弁証法的に証明されるwww
2 :
考える名無しさん :2007/11/15(木) 06:36:21 0
はじまるぞぉ〜
3 :
考える名無しさん :2007/11/15(木) 08:39:10 0
今どき弁証法なんて、だれが本気で言っている? 冗談で「弁証法的に」なんて言うことはあるけれど…。
>>3 90年代以降盛んな論理的動性の理論とか矛盾許容型論理は、
弁証法の形式化とも見なせるかもしれないけど、こられの研究
者は一部(プリーストとかプンテル)を除いては、弁証法とか丸
で興味ないし、肝心なヘーゲリアンとかはこういった形式化に一
向に見向きしないしw
5 :
考える名無しさん :2007/11/15(木) 14:57:54 0
「電波の影響でない」わけないだろ! というのはどういう解釈をしたらいいでしょうか。できれば哲学でまじめに。 って一般質問スレで聞いたんですけど、誰も答えてくれなかった。 このスレが最適なので。
6 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 09:32:56 0
611 名前:OFW :02/06/19 21:25
>>590 >これがソ共謹製なら、OFWさんのマルクス解釈は多少なりとも動揺する>と思うのですが、いかが
でしょうか?
岩波『哲学・思想事典』「弁証法的唯物論」の項によると、「マルクス,エンゲルスは自らの唯物論をおり
おり弁証法的と称したが,この呼称はかれら自身のものではなく,プレハーノフが普及させ,ほどなくレーニ
ンも『人民の友とは何か』(1894)で採用したものである.」とあります。
スターリン体制下で教条主義化(神学化)し、固有名詞的に使われることが多い<弁証法的唯物論
>(内容は少しも弁証法的ではない)とは異なり、マルクス、エンゲルス、レーニンはそれまでの機械論
的(事物は永遠の繰り返し運動をするという見方)であった唯物論に対して、弁証法的(事物は歴史
的な生成・発展をするという見方)な観点を強調したわけで、私もそういう文脈で使用しています。(た
だし、エンゲルスは「最高の科学としての弁証法」と呼んでおり、少し違うとは思うが。)
「プレハーノフ」を含め、「唯物論」「弁証法」の説明は下記に詳しい。(確かに戸坂潤は日本のプレハ
ーノフとでも言えるかな・・・)
ttp://isweb35.infoseek.co.jp/school/pfeil/BE/FRAMEBE_1.HTM また、たとえば(別にマルクス主義者ではない)G.バシュラールも『否定の哲学』において、科学的合理
論の次に来る認識段階として、「弁証法的唯物論」という用語を使用しています。
7 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 09:34:18 0
616 名前:OFW :02/06/21 05:05
>>614 (いっしょさん)
>マルクスは科学として弁証法という言葉を用いていなかったのですか?
そうですね。そういう用法は見かけないし、多分使うこともないはず。
>マルクスの弁証法は「哲学」だが、エンゲルスは「科学」ということですか?
無論「哲学」および「科学」の定義(共にそう明確ではない)によるわけですが、両者が違うという点(哲
学は諸科学の統一性の解明である、とか、哲学は科学以前あるいは科学以後である、とか言われる
所以)を踏まえれば、弁証法を科学の一種として捉えることは、余計な誤解を与えると思います。(実
際、「我々の社会主義は弁証法に基づく科学的なものであるから、他の社会主義より優位に立ってい
る。」と主張する人は現在でも少なからずいるようで。)
弁証法について言えば、それは第一に一つの方法論であり(その限り認識方法)、事物の<運動>に
着目してその論理を追うものです。それはしばしば逆説的な表現を使う(例:存在は存在しない)が、
(運動変化する)対象存在とその規定内容(概念内容)とが一致しないことを表現する場合には、否
定的な表現をとらざるを得ないでしょう。第二に弁証法とは特に唯物論的な立場において、事物の客
観的な運動を表現するものとされるが、それは科学的法則ではない。法則の概念とは「諸存在(現存
在)の本質的な規定内容が現象において具体的に展開されたもの」ということですから、現象において
何が本質的なのかという点を忘れると、法則なのか例外なのかすらはっきりしなくなる。そして対象的
本質自体が歴史的に変化するわけですから、「永遠の法則などあり得ない」というのが、弁証法的な
主張です。(よく「マルクスの窮乏化法則なるものは現実に妥当しない。故にマルクスは間違っている」
8 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 09:34:58 0
といった主張を目にしますが、一定の条件付きそして統計的な範囲内でしか成立しないという性格を もつ法則一般に対する誤解でしょう。) 結局、弁証法の解説書で(エンゲルス由来の)「質から量への転化その他3つの根本法則」などと書か れているのは、「もうアホかと」・・・。
9 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 09:35:52 0
630 名前:OFW :02/06/22 20:34
>>618 (いっしょさん)
>やはり過去から「保存」されているものがありつづける以上、なんらか>の永遠というものが存在する
のではないでしょうか?
保存することがただちに「永遠(的なもの)が存在する」ことに繋がらないのは、何でも良いが、持続的・
連続的な発展と衰退を遂げる事柄を考えれば理解できるでしょう。マルクスが自らの方法的立場を<
ブルジョア社会の運動を人間の自然史として捉える>という場合、人類発生以来の変わらない自然
的条件と、社会の発展によって変化する歴史的条件とを同時に見据えるということです。それに対し
て、科学者には(一回限りで繰り返さない)歴史的な側面は度外視して、永遠に繰り返すかのような
本質的な同一性を探究することがまず求められる。
弁証法においては運動が永遠(正確には絶対的)であり、「保存するもの」とは運動の基体を指してい
ますが、それは<生成変化><反照><発展>という、より高次の運動様式の中に止揚され、反
照の最高段階では<実体>(自らは動かず他を動かすもの)と呼ばれる。発展とは生成変化と反照
の統一(変化の中において自己を保つ活動)であり、実体は最終的に<主体>(自己を知りつつ働く
もの)に反転する。
>ニュートン物理学
日常的なスケール(時空の単位)を超えるとニュートン力学の法則は成立しない、という事情は、ブル
ジョア社会を超えると価値法則は成立しない、という事情と類比的であり、科学法則には適用限界が
あるという点で共通的です。それはより一般的な法則の特殊ケースとして保存され、量子力学的ミクロ
の世界でもエネルギー保存の法則はより根本的なものとして満たされます。また、ミクロの統合化(積
分)により日常的単位が理論的に構成され<科学的説明>が可能になる。「質は量に転化する」が
客観的な法則なら、本質から科学的に説明される必要があるわけです。
10 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 09:59:12 0
632 名前:OFW :02/06/22 20:36
>>625 (ふにゃぽんさん)
>エンゲルスが、「もうアホか・・・」ということですか?
エンゲルスの言葉を教条的に読む人達を指したのです。『自然弁証法』は当時の自然科学的唯物論
に対抗して弁証法的思考の優位性を説いたものであり、いくつものひらめきが示されているが、科学的
方法論と弁証法との区別については明確ではない。多分、未完の遺作を編集した旧ソ連の学者(ミー
チンとか)が「もうアホかと」の元なのでしょう。
>>626 (ふにゃぽんさん)
>それらの3大法則は、有機的かつ、相対的に絡み合って、対象の構造を立体的に把握させる方法
論ではないのですか?
1質から量への転化(とその逆)2対立物の相互浸透 3否定の否定
たとえば「限度は質と量の統一である」(ヘーゲル)という根本法則?から見れば、「質は量に転化す
る」という法則?はまさに質概念の適用限度を示している下位法則?と言えますが、根本法則が何
故上記の3つに限定され、同格的なのかは疑問です。
因みにレーニンは『哲学ノート』において、<弁証法の諸要素>として、「1)概念をそれ自身から規定
すること【事物そのものがその諸関係とその発展において考察されねばならない】;2)事物そのもののう
ちにある矛盾性,あらゆる現象のうちにある矛盾した諸力と諸傾向;3)分析と綜合との結合.」と延べ、
さらに16の要素に具体化した後で、「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる。
これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開とを要する.」と述べていま
すが、よほど生き生きとした理解ですね。
上記3つをニュートン力学の3法則や熱力学の3法則と同様の、固定した法則(Law)とすることは、
思考を法(Law)により拘束するに等しい。(やはりスターリン主義の似非学者に問題ありという感
じ・・・)
>>627 (カルヴァンさん)
>プレハーノフがどう関係あるんですか?
「弁証法的唯物論」という用語を最初に使ったマルキストという位です。
11 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 10:00:37 0
637 名前:OFW :02/06/23 20:59
>>634 (ふにゃぽんさん)
>「弁証法はどういう科学か」(三浦 つとむ 著)
(多分出ると思てた。)
以前読んで、啓蒙書としての制約があるにせよ、ガッカリしましたね。確かに旧ソ連の公認教義(スター
リン主義)を批判し、主体性を強調する点は良いが、具体的な説明では卑近な例を挙げて「これが弁
証法という法則の実例である」といった説明法は変わらない。内容面でも、<相対主義>的な世界
観と<最高の(絶対的な)科学>という教義(教条主義)との奇妙な混合で、批判相手と同じ通俗性
を共有している。・・と言うことで、お勧めできないな。
>さらに三浦 つとむ氏をどう思われますか?
国語学者としては優れており、『日本語はどういう言語か』は第一級の研究書(かつ啓蒙書)でしょう。
実際、独創的な指摘や生き生きとした事例が多く、教えられる点が多い。
それだけに、弁証法理解や科学観における通俗さとのギャップが大きいということは、やはり抽象的・論
理的思考が苦手なのかな、という印象を受けます。
12 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 10:03:49 0
642 名前:OFW :02/06/25 23:32
>>641 (いっしょさん)
>諸行無常
>>630 でも少し触れたが、図式的に言えば、弁証法的な<運動>として
1外在的な運動:生成変化(移行)
2内在的な運動:反照
3現実的な運動:発展
という3段階(様式)が区別され得るでしょう。
「諸行無常」の洞察とは1の運動様式(他への移行)の対象化と言え、その空しさ(空無性の知)から
自己に還帰(反省)することによって、 2の反照の知に進む。それが<歴史意識>の誕生ですね(か
って歴史は現在を照らす<鑑>と言われたように)。それは、ものごとが成り立ちを持つ、つまり過去の
結果であるという認識であり、決して永遠の空しい繰り返しではない、という認識です。そしてさらに、生
きて働く主体がそこにあり、その活動的生命において、運動は現実的(現在的)なものという様式を獲
得する。生命体は不断の運動としてのみ存在し得るのであり、静止は即、死をもたらすからです。そし
てその自覚(働くものの自覚)が歴史の主体として、歴史の運命を自由に転化させる。<類的解放>
という運動様式です。
>マルクスの「歴史は共産主義へ向かう」という予言
マルクスは(当然ながら)およそ予言的な言明はしなかった。
「共産主義とは、現実を止揚しようとする不断の運動である。」と言い、常に現実の内にある現実的な
運動のみを見ていたのです。
>運動の方向性(弁証法的な到達点)ははずれた
歴史(学)は予想でもなく、予測を使命とする客観科学でもない。
それは過去に学び、現在を知り、未来を切り開く人間に対して、世界と人間の本質を教え、実践の指
針を与えるもの。(再び引用)
「弁証法とは歴史という風を受けて大海を進む帆のようなものです。」(ウォルター・ベンヤミン)
13 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 10:07:48 0
655 名前:OFW :02/06/29 16:43
>>652 (いっしょさん)
>共産主義世界をつくろうという自由を実践するかぎり、共産主義の到来は必然であると。
少し違うな。共産主義世界をつくろうという意志は自由を目指す<必然的な意志>(俗に「止むに止
まれぬ」とか言うように)であり、運動としての共産主義の原動力だ、ということ。共産主義とは到来すべ
き何らかの状態を指した言葉ではない(マルクス)。それは、毎日の通勤や職場の現実の中において、
その矛盾を個人が生きることにより主体の必然(必要)(例:「俺たちはモノ(客体)ではない、人間を返
せ!」という叫び)として立てられ、諸個人のうちに常に働いている(作動している)理念として、またその
現われとしての数々の事象の総体として、現実的な(不断に働く)もの。それは既に到来している(始ま
っている)。
>実践を行うのは、人間の意志です。
近代個人主義は<個人の自由意志>を社会の原理としていますが、人間は本質的に(既に)社会
的な存在だから、「人間の意志」とは<共同意志>を指します。それは個人の恣意に依らない必然
的・客観的な内容をもち、個人の行為が実践であるのは両者の意志が合致する場合のみです。
>外的必然性と内的必然性の区別
<原因>と<理由(根拠)>の区別(そのものではないが)として考えれば分かりやすいかな。必然性
の概念とは<他であることが不可能であること>と定義でき、反対に偶然性とは<他でもあり得るの
に理由無くそれであること>と定義できますね。客観的世界のうちに生起する事物に対して、「何故そ
れが生起したのか?」という設問には、通常「これこれがその原因である」という答え方をするが、原因
自体は前提された偶然的な事象であり、さらにその原因は?という無限遡行が避けられない。それに
対して、理由(根拠)とは<事物の内的本性>に基づき、無限遡行を終わらせる。たとえば、清純派
女優(死語?)が「ストーリーに必然性があればヌードOKよ」と言う場合の用法が内的必然性です。
ええ、ええ、要するに正反合、闘争と血がものをいうんですよ。
15 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 10:38:26 O
悟っちゃいましたが、真と偽、信と疑の闘争、 こういった文字通り矛盾した闘争、運動によって流れる血の海が世界なんですね。
16 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 20:53:00 0
19 名前: OFW 投稿日: 2001/01/20(土) 22:16
>>1 弁証法はヘーゲルの専売特許ではないが、他の思想家は弁証法を主題として取り上げていないし、弁証法を自分の哲学
的方法の根幹に置いているのも、ソクラテスそしてヘーゲル位かなと思うなので、弁証法って何?というと、どうしてもヘーゲル
弁証法から始めるざるを得ないということになってしまう。
因みに旧ソ連(そして日本共産党)で言われていた(いる)「最高の科学としての弁証法」とは明らかに誤まりです。
また、弁証法が本当に理解できる教科書は日本には存在しない、と言うしかないのが現状でしょう。(余り調べたことはありま
せんが)
>>18 >どうして、定立と反定立との関係が止揚されて総合出来るのか
弁証法に関する通常の解説書は、「正、反、合のトリアーデ」といった言葉を使いますが、私はどうもしっくりしない。少なくと
も、初めてその言葉を聞いて、「なるほど、そういう事か!」と言える人など、まずいない。
大体、ヘーゲル自身が上記のような説明を「フィヒテ流の外的な構成」と批判するでしょう。
>それぞれの形態の空間の次元の広がりに、時間の次元の広がりを加えて、それぞれを時空間の広がりに立体化して一つ
にすることになる
自然現象に弁証法が成立するかどうか?とは、結構問題になっているようで、かの共産主義思想家エンゲルスが『自然の弁証法』という本を書いたが、ひどく評判が悪いのです。その悪評が妥当かどうかはさておき、空間と時間の関係は物理学のみ
ならず、哲学的な問題として古くからあった。
たとえば、古代ギリシャの哲学者ゼノンが「飛ぶ矢は飛ばない」と言って「ゼノンのパラドックス」として有名なものですね。現代
流に言えば、「運動の不可能性」とでも言えます。
17 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 20:54:18 0
25 名前: OFW 投稿日: 2001/01/21(日) 14:54
>>23 >心身問題を弁証法的に解決すると?
心理学板で議論が高まっています
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=974569037 >>24 >弁証法とは「否定の否定」
と急に言われても、初めての人はわからないでしょう。サルトル(そしてラッセル?)も、「何故、否定の否定が肯定になるのか
理解できない」と言っています。
私も2チャンで弁証法についてカキコするのはこれで3回目ですが、なかなか理解されないのは、「一言で言えば…ということ」
という言い方で説明して、「なるほどそうか、良く分かった」とは逝かないのが、思想というものだからでしょう。ヘーゲルも「学とは
苦労の多い労働である」というようなことを書いています。そのためにも、弁証法とは何?と聞かれて、真理に至るための一つ
の認識方法であり、前の段階から次の段階へと、一歩一歩苦労しながら探求していく、思考の過程ですとでも言う必要が、
まずあるでしょうね。(「一歩前進、二歩後退」(レーニン)、なんちゃって。)
それで、出発点として、「弁証法は事物の<概念>を捉えることを求める」ということから始めるのが良いと思う。当然、すぐ<
概念>って何?という疑問がでてくるでしょ。
日常でも
「あなたの言うことは概念的には理解できるが、具体性に欠ける」とか
「それは概念に過ぎず、現実ではない」とか言いますね。
その場合、
「ものごとを全体としておおざっぱに捉えること」といった意味合いで使う訳ですが、ヘーゲルやマルクスが<概念>と言う場
合、より強い(厳密な)意味を持っています。それはヘーゲルが常に言う所の「具体的なものはそれ自身とその否定との統一と
して理解されなくてはならない」ということに関係します。
つまり、「否定の否定」とは<概念把握>のことだと言えるでしょう。
18 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 20:57:48 O
うとうと♪うとうと♪♪♪♪
19 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 20:58:15 0
30 名前: OFW 投稿日: 2001/01/21(日) 22:06
>>27 >弁証法で証明もしくは把握・理解することが可能であった、具体例
また「証明」ですか。最近では、物事を数学の証明に導出することが真理の解明だと、皆が考えているようですね。そのうち、
「弁証法による計算結果が正しくなければ真だと認めない」と言う人が出てきそう…。
私は、哲学とは「存在の根拠への問い」と理解している。そして、根拠への遡及は、弁証法的な反省を抜きには為し得ない
でしょう。
>>28 >>あの心理学板の心理学的な議論は弁証法的なんですか?
現在の議論自体が弁証法的とは必ずしも言えないが、少なくとも真剣で真摯な議論があり、それが事柄の本質に迫るなら
ば、弁証法的な側面が出てくると言える。見解の対立とは事柄の本質(根拠)に向かうための必然的な契機ですから。合い
言葉で言えば、それは一つの「否定の否定」です。
私が引用したのは、「心身問題」というテーマ自体に含まれる弁証法的な内容のためです。いわゆる「心身問題」というのは、
唯物論的な立場から言えば、偽の問題であり、それは有機体の現実的行動に向かうことで止揚されるべき事柄でしょう。特
に、人間の意識的な側面については、言語行動を解明することなしには、物心二元論的な表象から逃れられないでしょう。
20 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 20:59:28 0
36 名前: OFW 投稿日: 2001/01/22(月) 05:24
>>31 (伍長さん)
>「否定」=非A群が存在する。
>「否定の否定」=非・非A群が存在する=A群が存在する。
(伍長流にきっぱりと)違います。
概念化とはAと非Aを統一的に把握する認識作用ということです。
まず、何らかの対象をAであると措定することは、Aと非Aを弁別することであり、全体的(具体的)な対象世界からAを取り出
す(抽象する)ことですね。つまり、実在者の措定=質的(実在的)な区別ということです。
その場合、非Aは否定されたものとして、「不特定な一般」と言えますが、それはむしろ、非−実在(背景に退いている非−
対象的な観念的存在)として存在する。上記を対象認知の運動として過程的に言えば、
1.これは何?
(2.それはAか?そうではない(B、C、D、…)か?)
3.それは(A以外のものではなく)Aである。
という実在者の措定としての弁証法的な運動を含んでおり、その成果として<それ−A>という質的な存在者(実在)が措
定される。しかし、括弧でくくった思考(観念化作用自体)の運動は終結して表面上消えている。
これが第一の否定です。「すべての規定は否定である」(スピノザ)。
「そうではない」という否定を対象的にできれば、つまりAとは非Aに媒介された直接性(実在性)だということが対象化できれ
ば、第二の否定にジャンプできる。「AのA」とは実在する多くのAから、それをAとする所以のもの、つまり<Aそのもの>(Aの
本質、根拠)を反省することです。
通常は共通性(一般性)として見られる本質性とは、本当は否定の否定としての実在の根拠を言い、弁別作用を弁別する
こととして、自己同一的な存在(種別的なもの)を遡及的に措定すること(前提作用)です。
つまり、「否定の否定」とは実在的対象に対して、その存在の根拠を明らかにするという、反省的(反照的)(Reflective)な立
場へのジャンプです。
ヘーゲルの功績は、同一性−区別−根拠等の反照規定を明示的に取り出し、その概念を明らかにしたことでしょう。(行数
一杯!)
21 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 21:02:47 0
38 名前: OFW 投稿日: 2001/01/22(月) 21:40
>>37 (農民ゲリラさん)
>弁証法とは、経験を通じて認識を新たにすること。
確かに、認識を新たにすることは、既成の認識の枠組みを革新することですね。それは、素朴実在論、実証的経験論、悟性
的合理論、反省的観念論、そして弁証法的唯物論へと深化するのでしょう。
>社会全体を認識するのもそれと同様で、経験によって思考のプロセスが深まり、より多くのことを知り得るようになる。
確かに、思考のプロセスが深まること=プロセスの成果としての概念が高まり、その内包(潜在的な内容)が豊かになることで
すね。そして、その適用範囲は広がり、社会全体にまで及ぶ。深さは広さに比例する訳です。
>(概念の運動=弁証法的運動)
まさに、概念は世界の内に生起する事柄の発展を反映した、客観的世界の見取り図と言えます。我々は経験からそれを学
び、それを頼りに、さらに広大な世界に乗り出す訳です。
22 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 21:03:26 0
43 名前: OFW 投稿日: 2001/01/24(水) 05:13
>>41 (伍長さん)
>もっと平易な言葉にならないのかなあ?
また言われてしまった…。確かに一度に全部を言おうとするから、いけないのでしょうが、具体的にどういう面が分かりにくいか、
指摘して貰うと助かるのですが。言葉、言い回し、何を表象したらいいのかとか、…。
私も最初はヘーゲルの書いたものを読んで、さっぱりでした。それは、たとえば「無は有と同一である」などと言われて、具体的
に何を思い浮かべればよいのか分からないので、解釈の手がかりがなく、謎のような言葉として現れたわけです。しかし、そのう
ちに、具体的な表象というより、概念として考えよ、と言っているのだと、理解するようになった。無とは表象としては、たとえば「何も見えない闇」「暗黒宇宙」というような何ら存在と呼べるものが無い、漠然とした広がりのようなものをイメージする。
しかし、問題は「無」「無い」と「有」「有る」との区別は何かという点でしょう。純粋に言えば、「両者の間には明確な、特定の区
別がない」ということであり、対象(有的なもの)と非−対象(無的なもの)という区別でしかない。それはまさに「存在の措定」と
いう認識の最初の行為です。区別(弁別)することから認識が始まるし、「なにものかが存在する」するのであって「すべてが存
在する」のではない、ということです。
それが最初の肯定です。(ね、既に否定を否定しているでしょ?)
そして「なにものか」は直示的に指差すことができたとしても、他者には不定です。それを特定するためには、その規定性(質
的な内容)を表示しなくてはならない。たとえば「それは『赤い』ものだ」とかね。
23 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 21:14:56 0
44 名前: OFW 投稿日: 2001/01/24(水) 05:14
>>41 (伍長さん)(つづき)
>>「否定」=非A群が存在する。
まず、イコール記号は誤解されやすい、というよりは比喩ですね。
それは、数式で使われる等号ですから、式の両辺の「値」が同じだということを表わしている、とつい考えてしまう。
それは簡便な表現ですが、否定は代数計算ではない(最近は皆そう考えているようだが)。
そこで、上記は否定という言葉の「解釈」が表明されているのだと理解してみる。
まず、非A群が存在するとは既に思考運動の結果ですよね。
まず「非A群」を分析して、非−A−群とすれば、
A :なんらかの個別的な実在者が複数存在していて、その共通な特性を一般的に表現した記号と言い換えることができる。
そうすると、そこにはなんらかの、個別的な、実在者、複数、存在する、共通な、
特性、一般的、表現、記号というかなり高度な(抽象的または専門的な)概念が
登場してくる。特に実在者は個別的であるという点がまず問題ですね。
実在者は指差すことのできる、単一なものという前提がそこにはある。
つまりそれは、複数の実在者が存在するを潜在的に含んでいるのです(質は量である)。
そして、それは数の概念(単位と集合数)を予想させる。
また、実在者は質的な存在であり、変化しない質を特性と呼ぶ特性とは、複数の実在者に
共通な質であるというかなり専門的な部類の概念も前提されていますね。
ここまでで、如何でしょう?
24 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 21:16:08 0
53 名前: OFW 投稿日: 2001/01/26(金) 22:14
>>45 (伍長さん)
>43はよくわからないけど、44は何とかついていけます。
確かに43を読み返してみると、「弁証法は否定の否定」という合言葉に引きずられて、その説明を性急にしようとしたために、
端折った言い回しになってしまいました。あまりそれに捕われないほうが良さそうです。
そこで、事柄を経験と思想といった面から考え直してみると、経験は具体的な対象に直接触れるのに対して、思想は対象の
抽象的、一般的な面を捉える。
と言えると思います。そして、対象の一般的な在り方を概念と呼べば、その個別的な在り方は実在と呼べるでしょう。その場合、
概念とは事物の運動様式を存在形式として表現したものと言えると思います。それは我々がある対象を捉える場合、それが
何らかの運動の結果として存在するそして、反照的(相関的)に言えば、それが他のものとの関係の中において存在するとい
う面を表現したものが、概念だということです。その限り、個別的な実在の否定として概念が存在する、と言えるわけです。そ
れは観念的なものとも呼ばれます。何故なら、観念とは実在の否定として、我々の「頭の 中」にしか存在しないからです。目の前にある経験的実在と、どこにも実在しない抽象的観念との対立は認識にとって基本的なものでしょう。
両者の一致を真理と呼びます。そのことは、目の前にある個別的な実在はその真理においては、決してそれが経験された通
りのものではなく、他のものに媒介されたもの(媒介とは「他になること」です)であり、他の実在との関係性のうちにおいての
み、それが何であるかを正しく規定できる、ということです。
25 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 01:36:57 0
弁証法ではなく、小便法の誤りだろ
26 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 06:15:05 0
そのコピペを3行程度で頼む。 全部は無理だろうから、1レス辺り3行で。
27 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 08:06:21 0
>>26 わかった。こんどはオレ様が読みやすいコピペしてやっから。
じゃ、ちゃーんと付いて来いよ。
54 名前: OFW 投稿日: 2001/01/26(金) 22:18
>>45 (伍長さん)(つづき)
そうなると、認識の発展につれて認識の対象も変化するという弁証法的に重要な面がでてきます。始めは個別的なものとし
て質的実在と呼ばれた対象も、それが他に変化しまた消滅する以上、それは「他在性」という存在形式のうちにある。つまり、
定まった存在として質的であった対象は、むしろ「他になること」がその内的規定(定め)であるということです。
そのことが認識された場合、認識の対象は質的変化のうちにある「他になっても同じもの」、つまり量的な存在に移行する。
「可変的かつ可分的とみられる量も、その純粋な姿においては単一かつ不可分な存在である」(スピノザ)という(純)量の概
念が得られるわけです。
上記のことを要約すると、質的実在の真理(他在性・変化性)がそれとして定立されたものが量であ
るという命題(ジンテーゼ?)になります。また、量はさらに限定されると、最終的に数の概念が得られる。それは単位(観念
的)と集合数(実在的)を対立的な契機として含むそれらの統一です。…等々。
28 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 08:07:55 0
以上の過程を一般的に言えば、対象を規定(限定)することにより対象自体が否定され、その真理(概念と対象自体の一 致)はさらに高次の概念として表現されるということ(否定の否定)を示しているわけです。 「人間の認識は常に生成の言葉を存在の言葉に翻訳する」(マルクス)と言われるのも、運動を止める(止揚する)ことで認識 が可能になると言っていると解釈できる。 ついでながら、このことは、いわゆる実証主義(Positivism)のもつ肯定的な側面と否定的な側面を共に明らかにするでしょう。 マルクスがPositive(肯定的、積極的)と言う場合、それは単なる経験主義ではなく、認識作用のもつ否定の否定としての実 証的、現実的、実践的な面を強調していると思います。
29 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 08:33:22 0
57 名前: OFW 投稿日: 2001/01/28(日) 21:07
>>55 (伍長さん)
>どうも私には無理みたいです。
そう言わずに。私の説明の仕方が問題なのでしょうから。
「弁証法とはかくかくしかじかのことである」という正面切った言い方は、所詮無理があるようなので、少し変えて、具体的なテ
ーマに即した方が良いようですね。
30 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 08:34:16 0
>>56 >2チャンで例えれば、エロネタ・遊びネタと硬派ネタを脳味噌の同じ部分で思考し、表現する事ですね。
そうですね。ニュース板で言えば、テレ朝のSCOOP特集に対する2チャネラーの反応を同じものとして観察する視点のような
ものです。
先週は新宿にいる<車イス>の女性ホームレス、今週は南紀の動物園での<痛んだ足>をもつ象の死に関する特集だっ
たが、反応は実に対照的です。
先週は通行人に蹴られて歩けなくなった女性を見て、圧倒的に「ホームレスおよびやらせテレ朝は逝ってよし」の反応だった
が、今週はタイ人調教師に傷つけられて歩けなくなった象を見て「動物虐待は許せん」のカキコばかり。
http://saki.2ch.net/test/read.cgi?bbs=news&key=980677962 両者(ホームレスと象、そして、両者に対する2チャネラーの異なった反応)の同一性と差異性を共に把握することが、弁証法
的な社会認識かな。
31 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 08:35:37 0
80 名前: OFW 投稿日: 2001/02/19(月) 20:38
>>79 (通りがかりの人)
>73の僕的解釈みたいなのは懐疑論っていうって事でしょうか?
近代哲学の祖デカルトは懐疑をもって自らの反省的思考を開始しました。
既成の意見(独断的教義)を徹底的に疑い、最後に「我思う、故に我在り」つまり「疑う我は疑い得ない」との自覚に到達した
わけ。
懐疑は第一の否定であり、真理に向かうための必然的な一歩でしょう。
32 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 08:36:27 0
>A国とB国がある問題で対立しています。 対立とは本質的な区別であり、矛盾そのものです。 >A国人にとっては自分が正しく、B国人も自分が正しいと思っています。 「正しい」とは主観的な真理であり、一定の基準自体を「思い込むこと」。
33 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 08:37:17 0
>この対立が深刻になると戦争になり、結局A国またはB国どちらか一方の意見が通ります。 いわゆる「矛盾」とは「どんな盾をも突き通す矛」と「どんな矛も突き通せない盾」との戦争です。しかし、状況により、矛は盾に なり、盾は矛になる。たとえば、「武器が不足しています」と訴えた部下に対して、革命家毛沢東は「心配するな、武器は敵 が持っている」と答えたとのこと。 革命的思考とは通常の思考を転覆することです。それは、両国が共に負ける(国家の廃絶)と同時に、共に勝つ(人々の勝 利)ことを目指します。
34 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 08:38:00 0
>ハーフの意見の方がA国人、B国人よりもより正しい(進歩した)意見 そうですね。ハーフは矛盾を身に帯びているから、対立の乗り越え(止揚)に成功するか失敗するかは、まさに一身上の一大 事でしょう。 昨日もNHKで「二つの民族、一つの教室」というタイトルで中東紛争(イスラエル−パレスチナ戦争)の特集をやっていました が、「子供は仲良くできるのに、何故大人は争うの?」という疑問にどう答えるか。 ユダヤ−アラブの対立には、「神々の争い」という誤った根拠と、「階級対立」という真の根拠がある、というのが私の意見(答 え)です。
ニヒリスティックな現実的意見ですな。
36 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 15:51:48 0
34の次のカキコで〜す。
>最近はインターネットとかがあるので結構簡単にできるんじゃないか
確かに、インターネットは戦争に対抗するための強力な手段になり得る。対話は、共同の真理に向かう、最高度の弁証法で
すから。
86 名前: OFW 投稿日: 2001/02/23(金) 02:14
>>83 >全体としてどこが「否定の否定」なのか「弁証法とはなにか?」がいまいち分かりません
ども、困った。まあ、またーりと、行くしかないでしょう。
>経験的実在と抽象的観念の一致とはどういうことでしょうか?
