1 :
考える名無しさん:
前スレ
>>999 :考える名無しさん:
>>998 :考える名無しさん:
>相互に対立してるから相対だろ。
これはひどいだろう、ここまで判ってないとは・・・
相対的とは・・・・
ある何かを基準に設定して、それと比較してものを見ることを、相対的といいます。
これに対して、揺るがない基準からものを見ることを「絶対的」といいます。
以上・・・・
要するに「主観なくして客観は無く、客観なくして主観は無い」
10分くらい考えてみれば・・・誰が考えても反論は無いと思うくらい自明の事。
当然主観も客観も観念のうちである事は言うまでも無い。
そこからが問題が分かれる。
観念としての「主客」とは独立した物質的自然界が実在するかどうかは議論の分かれるところ。
(私のような極端な観念論者は物質の実在を否定するわけです。)
ところが主観、客観を相対的概念として出なく互いに独立した概念として扱うと甚だしい混乱が起きる。
このスレで多く見られる。
>
3 :
考える名無しさん:2008/02/07(木) 23:51:02 0
4 :
一般人:2008/02/08(金) 00:05:08 O
客観と主観を辞書で引いてみた。なるほど相対的だ。
なら俺は主観を排除する派に属するな。
>>2 「きれい」とか「きたない」ていうのは相対的概念として主観的に峻別すればいいけど
主観と客観てのはあくまで量的概念なので主観が集まれば単に客観になるだけ。
こう書いたら理解できるかいな?
6 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 00:11:35 0
客観と客観的は違うだろ
>>5 :考える名無しさん:
やはり全然判ってない人が多いなあ・・・
全ての事象が「主客」の相対で認識されている。
机がそこにあるのは机と言う客体を主体が認識したからである。
何かがあると存在を認識すると言う事象には「主観と客観」の相対的関係が必ずあると言う事。
ちょっと試しに考えれば判るでしょう。
実際に物質がそこに物理的に実在するかどうかの問題は差し置いて、少なくとも人間が認識すると言う事は「主観と客観」の相対的関係で認識するしかない。
判りにくく言い換えると「観測には主観の存在が要請される」とか。
>>5 :考える名無しさん:
>主観と客観てのはあくまで量的概念なので主観が集まれば単に客観になるだけ。
小学生にも笑われる。
>>7 じいさんにはやはり難しすぎたかな。
じゃ、例えば美人と美人コンテストの優勝で考えてみて下さい。
哲学の入口付近に入れるかも。
量的概念を単に相対的(比較的)な概念だと誤解したままでは主観と客観が錯綜するだけなんです。
それから純然たる主観とか純然たる客観というものはありません。
というのは言語は基本的に客観的な規則に基づいた記述だからです。
それに則った説明は客観的になるんです。
>>8 かなり基礎的なことですよ。
客観とは他者に指し示し得る物事でしかないのです。
ま、私の言説で主観と客観は全く異なった概念であるとの主張を捨てたのはいいけど
今度は相対的だと理解していたわけですか・・・トホホです。
11 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/08(金) 01:15:26 0
前スレ849最高位さん
痛覚というのは物理的肉体ではありませんか?
私の存在と物理的肉体の関わりを聞いているのですが。
まあ、もはや最高位さんの私の存在理論が非常に浅いものだという事は
はっきりいたしましたので。
痛感以前に手足の動かし方すら言葉では説明できないわけですから「私」というのを
根拠に置いても何も発展しないんじゃないでしょうか。
ところで言語の限界というのはそのまま仏教の限界だと思いますが違いますか。
一般的に言う客観は、主観に対立する概念だと思います。
主観とか客観てのは基本的にレトリックに過ぎないからね。
前述の通り手足の動かし方等の根源的な問題は一切記述できない。
主観と客観はあくまで対義語であり対立概念とは言えないのは自明なんだけど
それがわかりにくいのであれば例えば主観的に美人だと思う人を集めて美人コンテストを
開いて優勝者を選出する等の行為を考えてみればわかりやすいと思います。
哲学では主観や客観は改めて再定義しない限り量的概念であり延長だという認識しかできない。
つまり本質的な違いはなく純化して対立化させることは不可能。
15 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 01:29:14 0
>>11 >痛覚というのは物理的肉体ではありませんか?
日本語おかしいですよ(苦笑
痛覚とは感覚です
クオリアです
本人が主観により、実感的に感ずる『感じ』の一種です
>まあ、もはや最高位さんの私の存在理論が非常に浅いものだという事は
>はっきりいたしましたので。
あははは!
じゃぁ答えて頂きましょうか
私が存在した原因的要素
私を存在せしめるに至った原因は、いかなる因果関係によるのですか?(笑
私の、この浅い問題意識に、明確な解答を、与えて下さい(大爆笑
「きれい」とか「きたない」とかは基準が第一義的には主観に依るから相対的な概念としても
対立した概念としても問題ない。
またそれらが客観化できる前提は客観的な基準を設けたとき。
客観は仮設です。
仮説と言いたいのか仮設と言いたいのかによって意味合いが異なる件
?
>>10 :考える名無しさん:
>客観とは他者に指し示し得る物事でしかないのです。
これは客観と言う言葉の甚だしい誤用ですね。
自我の存在性は主客の相対的関係性で捉えるしかない。
「私」と言う主観は外界と言う「客観」が無いと存在し得ないと言う事。
「われ思う・・」この思う対象(客観)が無ければ「われあり」にならないと言う事である。
対称なく「思う」ことは不可能であるからだ。
ただし「悟り」でも開いたとか言う超宗教的な人なら出来るかもしれないが。
23 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 01:42:05 0
>>15 何だよ「原因的要素」ってw
お前のそのボキャブラリ・・・ヤバいってww
24 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 01:47:26 0
国語の成績の悪い人が多いようだね
主観は、自分の視点や考えの事
客観は、自分以外の主観、視点の事 を指す
また
客観的 というのは
自分が他人の視点に立った角度から観たり考えたりする事
これはあくまでも、自分の主観による行為であって、自分が客観に立つ事はありえない
みんな、いったい何を難しく考えてんの??
宇宙がなんで存在するか原因は分からないし、
なんで水素原子がこの世に存在するのかの原因も分からない。
私の原因が分からなくても唯物論は論破できない。
唯物論にとって存在する原因など分からなくてもいいからだ。
28 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 01:52:41 0
>>20 具体的に、物理的要素に特定して答えて下さい
しかし、それは不可能
不可能であるならば、唯物論は間違いである という事になる
>>23 『私』を存在せしめた原因となっている物理的要素
なら理解できるかね?(苦笑
>>14 :考える名無しさん:
>主観とか客観てのは基本的にレトリックに過ぎないからね。
それは貴方が勝手に誤用しているから。
>主観的に美人だと思う・・・・
これは明らかに誤用。おそらく「主観的判断の偏り」と言ったニュアンスが入り込んだ俗語のようなものである。
客観も誤用されることが多い。
「客観報道」などという言葉がそれで、主観の無い報道などありえないわけだから、マスコミが小学生にも馬鹿にされる。
>>28 脳の作用だろ。
それが「私」をさも霊的存在のように思い込ませているだけ。
>>29 じいさんの方が適当に誤用してる気がするわ。
こういう基本的な事項を徒に難しく考えちゃうのは哲学には向かないよ。
>>24 :哲学者最高位
>客観は、自分以外の主観、視点の事 を指す
>客観的 というのは
>自分が他人の視点に立った角度から観たり考えたりする事
だから是は誤用。
巷に流布しているから辞書でも載せなければならないだけ。
だって・・・・・・・貴方も・・・・
>これはあくまでも、自分の主観による行為であって、自分が客観に立つ事はありえない
と言っている様に「自分以外の主観、視点」と「自分が他人の視点に立った角度」の両方が矛盾で在り得ないからだ。
>>29 じいさんの場合、無謬に(何にも基づかずに)普遍性のようなものを前提しているから大問題に
見えているだけだと思うわ。
こういう何でもかでも形而上学的昇華して独り合点しちゃうと他人には伝わらない。
34 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/08(金) 02:06:10 0
>>15最高位さん
痛覚は肉体が無ければ感じませんね
唯識では前五識の「身識」です。それをどのような、どれくらい
というように思い量るのは意識です。
そしてこれらのフィードバックをクオリアと呼ぶのもよろしいでしょう。
これらは表層意識であって、浅いのです。
これに「私」を付加し「他」と比較、差別化するのは
深層意識の「末那識」です。
私を存在せしめる理由
唯識ではそのように問われるべきではありません。
「迷いである私」を生じせしめる理由は「無明」
つまり真理に明るくないから「私」に固執するということです。
まあ、素直にに私が存在する原因を無明と言っても構いませんが。
最高位さんの「私の存在」と物理的肉体の関わりについて
最高位さんは「わからない」と説明放棄されましたが
それでは「私」はどこにあるのでしょう?
この身体ですか?クオリアですか?
それともそういった物理的肉体から離れたところですか?
昨日言いました「私の置き場所」とはこういうことです。
>>34 迷いである私てのはよくわかるわ。
歌ったり踊ったり何かに熱中しているときは身体が自然に動いてて私なんてのはないから。
36 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 02:13:04 0
>>27 自分からみたら
他人の意見は、他人の主観
すなわち客観だろ
なにがおかしい?
>>30 だから・・・・
『脳』とか、そういう大雑把で曖昧な答えでなく
特定の分子構造で表すとか
そういうふうに
『私』を具体的な物理的要素に特定して下さい と言ってるんだよ
>>32 ん?
客観と客観的 は、違うんだよ?
これは日本語を使う者として、あまりにも当たり前の常識
あと、どうでもいいんだけど
>>29 >「客観報道」などという言葉がそれで、主観の無い報道などありえないわけだから、
これは、その通り、有りえんけれども
使ってる側としては、『客観的な角度からみた立場に立って報道したつもり』で〜す
という意味だろ
例えば大ざっぱに言って宗教は主観か客観かとか考えてみるといい。
宗教を客観たらしめている理由は何か。
自我とか主観とかを意識すると言う事は・・・・
「私」の内と外の峻別と言う事である。
「私」自身と外界(宇宙)とが対峙していると言う認識である。
そのような状況で「私」の存在性が外界の存在性に依存せざるを得ないという事実がある。
この事を主観と客観は相対的であると言う。
他人の視点がどうのこうのと言った副次的な問題ではない。
>>38 それは単なる個人宗教だ。
仏教は抵抗あるけど実際私というのは迷いとしか言えない。
40 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 02:31:07 0
>>25 そんな、宇宙の根本問題と同レベルの問題が、私の精神にあるのならば
当然、物理現象の範疇で解明できる問題であるはずもなく
それ以前の根本問題であるがゆえに
その時点で、「人間の精神も物理現象にすぎない」などと結論する唯物論は
アホの早とちりであった という事になり、崩壊せざるをえない
>>34 根本的に、わかってないんだよなぁ・・
キミは、結果的な現象面しか考えてないんだよ
変化し、現象してるのは『私』の精神であり、体である という事であり
フィードバックしてるつったって、他人のフィードバックなんて、知るかよ となるでしょう
私の精神だから、私が「あぁフィードバックしてるんかな?」とか認識できるわけでね
後先が逆なんだよ
他人がフィードバックして『私』になるんだったら、人類全て『我』になっちゃうだろ(苦笑
>>35 それは、無いんじゃなくて
確認作業はしてない
というだけだろ(大爆笑
41 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/08(金) 02:32:15 0
後付けで申し訳ありませんが
こういったことは素人さんのほうがお詳しく
また上手に説明されると思います。
記述すること。
それはとりもなおさず記述されることに他ならない。
このことの自覚が無い奴は馬鹿のさんじゅうまる
かくしておれも記述されるわけだが人間存在は
その過誤を免れない。
43 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/08(金) 02:39:54 0
>>40最高位さん
私が述べてることが根本的にお分かりになって居られないようで。
そしてなんのお答えにもなっていませんね。
やはり浅い。
それと「私」は現象しないのでは?
前提を放棄、覆されるのですか?
今までと話が違いますが。
そしてまったく理解されて居られませんが
「フィードバック」は五感と意識間のこと
私を付加するのは深層識の末那識です。
きちんとご理解していただきたい。
後、仏教の私理論は迷いである私らしいけどそこまで独自に到達したのは偉いと思う。
ただその先にある私を言及できるかどうか。
そこからが西洋哲学。
>>43 そのフィードバックというのは現象学でしょう。
46 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 02:43:30 0
:.:.:ノ:.i:.:l:.:.:l::.:.:.:ノ:.:.:.:/:.:./:.:.:..:../:.:./:ノヾ ヽ:.l: |:.:lヾ|:i
.:..::丿:.:i.:.:.:.l:.:/:.:.:.:.:./:/:.:.:.:/:.:.:./:.l:/./ ヽ !:|: /:ノ
:.l:.ハ:.:l:.:,−-、i/.:/.l:.:.:/:.:.:.i:.:ノ゛:. ヽ,
:l:.i:.|:.:.l´/ゝ-//:.:.i:.:.i:.:./:.. ,,;:;;:;,,.. ,.,.:;
:i:.:.:i:.:.:| ( ⌒1 ヽ:.|:.i:." __、.:"' _ニィ
ヽ:|:.:i:l.ヽ、ヾ〈: .:l:|:.:l:.  ̄`‐""ノ.:' ( "´ノ
.:ヾ:i:.:.l:. ヽ_ " :. '"´´,' ヽ"l <働け働けうるさいんだよ
ゝヾヾ ::.. :.. , ' 〉ノ 簡単に言いやがって・・・!
/:l:." :. /` - 、_ノ
::::ヽ、 :.. /:,_=--"-/
::::::::\ ::.. /:.(エl┼┼"´
::::::::::::::ヽ " ヽニ二)
:::::::::::::::::::\:... ´":j
::::::::::::::::::::::::::\ ..::::.....:.. ` .:..、_:ノ:.ヽ
::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、""´/ー'"::::::::::::::::::::::\
私って何かというと、この時間のこの場所に存在する個ってわけ。
個というのは、普遍に対する個ね。
そして個である私は、この時間のこの場所と不可分。
で、この時間のこの場所が何で存在するか、
唯物論が説明する必要はないの。
そんなものは説明しないのが唯物論だから。
最高位には唯物論は論破できない仕組みになっているのよ。
一口に「私」と言っても様々あるようで(当然)
私としては下位の「私」(自我)があれこれ記述しようが上位の非言語の「私」は黙って
見ているだけなので何とも記述しようがありませんがそういうのがむくむくと表層に
現れる体験というのは実は生き物は大概経験してるんでしょう。
そういうのを表現するには哲学より文学。
文学作品の中には普通に出て来る現象なわけです。
客観的とか客観性とかいって誤用を重ねるのには裏がある。
「世界は合理的で普遍的な真理と言うもので支配されているはずだ」と言う信念(信仰)のようなものが在る人が多い。
まあ言ってみれば客観的視点と言うのは神の目を意識している。
さっきの辞書の例で言うと・・・(
>>24 :哲学者最高位 ◆)
1「主観は、自分の視点や考えの事」
是は正しい。 正しいとすると・・・・
2「客観は、自分以外の主観、視点の事 を指す 」
これは酷い間違い。
矛盾がわかりますか?
1により当然「自分以外は客観であり主観ではありえない」と定義されている。
しかし2では「自分以外の主観」と言うのは矛盾である。
ここで実は1〜2に移るときに場面(視点)が変わっているわけです。
1ではその一人個人の主観について述べている。
2では個人から離れて世界のがわから個々の主観について述べている。
1,2は同一次元で語られて居ない、だから矛盾になる。
ここにカラクリがあって2は神の目が入っている訳です。
これは逆にするとわかりやすい。
2から定義を始めることは不可能である事が判るでしょう。
どうしたって 2はイカサマなんです。
だから「客観的」とか「客観性」で護摩かそうとする。
あたかも客観のようなと言うニュアンス。
その裏には神の客観性という仕掛けが潜んでいる。
50 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 04:17:36 0
>>35 追記
迷っているのは、紛れもなく、間違いなく『私』
じゃないか?
他人か? (笑
>>42 私はキミを記述する事は絶対にできない
というか、キミそのものを認識する事ができない
私は、私の感覚器を通して、キミから受けた情報を記述したり
それを元に、自分の観念で作り上げた『キミのイメージ』を認識しているのだ
>>43 いや、なんつーかキミの問いそのものが、見当外れなんだよね
質問が間違えている というか、もっと根本的なところで大きな勘違いをしている
とりあえずコレ
↓
>それと「私」は現象しないのでは?
私の精神は変化するし、体も現象するでしょう
私が言ったのは『私の存在性』は変化しない という事でね
変化したら『他人』になっちゃうか、少なくとも『私』じゃなくなっちゃうでしょ? と言ってるんですよ
キミは何も理解できてないのに、勝手な思い込みでフライングしてるわけよ
頭を冷やして反省したらどうかね
ところでコレは、理解できたんかね?
>痛覚というのは物理的肉体ではありませんか?
日本語おかしいですよ(苦笑
痛覚とは感覚です
クオリアです
本人が主観により、実感的に感ずる『感じ』の一種です
おまえいちいち逆らうなあ
唯識は解説してるじゃないか。専門用語はわからんが。
>>50 迷っていない赤ん坊には最高位さんのおっしゃる「私」はないんです。
残念ながら。
これが基本。
それ以外に記述できない「私」というのがあるんじゃないかというのが私の知っている「私」です。
だから私は意志通りにも自分の四肢を制御し得る。
そうなるわけです。非言語的ですが。
これは人間に限ったことじゃなく恐らく他の生き物も体験しているはず。
最高位さんの「私」は自我だと以前にお伺いしましたけど私は別にそれを浅いとは思わない。
ただある意味考察し得る臨界点なんざんしょう。(考察は言語的活動)
そこから先はユングでも何でもどうぞ。
基本的に哲学は楽しい思索の時間であるべきだと思うので自らの論を立てるときは
明瞭な表現を心掛けたいものですな。
そんなに難解な論争がここでできるはずもないので。
どうやら最高位VS唯識って構図だなw
私の質でバトルしてんのか?
>>49 これはちょっとひどいコジツケじゃないかな。
神様の視点というのをどっかで読んで誤解してるんじゃないか。
辞書的記述は基本的にメタ言語として了解するわけです。
(間違った観点からの批判にもほどがあるのではなかろうか)
56 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 05:00:15 0
>>47 >で、この時間のこの場所が何で存在するか、
>唯物論が説明する必要はないの。
そんな事を説明しろと言った覚えはないが?(苦笑
『この個』が、なんで『私』なのか
その原因性を、物理的要素で説明せよと言ってるんだよ
>>49 要するに、視点の問題
客観というのは、私から見た他人の主観
要するに、客観と呼ばれているものも、本人からすれば主観なのであって
それは主観性なのであって、客観性 というものはない
あと、神の視点とかは、あんまり関係ないと思うぞ?(苦笑
>>52 >迷っていない赤ん坊には最高位さんのおっしゃる「私」はないんです。
>残念ながら。
>
>これが基本。
何の基本?
>>54 彼は、なにやら突っかかってきてるけど、丸っきり的外れ
バトルになどならんよ(苦笑
話になってない
>>56 客観の定義がおかしいけど主観と客観の区別はそんなところでいいんじゃないか。
後、赤ん坊に最高位さんのおっしゃるような「私」はないけど私の言うところの「私」はあるんですよ。
最高位さんの言う主観性というのは結局教育やら社会的要請やらで出来上がったペルソナ。
>>56 ただ逃げてるだけじゃないか。的外れな返答してるのはおまえだよ。
>>56 赤ん坊とか生身の人間に「私」がないとすると結局は機械的唯物論に帰着するわけですよ。
自己組織化のメカニズムの中で「私」が生じるわけですから最高位的「私」は肉体由来ということになる。
唯識さんと最高位さんはどっちもどっちな気がします。
唯識さんは仏教用語と仏教の経典を読めばわかると書くだけだし最高位さんは
そんなの関係ないと突っぱねるだけ。
こういうのを一般的に議論が成立していないという。
私としては仏教哲学とは単に思想の一つなんでごり押しされなきゃどうでもいいし
最高位さんの不明瞭な「私」を理解できなくとも別に困らない。
61 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 05:12:38 0
>>57 >最高位さんの言う主観性というのは結局教育やら社会的要請やらで出来上がったペルソナ。
違うんだけど
そう決め付けた理由は何?
それと、キミの言うところの「私」って何?
というか
あると認めてるじゃんか『私』(爆笑
>>60 唯識氏は私について仏教を元に議論しているわけであって
仏教を議論してるんじゃないぞ
>>56 なんでか?
そりゃ過去の魂が転生しておまえという体に入ったんだよ。
体がある限り留まってまた他へ転生する。
これでいいか?
>>61 ではその前に最高位さんのおっしゃる「私」は受精してからいつの時点で成立するんですか。
こうご質問した場合、どうお答えになれますか。
私の「私」は私の肉体を司っている統合性です。自我ではない。
>>62 仏教を仏教としてぶつけるのはNGじゃないでしょうかね。
宗教なんだから。
>>65 私を記述するのに仏教がふさわしいとか考えてるんじゃないか?
でなかったらただの布教なんだが
67 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 05:33:47 0
>>60 >最高位さんは そんなの関係ないと突っぱねるだけ。
あんだけわかりやすく書いてるのに、突っぱねてるだけだと思っちゃうような読解力じゃ、とても理解するのは無理だな
>こういうのを一般的に議論が成立していないという。
そうだよ? だから、ちゃんとそう書いてるでしょう
なに読んでんの??
>最高位さんの不明瞭な「私」を理解できなくとも別に困らない。
うむ、じゃぁ読まなくていいんじゃないか?(爆笑
>>63 それは仏教かい?
まぁいいや
キミは要するに
唯物的に分析する事は不可能だ と、ちゃんと理解できてるじゃないか(爆笑
もうくだらん事で反発してこないでくれよな
反論するのなら、物理的要素に特定できてからにしてくれよな(爆笑
>>64 >「私」は受精してからいつの時点で成立するんですか。
おいおい
『私』が理解できてない証拠だぞ?
『私』は、物理的要素に特定する事は不可能であり
それは、なぜ宇宙が存在したのか というような究極的な根本問題に匹敵するレベルの問題であるからだ と
唯物論者も認めているわけだよ?
なんで受精した後 とか、前提できるのかね?(大爆笑
>>67 だから不明瞭な「私」と指摘したんです。
それでは「私」というのはないと言われても反論できないでしょ。
そして現に私は最高位さんのおっしゃる「私」なんてのはないと考えております。
最高位さんの「私」だと生命と切り離して捉え直さなければいけないし如何にも人間由来ですよ。
>>67 転生は仏教でもエジプト文明でもあるなあ
魂は時空を超えて移動するから観測にはかからんし
物理法則じゃ説明つかんわな
これがてめえの存在性ってやつかw
やはり、最高位さんの場合、「私」の由来というか根拠を神様に依るか唯物論に依るかしか
選択肢がないようです。
71 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 05:42:22 0
>>67 最高位の私の存在性って輪廻転生の魂のことだったのか?
オカルトに同意してるってどういうことよw
>>67 > >こういうのを一般的に議論が成立していないという。
> そうだよ? だから、ちゃんとそう書いてるでしょう
> なに読んでんの??
うん。
ついでに付け加えると決定論とも議論が成立しないですよね。
故に決定論に対する何らの反論にも当たらないただの独り善がりでしょ。
足という器官があって、歩行という運動の状態を動作させるのと同様に、
脳という器官があって、意識という運動の状態を動作させているだけ。
ヒトが己の意識を自意識として認識しうるのは、100%言語の働きによる。
言語を持たない赤子やイヌやぬこに「自意識=ヒトの意識」は無い。
赤子やぬこには「私」は無い。非睡眠時も、単に覚醒しているだけ。
もちろん意識など無くたって脳というセンサーは働くし学習もできる。
でなきゃ、赤子は言語を習得できないからね。そして「私」が生まれる。
いいかい、「私」というのは言語意識=自意識であって、それは
足が生み出す歩行のような「運動」・「動作」、つまり「状態」なんだ。
脳という器官が機能を停止すれば消えてなくなる「状態」なんだよ。
なにか「私」というモノが、物質的にであれ霊的にであれ「存在」すると
考えるのは言葉の使用の誤りだ。きみたちの意識主体としての「私」
が「ある」、という表現は、意味的には「歩行がある」というのと全く同様
に不自然な言いまわしだということを留意しておかなきゃいけないね。
以上は、コギトないし超越論的主観と称されるものの存在性を論じる
ことに対する言語的な治療です。いわゆる「形而上学的主体」としての
「私」の存在性を否定したものではありませんので、ご承知おきください。
このスレッドに集まる人のほとんどには、
意見の相違はあってもそれなりの反省意識があって、
程度の差こそあれ内在的な論理性を感じる(それが稚拙であっても)
のだが、哲学者最高位だけは知性の欠如というか、
脳に物理的な欠損があるのではないかと疑うほど、
彼にだけは知能に問題を感じる。
76 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 10:00:05 0
>>67 >なんで受精した後 とか、前提できるのかね?(大爆笑
最高位よ、
1.今、私が存在することは確実である。
2.昨日、私が存在したことは確実である。
3.10年前、私が存在したことは確実である。
4.100年前、私が存在したことは確実である。
キミが肯定するのは、どれとどれかね?
キミの言う「私の存在性」が確認されるのは、いつの時点か、ということだが。
「1だけが確実で、それ以外は不確実」ということで、いいのかな?
77 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 11:01:52 0
>>64 君の言う“統合性”=『私』なら、最高位もその程度のことは押さえている。
また“ペルソナ”が『私』の心を指しているのなら、それは言わば『私』の上部構造。
『私』が対象と関わりながら、ラビ氏が言うところの信仰心(価値観)を積み上げる機制を
最高位は“主観性”と呼んでいる。最高位の『私』=主観性ではない。『私』=心でもない。
ただ、最高位は『私』=自我と定義している。自我には“業”のような意味が取りついており、
誤解を与えているようだ。
「由来」を問うているが、では生命の由来は? 物質のそれは?
78 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 11:14:40 0
>>76 「いま」を意識することはできない。君にはできるのか。
1〜4のすべてが不確実である。そのどれかを信じている(もしくは信じない)だけだ。
次に、最高位がどう宣うかわかるね。
79 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 11:40:48 0
認識 認識
できる できない
↓ ↓
過去 今
○
\
●
/
□
未来
→→→→→→→→時間軸
こういうことなんだよね・・・w
で、この『●』という存在(状態?様相?)を、最高位は『存在性』と言う。
思考する限り発生する基点として・・・。
その意味での「今」だと思うよ。
>>78
「そのどれかを信じているのは、誰なんだよ」だろw
81 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 11:47:38 0
で、この『●』を、
はたして、「誰」とか「私」とか呼んでいいものかどうか
を問うてみたくはないか?
>>80
82 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/08(金) 11:52:49 0
>>68 >それでは「私」というのはないと言われても反論できないでしょ。
>そして現に私は最高位さんのおっしゃる「私」なんてのはないと考えております。
では、ちゃんと
「我思う故に我あり」を論理的に否定して、説明して下さい
>>69 べつに?
そんな事は言っていない
しかし唯物論が間違いである事は、論理的事実
>>70 根拠のない独り言は、書き込まないようにね
>>71 勝手に飛躍すんな
だから、お前らは頭が悪いっていうんだよ
>>73 いいや?
『私』を存在を決定した要素は、物理的要素に有りえないからね
決定論の根拠から外れているわけさ
決定論者の理屈によると、ビッグバンの時に決定したのは、物理的な事だけだから
私が存在する事まで決定していた とは言えないわけだよ
言えるとしたら、物理的要素以外だという事になるから、根本的に意味が変わってくる
なんで理解できんの?
>>24 ここまでしか考えない人なんだよなぁ
>主観は、自分の視点や考えの事
>客観は、自分以外の主観、視点の事 を指す
客観は、自分以外の自分の視点や考えの事 を指す?
これが変だとは思えるセンスはないのね、この人は。
そこがこの人のバカの壁。
>>57 :考える名無しさん
>赤ん坊に最高位さんのおっしゃるような「私」はないけど 私の言うところの「私」はあるんですよ。
>最高位さんの言う主観性というのは結局教育やら社会的要請やらで出来上がったペルソナ。
赤ん坊は自我意識がなく後天的に成長するものです。
正に「教育やら社会的要請」が人間の自我を育てます。
>私の言うところの「私」はあるんですよ。
貴方の言う所の「私」とは?
最高位はロックンロールなんだぉ
わからないものをちゃんと「わからない」というかどうかも重要だな。
たとえば決定論や唯物論はそうしていない。
最高位はわかるものだけを「わかる」とする。
そういう意味で哲学的にはいくぶん誠実な態度だと思うんだけど。
>>87 これこれこういう事例から、「○○であろう」、
という類推も、許されない行為なのかな・・・(´・ω・`)
>>77 最高位の「私」はあくまで精神活動の上での表層意識でしょ。
だからペルソナと言えるし自我とも言えるし主観性とも言える。
文脈次第で如何様にも言えるがあくまで説明できる、つまり記述できる限りの「私」らしきもの。
それを唯識氏は迷いと説いている。
私は生命としての個体の肉体の総合性と仮に説明している。
本質的には非言語ですよ。
そういうのはとりあえず生きている間はあるのだろうとは言えるが死ねばなくなる。
但し眠っていたり意識がなかっただけでは消えたりはしない。
だから最高位の「私」のように赤ん坊や他の動物にはない万物の霊長としての人間主義に
根差す「私」とは異質なんですよ。
そんなものは元々錯覚であり存在しないというのが私の考え。
>>85 つまりじいさんも最高位さんの「私」は元来存在していない。
つまり最高位さんの「私」は後天的に形成されるものである以上その由来が物理的諸条件に
依っているという考えに同意せざるを得ない立場ということですね。
私の「私」は生きているということです。
じいさんの場合、哲学に興味を持つのは結構ですが偏見は拭い去れないにも関わらず
自分の考えは偏見ではなく神の啓示であるに違いないと信仰しているようですね。
>>87 それはその通りなんだが最高位さんの場合は自らの主張する「私」というのが
常にブレているから意図的なんだと思います。
また哲学的という場合、日本人が直観的に抱く感覚とは別に、明瞭性、明晰性、
論理的整合性という、所謂わかりやすさというものが前提条件です。
それを逸脱すれば個人的な宗教か思想としか言えない。
92 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 13:24:32 0
>>87 >たとえば決定論や唯物論はそうしていない。
非決定論も、非唯物論もそうしていないし、
論とよばれる、あらゆる論がそうしていない。
わかるものだけをわかるとするのは、論ではない。
>>92 哲学がなにをしてきたのか知らないようだな。
>>90 :考える名無しさん:
>最高位さんの「私」は後天的に形成されるものである以上その由来が物理的諸条件に依っているという考えに・・・・
なんで???
では先天的なら「その由来が物理的諸条件に依・・・らない」と言いたいのですか?
むしろ「私」が先天的ならそっちのほうが物質由来的じゃあないでしょうか?
>私の「私」は生きているということです。
ぴんとこない表現ですね、確かに必要条件だとは思いますが。
ミミズもカエルも生きてるし「私」の独自性が表現されていない。
>自分の考えは偏見ではなく神の啓示であるに違いないと信仰しているようですね。
なんか正反対に読み間違えてませんか?
一般的な常識として赤ん坊には自我が無い、そうじゃあありませんか皆さん?
>>95 だから最高位の「私」は環境依存なんです。
そんなあやふやなものを原理として承認し得ないし誰にも理解できない。
何故ならそれは単なる個性だからです。
97 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 14:56:29 0
>>22 そこで言われている「思う対象」とは、主観(=思考を巡らす心的システム)のことだと思います。
『オートポイエーシス』読んだほうがいいと思う。
>>95 最高位なら「そんなことはわからない」というだろうよ
それとも「自我は無くても私はあるかもしれない」とでも言うかなw
哲学で常識にうったえてどうするよ。
バカですか?
赤子には自我はありません。主客とは概念です。言語が無ければ無いものです。
言語を獲得していない赤子は主客未分で世界と一体化していると理解されます。
主客が分化していない意識と云うものをわれわれは想像することができません。
そしてそのような脳の内的な動作状態をわれわれは意識とは言わないでしょう。
だから端的に言って、赤子にはわれわれと同様の「自」意識は無いのです。
つまり言語を獲得する以前の赤子には、コギト=超越論的主観は「無い」のです。
仏教が云うところの無我はこれと通底すると言えるでしょう。
黙っている時は?
>>96 :考える名無しさん:
>そんなあやふやなもの・・・・・・・
>何故ならそれは単なる個性だからです。
確かにあやふやなのは確かですね。
しかし「後天的自我」以外に、確からしい「私」と言うのは例示出来ますか?
「私」から個性を取ったら何が残ると言うのですか?
104 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 15:45:56 0
>>98 ちよっと違う。
>>95 のじいさんが言う赤ん坊の自我は最高位なら“自我意識”と
表現するころ。自我=『私』であり、それが
>>96 の言うように環境との関わりを
経て自我意識=心=ペルソナを持つようになる、というのが最高位の主張してきた
ことだ。
最高位が存在性を述べてきたのは、ペルソナでも心でも自我意識でもない。それら
の“寄り代”ともいうべき『私』であり、すなわち最高位の言う自我のことである。
>>97 :考える名無しさん:
>「思う対象」とは、主観(=思考を巡らす心的システム)のことだと思います。
なんか文法的におかしくないですか?
貴方の文法だと「主観(=思考を巡らす心的システム)」が「思う対象」である・・ということで、「対象」が思考していることになるが・・・・?
>『オートポイエーシス』読んだほうがいいと思う。
ググってみると・・・・・・・・
「生命の有機構成 (organization) とは何か」
と言う事らしいんだけれど此処で問題になっているのは「人の主観、自我」であってミミズやカエルの話じゃあない。
>>105 それは哲学の対象にはならないでしょう。
だって個人的な「私」でしかないんだから。
>>104 それなら「我思う故に我有り」は成り立たないぞ。
「思っても思わなくても我有り」だ。根拠はないがなw
>>104 そんな大層で意味不明なもんじゃなくてその場凌ぎじゃないかな。
>>104 :考える名無しさん:
>ペルソナでも心でも自我意識でもない。それらの“寄り代”ともいうべき『私』であり、すなわち最高位の言う自我のことである。
成る程、それは大きな違いですね。
私は
>>101 :考える名無しさん:のようなのが常識だと思ってました。
110 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 16:01:07 0
>>104 それだったら形而上学的主体としての「私」すなわち「自我」で
哲学としては普通の言葉ではないか?
特別に『私』などと表記するまでも無い。
いずれにしろ最後位が自分で『私』を記述すれば済むことだね。
>>106 :考える名無しさん:
>だって個人的な「私」でしかないんだから。
世界は個人的「私」の主客の中にしかない。
外界、他人、世間は全て「客観」に含まれる。
じいさんとかは自我が何よりも先行してあらねばならないという先入観に囚われすぎじゃないかな。
自我なんてものはないわけだから。
明瞭に説明できない何かを仮に自我という呼称を付けて呼んで理解したつもりになるのはいいんだけど
その自我てのは結局心理学でも精神分析でもほぼ探究する対象として仮設された概念でしかないから
把握のされ方がごく流動的なので哲学とは親和性がない(整合性のない概念は排除すべき)。
>>111 そんなものはないよ。
それを仮定すれば主客なんて言葉が発明されない。
最高位の思想は最初に最高位という存在がいて世界は成立している。
つまり他の人たちはプロパティ。
>>112 :考える名無しさん:
>整合性のない概念は排除すべき
そう、だからこの「主客の相対関係」と言う考えが唯一整合性の在る概念なんですよ。
他に良い概念ありますか? 在ったら例示して。
115 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 16:17:54 0
自我に対するウィトゲンシュタインの記述。
「自我は、「世界は私の世界である」と言うことを通して、哲学に
入り込む。哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が
扱うような人間の心でもない。それは形而上学的主体、すなわち
世界の−部分ではなく−限界なのである。」
「思考し表象する主体は存在しない。」
「世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。」
>>114 既に折に触れて親切に何度も言葉を変えて例示していると思いますよ。
恐らくどの哲学者と呼ばれる人もそれは知ってる。
知らないで理屈だけを捏ねていると意味不明なことしか主張できないから。
>>115 :考える名無しさん:
ウィト・・・さんは「自我」と「哲学的自我」は違うと述べている訳でしょう。人間じゃあないと言っているからね。
観念の一人歩きと言うんじゃあないのそういうの?「入り込」んじゃってるからね。
私の言う「主客の相対」と言うのは、実際は「主観と客観(外世界)」の相対的緊張感の事です。
意識ある限り両者の間で激しく情報がフィードバックする訳です。
観念が一人歩きしない様に、客観(外界を認識する事)が現実に引き戻します。
それを又観念化すると言うことの繰り返しが「私」のシステムです。
>>12 >ところで言語の限界というのはそのまま仏教の限界だと思いますが違いますか。
このスレ的にはどうか判りませんが、仏教にとっては結構重要な視点です。
袴谷・松本系は、ことば(言語)の重要性を強く主張していました。(今はどうか知りませんがw)
言語なくして仏教(理解)はない。縁起(や四諦)の理解はない。 と・・。
これと、対になるのが禅であり、或いは維摩経です。(如来蔵や本覚思想もこちら側です。)
(もっとも禅は、不立文字を謳いながら膨大な言葉を残している興味深い流れですが・・・w)
「禅」と、「言葉による仏教」との対立はさておき、(個人的には何も対立していないと感じますがw)、
そうした理解とは又別の、
(双方に共通する)「体験している(し続けている)在り様(特に“自己”)」や
「今まさにココに顕現している在り様・存在(特に“自己”)」や、
「体験そのもの」を、或いは「今ココそのもの」を、
【(言語に依らず(言語への変換を介さず))どのように伝えることができるのか?】は、問題視されていい。
だから、(古の)禅に於いて師匠からは、何かキーワードと共に(或いは無言で)
「俺を見ろ!」的な謂いが為されることになる。或いは「自分をよく見ろ!」と言われることになる。
解説が付加されると「蛇足を加えてしまった・・・」と自嘲される。
そして、2500年前インドに於いて、
『ブッダは、アートマン自体を否定するのでなく(それを換骨奪胎し)、
実存的(?)自己(今まさにありありとココにいる私)として容認したのか?』
『(もし、容認したとして)ブッダがそれを提示した時、どのようであったのか?』
(→やはり、「俺を見ろ!」にならざるを得なかったのか?)
『(容認していないのであれば)それは、いかなる解体のされ方をしたのか?』
また、
『それは、現代で言う“超越的自我”とどのような関係にあるのか?同か、異か?類似か?』
『それとも、2500年前のインド人には、
西洋哲学が見出したような“超越的自我”など夢想だにできなかったのか?』
(→『当たり前のこととして無視されたのか?』、
はたまた
『“日常的自我”の枠を出られなかったのか?』 )
>>104 >寄り代 (依り代、憑代)
という表現は美しいなw
が、
依る方が主なのか、依られる方が主なのか・・・
どちらが主となるかで揉めそうだが・・・w
120 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/08(金) 17:13:56 0
私が記述しますと、「気持ち悪い」です。
その気持ち悪さに耐えている間に
気分が良くなるんじゃないんでしょうか。
121 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 17:15:02 0
>>24 最高位は哲学の文献を読んでないね。
本質存在と現実存在との違いとか、
存在論と認識論の主観・客観概念とか。
主観・客観概念の、語源的な意味の転倒とか。
最高位のは単に思っているから思う主体が存在するとかそういう単純な
話なんじゃね。思うことに対しては絶対に主体が必要だとでも思ってんだろう。
123 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 18:35:52 0
>>119 それは、どちらでもいいのでは。彼は東洋人でしょうから“私”が存在すれば
それが“主”であろうとなかろうと…。
>>115 しかし、それは世界の果ての“視点”であり、主体性が完全に解体されている
わけではなかろう?
