744 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :
■「なぜお金はすべてなのか」EX
@贈与(交換)と贈与性
>>
モースはこの論文(「贈与論」)の冒頭で、「未開あるいは太古の社会類型において、贈
り物を受けた場合に、その返礼を義務づける法的経済的規則はいかなるものである
か、贈られて物にはいかなる力があって、受贈者にその返礼をなさしめるのか」という
問いに照準をあわせる。
モースはまず、提供・受容・返礼という義務、そしてそれを命ずる贈答規則−<贈与は
必ず返礼を伴う>−を、人類学的・博物史的事例から抽出する。そしてそのうえで、この
贈与の回路を永続化させる<力>、贈与規則それ自体を創出する呪術的な<力>を見い
だす。
レヴィ=ストロースの批判点は、モースは交換のシステムという一つの象徴システムを
せっかく摘出しかかったのに、最終的には情緒的・神秘的な回答に落ち着いてしまった
という点にある。ラカン用語で言い換えれば、モースは象徴界の理論をうち立てようとし
て、最後の一点で想像界に足を取られた、といったところがろうか。
中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P126-131
<<
745 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:44:58 0
ボクは「贈与(交換)」と「贈与性」を分けている。中野はレヴィ=ストロース的な象徴的
贈与と、モース的な想像的贈与と呼ぶような違いを指摘している。レヴィ=ストロース的
な象徴的贈与とは、まさに構造主義である。一般的に「贈与(交換)」という場合には、
構造化された象徴的な関係をいうだろう。たとえば柄谷は、カール・ポランニーを参照
に、交通様式を交換、再配分、互酬性(贈与と返礼)に分けているが、ここでいう互酬性
(贈与と返礼)も同様である。
>>
交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられ
ています。そえは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交
換は、交換一般の中ではむしろわずかの部分でしかありません。たとえばマルクスは
商品交換が共同体と共同体の間で成立するということを強調しました。では、共同体の
中では交換がないか、といえば、そんなことはない。商品交換とはちがった交換の原理
がある。それが贈与と返礼という互酬である。
柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016)P21
<<
746 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:45:30 0
A贈与性=負債感
それに対して、モース的な想像的贈与は「交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち
優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感(中野)」である。ボクは「贈与(交換)」と分
けて、この想像的な贈与、「贈与(交換)」を生み出すような負債感を「贈与性」と呼んだ。
ラカンにおいて、象徴界とは社会的な規律、習慣である。それに対して想像界とは、対
面的な他者との関係性である。「鏡像関係」で説明されるように人は現前の他者に対し
て、鏡像的に自らを投影しようとする。人は鏡像的な関係によってしか、自らを見いだ
すことができないからである。
そこには「贈与は贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、
贈与者になるということは、相手の上位にたつ」ような緊張関係が存在する。このような
意味で、贈与性は人と人の間でたえずはたらく想像的な引力としてあるのだ。
747 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:46:18 0
B互酬は共同体の中で成立する
先に示したように、柄谷がマルクスを引いて言った「商品交換は共同体と共同体の間で
成立する、互酬(贈与と返礼)は共同体の中で成立する」とは、どのような意味だろう
か。これはまさに「贈与性」=負債感によって説明されるだろう。
たとえばしょうゆをきらしたのでお隣さんにちょっとかりに行くと時、しょうゆをもらうとの
引き替えに、お金を払う、あるいは等価の元としてかつおぶしを渡して、これで貸し借り
無し、というのは、失礼だろう。そこはお願いしてすなおに借りる、あるいは何かを渡す
としてもそれは等価交換ではなく、貸しは貸しとしてお煎餅でもどうですかと贈り物とし
て渡すことが礼儀である。これは、この関係が、その場だけではなく、またお隣さんがな
にかこまったときは助けるというような長期的な親密か関係を構築していることの確認
としてある。
この長期的な関係は、長期的にみると貸し借りなしの等価な関係である、というわけで
