其の四「虐めは人格に問題がある者を矯正する手段」
人格矯正に必要なのは広く豊かな経験や知識であって、虐めでなければならない必然性はない。寧ろ却って人間不信・社会憎悪を増しかねない。この場合、矯正すべきは「虐め以外の手段を知らない」者の浅はかさである(躾と称した虐待や体罰も同じ)
其の五「周囲に不快感を与えたのだから虐められても仕方がない」
感情に自己責任が取れない者の典型的な正当化である。不快感の原因はそれを感じる各人の固定観念であり自業自得。他人のせいにするのは筋違いである(虐められた不快感も同様。>1-3参照)
其の六「虐めは本能、必要悪」
本能とは呼吸・睡眠・摂食のように「生命維持に欠かせない行動」をいう。虐めてないと死ぬ人はいないので本能ではない。また必要悪とは自動車のように「危険性・環境負荷」を孕んでいても「利便性・経済効果」が上回るような事を言う
これらの理屈は、虐める事で快楽を得る側の自己正当化に過ぎない
其の八「虐めは無くならない」
いつの時代も「成長途中の人間」が存在する以上、虐めが無くならないというのは道理であるが、それは「無くそうとしても無駄」という理屈にはならない
多くの名も無き人々の不断の努力により人知れず解決している事例は幾らでもある。大きく報道されることだけが全てではない
其の九「虐めをしたら厳罰に処すればよい」
飲酒運転と同じで、安易な厳罰化や一時的な対処は問題の陰湿化・冗長化を招くだけである。虐めは脳が未成熟な証拠。非難や制裁以前に監察や教育を施すべきである
其の十「虐められる側を助けるべき」
緊急時なら間違いではないが、真に救うべきは”愛に飢えた”虐める側である。被害者を救う必要はない。加害者側を救えば被害者は自動的に救われる。その事を無視して被害者のみを救おうとする行為は自己満足に他ならない
以上を読んでも尚「虐められる側にも原因が」と主張する人は、己の非(愛の欠如)を認めたくないか感情に自己責任が取れてないか、さもなくば読解力がないのである