まず、「一致」という言葉は日常的には実在的な存在間について使われるため、
「観念と実在の一致」とは誤解を招きやすい表現ですが、それは実在的一致で
はなく、(言語を含む)記号とそれが表わすもの(記号の対象)との一致とし
て捉えた方が良いでしょう。
『意味の意味』(オグデン&リチャーズ)には、記号の機能として「指示の象
徴」説が述べられており、「我々は、現前していない実在的対象への指示を記
号によって象徴する。」と述べられています。
これは、対象に正しく到達するための脈絡(筋道)の代表(代わり)として記
号が使われる、ということです。我々が何らかの対象を思い浮かべ、それを他
人に伝える場合、「こうしてそうすれば、そこに到達できる」という指示的な
言い方と、「それは○○だ」という象徴的な言い方の二通りをします。
ここで、前者を簡略化(概念化)したのが後者だということです。自分が到達
したい(または相手に到達させたい)対象に自分が(または相手が)めでたく
到達できた場合、観念と実在が一致した、つまり真の対象が得られたと言える
でしょう。
弁証法的に言えば、「媒介性と直接性の統一として、完全な対象」という所か
な。(どうしても難しい言葉になる…)
37 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 15:57:13 0
87 名前: OFW 投稿日: 2001/02/23(金) 02:17
>>83 (つづき)
>実在というのは個別的なもので、観念≒概念はそれを分節するものなので、
一致するようだったら、個別的実在の数だけ概念があるみたいなおかしなこ
とになってしまう
次に、象徴(記号)は常に一般的・抽象的ですから、具体的な個物を対
象にする場合、その位置(場所)を指定するための世界が必要です。
上記の説では「象徴場」あるいは「談話世界」と呼ばれています。
すべての個別的実在は何らかの世界の中で他の実在との間の関係性のう
ちにあるからこそ、そこに存立しているということです。概念という記
号体系は世界の見取り図であり、対象に正しく到達するために、世界の
分節と実在間の関連性を表現したネットワークと言えます。同時に、そ
れぞれの概念自体は「単一なもの」ですから、上記と合わせると結局
「全一的なもの」が概念です。そこから「具体的普遍」という概念の個
別的かつ普遍的な側面が出てくる。
38 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 16:00:45 0
>その一致を真理と言ったとして、その時に実在はなぜ他との関係性の 中で正しく規定されるのでしょうか? カントはカテゴリー(範疇)を「最高類概念」と呼び、森羅万象(実在 )はすべて何らかのカテゴリー区分の元に置かれることでその本質規定 (それが何であるか)が正しく認識される、と言いました。 そして、質、量、関係、様相およびそれらの下位区分(各3種)から構 成される範疇表を提示したわけですが、ヘーゲルは「それはカテゴリー 自体を固定化する外的・偶然的なやり方だ」と批判して、カテゴリー間 の関連性を明確にしたと言えます。 実在の規定は質、量、限度と否定的に推移し、それは本質へと反照する、 そしてモノから現象に外化して、現実性に至って、概念として自己 (真実在)に復帰する、といった具合。むろん、観念論ですが、むしろ 観念の弁証法(否定の否定)を明らかにしたと言えます。
39 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 17:05:28 0
全部読んだけど疲れた。
読んでると、弁証法は進む(発展を出す)と思われがちだけど戻るのもありのようだ。
ヘーゲルの本に書いてあるのか、又は注解での解釈なのかは不明だけど。
とりあえず、その弁証法とやらで頼む。
>>5
40 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 17:08:35 0
こんなんも挟ませてね。 90 名前: OFWファン 投稿日: 2001/02/24(土) 09:35 >一連のOFWさん 丁寧な解説ありがとうございます。 だんだん分かってきたような、ますます分からなくなってきたような… でともかく埒があかなそうなので、ここは発言36に戻って36の僕 なりの解釈をさせてもらいました。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。 事物を概念化するということはAと非Aを統一的に把握する認識作用である。 で話を分かりやすくするため、概念化というより認知作用を例にとってみる。 1.これは何? (2.それはコップか?、「そうではない」(カップ、おわん、…)か?) 3.それは(他のものじゃなく)コップである。 ()は暗黙の思考として意識から消えている。 この「そうではない」という暗黙の否定が「第一の否定」である。 そしてこの「第一の否定」自体を対象化すると、つまり「コップとはカ ップやおわんに媒介された実在性」だという事実そのものを対象化する とき、「第二の否定」に向かうことができる。 この「第二の否定」とはここで新たに対象化した「第一の否定」の根拠 を反省することである。(きっと否定とはnotの意味ではないんでしょうな…) そして「カップ」の本質とは、上のような「否定の否定」による実在の 根拠の問いかけによって規定され、また保証される自己同一性である。 よってこの「否定の否定」による実在の根拠の問いかけをつきつめると、 人は事物の本質の正しい認識(=絶対知?)に到達することができる。 この運動が弁証法である。
41 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 17:14:13 0
91 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:16
>>90 私の抽象的な言い回しも少し理解されてきたかな。
ヘーゲルも同じことを繰り返し繰り返し思考し直して、概念の働きを明
らかにしていった訳ですから、しつこく説明を試みよう。
>弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。
そう。概念的把握とは実在対象の十全的な(欠ける所のない完全な)理
解とも言えるでしょう。直接的な存在は、その根拠が明らかにならない
うちは、偶然的で不十分な存在でしょう。概念的把握とは結局、対象を
歴史的に発展する事柄として、動的・総体的に理解することです。
>事物を概念化するということはAと非Aを統一的に把握する認識作用である。
通常の科学や形式論理ではAはあくまでAだと言い、非AとAの区別は
外的なつまり主観的な区別に過ぎないと言われる。
ヘーゲルはA自体の中に非Aを見るから、区別するだけの認識(悟性)
をむしろ「無概念的な認識」と言っています。(マルクスも当時の(今
もそうだが)経済学を同様に批判している。)
>1.これは何?
事物に対する問いがすべての認識の出発点であり、それは、主観が対象X
を立てること(措定と言います)です。「これ」とは目の前にある「何
ものか」(何らかの実在者)です。それは認識によって明確に規定され
るが、それ自体は既にそこにある、つまり前提された存在です。
このことは、「対象」概念の二重性を示しています。「対象」とは、
一方でそれ自体で存在する実在(客観的な存在)を指すが、同時に主観
にとっての「対−象」であるということです。
ヘーゲルは前者を真(実在)の契機、後者を知(認識)の契機と呼んで
いる。両者の区別と統一が働きとしての概念化作用です。
カントは両者を機械的に分離したから、「我々は現象を超えて、物自体
を認識できない」という不可知論になった。
42 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 19:23:30 0
92 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:19
>>90 (つづき)
>(2.それはコップか?、「そうではない」(カップ、おわん、…)か?)
認識は対象の特定、区別(弁別)、識別(同定)ですが、さしあたり主
観は対象認識を“遂行する”から、認識自体は対象化(意識化)されない。
対象を認識しようとする思考は否定的な働きです、というのは、知性は
感性と違い、対象をあるがままに受容するのではなく、「これは何だ?」
と言って、その「あるがまま」(自体)を否定するからです。
「対象を知るには、その直接性を否定しなくてはならない」そして、直
接的な対象(実在)はまず質によって区別されます。「質とは対象を実
在とする、最初の規定性である」(ヘーゲル)
それは主観の区別作用が対象の上に反映しているということであり、
対象を実在(直接的な存在)とすることは「あれかこれか」の側面から
対象を吟味することの結果(差異に基づく対象認知)です。
>3.それは(他のものじゃなく)コップである。
思考の直接的な否定性は、否定性自体を対象化できない。それは「Aで
ない」を常に「他のもの」、つまり「Bか、Cか、…」という実在的な
形式(対象的形態)でしか捉えられない。そのため、自らの作用である
「他のものじゃなく」(否定の否定)は対象化(意識化)されず、その
結果として得られた一般概念「コップ」が対象そのもの(真の実在)だ
と主張する。
実際、「それはコップである」(個別的なものは一般的なものである)
は根拠のない断言であり、まさに直接的(根拠をもたない)対象の判断
(質の判断)です。しかし、その真理は「個別的なものは一般的なもの
である」という形式に含まれており、その結果、「あれかこれか」の質
の判断は「あれもこれも」という、量の判断(形式論理の数学的等価性
「A=B」)に移行する。
43 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 19:25:49 0
>きっと否定とはnotの意味ではないんでしょうな…)
いや、まさにnotであり、何ら神秘的・深遠な働きではない。
サルがnotを正しく弁別できれば、人間になれる、かな。(少なくとも、
見せかけと真実の区別は分かっているようだ。)
93 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:20
>>90 (つづきのつづき)
>そして「カップ」の本質とは、上のような「否定の否定」による実在の根拠の問いかけによって規定され、
また保証される自己同一性である。
そう。本質とは「生成変化する事物の本体、その直接的な存在の底にあ
る自己同一的なもの」です。
客観科学とは普遍的な法則、原理を目指す本質の探求ですが、そこでは
対象が相関的な関係性において捉えられる。
また、根拠とは「同一性と区別との同一性」であり、「あるものがそれ
であるのは、あるものが他のものとは違うからである」ということ。
44 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 19:28:56 0
>本質の正しい認識(=絶対知?)に到達することができる。 ヘーゲルは「正しい(正当性)」と「真の(真理性)」とを明確に区別 します。 前者は悟性(分析的、判断的理性)の在り方であり、何らかの基準に合 致する妥当性を求め、後者は本来の理性として根拠に基づく、認識と実 在的対象との一致を求める。 また、絶対知とは「概念とそれ自身との一致」という絶対的観念論の主 張であり、神がかりですね。 >43の有と無の話 例が悪く、ヘーゲル流な難解さの例になってしまった。 「概念と対象」の最も抽象的なケースとでも言えば、良かった。 上にも書きましたが、概念は具体的なものであり、常にその対象面(実 在的側面)とその規定性の面(観念的側面)との否定的統一です。 最も抽象的な概念は「存在」でしょうが、それは特定の対象をもたない。 「すべてのものは何らかの点で存在するが、『すべて』は存在せず、常 に特定の対象が存在する」からです。つまり、抽象的な存在とは、対象 性そのものだということであり、最初の具体的概念とはむしろ「生成」 (有と無の統一)です。存在論では、「存在するとはどういうことか」 という過激な設問を出して、「存在と区別される何ものか」つまり「無」 を存在的(対象的・主語的・名詞的)に立てる。 「存在が存在するのであり、無が存在するのではない」(ハイデガー) と言われたりもする。しかし、我々は常に何らかの経験的実在から始め るのであり、存在自体から始める存在論は形而上学(天上の学問)と呼 ばれます。(以上、長文失礼)
45 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 09:01:25 0
"6"がOFWですよ、みなは〜ん。 10 名前: 6 投稿日: 2000/08/25(金) 20:27 >9 違います。逆に全体主義は非弁証法的なもので、たとえばアドルノの 「否定の弁証法」はまさにファシズムおよびスターリン主義が荒れ狂った時代 を身をもって生きた経験の上に書かれたものです。 弁証法が忌み嫌われるのは、端的に言えばそれが「革命的な」精神を育てるか らであり、現状維持を望む知識人および為政者等は何としても非弁証法的な思 考を押し付けようとやっきになるでしょう。
46 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 09:02:50 0
12 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 00:41 >7 >「歴史の終わり」とは弁証法的意味で使われているのであって・・・ 意味がよく分かりませんが、私の言いたい事は「歴史の終わり」という 主張は非弁証法的だという事です。 >11 そうではなく、8さんの「何故弁証法が忌み嫌われるのか?」と言う質 問に対して、9さんが「全体主義につながるから」と政治的な理由を挙 げられたので、政治的な点に絞って嫌われている理由を言ったのです。勿論「難解だから嫌われている。」「形 式論理に反するから嫌われている。」と言う答えも有り得ます。 当然、二分法で「あれかこれか」はヘーゲル弁証法とは無縁ですね。
47 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 09:04:09 0
18 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 02:59 (目が覚めてしまった) 15、16は全体化、同一性に対するアンチとして弁証法があるという 点でそれ程異なった意見ではないと思う。 私がアドルノを持ち出したのも、ヘーゲルのジンテーゼ(総合)という 契機は狭い意味では非弁証法的で、彼自身も「思弁的」契機と呼んでい るという点を、全体主義=弁証法という「余りにも」な見解に対して言 いたかったからです。
48 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 09:08:57 0
1 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 15:15 と言う事で、ヘーゲルは弁証法を近世において復活させたが、その(遅 れたドイツに媚びを売った)政治イデオロギーによって自らを裏切った。 ・・・これが歴史の終わりB 逆に言えば、(マルクスが言っているが、)政治的に遅れたドイツだっ たからこそ、却って哲学的には弁証法という革新的な思考が生まれ得た。 ・・・これが歴史の弁証法的な進行例@ さらに言えば、遅れた帝政ロシアにおいて社会主義革命が成功した理由 は何か? そして、成功したのもつかの間、結局スターリン主義という 国家資本主義体制の下での似非弁証法(例:不均等発展の法則)が公認 のものとなった理由は何か? 要するに、現実の世界史の中ではどのような停滞、反動も結局許されず、 虚偽の体制はやがて没落の時を迎え、新しい主役に道を譲らざるを得な いと言う事、これが弁証法的な意味での必然性の洞察でしょう。 つまり、歴史の真理と人類の解放に向かう媒介的・批判的・現実的な運動、 これが弁証法と呼ばれる実践的・主体的・類的な働きと言えるのではな いでしょうか。無論、「歴史の真理」などという抽象観念は具体的分析 と主体的実践の契機を忘れると、つまらない「最後の審判」論あるいは 非弁証法的な観念論に堕してしまうが。 アドルノの場合、弁証法を余りにも観念的なものに止め、批判を全体主 義イデオロギーにだけ限定し過ぎた。唯物論的な根拠(人間の自然史) について無理解であり、プロレタリア的ではなく、小ブル的な抽象論議 に堕している。 そのため、その論述は論理的と言うより、個人の主体性を守れという倫 理的な色彩が強い。
49 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 09:31:04 0
25 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 20:11 さてしかし、このスレのテーマであるヘーゲルの評価について言えば、 アドルノあるいはデリダが称揚する不協和あるいは差異性(差延性)と いったそれ自体あまり役に立たない直接的な表象をもって反発するだけ では、余りにも安易と言える。 それらは、現実の歴史を規定してきたものがヘーゲルのもたらしたパラ ダイムだと言わんばかりである。 20世紀の思想的閉塞状況あるいはファシズムの原因がヘーゲルの絶対 的観念論(あるいはそれに代表される何物か)にあると錯覚する程ばか げた事はない。そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、 彼らの属する中産階級固有の肯定かつ否定の両義性をごまかしているだ けである。 「全体主義には反対、しかし共産主義にも反対。」これが、決して団結 しない不協和あるいは決して階級として統一されない差異性を後生大事 にしたい否定的かつ肯定的な弁証法(むしろ反弁証法)の正体である。 ヘーゲルならば、そのような退廃的・逃避的な小精神を大いに哄笑する であろう。 27 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 20:34 >26 どうもスミマセン。ちょっとヘーゲルぶりをしてみたかったので・・・。 私がヘーゲルを評価するのは、弁証法論理において反省(反照)規定を それとして明確に取り出したという事ですね。私の論理的思考はそれに よって大いに鍛えられました。 特に現代の科学や哲学において相対主義や主観主義が蔓延しているのは、 本質論をしっかりやるという姿勢がなくなったためで、本質論に関して はヘーゲルを参照せずには論理的な裏付けは得られないと思っています。
50 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 09:34:49 0
33 名前: 6 投稿日: 2000/08/29(火) 20:50 >32 >弁証法って結局どういうモノなの? 一言で言えば、「事物を生成発展の相で捉える見方」かな。 勿論これ では、具体的な内容はまったく分からないので、もっと説明が必要です が。 >いろんな本にチャレンジしたけど、どうもよくわからん。 確かにロクな解説本はないようです。ヘーゲル『小論理学』を読むしか ない。でも、これは古今東西の書物の中でも難解と言う点ではトップク ラスの本です。(いやー苦労した。) 37 名前: 6 投稿日: 2000/08/30(水) 21:23 ヘーゲル論理学の難解さの一つの原因はその独特な用語のせいでもある が、通常の形式論理学とは違い、論理形式とその対象との間に内在的な 関連を認めているからです。 通常の論理学で「xxは真である。」と言う場合、xxの位置に来るの はなんらかの命題(判断を言い表したもの)であり、既に主語−述語の 関係が成り立っている(対象は主語として言語化(表象)されている)。 後は判断の形式だけを論じるだけで、元々の主語が正しいか(実在にか なっているかどうか)などは全く議論されない。 しかし、ヘーゲル論理学では概念とその対象との関係を巡って、その真 偽が云々される。つまり、「xxは真である。」と言う場合、xxの位 置に来るのは第一義的には「概念」なのです。たとえば、「質の真理は 量である。」などとは形式論理学では絶対に出てこない言い方であり、 「ヘーゲルは馬鹿か?」と言われても良い筈なのだが、さすがにそこま で言う人が出てこないのも不思議な事です。 つまり、ヘーゲル論理学とは既に認識論(認識はどこまで実在を捉えら れるかを問う、カント的に言えば「超越論的」論理学)でもある訳です。
51 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 11:10:46 0
弁証法で秀逸なのは、合理的なことが現実的だ、現実的なことは合理的だ、ということだと思うがなあ
52 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 11:13:13 0
同時に、普遍的なことが今はまだ特殊であることもあるという注釈もいい これはへーゲルでないけどね
53 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 11:53:41 O
>>1 メーカーは?
あと、ローションはなんだろう。
54 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 12:20:38 0
46 名前: 6 投稿日: 2000/08/31(木) 21:14 弁証法とは一方で世界がどう在るのかという存在論でもある。 弁証法的世界観というのは非常に古く、よく例に出されるヘラクレイトス の「パンタレイ」(万物は流転する。)は弁証法の精神(スピリット) を表現したようなものです。 つまり、そこでは一切の存在は生成・変化の内にあるという根本的な直 観がすべての認識を貫いている。 それは釈迦(仏陀)が(人間を含め) 森羅万象至るところに「燃える火」を直観した事にも通じる。 また、マスクスも言う、「人間の思考は常に生成の言葉を存在の言葉に 翻訳する。」と。 弁証法の論理は動的、過程的、立体的なものであり、生成・変化を捉え、 実在の内奥に迫ろうとする。それは形式論理の静的、結果的、平面的な、 実在に触れない抽象的思考を超えているのです。 否定、矛盾、媒介、止揚といった弁証法の特徴とされる論理形式も根本 的にはそこから出てくるのです。 W.ベンヤミンの言葉、「弁証法とは歴史という風を受けて進む帆のよ うなものです。」 その事はヘーゲルが一番理解していたと言ってよいでしょう。
55 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 12:24:14 0
52 名前: 6 投稿日: 2000/09/01(金) 10:19 (今日は夏休みだ!) >46 誤:マスクス 正:マルクス 弁証法論理を理解する上で、私が最も基本的だと思うことは、ヘーゲル も繰り返し言っていますが、「具体的なものはそれ自身の規定性とその 否定との統一である。」という事です。 これはどういう事かと言えば、実在する存在者がそれとして存在してい るのは、その規定性とその否定とを合わせ持つが故に具体的な存在者で ある、という事です。 それは39さんのように>AイコールAかつ非Aという矛盾律が弁証法の 基本原理です。 と言うと少しミス・リーディング(誤解を招き易いも の)になるでしょう。 Aと言う記号は抽象的な規定性自体を指すから私が言う具体的存在者で はないし。また、イコールという数式記号の喩えだと数的相等性を思い 浮かべるから、統一(より正確には不可分離性)という内容が消えてし まう。さらに矛盾律というのは元々アリストテレス論理学(形式論理学) 用語であり、「あるものは同時に同一の観点からその否定であることは できない。」という格律を指すから、上記で言われた事の正反対です。 前にも書いたように、弁証法では単に思考形式だけを議論の対象にせず、 思考対象がそれに合っているか(真の対象か否か)を吟味します。 「対象Aが規定性Aをもって存在(実在)しているのは真実か?」とい う問いを発し、それに対して「対象Aは変化し、Bに成る。故に、対象 Aは既にその否定(第一の否定)を内在している。」 つまり、すべての存在者はその没落・消滅の根拠を自らの内に含んでい る、という認識に至る。 この過程的な思考の運動(真の対象への媒介運動)を弁証法と呼ぶので す。
>>53 カリスマセクシーエロギャルは650円だけあって
チンコ入れたらすぐ壊れた
ガバガバだった
57 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 15:20:08 0
55 名前: 6 投稿日: 2000/09/01(金) 20:40 解りにくいのは私の説明が悪いためでしょうから、更に突っ込みます。 「対象Aは変化し、Bに成る。」 という事態について、弁証法論者が 「対象AはAであると同時に非Aである。」@と言う場合、形式論理学者はそれを非難して言うでしょう、 「ある対象xはある時点ではAであり、他の時点ではBである。」Aと言うのが正しいのだと。 確かに通常の思考(表象)ではそのほうが自然であり、弁証法論者は逆説を弄んでいるだけの様に見えます。 しかし少し考えて見ると、 Aは「変化の結果」を表現してはいるが、「変化自体」を表現していない事に気づきます。確かに現在進行形の変化とは直 覚されるべきものであり、判断あるいは推論されるものではない。それは<変化>と言う概念として定着されるしかない。 それを命題の形で表現する(分析する)と、 @のような一見矛盾した言い表し方にせざるを得ない。今ここにあり、次の瞬間にはそこにない。その変化自体を静止的な存在の用語で表現すると「矛盾」となります。 @は緊張に満ちた「変化そのもの」を分析して、矛盾した契機の統一として表現しているのです。つまり、「矛盾」は存在する のです。 「直接的な存在は生成に媒介された結果として見られるべきである。」 −例:永遠と見える資本主義も歴史的生成の結果であり、その胎内に自らの滅亡の根拠を抱えている。 (やっぱまだ解りにくいかな。見方の転換が要求されているので。)
58 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 15:21:30 0
59 名前: 6 投稿日: 2000/09/02(土) 11:24 >57 (だんだん深みにはまって来た。) 前にも書いたように、ヘーゲル論理学に関してまともな解説書は(少なくとも)日本には無いのではないでしょうか。古くは武市 健人から近くは広松渉まで(さすがに遠慮して)完全な的はずれとまでは言わないまでも、読んで理解できると言うより、更に 訳の分からなくなる事になる。 更に言えば、件のスターリン主義的な自称「弁証法的唯物論者」(日本○産党も含め)の説く弁証法は、エンゲルスの無理解 にもよるが、バカバカしくて話にもならない。 どうせ分からないなら、原著を読んだ方が良いと思うのも自然でしょう。と言う訳で、『小論理学』(松村一人訳、岩波文庫)を 久しぶりに埋もれた本の山の中から探し出してきました。(埃だらけ!) 手元にあるのは下巻のみですが、その「第二部 本質論」全体が反省規定の展開です。目次を見ると、 A現存在の根拠としての本質 a純粋な反省規定 イ同一性 ロ区別 ハ根拠 b現存在 c物 B現象 ・・・ C現実性 ・・・ となっています。これら全部が反省規定です。 (因みに「反省」というと道徳的なニュアンスが出るし、ヘーゲルの概念=主体の絶対的観念論に添う形にもなってしまうの で、私は余り好きではなく、反照(或いは反射)(英語でReflection)と言う訳語の方が良いと思っています。) この位で宜しいでしょうか?私は先生ではありませんので。
59 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 15:24:34 0
4 名前: 6 投稿日: 2000/09/02(土) 19:45 >61 エンゲルスの高潔さは好きですが、こと弁証法については余り感心しない。特に『自然の弁証法』で弁証法を科学と同一視し ているのは、その後のソ連官製哲学から現在の日共にまで至る誤解の原因を作った。不破委員長までが相変わらず、「我々 は科学的社会主義に基づいているのだから云々」などと言うのを聞くと、「ダメだ、こりゃ。」と思わざるを得ない。 もっとも、教条主義はエンゲルスのいではなく、非弁証法的スターリン主義のせいでしょうが。 69 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 10:44 現代においてヘーゲル弁証法の再評価が重要だと考えられるのは、繰り返しになりますが、「本質論」の持つ認識論的な意 義です。 特にマルクス『資本論』において商品・貨幣・資本の本質を理論的に説いた冒頭部分の理解は、明らかにヘーゲル弁証法を 必要とします。戦後日本の「マルクス(主義)経済学」で繰り返された不毛な論争および最近のくだらない(ポストモダン的?)「貨幣論」の流行は「本質とは何か」を見失った現代科学、哲学の主観主義の典型です。レーニンも言いました、「ヘーゲルを もっと研究せよ。」と。
60 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 15:50:56 0
69 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 10:44 現代においてヘーゲル弁証法の再評価が重要だと考えられるのは、繰り返しになりますが、「本質論」の持つ認識論的 な意義です。 特にマルクス『資本論』において商品・貨幣・資本の本質を理論的に説いた冒頭部分の理解は、明らかにヘーゲル弁証 法を必要とします。戦後日本の「マルクス(主義)経済学」で繰り返された不毛な論争および最近のくだらない(ポスト モダン的?)「貨幣論」の流行は「本質とは何か」を見失った現代科学、哲学の主観主義の典型です。レーニンも言いま した、「ヘーゲルをもっと研究せよ。」と。 72 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 20:14 >71 レーニンを持ち出したのは失敗でした。しかし「哲学のレーニン的段階」などとはスターリン主義的御用学者が言った言 葉ですよ。権威主義は弁証法とは無縁です。自らの生み出した資本という幽霊に日夜苦しめられている労働者こそ が最大の権威でしょう。 79 名前: 6 投稿日: 2000/09/04(月) 23:06 >75 レーニンの『哲学ノート』はどこに行ったか見つからないので、正確に引用はできませんが、ヘーゲルを非常に高く評価 しているのは確かです。確か「殆ど唯物論に近付いている。」とか、「弁証法はおよそ17、18くらいの格律にまとめる 事ができる。」とかのメモを書いていたと記憶している。 昔、『哲学ノート』を読んで初めて弁証法が何となく理解できた、と言っていた人もいたな。
61 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 15:52:48 0
93 名前: 6 投稿日: 2000/09/07(木) 23:25 実在は移行し、本質は反照し、事柄は発展する。 これらが弁証法的な運動形態である。 と言う事で、特に「本質」という概念を捉える事はヘーゲル抜きには無理でしょう。 移行する実在は仮象であり、認識は仮象を去ってその根拠、始源(自体)に溯る。自己同一的本質は対立の統一 (非同一の同一性)であり、現存在の根拠として捉えられるが、直接的に現存在する根拠すなわち「物」として向自 化される。それは現象、すなわち仮象(見かけ)の全体として外化する。・・・ こんな禅問答のような文章でも、マルクスは商品および貨幣の本質を分析するために「大いに役に立った。」と書いて いる。 112 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 15:05 弁証法は科学だと言う人がいるが、通常の意味での科学ではない。むしろ科学批判であり、形式論理の限界を明らか にする思考です。それは変革の論理と言えるが、それも実在に迫る思考の否定力に基づくからです。 「すべての規定はその否定を内在し、それとの反照関係において成立している。例えば全体は部分であり、内容は形式 であり、実体は関係であり、必然性は自由である。すべての固定した規定性の内にある真理に迫れ。」とそれは要求す る。
62 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 15:54:58 0
114 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 17:11 >113 なるほど。(また謝らなくてはいけないかな・・・。)しかし、 >日本人は普段、論理的思考で動いているとは思えないんですよ。 確かに自覚的に論理的に動いてはいませんが、先の「全体と部分」に関連して言えば、 例えば、 A:「君、会社は今窮状にある。会社全体のためにこの際君は止めてくれ。」 B:「いや、社員が集まって会社がある。社員がいなくては会社は存在しない。」 A:「それは違う。会社という全体あっての社員で、個々の社員は部分でしかない。ごたごたへ理屈を言わずに止めなさい。」 と言った現実的な問題はどうでしょう。論理的に筋を通す事が求められています。 この場合、どちらが正しいと思われますか? これは全体主義と個人主義という「厄介な」問題です。形式論理ではカタがつかないでしょう。 116 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 18:54 >115 (更に弁証法は進む)と言う事で既に論点が移行してくる事が非形式論理的だと言う事です。形式論理は問題を抽象的・ 一般的に論じますから、事柄の形式性にだけ捕われます。 ところが、弁証法論者は事柄を具体的に考え、「真の問題は何か。」と捉えようとします。 例題が理論的ではなく、実践的な性格を持つ本性である事はまさに弁証法的な思考によってのみ解明されるのです。 因みに例題の場合、事柄の本質は資本主義自体の階級対立にまで進む事があり得ます。 その場合、単なる論争は実践的な「判断」として、「首切り反対」という闘争的局面に移行します。論理的な思考を通して 実践的に現実に関わる事が弁証法なのです。私の議論の対象も既に「全体と部分」という機械的対立からその真理で ある「力と発現」という力学的対立、更に「形式と内容」という記号論的対立に移行している訳です。
なんなんだこのコピペスレは
64 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 19:10:12 0
65 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 21:02:13 0
119 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 20:49 (対話は更に続く) >117 私は116でまさにヘーゲルの森羅万象を弁証法論理で思考しようとことを否定したつもりですが。それは「絶対的観念論」 と呼ばれました。何故なら、「現実的要素」をすべて思考可能としたからです。彼が「現実的なものは理性的である」と言 った時(これはこれで含蓄あある洞察を含んでいるが)、轟々たる批判が巻き起こったそうです。 マルクス(「武器の(による)批判は批判の(という)武器にとって代わる事はできない。」)およびキルケゴール(「ヘーゲルの 弁証法は現実を止揚(観念化)してしまうが、現実自体は止揚されずに残る。」) 但し、マルクスはその中にある真に弁証法的な核は保存しました。 「現実は観念ではない。しかし、観念が現実を捉え る時、それは物質的な力になる。」 弁証法の力とはその現実批判およびイデオロギー批判によって、「結局だめさ。」という諦め(これも宗教的イデオロギーに つながる)から人間の実践的・主体的な力を取り戻すことにあるのです。 それは共同的な行為であり、ニーチェ流の超人のなせる業ではないでしょう。そして「人間は自然の一部である」とは唯物 論の基本であり、そこには自然に対する畏敬と信頼が基本にあるのです。
66 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 21:02:54 0
122 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 21:07 >119 誤:しようとことを 正:しようとした事を その他おかしな表現(116含め)がいくつかあり、失礼。 126 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 22:10 (では、・・・) >117 >弁証法には限界がある、ということでいいんですか? 「限界」とは何でしょう?「あるものがそれで無くなる所、地点」と一応言えますが、すべてのものがそれであるのは その限界「内」にあるからであり、同時に限界においてはそのものが消滅する以上、すべてのものは限界の「外」 に在ることになります。 ではあるものの限界とは、そしてあるものはどこに存在するのでしょうか? >「現実的要素」を取り込めなければ、思考の「方法論」としては有効でも、実際的問題の「解決法」にはならない でしょう? 「現実的」とは何でしょう?「本質自体の現象」と一応言えますが、本質および現象とは思考の対象でしかありません。 あるいは「感性的現実こそが現実的だ。」と言えば、たちまちデカルトの批判を受ける所まで戻ってしまいます。現実の 現実性を捉えるのは、例えば資本主義社会の現実性とその幻想性を捉えるという「実際的問題」にとって重要事で はないでしょうか?
67 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 21:05:36 0
29 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 23:56 >128 では今日は発言は控えます。 一遍に話すと、本当に「下痢気味」になってしまいますから。 但し、弁証法が言葉の弄びではない事は私のレスを良く読んでみて貰えれば、分かると思って書いたのです。 135 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 10:18 (お早ようございます。下痢も治った(嘘)。) >131、134 まあそう喧嘩せずに。ソクラテスは弁証法を対話法として実践しましたが、彼の対話は産婆術とも言われ、相手の 主張に沿って問答をしながら、その無根拠性を自覚させてより高次の認識に導くというものです。それは基本的に 2者間のやりとりで、今回3すくみ状態になったので私が引いた訳です。 >132 人一倍記憶力のない私で、何十年も前に読んだうちのどれかは急に出てこない。多分『ドイツ・イデオロギー』前後 の若い時期のものです。ただ有名な言葉ですので回りの人に聞いてみて下さい。 >133 私は116および126で具体的に弁証法的論述を弁証法的に行いました(余り成功していないようですが)。前提と する論理の枠組みに含まれる矛盾を通してより高い立場への飛躍を計るという方法は特に限界的な状況において 威力を発揮します。固定した存在を生成・消滅の中に突き落とすことと言っても良い。
68 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 00:10:31 0
しかしの青体はガガと震えだしたようだね?
