資本とネーションと、時々、国家 4

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903第三の波平 ◆q5y3ccmqnw
■[試論]脱構築を脱構築する その5  考察編

収束−発散構造論の整理

http://f.hatena.ne.jp/pikarrr/20080220005927

全体を、このような収束−発散の構図でまとめた。再度言えば、収束とは、ラカンの欲望論
をもとにした、否定神学構造をもつ主体である。自らの存在の起源へと投企するような主体
であるが、そこは他者を介してしか得られないと言う意味で、<他者>への投企である。すな
わち言語コミュニケーションとは、必ず(無意識の)欲望が混入しているということである。

発散とは、このような収束をゆるめる傾向である。それを能動的に行うのが、ニーチェの系
譜学であったり、デリダの脱構築であるが、言語コミュニケーションそのものが(無意識の)
欲望が混入しているならば、そこには反転として、否定神学から逃れることはできない。系
譜学であり、脱構築であり、その行為によって、ただに宙づりするのではなく、そこに意図
が混入してしまう。
904第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:43:14 0
能動的な発散はこのような困難さがある。それに対して、受動的な脱構築がある。これは
生理的な脱構築、情報化と忘却である。ある意味への思いこみがあったとして、人は時間
とともに思いが薄れる、忘却する。それと、大量の情報にさらされることで、思いは薄れる。
権力者、マスメディアなどの権力の偏向があるという議論があるが、基本的には情報の多
様化は、それだけで受動的に脱構築している。そこに意図がないということで、ある意味で
純粋な脱構築であると言える。

この傾向が、近代以降の社会論につながる。フーコーでいえば、規律訓練型権力から生権
力につながる。あるいは最近ならばマクドナルド化がある。この議論は、受動的に脱構築さ
れた主体は、共有された意味を失うとともに、物理的な豊かさの中で、充足するという、動
物化に向かう。より端的にいえば、これは家畜化されるということである。これは最近のネ
オリベラル化によって言われるが、そもそも近代以降の資本主義の市場経済がもつ傾向で
ある。家畜化によって起こっているのが、逆に強引な否定神学への転倒が起こっている、と
いうことだ。
905第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:44:54 0
アガンベン 人文学機械

アガンベンは、人間/動物と、人文学機械と呼んだ。これは哲学そのものが持つ構造であ
る。ここでは人間が救出されなければならない。それは、動物を排除することで行われるの
である。かつては人間/動物 主人/奴隷として成立していたが、近代以降、精神/身体
へと向かった。

このような意味で、東/樫村/スティグレールは、結局、人間/動物にとらわれているの
かもしれない。動物化が否定神学として、作動しているのかもしれない。「否定神学」を否
定神学する。脱構築を脱構築することで否定神学する。

主体とはこのような収束−発散の間を揺れるような存在であるということである。完全発散
から不確実性が進入しつづけ、それを規則へと解消し、秩序をつくろうとする。一つは言語
によって。そこに充足した意味が生まれる。象徴界の構築である。
906第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:45:47 0
もう一つは道具によって。数学/論理によって。どちらも人間/動物の対立に基づく。ロゴ
スは人を人間とし、道具は人を動物とする。この動物は、本当の動物ではなく、家畜であ
る。東がいう動物とは家畜化である。

もう一つの動物化として野生がある。デリダの思想は、人間に家畜ではなく、野生を混入さ
せる。人間/動物の形而上学的二項対立に、野生を混入させる。それは不確実性の混入
である。

ベイトソンの学習理論も同様な構図にあるだろう。機械論である。動物はゼロ学習という機
械である。それが人間へと高度化し、神へ向かうという、構図を持っている。ゼロ学習で自
然の不確実性を生きることをできるだろうか。西洋哲学自体が、野生を抑圧する。
907第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:48:40 0
ドゥルーズ 器官なき身体

さらに根源的に考えると、収束−発散とは、エントロピーの増減に対応した、秩序−混沌で
ある。ここには連続性が存在する。人間の特別性が、この連続性を断絶させる。ラカンの
否定神学はこれを継承しているといえる。断絶を、なんとしても打ち立てなければならな
い。人とは道具と使うことと、話すこと。なぜ人は話すのか。否定神学的な主体であるからだ。

ここに、強烈に秩序−収束を取り込むとき、なにが起こるだろうか。そのためには認識論を
とりはらわなければ、ならない。認識論は、我という特異点を見いだしてします。素朴実在
論に戻るしかないだろう。それとともにより超越的な視点が必要である。人間がただの霊長
類である、と還元するために、猿/人間の差異を解消するような、より大きな差異である。

「人間は否定神学的な動物である」。より高度な伝達を行うために、断絶=柔軟性を広げ
た。動物においても同様に柔軟性があるだろう。ネオニティである。言語の自己言及性でフ
リーズする特性がある。言語の力は、より高い秩序を生み出し、自然の予測可能性を排除
し、管理して、そして増殖している。
908第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:51:21 0
このたくましさ。この根源的な力とはなんだろうか。それはただただ生命の力である。ニー
チェはこれを作用と呼んだ。ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」がニーチェの影響を受けて
いることがわかる。「器官なき身体」とは力の粒であり、それが「欲望する機械」として、生権
力かしていく。

それほど、象徴の貧困を起こしているのだろうか。この価値多様な社会で、オタクや、ネット
ユーザー、「女子高生」などなど、意味不明な大量の人々が生まれている現状をどのよう
に考えるのだろう。特にネット上の2ちゃんねるや、ニコニコなどの多様性、混沌さはなんだ
ろうか。「まともな人」にとって、受動的な脱構築の暴力に、精神的なショックを受けるので
はないだろうか。豊かになったのだから、人々はその豊かさを享受するために家畜化され
つつ、野生化している、といえないだろうか。
909第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:53:54 0
ヴィトゲンシュタイン 「規則に従う」

真の<断絶>は動物の彼岸にあるのだろう。それは、不確実であり、認識してない外部であ
る。人はこのような不確実性に絶えずさらされている。それを秩序へ回収するために、言語
によって意味として、道具によって構造物(アーキテクチャー)として、進めてきた。言語を
使用し、道具を使用するもの人間であり、言語を持たず、道具に管理されるのが動物である。

内部・・・収束(神/人間/動物)
<断絶>
外部・・・拡散(野生、不確実性)

ここで野生として語ることも、また家畜/野生の二項対立に向かうだけかもしれない。ヴィト
ゲンシュタインはなぜコミュニケーションが成立するのか、に対して、「規則に従う」といっ
た。これはなんだろうか。しかしそれ以上は語らない。

ヴィトゲンシュタインは、「語り得ぬものは沈黙しなければならない」と言った。デリダ風にい
えば、「語り得ぬものは差異化、遅延し語らなければならない」、そしてラカンは「語り得ぬも
のは、語るほどに決して語れず、沈黙することで多くを語る」と言うだろう。
910第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/20(水) 23:54:48 0
みたいな・・・