倫理学再論

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38考える名無しさん:2007/09/15(土) 00:50:36 0
>>37
たとえばどういう規則?
39Ra:2007/09/15(土) 00:52:06 O
226+846=72
という数式に誰もしたがわなくとも
その数式は規則である
われわれがそれを規則として取り扱うからである
40考える名無しさん:2007/09/15(土) 00:54:12 0
>>39
あ、そういう意味で規則って言葉を使ってたんだ。
じゃあ、われわれがそれを規則として取り扱うから規則なんであって
謎もなにもないじゃん。
41Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/15(土) 03:36:16 0
>>37>>39
誰も従うものがいない規則を、規則として取り扱うというのは、矛盾していないか。
42Ra:2007/09/15(土) 09:19:49 O
規則をわれわれが理解するとはどういうことだろう?
ナイトにビショップの動きが加わる
というルールを想定する
これは誰も従う者がいない仮想ルールだ
このルールをルールとして理解するということは
われわれがその仮想ルールに対してある禁止を自らに課すことである
どんな規則でも、それが規則足りえるのは、
われわれがその規則に対して、ある禁(個別理由付け)を犯さない限りである
ある規則を規則として理解することは、われわれが実際に一つの特殊な規範に従うことを要求する
43夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/15(土) 09:49:26 0
客観主義と相対主義は対概念ではない。

相対主義は客観的である。

「このケーキは美味しいのか?」

という問いが発せられるとき、

「Aさんにとっては美味しく、Bさんにとっては美味しくない」

という主張は、客観的真理にコミットすることもできるが、
他方で、相対主義にコミットすることもできる。
44夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/15(土) 09:51:22 0
もっとも、次のような反論も考えられる。

「このケーキは美味しいのか?」と問うこと、あるいは、
「殺人は善なのか悪なのか」と問うこと、このような問い方については、
問いの立て方そのものが不適切である。
というのは、前の文章は「このケーキは誰にとって美味しく、
誰にとって美味しくないのか」ということをその内容としているからであり、
殺人の文についても同じだからだ。
45Ra:2007/09/15(土) 10:34:04 O
相対主義について君が参考にした本を教えていただきたい
46考える名無しさん:2007/09/15(土) 12:56:48 0
倫理を問う方法について再考するスレ、ってことでいいんでしょか
あんまり面白くありませんね
私はこういう論理にコミットしている(ので正しいというのはこういうことである)、
の括弧内の部分がすっぽり抜け落ちていませんか。
47Ra:2007/09/15(土) 18:53:25 O
われわれは議論に参加するとき、
論理にコミットしている

俺の提起した問題は「語りえないこと」て言われるやつだから
ほどほどにして具体的な議論をしたほうが効果的だとは思うけどね
のぼっても何もないはしごだ

ちょっとかみくだいてみようか
「なんで狂ってはいけないのか?」って問いさ
これに答えるには狂ってない必要がある
だけど狂人から見ればまったく違う意見があるかもしれないぜ
4846:2007/09/15(土) 19:29:12 0
自覚していながらなおその立場を変えないんですね。
そうすると、もう既に俺があなたに語るべきことはあまりないし
俺が聞きたいこともあまりなさそうな感じですが……

例も、意図がよく分かりません。
49夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/15(土) 23:25:34 0
>>45
本は無い。
私はこれまでの周囲との対話のみを参考にしている。
50Ra:2007/09/16(日) 00:25:20 O
48
ま、はしごを蹴り倒してはいけない
ってやつだよ

形而上学も悪くないぜ
糞の益にもたたないけどな

夢君
君の相対主義の定義に俺は反対だ
相対主義を真理はないとする立場と俺は定義する
5146:2007/09/16(日) 02:36:52 0
蹴り倒す以外に否定の方法がないところに逃げ込んでおいてその台詞はズルいですw
52Ra:2007/09/16(日) 06:25:14 O
狂人よりも酔っ払いの方がいい表現だったかな
われわれがシラフでいる限り、われわれは誤り続けているのかもしれない
このような疑問にどう対処するのか。