69 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:19:26 0
39 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 15:54 >135 引用された文章の出典が分からないので、へたなことを言うとまた(ネット上の著作権も含め)謝らなくてはいけなくな るかも知れないけれど、余り弁証法的な思考ではないと思います。 >>普遍主義を装った帝国主義に対抗するには、より高次の普遍主義を提示して見せるしかないのだ 私なら、「現在の『グローバルスタンダードを!』という普遍主義の掛け声の正体はアメリカを中心とした政治経済的な帝国主 義であり、事柄の本質は単なる技術的標準云々の位相にはない。 帝国主義に対抗する真の普遍主義すなわち具体的な地域性・民族性・歴史性を考慮した多様な個性を持つ普遍主義と はプロレタリアの普遍性に根差した社会主義の上にしか花開かないであろう。」とでも言いますね。 ヤードポンド法ではなくメートル法にすれば良いなどという矮小な(抽象的かつ個別的な)話ではない。本質論が無い。
70 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:21:46 0
140 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 16:01 >139 誤:>135 正:>136 (最近乱れていて失礼。あと以前の引用も正確な引用ではなく、パラフレーズ(記憶違いも含め?)として理解してください。 謝々)
71 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:22:33 0
144 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 21:02 >141 『小論理学』では、「全体と部分」の相関についてそれが最初の規定された相関であり、実在的諸部分から全体が構成され るにも拘らず、全体は部分の総括としてその否定であり、両者の関係は真実でないものと言われています。 つまり、まず全体とは実在しない観念に過ぎないという事であり、実在するのは常に部分なのです。それが何らかの全体を 「代表する」とされる部分に実現されていると思い込まれる時、すべての全体主義が生まれます。 「国家あっての国民」、 「国会は全国民の代表から構成される」 など全て虚偽、真実でないものです。 しかし、全体を抽象的に否定して、全体無しの部分に分解された場合は、逆に部分は部分で無くなり、その実在すら無くな る。個人主義は社会の中でこそ成立できる。全体主義と個人主義は共に抽象的であり、第3のものとしての両者の総合がそ れらの真理でしょう。それは如何なるものか。ヘーゲルはそれを「具体的普遍」という概念で表現しました。しかし、プロシャ帝 国と言う特定の実在にそれを夢見たために、失敗した。したがって、社会が諸個人間の開かれた関係(相関)として共同的な 精神が全ての個人においてその自由な個性の形態によって表現される時に、第3のものは初めて現実のものとして地上に現 れて来るでしょう。 共産主義はそれを目指すものと考えますが、「前衛党物神」は同じ反弁証法的な全体主義に陥ってしまった。やはり、個人 の内に客観的精神を根づかせる啓蒙を同時に推し進めるしかないと思います。 ですから24さんの言われるように、ヘーゲルの「人倫と国家の弁証法的止揚」という「未完の近代」の問題は未だ決着がつい ていないと言える。ましてやポストモダニズムなどは、127さんの言われるように、近代合理主義すら満足に根づいていない 日本ではお話にもならないでしょう。 また、会社でのリストラに対する最も弁証法的な対抗策は「団結と闘争」しかないし、「認識は闘争の中で最も良く鍛えられ る。」のも本当でしょう。(但し、偉そうに言っても今の私は所詮日和見ですが。) (また長文になってしまった。スミマセン。そろそろ引き時でしょうか。)
72 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:24:59 0
150 名前: 6 投稿日: 2000/09/11(月) 22:59 >145 113さんもそうですが、「現実問題に弁証法をあてはめる」あるいは「弁証法を利用して現実問題を解決する」という言い方 自体がおかしい。弁証法は便利な道具・手段ではなく、真実に向かうための方法であり、誤謬を通して真理に至る運動が作 る軌跡のようなものです。 確かに、リストラの例を「全体と部分」の矛盾という概念の客観的説明に使ったのは質問の意図に沿うものではなかったようで す。むしろ、「主体と客体」あるいは「理論と実践」といった、より高次の弁証法の例とすべきだったでしょう。(と言う事で、説明 のやり直しをしよう。) 毎日勤勉に働いていた人が、突然上司からクビを言い渡される。「会社の窮状」と言う理由は本当か。「窮状=困窮した状 態」とは一見客観的な事柄のようだが実は相対的な概念です。ヘーゲルは「状態とは質の外面性である」という内容の定義 をしている。状態性とは「あるものに固有と見える質は回りとの関係の中においてのみそれである」と言う真理を直接的に表現 しているのです。関係性の中で異なる主体によっては困窮した状態=喜ばしい状態かも知れない(例:ライバル会社)。「会 社の窮状」=「社員の窮状」という等式が成り立つのは、会社=社員である場合だけでしょう。論理的にはこれは会社と自己 との「実体的同一視」と呼ばれます。会社と一体化していた社員が会社の窮状を救うために自分の窮状をもってするとは何た る矛盾でしょう。ですから、リストラを告げられた社員には実体(客体)の主体化こそが求められています。これはエンゲルスも 言うように、最高度の弁証法です。日常的・没主体的なあり方から、非日常的(限界的・危機的(困窮的)・状況的)で主体 的なあり方への転換(弁証法的転化)が必要となります。(ハイデガーなら「状況の開示性」とでも言うだろう社会への本質洞 察(運命の声)がこの瞬間に起きるかも知れない)ただし、ここから実存主義的な主体性論者と別れるのは、「状況の本質」 を捉えるには対象の理論的・科学的な分析と本質の概念的把握が必要だと言う事です。
73 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:26:24 0
72の続きで〜す。 「俺をクビにする会社と今の社会とは一体何なのだ。」と言う哲学的反省は、 「今の社会の本質が生産者と非生産者との階級対立に基づき」、 「資本とは過去の労働の物象化の事であり」(労働価値説)、 「階級対立という矛盾を闘争(矛と盾との最終戦)なくしては、否定(階級という否定的存在)の否定(反撃あるいは否定の本 質)としての真の肯定(階級そのものの消滅)は得られない。」と言った、 多くの媒介的知識による客観的・概念的認識を成立させる事で、真に「現実的な」展望を持てるし、真理と正義なくして自ら の窮状を真に救えない事を確信できる様になるでしょう。(「矛盾は世界に満ち満ちている。矛盾を笑え。」)
74 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:30:55 0
169 名前: 6 投稿日: 2000/09/14(木) 22:45 >154 >昔からヘーゲルが人間の足跡を見てそこに神を見出してるような姿が拭えないでいます。 とても良い(Nice?Good?Phylosophical?)指摘で、対話を続ける契機として相応しいポイントだと思います。 ヘーゲルの全哲学体系は、前にも書きましたが、「絶対的観念論」と呼ばれています。「絶対的」とは「他に比較できるものの 無い」という事であり、例えばカントの主張する「最高、最善、最強と言った相対性」を超越しているという事です。 ヘーゲルの初発の疑問は多分「何故に神はこの世界を創造したのか?」という事では無かったのかと(勝手に)想像できます。 神様は人間等を遥かに超えた存在なのだから、「この矛盾、苦悩、不合理に満ちた世界」など必要としなかった筈だと考える のは自然です。そしてヘーゲルはその事を若い時から大真面目に考えて死ぬまで続けたのだと思います。時代的にも西欧近 世が近代に移行しようとする18世紀末の事ですから、歴史的激動期(確かにどんな時代でも激動期と言える訳ですが)にあ ってそれまでの総括を余儀なくされていました。そしてその結果、あの森羅万象を論理的に語り尽くした「哲学体系という弁神 論」が出来たのです。 「観念論はヘーゲルをもって完成し、同時に本質的に終わった。」、これは確かな事です。。(「ミネルヴァの梟」とはヘーゲルの事です。) 19世紀の人ニーチェは言いました、「神は死んだ、余りに人間を愛したが故に。」と。そして、20世紀はまさに「神無き時代」 であり、モノとカネを神とする人間が殺戮と暴虐を繰り広げた(そして今なお繰り広げつつある)時代でした。 (”Heil,Hitler!”は辞書では”Hegel”の近くにありますが、何と遠い事か)21世紀を間近にした現在、改めて人類の歴史を総 括すべきかも知れません。 そのためにも、ヘーゲルが到達しようとして果たし得なかった、しかしマルクスが確実に継承したものが何か、を考えるのは有益 でしょう。 哲学の定義が何であれ、すべての哲学者に共通している事は「存在の根拠、始源、本質を内省的に問い、言葉によってそ れを表現し万人に伝えようする営為」を自らに課していた事でしょう。「尋ねよ、さらば門は開かれん。」(これもパラフレーズで すよ。)
75 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:33:35 0
170 名前: 6 投稿日: 2000/09/16(土) 06:14 >154(続き) >マルクスの「資本論」でも読んで現状の資本主義システムを理解するということなのか? さらには唯物、機械的な認識を 得る必要があるといったところでしょうか? リストラの例に沿った私の説明はそうなっているのですが、一挙にすべてを言おうとしたため、非常に乱暴になっています。そこ でもう少し話しを戻すと、まず「社会の本質」という言葉で何を理解するかという点です。 まず「本質」という言葉の定義について、ヘーゲルはまず「現存在の根拠」と言っています。 「現存在」(Existence)は単に「存在」と訳される事もあるが本来「現れたもの」という事であり、何かが現れたその何かの事 をその「根拠(理由、基盤)」と呼びます。 感覚される存在はみな「これ」とか「あれ」とか指差せるものであり、個別的なものですが、それらは生成・変化します。 それは仮象(見かけ)に過ぎないというのが哲学的認識(反照的認識)の第一歩です。その本体は何かと問い、それを本質と いう言葉で表現します。それは直接的な存在と見なされると、変化しない、自己同一的な「それ自体」と呼ばれます。それは 「これ」「あれ」という個物ではなく、「すべてのxx」といった全体を対象とする(マクロ的と言っても良いかな)概念です。 したがって「本質とは何か」を問う本質論ではすべての概念は二重化され、相互反照的あるいは相関的になります。自己の」反対(対立物)においてその概念内容が表わされるという事です。たとえば「同一性の何たるは対立において現れ、本質の何 たるかは非本質的な現象において現れる」という事です。
76 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:34:49 0
75の続きで〜す。 科学者でも、何らかの存在の本質を理解するためにはまず「存在の起源(始源)」を求めることから始めるでしょう。何故なら 「すべての存在者は生成の結果」であり生成の源に遡及することがそのものの「何」を明らかにするからです。 たとえば、「貨幣はその生成の秘密を商品において表現している」と言った具合です。貨幣は元々は商品の一つに過ぎなかっ た。金色に光り輝くその衣装の端から透けて見えるのは卑しいその出生の秘密だと言う訳です。(これはマルクス流でヘーゲル は観念論者としての気高さからそんな言い方をしないでしょう。)と言ったように社会の本質を唯物論的に探っていくことが、ア ホな経済学とこの資本主義体制を根底から転倒させるための哲学的・弁証法的なやり方でしょう。
77 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 19:48:49 0
この辺来るともう弁証法(ヘーゲル)とは遠くなるからつまらん。ほとんど解説者のオナニーだし。
78 :
考える名無しさん :2007/11/20(火) 12:38:34 0
>>77 オナニーでも手淫でも自家発電でも獣姦でも何でもいいけどさ、
こんだけ中味が濃ければヴァギナに突っ込むよりよっぽどぶっ飛ぶぜ。
と、与太話はここまでと。
おい、早く再開してくれ。頼まぁ。
79 :
考える名無しさん :2007/11/20(火) 13:24:44 0
↑おまえが不勉強でバカなだけ。
80 :
考える名無しさん :2007/11/20(火) 15:03:19 0
弁証法は、脳内思考領野での神経興奮モデルの一つ?
81 :
考える名無しさん :2007/11/20(火) 15:05:04 0
そういっちゃおしまいかな。
82 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 17:59:55 0
171 名前: 6 投稿日: 2000/09/17(日) 11:47
>169
誤:Phylosophical 正:Philosophical
(かなり酔って書いていた。偉そうにして失礼)
175 名前: 6 投稿日: 2000/09/18(月) 22:20
>172
やはり、そうかなぁ。掲示板でできるだけ分かり易く説明しようとしても限界があるな。しかし、ヘーゲル論理学を解説する学者
は必ずその観念論の罠にはまってしまう。173で言われている紀平正美教授も絶対観念を称揚しているらしいし、下記サイ
トの人もそうだ。
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/MOKUZI.html 繰り返しになるが、ヘーゲル弁証法は唯物論的に把握し返さなくては何の価値もない。もっとも鯵坂真を始めとするスターリン
主義型似非唯物論者の言う「最高の科学としての弁証法」など何の役にも立たないが。
(と言う事で少し、話のテーマを変えた方が良いかな。)
83 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 18:01:10 0
177 名前: 6 投稿日: 2000/09/19(火) 21:57 「観念と物質は違う」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと考えると結構難しい。「すべては観念に過ぎず、各 自の主観的な考えが絶対である」とされる20世紀では特に難しい。 「本質は現象とは異なる」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと考えるとかなり難しい。本質を学問の対象から消去した20世紀では特に難しい。 ヘーゲルは言った、事物の違い(差異、区別)を知ることがその本質を知る始まりであると。差異、不等、対立、矛盾と深まる 区別を知ることで対象の本質に迫ることができる。 (ポストモダニスト達は差異という第一の否定(抽象的否定)ばかりを強調したが、差異を言う時、実際に対象にしているのは むしろ同一性なのです。否定の否定こそが具体的な認識をもたらしてくれる。) 「すべては鏡、反射、反照のうちに現れる。」、この場合の主語「すべて」とは「『すべて』という概念」のことです。 「すべての存在」などは存在しない。 それは区別された実在に反照する本質存在をいうのです。 結局、ヘーゲルは「概念的認識」の重要性を弁証法的に明らかにした事で、ソクラテスやアリストテレスと同様に、永遠に歴 史に残る事になるでしょう。 しかし、F.フクヤマといったチンピラ保守反動のヘーゲル誤読者とは違い、歴史は未だ終わってなどいないのです。 (と言う事で、一旦引くことにします。活発な議論を!)
84 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 18:02:19 0
197 名前: 6=OFW 投稿日: 2000/12/30(土) 21:10
お久しぶりです。私、固定HNにしました。
ヘーゲルが結構読まれているようなので、意外かつ心強い、です。
しかし、私のカキコもあちこちで晦渋、難解と言われ、困っています。具体的にどの辺(全部?)が難しいか、教えてもらえると
助かります。21世紀には、ますます弁証法が必要になる、ってか。
202 名前: OFW 投稿日: 2000/12/31(日) 22:02
>>200 >マルクスは『資本論』で弁証法を活用したわけだが、
マルクスは商品、貨幣、資本価値について、「労働」をそれらの実体的本質だと見た訳ですが、そのこと自体はアダムスミスや
リカードが既に発見していた。マルクスの独自性はその「必然性」を解明しようとしたことであり、そのためにはむしろ「価値形
態」に着目して、その展開を行う必要があったのです。そして、それは、特に『資本論』の最初に出てくる「教科書的」な説明に
要約されているように、価値なるものの弁証法的な矛盾とその発展、そしてその止揚として捉えられた訳です。。
>資本の動きは弁証法的に記述できるなら、弁証法の称揚は資本の単なる肯定になりはしないのか?
内在的本質における矛盾は現実の事態として現象せざるを得ない、と言うのが弁証法的な記述と言えるなら、資本自体の
矛盾を記述するとは、それを肯定することではなく、否定の否定(他ではあり得ない必然的なもの)として捉える事です。それ
は例えば、価値自体に内在している「使用価値と交換価値の矛盾」という抽象的な本質が価値法則として展開されており、
それは資本形態においても実体として、”最終的には”恐慌を引き起こす原因になっている、という認識であり、法則の根拠で
ある根本的矛盾(資本と賃労働の対立)を止揚しない場合、自己を否定して、無法則な事態に結果する、という認識です。
もちろん、「実体の真理は主体である」とは実践的な命題ですから、現実の矛盾は記述によってではなく、実践的変革によっ
てのみ止揚できる。
そのためには、労働者階級の組識的団結と現実における必然性の洞察(主体的かつ客観的な世界認識)が必要です。
「必然(運命)を自由(未来)に変える」事は労働者の共同的な事業としてのみ達成可能です。
85 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 18:03:41 0
202 名前: OFW 投稿日: 2000/12/31(日) 22:02
>>200 >マルクスは『資本論』で弁証法を活用したわけだが、
マルクスは商品、貨幣、資本価値について、「労働」をそれらの実体的本質だと見た訳ですが、そのこと自体はアダムスミスや
リカードが既に発見していた。マルクスの独自性はその「必然性」を解明しようとしたことであり、そのためにはむしろ「価値形
態」に着目して、その展開を行う必要があったのです。そして、それは、特に『資本論』の最初に出てくる「教科書的」な説明に
要約されているように、価値なるものの弁証法的な矛盾とその発展、そしてその止揚として捉えられた訳です。。
>資本の動きは弁証法的に記述できるなら、弁証法の称揚は資本の単なる肯定になりはしないのか?
内在的本質における矛盾は現実の事態として現象せざるを得ない、と言うのが弁証法的な記述と言えるなら、資本自体の
矛盾を記述するとは、それを肯定することではなく、否定の否定(他ではあり得ない必然的なもの)として捉える事です。それ
は例えば、価値自体に内在している「使用価値と交換価値の矛盾」という抽象的な本質が価値法則として展開されており、
それは資本形態においても実体として、”最終的には”恐慌を引き起こす原因になっている、という認識であり、法則の根拠で
ある根本的矛盾(資本と賃労働の対立)を止揚しない場合、自己を否定して、無法則な事態に結果する、という認識です。
もちろん、「実体の真理は主体である」とは実践的な命題ですから、現実の矛盾は記述によってではなく、実践的変革によっ
てのみ止揚できる。
そのためには、労働者階級の組識的団結と現実における必然性の洞察(主体的かつ客観的な世界認識)が必要です。
「必然(運命)を自由(未来)に変える」事は労働者の共同的な事業としてのみ達成可能です。
86 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 18:04:47 0
203 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2001/01/27(土) 16:23
さてしかし、このスレのテーマであるヘーゲルの評価について言えば、アドルノあるいはデリダが称揚する不協和あるいは差異
性(差延性)といったそれ自体あまり役に立たない直接的な表象をもって反発するだけでは、余りにも安易と言える。
それらは、現実の歴史を規定してきたものがヘーゲルのもたらしたパラダイムだと言わんばかりである。20世紀の思想的閉塞
状況あるいはファシズムの原因がヘーゲルの絶対的観念論(あるいはそれに代表される何物か)にあると錯覚する程、ばかげ
た事はない。そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、彼らの属する中産階級固有の肯定かつ否定の両義
性をごまかしているだけである。
「全体主義には反対、しかし共産主義にも反対。」これが、決して団結しない不協和あるいは決して階級として統一されな
い差異性を後生大事にしたい否定的かつ肯定的な弁証法(むしろ反弁証法)の正体である。
ヘーゲルならば、そのような退廃的・逃避的な小精神を大いに哄笑するであろう。
255 名前: OFW 投稿日: 01/12/23 11:47
>>251 >「自由主義的民主主義が自己の正当性を証明してゆく過程」
とは近代ブルジョア自由主義に基づく平板な進歩主義史観の主張であり、現在も某国大統領がその“証明”のために「不朽
の自由」作戦を敢行している所ですね。
ヘーゲル自身は歴史を客観的精神の発展過程として捉えており、その一段階としての政治的国家の最高形態を立憲君主
制に見ていた。若きマルクスは『ヘーゲル法哲学批判(序説)』において、その反動性を見事に(弁証法的に)批判していま
す。
87 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 11:14:54 0
コピペはやめてくれませんか? 迷惑だから。
88 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 20:26:06 0
久しぶりに来てみたらどなたかにお手伝いを戴いたようで。
そのせいとは言いにくいけど、なにかOFW氏のコピペが錯綜してるような。
87氏のように批判的且つ否定的だが、"関心"を持って戴き是にすぐる幸甚は
無し、と言うことで44の後からで〜す。
98 名前: OFW 投稿日: 2001/02/26(月) 23:28
>>95 いやぁ、哲学板では皆お金の話には関心がないと思っていたので、珍しいな。もっとも、この板でお金についてカキコするのは、
これで3回目ですが。
>『資本論』で、商品における使用価値と価値との矛盾が 貨幣において止揚されるというのも弁証法的展開だと 考えてい
いのでしょうか?
良いでしょう。しかしまず「商品における使用価値と価値(正確には交換価値)との矛盾」とは如何なるものか、を考える必要
があるでしょう。(経済学者は誰もそんな事を考えない。これは経済学を震撼させる設問だ!)
使用価値とは通常の言葉で有用性あるいは効用と呼ばれる、経済学の基本概念ですね。経済学者は皆「それは主観的な
あるものだ」と言い、それ自体について余り深くは考えません。彼らは常に価格、つまり価値の貨幣形態から議論を始めます。
貨幣を価値の絶対的基準だと見なしているから、価値自体についてそれ以上考察しなくて良いという訳です。
しかし、一方で、たとえば「物価の上昇は貨幣価値の減少だ」などと平気で言い、貨幣と商品は互いに鏡のような関係にある
ことを暗黙に認めている。
89 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 20:28:12 0
>>98 の続き
現在、殆どすべて有用物は商品として市場で交換される。それは売買と呼ばれ、貨幣を商品と交換することです。しかし、
小学生も物々交換の存在を知っており、それは有用物と有用物を直接交換することです。
しかし少し考えてみれば、貨幣が無ければ、Aの所有物aとBの所有物bを直接交換することは、理論的にはなし得ない行為だということが分かる。
何故なら、物の効用は主観的であり、Aにとってbがaより有用であり、同時にBにとってaがbより有用であることが、物々交換の条件なわけですから、
物々交換とは「二つの不等価性」どうしの交換でしかなく、決して「aおよびbの客観的価値」に基づく「等価交換」などではないから。
「物々交換は不可能である」、これが使用価値と交換価値の矛盾です。
その矛盾を解決するために、万物の価値を尺度するもの、貨幣が要請される。それは商品世界を統一する、グローバル・スタ
ンダードです。しかし、それは商品の矛盾の完成であり、決してそれを止揚しない。
貨幣とは社会的人間の疎外された姿であり、その物象化の完成なのです。
90 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 20:32:50 0
99 名前: OFW 投稿日: 2001/02/26(月) 23:30
>>95 (つづき)
>しかし、生産物交換がない社会とはなかなかイメージしにくい
歴史を遡るまでもなく、今でも漁村や農村など村落共同体の中には、協業により生産された生産物は成員への「再分配」と呼ばれる分配方式が残っている
でしょう。「共同体の神」と「老人、寡婦、病弱者、子供」の取り分をまず控除し、次に「不時の将来への備え」として(可能な分を)控除し、残りを
各自の必要に応じて均等に分配する。
そこには商品、貨幣などなく、さらには「価値」と呼ばれる物象的な力など、かりそめにもない。 また、「互酬」と呼ばれる(広義の)再分配方式もある。
それは「所有物(あるいは労力)を互いにプレゼントし合う」という、これまた商品、貨幣を不要とする生産物の「無等価交換」でしょう。
>生産物交換(交易)は縄文時代からあった
まさに商人は歴史上最も古い「世界市民」であり、伝統的な共同体を超えて、価値の差異(マージン)を利用して富を蓄積して行ったわけです。
「実在(質)の『限界』とはその内において実在がそれであり、同時にその外において実在(質)がそれである所として、他の実在(質)と出会う『共同性』(広場、量)の定立である。」(ヘーゲル@パラフレーズ)
彼らはそれと知らずに、伝統的な共同体を外部から壊し、その世界化を推進した革新者です。確かに貨幣は「革命的」であったが、もはやその歴史的使命は終りつつある。「否定の否定は真の肯定」、かな。
91 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 20:35:20 0
108 名前: OFW 投稿日: 2001/03/13(火) 21:21
>>100 (95)
忙しかった仕事が一段落したので、亀レスながら。
>貨幣は確かに弁証法的(革命的)契機だが、それはたかだか「第一の否定」しかなしていなく、貨幣(第一の否定)の
否定としての共産主義をもって始めて弁証法的展開(否定の否定)だということになるわけですね。よろしいかな?
OKです。マルクスの「社会の自然史」という方法論的立場は、
即自的(=向他的)(自然的、潜在的、推移的)
|
向自的(自立的、顕在的、反照的)
|
即且向自的(歴史的、自覚的、発展的)
というヘーゲルの否定の否定を、社会の唯物論として転倒し、歴史の真の主体が何かを明らかにしたものと言える
でしょう。
>>101 >弁証法は、3段階のどの部分に力点を置くかによって立場も大きく変わる
確かに、対立(矛盾)を強調するか、その止揚を強調するかで、ニュアンスが異なる。ヘーゲルも自己の哲学を「思弁哲学」
と呼んだが、それは、むしろ遅れたドイツの反映でしかなく、保守的・妥協的な観念論になった。
>>102 >A + anti A =B
数学的な記号は「相当性」「等価性」という外的なものを表象させるので余り適当ではないでしょう。(記号論理学のような
無思想になる。)
anti(反)とはA自体に含まれているものです。
>>103 >A + antiA ≡ A , ∵antiA⊂A
集合論的な比喩を離れれば、「Aと非Aからなる全体」とは、「Aの定立根拠」のこと。「Aとそれ自体との同一性」が
「Aと非Aとの区別」と同一であることをAの存立と言います。それは「自己に帰る運動」です。
92 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 20:37:56 0
109 名前: OFW 投稿日: 2001/03/13(火) 21:23
>>104 >そのあまりのつまらなさに モチベーションの低下はさけられず
日本には、まともな弁証法の解説書は無いのではないかな。
弁証法的な思考は具体的・実践的・革命的なものであり、活きた現実の中でこそ力を発揮するものでしょう。
>>105 >AとBは同時に存在出来ない、そこからAを発展させBを止めておく。これで2つの物が存在できるってこと?
通常、B(非A)はAによらずそれ自体でBと考えられているが、AならばBでない、という排他性(他者の否定が
自己である)に進展すると、AとBは関係性において見られることになりますね。そのことは、両者は独立した2つの
物ではなく、1つの物の2つの現れとして存在することを示している。
>>106 >Aの内包が時間という概念のもとに変化する限りは
変化とは「Aが非Aになること」であり、「非AはAであった」ことですから、内包Aは非Aにおいて“否定的に”保存されて
いますね。
>~Aの外延がAの外延と同値であるとはいえなくなるので
非Aとはむしろ外延しないもの、観念(内包)そのものでしょうね。
外延論理学(形式主義論理学)は内包(質的区別)を抽象して、その真理である量において世界を外的に(無思想的に)
思考します(計算と呼ぶ)。
そこでは、非(否定)は無−差別という肯定に過ぎない。内包が変化しても、それに無頓着なわけ。
>弁証法も科学的といわれ続けるのですかねえ。
エンゲルス以来、日本共産党に至るまで弁証法を科学と呼ぶが、それは大いなる誤解、です。
93 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 20:40:07 0
118 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:31
>>110 (・e・さん)
どもです。
>面白いスレだなぁ。
いえいえ、・e・さんにはとても及びません…(とおべんちゃらなど)
>A(或いは、これはコーラだろうか)という定立に 既に潜在的にAの定立を否定する非Aの契機…が含まれている
わけですね。
そう思います。「何かがある」とは、多様で変容する世界の中で主体が特定の存在者に向かうことであり、対象Xを実在
するものとして指示するためには、「それの何」(質)をAとして、非Aから識別(区別)する働きがそこにある。
しかし、区別から同定に帰る運動自体は非対象的で、対象化されるのはその結果(総括)としての「これ−A」という
存在者です。
>そして非Aが顕在化すると同時に、「これはコーラだ!」という総合へと発展する、
実在判断(質の判断)は「個別的なものは普遍的なものだ!」という形式内容を持ちます。しかしコーラとは個別対象
ではなく、一般概念ですから、主語「これ」と述語「コーラ」との関係は「である」という同一性ではあり得ない。
「これはコーラそのものではない」からです。「これ」は様々な(多様な)個別者、一般的な個別者を指している。
つまり「これのこれ」「あれのこれ」等の間の共通性が<これ−コーラ>です。
しかし、そうなると質の判断は反省の判断(関係性の領域)に移行します。
>非A+の内容が顕在化すると同時に、…「これは飲み物だ!」という総合へと発展する、
反省の判断は、単称判断、特称判断、全称判断に区分されます。
「<これ−コーラ>は一つの飲み物だ!」(単称判断)
>抽象性や一般性のより高度で幅広いステージへ移行する
『(小)論理学』では、質の判断→反省の判断→必然性の判断→概念の判断→質的推理→反省の推理→必然性の推理→客観的関係→…として、より“具体的”なステージへの移行として示されています。
94 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 20:42:31 0
119 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:34
>>111 (・e・さん)
>この内容が顕在化されて初めて「創造」されるものなのか、
創造ではなく、より客観的・具体的な対象への移行でしょう。
「これはコーラだろうか?」に対する答としては、
1. いや、これは牛乳であってコーラではない。(偽の概念)
2. いや、これはコーラと呼べる代物ではない。(偽の対象)
3.そうだ、まさにこれはコーラと呼ぶべきものだ。(真の対象・概念)
の3通りがある。
ある対象をコーラと呼ぶためには、コーラの質(コーラの<コーラ性>)が他の質と区別され、明確になってい
なければならない。
対象Xがコーラであって牛乳ではないのは、それがまさにコーラだからでしょう。それは、概念としての質を表現し、
単なる名辞ではない。
そして、真の概念とは客観的な対象を指示するものを言いますから、対象の「見かけ」を通してその本体に向かう場合、
本体は前提されたものです。
それは、現象に過ぎない存在から、より現実的で客観的な世界を対象化して行く知性の運動であり、「真の実在」に
到達するための(精神的)労働です。
>要するに弁証法的思考における自由と必然性に関するものです。
客観的世界の必然性を認識することは、認識主体の自由そのものではないでしょうか。
必然性の概念は「他ではあり得ない」(否定の否定としての自己肯定)ということですから、必然的なものとは本来、
自己を媒介する運動です。しかし、それがその媒介に対して外的な関係を持つが故に、「外的必然性」と呼ばれ、
盲目的運命に喩えられたりもする。必然的なものを認識するとは、その被媒介性を知り、「他でもあり得た」という
可能性と「他ではあり得なかった」必然性とを結合すること、すなわち、全体として歴史を動かす自己を知ることです。
そのことが、歴史の主体として「プロレタリアートの運命をその未来に変え」、「必然性の王国から自由の王国へ」
(マルクス)と向かうための第一歩と言えるでしょう。
95 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 20:45:07 0
120 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:36
>>111 (・e・さん)(つづき)
>弁証法発展というものにおける「生成の論理」は 何らかの時間規定を含んでいるのでしょうか。
とても重要な指摘ですね。
存在と生成の関係は弁証法の基幹にある。
経験的な世界は変転極まらず、固定した存在と見えるものも生成消滅を免れ得ない。その様相を「生成」という概念で
定着させると、それは無から有への移行として跡付けられる。
では“何が”移行するのか、と問えば、「未だ生まれず、既に無ではない何者か」と言わざるを得ないが、それは移行の
“内に”あって自己に止まるものであり、移行の果てに現れるものでしょう。それは外化しつつある何者か、時間的な過程を
通してその統一を保持しつつ発展する<事柄としての歴史>そのものと言えます。ハイデガー的に言えば、
「時熟」するものの概念化が歴史的形成の論理としての弁証法でしょうか。(ハイデガーは<存在>観念に捕われ過ぎ
たが、生成する物質的自然こそが本源的な存在でしょう。)
>理性の自己発展としての世界史は、神的な普遍理性が「永遠の今」のうちに繰り広げる 歴史の必然的な推移のように捉
えられていた
ヘーゲルの弁神論においては、絶対者は決して世界に現存在できない。
実体の主体化が見せかけに過ぎないのは、結局、主体が単数だからです。
それは具体的普遍を説くことで、近代的個人主義(すべての個人が絶対的主体である)の抽象を超えてはいるが、
本源的自然(唯物論)が欠けているために、本来的な他者を知らない。人間にとって自然とは必然であり、自己の根拠
をなすものですが、社会的労働により自然は媒介され、諸個人は共同的な類として、初めて現実的主体になる。
>だとしたら弁証法は、思考の「しなやか」な自由を保証するものではなく歴史的事象の必然性を正当化するようなもの
になってしまう
内的な必然性とは外的な必然性(偶然的な必然性)とは違い、自己を必然とする(自己の実現を目指す)ものです。
それは、外的な世界の必然性を自己の自由な条件とする思考(歴史的構想力)によって、しなやかで創造的なものに
なるでしょう。
「状況は開かれており、未来はそこにある。」
96 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 22:16:22 0
生滅流転、栄枯盛衰のほうがいいんじゃねーの? 進歩史観なんかダメだろ。
97 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 06:44:29 0
121 名前: ・e・ 投稿日: 2001/03/16(金) 00:45 >OFWさん なるほど。 ところで『小論理学』を一度読みたいのですが手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか? それと個別的な事象に「質」が対応する(一致ではないですね、厳密には)のは分かるのですが、一方でヘーゲルの言う「量」 概念が分かりません。。。ご教授いただけます?
98 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 06:45:10 0
122 名前: OFW 投稿日: 2001/03/17(土) 10:21
>>121 (・e・さん)
>手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか?
そうですね。講義ノート(補遺)がついているから、理解の手がかりとして便利です。しかし、難解さは天下一品ですから、
スルメをしゃぶるように読むしかないでしょうね。
>「量」概念が分かりません。。。ご教授いただけます?
