>>12 >ところで言語の限界というのはそのまま仏教の限界だと思いますが違いますか。
このスレ的にはどうか判りませんが、仏教にとっては結構重要な視点です。
袴谷・松本系は、ことば(言語)の重要性を強く主張していました。(今はどうか知りませんがw)
言語なくして仏教(理解)はない。縁起(や四諦)の理解はない。 と・・。
これと、対になるのが禅であり、或いは維摩経です。(如来蔵や本覚思想もこちら側です。)
(もっとも禅は、不立文字を謳いながら膨大な言葉を残している興味深い流れですが・・・w)
「禅」と、「言葉による仏教」との対立はさておき、(個人的には何も対立していないと感じますがw)、
そうした理解とは又別の、
(双方に共通する)「体験している(し続けている)在り様(特に“自己”)」や
「今まさにココに顕現している在り様・存在(特に“自己”)」や、
「体験そのもの」を、或いは「今ココそのもの」を、
【(言語に依らず(言語への変換を介さず))どのように伝えることができるのか?】は、問題視されていい。
だから、(古の)禅に於いて師匠からは、何かキーワードと共に(或いは無言で)
「俺を見ろ!」的な謂いが為されることになる。或いは「自分をよく見ろ!」と言われることになる。
解説が付加されると「蛇足を加えてしまった・・・」と自嘲される。
そして、2500年前インドに於いて、
『ブッダは、アートマン自体を否定するのでなく(それを換骨奪胎し)、
実存的(?)自己(今まさにありありとココにいる私)として容認したのか?』
『(もし、容認したとして)ブッダがそれを提示した時、どのようであったのか?』
(→やはり、「俺を見ろ!」にならざるを得なかったのか?)
『(容認していないのであれば)それは、いかなる解体のされ方をしたのか?』
また、
『それは、現代で言う“超越的自我”とどのような関係にあるのか?同か、異か?類似か?』
『それとも、2500年前のインド人には、
西洋哲学が見出したような“超越的自我”など夢想だにできなかったのか?』
(→『当たり前のこととして無視されたのか?』、
はたまた
『“日常的自我”の枠を出られなかったのか?』 )