倫理学再論

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1夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg
このスレで要求されることはひとつしかない。
それは、倫理について考えることである。
2考える名無しさん:2007/09/11(火) 22:48:34 0
終了である。
3夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/11(火) 22:55:09 0
倫理とは何か?

定義から始めるのは有意義であるとともに、直観を削ぐ行為でもある。
私は次のように始めたい。

規範とは、世界の理想像である。
規範命題は、理想的な世界の諸事物の諸関係を記述している。
それゆえに、規範命題は、事実命題と異なる意味内容を有するのではない。
事実命題と規範命題との差異は、命題の属性ではなく、人間の側の態度である。

命題と現実とが照らし合わされ、命題と現実とが一致するとき、
命題を真であると呼ぶ場合には、それは事実命題である。
反対に、現実を善であると呼ぶ場合には、それは規範命題である。
4Ra:2007/09/11(火) 22:57:54 O
いずれ書き込む
その前に問題提起
デカルトのコギトにおける問いは「真理の探求は可能なのか?」だ
これは哲学における根本的な問いだと思う
ならば倫理学の根本問題は「倫理について考察するのは可能なのか?」だ
これを改良してわたしは次のような問いとして提出したい
「実践について思考する際に、なぜわれわれは思考を規則に従わせなければならないのか?」
わたしはこれが倫理学の根本問題だと考える
次の書き込みは明後日以降になる
5夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/11(火) 23:03:27 0
その問題提起は奇妙ではないだろうか?
「〜ねばならないのか?」というのは、普通は、規範的言説である。

「倫理について考察するのは可能なのか?」という問いの改良形の中で、
いきなり規範的単語が用いられること、これは納得がいかない。

私はケルゼンの「事実と規範は定義不可能であり、先天的に与えられている」
という発言を重く受け止めるものだ。彼は、逃げを打ったが、それは、彼の前に
立ちはだかる怪物の大きさを彼自身がよく知っていたからだと、私は想像する。
6夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/11(火) 23:07:46 0
私は、私の思い違いでなければ、関係性の哲学スレにおいて、
規範的な助動詞の用い方に細心の注意を払ったつもりである。

私は「〜すべし」「〜ねばならない」という文言を、あらゆる文に
おいて慎重に扱った。
7Ra:2007/09/11(火) 23:20:42 O
どのような時、倫理についての探求
ーせっかくなので真理と同じように扱おうー
正義や善の探求が不可能になるのはどのような時か

また、なぜ不可能になるのか
これを検討しよう
規範言明による発言を可能にしているのは何なのか
われわれが実際にそういう言葉を使用しているという事実だけなのか?
8Ra:2007/09/11(火) 23:26:47 O
われわれが自らの実践を振り返るとき
ありていに言えば、価値について考える時、
なぜ規範の形をとるのか?
そのように規範の形をとって思考することが、
すでにして何らかの倫理の存在を前提にしているのではないか?
9Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/11(火) 23:29:59 0
死による個人の消失が、倫理規範の元となっているのでは。消えていく自分と、存在し続ける世界。
個人が自分の生に意味を与えるには、社会によるその人に対する意味づけと、社会に発信する個人的に正しいと思う
倫理規範を投げかける、と言う行動が、重要であると考えます。
10Ra:2007/09/12(水) 00:49:49 O
あいかわらずアク禁だ
ま、俺はガチガチの形而上学愛好家なもんでね
ウィトなら「語りえない」とでも言うだろうが