そんな大それたことはできませんが、ヘーゲルの紹介程度なら…。
1.量とは質の止揚(揚棄)である。
質とは存在(有)と一体となった規定性(区別)であり、
有(純有、無、成):始源における無−規定性としての質
定有(実在性(即自有)、他在(向他有)、限界):変化としての質
向自有(一者):自己関係(自己復帰)としての質
と進行するが、向自有において、その自己関係性は矛盾(多くの一者)として立てられ、量(無−差別性)に移行する。
2.量の規定性は、
純量(連続量と不連続量、単位):量の即自有、無−関係性としての量
↓
定量(外延量、(集合)数) :量の定有、自己超出としての量
↓
度(内包量、尺度、比) :量の向自有、自己関係としての量
と進行する。
3.度に至って、量は限度(質的な定量、質量)に移行する。
…と書くと、「不可解なりぃ!」となるでしょうから、少し解説をば。
99 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 06:48:14 0
123 名前: OFW 投稿日: 2001/03/17(土) 10:22
>>121 (・e・さん)(つづき)
「通常分割可能と考えられる量も、それ自体を直観すれば、唯一かつ不可分な存在であることが分かる」(スピノザ)と
言われるように、質的な多様の底には存在の一様性がある。それが純量であり、絶対的な連続性としての自然の在り
方です。
同時に、質の否定性としての他在は限界として立てられた訳ですが、量においては単位という区別に止揚されている。
単位とは区別の無差別性であり、多様な存在を連続化(一様化)させる根拠であると同時にそれを区別化(集合化)
させる根拠でもあるでしょう。
それらを完全な形で展開したものが、数(単位と集合数の統一)です。エレメントとしての“1”において、両者は直接的に
統一されている。数学は数を作ること(数えること)から始まるが、何を単位にするか、が重要な点です。
そして算術は単位と集合数の関係の展開であり、和とは数を規定すること(数の限定)、積とは集合数を単位に変換す
ること、冪は単位と集合数の相等性を立てること、等々と言われます。
また、ヘーゲルは微分にも言及しており、微分量を「消滅しつつある量」と呼んでいます。それに呼応した言明として
エンゲルスの「微分積分の登場によって、科学は運動を取り扱えるようになった」というのがあります。
数学的思考は事柄の内面に踏み込まない外面的な思考であり、外面的(相互外在的)対象には妥当するが、
それも一定の<限度>内でのみということを忘れると、現代の形式論理や経済学の無思想になるのはホントですね。
近代は商業と数学によって切り開かれてきた。それはデカルトの「幾何学の精神」の源泉でもあり、さまざまな国を冒険
したガリバーが到達した結論「人間精神の違いは体の大小に過ぎない」にも示されている(花田清輝『転形期の精神』
のバラフレーズ)。
しかし、深遠なものは広大なものでもあるから、内包は外延に比例するのです。外面的な大きさはむしろ卑小な内面を覆い
隠す「見せかけ」だということは、「外見がすべてだ」という現代にこそ相応しい警句でしょう。
100 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 06:50:44 0
127 名前: OFW 投稿日: 2001/03/18(日) 12:09
>>124 >「深遠なものは広大なものでもあるから」を削除して、内包は外延に反比例する、とすべきだろう。
添削ありがとうございます。
ただ、内包量(示強性の量)vs外延量(示量性の量)は、即自的(観念的)vs向他的(実在的)な関係にあり、
現存しない量vs現存する量の関係として、比例が正しいと思います。
現存する量の間の関係(関係が実在的になっている)ならば、“総量(質量、限度)は一定”であり、その限度内において、
両者は反比例すると言えますが。
>そもそも内包・外延を内面・外面と読みかえるのが強引なのだが。
ヘーゲル論理学では、同等のカテゴリーが3度登場する、と言えます。(余り良い言い方ではないが)
最初は実在の領域(直接性)、
2度目は本質の領域(媒介性・相関性)、
3度目は概念の領域(媒介された直接性)
です。
<内包・外延>は量としての実在領域におけるカテゴリーですが、その本質領域での対応(対照)物は<内容と形式>
の相関、あるいは<内的なものと外的なもの>の相関と考えられます。
外面的な大きさは、内面的な大きさ(度量の広さ、教養の広さ等)とは異なり、事物の外面性における単に外的な
(非本質的・偶然的な)ものであり、それは仮象として外面性における単に内的なもの(可能的なもの)です。
真の内面性は自己を現実化する力として、向自的な精神性でしょう。
「人間、40歳にもなれば、自分の顔に責任がある」(リンカーン)だそうです。
101 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 06:53:27 0
128 名前: OFW 投稿日: 2001/03/18(日) 12:10
>>126 (・e・さん)
>いかにもヘーゲルって感じの力技ですね(笑)。
ども。『ヘーゲルは美味しい』(西研)のは、時にバカバカしく思える程の概念力(大雑把さ)のためでして…。
>現在の数学はヘーゲルの所産だけを見て、そこに至るまでの弁証法的な思考の運動を省みていない、という意味なの
でしょうか?
デカルトの「幾何学の精神」から、悟性的(明晰・判明)な知性が発達し、特に数学は強力な分析ツールとなりましたが、
量および数には思想が含まれているのだ、という事は数学者自身も反省すべきでしょう。
たとえば、かのラッセル(大のヘーゲル嫌い)は『数学原理』なる論理学書をもって数学の基礎を打ち立てた、と言われるが、
実際にはむしろ逆に、論理(思考のオルガノン)を数学(集合論)に還元してしまったと言えます。
以前、論理学スレで、形式主義論理学論者と議論して明らかになったことは、「真理の計算」を論理的思考と呼ぶことは、
非合理的な結果(例:爬虫類である人間)を容認して省みない悪しき形式主義に陥る、ということでした。
世界を計算し、経済を計算し、歴史を計算できれば、人間は要らず、カネ勘定だけに没頭する厨房が増えるのも無理は
ないというもの。実際、分数計算も満足にできない小学生が増えている現在、学校教育で早くから弁証法的思考を習
得させ、「分数とは何か」という量の概念から理解させることは、知性改善にとって有益かつ急務の課題でしょう。
しかし、株価は暴落(限度を失い)、数理経済学の均衡理論は均衡を失い、経済は政治化(非合理的に人間化)され、
いやはや哲学なき時代は…。
102 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 06:56:32 0
130 名前: OFW 投稿日: 2001/04/14(土) 23:20
おや、一ヶ月ぶりに上がっている。
>>129 1まず、「形式」(Form)という概念について
古代ギリシャ哲学以来、形式(形相)は質料(Material)との対立として議論されてきたカテゴリーであり、
存在論−認識論において重要なものです。
用語からだけでも、両者は観念論(Idealism、形相主義)と唯物論(Materialism、質料主義)との対立にも関係
しています。
形は静止、完成として重んじられるが、質料は運動、未完成として、とかく敬遠されがちです。ニーチェもギリシャ精神に、
「アポロ的(彫塑的)vsディオニソス的(劇的、音楽的)」という対比を見ている。
形式−質料は相互に反照する本質規定であり、発展すると、形式−内容の対立に移行します。つまり、形式は質料の
他者、他者としての質料であり、個別的な存在(実在するもの)から、その普遍的な面を抽象したものが形式であり、
アスペクト(局面、観点、相面)自体と言えます。
形無き質料は形をもつことにより、それとして規定され得る。質料は個別的な運動の原理であるのに対して、形は普遍的
な静止の原理です。
2形式論理学と弁証法
近代は量の時代、形式化の時代です(量の本質が形式ですから)。
デカルトの「幾何学の精神」以来、数学は世界を計算可能にした。
それは、世界の中の多様な事物を一様な面に射影することにより、すべての対象は形式的に分類・整理され、
原理的に未知なものが無くなった。論理学も伝統的に形式論理であり、「それは白か、白でないかである」などと
言われたが、数学化によりその形式性はより純粋になった。しかし、それは<事柄の内面>に入り込まない、
表面的なものでしかない。それは世界の生成、運動、歴史を無視して、規則(形式、秩序)が永遠だと強弁する。
弁証法はそこを突く。それは徹頭徹尾、批判的、唯物論的、実践的であり、形式の<妥当性>を超えて、
<対象の真>(生成発展する事柄の概念)を目指す内容的、実質的な思考です。
103 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 06:59:39 0
132 名前: OFW 投稿日: 2001/04/16(月) 21:58
>>131 (129さん)
>判断は判断される対象の性質を記述しているとされます。
形式論理では判断の対象を「事態」と呼び、それは<論理的な世界>における無時間的な存在だと言う。
それはむしろ対象の表象に過ぎない。
>記述されるべき対象である世界の諸存在者は常に変化の相におかれている
実在する<この世界>において、そうですね。
>言語は存在者の変化に対して常に「遅延」していると言えます。
記述は常に遅延ですね。(かのデリダは「差延」と言ったが。)ただし、それは実在的な遅延というより、
「否定」という観念化です。ヘーゲル『精神現象学』の言うように、在るとは在ったこと。
言語的記述は、在る−もはや無い−在った、という運動であり、記憶に基づく表象作用として、
実在的時間の止揚(観念化)と言えます。
>いったん子供とみなされた対象は永久に子供でなければならない
これが存在から存在の<意味>への転換、言語主義という観念論です。
>形式論理が想定していると思われる「世界と言語の恒常的対応性」は厳密には成立していません。
そこで「可能的意味の世界」などというものが登場してくる。
>対象世界は常に変化の相にあり、マテリアルな対象世界が世界を形式化しカテゴライズせんともくろむ言語
行為に対してプライオリテートを有している(質料の優先性=マテリアリズム・唯物論)という認識にたっている
形式(形相)化は認識の進展にとって重要な一歩です。常住定まらぬ世界において常住的なものを見ることは
知性の業であり、個別的な実在からその真理としての本質的な存在への飛躍です。
しかし観念論はそれ以上に進まず、そのために形而上学となる。有機的自然において、対象自身(有機体)が
形態化により自己の内容を現わす<働くもの>となっている。それを前にして、観念論は無力です。
104 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 09:57:59 0
おい、OFWって何よ? なんかすごいオサ〜ンだよな。 ありゃ、もしかしてオバハン?
105 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 18:09:52 0
137 名前: OFW 投稿日: 2001/04/24(火) 21:35
>>134 (RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY君)
くだらない煽りにも、何かしら意味があるのだろう…
>弁証法じゃなけりゃ解決できない問題なんてあるわけ?
たとえば、かのマルクスが『資本論』を書くに当たり、ヘーゲルの論理学を読み直して、
「非常に役に立った。お望みなら、自分はヘーゲルの弟子だとおべんちゃら言っても良い」(正確な引用ではない)
と言っている。
つまり、資本主義の本質を解明するには弁証法が必要だと言うこと。商品、貨幣、資本とはそれだけやっかいな
存在なのだ。
>>136 (フィロゾファッカーさん)
>お久しぶりです。
お久しぶりです。最近は固定HNが少なくなり、張り合いが無かったです。
>結局、私にとってヘーゲルは難しすぎたようです。
ヘーゲルは確かに難解で、私も「虚仮の一念」で食い付いたのです。
しかし、神秘主義的思弁が混じっているため錯綜しているが、本当はごく分かりやすいものなのです。
(私の説明はマズイですが)
私は、何よりも弁証法を、固定したドグマを批判し、事柄の真実を探求するめの方法、として理解しています。
世の中の矛盾した姿を見て、「これは一体、どういうことなのか?」 と疑問を持ったとしても、
「この世に矛盾など存在せず、正しいものは正しい」 と言う形式論理では、その答は得られない。
たとえば、<合法的な不正>が行われている現状を訴えても、「法は法であり、そのようなものは存在しない。
異議を却下する。」 との裁定が下るのみでしょう。
それは現実の現実性を見ない形式主義です。その形式主義はすべての学問にも浸透していると言えます。
弁証法は、常に実践的・具体的・現実的に事柄に向かう知性の動力であり、働く者に対して、生き生きとした
思想の力を与えるもの、と言えます。
転変極まりない変化の中に静止を見ること、逆に固定した存在の中に運動を見ることは、世界を現実に変革
する者の自己認識でもあるわけです。
106 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 18:14:16 0
48 名前: OFW 投稿日: 2001/04/26(木) 22:26
>>144 >カントの場合、アンチノミーは あくまで仮象(見かけの矛盾)ヘーゲルの弁証法は実際の矛盾を止揚
するということですか
カントはアンチノミー(二律背反、矛盾)について、カテゴリーを経験的対象を超えて物自体に適用したた
めに起きる 「仮象の論理」 であるとして、弁証論を否定的に捉えたのですが、ヘーゲルは矛盾は客観的
なものと見る。
「アンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んで
おり、したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立し
た規定の具体的統一として意識することを意味する、ということにある。」(『小論理学』48節補遺)。
弁証法の要点ですね。
>>145 私もOFWです。宜しく。
>>146 (RIVIERAさん)
>量子力学はほんとに弁証法的思考の産物ですか
必ずしも意識的に弁証法を“適用”したわけではない。
あくまで古典物理学では説明できない物理現象を科学的に説明するために生まれてきた<科学的>
理論です。(アインシュタインはその確率論的な解釈を嫌ったが。)
湯川博士は晩年「自然現象は唯物論的で弁証法的だ」と語ったそうですが、具体的に何を指していたのか、
知りません。
弁証法は、エンゲルスや三浦つとむ氏の考えるような、通常の意味での科学理論あるいは科学方法論ではなく、
むしろその批判(限界設定)として実践的な認識活動そのものです。
107 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 18:28:23 0
83 名前: OFW 投稿日: 2001/07/27(金) 00:58
ども、お久しぶり。少々夏ばて気味。
>>165 >単に説明不足なだけです。
確かにその面が大きい。と言うより、説明者自身の無理解があるような。前にも書いたが、「正・反・合」とはフィヒテの「外的弁証法」、
つまり自我ー他我ー大いなる自我という関係を一般化した外面的なものでしょう。
>ちなみに正・反が、そもそもどうして正・反なのかも、わかりません。
通常、正をテーゼ(定立)、反をアンチ・テーゼ(反定立)、合をジン・テーゼ(総合)などと言うようですが、世の説明は誤解の元ですね。
1.定立とは何か。
ある事態をそれとして対象化することです。
たとえば、 「今の経済状態は何なのだ?」 「これは<デフレスパイラル>だ」 という具合に、
ある全体的な対象デフレスパイラルが直接に立てられる。
それは、ある直接的な事柄を媒介されたものとして根拠付けることであるにも拘らず、媒介無しに
断言(断定)として言われるから、一つの矛盾(形式と内容の矛盾)を形成する。
まさに「正・反・合は正しい」などは根拠の無い独断的主張に過ぎない。
2.反定立とは何か。
そこで、その根拠に関して反対の主張が同等の権利をもって主張され得る。
何故なら<根拠>とは定立と反定立双方の根拠であり、両者の本質的な同一性(矛盾)として
単に可能なものですから。上記の例で言えば、 「いや、今は可能的にのみ<デフレスパイラル>
であり、現実は違う。」 という具合に。
(実際にも「景気は全体として好調であるが、その回復のテンポはより緩やかになりつつある」という
矛盾した言説が続いた。)
3.総合とは何か
結局、根拠(理由)が直接的に立てられることは根拠の本性にあっていないのであり、全体的な事柄
を媒介する真の根拠とは<事柄の本質>であるということです。
上記例で言えば、資本主義の本質認識から始まって、初めて<恐慌(デフレスパイラルの極限)の
必然性>が導ける。
108 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 18:32:02 0
184 名前: OFW 投稿日: 2001/07/27(金) 00:59
>>167 (165さん)
>やるなカント。
カントの優れた点も限界もそこに現れていることを見て欲しいな。(詳細は省略)
>>173 (hhさん)
>猫は死ぬ だから私の猫も死ぬ
私の猫は他のすべての猫とは違い、特殊な猫(招き猫)かも知れない? 「招き猫は本来の猫ではない」
ということから <猫の本性> が遡及される。
>>174 (屁下るさん)
<根拠>(対象が何であるか)を示さない事は、独断的主張と呼ばれる。
>>177 >ようするにアルゴリズムみたいなものですか
数学的な論理操作ではなく、対象と対象認識の相互媒介です。
>>178 (変人さん)
>最後の勝者も、負かされる運命にある
<最後>とは何でしょう?続けることを続けないこと(自己否定)ですね。それは運動を停止させること、
未来(未定)の運命を自ら決定すること。
>>179 >集合論
集合を作るためには、実在対象を数的な存在(要素)に変えなくてはならず、それは実在の質的差異を捨象する。
無内容な形式は思想形式のないもの。
>>180 (ffさん)
>空は青い だからイタリアの空も青い・・・・・弁証法
単なる古典論理における誤謬。すべての空とは実在のイタリアの空ではなく空そのもの(空の本質)である、
が弁証法。
109 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 18:50:04 0
おい、コピペ厨。 あのな、掲示板の面白さはリアルタイムの当意即妙にあるんだ。 シケたことやってんじゃねーよボケ!
110 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 22:13:39 0
どう楽しむかは十人十色でいいんじゃない。 そんな基本が理解できないんなら他の板にでも逝ったら。
111 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 07:44:10 0
>>110 まぁ、そう気色張らんと。
ネガティブでも関心を貰ったんやさかい感謝せにゃ罰あたりますがな。
片隅でも借りて、ぼちぼち貼らして貰いますさかい。
112 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 18:14:18 0
189 名前: OFW 投稿日: 2001/07/28(土) 20:10
>>185 >概説書
前にも書いたが、日本には、どうも弁証法に関するまともな概説書はなさそう。
ヘーゲル『小論理学』(岩波文庫)
レーニン『哲学ノート』(同上)
などの古典を丹念に読むしかないでしょう。
113 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 18:23:59 0
193 名前: OFW 投稿日: 2001/07/29(日) 17:55
>>192 (165さん)
>なぜ断言する必要があるのでしょうか?
「なぜ?」 とは根拠(理由)の定立に向かう認識の運動(理性欲求?)です。
それは、断言しないことも可能であるのに、目の前には断言が現存在していることから出てくる問い
(媒介の要求)ですね。
人が 「○○は××である」 と断言したり、しなかったりするのは、断言(判断)とはそれだけで正しいと主張された
<関連性の定立>であるという(矛盾した)定義の中に含まれている。
つまり、上記の問いは 「なぜ物事の関連性を立てる必要があるのでしょうか?」 と言うことを含んでおり、
そうなると、事物間の関連性を立てることは客観的認識の最初の行為だ、という答えが出てきます。
>断定しないで、 「その段階では判定不可能である、もっと根拠を探す、考察を重ねるなどしなくてはいけない」
と言えばいいだけなのではないか
<段階>とは<発展>という高度に弁証法的なプロセスに関わる概念です。
発展は飛躍という前段階の否定を含み、単なる量的な(実在的な)拡大重畳ではないのです。
認識の発展は、
主観的には知覚(直観)→判断→推理、
対象的には実在論→本質論→概念論
という段階を踏むと言えます。(実在は推移し、本質は反照し、事柄は発展する。)
また<判定>とは言明を何らかの基準と比較してその正否、妥当性を立てる判断ですが、その場合、
基準はそれ自体で真とされており、無根拠です。
基準の基準(最終的判定)はどこにあるのかが問われるべきであり、それに対しては概念と実在の一致
としての真理であるというのが、差し当たりの答えです。それは正当性(妥当性)ではなく、真理性に関わります。
114 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 18:29:44 0
194 名前: OFW 投稿日: 2001/07/29(日) 17:58
>>192 (165さん)(つづき)
>生じる矛盾?の領域が、必ずしも断言した(定立した)領域の広さと等価であると評価できるとは、
かぎらないため、一般論として成立しない
<領域>(対象領域)の定立とはまさに実在のカテゴリー化による再構成であり、定立されたものと
その否定(無限定)の両者を含む本質論的世界を対象化することです。
それは実在の一定の運動様式を抽象したものと言えます。
また、生じた矛盾(本質的対立)は常に限定的な矛盾であり、一般論ではなく具体論、です。
たとえば<明暗>(明と暗の矛盾)とは<光>(明暗の本質)の領域を立てるのであり、音の領域とは矛盾しない。
つまり、矛盾は常に自己の世界の中でのみ生じるものであり、かぎられたものです。
>根拠の本性
ある存在者の本性(本質)とは、それがそれである所以のもの、ですね。
それは現存在の根拠として、その様々な現れの底にある自己同一性です。
それは、その存在者が他のものでない所以のもの、と同じものであり、現存在の総体性を指しています。
「○○は××である」 という断定(判断)は根拠を示さないと、そうとも言えるしそうでないとも言えるという
単なる可能性に過ぎないが、それはとは実在世界の中で様々な側面をもつ具体的な対象であるため、
「ある」という実在的な関係性では○○の全体を捉え切れないからです。
そこから「○○は□□であるが故に××である」と根拠付け(推論)が出てくるが、しかし形式的な同一性が内容の
区別に対して外的に立てられた場合、根拠がそれ自体根拠付けを必要とするという無限後退に陥り、
「根拠の形式主義」(これは形式論理の数学的推論でもある)が生じる。それが根拠の本性です。
それは総体性としての根拠(関係性)が個別的に立てられるためであり、現存在する根拠つまり<物自体>
(無関係性)によって止揚される。
たとえば貨幣とはモノとして現存在する(経済的)価値(一般的等価物)であり、すべての個別的評価(価格)
を超越して、市場世界自体を定立するそれ自体無価値な価値根拠です。
そこでは「持つ」という関係性が支配する。
115 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 19:10:18 0
197 名前: OFW 投稿日: 2001/08/01(水) 21:40
>>195 >デフレによる物の価値の下落
詳しい話は経済板の方が良いでしょうが・・・。
マルクス(主義)経済学派の経済学者でも労働価値説をまともに論じている人が見当たらないのは、
(経済的)価値の概念を正しく捉えていないためと言えます。
商品経済社会においては、「物の価値」は
1.使用価値(効用性そして稀少性)
2.交換価値(非所有者にとっての効用性)
3.価値本体(価値実体)
の3重性において現れ、それらは互いに弁証法的な関係にあります。
一方、(近代)経済学(そこでは価格の理論はあるが価値の理論はない)おいて、「物の価値」とは
常にその貨幣表現としての価格を言い、
1.個別商品種の価格(単価)
2.いわゆる物価、すなわち標準的生活財あるいは生産財の平均単価合計
のどちらかを指している。
1については古来「需要供給の均衡法則」として現象論的に説明?されているが、
2に関する満足な説明はない。
それは価値根拠として貨幣を公理的前提(説明原理)としているために、貨幣価値自体の変動を
説明できないのです。(物差しの長さが変るとは不可解!)
物価の一般的騰貴あるいは下落(景気循環)とは資本主義固有の現象であり、資本による過剰生産
(それは労働力の過剰消費でもある)に直接の原因があるわけです。
116 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 19:13:27 0
198 名前: OFW 投稿日: 2001/08/01(水) 21:45
>>196 >弁証法と脱構築
ここ20年以上の知性の停滞の一因にもなっているポストモダニズムと呼ばれる思潮については、
それを中産階級に属する知識人達の<不在証明>(アリバイ)作りと評価できるでしょう。
実在的な対象ではなくその無を唱える観念論共通の特徴は、その解釈学的な記号主義においても
貫かれている。
「反ロゴス中心主義」 とは反理性主義でもあり、差延(引き延ばし)という客観的理性からの逃避は
思想上の相対主義を招き入れる。
それに対して、弁証法は労働者階級の<思想的武器>と言えます。それは、働きとしての自然の
論理であり、また対象的活動としての人間が世界を我がものにするための客観的かつ実践的な
論理です。
それはすべての物化した諸関係を内部から打ち破り、生成の運動の中に投げ入れる溶鉱炉、かな。
117 :
考える名無しさん :2007/11/25(日) 21:36:23 0
202 名前: OFW 投稿日: 2001/08/02(木) 21:49
>>199 >反基礎付け主義なのは確かだから、観念論とは言えんのではないか?
「基礎付け主義」とは余り明確な概念ではないので、その反対の立場についても何とも言いようがないが、
少なくとも世界観上の対立として、客観的実在を認めない立場は観念論と呼べるでしょう。
人間は勝手なことを言う事ができる存在ですが、自然は厳然としてそこにあり、現実(働くもの)は主観
のおしゃべりなどに頓着しない。
労働者はそのことを生産実践の中で直接的に理解しており、自然に対して謙虚な態度を保持している。
それが唯物論の立場です。
118 :
考える名無しさん :2007/11/25(日) 21:37:23 0
207 名前: OFW 投稿日: 2001/08/13(月) 00:55
>>204 >対象世界が主観から独立してそれ自体勝手に動く様相は疎外の一形態
「勝手に動く」とは面白い表現。
アリストテレス『自然学』で、椅子が逆さまに立つ場合の 「ひとりでに立つ」 と 「偶々(偶然に)立つ」
という言明を比較して、<自然性>(自発性)と<本来性>(非本来性)の関連・区別が論じられていたが、
自然性とは<自ずから在る>ということであり、<自然に逆らって>勝手に動くという様相とは、
無機的自然に対して 「勝手な=自発的な動き」 をする自然の一部(生物)として活動的(生きた)自然を
指すでしょう。主観から独立に客観が動くのではなく、客観に従わずに主観が「勝手に考える」のが自己性
(向自性)ではないかな?
人間における疎外とは対象的活動としての自己対象化(自己実現)が非対象化として結果するという、
社会関係性の疎外を言います。それはまずもって<疎外された労働>から始まるのです。
>>206 >唯物論者は心や精神を物質とは独自の原理をもった実体であることを認めない。
心は物質とは「独自の原理」を持つ活動だが、物質から「独立自存の実体」であることを認めない、
ということです。
>心の実在を疑ったりするだろうか?
心は実在しませんから、それを疑いもできないでしょう。
>労働者はデカルト的二元論を受け入れることにそれほど抵抗はないだろう。
デカルトの 「我思う。故に我在り」 とは高度に考え抜かれた思索の結果であり、日常的な意識とは
真っ向から対立する。たとえば日本語でも 「私はここにいる」 とは言うが 「私はここに在る」 とは言わない。
主体は客体(物体)ではなく 「在る」 のは身体だからです。つまり、デカルトは 「自我意識は物質とは独立
のもう一方の物的実在である」 と言った訳ですが、(賃)労働者は、物のように扱われていようとも、
「私は物ではない」 と言うでしょう。
>唯物論者といえども哲学者の一員
素朴実在論は未だ反省的哲学ではなく、唯物論は既に哲学ではない、かな。
119 :
考える名無しさん :2007/11/26(月) 16:42:38 0
読んでる人いないようですが?
120 :
考える名無しさん :2007/11/26(月) 17:24:39 0
>>119 オレは読んでる、つか、一応全部目は通してるけど、
オレには難解でよく理解できない。
それにコピペだから質問しても返答は期待できないしね。
まぁ、部分的だけど「ああ、そうなんだ」ってな箇所が見つかるんで
そいつが楽しみかな。
/  ̄`Y  ̄ ヽ / / ヽ ,i / // / i i l ヽ | // / l | | | | ト、 | 千夏ちゃん最近元気ないお(´;ω;`) | || i/ ノ ヽ、 | | (S|| | (●) (●) | | || | .ノ )| | || |ヽ、_ 〜'_/| | /  ̄`Y  ̄ ヽ / / ヽ ,i / // / i i l ヽ | // / l | | | | ト、 | | || i/ ノ ヽ、 | | (S|| | o゚⌒ ⌒゚o | やっぱり引退かお、ギザカナシスだお(´;ω;`) | || | .ノ )| | || |ヽ、_ 〜'_/| | / ̄`Y  ̄ヽ、 / / / / l | | lヽヽ / / // ⌒ ⌒ヽ | | |/ (●) (●) (S|| | ⌒ ・ィ ヽ | || | ト-=-ァ ノ あとは翔子におまかせだお(`ω′) | || | |-r 、/ /| | || | \_`ニ'_/ |
122 :
http://eatcosmo.exblog.jp/ ◆fSCjliEebk :2007/11/27(火) 11:21:39 0
123 :
考える名無しさん :2007/11/27(火) 15:28:04 0
.n:n nn nf||| | | |^!n f|.| | ∩ ∩|..| |.| |: :: ! } {! ::: :| ヽ ,イ__ヽ :イ ,r' `ヽ、 ,i" ゙; !.(-=・=-)(-=・=-) ∧ ヽ. ヽニニソ / プキ?ル・サンチマンとは知的ルサンチマンのことである。ピキプキ?ヒャー? /∵\ヽ / _,./‐' 、_ ヽ、_ ' ヽ、 ,r'´ `''‐ ニ= '´,..-‐' ``ー、 / ', ', ヽ l l l ', | 、 l l l ./ ヽ、 人 ノ l i | `ー ---‐''''´l `ー─‐i' l ', l ! / l
124 :
考える名無しさん :2007/11/27(火) 19:14:46 0
経済が苦板にも書いたが、 OFWコピペ担当者君、続きは如何? 軽罪が苦板と鉄板とではコピペ君は別人?
125 :
考える名無しさん :2007/11/27(火) 23:24:32 0
>>124 経済学板ではJimmyというコテハンはコピペ担当だって説が書かれた。
オレはいまいち信用できないがな。
とに角、弁証法関連コピペ継続、待ってるぜ。
126 :
考える名無しさん :2007/11/28(水) 17:13:34 0
コピペいらね。つかこのスレいらね。 誰も読んでねーよ。
109 名前:考える名無しさん :2007/11/28(水) 09:19:09 0 最近、うんことまんこの違いがわかりません。 ちなみに童貞です。
128 :
考える名無しさん :2007/11/28(水) 18:20:53 0
コピペいらね、って連中はこのスレに来なきゃいいだけの話じゃん。 おえ、早くコピペ継続しろっての。
129 :
考える名無しさん :2007/11/28(水) 23:19:20 0
>>94 より
>対象Xがコーラであって牛乳ではないのは、それがまさにコーラだからでしょう。それは、概念としての質を表現し、
>単なる名辞ではない。
こんな馬鹿げたセリフを有難がってどうするんだ?
130 :
考える名無しさん :2007/11/29(木) 08:32:50 0
131 :
考える名無しさん :2007/11/29(木) 08:45:31 0
コピペされた文章の責任だれが負うんだろね。 貼ってるやつに聞きたい。
132 :
考える名無しさん :2007/11/29(木) 15:53:22 0
>>131 そのいい加減さが2chじゃんかよ。
そんな前提も見えないオメーはマジ阿呆だぜ。
ヴォケどもは無視して早くコピペを始めろや。
133 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 08:54:34 0
217 名前: OFW 投稿日: 01/10/19 22:08
どもです、召喚に応じて。これまた超亀レスですが・・・
>>208 (206)
多少ふざけが入ったために誤解されたようですが、趣旨は「心は実在する」とは「幽霊は実在する」と同等の
存在論的言明であり、心霊現象を信じる労働者は少ないだろう、ということです。
>>210-212 趣意が分かりにくいが、弁証法を
>思考内容を分類整理する方法
と狭く解釈すると、形式論理になってしまうでしょうね。
>分類の重複を無くす為の調整
はアリストテレス論理学の矛盾律、排中律に基づくでしょう。(アリストテレスは自然学者でもあり、分類は得意だった。)
>対象全体を区別し受け入れるための規格を作り、
区別(正確には区分)の根拠については、「言語の恣意性」とか称して、それを単に主観的なものと考える論者が
(この哲学板にも)多い。しかし、かのゲーテも言うように世界の分節、区分は客観的なものです。
<対象全体>は実在せず、それは否定的な本質存在であると言う点が分類(類の分割)の原理を成すのです。
>ネガティブフィードバックによりそのズレを修正すること
サイバネティックス(情報理論)では、フィードバックは1次の学習であり、システムパラメータの対象化が2次の学習
とされています。
(G.ベイトソン『精神の生態学』『コミュニケーション』参照。<否定>を理解したイルカの話が出ている。)
>>215 >暴力団(彼ら自身なのだが)の脅しから守ってやろうと持ちかける
殆ど最近の事件を思わせる、反弁証法ですね。
「我々は正義であり、テロリストは撲滅されなくてはならない。」
<テロ>(テロの概念と本質)とは<正義自体>(「正義」の真相)です。
確かに世界中のほとんどすべての人が騙されている・・・。
134 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 08:59:12 0
224 名前: OFW 投稿日: 01/10/20 21:55
>>218 (火さん)
>ドスの白痴にそんなのなかった?
昔の記憶が・・・。最近はドストエフスキーはどの程度読まれているのでしょう?
また、革命前ロシアのテロについては、サヴィンコフ(ロープシン)がいますね。エスエル左派の戦闘団首領として、
最後はボルシェビキに対する反革命側に回ったが、帝政ロシア政府に対する絶望的な自爆テロを敢行する
青年達の姿(『テロリスト群像』)は今回の事件とも共通する、かな。
>>219 >マルクス・レーニン主義をどうみてるの?
共産主義のことなら、今一番必要な思想であると。
>NAMとかの評価は?
以前経済板等でも同じ質問を受けた。下記スレ(レス13,31)を参照下さい。
「岩井克人の『貨幣論』は正しいのか 」
ttp://kaba.2ch.net/eco/kako/977/977618388.html >>220 >今回のテロが出現したことをどうお考えですか?
