
>>835 あなたに感覚がないのなら、そういうふうに考えるのもいたしかたありません。
ただ世の中には感覚を持っている人がたくさんいて
「この感覚というものは科学では扱えないのだな」と考えています。
839 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 14:42:05 0
感覚を持ったロボットは当たり前だろ。 ロボットへの入力は全て感覚になる。 意識を持ったロボットはまだ実現されていない。
感覚が科学で扱えないのなら、医学とかは科学ではないのか? 痛みを消すために麻酔とかやるだろ。
>>840 科学だから「痛かったら言ってください」って
言わなくちゃいけないんですよ。
感覚があれば意識がなくてもクオリアはある、ということか。
843 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 17:08:32 0
感覚が意識されなければクオリアにはならない。 無意識の感覚はクオリアではない。
844 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 17:18:00 0
無意識の感覚? 単純に無感覚ってことだろ。
無意識の痛みってあるのか?
「意識」って言葉が、なんとも宗教的だよな
847 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 18:50:57 0
無意識の感覚は「反射」という。
宗教的って言葉は意識以上に曖昧だよな。
849 :
831 :2008/04/25(金) 23:53:39 0
「反射」は刺激に対する生理的な応答でしょ。感覚とはいえない。 意識のないところで感覚はない、感覚があれば意識がある、だよ、たぶん。
感覚器を持つ機械はたくさんあるが、それらはどう扱えばいいんだ?
>>832 幻肢痛(失った手足の痛み)も測定できる?
測定できなければクオリア、って事になるの?
なんでもかんでも客観化はできんvs客観的測定(観測)ができんものは無視すべき(現象論) って話じゃないの? で、そういう未解明部分にも唯物的に迫ろうとすることで いろんな「技術」が進歩し世界観に影響を与えると。 唯物論的(古典科学的)世界観も、色んな世界観のひとつに過ぎない、と俺は思うけど 西洋では特に神の問題があるから、日本人より切迫するものがあるのかもしれんね。
>>813-814 ,820
だけど、神秘主義は精神運動としては評価してもいいと思うんだ。
他にも精神運動にはロマン主義とかある。
科学的思考でクッキリと割り切るのも良いけど
何か得体の知れない物として、クオリアを賛美し続けて
理解を拒み、不可知なるものへ憧れを抱くのは、心地よいと言えば心地よい。
それが哲学なのかどうかは疑問だけど、文化としては評価できる。
哲学ってのは理性でいけるところまでいくという態度だよ。 それは自然科学以上に徹底している。 なんだか一般人のなかには自然科学が最も理性的な方法で、 哲学というものは文学的なあいまいなものというイメージを持っているものが いるようだけれど、自然科学というものはそれほど理性的・論理的なものではない。 どちらかというと常識や慣習や科学者集団の文化に依存した方法だよ。
クオリアって…。 これ、ユング的な集合無意識を科学風味で書いてみただけだろ。くだらない。 こういう似非科学が蔓延るのを見ると、人間ってのはつくづく迷信深いんだね。
857 :
831 :2008/04/26(土) 22:34:27 0
「感覚それ自体は、絶対に客観的に観測できない」という問題をもっと掘り下げなきゃね。 感覚それ自体に、神秘主義も迷信もありはしない(果たして塩味が神秘かね?w)。
>>856 残念。クオリアの概念を理解してない。
集合的無意識は現在的には進化心理学的な観点から理解するほうが妥当だろう。
僕達はブランク・スレートではなかった、てだけの話さ。
>>858 進化心理学?プっw
ユングの体系ってのはレトリックの体系なのであって、進化とか関係ないから。
そもそも、近代というはそういうレトリックから精神を自立させたことに特異性がある。
外界に「りんご」があるのではなくて、りんごの表象がある。
ところが、クオリアってのは「りんご」が有るって言っちゃうわけだろ?脳回路にそういう
のが有るんだと。こりゃユングと同じレトリックの営みなんだな。
>>859 表象という言葉は使うんだね。
じゃあ集合的無意識より表象のほうがはるかにクオリアの意味に近いよ。一緒ではないけど。
ところで精神の自立ってなんだろうか?あまりに抽象的な言葉だぞ。
あとレトリックの体系というのは何?そうではない体系の具体例をいくつか例示してみて。
集合的無意識とかイデアとか自分でもわかってない言葉使うの好きだね。
だって、「クオリア」自体が、そんな感じのバズワードだもん。 似た言葉を探せば、訳の分からない言葉に行き着くのも当然。
あ、そ。
どうしたら
>>856 や
>>859 みたいなクオリア理解に到達するのか、むしろそっちのが不思議。
いったい誰のなにを読めばそうなるのか。
865 :
856 :2008/04/27(日) 11:02:32 0
>>864 クオリアのいかがわしさは、あるコンテキストによって成立している
象徴体系を客観的に存在するかのごとく扱い、それを科学的用語で
記述していることにある。
これは、非科学的な議論を科学用語を使ってレトリカルに語ってるに
過ぎないんだな。つまり、近代的思考ではなくて、前近代的な魔術的
な思考だ。
魔術的思考とは、類似性の連鎖による思考。例えば、赤い物を血と
関連付けて、そこに血に関連する連想を持ち込むこと。クオリアは
それと等価。
ごめんなんか見慣れない漢字多くてよく理解できんわ。 つーかなにを読んだの?
>>866 何を読んだって?w。偉い人がそう言っていた、って書くべきか?w
まずは近代的思考の特徴について考えるべきじゃないかね。いかに
して「脱魔術化」を行ってきたか、それを知るべきだ。そういう原点を
知らないから、クオリアのような退行した思考が出てきてしまう。
いやだからどこの偉い人がどんなこと言ってたのよ?
>>868 例えばデカルトだろ。しかし、デカルトは君のように何かを参照して
それを信じることをまず止めるべきだ、と言ってるがねw
>>869 いや俺は君の妙なクオリア観がどっからきてるのか知りたいだけだよ。
ってかデカルト!?
デカルトがクオリアについて語ってるのはどの本読めばいい?