もない。たとえばお隣さんが父親を不慮の事故でなくして、経済的にこまっていれば、お
返しなど気にしなくてもいいのよ、と返礼のきたいなく、不等価な交換が行われる。この
ような助け合いの関係は、お隣さんとの関係だけでなく、共同体としての繋がりとして行
われる。仮にこちらが苦しいときは余裕がある他の誰かが助けてくれるというような関
係であり、共同体の中で成立する互酬性(贈与と返礼)である。このような互酬性(贈与
と返礼)の基底で働いているのが、想像的な力学としての「贈与性」である。
748 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:47:17 0
C商品交換は共同体と共同体の間で成立する
このような「贈与性」の強力さがわかってはじめて、柄谷(マルクス)が「商品交換は共
同体と共同体の間で成立する」と強調する意味がわかるだろう。商品交換を成立させ
るためには、この「贈与性」が排除された状況が必要とされる。なぜなら、人と人が関係
するときには、大なり小なり想像的な力、「贈与性」が作動してしまう。相手への興味、
相手との関係性の構築への期待などが作動してしまう。等価交換と言いながら、そこに
「贈与性」が進入してしまう。
だから「共同体と共同体の間」という状況は、まったく知らない者が出会い、その一瞬に
おいて交換し、なんの負債感もなく、別れていくような極限の状態である。このような極
限でなければ、「贈与性」に汚染されないような純粋な等価交換は成立しない、というこ
とだ。
749 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:47:57 0
純粋な等価交換−「負債感の持続時間がゼロ」であり、「心理的な貸し借りの感情は、
生じるとしても瞬時に、その場で相殺される」関係−は、「共同体と共同体の間」で行わ
れるという幻想的な場面でしか行われない極限の領域である。
>>
交換は奇跡的な行為である。たとえばAという対象を持っている人とBという対象を持っ
ている人が出会い、交換するためには、Aという対象を持っている人がBという対象を
望み、Bという対象を持っている人がAというう対象を望んでいなければならないという
「奇跡的な出会い」が必要である。
・・・さらには交換では、AとBというまったく共通項のない対象の間に、どのように等価
を決定するのか、という問題がある。対象の価値とは交換されることで事後的にしか決
まらないものであるからだ。
[まとめ]なぜお金はすべてなのか(全体)
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004 <<
750 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:49:25 0
D貨幣の超越論性
>>
すべての商品生産者は、・・・「社会的質権」を確保しなければならぬ。・・・他人の商品
を不断に買い入れることを命ずるのに、他方では、彼自身の商品の生産と売却とは、
時間を要するようになり、偶然に依存するようになる。売ることなくして買うために、彼は
あらかじめ、買うことなくして売っておかなければならない。この操作が一般的規模で行
われることは、それ自身矛盾しているように思われる。
・・・商品を交換価値として、交換価値を商品として掌握しておく可能性とともに、黄金欲
が目覚めてくる。商品流通の拡大とともに、いつでも役に立つ、絶対的に社会的な富の
形態たる貨幣の力が、増大する。「金はすばらしい物だ!これをもっている人は、彼の
願うこと何一つかなわぬものはない。金によって、霊魂さえ天の楽園に達せしめること
ができる(コロンブス)」・・・貨幣退蔵の衝動は、その本性上とめどがない。質的に、ま
たはその形態上、貨幣は無制限である。すなわち、素材的富の一般的代表者である。
というのは、あらゆる商品にたいして直接に転化しうるからである。
マルクス 「資本論」(ISBN:4003412516) 3章3節 貨幣 P229-232
<<
マルクスは貨幣を商品交換の「偶然に依存する」出会いを補完するものとして描く。た
だ貨幣の特別性は「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」から便利であるという
実在的な利便性ではない。
751 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:50:06 0
たとえば売り手が「砂漠の真ん中で迷ったときのペットボトル入りの水」を1千万円、
100億円ということはかってであるが、買い手がそれを買わなければ、「価値」は生ま
れない。あるいは「父親の形見」でもよいが、決して貨幣価値化しないような「断絶」、交
換を妨げるような「断絶」の侵入を排除する。
貨幣は、本来不可能であるはずの等価交換を可能なように見せる幻想である。商品間
の「断絶」を想像的に回復することで等価交換が成立しているように振るまわせる。だ
から貨幣は「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」から便利である以上に、「あら