20世紀以降の帝国主義時代を一人勝ちしたアメリカ資本は、内部矛盾(階級対立→経済の行き詰り)
のはけ口を求めて、世界制覇に突き進むしかない。
「世界資本主義の完成期」ということは、名実共に晩期資本主義を迎えたということであり、矛盾の完成
(没落の始まり)です。
反グローバリズムの動きは(小)市民主義的NGO、民族主義、宗教的原理主義等として現象していますが、
労働者階級に依拠した、唯物論的な土台(生産関係)の変革を視野に入れない運動は主観的なものでし
かない。
確かに、資本主義は世界化(普遍化)し、世界的資本−賃労働の単純な階級対立に解消されて行くという
<資本の文明化作用>(マルクス)をもじれば、(資本主義的)文明vs(反資本主義的)野蛮の対立は
社会主義的にのみ止揚され得ると言えます。
135 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 12:55:19 0
>>134 一寸訊くけど、投稿番号は134なのに、文中に、>>219などがあり、それをクリックすると、この元の位置に飛ぶ。どういうことなのか説明して欲しい。宜しく、宜しくお願い致します。
136 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 13:08:06 0
130 :名無しさん@恐縮です:2007/12/01(土) 10:26:57 ID:6fQfrfRs0 横綱の品格てのは、横綱になれた人間にしかわからないこと。 朝青龍は、圧倒的な才能と努力で横綱になれた人間。 横綱に必要なのは圧倒的な強さ。 だいたいなんだよ横珍ってw あいつら相撲やったことねーんだろ? 語る資格ゼロ。 とにかく朝青龍は、巡業で対戦する力士全員病院送りにして、 初場所の開催が困難になるくらいまで暴れて欲しい。 「巡業は元々ヤオなので今まで本気出してやってませんでした。 いいんですかボクが巡業に参加しちゃって? 本場所に出れる人いなくなりますよ?」 とか言って欲しい。 出場可能な力士がいなくなれば、横珍の連中を土俵に上げて、 全員殺してしまえばいい。 強い者、努力した者、才能のある者、勝ち組は全て正しい ということを、朝青龍は是非証明して欲しい。
137 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 13:36:06 0
次は俺がやるからな。232からな。
232 名前: OFW 投稿日: 01/10/21 22:38
偽物が絶えないなぁ。敢えてトリップは付けないが、討議の倫理(ハーバーマス)の第1は誠実性の原則
だということを想起せよ。
>>226 (219さん)
>計画経済における評価
詳しく追跡したわけではないので、概括的な話になりますが・・・。
共産主義とは貨幣、商品、国家の廃絶を目指す運動であり、少なくとも国家が安定的に存在し、
専従的官僚が指導する社会は階級社会であると言えます。
つまり旧ソ連等の「社会主義」国家とは政治経済的にはノメンクラツーラが支配した国家資本主義体制
であったと言うべきでしょう。そのため経済は統制経済となり、直接の生産主体であるプロレタリアートは
実際には経済活動の客体でしかなかった。
また、かって旧ソ連において、いわゆる「経済計算論争」として、社会主義経済における計画と市場の問題が
議論され、戦後の東欧でのいくつかの実験が行われましたが、結果として失敗に終ったと言えるでしょう。
そこには社会的需要の測定と社会の有機的な再生産の大衆的な運営という、未だ殆ど議論されていない
課題があります。それは社会主義経済における最も重要な理論的・実践的テーマだと思いますが、本気で
取り組もうとする経済学者が左翼陣営でも見当たらないのは不思議であり、社会主義退潮(展望のなさ)
の一因でもあるので残念。
>>227 かなり悪質な騙りだが、主張内容に一貫性がないのがすぐ分かる。
>>231 まだ良質な騙りだが、議論を混乱させる荒らしには変りない。
138 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 13:37:31 0
237 名前: OFW 投稿日: 01/10/22 01:18
>>233 (rageさん)
>歴史や理論の概括的な話しかしない
概括的とは概念的把握をしているということです。 概念的把握は弁証法の精髄であり、それなくして
具体的普遍はないのです。
>実践論の話
実践とは理論の検証のことだから、理論なくして実践はありません。だから、私の理論偏重に不当なところは
ないのです。そして実践の過程とはおおむね漸進的なので、すぐに衆人の納得のいく結果はでないものです。
139 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 13:40:40 0
242 名前: OFW 投稿日: 01/10/27 22:38
>>233 (rageさん)
>革命論
労働者階級が主体として自己を形成しない限り、何事も成就しない。そのためには労働者に対する
徹底した啓蒙が欠かせないでしょう。
>>236 (226さん)
>生産手段の共有性から来る同胞的意識
国有と共有を混同することは大きな誤まりです。それとも即自的(潜在的)な共有”性”を指しているのかな?
>労働者を消費者として考慮できない点
「自由主義的」資本主義企業においても、経営者が生産計画を立てる際に労働者自身は単なる労働力
としてのみ考慮され、消費者としては別人化されている。
商品とは<他者の欲望の対象>であり、たとえばフォードの労働者はフォード車を手に入れたいという欲望を、
貨幣という物象化された他者の欲望として疎外させなくてはならなかった。
一方、旧ソ連等の国家資本主義経済においては、国家全体の経済計画は党官僚が作成し、「国益」に基づく
ノルマ型生産目標をもって社会的需要に代えた。
つまり、(私企業主であれ国家官僚であれ)生産手段を所有し生産計画を立てる者が労働者自身の社会的
欲求を無視しているという点では同じでしょう。
>消費者としての物質的要求の意識性が、労働者の労働意欲に反映する
直接的な物質的要求と人間的・社会的要求は区別すべき。
たとえば、旧東欧諸国の労働者参加型経営における「資本関心」の希薄さ、つまり直接的な欲求を超えて
「利潤」を指向することがなかったという指摘については如何?
>本来的な社会主義的発展の諸条件を満たしていなかった
生産力の話かな?確かに社会主義が発展するためには一定の生産力水準が必要でしょうが、むしろ国家官僚
が労働者を主体として認めず、生産の社会化を阻害した点の方が本質的でしょう。
>>237 繰り返すが、騙りは議論を混乱させるだけ。
140 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 07:40:11 0
5 名前: OFW 投稿日: 2001/03/23(金) 21:23 労働(Work)はまず、人間の必然(必要)として存在する。 それは個体の物質的な生存を維持するために、生活手段を生産しなければならないという点において、 人間に課せられた単純な自然的条件である。 そして古来より、人間は協働という形態で生産を営んできたが、それは圧倒的な自然力の前では、 明らかに個体の生産能力のみで個体を維持することは不十分であることから来ている。 自然との交渉、それとの物質代謝過程において、個体は他の個体との関係に入る。共同体とは、 まずもって生産共同体として歴史に登場したのである。 そして、共同体の掟とは、互いに協力関係を結ばなければ、成員の生存が維持できないという、 自然的な厳然性として共同体の必然であったろう。 「自由な個人」などという虚構は、歴史のずっと後において誕生するのであり、産業革命と交易によって、 社会的な生産力が飛躍的に増大した近代以降のものである。 それは、むしろ圧倒的な迄に緊密化した社会的分業の存在を前提しており、商品と貨幣(一般的等価物) によって覆い隠された人間社会の共同性を、否定的(他者化された)形態で主張する。 実際、その内実は所有としての所有(私有)によって保証された、排他的自己を称揚する利己主義に過ぎず、 アダム・スミスが説いた「自愛心」も、階級対立の中では、他者の労働を私有化する(労働力商品の購買と使用) という、搾取関係の正当化でしかない。 労働とは、それにより人間が類として自由になるための媒介であり、個人が他者との協働の中で、 具体的・現実的に自己になり、その成果のうちに具体的普遍としての自己を対象化させる行為である。 市場における商品の売買によって利益を得ること、それは実際には他者の労働の成果を我が物にする ということであり、その根拠である類的・共同的労働の蔑視であり、畢竟、労働者階級への敵対行為である。 現代の疎外された社会における勤労道徳の主張は、まずもって「働かざる資本家は食うべからず」という点から始め、 賃労働(労働力商品)の廃止へと進むべきであろう。
141 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 07:41:06 0
13 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>7 >もう少し詳しく、商品としての労働/労働力と言う事ですか?
賃労働は通常、労働力市場における使用者と労働者との間での自由な雇用契約による等価交換と
されていますが、何と何を交換するのかを考えて見れば、それは“裸の労働力”の一定量を貨幣と交換
するという点にあることが分かるでしょう。賃労働者は“自由な”商品です。
>有産階級/無産階級、不変資本/可変資本、外在化・物象化・疎外
まず、階級とは“生産手段の所有/非所有に基づく社会成員の区分”です。
資本主義社会では、資本家階級と労働者階級が基底的・本質的な階級であり、両者は弁証法的な
対立関係に置かれています。
そして、その他の階級、自営農民、自営業者、自由業等は中産階級と呼ばれ、不安定な動揺のうち
にあるメンバーでしょう。財産の有無は結果であり、原因ではない。
次に、「外在化」「物象化」「疎外」は相互に関連する概念ですが、
外在化(外化)とは、可能的・潜在的な存在が現実的・顕在的になること。
物象化とは、人と人との関係が物と物との関係として現象するという、近代特有の疎外の一種であり、
資本主義社会の全体に及んでいる(例:貨幣物神、俗物性(スノッブ)、官僚主義、システム主義、
業績主義)です。
疎外とは、自己の本質の外化がその喪失として現象する、ということです。畢竟、それは労働(対象的
な生産活動)の疎外に根拠を持っている。
>>8 >労働は自由への道と言うわけですか?
そうですね。国会図書館のカウンターの上には、「真理は我らを自由にする」という標語が掲げられていますが、
精神論としては正しい言葉も唯物論としては、「労働は我らを自由にする」が正しい。
もっとも、これはヒットラー・ナチが強制収容所の門の上に掲げたものと同じですが…。
142 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 07:44:02 0
14 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>9 >共産党の方ですか?
じぇんじぇん違います。日本共産党は共産主義政党ではありません(これホント)。
精々社会民主主義の党でしょう。
>>10 >共産党の人々って労働者なのかのう…?
一般党員はそうでしょうが、指導部は「職業政治家」でしょう。
>マルクス=大英博物館の紙魚=働かないオタク
最近の風潮の受け売りではなく、自分で調べ、考えましょう。
あなたが労働者(サラリーマン)あるいは将来の労働者である学生さんなら、自分がなにものであるかを正しく
理解することは、実践的な課題です。
>>12 >もっと建設的な話をしようよ。
そうですね。近代的な労働倫理については、何と言っても、西欧の国民精神の基調ともなっている、
フランクリン、ジョン・ロック、アダム・スミス等のものが代表でしょう。
フランクリンの13徳は、節制・勤勉・質素を精神的支柱とした、近代的市民(ブルジョア)の普遍的倫理であり、
また国王や教会という不労所得者ではなく、労働と私有に基づく理性的で勤勉な市民が社会の主人公だと説く
ロックの哲学は、まさに近代精神そのものです。そこでは、私有の権限(根拠)が排他的な労働に置かれているが、
おもしろいのは、交換(譲渡と取得)による富の蓄積を「黙契」(暗黙の契約)として正当化している点。
それは資本主義的「私的所有」が決して正当な等価交換に基づくものではなく、暗黙で間接的な強奪あるいは
奴隷売買によるものだということを、恥ずかしながら、認めたわけ。
言語一元主義ならば「私的言語の不可能性」と呼ぶ同じ事柄が、非言語的な労働における「所有の私秘性、
交換の不可能性」であることが、ロックにおいて読み取れます。哲学者と違い、労働者はおしゃべりをせず、
黙々と働く。
それは殆ど語られることがないが、社会の唯物論的な基礎として、働くもの(現実的なもの)です。
143 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 07:45:45 0
26 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 20:58
>>16 >風俗嬢は人間のクズ。
それは言い過ぎだ!
確かに、カネでは売買できないもの、してはならないものがある、とは倫理的な言明ですが、
貨幣、資本という物象的な力の前では、すべての人間はモノでしかない。
「資本家とは資本の人格化に過ぎない」(マルクス)
サラリーマンと風俗嬢の違いは、見かけ程大きくはないでしょう。
>>20 (7)
いわゆるマルクス経済学的な議論については、下記サイト(石塚良次氏)を参照下さい。
とても良くまとまった講義要綱です。
http://www.senshu-u.ac.jp/~the0393/99/lec/met1_14.htm 但し、労働の“哲学的な”意義といった点に関しては、労働者自身が自らの存在の根拠を反省し、
自分達こそが歴史と世界の主人であることの自覚が重要でしょうね。
「哲学は労働者階級を止揚せずには自己を止揚できない」(マルクス)。
144 :
北条弟王 ◆wt5ENfoWGI :2007/12/02(日) 08:09:51 0
「世界ごとにおのおのの自然さというものがあって、私は私がつくった世界をもっとも好んでいます。」
「たしかにこの世界の実姉も私がつくった世界の実姉に似ており、大変よろしいものですが、それでも一歩及ばないようです。」
「それでも私がつくった世界の自然さをこの世界、言い換えれば現実世界で味わうことはできないでしょう。」
「この世界で実現する自然さはこの世界の自然さ以外にはあり得ないからにほかなりません。」
http://imperialism.xxxxxxxx.jp/
145 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 12:02:31 0
34 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24 >人間は必ずしも共同体を必要とするのでしょうか?
必要でしょうね。個体としての人間とは類としての人間の現存在であり、それは、人類全体の内容・成果が
個人において“実現” しているということです。
>個人が必要とする諸条件と共同体が営まれる諸条件は必ずしも一致しません。
それはその通りであり、永遠に“一致”はしないでしょう。しかし、諸個人は共同体において生まれ、
主体として共同体を発展させ、そして次代にそれを伝える。個人と共に共同体も発展するのです。
具体的普遍とはそのことを言い、諸個人間のコミュニケーションが弁証法的な統一の条件です。
>共同体がシステムとして機能しなければならないのは個人が必要とするからで、それ以上でもそれ以下でも無い
それは個人と共同体との関係を外的なものとみる、近代特有の考え方です。
近代的個人が自由な主体として振舞えるのも、実際には生きるために必要な商品が市場に存在
するからであり、一般的等価物としての貨幣を所有しているおかげ。
そのため、個人は社会から自立して生きているという錯覚が生じ、社会は単なる必要物を提供する
便宜的なもの、と表象される。
それは“give and take”という利己主義的な社会観です。その結果、逆に社会の方はシステムという
全体的・物象的な存在として、個人に対して超越的なものとして迫り、全体主義的な非合理主義
となって復讐を遂げた。
また人間社会の機能主義は、いわゆる社会システム論といった物象的・官僚主義的な発想を生み、
個人をますますアトム化した手段にしてしまう。
146 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 12:06:09 0
35 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24 (つづき)
>労働者の共同体とはどの様なものですか?
「個人の解放は社会の解放なしにあり得ない」という言葉があります。
現在でも労働者は(分業という形態での)共同体を形成している。ただしそれは、市場という転倒した
現実により隠され、無秩序な自然状態に置かれているわけですが。それを自覚的なものにすることは、
社会のすべての物質的・精神的な豊かさを、諸個人の協働的・創造的な働きの成果として享受する
ことになるでしょう。
そのためには、労働者間の連帯が不可欠であり、そこから「我々は一つである」との類的な自覚が生
まれるでしょう。
たとえば、国家主義者はそれを言うが、国家とは幻想的実体として種的な存在でしかない。
「全体は存在しない」のです。
>個体が生存する為に共同体があるのか、共同体が運命付けられた (必然の)ものとして個体があるのか?
「必然とは盲目である。それは自己を知らず、外的な運命として個人を突然襲う」(ヘーゲル)。
必然性と言っても、外的な必然性と内的な必然性があります。
内的な必然とは、類的な本質を自己のものとして生きる個人の魂、とでも言えるが、それは別名「客観的精神」
と呼ばれます。(近代人の偶然的自由にはこの手の“大いなる精神”は理解不可能?)
>緩やかな個人主義は氏の結論からブルジョワの 欺瞞であるとされてしまうのでしょうか?
山崎正和流ですか?「緩やかな」という感性的な表現には、「現実的な」との表現を対置すべきかな。
繰り返しますが、全体主義は共産主義とは無縁の観念論ですが、近代的な個人主義も抽象的な
観念論です。
>科学技術が可能とする高度情報化社会でも同様 の理論展開が可能でしょうか?
たとえば、“嫌な”労働はすべてロボットがこなし、人間は個人として自由(暇時間)を満喫できる理想社会が
到来したとして、人間は何をするのでしょう?
労働の必要とは、労働以外の余暇に向かうのではなく、労働(仕事)を内的な生命欲求の自由な発現
にすることでしょう。
147 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 12:42:21 0
148 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 12:44:25 0
42 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 09:48
>>37 >社畜になったら、いつ歯医者に行けばいいのだろうか。
場所にもよりますが、会社の近くの歯医者の予約をとって、30分〜1時間位、勤務時間中に抜け出す
ことは、大体皆やっている。(勤務時間中の私用外出扱い、あるいは会社も大目に見る)
>社畜になったら、いつ寝るんでしょうか。
以前よりも平均労働時間は減少しているが、中小企業の状況は相変わらずヒドイもの。
月間残業時間が50時間を超えると、帰宅時間は9時以降になる。通勤時間はむしろ伸びている。
>社畜になったら、いつ飯を食うんだろうか
朝飯を抜く人は多い。社員食堂がない場合は、昼は弁当(自前、仕出し、コンビニ)か街の飲食店を
使うがやたら集中して混む。飲み屋で晩飯を済ます御仁も少なくない。
カップヌードルやパンは残業時には必需品かな…。
>社畜になったら、いつ音楽を聴くのだろう。
ウォークマンの登場以来、深夜残業中のリスニングも技術的には可能です。
>社畜になったら、いつ本を読むのだろう
サラリーマンは余り本を読まない。スポーツ紙、経済新聞、「これからのビジネスは○○しかない」といった
時流もの、あとは通俗小説位、かな。
>社畜になったら、いつ絵を描くのだろう
何の絵?大企業には絵画クラブなど各種同好会はあります。
>社畜になったら、いつ笑うのだろう
営業上はいつも大声で笑っている。
>社畜になったら、いつ泣くのだろう
“女の子”も最近は泣かないなぁ。無表情人間が増えた。
>社畜になったら、いつ2ちゃんできるのだろう
勤務時間中に私的にインターネットを使うことは、禁止です。
(余り守られていないようで、会社も監視を強化している)
>社畜になったら、もう人間には戻れないのだろうか
“会社人間”が定年を迎えた場合、何が残っているかな?
149 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 16:53:36 0
48 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 21:56
>>45 (横レス失礼)
>社蓄ってさ、仕事以外に興味のあることがほとんど無い人なんだよ。
と言うより、会社と自分を一体化させて、会社の仕事以外に興味を持たない会社従業員のことでしょうね。
仕事一般について言えば、四六時中、音楽のことしか考えない作曲家もいるから。
ただし、すべてのサラリーマンは「賃金奴隷」だと言う事を忘れずに。
>社蓄から仕事をとったら何にも残らないし、誰にも相手にされない。
日本は会社社会ですから、自営業や自由業(芸能人、プロスポーツ選手、著述家等)を除けば、
個人には全く社会的な信用がない。
サラリーマンは名刺の肩書きがすべてであり、まさに、裸の労働力しかもたない境遇にある。
某革新政党が「市民と労働者の連帯を!」と言うように、サラリーマン(賃労働者)は、実質的には
市民(ブルジョア)ではないのです。
150 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 16:56:13 0
56 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 00:18
>>50 >「生涯学習」か「自己投資」かなんか知らんが
「労働力の質」を常に高めることは、技術革新や産業構造の変化に対応して自己の商品価値を維持するために、
ますます必要となるでしょう。倫理学風に言えば、勤勉=勤労と勉強がより普遍的に重要になる、かな。
日本での問題は、実業界からのニーズに対して、大学などが受け皿になれるだけのレベルがないこと、
企業側の雇用慣習が追いついていないこと。
USAでも、上昇型キャリア・コースに乗れるのは圧倒的に少数であり、巨大な貧富の格差の存在は、
出発点での多数の諦めを生んでいるのでは?
>オレはヤだなぁ、激しく
まぁ、昨今のフリータばやりも、企業側のアウトソーシングや臨時雇用化の流れに応じた受動的なものですから、
決して安定してはいないでしょう。
バブル期以降、日本人は遊ぶことを覚えてしまったので、かっての勤勉・質素という精神的な富を食いつぶして
しまった様ですね。
>>51 (45)
>ブルジョアになりたい。
名言ですが、ジャパニーズ・ドリームの可能性は、ジャンボ宝くじの確率位かな。
ITバブルもあっという間にはじけたのは、雇用拡大に結びつかなかった(情報産業の“付加価値”はもともと
少ないから、する筈もない)からで、期待は幻想でしかなかった。
…あと、「個がない」のはその通りですが、現在の風潮は「自己中」が増えたことで、それは「非社会化」と
呼ばれ、個人の社会的な自立とは異なるでしょう。
151 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 16:59:18 0
66 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 22:58
>>58 >バブルももちろんですが困窮の記憶が完全に薄れたいまとなっては使用期限切れ≠ノなるのは
理の当然のような気がします
確かにそれは正しい。倫理はいつも時代に適応した人間関係の有り様を表現するから、
使い捨て時代に「モノを大切にする心」をいくら説いても、それだけでは無理でしょう。
そこで「モノと心の関係は如何なるものか?」という根拠への問いが必要になる。
根拠とは心とモノの同一性のことです。
その方法は弁証法的唯物論と呼ばれ、モノが溢れる中でそれが決して与えられた豊かさ
ではなく、生み出された豊かさであることを教えてくれる。
心ある人間がモノを求め、労働によってそれを生み出したのだ、という認識が、大事なのは
労働であり、労働なしには豊かにはならないことを教える。
ところで、これだけモノが豊かな世界の中で、労働は決して豊かではない、という事に気が付く。
それは「疎外された労働」と呼ばれる賃労働の姿です。
>>59 >労働は社会への言い訳。
珍しい意見ですね。もう少し内容を教えて欲しいな。
>>64 >OFWさんはNAMについてはどのような見解をおもちですか。
経済板でも聞かれたのですが、はっきり言って、関心ありません。大体、何で不買運動なの?
>私にはあれは唯物論から逃げようとする運動にみえ、それは無理なことだと思うのですが。
そうですね。マルクスに好意的な知識人でも唯物論者は稀です。その証拠は、労働および労働者
に無関心なこと。
>>65 >社畜になったら、思索するゆとりをもてるんだろうか???
全活動力が売上・利益に向かって動員されるから、余暇時間にはそこからの逃避として、精神を
無思考状態に置かざるを得ないでしょう。
152 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 17:01:57 0
80 名前: OFW 投稿日: 2001/03/27(火) 21:56
>>76 >働かなくても飯が食える奴を働かす謂れはないだろ。
何故「働かなくても飯が食える」のか考えて見よう。
1.他人に養って貰っている。
2.お金をたくさん持っている。
3.手を伸ばせば何でも採れる楽園に住んでいる。
の3通りが考えられる。
3番目は夢みたいな話だから、除外するとして、
1の場合、他人としては、親、配偶者、パトロン、子供(老親の場合)、社会(生活扶助)等が考えられるが、
それらの人達自身も働いていない場合としては、上記の2の場合しかない。
結局、お金を持っていることが、働かないでも生活できるためのポイントだと分かる。(これ、分かりきったこと)
しかし、お金自体は食えないから、それで買うべき商品こそが重要。そして、それは他人が働いて生産したもの、
でしょう。
>ただ、働かないのはいいとして端に迷惑をかけるのは良くないんだろうな。
どんな人も他人の働きに依存している。それが社会というものです。
働かないでも生活できるのは、他人の働きによってその人の生活物資を“無償で”賄っている、ということ。
これが答でしょう。これには謂れ(=正当な根拠)があるのかな?
153 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 17:04:54 0
85 名前: OFW 投稿日: 2001/03/28(水) 23:25
>>82 >予め能力のない人間はどうなるのでしょう?
「予め能力がない」とは先天的な障害あるいは幼児等の場合でしょうか?
その場合は当然、障害に応じて持てる力を発揮すれば良い、あるいは保護されるべき状態でしょう。
能力=可能性ですから、誰もが自らの可能性を追求し、その追求には限りがなく、予め決まってはいないでしょう。
>「能力に応じて働き、必要に応じて取得」といった言説が暴力的響きを持って迫ってくるように思えるのですが....
とても驚きのご意見です。むしろ、能力がない人はその人なりに働き、かと言って、生活や欲求の必要に応じて
十分に享受することができる、というのは実質的な平等(社会が相互扶助的になっている)の主張であり、
形式的には不平等(能力の差が取得の差とは無関係である)であることを主張する言葉です。(どこが暴力的なのだろう?)
身体的・精神的に働くことができないなら、働かなくても良いのは当然でしょう。
しかし、働くことは本来、個人の一つの社会的な欲求であるはず。
現在の疎外された社会では、事情はまったく逆であり、働くことは苦役であり、強制労働でしかないでしょうが。
154 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 17:08:23 0
89 名前: OFW 投稿日: 2001/03/30(金) 03:56
>>83 >生産する行為が労働なのか 金銭を稼ぐ行為なのか
「労働の哲学者」である内山節氏が「働く」と「稼ぐ」の違いについて述べています。(『自然と労働』他)。
彼は非マルクス的な立場ですが。
また、エンゲルスも「労働」という言葉の二義性(WorkとLabor)について言及している。
>趣味的な活動で生産されるものもあるだろうし
無論、そうですね。労働一般と資本主義下での労働(賃労働)との区別が重要でしょう。
>> 86(82)
>労働の分業化→労働者の単能化→工業化・大規模化によって 労働日における必要労働時間が限りなく平準化され
“固定した”分業や、資本間の競争および労働運動がもたらす労働時間の平準化は、必ずしも
>その結果として労働者の平等と団結が生まれる
とは限らないでしょう。むしろ、労働格差(労働貴族と単純労働者の分化)が進行しているのが、現状と言える。
>逆に言えば“労働”といった 運動(=闘争)過程において前述の社会的マイノリティーが疎外される(運動から)のかも
いわゆる先進国では、労働運動は労働組合運動でしかなく、賃労働の廃棄にまで踏み込んでいない。
それは“疎外された”労働を前提している。
社会的マイノリティとは疎外された社会が作り出した結果であり、その解放のためには、社会自体(生産関係)
の止揚が必要です。たとえば、「障害者の社会的参加」とは正しいが、それはブルジョア社会の枠内では
制限された範囲(人権、形式的平等等のブルジョア的権利)でしか達成できないでしょう。
何より資本主義的「経済の論理」はすべてに優先してしまう。
155 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 17:12:59 0
91 名前: OFW 投稿日: 2001/03/31(土) 04:50
>>90 (82)
>どちらかと言えば社会民主主義即ち修正資本主義の問題でしょう。
>労働運動が国家の枠組みの中に封じ込められた結果でしょう。
資本主義が政治経済的に修正資本主義に変容したことと、労働運動が「体制の補完機能」を果たす
ようになったこととは、同じ事柄でしょう。
一方において社会主義の要素を取り込み「福祉厚生」を考慮することが、他方でそれに呼応した
「労働者の体制内化および階層化」を促進する。
またフォーディズム(「労働者を消費者として囲い込め」)の成功もある。
>ただ、そんなに肯定できるのでしょうか?
社会民主主義をですか?それは余り肯定できないでしょう。
また、労働者に依拠することの肯定如何ということなら、それはむしろ、労働者自身の否定の否定(現状の
自己を否定すること)の問題でしょう。
>ドイツの安楽死や 北欧福祉国家の“間引き”の事実
安楽死の是非とか、不労高齢者の処遇に関して言えば、それは結局社会の在り方に繋がる。
安楽死は、個人の尊厳の問題と言われるように、個人が社会的・精神的主体として如何に尊重されるか
という点で、個人の社会的内実と深く結びつく。つまり、生物学的生存が必ずしも人間的生存ではなく、
同時に個人の生存が必ずしも当該個人の孤立した生存ではない、という点です。
その矛盾は社会の解放(個人の社会化)と共に、たとえば宗教の止揚といった点と共に、止揚されていくと
思います。
また、高齢者が「労働能力のない個人」という理由で社会から疎外されるのは、極めて資本主義的な
経済原則に基づくものであり、生きている人はそれ自体で働く者(主体)であることは、経済を超えた内実
を持ちます。
>ダーウイニズム的決定論や国家社会主義、これらに対する懸念です。
いわゆる社会有機体論や国家社会主義(形容矛盾!)は共産主義とは無縁。
社会を、個人を超えた“超越的な実体”(社会システム論も同様)とみなすことは幻想であり、諸個人の
関係性の中にしか社会は存在しない。
かってのナチズムやスターリン主義(国家資本主義)的全体主義とは正反対の個人の社会化こそが必要です。
156 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 19:46:24 0
96 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:10
>>92 >システムを構成する各要素が(個、サブシステム)が、自律的に行動しながら、強調、競合的に行動しあい、
全体として任務を達成する(秩序を形成または維持する)システム}。
社会は確かに一つのシステムとして捉え得るが、本質的にシステム以上の存在であること、を忘れないことです。
パーソンズおよびルーマンの社会システム論も、生物学のアナロジーとして出発したが、行為からコミュニケーシ
ョンへとその機能的要素の内容をシフトさせてきている。
>本来争わなくてもよいところに争いを持ち込んで無駄に時間と労力を浪費することは無い。
まったくその通りであり、私企業が私的利益を追求することは、社会にとっては時間と労力を浪費することであり、
“経済的”とは呼べない。
>ここでも生物(ここでは生物内組織での協調)にその範を求めることが出来る。
企業内の生産システムと生物体システムの本質的な相違点は、後者では自律的な自己調節機能が即自的
にのみ存在している点です。全体(個体)がその実在的要素(器官、細胞、細胞内器官)に対して、“見えざる手”
として働き、器官の自律的機能は外部パラメータ(体温、水分等)の下で、相互に媒介し合う多くの反応サイクル
として自動的に制御されている。
一方、生産システムでは、目標は外部から与えられ、部分間の関連とそのリズムによる調整は綿密に計画されな
くてはならない。
そこでは、常に意志的な働きとコミュニケーションが重要な要素になる。
>>94 >働かなくても健康で文化的な生活ができるはず。
衣食住の用を満たす財があり余る社会がきたならば、労働(仕事)の意義も現在とは全く異なるものになるで
しょう。好きな仕事をするとは、人間の社会的・精神的・類的な自己を表現することでしょう。
廃棄される食い物は大量にある。 しかし餓死する人がいる。 食うのにカツカツな人も大勢居る。
158 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 18:17:23 0
159 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 18:39:54 0
160 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 18:40:51 0
161 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 18:42:10 0
162 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 22:03:47 0
とんだ弁証法loop、自己loopオナニ
163 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 21:33:38 0
97 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:12
>>95 (90)
>その言説とマルクスの思想とを区別する必要がある
全く同感です。「福祉切捨て反対!」とは正しいが、「福祉を切捨てざるを得ない福祉国家自体の廃止を!」
が真実でしょうね。
>ナチズムやスターリズムのメカニズムと共産制のメカニズムの違いがわからないのですよ(マルクスの著作にも
具体的指摘はない)
まず、賃労働の有無が根本的に異なるのです。そして、そのことを突き詰めた場合、誰が生産手段を
握っているのか、そして階級発生の必然性とその止揚の条件に関する認識が進むでしょう。
個人とは類的な存在(具体的普遍)であり、全体が存在するとは種的(特殊的)な立場に止まること。
>問題の核心は関係論や時間論にあり、その解釈如何によっては前述の抑圧的体制に頽落する惧れがある
抽象的には正しいと思います。
「閉じた関係」vs「開かれた関係」、
「過去の決定」vs「未来の非決定」
等の対立を具体的・弁証法的に詰めることは、マスクス主義の理解(社会の本質論)にとって
重要でしょう。
ヘーゲルも言うように、「現実性」(働き)の概念とは本質力自身の現象として自己を生み出すもの、
のことです。
…実際、マルクス主義を唱える論者や活動家が、未来社会の具体的な姿を云々しないことは、
現実的な運動家として実践的には正しいが、その理念的な内容が誤解され、展望を失っている現在、
将来の社会が如何に運営されるかという点について、もっと理論的に議論されてしかるべきだと思い
ます。構想力の欠如は、実践的な情熱にも影響する。
164 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 21:35:10 0
100 名前: OFW 投稿日: 2001/04/03(火) 00:26
>>98 (横レス失礼)
>勤労は道徳ではありません。勤勉とも違います。
まあ、道徳かどうかはともかく、憲法では日本国民の権利および義務であるとされていますね。
「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」(第27条第1項)
ところで、義務を果たさない人がいる場合、何故、憲法違反とはならないのかな?
1.果たしたくても、果たせない? (労働能力のない人、非自発的失業者等の場合)
2.果たしたくないから、果たさない? (1さんの様に、個人の自由権を絶対的だとする主張)
3.「勤労」の解釈により、たとえば資本家として直接労働していない人も、「金勘定」という勤労
義務を果たしていると言える。 (現在の主流的な法解釈かな?)
さて、憲法自身は何と言う?