>>870 俺は
>>869 では無いけど、このスレ、またこのスレで「読め」といわれたウィキペディアを読んで
「クオリア」なるものに対して様々な疑問が生まれ、それをここで尋ねたりしているよ。
872 :
856 :2008/04/27(日) 18:24:46 0
なるほど、デカルトと茂木を読めば君のような認識の高みに到達できるんだね。 素晴らしい。俺には真似できないよ。
874 :
考える名無しさん :2008/04/27(日) 23:24:36 0
現代思想 2008年6月号 特集=ニューロエシックス
表象って何
茂木なんて愛読してたら終わり。
表象(おもてぞう)とは古代インドに起源を持つヒンドゥー教上の神性のひとつ。裏象(うらぞう)と対を成し、世界の破壊と再生を司る。
878 :
考える名無しさん :2008/04/28(月) 06:43:13 0
表象はクオリアの元になった概念。 2ちゃんねるの元の「あめぞう」のようなもの。
今後クオリアを組み込んだ認識論の構築が課題になるとすると 当然現象学にも光が当たると思うけど、 デイヴィドソンが生きていたらフッサール的な方向に転換することも あったんじゃないだろうかと想像してしまう。
881 :
考える名無しさん :2008/04/28(月) 19:38:57 0
>>880 クオリアをどのように言語化して認識論に組み込むんだ?
言語とクオリアの関係の分析が先だろう、分析哲学としては。
古いね。 いつまで『哲学』に引きずられているんだ。
>>881 べつに言語化なんて「クオリア」でいいじゃん。
>言語とクオリアの関係の分析が先だろう、分析哲学としては。
もうそんなちんけなことやってないよ。
>>865 だけど、前近代とポスト近代は、表面的には振る舞いがそっくりだよ。
ポスト近代では神話学や現代思想など、近代批判や、近代の超克をしながらも
前近代的な思考に陥らない様に気をつけている感じはするが・・・・。
構成によって質感を記述する体系を築く、と言うのはアイディアとしてアリだと思う。
科学的に解明されてほしいな 哲学ではすっきりした答えになりそうもないから
ポスト近代的思考が大衆に行きわたるにはあと100年くらいはかかるんじゃないかな。 いずれ865や885のような考え方がどれだけ迷信深いものであったか分かるだろう。
887 :
856 :2008/04/28(月) 22:29:24 0
>>884 近代の超克なんかありゃせんよ。退行してるだけ。前近代社会とポストモダン「思想」の
違いは、前者は経済的な基盤に基づいたある意味では正しい思考だが、後者は単なる
カルトに過ぎないということ。
>>886 ぷっw。ポストモダン思想こそが「大衆的」、つまり君のような人間向きだという件。
>>887 ありゃ、「退行」だなんてずいぶん「モダン」な考え方ですこと。
しっかし、近代的な考え方がまっとうだとも思えないな。 あれって如何にもっぽすぎて、思わず納得しちゃうけど表層的でしょ。 主観に関しても置き去りにしままだし。
891 :
考える名無しさん :2008/05/01(木) 19:19:44 0
ここはクオリアについて真面目に考えるスレだろ。 ポモなんて、そんなの関係ねぇ!
892 :
856 :2008/05/01(木) 21:29:44 0
>>890 主観を置き去りってどういうこと?デカルトは最も主観的な、全ての事象を疑い尽くした
その疑っている精神から逆に世界を再構成しようとした。
近代的思考ってのは、単独の精神が普遍性を持った思考をする、そう断固として
主張するところが特異。前近代的な思考は逆に慣習に従った思考だ。
クオリアの議論というのは、その慣習的なものをイデア的にどっかに存在するかの
如く考え、更にそれが脳の中に組み込まれているかのような発想。これはユングの
集合無意識のようなものだ。あるいは何でも本能にしてしまう議論。
「僕が赤を見たときに感じる何かは、何か赤の本質が僕の中に備わってるからもたらさ
れるのだ」というのは、実は錯覚にすぎない。そして、それが人間の関係性から派生する
ものであり、分析対象としたのが、反オカルト、つまり反ユングのフロイドの精神分析だ。
>>892 890じゃないけど、
>クオリアの議論というのは、その慣習的なものをイデア的にどっかに存在するかの
>如く考え、更にそれが脳の中に組み込まれているかのような発想。
上のような議論がされているとしたら
その議論をしているのは哲学者じゃないだろう。
科学のなかでの議論なんじゃないか。
哲学者はむしろ892での言い方で言うと
単独の精神に現れる世界の「現れ」そのものとして語られているよ。
つまり認識論の文脈でね。
>「僕が赤を見たときに感じる何かは、何か赤の本質が僕の中に備わってるからもたらさ
>れるのだ」というのは、実は錯覚にすぎない。
こんな主張は現代では聞いたことがないな。
赤を見た事が無い人は赤を思い浮かべる事が出来ない、でいいのかな?
クオリアがあるって言う人たちは結局
>>822 にどうこたえるの?
「それは倫理的にできません」っていうこたえ以外で
>>895 挿すのが電極なのかどうかはとりあえず置いておいて、当然「赤が見える」と本人は思うだろうね。
897 :
考える名無しさん :2008/05/01(木) 23:58:23 0
視覚機能に問題が無くても生まれかたらしばらく何も見えない状態で成長すると ものを見る事が出来なくなるんじゃなかったっけ?
898 :
考える名無しさん :2008/05/02(金) 00:00:28 0
すぐに視覚的な認識ができるわけではないというだけで、 慣れてくればできるようになるようですよ。
>>895 コレコレこういう物理状態に赤のクオリアがともなうのだ、
ということを予測する信頼性の高い理論ができた後であれば
必然それは「言える」が答えになる。
色即是空 空即是色
901 :
考える名無しさん :2008/05/02(金) 21:41:54 0
>>822 >赤のクオリアが起こるように電気流せば、
・・・という事でその答えを限定してるじゃん。
質問にもならないだろ。
902 :
856 :2008/05/03(土) 09:27:16 0
>>894 いや、経験論が正しいという話じゃない。ある動物は人間と同じ
色彩で世界を見ていないし、人間でも色盲ってのはある。そういう
レベルで身体的にある波長の光を識別できる/できないということは
当然ある。これは経験によって生成されるものじゃない。
しかし、クオリアはそういうレベルの話題じゃない。「赤のクオリア」は
赤から連想される様々な意味の集合を指す。例えば血液だったり、
赤いバラであったり。当然その血液/バラも「意味」として連想される。
問題はこの「意味」を実体化して、それがどこにあるとか、脳に備わって
いるとかいう議論を始めちゃうことなんだな。意味は言語によって構成
されるもので、意味内容がどこかにあるという議論は途端におかしな
方向へ行ってしまう。
茂木氏のクオリア論が一般的なのかどうかは知らんが、彼の言い方は
クオリア論の悪い所がものすごくハッキリと出てる。彼の言い方を突き詰めて
いくと、「俺が感じるものは本能的で普遍性がある」ってことになってしまい、
例えばナショナリズムなどの議論をするときに確実に変な政治思想に
なることは間違いない。
彼はオカルティックな天皇主義者だったりしないのかねw。そうだとしたら
「ああ、やっぱりなぁ」という感じだ。
>>902 >。「赤のクオリア」は 赤から連想される様々な意味の集合を指す。例えば血液だったり、 赤いバラであったり。
どこの誰がそんな意味不明な定義使ってるの?