ところでこういうのはどうだろう?
道徳的規範言明と道徳言明に違いはあるだろうか?
道徳的規範言明を語れるということは道徳的なのではないか
なぜわれわれは道徳的なのか?
こんな感じならどうでしょうか?
11Ra:2007/09/12(水) 07:49:12 O
用事、明日になった
てことで夜に長文書くぜ
デカルトと対比させるためにデカルト解釈から書くつもり
アク禁されなければ
12Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/12(水) 19:31:50 0
>>10
倫理、ということばは、もともと何らかの秩序を持った人間の集まりや結びつきのことをいい、道徳
、と言う言葉は、人の守り従うべき道、と言う意味を表す。
道徳的規範言明は、他者にもそれに従うべきだと言う意見を含んでおり、倫理に近いと思う。
一方、道徳言明とは、自分の考えを示すだけにとどまり、道徳というのと同義である。
何故われわれは道徳的なのか?それは、われわれが生物であり、生命に刻まれた掟に従う本能を持つ故では
ないだろうか。子供に犯罪者が少ないと言うことだと思います。
13考える名無しさん:2007/09/12(水) 20:48:44 0
テンション高そうなスレ見つけられてうれしい。ヲチしてるよー。
14夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/12(水) 22:26:21 0
Ra氏はアク禁だろうか?
15Ra:2007/09/14(金) 00:15:39 O
すまん、昨日は朝帰りしてしもた
明日にでも
16夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/14(金) 00:30:44 0
>>3の続き。

事実命題と規範命題とが、その様相において異なるという説、すなわち、
事実命題は事実という様相を、規範命題は規範という様相を持つ全く
異質の文であるという説を、私は否定する。

これらの命題が異なるのは、あくまでも人間の側の態度である。すなわち、
人間が命題を現実と比較し、命題の真偽を問題にする場合には、その命題が
事実命題と呼ばれ、現実の善悪を問題にする場合には、その命題が規範命題と
呼ばれるのである。

「私は明日、早く起きる」
「私は明日、早く起きるべきだ」

これらの命題が記述する諸関係は同一である。これを無差別な基盤としての諸関係と呼ぼう。
17夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/14(金) 00:34:51 0
さて、このような定義に対しては次のような反論がありえる。

「私たちは、妄想についても善悪を問うことができる。ゆえに、
規範の比較対象は現実である必要が無い」

このような反論に対しては、次のように弁明しよう。

「ここで現実と呼ばれるものの中には、仮想的現実もまた含まれる」
18Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/14(金) 11:16:33 0
>>16
二つの例文が列んでいるのを見て思ったのですが、語彙の海の中から魚をつかまえて、料理して食べる(真偽を判断しないことは許されない)のが事実命題で、
水槽の中で飼っておく(善悪の判断を保留する)のが規範命題である、と思ったのですが。
19Rail:2007/09/14(金) 12:22:46 0
復帰した、長文行くぜ!

・根本問題

R・ノージックの言を借りれば、
政治哲学、国家論の根本問題は、
「なぜ無政府状態ではいけないのか?(Why not have anarchy?)」である。
なぜなら、もしアナキズムが支持可能であるならば、
「国家はいかにしてあるべきか」という政治哲学の主題が無意味になるからである。

これに倣うならば、
真理を問い「何を真とし、何を偽とすべきか」を主題とする哲学の根本問題は、
「なぜフィデイスト(懐疑論者)であってはいけないのか?」
「なぜ『真理はない』と考える相対主義者であってはいけないのか?」であり、

道徳哲学、正義論の主題は「何が等しく、何が不等に扱われるべきか」であるから、
「なぜ個別性を理由付けとするエゴイストであってはいけないのか?」である。

エゴイズムと正義論についての分析をここでしている余裕はないのでかいつまむと、
正義論の最も根本的な原理を問題として掲げるならば
「なぜ規則内のものを個別性を理由に区別してはいけないのか?」である。
(それは規則を破壊する行為である)
もう少し柔らかい言葉にしよう
「なぜ規則に従わなければならないのか?」である
(従わなくてもよいものを「規則」とは呼ばないが、
ここでは言葉の問題ではなく、悟性への信頼に疑問を投げかけたい)
20Rail:2007/09/14(金) 12:24:50 0
・個人的デカルト解釈

デカルトをここで語るのはスレ違いかもしれないが、
哲学板で100を超えたスレからの流れとして、少し触れておきたい

デカルトは『方法序説』でピュロンの懐疑論をかなり意識しており、よく触れている。
わたしは、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」をピュロンへの反論と見る。

ピュロンについてはラッセルも触れている。
>ピュロンはある行為の過程を他のものより選び取る合理的な理由は何らありえないと主張したと言われている。
>古代の懐疑主義者たちはあらゆる異教の儀式を行ったし、時には司祭でもあった。
>彼らの懐疑主義は、その行動が悪であると証明されることは決してありえないと彼らに保証したし、
>また彼らの常識はそうするのが便利なことを彼らに保証していた。