「憲法とは、畢竟、妥協の産物である」(ヘーゲル)
『工場日記』を書いたシモーヌ・ヴェイユのスレが、たまたま上がっているので、ついでながら彼女
の言葉(正確ではない)から…。
「権利とは相対的なものですが、義務は絶対的なものです」
「過酷な労働に痛めつけられた私は、この自分が、もはや乗合バスにも乗ってはいけない程、
価値のない人間(非国民?)であるかのような感情に襲われました。」
165 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 09:49:31 0
103 名前: OFW 投稿日: 2001/04/05(木) 00:19
>>101 >OFW氏に反論したいんだが、取っ掛かりすらつかめん。
反論は大歓迎です。何でも取っ掛かりになると思う。
>少なくとも全体主義批判の矛先が、個人やシステム論に行く事
私の説明不足でしょうが、個人=近代的個人か、具体的普遍(ヘーゲル)としての個人か、で全然異なるという点。
また、社会システム論が何故問題なのか、はもっと詳しく説明が要るでしょうね。
>統合的理念の落とし穴
私は理念が統合的だとは思っていない。むしろ自由な運動というイメージの方が強いな。
>>102 >労働は賃金を得るためにするわけで
現在の資本主義下の労働(賃労働)はその通りですから、
>それ以外に生き甲斐みたいな価値を置くことは
資本主義の下では、すべて欺瞞となり、その結果
>資本家の思うつぼ
となるのはその通りですね。ところが、最近の企業研修や就職情報誌などでは「会社のためではなく、
自己実現の欲求を満たすために仕事をしろ」などと煽られているのが現状です。
>そしてそういう価値観が親から子へ受け継がれ再生産を繰り返す。
資本とは「過去の労働が対象化されたもの」ですから、賃労働自体が、資本関係と共に、その価値観を
再生産しているわけです。
しかし、労働(仕事)には、歴史貫通的な積極的な意義がある、という事を忘れないことが重要です。
そして、その肯定的な面は資本主義下においても、労働現場では生きている。仕事仲間と協働して
成果を上げる、という労働の社会的・人間的な面は、労働者自身が何よりも密かな誇りとしている点です。
その矛盾した姿を捉えること(否定の否定)が肝要。
166 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 09:52:04 0
115 名前: OFW 投稿日: 2001/04/08(日) 20:20
>>104 >そもそも勤労道徳なるものは明治維新、富国強兵いらいのものでしょ。
あからさまに「労働は美徳だ」と言う道徳は、日本が近代世界の仲間入りをして国富を蓄積するために、
資本主義的な労働を必要としたためでしょう。しかし一部の働かない階級を除き、働く事自体は人間の
自明のあり方として古来から肯定されていたでしょう。
>「過労死」最もばかげた死に方だろう。
そのばかげた事が現実であり、何故死ぬまで働いてしまうのか、が問題。
「自己の名声のため」あるいは「会社のため」という理由はむしろ少なく、「家族や同僚に負担がかかり、
ここで止めるわけにいかない」あるいは「責任ある仕事に対していい加減なことはできない」という、
それ自体は高邁な理由のためではないかな。
>>109 >個々の間の自律したコミュニケーションの能力が高いほど、その協調する能力は高くなると思います。
その通りでしょう。自律は協調と統合される。
>コンピューターやそれによる通信の技術を利用することによって、個々の間の自律したコミュニケーションの能力を、
飛躍的に高めることが出来る
技術的にはその通りですが、問題は制度的な部分でしょうね。
>>112 >フレックスタイムを導入するなどして
時間の問題こそが労働の鍵です。それは社会経済的な事柄ですから、社会全体が生産労働の相互調整を
いかに合理的に成し遂げるかが、課題です。
フレックスタイム制がなかなか普及しないのは、「時は金なり」が先にあるから。
167 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 09:54:43 0
116 名前: OFW 投稿日: 2001/04/08(日) 20:21
>>113 >共産主義の共同体が原始共同体を発展させた
ものではなく、その止揚(現状の否定としての復活)というべきでしょう。
>(共同体:マルクス主義で、近代の私的所有社会以前に存在するとされる社会。(三省堂 大辞林 第二版 ))、
ちょと違うな。この説明なら「伝統的共同体」が正しい。共同体(Commune)とはむしろマルクスが
「ついに発見された」と呼んだ、パリ・コミューンのものに近いでしょう。
>現代の共産主義の共同体には、集団をまとめるものとして、どのようなものがあるのでしょうか?
「現代の共産主義の共同体」が旧ソ連、現中国等を指しているなら、それらは国家資本主義の国家であり、
共産主義の共同体ではない。
また、理論的なモデルを指しているなら、具体的な点は労働者自身が考えるべき課題である、としか言えないが、
要点は、社会経済的な面では、生産手段の共有に基づく直接生産者の生産協働体がまとめる。
それは、社会的分業の全部門に亘って、(財・サービス)生産の計画・実行・監視・改善(PDCA)の合理的な
マネジメントを行う主体です。要は、単に「自分達で自分達の社会を運営する」組識です。
(当然、生産手段の私有に基づく賃労働、貨幣、商品は廃止です。)
政治的な面では、上記の生産協同体自体の直接民主制による組識が調整機関として働くべきでしょう。
それは固定した指導部・官僚組識vs一般大衆の関係ではなく、行政事務は成員全員が交替制で当たる
べきでしょう。(代議制議会と官僚制行政機関が形成する現状の政治的国家は廃止です。)
近代社会をまとめているのは法ですが、当然ながら物理的な力、つまり警察がその裏付けとしてある。
人倫から法状態への移行は近代の利己的個人の実存を支えているわけですが、法の止揚として人倫の復活が
現実のものとなるでしょう。
168 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 09:55:58 0
118 名前: OFW 投稿日: 2001/04/09(月) 23:44
>>117 >最後の問題への返答は、まさにNAMそのものではないか
さぁ、どうでしょうか。私はそうは思わない。
労働者の協働体(Commune)を言うことなく、抽象的個人の連合(Association)を言う。・・・これは言葉の問題ではない。
類的な統一を言うことなく、個別的な結合を言う。
生産関係の変革を言うことなく、不買運動を言う。
貨幣の廃止を言うことなく、地域通貨を言う。
国家の廃止を言うことなく、それへの抵抗を言う。
唯物論的な必然性を言うことなく、倫理的・恣意的な自由を言う。
労働者階級に依拠せずに、何が「可能なるコミュニズム」なのでしょう?
169 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 09:58:44 0
120 名前: OFW 投稿日: 2001/04/11(水) 00:25
>>119 >労働者の協慟体とは?
現代社会は既に全面的な分業体制による生産活動により維持されている。
すべての生産財と生活財は相互に緊密に関連する生産部門で生産され、市場を介して流通している。
そこでは、利潤原理に基づく私企業が主体となって生産・流通・分配が営まれているわけですが、
その主体を生産現場で直接生産に従事している労働者の手に返還し、協働的な労働に基づく、本来の
共同的で階級のない人間社会を復興しよう、というのが共産主義の理念であり、現実の実践の最終目標です。
>類的な統一とは?
人間が類的な本質存在だということは、「人類は一つである」ということ。
類(具体的な普遍性)− 種(自由な特殊性)− 個(現実的な主体性)とは諸個人が自然的な被規定性の
中にあって、社会を形成することにより、現実的に自由な共同存在だということを、概念的・弁証法的に表現している。
>生産関係の変革はNAMも主張してるのでは?
NAM公式サイトの文章を読む限り、階級的立場が希薄ですね。
「非資本制的な生産と消費のアソシエーション」とは、局地的な生産協同組合程度のイメージですが、全面的な
生産関係の変革ではなさそう。
「消費者としての労働者」とは、要するに消費者でしょう?
>貨幣を廃止できるの?
貨幣とは何か、を理解すれば、廃止は必然的です。
>国家の廃止とは? 唯物論的な必然性とは? 労働者階級に依拠するとは?
マルクス、エンゲルス、レーニンのすべての言説に共通する基本的な思想であり、共産主義の原理原則(ABC)です。
170 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 15:19:16 0
バカサヨの脳内お花畑談義はいい加減やめれ!
だからいってんじゃん。このへんくるともーつまんねーって。
172 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 19:58:09 0
だったらなんか面白れーのやって。
173 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 20:06:42 0
いいんじゃねーの、下らないコピペでもな。 2ch自体がお花畑どころか雑草談義、カス談義じゃん。 なんでもアリが2chの面白みだし、各人楽しめばそれでOKだぜ。 なんでもいいからガンガン逝けや、やったほうが勝ちだぜ。
174 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 21:40:18 0
>>173 お言葉在り難く頂戴致しました。
それでは私めが黒衣を務めますです、はい。
おっと、忘れるとこでしたが、24番がOFWさんですよ。
24 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2000/10/28(土) 22:34
(折角古いスレが上がったのでカキコしよう。)
お金が価値に関係するという点は誰でも分かるようだが、価値について理解している人は極めて稀である。
1.「価値とは何か?」という質問をすると、「何らかの点で優れた、望ましい存在であり、人によって評価が
分かれる主観的なもの」と言う答えがまず返ってくるが、それ以上は進まない。
2.価値にも種別があり、それは価値の質を形成する。
a.認識的価値=真理
b.道徳的価値=善
c.芸術的価値=美
d.経済的価値=モノの効用
e.政治的価値=権力
f.精神的価値=知性、教養
g.社会的(伝達的)価値=情報 等々
3.価値(Value)という以上、何か数量的な存在でもある。
それは単に人の主観的な評価だけではない、「価値の尺度(ものさし)」を予想させる。
4.しかし、ある人にとって価値があるものでも、他の人には無価値であり得るのは通例であるから、尺度の
尺度として「標準的な人間」を考える必要がでてくる。
5.つまり、価値には「得難い」(稀少性)という側面がある。標準的な価値から外れて高くなればなる程、
それは稀な(出現頻度が少ない)存在である。
6.反価値というものがある。
例:真理−誤謬、善−悪、美−醜
また無価値というものがある。
例:無意味、無用、無教養、無知
7.上記の事情は、「価値の限度」を予想させる。
「ありふれたものはむしろ価値の少ないもの」という反比例関係(負の相関)があり、一定の社会の中での
全体量(限度、質量)は一定なのではないかという点である。
8.限度に至って、「価値の本質(価値自体)」への反省が必要となる。
175 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 21:41:06 0
32 名前: 24 投稿日: 2000/11/03(金) 10:38 (24の続き) 9.およそ事物の本質とはその自己同一性の根拠を言うから、価値の本質とは価値が他のものではなく、 まさに価値である所の固有な属性(価値そのもの)であり、無価値(価値のないもの)との対立を通して 浮かび上がる個別的な価値の生成・変化によらない価値自体を言う。 10.経済的価値の本質は効用性と稀少性の対立と統一を根拠とする。 それは主観的価値として表象された価値からそれ自体に復帰したものである。人間の生活にとって有用な 物(財)も必要量以上存在する時は無用となり余剰となる。 そこで、価値は社会的な本質存在として外面化される。 ある人にとって無用であるものが他の人にとって有用なものである以上、それは財の移動を引き起こすだろう。 所有という法状態が成立した社会では、財は私的贈与あるいは交換として所有者から非所有者に移動する。。 11.本質は現象する。 価値の本質は反照形態(現象形態)として財の交換において展開される。 それは直接的な反照(物々交換)、その相対化(多くの交換)、その一般化(市場の広がり)を通して 普遍的になる。 それは価値基準としての貨幣の誕生を告げる。貨幣は元々多くの交換における一商品に過ぎなかったろう。 12.貨幣と交換される財は商品と呼ばれる。 商品価値とは交換価値であり、交換を通して実現される、「他者にとっての有用性」である。 貨幣は自分以外の商品すべての価値を実現するための媒体であり、その測定器である。 交換力は私的所有を前提にした社会において有用性を配分するためには必要不可欠な手段となる。 13.価格とは価値の貨幣表現である。 それは価値および貨幣を前提にしている。市場において商品の価値は売買によって、社会的な普遍妥当性を 実証する。しかし、需要と供給は不断に不均衡となる。 14.貨幣はその交換力のためにそれ自体が価値の根源であるかのような幻想(貨幣物神)を獲得する。 すべての有用物(財)が商品として存在する社会ではそれは絶対的なものである。
176 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 21:42:47 0
33 名前: 24 投稿日: 2000/11/03(金) 10:40 (32の続き) 15.商品、貨幣と進化した価値形態は、資本に至ってその完成をみる。 資本とは「価値を生む価値」である。 16.社会的な生産が私的に行われている社会では、生産物は商品とならざるを得ない。 さらに、生産手段から切り離された生産者は労働力商品として生産手段の所有者(資本家)に買わ れる以外に、自らが生産した生産物を取得できない。 17.さて貨幣は国家と結びつき、信用を公認される(鋳造貨幣)。 それは貨幣の政治性であると共に、経済が決して政治から無縁になり得ない絆である。 国家が複数ある世界では世界貨幣としての金が世界市場での価値基準であったが、信用の発達と 共に、金属貨幣は信用貨幣にとって代わられている。金本位制の崩壊、ドル本位制の崩壊の中での 国際為替は「貨幣も一商品」というその本来の姿に戻って行くようだが、富の圧倒的な量に対して実在 貨幣量では価値を実現できず、信用貨幣がますます大手を振るって世界をかけめぐる。それは実体的 な生産から流通、金融が遊離して投機性を増すことである。 18.結局価値はその実体(価値を生み出すもの)である有用物(財)の生産に帰って行く。 価値の実体、それは社会的な必要労働である。有用な財が持つ価値とはその再生産に必要な 社会的労働を物象的に表現したものである。 経済(Economy)とは節約つまり労働の節約のことである。 (以上)
177 :
考える名無しさん :2007/12/09(日) 22:43:06 0
>>173 お花畑て、虚構を真実と思い込んで心酔すること。
はたで見ていてしらけるばかり。
178 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 11:23:09 0
>>177 鉄板でもガキみたいなカキコ合戦があるんだ。
もっとも、虚構と真実についての暇潰しこそ鉄ガ苦だろうからな。
まぁ、お二人で愉しんでね。
179 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 12:12:15 0
139 :考える名無しさん:2007/12/01(土) 13:40:40 0
242 名前: OFW 投稿日: 01/10/27 22:38
>>233 (rageさん)
>革命論
労働者階級が主体として自己を形成しない限り、何事も成就しない。そのためには労働者に対する
徹底した啓蒙が欠かせないでしょう。
>>236 (226さん)
>生産手段の共有性から来る同胞的意識
国有と共有を混同することは大きな誤まりです。それとも即自的(潜在的)な共有”性”を指しているのかな?
180 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 18:12:35 0
38 名前: 24=OFW 投稿日: 2000/11/09(木) 21:37
>>35 (ほげーんさん)
>バタイユの普遍経済学的な貨幣や富の解釈は近年では崩れてきている
バタイユの解釈は知りませんが、解釈ではなく根拠付けと必然性の解明が必要でしょう。
>現在の外国間商取引の70%は資産の移動です。つまり貨幣=商品として扱い、売買高を殖やし
>ヘッジを採って利益を得ているわけです。
上に述べた通りです。
商業や金融は価値の移転を行うだけで、価値を生み出さないのは、それがどんなに複雑化しても変わりません。
>つまり、労働から富を形成すると言う単純な図式が崩れてきている
労働から富(多様な財)が形成されるのではなく、労働から価値が形成されるのです。富は生産されるものであり、
生産手段と生産力の結合です。
>33さんの仰る通り、貨幣に対する価値を貨幣で賄うという信用取引が蓄積された富の蕩尽すらも邪魔を
>しているからです。
私はそのような事を言っていません。信用という制度が発生してきた理由は生産力の増大に応じて生産物商品
の流通量が増大し、それらの価値を実現するだけの本源的貨幣(金属貨幣)の量が不足してきたためでしょう。
>そしてその価値が下がったことは未だかつて無いのですから。
貨幣には本来価値(使用価値)はないが、交換価値は絶大だという点が貨幣の謎であり、
「(経済的)価値とは何か」を考えるきっかけでしょう。
どちらの価値のことをおっしゃっているのでしょう。また、「物価が上昇する=貨幣の交換価値が減少する」は
昔から常態的に存在した現象です。
>ここから先、価値はその実態である生産物に返って来ることは無い
意味不明です。私の発言を受けておられるのなら、「価値という仮象がその実体である労働に帰って行く」
という事です。現実的な労働が生産物に対象化され、そこに社会的(共同的な)労働が体現されていながら、
それが隠れた存在であることを、価値の実体と言います。
「現実的人間の対象的活動が対象(モノ)自身の属性であるかのように、疎外され、物象化されてしまう」とは、
主体的・合目的的な活動が実体的・自然的な姿で現れるということであり、それが貨幣物神を生み出すのです。
181 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 18:19:08 0
おいおい、そんならなにか、サービス業や銀行で働いてる "賃労働者ども"は価値を作れない"珍労働者ども"ってか? つか、150年も昔にゃサービス業なんて現在の主力産業は 存在しなかったからな。 さしものマルクスも一本取られたってとこかな。
182 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 18:52:09 0
53 :OFW:03/06/28 01:23
>>49 (横レス失礼)
>マルクス主義に相応しい唯物論はエピクロス、デモクリトス系の唯物論
確かにマルクスは学位論文で両者の違いに着目して、偶然と自由の関係について考察しているようですが、
自然の中に偏在する<空孔>が人間の自由にまで結びつくには、伝統的共同体の境界にすむエピクロス
の神(商人)の媒介が必要であり、それは「目的論的な唯物論」とは異なる社会の自然史として解明される
べきでしょう。
アルチュセールの構造主義(構造論的因果性)自体が矛盾を抱えており、ポスト構造主義へのフレを示して
いるのは、それが労働(働き)の視点のない機械論的唯物論であるが故かと。
55 :OFW:03/06/28 10:17
>>54 >肉体の機械的物理的な法則
肉体(有機体)は機械的というより、生理学的な法則性に従った活動体です。生物学者はそれを<合目的性>
と呼びます。つまり運動の法則性には、物理的(機械的)→化学的→有機的という発展があるわけで、
その辺から目的論そして唯心論を議論すべきでしょう。
その場合、
「生命体の合目的的な活動は何を目的にしているのか?」
ではなく、
「生命体の合目的的な活動は如何なる条件の下で実現されるのか?」
という設問が重要であり、それは生命の歴史に関わる問題です。
近代唯物論の源流の一つは解剖学であり、それは進化論にまで発展した。
「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である。」(マルクス)
「自然選択による最適者生存の結果が種の起源である。」(ダーウィン、パラフレーズ)
183 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 18:53:07 0
60 :OFW:03/06/29 10:19
>
>>58 いったん作られた論理はモノとは切り離され
何にせよ何かを作るためには材料(素材)が必要ですね。モノから分離された論理の材料は何かな?
>
>>59 「唯」の文字がすでにうさんくさい
名称の問題なら英語では唯心論=spiritualism、唯物論=materialismだから抵抗が少ないのでは?
前者は魂(スピリット)、後者は物質(マテリアル、素材)を根源的な存在として立てる立場ですが、
<根源的な存在>を問題にしなければ、別に対立もしないでしょうね。
79 :OFW:03/06/30 23:00
>
>>61 関係性・形式性を第一次的と考えているのです。
最近の流行用語だが<関係の一次性>つまり「最初に関係ありき」とはそれ自体、形容矛盾でしょう。
「本質は媒介的に定立された概念としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、
まだ端的に自己のうちに反省したものとして存在していない。」(ヘーゲル『小論理学』第二部本質論)
関係性とは媒介的本質の謂いであり、一次性とは直接的実在の謂いです。
>
>>66 イメージの総体が私であって、それとは別に私の実体があるわけではないの。
日常語でも、イメージとは<像>であり、何らかのオリジナル(原物)を必要とする。
実体を写す像は実像、実体と違う像は虚像と言いますね。
例:「知性ある大学生」という虚像の実体(正体)は<レイプ魔>だった。
>
>>69 実体と主体はどう違いますか?
認識論的に言えば、<知られたもの>と<知るもの>の違いですね。
184 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 19:14:54 0
81 :OFW:03/07/01 04:51
>>80 (_さん)
>ヘーゲル的有機体もカント的超越論的個人
「ヘーゲル的有機体」?「超越論的個人」→「超越論的自我」では?
>こうした普遍的実体という前提そのものを否定するのが構造主義
>不変の特性を保つ直接的実在こそが構造としての関係性
とは、まさに普遍的実体(現代的にはシステム)の謂いでしょう?
<構造>という概念は、何らかのシステム(機能ー構造複合体)について言われる概念であり、
もともとは建築学や解剖学からきたもの。
例1:当社の免震システムは鉛層とゴム層とから成るLRB構造を取ることにより、ビル構造を不変に
保つ高い免震機能を実現している。
例2:有機体は細胞を最小要素(単位)とする一つのシステム(個体)であり、多細胞生物において
器官構造を形成し、細胞間の諸関係(相互作用)により、固有の生体機能を実現している。
レヴィ・ストロースの親族構造においては、諸個人が要素であり、その機能は一定の親族システムの
再生産でしょう。マテリアルである個人が実在しない親族関係は<木のない森>のようなもの、
とは唯物論の主張。
82 :_:03/07/01 09:13
今度は分析哲学系の例を挙げよう。
カントに始まりロールズの正義論に継承されている超越論的主体をサンデルらのコミュニタリアンが
「負荷なき自我」と呼んで批判した。
逆に彼らは、ヘーゲルの絶対精神であれマルクスの唯物論であれなんらかの実体の内在的矛盾
による自己発展という弁証法を現前の形而上学と呼んで斥ける。
じっさい唯物論者であるはずのマルクスさえ、「人間とは社会的諸関係のアンサンブルである」といって、
物質主体のホーリズムも人間主体のアトミズムもともに否定し関係の第一次性を承認していたのは
常識でしょう。
185 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 19:15:48 0
84 :OFW:03/07/01 22:10
>>82 (_さん)
>唯物論者であるはずのマルクス
マルクスはれっきとした唯物論者です。別スレ参照。
>「人間とは社会的諸関係のアンサンブルである」
当該発言は、<人間なるもの>(現代的に言えば人間性)を個人の本質として立てたフォイエルバッハを
批判したものですが、別に
>関係の第一次性を承認
したものではない。
まず現実的な諸個人が存在し、彼(女)等の取り結ぶ社会的な諸関係こそが諸個人の何たるか
(<人間なるもの>)を規定する、という人間の社会性(抽象的に言えば関係の必然性)を指摘して
いるのです。
186 :
考える名無しさん :2007/12/10(月) 19:16:54 0
85 :OFW:03/07/01 22:11
>>83 >関係は「なぜ」存在することになるのですか?
本来、関係のないものどうしが関係する理由(根拠)は、関係を離れては、それらの存立が無くなるからです。
また、関係の関係性にも段階があります。
まず、機械的関係とは、
諸要素(部分)が相互に外的であり、関係を離れても諸部分は独立に存立できるという、外的な関係性です。
次に、化学的関係とは、
たとえば酸+塩基→塩のように、諸要素が互いに関係すると、それ自体が自己反発を起こすような、
半ー内的な関係性。
そして、有機的関係とは、
全体が部分の存立性(根拠)をなすような、内的な関係性です。その自己関係性を或るものとして立てた場合、
<心>と呼ばれますね。
そして最後に、諸個人が社会的関係を取結ぶのは、個人は単独では生きていけないという単純な理由からであり、
その社会的実体性が自由な諸主体の根拠(存立性)をなすわけです。
>>186 いろいろこむつかしいコピペを貼りつけてるが、
むかし、共産党員に
「弁証法とはなんですか」と聞いたことがある。
彼は答えた。
「変革の立場に立つ、ということです。」
つまり、革命のために役立つ、あらゆることが弁証法の名の下で
正当化されるということだった。マキャベリズムだ。
悪魔的テロリストの便利な斧だよ。
188 :
考える名無しさん :2007/12/11(火) 11:57:55 0
"悪魔的な"資本制生産社会に対しては"便利な斧"かな。 まぁ、強酸盗のヴォケの言う事を信じる真性ヴォケっているんだ。
189 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 18:15:17 0
88 :OFW:03/07/05 04:08
>>86 (横レスかな?)
>言語がシニフィアン(意味)とシノフィエ(音韻)の両項を離れて存在しえず
ソシュールならシニフィアン=音韻、シニフィエ=心像ないし概念では?
言語が自立存在をもたないのは、それが対象の記号(代理物)だから。
>商品が相対的価値形態(財)と等価形態(貨幣)の両項以前にあり得ず
商品は財と貨幣の関係ではなく、交換関係の中で財(有用物)が商品となり、一般的等価物である貨幣に
相対するわけです。
つまり、商品とは相対的価値形態自体です。
また、貨幣とは諸商品の中から析出してきた一般的等価物(一般的等価形態の自立化=モノ化)ですから、
貨幣以前に商品があり、商品以前に財があったわけです。
>顔が目・耳・鼻・口という要素間の関係としてしかありえず
<顔>は外面性から言えば、一つのゲシュタルト(形態)でしょう。
一般に形態(form)とは内的諸関係(内容)の現われであり、未だ関係(相関)として定立されてはいない
ような関係です。また、内実性から言えば、顔は諸器官の有機的な統一(頭部)として客観的な存在です。
(
>>87 で言われるように)のっぺらぼうでも、一種の顔でしょう。
190 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 18:16:10 0
89 :OFW:03/07/05 04:09
>>86 (つづき)
>家族が夫と妻という役割連関以前にありえず、
自然的な家族と制度(役割)としての家族は区別すべきでしょう。ちょうどジェンダー(制度としての性)が
生物学的な性と異なるように。
>人間が身体と意識のかかわりとしてしかありえないからです。
人間は単なる関係(他への反照)ではなく、自己関係です。
>あらかじめ普遍的で自存的な存在などありえないからです。
それは正しいが、まさに、あらかじめ“関係という一次的な存在”などありえないのです。
夫と妻の前に夫婦関係は存在しないのであり、それは歴史的唯物論(あるいは質料主義)の主張です。
たとえば、「諸個人はいつでも自分自身からーとはいっても、もちろん、彼らに与えられた歴史的諸条件・
諸関係の枠内での自己からであって、イデオローグたちの意味での「純粋な」個人からではないがー出発した。」
(『ドイツ・イデオロギー』[56](廣松渉編訳、岩波文庫p.175)
「黒人は黒人である。一定の諸関係のもとで、はじめて彼は奴隷となる。」(『賃労働と資本』三)
191 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 18:18:17 0
90 :OFW:03/07/05 04:11
>>87 (83さん)(これまた横レス?)
>「関係の第一次性」という議論をよく聞くので(廣松氏とか)
多分、廣松氏自身もその言葉をよく理解していなかったのではないかな。
<関係の一次性>とは関係の直接性(始めに関係ありき)の主張ですが、関係(相関)とは定立された
媒介性ですから、それは直接性の否定です。
それはあるものと他のものとの中間(媒介)ですから、始めでもなく、二次的な他者性を指しているのです。
>これは間違いでしょうか。
正しいでしょう。関係とは他者との相互媒介(規定、作用)ですから、既にそれぞれ(質料的部分)が
実在しなくてはならないわけです。
>レーニン的な「物質」
とは面白い表現ですね。
観念論に対する唯物論の定義は、精神に対する自然の先在性あるいは本源性を説く立場、と表現できる
でしょう。
精神は森羅万象に及ぶ関係性(コミュニケーション)ですが、何らかの肉体に宿るものです。
物質(自然の質料)は単なる内的な実体ではなく、活動つまり<自ら働くもの>です。
それが「レーニン的な物質」かと。
192 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 18:19:32 0
91 :OFW:03/07/05 09:58
>>87 (83さん)(つづき)
>この議論は余り「唯物論」的でないような
概念とは何でしょう。
それはまず、一つの観念的なものであり、表象を質料にした実在の論理的な再構成と言えます。
たとえば、上に出てくる<家族>という概念を例にとって説明しましょう。
家族(family)の実在は多くの男女と親子にありますね。
男・女あるいは親・子とは諸個人の属性であり、人間個体の生物学的な被規定性に基づく人間の区別−<区別>
とは最も抽象的な反照規定(関係規定)−です。
一対の男女の性的・人格的結合が一つの家族を形成し、そこから子供が誕生して、一つの親子関係が生まれる。
思考主体がその事態を“後から”反省することから、総体としての<家族>という概念が成立する。
観念論者(概念論者、関係論者)は、まず家族関係があり、それが男女および親子という要素を成立させる
と言うが、実在的な事態は逆であり、それは、観念を実在に先行させる観念論とその逆の唯物論との対立です。
193 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 18:20:42 0
92 :OFW:03/07/06 08:32
>>87 (83さん)(つづき2)
さて、家族の例がでたついでに、ウィトゲンシュタインの<家族的類似>概念を例にとり、観念論と唯物論の
違いをさらに説明しましょう。
彼は、
「家族の構成員の間に見られるさまざまな類似性、たとえば体つき、顔つき、目の色、歩きかた、気質、等々も
おなじように重なり合い、交差し合っている」(『哲学探究』第66節)
として、家族成員間には部分的な共通性はあっても、全成員共通の特性はなく、それ故、家族(及び言語ゲーム)
には本質と呼べるような実体性はないと主張します。
まさに言語論的な本質廃棄の主張ですが、分析的思考特有の表面性が現われていると言えるでしょう。
実際、家族的類似という概念は、言語のゲーム性(無規則性)と家族の無根拠性を結びつけるために導入され
ているが、無論家族成員間の類似には明確な客観的根拠があります。
194 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 18:23:43 0
93 :OFW:03/07/06 08:33
>>87 (83さん)(つづき3)
家族とは、上にも述べたように、一対の男女から始まる。両者の遺伝子型はさしあたり相互に独立だが、
両者から生まれた子供は一定の確率的な分布で、両親の遺伝子型を受け継ぐ。
遺伝子型と形質型との間には、その発現の過程での環境との相互作用による一定の変容があるが、
因果関係がある。そこから、複数の子供(兄弟姉妹)間の類似性が出てくるわけです。
また、同一の生活様式は<似たもの夫婦>を生み出すでしょう。
言語とて同様であり、ある民族の言語は一定の生産様式(マルクス&エンゲルス)の下で営まれる協働の
必要性から、使用法の同一性を維持しなくてはならない。
ウィトゲンシュタインは、労働の場での言語を「原始的言語」と呼ぶが、自然は言語ゲーム(観念遊戯)を
許すほど、偶然的なものではないわけです。
確かに家族内の親和的言語と労働における指示的言語は性格を異にするが、労働がゲームより“原始的”
であるわけでもないでしょう。
195 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 18:28:53 0
96 :OFW:03/07/06 10:47
>>87 (83さん)(つづき4)
『哲学探究』には面白い話がいろいろ出てくるようで、さらに・・・。
「私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙片を渡す。・・・商人は「リンゴ」と
記された箱を開け、次いで目録の中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本を見つける。
それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定する―を「五」という語まで口に出し、それぞれの数
を口に出すたびにサンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。 ―このように、あるいはこれと似た
仕方で、人は言語を繰るのである。」(第1節)
確かに、商人にとっては<赤いリンゴ>は商品見本でしかないから、原物と記号双方の意味には関心がないが、
それが<五>であることには大いに関心がある。
量とは、それ自体無概念的な概念(ヘーゲル)だが、実在の量は常に<単位>(質と量の直接的統一)をもち、
単価ーそれが何を意味するのかは経済学者にも分からないーは商人の生死を左右する。
上記は<価格>という商品語(マルクス)が支配する世界の言語ゲーム(マネーゲーム)の厳格な規則(価値法則)
を暗示していますね。
196 :
考える名無しさん :2007/12/14(金) 12:01:14 0
97 :OFW:03/07/10 02:54
ウィトゲンシュタインは「語の意味とはその使用である」と言って、まず<言葉に内在する意味>といった
唯心論的な実体性を否定した。その極端な形は、
>>96 で引用した例で言えば、図像「リ・ン・ゴ」と、
「赤・い」をインデックス記号とする<色見本(標本)>とを使用して、赤いリンゴを取り出した“勘定高い”
商人のように、機械的で無意味な記号計算(プログラム=原始言語)である。
次に彼は、言語行為のゲーム性(無根拠性)という観点から、<予め定まった規則>の存在を否定した。
すると、用法そして意味とは、規範ではなく事実であり、文法・論理よりは修辞として、記述され、解釈され、
理解されるべきものとなる。
それは多くのゲーム(例:命名、指示、疑問)として働きかけられ、応答される精神的交流の試みである。
しかし、精神的交流の基礎には物質的交通があり、伝達される物質(質料)の形相化が伝達内容としての
意味を規定する。内容が伝わるためには形は変化する必要があり、形が伝わるためには内容は変化する
必要がある。
例:ウィトゲンシュタインは「○○」と言って、□□を行った。
197 :
考える名無しさん :2007/12/14(金) 13:20:50 0
105 :OFW:03/07/11 06:17
>
>>98 唯識が正しい
仏教ですか。
宗教とは一般に<超越性の意識>であり、その点から仏教は無神論的であっても、天上的(彼岸的)で
あることに変わりはない。
「天上の批判は地上の批判にとって変わられなければならない。」(マルクス)が唯物論です。
確かに、意識と言語との結びつきは、深層心理(無意識)的な層にまで及ぶでしょうが、心なる(認識を含む)
主体的な活動は有機体の物質的・身体的活動と、個体間の相互作用(社会性)とに支えられたものである
ことを“識”ることが、絶対的超越(逝ってよし)を免れる方途かと。
>
>>99 OFWってどいう意味?
それは一つの<名>(ハンドル)であり、Old-Fashioned-Wellという英単語(連語)の頭文字を集めたものです。
<名>とは対象の識別のために導入された記号であり、それ自体に意味はない。
また<匿名>(名無し)掲示板の中で、<固有名>を使用することは、発現主体ではなく思想の固有性・
一貫性を示すために必要かと。
106 :OFW:03/07/11 06:21
>>105 誤:発現 正:発言
198 :
考える名無しさん :2007/12/14(金) 13:23:30 0
115 :OFW:03/07/12 05:51
>>107 思想関係の職業=イデオローグ(知識売人)への所属なし。
>>108 (ふにゃぽんさん)
お久しぶり。そちらのスレで・・・。
114 :_:03/07/12 00:48
止揚・アウフヘーベンなんて古臭い弁証法形而上学の用語を使うなよ。いまや哲学学界は、
カントから分析哲学を経て論理実証主義が主流だ。
カントは「弁証法」を詭弁論理と喝破し、「止揚」なんてのは、論理の破綻を取り繕うたんなる折衷主義だ
と批判している。
「真理」なんて、言語的概念の厳格化のことでしかない。どこかに超越的な普遍的「真理」があると考えるのは、
宗教的妄想だ。まさにオウム真理教だ。
199 :
考える名無しさん :2007/12/14(金) 13:25:38 0
134 :OFW:03/07/13 18:35
>>114 >古臭い弁証法形而上学の用語
弁証法は形而上学ではない。
たとえば、ヘーゲルも『(小)論理学』において、狭義の弁証法的契機と思弁的契機とを区別しており、
後者を重視している。
>主流だ。
どの辺りでのことかな?哲学思想はファッション(流行)ではない。
>「止揚」なんてのは、論理の破綻を取り繕うたんなる折衷主義だと批判
カントは折衷主義などと言っていないし、それ自体折衷主義でもないが?