>>121 オカルト雑誌にある宗教コラムだろwそこからネットでかじった哲学を少しだけ。
哲学の文献読んだことあるやつなんて
ここにはほとんどいないだろ。
>>117 >>観念の一人歩きと言うんじゃあないのそういうの?「入り込」んじゃってるからね。
「私」という表現は、観念論者によって使用されている術語です。独我論に「入り込」んで
いない方には、理解されたとしても決して共有されない問題でしょう。しかし、哲学の問題
として世間の認知を受けてはいます。一方、あなたの云う「私」のシステムにおける「私」
とは、哲学上のどのような種の問題として提出されているのでしょうか。解りづらいです。
>>117 論点がずれている。
ウィトゲンシュタインが示したのは哲学が見ている世界の中に自我がその一部として存在していない
という自我の置き方の特異性を記述しているだけ。
それに反して自我そのものを世界の一部として捉えようとした場合デカルトのように懐疑論に陥ると
いうこと。
128 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 21:06:00 0
デカルトの「私」もウィトゲンシュタインの「私」も形而上学的主体である
ことは同じでしょう。
デカルトの私も魂だからこの現実世界の私では無い。
>>116 :考える名無しさん:
>既に折に触れて親切に何度も言葉を変えて例示していると思いますよ。
しかし、せっかく貴方の方からコメントしたんだから、もう一度くらい親切に例示してくれてもいいのでは?
>>127 :考える名無しさん:2008/02/08(金) 19:33:53 0
この「哲学が見ている世界」の主語が「哲学」なのがありえない。
当然「自我そのものを世界の一部として捉えよう」も在りえない。この「・・・・捉えよう」の主語が怪しいからだ。
在り得ない事を想定すれば論理的整合性を欠くだろう。
>>126 :考える名無しさん:
>あなたの云う「私」のシステムにおける「私」 ・・・・
何度もくどいくらいに言っているが・・・・
世界は相対的な「主客」の関係である。
「私」の観念の中に見る主観(意識)と見られる客観(外界)がある。
>>130 要するに世界には自分しかいなくて他人には主観なんてものはあろうはずがないということか。
自分から見た右は相手の左、ってことでしょw
で、右でも左でもない、ってのはあり得ない、と。
右でも左でもないってのは、
イコール認識できてないってことで、イコール存在しない、と。
で、認識されたなら、それは、右や左などどこかの位置になる。
そして、確かに言えることは、『自分から見て、「右」だとか「左」である』ということだけ。
“客観的な”右左なぞ無い、と。
133 :
考える名無しさん:2008/02/08(金) 23:39:35 0
>>130 「我思う故に我あり」について何が言いたいのか一言でお願いします。
レスが伸びてよくわからなくなっていますので。
>>132 でも右側通行、左側通行と決めておけば混乱しないわけだから主観の絶対化が必須条件ということか。
>>134 そうだね。
「右側通行しなさい」と決めたところで、
(え〜っと・・・、
自分から見て、この道の右側はこっち側だけど、向こうから来る人にとっては左側になるわけで、
「バカ野郎!左側歩いてんじゃねぇ!」って怒られたらどうしよう・・・
ボク・・どっちを歩いたらいいんだろう・・・・(´;ω;`) )
と悩むようなもんだw
>>129 哲学が主語とはどこにも書いていないし自我を世界の一部として捉えるとも書いてない。
どう解釈したらそうなるの?
137 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/09(土) 01:40:05 0
>>50最高位さん
そういうお答えですと
「私の存在性」と「私の精神、体」の違いは?ということになりますし
また、その私の存在性がどのように関わるのか
説明の必要が生じるのではないですか?
>>136 :考える名無しさん:
>哲学が主語とはどこにも書いていないし・・・
では主語は何??
>自我を世界の一部として捉えるとも書いてない。
[自我そのものを世界の一部として捉えようとした場合デカルトのように]
上記の文章は・・・そう書いてない???
>>131 :考える名無しさん:
>要するに世界には自分しかいなくて他人には主観なんてものはあろうはずがないということか。
判らない人だなあ・・・・・・・・
世界には自分の主観と客観(他人、社会、自然・・・)しかないと言う事。
「他人には主観なんてものはあろう・・」でなくて他人の主観は自分の主観になり得ないと言う事。
これは日常生活で実感できませんか?
>>138 >>115に書かれていない「哲学が主語だ」とか「自我は世界の一部だ」ということを批判しても
書かれていないことなので意味がない。見当外れ。
>>139 世界には主観も客観もないしそういう区別は恣意的に導入しているだけ。
認識主体の限界を説くのであれば主観も客観も不必要。
それらの概念は一人で認識しているか複数人が認識を共有しているかの違いだけ。
つまり量から質への転換に過ぎない。
「世界は主観と客観だけ」というのも文字にすれば客観的な主張であり、それを
正しいと考えるかそう考えないかのどっちか。多数決で決めればいいだけの話で
何らかの別の世界観に対する反論でもなければそこから新たな世界観が展開
できる種のものでもない。シンプルな循環論だから。
認識の限界と、自分以外の他者(自分と同様に思考しているのであろう他者)の存在を
共に前提とするならば、
「世界は、自分の主観と他者の主観だけ」ということになる。
(主観同士のシンクロが、客観と呼ばれたり共同幻想・共同主観と呼ばれたりする)
認識の限界のみが前提とされるなら、
「世界は、自分の主観しかない。自分のフィルターを通したものしか存在しない」。
(どんな外界も、どんな他者の想いも、主観も、自分の主観に於ける類推でしかない)
さて、人が(生物が)、そのような世界で生存を継続することは奇跡に近い。
主観の判断が、たまたま自身の生存を脅かす状況へ導いていない・向かっていないだけ。
いや・・・
自身が生存している、生きているという感覚さえ、
主観に映じた幻覚かもしれん・・・w
>>140 :考える名無しさん:
何か誤解があるんじゃあ? 以下レスをたどると・・・・・・・・・・・・・・・
▼ 127 名前:考える名無しさん
>>117 論点がずれている。
ウィトゲンシュタインが示したのは哲学が見ている世界の中に自我がその一部として存在していない
という自我の置き方の特異性を記述しているだけ。
それに反して自我そのものを世界の一部として捉えようとした場合デカルトのように懐疑論に陥ると
いうこと。
▼ 129 名前:じいさん ◆
>>127 :考える名無しさん:2008/02/08(金) 19:33:53 0
この「哲学が見ている世界」の主語が「哲学」なのがありえない。
当然「自我そのものを世界の一部として捉えよう」も在りえない。この「・・・・捉えよう」の主語が怪しいからだ。
在り得ない事を想定すれば論理的整合性を欠くだろう。
▼ 136 名前:考える名無しさん
>>129 哲学が主語とはどこにも書いていないし自我を世界の一部として捉えるとも書いてない。
どう解釈したらそうなるの?
▼ 138 名前:じいさん ◆
>>136 :考える名無しさん:
>哲学が主語とはどこにも書いていないし・・・では主語は何??
>自我を世界の一部として捉えるとも書いてない。
[自我そのものを世界の一部として捉えようとした場合デカルトのように]
上記の文章は・・・そう書いてない???
▼ 140 名前:考える名無しさん
>>138 >>115に書かれていない「哲学が主語だ」とか「自我は世界の一部だ」ということを批判しても
書かれていないことなので意味がない。見当外れ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上私は
>>127 :考える名無しさん: に反論しているのであって
>>115 は関係ない。
>>133 :考える名無しさん:
>「我思う故に我あり」について何が言いたいのか一言でお願いします。
レスが伸びてよくわからなくなっていますので。
私に聞くより最高位さんの方がいいのでは?
確かにレスが伸びて過去ログになってるでしょう。
私の解釈は・・・確実に曲解していますが
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私」を記述する事は出来ない、ただ考えている「私」が此処に存在している事だけは言える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と言った曲解です。
>>143 >>115に対する
>>117の見当外れな解釈による批判が間違っているぞと指摘されているだけだろ。
>>127に対して反論するなら
>>115に書かれていることをどう解釈してどう理解してどう批判した
つもりになったのかを書けばよいのでは?
「哲学が見ている世界」の主語が哲学なのがありえないという言葉尻を捉えたどうでもいい
揚げ足取りは「哲学」をどう捉えるかが問題で文脈上「哲学する者」と解するのが妥当と
思わなかったのか。
「自我がその一部として捉えよう」もあり得ないという部分は文章の引用が間違っている。
デカルトがそう捉えたのが間違えだと書いてある。
そういう下らん屁理屈じゃなく明瞭に他人にもわかるように書けないものですかね?
書いているご本人であるじいさんも自分の書いていることがしどろもどろしててわけわかんなく
なってない?
>>41 >こういったこと とは?
「感受(≒入力)から、整理された把握に至るまで」の
「認識という領域」に於ける“痛覚(→痛み)”等の位置付け
ということ?
147 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 18:25:25 0
>>141 そういう区別はたしかに恣意的だが、その恣意性を主観と称しているのである。
君の言う“客観的主張”を「正しいと考えるか」それとも間違っているとみなすかは
主観的判断。主観を消去して何かを言明したケースに、まだお目にかかったこと
がない。この主観の起点を最高位は『私』と呼んでいる。
149 :
147:2008/02/09(土) 18:35:50 0
「主観の起点としての私」を想像しているのは誰なんだ?
151 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 18:54:52 0
ソシュール
152 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 18:58:35 0
>>150 それが最高位の言う『私』だが、想像する“主”はさながら【無】として
存在しているかのようだ。
起点とは、数学で言う始点のことかな。
しかし、それが本当に始点であるという客観的証拠がないよね。
また、それが終点であってもよいのに、何故、終点ではなく
始点なのかという論証もない。
まず、それが終点ではなく始点であるという論証をお願いしたい。
155 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 19:13:07 0
両親の元で刷り込まれて育った私,
学校で覚えた事によって,こうやって記述できるようになった私,
友達とふれあって,自分たちのコミュニティを持っている私,
色んな側面があると思う。
でも,未来に対する楽観的な私がいる。
>>147 主観と客観は量的概念で連続だから純然たる主観や純然たる客観なるものは規定できないということ。
これがわかってないと主観とか客観みたいな曖昧な概念を軸に絶対化を行ってわけわからん
ぼやけた議論になるだけだ。
最高位の「私」は本人が自我だと言っているんでそれを尊重しましょうよ。
君の言う「私」というのはどの分野にもない独自の概念らしいがそれはそれで明瞭で誰にでも理解できる
形式で先ず説明する必要があると思います。あーでもないこーでもない俺も知らんがお前が答えろという
のではダメ。
157 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 19:18:21 0
起点ではなく、基点だろ たぶん
この手の議論は、私を始点とするか終点とするか、といった論争のように思える。
159 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 19:34:51 0
き‐てん�【基点】
1 距離や時間を計るとき、もとになる点や場所。2 考えや行動のもととなるところ。
き‐てん�【起点】
物事の始まるところ。特に、鉄道・道路などの出発点。
160 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 19:45:22 0
私がいなくっちゃはじまらねえ。終点なんかしらんよ。
てほざく団塊おやじです。
161 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 19:47:09 0
「私」という自意識が起こるところだから「起点」だろ。
162 :
考える名無しさん:2008/02/09(土) 19:54:51 0
通常、こころ。私のこころ。またしても循環。
基点であり起点である、そういうものだと思います。
基点でなくとも起点たりえるし、
基点であっても起点である必要はない。
両方を併せ持つのが、最高位氏の『私』だと思います。
ちなみに、
「基点」は、認識、思考等、そうした行為の為される場として、
(或いは『それらを為す者として』)その最底を指し、
「起点」は、意志・行為等、変化・動きがあった時のその始まりとして
特に注意が喚起されるべき時に言われるものだろう。
最高位の『私』は決定論が気に食わないからとりあえず書いてる屁理屈だろ。
165 :
147:2008/02/09(土) 20:59:43 0
>>153 だから【無】として、と断っているだろう。むろん、この場合は「ない」ということではなく、
対象を認識している“主”はその対象のなかには存在しえないという当たり前の意味。
>>156 君の「主観と客観は量的概念…云々」が極めて主観的すぎるのか、意味不明。
君以外でその文章の意味がわかるかたがいれば説明してくれないか。だれもいなければ君でもいい。
>>165 主観と客観が量的概念であるというのが主観的とは恐れ入りました。
167 :
147:2008/02/09(土) 21:08:05 0
>>166 「主観と客観が量的概念」というのは君の意見だろう? それとも“客観的真理”なのか?
>>167 別に私の意見ではないですけど哲学書とか読まない?
それとも観念論しか読まない人?
主観客観が量的概念というのは基本認識。
観念論で量的概念を導入すると物質由来ということになり明瞭性に欠けるから観念論では
敢えて主観と客観に特殊な定義付けを行う作業が伴う。
それだけ。
一般的に使用される主観と客観は主観的に美人と思うということと美人コンテストで優勝した人
を美人と呼ぶときの違いのようなもの。
他にもわかりやすい類似の対概念は何種類かあるが面倒だから割愛。基礎だから知ってるのを
前提に議論してるわけです。
>>167 147は断定的に最高位やじいさんの代弁をしているようだが何を根拠に主張しているのだろうか。
こちらとしては狐に摘まれたような不明瞭な言い掛かりを付けられるだけで何が言いたいのかわからん。
じいさんは無教養なせいか議論が矮小化しててその都度ポイントがずれる。
言ってることがコロコロ変わるのは記憶力がないからか。
基点がないからだよ、きっと
173 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 00:40:44 0
>>144 最高位さんの言っている「私」とは意識の働きのようですね。
私は筋が通っていると思いますけど。
意識の働きなんて誰にでもあるのではないですか?
最高位本人が理解してないから説明できないだけなんだよな
もったいぶった挙げ句の果てに意識の働きとか言ったら石が飛んでくるんじゃないかw
177 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/10(日) 01:17:48 0
そこで「私の置き場所」をお聞きしたのですが
お答えはいただけませんでした。
178 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 01:46:00 0
意識というか「私」って、フッサールの超越論的主観や超越論的自我、カント的な自己中心化作用とかのことでしょ。それがなきゃ考えをまとめることもできなければ意見を持つこともできない、そして昨日の自分と今日の自分が同一人物かどうかも解らなってしまいます。
しかし哲学用語って難しいですね。
昨日の自分と今日の自分が同一人物かどうかなんてわからん
10年前の俺は別人だよ。
本当に俺だったのか疑わしいほど俺は化け物のように成長しちまった。
いや退化したのか。
自分は中心というよりも重心て感じなんだよな。
全然中心という感じがしない。
ぼんやりしている中で大体ここらへんに重きを置いてるかなって感じ。
人間て物体を見るときも、中心よりも重心を感じようとするでしょ。
無意識に対象物の次の動きを予測しているから。
自分というのにも、そういう見方をしていると思うんだよなあ。
>>178 カントの観念論上にある形而上学なので哲学用語というよりカント派の解釈だな。
現象学のフッサールは別のアプローチをしているが超越論的主観がフッサールというのは初耳。
>>178 ところでその超越論的主観(カント的主観)は赤ん坊にはないわけだけどどこから
湧いてくるのかを先ず説明しないといけないのではないかな。
それが所謂「置き場所」だと思われるので。
>>145 :考える名無しさん:
>
>>127に対して反論するなら
>>115に書かれていることをどう解釈してどう理解してどう批判した
つもりになったのかを書けばよいのでは?
では
>>127そのものを批判する権利はないとおっしゃる?
>文脈上「哲学する者」と解するのが妥当と思わなかったのか。
ではもっと早くそう言えばいいんじゃあない? 今更と言う感じ。
>デカルトがそう捉えたのが間違えだと書いてある。
そのとおり、その為<当然「自我そのものを世界の一部として捉えよう」も在りえない。>と書いた。
特に判りにくくもないと思いますが・・・。
貴方と違った意味で否定している。
唯ですね、あくまでもデカルトさんがそう捉えたかどうかは知りません。
貴方が「デカルトがそう捉えた」と言う前提に立てば・・と言う事。
185 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 02:25:59 0
>>15 >私を存在せしめるに至った原因は、いかなる因果関係によるのですか
まさにこれが人間にとって最重要の問いではないか?
最高位が聞いてるのは私に関する性質ではなく
存在する原因、つまり宇宙がいつどうなって何がどうなって
物質以外の「私」というモノが発生したのか?
という事だろ。
唯識の言う説明は「私」に対してその性質を述べたり
もしくは定義付けをしてるだけでしょう。
最高位の聞いてる事とは内容が違う。
なぜ、特定の時空における特定の物理現象(この脳)で「この私」が発生するのか?
これを聞いています。
物理現象同士の運動については単なる素粒子同士の因果で説明ついても
「私」というのは素粒子ではないから
物理現象を説明する説明の仕方(脳の変化)では説明になってないんですよ。
これが問題なんですよね。どう思いますかね
例えば「生きている人間」とその人の「死体」を比較してみた場合どこがどう違うのか。
「私」はあるのかないのか。
そういうところから考えればわかりやすいのではありませんか。
ただ難しいのは死んだはずの人間が原因がよくわからないが蘇生するというのはよくあるそうです。
だから医師の死亡診断書が必要なのだけどそれでも十分ではないとか。
わたしたちホモサピエンスとは直径ではない人類ネアンデルタール人は既に死者を埋葬する
風習を獲得していたとか。
>>185 わからないならわからないと素直に言った方が可愛げがあると思いますよんw
ここでは誰も脳依存の「私」なんて言ってないんですから。
>>141 :考える名無しさん:
>認識主体の限界を説くのであれば・・・・・・・
>それらの概念は一人で認識しているか複数人が認識を共有しているかの違いだけ。
この辺もっと判り易く説明してもらえますか?
認識主体の限界があるんでしょう?
それと別の(他人)の認識主体が認識を共有・・と言うと「限界」はどうなるんですか?
素粒子から素粒子でない「この脳」が発生するのは問題じゃないのに、
素粒子から素粒子でない「この私」が発生するのは問題なんですか?
>>188 :考える名無しさん:
>>素粒子から素粒子でない「この脳」が発生するのは問題じゃないのに、
冗談でしょう、生命の発生は大変不思議な大問題じゃあないですか?
他にも色々重大問題山積ですよ、宇宙は。
「この私」なんか細かい問題でしょう、たかだか80年で終わる事だし。
>>187 認識主体の限界は思弁的な限界なので言語で語り得ないものは認識にあがってこないし
他者にも伝達する術がない。
他者に伝達する術がないものには名前がない。
だから認識主体の主観も言語で他者に伝達できる限りにおいては限界とは言わないし
現に主観的な記述は客観的に評価できる形で他者へ示し得る。
それとは別にここでの「私」に関する不明瞭な言い争いの原因は本質的に「客観が主観に
近似し得るか」というテーマを言い換えているに過ぎない。
しかしそういうことを考えるのは無駄。
何故ならば主観(自我と置き換えても良い)ですらごく当たり前に行っている自らの言語活動や
運動機能を察知しておらず正確に制御しているとは言えないから。
だからそれらに関しては誰に対しても語り得ないし他者に対して伝えることもできない。
ただ言語活動と言い、運動機能と呼ぶだけでしかない。
観念論からはそれらがあると単に主張するしかないが一般的に我々は突き詰めればそれらは
ないと言う他無い。
・・・と言えばわからないだろ。
だから名前を呼ぶだけではそれが本質的に理解できているとかは言い得ないとだけ答えておきます。
>>188 :考える名無しさん:
失礼、ニュアンスを取り違えているかも?
>>190 :考える名無しさん:
>だから名前を呼ぶだけではそれが本質的に理解できているとかは言い得ないとだけ答えておきます。
ええええ〜〜っ。
あなたは
>>141 >それらの概念は一人で認識しているか複数人が認識を共有しているかの違いだけ。
と言い切ってますよ、認識を共有していると。
これも貴方は「理解できて」いなくて言い切ったんですか?
>>190 :考える名無しさん:
>言語で語り得ないものは認識にあがってこないし・・・・・他者にも伝達する術がない。
これはちょっと言い過ぎかも・・・でも良く使われるような表現ですが。
さっきTVでコンサートやってましたが、音楽なんか言葉ではないけど認識しますしね。
視覚もそうか・・。
>>194 それらは確かに「音楽」とか「絵画」とかいう名前が付いているでしょ。
じいさんは感情で相手に噛み付いて来るだけであまり意味ある書き込みしないから
良くないと思います。
お友達がほしいだけでしょ?違う?
先ずじいさんは一冊でもいいから哲学書を読め。
話はそれからだ。
>>193 :考える名無しさん:
>わけわからん。
貴方は
>>190 :考える名無しさん: ですか?
>>190 :考える名無しさん:
>だからそれらに関しては誰に対しても語り得ないし他者に対して伝えることもできない。
>>141 >それらの概念は一人で認識しているか複数人が認識を共有しているかの違いだけ。
この二つが矛盾していると言う事です。
「誰に対しても語り得ないし・・・」と言いながら「複数人が認識を共有している」についてははっきりと言い切っているのが不可解です。
199 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/10(日) 03:29:11 0
>>185さん
前スレの一般人さんの貴重な言を借りさせて言わせていただきますと
「他」があるから(認識するから、でもよろしいでしょう)「私」を認識する
ということです。
また発生云々とありますが
前五識(五感)と意識間のフィードバックですから
それは「言語」による作用です。
最高位さんに「私」という言葉を遣わずして「私」を説明してください、
という少々無理な質問もしましたが
これを表現することは難しい
(言い換えれば表層意識の範囲内、五感、意識間であり)
自問自答の合わせ鏡になってしまいます。
>>190 動物に伝達の手段はないのでしょうか?
それと、名付けというのはいったい何に名前を付けたのでしょうか?
201 :
一般人:2008/02/10(日) 03:37:46 O
>>185 「私」は何かを感じることができるから存在している。
「私」は原因に対する副次的結果だと思うよ。
何かを感じとる機能を「私」とよぶなら、私はいます。
>>198 やっぱり理解できていないんですね。
例えば右手を挙げて下さいと言われて右手を挙げようと意識したけどその瞬間右手が
思い通りに動かないで麻痺していたとすると意識と行為のズレが生じますしそれを意識
で、つまり言語的説明で解消し得ないですね。長く右手が動かなかった場合、右手の
動かし方も忘れるかも知れない。その場合、右手はかくかくしかじかのやり方で動かす
んですよと説明しても意味はない。リハビリするとかの別のアプローチが必要。
本人の肉体(主観とここで呼ばれているある種の事態ね)さえもままならないのが
現実なわけです。
こういうのは誰に対しても語り得ないし他者にも当然伝わらない。
だから主観的事態である「私」を意識とするとそれに附随するはずの肉体さえも外部のモノなんです。
これは私には受け入れがたい話なわけです。意識としての「私」は結局、客観化し得る
ものを指してここで議論されているからそもそもそういう言い争いになっているだけだと
私は理解しています。
主観的に正しいとか真理だとか間違いないはずだと思っていることを記述するとそれが
自動的に客観的な真理になるはずだというのは単なる思い込みですよ。
だからじいさんは他人の話をもう少しよく聞き、いろいろな考え方があるというシンプルな
事実を承認した上で議論に参加した方がいい。教えてやるという態度は滑稽。
>>190 :考える名無しさん:
>>195 :考える名無しさん:
音楽は発声(音)機能であると言える。
もし貴方の言う様に「音楽」が名前を持ち、語りうるし認識に上がりうるならば、
運動機能としての「主観」も語りうる事になるでは無いでしょうか。
>>203 話は前後したけど簡単にまとめると、
意識とか主観を絶対化してみたところで明確な限界があるわけですよ。
>>190 動物にも当然あるでしょう。全ての生命にあるとまでは言えないです。
しかしそれはよくわかっていないです。
名前のないひらめきに名前を付けるのはその認識を他者に伝達する為に他ならないと考えます。
言語は発見的に拡張していくものですから。
>>203 その前にじいさんの言う主観とは具体的に何を示しているのかがわからなければ
答えようがありません。
206 :
一般人:2008/02/10(日) 03:54:03 O
哲学に詳しくないから、用語とか分からないから使い方間違ってたらごめんよ。
たださ、一般的に「私」とは魂というか神聖なものととらえられてるのだが、
そんなものではないと思う。
「私」とは影響をうけ、それに規制されながら、考えや行動を出力するにすぎないのだから、
その面では石ころと変わらない。石ころは蹴飛ばされ(原因)、飛んで行く(結果)。
「私」も然り。
>>204 未だ名前の付いていない何かは認識にあがってくるのでしょうか?
という事なのですが。
名前の付いてない何かが認識出来なければ何に名前を付けるというのでしょうか?
>>207 そうね。無名のコンセプトなんてありうるのだろうか?と思ってしまうね。
>>207 例えば誰かが最初にネコを見てその動物をネコと名付ける。
目を瞑って何も見ずにネコが認識に上がってくることはないでしょ。
>>207 抽象的な概念でも考えたものに名前を付けているわけでしょう。
認識が思考に先行していることはあり得ない。
211 :
一般人:2008/02/10(日) 04:24:59 O
210
逆だ。
何かを認識し、思考する。
>>211 それはたまごとにわとりの話に通じるものがあるね。
ただ
>>209と
>>210はセットなのでよく考えたらわかる。
赤ん坊が成長して大人になるのと同じで具体的な名前をある程度無条件に
覚えてから思考はスタートする。
一旦スタートした思考上にひらめいた概念で未だ名前のないものには名前を付けられる。
未だ名前がない、或いは自分はそれを知らないと考えるから名前を付けるわけで
あくまでも思考した結果の認識に何々論とか適当に名前を付けているだけ。
抽象的な概念を思考なくして認識しているという事態はたぶんないでしょう。
だから決して逆とは言えない。逆だと直観してしまう理由は簡単で既存の認識を
元にして思考していると捉えているからであって何らかの新しい抽象的な概念を記述
しようとするときにそのまま説明することも可能だが名前を付けて省略する事も
できるからでしょう。
私が言っているのはあくまで今までに知らない新しい概念を発明したときの話です。
概念の発明と命名はほぼ同義です。
>>202 :考える名無しさん:
話が関係ない方向ですよ。
>例えば右手を・・・・・・・肉体さえも外部のモノなんです。
はいその通りだと思います。しかし・・・
>意識としての「私」は結局、客観化し得るものを指して・・・
これに全然繋がらないんですが?
>主観的に正しいとか真理だとか・・・単なる思い込みですよ。
とんでもない私はその反対の考えです。
他の人と間違えてません?
わたしは主客の相対関係が気に入ってるんですよ?
>いろいろな考え方があるという・・・
だから主観の数だけ世界があるんですよ、色々な考えが在るのは当然でしかもですよ、世界が違うんだから、貴方の言う「共有」は出来ないと言っているんです。
人を説得するなんて出来ないんですよ。・・だから・・
>教えてやるという態度は滑稽。
そんな態度を取ることはないはず。「揚げ足を取る」とはよく言われますがね。正反対でしょ。
214 :
一般人:2008/02/10(日) 04:46:48 O
新しい発明でもヒラメキでも、何よりまず先に認識しなければならない(発明する過程に思考があるが…)。
発明やヒラメキを認識し思考し、さらに思考したものを認識する。
名前のついてない猫(見たことのない猫)は、目を閉じていては頭に思い浮かばない。
認識していないからだ。
目を開け認識する。この時点では猫という名前はついていない。目には、毛むくじゃらの動物として写る。
思考する。名前を考え猫と名付ける。
>>214 その先に認識しなければならないはずの認識は別の言葉で置き換えられなければ
認識できているかどうかは確認できないでしょ。
そこらへん誰でも最初は陥りやすい誤謬なんです。
例えばネコを認識しているというのは様々な動物の中でこれはネコであると識別(区別)
できていないとネコを認識しているとは言わない。
感覚が捉えたネコを世界から切り取ってネコとして認識するには訓練が必要なんです。
216 :
一般人:2008/02/10(日) 05:03:57 O
その認識とは哲学的意味を含んでいるのかな?
俺のいう認識とは、私以外の情報を私が感じとることです。
まず最初に認識しなければ思考する材料がない。
>>212 >赤ん坊が成長して大人になるのと同じで具体的な名前をある程度無条件に
>覚えてから思考はスタートする。
赤ん坊の思考がいつからスタートしているのかなんて分からないと思いますが?
それと、未だ言葉を知らない赤子に何故言葉を教えられるのか。
どこまでを言葉とするのかも難しいところではありますが、
言語野など脳のほんの一部分でしかない事は既に分かっていますよ。
言語野がダメになっても人が思考が出来るのは明らかです。
言語野が脳の片方に偏っているという事実が、
「もう一方」がある事を示しているのではないでしょうか?
>>204 :考える名無しさん:
>意識とか主観を絶対化してみたところで明確な限界があるわけですよ。
名無しは判りにくい・・・・貴方は 190 ですか?
>>195 ?
>>141?
とにかく意味不明。誰かをはっきりさせてください。
>>205 :考える名無しさん:
貴方は 190 ですか?
>>195 ?
>>141?
とにかく203 で使った「主観」は
>>190 >・・・何故ならば主観(自我と置き換えても良い)
での「主観」を差します。
貴方の言葉を反論に使っているわけです。
>>216 例えば幼い子供がイヌを見て「これはネコだ」と言えば傍らの母親が「いいえ、これはイヌよ」と
教える。
こういうことを繰り返さないとネコは認識できないでしょ。
>>213 全体をきちんと読んでないからこういう引用になるんじゃないでしょうか。
逆に主客の相対関係という意味不明なフレーズですがそれは上に解説のあった
右とか左という例でよろしいんでしょうか。
じいさんの話だと他人は説得できないで終わっているわけですね。つまり議論は全くの無駄でしょ。
そもそも他人の考え方なんて知りようもないわけですから。
221 :
一般人:2008/02/10(日) 05:15:35 O
なにか言葉にこだわっているように見えるが、思考には必ずしも言葉は必要としない。
言葉を持たない民族も思考する。
>>217 例えば狼少女を思い浮かべて下さい。
狼としての思考は確かにあるでしょう。
私が言う思考とは四肢の制御等の意識ではどうしようもできないかも知れない思考(言語活動)
を示しています。
言語のない思考は意識活動としてあるとしてもそれを客観的に議論することはできないから
線引きが必要なのです。
>>221 それはよく承知した上で言語活動に限定して仮に思考と呼ぶことにしています。
何故ならこうして言語を通して議論をするときに非言語な思考(そういうのはあります)を
題材にして主観の神秘性を説いたところで詮ないことだからですよ。
非言語に関して議論をするのであればそれは別のスレッドを立てた方がよろしいですね。
非言語と言語の境界は映画「猿の惑星」で最初に言語を話し始める猿の話と同じです。
これも別途解説済みなので割愛しましたがこれ自体はおもしろいです。
で、認識が思考に先行しているという拘りがおありだとお見受けしますが既に述べた通り
抽象的な概念という限定がしてある以上、言語的な思考と認識が前提なのは仕方ない
のでは?
224 :
一般人:2008/02/10(日) 05:25:25 O
>>219 その例ではたしかに、猫と犬の区別はついていないが、猫本体は犬としてではあるが認識している。
母親の言葉を認識し、さらに思考し、その子は間違えをただすだろう。
ただ子供は学習する前から、空腹を(一度も味わったことのない空腹)認識し、泣く。
>>220 :考える名無しさん:
>右とか左という例でよろしいんでしょうか。
違います。
>>38 :じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/08(金) 02:20:34 0
自我とか主観とかを意識すると言う事は・・・・
「私」の内と外の峻別と言う事である。
「私」自身と外界(宇宙)とが対峙していると言う認識である。
そのような状況で「私」の存在性が外界の存在性に依存せざるを得ないという事実がある。
この事を主観と客観は相対的であると言う。
>>222 言語活動が言葉なしに出来ないのは当たり前でしょw
そんな事が言いたかったんですか。
議論もそりゃ言葉がなければ出来ないですね。
でも伝達や認識は別でしょう?
何か混同してませんか?
>>224 空腹とかの先験的な感覚は確かにあります。
ただその感覚を「空腹」と名前を付けるのはその後なんです。
>>225 それが違うのなら全く理解できません>主客の相対関係
>>222 :考える名無しさん:
>>224 :一般人:
横槍ですが一言。
要するに「抽象的な概念」ということなんでしょ。
子供には「うちのタマ」や「隣のミケ」は認識できるけど、抽象的概念の「猫」というのは大分大きくならないと(訓練しないと)理解できないということでしょ。
しかし言語で客観的議論になるとは思えませんが・・・。
>>226 非言語による認識は残念ながら今回は全く想定しておりません。
だから「音楽」や「絵画」という名前に置き換えて認識していると説明したのです。
脳の話が出ましたが例えば「言語野」と言われれば一見脳の言語を司る機能が解明された
かのような錯覚をしてしまいます。
境界線も曖昧であってもだいたい左脳のこの辺りであろうと図示することは可能。
(右脳である場合もある)
このように思考の為に仮に名前を付けることも言語活動です。
>>230 あなたは音楽を相手に伝える時に言葉にして伝える事しかできない人なのですか?
「言語野」のように我々には思考の足場としてどんどん名前を付けていくしかない。
しかしそれは実験により特異な反証が与えられたとき「言語野」はこの位置にあるべき
だからその特異な反証がある人間は人間ではないとは言わないんです。
横槍だが、言葉しかないだろ
>>232 このスレッドでURLでも貼り付けて音楽へのリンクを示しますか。
それなら可能でしょう。
しかしそれはこの議論には何ら関係がないんですよ。
現にあなた自身も「あなたは音楽を相手に伝える時に言葉にして伝える事しかできない人なのですか?」
のように言語でしか反論できないでしょう。その次元での話をしているのです。
>>235 「言葉でしか話せない」の一言で済むものをw
伝達は違いますよ。
意図などせずとも伝わってしまう時がある。
伝わって欲しくない時でさえ伝わってしまう。
>>236 いいえ、伝達も言語によって行われます。
私の言う言語とは例えば何かを指さしたとしてもそれは言語の一種なんです。
指さすという動作はその次元では名前なのですよ。
だから客観の定義を他者に指し示し得る事と限定している。
また主観の限界も明確に示していると思いますよ。
それらが最高位的「私」の根幹らしいからなんです。
それから実は「言葉でしか話せない」というのは不正確なんです。
言葉で「言葉でしか話せない」というのは二階建ての説明で意味がない。
だから敢えて指し示す必要があるわけです。
例えば「言葉でしか話せない」と一言書くと私ならその文脈で明確に反論することができます。
もうおわかりですよね。
ところで最高位の「私」は自我とか意識のことを言っているが
そういう観点から言うと赤ん坊は意識不明でどうしようもないということか。
赤ん坊には「私」がないのは当たり前らしいから当然の帰結としてそうなる。
では赤ん坊はいつ意識を回復するのか。
それが問題だ。
こうして考えると、
根・境・識、&受・想・行・識、(&名色)、
というアプローチが、いかに偉大だったか良くわかる・・・w
そうは思いませんか?w 唯識さん
>>218 >>203の「運動機能としての『主観』」という表現が把握できなかったわけです。
つまり「運動機能としての自我は語り得る」と主張しているわけですね。
しかし前述の通り身体の麻痺を説明(語ること)によって解消し得ないですし、麻痺し
続けたままではそもそも動かし方すら忘れてしまいます。
我々の身体の運動や頭脳の思考というものと自我との関係はたまたま偶然に
問題なく制御できているかに見えているだけのことなのでやはり語り得ないですよ。
主観に関してあーでもないこーでもないというとき結局そんな主観はないんです。
だからそういうものを前提にして存在性を論じることはできません。
じいさんの考えでは何故だか皆目見当も付きませんが赤ん坊やカエルやミミズには
「私」はなくただ成長した人間にのみ備わる神秘的な、霊的な何かが主観なのでしょう。
しかしそれは明瞭に他者へ説明し説得することは無理なのであくまで私的な思想の
範疇に留めておいていただきたいと思います。
思想というのは先入観や偏見でしかないと私は理解しております。
241 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 08:35:13 0
>>180 >いや退化したのか。
普通は「老化」と言うね。
生老病死、これが人生だ。
242 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 08:40:34 0
>>188 >素粒子から素粒子でない「この私」が発生するのは問題なんですか?
現代の自然科学でもその説明がついていないからね。
クオリア問題となっている。
244 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 08:47:38 0
>>190 あなたの「主観・客観」という用語は紛らわしいから
「ノエマ(能与)・ノエシス(所与)」としたほうが
適確な用語ではないか?
>>244 現象学ですか。
私の主観客観は簡単ですよ。
主観が集まれば客観となるだけですから。
そうじゃなくて最高位さんやじいさんの主観や客観が紛らわしいだけでしょう。
私は別に主観を自我だとか「私」だとか言ってないんですよ。
>>241 身長が35pも伸びたのが老化と言えるのか。
247 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 08:55:18 0
>>221 >言葉を持たない民族も思考する。
言葉を持たないヒトがいるのですか?
具体例を挙げてください。
248 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 08:59:02 0
原始ではそうであっただろうな
現在の自己の実在があることにおいてそれは真実だろう
249 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 09:00:49 0
長澤まさみちゃんのマンコのひだを舐めたい♥
原始ではそうであったろうけど亜人類というかネアンデルタール人は埋葬の習慣が
あったしネアンデルタール人もある種の言語を持っていたみたいなこと言われてますね。
そうなると狼少女とか猿の惑星で最初に人語を話した猿を想定する以外にないか。
ま、非言語を強調したところで言語で言語を制限してもあまりおもしろくもないので。
>>246 一体身長どれぐらいですか。
190cm以上だとご愁傷様としか言えない。
私は30歳近くまでじりじり伸びました。20歳のとき182cm。(自称180cm)
最高位さんの「私」は、意識の問題ではなく、
日本語文法に則った「主語としての『私』」ではないでしょうか。
最高位さんの説明によると、
動詞には必ず主語がある
「走る」という動詞だけでは文章にならない
自動車が走る、私が走るなどの主語が必要になる
誰が走るんだ?「私」が走っているのだ
彼によると、そういう事だそうです。
では、私が自転車を漕いで走っている場合、走っているものの主語は?