妙に自信持って言ってるよねw 断言してるしw
905 :
考える名無しさん :2008/05/03(土) 11:27:28 0
>>902 >意味は言語によって構成されるもので、意味内容がどこかにあるという議論は途端におかしな
>方向へ行ってしまう。
言語とその意味の関係はむしろ逆で意味を不完全ながらも指示するための言語だろう。
クオリアの言語化も同じことだね。
だから、クオリアは言語の意味に相当するのは当然だ。
「赤」のクオリアは「赤」と言う言葉で連想される「赤い質感」だろ。
とりあえず902と907で続けてみたら? 二人ともボケ担当みたいだけど。
907 :
考える名無しさん :2008/05/03(土) 13:16:43 0
>>902 よくわからないのだが、あなたのいうクオリアとはどういう意味なの?
血液の色とバラの色は微妙に違うがどちらも「赤色」として括れる、その括り方の事?
次スレには、あと100くらいあるが、まとめに入った方が良いかもしれない。 立ち位置の違いがあるせいで、言葉がうまく伝わってない。 全体的な見通しが欲しいです。
誰がまとめてもいいけどさ、まとめるなら意味のあるまとめをしてよね。 少なくともクオリア=イデアとか集合的無意識とかゆうのは立ち位置の違いじゃなくて単純に間違ってるんだからさ。
>>909 みたいに意味性を重要視しちゃうのも困っちゃうんだよな。
意味なんて、「かっこ」に入った物でしかないんだから、
哲学や認識の堰合では、意味は一つの形としての機能しか果たしてない。
まとめをするにしても、まとめる行為にも主観が入り込んで荒れそうな気もするけどな。 あれは違う、これは違う、普遍すぎる、断言する根拠がない、観念的だ……。 堂々回りする気配。
>>910 そうだね。だから間違いは間違いだとちゃんと言ってあげないと、ってことだね。
でもまあ、3スレ目に入ってさすがにそういう人達に対して「真面目に」対応するのもいい加減うんざりって雰囲気だけどね。
>>880 > 今後クオリアを組み込んだ認識論の構築が課題になるとすると
> 当然現象学にも光が当たると思うけど、
> デイヴィドソンが生きていたらフッサール的な方向に転換することも
> あったんじゃないだろうかと想像してしまう。
これ、具体的に話を膨らませて欲しいな。
914 :
考える名無しさん :2008/05/03(土) 17:58:02 0
>>907 >血液の色とバラの色は微妙に違うが
その微妙に違うと感じていることがクオリアそのものでしょう。
915 :
考える名無しさん :2008/05/03(土) 18:18:37 0
>>914 クオリア
微妙に違うと感じる事
って事?
それだと過去になされているやり取りの意味がわからなくなると思うのだが。
916 :
856 :2008/05/03(土) 19:50:37 0
>>905 意味が先に存在するというのが、前近代的な思考だと言っているわけ。
デカルトは外界の素朴な実在を疑い、疑う精神を中心として世界を再構成
したが、後にこれは言語論的転回として変奏される。意味が素朴に存在
するのではなくて、まず言語があり、世界は言語によって作られている。
また、クオリア論は、この言語的文節から外れた「感じ」を指していると
言い張る者もいるが、そんなものあるんだろうか?言語的分節化以前の
純粋な直感によって捕まれた世界なんかがあるんだろうか?
質問してる側も、「意味不明」を素朴に使っている感じがしてならないんだがな。 意味を客体的に認識できている気配が感じられない。客体化する為の言葉の 言い回しを心得ているのかね。 ちなみに俺は別人ね。横レスです。
919 :
考える名無しさん :2008/05/03(土) 21:03:30 0
>>916 同じものの名前でも言語によりその表現はいろいろだね。
言語表現とその意味とは何の論理的必然も無い恣意的なことだね。
言語を持たない動物にもクオリアや感覚はある。
920 :
856 :2008/05/03(土) 21:34:17 0
>>917 どこの誰?w
ここに書いている私が、より分かりやすい定義をしてるわけ。
>>919 「同じもの」って何だ?その「もの」は言語的分節によって立ち現れる
というのが言語的転回だ。表現がいろいろとか関係ない。
つまり、意味とは言語の構造から派生する想像的な効果である。
クオリアも同じだというが私の主張。
また、動物と比較するのはナンセンス。動物と比較して人間は本能という
締め付けが救いがたく壊れてしまっており、それこそが言語が入り込む
隙間となっている。
921 :
856 :2008/05/03(土) 22:27:21 0
クオリアの別名はこうだな 「夜郎自大」 要するにオカルトだね。科学的用語でカルトを宣伝するのは オウム真理教など多いからな。気をつけようなw
mr_dickhead乙
923 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2008/05/04(日) 00:50:54 0
>>916 >>言語的分節化以前の純粋な直感によって捕まれた世界なんかがあるんだろう
>>か?