これは懐疑論でも極端な立場であるだろうから、素直に「懐疑論(フィデイズム)」と呼んでいいのかわからない
わたしは「ピュロニズム」とか、思い切って「相対主義」と呼んでいいように思える。

デカルトやベーコンら近代の合理主義者は、真理は純粋な理性や経験によって掲示されると考えていただろう。
(根拠を経験に求める経験論であれ、理性に求める合理論であれ、どちらも合理主義の一種と見ていいだろう)

わたしは、デカルトの『方法序説』を
「懐疑主義 対 合理主義」の構図として読み取ろうと思う。

そしてデカルトは合理主義の第一原理として
合理主義者であることの意義を問い、懐疑論への批判を試みた。
「何でも疑い、その結果として『真理はない』という態度をとるのは間違っているのではないか?
懐疑を徹底しても何かが残るならば、何でも疑ってしまう懐疑論は自己矛盾するのではないか?」
結果として、デカルトは「われ思うゆえにわれあり」を懐疑の結果残る真理として掲げ、懐疑論と決別する。
(わたしは自らを合理主義者と自認するが、デカルトのこの試みは失敗していると考える。)
21Rail:2007/09/14(金) 12:28:16 0
・倫理の根本問題

ここでデカルトを多く語ったが、
デカルトの「われ思うゆえにわれあり」と同じような問題が、
つまり実際論的パラドクスを犯す規範が倫理について考える際も生じるのではないか、とわたしは考える。
それの妥当性を問うのが倫理について考える際の根本問題になりうるだろう。

事実(存在)について相対主義的態度をとる者は少ないが、価値(当為)について相対主義的態度をとる者は多い。(価値は規範と読み替えてもよい)
これは価値については多元的な現状を認めれるが、事実についてはそうでないということだろうが、
わたし個人は、存在も当為も、その様式が違うだけで多元性、確実性についてはまったく同じ性質をもっていると考える。
価値を事実と区別してまったく別格なる特別なものとして扱う理由はない。

そしてデカルトにならって倫理の根本問題を考えるならば
「価値について考えるのは徒労ではないのか?」である。
(「無意味」という表現は個人的に好きでない。「徒労」の方がまだ問いをはっきりさせるだろう。)

これが先日にわたしが提出した問題である。
22Rail:2007/09/14(金) 12:36:11 0
・個人的に、・・そして、

わたしは知の最も基本的な原理は「矛盾の禁止」であると考える。
だから「矛盾すること」と「禁止すること」について興味をもった。
「何も存在しない」が違和感を感じさせるように
「何も禁止してはいけない」もまた違和感を感じさせるように思う。
正義について考える際に、正義を否定できるような規範を定式化したいと以前に考えていたが、
この「何も禁止してはいけない」を正義を考える際の根本問題になりうると考え、
「悪魔命令」と名づけて提出してみよう。

(わたしは、真について考えるには偽について考えるのが手っ取り早く、
善について考えるには悪について考えるのが手っ取り早いと考えている。
ついでに言えば、定義からはじめることは徒労だと考えている)

もし「何も禁止してはいけない」が妥当な規範であるならば、
規範の妥当性を問うことは徒労になってしまう。
これは道徳的であるならばみな非妥当とする規範だろう。
(実際に道徳的でない人はどこかにいるかもしれない)

なぜ(道徳的である人は)、何かを禁止しなければならないのか?

これはわれわれの社会道徳に限らず、
将棋のようなゲームを例にして考えてもいいだろう
23Rail:2007/09/14(金) 12:48:50 0
>夢見る者
>これらの命題が異なるのは、あくまでも人間の側の態度である。すなわち、
>人間が命題を現実と比較し、命題の真偽を問題にする場合には、その命題が
>事実命題と呼ばれ、現実の善悪を問題にする場合には、その命題が規範命題と
>呼ばれるのである。
もっと詳しく説明してください
ある事実命題の善悪を問う例をあげてみてください