せっかくだから殺人禁忌の道徳性について少し論じてみるか
殺人禁忌が一般的に道徳として扱われるのは、
われわれが「人を殺すべきである」という表現に、論理的な違和感を感じるからである
道徳の源泉を言葉の内部に求めるわたしは、このように主張してみよう
これをテーゼとして次のようにして提出する
・道徳的規範の自然テーゼ
道徳的規範は自己言及においても自然であるように(違和感を感じないように)成立しなければならない
さらに詳しく言えば、自己言及においても普遍性を保っていなければならない
53考える名無しさん:2007/09/16(日) 07:34:30 0
〜すべき系は大雑把であるほど違和感が生まれる。
54Ra:2007/09/16(日) 08:37:20 O
んじゃカントにならって
存在が目的に反するのは不適である
これって実は論理的な問題だと思うんだよね
55Ra:2007/09/16(日) 08:48:07 O
1、人を殺してはいけない
2、人を生かしてはいけない

ここで1が2に優先するのは道徳的規範自然要求テーゼから
このテーゼはカントの道徳論から俺が抜き出した
自然ていうのはカントの表現から借りた
この自然要求テーゼを吟味しようぜ
56夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 08:51:09 0
私は意志法のみを認めるので、自然的なテーゼは倫理から除外される。
が、吟味には興味があるので続けて欲しい。
57夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 08:56:35 0
その前に私による規範の分類を概説しておきたい。
私は伝統的な用語法に従うが、その結論は非伝統的である。

まず、自然法が挙げられる。
自然法は、その定義上、理性的な人間全員を束縛すると言われる。
私はこの法を認めない。

次に、万民法が挙げられる。
万民法は、あるときは自然法と同視されるが、ここで私が念頭におくのは、
自然法以外で、人間の意志に由来し、全ての人間を束縛する規範である。

次に、市民法が挙げられる。
これは、ある特定の国の意志法である。

さて、万民法と市民法は意志法なのだが、私は個人的な意志法しか認めない。
万民法も市民法も、私の倫理からは除外される。
58Ra:2007/09/16(日) 09:18:27 O
自然とはカントの表現だが、これはカントの表現が悪い
このテーゼでカントが問題にしたのは、
存在が目的に反することの除去だ

ついでだ
はっきり言おう
カントの道徳論は2つのテーゼから成立する
この自然要求テーゼは補助テーゼでしかない
メインとなるテーゼは定言命令そのものだ
そして、上の1も2も、どちらも定言命令に反しない
59考える名無しさん:2007/09/16(日) 09:21:00 0
>>55
1が2に優先するのは、2の方が行動しなくてはならない分、面倒だから。
1は寝てるだけで達成できるし。道徳とか関係ないんじゃ?
60Ra:2007/09/16(日) 09:24:05 O
上の1、2の規範はどちらの規範を妥当としたところで道徳的なのである
もっとも「生かしてはいけない」などという道徳的規範はわれわれの想像以外に見かけないかもしれないが
61Ra:2007/09/16(日) 09:50:42 O
自然要求テーゼ(名前だけで自然とは何も関係ない)
これが妥当に感じるのは、多分、そういう文化にわれわれがいるからだろう
われわれがある種の数学を妥当に感じるのと同じ理由であるように思う
62夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 09:53:04 0
自然というのを日本語的に解しすぎではないだろうか?

essentiaに照らされた規範はnaturalisであると言われるからだ。
lex naturalisあるいはius naturaleが支持するnaturaとは、日本人が
「自然」と聞いて想像するものとは非常に異なっている。
63夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 09:54:23 0
カントは、存在に照らして導き出されるテーゼであるがゆえに、
自然テーゼと呼ぶのであろう。これはカントの用語法が正しい。

これに違和感を感じるのは、むしろ翻訳の問題なのである。
64考える名無しさん:2007/09/16(日) 10:10:02 0
>>52
道徳はお互いが正しいことを暗黙の了解として、はじめて成立しうるものでしょう?
そういう場面を想像すると、道徳は成立しえない。
よってそのような想定は無意味。