「純粋な直観自体」というものはさておき、「言語」による感覚の文節化以前
の表象のあり方が、現時点での一般的な現代人の諸感覚における表象間の区別
の仕方とそれに引き続いて起こる諸判断の文脈とは異質な文脈を持っていたと
いうことは充分に有り得ることである。
言語を構成する文法は述語の要素に含まれる固定指示子が無条件な前提として
容認されることで初めて意味を構成する。しかし主語を規定する固定指示子は
様相としては単に可能的な信念であるものを強調的に表明しているに過ぎない。
我々の中の一部の者は未だに有史以前つまり言語機能が我々自身の中で権威を
持ち始める以前の表象受容能力でもって、自分を外側から俯瞰したり、聴覚
器官でもって匂いをかぎ分けたり、固有の独特な感官の性能がもたらす象徴的
な表象を利用して演繹的思考では考えられないような精緻な判断を下すことで
様々な分野で業績を上げたり、或いは筋肉や骨格の運動等の律動でもって志向
性すら形態化し自己に裨益する知的資本として蓄える術を心得ている者達が
少なからず存在するのである。
というよりむしろ、古代的な認知の性能を無自覚のうちにであれ少しも持ち
合わせていない者がもし仮にいるとすればその者は現代においても必ず干乾び
て枯渇する。我々は力の源泉である太古的性質と前線である現代とを繋ぐ兵站線
を分断されては生の継続に関するあらゆる作戦を継続すること自体が不可能と
なってしまうのである。
924 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2008/05/04(日) 02:47:00 0
>>892 >>「僕が赤を見たときに感じる何かは、何か赤の本質が僕の中に備わってる
>>からもたらされるのだ」というのは、実は錯覚にすぎない。そして、それが
>>人間の関係性から派生するものであり、分析対象としたのが、反オカルト、
>>つまり反ユングのフロイドの精神分析だ。
前半は間違いではないが、後半は意味不明だ。
「赤という意識の本質」を構造の中で相対化する無意識という概念を議論の
俎上に乗せるとき、ユングどころではなくフロイトの時点でもはやアクセント
が摩り替えられてしまっている。フロイトは相対化する構造そのものを「それ」
という名の特異点的なフィクサーのような按配で定義することによって結局
は完全に閉じた「それ」という主体に「赤という意識の本質」を押し込めた
というだけなのである。
つまり関係性に基づくアフォードが真であればフィクサーとしてのイドでは
なくむしろ主体概念が環境全体へ無数に拡散されてしまう結果、「赤という
意識の本質」が文字通り「現象空間内部での諸関係性の結果」であるという
帰結がそこで初めて導かれるのである。
フロイトが無意識という概念の最も分かり易い原型であるライプニッツの情報
空間概念を意図的に摩り替えたのかそれとも誤認したのかどうかは今となって
は解明困難であるが、少なくとも「赤の本質」なるものについてフロイト的な
切り出し方によっては「赤という表象の由来」が諸関係性にまで拡散される
という帰結は導出されなくなってしまうのである。
言語とか 意味とか ポストモダンとか 集合的無意識とか 読め読め詐欺は神秘主義 《クオリア》を別の単語に置き換えてみた《神》《魂》。 クオリアは実在しない。 質感を脳の構成によって理論化する。
『水槽の脳』についてなのだが、 脳を直接刺激することで、質感や感覚を再現するというけど そこに実際の物理的な現象が起こってない、または物体が存在しないのに 「ある」と脳が認識するってのは一体何なんだろうな。 何のために感じているのか意味が分からなくないか? そもそも脳も含めれば、そこで起こっているのは一つの物理現象なのに 脳に刺激を加えることで、質感だけを再現すると言うことは そこにある物体から何かが発せられているのではなく、 人間が発せられた物を解釈して、認識を物体に当てはめているだけ と言うことになるのだが、本当にそういう事になるのか疑問だ。 果たして、脳に刺激を与えて質感が完璧に再現なんてされるのだろうか。
928 :
考える名無しさん :2008/05/05(月) 21:25:22 0
メロンという実在が介在しなければ、メロンという質感は生まれないと? でも、メロンの質感を感じてる人の脳や神経細胞を切り開いても、 メロンそのものがそこを流れてるわけじゃないんじゃね?
929 :
856 :2008/05/05(月) 22:03:14 0
>>923 古代的?w。未開と呼ばれる社会でも、その仕組みは「人工的」だ。
古代的認知とか、そういうのがオカルトだと言ってるわけ。
フロイドは晩年まで人間意識を図式的に書いてることは書いているけど、
そんなに整然と成功した記述は無いんじゃないかな。「それ」というのを
そういった読み方にしてしまえば、そりゃユングとフロイドの違いが
ないことになっちゃうね。
フロイドの「それ」はむしろそういう積極的に実在する何かとして定義されて
いないと考えるべき。つまり、意識「ではないもの」、論理的に仮定されるもの
とすべきでしょう。それを実体化しちゃったら、フロイドの精神分析は単なる
心理学になってしまう。
930 :
856 :2008/05/06(火) 01:26:17 0
>>927 >>928 その話は別に水槽に脳みそ入れるとか大それたこと考えなくても、
生演奏がいいか、CDの演奏がいいか、という話でしょ。
CDってのは与えられた技術的条件に合わせるために、ある種の
音素をフィルタしたり、色々編集が入ってる。これは「脳が感知
できる波長はここまでだからこうする」ってことなわけで、脳みそ
をどう刺激すれば音楽になるのか、ということと大差ないことを
やってるわけでしょ。
結果的にはCDよりももっと音素をカットしたMP3形式の配布なんかが
iPodに入ってバカ売れなわけで、質感が十分ってみんな思ってるという
現実がある。
>>930 いや、「水槽の脳」というのは有名な思考実験で、
>>927 の趣旨は、その有効性への疑問を示すことにあるわけだから、
>その話は別に水槽に脳みそ入れるとか大それたこと考えなくても、
と言い出すと別の話になっちゃう。
まあ、「水槽の脳」思考実験自体へ、君が(
>>927 とは違う方向から)疑問を
提出しようとしてるなら、そういう主張もあるかもしれんけど。
932 :
856 :2008/05/06(火) 01:57:59 0
>>931 なので、生演奏してないのに、CDで聴けちゃうってのは、
大差ないんじゃないか?そしてそれは現実に広まっちゃって
るぞ?ということなんだけどね。
音楽を脳みそで「再生」するって技術は可能かも知れないが、
その際の手続きはCD製作の時の話とあまり変わらない気が
するということだね。
実際、音楽の編集技術は電子顕微鏡で生物見るような感じで
やろうと思えば微量の音素の集合まで還元できちゃう。だとしたら、
それぞれの音素が脳のどこをどう刺激すればいいのか、対応づけが
されれば原理的にはできるってことじゃないかね。
二つレス。
>>928 じゃあ、そのメロンは、どこから来てどこへ行くのだろう?
なんだか『水槽の脳』の人間は、人形みたいに無機質だ。そこが腑に落ちない。
メロンがあれば、切って、分けて、配って、みんなで仲良く食べるでしょ。
しかし、その人間はメロンを感じているだけ。ただ感じているだけ。
まったく変化しない不思議なメロンだ。つまりレスポンスの問題が抜けてる。
脳にメロンの質感を与えるのはいいが、では脳がメロンを食べたと判断した際に
ちゃんとメロンの味覚は発生させられるのだろうか。
そもそもメロンは切られたはずなのに、なぜメロンはそこに実在しないんだ?