>Absalom
>>9
わたしも君と同じく、倫理規範を投げかけ問いを喚起することは重要であると考える。
だが、倫理の根本を死などの経験を通したものではなく、純粋に論理的な事柄に求める。
君の意見は興味深いと思うが、わたしにはあまり議論を多く展開する余裕がない。
スルーすることが多いことを許してほしい
ちなみにRailが議論用コテ(PCから)、Raが馴れ合い用コテ(携帯から)だ
24Rail:2007/09/14(金) 12:56:36 0
懐疑論について、そういやワトキンズの『〜と懐疑論』って本を昔読んだな
そこでワトキンズが
「科学の合理性を認めたうえで懐疑論を立場から合理性を保持できるか」をテーマにしたいとか書いてた気がする
いやー中身覚えてないのはどうしようもないね
本を読んでも頭の中に入ってくるのって1割ぐらいだよね
25考える名無しさん:2007/09/14(金) 12:59:17 0
なんか倫理より論理のはなしみたいだね。
26Ra:2007/09/14(金) 13:41:52 O
連投規制
25に返事したかったのになぁ
27夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/14(金) 21:48:21 0
>>18
それは私の定義とは異なる。

>>19
そのような設問の展開には賛成できない。

「なぜ無政府状態ではいけないのか?」

「国家はいかにしてあるべきか?」

は全く異なる設問である。
アナキズムが支持可能であるとしても、国家体制が同じくらいに支持可能であるかもしれない
(つまり、アナキズムが支持可能であるならば国家体制は支持可能ではない、という推論には、
必然性がないのである)。
28夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/14(金) 21:51:53 0
>>19
そして、これは

「何を真とし、何を偽とすべきか」
「なぜフィデイスト(懐疑論者)であってはいけないのか?」

をパラレルに捉える設問の仕方にもあてはまる。
例えば、次のように主張することは、それ自体では何ら矛盾が生じていない。

A「私は真偽を信じるが、私の能力の限界ゆえに懐疑論者である」

この発言に矛盾が生じていないということは、

B「真偽を信じないこと」

C「懐疑論者であること」

とは両立可能だということである。
なぜなら、「私は真偽を信じるが、私の能力の限界ゆえに懐疑論者である」ことが矛盾であるためには、
これらの命題が同時に真であってはならないからである。

※AはB∧Cという命題である。
29夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/14(金) 21:54:16 0
また、懐疑論と、無真理論と、相対主義はそれぞれが全く異なるように
定義し、それらを別個に扱うのが適切であるように思われる。

次のように定義してみよう。

真理における相対主義とは、視点によって真理は異なるが、しかし、
ある視点から見るときの真理は決まっているという考え方である。

無真理論というのは、まさしく、真理を認めない考え方である。

懐疑論とは、真理を認めつつ(というのは、真理を認めないと、懐疑の
対象がなくなるからであるが)、自己の能力の限界によって、真偽の
判断を保留する考え方である。
30夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/14(金) 21:58:17 0
>>19
さらに、正義論とは、各人に各人のものを配分する不断の努力であるから
(私はここであくまでも伝統的な正義論に従う)、正義論の根本問題とは、
「各人のものとは何であるか」という問い、すなわち、配分の規準の探求である。

ここで、「なぜ個別性を理由付けとするエゴイストであってはいけないのか?」
という問いは、「なぜ個別性は配分の規準にならないのか?」という問いに還元
されえるから、エゴイズムの問題よりも配分の規準の問題の方が根本的である
ことが分かる。
31Ra:2007/09/14(金) 22:00:52 O
相対主義と無真理論は一緒
真理の意味が変わってるだけ
言葉の迷路