ゆる商品」に対して、従わざる終えないような「絶対的」な価値基準を提供という超越論
的な位置を占めている。そこにとめどない貨幣への衝動が生まれる。
>>
貨幣は、それぞれの商品にあたかも貨幣量で表示されるべき価値があるかのような幻
影を与える。すなわち、貨幣形態は、価値が価値形態、いいかえれば相違なる使用価
値の関係においてあるという事実をおおいかくす。・・・すべての商品と関係しあう一中
心としての商品、すなわち貨幣によって、すべての商品は「質的同一性と量的比率」に
よって存在させられる。それが最初からあったのではなくい。それゆえに「共通の本質」
とは、潜在的な貨幣形態にすぎないのである。
柄谷行人 「マルクスの可能性の中心」(ISBN:4061589318) P32-37
<<
752 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:56:42 0
E貨幣交換に内在する贈与性
>>
純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相殺に
かかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負
債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、
双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろ
う。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。そしてむしろ、
その持続する負債感が返礼の原動力となる。
中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P143-144
<<
現実の貨幣による等価交換ではどこまで負債感の生じない純粋な交換が可能だろう
か。売り手は、信用という形で買い手(貨幣を持つ者)への負債感を引き受けようとす
る。等価交換は等しい関係であるはずが、信頼性を証明するのはいつも商品の売り手
である。売り手は商品に対する保証を求められる。それは品質保証という意味だけで
はなく、「ソニー製品には期待していたのに、期待はずれだな。」というような買い手の
思い入れへ及ぶ。
これは、明らかに貨幣−商品の非対称な関係を元にしている。逆にいえば、貨幣は商
品に対して優位な位置に立たなければ、商品交換は「断絶」の前にたちどまり、成立し
得ない。すなわち貨幣交換は負債感が生じない等価交換を成立させているようでい
て、貨幣に対する商品の負債感(贈与性)を隠している。このために実際の貨幣交換の
場で表出してしまう。
753 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:57:45 0
F超越論的な想像的回復
このような貨幣の発生、マルクスでいえば価値形態論において形態B(拡大された相対
的価値形態)から形態C(一般的価値形態)への「転倒」で語られる。これは、秩序の断
絶を想像的に回復することで、回復した対象は神性化され、(人々へ)負債感(贈与性)
を与える、という「転倒」である。これを「超越論的な想像的回復」と呼ぼう。
モースが見いだした贈与関係もまた、「超越論的な想像的回復」である。ここでの断絶
は純粋贈与(略奪)=自然の脅威である。純粋贈与(略奪)という「断絶」を調停するた
めに(自然)神は想像され、共同体の秩序は回復し、人々は(自然)神への負債をおう
ことで、贈与の連鎖がおこなわれる。
このような転倒はなにも新しいものではない。ドゥルーズでは王権がうまれる超コード
化(専制君主宇機械)、デリダ(東)では「散種の多義性化」、そしてラカンの「対象a」、ジ
ジェクの「シニシズム」である。さらにヴィトゲンシュタインの「規則に従う」も、「暗闇への
跳躍」のためにただ他者のマネをするという意味でまさに同様な想像的な回復を示して
いるだろう。そしてそのような「規則」から抜けられないのは、負債をおっているからである。
754 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:58:17 0
>>
217.「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」 もしこの問いが、原因について
の問いでないならば、この問いは、私が規則に従ってそのように行為する事について
の、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そ
のとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。
そのとき私は、こう言いたい「私は当にそのように行為するのである。」
「哲学的探求」 ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076)
<<
再度言えば、(象徴界的)秩序における断絶(現実界)を想像(界)的に回復することで、