>「真理」なんて、言語的概念の厳格化のことでしかない。
その前に、自己の使う用語(言語的概念?)を正確に理解するように。
>>132 >脳が解釈する
ことはない。脳を擬人化することは観念論に通じるでしょう。
200 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 12:08:18 0
経済学と政治思想はつまらないからコピペしなくていい。
201 :
考える葦 :2007/12/19(水) 12:36:36 0
私は、ある仏教系の宗教修行の観点からを入り口に哲学の弁証法の考え方(少し違うのかも知れないが) について繋がりを感じ非常に興味をひきました。それはどの部分かというと、 「単なる肯定」と「否定してからの否定」は結論が同じ様でもあっても 実は同じでないという考え方に、魅かれたからです。 例えばどの様な考え方をするかというと、日本人が日本人の視点で考える際、 一度、欧米の視点を取り入れてから考えるとか。 自分の意見の正反対の意見を聞いてから、自分の意見の再発見をするとか。 主に反省の視点を得るのに、この弁証法的な論理学が仏教では、実践面として、 教え考えさせられている気がします。 その結果なにがえられるかというと元のものよりより素晴らしい発展があると 考えています。 例えば、西洋医学と東洋医学を両方取り入れると全く新しい価値が生まれるとか。 例えば、間違いをおかさないものより、間違いを知った人の方が、より智慧が生まれるとか。 現代的に言えばイノベーション(革新)ということかも。
202 :
考える名無しさん :2007/12/19(水) 15:26:32 0
嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。
203 :
考える名無しさん :2007/12/20(木) 19:22:38 0
姐さん待ち待ちルサンチマン。
204 :
考える名無しさん :2007/12/21(金) 18:25:35 0
>>200 ダメでしょ、好き嫌いを言ったら。
な〜んでも取り入れなきゃね。どうせクーソになって排出するだけなんだから。
嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。 って誰の言葉?
206 :
考える名無しさん :2007/12/31(月) 00:12:44 O
どっかの青二才さ。
>>206 おまえだったのか。もう懲りたのか?
少しは成長したみたいだしなw
208 :
考える名無しさん :2008/01/09(水) 06:14:34 0
弁証法は、数字が「1、2、3、沢山」しかない部族の論理のようなものです。 大きくは間違わないので簡単な意思決定には便利だが、精密性はないので発展性もない。 ・(テーゼと対立し)革新的だがそれだけを追求すると大きく破綻する「アンチテーゼ」 ・保守的でそれだけを追求すると社会ではぎりぎり許容されるがはた迷惑な「テーゼ」 ・「テーゼ」から「アンチテーゼ」に大幅に譲歩・妥協した「ジンテーゼ」 あらゆるものを3つに整理して、テーゼとアンチテーゼの間の葛藤をさけ(←これが重要) ジンテーゼを追求して努力すれば、いずれテーゼを中心にアンチテーゼも 実現された状態にアウフウーベンされる、というのが弁証法の肝です。
209 :
絶倫戦線 :2008/01/10(木) 11:55:24 0
さーてと、松もとれたし、いっちょ行くか。 6がOFW(Old Fucked Woman)な。 5 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/24(木) 22:27 F・フクヤマとかの言い分じゃないけど、いま実は一番存在理由を 問うべき人だと思いませんか? ほんとに歴史は終わったのか? とか、 じゃ、ほんとにもう弁証法は無しなのか、とか。 6 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/24(木) 23:14 >5 フクヤマは共産主義が最終的に敗北したとして、資本主義の永遠性を 宣言した。 ・・・これが歴史の終わり@ カール・ポパーは共産主義者の説く「歴史主義的な運命論」を否定して、 科学による開かれた未来を宣言した。 ・・・これが歴史(主義)の終わりA どちらも共産主義に反対するからこそ、歴史(主義)の終わりを説く。 現体制(資本主義体制)を守れという、単なる保守主義であり、改良 主義である。 では、歴史(主義)と弁証法の関係如何。 そのためには、ヘーゲルがドイツ帝国をもって歴史の終わりとしたその 理由と、現実に彼の観念に逆らって歴史が続いたのは何故かという理由 とを共に明らかにする事が鍵になる。 これには次の言葉が導きの糸となる。 「人間は歴史を作る。しかし、その事を知らない。」(誰かさん)
210 :
絶倫戦線 :2008/01/10(木) 11:57:02 0
8 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/25(金) 16:59 なんで弁証法って忌み嫌われることがあるの? 9 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/25(金) 17:56 >8 全体主義につながるからでしょう。 10 名前: 6 投稿日: 2000/08/25(金) 20:27 >9 違います。逆に全体主義は非弁証法的なもので、たとえばアドルノの 「否定の弁証法」はまさにファシズムおよびスターリン主義が荒れ狂った 時代を身をもって生きた経験の上に書かれたものです。 弁証法が忌み嫌われるのは、端的に言えばそれが「革命的な」精神を 育てるからであり、現状維持を望む知識人および為政者等は何としても 非弁証法的な思考を押し付けようとやっきになるでしょう。
211 :
絶倫戦線 :2008/01/10(木) 12:11:12 0
10 名前: 6 投稿日: 2000/08/25(金) 20:27 >9 違います。逆に全体主義は非弁証法的なもので、たとえばアドルノの 「否定の弁証法」はまさにファシズムおよびスターリン主義が荒れ狂った 時代を身をもって生きた経験の上に書かれたものです。 弁証法が忌み嫌われるのは、端的に言えばそれが「革命的な」精神を 育てるからであり、現状維持を望む知識人および為政者等は何としても 非弁証法的な思考を押し付けようとやっきになるでしょう。
212 :
絶倫戦線 :2008/01/10(木) 12:13:08 0
12 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 00:41 >7 >「歴史の終わり」とは弁証法的意味で使われているのであって・・・ 意味がよく分かりませんが、私の言いたい事は「歴史の終わり」という 主張は非弁証法的だという事です。 >11 そうではなく、8さんの「何故弁証法が忌み嫌われるのか?」と言う 質問に対して、9さんが「全体主義につながるから」と政治的な理由を 挙げられたので、政治的な点に絞って嫌われている理由を言ったのです。 勿論「難解だから嫌われている。」「形式論理に反するから嫌われている。」 と言う答えも有り得ます。 当然、二分法で「あれかこれか」はヘーゲル弁証法とは無縁ですね。
213 :
絶倫戦線 :2008/01/10(木) 12:14:25 0
18 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 02:59 (目が覚めてしまった) 15、16は全体化、同一性に対するアンチとして弁証法があるという 点でそれ程異なった意見ではないと思う。 私がアドルノを持ち出したのも、ヘーゲルのジンテーゼ(総合)という 契機は狭い意味では非弁証法的で、彼自身も「思弁的」契機と呼んで いるという点を、全体主義=弁証法という「余りにも」な見解に対して 言いたかったからです。
214 :
絶倫戦線 :2008/01/10(木) 12:15:09 0
21 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 15:15 と言う事で、ヘーゲルは弁証法を近世において復活させたが、その(遅れたドイツ に媚びを売った)政治イデオロギーによって自らを裏切った。 ・・・これが歴史の終わりB 逆に言えば、(マルクスが言っているが、)政治的に遅れたドイツだったからこそ、 却って哲学的には弁証法という革新的な思考が生まれ得た。 ・・・これが歴史の弁証法的な進行例@ さらに言えば、遅れた帝政ロシアにおいて社会主義革命が成功した理由は何か? そして、成功したのもつかの間、結局スターリン主義という国家資本主義体制の 下での似非弁証法(例:不均等発展の法則)が公認のものとなった理由は何か? ・・・要するに、現実の世界史の中ではどのような停滞、反動も結局 許されず、虚偽の体制はやがて没落の時を迎え、新しい主役に 道を譲らざるを得ないと言う事、これが弁証法的な意味での 必然性の洞察でしょう。つまり、歴史の真理と人類の解放に向かう 媒介的・批判的・現実的な運動、これが弁証法と呼ばれる実践的・ 主体的・類的な働きと言えるのではないでしょうか。無論、「歴史の 真理」などという抽象観念は具体的分析と主体的実践の契機を忘れる と、つまらない「最後の審判」論あるいは非弁証法的な観念論に堕し てしまうが。 アドルノの場合、弁証法を余りにも観念的なものに止め、批判を全体主義 イデオロギーにだけ限定し過ぎた。唯物論的な根拠(人間の自然史)について 無理解であり、プロレタリア的ではなく、小ブル的な抽象論議に堕している。 そのため、その論述は論理的と言うより、個人の主体性を守れという倫理的な 色彩が強い。
ここもすでに透明人間の仲間入りか・・・。ま、「みんな注目している!」と 自己暗示をかけてコピペに励んでくれ。
216 :
絶倫戦線 :2008/01/11(金) 07:17:20 0
>>215 冷やかし、茶々、大歓迎だぜ。
否定的にしろ関心をもってくれた証左ってとこかな。
じゃぁ、再開な。
25 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 20:11
さてしかし、このスレのテーマであるヘーゲルの評価について言えば、アドルノ
あるいはデリダが称揚する不協和あるいは差異性(差延性)といったそれ自体
あまり役に立たない直接的な表象をもって反発するだけでは、余りにも安易と言える。
それらは、現実の歴史を規定してきたものがヘーゲルのもたらしたパラダイムだと
言わんばかりである。20世紀の思想的閉塞状況あるいはファシズムの原因が
ヘーゲルの絶対的観念論(あるいはそれに代表される何物か)にあると錯覚する程、
ばかげた事はない。そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、彼ら
の属する中産階級固有の肯定かつ否定の両義性をごまかしているだけである。
「全体主義には反対、しかし共産主義にも反対。」これが、決して団結しない
不協和あるいは決して階級として統一されない差異性を後生大事にしたい否定的
かつ肯定的な弁証法(むしろ反弁証法)の正体である。
ヘーゲルならば、そのような退廃的・逃避的な小精神を大いに哄笑するであろう。
217 :
絶倫戦線 :2008/01/11(金) 07:19:09 0
27 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 20:34 >26 どうもスミマセン。ちょっとヘーゲルぶりをしてみたかったので・・・。 私がヘーゲルを評価するのは、弁証法論理において反省(反照)規定をそれと して明確に取り出したという事ですね。私の論理的思考はそれによって大いに 鍛えられました。 特に現代の科学や哲学において相対主義や主観主義が蔓延しているのは、 本質論をしっかりやるという姿勢がなくなったためで、本質論に関しては ヘーゲルを参照せずには論理的な裏付けは得られないと思っています。
218 :
絶倫戦線 :2008/01/11(金) 07:20:53 0
33 名前: 6 投稿日: 2000/08/29(火) 20:50 >32 >弁証法って結局どういうモノなの? 一言で言えば、「事物を生成発展の相で捉える見方」かな。 勿論これでは、具体的な内容はまったく分からないので、もっと 説明が必要ですが。 >いろんな本にチャレンジしたけど、どうもよくわからん。 確かにロクな解説本はないようです。ヘーゲル『小論理学』を読むしか ない。でも、これは古今東西の書物の中でも難解と言う点ではトップ クラスの本です。(いやー苦労した。)
219 :
絶倫戦線 :2008/01/11(金) 07:22:03 0
37 名前: 6 投稿日: 2000/08/30(水) 21:23 ヘーゲル論理学の難解さの一つの原因はその独特な用語のせいでもある が、通常の形式論理学とは違い、論理形式とその対象との間に内在的な 関連を認めているからです。 通常の論理学で「xxは真である。」と言う場合、xxの位置に来る のはなんらかの命題(判断を言い表したもの)であり、既に主語−述語 の関係が成り立っている(対象は主語として言語化(表象)されている )。後は判断の形式だけを論じるだけで、元々の主語が正しいか(実在 にかなっているかどうか)などは全く議論されない。 しかし、ヘーゲル論理学では概念とその対象との関係を巡って、その 真偽が云々される。つまり、「xxは真である。」と言う場合、xxの 位置に来るのは第一義的には「概念」なのです。たとえば、「質の真理 は量である。」などとは形式論理学では絶対に出てこない言い方であり、 「ヘーゲルは馬鹿か?」と言われても良い筈なのだが、さすがにそこま で言う人が出てこないのも不思議な事です。 つまり、ヘーゲル論理学とは既に認識論(認識はどこまで実在を捉えら れるかを問う、カント的に言えば「超越論的」論理学)でもある訳です。
220 :
絶倫戦線 :2008/01/11(金) 07:24:22 0
46 名前: 6 投稿日: 2000/08/31(木) 21:14 弁証法とは一方で世界がどう在るのかという存在論でもある。 弁証法的世界観というのは非常に古く、よく例に出されるヘラクレイ トスの「パンタレイ」(万物は流転する。)は弁証法の精神(スピリ ット)を表現したようなものです。 つまり、そこでは一切の存在は生成・変化の内にあるという根本的な 直観がすべての認識を貫いている。 それは釈迦(仏陀)が(人間を含め)森羅万象至るところに「燃える 火」を直観した事にも通じる。 また、マスクスも言う、「人間の思考は常に生成の言葉を存在の言葉 に翻訳する。」と。 弁証法の論理は動的、過程的、立体的なものであり、生成・変化を 捉え、実在の内奥に迫ろうとする。それは形式論理の静的、結果的、 平面的な、実在に触れない抽象的思考を超えているのです。 否定、矛盾、媒介、止揚といった弁証法の特徴とされる論理形式も 根本的にはそこから出てくるのです。 W.ベンヤミンの言葉、「弁証法とは歴史という風を受けて進む帆の ようなものです。」 その事はヘーゲルが一番理解していたと言ってよいでしょう。
221 :
絶倫戦線 :2008/01/11(金) 07:25:34 0
52 名前: 6 投稿日: 2000/09/01(金) 10:19 (今日は夏休みだ!) >46 誤:マスクス 正:マルクス 弁証法論理を理解する上で、私が最も基本的だと思うことは、ヘーゲ ルも繰り返し言っていますが、 「具体的なものはそれ自身の規定性とその否定との統一である。」 という事です。これはどういう事かと言えば、実在する存在者がそれ として存在しているのは、その規定性とその否定とを合わせ持つが故 に具体的な存在者である、という事です。 それは39さんのように >AイコールAかつ非A という矛盾律が弁証法の基本原理です。 と言うと少しミス・リーディング(誤解を招き易いもの)になるでし ょう。Aと言う記号は抽象的な規定性自体を指すから私が言う具体的 存在者ではないし。また、イコールという数式記号の喩えだと数的 相等性を思い浮かべるから、統一(より正確には不可分離性)という 内容が消えてしまう。さらに矛盾律というのは元々アリストテレス 論理学(形式論理学)用語であり、 「あるものは同時に同一の観点からその否定であることはできない。」 という格律を指すから、上記で言われた事の正反対です。 前にも書いたように、弁証法では単に思考形式だけを議論の対象にせ ず、思考対象がそれに合っているか(真の対象か否か)を吟味します。 「対象Aが規定性Aをもって存在(実在)しているのは真実か?」 という問いを発し、それに対して 「対象Aは変化し、Bに成る。故に、対象Aは既にその否定(第一の 否定)を内在している。」つまり、すべての存在者はその没落・消滅 の根拠を自らの内に含んでいる、という認識に至る。 この過程的な思考の運動(真の対象への媒介運動)を弁証法と呼ぶの です。
222 :
絶倫戦線 :2008/01/11(金) 07:26:58 0
55 名前: 6 投稿日: 2000/09/01(金) 20:40 解りにくいのは私の説明が悪いためでしょうから、更に突っ込みます。 「対象Aは変化し、Bに成る。」 という事態について、弁証法論者が 「対象AはAであると同時に非Aである。」@ と言う場合、形式論理学者はそれを非難して言うでしょう、 「ある対象xはある時点ではAであり、他の時点ではBである。」A と言うのが正しいのだと。確かに通常の思考(表象)ではそのほうが 自然であり、弁証法論者は逆説を弄んでいるだけの様に見えます。 しかし少し考えて見ると、Aは「変化の結果」を表現してはいるが、 「変化自体」を表現していない事に気づきます。確かに現在進行形 の変化とは直覚されるべきものであり、判断あるいは推論されるもの ではない。それは<変化>と言う概念として定着されるしかない。 それを命題の形で表現する(分析する)と、@のような一見矛盾した 言い表し方にせざるを得ない。今ここにあり、次の瞬間にはそこにない。 その変化自体を静止的な存在の用語で表現すると「矛盾」となります。 @は緊張に満ちた「変化そのもの」を分析して、矛盾した契機の統一と して表現しているのです。つまり、「矛盾」は存在するのです。 「直接的な存在は生成に媒介された結果として見られるべきである。」 −例:永遠と見える資本主義も歴史的生成の結果であり、 その胎内に自らの滅亡の根拠を抱えている。 (やっぱまだ解りにくいかな。見方の転換が要求されているので。)
223 :
絶倫戦線 :2008/01/11(金) 07:27:46 0
57 名前: 27=6さんへ 投稿日: 2000/09/02(土) 07:30 >弁証法論理において反省(反照)規定をそれと して明確に取り出した ごめんなさい。「反省(反照)規定」 ってどういうことですか?
224 :
考える名無しさん :2008/01/12(土) 00:05:18 0
≫1 「オナホール」って何ですか?
225 :
考える名無しさん :2008/01/13(日) 22:35:36 0
≫224 ブラックホールを想像すればよい。引き込まれる感覚。
226 :
考える名無しさん :2008/01/15(火) 08:47:30 0
絶倫戦線とやらは何処に逝ったんよ? 「いい加減な適当戦線」って変名したらいいよ。 59 名前: 6 投稿日: 2000/09/02(土) 11:24 >57 (だんだん深みにはまって来た。) 前にも書いたように、ヘーゲル論理学に関してまともな解説書は(少なくとも) 日本には無いのではないでしょうか。古くは武市健人から近くは広松渉まで (さすがに遠慮して)完全な的はずれとまでは言わないまでも、読んで理解で きると言うより、更に訳の分からなくなる事になる。更に言えば、 件のスターリン主義的な自称「弁証法的唯物論者」(日本○産党も含め)の 説く弁証法は、エンゲルスの無理解にもよるが、バカバカしくて話にもならない。 どうせ分からないなら、原著を読んだ方が良いと思うのも自然でしょう。と言 う訳で、『小論理学』(松村一人訳、岩波文庫)を久しぶりに埋もれた本の 山の中から探し出してきました。(埃だらけ!) 手元にあるのは下巻のみですが、その「第二部 本質論」全体が反省規定の展開です。 目次を見ると、 A現存在の根拠としての本質 a純粋な反省規定 イ同一性 ロ区別 ハ根拠 b現存在 c物 B現象 ・・・ C現実性 ・・・ となっています。これら全部が反省規定です。 (因みに「反省」というと道徳的なニュアンスが出るし、ヘーゲルの概念= 主体の絶対的観念論に添う形にもなってしまうので、私は余り好きではなく、 反照(或いは反射)(英語でReflection)と言う訳語の方が良いと思ってい ます。)この位で宜しいでしょうか?私は先生ではありませんので。
227 :
考える名無しさん :2008/01/15(火) 08:48:07 0
無職に仕事をあげたい
そしてオナホールに吸収されるの・・えへ・・
229 :
考える名無しさん :2008/01/15(火) 12:54:23 0
>>227 そっか、226は無職なんだな。
ほんじゃ時間が余ってしょうがないと。
だったら、コピペをグアングアン続けろや。
230 :
考える名無しさん :2008/01/15(火) 13:01:59 O
広義のカルマが落ちてる
231 :
考える名無しさん :2008/01/15(火) 13:35:49 O
はいしのっ
232 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 09:08:53 0
64 名前: 6 投稿日: 2000/09/02(土) 19:45 >61 エンゲルスの高潔さは好きですが、こと弁証法については余り感心 しない。特に『自然の弁証法』で弁証法を科学と同一視しているの は、その後のソ連官製哲学から現在の日共にまで至る誤解の原因を 作った。不破委員長までが相変わらず、「我々は科学的社会主義に 基づいているのだから云々」などと言うのを聞くと、「ダメだ、こ りゃ。」と思わざるを得ない。もっとも、教条主義はエンゲルスの せいではなく、非弁証法的スターリン主義のせいでしょうが。
233 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 09:09:41 0
69 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 10:44 現代においてヘーゲル弁証法の再評価が重要だと考えられるのは、 繰り返しになりますが、「本質論」の持つ認識論的な意義です。 特にマルクス『資本論』において商品・貨幣・資本の本質を理論 的に説いた冒頭部分の理解は、明らかにヘーゲル弁証法を必要と します。戦後日本の「マルクス(主義)経済学」で繰り返された 不毛な論争および最近のくだらない(ポストモダン的?)「貨幣 論」の流行は「本質とは何か」を見失った現代科学、哲学の主観 主義の典型です。レーニンも言いました、「ヘーゲルをもっと 研究せよ。」と。
234 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 09:10:20 0
72 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 20:14 >71 レーニンを持ち出したのは失敗でした。しかし「哲学のレーニン的 段階」などとはスターリン主義的御用学者が言った言葉ですよ。 権威主義は弁証法とは無縁です。自らの生み出した資本という幽霊 に日夜苦しめられている労働者こそが最大の権威でしょう。
235 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 09:11:02 0
79 名前: 6 投稿日: 2000/09/04(月) 23:06 >75 レーニンの『哲学ノート』はどこに行ったか見つからないので、正確に引用は できませんが、ヘーゲルを非常に高く評価しているのは確かです。確か「殆ど 唯物論に近付いている。」とか、「弁証法はおよそ17、18くらいの格律に まとめる事ができる。」とかのメモを書いていたと記憶している。 昔、『哲学ノート』を読んで初めて弁証法が何となく理解できた、と言ってい た人もいたな。
236 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 09:11:49 0
93 名前: 6 投稿日: 2000/09/07(木) 23:25 実在は移行し、本質は反照し、事柄は発展する。 これらが弁証法的な運動形態である。 と言う事で、特に「本質」という概念を捉える事は ヘーゲル抜きには無理でしょう。 移行する実在は仮象であり、認識は仮象を去ってその根拠、始源(自体) に溯る。自己同一的本質は対立の統一(非同一の同一性)であり、現存在 の根拠として捉えられるが、直接的に現存在する根拠すなわち「物」と して向自化される。それは現象、すなわち仮象(見かけ)の全体として 外化する。・・・ こんな禅問答のような文章でも、マルクスは商品および貨幣の本質を 分析するために「大いに役に立った。」と書いている。
237 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 11:40:48 0
ところで下痢便くん、こんなしろうとのコピペを得意になって貼り付けるの 君のコンプレックスが成せる業なのかね?それとも本を買う金もない可哀相な お人なのかね?
238 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 12:47:50 0
>>237 "しろうとのコピペ"、2ちゃんねるにピッタりとちゃう。
2chなんてお遊び場でんがな。
"コンプレックスが成せる業"って、お〜さん大丈夫かいな。
なんかこの2chに幻想を持ってるんとちゃうの?
それとも正月ヴォケがまだ続いてんのかいな。
下痢気味サン、次を頼んまっせ。
239 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 12:53:13 0
お前、アホだろ
240 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 13:05:37 0
241 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 13:08:30 0
238. どうも何にも知らないようなので一言言っておきますね。ここはね楽しく おしゃべりするところなの。。人格障害がある君には分からないでしょうけど。 入門書以下のコピペをわざわざあげていちいち邪魔なの。ただそれだけよ。 君が誰かの幻覚を見ていることはわかりますよ。
242 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 18:25:12 0
>>238 督促戴きアンガトね。
>>241 2chの位置づけ、楽しみ方等々は十人十色で宜しかろうと。
112 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 15:05
弁証法は科学だと言う人がいるが、通常の意味での科学ではない。むしろ科学批判であり、形式論理の限界を
明らかにする思考です。それは変革の論理と言えるが、それも実在に迫る思考の否定力に基づくからです。
「すべての規定はその否定を内在し、それとの反照関係において成立している。例えば全体は部分であり、
内容は形式であり、実体は関係であり、必然性は自由である。すべての固定した規定性の内にある真理に
迫れ。」
とそれは要求する。
243 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 18:26:43 0
114 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 17:11 >113 なるほど。(また謝らなくてはいけないかな・・・。)しかし、 >日本人は普段、論理的思考で動いているとは思えないんですよ。 確かに自覚的に論理的に動いてはいませんが、先の「全体と部分」に関連して言えば、 例えば、 A:「君、会社は今窮状にある。会社全体のためにこの際君は止めてくれ。」 B:「いや、社員が集まって会社がある。社員がいなくては会社は存在しない。」 A:「それは違う。会社という全体あっての社員で、個々の社員は部分でしかない。 ごたごたへ理屈を言わずに止めなさい。」 と言った現実的な問題はどうでしょう。論理的に筋を通す事が求められています。 この場合、どちらが正しいと思われますか? これは全体主義と個人主義という「厄介な」問題です。形式論理ではカタがつかないでしょう。
244 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 18:28:15 0
116 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 18:54 >115 (更に弁証法は進む)と言う事で既に論点が移行してくる事が非形式論理的だと言う事です。 形式論理は問題を抽象的・一般的に論じますから、事柄の形式性にだけ捕われます。 ところが、弁証法論者は事柄を具体的に考え、「真の問題は何か。」と捉えようとします。 例題が理論的ではなく、実践的な性格を持つ本性である事はまさに弁証法的な思考に よってのみ解明されるのです。 因みに例題の場合、事柄の本質は資本主義自体の階級対立にまで進む事があり得ます。 その場合、単なる論争は実践的な「判断」として、「首切り反対」という闘争的局面に移行します。 論理的な思考を通して実践的に現実に関わる事が弁証法なのです。私の議論の対象も既に 「全体と部分」という機械的対立からその真理である「力と発現」という力学的対立、 更に「形式と内容」という記号論的対立に移行している訳です。
245 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 18:30:37 0
119 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 20:49 (対話は更に続く) >117 私は116でまさにヘーゲルの森羅万象を弁証法論理で思考しようとことを否定したつもりですが。 それは「絶対的観念論」と呼ばれました。何故なら、「現実的要素」をすべて思考可能としたからです。 彼が「現実的なものは理性的である」と言った時(これはこれで含蓄あある洞察を含んでいるが)、 轟々たる批判が巻き起こったそうです。 マルクス(「武器の(による)批判は批判の(という)武器にとって代わる事はできない。」)および キルケゴール(「ヘーゲルの弁証法は現実を止揚(観念化)してしまうが、現実自体は止揚されずに残る。」) 但し、マルクスはその中にある真に弁証法的な核は保存しました。 「現実は観念ではない。しかし、観念が現実を捉える時、それは物質的な力になる。」 弁証法の力とはその現実批判およびイデオロギー批判によって、「結局だめさ。」という諦め(これも宗教的 イデオロギーにつながる)から人間の実践的・主体的な力を取り戻すことにあるのです。 それは共同的な行為であり、ニーチェ流の超人のなせる業ではないでしょう。 そして「人間は自然の一部である」とは唯物論の基本であり、そこには自然に対する畏敬と信頼が 基本にあるのです。
246 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 18:33:42 0
126 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 22:10 (では、・・・) >117 >弁証法には限界がある、ということでいいんですか? 「限界」とは何でしょう?「あるものがそれで無くなる所、地点」と一応言えますが、 すべてのものがそれであるのはその限界「内」にあるからであり、同時に限界においては そのものが消滅する以上、すべてのものは限界の「外」に在ることになります。 ではあるものの限界とは、そしてあるものはどこに存在するのでしょうか? >「現実的要素」を取り込めなければ、思考の「方法論」としては有効でも、実際的問題の「解決法」には ならないでしょう? 「現実的」とは何でしょう?「本質自体の現象」と一応言えますが、本質および現象とは 思考の対象でしかありません。 あるいは「感性的現実こそが現実的だ。」と言えば、たちまちデカルトの批判を受ける所まで 戻ってしまいます。現実の現実性を捉えるのは、例えば資本主義社会の現実性とその幻想性を 捉えるという「実際的問題」にとって重要事ではないでしょうか?