これがメロンならまだいい。対象が生き物だったらどうだろう。
生き物の質感を与えるなんて可能なのだろうか。例えば、猫が餌を欲しがって
すり寄って来ている。その猫が動かなかったら、そりゃ置物の猫だ。
生きている猫の刺激を与える為には、脳に刺激を与え続けないとならない。
でも、その時に脳に与え続ける刺激とは、「生きている猫そのもの」ではないか?
>>928 極論すれば、実在する物からは何も発せられてないと言うことにならない?
「脳に直接刺激を与えて受ける仮想の質感」と、
「対象から直接に得られる質感」は同じだ、を前提にしている。
・脳に直接刺激を与えて対象の質感を再現できるのなら
ではその対象からは、対象の持っている質感のみが発せられていることになる。
・それとは別に、物体Xから与えられてくる情報を
脳が処理して、処理した結果を物体Xに当てはめる事で
そこにある物体Xはメロンであると認識ができる。…とも考えられる。
・とすると、脳に与える刺激とは、メロンの刺激を脳に与えればいいのか。
それとも脳が情報処理するのも見越して、物体Xの刺激を脳に与えればいいのか。
どちらなのだろう。
実在せずに、ある構成による刺激に過ぎないとしても、
何らかの状態になっている事に変わりないでしょう。
脳の状態と、実物としての対象との、差はどこにあるんだろう。
935 :
考える名無しさん :2008/05/06(火) 03:26:58 0
>>930 それは違うな。
CDの場合、実際に空気を揺らしているわけだから。
人間の聴覚というのは空気の振動を検知しているわけで、
人工的にその空気の振動を作られれば、当然音として認識する。
水槽の脳とは別の話。
>>933 人間の持っている感覚器はそんなに精度の良いものじゃない。
たくさん誤認をしているし、それを経験で補うこともある。
ディズニーランドにあるミクロアドベンチャーっていうアトラクションに入った事ある?
あれにネズミが脱走する件があるよね?
ああいう風に錯覚を利用すると一瞬とはいえ「まるで本当にそこにあるかのような感覚」を
本物を使わずに再現する事が出来る。
夢を見ているときに、それを「夢だ」と認識できない人はたくさんいる。
夢だ、と認識できる人のほうが少ないかもしれない。
人間の感覚、人間の考える事なんて、これくらいいい加減なものだよ。
>>932 だからさ、「それができるかできないか」というのは、
『水槽の脳』という思考実験ではあんまり考慮しないのだよ、
だって、「できるかどうか」を考えるための実験じゃないんだから。
>>933 >じゃあ、そのメロンは、どこから来てどこへ行くのだろう?
確たることは人間には言えない。
というのが一つの答えじゃないんですかね。
メロンが実在するのかもしれないし、メロンを知覚するような刺激が与えられただけなのかもしれない。
それを「完全に」区別することは我々にはできない。
>>936 なので、脳を刺激してあげれば、
「猫そのもの」や「メロン」も再現ができてしまう、と・・・?
(ネズミのアトラクションは知らないです。)
しかし気になるのは、その再現性を逆向きにした考え方なんだ。
猫やメロンをどうやって脳に刺激するんだろ?(体の部位に置き換えてもいい)
どうやって「腕に何かが当たってる」と、腕がない状態で認識させるんだろ?
普通に考えるならメロンを持って来て、目の前に置いた方が手っ取り早いよ。
脳を刺激して再現するというのが、どうも簡単すぎる考えな気がする。
『実在する物が持っている情報量は、実在する物が持っている情報量未満である』
という、奇妙な仮説がないと成り立たないと思うんだ。もしも実在する物の
情報量と、脳を刺激する時の情報量が、同じなら実在する物を持って来た方が
早いし、なにより実在とは情報そのものと言う事になる。
(実際には、人が認識する際には脳が編集してしまうので、脳に届いた時には
実在する物の情報量が下回って届いているだろうけど。)
例えば、ネズミのアトラクションも、ネズミが持っている触れた感触や
鳴き声などの情報量は、ネズミ自体よりも下回るから「擬似的に再現できる」と
言うことができる。本物のネズミを使ったら擬似的じゃない。
そこで改めて考えるけど、では脳に与える刺激ってなんだろう?
『ネズミそのものに匹敵する再現性がありつつも、脳の認識の中での刺激で
十分再現される情報量』ってのが、なにやら奇妙なんだ。
だいたいにおいて、『水槽の脳』というのは 「外界は存在しないかもしれない」という問題提起なのに、 「外界の存在」を前提にして、実験がそれと整合しないという反論はなんか妙。
>>939 その場合の「外界は存在しないかもしれない」とは
「存在はしているが、自分の感じている外界は擬似的なものかもしれない」
という意味であって、本当に外界を否定している訳ではない。
メロンの例にしても、今、目の前にあるメロンは擬似的な物か
本物かの区別は付けられないけど、仮に擬似的な物であったとしても
擬似的ではない世界には、本物のメロンはあるという前提である。
941 :
考える名無しさん :2008/05/06(火) 10:25:20 0
『水槽の脳』なんてのは哲学者の空想だ。 何も実証することは出来ない。
942 :
856 :2008/05/06(火) 10:41:03 0
>>935 空気の振動を人工的に作り出すのと、脳に刺激を与えるのと、
どこに質的な違いがあるのか?ということなんだけどね。
脳を考える上で重要なのは、養老孟司氏の昔の対談のタイトル、
「中枢は末端の奴隷」という言葉じゃないかな。つまり、脳って
のは外界との相互作用の中継地点としての器官なのであって、
それだけを切り離して考えると妙なことになる。
水槽の脳の実験で問題にしているのは、哲学では昔から語られてる
ことで、カントの物自体のようなものでしょ。近代哲学ではデカルト以降
ヘーゲルなんかの例外はあるものの、外界の本当の実在を認識する
ということについては考えても仕方ない、という立場。デカルトは、眼前
の経験が夢だろうと現実だろうと、そんな区別はどうでもいいという
ところから出発してる。
ただ、カントが実践理性で問題にしたように、「プラクティス」といもの
がある。つまり、今の話題で出てきてるけど、メロンを「認識」するん
じゃなくて、それを見て匂いを感じて食べたりするという、一連の
相互作用のようなもの。これはその一連の動作の最中では認識
から常に逃れつづけるわけで、そこが人の倫理的領域としては
もっとも重要とされる部分だね。
943 :
856 :2008/05/06(火) 10:58:12 0
