991 :
素人:
だから、難しい漢字を並べた言葉より、
『私』という言葉にこだわる最高位氏に親近感を持つのです。
≪私≫という語が持つ様々なニュアンスのうちの何がしかが、(→それこそが!)、
核心に触れているのだろう、と・・・。
インド哲学(ウパニシャッド)に於いて、「アートマン」に取って代わる用語は出てこなかった。
少なくともメジャーに使用されなかった。(専門家の補足を求むw)
なぜか?
それは、≪自己として意識される部分≫≪自身であること≫等が、根幹とされたからではないか?
それは図らずも、
「主観は自己のものとしてしかあり得ない」ことを示唆していないか?
「認識は自己のものとしてしかあり得ない」ことを示唆していないか?
「他者の認識は、実感を伴わない単なる情報にしか過ぎない」ことを、
「他者の認識が自己の認識となることはあり得ない」ことを、
「他者の主観は他者の主観でしかなく(→これこそが“客観”の始まりかもしれんが)、
自己の主観とはならない」ことを示唆していないか?
そしてそれは、「身体」についても同様であろう。
「身体だけが他人であることなどあり得ない」。
(ガンダムのファンネルではないがw)、どんなに離れていても切り離されても、
それが知覚されるなら、それは「自分の身体」となるだろう。「この体」となるだろう。
≪「私のこの体」に「この私」が顕れている≫≪「この私」が「私のこの体」と結びついている≫というのは、
それ以外に無い、他の可能性を排斥する、絶対的必然ではなかろうか・・・。