という質問をされたとき最高位さんは答えに困っていました。
ちなみに意識と「私」の関係を確かめるために、
では「眠る」という動詞の場合「私」はどうなるのか?と最高位さんは
質問されて、
「私」が眠るのだよ
と彼は答えていました。
じゃ、「決定論は正しいと思う」と「私」をくっつければおもしろい。
「生まれる」だとどうなるのか。
主語である「私」が存在していて「生まれる」という動作をするとすると、
「生まれる」の意味と矛盾することになる。
「生む」の受動形で「生まれる」のだとしても、あらかじめ存在していないと
「生む」動作を受動することはできないので、同じことだ。
「私」以外の何にでも言えることだが。
>>252 最高位氏の『存在性』が、文法と密接に繋がっている、というのはその通りだと思います
けれども、(彼にその自覚がなくとも)、それは重要なことなのです。
認識に際し、対象がある時は、それに対峙する“それを「見るもの」(=自)”が生じてしまうのです。
「それ(その「自」)」をどんなに捕まえようとしても、対象化された瞬間、「それ」は「自」でなくなってしまうのです。
まるで「逃げ水」のように、手を伸ばしても伸ばしてもすり抜けていく主体・・・。
また、思考される時、
『(思考するという)行為があるということは「(思考を)為すもの」がいるだろう』というのは、
極々自然な感覚なのです。
ポイントは、その時、
その主体が「確固たる何ものか」であるのか、「不安定で危なげなもの」であるのか、
という考察をそこに加えるかどうかです。
「俺は、そんなにも絶対確実なものとしてあるのだろうか」という自省をするかどうか・・・。
仏教に於いて無常と言われる時、
それは勿論、「自に対する他が無常である」ということなのだが、
もう一つ、決して忘れてはならないことがある。
それは、「自分自身が無常である」ということだ。(そしておそらくこれは、『存在性』にも当てはまる)。
自身が縁起するものであり、自身が無常であるということ、
(2chに限ったことでもないが)仏教関係の書き込みに於いて、
この視点が欠けているもののなんと多いいことか・・・。
256 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 10:46:31 0
>>252 >自動車が走る、私が走るなどの主語が必要になる
「自動車が走る」のではない「走る自動車である」だけ。
「私が走る」のではない「走る私である」だけ。
「私」以外の何にでも言える。「私」は実体として存在しない。
最高位さんは「眠っている」「死んでいる」という現在進行形に
ついて質問されたときも、「私が眠っている、私が死んでいる、だ」
と答えていました。
最高位さんの理論構成は、
「○○しているのは誰なの?この私だろ」
という論理なので、最高位さんの言う『私』とは言語的な私、
つまり、話者自身の人称代名詞としての「私」のことを言っている
と思います。
「死んでいる」は不可解だな。
だとすると、100年前や1億年前や宇宙誕生の時点では
「私は死んでいた」ことになるのか?
「死んでいる私など存在しない、といっても、死んでいると
認識しているのは誰なんだよ? 私だろ!」とは、
いくら最高位でもよもや言うまいw
最高位に「そう思ってるのは誰?この私だろ」って言われても意味不明だし、
「そう思ってるのは誰?」とこっちに尋ねられても、その時にはもう
思ってないから答えようがない。思っていたと思えるけどな。
そもそも、誰?という尋ね方が適切かどうかも不明だし、最高位もうダメポ。
260 :
147:2008/02/10(日) 12:32:09 0
>>245 君の「主観客観」論は君が思い込んでいるほど単純ではないということだ。
>>244 は、そのことを衝いている。君の主客についての言表は、君ふうに言えば
「客観的ではない」ということになる。
じいさんのそれは君には紛らわしいかもしれぬが、そのことを彼は承知している。
全き伝達の不可能性を、彼はどこかで述べていたはずだ。それを踏まえている分、
彼のほうが君よりも常識(基礎)を心得ている。
それから私にとっての美人もミスコンの優勝者も主観的なそれでしかない。優勝した
からといって“客観的な美人”に昇格するわけではない。主観をいくら集めても主観。
前にもにも忠告したけれども、あんな長文を幾度も書き込むのなら、捨てコテでもつけたまえ。
>>242 この脳が発生した事も、この自動車が発生した事も
同様に説明が付いてないですよ?
「この私」だけに限った問題でなく。
それにクオリア問題は「この私」の問題ではありません。
262 :
147:2008/02/10(日) 12:55:32 0
>>256 「走る自動車である」というのは一つの言明である。観測し、認識し、
そう述べたのである(内語も含めて)。観測し認識し言明する“主”を
抜きとったとき、その事態を君はどう表わすのだ?
遺書にでも書き記すかな
264 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 13:17:22 0
>>262 事実命題に認識する主体はいらないということだ。
観測者を予感してもその存在を肯定する術がないな。
主である私は存在するが、捕まえようとすると逃げていく。
それが自意識の構造。
自意識をなくせば、本当の主である私が現れる。
私が私が私の存在性の本質をつかみ取ったどー、
と叫ぶ時、その人は偽物の私をつかまされているのだ。
月の裏側だって同じだと思う
268 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 14:05:56 0
「かぐや」は月の裏側を見てるだろう。
269 :
一般人:2008/02/10(日) 14:17:27 O
>>262 その主を「私」とよぶなら、それはたしかに私である。
この立場にたつなら、究極的に「私」は、認識するという一機能(唯一の機能)にすぎない。
「自転車が走る」も「走る自転車である」も主語+述語なのは一緒じゃないの?
主観がたくさん集まったものが客観というのもよくわからん。
272 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/10(日) 14:27:12 0
>>266さん
そうですね。
実はそれと似たような論法が
「金剛般若経」という経典なんですよ。
一般人さんもそうですが、
このスレには言葉が上手、表現が綺麗な方が多いですね。
>>262 君らしくもない・・w
「自分」以外のもの・事象については、どんな述べ方であろうと構わないだろ?
問題が生じるのは、自分の行為、自分の思考について述べる時だけじゃないのか?
自分を顧みた時だけじゃないのか?
これまでの君の基本立場はそれだった筈だ。
自動車も、それが走っていることも、主観に映じているに過ぎない。
対象の様子を述べるのに、「述べている主体」を省略することは、さほど問題とならない。
いや寧ろ表現の仕方にこだわるなら、「走る自動車である」という言明の方が、
≪私が見ている(知覚している・認識している)≫という状況が暗黙裡に想定・設定され得る。
【「私が見ている」「走る自動車」である】、と。
逆に、「自動車が走る」という言明の方が、
≪私が見ている(知覚している・認識している)≫という状況を、より希薄なものにしている。
主体が隠蔽されている。【「自動車が」「走る」】で完結してしまう。
また、主体を呼び起こしてもバリエーションが生じる。
【「私が見ている」「自動車」】が「走る」 のか、
【「私が見ている」「走る」】という事象は自動車に於いて為されている のか、
【「私が見ている」「自動車が走る」という事象】 なのか・・・。
うはwwwテラ詭弁wwwwwwwwwうぇwwうぇwww
274 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/10(日) 14:42:09 0
私の存在性なんて言ったら、「私以外はホログラム」
で私の存在性が出来ますが客体がなくなりますよ。
>>260 それを認識の誤用とか言葉の間違えというのですよ。
客観的な事実を突き付けられたときにあくまで主観的にはこうなのだと主張することはできるが
その行為はナンセンスなんです。
私に対して何かを教えたいというのであれば少なくともある程度お勉強をして私に何かが
伝わるように書かねばならないはずが私の言説を否定するだけに終始しているということは
私が知っていることを踏まえてない上で君が知りもしない事実を私に問うているということでは
ないですか。
言語戦略なんだと思いますが不毛です。
最高位の「私」は一人称の代名詞としての主語ということですね。
それは何を意味するのか。
それは「私は眠っている」と同時に「私は起きている」とも言えるわけです。
つまり意味するところはこの場合「眠っている私は起きている」か「起きている私は眠っている」
と言うことができる。
これは論理的ではありませんね。
どうしてそのような言い方ができるのか。またそのような言い方を議論の中でしたとして
何か意味があるのかというのが問題なわけです。
代入すべき「私」に何らの制約がない以上、実体のない「私」に対しては単純に、
「私は存在している」と言える変わりに「私は存在していない」とも言えるわけです。
主語としての私を起点にして書く限り平叙文は成立するがそれは代入することによって
矛盾が生じる。つまり場当たり的な対応しかしていないということでしょ。
>>266 それを実存主義の「私」と呼ぶのですよ。
278 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 15:29:57 0
>>182 「超越論的主観性」云々については、1908年頃からカント的用語を使用するようになったようです。
フッサールでは、昨日の対象と今日の対象が同じか異なるかの判断を可能にしたり、時間的に隔たった志向的体験を統一する機能を担っているのが「自我」や「主観性」ということのようですね。
で私の感覚では、「自我」+「主観性」=「私」。
あと255 266の意見に同感です。オートポイエーシスシステム理論でもそうなってると思う(notルーマン)。
>>260 伝達できないことは主観でも客観でもないのです。
そういう妄想は考えなければいい。
見渡す限り私以外には伝達不可能な主観(これは最高位・じいさんの言うところの主観)
を唯一明確に書き表しているでしょ。
仮に「伝達できないことがある」とか「全ては伝達できない」と抽象的な言明をするとき
それが自明ではないのであればその根拠を示す必要があるのではないですか。
想定外だった赤ん坊には私があるのかという問いを私が書いた後でどんどん話題が
変わるし身体の動かし方は説明できないと指摘したらまた後でどんどん話題が変わる。
つまり無軌道に思索を繰り返す内にご自身が具体的に何を示そうとしているのか
わからず迷っているだけなんじゃないかと私には理解できます。
美人コンテストで優勝したら美人と私は考えます。それが主観と違っていてもそれは
全く問題がない。主観と客観の一致は必ずしも必須ではないというのが君の言葉通り
常識ではないですか。それとも主観は絶対化されるべきであり真理であるべきだとでも
主張されているのでしょうか。つまり君は大仰に私に対して忠告やら命令やらをするが
君の主観では私がある意味許すまじき不埒な悪党、つまり嫌いな人間ということで
それを一般化したくてうずうずしている感情に突き動かされて揚げ足でも取っていい
気分になってやろうとそうお考えなのではないですか。もちろんそれは私の主観です。
それに対して君はそんなことは言っていないと答えるでしょう。
目障りに映るのはよくわかります。自分が一番よく理解して知っているはずのことが
悉く単純な例示でこういう考え方もあるよと指摘されると意識していないだけで世の中
には想定外の素朴でわかりやすい着想が隠れていたと驚くからです。
でもね。そういうのに拒絶反応をいちいち起こしていたら先へは進めません。
哲学を素人にも日常言語で深く理解できるような命題というのは無尽蔵にあるのです。
仏教のように弟子としての立場でないと議論できないフィールドではないから。
>>278 その観点でフッサールの主張の核になっているのは皮肉にも時間が即ち根源的能与作用がある
ということです。
282 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 17:04:51 0
だから?
A dog is running.
It is a running dog.
>>271 主観が対立しても第三者が仲裁に入って解消すればそれは客観でございましょ。
何らかの基準を取り決めるのも客観です。
カントのそれらとは全く違います。
形而上学は議論をしても無駄です。何故ならば誰にもそれが正しいかどうかさえ
わからない問題だからですしまたカントと同じ視座に立つということは結局、
「カントならこう考えるであろう」ということを推論しているに過ぎないからです。
基本に立ち返って主観の集まりが客観であるとわかりやすく考えた方が賢明です。
何故ならそうすることによって言語化された主張の真偽や論理整合性を検証し
得るからです。現実というモノサシを用いてね。
現実のモノサシが通用しない観念論(形而上学)は結局、
1.赤ん坊には主観がない。
2.死んだ人間は生きた人間から霊魂が抜け出た状態で不可逆。
3.身体の麻痺はない。
こういうあり得ない結論を導いてしまうのです。
285 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 18:28:10 0
>>189 >「この私」なんか細かい問題でしょう、たかだか80年で終わる事だし。
地球上の60億人以上の「この私」がたかだか80年で終わることになってるの?
ほんとかな?
>>284 主観がたくさん集まったものが客観だってゆう説明はあんまり見ないような気がするからまずはそこを説明してみてよ。
じゃなければそう定義してあるソースとか。
結論が出ない議論が無駄な議論だとは俺は思わない
むしろ、俺は結論がまとまって一つに一致する議論の方が無駄な議論であると考える
288 :
147:2008/02/10(日) 18:38:09 0
>>273 私の言いたいことも、それと同じである。“主”語を日本語では省略するが、
そのことを云々しているわけではない。“主”語を文章作法上、省略できても
“主”は消去できない、と述べているだけ。
貴君も私と同様に早とちりするタイプなので…。
ところで、
>>275 >>276 >>279 は同一人だろう?
この長文の文意を貴君には理解できますか。以前、第二さんを(アジア系の)
外国人だろう?と指摘したことがあったが、この人も外国人では?との疑惑が
湧いてきていまます。
よければ
>>279 の要点をかいつまんで教えていただけますか。
貴君は、素人さんだろう?
289 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 18:51:43 0
>>245 >私の主観客観は簡単ですよ。
>主観が集まれば客観となるだけですから。
じゃ、ノエマ・ノエシスも違うから取り消しだ。
いずれにしろそれは「主観・客観」ではないから何か新しい
造語を自分で定義・使用してください。
290 :
147:2008/02/10(日) 19:12:49 0
>>284 この文章はわかりやすい。君は、
>>279と同一人ですか。
第三者の仲裁を客観とは言わない。それもまた主観。
その第三者の仲裁(主観)に妥協できるかどうか、という話し。どちらかがその
仲裁に“偏向”を感じ納得しなければ、その対立は延々と続く。
君が
>>275 と同一人という前提で述べると、私は「客観的事実」なるものは
言明しえないという立場である。また何度も述べたけれども、どれほど主観
を集めても、客観には至らないとも思っている。
もっとも所詮は言葉の意味の問題なので、もしお国で「客観とは多数を得た
主観」ということなら、それはそれで結構です。
>>289 残念ながらこれが一般的なのですよ。
観念論だの唯物論に偏向するからそういう極端な普遍化が必要になるだけで
基本的に主観と客観は量的概念として同質です。
量から質への転換というのは人間は異質な概念だと錯覚しがちなだけなのですよ。
主観と客観は対立概念であるというのはどっちかに傾倒しちゃった結果出て来た
トンデモなんです。だから現代の哲学者はそれら(唯物論や観念論のように主客
の対立構造を想起する思想闘争的様相)を客観的かつ相対的に議論の場に
下ろすことが可能なのです。
292 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 19:18:51 0
>>141 >「世界は主観と客観だけ」というのも文字にすれば客観的な主張であり、それを正しいと考えるかそう考えないかのどっちか。多数決で決めればいいだけの話で
「文字にすれば客観的な主張」って? 「世界は主観と客観だけ」というのは主客を前提とする客観的視点とかならいいけど、文字って?
また、そこから後がとても奇妙だ…。
これは権威論証との類似性が強い多数論証という誤謬推論の典型例の可能性があると思うけど。
むかしはもっとコテハンが多かったけどなー。
>>290 そのように考える場合には第三者の仲裁というのはそもそも不可能なのですよ。
何故ならば「私」はあるが「私たち」はあり得ないと言っているのと同じだからです。
それと厳密に主観と客観を純化して定義することは無意味です。
私が言っているのは第三者が現れたら自動的に主観同士の対立が解消される
ということではないのです。妥当するか否かの主観的判断というものは客観知に
照らして判断せざるを得ない以上やはり客観になるわけですよ。
ただ我々は自分が考えたとしか思えない事が多いだけのことで基本的には主観
的な知は他の客観的な知の取り込みが事前に用意されていて初めて成立する
わけです。
>>292 例えば唐突にある言説を読んだとする。
それが主観なのか客観なのかを判断する材料はその言説そのものの中にしかない。
そして我々はそれを主観的に読もうとすれば主観的に感想を述べることはできるし、
客観的に読もうとすれば客観的に読むことが可能です。
そして読んだ全員がそれぞれ主観的な感想(評価)しか下さなかったとしてもその感想
がたまたま偶然に似たようなものであった場合、その感想は主観を越えて客観的な
感想と呼ぶことができる。
295 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 19:38:21 0
最高位の「私」について、問題点を指摘しておこう。
彼は
>>36にて「脳全体ではなく、特定の分子構造などの、特定の物理的要素に特定せよ」と述べているが、
この理解が彼の誤解の元となっているようだ。
脳が一つのシステムとしてあり、「私」を仮象、仮想させる機能があって、
自我は脳機能によって引き起こされ、仮想された自我像でしかなく、
感覚による存在感覚が、存在感の所以であって、非実在である。
最高位の主張が奇異なのは、例えば自動車について考えてみれば判る。
自動車をネジ一本に至るまで、バラバラに分解してしまってら、自動車とはならない。
自動車が自動車となって「機能」が現前するのは、部品が組み立てられた後である。
この組み立てられて「機能」が現前する、というのはパソコンでも同様だ。これは「結果報告」ではない。
自我についても同様であって「結果報告」でなく、脳という器官を構成する細胞が集まって、脳の「自我仮想機能」が現前する。
「我思う故に我あり」は誤りで、「脳に機能あり、故に私が脳内器官によって仮象、仮想される」のである。「私」は非実在である。
296 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 19:39:11 0
新陳代謝によって細胞が入れ替わろうとも、脳の機能が失われることがないことは、日々実体験している通りである。
最高位は脳をバラバラに分解して、物理的部品として「私」を示すことを要求しているが、
バラバラに分解しては、機能が失われるのが必然であって、このような理不尽な要求は、不当であると退けられる。
「私」は脳が生む機能であって、状態であるのだから、脳全体を一つの装置として考えなければいけない。
「私」の物理的原因は脳自体にあって、「私」は脳の機能でしかなく、脳の状態として「私」の存在感覚が仮想される。
脳を構成する各部品に分解して、「私」を示すことを要求することが、理不尽であり破綻した非論理的要求でしかない。
もちろん最高位の主張によって、唯物論が崩壊することもない。
唯物論の立場では、「脳という物体に「私」を仮想する機能があり、私は物体である脳の状態でしかない」と定め、
仮象、仮想ゆえに非実在だと否定することもできるし、物体の機能として肯定することもできるからだ。
「私」が個々の細胞によって創発された物理現象である。脳以外に要素がないからだ。
最高位の誤りは、デカルトの精神と身体に分ける二元論同様、「私」が脳から独立した個物存在だと考えた点にある。
機能なのだから分解しても「実体としての私」など発見できないのは当然である。
297 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 19:41:08 0
最高位の述べていることは「私を物理的要素の還元しろ」「我思う故に我ありを否定してみろ」と要求するだけ。
彼は「私はいる」と繰り返し述べているだけだが、理由を示したことは一度もない。
他者に自説の根拠と説明を求めているだけで、自説を自ら説明したことは一度もないし、要求するだけでは主張したことにならない。
理由を他者に求め、説明がなければ、自説が正当化されたと断定する。こんな断定理由が認められる訳がない、不当である。
最高位は「教えてやる、教えてやる」とよく言うが、本当は「認めてほしい、認めてほしい」と
他者に承認を求めているだけなのだ。自分では啓蒙しているつもりでも、自己欺瞞の産物でしかない。
彼の言動は尋常ではない、とても正常な精神状態とは思えない。
彼の病的とまで言える態度を見て、俺は本気で最高位が精神疾患に陥っていると考えている。
どうやら崩壊しているのは、最高位の「私」の方のようだ。
最高位の「私」が崩壊しました。
今すぐに病院へ行ってください。
298 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 19:45:14 0
>>291 >基本的に主観と客観は量的概念として同質です。
それでは主観・客観の意味が通じないね。
勝手に主観・客観と言う用語を誤用してるだけだね。
>>298 その通りで主観とか客観と書いても何ら本質的な議論の進展にはならない。
だからそんなものを絶対視して唯一の拠り所のように祭り上げてあーでもないこーでもない
と議論らしき言葉遊びをしても意味はない。
結局、議論する以前よりバカになろうとしているだけ。
「この考え方は思想ではなく真理なのだ」と主張する思想というのは厄介なものでございます。
しかし宗教とはそういうもの。
301 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 19:57:32 0
>>299 それは言葉の意味も考えないで勝手に言葉を誤用した
議論をすれば無駄でしょうね。
私語は通じないしありえない。
相手に通じて初めて言語となる。
>>295 最高位の議論が間違ってるというのはいいとしてもその批判は的外れでは?
彼の議論は以下のようなもの。
自転車をバラバラに分解した後、個々の部品をコピーしてそのコピーした部品を再度組み立ててもやっぱり「自転車」だよね?
じゃあ「私」はどうだろう(「私」には「この私」が含意されてる)?
脳をバラバラに分解、コピーして再構成したら「私」になるか?
ならないよね。だって「私」はここにいるんだから。
よって「私」は脳の機能でもないし付随する性質でもない。
303 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 20:07:49 0
>>302 >脳をバラバラに分解、コピーして再構成したら「私」になるか?
分解・コピーしなくても脳を持ったものはいっぱいいるだろ。
そしてその各々は「私」と思ってるだろ。
だから「私」と意識することは脳の機能だろ。
>>295-297 最高位の『私』論は、そういう事ではないと思う。
有名な最高位の思考実験という論題がある。
同じ物理要素で作られた肉体が二つ存在して、
片方が『私』、片方が彼になる。
同じ物理要素で作られたのなら、同じ原因であるのだから、
同じ『私』という結果になるはずだ。
しかし、現実はそうならない。
結果は、『私』と彼という別のものになる。
ゆえに唯物論は破壊された。
以上が、最高位の思考実験である。
あなたは、この難問が解けるだろうか?
>>303 > 分解・コピーしなくても脳を持ったものはいっぱいいるだろ。
> そしてその各々は「私」と思ってるだろ。
> だから「私」と意識することは脳の機能だろ。
うん、最高位もそれは否定しないと思うよ。
でもそれらの「私」は結局他人でしょ?
>>302 あなたの遣っている「私(この私)」という言葉の意味は、
「任意のこの時間のこの場所」という時空間内の個的なものを
指しているわけですね。私的な意味ですね。
それはそもそも物質の属性ではないので、
あなたの言い分は出発点から間違っているから論理的な混乱を招いている
のではないでしょうか。
「我歩く故に我あり」
を否定することは原理的に不可能
自分自身で「我歩く故に我あり」が、どうやったって否定できない以上
「あり」と考える以外なかろう
「なし」とか「わからん」としたところで、歩いてるのは紛れもなく『私』なんだからね
それを他人に証明できるかどうかは、また別問題だ
>>306 俺じゃなくて最高位の言い分ね。
で、彼はこう続ける。
これで「私」が物理現象ではない(物質の属性ではない
>>306)ことが証明された。
ここに唯物論は論破された、と。
>>304さんが書いてることだね。
で、こういう論法が間違ってるって指摘はもういいよ。
散々ガイシュツだから。
単に
>>295の論点が最高位の議論においてはトリビアルなことで彼の論法の批判としてはピントがずれてるってことを言ってみただけ。
>>279ですか・・・w
斜め読みしかしてないので何とも・・・(^^;)
それに、だいぶ応答が進んでいるようなので、
どこにどうレスしたらいいのかわかりません。ごめんなさい。
しかし、
やっと、最高位氏の“(論述・掘り下げに於ける)ミス”と“主張の根幹”とが
併せて議論されるようになってきて、なんだか嬉しいですw
>>304 それは単なる詭弁ですよ。
思考実験でも何でもない。
同じ物理要素で作られた肉体というのは一つの存在でしかない。
別の時間に別の場所で作られた肉体は最初から別ものですから。
単純明快。
物理要素から時間や空間を取り除いても同じ結果になるのが唯物論だという無謬な誤解が内在しているだけの話。
>>302氏の「私」という言葉の意味は、
「アイデンティティ」の事を指しているわけですね。
人格における同一性の事を指しているわけですね。
つまり、それそれの人が存在する場合の、
それぞれ時空の異なりの事を指しているわけです。
「私」という言葉にどのような意味を持たせるかという問題であって、
これは、言葉に違うカテゴリーを持ち込んだ論理の混乱のように思います。
314 :
一般人:2008/02/10(日) 20:47:08 O
>>304 同じ条件で二人の人間がつくられたのだから、二つの「私」があるのは当然じゃない?
例え、一方「私」で他方が「彼」では問題はない。
二人の人物か一つの私を共有するはずもないし、共有しなければならない道理もない。
ただ、彼と私の肉体は離れているが、彼と私が厳密に同じ条件で創られ、
厳密に同じ条件で生存するなら、彼と私の性質は全く同じものになると予想する。
塩酸が日本で創られても、アメリカで創られても、異なる場所にあるが同じ性質をもつというイメージに近いのではないだろうか。
315 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 20:47:48 0
>>294 誰が誰だか知らないから勝手に言いますけど、例えば、ミスコンテストなどの投票のパラドクスって知っていますか? 多数派が客観だなんて根拠はまったくないんですよ。
だから「妥協」という言葉が出てくるんでしょうけど。
>>295 >(…)部品が組み立てられた後である。
>この組み立てられて「機能」が現前する、というのはパソコンでも同様だ。これは「結果報告」ではない。
>自我についても同様であって「結果報告」でなく、脳という器官を構成する細胞が集まって、脳の「自我仮想機能」が現前する。
あのー、実際問題として「脳という機関を構成する細胞が」集まらなければ「脳の「自我仮想機能」が現前」しないという結論はどこから出てくるのですか?
脳がなくても「私」を名乗るものはあるかも知れませんよ。w
>>315 そこで、帰納と推論なんじゃないですか?
>>315 投票のパラドックスですか。
実は想定の範囲内です。
しかしミスコンの場合は一斉に投票するわけですよね。
それもご存じの上でおっしゃっているのでしょうか。
客観の根拠は多数派ではありませんよ。複数の主観が根拠です。
多数派を競うのが客観というわけではないのです。客観も複数あるのです。
自明なんですが。
最高位の「私」は唯物論だから観念論が引っ張っても無理という結論が出た模様。
319 :
一般人:2008/02/10(日) 21:02:53 O
最高位、人気ありすぎだろ。
>>315 脳は仮の住まいで霊魂が私かも知れないですね。
そういう観念論的神秘主義も考え方としては有り得るわけです。
ただ関心のない人にはどうでもいいお話です。
脳を解明しようという努力を飛び越えて霊魂を仮定することに異議を唱えられた場合
同様に反論できないでしょ。
「我歩かない故に我あり」
を否定することは原理的に不可能
322 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 22:02:17 0
>>317 私がいっているパラドクスも一斉の投票ですけど?
どこか違うんでしょうかね。
>客観の根拠は多数派ではありませんよ。複数の主観が根拠です。
だから紛らわしいんだな。私は客観の根拠が多数派で決まると主張している人(だから客観は妥協だ)に書いたのですよ。
>>320 結論だけを言っていきますと、私にとっては「我思うゆえに我あり」という推論は自然です。
323 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 22:37:38 0
324 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 22:39:17 0
>>322 >「我思うゆえに我あり」という推論は自然です。
演繹推論としては前提が一つ足りない。
「すべて思うものはある」という大前提が必要だろ。
325 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 22:47:32 0
>>316 機能推論が成り立たない実例がありそう。
演繹推論は前提以上の情報内容を含まない
それゆえに必ず正しいが、空疎である
327 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 22:58:20 0
投票は主権であり主観を知りたいための投票であるから
主観でするに決まってるだろ。買収などされてはいけない。
アンケートなども主観を知りたいためだから客観調査で
あるわけが無い。世論調査は主観の調査だよ。
328 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 23:02:47 0
>>324 演繹推論を可能なものとするためにも「私」が必要なのではないでしょうか?
デカルトは、自分の存在にすら疑いをもつことが逆に自分の存在や機能を確証していると言っているようだから。疑いようのなさが認識や推論の底盤です。
このあたりは現象学に共通しているのかな。
だからここの皆も自分の存在に疑いを持ってないでしょう。
329 :
考える名無しさん:2008/02/10(日) 23:03:57 0
>>327 それは投票のパラドクスとは言わないと思う。
>>322 投票のパラドックスは客観性の根拠を揺るがすことはありませんよ。
前提に主観の順位付けがありそれを選別していくというプロセスにあるから循環するだけです。
主観にも客観にもそれを妥当たらしめる根拠というのはそれ自身にしかないから流行の考え方
が成立するだけです。美人の基準なんてものはないにも関わらず我々は誰が客観的に美人か
ということができてしまうというのはそのまま主観と客観の関係を物語っているとは思いませんか。
少なくとも人間が住んでいる世界だか社会だかの現実に即して表現するのであれば主観それ
自体が客観たり得るし複数の客観が凌ぎ合えば結果は出るんだから問題はない。不平不満は
なくなりません。
現実にミスユニバースで選ばれた美人を私は美人だと感じたことがありません。
あれはスポンサーへの贔屓があったのではないかと疑っております。
でもそれはそれでアリです。
普遍的に妥当する美人の典型なんてものはないんだから。そういうのがあるんだと
言うから観念のみが実在するんだぞという論理のすり替えが必要になる。
美人という名前は空疎でもその中に実際人間は意味も内容もはめ込んでしまう
プロセスを実際に有していることの方が重要です。
早く観念論と唯物論は結婚して子供を作ればいいんじゃないでしょうか。(笑)
>>325 だから、
ブレードランナーやプルートゥ、AIや、エイリアンのアッシュやビショプ等々、
人間でない、人間として作られたものに対して、
もし現実に出くわした時、そんな時代が来た時、
我々はどうすべきか?
が、単なる夢物語でなく、真剣に考えねばならない思考実験になるんじゃないのかな・・・。
それに、325は「脳がなくても「私」を名乗るものがある」という事例のことでしょ。
そうした実例が見られれば、それに合わせて条件が変わるだけ。
それを加えた事例の集積から、新たな条件の中での帰納と推論が為されるだけでしょう?
赤ん坊には意識がない
赤ん坊は眠らない
また赤ん坊は如何なる原因によっても意識不明に陥らない
このスレ的にはこういうトンデモが真なのが現実。
形而上学に根差した観念論を信奉する人達は一見自分たちが賢い存在だと錯覚しがち
だが実はバカだから説明できない度に新しい概念及び概念操作を導入して辻褄を合わせ
ようとしているだけなのです。
それは現実を省みて後付ければいいやという安易な態度。
仏教的には、
時間と空間の実在性について語れ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1192673904/656 こんな感じの問答。
明瞭な理解力の下では不明瞭な無理解は常に滑稽に映っている。
>>256 :考える名無しさん:
>「自動車が走る」のではない「走る自動車である」だけ。
>「私が走る」のではない「走る私である」だけ。
>「私」以外の何にでも言える。「私」は実体として存在しない。
>>264 :考える名無しさん:
>事実命題に認識する主体はいらないということだ。
このような言い方を見ていると、この人は「自他の峻別」の意識がない人なのではないか?と思える。
つまりこの人の中では主観〜客観がアナログのボリュームボタンのように可変的(量的)なんだろう。
だから・・・・・・・・・
>>262 :147:
>「走る自動車である」というのは一つの言明である。
>観測し、認識し、そう述べたのである(内語も含めて)。
>観測し認識し言明する“主”を 抜きとったとき、その事態を君はどう表わすのだ?
この様な問いの答えで・・・・・・・・
>>273 :考える名無しさん:
自動車も、それが走っていることも、主観に映じているに過ぎない。
この「主観に映じているに過ぎない。」と言う過程で彼の中から主観から客観にスライドしてしまうのだろう。
その流れだと「美人が走っている」も客観だし。
「あのこは俺に惚れている」も客観になりうる。
大変危険だと思う。
335 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/11(月) 02:50:38 0
>>256 :考える名無しさん:
>「自動車が走る」のではない「走る自動車である」だけ。
>「私が走る」のではない「走る私である」だけ。
>「私」以外の何にでも言える。「私」は実体として存在しない。
>>264 :考える名無しさん:
>事実命題に認識する主体はいらないということだ。
このような言い方を見ていると、この人は「自他の峻別」の意識がない人なのではないか?と思える。
つまりこの人の中では主観〜客観がアナログのボリュームボタンのように可変的(量的)なんだろう。
だから・・・・・・・・・
>>262 :147:
>「走る自動車である」というのは一つの言明である。
>観測し、認識し、そう述べたのである(内語も含めて)。
>観測し認識し言明する“主”を 抜きとったとき、その事態を君はどう表わすのだ?
この様な問いの答えで・・・・・・・・
>>273 :考える名無しさん:
自動車も、それが走っていることも、主観に映じているに過ぎない。
この「主観に映じているに過ぎない。」と言う過程で彼の中から主観から客観にスライドしてしまうのだろう。
その流れだと「美人が走っている」も客観だし。
「あのこは俺に惚れている」も客観になりうる。
大変危険だと思う。
336 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/11(月) 02:51:13 0
連投すいません。
赤ん坊や犬猫がゾンビだというごく簡単なことが、未だ理解できないでいる
厨学生さんがまだいらっしゃるようですね。いいんですよ、そんなに力まれ
なくたって。その種の投影は、人間が全うに生きていくためにはむしろ必要
ですから。あなたに生まれつき哲学のセンスが無いことを誰が責めましょう。
>>337 そのゾンビの赤ん坊は成長してもゾンビのままなんですよ。
さて困ったね。
論難のつもりが受難になっちゃいました。可哀想に。
ところで私は意識はないし私はないと言ってますので悪しからず。
あるというのならその存在の根拠を先ず示してもらわねば議論にならないですもんね。
339 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 08:41:02 0
>>328 >演繹推論を可能なものとするためにも「私」が必要なのではないでしょうか?
形式論理はコンピュータでも計算できるもっとも普遍的な概念だろう。
演繹論理に「私」はいらない。帰納論理なら「私」の直観が必要だろう。
340 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 08:44:18 0
>>329 投票のパラドクスの問題ではなく、投票が客観と言うのがおかしい、
という意見です。
「私」とは、脳によって仮構された1つの点である、という感じ。
赤ん坊の脳が言語という道具を扱っているうちに、
言語という道具によって身体内に1点を仮構する。
その1点という観念が発生すると
「あ、自分が存在する!」と子供が自我に気がつく。
「私・僕」という観念がまだ無い赤ん坊には、
生物としてホメオスタシスや免疫系の統一的・合目的的な
主体性はあるが、「私」は無いと思う。
とするならば、「主観」と「私」は異なるレベルの概念ではないかと
感じる。
主観は生物学的な色が濃く、「私」は言語的な色が濃いのではないか。
以上は哲学としてはトンデモだと思うが、俺の素朴な世界観としては
そんな印象だ。
342 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 15:14:46 0
>>341 哲学は世界を正確に認識しようとする学問だ。それがトンデモだということは、
あなたの素朴な世界観はトンデモであるということだ。
>>342 意味不明です。
341は単なる個人の世界観。
世界観はキリスト教徒の世界観、アフリカの未開社会人の世界観、
精神病者の世界観といろいろある。
世界観を記述することは、あくまでも世界観の記述だよ。
頑張ってくれ。
意識というのは個人にとってもあったりなかったりする。
その個人の状態に過ぎないから。
そして赤ん坊は泣いたり笑ったりする限り意識があるであろうと推察できる。
個の状態を意識と呼んでいるだけだから
意識が見受けられない状態のときもあれば意識が見受けられる状態のときがあってもいい。
問題は意識という概念を使ったとき恒常的に意識は連続しているはずという物質的な把握を
してしまうとわけわからんということ。
だから私=意識だとか私=自我だとか言う文脈では私はあるとも言えるしないとも言えるけど
実はあるとかないとかそんなの関係なく、具体的にどのような状態なのだと尋ねる以外にない。
そして誰も私=怒りだとか私=憎しみだとかそういう置き換えはレトリックとして以外にはやらない。
同様に私=意識だとか私=自我という置き換えも意味不明な認識の誤用という結論になる。
もっと言えば怒りや憎しみの感情が死ぬまで永遠に続くこともなかろうということは誰でも知っている。
意識が何らかの状態にあることの総称である以上、このようなものがあるとかないとか議論するのは
ナンセンス。
345 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 15:44:16 0
>>343 あなたの世界観は間違いに基づいたものだ。
世界観に正しいも間違いもないと思われ。
347 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 16:16:38 0
>>346 世界観全体については正しいも間違いもないだろう。しかし、その一部
の、見方、意見については間違いがあり得る。
348 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 16:22:35 0
世界観には結局私の世界しかありえないね。
他者の世界は知りえない。
同意。
単に論理的な間違いにすぎないとは思うけど。
350 :
349:2008/02/11(月) 16:26:39 O
351 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 16:32:13 0
>>343 >頑張ってくれ。
遅くなったけどサンクス。
あなたもな。
352 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 18:01:04 0
何故統合失調症が存在するかについては諸説あるが、そう言う遺伝子を
残しておいた方が、種としての進化の上で有利であると言う見方がある
らしい。精神病ほど極端でなくても、個性は強くてコミュニケーション
が苦手であるとか、そう言う人の遺伝子も似たような面があるだろう。
実害については実際的に臨む必要があるが、そう言う視点を持てば、人間
観についても、より大きな視点を持つことができるだろう。
353 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 18:33:50 0
>>302 >>304 >脳をバラバラに分解、コピーして再構成したら「私」になるか?
>ならないよね。だって「私」はここにいるのだから。
君の指摘がまさに、最高位の誤解点を明らかにしているんだよ。
最高位は明言を避けているが、彼のいう「私」とは実体を念頭に置いているんだよ。
だから、「私の存在性は、宇宙の根本問題と等しい」と繰り返し述べている点を重視しなければいけない。
そして、彼の思考実験には重大な誤りがある。実験としての有効性を失っているんだよ。
分解したものを、その部品を使って再構成するというなら、思考実験といえるが、
脳を構成する部品をコピーした時点で、別個になるのは必然であって、
コピーが別個のものを作る行為、という正しい意味で使用せず、事実を無視している。ここに錯誤がある。
特定個人の脳をバラバラにして、本人と異なる人が「だって私はここにいるのだから」というのは誤りだ。
そして、自分の脳を分解した段階で機能が消失し、「私」という自我も消滅することを無視してはいけないだろ。
身体を分解せずに、生きたままコピーしても、コピーした時点で別個の個物となるだろ。
「私」という語を「主観」に置き換えて考えれば、最高位の実験の錯誤が明瞭となる。
「私」と名乗る主観は何人もいるが、個々の主観が個々に別人なのは必然だろう。
別人にしかならない前提から、自分と異なるゆえに「私」は一つしかない、と誤った結論している。
354 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 18:35:08 0
>>304も問題設定自体に誤りがある。同じ物理的要素で作られた肉体が二つあっても、
二つ存在している時点で別個の存在となり、二つの肉体それぞれに「私」と名乗る主観が生じるだけである。
名乗ることはできるが、まさに別々の主観が二つあるというだけである。別人の主観は他人でしかない。
本人と他人、「私」という語を「主観」という語に置き換えれば、最高位の錯誤は明瞭だ。
主観は物質の属性であって、別人の存在者が複数いるだけだ。「私」と名乗る別人だらけということだ。
ハイデガー的にいえば「現存在は世界内存在としてしか存在し得ない」そして、物理的にコピーしても
個々に別個の「世界内存在」となり、人によって異なる「私と名乗る世界内存在」が複数あるにすぎない。
>>308が誤解しているのは、「私の存在性というのは、宇宙の根本問題に等しい問いである
>>40」という
最高位の問題意識を軽視している点にある。まさにこの言明にこそ、彼の真意が表明されているとみるべきだ。
彼の本音は実体を念頭に置いているはずだ。唯物論否定に執着する理由がここにある。
最高位の論題の真意は、霊のような実体を念頭においてるんだよ。
そして、「自分が世界で初めて霊の論証に成功した」と思い込んでいるから誘導的で、論点先取りの
誤謬推理が潜み、問題設定と論理展開に欺瞞性があるんだ。ここには仏教者などの宗教家が多いので、
最高位の誘導的欺瞞性を判ったうえで、心情的に知的欺瞞を許しているのだと思う。
だから、宗教家に哲学するのは無理なんだ。宗教家に知的公正さなど実践できないからな。
最高位ごときになんでそこまで執着するのかわからん・・・w
>>341 哲学は学問か?学問というのは教科書等があるが哲学にそんなものは無いだろう?
お前は五分前はテーブルの上、今は椅子の上にあるペンが同一のものであるかを教科書等を使って考えるとでも?