結局、人間の存在の大問題は一言で言えば、 「世界が自分の中に存在しているか、自分が世界の中に存在しているか」 ということに集約される。水槽の脳の話題というのは、世界は自分の 中にある、という言い方じゃないか。世界は脳に対する刺激にすぎない ならば、俺が死ねば世界は消える。他者を殺してもそれは脳の刺激に 変化があるに過ぎないということになる。 一方で世界の中に自分がある、はどうか。自分とは世界の一要素に 過ぎないのであり、世界の因果関係の一端、必然の中にあると。だから 人を殺しても世界の科学的因果関係の結果に過ぎないのであるから 罪悪なんぞそもそも存在しないんだと言うことができてしまう。 自由の問題、つまり人間は必然の中にあるのか、自由意志を持っている のかという話も同じ。難問であるとされるわけだけど、現実には犯罪を 犯した人間に刑罰を与える、ということをやっている。 上の話で欠けているのは、認識の領域だけに注目しているということ。 倫理の領域はその外側にあるわけで、カントなんかはそれを問題にした。 実践というのは、常に物自体の領域なのだと。しかし、事後的には 認識として扱うことができる。
944 :
ネオマトリクス :2008/05/06(火) 11:41:29 0
>>943 なるほど。
「世界が自分の中に存在しているか、自分が世界の中に存在しているか」
「人間は自由意志を持っているのか、自然法則の中にあるのか」
「意識は永遠に存在するのか、いつか永遠に存在しなくなるのか」
「人間は神か、宇宙の奴隷か」
といった問題ですね。
私は<この私>という主体性と思考と感覚は物質とは違うので
上の問いは全て前者と思っています。
物理的に厳密に言うと人間はいない、特定の物理的現象・素粒子の変化のみがあり
それは無機質な数と式だけの存在で、人間という概念(クオリア)は宇宙に存在しない。
脳やら人間というクオリアとしか感じられない時点でそれは
純粋な物質ではなく、物理現象という事実とは違った
妄想や錯覚の一種と同じだと思う。
クオリアは物質や法則とは違う領域の話だと思う。
そもそもクオリアに存在する場所は無いし質量も無いし
どんな物質でもないし、宇宙や物理法則とは違った話です。
で、他者と自分の共通の赤とか痛みのクオリアはあるけど
自分の感じる<この私のこの赤>は自分しか感じないので
全て自由になる筈だという、徹底した自由意志を肯定する論を述べます
>>938 >なので、脳を刺激してあげれば、
>「猫そのもの」や「メロン」も再現ができてしまう、と・・・?
ちょっと違う。
脳を刺激して脳内に「メロン」の質感を作りだすとき、それは必ずしも「本物のメロンを感覚器を通して認識したとき」
と同じ刺激、同じ質感でなくても、脳は「同じだ」と思う事がある、という事。
>普通に考えるならメロンを持って来て、目の前に置いた方が手っ取り早いよ。
どちらのほうが早いかはここでは問題にならないでしょう。実験なんだから。
夢を見るのに何か大掛かりな装置が必要?
「生身で空を飛ぶ」という夢を見る事は出来るけど、実際に生身で空を飛ぶことは無理だよね。
でも、夢の中ではたしかに飛んでいる。飛んだ事がないのに、何故飛んでいる質感を脳内に再現できるんだろうね。
>>942 >空気の振動を人工的に作り出すのと、脳に刺激を与えるのと、
>どこに質的な違いがあるのか?ということなんだけどね。
それは「CDと生演奏」で語れる事じゃないよ。
「CDと生演奏」と「脳内に直接刺激」を比べて語る事でしょう。
この場合、「CDと生演奏」は同じカテゴリだよ。
>>856 は水槽脳の議論を転倒して理解していることがわかるな。
世界は心の外にあるという議論を元に展開されてる思考実験だぞ。
>デカルトは、眼前 >の経験が夢だろうと現実だろうと、そんな区別はどうでもいいという >ところから出発してる。 斬新な解釈だなあ
>>943 犯罪というのは多分に政治技術上の便宜的な創作物なので、
普遍的実在の存在にそれほと固執することに意味があるとは思えない。
>上の話で欠けているのは、認識の領域だけに注目しているということ。
認識の領域だけで事足りるんじゃないの?
認識の外が「本当はどのようなものであるのか」を我々は知ることはできないけど、
治安が保たれてた方が都合がいいのは確か。
「治安が保たれてる」という事柄が「物自体の領域」でのどのような事に対応するかは知らないけれど、
そんなことはどうでもいいこと。
>>942-943 ライブとCDの例の方が言いたいことに近かったな・・・。
>>930-932 例をメタファーとして引き取ると、ライブとは演奏者や会場が
実在する状態なんだ。CDは演奏者と会場が実在しない状態。
しかし、どちらも人間は音楽を認識することが可能である。
実在する世界から、認識の部分だけが切り取られた世界が
CDの中に詰め込まれている。
CDやmp3は人間が作り出した物だから、製品に切り取られた
人間の認識世界が当てはまるのはある意味当然の結果である。
例えば、人間に聞こえない高周波や低周波が記録されていても意味がない。
だから製品には人間が認識できない質感は反映されない。
少し脱線したので閑話休題。
『水槽の脳』の話を、ライブとCDの例に当てはめると、
CDは一方的に音楽が流れてくる。しかしライブでは、演奏者の
邪魔をしたり、ステージに上ったりする事が可能だと言うことだ。
CDでは、流れてきた現象を受けることは出来るけど
返信することはできない設計になっている。『水槽の脳』はまるで
CDみたいな話になっているんだ。ライブ中にステージに上がり込む、
という行動を脳が水槽の中でした場合、そのライブ中の人々は
ステージに変な人が上がり込んだ、と受け止めて反応するのだろうか?
『水槽の脳』の人間は、主体性がなさすぎる気がするんだ。
ポスト近代の立場から、主体性を否定しているのなら合点がいくが。
だとしたら脳ってのは通過点にすぎない事になる。
>>950 それは違うよ。
ライブもCDも「空気を振動させる」という点において何も変わらないから。
空気を振動させずに音楽を認識させる方法と比較しないと。
952 :
856 :2008/05/06(火) 21:52:49 0
>>944 赤が赤であるというのは、言語的分節化を経なければいけない。そして
言語とはそれ自体、社会的なもの。
「僕が感じる赤」という記述には、だから何か別の主体が隠されている。
つまり、そういう記述自体を成立させている何か、この記述中の「僕」を
成立させている何かだ。
>>950 >ライブ中にステージに上がり込む、
>という行動を脳が水槽の中でした場合、そのライブ中の人々は
>ステージに変な人が上がり込んだ、と受け止めて反応するのだろうか?