というようなやり方はあなたにとっては乱暴なのですか?
65夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 10:35:33 0
存在と目的との関係についても述べてみたい。

目的は意志によって定立されるがゆえに(私はここで何ら難しい話をしていない。
意志によって定立される目的とは、「今日は散歩をしよう」とか「今日は○○の店で
昼食を食べよう」などの単純な目的を思い浮かべるだけでよい)、意志に先行して
目的があるということはありえない。

さて、いったん意志によって目的が定立されるならば、なるほど、存在はその目的に
照らして何かを推奨されたり禁止されたりするのだが(例えば、「今日は新宿に行こう」
という目的が定立されるならば、私は「京王線か中央線に乗らなければならない」という
規範に従わざるをえないであろう)。

しかし、目的は常に撤回可能であるから、「私は京王線か中央線に乗らねばならない」
という規範を前にして、私が尻込みするならば(例えば、金銭的な事情で、時間的な事情で
尻込みするならば)、私は常に目的を撤回可能である。
66夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 10:36:26 0
訂正:

しかし、目的は常に撤回可能であるから、「私は京王線か中央線に乗らねばならない」
という規範を前にして、私が尻込みするならば(例えば、金銭的な事情で、時間的な事情で
尻込みするならば)、私は常に目的を撤回可能である。



しかし、目的は常に撤回可能であるから、「私は京王線か中央線に乗らねばならない」
という規範を前にして、私が尻込みするならば(例えば、金銭的な事情で、時間的な事情で
尻込みするならば)、私は常に目的を撤回することによって、連鎖的に、これらの規範を
消滅させることが可能である。
67Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/16(日) 11:40:37 0
>>65
他人から与えられる目的、については意志に先行すると思う。(君はどこどこへ行け)
68考える名無しさん:2007/09/16(日) 12:17:03 0
>>60
そりゃあ、規範と決めつければ何でも道徳的になるよ。
人が無闇に人を殺さないのは、単に面倒だから。
それでも殺したい動機があれば人は人を殺す。それだけだろう。
道徳とかってなんか胡散臭いし。
69夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 12:30:30 0
>>67
その場合でも意志法が先行すると思われる。
というのは、他者からの命令があっても、それを受け入れようという意志法、すなわち、

「私は彼の命令を受け入れるべし」

という意志法がなければ、他者の命令は規範とはなりえないからである。
そして、このような意志法の定立を促すものとして、賞罰が考えられる。
70Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/16(日) 12:56:35 0
>>65
いったん意志によって目的を定立した場合、いつその目的の行為をやめるか、と言う
問題があると思う。たとえば、タバコを吸っていて、気分良くなって、何本すってやめ
るか、と言った場合に。これは意志の力ではなく、気分とか、曖昧なものによると思う。
71夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 13:03:59 0
>>70
確かに、あなたの指摘の通り、「私はいかに意志すべきか」は、
倫理の基礎的な問題であるように思われる。

なるほど、気分、賞罰、その場の雰囲気、他者からの忠告などが、
意志の立法を左右する。しかし、これらの要素に対して、私の意志が、
「いったいどれを採用すべきなのか?」という自覚的な問いを発する
ことが可能である。

このとき、私の意志は「私は立法についていかなる決定的な規定根拠も持たない」
ことに気づく。これが意志の自由であると解される。だが、この自由の代償は高い。
72Ra:2007/09/16(日) 13:07:43 O
68
何が道徳的なのかはあまりたいした問題ではない
殺そうが、殺すまいが、俺はあまり関心がない
そのような道徳たるような規範があるのか?
それが君の疑問でもあるはずだ
(君のような反論を待っていた)

ところで、論理へのコミットは規範足りうると思う?
論理的と非道徳的は両立できるのか?
俺はできないんじゃないかと思うのよ
現在進行形で検討中
73考える名無しさん:2007/09/16(日) 14:24:48 0
>>72
それはあなたの「道徳的であること」の定義が「論理的であること」を含んでいるから
ってだけじゃないの?