この脳を二つにしても「私」は「私」だよ。
他人のキミにそれが正しいか間違いかは分からないけどねw
358 :
147:2008/02/11(月) 19:37:02 0
>>295〜
>>297 最高位に対するまとまった批判である。最後に「今すぐ病院にいってください」
などと言わずもがなのことを宣わなければよかったのだが…。
>>302 が最高位ふうな立場から反論しているので、別の観点から。
「脳はシステムである」 これはいいとしょう。この脳システムが「『私』を仮象、
仮想させる機能を有している」というのが貴君の主張の骨子だ。つまり『私』を
脳機能に回収する、ここでは幾度も唱えられた見解である。そして貴君はこう
結論づける。「『私』は非実在である」
では、お聴きするする。その貴君の言う「機能」は実在するの? これに答えて
くれたら、次の質問をする。
じいさんの主張と似ているが、結論はかなり違うようだ。
359 :
147:2008/02/11(月) 20:14:08 0
>>355 たぶん君よりも“大物”だからではないか。“大物”指数は話題になる回数。
>>353 終わりの三行はおかしくないかい? 「個々の主観が個々に別人なのは必然」
であるのなら、私が他とは異なるゆえに「『私』は一つしかない」と思うのは
当然の結論では?
脳の話に取り込まれたらミイラ取りがミイラになる。
脳なの感じないのだから。
147って自身満々のアホではなかろうか。
>“大物”指数は話題になる回数
なかなか釣りがお上手なようで
「我思う故に我在り」では方法として
幾つ在るかには言及出来ないだろう。
ただ確かに「在る」とだけしか言ってないのだから。
364 :
素人:2008/02/11(月) 20:39:28 0
>>304 あなたの考えを聞かせて欲しいのだけれど、
その理屈で、ある他人と全く物理的に同じ要素の肉体を作ったら、
まったく同じ他人が二人になると思う?
以前、最高位にこれを尋ねたら、
本人にとっての別々の「私」があるじゃないかと答えたのだが、
これは答えにはなっておらず、
第三者からはどちらもまったく同じ人(他人)でしかないのだが。
なんかわかりづらい日本語だな。
最高位の理屈だと
私を二人作ることはできなくとも
まったく同じ他人は何人でも出来る事になってしまうのだけれど。
私と物理的にまったく同じ肉体を作ってもそれは他人になるという。
では、さらにもう一つ作ったらどうなるのか?
理屈上、私とまったく同じ物理要素の「他人」が二人になるわけだ。
「私をコピーした他人その1」と「私をコピーした他人その2」
最高位の言う「私」ではこの二人の他人をどうやっても区別出来ないということ。
要するに問題になるのは複製人間が無数に出来てもそれらが共通の記憶を持っているということだろ。
それは結局一卵性の双子以上が成長するに従って違う記憶を刻んでいくのと同じで問題なかろ。
記憶上の経験も全て含めてそれが唯一無二の魂なのだというのは単なる信仰であり
論証の対象じゃないてことだな。
>>369 一卵性双生児は物理的全く同じ要素を持ってないよ。
>>371 遺伝子は同じだぞ。
一つの卵子に二つ以上の精子が着床する確率は確かに非常に少ないが原理的には有り得るのだが
実例は今のところない。
これは割と最近の医学誌に出てたんじゃないか。
本物、コピー1、コピー2。
たまに産まれる三つ子と変わらん。双子から三つ子になっただけ。
何でいちいち面倒な考え方をするんだ。
最高位の思考実験なんつー出来損ないのクイズも現実の一卵性双生児で
考えればいいのに、アホみたいなSF話でもったい付けて。
そんなもんで騙されないぞ。
そもそも私の知る限りでは人間というのは、
個々人全て、物理的要素がそれぞれ異なっていると思うから、
今いる人間は類例にはならないと思う。
全く同じ物理要素の人間が二人になるという事は
歴史上まったく前例のない事だから、どうなるのか予想も付かないw
>>372 >遺伝子は同じだぞ。
「物理的に全く同じ」ではないよw
というか人間に限らず、
全く同じ物理的要素を二つ作れたという話を知らないし、
作れるという理論も知らないw
>>374 全く同じ条件ということを前提に議論しているのにお前が同じということはありえないと
思うだけで終わってどうする?w
377 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 21:25:27 0
322さんの「脳を解明しようという努力を飛び越えて霊魂を仮定することに異議を唱えられた場合同様に反論できないでしょ。」
の意見からの単なる思い付きですが、唯物論者はパトナム(だったか?)の<培養層の中の脳>のような懐疑論にはどのような態度をとるのが一般的なんでしょうかね?
自分の思考が培養層の中の脳の思考(≒錯覚)であっても、脳は物質だからってことで、この思考実験を自説の補強に使ったりするのかなぁ? なんて・・・
私のレスは一貫性がないのであまり気にしないように。
しかしこうなると「私」の指示対象から肉体が完全に排除されるというか。
というかはっきり言って、何をもって「私」が批判されているのかよく解らないんですよ。w
人間の肉体は絶えず情報を入力して変化しているんだから、
同じ肉体になるはずがない。
入力情報がそれぞれの肉体で違うんだからな。
最高位の戯言では「私」が単に分裂するだけだろ。
最高位にとっては「私」が分裂するのは都合が悪いのかも知れんがそれは致し方ない。
>>378 そうなると今の「私」は一時間前の「私」とか一時間後の「私」とは違うわけだ。
こういう考え方もちと無理があるんじゃないか。
381 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 21:37:04 0
最高位の「私」をミジンコに移植(入れ替えて)して実験してみたい。
382 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 21:38:11 0
物理的に同じ要素なんて何の意味もないじゃん。
「私」の体は日々物理的には変わっている。
物理的に違っても同じ「私」だろ。
>>377 唯物論者一般の反応ってないんじゃない?
桶の中の脳の想定が唯物論と不整合を起こす点も特にないだろうし。
今いる一卵性双生児を、厳密に化学組成を同一にしてみる。
そんな事をやってみたからって、だから何?って感じだな。
入力情報も全く同じなら、当然、二人とも同じ事を
考え同じ事を感じているだろうな。
だから何なんだ。それでどうやって唯物論を破壊するの馬鹿馬鹿しい。
>>376 あり得ない前提を持ち出されても、議論のしようがないと思うが。
唯物論と観念論てのは結婚して子供を作れればそれでいいんじゃないのか。
どっちも極論を語ればわけわからん思考実験(1950年代以降はずっとこの調子)なのは
哲学てのが死滅したか瀕死の重傷を負ったからなんだろな。
>>385 その言葉を最高位に言って反論が返ってくればいいんだがなw
>>376 ありえないとは言ってないよ。
人為的には不可能としか思えないけどw
確認の方法もないし。
>>373 三つ子は本物1人とコピー2人じゃないよw
誰から(当人以外から)見ても本物1人×3。
3人にそれぞれ別の名前が与えられる。
「私」なんかとは別の何かしらの「違い」があるんだよ。
「私」と「他人」の違いではなく
「他人」と「他人」としての何かしらの「違い」が必ずあるという事。
全く同じ条件の人間が二人以上いるなんてありえないし意味もないので、
最高位の主張も無意味なんだけど、本人が理解できてないからなぁ。
昔「電送人間」とかいう映画があった。
最近ではフライとか。
>>390 そりゃアイデンティティとしての私じゃなかろうかと。
ところでこれまでの議論で無謬に前提となっている記憶は物質に依存しているというのはOK?
同じ人間を何らかの超現実的な方法で複製したとして記憶も同じとかは議論にならないの?
例えば同じ帯域を使ったラジコンカーが2台に1つのコントローラー。
395 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 22:44:40 0
記憶は物質に記録する以外ないだろ。
脳内の記憶も同じだね。ニューロンの可塑性で記憶されるんだろ。
じゃ記憶が脳という物質に記録されているということには観念論でも依存がないんだ?
観念論も進歩したなと感慨無量。
ただ実は具体的には記憶のメカニズムはよくわかっていないんだ。
ということは哲学は先端生理学を越えているということか。
実にすばらしい。
398 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 22:53:08 0
観念などの表象やクオリアが物理的に何で出来てるのかは
判っていないね。記憶も再生して初めて表象となるのだろう。
表象が記憶されてるわけではない。
色は光の波長の違い、音の高さは周波数の違いのように表象や
クオリアが物理量の何で示されるのかがわかっていない。
最高位は、よりによって何でこの私でなければいけないのだ?という、
私という存在の偶然性、私が何故か存在してしまった不可思議性の事を
言いたいのだろうな。
彼は独我論者だからこの問いが解けないのだ。
彼が独我論者である限りにおいて哲学板が無くなっても、
一生この問いを発し続けるだろう。かわいそうな最高位。
そりゃ問いじゃなくてミステリーだ
人間から神秘主義は消えないけどそれを論じてもあんまり意味がない。
神秘主義から合理主義を批判しても水と油なのに唯物論と観念論の争いは
現代に於いて一気に神秘主義を媒介しての進学論争へ突入ってことか。
ご愁傷様です>哲学
>>399 そうだね。
「何でこの私なのだ?」と対になるのは他人ではなくて、
「何でこの世界なのだ?」だね。
403 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 23:12:05 0
史的唯物論にしろ機械的唯物論にしろほとんどの
唯物論は観念論的唯物論だね。
科学的唯物論は物理学の理論くらいのものだ。
404 :
1/3:2008/02/11(月) 23:15:24 0
>>344 大変興味深いレスですねw
前半3段については、
それらのもう一つ奥に仄見える「主体としての(≒自我・私としての)存在」を
最高位氏は示したいのだろうと感じています。
また、4段目には同意しておきます。
特に、 >具体的にどのような状態なのだと尋ねる以外にない。
に関してはまさにその通りで、その状態に対する評価次第で(→解釈の際の条件次第で)
ある・ない、と裁定されることになる。
5段目1行目は、考察の手段としてはアリではなかろうか。
実際それに近い状況はある。紙芝居を凝視する子供たち。或いは、
幼稚園や保育園へ預けられる時、母親との別れが寂しくて泣き叫ぶ子。
或いは、ミルクを欲して泣き出す赤子。それらはそれぞれ、
「物語」「寂しさ或いは不安」「空腹」onlyではなかろうか・・。
転んで泣く子。痛みも驚きも、とうに去ってしまっていても泣き続ける・・。
もはや自分でも、なぜ泣くのかさえわからないだろう。
そこにあるのは「泣く」という行為のみだろう。
単に転んだだけでなく、それなりの高さからガクンと落ちた子などは、もう、
暫くの間「驚き」で一杯だろう。
禅では、よく「一枚になる」という表現がなされる。それは、形式的には上記のような状態に近い。
ただ、偶然或いは無意識理ではなく、自身を自らそういう状態へと向けるという自発的な一致を言う。
悲しい時は悲しみと一枚になる。楽しい時は楽しみと一枚になる。痛い時は痛みと一枚になる。
「三昧」という表現もほぼ同様だろう。掃除をしている時は掃除三昧、食事の時は食事三昧、
排便中は排便三昧、2chする時は2ch三昧w
これを哲学的に言うなら、主客の合一・解消・一致ということにでもなるんだろうか・・・。
405 :
2/3:2008/02/11(月) 23:16:57 0
>>344 5段目1行目
主客の一致で、また子供の話に戻るなら、
母親に怒られている子供が、怒っている母親にしがみつこうとすることはよくある。
なぜか?それはおそらく、無意識理に主客の解消が求められるからではないか?
怒っている母親、怒られている私・・・。
主客の別を、まざまざと突きつけられる瞬間・・・。
この、怒られてる悲しい状況から抜けたい!怒られるのは嫌!
そんな想いが、母親にしがみつかせるのではないか・・。
勿論、物理的に合体することは不可能だが、全てを一致させるその方向性で、
今置かれている、この嫌悪すべき状況から抜け出すために採られる手立てとして・・・。
大人の場合、或いは分別がついてきた場合、選択される行為は
思考・身体的行為双方含めて「(その場からの)逃避」ということになるのだろう。
(――もしそうなら、いつからそうなるのか?!)
もしかして、人間のセックスも、「愛しいあの人との合一」が、奥底では求められているのかもしれない・・。
ところで、主客の別は、何に由来するのだろうか・・・?
いずれにしろ、そのレトリックを「自己を掘り下げる手段」として評価するなら
(現に禅宗に於いては、手段の一つとして用いられている)、
『人は(人の心は)、一瞬一瞬、或る一つの事柄で占められている』というアイデアも、
まんざら捨てたもんでもないんじゃないかな。
試しに、一度に二つ以上の事柄を思考してみるといい。(ちなみに私は成功したことがないw)
406 :
3/3:2008/02/11(月) 23:18:35 0
>>344 5段目2行目は、誤用というよりも、日常生活を送るにあたって都合がいいからじゃないかな。
便宜上そのように見做す方が様々な場面で有効である、という有用性から発しているんじゃないかな。
それは、翻って言えば、
『そのように見做して他者と接しなければ(→「他者の意識・心」と「他者全体」を統合して応対しなければ)
相手を(暫定的にすら)見据えられない』 ということであり、
そしてそれが自身についても応用されている、と。
(或いは逆か? 自身についての「見做し」が他者にも応用されている、と・・・。)
我々は通常、「私」「彼」「貴方」等のラベルで以て『総体としての存在』を認識し受け入れる。
会話の文脈に於いて、それら代名詞の示す範囲は広がったり狭まったりする。
だから、 >私=意識だとか私=自我という置き換え は、
余計な思索、情報処理を省く為に大変有効なテクニックだとも言えるのではなかろうか。
6段目はその通りですね。そしてまた、膨らんだり萎んだりする風船のように
その強弱、程度も、一瞬一瞬変化し続けているでしょう。
怒りや悲しみに満たされていても、時折は、ふっと安らぐ時もあるでしょう。
7段目は、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1198984828/758 に於いて例示されているようなものについて『ある・ない』の線引き・分類をする時と同じように、
条件次第で変わるのではないでしょうか。だとしたなら、
その条件を考察してみるのは、そんなに無意味なことでもないように思われますw
407 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 23:20:46 0
私を機能に置き換えてもそれは単なる言い換えでしかない。
だって現に私は私なんだもん。
>>406 それは正確には「ある状態にある」という意味を「ある」に含めているということではないかと考えている。
日常会話で私=自我とか意識と置き換えること自体は不自然ではないけど哲学ではもっと
明瞭に記述しないと混乱するんじゃないかと思ったわけです。
英語だと現在分詞や過去分詞なんかが「ある状態にある」
>>408 その通りだと思います。
そうした、「次元の違い」「階層の違い」「領域の違い」(何と言ったらいいのか判りませんがw)
等の区別を踏まえて、最高位氏には言葉を重ねてほしかったのです。
意識はつねに何者かについての意識である
そんで問題は「ある状態にある」ということはその実体というものも「ある」んじゃなかろうかという
理屈が正しいかどうかに集約されるわけだけど、
仮にそれを「自我」だとか「意識」だとかいうわけわからん抽象的な概念で示したとして
脳とか物質にそんな機能があるんじゃなかろうかと推測する以外にはない。
つまり人間は何だか得体の知れないものに単に名前を付けることによってあたかもその実体が
実際に存在していてそれを探究しているのだという錯覚に陥りやすい。
それを私は「哲学の常識化」と仮に読んでます。悪くはないんだけど専門的でも門外漢としても
究極的にはわからないとしか言えない。
そういう常識化が科学を信仰の対象にしてしまっているのが滑稽では「ある」です。
>>411 例えば「なんとなくイライラしている」その原因て特定するのが難しい。
>>407 現に私は私なんだもん
という意味の私であるならば、
最高位の言う「思考実験の私」は、
その意味での私ではないと言えるだろう。
思考実験「もし私が〜だったとしたら…」
をしているのが現に私なのだ。
私は思考実験の通りでは絶対に在り得ない。
415 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/12(火) 00:04:01 0
最高位さんの私の存在理論の残念なところは
「唯物論を否定するためだけの理論」
「私(という言葉)に固執」
だと思います。
物理的身体との関わりを「説明できない」とされたのが
最大の誤りだと思います。
最高位が固執しているのは、
自分で発見した時の感動なのだと思う。
だからデカルトに嫉妬するのか。合点がいった。
最高位の思考実験を思いついた時に、彼は悟りにも似た感動を感じたらしいな。
その時の感動の記憶が脳に刻み突いて抜けられないのだと思う。
白隠禅師は、
これだ!どうです!と提示する度に、
師匠や先輩からダメ出し喰らったらしいよw
2ちゃんねるでダメダシ喰らうと凹むんだろな
最高位氏は何を「発見」したの?
>例えば「なんとなくイライラしている」その原因て特定するのが難しい。
意識する対象が定まらないから、とか???
>>421 >最高位氏は何を「発見」したの?
自分の考えていた「マイ唯物論」は間違っていた事
423 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 02:04:22 0
>>407 置き換えることと言い換えることは違うと思うよ。
少し問題を整理してみます。最高位さん、以前にChalmersの話をされてましたよね。
Chalmersの主張は「仮に脳の情報処理の仕組み(意識の機能的な側面)が解明された
としても、いかにしてクオリアや感情と言った意識の内面性(こころ)が生じるのかは
説明できない」というものでした。そして科学的に解明が可能な前者を「意識の易問
(easy problem)」と呼び、解明が困難な後者を「意識の難問(hard problem)」と区別した
のでしたね。そしてChalmersのこの主張を受けたあるAI学者が、たとえ「意識の難問」
が解決されたとしても、「その意識の内面を現に経験しているのはいったい誰なのか」
という更なる問い立てをしたわけです。これが「意識の超難問(harder problem)」でした。
さて、そこで最高位さん。あなたは
>>56 で、
>>『この個』が、なんで『私』なのか
>>その原因性を、物理的要素で説明せよと言ってるんだよ
と仰っています。つまりあなたは、単純に「唯物論者は『難問』に答えられないだろ?」
と主張されているのではなく、「『超難問』におけるこの『私』を科学的に説明せよ」と
要求されているわけです。これは確かに驚くべきことで、いわゆる「独在論」の「私」と
少なからず通底する「超難問」の「私」にまで科学的根拠を問うた人を私は知りません。
しかし、最高位さん自身が、はたしてそのことを自覚されていたかは、大変に疑問です。
あなたは脳(物質)と心(=コギト・超越論的主観)という二元的な問題を軽々と飛び越して、
哲学的自我とか形而上学的主体などと通底する「私」の存在性を科学的に説明せよと、
物理帝国主義者を嘲っているのだと私は言いました。それはとても驚くべきことだとも。
こういう皮肉っぽい嫌らしい言い方をすれば何を言いたいのか、もうお分かりでしょう?
そう−あなたの問い立ては、なるほど斬新なものですが、しかし、同時にそれはとても
ナンセンスな問なのです。だからこそ誰も問わなかったと言っても過言ではありません。
物理学はもちろん、認知科学も哲学も、あるいは仏教も、あなたを上手に言いくるめる
ことはできません。それはあなたの問が、明らかに段階的なズレを含んでいるからなの
です。だから最高位さん、もしあなたの「悟り」の核心が「超難問」的な「私」にあるのなら、
もう唯物論を嘲るような非生産的な挑発はお止めになり、あなた自身の哲学的な関心の
方向を言語や存在論的な独我論へと舵を切られることを、勝手ながら強くお勧めします。
−もっとも、あなたがサービス精神から、われわれを釣っているのでなければ、ですが。
426 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 08:29:49 0
>意識はつねに何者かについての意識である
「何者か」は意識の対象、すなわち客観だね。
意識はつねに客観である、ということかな?
427 :
147:2008/02/12(火) 09:46:34 0
>>425 最高位の“嘲り”が必ずしもナンセンスとは思えない。もともと彼の矛先は
唯物論原理主義とも言うべき“機械的唯物論”に向けられていたからだ。
機械氏のそれは「一切は“物質”に還元できる」というもの。それに対して
彼は「では『この私』を物理的要素に分解・特定してみろ」との問いを投げ
かけたのである。
貴兄の挙げている「超越論的主観」なるものも、機械氏に言わせれば物質の
様態である。ならば、それが「どのような物理現象か」との疑問は非生産的
どころか、問われるべきテーマだろう?
貴兄がいみじくも述べた“物理帝国主義”に直截的に言及すべきかどうかは
別として、それを視野に入れない言述こそ戯言のそしりを免れまい。
>>427 問い方が変えられるべきだ、と言うのだろ?w
ABCと、明らかにジャンルの(領域の)異なる視座があったとしたら、
それぞれの土俵に於いてふさわしい問い方がなされるべきだろう。
Cの領域を突き詰めるのにAという領域のものを持ってきても使用に難儀するだろう。
言っている意味は解るよね?
429 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 09:55:23 0
>>426 >意識はつねに客観である、ということかな?
これも「皮肉っぽい嫌らしい言い方」ですねぇ。
自己言及的に客観視(対象化)することはあっても、自分の意識が客観な訳ないでしょう。
映画のスクリーンで言えば、そのスクリーン自体は(撮影する人がいないので)映せないみたいな感じ。
そして意識の本体?=スクリーンは作用のようなものだと思うから、記述しようとすれば同語反復的にならざるを得ないんじゃないですかね。
「我思うゆえに我あり」みたいに。
430 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 10:16:49 0
>>429 反省はサルでも出来る、とは言われるけど、反省は自己を
対象とする自己言及ですね。
意識も自我意識は自己の意識を対象とする高次の意識ではないかな。
もちろん、意識に対してメタ意識、そのメタ意識のメタメタ意識・・・
とすれば最後はメタメタになるだろう。
「思う我」と「ある我」の次元が別であるように。
431 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 10:25:34 0
>>429 映画で言えば、フィルムの方じゃないか?
フィルム自身は映写されることがない、と。
432 :
147:2008/02/12(火) 10:26:23 0
>>428 貴君の問題意識は精緻めかしてはいるが、常に最高位のそれとはスレ違ってきた。
その理由は、貴君のレスに沿って揚げ足とりふうに言えば、最高位がその視座の
個々の違いに興味を持っていないから、というに尽きる。
貴君はいつもその階層を問題にしてきた。しかし最高位の問題意識は、どのように
階層化・差異化するかでも、あるいはその内訳でもなく、階層化・差異化する“起点”
の意味である。たぶん、それは不可知である。彼も「ただ存在する」としか言って
いない。
>>432 要するに、
最高位氏は「立ち止まり、そこへ腰を下ろす」ことを選び、
私は「重くて動かない足を引きずりながらも前へ進みたい」、
(少なくとも、「腰を下ろすのは此処ではない」)と考えている、
という対比になるわけですねw
自己言及は恥ずかしいわwww
もし「私」が起点的なものの話であるなら、唯物論を否定すんのは変じゃね。
赤ん坊が十年後の自分について言及してるみたいな感じ。
>>432 >彼も「ただ存在する」としか言っていない。
それは好意的に解釈しすぎじゃないかな。
彼のご都合で度々越境してくるよ。
427
「わたし」なんか使わなくても、数学すら物質に還元できない
心なんてあやふやなものを議論にのせる必要はない
私は唯一であり私を起点とするという思想も、
そういう文体で考えを紙に書いてみようというだけだからな。
それが真理かどうかは分からないね。
唯識ってこんなに激しい人だったか?
人間の理性は物事の本質を認識できないということでしょう。
それが意識という概念に向けられたから特殊な事態に陥っているわけではない。
440 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/12(火) 15:11:13 0
>>429 :考える名無しさん:
全くの横レスですが・・・・・・
>自己言及的に客観視(対象化)することはあっても・・・・
この判りやすい例が本来の客観の使い方だと思います。
この使い方が行き過ぎると「客観的視点」とか「客観性」とかの言葉に流用されるわけです。
もともとは「主客」の相対関係が基本です。
そうして主観が何者か(客観)を観る時に、その観る対象(客観)の視点に立った見方を意識的にする(まさしく自己言及的に)場合に、「客観的視点」という表現になるわけです。
ところがこの「客観的」という表現だけが一人歩きして、主観から出発した事が忘れられると、客観性と言うものがあたかも第三者的に存在するかのごとき誤謬に陥るわけです。
ですから客観的発言と言うときは、あくまでも当人(主観)の発言の範囲内で「客観的発言」がありうるわけです。第三者が発言してもそれはあくまでも他人(第三者)の発言であって、それを客観的(発言)というのは言葉の誤用です。
例えば客観報道とか(中立的報道の間違え?)、客観的事実とか(普遍的事実の間違え?)・・・・。
挙句のはてに「主観が集まると客観になる」と言ったとんでも発言となる。
441 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 16:28:12 0
きょうnhk23:00の日本の教養で脳を創る男ってやるらしいよ。
PC関係だと思うけど。
442 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 16:32:32 0
>フィルム自身は映写されることがない、と。
スクリーンがカメラでもいいと思いました。
AIロボットカメラみたいな。w
>>440 主観と客観が内包し合っていて実は客観なんてものはあり得ないということですか。
もしそう考えるのであれば客観は主観の集合と規定していいのではないですか。
我々は芸術作品を客観的に評価するし優劣も付けますから。
本人に関係なく死んでから100年後に評価されるかも知れないなんてロマンチックです。
認識論の主観、客観てのは特殊な話なんで(形而上学)そういうのとゴッチャにするのは
どうかと思います。
・・・てもやはりじいさんには理解が及ばないと主観的には確信しております。(笑)
例えば、
「私は悲しくて泣いているのだ」と言ったら、
「何故悲しいのか」と問われる。
こういう繰り返しにはキリがない。
自己言及自己言及。
だから我々はどこまでも問うのではなく主観の触れ得ない領域というのを尊重して生きている。
本人にしかわからないし本人すらもわからないかも知れないことをとやかく言っても始まらない。
デネット博士の出番でしたかw
>「私は悲しくて泣いているのだ」と言ったら、
>「何故悲しいのか」と問われる。
>こういう繰り返しにはキリがない。
>自己言及自己言及。
自己言及じゃないじゃんw
>>445 答える人と問う人が同じだから自己言及なんじゃないの?
別人でも答えている側は自己言及のドツボに陥るけど。
自己言及には多くの逆説が語れていますけど、
厳密に言えば自己言及てのは実は不可能であってその試みは自己を分裂させようとする
試みでしかないです。
そういうことができるのは生命だけ?
448 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/12(火) 16:57:09 0
>>443 :考える名無しさん:
殆ど全部間違えてますね。すごい。
>主観と客観が内包し合っていて実は客観なんてものはあり得ないということですか。
わざわざ「相対的」と言ってます、それを「内包しあって」なんて誤解するのは酷すぎます。
>本人に関係なく死んでから100年後に評価されるかも知れないなんてロマンチックです。
是も間違い、主観は死ねば忘れ去られる(消滅する)、無常というわけです。
だからロマンティックなんです。
>こういう繰り返しにはキリがない。
ですからそれを打ち切る考えかたが「主客の相対」です。
キリのない自己言及に対する終止符です。
ここで主観の追求は打ち切られると言う事です。
>>448 変なレスにワロタw
たぶんじいさんはご自分の書いていることすらよく理解されておらず好意的に解釈して
くれる人とそうでない人とに峻別してやりとりしているだけなんでしょう。
あんまり興奮すると血圧あがりますよ。
とりあえずその主客の相対関係という意味不明な思い込みを説明して下さい。
決定論スレで人間は偶然を理解し得ないと達観してしまったときのようにw
450 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/12(火) 17:26:15 0
>>450 それだとじいさんの不明瞭な書き込みと明らかに矛盾しておりますね。
こういうのは基本なのでウィキ読まなくとも当然基礎知識として前提しております。
だから純化した主観客観というものはないと書いているではありませんかw
>>450 それからじいさんは上でじいさん自身がお書きになっている通り
主客=主観と客観(認識論上の)とすり替えております。
私も主体客体と言われば主観客観と区別して議論の要点を示すことができるがそこらへん
じいさんは何故混同しているんでしょうか。恣意的?意図的?把握し切れていないから?
453 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 18:10:33 0
>>452 主体と客体と言われれば納得できると言って、主観客観に対する自分の間違った解釈が
なかったかのようにいうのはあまりよろしくないかと思う。
>>453 だから芸術作品の客観的評価というのは可能なのですよ。
しかも時代によってその客観的評価は変わるから普遍的でもなんでもない。
そこらへんを否定するということは形而上、つまり神様の視点で見ることが必要です。
哲学は少なくとも人間の次元に落とさなければ議論は成立しないわけです。
主体と客体を主観と客観に途中から置き換えて意味が違うと騒いでも詮ないことです。
だから認識論上の、と敢えて言及せねばならなくなる。
で、私は主観や客観というものに本質的な意味はなく考えるために仮設された架空の概念
であるから「そんなものは存在しないでしょ」と再三申し上げているわけです。
自分たちが把握できない何かが確かに存在していると言うのは名前を付ける行為と等価です。
ウィキの記述では禅の記述に近いでしょうか。
456 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 18:34:35 0
>>454 芸術作品の客観的評価というのは、なるべく主観的な意見を、排して、何らかの
、この場合は画家としての技術、美しさ、斬新さなどの多くの人が同意するような
価値基準に基づいて評価しようとする態度のことを言うのでしょう。つまり、客観的
というのは、独自的でない、わがままでない、普遍的な、事を言うのでしょう。
>>芸術作品の客観的評価というのは
そんなもん、貨幣の量で決まるに決まってんじゃんw
458 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 19:23:12 0
最終的には主観だよ。主観。
>>458 そんなもん、市場が決めるに決まってんじゃんw
客観なんて中途半端な概念使ってるから
混乱するんだよ。
462 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 19:55:37 0
>>462 その問の立て方はいかがわしいと思ふぞよ。
で、誰?
464 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 20:07:07 0
>>427 貴兄の挙げている「超越論的主観」なるものも、機械氏に言わせれば物質の
様態である。ならば、それが「どのような物理現象か」との疑問は非生産的
どころか、問われるべきテーマだろう?
私は「意識の難問」が非生産的なテーマだなどとは、全く申しておりません。
「超越論的主観」は心身二元問題の一方の当事者であると言っているのです。
私は「超難問」的な「この私」、形而上学的主体に通底する「私」、あなた御自身の
表現を借りれば「主観の起点」であるところの「私」を、唯物論批判の俎上に載せる
のは筋違いであり不毛だと申し上げているのです。なぜなら、最高位氏の批判に
答えるためには、単純な心身二元問題である「難問」"にも"科学的に答えた上で、
「超難問」の問い立てに−哲学的に−答えなければならないという構造の要求を
満たさなければならないからです。「難問」の考究は生産的であり科学の問題たり
うるとしても、「超難問」までを「難問」と一緒くたにして、科学の問題として扱うのは
妥当ではない、ナンセンスだと申しているのです。御理解いただけましたか。
>>427 それは非常に非論理的な空想です。
何故ならば「一切は物質に還元できる」と仮に機械的唯物論が主張したとして
貴方が言う「私」は肉体に依存している限りに於いて生きながらにして火葬すれば
確かに物質に還元されたとしか言えないからです。
だからそれを否定するのは魂の実在性の証明という本質的に人間知の及ばない
形而上の仮説を要求されるわけです。
感嘆子かな?
468 :
男爵:2008/02/12(火) 21:37:48 O
数学書を焼いたところで数学のもつ正しさが崩れるわけではない
でも男爵さま、人間どもをぜんぶ焼いてしまえば、
数学は無意味でござります。
471 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 23:28:46 0
ダウト。
472 :
147:2008/02/12(火) 23:37:25 0
>>470 「人間ども」が観測者(認識者)という意味なら、それらを全部焼き払って
しまえば、数学どころか物質も世界も無意味になってしまうのではないか。
>>466 たとえばイエスは土葬されたが、彼を物質に還元することはできなかった。
いまもされていない。
もうひとつ言えば『モナリサ』と君の絵の差異は物質(絵の具やキャンパス)
の違いによるものではあるまい。意味や価値を物質に還元することは無理。
>>465 かなり酔っているので、機会を改めてお答えします。
なんの根拠もないけれども、心身問題は“科学的”結論を出せないのではないか。
それから、最高位が“私の存在性”によって唯物論の不完全性を衝く際、科学の
問題としてこれを扱ったことはないでしょう?
473 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/12(火) 23:46:35 0
科学で精神を解き明かすにも限界があるでしょうし
言葉にも表現できる限界がありますね。
これを解決する手段があるのでしょうか。
>>472 唐突に意味や価値という概念が出て来るところが非常に興味深いですね。
ただそれらの概念は具体的個物との接点がないと明瞭性がないです。
明瞭性がないと普遍的に見えるのは人間の性です。
ここが落とし穴。
私は具体的にわかりやすい命題を提示して反論致しておりますよ。
仏教でも哲学でも理解している限りの議論は具体的にわかりやすく記述できる範囲だけなんです。
それが論理の適用範囲。それを逸脱した抽象的な議論というものはナンセンスだし他者には伝わらない。
だから哲学書を読んで理解できる人と理解できないで更に難解な書き方をしてしまう人に分かれるんですよ。
>>473 それは科学(自然科学?)の限界というより科学ではこのように説明するしかないとかいう
次元の話ではないでしょうかね。
越境的な論理の運用というか普遍化は私には意味ないことに思えます。
だから数学でも物理学でも越境しておりませんでしょ。
所謂自然科学万能主義みたいな信仰は別です。
科哲関連でも説明の有り様は統一できないと言うことになっておりますね。
476 :
考える名無しさん:2008/02/12(火) 23:54:14 0
>>473 精神は解き明かす必要ないよ
単なる道具だから使えば良い
時計で時間を知るのにふたの中の
メカニズムを知らなくていいのとおんなじ
精神はある、あるから使えば良い
大切なのは「何に」使うか
どう使うかだ
それはふたの中を空けても分からないんだって
ふたをあけたところで時間を「何」に「どう」使うかの
答は見つからないのよ
わかったらもう寝ろ
477 :
素人:2008/02/12(火) 23:56:21 0
>>472 「還元」と言う際に、
貴方は『写真』『静止画』として捉えているように見える。
私は『動画』として捉えたいと思っている。
さて、この違いを貴方はどう見ますか?
478 :
素人:2008/02/12(火) 23:57:30 0
479 :
147:2008/02/13(水) 00:05:59 0
>>477 朦朧としていて、貴君の質問の意味がわからん。もし、暇なかたがいたら、
>>477 の文意を説明してくれ。素人さんは、しばし黙っていてくれ。暇人
がいなければ、やさしく解説を頼む。
昔むかし、モーツアルトの『40番』を挙げたことがあるが、これも静的?
480 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/13(水) 01:00:11 0
>>324 あのねぇ・・・・
無いものは思わんのだから
いちいち、そんな的外れな前提を立てる必要は無いわけだよ
「思う」の時点で、すでに「思う動作」が『ある』のであり
んで
動作しているのは『私』なんだよ
481 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/13(水) 01:02:56 0
>>480最高位さん
物理現象でない「私」が如何なる「動作」を成し
それが思考に働くのでしょうか?
それが「わからない」では「私」についても「身体」についても
なんら説明できませんよ。
482 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/13(水) 01:06:51 0
483 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/13(水) 01:11:37 0
最高位さんは議論する気がお有りなのでしょうか。
この間の私の質問が分かりにくいのであれば
箇条書きに致しますのでお答えいただけますか?
>>480 「思う」時点で「思う動作」があるわけですね。
でも思おうとして思っているのでしょうか。
ここもポイントの一つなのでお考え下さいな。
485 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/13(水) 01:20:06 0
>>483 議論というかねぇ・・・・
キミは論点が理解できていないんだよ
はっきり言って、基地外っぽい
反論したいなら
わけのわからない話のすり替えばかりしてないで
まずは
さっさと「我思う故に我あり」を、論理的に否定してみせなさい
出来ないなら
まず、「我あり」を認めたらどうかね?
普通の人は、それが否定できない事であるのを理解できるのだが
キミは、どう思ってるの???
突飛な質問してこないでさ
まず論点を整理して、一つ一つ整理していってもらえますか?
486 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/13(水) 01:24:10 0
>>485最高位さん
既に何度もお答え致しました。
同じ繰り返しはいしません。
とりあえず
>>481の
物理現象でない「私」が如何なる「動作」を成し
それが思考に働くのか、
についてのお考えをお願いします。
487 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/13(水) 01:28:52 0
>>484 「我思う故に我あり」の話をしてるんだろ
「あり」か「なし」かの話だろ
思う時点で「あり」なら、「あり」だろ
まず、これが結論だわな?
関係ない話で誤魔化すなバカ
>>483 追記
キミの発言に対して根拠を求めて
なんで?
と聞いたんだから、まずそれに答えたまえ
>>486 なんで、そんな事に答えなければならないのか を説明したまえ
488 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/13(水) 01:31:37 0
議論になりませんね。
答えられないのであれば最高位さんの私の存在理論は
その程度ということです。
議論ための議論などをしても仕方ありませんので。
あのさあ最高位、なんで唯識の問いに答えないの?
別に仏教のこと言ってるわけじゃねえじゃん
490 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/13(水) 01:36:02 0
唯識くん
既に何度もお答え致しました。
同じ繰り返しはいしません。
(大爆笑!!!)
491 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/13(水) 01:37:23 0
結論を言いますね〜
簡単な話だよ
「宇宙には、オレがいる」 という事
その『オレ』を、物理現象などの「法則性」「パターン」によって存在せしめる事は、絶対に不可能
物理現象などの「法則性」から『オレ』の原因性を導き出す事は、どうやったって絶対に、100% 不可能
要するに
「物理現象は、絶対に『オレ』の原因性には成りえない」 という結論なんです
唯物論と決定論が、論理的に完全否定された、歴史的瞬間であります
>>487 「我思う故に我あり」てのは「我思おうとして思っている故に我ある」なのでしたら
「我」の状態を「ある」と言っていることになりますよ。
そうでなければ「思う」はたまたま偶然何かを思っているということでこちらも別の状態
の記述になるんですよ。
最初の我と次の我のどちらも存在でなければおかしいはずですよね?
またしても逃亡か。唯識の完全勝利だなw
で、最高位さんのロジックだと「我思う」と言っただけで「我あり」は自動的に実証されている
わけだからデカルトの「我思う故に我あり」というのは単に「我思う」を冗長な表現にした
レトリックとしての強調に過ぎないのではございませんか。
本当にデカルトがそのような意図で書いたかはまた別問題。
我思う故に我ありは、疑えないものを発見することができたらしいが、
疑えないということは同時にそれについて思えないことであるので、
我思う故に我ありと記述することは、ぶっちゃけおかしいし嘘なんだよね。
496 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/13(水) 01:46:59 0
>>491最高位さん
もうその繰り返しはご自分の中にしまっておかれては?
なんの理論も無いただの単なる妄想にしか見えません。
厳しい言い方ですが、先に言いましたように
最高位さんの私の存在理論は
「唯物論の否定」という時点で誤りだったのです。
そうでなければ立派な「一つの私の姿」として理解されたのでは。
>>494さん
それについても同様の質問をしましたが。
そうそう。
疑うならフランス語の規則とか論理を疑うべきところをフランス語で書く時点であやしい。
498 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/13(水) 01:50:06 0
>>452 :考える名無しさん:
>主客=主観と客観(認識論上の)とすり替えております。
はい、すりかえています。
それは主体、客体と言う事物が存在する事は自明ではないし、そしてそれ自体を論ずる事も出来ないと考えるからです。
しかし主体客体の認識(知識)である主観客観ならば直接論ずる事が出来るのではないかと思うからです。
>私も主体客体と言われば主観客観と区別して議論の要点を示すことができる
是非あなたの「主体客体の議論の要点」をお聞かせください。
>>496 唯識の質問が最高位に届かなかったのでは?
確かに唯識さんのは一人合点な書き込みが多くて読みづらいです。
500 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/13(水) 01:58:09 0
>>497さん
仏教も同様です。
サンスクリット語、中国訳、また当時の歴史背景なども学ばないと
理解しにくいところもあります。(西洋哲学はほとんど無知なのですが)
>>499さん
どういったところでしょうか?