懐疑論は確かに別なるもの
32Ra:2007/09/14(金) 23:00:45 O
規範的相対主義も認識的相対主義も客観的真理理念、客観的正義理念にコミットするという点で相対主義ではない
俺なんか客観的真理理念以外のすべてを相対的と扱うが、厳密には相対主義ではない
所詮、呼び方だから何と呼ぼうとかまわないが
33Ra:2007/09/14(金) 23:04:44 O
規則にしたがう
ということのほうがわたしには根源的な謎に思える
34考える名無しさん:2007/09/14(金) 23:11:27 0
>>33
全然哲学でもなんでもないんだけどさ、
基本はマネるってことなんじゃないの?
35Ra:2007/09/15(土) 00:33:17 O
規則が規則足りえる
ということがわたしには根源的な謎に思える
36考える名無しさん:2007/09/15(土) 00:36:34 0
>>35
だれも従わなければ規則じゃないんじゃない?
37Ra:2007/09/15(土) 00:46:27 O
誰も従う人がいなくとも
規則は規則足りえる
38考える名無しさん:2007/09/15(土) 00:50:36 0
>>37
たとえばどういう規則?
39Ra:2007/09/15(土) 00:52:06 O
226+846=72
という数式に誰もしたがわなくとも
その数式は規則である
われわれがそれを規則として取り扱うからである
40考える名無しさん:2007/09/15(土) 00:54:12 0
>>39
あ、そういう意味で規則って言葉を使ってたんだ。
じゃあ、われわれがそれを規則として取り扱うから規則なんであって
謎もなにもないじゃん。
41Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/15(土) 03:36:16 0
>>37>>39
誰も従うものがいない規則を、規則として取り扱うというのは、矛盾していないか。
42Ra:2007/09/15(土) 09:19:49 O
規則をわれわれが理解するとはどういうことだろう?
ナイトにビショップの動きが加わる
というルールを想定する
これは誰も従う者がいない仮想ルールだ
このルールをルールとして理解するということは
われわれがその仮想ルールに対してある禁止を自らに課すことである
どんな規則でも、それが規則足りえるのは、
われわれがその規則に対して、ある禁(個別理由付け)を犯さない限りである
ある規則を規則として理解することは、われわれが実際に一つの特殊な規範に従うことを要求する
43夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/15(土) 09:49:26 0
客観主義と相対主義は対概念ではない。

相対主義は客観的である。

「このケーキは美味しいのか?」

という問いが発せられるとき、

「Aさんにとっては美味しく、Bさんにとっては美味しくない」

という主張は、客観的真理にコミットすることもできるが、
他方で、相対主義にコミットすることもできる。
44夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/15(土) 09:51:22 0
もっとも、次のような反論も考えられる。

「このケーキは美味しいのか?」と問うこと、あるいは、
「殺人は善なのか悪なのか」と問うこと、このような問い方については、
問いの立て方そのものが不適切である。
というのは、前の文章は「このケーキは誰にとって美味しく、
誰にとって美味しくないのか」ということをその内容としているからであり、
殺人の文についても同じだからだ。
45Ra:2007/09/15(土) 10:34:04 O
相対主義について君が参考にした本を教えていただきたい
46考える名無しさん:2007/09/15(土) 12:56:48 0
倫理を問う方法について再考するスレ、ってことでいいんでしょか
あんまり面白くありませんね
私はこういう論理にコミットしている(ので正しいというのはこういうことである)、
の括弧内の部分がすっぽり抜け落ちていませんか。
47Ra:2007/09/15(土) 18:53:25 O
われわれは議論に参加するとき、
論理にコミットしている

俺の提起した問題は「語りえないこと」て言われるやつだから
ほどほどにして具体的な議論をしたほうが効果的だとは思うけどね
のぼっても何もないはしごだ

ちょっとかみくだいてみようか
「なんで狂ってはいけないのか?」って問いさ
これに答えるには狂ってない必要がある
だけど狂人から見ればまったく違う意見があるかもしれないぜ
4846:2007/09/15(土) 19:29:12 0
自覚していながらなおその立場を変えないんですね。
そうすると、もう既に俺があなたに語るべきことはあまりないし
俺が聞きたいこともあまりなさそうな感じですが……

例も、意図がよく分かりません。
49夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/15(土) 23:25:34 0
>>45
本は無い。
私はこれまでの周囲との対話のみを参考にしている。
50Ra:2007/09/16(日) 00:25:20 O
48
ま、はしごを蹴り倒してはいけない
ってやつだよ

形而上学も悪くないぜ
糞の益にもたたないけどな

夢君
君の相対主義の定義に俺は反対だ
相対主義を真理はないとする立場と俺は定義する
5146:2007/09/16(日) 02:36:52 0
蹴り倒す以外に否定の方法がないところに逃げ込んでおいてその台詞はズルいですw
52Ra:2007/09/16(日) 06:25:14 O
狂人よりも酔っ払いの方がいい表現だったかな
われわれがシラフでいる限り、われわれは誤り続けているのかもしれない
このような疑問にどう対処するのか。