反応する。水槽の脳は「世界をシミュレートしている」という設定だから。
つまり映画のマトリックスなんかと一緒。さも本当にそこに何かがあるように、
ちゃんと脳からの出力に対して辻褄のあったレスポンスをコンピューターが脳に対して返してくる。
実際そこまで高速の物理演算ができるコンピューターが僕達の現在の技術で作れるか、となるとそれは無理。
>>951 テクノロジーを参照して議論するなら、人工内耳を対照にしたらいいと思う。
954 :
856 :2008/05/06(火) 22:06:22 0
>>946 何で?脳を刺激して音楽を再生するというのは、人為的に聴覚を操作する
ということでしょ?CD、というか録音技術ってのはそれと同じことをしてるわけ。
人間の聴覚に対してどうアプローチすると効果的か、という。
空気が振動「してしまう」ということと、人為的に振動「させる」ってのは違う
でしょ。後者は脳をどう刺激すれば音楽が再生できるか?というのと等価。
955 :
856 :2008/05/06(火) 22:12:06 0
>>949 カントが物自体という場合、それは社会システムに対する政治的な操作
ではもちろんなくて、「プラクティス」として、つまり現在進行形の中にある
主体の決断のようなものを指している。これは認識から逃れざるを得ない。
カントが問題にしたのは、自由ということ。認識の領域においては自由は
可能とも不可能とも言えてしまう。しかし、「プラクティス」において、我々は
事実として自由なのだ、と言うわけ。
>>940 「外界は存在しないかもしれない」というのは、外界を「否定している」わけではないよ。
外界は存在するかもしれないけれど、しないかもしれない、
存在しようとしていなかろうと、「水槽の中の脳」には区別がつかないのではないか、という話。
>>955 主体の決断?
なおさら、
>認識の領域だけで事足りるんじゃないの?
と思うんだけど?
>>954 CDが「操作」しているのは人間の聴覚ではなく、空気の振動。
CDを再生すると空気が振動する、人間はその振動を感知する。
人間は空気の振動がなければCDに収録されている音楽を認識することは出来ない。
もし人間にプラグを直接挿して空気の振動に頼らずに音楽を流し込む技術が出来れば別だが
今のところそういうものは無いはず。あったらごめん。
>>953 ひとまず、「なるほど」と思考としては一端落ち着く……。
そこで再び疑問なのだけど、では『シミュレートされた世界』の
『ライブ会場の人々』は実在したことにならないのだろうか?
もちろん仮定として、シミュレートに過ぎないとしているのだから
『ライブ会場の人々』は実在していない事になるだが、
そもそも本当に仮定が成り立つことなんてあり得るのだろうか?
つまり、実在と認識の因果系に言及してるのだが、「対象が実在しなくても、
認識と行為の範囲で、自己完結した世界は構築ができる」を前提とするなら
じゃあ、逆に「実在」ってのは、なんの為に存在してるんだ?
1.認識されようとされまいと在ることが、実在すると言うことだ。
2.しかし、時として実在する物は、主体に認識されることがある。
3.そして認識する主体をいじる。そこで主体に認識された世界には実在がない。
この論理に死角はないか?
>>959 難しく考えすぎ。
睡眠中に夢って見た事ない?
もし貴方が夢を見ているときに「これは夢だ」と常に自覚できるタイプなら例にならなくなってしまうが、
もし夢を夢と自覚できないタイプなのであれば、シミュレートがどうとか考えずに夢を例に考えればいいだけでは。
水槽脳の思考実験を夢に置き換えると色々勝手が違ってくるぞ。
>>961 うん、「水槽脳」の話からはいったん離れてるよ。
>「対象が実在しなくても、
>認識と行為の範囲で、自己完結した世界は構築ができる」
こういう話に関する例として、です。
単純に「実在しないものを認識する事は出来るのか?」という話です。
>>960 難しい様に思えて基本はとても簡単なはず。
・脳内でシミュレートされた世界
・実在する世界
果たして、この両者は本当に別物なのか? これだけ
>>963 もしそれが別じゃないとする人がいたら、夢と現実の区別がついていないという事で
人としてけっこう重症だと思う。
>>951 >>958 それの方が違うんだ。
ここでは、物理的な現象を主体が認識することではなく
認識した主体から見た世界とは何か、を言及している。
どちらかと言うと、CDと脳を直接刺激する装置が似ているでしょ。
CDや脳を刺激する例は、主体の方からCDや脳の装置に行動が取れない。
しかし、ライブではライブ会場にいる人に対して色々と行動がとれる。
空気の振動が問題だとするのなら、脳を刺激しているだけなのに
あたかも空気が振動している様に思わせる装置が必要になる。
「音楽を脳で聴く装置」ではなく
「音楽を脳で聴いているのに、スピーカー音を聴いている様に感じる装置」です。
となると、スピーカーに触れたくなる。
で、実際に触れてみると脳の中の音楽だから、スピーカーには・・・・ってなる。
>>964 でも、それじゃあ、『水槽の脳』って「ただの夢です」ってことになっちゃう。
>>965 >CDや脳を刺激する例は、主体の方からCDや脳の装置に行動が取れない。
>しかし、ライブではライブ会場にいる人に対して色々と行動がとれる。
いや、CDプレーヤーの停止ボタンを押す事も出来るし、叩き壊す事もできるし
耳をふさぐ事も出来るし、その場を立ち去る事も出来るが。
十分すぎるほど働きかける事が可能だよ。
>で、実際に触れてみると脳の中の音楽だから、スピーカーには・・・・ってなる。
夢の中ではよくある事だね、特に問題になる点は無いよ。
じゃなくって、この場合は演奏者に対してですよ。CDには演奏者いないです。
>>968 CDの「演奏者」はCDプレーヤーやオーディオアンプ、スピーカー等の機器ですよ。
>>964 じゃあ、こう言い換えたら?
1.当人が、自覚的に脳内でシミュレートした世界
2.実在する世界
3.当人以外の存在が、シミュレートして当人の脳に入力した世界
君の言っているのは、1と2が違う、ってことでしょ?