「私の存在性」の
全体像、仕組み、働きをお答えいただきたく思っているだけなのですが。
501 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/13(水) 01:59:55 0
>>455 :考える名無しさん:
>私は主観や客観というもの・・・架空の概念 ・・・そんなものは存在しない・・・
架空の概念と言うよりは、主観客観は文字通り観念なので、存在しないと言われると確かにその通り、しかし「観念として在る」と言い張れば在る、証明できないが観念論なのだから特に問題はない。
貴方は意味はないと言うが、では意味の在る存在が何かありましたら例示してみてください。
>再三申し上げているわけです。
名無しの癖に、ありえない(不可能な)発言。
>>501 それなら観念の存在証明を示してみて下さいよ。
観念としても無いです。
概念としては在ります。しかし必要ありません。
>>500 言語に関して疑わないということは暗黙の明晰さを仮定しているわけです。
その上で私の存在を強引に印象付けているだけで実は言語ありきの議論です。
>>499 こんだけわかりやすい唯識のつっこみは珍しいんだがなw
505 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 02:31:21 0
また弾切れか>最高位
>>498 じいさんの言う主客の相対関係というのはデカルトの主張した心身二元論だということは
わかりました。(この時点でデカルトは独我論ではないしフィルタリング・モデルとして図示して
書き残しているが)
それだと主体=心または意識なんでそんなものは存在しません。客体のみです。
従って相対関係もございませんよ。
>>502 :考える名無しさん:
>それなら観念の存在証明を示してみて下さいよ。
観念に存在証明など要らないでしょう?
「ない」と言われれば無いんだろうし・・・・。
しかし「何かを考えている自分がいる」と言い張っているその人の主観を否定する事は出来ないでしょう?
違いますか?
>501
>>504 でもとりあえず最高位はチューリング・テストにはパスしているんだから問題ないのでは?
>>507 私は概念はないと言ったのに対してじいさんは観念であると主張しているわけです。
だから具体的には
1.主観という観念の存在を証明して下さい。
2.客観という観念の存在を証明して下さい。
というのがご質問です。
なんで最高位逃げるんだろうね。唯識は超あたりまえなことを質問してるだけなんだけど。
言いたくても言えないわけでもあるのかw
>>506 :考える名無しさん:
>それだと主体=心または意識なんでそんなものは存在しません。客体のみです。
じゃあ二元論にならないんじゃあ???
?引用だと・・・・・・・・・
「主体と客体はいずれか一方を他方に解消することができないと考える哲学的な立場を主客二元論と呼ぶ。」
と書いてあるが・・・・
もっとも私は両方存在(物質的実体)しない、観念としての「主観客観」が相対関係で存在する(勿論観念として)と考えますが。
>>509 :考える名無しさん:
あくまで観念として存在するわけです。
主観は客観を見る事で存在します。
客観は主観に認識される事で存在します。
互いに独立して存在する事は出来ません。
互いに存在性(証明?)を依存していますこの事を相対的関係といいます。
主観なくして客観は無い。
客観なくして主観は無い。
少し考えれば判る事。
「われ思う・・・」
というのも思う対象(客観)が無ければ「我」は存在し得ない。
>>512 相対関係を前提にすれば観念に思えるんですが私は主観とか客観という観念として認識したことはないです。
「より主観的」だとか「より客観的」だとかそういう相対関係が個別的な事物に形容されるわけですよね。
そして「主観」と「客観」というのは「主観」から「客観」を説明できないし「客観」から「主観」を説明できない。
それぞれ別個な絶対基準に基づいていると。
そうなると相対関係ではなくなるし・・・非論理的です。
>>512 で、私が主観と客観は量的概念で繋がっていると言いましたね。
単一の主観というものの具体的な根拠が個に結び付けられているからなんです。
例えば水の分子は一つでも水と言い得るけど水の分子とも言えます。
そういうのは相対的な概念と言わずに量的概念と言っています。
だから「きれい」と「きたない」は相対的な概念です。
515 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 03:28:02 0
「思う」が、精神の活動であるとか、
『私』の動作であるなどという言表は何を意味するのか?
それがいいかげんな文芸的言い換えなどではでなく、
精神や『私』の実在をきっちり主張しているのだとしたら、
精神とか『私』なる存在がどのような存在なのかを記述しなければ、皆納得しないだろう。
また、それがどのように活動・動作したら、さまざまな思いや認識になるのかを説明すべきだ。
説明できないとすれば、
ただ分かった気でいるだけの独り善がりな言表との批判を免れないだろう。
516 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 03:37:14 0
『私』は精神の根底に鎮座しているのではなかったのか 最高位ww
こんどは、『私』の動作が「思う」なのか?
テキトーに言っているだけか?
そもそも自分が存在しているかどうかを他人と議論する意味は何なのか?
518 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 03:55:42 0
自我が思って居るんだったら
自我が在ると思っている(確認している)のも、自我。
自我の自我による存在証明。ww
唯識は誘導がうまいなw
数学だよ
デカルトにとって数学が精神に近しいもの
521 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 08:53:36 0
>>470 自分が人間であることを忘れているな。
自分が焼身自殺すれば世界は終わるよ。・・・ウィトゲンシュタインの知恵
522 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 08:58:24 0
>>514 >だから「きれい」と「きたない」は相対的な概念です。
だから美術品も貨幣価値に換算して量的に評価するというのだろう。
それはもはや哲学じゃないね。美学は死んだ。
523 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 09:43:34 0
>>495 あれこれ疑っているからにはその主体(=我)が存在する、という意味のようですよ。
『知識の哲学』(戸田山和久)では。
524 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 09:53:13 0
神の存在証明は、他の正しいとされていること(数学は入っていたか?)の正当化のための根拠のようなものでしょう。
こちらの方は循環しているとする批判が当時からあったようですけど。
デカルトは循環論証だと自覚していたらしい
526 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 11:49:50 0
>>492 >「我思う故に我あり」てのは「我思おうとして思っている故に我ある」なのでしたら
>「我」の状態を「ある」と言っていることになりますよ。
というか、デカルトは「我思う故に我あり」と思考している主体を「我」と言っていると思いますよ。
唯物論者の人たちは、「思考」そのものが「ある」という主張を否定したいのか、思考の原因と思われる身体(≒脳)としての「我」を否定したいのかどっちなんですか?
それとも、単なる「我」という名前だけなのか、あるいは全てを否定したいのか?
>>525 諸学問の正当化のために神を借定したことについてはね。
疑い得ないのは「疑いあり」「思いあり」であって、そこに
「我」を措定する必然性は何もないと思われる。
528 :
し:2008/02/13(水) 12:23:35 O
疾かなること風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。
我思ってない
の場合の主体はあるの?
>>526 唯物論者のひとたちに
そんな難しいこときいたってわかりゃしないよ。
>>526 > 唯物論者の人たちは、「思考」そのものが「ある」という主張を否定したいのか、思考の原因と思われる身体(≒脳)としての「我」を否定したいのかどっちなんですか?
前者は否定しないでしょう。
唯物論者は「何かがある」っていうならその「なにか」は物理的な基盤を持たなきゃだめだよってことを言いたいので。
後者に関しては?です。
思考の原因になるのは身体だけではないので否定も肯定も文脈次第では?
> それとも、単なる「我」という名前だけなのか、あるいは全てを否定したいのか?
最高位の思考実験の帰結としての唯物論否定の否定でしょう。
今更唯物論と観念論の対立を持ち出してもあまり意味ないんだよな。
どっちも説明できることと説明できないことはほとんど一緒。
幾何学の物理的な基盤ってなんですか?
534 :
一般人:2008/02/13(水) 12:58:40 0
>>485 >さっさと「我思う故に我あり」を、論理的に否定してみせなさい
きっと、「我思う」を認識する主体として「我」はあるのだと思う。哲学に詳しくないから、本当はこういう意味じゃなかったら言ってね。
ただ、もし、こういう意味で、この立場に立ち考察するなら、この「我」の機能は「認識する主体」ということになる。
そして「我」はこの機能しか持たない。
「我思う、故に我あり」はこれ以上のことを示さないからだ。
だから「我」は自発的に思考する機能がない。
「我思考する、故に我あり」でも、結局思考している我は
主体ではない。「我思考する」を認識する主体が我である。
そして、認識するからには、認識する対象が必要である。認識する主体が我なのだから、認識する対象は我以外である。
よって、認識する対象は「我」ではないのだから、
「我」は「我」を認識できない。
前者の「我」は認識する主体であり、後者の「我」は
認識する対象である。
だから、「我思う、故に我あり」で認識している「我」
全く偽者である。
主体としての「我」があるが、主体を認識することはできない。
なんちゃって、チラシの裏です。あしからず。
わかんないな。更なる考察が必要だ。
>>526 それは還元すれば「疑おうとしても疑いようのない主体」ということでしょ。
つまり「疑う」基準という主体の属性はあるということでしかない。
この場合の「主体=我」は簡単に言えば主体の概念化なんです。
疑うという行為主体を疑うという行為に基づいて再構成している構造。
日本の言霊信仰と似てるものかも知れない。
デカルトにキリスト教世界の背景があったことは同意。
後、デカルトの我思う故に我ありてのは後世に影響大でした。
536 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/13(水) 13:36:57 0
>>496 私は、説明のつかない事実がある と言ってるのに
なんでキミは、その説明を、私に求めるわけ??
何を読んでるのかね?
冷静に考えてみたまえ
アホすぎるだろ
逆だ 逆
説明は、唯物論者がせねばならん事だ
537 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 13:39:05 0
>>536 説明が付かない事実ならそれが「私」だとも言えない件w
538 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/13(水) 13:48:29 0
>>537 説明の種類が違うだろ
「私って何? だ〜れ?」という質問は、病院でして来い
ふすまのむこう、となりの部屋から「わたしは存在しない」という声が聞こえてくる
その声を発しているのは自分ではなく、また自分以外の誰でもなかった
ふすまを開けると、それはテープレコーダーからの声であり、声の主は死んでこの世にはいないらしい
「わたしは存在しない」という言葉が現実の世界と合致していたのだ
ふすまを開ける前に、もしかしてこういう事態かもしれないと考えることは無意味ではない
「われ思うゆえにわれあり」のような自明性をもつものも疑うことは可能であり、
また、疑うことは(哲学的には)無意味ではない
「私が存在する」
「哲学者最高位の自我が存在する」
この2つの文の意味は同じか違うか。
541 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 14:32:10 0
>>527 これではレス番号自体の必要もなければ、HNを書く必要もなく、相手の文章も引用する必要もないような。
というか、「私」を固有名に変えてもかまいませんけど。
>>529 熟睡しているか死んでいるかじゃないですか?
>>531 では「思考」そのものは「ある」のですね。
私にはその「思考」の基数?というのが何なのかが解りません。
>思考の原因になるのは身体だけではないので否定も肯定も文脈次第では?
観念論も否定はしないということですね。
>最高位の思考実験の帰結としての唯物論否定の否定でしょう。
唯物論を否定する可能性はありうるということ?
その思考実験というのをまだよく理解してないのでぇ。
542 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 14:33:02 0
>>538 「私」という語を使わずに説明できますか?
おそらく出来ないでしょう。
543 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 14:34:27 0
>>534 >そして「我」はこの機能しか持たない。
「故に」がある以上は推論の機能もあると思うけど。
>だから「我」は自発的に思考する機能がない。
したがって自発的に推論しているのでは?
>「我思考する、故に我あり」でも、結局思考している我は
>主体ではない。「我思考する」を認識する主体が我である。
↑という、思考(=推論)をしている主体は「我」じゃない、と?
>そして、認識するからには、認識する対象が必要である。認識する主体が我なのだから、認識する対象は我以外である。
認識のためには推論は必要ないとすれば、↑の推論をしているのは何なの?
>>535 >つまり「疑う」基準という主体の属性はあるということでしかない。
「疑う」行為(≒作用or働きor作動or機能)は推論や思考によってなされるので、それを属性=性質とするなら、その「主体=我」が「概念」というのでは納得できません。
デカルトについては、『論理学入門』(三浦俊彦 p.126-7 p.163-64)、前掲『知識の哲学』(p.109-129)が面白いです。前者には語用論的背理法から「我思うゆえに我あり」が論証されていますし。
544 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/13(水) 14:39:58 0
我以外にこの思いを思えるものがいるか?
逆に、この思いがあるのだからその主体を我と名付けてどこがおかしい?
>>541 > では「思考」そのものは「ある」のですね。
> 私にはその「思考」の基数?というのが何なのかが解りません。
「思考」が「ある」って言うと問題があるかも知れない。
考える行為を否定しないと言えばいいですかね。
唯物論ではその「考える」行為が物理的な出来事だと考えるということですね。
> 観念論も否定はしないということですね。
というか、元の文の意味がよくわからなかったので勝手に解釈したんですけど、
上に書いたように「考える」ことを物理的な出来事として考えるわけなんですけど、
その場合その物理過程は当事者の身体と言う領域だけで完結してるわけではないので当然外からの影響も受けるよということです。
> 唯物論を否定する可能性はありうるということ?
> その思考実験というのをまだよく理解してないのでぇ。
唯物論も観念論も完全に否定したり出来るんでしょうかね?
柴田正良も言うように、どんだけもっともらしいかということじゃないかと個人的には思うわけなんですけど。
「我思う故に世界あり」が正解。
>>514 :考える名無しさん:
>例えば水の分子は一つでも水と言い得るけど水の分子とも言えます。
文章がおかしい。
>そういうのは相対的な概念と言わずに量的概念と言っています。
これは間違いなので、基本的な言葉の定義が成り立たない。
「一つ」と言う量的概念を付けたからそう思うだけの勘違い。
「水と油の関係」などと言う文章なら質的概念だろう。
>だから「きれい」と「きたない」は相対的な概念です。
これも間違い。「きれい」と「きたない」は唯の反語である。
548 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/13(水) 15:04:52 0
>>544 補足:というのが最高位氏の主張(今のここでの)だと私は理解しています。
最高位氏、補足、訂正、全然ダメ、等よろしく。
549 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/13(水) 15:09:43 0
>>529 :考える名無しさん:
>我思ってないの場合の主体はあるの?
当然ありません。
551 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 15:36:46 0
唯識に敗北した最高位が負け犬のように吠えている件
あわれwww
>>543 二番目の「我」は敢えて概念化しているのではないかな。
私はデカルトのこの言説を「我思う故に世界あり」と書き換えても意味が変わらないと思います。
三浦俊彦さんてサプリの人でしたよね。タイトルがいちいちおもしろくて読んでみようと思ってた作家です。
しかし、いったいぜんたい何で宇宙なんてものが存在して、
何で物質が存在しているのかも全然分からないし。
それが分からないのは唯物論の責任じゃないしいー。
唯物論に八つ当たりしても意味ないと思うの。
そういう事が分かっているのは神様だけという事にしてきたのが、
宗教者とアンチ唯物論哲学者でしょう。
目くそ鼻くそというか、どっちもどっちではないですかね。
>>553 考えることの出発点がちがうんだよ。
宇宙とか物質の存在をすでに前提にしちゃってるでしょ。
デカルトの懐疑論や現象学などの哲学はそうじゃないんだよ。
といっても一般人にはなかなかわからないと思うけど。
現象学の入門書でも丁寧に読めば理解できるんじゃないかな。
>>554 独我論者乙。
あなたの「自分の意識還元論」では他者の存在を証明できないね。
どうせ554は竹田現象学信者だろうな。
デカルトは自分は天才だと思っていたようだけどそういう自意識が影響したんではなかろうか。
ライプニッツの方が賢いと思うけど。
「我思う故に我生きている」というのが本当は一番自然だ。
>>555 他者の存在を証明する必要があるとは思えないんだけど。
ところでデカルトのは理性だろ。
現象学のは悟性じゃないのか。
現象学勧める意図がわからんかったがどういう理解してんだか?
>>559 へえ、デカルトのコギトと現象学の共通点がわからないんだ。
どういう理解してんだ?
デカルトの我ありなんてあんまり意味ないだろ。
哲学の停止と呼ばれて揶揄されてた。
562 :
一般人:2008/02/13(水) 17:57:39 0
>>543 >「故に」がある以上は推論の機能もあると思うけど。
「故に」は推論を示唆するが、推論は我の機能の大前提であり、
なくてはならない仮定である。
この仮定をもし剥ぎ取ってしまうなら、我々は思考できると思い込むことができない。
なぜなら前後の脈絡がなくなってしまい、認識する対象を認識したとしても、次の瞬間には忘れてしまっているだろう。
だから、「我思う、故に我あり」には無意識のうちに、原因結果の法則、
因果関係(これらを唯物論というのかな?)、を前提として仮定している。
だから、推論(原因と結果)とは、いわば「我思う、故に我あり」を
包み込む世界観がもつ機能といえる。
そこから出発し初めて、「我」は原因を媒介し結果を生み出す機能、
即ち推論する機能があるといえるのである。
こう考えると私が唯一の機能として、認識する機能を持つといったのは
間違えだったのかもしれない。
ただ、推論の機能と、認識する機能は出発点がまるで違うのである。
認識する機能は、「我思う故に我あり」から直接導き出せるが、推論する機能は、「我思う故に我あり」という世界観で無意識に
前提とされている条件から導き出せるのである。
>>「我思考する、故に我あり」でも、結局思考している我は
>>主体ではない。「我思考する」を認識する主体が我である。
>↑という、思考(=推論)をしている主体は「我」じゃない、と?
このスレの誰かが書いていたが、「「本当の私を見つけたどー」といってもそれは本当の私ではない。本当の私は見つけた瞬間逃げる」といっていたが、
この表現が的確だろう。
>>562 時系列に展開すると矛盾が生じるので少なくとも因果律ではないな。
564 :
一般人:2008/02/13(水) 18:21:06 0
>>543
>>そして、認識するからには、認識する対象が必要である。認識する主体が我なのだから、認識する対象は我以外である。
>認識のためには推論は必要ないとすれば、↑の推論をしているのは何なの?
推論しているのは「我」である。
推論とは何らかの原因を受け何らかの結果を出すことに他ならない。
だから、推論が間違ってるにしろ、間違っていないにせよ、
「我」にとっては原因と結果の脈絡は存在する。
この存在は決してデカルトの世界観から排除できるものではなく、
逆にデカルトの世界観を規定しいるし、矛盾はしていない。
「我思う、故に我あり」のもつ前提、世界観の中では「我」は認識する
機能を持つと同時に、その前提として推論する機能を持っている。
石ころは蹴飛ばしたら(原因)、ころがる(結果)のと同じように、
「我(認識する主体)」もまた原因結果を媒介する。これはこの
世界観から容易に想像できる。
「我(認識する主体)」が何かを疑うのも、原因があったにすぎない。
デカルトの「ゆえに」は推論ではない
そうだな。
「ゆえに」と書いたら推論だと勘違いして紛らわしい。
567 :
一般人:2008/02/13(水) 18:39:15 0
>>563 矛盾を教えてください。
>>565 「故に」が推論じゃないならなんなの?
「我思う」と「我あり」は無関係なの?俺は関係があるものと
勘違いしてたぜ。
>>567 「我思う」と「我あり」は同時だから時系列に展開したらどっちが原因とも結果とも言えない。
そういう矛盾がある。
推論と仮定したのが間違っている理由も似たような事。
「我あり故に我思う」としたところで問題ない。「故に」に推論的意図はない。
569 :
素人:2008/02/13(水) 18:48:43 0
>>568 >「【我】【あり】故に【我思う】」
最高位氏の主張の骨格は、まさにそれですねw
我なき濡れて蟹あり
571 :
一般人:2008/02/13(水) 19:07:51 0
>>568 「我思う」と「我あり」が両者どっちが原因とも結果ともいえない?
非常に興味深いです。
この表現では、もしかしたら「我思う」が原因かもしれない。
もしかしたら「我あり」が原因かもしれない。
もしかしたら「我思う」が結果かもしれない。
もしかしたら「我あり」が結果かもしれない。
という、ニュアンスを含んでいる。
同一のものが原因と結果で無い限り、原因結果の法則はある。
同一のものが原因と結果であるなら、原因結果の法則は確かに
無いが、真の同意反復でる。「我あり、故に我あり」等。
逆に原因結果の法則が両者に通用しないというニュアンスも含んでいる。
「我あり、故に我思う」から意味を見出すことは不可能である。
例えば、りんごがみかんの結果でもなく、原因でもないのなら、
「りんご」と「みかん」にすぎない。両者は同時だが、独立している。
両者は独立しているのだから、両者の関係から何かを導くことは
できない。
つ論理学
573 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 19:11:34 0
めがっさ意味ねー
574 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 19:15:26 0
偉そうに「我あり」と言ったって誰も見たことねーんだからな。
オレオレ詐欺みたいなもんだろ。
あると言えばあるんだよ、言ったもん勝ちみたいな。
オレオレ詐欺してるのは悪魔かもしれないしな。
575 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/13(水) 19:39:07 0
>>568 :考える名無しさん:
>「我思う」と「我あり」は同時だから・・・そういう矛盾がある。
主観と客観の相対的関係と考えれば、矛盾を回避できる。
「我あり」と「我思う対象」が互いに存在を依存しているという考え。したがって「我思う」というのは思う対象(客観)を示しているという意味に取ればの話。
勿論デカルトはそういう意味ではないでしょうが。
相対的依存と言うのは例えば・・・・
「あの娘はオレの好みの美人だと思う・・・だからそう思っている自分(オレ)がいる。」
「オレがそう思ったから・・・オレ好みのあの娘は存在する」
この例でもわかる通り「我思う」と「我あり」は同時になっています。
576 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 19:45:33 0
>>568 >>575 >「我思う」と「我あり」は同時になっています。
それは「我思う」ということを考える際に、既に君らが勝手に「我」を実体化してしまっているからだろう。
>>576 勝手にも何もあるんだからしょうがないだろw
578 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 20:28:47 0
>>577 言い古された問答。
「我なんてものがどこに有るんだ?有るなら此処へ出して見なされ!」
579 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 20:32:34 0
寝ていても俺は居るんだから、デカルトは間違ってるだろ。
死んだら俺が居るかどうかはよくわからない。
デカルトは、われを欺くものの名前を知らなかっただけ…。その名前は、言葉。
デカルトは、経験は人を欺くが演繹(純粋な推論)は真理を導出すると信じたが、
それこそがまさしく言葉に仕掛けられた超越論的な罠だったのだ。
>>579 寝ている間にいるかどうかなんでわかるの?
目が覚めたと思ってるけど作られた記憶を埋め込まれて
活動を開始したばかりかもしれないじゃん。
>>581 疑いだすときりがない。そういうのって体に悪いから、そういう時は早く寝たほうがいいよw
583 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 20:49:54 O
579
一度確認したら、それが消え去るかもという心配は
ひつようない。
>>536 詭弁の典型だな。
本当に社会人か? 中学生にしか見えんw
>>583 そんなこと言ってたら寝てる間に大地震が起こって家屋倒壊で天国へ。
デカルトさんが確かにこの世に存在して尊いお言葉を遺してくださった。
「我思う故に我あり」
何を疑ってもそれだけは疑いませんよ、私は。
588 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 21:09:53 0
>>586 死んだらどうだっていうんだ。もっとはっきり物事を言ってみなさい。
589 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/13(水) 21:20:19 0
>>576 :考える名無しさん:
>勝手に「我」を実体化してしまっているからだろう。
そうではなくて、「我」の存在は客観に支えられているという事。
それ以上の存在性は無いと言うことでもある。
>>579 :考える名無しさん:
>死んだら俺が居るかどうかはよくわからない。
死ねば終わりです、それはハッキリしています。
>寝ていても俺は居るんだから・・・・
それはよく判らない。
居るようですが、ハッキリしないという感じです。
590 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 21:21:37 0
>>545 >唯物論ではその「考える」行為が物理的な出来事だと考えるということですね。
では「私」という「物理的な出来事」があるということでもかまいませんよ。
>>552 >私はデカルトのこの言説を「我思う故に世界あり」と書き換えても意味が変わらないと思います。
反対はしませんよ。
>>562 >「故に」は推論を示唆するが、推論は我の機能の大前提であり、なくてはならない仮定である。
なら「我あり」を承認するんですね。
>本当の私は見つけた瞬間逃げる」といっていたが、この表現が的確だろう。
私もそれに賛同しましたが、デカルトの場合はその「本当の私」も含めての「我あり」だと思っています。
>推論しているのは「我」である。
でしょうね。
>推論とは何らかの原因を受け何らかの結果を出すことに他ならない。
多くの場合、結果から原因のような気がしますし、私は何も因果関係を否定していませんよ。
>>566 >「ゆえに」と書いたら推論だと勘違いして紛らわしい。
別に論証でもかまいませんよ。
>>579 >寝ていても俺は居るんだから、デカルトは間違ってるだろ。
>死んだら俺が居るかどうかはよくわからない。
起きれたから居ると言えるだけ、死ねば起きられない、それだけでしょ。
591 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 21:24:42 0
>>589 >そうではなくて、「我」の存在は客観に支えられているという事。
>>575の「あの娘はオレの好みの美人だと思う・・・」っていう「オレ」は、毎日オナニーしてるような「オレ」だろう?つまり常識的な意味での「人間」。
デカルトやカントの「我」と、そういう「オレ」はかなりずれてるよ。
592 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 21:28:43 0
主観は客観があるから主観だということなら、まああたりまえのことだね。
俺が勃起しろといっても愚息は勃起しない。これが自由意志だ。
594 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 21:38:03 0
立たぬなら 立つまで待とう ほととぎす
御愚息の自由意志を尊重しましょう
595 :
一般人:2008/02/13(水) 21:45:39 O
>>575 少し理解できた。
相互依存の関係ならやはり、原因結果の法則は想定されてる。この関係は、どちらが原因なのか、あるいは結果なのか特定できないという、法則の貫く一つの形態である。
596 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 21:57:35 0
相互依存関係といってもその関係を支えてるのは「我」だろ。
「我」が、世界を「主・客関係」としてとらえざるをえないということだから。
しかし客観的な自分て自分なのかね。
誰にでも通じる自分というのは公的な自分ではないのか。
自分にしか通らない自分というのは私秘的な自分。
さらに、自分にもよく分からない自分がいる。
自分でも分からないような自分は本当に自分なのかね。
598 :
一般人:2008/02/13(水) 22:09:29 O
>>590 私は「我」を認識する主体として見ています。
さらに「我」のすむ世界には、原因結果の法則が支配している。
簡単にいうなら「我思う、故に我あり」で「我」の存在を証明するとき、原因結果がなければ、
「我思う」と「我あり」が独立し無関係になってしまうからです。独立した「我あり」は宣言でしかありません。
599 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 22:11:09 0
俺が自宅でグッスリ寝ている場合、家族が「俺」を捜し回るってことはないよな。
その場合「俺」は「寝ているだけ」で「思う」なんてことはしていない。
おまえの家族なんていやしないよ。
全て作られた記憶だ。
601 :
一般人:2008/02/13(水) 22:19:13 O
>>596 まず、依存関係がなければ「我」を確定できない。
原因結果がなければ、確定できない。
「我」がある対象を認識できない。認識した(←原因)としても、その「(認識している状態の)我」を認識する(←結果)ことができない。
だから「我(認識する主体」は「我(認識する対象)」の存在に気付かない。
602 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 22:20:00 0
「我思うゆえに我あり」についてのデカルトの説明では
思っていないときには我は存在しないとはっきり言ってるよ。
もちろんデカルトの「我」は思惟を本質とする精神のことで
自分の身体のことではないからね。身体はなくても「我=精神」
は存在する。
603 :
素人:2008/02/13(水) 22:22:05 0
「我思う、故に、我あり」という記述については勿論ながら、
加えて、その前分と後分が、
「同時である」或いは「同義である」或いは「相依性である」、
と言った時、それらは時系列を捨象できる言明であろうか・・。
デカルト
「くっくっくっ、たくさん騙されてやがるぜ」
605 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 22:24:30 0
「思惟」だけの「我」などはない。
思うもんがあればこそ、それについて思うことなど不可能だろうと。
だから我思うのはそう記述した時点でズレてるし嘘みたいなもん。
ただ、思うもんが無数にあるなら話は別かな。それらを総括して我ともできる。
ただ、無数にあって一つを掴めないなら、ないとも同じだし、
我ありとぶっちゃけるのも変かな。なんつーか、デカルトリック?
607 :
一般人:2008/02/13(水) 22:30:49 O
デカルトね言う「思推(シスイ?漢字が出てきません)」って、
きっと自由意思の様に自発的に考えたりすることも含んでたんじゃないかな。
なぜそれを疑わなかったのだろうか。思い込みである可能性も十分あるのに。疑ったのかもしれんけど。
デカルトさん
第四部で「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的な誤りとして廃棄する」ことを
「真理の探求と携わることと正反対のこと」と述べ
にも関わらず「そうしなければならなかった」と書いてありますよね
これはなぜなんですか?
>>602 >思っていないときには我は存在しないとはっきり言ってるよ。
これはおかしな話だね。
まるで思ってない時がある事を知ってるような。
>身体はなくても「我=精神」は存在する。
体がなくちゃ言えないと思う。
それはシイヒロフミと読むのです
ウォッカにもれなくついてきます
611 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 22:41:53 0
>>609 >まるで思ってない時がある事を知ってるような。
ぐっすり眠り込んでいるときは意識はない。
おまいは四六時中考え事してるのか?
>体がなくちゃ言えないと思う。
デカルトにとって体は別の実体であり「我」ではない。
612 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 22:42:51 0
グッスリ寝ていても「俺」が存在すると言えるのは、
「俺」が家族や友人やその他と意識や言語、判断を共有している
からでもある。
613 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 22:44:19 0
>>595 >この関係は、どちらが原因なのか、あるいは結果なのか特定できないという、法則の貫く一つの形態である。
この流れを別の角度から言えば、デカルトにとって「我思う」という条件が与えられたときの「我あり」を確信する条件付確率が1で必然という感じかな。
そういえばベイズの定理は三浦本でも使われていたな。
こちらはいきなり高度だけど。
眠ってるときに他人は「俺」と会話できないんだから
「俺」が存在するかどうか分かるわけがない。
デカルトは疑うんなら自分の手を切ってみるべきだった。
「思推」って初めて聞いたけどググったらけっこう出るな。
辞書では出ないけど。
思惟と勘違いしてる人が多いのか、別にそういう言葉があるのか?
思惟するには論理を学ばなければいけないけどデカルトはそこらへんが実はかなりデタラメ。
ただ当時当代一の天才哲学者のつもりでいたし自分でも自分ほど明晰な頭脳の持ち主は
これまでもこれからも現れないと思ってたみたいなので。
>>611 >デカルトにとって体は別の実体であり「我」ではない。
別である(と思った)としても、それが、
「なくても存在する」事にはならないだろう?
619 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 22:59:56 0
>>598 >独立した「我あり」は宣言でしかありません。
では、「我あり」が原因で「我思う」が結果にしましょうか。
で、「我思う」という結果を知ることの原因が「我あり」という原因にあると。
620 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 23:03:24 0
デカルトは分析的理性の人であったから、本来切り離せない
身体と精神を敢えて切り分けて考えたといえなくもない。
そこに無理があったといふべきである。
621 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 23:03:39 0
>>618 デカルトは心身二元論で精神と身体は別の実体として存在するという。
さらに神はもう一つの実体として存在する。
もちろんそのデカルトの考え方を批評するのも自由だ。
>>611 眠るのは「我」とは別の体という話ではないのか?
眠る「我」などわからないとなるのでは?
>>614 会話で存在するかどうかが分かるものなのか?
624 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 23:11:36 0
デカルトは「私は寝ていた」とすら言えないではないか?
思わない我など我は思いもよらない
我ありは霊的啓示なんだろ。
629 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/13(水) 23:21:35 0
>>596 :考える名無しさん:
>その関係を支えてるのは「我」だろ。
いえ支えるものは他に無いと言う意味です。
互いに支えあう関係です。
>世界を「主・客関係」として・・・・
この主に当たるところが「我」です。
>>597 :考える名無しさん:
>誰にでも通じる自分というのは
そのような「自分」はないでしょう。
基本的には「自分」は誰からも理解されないものです。
>自分でも分からないような自分
何度も言うように、客観に拠って「自分」が存在します。
ですから自己表現は客観で表わすしかない。
例えば「オレはあの娘が好みです」とか・・・・
自己そのものを直接表現する事は不可能なのです。
そのことは自分の事(内なる自分)は分らないとも言えます。
630 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 23:27:19 0
>>620 >身体と精神を敢えて切り分けて考えたといえなくもない。
それはデカルト自身も指摘している。とりあえず身体と精神を別の実体
と考えるが将来一つの実体に統合できればそれでもよいと。
それで身体と精神の相互作用として「情念論」を書いている。
631 :
素人:2008/02/13(水) 23:27:51 0
>>492 > 「我思う故に我あり」てのは「我思おうとして思っている故に我ある」なのでしたら
> 「我」の状態を「ある」と言っていることになりますよ。
> そうでなければ「思う」はたまたま偶然何かを思っているということでこちらも別の状態
> の記述になるんですよ。
>
> 最初の我と次の我のどちらも存在でなければおかしいはずですよね?
そうですね。上記のように「(その時その時固有の)状態」としてみるならば、
「我思う故に我あり」の
最初の「我」は 「思っている我」 であり、
次の「我」は 「≪【思っている我】がある≫と思っている我」、
ということになります。
アレ?どこまでいっても、なくなりませんねwww >>「我」。
さて、最高位氏の言う通りなのか・・・
『私』というパズルを組み上げるのに、まだ足りないピースがあるのか・・・
(´ー`)y━~~
632 :
一般人:2008/02/13(水) 23:37:25 O
>>619 「我あり」が原因で「我思う」が結果の場合は、ややこしすぎてわからないが、諦めず考えてみた。
ところで、「我」を認識する主体として確定できたのは、「我思う」が原因で「我あり」が結果の場合である。
だから逆転した場合「我思う」が認識することになる。
理解しづらいので、例えよう。
蹴られた石ころは足を認識する。認識というと生物的な感じがするが、蹴られた石ころは足の影響を受ける。
同じようなイメージだ。
「我思う」は「我あり」を認識する。つまり「我あり」の影響を受ける。原因結果なのだから当たり前といえる。
「我思う」は認識する(影響される)主体である。
このことは、石ころも認識する(影響される)主体ともなりうることも示している。
633 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 23:39:23 0
デカルトの「我」は精確に言へば、「反省的意識」にとりて与へられた
「我」、つまりヘエゲル的「自己意識」に近きものにありて、
この点を理解せずんば、徒なる議論に終始すべきものと憂ふるものである。
634 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 23:39:41 0
ハヤクチ コトバハ ココデスカ?
635 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/13(水) 23:47:08 0
>>536最高位さん
最高位さんは同じ事しか考えられないほど
「私」に取り憑かれているのでしょうか?
そして、私の説明責任を果たさずして
唯物論の否定が出来ましょうか?
唯物論の方も逆に「私」を説明しろと詰問するのは当然でありましょう。
636 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 23:55:50 0
>>608 デカルトは神を絶対のものとして定立したかった。
神への信仰のためなら、
「真理の探求と携わることと正反対のこと」だと認識しつつ
「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的な誤りとして廃棄する」
という信条を優先させる必要があったという告白である。
637 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 23:56:37 0
「我」とは自覚された存在、つまり「覚存」に他なりません。
では、この「自覚」は何に由来するのでしょうか?
デカルトの論理では明晰なる意識に・・(以下略す)
638 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 00:02:53 0
『私』を絶対のものとして定立したいゆえに
存在性という基準を設けたとしても、信仰ならゆるされる。
639 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 00:23:48 0
デカルトには「俺!、俺!」とか「我がちに」という愚劣な見え透いた心根が
見え隠れするが、これこそ当時の植民地主義的心性の現れといふべきである。
640 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 00:43:16 0
そういう時代であったといえばそれだけのこと。
デカルトの疑いの案件として【悪魔】までが登場するのだから。
私という存在をアピールしあう私たち
>>636 神の存在証明に近付けば権威が味方してくれる。
643 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 01:05:24 0
>>641 それぞれ私の思いを主張しあえるから、
みんなで(私たちで)考える(結論を導く試み)が成り立つ。
のだろうな。
644 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 01:30:13 0
宗教的要請と、真理の探究のはざまで揺れていたデカルト。
我思う 故に我あり(5 7 の韻を踏んでいるのでいい感じに日本人には感じられる)
デカルトも聖徳太子みたいに実は嘘でしたということになるかも。
釈迦も相当その実在があやしい。
647 :
ほら:2008/02/14(木) 02:21:09 O
636
608だけど、デカルトが信仰していたのは数学だと思います
だけど、この疑い捨てる行為で、論証の道具も疑わしいとして捨てています
これはデカルトの本音とは逆の行為だから
デカルトの疑いはマジ疑いじゃなくて、そういう演技、自作自演の可能性が非常に高いです
デカルトの自作自演に乗せられるねらー
嘘を嘘と見抜けないやつは、、、は置いといて
なんで、こんなことしたんでしょう?
この疑う振りでデカルトは何を意図しようとしたんでしょう?
解析幾何学
デカルト読んでると作り話っぽいんだよな。
この話、本当かよみたいなとこが多い。
形而上学全般に言えること。
こういうの読むときはあまり考えずに論理の暗算やればいい。
そんで「確かにそうだ」とか「ここはおかしい」とか。
651 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 02:45:33 0
>>542 >「私」という語を使わずに説明できますか?
>おそらく出来ないでしょう。
キミらの知能では、応用ができないんだろな(苦笑
『私』から見た、『私』以外である「客観的存在」については
いろんな属性に分類してみたり、いろんな角度から分析したり
いろんな表現を使って説明してみる事ができるであろう
しかし
それら全ての、客観的存在を認識している『私』という基点的な存在性は
唯一絶対であり
その他の客観的表現で表す事など、原理的に考えても不可能である事は言うまでもない
完全なる主観的存在である『私』を、客観的存在として扱おうとする知能の低さには
開いたクチが塞がらんよマッタク(笑
全然、分別できていない
要するに、理解が浅いって事だ
だから、そんな反論は、丸っきり的外れ
少しは、理解できましたかね?
「私」という語を使っても説明できてないもんを「私」を使わずに説明しろだなんて無理無理。
653 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 02:53:39 0
>>635唯識くん
>最高位さんは同じ事しか考えられないほど
>「私」に取り憑かれているのでしょうか?
無意味な質問ですねぇ
別に、取り憑かれてなどいませんよ?(笑
意味がわかりません
というか
取り憑かれてる って、誰が?(爆笑
たとえ取り憑かれているとしても
それは『私』が取り憑かれている という事ですよね?
違うとしたら、誰の話ですか??(大爆笑
あと
キミの場合も、
>>651を、参照ね
キミの知能で理解できている事より、根源的な話をしているから
まずキミが理解できるためには
「自分は理解できていないのかな」という謙虚な観点に立つ必要があるよ
まずは、そこからだな
でなければ、全然マト外れな質問を繰り返して、恥をかくだけだ
というか
キミは『唯識』を名乗っているのだから、仏教の恥にもまりかねんよ(苦笑
654 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 02:59:07 0
戯言はいいから
『私』が「思う」を
精神の活動であることを説明しろ。
説明できなければ、それも戯言。
655 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 03:01:05 0
まりかねんよ(苦笑
「最高位、戯言吐く。故に最高位、揶揄される」
真理に到達致しましたw
657 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 03:05:21 0
全然マト外れな質問や戯言を繰り返して、恥をかいているのは誰?
658 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 03:13:06 0
>>654 質問の意味がわからん
「思う」が「精神活動」でなかったとしたら何なんかね?
意味がわからん(ため息
>>657 『オマエ』じゃないのか?(大爆笑
精神活動て何?
思うって具体的に何?