回復した対象は神性化され、、(人々へ)(想像的な)負債感(贈与性)を与える。
>>
現実界は(想像界を媒介として運動する)象徴界の極限である。いわば現実界は、象
徴界における論理的欠如であると同時に、その因果的前提でもある。そして想像界
は、それが負債感その他もろもろの(感情)転移の空間であるという意味において、象
徴界を運動せしめる媒介だ
中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P145
<<
755 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 20:59:37 0
G戦争は共同体と共同体の間でおこる
「共同体と共同体の間」が極限の状態であるのは、商品交換が奇跡的な行為である以
上に、「共同体と共同体の間」とは、力のある方が暴力的に略奪する、闘争が行われる
領域であるからだ。原始社会から、共同体内は贈与交換によって成立してきた。それに
対して、共同体と共同体の間は、極限的な領域として、闘争(戦争)は行われてきたの
である。
大航海時代に行われた植民地での略奪とはまさにそのようなことである。欧州という共
同体と部族的共同体が出会ったときに、力をもった欧州が暴力的に略奪する、あるい
は暴力的に不当な交換をさせる、自らの共同体へと従属させたのである。これは現在
の国家間や、文化圏間にも引き継がれているだろう。
>>
絶対主義国家による国家と商人資本の提携は、一方で、世界市場における商人交換
のために競争しながら、他方で、世界中の資源(金・銀・その他)を略奪し、各地の部族
的共同体を支配する植民地主義をもたらしました。交換による差額で儲けるよりも、略
奪によるほうがてっとり早いのです。そして略取できないときには交換する。「重商主
義」と呼ばれる時代の内実は、そのようなものです。
柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016) P133
<<
756 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 21:01:07 0
H共同体内の擬似的な「再配分」
>>
共同体と共同体の間では、商品交換よりも先に、相手から暴力的に略奪する可能性が
あります。そして、それが継続的なものである場合に、そこに貢納制国家が成立しま
す。その場合、他の共同体から継続的に略奪するためには、一方的な強奪だけではな
く、さまざまな意味での「再配分」が必要です。それは治水灌漑などの公共事業、福
祉、安全の確保というかたちをとります。ゆえに、それは実際にも、一種の交換として表
象されるのです。私は、この交換様式を再配分と呼びます。
柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016) P22
<<
柄谷は、共同体と共同体の間での闘争領域を納めるものとして「貢納制国家」が成立
し、再配分(略取と再配分)という交換様式が形成されると言う。しかし再配分という交
換様式は、国家において特別であるわけではないだろう。モースが見いだした共同体
の内の互酬性(贈与と返礼)もまた再配分(略取と再配分)の構造にあるだろう。互酬
性を生む「超越論的な想像的回復」では、純粋贈与(略奪)=自然のめぐみ、脅威とい
う「断絶」を調停するために(自然)神は想像され、共同体の秩序は回復し、人々は(自
然)神への負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。
この場合に、純粋贈与としての自然は周期性をもつ。定期的に豊作のようなめぐみを
与え、水害のような災害をあたえる。ここに略取(災害、あるいは神への貢ぎ物)と再配
分(豊作)という、擬似的な再配分を見ることができる。
757 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 21:01:47 0
I縦交換としての再配分と横交換としての互酬性
たとえば貢納制国家においても、ただ暴力において成員を統治するわけでも、また物
質的に成員の生存を保証するわけでもない。国家においても「断絶」は、原始社会と変
わらず、純粋贈与(略奪)=自然の脅威、外部からの敵の到来とである。そして純粋贈
与(略奪)という「断絶」を調停するために王=神は想像され、国家の秩序は回復し、
人々は王=神への負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。
貢納制国家を統治する「王」は、共同体の互酬性の自然(神)の位置を継承すること
で、成員への負債感によって国家を統治する。成員は縦への当然の贈与関係=再配
分(略取と再配分)として「王」を敬うのである。
すなわち「超越論的な想像的回復」における贈与性の力学は、縦の交換関係として再
配分(略取と再配分)と横の交換関係として互酬性(贈与と返礼)を生むと言うことがで
きるだろう。そして「王」は「超越論的な想像的回復」による縦−横の贈与交換関係を継
承している。(つづく)