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純一:
私純一はハルヒも読んだこと無いのでよく分かりませんが、
太郎はフッサールとデリダの関係で東スレを見ているのだと思いますが、
私純一はこの認識は誤りであると思います。それとは別の系統としてしろうとによる
萌え解釈があると思われますが、これがリンクしているようには思えません。
ウィト=柄谷的な解釈に、太郎が乗っかっているというところでしょう。
しろうとも太郎もどちらも理系的な解釈としての哲学を求めているでしょうから、
ペギオとかその周辺の関係で東を見たいということでしょう。私純一には全く関係ありませんが。
昔から太郎のデリダ解釈を見ていますが、ハッキリ言って彼の解釈自体、そもそも
ウィトを保守することありきでのデリダといった感じで、ウィトそのものを解体する気はないという
感じで典型的な理系哲学者だなという感じがしているので、彼の正史とは違う哲学史にも
また私純一は興味ありません。デリダは正史から言うと、太郎の主張とは逆のことを言ってると
いうのが私の認識だからです。そこらを批判しようとしたのですが、ルーマンとウィト、それに
変形されたデリダ等には、彼等の理系哲学の主柱を成すものなので、触れられると拒否するというだけでした。