247 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 21:24:09 0
135 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 10:18 (お早ようございます。下痢も治った(嘘)。) >131、134 まあそう喧嘩せずに。ソクラテスは弁証法を対話法として実践しましたが、彼の対話は産婆術とも言われ、 相手の主張に沿って問答をしながら、その無根拠性を自覚させてより高次の認識に導くというものです。 それは基本的に2者間のやりとりで、今回3すくみ状態になったので私が引いた訳です。 >132 人一倍記憶力のない私で、何十年も前に読んだうちのどれかは急に出てこない。 多分『ドイツ・イデオロギー』前後の若い時期のものです。ただ有名な言葉ですので回りの人に聞いてみて 下さい。 >133 私は116および126で具体的に弁証法的論述を弁証法的に行いました(余り成功していないようですが)。 前提とする論理の枠組みに含まれる矛盾を通してより高い立場への飛躍を計るという方法は特に限界的な 状況において威力を発揮します。固定した存在を生成・消滅の中に突き落とすことと言っても良い。
248 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 21:27:10 0
139 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 15:54 >135 引用された文章の出典が分からないので、へたなことを言うとまた(ネット上の著作権も含め)謝らなくては いけなくなるかも知れないけれど、余り弁証法的な思考ではないと思います。 >>普遍主義を装った帝国主義に対抗するには、より高次の普遍主義を提示して見せるしかないのだ 私なら、「現在の『グローバルスタンダードを!』という普遍主義の掛け声の正体はアメリカを中心とした 政治経済的な帝国主義であり、事柄の本質は単なる技術的標準云々の位相にはない。 帝国主義に対抗する真の普遍主義すなわち具体的な地域性・民族性・歴史性を考慮した多様な 個性を持つ普遍主義とはプロレタリアの普遍性に根差した社会主義の上にしか花開かないであろう。」 とでも言いますね。ヤードポンド法ではなくメートル法にすれば良いなどという矮小な(抽象的かつ個別的な) 話ではない。本質論が無い。
249 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 21:28:09 0
140 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 16:01 >139 誤:>135 正:>136 (最近乱れていて失礼。あと以前の引用も正確な引用ではなく、パラフレーズ(記憶違いも含め?) として理解してください。謝々)
250 :
最近マジ下痢気味 :2008/01/16(水) 21:30:47 0
144 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 21:02 >141 『小論理学』では、「全体と部分」の相関についてそれが最初の規定された相関であり、実在的諸部分から 全体が構成されるにも拘らず、全体は部分の総括としてその否定であり、両者の関係は真実でないものと 言われています。 つまり、まず全体とは実在しない観念に過ぎないという事であり、実在するのは常に部分なのです。 それが何らかの全体を「代表する」とされる部分に実現されていると思い込まれる時、すべての全体主義が 生まれます。 「国家あっての国民」、「国会は全国民の代表から構成される」など全て虚偽、真実でないものです。 しかし、全体を抽象的に否定して、全体無しの部分に分解された場合は、逆に部分は部分で無くなり、 その実在すら無くなる。 個人主義は社会の中でこそ成立できる。全体主義と個人主義は共に抽象的であり、第3のものとしての両者の 総合がそれらの真理でしょう。それは如何なるものか。ヘーゲルはそれを「具体的普遍」という概念で表現しました。 しかし、プロシャ帝国と言う特定の実在にそれを夢見たために、失敗した。したがって、社会が諸個人間の開かれた 関係(相関)として共同的な精神が全ての個人においてその自由な個性の形態によって表現される時に、 第3のものは初めて現実のものとして地上に現れて来るでしょう。 共産主義はそれを目指すものと考えますが、「前衛党物神」は同じ反弁証法的な全体主義に陥ってしまった。 やはり、個人の内に客観的精神を根づかせる啓蒙を同時に推し進めるしかないと思います。 ですから24さんの言われるように、ヘーゲルの「人倫と国家の弁証法的止揚」という「未完の近代」の問題は未だ 決着がついていないと言える。ましてやポストモダニズムなどは、127さんの言われるように、近代合理主義すら 満足に根づいていない日本ではお話にもならないでしょう。 また、会社でのリストラに対する最も弁証法的な対抗策は「団結と闘争」しかないし、「認識は闘争の中で最も良く 鍛えられる。」のも本当でしょう。(但し、偉そうに言っても今の私は所詮日和見ですが。) (また長文になってしまった。スミマセン。そろそろ引き時でしょうか。)
251 :
絶倫戦線 :2008/01/17(木) 19:18:06 0
ちょいと"お出かけ"してたら、名無しさんと最近マジ下痢気味さんのサポートが。 予期せぬ喜びであり、多謝であります。 150 名前: 6 投稿日: 2000/09/11(月) 22:59 >145 113さんもそうですが、「現実問題に弁証法をあてはめる」あるいは「弁証法を利用して現実問題を解決する」という言い方 自体がおかしい。弁証法は便利な道具・手段ではなく、真実に向かうための方法であり、誤謬を通して真理に至る運動が作 る軌跡のようなものです。 確かに、リストラの例を「全体と部分」の矛盾という概念の客観的説明に使ったのは質問の意図に沿うものではなかったようで す。むしろ、「主体と客体」あるいは「理論と実践」といった、より高次の弁証法の例とすべきだったでしょう。(と言う事で、説明 のやり直しをしよう。) 毎日勤勉に働いていた人が、突然上司からクビを言い渡される。「会社の窮状」と言う理由は本当か。「窮状=困窮した状 態」とは一見客観的な事柄のようだが実は相対的な概念です。ヘーゲルは「状態とは質の外面性である」という内容の定義 をしている。状態性とは「あるものに固有と見える質は回りとの関係の中においてのみそれである」と言う真理を直接的に表現 しているのです。関係性の中で異なる主体によっては困窮した状態=喜ばしい状態かも知れない(例:ライバル会社)。「会 社の窮状」=「社員の窮状」という等式が成り立つのは、会社=社員である場合だけでしょう。論理的にはこれは会社と自己 との「実体的同一視」と呼ばれます。会社と一体化していた社員が会社の窮状を救うために自分の窮状をもってするとは何た る矛盾でしょう。
252 :
絶倫戦線 :2008/01/17(木) 19:21:39 0
251の続き ですから、リストラを告げられた社員には実体(客体)の主体化こそが求められています。これはエンゲルスも言うように、 最高度の弁証法です。日常的・没主体的なあり方から、非日常的(限界的・危機的(困窮的)・状況的)で主体的 なあり方への転換(弁証法的転化)が必要となります。(ハイデガーなら「状況の開示性」とでも言うだろう社会への 本質洞察(運命の声)がこの瞬間に起きるかも知れない)ただし、ここから実存主義的な主体性論者と別れるのは、 「状況の本質」を捉えるには対象の理論的・科学的な分析と本質の概念的把握が必要だと言う事です。 「俺をクビにする会社と今の社会とは一体何なのだ。」と言う哲学的反省は、 「今の社会の本質が生産者と非生産者との階級対立に基づき」、 「資本とは過去の労働の物象化の事であり」(労働価値説)、 「階級対立という矛盾を闘争(矛と盾との最終戦)なくしては、否定(階級という否定的存在)の否定(反撃あるいは 否定の本質)としての真の肯定(階級そのものの消滅)は得られない。」 と言った、多くの媒介的知識による客観的・概念的認識を成立させる事で、真に「現実的な」展望を持てるし、 真理と正義なくして自らの窮状を真に救えない事を確信できる様になるでしょう。 (「矛盾は世界に満ち満ちている。矛盾を笑え。」)
253 :
絶倫戦線 :2008/01/17(木) 19:26:22 0
169 名前: 6 投稿日: 2000/09/14(木) 22:45 >154 >昔からヘーゲルが人間の足跡を見てそこに神を見出してるような姿が拭えないでいます。 とても良い(Nice?Good?Phylosophical?)指摘で、対話を続ける契機として相応しいポイントだと思います。 ヘーゲルの全哲学体系は、前にも書きましたが、「絶対的観念論」と呼ばれています。 「絶対的」とは「他に比較できるものの無い」という事であり、例えばカントの主張する「最高、最善、最強と言った 相対性」を超越しているという事です。 ヘーゲルの初発の疑問は多分「何故に神はこの世界を創造したのか?」という事では無かったのかと(勝手に) 想像できます。 神様は人間等を遥かに超えた存在なのだから、「この矛盾、苦悩、不合理に満ちた世界」など必要としなかった筈だ と考えるのは自然です。そしてヘーゲルはその事を若い時から大真面目に考えて死ぬまで続けたのだと思います。 時代的にも西欧近世が近代に移行しようとする18世紀末の事ですから、歴史的激動期(確かにどんな時代でも 激動期と言える訳ですが)にあってそれまでの総括を余儀なくされていました。 そしてその結果、あの森羅万象を論理的に語り尽くした「哲学体系という弁神論」が出来たのです。 「観念論はヘーゲルをもって完成し、同時に本質的に終わった。」、これは確かな事です。。(「ミネルヴァの梟」とは ヘーゲルの事です。) 19世紀の人ニーチェは言いました、「神は死んだ、余りに人間を愛したが故に。」と。 そして、20世紀はまさに「神無き時代」であり、モノとカネを神とする人間が殺戮と暴虐を繰り広げた(そして今なお 繰り広げつつある)時代でした。
254 :
絶倫戦線 :2008/01/17(木) 19:27:49 0
253の続き 19世紀の人ニーチェは言いました、「神は死んだ、余りに人間を愛したが故に。」と。 そして、20世紀はまさに「神無き時代」であり、モノとカネを神とする人間が殺戮と暴虐を繰り広げた(そして今なお 繰り広げつつある)時代でした。 (”Heil,Hitler!”は辞書では”Hegel”の近くにありますが、何と遠い事か)21世紀を間近にした現在、改めて人類の 歴史を総括すべきかも知れません。 そのためにも、ヘーゲルが到達しようとして果たし得なかった、しかしマルクスが確実に継承したものが何か、 を考えるのは有益でしょう。 哲学の定義が何であれ、すべての哲学者に共通している事は「存在の根拠、始源、本質を内省的に問い、 言葉によってそれを表現し万人に伝えようする営為」を自らに課していた事でしょう。 「尋ねよ、さらば門は開かれん。」(これもパラフレーズですよ。)
255 :
絶倫戦線 :2008/01/17(木) 19:31:41 0
170 名前: 6 投稿日: 2000/09/16(土) 06:14 >154(続き) >マルクスの「資本論」でも読んで現状の資本主義システムを理解するということなのか? さらには唯物、機械的な認識を得る必要があるといったところでしょうか? リストラの例に沿った私の説明はそうなっているのですが、一挙にすべてを言おうとしたため、非常に乱暴になっています。 そこでもう少し話しを戻すと、まず「社会の本質」という言葉で何を理解するかという点です。 まず「本質」という言葉の定義について、ヘーゲルはまず「現存在の根拠」と言っています。 「現存在」(Existence)は単に「存在」と訳される事もあるが本来「現れたもの」という事であり、 何かが現れたその何かの事をその「根拠(理由、基盤)」と呼びます。 感覚される存在はみな「これ」とか「あれ」とか指差せるものであり、個別的なものですが、それらは生成・変化します。 それは仮象(見かけ)に過ぎないというのが哲学的認識(反照的認識)の第一歩です。 その本体は何かと問い、それを本質という言葉で表現します。それは直接的な存在と見なされると、変化しない、 自己同一的な「それ自体」と呼ばれます。それは「これ」「あれ」という個物ではなく、「すべてのxx」といった全体を 対象とする(マクロ的と言っても良いかな)概念です。 したがって「本質とは何か」を問う本質論ではすべての概念は二重化され、相互反照的あるいは相関的になります。 自己の」反対(対立物)においてその概念内容が表わされるという事です。たとえば「同一性の何たるは対立において 現れ、本質の何たるかは非本質的な現象において現れる」という事です。
256 :
絶倫戦線 :2008/01/17(木) 19:34:16 0
255の続き 科学者でも、何らかの存在の本質を理解するためにはまず「存在の起源(始源)」を求めることから始めるでしょう。何故なら 「すべての存在者は生成の結果」であり生成の源に遡及することがそのものの「何」を明らかにするからです。 たとえば、「貨幣はその生成の秘密を商品において表現している」と言った具合です。貨幣は元々は商品の一つに過ぎなかっ た。金色に光り輝くその衣装の端から透けて見えるのは卑しいその出生の秘密だと言う訳です。(これはマルクス流でヘーゲル は観念論者としての気高さからそんな言い方をしないでしょう。)と言ったように社会の本質を唯物論的に探っていくことが、ア ホな経済学とこの資本主義体制を根底から転倒させるための哲学的・弁証法的なやり方でしょう。
257 :
考える名無しさん :2008/01/18(金) 16:29:29 0
,r'^⌒⌒ヽ,r''⌒`ヽ、 /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノノ´`´`ヽ;;;;;;;;;;;;i !;;;;;;;;;;;;イ::. / \ ヽ;;;ノ ゝ;;;;;;;|:::: (。) ,(・) |シ 从从/: \ 、_! / ノ 勝は警察とか機動隊に電話を 从从 i 'ー三-' i l かけまくっているらしいな。 ノ从ヽ._!___!_/ 狙いは俺。 若々らしいですよね。基本ができていないんですよ。 やはり、横綱というのは日本人でないといけないんですよね。
258 :
絶倫なんて看板にウソありじゃん :2008/01/24(木) 18:37:08 0
絶倫どころか虚弱体質と言われてきた私ですが、交代を務めます。 171 名前: 6 投稿日: 2000/09/17(日) 11:47 >169 誤:Phylosophical 正:Philosophical (かなり酔って書いていた。偉そうにして失礼) 175 名前: 6 投稿日: 2000/09/18(月) 22:20 >172 やはり、そうかなぁ。掲示板でできるだけ分かり易く説明しようとしても限界があるな。 しかし、ヘーゲル論理学を解説する学者は必ずその観念論の罠にはまってしまう。 173で言われている紀平正美教授も絶対観念を称揚しているらしいし、下記サイトの人もそうだ。 繰り返しになるが、ヘーゲル弁証法は唯物論的に把握し返さなくては何の価値もない。もっとも鯵坂真を 始めとするスターリン主義型似非唯物論者の言う「最高の科学としての弁証法」など何の役にも立たないが。 (と言う事で少し、話のテーマを変えた方が良いかな。)
259 :
絶倫なんて看板にウソありじゃん :2008/01/24(木) 18:39:03 0
177 名前: 6 投稿日: 2000/09/19(火) 21:57 「観念と物質は違う」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと考えると結構難しい。 「すべては観念に過ぎず、各自の主観的な考えが絶対である」とされる20世紀では特に難しい。 「本質は現象とは異なる」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと考えるとかなり難しい。 本質を学問の対象から消去した20世紀では特に難しい。 ヘーゲルは言った、事物の違い(差異、区別)を知ることがその本質を知る始まりであると。 差異、不等、対立、矛盾と深まる区別を知ることで対象の本質に迫ることができる。 (ポストモダニスト達は差異という第一の否定(抽象的否定)ばかりを強調したが、差異を言う時、 実際に対象にしているのはむしろ同一性なのです。否定の否定こそが具体的な認識をもたらしてくれる。) 「すべては鏡、反射、反照のうちに現れる。」、この場合の主語「すべて」とは「『すべて』という概念」のことです。 「すべての存在」などは存在しない。 それは区別された実在に反照する本質存在をいうのです。 結局、ヘーゲルは「概念的認識」の重要性を弁証法的に明らかにした事で、ソクラテスやアリストテレスと 同様に、永遠に歴史に残る事になるでしょう。 しかし、F.フクヤマといったチンピラ保守反動のヘーゲル誤読者とは違い、歴史は未だ終わってなどいない のです。(と言う事で、一旦引くことにします。活発な議論を!)
260 :
おせーて :2008/01/31(木) 10:02:22 0
ヘーゲルが言う「力とその発現」が何を言わんとしているのかさっぱりわかりません。 でも、すごくわかりたいです! ここは博学の先生方が多いと聞いてきましたので、 誰かおせーてください。お願いです!
261 :
おせーて :2008/01/31(木) 10:07:50 0
ヘーゲルは小論理学のどこかで「力の正体がわかったら自然科学者達はびっくりするぜ」 みたいなことを言ってます。でも、小論理学の中で「力の正体は何か?」は丁寧に説明 されてません。ヘーゲルの言う「力の正体」とは何ですのん? おせーてください。お願いです!
262 :
おせーて :2008/01/31(木) 10:18:05 0
弁証法のハンドブックを探してます。 ヘーゲルやマルクスの凄さを熱っぽく語っている本と 冷静そうに「正反合」を説明している本はたくさんありますが、 著者自身が具体例を持ち出すと、決まってつまらないことになります。 そのつまらない具体例を読んでいると、まるで弁証法自体がつまらないみたいに 思えて来ます。何だ、こんなことにしか応用出来ないのか、みたいに… ヘーゲル、マルクス、エンゲルス等の歴史的人物以外が書いた本で、 読者にこんなつまらない思いをさせない本があったら、 どうかお願いです。おせーてください!
263 :
考える名無しさん :2008/01/31(木) 21:00:18 0
>>262 "お手軽"なハンドブックとしては、OFW氏から負の評価、つまり
あんな本は読むな!とのを評価を受けた三浦つとむの有名な新書があるが、
さーて、"つまらない具体例"が満載ときてる代物だ。煎餅を頬張りながらでも
読み徹せるって本よ。
264 :
おせーて :2008/02/01(金) 10:59:47 0
ありがとうございます。私も20年以上前に「弁証法とはどういう科学か」を読みました。 読みやすいけど、あとで考えると内容がなかった… そういう本でしょう。 でも、長きに渡って出版が続いているということは… 類似規模の他の本がもっと内容がないから!ということになってしまいそうですね。 日本語で書かれた本ということでは、どうも諦めたほうがいいようです。 それでヘーゲルの「小論理学」や「大論理学」に戻る訳ですが、これも日本語訳は読めません。 誰があんな日本語を発明したのか?と思います。 英語、フランス語訳にはいい翻訳があります。スペイン語版でも日本語版よりはよっぽどマシ です。イタリアもがんばっているみたいです。 英語で書かれたハンドブックも探しましたが、いいのはまだみつかってません。 どうやらヘーゲルがまともに翻訳されている国にいい本がありそうです。 ロシアとルーマニアでいいハンドブックが出ていると聞いてますが、入手難です! ヘーゲル関係は、どんな本でも例えばルーマニア語で読んだ方が日本語で読むより楽ですぜ!
265 :
おせーて :2008/02/01(金) 11:05:31 0
日本語で読むより、ドイツ語の知識が全くない人間がドイツ語のABCから学んで原語で 読んだ方が結果的には労力が少なくて済むなんて… これ、一体どういうこと? どうか、おせーてください。
266 :
考える名無しさん :2008/02/01(金) 14:39:22 0
>>264 ,
>>265 ヘーゲルに限らず、翻訳を読めば当の執筆者だけでなく
翻訳者の思想も併せてインプットされちゃうじゃん。
まして解説本なんかと併読したら、執筆者、翻訳者、そして
解説者と、3種類もの思想を相手格闘させられてさ、
手も付けられない混沌に陥ることになっちゃうよね。
ただ、趣味のエーテルで読むことにしちゃうとさ、
何とかなるかもよ。
ただ研究者は端から翻訳本なんて無視つーか、論文には
使えないからさ、ヘーゲルみたいな悪文のドイツ語と
くんずほぐれつで、苦労してるよね。
267 :
考える名無しさん :2008/02/01(金) 15:23:31 0
>翻訳者の思想も併せてインプットされちゃうじゃん。 これはほんとどうにかなんものなのか? おれのかんかくからすれば、ほんやくしゃのしゅかんがはいるいじょうブログとおなじでしかない。 にっぽんのてつがくしゃのげんかいは、ひとのてつがくなのにじぶんのしそうとかんちがいしているところだろうな。 いっぽまちがえると、しゅうきょうのほんになるしw
268 :
おせーて :2008/02/01(金) 16:53:39 0
私は哲学の専門家ではないですが、学生の頃、松村訳(岩波文庫)と「対峙」し、 「悟性」や「思惟」や「表象」や「媒介」に泣かされ、どうしても「絶対精神」まで 辿り着けませんでした。自分の頭が悪いせいだと思っていたのですが、ある時、 Wallaceの英訳に出会い、目からウロコが落ちる思いでした。 次に、ドイツ語がさっぱりわからない状態でSuhrkampのドイツ語版とWallace版を 対比させ、暗号解読を試みたのですが、名著とダメ本の両方の誉れのあるこのWallace版、 Suhrkamp版と一致していない部分が多く、単語と単語を対照させるのが大変でした。 (これを「蘭学事始め」式と言います。) 押し入れに眠っていたHarris版英訳とBourgeois版フランス語訳を取り出し、並べてみると、 Suhrkamp版とかなり一致しております。英語、フランス語、ドイツ語は文法および文の 構造と語彙の成り立ちが似ているので「直訳であると同時に意味が通じる」ということが 可能になるのだと思います。 私にとって、ドイツ語は暗号解読レベルだし、これはしゅみなので、Harris版に頼ってます。 ドイツ語で読める人もたくさんいるでしょうが、また、それは羨ましい限りですが、 ドイツ語をどれだけ理解しているかによって読みの深さの差は出て来るだろうと思います。 だから、無理しないで、英語やフランス語で読もうや!というのが私の提案ですが、 いかがなものでしょうか? 日本語訳は諦めた方がいいです! 「読者がバカである」と「翻訳者がバカである」という 2つの「モーメント」を「止揚」するのは大変です。
269 :
考える名無しさん :2008/02/01(金) 18:15:06 0
266氏も書いてるように、趣味のレベルで読むんなら解説書もOKしょっ。 ほいと、たまに英語訳を覘くってのも単語理解の役にたつじょ。 英訳本だとこんなんがあったじょ。 悟性=understanding(function of understanding) 表象=image 媒介=connection(function of connection) そいと、思惟=political leader of japan communist partyってのは冗談。
270 :
おせーて :2008/02/02(土) 01:45:22 0
本質論114「この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみ まとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない」(松村) "As it emerges from being, this identity appears at first to be burdened only with the determinations of being, and related to being as to something-external." (Harris) "Diese Identita¨t erscheint, als aus dem Sein herkommend, zuna¨cht nur mit den Seins behaftet und darauf als auf ein A¨usserliches bezogen." (原文)
271 :
おせーて :2008/02/02(土) 02:05:47 0
本質論119「肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり…」 (松村) "the positive is the identical relation to self in such a way that it is not the negative…" (Harris) 「否定的なものでないという仕方で」とは? し、し、し、し、仕方って? 何?? 長谷川訳だと「陽は陰ではないという意味で、自己との同一的な関係であり…」 「陽」と「陰」??これって名訳それとも迷訳? 「という意味で」は読者に対する配慮、それとも訳し過ぎ?
272 :
おせーて :2008/02/02(土) 02:32:46 0
本質論120「肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはなら ないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己 へ関係し、向自的でなければならない。」(松村) 「陽とは、自分にむきあうとともに、自分の相手との関係に無関心ではいられないような、 そういう区別されたものである。陰もまた、自立し、自分と否定的に関係し、自分とむきあ う存在であって…」(長谷川) 「…ような、差別されたものである」?? 「…ような、そういう区別されたものである」?? この「ような」はどこにどうかかる??? 「独立的」とは??? こういう表現は読者に余計なことを考えさせはしないか… 確かに、すっきり訳し過ぎるのは何か訳し忘れたみたいで嫌だけど、ごてごて訳すのは… どうも、みんなが問題にする「直訳か、意訳か?」というレベルの問題ではなさそうな… クセの強いヘーゲルを別の意味でクセの強い翻訳者が訳すと、そこらじゅうに不協和音が… その不協和音が幾重にも重なると、読者は「絶対精神」に辿り着けないのでありましゅ。 めでたし、めでたし。
273 :
考える名無しさん :2008/02/02(土) 06:03:10 0
>>269 そう言えば、あのヘーゲリアンのOFWも表象=イメージで大過なしってカキコしてましたね。
274 :
考える名無しさん :2008/02/02(土) 06:38:06 0
>>273 そのOFWとやらは、存在とか実在とか現存在とかの概念規定は
言ってないのかしら。このあたりの概念の違いがまったくの曖昧模糊で
よーわからんのよ。
275 :
考える名無しさん :2008/02/02(土) 17:10:29 0
276 :
考える名無しさん :2008/02/03(日) 10:08:50 0
>>273 見っけ!
>「完全無欠の無」そのものは、たしかに存在していると私は思えてならない
無論「無が存在する」のは確かです。ただし表象(これは難しい言葉ですが「イメージ」と同じと
考えて大過なし)の内にのみ。
277 :
276 :2008/02/03(日) 10:12:57 0
これもやっぱOFWのカキコから。
>>274 「現存在」(Existence)は単に「存在」と訳される事もあるが本来「現れたもの」という事であり、
何かが現れたその何かの事をその「根拠(理由、基盤)」と呼びます。
感覚される存在はみな「これ」とか「あれ」とか指差せるものであり、個別的なものですが、それらは生成・変化します。
それは仮象(見かけ)に過ぎないというのが哲学的認識(反照的認識)の第一歩です。
278 :
276 :2008/02/03(日) 10:24:34 0
これもOFWですがな、274さん。 >11 事実(英語でFact)=直接的(実在的)現実、 事柄(英語でMatter)=事象内容 として区別できます。 事柄は事実を含みながらある統一した内容を指す言葉でしょう。 歴史的事件、ドラマ、社会問題等は事柄です。 現象(英語でPhenomenon)は上記二つとは大きく異なる言葉(概念)であり、 本質(英語でEssence)に対立する言葉(概念)です。 それは直接的な世界の現れを指します。 現象と本質を「つなぐ」ものが現存在(英語でExistence)です。 つまり「現象とは本質の外化(現れ)である」(ヘーゲル)と言うのが正しい現象概念です。 「超越論的に」事象を捉えようとする(現代)現象学は本質(本体的存在)を忘れて (現象学では判断停止(エポケー)と呼びますが)、「現象の意味」の解釈をもってそれに代えた 20世紀全体に蔓延した主観的観念論の典型です。 逆に質問:「意味」という言葉の意味は何ですか?
てめえらオナホール使ってから議論しろよな
280 :
考える名無しさん :2008/02/03(日) 14:56:03 0
>>274 こんなのを見つけたんじゃが。役にたてば幸甚。
14 名前: OFW 投稿日: 2000/12/07(木) 22:12
>>12 (伍長さん)(つづき)
「存在と生成」という対立は古来からあり、「何が存在するのか」という問いはギリシャ哲学の
最初の難問だったようです。(哲学者とは変なことを疑問に思う人種です)
しかし同時に、誰でも、すべて存在するものは発生、変化、消滅を免れないということも
知っている。
両者はどう折り合いがつくのか?哲学者はその折り合いを「概念」として定着させた訳です。
つまり「事物は変化するが、事物の認識は概念として表現されれば概念は変化しない」という
ことです。そのことは、概念とは事物の運動を反映したもの、つまり事物の運動形式が表現され
ているということです。
たとえば、「在るとは在らぬこと」という矛盾した言い方はまさに「実在」の概念を展開した表現
です。それは実在の本質を「他在」として表現している。実在とはむしろ「本質をもたない」
「本質の外にある」ものだということです。こう言うと、「何をバカげたことを言う詭弁家め!」と言わ
れるでしょう。
「『在るもの』は在るに決まっている。」というのが、通常の理解ですから。
しかし、「何が『或るもの』なのか?」と問い、「これが『在るもの』だ」と答えた場合、「これ」とは目の
前にある何らかの実在者でしょうが、それは変化してしまうから、「これって何?」と問い直した途端に、
それは別物でしょう。正確には「在った」と過去形で言うべきだが、それは「もはや無い」と同義ですから、
「在る」と確定的には言えなくなる。
ここで言い表されている事態は、観念(表象)は変化する実在者を「変化しないもの」として立てる
(措定と呼びます)のであり、実在を否定しなければ、それを言い表すこともできない、ということです。
「変化のうちに変化しないものを見る(表象する)」、このことは、動物を含めて、誰もが毎日行っている
ことでしょう。何故、そのことをヘーゲルのように真面目に考えないのでしょう?
そのことは、「変化は自らの否定の内にそれ自体を現す(反映させる)」という単純な事実を言っている
のだから、少しも分かりにくいとは思えないのですが…。
281 :
おせーて :2008/02/05(火) 09:57:23 0
拙訳で申し訳ないが: 我々は苦しまぎれに考え、(我々の記憶は我々があずかり知らないやり方で機能しているので) その考えた内容とやらを苦しまぎれに記憶し、苦しまぎれに想起し(全く想起出来ないことも ある)、苦しまぎれにイメージや「表象」や「概念」をつくり出し、苦しまぎれにそれらの展 開を見守り、また苦しまぎれにその思考を中断し、感情や感覚がまとわりついたその考えた内 容とやらを苦しまぎれに言葉に翻訳する。その様に苦労しても「私が意味したいこと」は決し て具体的に表現されず、抽象的な「普遍」のみがぼんやりと暗示される。(形式と内容は一致 するであろうか?)その様にすべてがギクシャクしているのに、思惟に関して何かスマートな ものがあるとか、ギクシャク考えるのは我々凡人だけで、天才はスマートに思惟出来るのだろ うと無責任に考えるのは浅はかである。(あるヘーゲルの弟子の言葉)
282 :
考える名無しさん :2008/02/07(木) 10:06:54 0
>>280 要するに、次の選択が困難である可能性を否定できないということだね。
A.洋服の青山は品質はいいが高い。
B・ 洋服の木村は、安いが品質が良くない。
AとBの選択肢以外に何らの可能性も遺されていないことの内に、
現象学的還元でアンチノミーを止揚できないという、アポリアが顕現する。
こういうことだね。この理解で包茎(OK)?
283 :
あっぽ :2008/02/17(日) 23:05:56 0
くだらない!
284 :
考える名無しさん :2008/04/14(月) 18:09:37 0
テーゼ、アンチテーゼはそれぞれ独立に設定されることになんら非論理性は無いように思えますが、両者からジンテーゼへ行く過程は、論理的なんですか?
285 :
考える名無しさん :2008/04/14(月) 18:45:11 0
>>284 後だしジャンケンのような、の意味です。
286 :
考える名無しさん :2008/04/14(月) 19:33:26 0
____ / \ / ─ ─\ / (●) (●) \ 前を歩く人の揚げ足をとろうとしている人の | (__人__) | 揚げ足をとろうとしている人の揚げ足をとろうとしている人の / ∩ノ ⊃ / 揚げ足をとる為にはどうすればいいんだお…? ( \ / _ノ | | .\ “ /__| | \ /___ / ____ /⌒ ⌒\ /( ●) (●)\ でもこうして社会は繋がっているんだお、繋がりの社会性だお /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ 欲望は他者の欲望だお、ラカニアンだお | mj |ー'´ | \ 〈__ノ / ノ ノ
287 :
考える名無しさん :2008/04/15(火) 17:51:42 0
じゃー、結局のところ、弁証法の究極の効用て、どんなことになるのかしら。
オナホって大してよくない マンコはどうなんだろ・・・ それさえ分かれば真理に一歩近づける
289 :
考える名無しさん :2008/04/16(水) 08:21:18 0
究極の効用、まさに!
290 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 08:24:05 0
過去ログ漁ったら、OFWって人のカキコがたくさんあった。 ヘーゲルのことよく識ってるって感じがしたな。
291 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 10:48:43 0
>>290 ありがと。 分析的経験論からの弁証法批判が知りたかったです。
292 :
考える名無しさん :2008/04/29(火) 14:22:16 0
その批判に答えられないから、やっぱり、真性オナホだった。
弁証法も正、反、合の便利な用語を使用させていただき、難しい理屈は 別にしました。C点による時空論より。ヘーゲル先生、ゴメンナサイ。
294 :
考える名無しさん :2008/06/03(火) 13:38:53 0
ついさっき弁証法で弁証法を証明したところだ
296 :
↑ :2008/06/06(金) 11:02:09 0
こういう言い回しが弁証法なんでしょ?
297 :
考える名無しさん :2008/06/19(木) 02:06:02 0
議論を突き詰めようと、した場合には 弁証法が最も有効何じゃないのか?オナホールでは無いだろ
298 :
考える名無しさん :2008/08/27(水) 23:54:27 O
それには同意しかねるな ヘーゲル的歴史観に立つ俺からすれば テロスがニヒリズムに否定され得るアポリアだとして そのドラスティックなヒューマニズムの上にアジェンダを 構築することがアルチュセール的構造主義における、ミームだ。 いずれにせよ、ケイオスティックな人間存在における経験をテクネーへと、 普遍へと、止揚することが、デカルト的パラダイムの モダニズム的出発点だ。 エピステーメー的に論考すれば リングイスティックターン以降の日常的言語学派における アフォーダンスをシラバスにおいてエキュートすることが アカディメイアのタスクだと思われさもなければ想像の共同体は サイバーカスケードの上にもろくも崩れ去ってしまう。
299 :
考える名無しさん :2008/09/01(月) 09:37:08 0
オナホール・フランス
300 :
考える名無しさん :2008/09/16(火) 05:48:18 0
>>286 きんきんどんねんねん?ん?(大爆笑wwwwwwwwwwwwww
どんねスがもんねんが?ん?(大爆笑wwwwwwwwwwwwww
つーつーか、どうつーか、どデつーかしてきましたるつもりでれしたるりれてるんだろw
バーカwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
レッペッペ
301 :
考える名無しさん :2008/11/17(月) 03:25:43 0
結局オナホールだろ。 変化を後づけで矛盾止揚とか行ってるだけ。 言ったところで何の意味も無いし実用性も無い。 まあインチキ予言者が外れた予言を 言い繕うよりちょっとましという程度か。
302 :
考える名無しさん :2008/11/17(月) 06:08:22 0
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303 :
考える名無しさん :2008/11/17(月) 07:18:35 0
正反合という言葉だけ使用させて貰っています。c点による時空論で。 甲ーーー正 非甲ーー反 物質甲が空間非甲と成り、空間非甲が物質甲と成る。こうして 出来た、 新しい甲ーーー合 とさせて、貰っています。弁証法とは異なりますが。
304 :
考える名無しさん :2008/11/17(月) 08:01:25 0
弁証法を勝手に使用していますが、矢張り、矛盾と無限とを考え ざるを得ません。現象の説明には弁証法は便利です。
つか後だしジャンケンだから弁証法の勝ちはあたりまえ
チームのための選手、選手のためのチーム
もし本当に弁証法が後だしジャンケンでないことを実証したいなら 「矛盾する」ものをぶつけてみるといい。 まずは乳幼児に矛盾するものとか反するものとかをぶつけて 乳幼児が本当に止揚されるかどうか見てみれば? 俺が思う乳幼児に矛盾する、反するものは自動車か岩石だ。 自動車や岩石はどこをとっても乳幼児の存在と一致するところはない。 故に乳幼児と存在として矛盾してるか反していると思う。 おれはとても勇気はないが誰か乳幼児が止揚するかどうか試してみては
308 :
考える名無しさん :2008/11/18(火) 00:19:05 0
>>302 そういう真面目女ほど、ホテルとかいくと
チンポを貪るように咥える傾向があるよな。
そこの管理人なんかまさにそういう女の顔だ。
309 :
考える名無しさん :2008/11/19(水) 00:48:12 O
失敗した革命も多数あるから、いや全部失敗しているかな。 というか革命が止揚した存在を生み出したかどうかは議論の分かれるところである。 だから本当に弁証法があとだしジャンケンでない、真実のこの世の法則であるかどうかを実証するためには一回でも実験に成功しないとダメだ。 そういうわけで乳幼児に矛盾する存在をぶつけてみて止揚するかどうか何度でも実験すべきでは。 わたし個人はそんなことをする気はないが。
310 :
考える名無しさん :2008/12/12(金) 00:40:14 0
311 :
考える名無しさん :2008/12/29(月) 01:09:59 0
>>302 高学歴ほどSEXに興味のある女の子は多い
312 :
考える名無しさん :2009/01/08(木) 02:37:41 0
つまり、勃起性の器官は、それ自身としてではなく、また心像としてでもなく、欲求された 心像に欠けている部分として、快の享受を象徴することになる。また、それゆえ、この器官は、記 号表現の欠如の機能、つまり(−1)に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、 快の享受の、前に述べられた意味作用の√(-1.39029)と比肩しうるのである。 この程度のことも理解できない無教養な蛮族が、 ソーカルの軽薄な煽動にひっかかってしまうのが、まことに嘆かわしい。 夕食を食ったばかりの爺が「めしはまだか」と真顔で訊くように、 もう終わった話を何度も蒸し返すからお前は「白痴」と言われるんだよ。 ____ / \ /\ キリッ . / (ー) (ー)\ / ⌒(__人__)⌒ \ <しかしの青体はガガと震えだしたぜ。 | |r┬-| | \ `ー'´ / ノ \ /´ ヽ | l \
313 :
考える名無しさん :2009/01/14(水) 06:07:26 0
>>302 恥ずかしさ、これに極まれりだなw
尊敬するわ。
314 :
考える名無しさん :2009/01/18(日) 19:27:10 0
Q.他人と意見が衝突した場合どうする? A.相手の意見を聞いて肯定した上で、自分の意見も言ってみる。それでもダメなら優先順位として、私は協調性をとって意見を受け入れます。 Q.それでどうしても納得できない場合も受け入れるの? A.は、…はい。。。あ、周りにも意見聞いてみますかね…。 就職の面接でなんだが・・・ 弁証法的模範解答plz
ああ、どおりで。 何〜んか奥に当たるなあと思ったら、ローションが必要だった。
316 :
考える名無しさん :2009/01/20(火) 11:31:26 0
OFWのコピペは如何なってるんよ?
タイハオラッ!!
318 :
考える名無しさん :2009/01/22(木) 12:11:21 0
319 :
考える名無しさん :2009/01/23(金) 09:12:40 0
>>316 318なんぞに期待すんな!
俺がいつか、近いうちにやってやるよ。
320 :
考える名無しさん :2009/01/24(土) 06:00:14 0
321 :
考える名無しさん :2009/01/24(土) 10:06:21 0
>>302 日本発ってことは、右翼系では既にゴロゴロ存在しているってことか
322 :
考える名無しさん :2009/01/24(土) 10:20:00 0
万世一系の神話にしがみつく未開人を解放するのが哲学なのだよ。
323 :
考える名無しさん :
2009/01/31(土) 01:59:53 0 >>302 素晴らしい。これ以上ない。ただただ拍手