「私」て自意識のことだろ。精神活動としての自意識が実装されているから「自分が思う」と
感じるだけで考えているときは別に「自分が自分が」なんて思っちゃいない。
「爆笑」は大勢の人がいっせいにどっと笑うことだよ。
最高位は頭悪いね。
>>653 そんなこと言いながら熱心にわけのわからんレス書き込むのはどうして?
662 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 03:23:56 0
>>658 はあ?
「思う」が「精神活動」でなかったとしたら?
お前は精神の活動って言ってんじゃんw
ごまかすなよ。
663 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/14(木) 03:24:01 0
>>651最高位さん
「私の存在」の認識に
「知能」などというものが必要なのでしょうか?
知能は身体に由来するもの
「私の存在」が物理現象で無いならば
どういう仕組みで「知る」ことができるのか。
やはり一度箇条書きにして答えしていただく必要がありますね。
もちろん他の方も意見を出し合うのも重要でしょう。
そうすることで「マスターキー」は何か
言葉の限界はありますが
「イメージ」としてみなさんにお分かりいただけるかと。
>>663 マスターキーがあるとしたら『超自我』しかなかろ。
仏教にそういう概念があるのかないのか知らんけど悟りの境地はそういうものらしい。
生への執着を捨ててしまえればOK。
最高位的には性への執着が強すぎると決定論スレで指摘されててワロタw
666 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 03:31:12 0
667 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 03:33:28 0
最高位って低脳だな って思っているのは……誰?
……どうみても、おいらだけではなさそうだな。w
最高位とじいさんはよほどの低脳か単に不真面目な負けず嫌いだろう。
669 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/14(木) 03:35:54 0
>>659さん
それはPCで作業していて
常に自分のコンピューター名をディスプレイに表示しているのと同じですね。
(非常に鬱陶しい)
しかし、修行のように一挙手一投足まで意識する、というのもあります。
(これは自心の働きを知るための行です)
非常に厳しい行ですね。
>>666さん
その言葉が出てくるとは意外ですね。
ご存知かもしれませんが
アカシックはサンスクリット語の
アカーシャ「虚空」の英語っぽい表記でしょうか。
上記と関連しますがアカーシャガルバ「虚空蔵」と深い関わりがあります。
670 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 03:36:26 0
>>659 もぉ〜
知能の低い人は自粛してくれよ
>思うって具体的に何?
と質問しておきながら
>精神活動としての自意識が実装されているから「自分が思う」と感じるだけで
と、意味もわからんくせに、わかったような発言をしている・・・・
全体的に、日本語としてもおかしいし、病気なんだったら病院池よ
>>660 あー
それ前にも話題に上がったけど、それ間違いね
もう少し、調べてからおいで
>>661 お前らが、わけわかってないだけだ
100ぺん読んで来い
>>662 だったらそれでいいだろ
病院行って来い基地外
671 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 03:40:27 0
かなーり知ってるみたいだなw>唯識
>>669 アカシックレコードは単純に興味ありますよ。
そういうのを想定しないと説明しづらい事実てのもあるんで。
最高位的私が自意識としか言えないっちゅうのも実感です。(レス元同じ)
詳しくは本人が書かないからわかんないけど。
どういう思索のプロセスがあるのかが単純に興味あります。
674 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/14(木) 03:48:46 0
>>674 でもはっきり言ってそういうことなんでしょ?>マスターキー
676 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 03:51:11 0
>>663 >「私の存在」の認識に
>「知能」などというものが必要なのでしょうか?
理解する為には、ある程度の知能が必要だろね
理解力がなけりゃぁ無理だろ
たとえば、犬には理解できんと思うし、実際キミにも理解できていない
>知能は身体に由来するもの
さぁねぇ
由来しているかどうかは、わからんぞ?
それはキミの信仰にすぎないんじゃないか?
そんな事より
私に反論するのなら、話をすり替えてばかりいないで、論旨に沿った形でお願いします
『私』を物理的要素に還元して、唯物論の正当性を論理的に主張して下さいな
>>669 >それはPCで作業していて
>常に自分のコンピューター名をディスプレイに表示しているのと同じですね。
ホントにキミは、アホだな
何回説明したらわかるんだ???
PCは、『私』が使用するもんだろ
PC自体には「目的性」は無いんだから、『私』がいないと「機能」しないんだよ
画面を読んで確認させられる という作業の事なら
それならPCなんて関係なく
本の各ページ、行間に、その本の題名が書いてある という事と同じだろ
その作業をしてるのは、本でもPCでもなく、主観性である『私』なんだよ
アホ発言する前に、冷静によく考えたまえ
677 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 03:54:34 0
檻の中で、鉄格子をつかみながら、
「お前ら、病院行けよ!!」と叫びつつけているサイコーイ猿
『私』の主観性ならわかるが主観性である『私』は意味不明。
679 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/14(木) 03:57:37 0
>>676最高位さん
「私」を物理的に還元とありますが
そのように問われるべきではなく
「私」は如何なる縁で現象するのか?でありましょう。
PCは、『私』が使用する云々とありますが
これも何度も言いますが
認識する仕組み、こころの仕組みをPCに喩えただけです。
作業をしているのは五感、意識です。
いずれ要点をまとめますので。
火葬すれば物理的要素に還元されるんじゃないの?
そのとき「私」はどっかへ消えちゃうの?
681 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 04:03:41 0
>>676 おまえの趣旨に沿う必要なんざねえよwww
今の流れは完全に唯識が有利。自分に風が吹くとでも思ってんのかw
議論に発展させるのが先ず先決。
別に誰も最高位を吊し上げてる気はないんだけど。
683 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 04:15:38 0
>>679 >「私」を物理的に還元とありますが
>そのように問われるべきではなく
>「私」は如何なる縁で現象するのか?でありましょう。
おいおい
ココを仏教スレだと勘違いしていないか??
私は、唯物論を否定してるんだよ?
頭、大丈夫ですか?(苦笑
>PCは、『私』が使用する云々とありますが
>これも何度も言いますが
>認識する仕組み、こころの仕組みをPCに喩えただけです。
PCが、心の仕組を持ってるって???
PCは単なる計算機であってね
その計算機を使うのは(命令するのは)『私』という主観性
であって、PCに『心』なんてないんだよ
単なる物理現象を応用したものであって、物理現象の通りに現象しているだけです
認識を『心』の働きであるとするならば、PCは認識なんてしてません
認識しているように見えるから、そういう文学的表現を使っているだけです
勘違いせず、ちゃんと論理的に分別しましょう
>>682 議論て、何の議論かわかってんの?
論点は「心身問題における唯物論の主張は正しいのか」だよ?
私は、それを論じているのだから、私に反論するなら、まず論旨に沿ってもらわないとね
話が逸れてしまうだろ
684 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 04:18:16 0
>>683 【弁証法的唯物論】唯物論研究会【史的唯物論】 スレに
おいでなさい。
>>683 >論点は「心身問題における唯物論の主張は正しいのか」だよ?
馬鹿かwwwスレタイ嫁やw
>>683 例えって断ってるじゃねえかよ
おまえ例えって知ってるか?
>>683 >単なる物理現象を応用したものであって、物理現象の通りに現象しているだけです
PCの原因的物質は何ですか?
やっぱこう来るよなあw唯識は釣り氏だw
/: : : :: : : :: : : :: : : :: : : :: : : :: : : :: : : :ヽ
/: : : :: : : :: : : :: : : :: : : :: : : :: : : :ヽ: : : : :',
,': : : :: : : :: : : :: : : :: : : :: : : :: :.::i: : : |: : : : :|
|/|: : : :∧ト|∧: : :./ヽ∧/ヽノヽ|: : : |: : : : :|
|: :∧| ,,ニ、ヽ/ r_=ミ.、 |: : : |r 、: : :|
ヽl ヽ l f::::、 l:::::ヽヽ.|: : : | 〉: :.|
',. 弋_」 辷:ノ ´|: : : | /: :.:.:.| じいさんvs名無しさん、
ハ , |: : : |´: : : : |
|.:.ヽ |: : : |、: : : :.| 最高位さんvs唯識さん、は
|: : : > _ ° イ.|: : : |ユ: : : :|
|: : : l:.:/ `、ニ_ン ̄ |: : :.:| }: : : | 自演、と…
|\\.|: : : l:.:.>、 |: : :.:| "´\:.:|
| \ヽ、/ ヽ__ ノ|: : :.:| _>、
| i⌒i´ ̄ ̄ ̄ ̄| 二 _|: : :.:|イ ̄ ヽ
| l | r '´,.─y ` ヽ、/ |
| l |/ ノ  ̄ | 八/ / ヽ |
| !/ //ノ .| ヽ )` L/ノ \ /
691 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 09:10:33 0
>>680 たぶん君の場合はそうだろうな。しかし誰かが語っていたように、イエスはそうも言えないし、
デカルトも。アインシュタインの肉体は跡形もなかろうが、彼は死にきっていない。
692 :
素人:2008/02/14(木) 09:11:45 0
>>676 ・・・・・(^^;)
全く成長していませんね・・w
>私に反論するのなら、話をすり替えてばかりいないで、論旨に沿った形でお願いします
>『私』を物理的要素に還元して、唯物論の正当性を論理的に主張して下さいな
貴方が、事ある毎にこのように述べるから、
「唯物論破壊のために設定された『私』じゃないの?www」と揶揄されるのです。
大勢の方から「唯物論を離れて、(唯物論の是非は一先ず保留して)、『私』を突き詰めませんか?」と
何度も提示されているじゃありませんか。なぜ、そんなに頑なに「唯物論破壊」にこだわるのですか?
初期と比べたら、「唯物論原理主義」的レスは殆ど無いじゃないですか。
また、何度も何度も何度も申し上げましたが、
>話をすり替えて
いるのではなく、
≪ 「唯物論破壊」は、【『私』についての考察から派生している】もの ≫ではありませんか?
≪ 「唯物論破壊」の【根拠として、『私』についての考察がある】 ≫のではありませんか?
すり替えどころか、もっとも重要視されねばならない議論であるべきじゃないですか?
と言っているのです。
唯物論の正当性などどうでもいいのです。最終的に瓦解しても構わないのです。
また、現在、アプローチの方法として唯物論「的」手法がとられていても、
その限界がしっかりとした反証によって一つずつ示されていき、消去されていくならば、
では、どのような手法を採用してゆくべきか、が模索されるべきでしょう。
(そしてその時、その「新たな手法」探索の音頭をとるのは、貴方であるべきなのです。)
お解りになりませんか?
>>693 691が言っているのは、名称ではなく、
「業績」や「思考内容」が後世の人たちへと残っているけど、これらはどうなん?
ということかと思われ・・・。
>>694 書物(文字とか)が人類にとって遺伝子みたいに働いているってだけのことだろ。
「私」を物質に還元したらどこへ行くかの答えになっていない。
逆説的に言えばそういう神秘な「私」を我々は霊魂と呼び否定も肯定もしない。
>>696 「私」が口伝で伝わるなら「私」は記述対象だ。
でもその「私」は考えない。
結局、最高位の夢の中を覗いているだけ。
デカルトの我ありコギトとかいうのも夢の中の現実を描出したに過ぎない。
「これは私が見ている夢ではなかろうか。醒めたら私など消えてなくなるのではなかろうか」と疑え。
699 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 09:30:58 0
>>636 >デカルトは神を絶対のものとして定立したかった。
デカルトと同時代のパスカルは「デカルトは神など存在しなくてもよい
と本心では思っている」と見抜いていた。
事実デカルトにとって「神」は第三番目の実体だね。
神の存在証明を正当化するために必要とされた実体だ。
700 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 09:45:56 0
>>698 そう決めつけてみても、やっぱり疑っているじゃん?
>>699 彼が信じていなかったのは「教会(方便)の神」だろう?
>>700 夢の中で夢かも知れんぞと疑えば全て解消されるんじゃないか。
702 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 09:50:05 0
>>695 >「私」を物質に還元したらどこへ行くかの答えになっていない。
「私」を構成していた物質がどこへ行くかいちいち追跡調査するまでもなく
ほとんどは地球圏に有るだろう。
その物質がどこへ行って何に生まれ変わっているかなんてたいしたこと
じゃない。
703 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 09:58:16 0
>>701 それが夢であるというのは誰の認識? そもそも何が夢をみているの?
>>683 >PCは単なる計算機であってね
>その計算機を使うのは(命令するのは)『私』という主観性
>であって、PCに『心』なんてないんだよ
さて、人間には『心』はあるのか。
PCと人間の違いはどこにあるのか。
「この人間を使うのは(命令するのは)『私』という主観性
であって、この人間に『心』なんてないんだよ」と、言えるのか言えないのか。
705 :
素人:2008/02/14(木) 10:26:13 0
ああ、そうだ。
有名な一文になぞらえておきましょう。
「我思う、故に、我あり」
「我あり、故に、唯物論は間違い」
と、こういうことなんですよね・・・w
さて、これを
「我あり、故に、我思う」
「我あり、故に、唯物論は間違い」
或いは
「我思う、故に、我あり」
「唯物論は間違い、故に、我あり」
或いは
「唯物論は間違い、故に、我あり」
「我あり、故に、我思う」
と、(一部、或いは全部を)逆転できるかどうか・・・。
大きなポイントですね。
706 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 11:04:08 0
>>685 あのね
このスレはスレタイ関係ないんだよ
私に対して、唯物論のスレ住民が「来ないで下さい!!!」と
基地外のごとく騒ぎ立てるから
私は親切心で、唯物論者の誰かが立てた、ここをメインにしてあげてるんだよ
>>686 何の例えだって??
私は、「例えになってない」 と指摘してるんだが?
例えと言えば、何でもありだと思ってるんですか? アホですか?
哲学するのは、もう少し、国語を勉強してからにしましょうね
>>687 パーソナルコンピュータ というものは
人間の側の都合で、そう呼ばれているにすぎない物理的状態を言うのであって
『存在性』ではなく機能に対する観念的な名称です
その質問には当てはまりません
PCと言う物は『私』が名前をつけなければ、単に物理状態があるだけであって
ようするに、「PC(物理状態)の原因的物質は何ですか?」という質問は、おかしい
という事です
少しは理解が進みましたか?
「私」は一体誰の都合でそう呼ばれてるのかな?
708 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 11:37:52 0
>>84 あのな・・・
言葉の意味というものは、画一的なものではないんだよ
単語の意味は、一つではない という事
主観 と言っても
その人の考え方 という使い方をする事もあるし
もちろん自分による視点を、主観と表すこともある
要するに
主観=主観 ではない場合があるんだよ
「伝えたいイメージ」という無限の対象を、限られた語彙の組み合わせで表現するのだから
そういう事は、当たり前に起こるわけだ
同じ言葉を、何でもかんでも『=』でつなげちゃうキミは
かなり頭がおかしい と言える
>>87 そういう事ですね
>>104 合格!! かな (笑
失礼
普通は、これぐらいのこと、理解できて当たり前ですよね (笑
709 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 11:38:47 0
>>137 話を飛躍させないで、ちゃんと会話してくれないか?
いつもながら、ズレまくり
全く理解できてない人から、ズレた質問をされても、困り果てるばかりだ
キミには理解力がないようだから、説明しても無意味だとは思うが、一応・・・
「精神」は実体なのではなく、『私』の「精神活動」という行動を意味する
『私』という主語に対する、動詞であるわけ
だから
「精神活動」は変化する
しかし
『私』は変化しない
そもそも
精神から私が発生する という発想がトンチンカン
誰の精神活動でもない精神活動など、ありえません
私の精神活動は、私の精神活動であるゆえに、「私の精神活動」なのですよ
たとえば
クルマが走行するのであって
クルマがないのに、走行はしないんです
当たり前ですね
その当たり前の事が、キミらは理解できない
どこでどう勘違いするのか不思議だ
話を戻すけど
再度、
>>50の、キミに対する文章を
もっともっと、よ〜く読んで、理解できてから、会話になるように返事して下さい
710 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 11:45:05 0
>>706 >PCと言う物は『私』が名前をつけなければ、単に物理状態があるだけであって
>ようするに、「PC(物理状態)の原因的物質は何ですか?」という質問は、おかしい
>という事です
「PC」の原因的物質はない。
「物理状態」の原因的物質はない。
だったら、何についても「原因的物質」なんてどこにもないということじゃんw
711 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 11:51:34 0
>>704 またまたズレまくり
この体に、『私』を存在せしめるに至った物理的要素は、あるのかないのか だよ
なんでキミらは、この論点から逃げるのかね?
有機交流電灯のひとつの青い照明です。
>>710 パソコンに原因的物質がない?
じゃあ、このパソコンは念力によって無から創造されたのかw?
>>711 >この体に、『私』を存在せしめるに至った物理的要素は、あるのかないのか だよ
だって、この体が太陽の真ん中に行くと、私は蒸発するんでしょw
それなら、「この体が適当な温度その他の環境にあって人間として生きていること」が
『私』を存在せしめている物理的要素だ、ということでしょ。
716 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 12:10:48 0
>>710 >「物理状態」の原因的物質はない。
>だったら、何についても「原因的物質」なんてどこにもないということじゃんw
物理状態を作り出す原因的物質とは何か
物理的状態である『宇宙』を作り出した原因的物質とは? と問いかけしてみれば
そのアホさが理解できやすいんじゃないかな?(苦笑
>>714 アホな人には、こう書いた方が、わかりやすいのかな
↓
「物理状態(PC)の原因的物質は何ですか」は、おかしい
物理状態は、その物質そのものなのだからね
キミの質問は
物理状態は念力によって無から創造されたのか?であり
それは宇宙が、念力によって創造されたのか? という質問に等しい
717 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 12:15:03 0
どんな物理的物体を持ってきても「私」を発生させることはできない。
複合的な物質間の作用で「私」が存在している、といっても、この、自由に
考え、物質から離れた「思考行為」を行える「私」が存在する。
>>716 そりゃ「宇宙」はそうだろうが、「パソコン」は違うだろう。
普通「物理的原因」とか「結果」というのは、宇宙の内部の
様々な物理状態の相互関係のことをいうのだぞ。
そんなこともわからんのかお前はw
719 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/14(木) 12:26:47 0
>>718 アホだなぁ
『存在』という話題なんだぞ?
物理状態を『存在せしめた』原因的物質 は何なのか は、おかしいだろと言ってるんだ
私は元々、PCは物理状態であって、存在性ではない と言ってるわけなんだよ
キミらは、その違いを理解できず、PCは存在性だと勘違いしている
キミには高度すぎるのかな?
720 :
一般人:2008/02/14(木) 12:28:26 0
>>716最高位
>物理状態は念力によって無から創造されたのか?
「我」は誰の念力によって無から創造されたのですか?
それとも「我」は、有から創造されたのですか?
721 :
一般人:2008/02/14(木) 12:31:39 0
>>718 もし「宇宙」誕生以前が無なら、無には宇宙誕生させる因子
を含まないのだから、宇宙は誕生しない。
と思う。
最高位もこれだけのバカを相手によくやるね。
でもこの分だと決して理解してもらえないから
アプローチの仕方を変えたほうがいいんじゃないか?
パソコンが存在性じゃないんなら電柱や他人もそうなのかな。
他人がそうなら自分もそうかもしれないってならんのかな。
そもそも存在「性」って「性」せしめているのはなんだろうか。
724 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 12:37:57 0
この「私」は、一度誕生してしまったら、死ぬまで私であり続ける。
死ねば無くなる。唯物論では、この「私」の誕生と死、「私」の存在を
説明できない。
え、唯物論って何かを説明するもんじゃないけど。
最高位にせよ誰にせよ、根本から間違えてるからどうしようもないな。
726 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 12:54:46 0
>>725 唯物論って、全ての事象は物理的なものが決定しているという論でしょ。
僕の考えでは、まずここに思っている私がいる。その私が物質に還元でき
ない。物質中心の考え方は間違いで、私の方が重要である。
>>725 唯物論【で】説明する、ってのはそういう意味じゃないと思う。
唯物論が持つ、(その枠の中に内包する)、様々な手法を援用して、
何事か(の在り様)を描写する。
ってことなんじゃないのかな。
唯物論そのものが「説明の為のもの」かどうか、とは別問題だと思う。
728 :
一般人:2008/02/14(木) 12:58:02 0
>>717 >自由に考え、物質から離れた「思考行為」を行える
そもそも、これが間違えで思い込みである。
我々は自由に考えることはできない。
過去の経験や周りの状況によって制約され、結局ひとつの
選択肢をとることしかできない。
自殺を例にするなら、自殺した人は自分が望んで自由に自殺
したのではない。彼の周囲には、彼を自殺に追い込み自殺させる
条件がそろっていた。金が無い、人間関係に悩んでいる、等々。
彼には自殺する選択肢しかなかった。
右腕を上げた人間に例えよう。彼には右腕を上げるという選択肢
しかなかった。彼に右腕を上げさせる条件が周りには整っていた。
右腕を上げる理由は「彼の存在を証明するため」に上げたのかもし
れないし、右上空に飛んでいる蚊を捕まえようとしたのかもしれない。
彼は右肩がこっておりストレッチするために、右腕を上げたのかもしれない。
彼の経験(経験も状況の一種である)や状況によって、
彼は右腕を上げざるを得なかった。
>>719 >私は元々、PCは物理状態であって、存在性ではない と言ってるわけなんだよ
何のことだかちっともわからん。「物理状態は存在性ではない」ということか。
この宇宙にあるのは特定の物理状態だけだぞ。(あとデカルト的な「私」だ。)
PCも人間も特定の物理状態だから、存在しないのか。宇宙も存在しないのか。
それなら「存在するのは私だけ」ということになって、
お前は完全な独我論者だということになる。それなら「好きにしろ」としか
言いようがないが。
730 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 13:10:31 0
>>728 行動を例にとるのは、あまり納得できない。もっと短時間の、思考、というものが
自由であるといいたい。つまり、目の前のパソコンのディスプレイが左に十センチ
動く所を想像する。こういった思考は、何が原因と言うこともできないだろう。
>>726 論とはあるけど立場や思想みたいなもん。だから正しいも間違いもない。
もうあまりそこは突っ込まれてないけど、最高位は最初から間違えてる。
唯物論者は単に唯物的なものの考え方をするだけだし、それが間違いか?
>>730 人の思考や想い等に、理由(→「そこへ導く要因」)の無いことなどありえませんよ。
また、要因が一つとも限らないでしょうし・・(もっとも、時間軸で直前を拾おうとすれば別ですが・・・w)。
意味的繋がりを無視できない事象については尚更ですw
「わけもなく・・・」なんていうのは、文学的表現に過ぎませんw
733 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 13:32:21 0
>>731 それなら、唯物論と唯心論の対立はどこへ行ったんだということになる。
734 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 13:35:32 0
>>732 何かの原因がある思考もあるが、ぼーっとしているときだって何も思っていないわけではないよ。
735 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 13:41:13 0
>>724 >唯物論では、この「私」の誕生と死、「私」の存在を
>説明できない。
唯物論では「私」という意識は脳の随伴現象だと説明している。
おまいがそれを知らないだけだろう。
736 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 13:42:43 0
>>725 >え、唯物論って何かを説明するもんじゃないけど。
え、唯物論ってじゃ何するものなの?
>>733 そんなもの猫の喧嘩にしか過ぎない。
対立してたからってどっちかが間違いとは限らないしな。
738 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 13:48:20 0
>>726 >その私が物質に還元できない。物質中心の考え方は間違いで、私の方が重要である。
「私」はその体を作る物質とその心が行う環境を感受する機能、あれこれ想像する機能、
その意志に従って運動する機能、経験を知識として記憶する機能などから
構成されるとブッダが言っている。これがほんとうの「唯仏論」だろ。
739 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 13:48:53 0
>>735 その随伴現象が世界を変える。唯物史観の誤りは歴史が証明した。
740 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 13:50:57 0
>>728 >過去の経験や周りの状況によって制約され、
過去の経験も回りの状況も自由意志で選択した結果である。
人は常に自由意志で行為を選択できる。
>>740 そういうのを「自由感」とか「見做しの自由意志」とか言うんでしょ?w
742 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 13:58:51 0
>>739 >その随伴現象が世界を変える。
随伴現象で世界が変わることは無い。
言語による情報や行動で世界に働きかけることによって世界は動く。
世界は物理で動く。
そもそも意識やら「私」やらは、腹減ったら機能が鈍るくせに生意気だろ。
自分が根源みたいな雰囲気かもしてるけど、マジで空腹になったらどうせ食う事ばっかり
想起しやがる機械仕掛けのくせにさぁ。
744 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 14:00:52 0
>>741 それ以外の自由感や自由意志があるの?
それに従った行為がなされるならそれで満足じゃないか。
>>744 はい。
だから、決定論や自由意志論議は馬鹿馬鹿しいのですw
746 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 14:04:07 0
>>742 あのね、行動を起こす基になるのはなんだ。
>>746 経験(と学習)によって蓄積された記憶だろ?
反射的なものなら、経験という感受とそれに対する反応でしょ?
情報は物理じゃないっつーの
随伴現象って二つの現象に相関関係があるとしかいえないわけだから
物理主義の敗北宣言ってわけだな。
750 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 14:25:10 0
>>743 その「空腹感」を感じて(意識して)いるのは何?
>>742 それも逆立ちした認識だ。世界(事象)に“理”があるかどうか。あったとしても
ヒトには不可知ではないか。その不安に耐えられず、そこに“理”を立てただけ。
>>750 感じてんのは空腹の人がだろ。何ってなんだよ。
まあ意識は機械的だから。空腹の危機意識は間違いなく食う事についての
思考頻度を上げるし、その傾向はまず覆らない。
>>751 そんなふうに単純に考えていた時期が
僕にもありました。
>>752 嘘つけ。この程度も考えついたことなんかないくせにw
まあ腹が減ればこそ食うことを考えなくなるやつなんていないし、
そう考えさせるらしい「私w」なんか血中糖度様の奴隷だろ。
>>751-752 どこまでを「人」或いは「私・自分・自我・我」と捉えるか?でしょw
肉体を含めて「全存在を人とする」か、
「心の働き・心模様のみを指して人とする」か、
「そうした精神的在り様の場を人とする」か・・・w
(上の“人”の部分を色々入れ替えてみましょう)
>>753 いやいやw
そういう単純な機械論って中学生レベルですって。
>>739 人体も含めた物理世界に一切影響を及ぼさない、とされるから「随伴現象」
と呼ばれるのだ。「私という意識」と人体も含めた物理世界が相互作用すると
考えるなら、それは二元論。
むろん、随伴現象説や二元論が正しいのか誤りなのかは誰にもわからない。
>>755 そんなのにも手も足もでないから必死に揶揄してんだろ?
話を横にそらしてる時点でもう終わってんだよ。
最高位はヤバくなったら大量コピペ的書き込みを散らして一旦ずらかるから
また話題の焦点が変わる。
最高位からしたら低脳ですぐに誤魔化しきれるバカを相手に遊んでるだけだろう。
759 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 15:15:59 0
>>753 君はそうかも知れぬが、三日三晩、飲まず食わずに「食う」以外のことを
考えた風変わりなご仁もいないことはない。身体の状態が“心”のそれを
一意に決定づけたりはしないということだ。
君が言っているのは君自身も認めているように“傾向”でしかない。
空腹は内部で解消できないから意識に上り我慢するか食事をするかを選択させる余地を与える。
眠気も同じ。睡眠促進物質みたいなのの作用らしいよ。
761 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/14(木) 15:46:12 0
>>756 :考える名無しさん:
私は「随伴現象」 が好きですね。
意識と物理世界が相互作用しない「随伴現象」です。
とはいっても「物質が意識を規定する」ですからその辺は押さえておかないと。
いずれにしても「相互作用のない随伴現象」ですから「私」を記述するのに物質は関係ないとだけは言えます。
観念の中で回答を出さねばならない。
>>759 それは食わないという思想がパラメーターとして加わっただけ。
プログラムが複雑になって行動が複雑になっているだけだ。
>>759 そう。
「一意ではないが要因(の一つ)ではある」ということが
重要でやっかいなことなのですw
「(空腹を)我慢する」という行為(意志)は、
「空腹という事象がその肉体に起きているから」
或いは
「空腹という肉体の状態が、感受されている(知覚認識されている)から」
生じる行為(意志)ではないでしょうか・・。
>>759 詭弁のガイドライン見たことある?
なんか印象操作を頑張ってるみたいだけど、そんな例外持ち出されてもなw
こっちは万人に通じる当然の成り行きを言ってるんだからさ。
それこそ三日三晩腹減ったとも喉かわいたとも思わん奴なんて、
人類史で考えてもそんなにいないし。
765 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/14(木) 15:52:45 0
>>751 :考える名無しさん:
>・・・何ってなんだよ。
おそらくこの人はこのスレタイの意味が判っていないんだと思う。
判っていない人は此処には結構多くみかける。
勿論スレタイの意味を説明したい所だが・・・それがこのスレタイの答えでもある。
しかし私は「答えはない」と言うのが答えなので上手く説明できないのだ。
>>759 人は空腹に対してどのように行動するかを
毎日のように学習している。
伝統文化の慣習と論理的理性の推論のループという形で。
それら学習されたプログラムから、空腹に対して行動イメージや
感覚記憶という数多くのオプションが提供される。
その中で最も強度が高いと感じられる行動を脳が選択する
複雑なプログラム。というだけ。
判断を複雑に不安定にしようと思えば、
シミュレーションでどんどん複雑化できる。
767 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/14(木) 16:01:54 0
このスレタイの趣旨は・・・・・旗が減った場合・・・
腹が減ったと言う意識は「自分」にわいた意識です。
他の人や他の物体はそんな意識があるかどうかは分ったものではないはず。
「私は腹が減った」と言う事ですよね。
ではその腹が減ったと意識している主体とは一体何者だ?と言ったニュアンスです。
脳は常に自己のプログラムを書き換えている。
自意識が眠っている間にも、脳は自己のプログラムを
書き換えながら、プログラムを実行している。
習慣的行動や反射や不随意筋運動などは無意識的に脳がやってくれ、
脳の前頭葉が論理的理性によってそのプログラムのバグの書き換えを
担当する。私とは、脳のプログラム修正の理性部担当であり、
バグの書き換え当番者の中の一人である。
いいねぇ、脳がどういうものかわかってもいない時点で
なんでもかんでも脳の機能か。そりゃ楽だな。
私とは、脳が作成して実行したプログラムの不具合を発見し、
脳にプログラムの不具合の書き換えを依頼する、
脳内の品質管理者である。
>>765-767 エンジンの回転数を上げるほど音の間隔が短くなるが重ならないってんだろ。
何ってなんだよの時点で説明できん方が悪いし、語ろうとすんなってことだな。
>>770 君は何も分かっていないね。
論理的にいって、自分の脳が自分の脳を完全にモニターできる
はずがない。
つまり最初から分かるわけがないということが
分からないというのが君の駄目なところ。
>>770 確かに脳がどういうものかわかってないけどその脳の機能を超越して霊魂が実在するなんてのは
それこそトンデモ。
最高位の私は結局肉体としての脳に縛り付けられた不自由な自縛霊だろ。
よく自爆するからわかる。
こうも考えられる。
『私』は鏡に映った像である、と。
動いているシステムを映し、システム自身が自身を観察する為の鏡像・・・。
で、当然、鏡自体も、システムを成立させる為の部品の一部。
で、鏡自体はシステムからは観察できる、と。 (ん?できるのか?w)
鏡像であるという意味に於いて、「実体は無い」という言明は成立する、と。
唯識の合わせ鏡発言や名無しさんの鏡理論は、イイトコ衝いてたのかも・・・?w
>>773 分かるわけがないということが
分かっているからこその
>>770だということが
分からないというのが君の駄目なところ。
>>770 反証が確立されないうちは
脳の機能でいいんじゃね?
778 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/14(木) 17:12:15 0
>>771 :考える名無しさん:
>脳内の品質管理者である。
はいそうともいえるかもしれません・・・では
その品質管理者ってどんな人なんですか?
なんか余計「私」が判りにくくなってません?
>>775 :考える名無しさん:
鏡の事はわかった・・・しかし
>動いているシステムを映し、
この鏡が映している「動いているシステム」とは一体何者だ?
779 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 17:14:03 0
>>651 >『私』から見た、『私』以外である「客観的存在」についてはいろんな属性に分類してみたり、
>いろんな角度から分析したりいろんな表現を使って説明してみる事ができるであろう
>それら全ての、客観的存在を認識している『私』という基点的な存在性は唯一絶対であり
>その他の客観的表現で表す事など、原理的に考えても不可能である事は言うまでもない
>完全なる主観的存在である『私』を、客観的存在として扱おうとする知能の低さには開いたクチが塞がらんよマッタク(笑
『私』という主観から見た、主観以外である「客観的『他者』存在」については分析できる、ということだ。
これが自然科学の営為である。他者の脳を解析することで、自分の脳構造を把握できる。
『私』という基点的な存在感覚についても、脳が「私」を発生させる装置であることも、
他者の脳を解析して、自分と別人である他者存在構造を、自分構造に置き換えれば、
脳内器官によって発生する架空の概念、客観的「存在の構造」に帰着させるということだ。
最高位の書き込みは○○的、○○性、という勝手に解釈して定義した俺様哲学風用語が多い。
曖昧な雰囲気だけで本人も自分で何を言っているか理解していない。
781 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/02/14(木) 17:28:21 0
>>735 脳の随伴現象であると言うことは、いつ言われ出したことなのでしょうか。
説明以上の証明はなされているのでしょうか。
最高位は自分の文章を哲学と言っているが、
自分を中心とした自己中心的な世界観を書きたいだけだろうな。
自由にやればいいと思うよ。
個人の主観を書いた私小説は、個人の自由な行為だから間違っていないよ。
783 :
775:2008/02/14(木) 17:33:42 0
>>778 その問いが発生するなら、もう一歩進めて、
鏡像が、所謂一般的に言われる「自我・自我意識」であり、
「動いているシステム」が『私』ということで手を打とうw
784 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 17:35:46 0
>>632 >「我あり」が原因で「我思う」が結果の場合は、ややこしすぎてわからないが、諦めず考えてみた。
前掲の『論理学入門』がお薦め。
普通の論理学本じゃなくって本当に面白いんですよ。
>このことは、石ころも認識する(影響される)主体ともなりうることも示している。
明らかに、物理学的「原因」が推論の「原因」に摩り替っています。
632さんが書いているような狭い推論能力では、赤ん坊が持っていたミカンが落ちていたことから、赤ん坊が手を放したというミカン落下の原因が推測できないような気がします。
「結果を知る」ことが「原因を知る」ことの原因になることもあるのですよ。
「我あり故に我思う」としても意味が同じ。
因果律では原因と結果の対が把握の単位。
たまには『貴方』のこと思い出してあげてください。
787 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 17:52:01 0
>>647 >なんで、こんなことしたんでしょう?
テカルトの目的は懐疑論の論駁というコンテクストを考えて欲しいですね。
788 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 18:04:38 0
>>785 >「我あり故に我思う」としても意味が同じ。
それだと、まず「我」があることを確信する人が必要になってきます。
これは論理的にはP⊃Qを真とした場合、その<逆>のQ⊃Pという誤謬推論になりますから、このテカルト的ケースにおいては「意味が同じ」にはなりません。
>>788 「ゆえに」の使い方(therefore)が間違ってるだけじゃないの。
>>788 「我」があることを確信する人が存在しなければ、「我思う」と言えないのでは?
>>782 単なる自己主張はルール違反
スレルール読んで出直せ
そういやじいさんVS唯識ってのは見ないなw
793 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 18:15:22 0
>>705 >と、(一部、或いは全部を)逆転できるかどうか・・・。
>大きなポイントですね。
というか論理的には、「我思う、故に、我あり」 は、そもそも <我ナシ 故に 我オモワナイ> と同じ意味(同値)ですから、「逆転」というならコレの逆転でなければならないと思いますけど。
>>791 自己主張乙。
お前のルールがみんなのルールではない。
795 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 18:22:41 0
796 :
素人:2008/02/14(木) 18:28:25 0
そうですか。では、逆転という言い方は取り消します。
何と言ったらいいでしょう・・・。
移動?配置転換?入替?
論理学には適切な用語があるんでしょうね・・・。
何かふさわしい言い方がありますか?
797 :
素人:2008/02/14(木) 18:31:04 0
>>790 それは、「人」で宜しいのですか?
「我」とか「自我」とか「自我意識」とか、「私」とか「主観」とかでなく、
「人」でよいですか?
>>794 http://academy6.2ch.net/philo/ ◆ 哲学板 ローカルルール ◆
◇当掲示板の趣旨
学問カテゴリーに属する哲学を扱う掲示板です。
「 学術的な哲学 」から「 一般教養としての哲学 」
「 個々の経験、人生観、世界観からの哲学へのアプローチ 」なども趣旨にふくみます。
ただし、あからさまな人生相談や単なる自己主張といった類のものは、趣旨の対象外です。
みんなのルール。
よく読め。
規則(ルール)に従うとはどういうことか
800 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 18:44:48 O
>>784 私のいう推論能力はかなりでかいよ。スレの流れで推論と言ったが、原因結果の一連の流れを推論と表現した。
赤ん坊が持っていたミカンは、様々な原因が条件となり必然的に落ちた。
その赤ん坊は原因の影響を受けている。
石ころのくだりは、指摘どおりだ。ただ、だからこそ「考えうる」と可能性を表現した。
私は「認識する対象」の存在は認めているが、まだ物質の存在については解らないというのが正直な答えだ。
801 :
ほら:2008/02/14(木) 18:45:46 O
だから前から言ってるだろ
「われ思うゆえにわれあり」を論理的に考えるならば
命題P「命題Pは存在する」
として考えるべきだって
これの否定はあるパラドクスになるんだよ
この自明性こそが哲学で問われるべきなのだ
>>798 このスレッドにおいて、どのレスが自己主張かを最終決定する権限は
お前にはない。
お前は何度もしつこいので、俺から見たらお前は非哲学的目的で
ストレス解消目的の悪質な粘着質の自己主張だ。
荒れる原因だから、お前こそここから出て行け。
803 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 19:43:00 O
>>785 「我あり故に我思う」でも「我思う故に我あり」と入れ換えても意味が変わらないとか、相互依存とかいう人はがいる。
このスレで二番人気(一番人気は最高位)のデカルトは、この意味で使っていたのかもしれない。
それでもデカルトは原因結果の法則を無視して、「我」を証明することはできない。
なぜなら、原因結果の法則を存在を否定して、なおかつ「我」を証明したとしても、
確定した「我」が次の瞬間消え失せていたり、「我」が全く別物である「みかん」に変わっているだろう。
それはなぜか?空間や時間、はたまた思考までも無秩序だからである。
貴方が今見ている携帯やパソコンはそこに存在するからあるのではない。
一秒前にそこに存在していたから(←原因)が、今目の前に存在しているのだ(←結果)。
これは物質の存在を説明しているのではなく、原因結果の法則とはどういう意味か示した。
デカルトが「我」の存在を証明したとするなら(間違った証明でも)、やはり彼の世界観を支配するのは原因結果の法則である。
思考も思考が存在するからあるわけではない。思考が存在する一秒前から思考が存在する。
だから今も思考が存在するのだ。
ところで私の考えだが、思考の原因を遡ると、「我」から飛び出る瞬間が必ずある(私のいう「我」は認識する主体である)。
804 :
一般人:2008/02/14(木) 19:47:23 O
803は俺だよ。
忘れたが『論理学入門』を教えてくれた人ありがとう。実は近々哲学を勉強したいと思っている。もしかしたら新しい考え方が開けるかもしれないから、暇があったら読んでみる。
805 :
ほら:2008/02/14(木) 19:59:12 O
読めば分かるよ
「原因」という言葉にやたらこだわっているから
名無しだろうが、たいていは分かる
言葉の使い方、要、要での単語の使い方
書いている際の一貫的な部分
関心のある箇所
そういうところから推察する
そうではない単発レスの方が分かりにくい
難しく考える必要はないだろう。
何かを考える時に、自分が存在する事と自分が考えている事の二つは
否定できないというだけじゃ。
この二つの文章を「ゆえに」と繋げるから、文章として奇妙な印象を与えてしまう。
存在していると考えているの二つの事実が、二元論になる大本だと
わしは思っておる。
807 :
一般人:2008/02/14(木) 20:57:58 O
今持てる知識で、とにかく疑ってみよう。そこから私の哲学(?)は始まった。
まず、目に写ったり、感じたりする回りの景色は本物なのだろうか。映画マトリックスの用に幻覚なのではないだろうかと疑った。
さらに、映画マトリックスでは幻覚を見ている擬似的な体の他に、本物の本体が存在した。
もし私が仮想現実を見ているとしても、私の本物の本体が存在すると安易には言えない。本物の本体が存在することすら疑わしい。
では私は無なのか?いや待てよ。「何かを思っている」。周囲の世界が存在しなくも、
または本体が存在しなくても「何か思っている」と言う事実は存在する。
「何かを思っている」のは誰か?安易に私と思ってはならない。疑うのだ。私か?私以外のものか?