せっかくだから殺人禁忌の道徳性について少し論じてみるか
殺人禁忌が一般的に道徳として扱われるのは、
われわれが「人を殺すべきである」という表現に、論理的な違和感を感じるからである
道徳の源泉を言葉の内部に求めるわたしは、このように主張してみよう
これをテーゼとして次のようにして提出する
・道徳的規範の自然テーゼ
道徳的規範は自己言及においても自然であるように(違和感を感じないように)成立しなければならない
さらに詳しく言えば、自己言及においても普遍性を保っていなければならない
53考える名無しさん:2007/09/16(日) 07:34:30 0
〜すべき系は大雑把であるほど違和感が生まれる。
54Ra:2007/09/16(日) 08:37:20 O
んじゃカントにならって
存在が目的に反するのは不適である
これって実は論理的な問題だと思うんだよね
55Ra:2007/09/16(日) 08:48:07 O
1、人を殺してはいけない
2、人を生かしてはいけない

ここで1が2に優先するのは道徳的規範自然要求テーゼから
このテーゼはカントの道徳論から俺が抜き出した
自然ていうのはカントの表現から借りた
この自然要求テーゼを吟味しようぜ
56夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 08:51:09 0
私は意志法のみを認めるので、自然的なテーゼは倫理から除外される。
が、吟味には興味があるので続けて欲しい。
57夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 08:56:35 0
その前に私による規範の分類を概説しておきたい。
私は伝統的な用語法に従うが、その結論は非伝統的である。

まず、自然法が挙げられる。
自然法は、その定義上、理性的な人間全員を束縛すると言われる。
私はこの法を認めない。

次に、万民法が挙げられる。
万民法は、あるときは自然法と同視されるが、ここで私が念頭におくのは、
自然法以外で、人間の意志に由来し、全ての人間を束縛する規範である。

次に、市民法が挙げられる。
これは、ある特定の国の意志法である。

さて、万民法と市民法は意志法なのだが、私は個人的な意志法しか認めない。
万民法も市民法も、私の倫理からは除外される。
58Ra:2007/09/16(日) 09:18:27 O
自然とはカントの表現だが、これはカントの表現が悪い
このテーゼでカントが問題にしたのは、
存在が目的に反することの除去だ

ついでだ
はっきり言おう
カントの道徳論は2つのテーゼから成立する
この自然要求テーゼは補助テーゼでしかない
メインとなるテーゼは定言命令そのものだ
そして、上の1も2も、どちらも定言命令に反しない
59考える名無しさん:2007/09/16(日) 09:21:00 0
>>55
1が2に優先するのは、2の方が行動しなくてはならない分、面倒だから。
1は寝てるだけで達成できるし。道徳とか関係ないんじゃ?
60Ra:2007/09/16(日) 09:24:05 O
上の1、2の規範はどちらの規範を妥当としたところで道徳的なのである
もっとも「生かしてはいけない」などという道徳的規範はわれわれの想像以外に見かけないかもしれないが
61Ra:2007/09/16(日) 09:50:42 O
自然要求テーゼ(名前だけで自然とは何も関係ない)
これが妥当に感じるのは、多分、そういう文化にわれわれがいるからだろう
われわれがある種の数学を妥当に感じるのと同じ理由であるように思う
62夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 09:53:04 0
自然というのを日本語的に解しすぎではないだろうか?

essentiaに照らされた規範はnaturalisであると言われるからだ。
lex naturalisあるいはius naturaleが支持するnaturaとは、日本人が
「自然」と聞いて想像するものとは非常に異なっている。
63夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 09:54:23 0
カントは、存在に照らして導き出されるテーゼであるがゆえに、
自然テーゼと呼ぶのであろう。これはカントの用語法が正しい。

これに違和感を感じるのは、むしろ翻訳の問題なのである。
64考える名無しさん:2007/09/16(日) 10:10:02 0
>>52
道徳はお互いが正しいことを暗黙の了解として、はじめて成立しうるものでしょう?
そういう場面を想像すると、道徳は成立しえない。
よってそのような想定は無意味。