でも、 2と 3 の違いは当人には識別できない。
で、1と3の違いは、当人がシミュレートされたものであるということに
気づけるか気づけないかの違いでしかない。
>>970 それじゃダメだよ。
自覚夢でない夢は1にあたらない。自覚してないんだからね。
かといって2でも3でもない。
>>959 >3.そして認識する主体をいじる。そこで主体に認識された世界には実在がない。
>この論理に死角はないか?
ある。
実在という言葉で実際に起きてる物理現象を意味してるようだけど、
水槽の脳でも対応する物理現象はあるから。
それは脳とコンピュータ。
これは基本的にCGなんかの状況と一緒。
CGはコンピュータの中で、物理的な因果作用の結果として計算されてる。
そしてそれがモニターから光の波として発せられ、網膜を通じて人間の脳に情報が至ればCG。
脳神経に電気信号として直接情報が入力されれば水槽の脳。それだけの違い。
>>971 >自覚夢でない夢は1にあたらない。自覚してないんだからね。
単に条件を増やせばいいだけでは?
4 夢だと自覚できない夢
で、4と3は識別できない。
識別できるなら、4と1は同じもの。
974 :
考える名無しさん :2008/05/07(水) 08:08:28 0
クオリアの問題なら夢・現・幻の区別はなくいずれにもクオリアは 感じられるんじゃないかな? クオリアが無いのは無意識の場合だけだろ。 夢・幻を見ているときには現と区別できなくても自覚・意識はある。
とすれば、外界の実在とクオリアには直接的な関係は無いということになる。
976 :
考える名無しさん :2008/05/07(水) 08:36:54 0
夢・現・幻を正しく識別するのは身体行動だろうね。 身体がなければ正しい認識は得られない。
自分が空を飛んでいることで夢と自覚することもあるよね。 つまり身体的にあり得ない、経験上おかしいことが起きてるとき自覚する。 クオリアを感じるときはなにかの脳内エラーなのかもしれない。
哲学の素養がない人間が相手だと議論もまったく深まらないな。
クオリアは記憶や経験がべったりで哲学で論理的に説くことが可能なのか。 論理性からはみ出したところに意識が生まれるのではないか。
生まれてから一度も赤色を見た経験のない人間が 生まれて初めて赤色を見たとき、恐怖か歓喜かなんらかの情動が伴うのではないか。 そしてこう言う。 「この色はなんとも言葉にし尽くせない色だなあ!想像だにしなかった色だよ!」 「これが赤色というものか!」
981 :
856 :2008/05/07(水) 21:37:22 0
>>958 CDがターゲットにしているのは空気の振動を経た人間の聴覚だろ?
脳からの距離はあるが、脳細胞を刺激して音楽を再生することと
質的な違いはない。
じゃあ、生演奏だってコンサートホールは人間の聴覚刺激をどう扱うか、
という工夫があるから同じじゃないか、と言われればその通りだね。
982 :
856 :2008/05/07(水) 21:43:58 0
>>957 何で?君の行動はある必然にしたがっており、その必然は君は事前に
認識済みってことか?
983 :
考える名無しさん :2008/05/07(水) 23:23:38 0
>>976 その考えはさ、単に、
「我々の意識は外界の実在を確実に検証できない」という問題に、
「身体という証明不要の実在が存在しているという前提」を持ち込んでるだけなんだよね。
「証明不要な実在」を持ち込めることにしちゃったら、意味無いじゃん。
>>982 >何で?
主体の決断は、その主体の「認識の領域の中」の出来事でしかないじゃん。
>君の行動はある必然にしたがっており、その必然は君は事前に
>認識済みってことか?
どういう思考経路でそういう疑問が湧いてくるか理解できん。
必然なんて話は全然してない。
>>973 だからなんなの?何が言いたいのか結論が見えないのだが。
986 :
考える名無しさん :2008/05/08(木) 00:56:16 0
文献引用のグラフが欲しいなぁ。 ひとことでクオリアといっても定義から結論まで結構ばらばら。 誰が誰の反論をしているかよくわかんない。 特にデネット。もっとリチャードドーキンスみたいにすっきり眠れる本をかいてほしいよぉ。 議論を客観的に詳細にまとめてる本とかどっかにない?
>>985 演繹的に展開してきた議論のレス先見ずに
最後のレスだけ見たら、結論が見えないのはあたりまえ。
>>987 夢と現実の区別がつかないというのは人としてけっこう重症
ただそれだけの事だが?
それに対していったい何がいいたいの?
そこへ向けたレスだから、だが。
もっと言うとそもそも
>>970 があまりにトンチンカンなんだよ。
>君の言っているのは、1と2が違う、ってことでしょ?
この「君のいっていること」がまずまったくあっていない。
間違った前提を元に何か言われても答えようがない。「違うよ」としか言いようが無いよ。
>>983 それだと意識も検証できなくならないか。
水槽の脳に電気信号を送る入力器官はなんであれ身体の役割。
脳が自家発電で意識を生むなんてことはありえない。
よって外界が存在せず我々の意識のみ存在しているという発想は 霊や魂と違いなく信仰の問題なので却下。 とりあえず脳の活動が止まったら意識の無い状態ということにしておかないと 心脳問題から外れる。
>>943 犯罪実行前のリスクの認識があるかどうか、正常に判断できたかも問題になるよね。
この世は必然か偶然か。 このスレの流れは必然か偶然か。 操作可能なのか操作不可能なのか。 自由意志はあるのかないのか。 意識は自然か不自然か。
夢・現・幻のときクオリアを感じてるのかという話ね。 1) 夢・現・幻の区別なく意識があればクオリアを感じてる。 2) 夢・現・幻の自覚があるときクオリアを感じている。 3) 夢・現・幻のズレがあるときクオリアを感じている。
やべ。幻という字だけゲシュタルト崩壊を起こした。
>>992 それほどラディカルでもない「心脳問題」なんてものにこだわる必要なんてあるの?
もうこのスレ次たてなくてもいいよ。
>>972 物理現象と実在は、まったく違いますよ。
ついでに言っておくと、『水槽の脳』を信じすぎ。
盲目的に思考実験を信じるのは、それは哲学ではない。
水槽の脳の死角を探ってるのに、探ってる人の死角を探ったら
やろうとしてる事が、あべこべだ。
水槽の脳を信じる、って何?表現が意味不明。思考実験に信じるもクソもないんだけど。 想定が不可能だというのなら、その点を議論すればいいんだが。
1001 :
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