私以外のものが何かを思っているとしよう。いや、ちょっと待て!この仮定をしたのは誰だ?このように思ったのは誰だ?私か?私以外か?
以下無限ループが続く。
この「誰か」が、私か私以外のものかは結論がでない。
事実は「何かを思う」ことができる「誰か」が存在すると言うことである。これこそが「我」の正体である。
「我思う、故に我あり」は、デカルトがどうであれ、私はこのように考えまし
た。
809 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 21:29:36 0
>>790 >何と言ったらいいでしょう・・・。
というか、反証、論駁、論破的な意味合いではなさそうですね。
いろんなレスが重なっててうまく言えませんが、元の「逆転」という意味は
>「我思う、故に、我あり」
>「我あり、故に、唯物論は間違い」
そしてその隠れた論理的帰結
∴「我思う」ゆえに「唯物論は間違い」
までの論証を形式は妥当だが不健全な仮言三段論法として設定しているようですね。
でそれを覆したいということなのでしょう。
しかしそうだとすると単純に冒頭の仮言三段論法を覆すとなれば
「唯物論は正しい、故に、我ナシ」
「我ナシ、故に、我オモワナイ」
∴「唯物論は正しい、故に、我オモワナイ」
にならざるを得ないような気がしますけど?
どうも三段論法はもとの命題(式)を<逆>や<裏>に入れ換えても成立しそうにないですね(誤謬形式だから)。
<対偶>なら成立しますけど。
A⊃B
B⊃C
∴A⊃C
¬C⊃¬B
¬B⊃¬A
∴¬C⊃¬A
お前等低脳はだれかの哲学を繰り返してるだけ。
そんなもんは哲学じゃない。“言葉遊び”だ。
ここのレベルが如何に低いかをまず知れ、新書でも何でも読み漁れ。
否。その前に、科学全般、数学、言語を徹底的に勉強しろ、
そして初めて哲学のスタートラインに立てる。
兎に角お前等は甘いんだよ全てにおいて。
ロムってる奴等に笑われてる事に早く気付け。
さようなら。
811 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 21:44:32 0
補足
>しかしそうだとすると単純に冒頭の仮言三段論法を覆すとなれば
ごめん、「覆」ってないwというか、対偶をとっただけだった。
同じ意味の別表現だ。
>「我あり、故に、唯物論は間違い」
何で我があると唯物論が間違いになるの?
我が幽霊だからだろうな。
815 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/14(木) 22:21:40 0
>>783 :775:
>鏡像が、所謂一般的に言われる「自我・自我意識」であり、
>「動いているシステム」が『私』ということで手を打とうw
そういう言い方だと間違えているとはいえないけど、自我の全体像を単に区分けしているだけであって意味があるとは思えない。
前の「脳内の品質管理者である。」と同じである。
例えば「我思う故に我あり」と言う文の当てはめると。
「我あり」がシステムであり我思うが「我あり」になるんでしょう。
しかしデカルトは「我思う故に我あり」と統合して言いきっている。
それを鏡に分解するのは話が退化してるのでは?
分りにくくなっていると私は思う。
「私」を更に区分する事は自己言及の矛盾を生むだけだ。
>
816 :
考える名無しさん:2008/02/14(木) 22:23:06 0
新書ってどんな新書だろうね?
知識の出し惜しみじゃなくて意見書けばいいのに。
誰かの哲学を繰り返すことが言葉遊びであるというのはちょっと変だね。
統語的にではなく意味論的に誰かの哲学を繰り返すことが
出来るんなら、とりあえずある程度哲学は分かっているのでは。
819 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 00:28:03 0
>>807 >私以外のものが何かを思っているとしよう。
>いや、ちょっと待て!この仮定をしたのは誰だ?
>このように思ったのは誰だ?私か?私以外か?
↑
せっかく、ここまではマトモで良かったのに
その下からは、まるでダメだな
↓
>この「誰か」が、私か私以外のものかは結論がでない。
病院に行って下さい(苦笑
私以外のものが思った事は、私は自覚できんのよ
というか、自覚してる時点で、それは『自』なんよ
キミの言っている事は「私は他人なのかも知れない」であって
これは論理的に成り立たっていません
思いを自覚していながら
それなのに、「これは他人が自覚しているのかも知れない」
なんて考える時点で、「大丈夫か?」ですよ マジで
その事が、本気でわからないのでしたら、やはり病院に行った方がよいでしょう
820 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/15(金) 00:29:20 0
>>676について
喩えで挙げた内容と実際を混同されては困りますね。
PCを身体としたらどうでしょうか。
とりあえず箇条書きに致しました。
一、「私」の置き場所(何を指して「私」なのか)
1.この身体 2.五感と意識間(クオリア) 3.意思 4.前者とは違うもの
二、「私」と身体との関係。
>>481 三、二に関連して「知能」等が物理現象でない「私」を認識する手段。
>>663 四、三に関連して「知能」は身体の機能ですか?「私」の機能ですか?
>>676 後者ならば「物理現象でない知能」とは何ですか?
この問いに対する答えは
1.説明されるか、2.分からない、のどちらかで結構です。
尚、
私を物理的に還元、我思うの否定云々、私を物理的に説明
唯物論が答えるべき、
等々の逆質問はループの同道巡りですので止めてください。
そして他の方のお考えもお聞きしたいですね。
821 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 00:45:30 0
>>720 知りません
ただ、物理的要素に還元できない という事は論理的に明らかにされました
ですから現時点で、「唯物論は間違である」という結論は、出ている という事を言っている
それだけです
その事に対して、何か文句ありますか?(笑
>722
彼らが理解できるなんて、思っていませんよ(笑
彼らはバカですから
アホな質問やツッコミをする係です
私の回答を読んで、マトモな人は理解できるでしょう
単に、それが狙いです
ですから
アホはアホなりに役に立っている かも知れません(爆笑
>>723 パソコンは、ある物理状態に対して、便宜上で名前を付けられているだけであって
元々、パソコンとして絶対的基準で存在しているのではありませんよ
以前に何度も説明しましたが、たとえば「島」は存在しますか?
「島」というのは、海面に対して、出ていれば島であり
出ていなければ島ではなく、海中にある突起物のようなものでしょう
要するに、物理状態に対する、相対的な「呼称」にすぎないのであって
絶対的に「島」として存在するのではないのですよ
便宜上で付けられた「呼称」です 呼称
パソコンも同様です
>>821 >私の回答を読んで、マトモな人は理解できるでしょう
まともな人は、君のような人間がまともだとは思わないよ。
>パソコンは、ある物理状態に対して、便宜上で名前を付けられているだけであって
>元々、パソコンとして絶対的基準で存在しているのではありませんよ
人間も同じですが。やっぱり馬鹿なんでしょうか。
>>821 >ただ、物理的要素に還元できない という事は論理的に明らかにされました
明らかじゃないんだけど。
君の思考能力では、物理的要素に還元できないということが明らかになった、
すなわち君の能力の限界がわかっただけなんだよ。
哲学的な思考ができるなら、君は自身の無能さを証明することはできても、
他人に対して言及することは不可能だということがわかるはず。
それがわからないのは、君が馬鹿だからだよ。
>>822 電柱とか他人も同じ様に言えるんだけどな。
なら自分にも当てはまるじゃん。
825 :
824:2008/02/15(金) 01:00:59 0
826 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 01:15:46 0
>>822 >まともな人は、君のような人間がまともだとは思わないよ。
またまた根拠が書かれていない
普通に会話できるようになってから一人前の事を言ってくれよ
>人間も同じですが。やっぱり馬鹿なんでしょうか。
その発想が、前時代的
現代哲学的な問題意識であるところの『私』の本質が、少しでも理解できていれば
そんなバカな発言はしない
>>823 いやいや
還元してくれれば済むはなしだから、さっさとやってくれればいいんだよ
さーさー遠慮しなくていいからさ
今ここで、さっさとやってチョンマゲ
>>824 自分の体には当てはまりますね
しかし『私』には、当てはまらない
そこんとこが理解できるかできないかが
現代哲学を理解できるかできないかの境目かな
理解しようとしてごらんよ 怖がらずにさ(笑
最高位の言うような私なら人類史上私はどんどん増えまくってておもろいw
なんせ物質に還元されないんだから。
>>826 >またまた根拠が書かれていない
根拠なんていらないし、そもそも君には認識できない。
これは君が自分自身の顔が見えないのと同じだ。
>現代哲学的な問題意識であるところの『私』の本質が、少しでも理解できていれば
君は理解した気になっているだけだよ。
>>826 >しかし『私』には、当てはまらない
なぜ?証明もできないくせにw
830 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 01:22:46 0
>>827 もうちょっと勉強してから来い
国語をな
>>828 反論できないなら、書き込んでくるなよ
>>830 君も反論できていないのに、書き込んでいる、人に言う前に自分からやめたまえ。
832 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/15(金) 01:23:36 0
>>828さん
最高位さん自身「私」というものが分かって居られない。
根拠を求めるのはこちら側であって最高位さんではありません。
最高位にとって都合の悪い書き込みがあるとこうやって必死で流す傾向があっておもしろい。
今度はどんなトンデモを流そうと必死なのやらw
>>826 自分の体に当てはまって「私」には当てはまらない?
じゃあ他人と自分の体は「私」にとって等価ってことでいいのかな。
835 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 01:25:55 0
>>829 では
『私』は、物理的な何なのか
お答え下さい
まぁキミらには、この質問の意味さえわからんのだろうが・・・・
最高位の私の置き場所はとりあえず2ちゃんねる哲学板のこのスレッド也
物理的な死にともなって消滅する私なら結局随伴現象説の私だな。
極めて論理的な結論だ。
>>835 はあ?君が証明できていないって指摘をしているんだが。
頭悪すぎるんじゃない?
839 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 01:33:04 0
>>831 もう少し、話の流れを把握してから書き込んではどうかね?
私は唯物論は間違いだ と論理的に説明してるんだよ
反論するなら、正面から論理的に、唯物論の正当性を解説しなさい
>>833 トンデモなんて、マトモに相手にせず流すのは当たり前だわな
>>834 なんで?
他人の事なんて言及できんだろ
それをアホみたいに、無神経に言及しちゃうのがキミらだ(苦笑
>>839 >私は唯物論は間違いだ と論理的に説明してるんだよ
違う違う。
君が自分では論理的に説明しているつもりというだけ。
実際には説明できていないし、君が論理的に正しいと思っている奴は一人もいない。
本当に哲学をしてる人ならば、最高位が如何に低レベルか分かる筈。
ロムっている方々でこのスレを鼻で笑っている方々が何人いることやら。
さて、おやすみ。
842 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/15(金) 01:44:57 0
>>839最高位さん
他人の意見に頼らずご自分で「他の人が、唯物論が正しい」と考えている
「理由」をお考えになってはどうですかな。
汚い言葉で罵ることが「純粋な存在性」の成せる業なら
他を傷つけ、自らも傷つく。「悪業の存在」であります。
>>839 何でって電柱や他人や自分の体には当てはまるんでしょ?
ならそういうことになるけど。
VMAXは俺の身体の一部だから
最高位はヤバくなるとムチャクチャ言って誤魔化すタイプ。
船場吉兆の女将みたいだ。
>>835 >まぁキミらには、この質問の意味さえわからんのだろうが・・・・
そう。
だから、まず意味が通じるように『私』を説明しろと皆言っているのだよ。
そして、君は皆を納得させる説明が出来ていない。
説明能力がないんだね。君は独りよがりしか出来ない。
847 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:05:25 0
「1人で爆笑する」は、語義論的には誤用である。
辞書では爆笑は「大勢の人が一度にどっと笑うこと」と定義されており、
1人で大笑いする場合は「哄笑」を用いるのが正しい。
848 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:16:55 0
私が知らないような私は私ではない。
849 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 03:19:23 0
/ヽ /ヽ
/ ヽ / ヽ
______ / ヽ__/ ヽ
| ____ / :::::::::::::::\
| | // \ :::::::::::::::|
| | | ● ● ::::::::::::::| 一人で爆笑?
| | .| :::::::::::::|
| | | (__人__丿 .....:::::::::::::::::::/
| |____ ヽ .....:::::::::::::::::::::::<
└___/ ̄ ̄ :::::::::::::::::::::::::|
|\ | :::::::::::::::::::::::|
\ \ \___ ::::::::::::::::::::::::|
850 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 04:31:06 0
>>838 答える事が、不可能である事実が、証明な
不可能でないなら答えてくれればいい
そしたら決着がつくんだよ
やってみなよ(大爆笑
できないなら、私の理屈が上回っているんだから、黙ってろ
>>847 >>849 三省堂 デイリーコンサイス国語辞典
ばくしょう [爆笑]
〈スル〉 どっと大笑いすること.
どっと 0 1
(副)
(1)人や物などが急に多く押し寄せるさま。
「人が―押し寄せる」
(2)大勢が一度に声をあげるさま。
「みんなが―笑う」
852 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 04:50:45 0
唯識のつっこみは完全スルーだなおいw泣き所はそこらしいwww
854 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 05:12:39 0
>>851 わかったわかった
私が間違いね
じゃぁ、辞書によると「大笑い」
ぐらいにしとけって事か
なんか、ちょっとニュアンスが違うんだけどな・・・
でも、一人で「爆笑だな」と発言するのも間違いなんかねぇ
堅苦しい事だな
関西人は、普通に使うけどな
いったい誰が決めたんかねぇ
だいたい「爆笑」が、辞書で定義されてるなんて思わなかったけどな(苦笑
単なる流行り言葉だと思ってたけど、いつからあんの?爆笑っていう言葉
しかしよく恥じる事なく哲学者最高位などというトリつけれるな。
身の程を知らないとは正にこの事なんですね。
身の程を知らない奴が哲学とはこれ如何に。
856 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 05:34:33 0
>>853 唯識くんのは、会話になってないだろ
何回説明しても、彼は理解できないんだから、説明しても同じ
他の人の参考にもならんし、疲れるだけだ
>>855 うむ
『私』に関する全く新しい観点に気がついてる人が
永井均先生を初め、複数おられる事を、私は知らなかったからね
しかし、それを自力で捻り出し
更に応用して、唯物論を完全論破した人は、歴史上初めてなんだから
あながち大袈裟な表現でもあるまい
857 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 05:49:52 0
昔、弁証法的唯物論を論破してください。
って、スレあったな……
>>856 そこまでいうなら取りあえずブログでもつくって世界に発信してみては?
永井先生に連絡とってみるのも面白いかもしれない。
>>721 「無には宇宙誕生させる因子を含まない」←これは有りなんだね?
/ ..::::.. lヽ. l::::. ヽ
// U ::::::イ:::: :l ヽ:: l::::::. ノi ヽ
/ / ::/ ::::/ |::::: l斗≠ヽ|\::::..{_}. ' ,
/ /::: ::/ |:::/ |:::::: :l 斗千´ ヽ::::: ...:::::i
/:::: :::::/l/ |/ __ lヽ :::::l ´/ ○ }:::::::: ...:::::::::::l
./ ::: ::::::l 斗升 ヽ ',::::l 弋 ノ }::::: :: .::::::::::::::l
i :::/|:: ::::::::}.´/ ○ } ゝノ `ー ´ ,イ:::::: ::: ..::::::::::::::::l
l::/ l:: ::::::/ 弋__.ノ .|:::::: : : :::: ::::::::::ヽ::::l
|' l:::::::/ ,, U:::::: : : : ::::∧ソヾ ヽ}
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l::::ハ U ャ .フ |::::::: : : :::/ソ
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.l :::::: |',:::| > 、 __ ァ<´ |::::::/|:/ き…「機械的唯物論」者 さんは136個だそうですけど、
l ::::: | ヾl ム}_/ > |::::/ /
', ::::::| //:::ヽ\/ /|::/ さ、最高位さんは、い、いくついただいたんですか?
ヽ::::| / \A:::/ / |∧
861 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 07:24:26 0
>>820 >一、「私」の置き場所(何を指して「私」なのか)
>1.この身体 2.五感と意識間(クオリア) 3.意思 4.前者とは違うもの
置き場所というのが、よくわからんが
1の、この体 だろうね
しかし『この体』が、なぜ『私』なのか、その因果関係は不明
この体の物理的要素に『私』を発生させる原因になるものは特定できない
故に、唯物論崩壊
>二、「私」と身体との関係。
>>481 >
>三、二に関連して「知能」等が物理現象でない「私」を認識する手段。
>>663 これらは「わからん」だね
というか、解明のしようがない
それ故に、これまた唯物論は崩壊せざるをえない
>四、三に関連して「知能」は身体の機能ですか?「私」の機能ですか?
>>676 >後者ならば「物理現象でない知能」とは何ですか?
これは、もしかすると身体の機能かも知れないね
まとめ
結局そんな事を、いくら考えても『私』を否定する事はできない
実際に出来ていない
しかし、最低ひとつは確かな結論が出ている
「唯物論は間違いだ」という結論である
なぜ必死に、その事実から目をそむけようとするのか 不思議
まず、なぜそこから逃げるのか、その理由を述べたまえ
862 :
素人:2008/02/15(金) 08:06:54 0
>>最高位
馬鹿さ加減に一層磨きがかかってるなw
どうやら、私の開いた口が閉じることは永遠にないようだ・・・
(´ー`)y━~~
863 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 08:14:03 0
>>826 >現代哲学的な問題意識であるところの『私』の本質が、少しでも理解できていれば
ほう、『私』の本質は理解できる物事のようだね。
それだったら、『私』の本質について記述できるだろ。
いままで『私』の本質について記述しているのを見たことが無い。
デカルトでもウィトゲンシュタインでも永井でもきちんとした哲学者は「私」に
ついてきちんと記述している。哲学者最後位じゃ無理なのかな。
あれ、痛いと思うのは「私」なんだよな。
なら指切って痛いと思った時、指の傷と「私」に因果関係があるってことだ。
思う事と「私」が切り離せないんだし、当然だわな。
ということはなぜこの体が「私」なのかって問いは、他人の指を切っても
自分は痛くはないから、ようは他人がいるから、で決着するんじゃないの。
865 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 08:35:48 0
a. 就職 結婚 子供 責任 借金 税金 老後
b. ニート 2ちゃん 缶拾い のたれ死
866 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/02/15(金) 08:46:40 0
>>863 >デカルトでもウィトゲンシュタインでも永井でもきちんとした哲学者は「私」に
>ついてきちんと記述している。
では今ここで、きちんと記述してみてよ
>>864 それは、関係がある と言えても、因果関係とは言えないな
この体の何の要素によって、他人ではなく私であったのか
その原因的な関係を問うているのだよ
867 :
705:2008/02/15(金) 08:48:33 0
>>809 そうですねぇ・・。ポイントは、
>もとの命題(式)を<逆>や<裏>に入れ換えても成立しそうにない
という所でしょうか・・。
「あり」を「なし」に変換することは想定していません。
単純に、≪「我思う、故に、我あり」って、手放しで受け入れられるほど素晴らしい根拠と言えるの?≫
ってことです。また、705最大の目的は
≪「我あり」と「唯物論破壊」の関係が、「我思う、故に、我あり」という怪しげな関係にさえ届かない怪しさを含んでいる≫
ことを示したかっただけ。
(もっとも、厳密に言えば、「我あり」と「唯物論破壊」の間に「『私』は物理的に記述できない」を入れるべきですが・・・w)
個人的には、デカルトさんなんてどうでもよかったりするw
丁寧な返答ありがとうございました。
唯識の罠に嵌ったな>最高位
869 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 09:04:06 0
>>863 「本質」を君はどのような意味で用いているのだろうか。“根本の性質”と
いったことを指しているのなら、十分、最高位は語っている。
そもそも「私」について、どういう説明をもとめているのだ?
君の列挙した三氏も実は「きちんと」記述していない。もし、それができて
いるのなら、この問題は終わっている。
ちなみにウィトの『私』について、君の知見を聞かせてくれ。彼は『私』の
本質をどのように述べているのだ?
870 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 09:12:37 0
>866
>では今ここで、きちんと記述してみてよ
あなたの「私」についての記述を要求してるのだが日本語も理解できないの?
著作として発行されてるものは本を読めば済むこと。
ここにコピペするまでも無い。
>>869 >ちなみにウィトの『私』について、君の・・・・
これは、≪【ウィトの】『私』≫かい?それとも、
≪【ウィトの考える】【他者のものも含む『私』】≫かい?
それによって変わってくるんじゃないかい?
もっとも、貴方の立場からしたら「前者」しかありえないわけだが・・・・w
>>866 かなり因果的だろ。
実際、赤ん坊は言葉を話す他者がいないと言葉を覚えない。
つまり他人がいるから最高位はその問いを問えるし、「私」と
表現することもできる。
873 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 09:26:47 0
>>847 その言葉に不変の意味はないよ。辞書の定義は、過去にそのような意味で
使われてきた、という便宜上のもの。
なお「どっと」は必ずしも“複数の人”を意味しない。「不快感がどっと
押し寄せてきた」といった使い方をする場合もある。これは、大勢が不快
がっているということではなかろう?
また爆笑の「爆」は“はじける”という意味だと思われ、それなら一人で
爆笑しても問題ない。(破顔一笑)
874 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 09:42:13 0
>>871 >>869 によれば、ウィトは『私』をきちんと述べているそうだ。これは
>>869の文脈に沿えば、ウィトは『私』の“本質”を記述しているという
ことだろう?
だから、ウィトのそれを聞かせてくれ、と言っているのである。ウィト
の名をあげたのは彼であり、不当な要求ではあるまい。
875 :
ほら:2008/02/15(金) 09:57:20 O
この問題って、どの問題?
俺には最初から問題が見えないんだよね
そうそう、俺にはデカルトが抱えた問題と「わたし」の関連がまるで見えない
ウィトの関心も「言葉が何かを指し示すとはどういうことか」の方にありそうだ
永井は知らん
877 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 10:03:54 0
>>875 「私」とは何か、という問題に決まっているだろう。
このスレは、それを語るのが旨ではないのか?
私とは言葉だな
「・・・とは何か」という問題に蹴りを食らわせろ
それは言葉の使い方、説明を問うているだけだ
そんなものは擬似問題だ、にせものの問い
とっとと辞書をひけ
>>850 >答える事が、不可能である事実が、証明な
>不可能でないなら答えてくれればいい
>そしたら決着がつくんだよ
そんなので証明になってたら、数学は成立しないよ。
論理的な思考は君には無理なようだ。
>>861 >しかし『この体』が、なぜ『私』なのか、その因果関係は不明
最高位氏、あなたも実に懲りない方ですなw
因果関係を問う前に、『この体』と『私』の発生(存在の始まり)に
ついての関係性を明らかにする必要があります。
考えうる『関係性』は、4つしかありません。
1.『この体』=『私』
2.『この体』から『私』が発生した(またはしつつある)。
3.『私』から『この体』が発生した(またはしつつある)。
4.『私』と『この体』は別々に発生し、過去のある時点で結合した。
1の場合、『この体』が存在して、それが『私』でなかった可能性はありません。
2の場合、『この体』が存在して、かつそれが『私』でなかった可能性はありますが、
『私』が存在して、かつそれが『この体』でなかった可能性はありません。
3の場合、『私』が存在して、かつそれが『この体』でなかった可能性はありますが、
『この体』が存在して、かつそれが『私』でなかった可能性はありません。
4の場合、『私』が存在して、かつそれが『この体』でなかった可能性も、
『この体』が存在して、かつそれが『私』でなかった可能性もあります。
このように、『私』が存在して、かつそれが『この体』でなかった可能性が
あるのは、3と4の場合だけなのです。
したがって、すでに存在する『私』が「『この体』が、なぜ『私』なのか」と
問うても答えがないのは、1と2の場合は当たり前なのです。
それは論理的必然であって、因果関係の介入する余地がないからです。
3と4の場合は何らかの答え、因果関係があって然るべきです。
あなたはしきりに「因果関係が不明(というかあり得ない)と力説して
おられますが、これ即ち1か2が正しい、要するに唯物論が正しい、と
力説しておられるに他ならないわけです。おわかりになりましたかw?
882 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 10:20:51 0
>>879 君も、辞書を信仰しているのか。いい趣味だ。
唯識氏から
>>869 まで、このスレ主の最高位に問うているのは「私(の本質)
とは何?」というものばかりではないか。
それから、その問いが擬似だというのなら、本物の問いを君が示せばいい。
それだけの話しだろう?
Aとは何か、Bである
Bとは何か、Cである
Cとは何か、Dである
Dとは何か
このように続くだけだ
辞書では説明が循環している
これは無限後退のを防ぐが、実質的な解決にはならない
これは「、、、とは何か?という問いに欠陥がある
この問いが「用語の説明を問う問い」でしかなく
こんなことに頭を使ったところで知識は増えない
時間の無駄
884 :
147:2008/02/15(金) 11:17:29 0
>>881 時間がないので簡単に疑問点をあげておきます。
まず、1の「この体」。“この”と指しているのは何ですか。「この体」と
いった特定の対象を指し示す表現は“主体”を抜きには成立しない。
もし「体」一般について語るのなら、これに対置されるのは『私』ではなく
“心”とか“精神”という話しになり、テーマからズレてしまう。
『この体』は『私』によって意識され言表されたもので、『私』の前提には
ならないということです。
885 :
素人:2008/02/15(金) 11:41:34 0
886 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 11:43:07 0
>>883 ほら君、このスレ(他もそうだろうが)には、無駄の効用を知るものが集まっているんだよ。
それから、君が“無駄”なんぞという言葉を使っちゃ駄目。「働かない人間は無駄な存在」
と言ってはばからない識者もいないこともないのでね。
そういう君のような恵まれた人に対して、私は敬意もって“高等遊民”との呼称を献呈して
いる。
ついでに、私は漱石の『それから』が好きである。
887 :
考える名無しさん:2008/02/15(金) 13:33:32 0
ここまでの経過をずっと見てきたし書き込みもしてきたけど、唯識さんはもったい付け過ぎだと思う。
中身が無いんだったら始めから何も言わない方がましですよ。
中身の方を期待している者にとっては疲れるわ。
同じことの繰り返しは虚しいもの
働かないことが無駄かどうかは個人の価値観しだい
労働することを無駄と考える人がいてもいい
無限後退や循環は哲学的には斥けられる
それが無駄だけど楽しいという哲学者はまずいない
それと俺は職はあるし、働いても優秀だ
ただ金のためよりも、知のために労力を使いたいだけだ
889 :
887:2008/02/15(金) 14:19:10 0
前にも書きましたが、<我思う⊃我あり>≡<我ナシ⊃我オモワナイ>を論駁すれば唯物論が正当化できるとする立場があるとすれば、それってどういう立場?なのかそれがよく解らないんですよ(そこにあまり関心が無いということも手伝ってか?)。
>>884 >“この”と指しているのは何ですか
文意が必ずしもつかめませんが、ここで「この体」というのは表現ないし観念
のことではなく、その表現ないし観念によって指示されている
「特定の対象(物理状態)」のこととご理解ください。
ですから、表現している主体は何でも、いなくても別にかまいません。
第三者が「哲学者最高位の私は、哲学者最高位というこの体である」と表現しても、
意味は同じです。
>「この体」といった特定の対象を指し示す表現は“主体”を抜きには成立しない。
これはよく意味がわかりません。特定の対象でなく抽象的な対象一般を指し示す
表現でも、およそ表現は主体を抜きには成立しないと言えるでしょう。
「この体」でも「体一般」でも、「この人間」でも「人間一般」でも
「この素粒子」でも「素粒子一般」でも、何でも同じことです。
「『この体』とは、私の観念であって、その指示対象となっている物理状態など
存在しない」という考えは有り得るでしょうが、この場合もまた
「体一般」でも「人間一般」でも「素粒子一般」でも、何についても同じことで、
要するに、物質・物理状態などというものは一切存在しない、ということになります。
これは
>>881でいえば、
5.『この体』と『私』のどちらか(あるいは両方)が存在しない。
という立場になりましょう。
ただし、この立場ですと、「この体が私である(他の体は私でない)」が
そもそも成り立たないので、「『この体』が、なぜ『私』なのか」という
最高位氏の疑問はやはり無意味である、というほかはありません。
誤解されると困りますが、
>>881は『私』『この体』の意味やその関係について
何かを主張している文章ではありません。「『この体』が、なぜ『私』なのか?」
という疑問に答えがないことは、唯物論の是非とは関係がない(というか、
むしろ唯物論を支持するものである)、ということを論じているわけなのです。
シンプルに考えようぜ。
最高位の論理って実にシンプルだから。
1 「最高位自身(他ならぬこの私)」というものの説明のつかなさは異常
2 唯物論は全てを説明付ける理論だろ?
3 でも唯物論は「最高位自身(この私)」を説明してくれないから間違いだ
こういう論理。ああそうですかとw
要するに、
お前等、俺様の何がわかるっちゅうんじゃ ボケ
と開き直った立場ということね。
でも、最高位様は俺らの事をなんでもお見通しなんだぜ
世界中の科学論文を探しても最高位の作り方は書いていない
たった今、最高位によって科学は崩壊したのである
最高位の父ちゃんと母ちゃんがハッスルして作ったんだよ
最高位氏に代わってw、本来の彼の答えであるべきレスを入れておきましょう。
>>820 一、置き場所 : 消去法により答えは 4 。
まず、1でない理由。
・『私』は物理現象(≒物理的存在≒体)ではないから。
・『私』が「私のこの体」のことであるなら、他人がどうこうとか、コピーして云々とか、意味が無い。
感嘆子さんが言うように有無を言わさない論理的必然だから。
『私』が「私のこの体」以外であることは無い。コピー系のどんな思考実験も無意味。
また、「私のこの体」は各部が微細に入れ替わっているのに、なぜ『私』の同一性が保たれるのか、
どこまで変わったら同一性が保てなくなるのか、遅々とした変化なら構わないのか、
考察すべき点が山ほど出てくる。(・・・・・アンパンマンの同一性はどこにあるのだろう・・・w)
・『私』が「私のこの体」に属するなら(一部であるなら)ば、「「私のこの体」のどれ(どこ)」が『私』なのかが問われねばならない。
・『私』が「私のこの体」に、付着或いは内蔵されるならば、具体的物理的にその場所がなければならない。
また、相互に影響する際のその影響の仕方も同時に問われねばならない。
・『私』が「私のこの体」をも包含する形で(ネットワーク的なもの・システム的なものとして)相互作用するものであるならば、
『私』は実体的なものでなく、「機能」や「働き」としてあるものとなる。
(当然、その存在基盤は「私のこの体」の存在如何に拠る。)
最高位氏に代わってw、本来の彼の答えであるべきレスを入れておきましょう。
>>820 一、置き場所 : 消去法により答えは 4 。
まず、1でない理由。(その2)
・「私のこの体」の有する諸条件が『私』を成立せしめているのでないから。
・『私』が、『存在性』という言い方により「今ここにある」【性】を主軸とするなら、
「私のこの体」といったような個別性とは切り離され、寧ろ「普遍的」呼称としての性格を
その大きな特徴としなければならない。また、実体的なものでなく、概念的存在ということになる。
また、主観との絡みで、一個人の中でのみ完結する(一個人の内面に於いてしか成立しない)ものであるなら、
常に≪【私の】『私』≫≪【私の】『存在性』≫という修飾語付きで述べられねばならない。
(当然それは、「鈴木さんの『私』」「田中さんの『私』」「ジェームズさんの『私』」等を許容するものでなければならない。)
つまり、「私のこの体」のみにあるのではなくなる。
898 :
2/3:2008/02/15(金) 20:22:57 0
最高位氏に代わってw、本来の彼の答えであるべきレスを入れておきましょう。
>>820 一、置き場所 : 消去法により答えは 4 。
次に、2でない理由。(クオリアという用語は今は使用しない)
・五感と意識間であるならば、以下が問われることになる。
物理的に(肉体の一器官として)「そこにある」か、「機能や働きとしてある」のか、
「神経細胞のパルスのパターン・集積としてある」のか、オカルティックに「未知の何ものかとしてある」のか、と。
いずれにしろ、「私のこの体」と密接な繋がりを持つ。(詳細は上記「1でない理由」とほぼ同じ。)
・五感と意識間であるならば、『私』は橋渡しをするものでしかない。
感受し、意識へと情報を伝達するだけで、意識の方が上位にある。
(橋渡しの際に、あれこれ命令できるような物なら、それこそそれが「意識」と呼ばれてもいいのではないか。
バトンを受ける「次の意識」は不要だ。)
※けれども、より高次なものとして感受や意識を統括する「超意識」とする考え方は面白いかもしれないw
(それでも、「どこにあるか」「どのようにあるか」「どのように肉体と相関しているのか」という問題は依然残るわけだが・・w)
次に、3でない理由。(「意思」と書かれているが、解り易く「思惟」と
・「意思」は『私』により発せられる。なんとなれば『私』は【全ての行為の】主体なのだから。
・仮に、「意思」を主体としての「思惟」と読み替えてみても、そうした思惟がどこで行われているのか、
という問いは、今までと変わらず残り続ける。単に「思惟」や「意識」を『私』と呼び換えたに過ぎなくなる。
・また(「大宇宙の意志・意思」と使われる時の「意思」と同様に)個人の生や存在を司るものとしてのもの、
生きようとする力そのもの、などと言い出せば、それは宗教の領域へ踏み込むことになる。
(仏性や菩提心等と同種のものとなってくるw 或いは「霊性」とか?www)
899 :
3/3:2008/02/15(金) 20:24:16 0
最高位氏に代わってw、本来の彼の答えであるべきレスを入れておきましょう。
>>820 二、 : 不可知。或いは、不明。
相互に干渉し合っていることは、様々な経験から推測できるが、
どのような仕組みで干渉し合うことができているのかはわからない。
三、 : 「知能」に限らず、「知識」や「記憶」、「思考・思惟」など、
あらゆる精神活動は『私』によって為されるので、『私』の有する能力である。
「知能」が『私』を認識するのでなく、『私』が「知能」或いは「思考」によって(用いて)自身を知覚する。
四、 : 『私』の機能であるが、「私のこの体」と結びついているが故に
その制限を受ける。(痴呆、脳への損傷等)
「物理現象でない知能」とは、『私』の思考そのもの。
う〜む・・・・。思いつきでやってみたが、やっぱり無理があるな・・w
自分の考えでない(自分が消化吸収咀嚼し切っていない)から、当然と言えば当然かもしれんが・・・。
901 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/16(土) 03:33:14 0
最高位さん始め、みなさんのお答えにお礼を申し上げます。
色々精査出来そうですね。
最高位さんのお答え
>>820 一、が1とは意外ですね。
ありがとうございます。
速度落ちてるな・・
週末だからか?w
903 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 09:56:01 0
>>901 >最高位さんのお答え
>>820 一、が1とは意外ですね。
いや、きわめて常識的な答えだろう。
「私」の置き場所といえば誰でも自分自身と答えるだろう。
仏教でも私は色・受・想・行・識の五蘊から構成されると説明している。
この「色」は先ず自分の身体のことを示すことは間違いないだろう。
残りは一つにまとめれば「心」だね。心身二元論のデカルトの「私」
の把握の仕方とたいした違いが有るわけでもない。
ただデカルトは心身の夫々実体が有るとするところが仏教と違う。
904 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 10:17:50 O
般若心経=虚空=蒼空=Undercooled(坂本龍一)=心→現代=虚空+暗雲→虚空蔵菩薩→戦争→慈悲→ホロコース→虚空
905 :
キリスト者:2008/02/16(土) 10:23:34 O
仏教とはそういうもの。気高い人ってこと。すべては慈悲のもとにある。ただある部分冷たい。真言宗の持つ空洞の暗闇と地獄をも包括する全宗派のものうい慈悲とは二律背反しているように思う
906 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 11:01:53 0
>>904 「虚空」と「空」はインド哲学の概念として全く別のこと
何だけどね。元のインド語では全く違う言葉だよ。
907 :
3時で1時:2008/02/16(土) 11:19:06 0
俺は特定される1人の人間である。
すなわち「位置・特質をもった物体」「生命」「思惟・意識」といった側面をもつ生活主体である。
俺は「これ」でありながら「生きており」かつ「関係を免れない人間の1人として思う」のである。
環境、他者、もろもろの存在がひしめくこの世界が、俺という思惟体の描いた絵空事にすぎないのなら、
俺はなにもそれらとの「関係」を思うこともなく、そもそも「関係する」こともありえない。
いかなる存在との関係も無いのなら、この世から何も学ぶこともないし、何も論ずることもない。
俺たる思惟体の意識のシナリオから「いま」「ここ」「俺たる人間」が現前したのではない。
俺が意識する(気づく・理解する)というのは、俺の行為(分かっていて為すこと)ではなく、
「いま」「ここ」「もろもろと関係する1人の人間である」ことを「分かること・結果」なのである。
「いま」「ここ」「俺たる人間」が分かり、覚知・意識されるに至るまでには、
生体の感覚器官の働きがあり、記憶作用があり、その生体の活動を支えるエネルギーがあり、
無意識領域における数限りない「演算処理」のようなものが、対象化・概念・推理・分析・統一といった
思考の要素を支えるていたのだと言えるかも知れないが、
これは、そういった働きが「何か」によって「この人間たる身に働いている」というだけのことで、
このように「思って・居る」結果として俺は、まぎれもなく「ここに居る・俺」なのである。
908 :
3時で1時:2008/02/16(土) 11:21:41 0
「俺の体(物体+生命)」は、俺たる人間存在の体(側面)という意味であり、
俺の体は、俺という思惟体が生みだした観念物(絵空事)なのでもなければ、
俺という思惟体が所有手続きした道具、あるいは偶有として存在するのでもない。
生まれる前に俺が何か未決定の霊体として存在したのならば、この体は一つの偶有だが、
俺が未決定の霊体存在としてあったした事実はないので、この体は必然的に俺たる人間の側面である。
俺は物体としての側面をもつから、石につまずくし、横たわるし、持ち上げられるのである。
そういったいった事実はまったくなく、「俺の認識内容」だけが確実なのだとすれば、
俺という人間存在は現実には居ないのであり、意識の投影(観念物)にすぎないということになる。
俺はもろもろの認識(理解・解釈)をするが、これは俺に認識の能力があるというだけのことである。
「俺はここに居る」「俺はこうありたい」「俺はこうすべきだ」といった覚知は、
「1人の人間としての在る・このように」なのであり、他存在としてのそれなのではない。
俺は、生涯にわたっていつも決まった考え方・感受性・性格に縛られているとはいえず、
むしろ俺の思考の癖あるいは感受性、目的や価値観といったものは「変わってしまう」ので
何かしら固定した主観性をもった霊的存在であると見なすことはできない。
俺が「いま、思っている」という事実は、俺という思惟体が存在するということではなく、
俺という人間が、認識主体としても存在するという事実である。
909 :
147:2008/02/16(土) 12:55:31 0
>>881 1と2が唯物論的な見解かな? しかし、最高位は「この体」と『私』を=で
結んだことはなかったはずである。
また“発生”という言葉も使っていない。「この体に『私』が顕現している」と
述べたように記憶している。これは、貴兄の2に似て非である。ただし“発生”
も“顕現”も認識上の逆立ちであることを彼は強調している。
>>890 初めに何があるのか。「この体」ではない、ということである。一つの事象を
「この体」として見出し意味づけする、基点・起点としか言いようのない何か。
これを『私』と称しているのである。(これは私見)
あえて言えば、この『私』は“世界(唯物論なら物質)”に先行する。
ただし、空想的にしか語りえない“事象自体(混沌?空?)”に『私』が先立っている
保証はない。
唯物論は世界観であり、見出され整合的に意味づけされた(共同)主観ということ。
最高位から受けとったのは、上記のような見解です。
910 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 13:03:16 0
>>909 >一つの事象を「この体」として見出し意味づけする、基点・起点としか言いようのない何か。
それはいわゆる「自我意識」とどう違うのかな?
