【私】を記述してください。【私の存在性】 09

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394考える名無しさん
>>379
フォローになるかどうか判りませんが、
彼の着眼点は秀逸です。
人が、自身を見つめる時の、非常に重要な根幹に触れています。
そしてそれは、
もしかしたら、2500年間仏教が見て見ぬふりをしてきた部分
(或いは、言わずもがなに前提とされた部分(→当たり前すぎて捨象された部分))
かもしれないのです。
(個人的には、そうではなく、仏教に於いては「それ」もまた解体される、と考えますが・・・。)
だから私は粘着する。
ブッダはアートマンを斥けた。人は、五蘊の総体としてあると見做される。
さて、ブッダは、認識の起点・基点としての『私』をも消し去ろうとしたのか?
縁により生起している「私」のそのまた奥底に「何ものか」が居る(ある)のか居ない(ない)のか?
龍樹は、自身の認識・思索の基点をどこに置いていたのか?(※起点は端から除外される)
(もっとも、そうした、「自身の」ということをも解体しているのが中論だと言えるわけだが・・・。)
唯識教学は、ここをどのように昇華させていったのか?
(ヨーガという身体的経験無しには覗けない領域なのか?)
現代哲学に於いて、もし、そうした認識の起点・基点が問われ始めているなら、
それはアートマンの復活なのか?それとも古代インド人の思惟を超えた、
ブラフマンをも超越した、新たなネオ・アートマンなのか?
禅で言う「本来の面目」や「(赤肉団上一無位の真人」と、どこが被り、どこが被らないのか?
鈴木や西田がリニューアルした禅的自己と、どこが被り、どこが被らないのか?


叩かれてばかりだが、最高位氏の出発点自体は、
評価に値する重要なものだと私は思っている。