というようなやり方はあなたにとっては乱暴なのですか?
65夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 10:35:33 0
存在と目的との関係についても述べてみたい。

目的は意志によって定立されるがゆえに(私はここで何ら難しい話をしていない。
意志によって定立される目的とは、「今日は散歩をしよう」とか「今日は○○の店で
昼食を食べよう」などの単純な目的を思い浮かべるだけでよい)、意志に先行して
目的があるということはありえない。

さて、いったん意志によって目的が定立されるならば、なるほど、存在はその目的に
照らして何かを推奨されたり禁止されたりするのだが(例えば、「今日は新宿に行こう」
という目的が定立されるならば、私は「京王線か中央線に乗らなければならない」という
規範に従わざるをえないであろう)。

しかし、目的は常に撤回可能であるから、「私は京王線か中央線に乗らねばならない」
という規範を前にして、私が尻込みするならば(例えば、金銭的な事情で、時間的な事情で
尻込みするならば)、私は常に目的を撤回可能である。
66夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 10:36:26 0
訂正:

しかし、目的は常に撤回可能であるから、「私は京王線か中央線に乗らねばならない」
という規範を前にして、私が尻込みするならば(例えば、金銭的な事情で、時間的な事情で
尻込みするならば)、私は常に目的を撤回可能である。



しかし、目的は常に撤回可能であるから、「私は京王線か中央線に乗らねばならない」
という規範を前にして、私が尻込みするならば(例えば、金銭的な事情で、時間的な事情で
尻込みするならば)、私は常に目的を撤回することによって、連鎖的に、これらの規範を
消滅させることが可能である。
67Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/16(日) 11:40:37 0
>>65
他人から与えられる目的、については意志に先行すると思う。(君はどこどこへ行け)
68考える名無しさん:2007/09/16(日) 12:17:03 0
>>60
そりゃあ、規範と決めつければ何でも道徳的になるよ。
人が無闇に人を殺さないのは、単に面倒だから。
それでも殺したい動機があれば人は人を殺す。それだけだろう。
道徳とかってなんか胡散臭いし。
69夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 12:30:30 0
>>67
その場合でも意志法が先行すると思われる。
というのは、他者からの命令があっても、それを受け入れようという意志法、すなわち、

「私は彼の命令を受け入れるべし」

という意志法がなければ、他者の命令は規範とはなりえないからである。
そして、このような意志法の定立を促すものとして、賞罰が考えられる。
70Absalom ◆owNN8RDlXo :2007/09/16(日) 12:56:35 0
>>65
いったん意志によって目的を定立した場合、いつその目的の行為をやめるか、と言う
問題があると思う。たとえば、タバコを吸っていて、気分良くなって、何本すってやめ
るか、と言った場合に。これは意志の力ではなく、気分とか、曖昧なものによると思う。
71夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/09/16(日) 13:03:59 0
>>70
確かに、あなたの指摘の通り、「私はいかに意志すべきか」は、
倫理の基礎的な問題であるように思われる。

なるほど、気分、賞罰、その場の雰囲気、他者からの忠告などが、
意志の立法を左右する。しかし、これらの要素に対して、私の意志が、
「いったいどれを採用すべきなのか?」という自覚的な問いを発する
ことが可能である。

このとき、私の意志は「私は立法についていかなる決定的な規定根拠も持たない」
ことに気づく。これが意志の自由であると解される。だが、この自由の代償は高い。
72Ra:2007/09/16(日) 13:07:43 O
68
何が道徳的なのかはあまりたいした問題ではない
殺そうが、殺すまいが、俺はあまり関心がない
そのような道徳たるような規範があるのか?
それが君の疑問でもあるはずだ
(君のような反論を待っていた)

ところで、論理へのコミットは規範足りうると思う?
論理的と非道徳的は両立できるのか?
俺はできないんじゃないかと思うのよ
現在進行形で検討中
73考える名無しさん:2007/09/16(日) 14:24:48 0
>>72
それはあなたの「道徳的であること」の定義が「論理的であること」を含んでいるから
ってだけじゃないの?