気がついたら「私」がいた、というだけではないか?
911 :
147:2008/02/16(土) 13:49:47 0
>>910 最高位は(私見では)自我と自我意識を分別している。自我=『私』であり、
『私』は対象を主観(色)に染めあげる(事象を“世界”として差異化する)。
この事態は『私』に還帰し、それを彼は自我意識と呼んでいるようだ。自己
意識に近い。
気がついたら『私』がいて、その『私』によって“世界”が見出された、と
言っているだけである。
この“世界”は、じいさんふうに言えば“主客の相即(これは超絶氏か)”で
あり、最高位もそれらしいことを述べていたように思う。
最高位は唯我論者ではないのでね。
912 :
素人:2008/02/16(土) 14:38:12 0
>>909 881、890に関して少し・・。
「この」と言われる時、そこには二つの『この』がある。
一つは、「自身に属する(所有される)もの」、
或いは「自身に最も近くにあるもの」を指して、【自身から】発言される場合。
(このスレ・この話題に於いては、こちらが多いし主となるし、
また厳密に言えばこちらのみであるべきなのかもしれない。
貴方の主張も、まさにこの点を指摘している。
≪主観から見れば「確かなもの」は 「『この』○○」 しかない≫ と。)
もう一つは、【直接話法の形式で】何事かが語られる場合だ。
貴方は、この形式で語られることをも良しとはしていないようだ。
たとえば、鈴木さんの、以下のような言明(事象)があったとしよう。
「ここは良い公園だ。私は行って、このお弁当を食べよう。」
これを直接話法で記せば、
鈴木さんは「【ここ】は良い公園【だ】。【ここで】【この】お弁当を食べよう。」と言った。
間接話法で記せば、
鈴木さんは、【そこ】が良い公園【である】と気付き、【そこで】【その】お弁当を食べようと思った。
となるだろう。
さて、貴方に問いたい」。
上の文の「ここ」「ここ」「この」は、下の文の「そこ」「そこ」「その」と、
同じか否か?
同じ対象を指しているのか、違う対象を指しているのか?
(※「だ」と「である」については、ややこしいので保留しておく※)
913 :
素人:2008/02/16(土) 14:41:29 0
>>912 あ・・・、推敲中の校正ミス。 《私は行って》を以下のように訂正する。
たとえば、鈴木さんの、以下のような言明(事象)があったとしよう。
「ここは良い公園だ。《私はここで》、このお弁当を食べよう。」
>>909 「私」と称してるのに物質より先行してるわけないじゃん。
915 :
素人:2008/02/16(土) 15:26:22 0
>>912 返答があってからにしようと思ったが、各部の修正・訂正も兼ねて重ねて問うておこう。
鈴木さんの、以下のような言明(事象)、
「ここは良い公園だ。私はここで、このお弁当を食べよう。」 a
田中さんの、以下のような言明(事象)、
鈴木さんは「【ここ】は良い公園【だ】。【私は】【ここで】【この】お弁当を食べよう。」と言った b
田中さんの、以下のような言明(事象)、
鈴木さんは、【そこ】が良い公園【である】と気付き、【そこで】【その】お弁当を食べようと思った。 c
さて、bの「ここ」「ここ」「この」と、cの「そこ」「そこ」「その」は、
同じか否か?
同じ対象を指しているのか、違う対象を指しているのか?
bの「ここ」「ここ」「この」と、aの「ここ」「ここ」「この」は、
同じか否か?
同じ対象を指しているのか、違う対象を指しているのか?
※ 注意されていいのは、
一番目aの文も、「私(素人)」から見た直接話法になっている点だろう。
もし、貴方が気になるのなら、「鈴木さん」を「私(素人)」に読み替えて貰っていい。 ※
ありゃ!cの最後は「言った」だな・・・。
大事な点ではないが、訂正版になってないな・・ orz
まだ飲んでないんだけどなぁ・・・www
917 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/02/16(土) 17:24:20 0
まぁ、宇宙には時間軸が一つしかないのでマルチスレッドの自作自演に落ち着くわけですよ。
918 :
一般人:2008/02/16(土) 18:37:46 O
頭を限りなく柔らかくするなら、「私」が物質である「体」に密着している必要はない。
最高位の主張は、そういう事じゃないんだよなあ。
みんな、最高位の主張内容が全然分かってないよ。
個と普遍てあるでしょ。
理論というのは、普遍的な性質を扱うのよ。
普遍というのはね、個と個にまたがる共通な性質ね。
個と個の共通の性質を扱うのが理論なのよ。
でも、個と個が現実に存在する「この時間・この場所」は
共通していないでしょ。
このような普遍的理論の落とし穴を最高位は指摘したいのね。
「個によって普遍的理論は破壊された」と最高位は主張したいわけ。
ところが彼は目立ちたがり屋だから個ではなく「私の個性」を
自己主張したいので、「私の個性」論の議論に彼は集中しているだけなのよ。
920 :
考える名無しさん:2008/02/16(土) 20:21:05 0
>>919 そういうことではないような気がします。
「理論」を法則に読み替えて思いっきり極端に言えば、人間の頭を切断すれば全ての人間は必然的に死にますが、その例外が最高位さんというようなことではないでしょう。
最高位さんの立場が永井(あと誰だっけ?)さんと同じスタンスだというならその限りではありませんけど。
最高位→伝説の哲学者?
>>915 >同じ対象を指しているのか、違う対象を指しているのか?
唯物論的に考えれば、同じなんだろうねぇ。
観念論的に考えれば、違うんだろうねぇ。 w
>>922 ということは、殆どの人間は唯物論的に考えてるってことか。
観念論的に考えてたら、日常会話は成り立たなくなりそうだw
生きていく上で必要なのは、唯物論的に考えること、で桶?
924 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2008/02/17(日) 02:17:57 0
>>923 :考える名無しさん:
とんでもない、観念論で日常生活は成り立っています。
「あそこのラーメンは上手いぜ」これは観念論です。
「そうかじゃあオレも食べよう」と即決。
しかし唯物論だとそうはいかない、あそこのラーメンは<旨味成分>が他の店より20パーセント多いと言う実験結果が必要となる。
ラーメンが伸びちまう。
大切なことは自分に合ったの情報(観念)を選ぶ事。
だからこのスレのなかで好みの観念論に染まればよい。
唯物論は実験室や工場の中だけで日常生活には不便なもの。
925 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 02:29:15 0
>>924 >「あそこのラーメンは上手いぜ」これは観念論です。
>「そうかじゃあオレも食べよう」と即決。
観念論の意味がおかしいな。
「あそこのラーメン」自体が君の超越論的主観によって構成されたもので、
「上手いぜ」はそれに対する美的価値判断が加わっている。
今問題になってるのは、そこに、ラーメンがあるのかどうかだよ・・・ww
>>923 唯物論者的にオッケーですが、じいさんの説明は間違っています。
じいさんは唯物論者ではないから、唯物論の立場がわかっていません。
>>923 唯物論者的にオッケーですが、じいさんの説明は間違っています。
じいさんは唯物論者ではないから、唯物論の立場がわかっていません。
じいさんは相変わらず読解力と表現力と理解力に乏しい。
哲学以前の問題だよ。
自分が他者と話をしているとき私は同時に自分自身に語りかけることによって返事をしている。
旨い、美味い、と書けよ
931 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 04:44:47 0
そのラーメンはのびるのが上手いんだろww 得意技
932 :
ほらふ:2008/02/17(日) 06:37:15 O
どうでもいいが、「観念論」と言う言葉を使うとき、誰を念頭においてるんだ?
ジョージ・バークリーか?
ならば、ポイントは論理になるぞ
世界がクオリアでできている、と考えるマトリックス世界でも、われわれの一般常識は同じように建てられる
「実在」ないし「実体」の概念は、理論と経験のどちらに優位性があるか、などの問題と絡んでくる
論理と直観のどちらが先に経験されるか、など
このスレ(むこうのスレも)で言われる「観念論」という言葉がどのような意味で使用されてるか分からない
反実在論のようでもあるし
懐疑論のようでもあるし
神秘主義思想のようでもあるし
哲学全体を指しているようでもあるし
学問全体を指しているようでもあるし
個人個人の信奉する唯物論以外を指す「それ以外」をまとめて「観念論」と呼んでいるようでもある
933 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 08:54:40 0
「私」の議論は、唯物論は観念論の部分集合だが、その逆はありえないということでしょう。
その意味において観念論の勝ち。
したがって、心やクオリアを作れない。
>>924 相変わらず馬鹿だなw
まるで、
923「やっぱラーメンは、しょうゆ味だよな」
924「明日は雪になりそうだね」
923「・・・・・」
てな会話だww
935 :
934:2008/02/17(日) 09:14:38 0
>>934の最高位バージョン。
般「やっぱラーメンはしょうゆ味だよな」
最「いやいや、味なんてのは、人間が価値観で勝手に決めてるだけで、
しょうゆ味もみそ味もないんだよw」
般「やっぱラーメンはしょうゆ味だよな」
最「いやいや、ラーメンなんてのは、人間が価値観で勝手に
そこが(“それ”が)ラーメンであると決めてるだけで、
そこにラーメンがあるとか何味であるとかは確実なことじゃないw」
ネコバージョン。
般「やっぱラーメンはしょうゆ味だよな」
猫「それは、あなたの主観によって“その”ラーメンの味がしょうゆ味であると感じられているだけで、
他の人にとってはとんこつ味に感じられているかもしれません。
てか、そもそも『そのラーメン』なるものが客観的に存在するのかどうかから問わないと・・w」
>>909 >また“発生”という言葉も使っていない。「この体に『私』が顕現している」と
>述べたように記憶している。これは、貴兄の2に似て非である。
「顕現」というのは「隠されていたものが顕になって現れる」という意味ですので、顕現する以前から
存在(形を変えてであれ潜在的にであれ何であれ)しているのでなければなりません。
「発生」というのは「存在を始める」という意味ですので、「顕現」とはむしろ正反対です。
従って、その見解は
>>881の2とは全く似てもおらず、
>>881の4に当たります。
「すでに潜在的に存在していた(この場合は「我思うゆえに我あり」は成立しないので、
存在していたとはどういう意味で、なぜ存在していたと言えるのかさっぱりわからないのですが)
『私』が、(人間以外の何かや、他の体へ顕現することも可能であったのに)どういうわけか
『この体』に顕現した」 という理解になるわけです。
従って、そこでは「『この体』が、なぜ『私』なのか」という問いは無意味ではなく、そこに
何らかの因果関係があって然るべき、と言わねばなりません。ところが、実際には
最高位氏は「そこにはどんな因果関係も有り得ない」と力説されているわけです。
>ただし“発生” も“顕現”も認識上の逆立ちであることを彼は強調している。
これは全くの誤解です。
「客観世界に論理的に先行する(客観世界の成立根拠である)基点としての『私』」というような
考えは、
>>147さん(もしかして猫の味方さんでしょうか)がご自身の関心事を勝手に最高位氏の
混乱してあまり筋の通っていないw文章群に過剰な期待を込めて読み込んでおられるだけです。
氏は自分に好意的な書き込みに対しては全体の整合性を深く考えもせずに賛成する癖があるので、
誤解されるのも無理はありませんが、私は最高位哲学wについてはおそらく誰よりも詳しい一人ですの
(何の自慢にもなりませんがw)、まず間違いありません。
(続き)
>初めに何があるのか。「この体」ではない、ということである。一つの事象を
>「この体」として見出し意味づけする、基点・起点としか言いようのない何か。
>これを『私』と称しているのである。(これは私見)
繰り返しになりますが、私が「この体」と呼んでいるのは、意味づけされる対象である
「一つの事象」のことなのです。
>あえて言えば、この『私』は“世界(唯物論なら物質)”に先行する。
>ただし、空想的にしか語りえない“事象自体(混沌?空?)”に『私』が先立っている
>保証はない。
この見解自体は興味深いのですが、最高位氏の考えとは全く違います。最高位氏は「事象自体」を
「空想的にしか語りえない」とも「混沌」とも「空」とも考えておりません。
ではどう考えているかといえば「拡散するツブツブ」であると、大変明快に断言しているのです。
また、「私が拡散するツブツブに先立っている」とも考えておらず、両者は並立していると考えておられます。
「純粋な存在性と呼べるのはその二つだけだ」と以前私に再三言われていましたので。
むろん、この考え方に対しては、「では私は拡散するツブツブとどんな関係にあって、何をどうやって
『このパソコン』だの『地球』だの『この体』だのという観念(最高位氏の葉遣いでは「価値観w」)
を作り出すことができるのか、むしろ作り出さざるを得ないのか? それらの観念(価値観)と
拡散するツブツブは関係があるのかないのか?」 という、認識論上の大問題が発生いたします。
もちろん最高位氏に答えがあろうはずもありません。
(続き)
それと、これは
>>147さんにも最高位氏にも共通して言える難点ですが、「空想的にしか語りえない
事象自体(最高位氏の言葉を借りれば切れ目なく一つながりの拡散するツブツブw)を、私がテキトーな
価値観でw区切って意味づけした観念であるところの客観世界の個物の群れ」(例を挙げれば『このパソコン』だの
『地球』だの『この犬』だの『あの人間』だの『この素粒子』だのですが)、宇宙に満ち満ちたそれら
無数の個物の群れの中で、「この体」は事実として唯一つ、際立って異常な、特権的なあり方をしているわけです。
言うまでもなく「私である」というあり方です。しかも、この事実は最高位氏の言に反して
「私の勝手でテキトーな価値観」などではありません。(もしそうなら唯物論など存在しないでしょう。)
否応もなく私に押し付けられた事実であり、この体は飽きたから他の体に乗り換えようと思っても、
いくら心頭を滅却しても、どうにもならないわけです。
最高位理論にしろ、
>>147さんの考えにしろ、この基本的な事実を全く説明できません。というか、
その種の発想に立つなら、こんな事態はほとんど有り得べからざる背理であるとしか言いようがないはずです。
あたかも「天地万物を創造した神が、突然自分自身が無数にある被造物の一つ(たとえば大工の息子とか)である
ことを発見する」というに等しい話なのですから。「私」の場合は、それに加えて、他の被造物群(人体)
も、それぞれ私と同じ資格で天地万物の創造主である神であることがわかる、という話が加わります。
これはほとんど冗談のような矛盾で、だからこそ「だったらそいつら(私・他の私群)は天地万物の創造主
でも神でも何でもなくて、最初に拡散するツブツブがあって、その一部(人体)から基点としての『私』が発生して、
それが拡散するツブツブと相互作用して「この体」だの何だのという主観的観念が成立したんじゃないの?」
という疑問が沸いてきても、まあ無理はありません。
唯物論というのは、こういう基本的疑問の上に成立している世界観であって、だからこそ
そう簡単に否定できるようなものではないのです。(私は簡単に否定できないと言っているのであって、
それが正しいと言っているのではありません。)
>>938 >宇宙に満ち満ちたそれら
>無数の個物の群れの中で、「この体」は事実として唯一つ、際立って異常な、特権的なあり方をしているわけです。
>言うまでもなく「私である」というあり方です。
「この体」というのは曖昧なものだと思うよ。
《心身一如》っていう言葉がある。一流のスポーツ選手なんかはそういう状態になれるのだろう。
その反対の状態は、心と体がバラバラ。自分の体が自分の体ではないように感じる状態だろうね。
つまり「この体」というものも、「心」の在り方によって違ってくるものなんだよね。
ところで、大腸の中のウンコは「この体」なんだろうか?
これもウンコ好きの人とウンコ嫌いの人では違ってくるだろうな・・・
《主客未分》っていうのは、全てが「この体」になったような状態なのかな。
良いHができた時なんかは、ちょっとそれに近いものを感じるかも・・・
女の人だったら、赤ちゃんとの一体感を感じる時が多いかも知れないね。
942 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 12:28:29 0
>《心身一如》っていう言葉がある。一流のスポーツ選手なんかはそういう状態になれるのだろう。
イチローなんか、バットと「心身一如」するんだってさ。
>>942 >イチローなんか、バットと「心身一如」するんだってさ。
なるほど。
イチローの奥さんも、イチローのバットと毎晩一如になっていることだろうw
ところで奥さんの膣の中の精子は、イチローなのだろうか、奥さんなのだろうか・・・
オレは顕微鏡で自分の精子を見た時、それが赤の他人(他物)とは思えなかった。これはオレだ、と感じた。
しかし膣の中に入ってしまえば、それはオレではなくなるような気がする。むずかしい・・・
944 :
147:2008/02/17(日) 12:52:08 0
>>936 無から有が生じた例を私は経験したことがなく、たいていの“発生”は顕現と
言ったほうが実状にかなっているようにも思えるが、言葉の定義はほらふき君
にでもまかせておいて、やや揚げ足とりふうに疑問点を述べてみたい。
この体も、そこに発生・顕現する事態も、この『私』の主観的な認識・言明
である。この主観的な対象把握(差異化)に先行する何かがあれば、教えて
いただきたい。“世界”は最高位の「私の存在性」という基点・起点に開示
される主観的なそれである。
それを客観的(超主観的)に記述するには、幾つかの手続きを要する。ただし、
そうして描出された対象はたとえリアリズムによるものでも、フィクションである
ことに変わりはない。
最高位の“言説自体”の意味や価値を「客観的に」指し示すことはできない。
それは、彼の書き込みを読み込む主体に存する。詳しいと言っても、貴兄の
“最高位像”は貴兄のそれ(主観)でしかないということである。それに素人氏
が説特性を感じていることは承知しているが…。
945 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 13:21:45 0
は〜い、お邪魔虫、ごめんなさーい♪
>>912 >さて、貴方に問いたい」。
>上の文の「ここ」「ここ」「この」は、下の文の「そこ」「そこ」「その」と、
>同じか否か?
>同じ対象を指しているのか、違う対象を指しているのか?
わたしぃ、感覚的なんですけどぉ「ここ」「そこ」と「この」「その」は違うと思いますぅ。
このばあいですけどぉ「ここ」と「そこ」は、かなり限定された指示代名詞です。つまりぃ、観察する自我から見て距離的に言ったら「そこ」>「ここ」ってなるかと思いますぅ。
でも、「この」とか「その」っていったら背景が時空に限定されるわけではないって感じますぅ。
たとえば公園一覧表があってですね、「この公園は城址公園としては最も歴史がある」とかいいますものね。「この」「その」はテーマの議論領域がかなりぃフレキシブルってそんな感じがしますぅ。
あっ、ごめんなさい、じつわぁ卒業の単位がたらなくってぇ、どこかいいゼミあったらなぁって、さがしてましたぁ、ああ、ここもうすぐ終わりそうですねぇ、どこかいいとこないかしらぁ・・・。
946 :
147:2008/02/17(日) 13:24:35 0
>>937 「この体」は、超越的な言い方だが“一つの事象”とは異なる。そこが、貴兄と
最高位や私との違いである。
“この体”は、対象のある事態を『私』が認識・言明した『私』の主観であって
“事象自体”ではない。
最高位は“話体”で語るので、たとえば「拡散する粒々」といった表現をする。
しかし、これはもったいぶって言えば“混沌”のことだろう。つまり私は彼と
ほぼ同じことを述べている。『私』は「世界」に先行する。ただし“事象(混沌)”
に『私』が先立つ保証はない。最高位も(拡散する粒々の)存在を認めているではないか。
>>946 >『私』は「世界」に先行する。ただし“事象(混沌)”に『私』が先立つ保証はない。
つまり“事象自体”は知り得ないっていうことね? カントと同じだね。
948 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 13:49:18 0
>>940 >ところで、大腸の中のウンコは「この体」なんだろうか?
生物としてのヒトの体はその体を構成している細胞の総体ではないか?
消化器系の外部と触れる部分は自分の体では有るまい。
消化吸収されて初めて自分の体と成る。
血と成り肉と成るというではないか。
949 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 14:01:31 0
ふーん。「拡散するツブツブ」世界って、原子分子の世界じゃなかったのか?
てっきり、おじいちゃんが孫の初等物理の教科書を読んで、適当に想像してしまった客観世界かと思ってた。
別のレスでは、物理世界とか言ってるし…
>>946 >“この体”は、対象のある事態を『私』が認識・言明した『私』の主観であって
>“事象自体”ではない。
しかし対象化される以前の「この体」みたいなものも、あるはずだよね。
カントが「内感」って言ったのは、そういうことなのかな・・・
そのへんの境界あたりを考えると、実存的思想における身体論に近づいてくる。
意識(表象)と無意識という問題にもつながってくる。ますますむずかしい・・・
>>948 >消化器系の外部と触れる部分は自分の体では有るまい。
内部と外部を区別しようとする考えは、排他的思想なのかもしれないw
膣の中の精子も、便器の中のウンコも、み〜んなオレ、と考えるのが世界平和に近づく思考ではなかろうかw
そう考えれば、ウンコが流れていく排水の水質にも気がまわるし、環境にもやさしい思考だw
そういえば思い出したけど、この前或る外国人に、「日本人はみんなバラバラだね」って言われた。
そう言われればそうだな、と思った。日本人は西洋からへんに中途半端に個人主義を受け入れてしまったんだろうね。
951 :
147:2008/02/17(日) 14:28:52 0
>>938 「この体」に特権性(価値)を付与しているとすれば、それは『私』である。
したがって、そうでない例外は幾つもあるのでは? 身を捨てて他の何かを
浮かばせようとした事例は山ほどではないにせよ、数えられるくらいはある
のではないか。
たとえば、ヤクザは義理(見栄)のために指をつめる。武士は意地(見栄)や家
の存続のために腹を切った。こんな特殊な例を出さずとも、愛着する何かの
ために身体を投げ出した例を挙げるのはそう難しくなかろう。
たしかに「この体」は特別である。が、繰り返し言えば、それは『私』の主観
(価値観)であり、状況が変われば身体とて別のもの(価値)に取ってかわられる。
唯物論は世界観(主観による構築物)であり、たしかに否定するのは難しい。が、
それはキリスト教や創価学会、オーム、武士道、極道についても同じことが言える。
その根底は無根拠な恣意(テキトウな思い込み)の共同性によって支えられており、
いまのところ棄教させる有効な手段はみつかっていない。
いつの間にか主観が価値観の意味に変容している件
953 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 15:13:13 0
「我思う故に我あり」を思考システム(私)存在論と考えれば、脳や身体、そしてそれらと思考システム(私)そのものとの因果関係を説く理説はすべてドクサになるということでしょう。
私の理解はこんなとこ。
954 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 15:25:31 0
>>950 >日本人は西洋からへんに中途半端に個人主義を受け入れてしまったんだろうね。
いや、いや、「KY」なんて言葉が今も通用する日本はぜんぜん変わって無い
んじゃないか?「空気の研究」がますます必要な社会じゃ。
955 :
934:2008/02/17(日) 15:56:37 0
>>944は、まるっきり
>>935のネコバージョンなわけでw
別の言い方をすれば、
「石橋を叩いても渡らない」生き方、とも言えるなwww
956 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 17:02:18 0
>>934・955
925の「そこに、ラーメンがあるのかどうか」を問題視する唯物論者の意見をすっ飛ばして観念論を論駁した積りになったってそれが何なの?
ぶわっかみたい・・・
>
>>944は、まるっきり
>>935のネコバージョンなわけでw
この反論からは、934・955さんは、味を判別できるシステムが無くても味の判別ができてしまうということですが?
それは素晴らしい。w
止まっとるなw
皆、ワシと違って忙しいんだろうな・・・。
958 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/02/18(月) 02:15:57 0
>>919さん
その個と普遍を結ぶものを最高位さんは考慮されていない
或いは、軽視されて居られるのではないかと。
同様に
>>953さんの仰るように、システムとして考えた場合
>>820の二、三を分からないとされている事も
他の繋がりを断っているということではないでしょうか。
個と普遍は重要なテーマですね。
>>944 >>881においては、発生か顕現かはどうでもよいのです。また「私」や「体」が
実体なのか影なのか機能なのかシステムなのか基点なのか観念なのか、それが
「存在している」とはどういうことなのかも(このスレ的にはそれこそが問題なので
しょうが)、さしあたり関係はありません。
両者の相互関係が4つのパターンのどれに当たるか、それだけが問題なのです。
「私もこの体も時間の最初から存在していて、ある時点で顕現して結びついた」
のならパターン4ですし、「私は時間の最初から存在し、ある時点で顕現して
そこからこの体が生まれた」ならパターン3になります。
そして、どちらのパターンでも「『この体』が、なぜ『私』なのか」という
疑問は無意味ではなく答えがあるはずです。
一方、パターン1と2(唯物論的)な方では、存在する私がこの体であるのは
論理の必然なので、その質問は無意味であり答えがないのは当たり前です。
元来私の言いたいことは以上に尽きるのですが、
>>147さんの世界観に若干疑問を
呈すると、
>この体も、そこに発生・顕現する事態も、この『私』の主観的な認識・言明
>である。この主観的な対象把握(差異化)に先行する何かがあれば、教えて
>いただきたい。
「この体」も「この世界」も私の主観的な認識・観念であることは当たり前です。
問題はその認識・観念、というよりもそのもとになった感覚与件(センス・データ)
がどこからやってきたか、ということです。
「私の内部からやってきた」というのならそれは純然たる独我論であって、
それ以外のなにものにもなり得ません(なり得る、という考えは、私には理解不能です)。
(続き)
それは何らかの意味で「私の外から」やってきた、と考えると、それは
「神から」か「対象となる事象それ自体」からか、まあそれくらいしか考えようが
ありません。この時点で、「私の主観的な対象把握(差異化)に先行する何か」の
存在は、必然的に要請されるわけです。
>それを客観的(超主観的)に記述するには、幾つかの手続きを要する。
上記の通り、それは「手続き」などの問題ではありません。独我論を貫くのでないのなら、
それは否応もなく要請される「思考の転換」であって、私の勝手でテキトーな価値観w
でどうにかなるような問題ではないのです。
ちなみに、最高位氏はあなたと違ってそんな面倒な思考の手続きは一切しておらず、
「私」が「拡散するツブツブ」をどうやってだか認識して、その結果「このパソコン」とか
「地球」とか「この体」という観念(テキトーな価値観w)を作り出している、と、
単純に考えておられます。
>最高位は“話体”で語るので、たとえば「拡散する粒々」といった表現をする。
>しかし、これはもったいぶって言えば“混沌”のことだろう。
最高位氏の「拡散するツブツブ」はどう考えても物理学の知識に基づく分子原子素粒子
といったものだと思いますがw、それはともかく、それが本当に「混沌」で、無秩序に
「拡散する」一方なら、いろいろと具体的な観念の元になりようがありません。
テレビ放送が終わった後の「砂の嵐」をいくら眺めていても、どんな画像も観念も
読み取りようがないのと同じです。そこから「このパソコン」とか「地球」とか「この体」
とかの観念が否応もなく必然的に生じ得るとすると、そこには「凝集」があり、
「拡散と凝集の変化」があり、その「パターン」があり、その相互関係がある、と考える
のが自然です。もちろんこれらは『私』とはまったく独立に「存在する」わけです。
(続き)
それらの存在が(どうやってだか)『私』に作用した結果(あるいは『私』がそれらを
対象化した結果)生じるのが「このパソコン」とか「地球」とか「この体」とか
その他もろもろの観念であり、むしろそれらの観念が記号として指し示す「本体」が
これらの存在、「一つの事象」である、という考えが生じることになります。
以上は独我論を貫かない以上はごく自然にたどる思考であって(その本体たる事象が
凝集するツブツブであるというのは現代人が物理の知識を元にして作った世界像ですが)、
それを否定する理由を特に見出し得ません。
>>951 >「この体」に特権性(価値)を付与しているとすれば、それは『私』である。
ええと、「特権性」というのは「価値」のことではありません。まったく単純に
「私は人間である」「私はこの人体であって、他の人体ではない」という経験的事実の
ことです。そもそも、「私は人間である。私はこの人間であって、他人ではない」
というのは、最高位理論wの根本前提なのです。(以前、最高位氏に
「それは本当に確実か?」と聞いて「病院へ行け」と言われたことがありますw)
ヤクザが指を詰めるとき、詰めるのは否応もなく特定の人体(自分の体)の指であり、
武士が切腹するとき、切るのは否応もなく特定の人体(自分の体)の腹です。
他人の指や腹やパソコンや富士山を切ろうとしたらそれは殺人鬼か狂人でありますw
このように「私が客観的世界像を構築したとき、客観的世界像の一部である一個物
(人体)が私であることを否応もなく見出す」という事実こそが、
>>147さんのような
思考法ではまったく説明のできない背理、矛盾なのです。
そして、この背理を受け止め、「客観世界に先行するその基点」だったはずの『私』を
「客観世界の一部」に位置づけ直し、「造物主」の地位から「被造物」の地位に
格下げし、一言でいうと「主観を客観化」しない限り、
>>147さんのいう「間主観性」なる
観念もまた成立のしようがありません。「この体以外の体(他人)もまた主観性、
他の私かもしれない」などという思考は、というより「これ」以外の「私・主観」が
存在するかもしれない、という思考は、成立しようがないのですから。
962 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 15:48:22 0
>>360 >独我論を貫くのでないのなら、◎◎それは否応もなく要請される「思考の転換」であって、私の勝手でテキトーな価値観wでどうにかなるような問題ではないのです。
「独我論」って概念には何の意味があるのかと思います。
『知の欺瞞』あたりでも独我論者が自分以外の独我論者の存在を前提していることが
揶揄されていましたが、いくら独我論者でも手当たり次第に人を殺したりしないでしょう。
大量殺人犯が独我論者だったという報告も聞きません。独我論者って本当にいるんですか?
だからここで「独我論を貫くのでないのなら」と言われていることの意味が理解できないんですよね。
>それが本当に「混沌」で、無秩序に「拡散する」一方なら、いろいろと具体的な観念の元になりようがありません。
カオスにも法則性があるそうですよ。したがって360さんの推論は成立しないんじゃないですか?
人間はよく間違いを犯します。そしてそれを訂正(認識のアップデート)します。
それこそが、人間が意識(思考システム=私)の外に立てないということの証(痕跡)だと思います。
>>962 訂正の基準はどこにある(→何に拠っている)のですか?
964 :
147:2008/02/18(月) 16:31:30 0
素人氏から
>>912 >>915 と質問を受けていたのだが、長いわりに、その主旨が
曖昧なので、勝手に曲解して大雑把な答えを用意していたところ、感嘆子から
これまた超長い反論をいただいたので、こちらのほうから。
>>959 主観的な認識や言明は、主体とその対象との関わりによってもたらされるので
はないか。が、その機制は、たぶん詳しくはわかっていないはずである。
主体の関心・欲望が感覚的に受容した対象を構造・差異化するとの見解を何か
で読んだことがある。もしそれが本当なら、主観的な認識は身体を起源とする
かに思える。が、欲望はほとんどの場合、身体の丈(必要性)を上回っている。
その過剰分が何に由来するかは、これまた不明のはずである。
つまり、この『私』の関心や欲望、またそれによって意味づけされた対象像の
出自を身体に十全に求めることには無理がある。「この体」と『私』は等価では
ないと言い換えてもよい。
>>欲望はほとんどの場合、身体の丈(必要性)を上回っている。
>>その過剰分が何に由来するかは、これまた不明のはずである
つ言語
966 :
147:2008/02/18(月) 17:02:52 0
>>961 「一個物(人体)が私である」といった貴兄の認識(感慨)を主観的(独断的)と
称しているのである。大仰に言えば、それが貴兄の人間観である。つまり、
それは“事実”ではないということだ。
「『私』とは魂であり、身体はその乗り物」といった人間観の持ち主も少なく
なく、貴兄のような人間観の持ち主との抗争には、まだ決着がついていない。
ここから先は最高位ふうに…。
「背理を受け止め、位置づけ直し、(主観を客観の一部に)格下げ」するのも、
これまた主体の主観的態度でしかない。たとえそうしたとしても、相変わらず
『私』がその存在性を主張していることに変わりはない。
主観といったって他人が作った言葉で考えてるんだから、
完全に純粋な主観じゃねーだろ。
ちょっと待ったw
どこまでが体でどこまでが精神なんだ?
確かに言葉で表現してる以上、ある程度の客観性は備わってるわな。
だから「私」なんつっても誰のものかは永遠に不明にてノー存在。
970 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 18:12:37 0
>>963 当然独我論者ではない超越論的主観の自然的態度から見た間主観的客観主観からの論理的説得力または抑圧。w
しかし超越論的主観を前提する立場からは超越論的主観の解明は背理だというのが私の直感。
>>970 外部からデータは入ってこないってこと?
すべて、最初から内在してるってこと?
説得力が上がる、抑圧がかかるとはどういうこと?
なぜ、そんな変化が生じるの?
超越論的主観の内部で、自己生産されてるの?
主観内部で自己完結する、永久機関のようなもの? >>超越論的主観
超越論的主観てのはあくまでも哲学する主体に関して言えることじゃないのか。
人間としての主観にそういうもの当てはめても意味ない。
973 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 18:42:59 0
なぁおまいら日本語でハナシしないか?
974 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 18:51:21 0
宇宙や地球とその観測者の関係もそうみたいだけど、普通名詞の「私」と固有名詞の「私」が重なってて多義性の誤謬が紛れ込みそう。
975 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 18:57:17 0
976 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 20:12:30 0
>>967 いや、その言葉は主観で使ってるからやっぱり純粋主観だろ。
その言葉を受けた相手がまた主観的に解釈するだけだ。
言葉に客観なんて無い。
978 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 20:43:37 0
言葉は外部から主観で取り入れたんだろ。
矛盾は主観的なものか、客観的なものか
980 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 20:54:30 0
矛盾は論理的なものだろう。
論理は規約だね。
>>978 主観に(超越論的主観に)外部があったらダメなんじゃないの?(´・ω・`)
982 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 20:55:40 0
哲学ももう秋田な
現象学の超越論的主観(純粋意識)ってのは、妥当・確信・信憑を確立する働きみたいなもんじゃないのかな。だから外部がないというのはヘンだと思う。
難しく言えないけど外部情報を処理or意味づけする仕組みたいな感じかな。
984 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 21:50:52 0
>>983 超越論的と呼ぼうとも、主観である以上、外部(客観)情報ではない。ただし、
外部であるかのように処理するということだろうな。
>>978 赤ん坊には主観があるんだな。
超越論的主観は赤ん坊にもあるんだな。
一応確認な。
ハイデガーが泣いてるw
988 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 22:12:26 0
>>972 ほう、哲学するのは普通人間ではないのか?
哲学はカントとかフッサールの専売特許か?
君のような権威主義的な言い方を“超越的”という。
「論」がないところがミソ。ww
989 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 22:45:25 0
990 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 22:46:49 0
991 :
素人:2008/02/18(月) 22:48:11 0
だから、難しい漢字を並べた言葉より、
『私』という言葉にこだわる最高位氏に親近感を持つのです。
≪私≫という語が持つ様々なニュアンスのうちの何がしかが、(→それこそが!)、
核心に触れているのだろう、と・・・。
インド哲学(ウパニシャッド)に於いて、「アートマン」に取って代わる用語は出てこなかった。
少なくともメジャーに使用されなかった。(専門家の補足を求むw)
なぜか?
それは、≪自己として意識される部分≫≪自身であること≫等が、根幹とされたからではないか?
それは図らずも、
「主観は自己のものとしてしかあり得ない」ことを示唆していないか?
「認識は自己のものとしてしかあり得ない」ことを示唆していないか?
「他者の認識は、実感を伴わない単なる情報にしか過ぎない」ことを、
「他者の認識が自己の認識となることはあり得ない」ことを、
「他者の主観は他者の主観でしかなく(→これこそが“客観”の始まりかもしれんが)、
自己の主観とはならない」ことを示唆していないか?
そしてそれは、「身体」についても同様であろう。
「身体だけが他人であることなどあり得ない」。
(ガンダムのファンネルではないがw)、どんなに離れていても切り離されても、
それが知覚されるなら、それは「自分の身体」となるだろう。「この体」となるだろう。
≪「私のこの体」に「この私」が顕れている≫≪「この私」が「私のこの体」と結びついている≫というのは、
それ以外に無い、他の可能性を排斥する、絶対的必然ではなかろうか・・・。
992 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 23:06:50 0
>>991 たぶん酔っているからだろうが、論理の運びが荒っぽいね。
最後の二行は、ほとんど意味不明。だれか、解説してくれ。
君は、歯を磨いて寝ろ。
993 :
素人:2008/02/18(月) 23:14:36 0
994 :
素人:2008/02/18(月) 23:35:32 0
さて・・・埋めようかw
梅ついでに、じゃれ合おうやw >>ネコ
私はこれまで、何度となく最高位氏の主張をまとめてきた。
自分自身がどこまで彼の言葉を把握しているかの確認も兼ねて・・。(その変遷は自分で見ても面白いw)
最近は、ある程度固まってきた(ような気がするw)。(感嘆子の書き込みに負う所も多い)
加えて、君の代弁も何度かしたことがある。
時には、“ネコならこう言うであろう”という想像の下、レスを入れたこともある。
(合っていたかどうかは知らんw)
そこでだ。
君も、私の代弁をしてみてはくれないか?
細部を拾い上げた指摘でなく、私に成り代わって、
私のスタンスと語り口を真似てみてはどうか?
長い付き合いだ。私のレスも多く読んできていることと思うw
たまには、こういう遊び方もいいんじゃないか?www
(´ー`)y━~~
超越論的主観はあくまで哲学するときの仮定。
って、まあ、
連投ギリギリで独りで埋めることになるんだろうなwww
_, ,_
( ゚∀゚) < アルコールの無い世の中なんて
( つ酒0 本番の無いソープみたいなもんだw
と__)__)
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( ゚∀゚) < おや? 独りではないようだw
//\ ̄ ̄酒\
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\`ー────── ヽ
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( ゚∀゚)
//\ ̄ ̄酒\
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\`ー────── 〜(_u,uノ @ミ_u,,uミ @(;;;;uuノ
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//\ ̄ ̄酒\ .∧,,▲
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(・∀・,,)※ ミ,,・∀・ミ ※;uuノ
u,uゝ〜〜〜u,,uミヽ〜〜
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⊂⌒( `Д´) < 1000獲っちゃいそうでヤダヤダ!
`ヽ_つ つ
ジタバタ
ジタバタ
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⊂⌒( ゚∀゚) < 1000w
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