【資本主義】東浩紀スレッド90【を生きる】

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769動物の遠吠え ◆adhRKFl5jU
社畜の私がちょっと通りますよ。
日経新聞のIT-PLUS、「メタデータが主役のコンテンツ消費・人文系が語るネット(下)」みましたよ。
第二回目の(中)について昨日>>700>>706>>707らへんに書きましたが、明らかに(中)と(下)の順序は逆ですよ。
>>712で書いたひろゆき氏について(下)では言及されてたし。
時系列的に書くなら(中)と(下)の順序は逆で、ひろゆき(ケツの穴)⇒濱野智史(ウンコ)が自然の摂理っつうもの。
とりあえず、

>・つながりの王国⇒(タコツボ化)⇒コミュニティーの分断の問題
>・アーキテクチャーの権力の問題
>・メタコンテンツばかりを消費して肝心のコンテンツには関心を向けなくなる(コミュニケーション志向メディアの台頭)の問題

はいかにも批評家らしいあずまんの伝統芸。
それはいわゆる批評家を批評家たらしめる正当なポジションの王道で、もちろんその必要性は俺でも分かるけど、そのような
批評的な立ち位置がどのようにしてなぜ可能だと思われてるのかについて考え始めたが俺のスイーツな頭脳では分からない。
>>746で俺は「俺が書いた内容ではなく俺自身に興味がある」と書いたけどこれも「メタコンテンツ化」の流れで説明ができそうだ。
770考える名無しさん:2007/11/09(金) 16:51:28 0
けどやはり論調全体に漂う奇妙な空気に違和感を抱かずにはいられない。

>ネットは「非同期的」なメディアである。したがって、ユーザーは同時刻に同じコンテンツを共有することができず、
>その欠如の感覚が、かえってユーザーに「つながり」への強い欲望を引き起こすことになる。

これも逆だと思うんだが…こういう思考の仕方は「哲学」のしきたりなん?
俺的には「人はつながりを欲する存在なのであってネット環境が今まで不十分だったのが様々な試行錯誤や実践的試みによって
追いついてきてる」とか「リアルな空間とネット空間の境界が溶け合い重要視されなくなった」とか「ネット空間の発達によって、逆に
リアルな空間が何であったのかを我々は知りつつある」とつい考えてしまう。
エルンスト・フィッシャーというドイツ人化学者(よく知らない)はかつて「機械がもっともっと能率的で完ぺきになるに連れ、不完全さ
こそ人間の偉大な特質であることが明らかになるだろう」と語ったようだけどそのような想像力のほうが俺の中では圧倒的。
それから第二回目のとき(>>706)と同様、締め括りの一文でまたずっこけた。

>第三のネットについての言説に多少の魅力と興味を感じてもらえたのなら、筆者としては嬉しいかぎりである。

これを「第三の道があるある詐欺」と人は言う。
こうやってベタな紋切り型で文章を締めくくるという評論の作法にはほんと辟易させられる。
もちろん、あずまんは別だが、世間には「紋切り型」だけでそれっぽい文章が書けてしまう人がうじゃうじゃいる。
別にA新聞社がそうだとは言わないが、ま、第三回目(下)は面白かったです。今のワレワレの環境は一体どうなってるんだ?みたい
な大らかに同期する感覚は嫌いではない。