ある個人が自身の規範にきちんと従うことを道徳的であると定義して、
その行動を論理的であると判定してるだけでしょ?
そしてその逆、論理的なある個人がいるとして、
彼は彼固有の規範に「論理的であるがゆえに」従うでしょう。
これをあなたは道徳的と呼ぶ。
74考える名無しさん:2007/09/16(日) 14:33:45 0
>>72
「現在進行形で」はいらないんじゃないか?
検討中だけでおk

ところで、倫理の存在意義は?なぜ哲学だけじゃだみなの?
75Ra:2007/09/18(火) 09:12:01 O
検討中ということは、非道徳が論理的である余地もありそうだと考えているということ
定義はどう呼ぶかという呼び名を決定することだから
定義されたものを検討したり、反論したりできない

論理的一貫性が欠けてたところで、個々の発言が矛盾しているわけではないのだから、
非道徳な態度が論理的足りうることはありうるかもしれない
76Ra:2007/09/18(火) 09:14:42 O
倫理の存在意義?
倫理学の存在意義?
質問がどっちかわからん
77Ra:2007/09/19(水) 05:11:42 O
非道徳と論理についての例
小泉チルドレンが、
「一票しかないわたしの票は総裁選で麻生さんにいれます」と言い
別の場所で「票は福田さんにいれます」と言う
彼の個々の発言は矛盾しているわけではない
78夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/10/03(水) 02:06:52 0
規範の対象とは何か?
規範はどのような対象を持つことが可能なのか?

私は後者について次のようなひとつの仮説を立ててみたい。

他者は規範の対象にならない。
なぜなら、他者は世界の中に現れないからである。

というのは、他者とは、私の認識に依存しない実体であり(つまり、
私が見たり聞いたりしなくても存在するものであり)、それゆえに、
認識されたものの総体であるところの世界の中には含まれない
からである。
79夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/10/03(水) 02:08:01 0
さて、他者が規範の対象にならないとはどういうことか?

それは、「あなたは〜すべし」「彼は〜すべし」という主語を持つ規範命題を
作ることができないということである。すなわち、

規範命題は、私のみを主語とする。
80Ra:2007/10/14(日) 00:18:35 O
スミスはマイクに5ドル借りた
「スミスはマイクに5ドル返すべきである」

吉田は王手をかけられた
「吉田は王を逃がすべきである」
81考える名無しさん:2007/11/05(月) 19:02:53 0
下賤なエンジニアのオレとしては、進化的に獲得された利己と利他のバランスの上に、
社会における利害調停のためのきわめて実利的な構造が作られただけかと。

結局は「良い」「悪い」の問題の1カテゴリにすぎなくて、他者の利害を自分の中で
シミュレートしてますか?という問いに帰着する一つの評価基準だと思うんだけど。
そんなものをごてごてと飾りたてたがるのは、結局欺瞞にすぎない・・・と。

・・・見当外れ?
82考える名無しさん:2007/11/07(水) 00:23:27 0
age
83考える名無しさん:2007/11/07(水) 04:32:54 O
倫理学を哲学の看板の下でやられると困る
まぁ、倫理学を馬鹿にしてるところはあるけど、
接点はありつつも全然違うものだよな
84考える名無しさん:2007/11/07(水) 14:57:33 0
>>83
哲学と考えて良いように思うんだけど・・・具体的にどういう風に違うの?
85考える名無しさん:2007/11/07(水) 15:07:13 0
たとえば、「サイコロの出た面に書いてある行為をする」という規則に
従って行為する人を、倫理的と呼べるのか。
これで突飛すぎるなら、「とにかく上司の命令に従って行為する」という規則に
従って行為する人を、倫理的と呼べるのか。
彼は、意志法に従っているのか。
86考える名無しさん:2007/11/07(水) 15:35:06 0
>>85
ルールに従うことを「倫理」と呼ぶわけではないでしょ。そのルール自体を論じているわけで。
87考える名無しさん
というか、オレの理解では、

  ルール:規範
  ルールの根拠となる論理:倫理

だと思う。いずれにせよ、ルールに従うことを「倫理的」と呼ぶのはどうにも見当外れに思う。