ある個人が自身の規範にきちんと従うことを道徳的であると定義して、
その行動を論理的であると判定してるだけでしょ?
そしてその逆、論理的なある個人がいるとして、
彼は彼固有の規範に「論理的であるがゆえに」従うでしょう。
これをあなたは道徳的と呼ぶ。
74考える名無しさん:2007/09/16(日) 14:33:45 0
>>72
「現在進行形で」はいらないんじゃないか?
検討中だけでおk

ところで、倫理の存在意義は?なぜ哲学だけじゃだみなの?
75Ra:2007/09/18(火) 09:12:01 O
検討中ということは、非道徳が論理的である余地もありそうだと考えているということ
定義はどう呼ぶかという呼び名を決定することだから
定義されたものを検討したり、反論したりできない

論理的一貫性が欠けてたところで、個々の発言が矛盾しているわけではないのだから、
非道徳な態度が論理的足りうることはありうるかもしれない
76Ra:2007/09/18(火) 09:14:42 O
倫理の存在意義?
倫理学の存在意義?
質問がどっちかわからん
77Ra:2007/09/19(水) 05:11:42 O
非道徳と論理についての例
小泉チルドレンが、
「一票しかないわたしの票は総裁選で麻生さんにいれます」と言い
別の場所で「票は福田さんにいれます」と言う
彼の個々の発言は矛盾しているわけではない
78夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/10/03(水) 02:06:52 0
規範の対象とは何か?
規範はどのような対象を持つことが可能なのか?

私は後者について次のようなひとつの仮説を立ててみたい。

他者は規範の対象にならない。
なぜなら、他者は世界の中に現れないからである。

というのは、他者とは、私の認識に依存しない実体であり(つまり、
私が見たり聞いたりしなくても存在するものであり)、それゆえに、
認識されたものの総体であるところの世界の中には含まれない
からである。
79夢見る者 ◆qg6Yj0tqSg :2007/10/03(水) 02:08:01 0
さて、他者が規範の対象にならないとはどういうことか?

それは、「あなたは〜すべし」「彼は〜すべし」という主語を持つ規範命題を
作ることができないということである。すなわち、

規範命題は、私のみを主語とする。
80Ra:2007/10/14(日) 00:18:35 O
スミスはマイクに5ドル借りた
「スミスはマイクに5ドル返すべきである」

吉田は王手をかけられた
「吉田は王を逃がすべきである」
81考える名無しさん:2007/11/05(月) 19:02:53 0
下賤なエンジニアのオレとしては、進化的に獲得された利己と利他のバランスの上に、
社会における利害調停のためのきわめて実利的な構造が作られただけかと。

結局は「良い」「悪い」の問題の1カテゴリにすぎなくて、他者の利害を自分の中で
シミュレートしてますか?という問いに帰着する一つの評価基準だと思うんだけど。
そんなものをごてごてと飾りたてたがるのは、結局欺瞞にすぎない・・・と。

・・・見当外れ?
82考える名無しさん:2007/11/07(水) 00:23:27 0
age
83考える名無しさん:2007/11/07(水) 04:32:54 O
倫理学を哲学の看板の下でやられると困る
まぁ、倫理学を馬鹿にしてるところはあるけど、
接点はありつつも全然違うものだよな
84考える名無しさん:2007/11/07(水) 14:57:33 0
>>83
哲学と考えて良いように思うんだけど・・・具体的にどういう風に違うの?
85考える名無しさん:2007/11/07(水) 15:07:13 0
たとえば、「サイコロの出た面に書いてある行為をする」という規則に
従って行為する人を、倫理的と呼べるのか。
これで突飛すぎるなら、「とにかく上司の命令に従って行為する」という規則に
従って行為する人を、倫理的と呼べるのか。
彼は、意志法に従っているのか。
86考える名無しさん:2007/11/07(水) 15:35:06 0
>>85
ルールに従うことを「倫理」と呼ぶわけではないでしょ。そのルール自体を論じているわけで。
87考える名無しさん
というか、オレの理解では、

  ルール:規範
  ルールの根拠となる論理:倫理

だと思う。いずれにせよ、ルールに従うことを「倫理的」と呼ぶのはどうにも見当外れに思う。